景気のよかった八十年代、以前から書きためていた石坂准尉の戦争絵画を一冊の本にしようという話が持ち上がった。石坂准尉のご子息・石坂明夫さんはデザイン会社の社長をしていたことから、がぜんこの話にやる気を出し、費用を試算したという。すると、数十万円も必要なことがすぐさま判明してしまった。 「好景気時代の計算だから現在は分からないけど、さすがにこの額には腰が引けてしまってね、結局お流れってわけなんだよ」 私にそう説明してくれた明夫さんの残念な表情は居たたまれなかった。まして、石坂准尉当人にとってはなおさらのことだろう。しかし、現在はその当時にはなかった便利な媒体が民間に流布されている。そう、インターネットである。 私としては電子媒体より紙媒体の方が存在感(手触り)において圧倒的に優れていると考えているやからなので、このような発表は本意ではないのだが、事情が事情なので致し方ない。いつしか当初の予定どおりに出版されることを願いつつ、ここに石坂准尉戦争絵画集『私の歩んだ昭和史〜栄光の日本陸軍破る』を掲載する。 以下、目を凝らして鑑賞してほしい。石坂准尉の戦場の記憶が色彩鮮やかによみがえり、鑑賞者を栄光と悲劇に包まれた帝国陸軍の世界へといざなうことだろう。 |
私の歩んだ昭和史〜栄光の日本陸軍破る |
石坂 辰雄 誕生日 大正五年三月二日 出身地 新潟県北魚沼郡 現住所 都内 「兵歴」 昭和十二年一月十日 入隊 二等兵 昭和十二年七月十日 一等兵 昭和十三年一月十日 上等兵 昭和十三年六月一日 伍長 昭和十三年十二月一日 軍曹 昭和十六年七月一日 曹長 昭和十九年十二月一日 准尉 昭和二十一年三月九日 (復員) |
支那大陸では満州事変の後遺症いまだ治まらず、内には二・二六事件直後で騒然たる世相の中、昭和十二年一月十日、高田歩兵第三十連隊に入営。二月十一日、第二師団に満州派遣の大命降下。四月十二日、新潟港出帆、朝鮮羅津に上陸。 四月十八日、駐屯地浜江省山河屯に到着。その後、五常に移動し、この地の下士官候補者教育隊に入隊。 八月十八日、北支出動。天鎮の戦闘を皮切りに鎮辺、大同、鉄角嶺、原平鎮、南庄頭と転戦。十一月九日、山西省の首都太原を攻略し、わが部隊の任務達成せり。しかし各戦闘における戦死者百六十三名、公病死者六十一名、戦傷者数百名に達し、痛恨の思いなり。 戦い終わって部隊は再び満州に帰還。向陽山、五常、掖河と転駐し、昭和十三年七月、牡丹江省ムーリンに進駐。 昭和十四年八月、ノモンハン出動。死闘二ヶ月、九月十六日、停戦協定成立。再びムーリンに帰還す。 昭和十五年八月十三日、歩兵第三十連隊は第二師団を離れ、第二十八師団に編入。ムーリン駐留二ヶ年にしてハルピンに移駐。 昭和十六年十二月八日、対米英開戦。 昭和十八年八月、ソ満国境饒河に進駐し、国境守備の任に就く。 昭和十九年六月、沖縄に出動。七月二十二日、宮古島上陸、天号作戦参加。 昭和二十年八月十五日、ポツダム宣言受諾、終戦。宮古島上陸以来、全ての補給は断たれ、言語に絶する苦闘の連続に戦病死者三百九十三名を出すに至る。 十二月、宮古島を離れ、沖縄本島に渡る。米軍捕虜収容所生活二ヶ月。 昭和二十一年三月二日、那覇港出帆。六日、浦賀港到着。出迎える人もなく、寂しい帰還なり。 昭和二十一年三月九日、解散復員。 栄えある歩兵第三十連隊の歴史、ここに永遠に終わる。 |
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