三・歩兵第三十連隊戦没者慰霊の碑 |
昭和二十年八月十五日終戦。 歩兵第三十連隊は昭和十九年七月、宮古島に進駐し、終戦までの一年一ヶ月をこの地で過ごした。この間に戦没した将兵三百九十四柱、また連隊創設以来の五十年間における戦没者は二千三百余柱に達した。 これら戦没者の英霊を永久に鎮める碑を建てる悲願盛り上がり、募金を募ったところ、二千五百二十六万九千円が集まり、建立が決定した。 「光寿之碑」と命名された慰霊碑は、昭和五十八年八月、宮古島東沖宗根九六一一に完成。千三百余柱の英霊、永遠にここに眠る。 *** 趣意書 皆様その後ご健勝にてお過ごしのことと拝察申し上げます。 さて、終戦後既に37年の幾月が流れましたが、今日の平和の礎をきずくに至ったのも、各地の戦闘で犠牲になられた諸霊のご加護なしには、決して成し得なかったことと痛感いたします。わけても、我が歩兵第30連隊の伝統ある歴史を顧みる時、常に諸先輩の努力と国家の存亡を一身に担いつつ一意挺身し、これに殉じた方々のことを忘れることは出来ません。特に我が連隊は、ハルピンより昭和19年夏、宮古島にわたり、マラリヤと、極度の食糧不足に悩まされながらも、島の方々の温情と協力により、同島防衛に全力を尽しました。しかし昭和20年8月遂に終戦となり、栄えある軍旗と永別し、49年間に亘る連隊の歴史を閉じました。 宮古島には、祖国の安泰と恒久平和を念じつつ、その志なかばにして戦没された戦友の数は宮古島の入隊者を含め実に394柱にも及び、軍旗と共に眠っておられます。また病魔に冒され乍ら帰還せられた戦友の肉親との再会の喜びも束の間、亡くなられた数も少なくありません。 この度、直接命運を共にした連隊ゆかりの人々の間から、慰霊碑建立の悲願が盛り上がり、早速建立地を歩兵第30連隊終焉の地である宮古島に決定いたしました。 ここに連隊創設以来の先輩並びに、戦友の諸霊を奉安し、その栄誉をたたえ、祖国繁栄の礎石となられた功績を顕彰するとともに、これによって今後再び戦争の惨禍がおこらぬことを深く銘肝し、この碑の建立が慰霊追善にとどまらず、永遠の平和、国家の興隆と、人類の幸福のためのよきともしびとなるよう願って止みません。 やや遅きに失した感はありますが、心の奥底より湧き出ずる戦友愛と、哀悼の念を制し難くここに決断した次第です。なにとぞ計画書をご高覧の上、皆様方多数のご理解とご協力を賜わりますよう懇願申し上げます。 昭和57年11月吉日 旧歩兵第30連隊宮古島慰霊碑建立実行委員会 実行委員長 清水清治 実行副委員長 高橋久平 実行副委員長 玉木喜一 実行副委員長 片山和蔵 *** 碑の由来 希わくは戦没の諸霊、御心安かに。一身の犠牲空しからず、速やかに生死の悪夢を転じ、祖国救済の光となって照覧あれ。而してよろしく慰霊追福の浄願を納受し、ひとえに国家の興隆発展と、人類永遠の平和と幸福のために、霊応冥助を垂れ給わんことを。陸軍歩兵第三十聯隊は、創設以来、時に、極寒凛烈の異境の曠野を奔り、険峻重畳の朔北の山岳を越えて勇戦奮闘を続けること幾度、太平洋戦争の集結にともない、ここ宮古島を終焉の地とし、明治、大正、昭和に亘る五十年の歴史を閉じるに至った。戦局とみに過酷を極めた大戦の後半期、宮古島に最後の任地を移したわが聯隊は、住民各位の格別の配慮と協力を受けて、国土防衛に全力を尽くしていた。しかし戦渦と、マラリヤと、極度の食糧不足は、たちまちにして全島を蔽い、多くの犠牲を余儀なくされ、志なかばに戦没した戦友の数は実に四百名をこえた。ここに星移り、時流れて既に幾春秋、年ようやく久しくなるも、一たびこの地に立てば、彼此彷彿として、なお昨日の如く、惨状うたた胸に迫り哀惜の情を誘う。今日の平和と復興をかえりみる時、その礎石が戦争の尊い犠牲の上に築かれている歴史的事実を決して忘却してはならない。この度の慰霊追福の悲願もすべてここにある。従ってわれわれは、直接苦楽を共にした、ここ宮古島での戦友にとどまらず、聯隊の創設以来、各戦役に殉じた先輩の諸霊にまでその思いを馳せるものである。よってここに、その栄誉をたたえ、その功績を顕彰し、この地を選んで、ささやかながら平和顕彰の碑を建立し、一千三百余柱の諸霊を奉祀して、敬虔追悼の懇志を運ぶ。われら一同、戦没の諸霊を仰ぎつつ、今後再び戦争の惨禍が起こらぬことを銘肝し、この地を訪れる多くの人びとのよき指針となり、ともし火となることを祈念し、ここに碑を建立する。 昭和五十八年十一月十九日 旧陸軍歩兵第三十聯隊 戦友会 ***
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*補足(藤本) 慰霊碑建立に当たって、二千五百万円もの大金が集まったことに驚いた。強い使命感が皆を突き動かしたということか。 石坂准尉ら歩兵第三十連隊将兵の心中を思うと胸が熱くなる。 |
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