五十六・自活作業



 食糧の補給が途絶えてしまったので、山林を切り開いて耕した畑で自活作業をはじめる。

*補足(藤本)
 歩兵第三十連隊史編纂委員会『歩兵第三十連隊 ハルピン 宮古島 の想い出』に『宮古島とは』と題した石坂准尉の文章が載っている。それによると、食料の確保にこと欠いた部隊は、自活作業に精を出し、口に入る物なら何でも食べたという。カタツムリ、ヘビ、トカゲ、カエルなどである。
 もう聞くだけで嘔吐してしまいそうなげてものを生きるために食べざるを得なかった石坂准尉の苦労を思うと、私は何て恵まれている現代人なのだろうか、と恥ずかしくなる。
 問答無用でこう言わせていただく。
「やはり大日本帝国の軍人は立派だ」
 と。


*補足二(藤本)
 竜沼梅光『北満・宮古島戦記 
戦局と将兵の心理』に、宮古島の乏しい食糧事情に関する記述がある。

***

 私はイナゴやバッタやかたつむりを一度は口にしてみたが、その後は食べる気がしなかった。それでも宮古へ来てから、自分でも驚くような悪食を平気でやるようになったのである。
 第一の佳品は蛙である。蛙といっても宮古独得のがま蛙で、あまり美味とは思えなかったが、とも角食べた。次にネズミ、これは美味いと思った。ネズミの蒸焼きは内地へ帰ったあとでも、食べようと思うぐらいだ。蛇はすこし臭気があるが、馴れてくるとそれほど不味いものではない。
 餓鬼のようになった私は、十二種類ほどのものを試食した。これはまことに得難い体験であると同時に、今では無くてはならない栄養源となってしまった。

『北満・宮古島戦記 
戦局と将兵の心理』の二百六十~二百六十一ページまで引用


*補足三(藤本)
 瀬名波 栄『
太平洋戦争記録 宮古島戦記』という本に、宮古島の乏しい食糧事情に関する記述がある。

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二、沖縄戦終る
  自活体制に本腰

 敵機の空襲は六月一杯もひん繁をきわめ、一資料によれば、一日から十日まで八三三機、十一日から十四日まで三七〇機。十五日六十二機、十八日八十四機、十九日六十六機、廿日六十機、廿一日百機、廿二日一〇三機、廿四日五十八機廿五日六機、廿六日四十四機、廿七日十機廿八日十一機、廿九日四十三機卅日三十九機。
とおよそ延べ二千機が来襲、軍事施設や一般民家などに銃爆撃を加えている。
六月中旬沖縄戦は日本軍の敗北のうちに終末に近ずき、廿二日第卅二軍司令部との連絡はとだえた。
 三月廿五日沖縄作戦開始以来およそ三カ月にわたって米軍を拘束これに多大なる出血を強要して本土防衛に貢献した沖縄守備軍に対し、第十方面軍司令官は六月十九日次の如き感状を授与、その勇戦奮斗を広く全軍に布告した。

感状
牛島部隊
同配属部隊
右は陸軍中将牛島満の統率下三月廿五日以降沖縄方面に上陸せる敵に対し熾烈なる砲爆撃の下孤立せる離島に決死勇戦すること三閲月此の間克く部隊の精強を発揮し随所に敵を撃砕して之に甚大なる損耗を強要し以て中外に皇軍の威武を宣揚せしのみならず敵海上勢力を牽制し我航空作戦の戦果獲得に寄与せる処亦大なり
是牛島中将の統帥下挙軍一体尽忠の誠を致し訓練の精華を遺憾なく発揮せるものにしてその善謀敢斗は真に全軍の亀鑑たり
仍て茲に感状を授与す
昭和二十年六月十九日

 沖縄戦終了後敵の進攻目標が本土へ向けられるため、先島諸島に対する攻撃は次第に緩慢となってきたが、師団では米軍による掃蕩作戦があり得るとして依然として配備をゆるめなかった。
七月に入るや米軍による本土に対する空襲及び艦砲射撃は一段と強化され、上陸作戦の近きを思わしめた。これにともなって米機による宮古島来襲は七月一日が卅六機、二日四十機、五日が一機、十五日が五機、廿九日が十八機と云う式に申し訳的になりとき〴〵思い出したように姿をみせるだけとなった。
 空襲は下火となり、宮古島は忘れられた島の感がふかくなつた。
然し戦争は何時果てるともなくつづき、こんどは次第に深刻の度を加えてきた食糧不足と斗わねばならなかった。守備軍は終戦時二カ月分の手持ち食糧を保有していたが、長期戦に備えて食い延ばしにつとめてきたため、将兵は十分な栄養がとれず、栄養失調、マラリア患者が続出、陸軍病院はこれらの病兵で充満した。
七月卅日納見師団長は全部隊に対して自活体制強化を命令、各部隊では自活班を編成してイモの増産、野菜の栽培などに力が入れられた。これと共に機帆船、舟艇による台湾からの食糧輸送も計画されたが海上は依然として敵の制空制海権下にあり、困難をきわめた。
 師団では軍官民一人あたり一畝づつのイモ作、養豚養鶏、灯油を始め日常物資の開発のため専問家による講習指導などを実施した。
このころの食糧事情は極端に逼迫しており、三度の食事は芋の混食副食は芋の葉を浮べた塩汁、煙草は全く入手できず、イチゴの葉を刻んで代用したり、又酒はキビ酒がわずかに入手できる程度、豚の油を灯油替わりに使用、肉は馬肉が手に入れば上等と云う調子で軍はもとより、官民の生活は極度に窮乏、毎日の食糧にもこと欠くほどだった。台湾カタツムリや蛇などは上等な食物としてあらそって捕食したもので、戦後宮古から蛇が姿を消したのは日本兵が一匹のこらずとって食べたからだとも云われるほどである。又野菜の代わりに草が食用に供され、今考えるとよくあのような粗食で体が保てたと思われるほどひどいものだった。
 然し撃ちてし止まむの敢斗精神に燃える軍官民はあらゆる苦難に堪え、少しも弱音を吐かず、食糧の確保に、陣地の構築訓練に尽忠の明け暮れを送るのであった。
 まなこを転ずれば本土をめぐる戦局は大詰めの段階に入り、北は樺太、北海道から西は九州に至るまで敵の砲爆下にさらされつつあった。

太平洋戦争記録 宮古島戦記』の八十二~八十三ページまで引用


*補足四(藤本)
 池上良秋『満州穆稜八〇二部隊の生活と沖縄宮古島の終戦記録 珍兵俳記』という本に、宮古島の乏しい食糧事情に関する記述がある。

***

 食料は一層貴重になり、朝夕は粥、昼は親指大の甘藷二つ三つが飯盒の底にころがっていた。朝から晩まで壕の中で、石のみと玄翁を振い、夕食後は敵機に爆撃された飛行場の修理にも行かなければならなかった。粥腹を抱えて遠い飛行場の修理をして帰えってくると、大抵夜半すぎになった。疲れていても、空腹で眠りつくことが出来ない。草の床の上で、朝までごろごろと寝がえりを打った。一刻として島の上空から立ち去らない敵機の音もいら立たしく、何時も頭の中でごうごうと鳴っているようである。
 空腹と疲れ、兵隊は間があれば、甘藷畑の掘り残し甘藷を探したり、野蒜(のびる)などは根から掘って食べ飛蝗(ばった)狩りをしたり、食べられそうな野草は、ことごとく兵隊に摘みとられ、堀りとられた。道端の汚ない溝の中にいる子供の拳程もあるかたつむり、蝦蟇、蛇、椰子がに等は上等の方で、とかげ、野良猫、さては壕の上の松の木に蝉がとまれば、二人も三人もの兵が、一匹の蝉を狙って壕から飛び出して行った。
 こんな状態であるから、各隊は原野を開墾して、甘藷を植えた。空爆下一層真剣にそれが進められたのである。

満州穆稜八〇二部隊の生活と沖縄宮古島の終戦記録 珍兵俳記』の百六十六ページから引用

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