ノモンハンの戦い


■文・石坂辰雄

『ノモンハン事変忘れ難い特筆五項』
石坂准尉がけい紙に書いた箇条書きより
一、行軍 小松原師団壊滅近しの報に灼熱の暑さのなか前線迄の行程百粁を二昼夜の強行軍で突破

二、水の有り難さを知る 水・水が全くない 水を飲みたい 水が欲しい 雨よ降れ〳〵水恋し

三、歩兵第十六連隊 ソ蒙軍戦車の大逆襲を受け我歩兵第三十連隊の眼前約五百米の地点は火の海と化し全滅す

四、天幕(時価約壱万円)紛失補填 石坂軍曹の管理責任 この儘帰還すれば処罰問題になりかねず苦慮の末一ヶ分隊を率いて某工兵隊の天幕集積所より三十五ヶ無断持かへる

五、ハロンアルシャン近し 老婆と出会ふ 女が居た〳〵と久し振りに見る地方人に兵隊は大ハシャギ




「強行軍」

石坂 「……話が前後するけど、ムーリンに駐留していた昭和十四年八月二十六日、ノモンハン戦線へ出動命令が下った。敵は近代装備を誇る極東ソ連軍だ。相手に不足はないと、わが関東軍は腕を鳴らしたもんだ。
 翌二十七日、三十連隊は駐屯地のムーリンを出発、勇躍ノモンハンに向かった」

藤本 「ノモンハンの戦闘で記憶に残っていることを話してください」

石坂 「大ざっぱに言うとね、ノモンハンの戦いで印象に残っていることは五点あるんだ(石坂准尉、ちゃぶ台に積まれている資料をがさごそさせつつ)これは戦後になってから書いた箇条書きなんだけど『ノモンハン事変忘れ難い特筆五項』という題がついているだろ」

明夫 「あっ、それっ、だいぶ前に見たことあるな。そうか、おやじはノモンハンの思い出を分かりやすくまとめていたんだっけ」

石坂 「そういうこと。では順番にこのとおりに説明していこうか。まずは一点目の強行軍の話だ。
 周知のとおり、ノモンハンというのは日本軍が大敗北を喫した戦場として歴史にその名をとどめている。俺たち三十連隊が出動した理由はね、世間から批判の絶えない、いわゆる『兵力の逐次投入』なんだ。時期的にはノモンハン事変後期になるのかな。
 小松原兵団壊滅近しの報うんぬんと書いてあるだろ。読んで字のごとしでさ、玉砕間近の友軍を救い出すために、わが第二師団は躍起になって救援部隊と必勝部隊をもって快速行軍を強行したんだ。前代未聞とまでは言わないけど、なかなかの行軍速度だったんじゃないかな。少なくとも、今の陸上自衛隊にはまねのできない芸当だったと思う。あの頃の帝国陸軍と現代の陸自じゃ、比較にならないよ。兵隊の質があまりにも違う。現代の進んだ科学装備を抜きにして、裸で帝国陸軍歩兵と陸上自衛官が競い合ったら、絶対俺たちの方が勝つに決まっている」


*補足(藤本)
 小沢 勉『抑留 シベリアへの道 
―――されど我が青春捧げて悔いなし―――』に、この行軍に関する記述がある。

***

 さすがに三年兵は、ノモンハン帰りの勇士だけあって行軍には強かった。当時、我々の部隊は第三十連隊といってノモンハン事変に参加したが、現地への到着が早かったというだけで、関東軍司令長官より感状を授与された優秀な部隊である。それだけ他の部隊に先んじて迅速に行動したことになるが、その時の初年兵が現在の三年兵に当る訳で、今でも「おれはノモンハン帰りだ」などと事ある毎に聞かされ、気合を入れられて来たのだったが、三日三晩歩き通したとのことである。残念ながら、その時の徒歩行程を聞き漏らしてしまったが、大変な強行軍であったことは立地条件からして想像できた。

『抑留 シベリアへの道 
―――されど我が青春捧げて悔いなし―――』の百二ページから引用


*補足二(藤本)
 伊藤桂一『兵隊たちの陸軍史 
兵営と戦場生活』に、ノモンハンの戦場にいち早く到着した第二師団の強行軍に関する記述がある。

***

〔日本一弱かった師団〕
「伊藤正徳氏の『帝国陸軍の最後』や山岡荘八氏の『太平洋戦史』等を読むと、登場する日本軍は、必ず忠勇義烈、鬼神の如く勇ましい精鋭部隊に描かれているが、果して日本陸軍は両氏の説くような強兵ばかりだったのだろうか? 勿論軍隊の強弱は、指揮官の優劣に大きく左右され、又色々複雑な条件から簡単に論ずることはできないが、旧日本陸軍の中で、日本一弱いと自他共に折紙付の師団が存在した。その名を大阪第四師団という。日露戦争で連戦連敗、『又も負けたか八連隊』の勇名(?)は、日本中に喧伝され、以来昭和十二年の日中戦争までの間に起きた、いくたの事変にも一度も出動せず、わずかに昭和八年大阪市内盛り場の交叉点で、一兵士が信号無視して警官と衝突事件(ゴー・ストップ事件)を起し、大問題に発展して時の寺内師団長が皇軍の威信に関すると見当違いの大見得をきって世人の嘲笑を買った事件が大阪師団唯一の武勇伝である。昭和十四年七月、満洲ノモンハンで日ソの衝突が重大危機に陥り、逆上した関東軍が、北満国境駐屯の仙台・大阪両師団に応急動員下令、出動を命じたとき、仙台二師団は勇躍出発、ハイラルより徒歩行軍四日間で現地到着、先遣隊たる新発田十六連隊の如きは、直ちに戦闘加入勇戦奮闘したのに反して、大阪四師団は出動下令されるや、急病人激増、何とかして残留部隊に残ろうと将兵が右往左往し、怒った連隊長が医務室へ出向き、自ら軍医の診断に立会う仕末。やっと出動部隊を編成したまではよいが、ハイラルから現地までの行軍では、二師団が四日間で強行進軍したのに大阪師団は一週間を要し、しかも落伍兵続出、現地にやっと先遣隊が到着したら日ソ停戦協定成立。とたんに元気が出た浪花ッ子の面々、口口に戦闘に間に合わざりしを残念がり、落伍した将兵は急にシャンとなって続々原隊復帰。帰りの軍用列車では一番威勢がよかったというおとぼけ師団であった。

『兵隊たちの陸軍史 
兵営と戦場生活』(番町書房)の二百四十一~二百四十二ページまで引用


*補足三(藤本)
 安藤三郎『追憶 軍都高田』に、歩兵第三十連隊第七中隊の小隊長として、当時、ノモンハンで戦った野口春雄見習士官(最終階級、陸軍大尉)の体験が紹介されている。
 なお、以下の引用文に「大先輩」という語句があるが、これは執筆者の安藤三郎(新発田歩兵第十六連隊に昭和十九年度入営)が、野口春雄に向けて使っている言葉である。

***

ノモンハン事変での苦闘
 昭和十四年五月満蒙国境でソ連軍との間に衝突発生、六月上旬までソ満国境東部に於てソ連牽制の大演習に参加、八月二十六日ノモンハン出動、列車を降りてからは昼夜を分たぬ三日二夜の行軍、炎熱、重装備の為落伍者続出、脂汗を流しだしそれが出なくなると塩で塑像のようになったり鼻血を流したりする。時には一ヶ中隊で数名にもなった。中隊長はうずくまる兵を起し肩にかけたり、食べる元気もなくなった兵に小隊長自ら箸を取って食べさせた。大先輩小隊長は落伍者続出の為軽機関銃を自ら担いだが一〇〇mも歩かないうちに痙攣を起し、代った下士官も歩く力がなかった。大先輩も軍刀を捨ててと思われたと述懐しておられた。中隊幹部も部下の兵を失い掌握困難を続けたが、九月十六日の停戦の日まで小雪ちらつくホロンバイル高原で寒さと敵戦車相手の戦闘が続くのである。

『ふるさと上越ネットワーク会報』(平成二十二年七月号)の十八ページから引用




第二大隊本部付 石坂軍曹
(ノモンハン事件出動前、二十四歳時の写真)

関東軍司令官 植田大将
第六軍司令官 荻洲中将

第二師団長 安井中将
歩兵第十五旅団長 片山少将

歩兵第三十連隊長 柏大佐


*補足(藤本)
 上の写真六枚、ノモンハン事件出動時における石坂准尉とその直属上官。




■第二師団長・安井中将の訓示

訓示
茲ニ急遽東北健児ノ精鋭ヲ率ヰ勇躍出動セントス本職欣快措ク能ハサルト共ニ深ク期スルトコロアリ
惟フニ敵蘇連邦ノ積年ニ亘ル暴戻ハ天人共ニ許サヽルトコロ殊ニ近時満蒙国境ニ於テハ頻リニ我疆域ヲ侵犯シ皇軍及満軍屢々之ヲ撃攘シアルモ尚其不法ヲ改メス之ヲ徹底的ニ膺懲シ東亜永遠ノ平和ヲ確立スルハ日満両国民斉シク待望スルヤ切ナリ
今ヤ正ニ此聖戦ニ赴カントス諸士ハ君国ニ報スル千載一遇ノ好機ニ際会シ男子ノ本懐武人ノ光栄夫レ何モノカ之ニ加ワン
敵蘇軍並外蒙軍ハ其兵数ノ衆多ト物質的威力トヲ恃ムト雖モ精鋭ナル皇軍ノ精神威力ハ遙ニ彼ヲ凌駕シ常ニ彼ヲ屈服セシメアルハ諸士ノ既ニ熟知スルトコロ殊ニ精鋭無比ヲ矜ル伝統ヲ有シ且平素猛訓練ニ精進セシ我師団ハ彼我兵数ノ如何ヲ問ハス必勝期シテ待ツヘシ
特ニ緒戦ノ成果ハ爾後ノ作戦ニ影響スルヤ極テ大ナルニ鑑ミ細心ニシテ放胆敵ノ弱点ヲ突キ以テ最大ノ戦果ヲ獲得スル為渾身ノ努力ヲ傾注スルヲ要ス
諸士宜シク必勝ノ信念ヲ愈々鞏クシ生死ヲ超越シ旺盛ナル責任観念ト剛健ナル意志トヲ堅持シ斃レテ後尚已マサルノ概ヲ以テ一意其任務ノ遂行ニ奮進シ以テ師団ノ名誉ヲ愈々発揚シ
上 聖旨ニ副ヒ奉リ下日満国民ノ負託ニ添ハンコトヲ期スヘシ
時将ニ秋冷ヲ加ヘ気候ノ激変アル不毛ノ曠野ニ臨マントス各自特ニ衛生ニ注意シ遺憾ナク其本分ヲ尽シ且武運ノ隆盛ナランコトヲ祈ル
昭和十四年八月二十六日
第二師団長安井藤治

*補足(藤本)
 須山宗吾『「ノモンハン」方面出動間 第二師団機密作戦日誌』に、以下のような記述がある。

***

四、八月二十六日師団長訓示

師団長ハ下城子推進間常ニ出動ノ場合ノ訓示ヲ如何ニスヘキヤニ関シ自ラ研究セラレアリシカ遂ニ其時機到来セシヲ以テ二十六日隷下部隊ニ訓示ヲ与ヘラル即チ安井師団長自ラ起稿セラレタルモノナリ而シテ司令部全員ニ対シテハ二十七日軍装検査後訓示セラル


自昭和十四年八月二十六日 至昭和十四年十月九日 陣中日誌 「ノモンハン」
第二師団参謀部
軍隊区分
片山支隊
長、歩兵第十五旅団長 片山少将
歩兵第十五旅団(速射砲二中隊欠)
野砲兵第二連隊第三大隊
工兵第二連隊(原配属中ノ自動車ヲ含ム)
師団通信隊ノ一部
無線電信二小隊
輜重兵第二連隊自動車隊
衛生隊

*補足(藤本)
 歩兵第三十連隊は歩兵第十五旅団所属。




左 第六軍司令官 荻洲中将
右 第二師団長 安井中将
満州国在留日本国防婦人会の見送りを受ける安井中将
(昭和十四年八月 ハルビン駅において)

越後健児を率いて意気上がる
第二師団長 安井中将
第十五旅団長 片山少将
指揮所の幕舎前にて

第十五旅団幹部
中央 旅団長 片山少将
その右隣 歩兵第三十連隊長 柏大佐
左隣 歩兵第十六連隊長 宮崎大佐(背の低い人物)
左 第六軍司令官 荻洲中将
右 第二師団長 安井中将

戦闘指揮を執る新発田歩兵第十六連隊長 宮崎大佐(右から二人目)

満州国・張国務総理一行の国境戦線視察(中央)
馬上の荻洲中将

*補足(藤本)
 関東軍――植田謙吉大将
  ↓
 第六軍――荻洲立兵中将
  ↓
 第二師団――安井藤治中将
  ↓
 歩兵第十五旅団――片山省太郎少将
  ↓
 歩兵第三十連隊――柏 徳大佐
 歩兵第十六連隊――宮崎繁三郎大佐




石坂准尉の覚書(ノモンハンの水不足)
『満蒙国境 ノモンハン事変 昭和十四年』(石坂准尉の書き込みより)

「水、水、水、水恋し」

 ノモンハンは水がない。
 兵は水欲しさに湿地帯を求める。水でさえあれば濁り水でも大満足である。
「雨よ、降れ降れ」
 雨水は何よりの貴重品。まだ薄暗いうちから兵は馬車にドラム缶を積み込んで、約二十キロメートル後方のドロト湖まで水くみに出かける。帰るのは夜中で、貴重な水は一人にコップ一杯分だけ配給される。
 水のありがたさを心底知った。



「水不足」

石坂 「二点目だけど、ノモンハンは水がなくてね、本当に苦労した。あの頃の石坂軍曹がここにいたら、そこら辺のどぶ水だって喜んでがぶがぶ飲むと思うよ。補給の続かない、もしくはその発想のない軍隊というのはつらいもんでさ、これは後の大東亜戦争でも露呈する日本軍の弱点なんだけど、やっぱり『輜重輸卒が軍人ならば電信柱に花が咲く』の考えはよろしくない。精神力一辺倒の白兵戦中心主義もよろしくない。これじゃ、一大機械化部隊を有するソ連軍にかなわないはずだよ」

藤本 「とは言っても、残念ながら大日本帝国は貧乏国に違いありません。アメ公みたいに兵隊全員が自動小銃を持っていたり、トラックやジープでもって戦線を悠々とぶっ飛ばしたり、万単位で戦車を量産したりするのも不可能です。
 そういった状況では、精神力を重んじ、肉弾で敵を撃砕する思想が芽生えても仕方ないじゃないですか。それしか手がないんですから」

石坂 「そのむちゃをやらされたのが俺たちってわけだ。そういえば、日露戦争の乃木将軍は無理強いの白兵戦で敵を押し切っているね。後の支那事変でも、日本軍は支那軍に対して同じ方法を通用させているな。でも、そのまま大東亜戦争になっても、そういった遅れた戦法が引き継がれて、ガダルカナルなんかで悲劇が続発したのはやるせないね(*藤本・注 歩兵第三十連隊と同郷の歩兵第十六連隊はガダルカナルで壊滅している)」

藤本 「貧乏国であったという事実は揺るぎませんが、第一次世界大戦を満足に経験せず、古くさい日露戦争の戦訓と、後進国である支那を相手にした戦術で世界大戦に参戦したのは悔しい限りですね。ないものねだりに無理があるなら、せめてドイツ軍みたいに、一局集中という形で機械化部隊を運用して敵を覆滅するすべはなかったのかと後知恵で考えてしまいますよ」

明夫 「べたな話だけどさ、べたであるが故に、今語られている内容は説得力あるね」

*補足(藤本)
 桜井忠温『肉弾』に、露将・フォックが記した、日本軍への批評が載っている。

***

『日本軍は前進を知つて退却を知らず。一の陣地に向つて一度ひ攻撃を開始するや、猛烈頑固に前進を続行するは、予も同意する所なれども、状況の之を許さゞる時には、退却も却つて有利に導かれ得る場合少からず。然るに日本軍は常に損害の如何を顧みずして攻撃を持続す。惟ふに日本の戦術書は退却に就いて研究せざるものならん。』

『肉弾』(英文新誌社出版部)の百五十七ページから引用


*補足二(藤本)
 ゲ・カ・ジューコフ『ジューコフ元帥回想録 革命・大戦・平和』(朝日新聞社)に、ゲオルギー・ジューコフ元帥がノモンハン事件の報告をスターリンらにおこなった際のやりとりが載っている。

***

 一九四〇年五月はじめ、私は他の職務に任命されるため国防人民委員部に出頭するようモスクワから命令を受けとった。私がモスクワへ帰還したころ、赤軍の最高指揮官の将官称号にかんする政府決定が公布された。私は三人の同志とともに軍大将の称号が授けられた。
 数日後私はスターリンに直接引見され、キエフ特別軍管区司令官に任命された。スターリンとはこれまで会ったことがなかったので、私は強く興奮して引見にのぞんだ。
 部屋にはスターリンのほか、カリーニン、モロトフその他政治局のメンバーたちがいた。あいさつしたのち、スターリンはパイプたばこを吸いつけながら直ちにたずねた。
「君は日本軍をどのように評価するかね」
「われわれとハルハ川で戦った日本兵はよく訓練されている。とくに近接戦闘でそうです」と私は答え、さらに「彼らは戦闘に規律をもち、真剣で頑強、とくに防御戦に強いと思います。若い指揮官たちは極めてよく訓練され、狂信的な頑強さで戦います。若い指揮官は決ったように捕虜として降らず、『腹切り』をちゅうちょしません。士官たちは、とくに古参、高級将校は訓練が弱く、積極性がなくて紋切型の行動しかできないようです。
 日本軍の技術については、私は遅れていると思います。わが軍のMS1型に似た日本軍の戦車は老朽となり、装備も悪く、行動半径も小さい。また戦闘の初期には日本空軍がわが空軍機を撃墜したことは確かです。日本軍飛行機は、わが軍に『チャイカ』改良型やI16型を配備しない前にはわが方より優勢でした。しかし味方にスムシケビッチを代表とするソ連邦英雄の飛行士団が加わってからは、わが空軍の優勢は目に見えてきました。
 総じてわれわれが日本軍のいわゆる皇軍部隊と呼ばれる精鋭と戦わねばならなかったことは強調せねばなりません」
 スターリンは非常に熱心にきき終ってから、またきいた。
「わが部隊はどんな戦いぶりだったか?」
「わが正規軍部隊は非常によく戦いました。とくにペトロフ指揮下の第三六自動車師団、ガラーニン指揮下のザバイカルから到着した第五七歩兵師団がよく戦いました。ウラルからきた第八二歩兵師団は当初のうちは振いませんでした。その編成に教育不足の兵士や指揮官がいたからです。この師団はモンゴル派遣の少し前昇格し、編入兵たちによって補充されたものでした。戦車旅団はとくによく戦いましたが、わけても旅団長ソ連邦英雄エム・ペ・ヤコブレフ指揮下の第一一旅団は優れていました。しかしBT5、BT7型戦車は発火しやすかったです。もし私の指揮下に二個戦車旅団と三個装甲自動車旅団がいなかったなら、わが軍はきっと日本の第六軍団をあのように敏速に包囲掃滅することはできなかったでしょう。私はわが軍の兵力編成で装甲戦車と機械化部隊を思い切って増強する必要があると考えます。
 わが軍の砲兵はあらゆる点で、とくに射撃で日本軍より優れています。全体としてわが軍の諸部隊は日本軍より著しく抜きんでています。
 モンゴル軍部隊は赤軍諸部隊から経験と鍛錬、支持をうけることによって、よく戦いました。とくに装甲大隊はバイン・ツァガン山でそうでした。しかしモンゴルの騎兵は空襲と砲火に弱かったので大きな損失を被りました」
「クーリク、パウロフ、ウォロノフは君にどのように協力したか?」とスターリンはあらためてきいた。
「ウォロノフは砲撃の計画、弾薬輸送についてよく協力してくれました。クーリクについては、彼からなにも有効な協力を得たとはいえません。パウロフはわが戦車部隊にスペインで得た経験を伝え、助けてくれました」
 私はスターリンをじっとみつめていた。彼は興味深く私のいうことを聴いているように思われた。私はさらに続けた。
「わが軍の全部隊、兵団と部隊指揮官たち、そして直接私にとって、ハルハ川の戦闘は偉大な学校となりました。私は、いまや日本側も赤軍の力と能力について一層正しい結論をだしたと思います」
「では、わが軍はハルハ川でどんな困難に出合ったか、いってくれ給え?」と、この会話にカリーニン(訳注=当時のソ連邦最高会議幹部会議長)が口を入れた。私は答えた。
「主要な困難は部隊技術資材を確保する問題でした。われわれは部隊の戦闘と生活に必要なすべての物資を六五〇―七〇〇キロメートルも運搬せねばなりませんでした。一番近い補給駅はザバイカル軍管区内に位置していました。食事炊出し用の薪でさえも六〇〇キロメートルを運ばねばなりませんでした。自動車の往復距離は一三〇〇―一四〇〇キロとなり、このためのガソリンの消費は莫大となります。しかもそれはソ連国内から運ばねばなりませんでした。
 このような困難を克服するために、ザバイカル軍管区軍事会議とゲ・エム・シュテルン大将がその管下機関とともに大いに助けてくれました。しかしハルハ川の蚊の大群にはわが諸部隊は全く閉口しました。それは夜毎にわれわれを文字どおり咬みあらしました。日本軍は特殊の防蚊網をつかって救われました。しかし私たちはそれをもたず、非常に遅れてそれをつくる始末でした」
「日本政府は、君の意見では、侵入するにあたって主にどんな目的をもっていただろうか?」とカリーニンはきいた。
「直接目的はモンゴル人民共和国の領土であるハルハ川対岸を占領し、ついでハルハ川岸に要塞化境界を建設することでした。日本側は東支鉄道から以西に、わがザバイカル国境までの戦略目的をもった第二の鉄道建設を計画し、それを援護するためです」

『ジューコフ元帥回想録 革命・大戦・平和』の百三十二~百三十四ページまで引用

***

 ジューコフの意見には一部同意しかねるものもあるが、彼の見解を整理すると以下のようになる。

一、日本兵はよく訓練されていて、特に近接戦闘に優れている。
一、日本兵は戦闘に規律を持ち、真剣で頑強、特に防御戦に強い。
一、日本軍の若い指揮官は極めてよく訓練されていて、狂信的な頑強さで戦う。
一、日本軍の若い指揮官は決まったように捕虜として下らず、自決をちゅうちょしない。
一、士官たちは、特に古参、高級将校は訓練が弱く、積極性がなくて紋切り型の行動しかできない。
一、日本軍の技術は遅れている。ソ連軍のMS1型(*藤本注・T-18軽戦車)に似た老朽化した戦車を使用していて、装備も悪く、行動半径も小さい。
一、戦闘の初期は日本空軍が優勢だった。しかし、ソ連軍が「チャイカ」改良型(*藤本注・I-153複葉戦闘機の改良型)やI-16型(*藤本注・I-16戦闘機)を配備し、スムシケビッチを長とする飛行士団が加わってからはソ連軍の方が優勢になった。
一、総じてソ連軍が、日本軍のいわゆる皇軍部隊と呼ばれる精鋭と戦わねばならなかったことは強調する必要がある。
一、ソ連軍の正規軍部隊はよく戦った。特にペトロフ指揮下の第三十六自動車師団、ガラーニン指揮下の第五十七歩兵師団が健闘した。
一、ソ連軍の第八十二歩兵師団は当初のうちは振るわなかった。その編成に教育不足の兵士や指揮官がいたからである。
一、戦車旅団はよく戦った。特に、エム・ペ・ヤコブレフ指揮下の第十一旅団は優れていた。
一、ソ連軍のBT5、BT7型戦車は発火しやすかった。
一、私の指揮下に二個戦車旅団と三個装甲自動車旅団がいなかったなら、ソ連軍はきっと日本軍の第六軍団をあのように敏速に包囲殲滅することはできなかった。よって、ソ連軍の兵力編成で装甲戦車と機械化部隊を思い切って増強する必要がある。
一、ソ連軍の砲兵はあらゆる点で、特に射撃で日本軍より優れている。
一、全体としてソ連軍の諸部隊は日本軍より著しく抜きんでている。
一、モンゴル軍部隊はソ連軍諸部隊から経験と鍛錬、支持を受けることによって、よく戦った。特に装甲大隊はバイン・ツァガン山で健闘した。
一、モンゴル騎兵は空襲と砲火に弱く、大きな損失を被った(*藤本注・モンゴル騎兵が空襲と砲火に弱いという意見は、同騎兵に限らず、近代戦における騎兵一般に対する評価のように思われる)
一、ウォロノフは砲撃の計画、弾薬輸送についてよく協力してくれた。
一、クーリクからは、何も有効な協力を得られなかった。
一、パウロフはソ連軍戦車部隊にスペインで得た経験を伝え、助けてくれた。
一、ソ連軍の全部隊、兵団と部隊指揮官たち、そして直接私に取って、ハルハ川の戦闘は偉大な学校になった。日本軍の方でも、ソ連軍の力と能力について一層正しい結論を出したことだろう。
一、ソ連軍は部隊の技術資材を確保するのに苦労した。部隊の戦闘と生活に必要な全ての物資を六百五十~七百キロメートルも運搬せねばならなかった。炊き出し用のまきでさえ、六百キロメートルを運ばねばならなかった。自動車の往復距離は千三百~千四百キロメートルとなり、大量のガソリンを消費した。しかも、そのガソリンは、ソ連国内から運ばねばならなかった。これらの困難を克服するために、一番近い補給駅があるザバイカル軍管区の軍事会議とゲ・エム・シュテルン大将がその管下機関とともに大いに助けてくれた。
一、夜ごと、ソ連軍をかみ荒らす、ハルハ川の蚊の大群に閉口した。日本軍は特殊の防蚊網を使って対処していたが、ソ連軍にはそのようなものがなかった。ソ連軍が防蚊網を用いるようになったのは非常に遅れてからのことであった。
一、日本の直接目的は、モンゴル人民共和国の領土であるハルハ川対岸を占領し、次いでハルハ川岸に要塞化境界を建設することだった。そして、それを掩護するために、日本側は東支鉄道から以西に、ソ連邦のザバイカル国境までの戦略目的を持った第二の鉄道建設を計画した。



ハルハ湖畔のソ蒙軍陣地
砂漠の中に散兵壕を構築
ソ連戦車軍団の中央には航空隊により撃墜された敵機が黒煙を吹いて燃え盛っている
不法越境の暴虐ソ蒙軍に猛射を浴びせる歩兵陣地

戦車部隊

■激戦、ノモンハン

 ハルハ河を挟んで日満軍とソ蒙軍は連日熾烈な戦いを繰り返した。わが軍の戦死者約七千人。

駐機中
出撃する航空隊

静寂に包まれた戦場
馬上の人物は何を想う

■関東軍航空隊の活躍(石坂准尉の回想)

 不気味な静けさが何日も続く中、友軍機だけが休む暇もなく敵後方陣地を爆撃せり。
 また、去る○月二十八日の空中戦では「敵四十二機を撃墜、全機無事悠々○○基地に帰還」との戦闘機隊の活躍を聞く。

蒙古平原を圧して堂々進撃の満州国軍騎兵隊
最前線へ急ぐ歩兵部隊



石坂准尉の覚書(蒙古の風景)
『満蒙国境 ノモンハン事変 昭和十四年』(石坂准尉の書き込みより)

「蒙古人部落」

 蒙古人は果てしない大荒野に放牧を営み、定住することなく移動する。
 部落はせいぜい二、三軒で、馬は五十頭ないし六十頭を飼育し、生の馬肉を主食にしている。台所の火は乾燥した馬ふんから起こし、便所、風呂などの設備はない。彼らは貧しい生活を送っているが、平和な毎日に満足している。

点在する蒙古の民家~その一
点在する蒙古の民家~その二

蒙古人の老婆と馬車

*補足(藤本)
 石坂准尉によると、蒙古人はぼろぼろの衣服をまとっていたそうである。ユーラシア大陸を席巻したチンギス・ハーンの配下も同じような暮らしぶりをしていたのだろうか。


***

「廃墟の廟」

 人里離れた広漠たる原野に見られる廟は何百年の歴史がしのばれる。こんな素晴らしい廟がなぜへき地に建てられているのか不思議でならない。
 遠くから廟を眺めると壮大だが、近くに寄ると人影なく廃墟化している。

蒙古平原にこつぜんと現れる廟~その一
蒙古平原にこつぜんと現れる廟~その二

***

「敵はソ蒙軍だけにあらず」

 広漠たる蒙古平原は日中三十度を超す猛暑、夜になれば零下の極寒に変貌する。この特異な気象に悩まされながら、歩兵第三十連隊は苦闘の日々を過ごす。



歩兵第十六連隊がノモンハンの戦場に埋めた標石

*補足(藤本)
 「2599.9.8占據 日本軍片山部隊 9.16誌之」と石に彫ってある。
 「2599」は皇紀を表しているので、昭和十四年を指す。
 「據」は「拠」の異体字。
 「片山部隊」は、歩兵第三十連隊と歩兵第十六連隊の二個連隊を基幹とする片山支隊(片山混成旅団)のこと。
 「誌之」は漢文的な表現で、之(これ)を誌(しる)す、と読む。
 つまり、「昭和十四年九月八日占拠 日本軍片山支隊 九月十六日これを記す」という意味のことが石から読み取れる。


*補足二(藤本)
 満州第一七七部隊将校集会所『支那事変史』に、以下のような記述がある(満州第一七七部隊は歩兵第三十連隊のこと)

***

 この日第一線部隊たる第二、第三大隊は、軍の指示により現在占領しある地点に標石を埋没した。即ち第二大隊は石山高地頂上に、第三大隊は九七〇高地の頂上やゝ前方に「日本軍占領」と刻した標石を埋没し、皇軍奮戦の跡を永久に国境深くきざみ付けた。

『支那事変史』の二百五十七ページから引用

***

 昭和十四年九月十六日、歩兵第三十連隊と歩兵第十六連隊は、ノモンハンの戦場に標石を埋めている。しかし、宮崎繁三郎中将が本件について述べている、雑誌『丸』の記事(昭和三十三年一月号。「歩兵第十六連隊奮戦す」)の影響によって、標石埋没の発案者は宮崎中将であるかのように語られることが多い。同記事に、歩兵第十六連隊とともに歩兵第三十連隊も標石を埋めていたことが記されていなかったために、文脈上、宮崎中将が標石埋没の発案者である、というように読まれてしまっているからだ。
 正確を期して述べるならば、標石埋没の発案者は、今に至るもはっきりしていない。そして、前述の『支那事変史』に書いてあるとおり、軍の指示により片山支隊が標石を埋めた、ということが分かっているだけだ。つまり、支隊レベルで評価するならば、標石埋没の手柄は、歩兵第十五旅団の片山省太郎少将のものとしてもよいのである(現に石には「片山部隊」と彫刻されている)。連隊レベルで考えてはじめて、歩兵第三十連隊の柏 徳大佐および歩兵第十六連隊の宮崎繁三郎大佐の手柄になる。いや、『支那事変史』に記されている「軍の指示により」という一語を重んずるのであれば、上級部隊である、第六軍の荻洲立兵中将や第二師団の安井藤治中将の手柄としてもおかしくはない。いずれにせよ、宮崎中将一人の功績である、とは言い切れないことを指摘しておきたい。
 なお、上掲の標石の写真は、歩兵第十六連隊の関係者が持っていたものなので、歩兵第三十連隊が埋めた標石を撮影したものではない。しかし、そうは言っても、全く同じ文言か、ほぼ同じような文言であったことは想像に難くない。



「歩兵第十六連隊全滅」

明夫 「この三点目の歩兵第十六連隊全滅って、おやじはその目で見たの」

石坂 「ああ、しかと見たよ。ソ連軍の戦車が数百台単位で十六連隊に襲いかかってね、ひどい光景だった。目の前が火の海でさ、こっちの三十連隊は助けようにも助けられなかった。
 もともとね、十六連隊が突出したのは命令違反なんだ。当時の連隊長・宮崎繁三郎大佐の判断なのか分からないけど、はっきり言って自業自得だよ。関東軍の独断専行はある種の伝統とはいえ、陸軍中枢の命令を無視したんだからね。
 不思議と宮崎中将の評伝に『ノモンハン唯一の勝利者』なんて言葉が躍っているけど、現場を目撃している人間から言わせれば、どこが勝利者なんだと首をひねってしまう。戦車の下敷きになって悲鳴を上げている日本兵を何人も見ている俺は、
『日本軍はノモンハンで大負けしたんだ。誰も彼もが』
 と、絶叫したいくらいだよ。同郷の新発田歩兵第十六連隊はノモンハンで全滅したんだ、間違いなく」

*補足(藤本)
 誤解のないように断っておきたい。歩兵第十六連隊が甚大な被害を受けたのは間違いないものの、一個連隊そのものが玉砕したわけではない。石坂准尉が言う「全滅」とは、一般用語上における、文字どおりの「全滅」ではなく、軍事用語上での「全滅」を指しているものと思われる。
 また、石坂准尉の説明では、数百台の敵戦車が襲ってきた、とのことだが、実際は百五十台程度であったようだ。


*補足二(藤本)
 歩兵第十六連隊だけでなく、実は歩兵第三十連隊の運命も危うかった。
 当時、歩兵第三十連隊第七中隊の小隊長として、ノモンハン事件に参加した野口春雄見習士官(最終階級、陸軍大尉)が、戦後、こんな風に語っている(『ふるさと上越ネットワーク会報』所載『高田が生んだ「国境」の軍使』より)

***

「ある日、ソ連軍の戦車の大群が我々の隊に向かって突進して来たんだよ。こちらには満足な火器がなく、これで最後かと覚悟をきめたね。ところが、襲いかかる寸前に何故か向きを変えて戻って行って命拾いしたね。ついていたんだよ」

『ふるさと上越ネットワーク会報』(平成二十二年十二月号)の七ページから引用



『東京朝日新聞』(昭和十四年八月九日朝刊)
 『満蒙国境 ノモンハン事変 昭和十四年』(石坂准尉が写真帳にはりつけた新聞記事より)

猛逆襲の敵一千
我が軍徹底的に撃砕

【海拉爾特電八日発】 ハルハ戦場はソ蒙軍が去る七月二十六日の大殲滅戦以来空中、地上共に我が徹底的な猛撃を受けて制圧さるゝに至り時折緩慢な砲戦を交へる外比較的平静な状態にあつたが七日午前四時に至りノロ高地正面の敵約一千は突如四ヶ所よりハルハ河に架橋多数の戦車と優勢な砲兵の援護を頼みに猛烈な逆襲に転じて来たが予てこのことあるを期してゐた我軍は一斉に巨弾の雨を浴せてこれを猛撃交戦約二時間の後越境ソ蒙軍は遂に壊滅的大打撃を受けハルハ河左岸に壊走した付近戦場は敵の遺棄死体約二百数十に上り猛火災を起して擱坐炎上する敵戦車とこれ等の死傷者で充満し凄愴極まる情景を呈してゐる、尚同方面の敵は八日も引続き逆襲の企図を捨てず続々兵力を集結中で彼我の砲声殷々と轟いてゐる、我方は目下満を持し厳重敵を監視中である



停戦協定現地交渉

昭和十四年九月十六日、日ソ停戦協定成立
両軍の記念写真

英霊に捧ぐ
慰霊

■ホロンバイル平原に平和よみがえる

 奮戦健闘護国の神となりし関東軍将兵戦死者の慰霊祭挙行さる。

ハロンアルシャンへ引き揚げる戦車部隊
さらばノモンハン

三ヶ月ぶりの入浴で戦塵を洗い流す兵隊
撤収地ハロンアルシャンで振る舞われる命の水



戦史叢書 関東軍<1> ―対ソ戦備・ノモンハン事件―
防衛庁防衛研修所戦史室

主力の攻勢中止とハンダガヤ方面一部の作戦

 九月六日、植田関東軍司令官は、意見具申却下の旨の参謀総長電に接するや、直ちに前日午後決裁を終わって準備していた関東軍命令(関作命甲第一七八号―一六〇〇付)を発令した。内容は左記のとおりで、これが植田軍司令官署名の最後の関東軍命令となった。
 一 大命ニ依リ「ノモンハン」方面ニ於ケル攻勢作戦ヲ中止セシメラル
 二 第六軍ハ概ネ既定計画集中末期ノ態勢ニ在リテ敵ヲ監視スヘシ
 爾後ノ行動ニ関シテハ別命ス
 三 航空兵団ハ依然前任務ヲ続行スヘシ

 なお関東軍司令官は、この日夕参電第三三〇号に応ずる回答として、前述作命第一七八号にハンダガヤ方面における概況を付加して報告した。(関参一電第七五四号)
 そのハンダガヤ方面に対して、第二師団に属する片山支隊が先遣され、同支隊は八月末すでにハンダガヤ付近に進出し、また独立守備第一大隊による隘路口強化も講ぜられつつあった。片山支隊の編組は、歩兵第十五旅団長片山省太郎少将(22期)の指揮する歩兵第十六、同第三十連隊及び野砲兵第三大隊であった。支隊は九月に入ってから一時関東軍の指導によって行動を控えたが、やがて同月八、九日の両日にわたり当面の外蒙騎兵師団に対し果敢な夜襲を展開した。歩兵第十六連隊(長 宮崎繁三郎大佐―26期、のち中将)は、たちまちにして優勢な外蒙騎兵を撃破し、こうしてこの方面の戦略態勢は急速に我に有利となった。

戦史叢書 関東軍<1> ―対ソ戦備・ノモンハン事件―』の七百二十七ページから引用

『ハルハ河の英雄的な頁』(モンゴルが製作したドキュメンタリー映画)
モンゴル
東京の陸軍参謀本部は、戦闘行為を停止するよう、関東軍に、九月三日、命令を与えたが、関東軍司令部は、ソ連・モンゴル側に決定的な反撃を加えようと、配下の第二・第四師団のほか、中国本土より、第五・第七・第十四師団に、九月八日中に、急きょ、国境に到着するよう命じた。
こうして増強されたのが、第一・第八師団の半数、在満全部隊の速射砲隊、山砲第四・第九連隊、高射砲部隊、および中国で戦闘中の空軍をほとんど集中するよう決定した。
この全兵備を九月後半までに集め続けて、十月中旬に、新たな攻撃に移せるよう計画していた。
モンゴル領土に、とにかく前進して、有利な拠点を得るために、ハルハ河近辺にあった、在余の二個大隊の兵力によって、戦線右翼にある一帯をよく見渡せるエレス山を占領するために、九月四日に攻撃を開始した。
わが第八師団の第二十二・二十三連隊が、ソ連第五十七狙撃師団の第六戦車旅団と協同して、日本軍の攻撃を打ち砕いた。
四日夕刻、第八師団第二十二連隊が日本軍に包囲された。
八日夜、日本軍は砲で支援された歩兵四個中隊、もしくは千の兵力で、エレス山近辺にいたモンゴル・ソ連軍を排除するため、前進を開始した。
これに対してジューコフは、戦車大隊、第八師団の装甲車大隊、第二十三連隊の第二中隊をチョクドンが担当する国境監視所の戦闘に投入し、日本軍を包囲殲滅した。
これは、ハルハ河一帯であった最後の戦闘であった。

*補足(藤本)
 ソ連・モンゴル側から見た、片山支隊との戦闘の模様が本作に登場する。
 なお、上記の文章は、日本語の吹き替え音声を文字に起こしているため、漢字や句読点などは任意の表記になっている。


『昭和史の謎を追う』(上巻)
秦 郁彦

第十章 明暗のノモンハン戦秘史(下) ――宮崎連隊と深野大隊の勇戦

 一九八九(平成元)年八月末、ノモンハン古戦場訪問の旅に加わった私は、首都ウランバートルのホテルで二人の専門家と夕食を共にしつつ懇談する機会をえた。モンゴル陸軍戦史部長のプレブドルジ中将と日本研究センターのドゥンケルヤイチル所長は、ノモンハン戦に関するソ連・モンゴル側の情報について丁寧に答えてくれたが、別れぎわに「今度はこちらからお願いしたいことがあります」と言い出した。それは、停戦協定が間近の頃、南部戦線で起きた戦闘の話題だった。
「戦史叢書にも書いてないんですが」と話し出したドゥンケルヤイチル氏は、かつて東京に三年留学した経験があり、流暢な日本語を話す。
「それは九月八日、九日の宮崎連隊の攻勢じゃありませんか」と聞くと、氏はうなずいて「そこまでは見当がつきましたが、詳細がよくわからないのです」と言う。
「宮崎連隊長が自身で書いた回想記があるので、コピーをお送りします」と約束した私は、聞かれるままに宮崎繁三郎中将の戦歴や人柄についても語った。
 完敗に終った第二次大戦の日本陸軍ではあるが、宮崎には「屈指の名将」の定評があること、惨烈をきわめたノモンハン戦場で、彼が指揮した歩兵第一六連隊は、「唯一不敗の連隊」と称されたこと、晩年の宮崎中将に会ったが、猛将、勇将のイメージにほど遠い市井の好々爺だったことなどである。
「ほう。ほう。そうですか」
 とドゥンケルヤイチル氏は熱心に相槌をうって聞いていた(以下略)

『昭和史の謎を追う』(上巻)の百五十七~百五十八ページまで引用

*補足(藤本)
 本文中に(以下略)とある箇所は、藤本が以下に続く文章を省略して引用したあとである。原本に(以下略)とは記されていない。


国際学術シンポジウム全記録 1991年東京 ノモンハン・ハルハ河戦争』
ノモンハン・ハルハ河戦争 国際学術シンポジウム実行委員会

九月戦闘についての問題点

プレブドルジ

(略)九月初めエルス山地区でかなりの激戦があり、多数の戦死者を出した。日本軍第二師団の歩兵第十五旅団(旅団長片山少将)の宮崎大佐を長とする歩兵第一六連隊(三個大隊編制)は、野砲部隊をともない九月四日、エルス山を占領しようとしたが、モ軍第八騎兵師団の第二三連隊、ソ軍第五七狙撃師団と第六戦車旅団のいくつかの部隊が協力してこれを撃破した。
 モ軍第八騎兵師団長であったD・ニヤンタイスレン大佐の回想録では、「日本軍は、歩兵第二師団を後方より増派し、九月三―四日に二個大隊の兵力をもって、わが師団のチョイン・ドガルジャブ隊長の第二三騎兵連隊が防御していたエルス山・オボーとその無名高地に向かって攻撃し、第二三連隊をなかば包囲してしまったが、ドガルジャブはその激しい戦闘で巧みに連隊を指揮し、攻撃のたびに敵に打撃を与え、寸土も譲ることなく陣地を確保した。九月四日朝、師団および南方部隊の砲と弾薬庫に向かって攻撃し、火砲二、自動車、大量の機銃、小銃、双眼鏡、弾薬などを鹵獲した」と述べている。
 九月八日、エルス山高地を奇襲して来た敵を短時間に包囲し、中隊規模の兵力を敗退させたことは、九日に第一集団軍司令部から国防人民委員に宛てた電報に述べられている。
 九月八日夜、日本軍歩兵第一六連隊は、ドガルジャブ連隊を数回にわたり攻撃したが失敗して、相当の損害を受けた。九日の朝、第二三騎兵連隊の装甲車隊は砲兵中隊の火力支援下に反撃し、敵は戦死者一四〇人を出し、残余の兵力は国境外へと敗退した。モ軍第八騎兵師団長の報告によれば、「日本の第二師団は、エルス山付近のわが師団に二度にわたり反撃を加えたが、四九〇人の人名と多数の兵器を失った」とある。
 この戦闘に関し、「赤い星」の九月一三日号は、「九月八日、ハルハ河の東方エルス山のオボー付近で、国境を侵犯した日本・興安軍をモ・ソ軍はモ領土内に撃破し、残余を国境外に追い払った。戦闘において敵はわが領内に死体三五〇を遺棄し、また多数の小銃、機銃、手榴弾その他を鹵獲した」と述べている。(以下略)

国際学術シンポジウム全記録 1991年東京 ノモンハン・ハルハ河戦争』の八十五~八十九ページまで引用

*補足(藤本)
 本文中に(略)(以下略)とある箇所は、藤本が文章の一部を省略して引用したあとである。原文に(略)(以下略)とは記されていない。


*補足二(藤本)
 宮崎中将について記している、ちまたの書籍は、同中将を名将として表面的に褒めたたえているものがほとんどだ。しかし、『国際学術シンポジウム全記録 1991年東京 ノモンハン・ハルハ河戦争』(ノモンハン・ハルハ河戦争 国際学術シンポジウム実行委員会)に載っている記事――「〔解題〕 九月戦闘についての問題点」(牛島康允)は、宮崎中将に対して批判的である。
 牛島康允の弁が走り過ぎてしまって、過度の批判になっているところがいただけないが、おおむね、論評の趣旨には賛同できる。
 該当文を以下に引用しよう。

***

〔解題〕 九月戦闘についての問題点

 九月の戦闘というと、ノモンハン戦の勝敗の帰趨が決定したあとの南部辺境の小衝突であり、「プレブドルジ中将がなぜそんな小戦闘を議題として選んだのか」と疑問に思われる向きも多いと思う。
 だが、この戦闘はモンゴル軍が主役として戦った数少ない戦闘の一つであったこと、また、九月一一日のマナ山地区の戦闘に急派されたモンゴル軍第八騎兵師団第二二連隊が敗走し、その責任を問われて処刑された連隊長以下三人の名誉回復問題に絡んで、この件がモンゴル国内の新聞種となっただけではない。
 中将がこれを議題として取り上げたもっとも中心的な意図は、マナ山地区の戦場は、本来、モンゴルの領土であるにもかかわらず、停戦協定の結果、満州国の領土(現在では中国)に編入されてしまったことである。
 それは、何を意味するかというと、一つはモンゴル側が反攻を企図しているにもかかわらず、日ソ両大国がまったく自己の必要性から小国モンゴルの利益を無視して、停戦時と停戦条件を決めてしまったため、固有の領土を失ったという不満の表明であり、その不満は主として、同盟国だったソ連に向けられている点が注目に値する。
 二つめは、ソ蒙軍側はジューコフ第一集団軍司令官の命令により攻撃行動を中止し、防御に移っていた。一方、関東軍も大命により、第六軍に対して攻撃中止命令(航空を除く)を下令し、モスクワでは東郷・モロトフが停戦会談に入っていた。
 したがって、マナ山、エルス山、ヌムルグ河の九月戦闘は、日本側の不正の攻撃であり、戦果さえあげれば、独断攻撃も許されるという日本軍の指揮統帥の乱脈に対する批判でもある。
 日本の戦史研究家の多くは、まったく旧軍同様にただ戦闘の勝敗のみをもって評価し、勝利は善であり敗北は悪であるという立場をとっている。しかし、現在ではそんな単細胞的評価は通用しないし、むしろ有害ですらある。戦争はもちろん、戦闘にも論理的、法的評価を必要とするだろう。
 純然たる勝敗の分野においても、中将の述べるエルス山の戦闘に関するソ蒙側記録と対比すれば、「歩兵第一六連隊(連隊長宮崎繁三郎大佐)が、たちまちにして優勢な外蒙騎兵を撃破し、この方面の戦略態勢は急速に我に有利となった」(『関東軍』(1)の七二七ページ)との評価とか、宮崎連隊を「不敗の連隊」などという評価は客観性を欠くことが明らかである。
 九月八、九日の戦闘における宮崎連隊の損耗は戦死一八八人、戦傷九九人にのぼり、第二師団の全損耗三〇四人の大部分を占めている。のみならず、戦死と戦傷の比率で、戦死数がはなはだしく高いことは、戦傷者を戦場に放置して退却したことを証明する以外の何ものでもない。
 戦う必要のない戦いを戦い、このような大きな損害を出したゆえにこそ、宮崎はノモンハンの戦闘について語ることを拒み、この敗戦の教訓あればこそ、ビルマ戦において名をなすことができたのである。
 では、何が失敗であったかといえば、山縣連隊、酒井連隊などの戦訓の無視である。暗夜時間の短いこの地域における夜襲は、暗夜のあいだ夜襲し、ただちに発起線に退避しないと、夜明けとともに砲撃と戦車の集中攻撃を受けて、撃破されるという戦訓を無視したため、夜襲の成功後の措置に適正を欠いたことにほかならない。夜襲を訓練し、夜襲なら必ず勝つという思い上がりこそ、他連隊の経験を学ぼうともせずに、闇雲に突き進んだ新着部隊の浅薄な失敗であった。   (牛島康允)

『国際学術シンポジウム全記録 1991年東京 ノモンハン・ハルハ河戦争』の九十一~九十二ページまで引用




「蓮池天幕事件」

石坂 「それでは四点目にいこうか。この蓮池天幕事件は一世一代の泥棒なんだ。今この年になっても『悪さしたな~』と後悔しているけどね。
 ……日本軍が敗北して両軍に停戦協定が結ばれると、帰還命令が各部隊に下った。異変はそのときに起こったんだ。『転進』ならぬ、本当は『撤退』だからさ、ノモンハンの戦場はそれなりに慌ただしくて、ひっちゃかめっちゃかな雰囲気だった。そのせいなのか、俺たちの部隊がいざ帰ろうとしたら、天幕が数十組単位で紛失していたのには驚いたよ。理由は分からないけど、とにかくないんだ。このままでは、ただじゃ済まされない。こんな失態を上官に報告しようものなら、石坂軍曹は営倉入りだ。慌てた俺はすぐさま兵一個分隊を率いて、某工兵隊の天幕集積所から天幕を盗み帰って員数をつけた。そうして、紛失騒ぎをごまかした俺は営倉に入らずに済んだんだけど、このときは肝を冷やしたね。よくも悪くも思い出といっちゃ思い出に違いないけど、こんなことはもう二度とご免だよ」

明夫 「おやじもワルだね(笑)」

藤本 「いや、明夫さん、よくある話なんだよ。昔の軍隊では物がなくなったら、帳尻を合わすために他人から盗むものと決まっているんだ。ないことを責められはしても、その解決方法は問われないのが軍隊というところなんだ。だから、石坂准尉の思い出も、無数にある『従軍こぼれ話』の一つにすぎないよ。地方人だとびっくりしてしまうようなことも、軍隊では通用する常識なんだ」

明夫 「それっ、本当なの」

藤本 「そうだよ(笑)」

石坂 「うん、うん(笑)」




石坂准尉の覚書(ノモンハンの戦い)
『支那事変史』 満州第一七七部隊将校集会所 (石坂准尉の書き込みより)

「天幕事件」

 当時、第二大隊被服係の地位にあった私には、全中隊の天幕の管理責任があった。停戦となり、いざ帰還しようとすると、何とそのうち、約二十五組の天幕が紛失していることが判明した。苦慮の末、他隊の天幕を持ち帰るより仕方なしと判断し、すぐさま兵一個分隊を率いて第一線撤収のため集積してあった某工兵隊の天幕約三十数組を運び出した。
 若さとはいえ、工兵隊では困ったことだろう。

***

「新発田歩兵第十六連隊全滅」

 九月七日、九〇四高地の敵陣を攻撃すべしとの命令を受け、わが軍の決死隊は白だすきも勇ましく粛々と前進せしも、十六時、突如夜襲中止命令下り断念す。しかし、友軍十六連隊は命令を無視し、夜襲を敢行、所定の陣地を占領せるも夜明けとなるや敵戦車の逆襲を受け、全滅す。

***

「石山監視所」

 石山から三角山との間は平坦地で約三百メートル。石山の陣地から三角山の敵兵が肉眼で見えた。

三百メートル前方のソ連軍三角山陣地を監視する

中央 望遠鏡で敵陣を観察しているのが石坂軍曹
(昭和十四年九月十日 石山監視所)



「老婆」

藤本 「五点目、兵隊が大はしゃぎしたという老婆の話を教えてください」

石坂 「三十連隊が帰還するとき、蒙古の平原で一人のおばあさんと出会ったんだ。そしたらさ『女がいた』という話が後ろを歩く人間に伝わったのはいいんだけど、うわさが勝手に一人歩きしちゃってね、長らく娘さんとは無縁の戦場生活を送っていた兵隊が、
『女だ、女だ、わっしょい、わっしょい』
 と、そりゃもう喜んでしまった(笑)
 でも、女は女でも、まさか老婆とは思わないでしょ。だから、よぼよぼのお婆さんと後で分かったときは、若い兵隊が落胆しちゃってね、おかしなもんだったよ。ちなみに、落胆した兵隊の一人が俺なんだけどね。
 ノモンハンの戦場に一輪の花が咲いたと思った俺たちは、とんでもない早とちりをした。これは、ノモンハン戦史上におけるわが帝国陸軍の重大な失態の一つだよ(笑)」

◆一同 (大笑い)



「石坂准尉のノモンハン戦場写真」

機関銃陣地を視察する石坂軍曹(右)
第二大隊将校(右後方二人目、長沢大隊長)

第二大隊本部幕舎前にて
中央 石坂軍曹

蒙古を望む石坂軍曹

ソ蒙軍陣地を眺める石坂軍曹
ホロンバイルの朝
日本軍高射砲陣地

左から佐藤中尉、柏連隊長、長沢大隊長、草間大尉
中央 第一大隊長 田沢少佐

左 長崎中尉、右 近藤准尉
大隊副官 長崎中尉
(ノモンハン戦時、第五中隊第一小隊長)

疲れ果てた兵は天幕の中でしばしの仮眠
戦いの合間

集合

敵状観察
戦場の一息

ソ連軍の行動を監視する歩哨
○○隊幹部

いもの皮むき
班長を囲んで

対戦車壕を掘る

蒙古平原
石蘭高地
壕内陣地点在

軍馬も一休み
満州国軍戦没者安住の地

帰還準備
集結

軍用列車

新発田歩兵第十六連隊慰霊祭
(帰還後、満州において)



張鼓峰 ノモンハン 満蒙国境事件」(国民教育写真通信社)



説明文

*小さな画像をマウスでクリックすると大きな絵が閲覧可能
1 日満共同防衛満軍ノ歩哨
2 敵ノ戦車ヲ鹵獲シテ凱歌ヲアゲル皇軍
3 我鉄牛隊ノ猛進
4 蒙古平野ヲ驀進スル満軍騎兵隊
5 ソ連機ノ編隊飛行
6 戦傷ニ遺棄サレタ敵ノ戦車
7 鹵獲セルソ連大型タンク
8 敵機投下シテ不発ニ終ツタ百キロ爆弾ト五十キロ爆弾
9 我高射砲ノ猛攻ニ火達磨トナツテ墜チテ行クソ連機
10 ソ連機盲爆ノ跡
11 火熱ノ砂瀑ニ於ケル我陣地
12 日ソ停戦協定(日本側藤本少将・ソ連側ボタボーツ少将)
13 ソ連軍五十キロ砲弾炸裂ノ跡
14 張鼓峰最前線ノ我軍
15 ソ連機ニ見舞レタ張鼓峰ト将軍峰
16 古城ニテ鹵獲シタソ連ノ兵器
17 ソ連国境デ分捕ツタソ連ノ戦車
18 敵砲弾ニ破壊サレタ民家
19 我軍ニ撃墜サレタソ連機僅ニ発動機ノミトナル
20 張鼓峰部落ノ小学校ニテ現地交渉

*補足(藤本)
 上掲写真二十枚のうち、一~十二までがノモンハン事件、十三~二十までが張鼓峰事件を写したものである。


*補足二(藤本)
 説明文に誤植がある。
 以下、その訂正箇所。

「11 火熱ノ砂瀑ニ
ケル我陣地」 → 「11 火熱ノ砂瀑ニケル我陣地」

「19 我軍ニ撃墜サレタソ連機僅ニ発動機ノミ
ナル」 → 「19 我軍ニ撃墜サレタソ連機僅ニ発動機ノミナル」

「20 張鼓峰部落ノ小学校ニテ現地
渉」 → 「20 張鼓峰部落ノ小学校ニテ現地渉」


*補足三(藤本)
 上掲写真中、
 「12 日ソ停戦協定(日本側藤本少将・ソ連側
ボタボーツ少将)」
 と、述べているキャプションがある。
 「
ポタポフ」少将という呼び方が一般的だが、人名表記については、いろいろな見解がある。
 あえて、訂正していない。



皇軍の偉勲を伝ふ ノモンハン事件写真目録」

*小さな画像をマウスでクリックすると大きな絵が閲覧可能
1 敵を撃破しつつ前進する○○隊 一四、七、二
2 蒙古草原に壮烈な戦死を遂げた川村部隊長の現地に樹つ墓前に詣でる後任の○○部隊長 一四、七、二二
3 皇軍の武威にソ連兵投降続出白旗代りにハンカチを振りながら我が軍に投降するソ連戦車隊員 一四、七、一七
4 満州国領に不法越境の外蒙ソ連地上部隊を偵察爆撃に向ふ陸の荒鷲隊 一四、七、一六
5 二十五日の戦闘に於て我が対空射撃にもろくも撃墜された敵機SB中型爆撃機の翼片 一四、七、二九
6 我が荒鷲に撃墜されたソ連軍SB型重爆撃機の残骸(中央の星はソ連のマーク) 一四、七、九
7 勇猛果敢な皇軍将兵にこの風流……ハルハ河畔にて月を楽しむ余裕綽々たる我が将兵 一四、七、七
8 激戦終つて手柄話に花を咲かせる余裕綽々たる我が鉄牛部隊勇士 一四、七
9 勇猛なる我が荒鷲の墓地へ親子連れの鶴が舞降りたので勇士達は大騒ぎの末今後は子鶴は同部隊のマスコツトとして育てることになつた 一四、七、七
10 我が砲撃により炎上する敵戦車群 一四、七、五
11 敗敵を急追する我が○○隊 一四、七
12 敗敵を急追撃トラツク隊 一四、七
13 日章旗を立て敵陣監視所 一四、七
14 広漠たる平野を我が軍の進軍 一四、七
15 蒙古広野を圧して我が戦車隊の大進撃(将軍廟ノムトソーリン付近) 一四、七
16 敵を急進○○部隊の活躍 一四、七
17 満蒙の広野を圧して我が鉄牛隊の大進撃 一四、七
18 我が高射砲の猛撃に火達磨となつて墜ち行く越境ソ連機 一四、七
19 ハルハ河右岸の残敵に最後の砲撃を開始した我が○○陣地 一四、七、八
20 砂糖の入つたお茶赤軍捕虜皇軍に感謝(茶菓の接待をうけるソ連捕虜) 一四、七、九
21 満州国張国務総理一行の国境戦線視察(○○高地にて×印張国務総理) 一四、七
22 ○○高地に凱歌草原に轟く皇軍勇士の万歳 一四、七、八
23 日満共同防衛の重責を担つて○○に立つ○○軍歩哨 一四、六、二八
24 ○○に於ける我が対空監視所 一四、六
25 我が対空の守り堅し越境ソ連機の姿なく平和をとり戻したハロンアルシヤン温泉に戦塵をおとす我が勇士 一四、七
26 陣中閑ありドラム缶に戦塵を流す勇士 一四、八、一三
27 陸の荒鷲制空権確保に敵機影を認めず○○基地に鵬翼を休める我が○○機と歩哨 一四、八、三
28 鹵獲戦車と軍用車 一四、八、一二
29 敵戦闘機の残骸(発動機) 一四、七
30 停戦協定現地交渉
31 停戦協定現地委員の両軍記念撮影
32 戦車と歩兵部隊の協力作戦に依り敵を猛攻撃(○○高地) 一四、七、七
33 血迷つたソ連機小山を盲爆す(ハロンアルシヤン) 一四、七、二三
34 国境侵犯ハロンアルシヤンに再び飛来せばたゞ一撃にて待機する○○○軍高射砲隊 一四、七、二六
35 ノロ高地第一線に於て弾丸雨飛の中で厳重な監視をつづける我が歩兵部隊 一四、七、二五
36 再度国境侵犯の敵戦車隊に我陸鷲の壮烈な大爆撃敢行炎々と燃え上る外蒙ソ連タンク
37 陸鷲の大爆撃により火炎を起し我が軍に鹵獲された敵戦車 一四、七、二四
38 バルシヤガル高地に於ける我が気球観測隊の活躍 一四、七
39 我が軍の陣地に落下せし敵の十五糎砲弾不発弾 一四、七
40 ○○基地に於ける我が監視哨 一四、七
41 第一線に於ける我が砲兵陣地 一四、七
42 不法ソ連機の越境監視(ハロンアルシヤン) 一四、八、二二
43 蒙古平原を圧して堂々進撃の○○軍騎兵隊 一四、七
44 残敵掃討に活躍する我が歩兵部隊 一四、七
45 勇猛果敢なる荒鷲を助ける地上勤務員の涙ぐましい努力 一四、七、四
46 将に出動せんとする我が陸の荒鷲 一四、七、四
47 我が荒鷲の活躍の裏に涙ぐましき炊事班の努力 一四、六、二八
48 ○○最前線に於ける高射機関銃陣地 一四、九、二
49 我が荒鷲に撃墜されたソ連飛行士を懇ろに葬むる我が武夫の床しさ(手前白い草花を手向て) 一四、九
50 国境線侵犯のソ連機、我陸鷲に撃墜され満領内で焼失 一四、七
51 ハルハ河畔に撃墜され黒煙を吹いて燃える敵機 一四、七、三
52 外蒙ソ連機の数度に亘る不法爆撃にもめげず皇軍守りに聖地甘球品廟に平和色漲る 一四、七、二一
53 暁の国境線に厳然たる我歩哨 一四、六、二五
54 ○○高地から国境線監視の○○軍騎兵隊 一四、六、二九
55 去る四月二十八日の空中戦闘に於て敵機四十二機を撃墜全機無事悠々○○基地に帰還せり関東軍航空隊 一四、六、三
56 ハルハ河畔に展開された敵戦車と我が砲兵の大激戦右方の黒煙は我砲兵弾命中し燃え上る敵戦車(十五六台)左黒点は我が砲兵陣 一四、七、二三
57 不法越境の暴戻ソ蒙軍に猛射を浴せる歩兵陣地 一四、七、二
58 擬装して進撃する我が鉄牛部隊 一四、七
59 我が鷲荒に撃墜され黒煙天に沖し炎上するソ連機 一四、七、二五
60 停戦協定現地交渉(向つて左日本側)

*補足(藤本)
 説明文に誤植がある。
 以下、その訂正箇所。

「8 激戦終つて手柄話に花を咲かせる余裕
畔々たる我が鉄牛部隊勇士 一四、七」 → 「8 激戦終つて手柄話に花を咲かせる余裕綽々たる我が鉄牛部隊勇士 一四、七」

「39 我が軍の陣地に落下せし敵の十五糎
(扌+曷)弾不発弾 一四、七」 → 「39 我が軍の陣地に落下せし敵の十五糎弾不発弾 一四、七


*補足二(藤本)
 上掲写真中、
「59 我が
鷲荒に撃墜され黒煙天に沖し炎上するソ連機 一四、七、二五」
 と、述べているキャプションがある。
 この「
鷲荒」という表記は、「荒鷲」(あらわし)の誤植ではないか、と思ったが、日本の軍隊には、単語の前後を引っ繰り返す文化がある(例・簡単〈かんたん〉 → 単簡〈たんかん〉)。あながち、間違いとは言い切れない。あえて、そのままの表記にしている。
 なお、参考として、単語の前後を引っ繰り返している例を以下に挙げておく。
 「単簡」「熱発」「答解」「問査」「塡充」「示指」「圧制」「終始」「近接」「称呼」「励精」「離隔」「得会」「界限」「拾収」「習修」「好良」「賤卑」「分部」「細微」「損減」「列序」「凍冷」「薬弾」「端末」など。
 単語の前後が入れ替わっていても、単語の意味は変わらない。よって、軍の書類を読む際には、端末(たんまつ)と表記されていても、何かの機器の端末(たんまつ)について述べているのではなく、一部隊の末端(まったん)などを指している。意味を取り違えてはならない(要注意)


*補足三(藤本)
 上掲写真中、
「52 外蒙ソ連機の数度に亘る不法爆撃にもめげず皇軍守りに聖地
甘球品廟に平和色漲る 一四、七、二一」
 とのキャプションがある。
 この「
甘球品廟」とは、甘珠爾廟(カンジュル廟〈びょう〉)のこと(漢字表記の差異)



『丸』(昭和三十三年一月号)
宮崎繁三郎

特集・大関東軍戦史 【六】

歩兵第16連隊奮戦す
――ソ連戦車群との死闘――

宮崎繁三郎
(当時歩兵第十六連隊長・元陸軍中将)


応急派兵命令下る

 昭和十四年五月十二日朝のことである。外蒙軍約七〇〇名が、突如として、ノモンハン西方地区に不法越境を開始した。この事件に端を発したノモンハン事件は、しだいに拡大して、東支隊から山県支隊の戦闘となり、さらには第二十三師団(長・小松原道太郎中将)の戦闘にまで、発展してしまつた。
 ところが八月の下旬には、第二十三師団は、悪戦苦闘をかさねたあげく、その戦力をほとんど消耗しつくしてしまつたのである。
 そこで関東軍は、満州国の東正面の骨幹兵力である第二、第四師団とチチハルの附近に戦略予備兵団として駐屯していた第七師団を抽出して、第六軍に増加配属し、乾坤一擲の大会戦をする決意をかため、八月二十五日、各師団に対して応急派兵を命令した。
 当時、第二師団(長・安井勝治中将)は、司令部を牡丹江東方の液河におき、主として東部ソ満国境方面の防備にあたつていた。そしてわが歩兵第十六連隊(長・宮崎繁三郎大佐)は、兄弟連隊である歩兵第三十連隊(長・柏徳大佐)とともに、液河東方の風光明媚の地である穆稜に駐屯し、その第三大隊(長・大橋市伊少佐)を、優良炭坑の所在地である梨樹鎮に分屯させていた。
 歩兵第十六連隊の編成は、本部、歩兵三大隊、通信一中隊、連隊砲一中隊、速射砲一中隊に分れ、さらに歩兵大隊は、歩三中隊、機関銃一中隊、大隊砲一小隊(二門)に分れ、歩兵一中隊の人員は人員約一〇〇名、機関銃一中隊は重機六挺、連隊砲および速射砲一中隊は、それぞれ砲四門をもつていた。
 これはまつたくの平時編成で、人員は、留守残留者などのため、実際にはさらに少なくなつている。が、このほかに、なお第八師団から速射砲一中隊(三門)が増加配属されていた。
 連隊長は、八月二十五日の夜、応急派兵の命を受けとるや、ただちに将校全員を集めて戦時命課を伝え、「平素の訓練の真価を発揮するはまさに此秋にあり」と激励し、かねてから計画してあるところに基づいて、順調に派兵を完了した。梨樹鎮にあつた第三大隊には、電話で命令を伝え、特使を派遣した。
 そして連隊は、三列車に分乗し、命令どおり八月二十八日、穆稜および梨樹鎮を出発し、途中、液河で師団司令部と連絡のうえ、一路西進した。


最前線へ急行

 第二師団の主力は、ハイラル方面に前進し、歩兵第十五旅団(歩十六および歩三〇)および野砲兵第二大隊は、片山支隊(長・片山省太郎少将)となつて、ハンダガヤ方面を強化するために、白温線方面に進出を命じられた。
 わが歩兵第十六連隊は、片山支隊の先頭部隊として、穆稜―昻々渓―白城市―ハロン・アルシャン温泉間を、三晩四日かかつて八月三十一日鉄路で到着した。
 下車と同時に、
「小松原兵団(第二十三師団)は危急に瀕す、貴兵団はドロト湖西北方地区に急進すべし」との軍命令に接した。
 長途の非常列車輸送で、人馬とも相当に疲労しており、休養と今後の前進準備のために、すくなくとも、一日の滞在を適当とする状態にあつたのにもかかわらず、この軍命令に奮起して、連隊長は、
 一、ノモンハンの友軍は危急に瀕しありて、わが連隊の到着を、一日千秋の思いにて待ちあり。
 二、連隊は、万難を排してドロト湖西北方地区に向かい急進する。
 三、各部隊は、ハロン・アルシャンに到着、下車部隊毎に即刻先任者の指揮をもつてドロト湖西北方地区に向つて急進せよ。
 注意・落伍者あるも意に介することなく急進を敢行すること。
 という命令を下し、到着する部隊ごとに、まつたく休養をとることなく、昼夜兼行で勇躍急進していつたのである。
 こうして歩兵第十六連隊は、ハンダガヤを経て、まる三日をもつて目的地に到着した。落後者も相当数あつたが、一日以内で、そのことごとくが、それぞれその原隊に追いつくことができた。
 この行軍中にも、連日にわたつて、遙か西北方にあたり、殷々たる砲声を聞き、将兵一同、血わき肉躍るの感があつた。ときには敵機がわが頭上を飛来することもあつたが、敵機による損害は、殆んどなかつた。
 その後、わが連隊の進路を、各部隊の友軍が利用して前進したのだが、某師団のごときは、わが連隊が、三日で前進した距離を、一週間もかかつて、ようやく前進したほどである。
 歩兵第三十連隊は、わが連隊につづいて前進し、九月四日、片山支隊の命令にもとづいて九七高地に進出し、同地附近を防備していた満軍と交代した。
 そして片山支隊は、軍命令にもとづいて前頁のように兵力を配置し、勇躍、戦機を待つていた。


九九七高地夜襲戦

 わが連隊の当面の敵情は、だいたい上図のとおりだが、連隊長は、その敵情、地形、ならびにわが軍の兵力の関係上からおして、当面の敵を攻撃するためには、夜襲にかぎると判断して、そのための「準備周到」をモットーとして、夜襲実施に関する諸準備を十分にした。
 つまり敵陣地の状況を各方面からよく偵察し、その写真図をつくつて、これに詳細に符号、註記を附し、これを連隊の全将兵に、徹底させ、さらにかねての計画どおり、夜襲実施部隊にその任務を決定した。そして、さらに細部にわたつて敵情や地形を詳細に偵察させ、命令一下、何時たりともただちに、実行にうつることができるように、万全の処置をして、時機の到来を待つていた。特にわが企図の秘匿には、細心の注意を払つていた。
 連隊からもたらされた、当面の敵陣地に対する夜襲準備完了の報告にもとづいて、片山支隊長は、その旨を軍司令官に報告したところ、夜襲実施の認可があつたので、連隊は、いよいよ九月六日の夜を期して、待望の夜襲を決行することになつた。連隊の意気はまさに天をつくの感がある。
 ところが、六日午後にいたつて、「本夜襲は中止すべし」という軍命令があり、まつたく出鼻を挫かれた。ところが、さらに翌々八日午前、軍の参謀が「歩兵第十六連隊がさきに準備した夜襲は、本夜決行すべし」という軍命令を、片山支隊司令部にもたらした。
 連隊長は、軍の無方針なることに痛嘆を感じたが、もちろん、放つておくわけにもいかず、この軍命令にもとづいて、ただちに左記要旨の連隊命令をだした。
 一、敵情別紙要図の通り(略)
 二、連隊は本八日夜、主力をもつて九九七高地を、一部をもつて秋山高地を奪取する。
 三、第一大隊(長・源紫郎少佐)は、日没後、出発して九九七高地を奪取すべし。
 四、第五中隊は、日没後、現在地を出発して秋山高地を奪取すべし。
 五、右両第一線部隊の敵陣地への突入は、午後十一時と概定す。
 敵陣地を奪取した後は、すみやかに工事を実施し、明払暁後における敵の恢復攻撃を拒守すべし。
 六、連隊砲中隊と速射砲中隊は、主として第一大隊の戦闘に強力すべし。
 七、第二大隊(第五中隊欠)は、予備隊となつて、現在地附近に位置すべし。
 八、予は現在地にあり、日没後、本部は高地に至る。
 右連隊命令にもとづいて、第一線へ出る各部隊は、できるかぎり企図を秘匿しながら、さらに具体的な準備をかさね、いまかいまかと日没を待ちこがれていた。
 第五中隊(長・秋山竹次郎中尉)は、予定のとおり日没後行動を開始し、たいした敵の抵抗もなく、順調に秋山高地を奪取することができた。連隊長は、午後十一時直後、第五中隊の夜襲成功の信号をみとめた。
 第一大隊は、次頁のとおりに兵力を配置して、日没とともに行動をおこした。
 第二中隊(長・小田中尉)は、第一大隊主力の第一線部隊として、要図のとおり、遠く九九七高地の東方高地の裾をへて、ハルハ河畔に進出し、これに沿つて敵陣地の真右側に迂回して、敵兵が山頂の陣地から、ハルハ河の水汲みに往復運搬する通路をたどつて、山頂に向つて突進した。
 ハルハ河畔の近くに、敵の馬繋場があり、七、八頭の馬が繋留されていたが、これに目をくれることもなく前進する。山腹に、ところどころ敵兵が天幕を張つて露営しているのを、一部をもつて、これをつぎつぎに襲撃させ、主力は山頂目がけて猛進した。先頭小隊長の桜井少尉も率先して奮戦し、敵兵三名を斬殺したが、みずからも敵の手榴弾のため、惜しくも壮烈なる戦死を遂げた。
 第三中隊(長・上田中尉)方面は、比較的順調に夜襲がすすんでいたが、山頂に近づくにしたがつて、敵の抵抗はしだいに猛烈となり、夜襲はまつたくの強襲となり、熾烈な重軽機の発射音、および手榴弾、擲弾筒の破裂音などで、九九七高地一帯は騒然として阿修羅場と化し、翌九日の午前三、四時ごろまでは、勝敗容易にきめがたき状況であつた。
 敵はさかんに各種の信号弾を発射し、九九七高地より東山高地――九〇四高地、さらには遙かハルハ河左岸にまで連なる信号弾をつぎつぎと逓伝式に発射して、最右翼の重要な拠点九九七高地が、危急に瀕していることを通信していたらしい。
 戦後にいたつて、関東軍特情班の語るところによれば、敵はこの時、SOSを生文で無線発信していたとのこと。わが連隊の奇襲に対して、敵がいかに狼狽していたかがうかがわれる。
 その後、第一大隊将兵の奮闘によつて、しだいに敵を圧倒し、九日の払暁にいたつて、本部の高地から望見すると、敵兵のしだいに敗退していく状況が、じつに手にとるように眺められた。
 こうして敵は、後方の東山高地の陣地に拠りつつあり、しかもその動揺ぶりを眼のあたりに見て、連隊長は、待機させていた予備隊の第二大隊(長・尾ノ山助太少佐)を東山高地に向つて前進させれば、敵を殲滅することができると判断し、「第二大隊は、すみやかに東山高地に向い、敵を攻撃すべし。第五中隊は、一部を現陣地にのこし、主力は、原大隊に復帰すべし」と命令した。


敵戦車軍と悪戦苦闘

 第二大隊は、身をおおいかくす一物もない大草原を、第五、第六を第一線として、じつに整々堂々と攻撃前進していた。
 しかし第一線が、東山高地の前方、数百米に接近したころ、(九九七高地奪取後、約十時間)はるか九〇四高地の西方から、敵の戦車が、陸続とわが方に前進してくるのが望見された。
 その数二十台となり、三十台となり、たちまち五十台以上となる。
 敵は、昨夜、重要拠点の九九七高地を失つたので、これを奪回しようとして戦車群を急派したものらしい。
 連隊長は、第一大隊および速射砲、速射砲中隊に対して、可能なかぎり第二大隊に協力して敵を撃滅することを命じた。
 当時、群りきたつた敵の戦車は、百数十台となり、わが第二大隊に接近して、いつせいに砲撃を開始する光景は、じつに凄絶の極であつた。
 こうして敵の戦車が砲撃を開始してから十分たらずして、正面の幅約六キロの戦線は、たちまち火の海となり、全戦線は、もうもうたる大煙幕に覆われてしまつた。ただその煙幕の間隙に、敵の戦車数輛ずつが、右往し左往するのが望見できるのみであつた。
 これはノモンハンの戦場が、一面の草原で、水分が非常に少ないために、生木生草といえども非常に燃焼しやすいので、敵戦車砲弾の炸裂が、たちまち引火して燃えはじめていたのである。
 敵は主力をもつて、わが第二大隊に対して攻撃をかけ、第二大隊は、猛火のなかでこの大敵に対して、悪戦苦闘をつづけている。
 わが連隊は、敵の戦車攻撃に対して、かねてから準備していた肉迫攻撃班を多数派遣したが、たちまち敵戦車砲や同機関銃のためにたおされて、実効が非常にすくなく、擱坐させえたのは、ただ二輛だけであつた。
 しかし、わが連隊砲および速射砲は、敵砲兵の猛火をおかして、よく敵の戦車を射撃し、ついにその六輛を炎上、擱坐させた。
 連隊長のもとには、もはや旗護兵五名と若干の伝令要員がいるだけで、ただこの情況を支隊長に報告する以外に、ほどこすべき処置がなくなつていた。
 ところが、幸いにも敵の戦車は、わが第一線の前方二、三百米以内には、絶対に近づかず、その位置に停止して、戦車砲と機銃で、猛射してくるだけである。したがつて、迅速に陣地を構築することのできた第五、第七中隊方面は、比較的に損害が少かつたが、第六中隊、第二機関銃中隊および大隊本部の位置していた附近は、岩石まじりの土質で、工事の実施が非常に困難だつたために、多大の損害を蒙つていた。尾ノ山大隊長、第二機関銃中隊長浅井大尉以下、百数十名の戦死者を続出させたのである。
 しかしながら、わが第一線の各部隊は、すべて堅忍持久、よくこの難敵と対戦して、一度占領した位置を、最後まで一歩もゆずらずに確保していた。
 九日午後四時ごろ、支隊の予備であつた歩兵第十六連隊の第三大隊および野砲兵第二大隊が、わが戦線に増加された。
 連隊長は、ただちに砲兵大隊に、わが連隊本部の位置する高地(本部高地と命名)西側附近に陣地を占領させ、敵戦車群の射撃を命じた。
 砲兵大隊は、急進して、所命の位置につくと、ただちに敵の戦車群に対して猛射を浴びせはじめた。そしてさらに歩兵第三大隊には、秋山高地南側方面から九〇四高地に向つて敵の左側を攻撃すべき命令をだした。
 第三大隊は、歩兵二中隊を第一線に、一中隊を第二線として、九〇四高地に向つて、攻撃前進を開始した。
 これを目撃した連隊将兵一同は、盤石の安堵感をえ、そしていよいよ、これから痛快きわまる戦闘が展開されるものと思つた。しかし第三大隊の第一線が、第二大隊の戦線附近に前進したとき、敵の戦車部隊は、西南方に向い、いつせいに退却をはじめてしまつた。
 わが砲兵大隊は、射程八〇〇〇米まで追撃射撃を継続した。
 第三大隊は、敵が退却を開始するやただちに追撃に移つたが、日没をもつて追撃を中止し、戦線の整理を命じた。
 その後、連隊は、第三大隊を第一線とし、その他を第二線として、これからの戦闘にそなえて着々と準備していたところ、日ソ両国間に停戦協定が成立し、九月十六日、突如として、戦闘中止の大命が下つたのである。
 このため、五月以来紛争を重ねたノモンハン事件も、この戦闘が最後のものとなつた。

満ソ国境確定の有力な証拠となつたノモンハンの岩石―2599(昭和14年)・9・8占拠、日本軍片山部隊とほつてある―筆者が占領記念に埋没したもの

 さて、停戦後、連隊長は連隊内の石工の心得ある者を集めて、岩石に上掲写真のごとく彫刻、これを占領記念として、わが第一線が占拠していた要点に、十数個埋没して帰還したのである。これが後日、満ソ国境確定委員会において、満州国側の有力な証拠となつた。つまり、わが連隊が、九月八日に夜襲をもつて占領した線が、満ソ国境と確定されたのである。

『丸』(昭和三十三年一月号)の六十~六十五ページまで引用

*補足(藤本)
 ノモンハン事件における歩兵第十六連隊の戦闘の模様を伝えている、ちまたの読み物は、ほとんどがこの『丸』(昭和三十三年一月号)に載った記事を参考に執筆されている。これ以上に詳細を述べている資料がないからだ。
  したがって、上記に引用した『丸』の記事に目を通しておけば、ノモンハン事件での歩兵第十六連隊の行動は把握できる。宮崎繁三郎中将のファン、または歩兵第十六連隊のファンでもない限り、本記事がもとになっている子引き・孫引きの文章などを無理に見る必要はない。


*補足二(藤本)
 本文中に(長・安井勝治中将)とあるが、正しくは(長・安井藤治中将)

『生と死の極限に生きて 十五年戦争最前線に新発田歩兵第十六連隊と共に
長谷川栄作

ノモンハン事変出動

 『昭和十四年七月十六日、応急派兵下令(*注・一)、八月二十七日ノモンハン事変参加のため穆稜站出発』
 八月二十七日、この日の北満は初秋であったが、暑い陽差しが営庭を照らしていた。
 応急派兵とは戦線に出動することである。若干の留守要員を残して完全軍装で営庭に整列した。連隊長、宮崎繁三郎は整列中央に駒を進め、馬上から次のような命令を口頭で自ら下達された。これは珍しいことである。通常は各中隊単位の命令受領者を集め、重要な命令は各中隊長を集め下達する。
 「只今より命令を下達する。連隊はこれより暴虐ソ連を膺懲のためホロンバイルの草原に出撃をする、前進」。
 命令はこれだけである。
 連隊長としては既にノモンハン事変の現況は具さに掌握をされておられたことと思う。というのは、宮崎大佐は後の大東亜戦争においてビルマ・インパール作戦において第五十四師団長のあと、烈兵団(第三十一師団)歩兵団長としてビルマ攻略戦に武勲をたて(*注・二)、ついで烈兵団の撤退に際しては、僅か五百名の手兵を率いて後衛となり、孤軍奮闘の任務を達成した勇将である。また高田連隊では蒋介石と同期生であったという。このように将来を嘱望された宮崎連隊長のことであり、当然本事変の本質を知っておられたことと思う。
 そもそもノモンハン事変とは何が原因でどうなったのであろうか。不毛の草原を舞台に一万八千余名の犠牲者を出したのである。我々がノモンハンの悲劇で学べきものは何か。我が連隊にあっても第二大隊が全滅をしている。これら戦友の名誉のためにも明らかな確証を得たいと思う。その全容を書いたら膨大な紙面を要する。この点は他に刊行書が出ているので概要にとどめる。
 ノモンハン事変、それは戦術とか装備とか、また指揮の巧拙ではなく、関東軍の考え方そのものによる。事の発端からボタンを掛け違えていたところに問題がある。即ち、島国日本人は陸地における国境というものについて正しい認識を欠いて、そしてそこに気付かないまま泥沼のような戦場に多くの将兵を送りこんで凄惨な近代戦が行われた。日本側はノモンハン事変と言っているが、モンゴル人民共和国の呼稱ではハルハ河戦争という。
 しかし出陣にあたっては何のために、の説明がない。我々は命ぜられところ黙々と行動をするだけだ。仮に説明されても自分の判断で自分の行動を左右する裁量の余地は与えられていない。
 この日、営門を出た将兵の約七百名は再び、この営内には帰らなかった。ホロンバイルの草原で三百台の敵戦車に踏みにじられ、赤い血で草原を染めて消え去ったのである。我が十六連隊がノモンハンに出動を命ぜられたのは事変が末期的な状況になったため、急拠の出動であった。従って、すべてが息つく間もない急々の行動である。
 ノモンハン事変は短い期間の戦闘であった。僅か一カ月足らずで一大隊が全滅し敗退したその意義は何であったのだろうか。

『八月三十日興安北省境通過、同月同日ハロンアルシアン着、九月七日より同月九日迄ドロト湖西南方地区の戦闘に参加、十月四日原駐地帰還のため興北省境通過、十月七日原駐屯地牡丹江省穆稜站着』
 国境最北の駅ハロンアルシアン駅は軍部の資器材でごった返しになっていた。下車するや否や荻洲立兵軍司令官命令で「一人でも二人でもよいから全速でノモンハン・ハルハ河畔戦場に到着せよ」という厳命である。七日到着、同時出発の強行軍である。夜通し二晩、一睡もしない。休憩をとって出発の声をかけると無遊病者(*注・三)のようにフラフラし、とんでもない方向に歩き出す。ハンダカヤに到着すると分隊員の半数は未だ着いていない。二日目の夜半になってようやく全員を掌握できた。
 私の分隊に島倉辰二、一等兵がいた。彼は射撃をやっても剣術をやっても、鉄棒はぶら下がりっぱなし、何をやっても人並みの訓練が上達をしなかったが、この緊急な行軍には終始分隊の先頭に立って歩いた。どんなに技術や頭脳が優れていても命ぜられた時間に、戦場に到着をしなければ戦力にはならない。彼の行動は大きな教訓となって、それからの兵の管理に役立たせることが出来た。
 一望千里、まさに緑の地平線、ホロンバイルの草原である。十六連隊がノモンハンの戦線に到着したときは既に先着部隊はハルハ河畔において死闘を繰り返していた。我が青葉兵団(十六連隊の防牒名)の任務は先ずソ連軍をハルハ河以北に阻止することにあった。穆稜站は残暑で暖かい陽が照っていたが、ここは北緯五〇度だから一〇度の緯度差があり、既に初冬に近い気候になっている。
 到着後の最初の攻撃目標は九九七高地である。夜間攻撃のため日暮れを待って接近し、一挙に突撃をする計画である。その直前、軍司令官からのものだとする魚のみりん漬けと焼酎という今までに経験のない御馳走が渡された。そして午後九時頃、突撃の前進をした。何しろ酒を飲んでいるので呼吸が荒く静粛行進にならない。
頂上に達したが幸いに敵は早々に退散していて白兵戦には至らなかった。
 私は翌日、次の命令をうけた。
 「第一中隊第一分隊長、長谷川栄作は兵三名と共にハルハ河に急進をしてハルハ河の橋を爆破すべし」
 早速準備を整えて出発しようとするところに、第四分隊長で私の同期である佐渡郡岩首村豊岡出身の中村諦一郎軍曹が
「長谷川、お前は退院後で体力的に無理だから、俺が代わって行く」
 と言ってきた。
 命令を受けたのは俺なんだから、途中どうなろうとも行かねばならない。そんな押し問答の末、中隊長の決裁で中村軍曹が交代することになった。幸いにも出発直前に敵の戦車が既にハルハ河を渡り前進中との斥候からの報があって爆破行は中止となった。
 決して手柄争いではなく、あくまでも中村軍曹の戦友を庇ってのことであった。それにしても死ぬかもしれない危険な作業隊である。俺が代わって行くと言ったあの中村軍曹の友情は、入隊以来起居苦楽を共にしてきた生活の中から育ったものである。このとき私は、いつかの戦場で中村軍曹に恩を償って返さねばならないと決心をした。
 その後、大東亜戦争、そしてジャワ作戦を経て共にガダルカナル島作戦に参加、ヘンダーソン飛行場奪回も空しく敗退、沖川の線に撤退したとき、私と中村諦一郎曹長、中村勤軍曹、飯塚軍曹の四人が久しぶりに陣地の安らぎを覚えるような静かな陽のあたる樹間に座って、食べもの、冷たい水等のことを楽しく話をしていると、突然敵の迫撃砲が射ち込まれ、中村諦一郎君は即死、飯塚綿作、中村勤の両君は負傷、なぜか私だけ無傷で助かった。
 これも運命の定めか。残念なことに命をかけて決死隊を代わってくれた中村君には何の恩返しもしないでしまった。機会を失ったことを悔やんでも中村君は帰ってこない。このことは生涯私の脳裏から消え去らない貴重な財産であり、尊い想い出である。
 中村君のことをさらに述べたい。平成六年八月三十日、現在の住所は佐渡郡両津市豊岡と変わっている諦一郎君の墓前をわたしは訪れた。幸いに良い弟さんに恵まれていたことが何よりと安心した。
 兄弟は他人の始まりというが、諦一郎君は諦二郎さんという兄思いの弟さんご夫妻がおられた。しかも諦二郎氏は両津市の市役所職員を一昨年定年退職をされると、どうしても兄が戦死したガダルカナル島に慰霊巡拝をしたいと、行ってこられた。私は同行できなかったが、いろいろアドバイスを申し上げた。
 私はお墓をお参りをした際、私が死んだ場合、分骨を是非、諦一郎君の墓にも入れて貰いたいとお願いをしたところ、諦二郎さんの心よりの御理解を賜ってきた。このことは遺言として認めておきたいと思う。
 ことある度に美しい友情を想い出すとき、今生の苦しみも、死に対する考え方にも何の拘りがなくなる。

  我がいのちいつ果てるも悔いはなし
  戦さに逝えし友を想えば
                        七十七歳辞世の覚り

 そして、その後九九七高地を占領、我が第一分隊は同高地に布陣を命ぜられた。
 陣地構築には、表面は草が生えて土のように見えるが中は板状の岩が重なり合ってスコップだけではなく十字鍬を使って掘らなければならないような土質だった。
 九月九日夜のこと、故郷の鎮守様の宵宮の晩だなあと思って壕の中に入っていた。寒さが身に沁みる夜半のことである。歩哨が壕の中がおかしいと報告に来たので早速調べてみると分隊全員が眠りこけ、おかしな臭いが鼻をついた。予め配った木炭の中毒であった。壕の上には携帯天幕を張って、壕の中で墨を焚いたためのガス中毒であった。分隊員全員を壕外に出して服を開いて、草原に降り積もった雪を胸の上において手当てをした。仮死状態になっているが、中毒症状から覚めるときは大変苦しんだ。佐渡郡八幡村出身の後藤俊策は苦しみながら「お母さん」と呼びつづけた。後年になって思い出話になると恥ずかしがっていた。
 終戦後、私は佐渡に後藤氏を訪ね、お母さんにお会いもしたが、助けを求めるにふさわしい立派なお母さんであった。氏が八幡村の助役当時のことである。後藤氏は五十三歳で早逝された。
 その翌日は寒い日和であった。ハルハ河方向からソ連軍の戦車が続々と前進して来るのが見える。その数三百輌ともいわれ眼下に布陣していた第二大隊に襲いかかった。我が方には防戦する機械化部隊も何もない。歩兵部隊が展開しているだけである。
 九月十日は、轟音と号砲に包まれた草原の地獄絵である。こんなことが、こんな無策な戦術があってよいものか。終日の猛攻によって日が暮れて残るのものは静けさだけ。
 目口をあけられない敵戦車の猛攻に対し、次から次へと包囲攻撃を繰り返す装甲の厚い敵戦車に対し、我が軍の三八式歩兵銃、九七式機関銃(*注・四)、数少ない大隊砲だけでは何も出来なかったであろう。第二大隊の布陣地は、私達の分隊陣地から一キロ位離れていた平坦地帯であり、九九七高地の眼下にあった。対戦車砲も飛行機も対戦する戦車も何もない。昼日中、敵の思いのままの戦いを眼下にしながらどうにもならない。手の施しようもない魔の一日であった。
 我が陣地にも時折、地面すれすれの低空でミグ戦闘機(*注・五)が飛んで来たり、砲弾が射ち込まれるだけだが、第二大隊の攻防を見ていると自分達が攻撃されているように痛痛しい。夕方から日暮れに残った静けさは全く死の静けさである。おそらく第二大隊陣地は戦友の屍で埋もれていることだろう。結果は全滅であった。
 こんな無謀な戦闘があってよいものか。敵は第一陣を突破すれば必ず第二陣である我々の陣地にも殺到するものと考えていた。あれだけの飛行機が偵察をして、砲弾も射ち込まれている。我々の陣地は手にとるように分かっている筈である。しかし敵は深追いをしないままハルハ河対岸に撤退した。
 その頃、関東軍は既に戦車、航空兵力は無く、従って制空権も地上火砲力もなくなっていたという。どうしてそれが分かっていながら無謀な作戦行動をとったのか。このことについては『元満州国外交官の証言・ノモンハン』(北川四郎著)に詳しく書いてある。

 九月十六日午前二時、日ソは停戦合意した。従って敵戦車の撤退をした頃はノモンハン紛争発生地域の「満蒙国境確定混合委員会」において交渉体制が発足、既に指令が出ていたらしかった。
 停戦に伴って九月二十七日、萬州里(*注・六)と向かいあっているソ連・マッフスカヤ(*注・七)に於いて、藤本少将を団長とする捕虜交換を行うことになった。最初は源少佐も行かれる予定であったが背丈が低いということで第二大隊の小野口少佐が加わった筈である。連隊で三名の捕虜該当者があったが、原隊には戻らなかった。その後我々には知らされることはなかった。
 平成四年二月二十三日、ノモンハン事変より五十四年後のことになる。ソ連崩壊後初めて東京のホテルで開催された「ノモンハン・ハルハ河戦争シンポジウム」で、ソ連の戦史研究所のワルタノフ部長(大佐)によって同戦争の捕虜の様子が明らかにされた。(*注・八)
 それによると、十六連隊関係では「ワタナベ兵長」という捕虜名簿が発表されたが、名前までは触れていない。
当時本人の実名は登録されてなく、全部偽名であったことは聞いていた。
 捕虜については当時武人のもっとも恥ずべきものと教育され、本人の意向もあり他部隊に転属されたものと思う。
 限られた一カ所の陣地で、しかも短時日で六百名に近い戦死者と行方不明者多数という大敗北となった。この戦いに於いては少年航空兵出身の優秀なパイロットが殆ど壊滅的な打撃を蒙った。少年航空兵出身の私の従兄弟もこの戦いで戦死した。
 私はこの事変直後、第一大隊本部付となった。
 第一大隊は、源紫郎少佐の指揮下である。第一、第二、第三中隊、第一機関銃中隊、第一大隊砲をもって編成されている。本部要員の渡辺春松氏が准尉に進級されて一般中隊付となったことによる異動である。その後任には乙書記である今井重松曹長が甲書記に昇格、私が乙書記になった。転出された渡辺准尉は温厚で大隊長に大変信任厚く、手離したくなかったとおっしゃっていた。私も中隊当時渡辺准尉にはかわいがって貰った。前歯に金の入れ歯があり、足は偏平足であった。残念ながらガダルカナル島戦で戦死された。
 原駐屯地帰還後、歩兵部隊にパイロットの補充要員を求めてきた。私も航空兵として適切な素質があると奨められたが、源大隊長が許さなかった。人の運命は分からない。もしも航空隊に転向していたら恐らく生存することは不可能であったと思う。
 ノモンハン事変は命令とはいいながら、このような惨敗をし、多くの戦死者を出した宮崎連隊長の胸中がどんなものであったか察せられるものがある。後年ビルマのコヒマ攻略後の撤退作戦で見事な援護部隊を指揮されたとき、絶対に将兵を無駄死をさせてはならないと誓って名将の名で讃えられたが、脳裡には既にこの作戦があったことと思う。終戦後十六連隊原駐地、新発田市のしまや料亭で御一緒したとき、それなのことに言及されていた。

『生と死の極限に生きて 十五年戦争最前線に新発田歩兵第十六連隊と共に』の九十三~百六ページまで引用

***

ノモンハンの惨劇

 悪夢のようなあの日、昭和十四年九月七日。草原に展開された惨劇は事変五十六年後の今日も鮮烈に脳裏から消え去ることはない。
 ホロンバイルの草原は晩秋から初冬を迎えた物悲しい季節であった。九月七日は既にハルハ河を渡った敵戦車が砂塵を立てて前進をしている。これを迎え撃つ我が軍には戦車も飛行機もない。敵の飛行機は草原を這うように我々の頭上をかすめていく。この近代戦に対して我々は素手で向かっていくようなものである。
 早朝より続々とハルハ河を渡り前進してくる敵戦車の前面に陣地を展開しているのは、我が連隊の第二大隊である。間もなく第二大隊は敵戦車により完全に包囲捕捉されていった。我が第一大隊の布陣している九九七高地より、直距離で約四キロメートル先方の平坦地が悲劇の戦場である。
 その様相が見える。敵戦車砲、機上掃射の下で恐らく草原は血で染まっているのであろう。終日続いた。我々はなす術もなく見守るだけであった。次は我が陣地に迫ることになるだろう。息をつめて自分自身の戦いでもあるように目を離さなかった。
 恐らく百台以上の戦車であろう、M四型戦車(*注・九)は、装甲も厚い重戦車である。我々が想定をしていた爆薬量では破壊出来ない。その戦車に対して、我が軍の装備ではどんなことをしても戦えない。あの轟音の中で、どのように闘っているのだろう。濛々と立ち籠める煙と砂塵、敵戦車の意のままに蹂躙されているのであろう。あれでは一人でも生き残れない。
 こんな戦いは戦闘ではない。歩兵部隊を機甲部隊の眞只中に放り込んだも同様にして、なんらの支援方法もとらない。日本の軍隊ではない。日本の軍事機構はどうなったのか、作戦指揮の機能は何を考えているのか、日本の国全体が崩れ去ってゆくように思える。将兵は一人一人狙い撃ちされ、或いは戦車の轍に踏み殺されているに違いない。これが国境を守る手段なのか。世も終わりだと思った。第二大隊は全滅をした。
 北支事変の戦闘とは全くその様相が違った。僅か一日の戦闘で一ケ大隊が全滅をしたのである。
 ノモンハンは、興安省、興安山脈の果てるところ、ボイル湖に近く、そこを水源とするハルハ河畔に位置する。そこは山脈が終わり、果てない雄大なる草原である。この地で国境線をめぐって日・満両軍対ソ連・モンゴル両軍の間で、双方の死力を尽くした凄惨な近代戦が闘われた。日本側はこれをノモンハン事変と呼び、モンゴル人民共和国ではハルハ河戦争と呼稱した。
 この戦闘の価値をどう評価すべきか。この悲劇はなぜ起こったのか。事変の発端第一は権威ある元満州国外交官の証言によれば、日ソともに国境戦に関わる錯覚から起こったとしている。
 ロシア人がハルハ河を国境とした理由はなぜか。それは彼らが清朝の行政区界を知らなかったとしか考えられない。おそらく一七二七年のキャフタ条約第三条によるものだろう。それによれば山脈、連山および河川の存するときは、これらを境界線を定める、という条項を勝手に準用したものと思われる。国境がそうであるからといって、他国内の行政区界をそのように解釈することは、甚だしい誤りといわねばならない。
 次に日本側は、この問題について大正元年~同七年の間、参謀本部の臨時測図部がこの方面を測量した。その時の十万分一地形図の国境はハルハ河となっており、その後日本軍の手によった大部の編さん図の国境線もハルハ河とされている。しかし同書の「大興安嶺、同東西地区、その他に関する兵要地誌調査」を調べると、ハルハ河流域は、はいっていない。いずれも視察だけによる情報測図、またの名を記憶測図程度のものであり、確度のない未測図だったという。
 その他、モンゴル側には、チンギス・ハーン以来の蒙古民族としての領有権等が交錯して、釈然としない国境線をめぐっての事変と言っている。勿論国家にとって、多少に拘らず領土というのは基本的要件であり、戦争の要因となり得る。日本軍としては当時の情勢からして満州軍と共に満蒙国境線を確保するため、受動的に反撃するを止むなきに至った。他にも複雑な問題もあったようであるが、要約をすればこのようである。
 さてそれにしても、あの地理条件のもとで、ソ連・モンゴル軍に対し、日満軍といっても満州軍の軍備の程は全く分からない状態の中、あの草原に裸同然におかれて、まさに互角どころか、近代兵器による瞬時の戦闘によって、草原の露と消えた第二大隊の将兵の無念さを思うととき、胸が痛む。
 戦争の原因が、一言で言えば「日本の為政者が国境というものを知らなかった」という単純なものであったとしたならば、今後の国家運営に大きな示唆を与えたものとして評価をして貰いたい。
 結局その後、満蒙国境確定会議は十数回にわたり紆余曲折、昭和十六年まで持ち越され、駐ソ建川大使とモロトフ外相間で折衝され、同年八月十七日ハルピンにおいて総合議定書が調印、文書が交換された。(*注・十)
 このようにして陸地の国境認識を持たない日本が満州国において、古い歴史的な背景のある国境問題に介入をして多くの犠牲を払っての決着を得たことになった。これがノモンハン事変の経緯であった。

『生と死の極限に生きて 十五年戦争最前線に新発田歩兵第十六連隊と共に』の二百二十三~二百二十七ページまで引用

*補足(藤本)
 本文中に(*注)とある箇所は、藤本が書き加えたものである。原文に(*注)という表記はない。


*補足二(藤本)
 以下、藤本の注記。

(*注・一) 歩兵第十六連隊に応急派兵の命が下ったのは八月二十五日。七月十六日ではない。

(*注・二) 「第五十四師団長のあと、烈兵団(第三十一師団)歩兵団長としてビルマ攻略戦に武勲をたて」とあるが、事実と異なる。宮崎中将は第三十一師団の歩兵団長を務めた後に第五十四師団の師団長を務めている。

(*注・三) 正しくは夢遊病者。

(*注・四) 九七式自動砲のことか。

(*注・五) ノモンハン事件当時にミグ戦闘機は存在していない。著者としては、I-16戦闘機あたりを指して述べているのであろう。

(*注・六) 正しくは満州里。

(*注・七) ほかにマチエフスカヤ、マツイエフスカヤ、マツェフスカなどの表記がある。

(*注・八) 「ノモンハン・ハルハ河戦争 国際学術シンポジウム」は、平成三年五月二十二、二十三の両日に開催されている。平成四年二月二十三日ではない。そして、ソ連戦史研究所研究部長のワルターノフ大佐は、シンポジウム一日目の五月二十二日に講演をおこなっているので、平成三年五月二十二日と表記するのが正しい。
 また、当シンポジウムの開催前にソ連邦は崩壊していない。「ソ連崩壊後初めて東京のホテルで開催された「ノモンハン・ハルハ河戦争シンポジウム」」という箇所は改める必要がある。
 本文中にある「ノモンハン事変より五十四年後のことになる」という箇所も、「ノモンハン事変より五十二年後のことになる」という表記が正しい。

(*注・九) M四型はアメリカ軍の中戦車で、ノモンハン事件当時には存在していない。著者としては、ソ連軍のBT-7快速戦車あたりを指して述べているのであろう。

(*注・十) 昭和十六年八月十七日は国境標識の建設が完了した日時。総合議定書と付属文書は同年十月十五日にハルビンにおいて署名調印されている。


『名将宮崎繁三郎 不敗、最前線指揮官の生涯
豊田 穣

ノモンハンの石

 宮崎の名前は、ビルマ戦の名将として有名であるが、ノモンハンでの善戦ぶりはよく知られていない。防衛研修所編の戦史叢書『関東軍1・対ソ戦備、ノモンハン事件』は、八百ページにのぼる大冊であるが、宮崎の十六連隊の活躍に関しては、
「片山支隊(十六連隊が所属していた)は、九月に入ってから、一時、関東軍の指導によって行動をひかえたが、八日、九日にわたって、当面の外蒙軍騎兵師団に対して果敢な夜襲を展開した。歩兵第十六連隊(長・宮崎繁三郎大佐、のち中将は、たちまちにして優勢な外蒙軍騎兵を撃破し、こうしてこの方面の戦略態勢は、急速にわれに有利となった」
 と数行書いてあるだけである。
 では、宮崎の十六連隊は、どのように戦ったのか。『新発田連隊史』と『十六連隊・九〇四高地(ドロト湖南西約二十四キロ)付近戦闘詳報』によって、その実戦のようすを見てみよう。
 前述のように穆稜にいた十六連隊は、ノモンハンに急行することを命じられ、八月三十一日、ハロンアルシャン(ノモンハンの南東百キロ)の基地に集結した。
 ノモンハンでは十六連隊は、片山省太郎少将(二十二期、歩兵第十五旅団長)の指揮する片山支隊の中に入って戦った。ほかには歩兵第三十連隊(高田)野砲兵第三大隊が、この支隊に所属していた。
 ハロンアルシャンに到着した宮崎の十六連隊は、片山支隊に、つぎの命令が出ていることを知った。
「小松原兵団は危急に瀕す。貴兵団はドロト湖西方地区に急進すべし」
 かねて七月以来、ノモンハンにおける関東軍の苦戦を聞いていた連隊の将兵たちは、「いよいよ二十三師団の仇を討つのだ」と勇み立った。八月二十五日夜、十六連隊に応急派兵の命令が下ったとき、宮崎は将校全員を集め、
「平時訓練の真価を発揮するは、まさにこの秋にあり」と強く激励したのであった。
 十六連隊は関東軍命令によって、ハロンアルシャンに到着後、休むことなくドロト湖に向かうことになった。まさしくこのころ、バルシャガル高地やノロ高地では、各部隊の玉砕や部隊長の自決がつづいていたのである。
 穆稜からの移動で疲労の色の濃い部下を前に、宮崎はつぎの連隊命令を出して、勇気を奮い起こさせて戦場に向かうことにした。

 連隊命令
 一、ノモンハンの友軍は危急に瀕しありて、一日千秋の思いにて、わが連隊の到着を待ちつつあり。
 二、連隊は万難を排してドロト湖西方地区に向かい前進する。落伍者あるも意に介することなく急進を敢行すること。
 こうして連隊主力は、九月一日正午すぎ、ドロト湖南西四キロの地区にいたった。この地点では片山支隊長が待っており、先行した宮崎連隊長は、わが連隊の目的は、南西正面の敵(ノロ高地などで森田部隊などを撃破した)を攻撃する。敵は狙撃(日本の歩兵)三個師団半、機械化部隊五個旅団で、目下陣地を構築中である、というような情報を部下につたえた。
 この段階で、敵はハルハ河の東、ホルステン河の南の一帯(ノロ高地やヨヨ高地を含む)の日本軍を圧倒し、将軍廟にせまる勢いをしめしていた。
 これに対し関東軍は、すでに参謀本部から中島次長がきて停戦を講じている段階ではあるが、できるだけ停戦協定を有利に持ちこむために、ソ蒙軍を押し返しておこうと、八月二十五日、満州国の東正面を守備していた第二、第四師団、それにチチハル付近に戦略予備兵団として駐屯していた第七師団に、ノモンハンへの急派兵を命じたのである。
 停戦協定の条件をよくするという理由はあったが、そこには例によって関東軍の参謀たちの面子があった。遅ればせながら、関東軍の全力を投入して、ソ蒙軍に目にもの見せて、関東軍の威力をしめしてやろうという考えがそこにあった。彼らは激戦四ヵ月にしてやっと、兵力の逐次投入では、ソ蒙軍を駆逐できないことに気づいたのである。
 宮崎の十六連隊の任務は、当然、このホルステン河南方地区の敵を駆逐して、わがほうが国境だと主張しているハルハ河の線まで敵を押し返すことである。
 ドロト湖への行軍の途中、九月一日になってからも、十六連隊の将兵は西の方に、激しい砲声を聞いた。
「友軍が戦っているな。二十三師団か、それとも関東軍の砲兵連隊か?」
 そう考えながら、兵士たちは歩いたが、まさかその作戦が、多くの部隊長を自決させ、ホルステン河の北と南で、各部隊が玉砕に近い損害をこうむっているとは、神ならぬ身の知る由もなかった。
 九月四日、兄弟連隊の第三十連隊がドロト湖の基地に到着することになり、片山支隊長は、六日を期して、夜襲を行ない、ホルステン河南方の敵のうち、とくに南渡(ノロ高地の西南西三十キロ)に橋をかけて、北に越境している敵を攻撃することになった。
 宮崎は、さっそく部下をつれて地形の偵察に出かけた。
 この橋(南渡と呼ぶ)の東に、有力な見張りの基地と見られる三つの高地がある。これを西から南山、東山、九九七高地と名づけた。南山の北に秋山があり、その東に二本松高地がある。
 宮崎は、まず連隊主力を二本松に進出せしめ、ついで尾ノ山少佐の第二大隊に秋山を攻撃させ、源紫郎少佐の第一大隊を東山に向かわせ、べつに第一大隊第一中隊(長・伊藤今朝長中尉)に九九七高地を攻撃させることにした。
 四日、片山支隊長は、つぎの旅団命令を下した。
 一、旅団は敵の当面に牽制する目的をもって、八八五高地に秋山の西(三十連隊の担当)より九九七高地にわたる敵陣地に対し攻撃を準備せんとす。
 二、十六連隊は一部をもって九〇四高地(秋山高地の西)付近を奪取するための準備をなすべし。
 三、現在地出発は六日、日没後とし、攻撃実行時機は、七日前夜半と予定す。
 四、合言葉は山と川とす。
 このため宮崎は十六連隊命令を発し、「準備周到」をモットーとして、地図のほか現地の写生図を各隊長に配るなど、夜襲の準備を進めた。十六連隊は日清戦争以来の歴戦の部隊であるが、シナ事変では昭和十二年に熱河から大同、太原に転戦したほかは、ノモンハン事件のときまで東満の穆稜に駐屯していたので、かならずしも実戦の経験者が多いとはいえなかった。
 そこで宮崎は穆稜で、熱河省で行なった劉家口や新開嶺の夜襲の経験を活かして、部下の猛訓練を行なってきたので、夜襲にかんしてはかなりの自信を持っていた。
 五日、十六連隊の任務は秋山、東山、九九七高地の攻撃、と変更されたので、宮崎はいよいよ張り切って、部下を激励した。
 ところが、六日になると、関東軍から、「夜襲を中止すべし」という命令が出されたので、宮崎はがっかりした。三日には参謀本部から、「ノモンハン方面における攻勢を中止すべし」という命令が出ていた。
 関東軍はなおも、「各戦場には数千の遺体あるにつき、この収容を終わるまでは、作戦行動を許可されたし」と意見具申をしていた。それで片山支隊の夜襲も、一時見送りとなったのである。
 そして六日、参謀本部は関東軍の意見具申を却下したが、関東軍はなおも戦闘継続をねらって、八日午前、片山支隊に、「先の夜襲は今夜行なうべし」といってきた。
「どうも関東軍の方針はぐらついているな。やるならやるで参謀本部を説得すべきだ」
 宮崎はそうつぶやいたが、もともと上層部に不平をいわない男なので、あらためて連隊命令を出した。

 連隊命令
 一、連隊は本八日夜、主力をもって東山高地、一部をもって秋山高地および九九七高地を奪取せんとす。
 二、第一中隊(機関銃一小隊を付す)は九九七高地を奪取すべし。
 三、第一大隊は東山高地を奪取すべし。
 四、第五中隊(長・秋山竹次郎中尉)は秋山高地を奪取すべし。
 五、第二大隊は予備隊とす。
 六、右、第一線部隊の突入時刻は、午後十一時とす。敵陣地奪取後は、すみやかに工事を実施し、明払暁後の敵の回復攻撃を阻止すべし。
 この時点で敵の兵力は、歩兵、騎兵・二個大隊。戦車約百五十両。野砲、山砲十数門。迫撃砲数門。飛行機五、六十機と推定された。
 かくて日没となり、まず秋山中隊は西に進み、午後十一時、秋山高地を奪取した。敵の抵抗はなかった。
 連隊主力は十時三十分、二本松高地に進出、宮崎は第一大隊に東山攻撃を命じると、自分は浅井大尉(機関銃第二中隊長)と波多江大尉(連隊砲隊長)をつれて、二本松南方高地に進出した。
 十一時四十五分、東山の方向で夜襲成功の信号弾二発があがると同時に、機関銃、手榴弾の爆発音がさかんとなった。
 東山陣地はハルハ河以北の東部陣地の左翼にあたり、ソ蒙軍の重要拠点なので、抵抗は激しかった。白兵戦となり、先頭を行く第二中隊第二小隊長の桜井正保少尉は、奮戦して敵兵三名を斬殺したが、手榴弾のために、この戦いで最初の戦死者となった。
 はじめ第三中隊方面は比較的順調であったが、山頂に近づくにしたがって敵は数を増し、その抵抗も激しくなって、夜襲はまったくの強襲となり、彼我の軽機、手榴弾、擲弾筒の炸裂音が山をおおい、九日午前三、四時ごろには、形勢は楽観を許さぬ状態となった。
 この間、敵は九九七高地――東山高地――九〇四高地という順で、ハルハ河左岸の主陣地まで、信号弾をあげて連絡を取っていたので、数時間後には敵の大部隊が、こちらに増援する可能性を宮崎は認めた。
 九日朝になっても、敵は東山の山頂に頑張って、南山、九〇四高地の砲兵の砲撃と相まって、わが第一中隊(北から攻撃)、第二中隊(南から攻撃)を攻撃、とくに南にまわった小田中尉の第二中隊は、損害が大きくなってきた。
 また、南山方面には早くも戦車が出動してきたので、連隊砲は敵自動火器と戦車の破壊に活躍した。第一中隊は、九九七高地の西にまわって、東山高地の敵を射撃したが、逆に敵砲兵の猛射を受けた。
 この苦戦の状況をみた浅井大尉は、連隊本部の連隊長に、東山高地を包囲攻撃することを意見具申した。
 宮崎は、まず九九七高地にいた第五中隊に、九〇四高地にいたって、東山高地の敵を攻撃、第一大隊を掩護すべきことを命令し、かつ頃合いよしとみて、尾ノ山少佐の第二大隊主力を九〇四高地に派遣することを決めた。
 第二大隊長は第五中隊をも指揮するよう命令を受け、午前九時四十分、九〇四高地南西の地点に進出した。
 第二大隊の猛攻によって、敵は動揺し、十時三十分ごろ、戦車、飛行機と協同して、歩兵・騎兵の増援を送ったが、第二大隊はこの増援隊を撃破し、十一時二十分ごろには、九〇四高地付近の敵に殲滅的な打撃をあたえた。
 このころ東山高地の敵も後退をはじめ、十一時三十分ごろ、宮崎連隊長は、騎馬で東山高地の第一大隊本部に到着した。
 これで戦いは一段落であるが、宮崎は油断をしてはいなかった。
「おい、敵はかならず出てくるぞ。停戦協定の間際だ。このまま凹むとは思えんな」
 宮崎は通信班長の松川少尉にそう言い、各大隊に警戒を厳にするよう注意を送った。
 はたせるかな、十一時五十分、秋山高地の友軍から、連隊本部(戦闘司令所)につぎの電話が入った。
 一、敵戦車三十五両、八九五高地(西方)より前進中。
 二、敵戦車は約七十両にて、歩兵・騎兵二個大隊とともに南渡方向より前進中。
 連隊本部にいた副官・石川音五郎大尉がこれを受けたころ、早くも敵の先頭戦車群は、九〇四高地の西北方四キロの岩山付近に集結しつつあるのが、本部から展望できた。
 石川はこの敵情を、ただちに敵に近い第二大隊長に連絡しようとしたが、電話線はまだ秋山高地から九〇四高地に向かう途中であり、急には連絡がとれないので、東山高地の第一大隊に通報した。
 第一大隊本部にいた宮崎は、十二時すぎ、西方に新しい敵が出現したことを知ると、
 ――やはりきたか……。
 と唇を噛むと、ただちにこの状況を片山支隊司令部に報告するとともに、第一大隊を九〇四高地方面に支援に行かせようとしたが、大隊は弾薬補給中なので、連隊砲に第二大隊の支援を命じた。
 連隊本部に帰った宮崎は、午後二時十五分、支隊長より支隊の予備隊であった第三大隊(長・大橋市伊少佐)を十六連隊長の指揮下に入れる旨の連絡を受けた。
 そのころ、第二大隊は、草原に砂塵を巻き上げて驀進してくる敵戦車の大部隊と交戦に入っていた。
 二時三十五分、秋山高地からつぎの電話が入った。
「戦車七十両、九〇四高地西北方四キロ付近に現出、前進準備中なり」
 このころ、すでに南渡方面より前進中の敵重戦車約百五十両(第一梯団約七十両、第二梯団約八、九十両)、歩兵・騎兵二個大隊は、わが第二大隊に接近、猛射中であった。
 この報告を聞いた宮崎は、
 ――いよいよ正念場か……。
 と唇を引き締めた。ノモンハンの草原に散った多くの将兵と、自決して果てたという連隊長たちの面影が、瞼の中に浮かぶようであった。
 彼はただちに騎馬で九〇四高地に向かうことにしたが、熱河作戦のとき二回の壮烈な夜襲で金鵄勲章功三級をもらった名将も、ソ連軍戦車の本格的な攻撃に対して、戦車を持たぬ一個連隊の歩兵で、どのくらい戦えるか自信はなかった。
 ――しかし、訓練は十分にやってきたのだ。今日はやれるだけやって、東北健児の腕をノモンハンでためしてみるまでだ……。
 そう考えながら、彼は草原に馬を走らせた。
 このころ九〇四高地では第二大隊が、群がる敵重戦車を相手にして、死闘をくり返していた。敵の戦車砲は計百数十門におよぶが、わがほうが頼むのは、連隊砲と浅井大尉の機関銃第二中隊が主力である。百五十両の戦車がいっせいに猛射をはじめると、第二大隊が拠っていた九〇四高地とその西方一帯は、もうもうたる砲煙におおわれた。
 第二大隊にとって不運であったことは、この日は西風が強く、砲火によって草原が燃え上がり、その火災が九〇四高地のほうに吹いてくることであった。
 午後二時から三時にかけて、第二大隊の戦場は、まったく炎と煙におおわれ、二〇三高地の激戦もかくやと思われるほどになった。かねて覚悟の尾ノ山大隊長は、
「一歩も退くな!」
 と軍刀を手にして怒号するが、多勢に無勢の悲しさ、敵は九〇四高地西方の陣地や丘をつぎつぎに取って、九〇四高地西の斜面に進出していた尾ノ山大隊長の本部に、ひしひしと押しよせてきた。
 松川通信班長を連れて、秋山高地の近くまで形勢を観望にでかけた宮崎は、もうもうと煙る九〇四高地に、これでもか、これでもかとつめかける敵の大戦車部隊を認めて、
「これでは第二大隊だけでは持ちこたえられぬ。早く第三大隊を支援に急行させなければ、危ういぞ」
 急遽、本部にとって返し、第三大隊の戦場加入を督励し、第一大隊の九〇四高地方面への参加を下令した。
 しかし、東山高地の西と南山にも敵の戦車が攻めてきたので、第一大隊はこれへの応戦に追われていた。ドロト湖から急行する大橋少佐の第三大隊の戦場到着は、午後四時以降と考えられた。
 第二大隊からは、
「敵戦車大部隊を迎え、われ苦戦中なるも、一同士気旺盛、とくに肉薄攻撃班の戦果は大いなるものあり」
 という報告が入っていた。ノモンハンの戦訓にもとづき、宮崎は火炎瓶、棒地雷などを持って、戦車に肉薄して攻撃する決死隊を、養成しておいたのである。
 第二大隊の必死の奮戦にかかわらず、午後三時すぎには、敵は第二大隊の左翼にその攻撃を加え、わがマユ、ダルマなどの陣地はこれに蹂躙されるにいたった。
 このため、この正面を守っていた伊藤敬次郎大尉の第七中隊の主力は、ほとんど全員が死傷するという損害を受けた。
 連隊本部にいた宮崎は、連隊砲、速射砲にも戦車への攻撃を加えるよう督励する一方、第二大隊長に伝令を送って、第三大隊が到着するまで持ちこたえるよう激励した。尾ノ山少佐は平素沈着な将校であったが、剣道が強く豪勇の士であることに、宮崎は期待をいだいていた。
 一進一退の状況から午後四時をすぎると、敵は第二大隊長の指揮する正面にも、じりじりと前進攻撃して、ついに大隊本部も、陣地を死守することは困難となってきた。
「いまはこれまでだ。退却するだけでは、戦況は挽回できない。このさい決死の反撃を行なうのみだ!」
 尾ノ山大隊長はそう決心した。このまま敵の戦車の進撃するままにまかせておいては、第三大隊が到着する前に、大隊は全滅してしまう。といって、ノモンハンの連隊長のように部下を全滅させることを避けるために、命令を待たずに転進すれば、戦闘終了後、軍法会議にかかり、自決するはめになってしまう。
 ここは自分が突撃して、第二大隊の名誉を守り、敵がたじろぐあいだに第三大隊の到着を待って、部下に反撃の機会をつかませるのだ。
 そう決意すると、大隊長は、日ごろ親しい機関銃第二中隊長の浅井大尉を呼んで、
「わが大隊も、いまはこれまでだ。いままで予備隊に残しておいた第五中隊の一小隊と、機関銃中隊の主力をもって、敵の中に決死の突撃を行ない、死中に活をつかもうと思う。いっしょにきてくれ」
 といった。浅井大尉ももとより勇猛の将校で、大隊長のいうことをよく了解し、機関銃中隊は掩護の射撃を行ない、その間に一小隊が前進することになった。
 ときに九月九日、午後五時三十分であった。
「目標、正面の敵、突っ込め!」
 大隊長みずからノモンハンの夕陽の中に、軍刀を稲妻のように閃かせながら突撃する。機関銃隊はここぞとばかり前進して乱射をくわえるが、残念ながら敵の重戦車は、重機関銃といえども、その司令塔の装甲を破ることは困難である。
 小隊の兵士が火炎瓶を投げつけながら前進する姿をみると、
「よし、機関銃も前進するぞ!」
 浅井大尉は機関銃隊に前進を命じ、自分もまっ先に立って突撃前進した。
 それより先に突撃した尾ノ山少佐は、自分も火炎瓶を投げながら、戦車めがけて突進し、これをさえぎるソ連軍の歩兵を、日本刀一閃、みるまに三人を斬って捨てた。火炎瓶によって一両を擱座させた少佐は、なおも二両目の戦車に向かって突撃する。
 そして二両目の戦車に火炎瓶を投げつけたとき、敵の機関銃弾が、少佐の胸を貫通した。
「なんのこれしき!」
 少佐はなおも左手に軍刀、右手に火炎瓶を持って前進したが、つづいて飛び来る一弾に腹を、つぎの弾に頭部を貫通されて、
「無念だ!」
 の一声を残して、砂の上に倒れた。
 五十メートル後方で、これを認めた浅井大尉は、
「おっ、大隊長がやられたぞ!」
 と駆けよろうとしたが、敵の歩兵が邪魔をする。軍刀で一人、二人と斬って捨てながら、大隊長に近よろうとしたとき、一弾が大尉の腹に命中した。
 尾ノ山大隊長は、一小隊長に、
「わが第二大隊は最後まで、九〇四高地を守るべき努力したと連隊長につたえてくれ」
 と言い残して、絶命した。浅井中隊長もまもなく砂の上で息が絶えた。このために第二大隊は大隊長一、中隊長一、小隊長四、軍医中尉一、主計中尉一の八名の犠牲を払い、准士官以下の将兵百六十名と合わせて、百六十八名の戦死者を数えることになるのである。
 しかし、尾ノ山大隊長や浅井中隊長の玉砕は、決してむだではなかった。
 二人が戦死するのとほとんど同時に、形勢はわれに有利に展開しつつあった。
 午後三時、九〇四高地の情勢は楽観できず、とみた宮崎連隊長は、手元に残してあった予備隊の第六中隊主力を秋山高地に派遣し、九〇四高地を攻撃している敵の側面をつくよう命令した。
 また宮崎は、旅団命令による第三大隊が、連隊本部に急行しつつあることを知った。第三大隊が二本松高地の北方二キロに達したのは、午後四時五十分で、すでに九〇四高地では、尾ノ山第二大隊長が、敵中に突入しようと前進しつつあるときであった。
 またこのころ、片山支隊の予備隊であった野砲兵第二大隊が、わが戦線に増加を命じられ、前進するやたちまち九〇四高地の西、南にいるソ連戦車団に猛射を加えはじめた。まさしく尾ノ山大隊長の突撃は、戦局の転機をもたらしたのであった。
 同じく戦車に有効といわれる速射砲も、弾薬を補給して、敵戦車に猛射を加えたので、敵戦車の擱座がつぎつぎに増えていく。
 午後六時二十分、第三大隊はようやく戦場に到着し、秋山高地より敵を攻撃しはじめた。野砲の砲撃も猛烈を加え、三十連隊の一部も、秋山高地の西から攻撃に加わったので、すでに第二大隊の決死の突撃で戦意を喪失していた敵は、新手の日本軍の出現に驚き、日没とともに砲兵と飛行機の掩護のもとに、騒然と退却をはじめた。
 これを知った宮崎連隊長は、
「やったか!」
 と叫び、砲兵に敵の砲撃を命じ、第三大隊は秋山高地を確保、第一大隊は東山高地、第二大隊は第三大隊の一部と協力して残敵を掃討し、戦場の掃除を行なわせた。

        *

 こうして九〇四高地の激戦は、寡勢よく大敵を撃退したわがほうの勝利に終わったが、宮崎の気持は暗かった。
 ドロト湖の片山支隊の司令部に連絡に行くと、支隊長も、
「よくやってくれた。さすがは熱河作戦の名指揮官らしい老練な指揮ぶりだ」
 とほめてくれた。旅団つきの参謀も、
「十六連隊は大したものだ。敵戦車の少ない時期でも、ノモンハンではソ蒙軍になかなか勝てなかった。百五十両もの戦車を相手にして、一個連隊でよく勝てたものだ。ノモンハン唯一の勝利部隊だよ」
 といって、ほめる。しかし、宮崎はすこしも嬉しくはなかった。この九月七日から九日にいたる戦闘で、十六連隊は百八十九名の戦死者を出したのである。
 しかももっとも信頼していた第二大隊長の尾ノ山少佐と、いつも連隊本部にいてすぐれた意見具申をしてくれた元気のいい青年将校の浅井大尉は、わが第三大隊の到着を待ちかねて、大隊の全滅を避けるために突入玉砕してしまったのである。二人とも連隊の名誉を思い、帝国陸軍の栄光を傷つけまいとして、敵の中に突入して、最期をとげたのである。
 ――もうすこし早く支隊司令部が予備隊を投入してくれたならば、あの二人をむざむざ死なせることはなかったのだ。ノモンハン唯一の勝利だといわれても、それを一番喜んでくれるはずの二人は、もうここにはいないではないか……。
 宮崎はそう言いたかった。しかし、上官を批判しないのが彼の性分である。苦情を言うとすれば、なぜもっと早く日本軍も戦車団を充実し、少なくとも対戦車砲などの対策を実施しておかなかったかということである。そうすれば必要以上に戦死者を増やすことはなかったであろう……。
 ノモンハン作戦唯一の勝利者といわれる宮崎が胸に苦いものを感じている間に、九月十五日、とつじょ、停戦協定が成立した。
 宮崎が本当の名将としての資質をしめしたのは、九〇四高地の勝利もあるが、そのうえに停戦協定成立の日、連隊の中から石工の経験のある者を集めたことである。宮崎は、近くから十数個の大きな石を集め、これに日時と連隊名を刻ませて、砂の中ふかくに埋めさせた。
 のちに停戦による国境決定委員会が、国境を決めるとき、むり押しをするソ連側に対して、宮崎が埋めた石が掘り出された。この揺るぎない証拠の前には頑固なソ連側の委員も、文句なしに脱帽して、日本軍の一部隊長の〝周到な準備〟に舌を巻いたのであった。
 ノモンハンの無謀な作戦を指導した辻正信は、
「最後に第二、第四、第七師団などを動員して、ソ蒙軍に徹底的な大打撃を加えようとしたのに、弱気な政府が、外交交渉で停戦に持ちこんでしまった。ノモンハンは負けていないし、ノモンハンの作戦指導もまちがってはいない」
 とあくまでも敗戦を認めないで、〝天才〟的な参謀であることを誇示したのは、心ある将兵の顰蹙をかった。
 その反面、ノモンハン最後の九〇四高地の激戦で、わずか一個連隊で敵の百五十両の戦車団を追い払った宮崎繁三郎の名は、実情を知る人々の間で、深く心に刻まれることになった。ましてや絶望的な敗戦後の停戦協定を見越して、石工に日時と部隊名を刻ませて、砂の中に埋めるというような深慮遠謀を、だれが心に留めていたであろうか?
 もし戦争の〝天才〟というものがありとすれば、その人の名は、宮崎繁三郎でなければならないであろう。
 しかし、どこの社会にもある学歴偏重は帝国陸軍にもあり、中央で重要視されるには、陸大を首席か恩賜で卒業していなければならなかった。宮崎のように頭脳も胆力も人並み以上であっても、勉強の苦手な人間を、その実績で評価して、軍の上層部にすえるには、帝国陸軍はあまりにも官僚的な管理社会であった。
 十六連隊戦闘詳報には、この戦いで鹵獲した敵の武器の表がある。小銃二十五、軽機一、重機三、速射砲一、拳銃一、小銃実包五百、軽機実包四十八、重機実包千、速射砲弾六十などのほか、擱座戦車二十両となっている。
 またわがほうの損耗表では、小銃実包七万九千発、重機実包(普通)一万五千発、同鉄甲実包(戦車用)四千六百発、四一式榴弾(連隊砲)百三十発、三十七ミリ榴弾五百二十発(速射砲)が出ており、改造試製曳火手榴弾千二百発、九三式戦車地雷(戦車用)百三十七本がある。小銃実包の大部分は第二大隊で、戦車用地雷はすべて第二大隊が使用したものである。
 この表の中には損失した武器の表もあり、三八式歩兵銃百十一挺という数字がある。いうまでもなく明治三十八年採用の単発式弾倉で、五発内蔵の旧式の銃である。二〇三高地の戦いの後に帝国陸軍に採用された兵器で、奉天の会戦のころには、もう戦場に出ていたのであろうか?
 筆者が昭和七年、岐阜県の中学校に入ったとき、軍事教練で使用したのがこの小銃で、配属将校が、「飛行機は九一式(昭和六年採用)ができとるが、歩兵はいまでも日露戦争の古手で、銃剣突撃専門じゃ」といって、苦笑していたことがあった。
 ノモンハンの後二年で太平洋戦争がはじまるが、このとき米軍は弾倉の回転する自動小銃を使っていた。ソ連もマンドリンといわれる弾倉の部分がふくらんでいる自動小銃を使っており、八路軍もそれを使っていたという。
 日本陸軍の小銃は、新しい型のものが出たと聞いているが、前線では最後まで三八式ではなかったのか? 忠君愛国の精神に燃える将兵は、三十四年前の銃でも国家国民のために、何の不平もいわず、これで戦い、これに三十年式(明治三十年採用)銃剣をつけて突撃した。
 しかし、為政者はそれを甘受していてよいのか? 対ソ決戦を企図していたはずの参謀本部や陸軍省上層部は、もっと兵器の近代化を考えるべきではなかったのか?
「兵隊は一銭五厘(葉書一枚)で来る。兵器は天皇陛下から賜わったものじゃ。お前たちの命より兵器を大切にせい」
 と陸軍の上官は新兵に言ったそうである。しかし、兵器を使うのは、天皇陛下の赤子である国民である。人間の命を粗末にあつかう軍隊は、近代戦を戦う資格はあるまい。
 戦術の天才・宮崎繁三郎は、いつも部下の身を案じていた。最小の犠牲で最大の戦果をあげる……平凡のようであるが、作戦の要諦はこれに尽きるのではないか。そこに、戦死すればそれですむ、というような玉砕尊重の考えよりも、岐阜人らしい合理主義の成果を感じるといったら、宮崎将軍は怒るであろうか?
 かくて帝国陸軍最大の敗戦となったノモンハンの苦い戦いは、宮崎連隊の最後の勝利で幕を閉じた。
 宮崎は九〇四高地の戦闘後の戦訓として、つぎのことを詳報に載せている。
 一、応急派兵の編成は貧弱なり。とくに対戦車火砲の装備を画期的に増強する必要あり。
 二、敵戦車狩戦闘を計画する必要大なり。歩兵の戦闘に先立ち、偵察機の協力をえて、敵戦車を誘致撃滅する必要を感ず。
 三、暗号の組立翻訳は生文をあつかう程度に徹底せざれば、戦機を逸すること多し。
 四、岩石地において迅速に工事(塹壕)を完成する訓練を必要とす。(九〇四高地、九九七高地は岩山で、陣地構築に手間取り、損害を大きくした)

 十六連隊は、二本松の連隊本部で、片山支隊戦場慰霊祭に参加、九月二十八日にも将軍廟における第六軍の慰霊祭に参加した後、前に下車したハロンアルシャン駅から列車に乗って、思い出多い戦友の眠るノモンハンの草原を後にした。
 もとの警備地区である穆稜に帰投したのは、十月中旬で、翌十五年十月二十八日には、十六連隊は武勲を秘めて(ノモンハンの敗戦は国民には秘密であった)、懐かしい新発田に帰還する。
 宮崎は、ノモンハンの敗戦について、のちにこう語っている。
 一、地名の不明、兵力の逐次投入による失敗は、ガダルカナルでも同じで改善されていない。
 二、地形による対戦車戦闘の点については、イラワジ河畔の戦闘に類似性が見られる。

『名将宮崎繁三郎 不敗、最前線指揮官の生涯』の百二十一~百三十二ページまで引用

『ノモンハン 草原の日ソ戦―1939
アルヴィン・D・クックス
 小松原師団長が、第二十三師団で生き残ったわずか四百人ほどの将兵を引きつれて、ホルステン河を渡って退却してきたあとも、ノモンハン事件は終わらなかった。唯一の理由は、関東軍がそんな形で停戦したくなかったからであった。九月に再びまた「最後の攻勢」を開始するために、新鋭部隊を集結している過程で、関東軍はノモンハンの南東にあたるアルシャンとハンダガヤを結ぶ地区に注目していた。
 牡丹江の東にいた安井藤治中将が指揮する第二師団は、列車でノモンハンの戦場へ移動するよう八月二十五日命令された。師団主力はハルビン経由でハイラルに直行し、一個支隊は白城子経由でアルシャンへ前進することになった。
 片山省太郎少将が指揮する歩兵第十五旅団の歩兵第十六連隊(連隊長宮崎繁三郎大佐)、歩兵第三十連隊(連隊長柏徳大佐)と野砲兵一個大隊で片山直率の一支隊が編成された。この部隊の任務は、ハンダガヤ地区の防衛を強化することであった。
 八月三十一日、アルシャンに到着した片山は第六軍の緊急命令を受領したが(その時点では第六軍の指揮下にはいっていた)、それによると第二十三師団がきわめて危険な状態にあるので、ドロト湖北西の地区を援護せよということであった。しかし、第六軍戦闘司令所に連絡将校を派遣しているような時間的余裕はない。歩兵第十六連隊は、通常だと将兵と輓馬の休息と準備に一日かかるところを、直ちに出動するよう指示された。
 連隊長の宮崎大佐は、麾下の諸隊に対してアルシャンに到着しだい直ちに出発するよう命令した。落伍者はその場に残すが、あとで追及するよう伝えられた。連隊は、わずか三日でハンダガヤを経由して目的地に到着した。これはまさに快挙で、宮崎は、「よその師団なら」一週間はかかるところだ、と誇らしげに話していたという。この連隊のあとを追ったのが第三十連隊で、九月四日、九七〇高地に陣を敷き、それまでこの地区で守備にあたっていた満軍の諸隊と交代した。
 前方の地形を踏査した結果、宮崎はハルハ河近くの九九七高地から秋山高地に至る地区の敵を掃討するため、夜襲を決行することに決めた。写真撮影を含む周到な偵察が行われ、作戦の秘匿には最大限の注意が払われた。
 片山支隊長と第六軍の承認を得て、第十六連隊は九月六日夜攻撃を実施する準備を完了した。だがその午後になり、宮崎は第六軍から命令を取り消すむねの指示を受理し、いらいらしていた。八日の朝になると、第六軍の幕僚が新たな命令をたずさえて現れた。その内容は、その夜攻撃に出るのを許可するというもので、宮崎は「第六軍の一貫性のないやり方」に、かげでぶつぶつ文句をいった。
 日没後、それまでの陣地をあとにして攻撃を開始した源紫郎少佐が指揮する第一大隊は、連隊砲中隊と速射砲中隊(各四門)の援護射撃のもとで、主目標である九九七高地を奪取する予定であった。また、その地点から約六キロ離れた秋山高地へ向かったのは、秋山竹次郎中尉が指揮する第五中隊であった。
 その日午後十一時までに敵陣地への浸透を完了したあと、直ちに塹壕の構築にとりかかり、天明とともに予想される敵の反攻に備える手はずであった。一方、第二大隊(第五中隊を除く)は予備兵力として残ることになった。
 敵の守備隊二、三十人がいただけの秋山高地は、簡単に占領することができた。宮崎が作戦成功を知らせる信号を見たのは、午後十一時ごろであった。
 第一大隊の攻撃の先鋒は、小田寛治中尉が指揮する第二中隊で、ハルハ河の河岸に突き進み、九九七高地の東斜面の麓を横切り、そして敵の兵隊が水汲みに通う道をたどりながら、敵陣地(二、三百人によって守備)の右側に迂回して行った。ハルハ河のそばの七、八頭の馬がいれられた囲いには気にもかけず、小田の第二中隊は高地の頂へと駆けあがっていった。一部の者は、斜面の中途にある敵の天幕に襲いかかったが、大隊の大部分の者は、頂上へと突進していった。攻撃の先頭にあった小隊の小隊長である桜井正保少尉は、敵兵三人を軍刀でなぎ倒したが、そのあと手榴弾にやられて戦死した。
 左翼から九九七高地を攻撃した、上田泰弘中尉が指揮する第三中隊にとって、最初はさして困難がなかったが、中隊が頂上に近づいたとき、敵は重、軽機関銃、手榴弾そして迫撃砲を動員して、猛烈な抵抗を試みた。宮崎の回想によると、九日午前三時か四時ごろまで、彼我のいずれが勝ったのか、わからなかったという。
 敵は九九七高地から、九九七高地と秋山高地の間の九〇四高地、および東山に向けて、さらにはハルハ河左岸に向けてありとあらゆる信号弾を打ち上げたが、それは他の部隊に対して、最右翼に位置する九九七高地が危険に瀕していることを伝えるためであった。ノモンハン事件後に宮崎が聞いたところでは、ソ連軍が平文で緊急通信をやっているのを、関東軍特務機関は傍受したという。
 九月九日早朝、九九七高地を奪取した歩兵第十六連隊は、敵部隊が陣地を放棄して、後方にあたる東山に集結しているのを視認した。そこで、宮崎は予備兵力である尾山助太少佐の第二大隊に対して、速やかに東山の敵兵力を掃討するよう命じた。
 第五中隊は、兵力の一部を現在地に残して第二大隊に復帰し、第六中隊とともに大隊の先頭に立ち、広漠たる平原をよこぎって東山に向かって進んでいった。九九七高地が陥落して約十時間後、すなわち九月九日正午ごろ、尾山の第二大隊が東山から五、六百メートルの地点に達したとき、九〇四高地の西方に敵戦車が出現した。最初は二十両であったが、その後五十両に増強された敵戦車の狙いはあくまでも九九七高地を奪還することのように思われた。宮崎は源の第一大隊並びに連隊砲、速射砲中隊に第二大隊の援護を命じた。
 午後一時過ぎ、敵は戦車約百五十両と歩兵、騎兵各一個大隊を投入してきて、九〇四高地とその背後の地区にいた第二大隊を攻撃した。また、敵機による攻撃も始まった。戦闘が始まってから数分して、六〇〇〇メートルにわたる戦線はすっかり砲煙に包まれてしまったが、そのなかを敵戦車が移動しているのが見えた。
 敵の銃砲火によって、乾燥しきっていた樹木や雑草が燃えだした。敵戦車に対して数多くの肉薄攻撃班が攻撃をかけたが、火砲や機関銃の射撃にさらされてどうにもならず、わずか二両を擱座できただけであった。しかし、連隊砲、速射砲の両中隊は六両を炎上させた。
 第十六連隊にとり幸いであったのは、敵戦車が陣地から二、三百メートル以上には接近しなかったことであった。「本部」高地に設けられた連隊の戦闘指揮所で、宮崎とともに残っていたのは、軍旗護衛兵五人と数人の伝令だけであった。
 第二大隊の第五、第七の両中隊は速やかに塹壕の構築を完了していたので、損害は比較的軽微であったが、岩場に位置していたため塹壕の構築が思うにまかせなかった第六中隊、第二機関銃中隊と大隊本部の損害は大きかった。大隊長尾山少佐と第二機関銃中隊長を含む約百五十人の将兵が戦死した。配属されていた輜重兵小隊は、負傷者を後送し、弾薬を補給するため、午後七時までに前線と兵站基地の間を二十七往復した。トラックは絶えずジグザグに動いたり、速度を上げたり、あるいは回転したりしたが、その間、敵の砲撃でトラック一台を失った。
 午後四時、大橋市伊少佐が指揮する第三大隊が、野砲兵第二大隊とともに前線に到着した。宮崎は野砲兵大隊に「本部」高地の西側に展開を命じ、敵戦車との戦闘に当たらせ、第三大隊に対しては秋山高地の北側から九〇四高地に向かって攻撃させた。第三大隊は二個中隊を前方に、一個中隊を後方に配置して進撃したが、大隊の第一波が第二大隊の戦闘地区に達するや、敵戦車は突然南西に向かって撤退し始めた。午後六時半敵が撤退し始めたあと、野砲兵大隊は射程八〇〇〇メートルで追撃射撃を実施し、第三大隊は敵を追尾した。戦闘は、日没とともに終わった。
 九日午後九時、宮崎は輜重兵小隊に対して第二大隊の負傷兵を包帯所に後送するよう命じた。そのころあちらこちらに火災が発生し、しかも敵戦車十数両がなおも跳梁しており、後送のための方角を定めるのがむずかしかった。そこで、後送をしばらく中止することになった。十日午前二時十五分、輜重兵小隊のトラックは案内役に導かれて、第二大隊の戦闘地区に到着した。
 十日の日の出前、宮崎は第二、第三の両大隊を攻撃発起点まで後退させた。その地点に、第一大隊はすでに集結していた。これによって、輜重兵小隊は第三大隊がそれまで固守していた最前線の前方にとり残され、歩兵の援護を受けずに最後まで残っていた負傷兵の収容にあたった。
 停戦後、宮崎は部下に石工がいたので、連隊の前線のあったところに「わが連隊の占領を記念して」石碑を建立させた。ノモンハン事件後日ソ合同委員会が満州と蒙古人民共和国との国境を画定したとき、この石碑が有力な証拠となって、第十六連隊が夜襲を行った前線が国境線と認められた、と宮崎は回想している。
 防衛庁の公刊戦史『関東軍』(1)によると、九月八日から九日にかけて、第十六連隊はその勇敢な夜襲によって「たちまちにして」優勢な外蒙騎兵を壊滅させ、「こうしてその方面の戦略的態勢は急速にわれに有利になった」としている。だが、最初ある程度の成功を収めたあと、片山支隊が熾烈な戦闘を敵と交えたこと、そして敵は戦力を増強して、陣地の強化を行い、日本軍の新たな反攻に備えたというのが、第六軍の理解するところであった。「戦闘がその後互角の形勢になってからは、当方から見てなんら有利な進展はなかった」と、第六軍参謀浜田大佐は回想している。
 九月初旬の戦闘について片山支隊がまとめた戦果によると、戦場に遺棄された死体約七十を含み、敵の損害は多数にのぼったとしている。さらに、敵戦車二十両、装甲車二両、速射砲一門、重機関銃九丁と多数の小銃、軽機関銃を使用不能にしたという。
 だが、比較的短時間の戦闘にもかかわらず、片山支隊がこうむった損害は甚大で、戦死者百八十三人(うち将校十人)、負傷者九十九人(うち将校四人)に及んでいる。第二師団参謀長原田次郎大佐は、予想以上の損害、特に第十六連隊第二大隊の損害の大きさにうちひしがれていた。どうして、支隊はかくも多くの将校を失い、戦死者の数が負傷者の数より二倍も多いという損害をこうむったのであろうか。
 これに対して幕僚がなしうる最大の釈明は、日本軍では戦いで先頭に立つのは将校であり、また対戦車肉薄攻撃を有効にするには多大の犠牲がともなうということであった。戦闘報告を受けて、第二師団長安井中将は、「敵戦車二十両を撃破したのは欣快事だ」としか述べていない。
 第一師団の歩兵第一連隊長後藤光蔵大佐は、別の支隊を指揮することになった。この部隊は、三個歩兵大隊、一個野砲兵大隊、一個輜重兵中隊と平山中佐が指揮する工兵第一連隊(一個中隊と一個補給小隊で、兵力百十七)によって、八月二十日に編成されたものであった。後藤支隊は第六軍の指揮下に入り、アルシャンを経て、ハルハ河右岸に展開している敵部隊の最右翼にあたる西三角山(一〇三一高地)に向かって前進して行った。
 西三角山南方六、七百メートルの地区に向かってのびる隣接地区では、ソ連軍は二個歩兵大隊、戦車六、七両それに一二センチ榴弾砲と野砲とでなる火砲約十門を展開しているものとみられていた。全体では、ソ連軍第五十七軍団は三個以上の狙撃師団と数個機械化旅団を保有していた。
 平山中佐の工兵連隊がハンダガヤに到着したのは、九月七日のことであった。その翌朝、連隊はアルシャン河合流点に向かって南西に移動したが、その目的は道路を補修し、周辺の松の木を倒し、ハルハ、ホルステン合流点からはるか南での、後藤部隊の渡河を支援するための橋梁を建設することであった。
 アルシャン河の東方に位する西三角山では、二個中隊編成で、火砲四門を持つ独立守備歩兵第十六大隊(大隊長深野時之助中佐)が敵の攻撃にさらされていた。後藤支隊がこの地区を掌握したのは、八日のことであった。
 それまで、雨がちの日が何日も続いていた。九日の夜になると、寒さがきびしくなり、ものすごい突風とともに大雪になった。アルシャン河から一五〇〇メートル離れた湿地帯では、道が沼地と化してしまった。
 平山工兵連隊を援助していたのは、歩兵七十人と工兵第二十四連隊の野見山武夫中尉が指揮する中隊であった。九日の昼過ぎころには橋の建設にはある程度の進捗が見られたが、嵐が激しくなるとともに、川の流れも速くなり、水位が二・五メートルにも上昇した。このため打ちこんだ杭が、数回にわたって流失してしまった。
 午前二時、平山は部下に小休息を与えたが、後藤が電話してきて、指揮下の第二大隊を午前三時までに渡河させてしまいたいといった。工兵は疲労し、ずぶ濡れになっていたが、作業を再開し、松の木をおので倒して長大な板をつくり、午前四時半には歩兵の渡橋に耐えられる八メートルの橋を仮設した。
 九月十日午前五時四十分から六時三十分にかけて、第二大隊はこの橋を渡って前進した。機関銃やその他重火器は舟で移動させなくてはならず、馬や車両は残すしか方法がなかった。橋梁の構築が再開されたのが午前八時、杭打ち作業が終了したのが午前十時半で、そのあと橋板を敷く作業が始まった。この作業の終了とともに、耐久テストが行われ、それがすむと第二大隊の大隊砲、馬、そして重量物がなんの危険もなく「平山橋」をわたって運ばれていった。
 十日午後四時、第三独立守備隊司令官宮沢斉四郎少将が独立守備第十五大隊と一個山砲中隊を加えた全部隊の指揮を執ることになったと、後藤は指揮下の第一連隊に伝えた。西三角山正面の敵に対して、十一日早朝攻撃を開始することになった。
 第一連隊は左翼となり、夜間アルシャン河を渡河して、攻撃する予定で、第一大隊の攻撃目標は戦車高地、第二大隊の担当はまんじゅう山の攻撃であった。速射砲中隊と工兵は、南に向かってアルシャン渓谷から移動してくる敵戦車との戦闘準備を整え、工兵の一部は平山橋の守備のため残すことになった。主力部隊の合言葉は「東京」と「甲府」で、側面に位置する部隊には「勅諭」と「五カ条」と定められた。
 後藤支隊が平山橋に集結したのは、遅い時間であった。午前零時半すぎに、まず重火器と分解した野砲の移動が一〇メートル間隔で始められたが、部隊主力と積み荷を下ろした重車両は、予定より遅れて午前三時まで渡河できなかった。
 平山工兵連隊は午前五時十五分平山橋地区を出発し、午前七時半に対戦車陣地に布陣し、野見山中尉の中隊が、平山橋の守備に当たった。午前六時、歩兵による射撃が開始され、そのあと砲撃が始まった。それから五時間後、雨はふたたび雪に変わり、寒さがきびしくなっていった。
 後藤の報告によると、午後六時半に支隊は敵をハルハ河の南方向に駆逐したので、その夜引き返すということだった。撤退するのになんの支障もなかったのは明らかである。なぜなら、野砲兵部隊が平山橋に帰り着いたのが十二日午前九時二十分で、徐々に渡橋し、完了したのが午後零時半であったからだ。
 第六軍司令部は、後藤支隊と独立守備隊の戦闘に満足していた。報告は、雪をものともせず、渡河して南側面から敵を掃討したと伝えてきた。後藤支隊は第六軍が計画中の一大攻勢にそなえて軍の予備兵力となり、九月十一日独立守備隊がそのあとを引き継いだ。平山工兵連隊は平山橋とその両岸の道路を補修したのち、十三日午前八時撤退を始めた。
 この地区における日本軍の軍事行動に対するソ連軍の対応は、あまり活発なものではなかった。ソ連側の戦史によると、八月末までにはハルハ河右岸の蒙古人民共和国が主張する領土から日本軍は駆逐されたが、関東軍は九月になって再度侵犯しようと試みていたとしている。関東軍は新鋭の第二師団を動員し、エリスウリン・オボの諸高地に対して、九月四日二個大隊を投入した。それに対して、ソ連軍の南方兵団は反撃に出て、日本軍を後退させ、日本軍の戦死傷者は三百五十人にものぼったとしている。
 九月八日夜、日本軍はこの地域で再び攻撃を開始し、四個歩兵中隊を投入したが、甚大な損害を残し撃退されてしまった。日時だけから見る限り、ソ連側は片山少将指揮下の歩兵第三十、第十六両連隊の戦闘に言及しているが、後藤支隊のことについてまったく触れていないように思われる。

『ノモンハン 草原の日ソ戦―1939』(下巻)の百七十九~百八十四ページまで引用

*補足(藤本)
 アルヴィン・D・クックス『ノモンハン 
草原の日ソ戦―1939』の片山支隊に関する記述は、ほとんどが『丸』(昭和三十三年一月号)に掲載された『歩兵第十六連隊奮戦す』(宮崎繁三郎)の記事に寄っている。
 輜重兵第二連隊自動車隊の活躍については、教育総監部『「ノモンハン事件」小戦例集』の第五十をもとに書かれている。
 片山支隊の戦果報告や、第二師団長・安井中将と同師団参謀長・原田大佐の反応は、須山宗吾『「ノモンハン」方面出動間 第二師団機密作戦日誌』の内容をもとに記されている。
 アルヴィン・D・クックス『ノモンハン 
草原の日ソ戦―1939』といえば、ノモンハン事件に関する文献の中で、最も優れた書だといわれている。しかし、いかんせん、原文が英語で書かれているために、本書が日本語訳される際に、人物の発言などが、実際のものと変わってしまっていることがある。
 例えば、片山支隊に関する記述でいえば、第二師団長の安井中将が同支隊の奮戦について述べた感想に差異が見られる。
 原典の『「ノモンハン」方面出動間 第二師団機密作戦日誌』において安井中将は、「敵ノ戦車二〇ヲ破壊セリトハ愉快ナリ」と述べたとされているのだが、アルヴィン・D・クックス『ノモンハン 
草原の日ソ戦―1939』では、「敵戦車二十両を撃破したのは欣快事だ」との表記になっている。
 言っている内容は、ほぼ同じであるとはいえ、日本語で書かれている原典に当たることができる、日本の読者としては、アルヴィン・D・クックス『ノモンハン 草原の日ソ戦―1939』が日本語訳される際に、本来の日本語の発声が微妙に異なった発声になってしまっているのを見過ごせない。
 もちろん、須山宗吾『「ノモンハン」方面出動間 第二師団機密作戦日誌』は文語体で記されているので、安井師団長が発した実際の言葉(口語)は分かろうはずもない。
 そのうえで、アルヴィン・D・クックス『ノモンハン 草原の日ソ戦―1939』の翻訳者も、アルヴィン・D・クックスが記した英文をできるだけ、日本語で書かれている資料に当たって、本来の日本語に近づける努力を払ったのであろう。しかし、どうしたって、この片山支隊に関する記述のように、「破壊」という単語が「撃破」に、「愉快」という単語が「欣快事」に変わってしまっていることがある。いかがなものか。
 アルヴィン・D・クックス『ノモンハン 草原の日ソ戦―1939』は、ソ連邦が崩壊して東側の情報が公開される前に書かれた、ノモンハン事件関係の書物であるがゆえに、ソ連側のデータが欠けていて不完全である、と指摘されることがよくある。しかし、原文が英語であることによって生じる不具合については、あまり耳にすることがない。


『「ノモンハン」事件小戦例集』
教育総監部

第五十 自動車小隊敵ノ猛烈ナル射弾下並ニ夜間敵前至近ノ距離ニ於テ巧ニ行動シ克ク任務ヲ達成シタル戦例

一般ノ状況

輜重兵第○○連隊ハ昭和十四年九月歩兵第□□旅団ノ「ハンダガイ」方面ヨリスル攻撃ニ際シ要図其ノ一ノ部署ヲ以テ補給ニ従事ス
左直接補給隊タル小隊(装甲自動車一、自動貨車四等ヨリ成ル)ノ任務ハ△△iニ協同シ弾薬、糧秣等ノ直接補給並ニ傷者ヲ後送スルニ在リ

戦闘経過

一、九月六日以来△△iハ要図其ノ二ノ態勢ニ在リ而シテ七日其ノ一部ハ二十四時ヨリ突入スベク諸般ノ準備ヲ整フ小隊ハ早朝ヨリ飲料水及糧秣ヲ補給シ或ハ電話ノ架設及撤収ニ従事スル等攻撃準備ニ協力シ十八時夜襲部隊主力ニ続行シテ二本松高地ニ至リ待機ス
二、八日二時十分小隊ハ担架小隊ヲ輸送シ夜襲ニ任ジタルⅠ/△△iノ傷者ヲ二本松高地救護所ニ収容スベキ任務ヲ以テ電話線ヲ辿リテ前進中904高地北脚ニ達スルヤ前方ヨリ機関銃射撃ヲ受クルニ至リ担架小隊ヲ卸下ス
小隊ハ敵砲兵ノ猛射ヲ受クルモ付近ニハ死傷者散在ス而シテ担架小隊大隊ノ左正面ニ行動セル状況ニ鑑ミ小隊長ハ独断大隊ノ右正面ニ前進シ数回ニ亙リ傷者ヲ後送ス
三、△△iハ夜襲決行後敵ノ逆襲ヲ受ケタルヲ以テⅡヲ増加シ之ヲ撃退シタルモ其ノ後方ヨリ戦車約百五十台ヲ伴フ歩、騎兵約二大隊来襲シⅡ△△iノ拠レル904高地及其ノ後方ハ敵ノ猛射ヲ受ケ十三時過遂ニ敵戦車ノ蹂躙スル所トナリ敵機亦暴威ヲ逞シウシ死傷者続出ス此ノ間小隊長ハ戦線ノ直後ニ進出シテ直接弾薬ヲ補給シ担架小隊ト協力シ或ハ独力ヲ以テ傷者ヲ収容後送ノ帰路再ビ弾薬ヲ前送スル等十九時迄ニ輸送セルモノ延二十七両トス
四、八日十八時三十分頃旅団主力944高地方面ニ進出スルニ及ビ敵ハ算ヲ乱シテ退却セリ
小隊長ハ二十一時連隊長ヨリⅡノ傷者収容ヲ命ゼラレ二本松高地ヲ出発セルモ昼間戦闘ノ結果所々ニ火災ヲ生ジテ地形ノ判定困難トナリ又敵戦車十数両ノ妨害等アリテ一旦出発ヲ中止シ九日二時十五分誘導者ト共ニ再ビⅡノ戦場ニ至リ敵ノ砲撃ニ依リ自動貨車一両ヲ破壊セラレタルモ克ク其ノ任務ヲ遂行セリ
当時Ⅱ、Ⅲハ爾後ノ行動ヲ準備スル為九日天明前ニ二本松高地ニ撤退シⅠ亦九日二時三十分集結セルヲ以テ小隊ノ傷者収容ハ歩兵ノ掩護ナク而モ其ノ陣地前ニ進出シテ実行セリ



教訓

一、自動車輜重ト雖モ当時ニ於ケル戦場ノ実況ニ応ジ行李的ニ行動シタルノミナラズ状況ニ応ジ躊躇スルコトナク傷者収容、通信連絡、担架小隊ノ輸送等ヲモ行ヒ以テ旅団統合戦闘力ノ発揮ニ多大ノ貢献ヲ為シタル点ニ注意スルヲ要ス(輜四)
二、敵ノ射撃猛烈ニシテ而モ拠ルベキ地物ナキ状況ニ在リシモ小隊ハ偽装ヲ完全ニシ蛇行、疾走、渦巻運動等ヲ巧ニ行ヒ敵射撃ノ間断ヲ利用シテ補給、傷者収容等ニ遺憾ナキヲ得タルモノナリ(輜五、七)
三、夜間、広漠地、敵前至近距離ニ於ケル自動車部隊行動ノ困難ヲ察知シ得ベク斯クノ如キ状況ニ応ゼンガ為ニハ平素ノ訓練、事前ノ準備、正確ナル計画、確実ナル行動等ニ依リ之ヲ克服スルコト緊要ナリ

*補足(藤本)
 輜重兵第○○連隊 → 輜重兵第二連隊
 歩兵第□□旅団 → 歩兵第十五旅団
 △△i → 歩兵第十六連隊
 Ⅰ/△△i → 歩兵第十六連隊第一大隊
 Ⅱ△△i → 歩兵第十六連隊第二大隊
 ○○i → 歩兵第三十連隊



*補足二(藤本)
 須山宗吾『「ノモンハン」方面出動間 第二師団機密作戦日誌』に、以下のような記述がある。

***

六、二師作命甲第四〇号及第四一号ニ就テ

二師作命甲第三六号ニ依リ片山支隊ニ配属スヘキ輜重ハ「輜重兵第二連隊自動車隊」トアリテ其部隊長ハ千葉輜重兵少佐ナリ
然レトモ軍命令ニハ「輜重兵第二連隊(輓馬中隊欠)」トアリシヲ以テ参謀長出張ヨリ帰還後意見ヲ具申シ其通リ訂正スルト共ニ二師作命甲第四一号ニ依リ隊長ヲ連隊長塩川大佐ニ変更シ千葉少佐ヲ東京城ニ残留セシム


*補足三(藤本)
 須山宗吾『「ノモンハン」方面出動間 第二師団機密作戦日誌』に、以下のような記述がある。

***

弾薬其他軍需品、補給、給水、人馬衛生等ニ関スル後方主任トシテノ腹案ハ別紙要図其一其二ノ如シ
此ノ自動車運行ノ方法ハ片山支隊ノ戦闘ニ於テ輜重兵第二連隊ハ実験シ夜間標識ヲ設置セサルモ地形ニ依リ方向ヲ維持シツツ成果ヲ収メタリ又飲料水、糧秣補給準備トシテ各部隊集結地ニ於ケル給水所設備、空「ドラム」缶集積炊爨所設備(前進ニ方リ握飯トシ菰ニ収容シ部隊ト共ニ自動車ニ搭載若ハ補給スル為)等ニ着手ス

『ノモンハン事件記録』
資料整理部

第七款 6Aの態勢整理と新攻勢の準備

6Aは第二十三師団の戦力既に尽きたる現状に鑑み新に戦場に到着せる7D主力を以てモホレヒ湖を中心としホルステン両岸に亘り攻勢拠点を確保し満軍の一部を以てアムクロ(阿穆古朗)ノモトソーリン付近及97高地(ハンダガヤ方面)を確保して両側背を警戒せしめその掩護下に2Dを将軍廟北側地区に4Dを将軍廟東側地区に23Dを其の中間に集結して隊伍を整理せしめ新会戦の発起を準備せり
2Dの一部片山支隊(〓の指揮する一箇連隊砲兵一箇大隊)はハンダガヤ方面を強化する為白温線方面より進出し九月四日頃97高地に進出して満軍石蘭武支隊と交代し又第一師団の一部後藤支隊を以てハンダガヤ方面を占領し左側背を強化せり
各兵団の集中は概ね九月九日迄に完結し6Aは茲に戦力を三倍に拡大せられ自信を以てハルハ河右岸に進出せる蘇軍を撃滅すべき準備を着々として進めつつあり
九月九日に於ける態勢別紙要図第十二の如し

*補足(藤本)
 〓は支隊司令部の記号。フォントに存在しないので〓を代入した。


『「ノモンハン」方面出動間 第二師団機密作戦日誌』
須山宗吾

八月二十六日
一、「ハンダガイ」方面ノ派遣指揮官ヲ片山少将トシタル経緯

八月二十六日九時三十分三軍作命第一六七号ヲ受領シ師団長ハ軍命令ニ基キ片山少将ノ指揮ヲ以テ歩兵第十五旅団ヲ基幹トスル部隊ヲ「ハンダガイ」方面ニ派遣スルニ決定セリ、即チ片山少将ハ両旅団長中ノ先任者ニシテ識見豊富克ク独立シテ一方面ノ作戦ヲ担当シ得ルモノト認メラレタルト当時歩兵第十五旅団ハ梨樹鎮ノ歩兵一大隊ヲ除キ他ハ穆稜ニ集結シアリテ出動ノ為ノ鉄道輸送ニ比較的便利ナル状態ニ在リシトヲ以テ斯クノ如ク決定セラレタリ

二、片山支隊配属ノ野砲兵大隊ニ就テ

片山支隊ニ配属スヘキ野砲兵大隊ハ第三大隊トセリ
蓋シ他ノ大隊ハ曾テ北支又ハ中支ニ派遣セラレタルコトアルモ第三大隊ノミハ未タ一回モ出動セシコトナカリシヲ以テ此際独立シテ作戦スヘキ支隊ニ配属シ偉功ノ機ヲ与フルヲ適当ト認メラレタルニ因ル

三、片山支隊ニ増加配属ノ件

片山支隊ハ独立シテ「ハンダガイ」方面ニ使用セラルルニ至リタルヲ以テ左ノ如ク師団司令部ヨリ増加配属ス
(1)経理業務補助ノ為二十六日二師作命甲第三八号ニ依リ主計大尉藤井宏太郎外二名
(2)兵器業務補助ノ為八月二十九日昻々渓駅ヨリ松浦技術准尉及松島木工伍長ヲ追及セシム
(3)参謀配属ニ関シテハ当初須山参謀ト予定シアリシモ海拉爾到着後第六軍全般ノ状況ヲ知悉セシメタル後飛行機ニテ派遣スルコトト予定セルヲ以テ出発当時配属スルコトナシ而シテ昻々渓駅ニ於テ片山支隊長ヨリ参謀派遣ニ関シ照命アリシヲ以テ「海拉爾到着後ノ状況ニ依リ参謀ヲ配属ノ予定」ト打電ス
其後状況比較的緩散ナリシト九月六日古川参謀入院セルトニ依リ参謀ノ配属ハ遂ニ実現セラレス

***

九月十一日
一八、片山混成旅団方面ノ戦闘ニ就テ

(一)片山混成旅団方面ニ於テハ九月七日、八日ノ両日ニ亙リ九〇四高地及九九七高地ノ敵ニ対シ攻撃ヲ敢行シタルモ其後ノ情況不明ナリシ所九月十一日十五時左ノ如キ電報報告ヲ受領シ情況ノ極メテ概要ヲ知リ得タリ
片混電第二〇号
七日、八日ノ戦闘ニ於テ旅団ノ損害
戦死
歩兵第十六連隊  将校  一〇名
同  准士官  三名
同  下士官兵  一六八名
衛生隊  兵  二名
計  一八三名
負傷
歩兵第十六連隊  将校  四名
同  准士官  一名
同  下士官兵  八一名
歩兵第十二連隊  兵  三名
野砲兵第二連隊  兵  三名
衛生隊  兵  七名
計  九九名
敵ニ与ヘタル損害
遺棄死体  約七〇
其他死傷多数ノ見込
破壊戦車  二〇
装甲車  二
速射砲  一
重機  九
小銃軽機  多数

(二)十五時右要旨ノ電報ヲ受領スルヤ伊奈少佐ヨリ其要旨ヲ参謀長ニ報告ス
参謀長ハ歩兵第十六連隊第二大隊ノ損害意外ニ大ナリトナシ該大隊将来ノ戦力ニ就テ危惧ノ念ヲ抱キタルカ如シ
当時師団長ハ幕舎内ニ在リテ鼾声雷ノ如ク伊奈少佐亦報告ヲ差控ヘテ帰来ス
十七時参謀長原田大佐ハ更ニ参謀幕舎ニ来リ片山旅団ノ戦闘ノ成果ニ就テ二、三語ル所アリ左ノ如シ
(1)片山旅団ノ戦闘ニ於テ戦死傷将校十四名ハ相当大ナル数ニシテ斯クノ如ク幹部損傷大ナリシハ其原因何レニ在リヤ
(2)戦死一八三、負傷九九、ニシテ負傷ニ比シ戦死ノ比率極メテ大ナルハ其原因何レニ在リヤ
而シテ右二項ニ就テ将校ノ死傷多キハ幹部ノ率先奮闘ニ依ルモノニシテ又負傷者ニ対スル戦死者ノ比率ノ大ナルハ敵機甲部隊ニ対シ将兵能ク最後迄肉薄奮戦セシニ依ルモノト判断セリ
更ニ伊奈少佐ヨリ師団長ニ対シ電報ノ要旨ヲ報告ス
師団長ハ「敵ノ戦車二〇ヲ破壊セリトハ愉快ナリ」ト一言セルノミ

(三)十九時片山少将ヨリ参謀長原田大佐宛親展私信アリ九月七日、八日ノ両日ニ亙ル片山旅団方面ノ戦闘実行ニ至ル迄ノ経緯ヲ明ニシ得ル資タルヲ以テ左ニ其要点ヲ掲ク
(書信ノ内容)
先ツ将兵ノ士気旺盛ナルコトヲ前提シ
『八月三十一日任務達成上積極行動ヲ軍ヨリ差止メラル
九月三日軍参謀島貫少佐来リテ之ヲ解除ス
一方「ハルハ」河沼岸ノ状況不明、歩兵第十六連隊ヨリ九月二日派遣セル二将校斥候帰来セス依テ四日攻撃命令ヲ下達ス(歩兵第三十連隊ニテ八八五高地、歩兵第十六連隊ノ各一部ヲ以テ九九七、及九四四高地付近ヲ夜襲攻撃)
九月六日集結地出発敵前七、八粁ニ至ル
七日軍参謀来リ八八五高地ノ奪取ヲ中止スヘキ命令ニ接ス
歩兵第十六連隊方面ノミ軍ノ了解ヲ得テ所命ノ如ク実行スルコトトナレリ』
中略(此間八日ノ戦況ヲ記シ戦死傷者ヲ出シタルヲ恐懼シ戦闘ヨリ得タル教訓ヲ記ス)

***

二二、師団ノ鉄道輸送ト作戦ノ要求ニ就テ

八月二十八日頃ニ於ケル第六軍正面ノ戦況ニ於テ第二師団主力及片山混成旅団カ当時既ニ将軍廟及「ハンダガイ」付近ニ進出シ敵ノ側背ニ向ヒ攻撃シ得タランニハ極メテ有利ナル戦機ヲ捕捉シ得タリシナリ乃チ当時ノ鉄道輸送計画ヲシテ真ニ作戦第一主義ニ則リ立案セラレシナランニハ仮ニ八月二十五日夜半輸送ヲ開始シタリトスルモ片山混成旅団ハ八月二十七日十九時乃至八月二十八日三時三十分ノ間ニハ「アルシャン」ニ到着シ逐次到着スル部隊ヲ夜間自動車輸送ニ依リ戦場ニ輸送セハ八月二十八日払暁乃至正午頃迄ニ集結ヲ完了シ同日夕刻ヨリ攻撃ヲ開始シ得又師団主力ハ片山混成旅団ニ続テ出発スルトシ八月二十八日零時乃至八時ノ間ニ歩兵四大隊砲兵騎兵ノ各主力ヲ以テ海拉爾ニ到着シ之亦逐次自動車輸送ニ依リ戦場ニ輸送セハ八月二十八日夜半迄ニ将軍廟ニ集結シ八月二十九日払暁ヨリ敵ノ側背ニ向フ攻撃ヲ開始シ得タルナラン
当時軍直轄ノ自動車隊ハ総局自動車隊ヲ合シ約一、二〇〇両ヲ運行シアリシヲ以テ師団ハ其半数ヲ使用セハ足ル景況ニ在リシナリ即チ当時ノ鉄道輸送ハ集団運行ニ依リ一層迅速ナル輸送ヲナスノ要アリシモノト認ム

*補足(藤本)
 以上、須山宗吾『「ノモンハン」方面出動間 第二師団機密作戦日誌』から、片山支隊に関する記述を引用した。

昭和十四年六月二十二日~昭和十四年九月十五日 ノモンハン事件情報記録』

情号外第四〇号
情報          昭和十四年九月十一日十時阿部々隊本部
一、片山旅団方面ノ状況
八日旅団正面ニ攻撃シ来タル敵ハ機甲部隊ニシテ其総兵力ハ戦車一五〇台狙撃兵三〇〇砲十七門ニシテ戦車第六旅団ナルモノヽ如シ
九日八時再ビ歩兵二〇〇戦車四〇ヲ以テ九〇四高地及ビ其北方高地ニ向ヒ攻撃シ来タルモ旅団ハ九四四及九九七高地ヲ確保シ敵ヲ陣前ニ砕破シタリ
此ノ戦闘ニ於テ敵ニ与ヘシ損害ハ擱座セル戦車約二十遺棄死体一〇〇ニシテ我方ニモ少数ノ損害ヲ出セリ

(略)

情報          九月十日

(略)

ハ、片山旅団方面其後ノ状況未ダ明カナラザルモ菊地状報ニ依レバ敵ノ新ニ行動ヲ企図シアルモノヽ如シ

(略)

情報

(略)

二、片山旅団ハ昨七日夜一部ヲ以テ九〇四高地及九九七高地ヲ奪取スルモノヽ如ク敵ハ該方面ニ戦車其ノ他ノ部隊ヲ急派スルト共ニ弾薬補充ニ努メツヽアルモノヽ如シ尚八九三高地南側ニハ戦車約七〇集結シアリトノ情報アルモ未ダ明ナラズ

(略)

情号外第四二号
情報          昭和十四年九月十三日阿部々隊本部

(略)

二、片山旅団方面
イ、旅団方面ノ戦況大ナル変化ナク概シテ平穏ナリ八日九日両日ノ戦闘ニ於テ敵ニ与ヘタル損害ハ戦車二〇遺棄死体七〇装甲車二速射砲二重機九ナリ
ロ、旅団方面ノ敵兵力ハ歩兵三〇〇戦車五〇騎兵一〇〇砲八門機関銃隊一中装甲自動車隊一大隊工兵一小隊狙撃兵一ヶ連隊ナルモノヽ如シ

(略)

情号外第四三号
情報          昭和十四年九月十四日阿部々隊本部

(略)

ロ、九四四、九九七高地付近ハ依然我軍確保シアリテ当面ノ敵ハ我軍陣地前二粁ノ線ニ陣地構築中ナルモノヽ如ク其ノ後方ニハ多数ノ人馬車両アリテ其ノ兵力ハ八〇〇ナルガ如シ

(略)

*補足(藤本)
 以上、『
昭和十四年六月二十二日~昭和十四年九月十五日 ノモンハン事件情報記録』から、片山支隊に関する記述を引用した。なお、本文中に(略)とある箇所は、藤本が文章の一部を省略して引用したあとである。原本に(略)と記されているわけではない。

『第二次「ノモンハン」事件ニ於ケル作戦及戦闘ノ経験ニ基ク教訓』

(九月上旬南渡東北地区)宮崎(繁)部隊

一、敵戦車狩戦闘ヲ計画スルノ要大ナリ 現在ノ歩兵連隊ノ対戦車装備ニテハ敵ガ戦車ヲ集結使用スル時至ル処徒ニ其ノ猛威ヲ振ハシム故ニ先ヅ戦車ヲ誘致殲滅スル目的ヲ以テ戦闘ヲ計画スルヲ要ス
二、常ニ敵戦車ニ対スル準備ヲ要ス之ガ為牽制等ノ任務ヲ有スル戦闘ニ於テハ少クモ偵察機ノ協力ヲ必要トスベシ
三、応急派兵ノ編成ハ貧弱ナリ特ニ対戦車火砲ノ装備ヲ画期的ニ増強スル必要アリ
四、歩兵連隊本部ニハ応急派兵ニ於テモ優秀ナル眼鏡ヲ装備スルノ必要大ナリ、軽機関銃及狙撃手ノ小銃ニモ優良ナル眼鏡ヲ付スルコト肝要ナリ
五、有線ハ時々断線スルコト多キヲ以テ六号無線機ヲ必要トスベシ
六、暗号ノ組立翻訳ハ生文ヲ取扱フ程度ニ徹底セザレバ戦機ヲ逸スルコト多シ
七、岩石地ニ於テ迅速ニ工事ヲ完成スルノ訓練ヲ必要トス
八、夜間ノ捜索要領並ニ戦闘法ヲ益訓練シ夜襲ハ愈国軍独特ノ戦法タラシムベシ

***

(九月上旬南渡東北地区)宮崎(繁)部隊第一大隊

一、「ソ」軍ニ対シテハ夜間攻撃ハ必勝ノ要訣ナリ 敵ノ夜間警戒ハ疎ニシテ地形ヲ利用シ近接シ不意ニ乗ジ急襲スルコト容易ナリ
二、「ソ」軍ハ近接戦ニ於テ手榴弾ヲ使用スルコト多ク且概シテ用法ニ熟スルモ白兵ノ使用ハ極メテ拙劣ナリ故ニ之ガ対策ハ敵ヲシテ手榴弾投擲ノ余地ナカラシムル如ク一挙ニ突入スルヲ可トス 若シ近接シテ手榴弾ヲ投擲セラレタル時ハ逡巡スルコトナク果敢ニ突入スルヲ要ス
三、工事モ徹底的ニ実施スルヲ要ス 然ル時ハ昼間砲撃空襲ニ対シ損害殆ンド皆無ナリ
四、対戦車火器及肉薄攻撃資材、擲弾筒榴弾及手榴弾ヲ豊富ニ準備スルヲ可トス
五、敵ノ狙撃手ハ其ノ技量比較的優秀ニシテ其ノ位置ノ発見困難ナリ
故ニ我ハ之レガ迅速ナル発見撲滅ヲ訓練スルト共ニ敵ニ優ル狙撃手ノ教育ヲ必要トス

***

(九月上旬南渡東北地区)宮崎(繁)部隊第二大隊

一、戦場ニ現出セシ敵戦車ハ全部BT中型戦車ニシテ45MM砲及7.25MM機関銃ヲ装備シアリ 千米内外ヨリ戦車砲ヲ以テ間断ナク射撃シツツ前進シ至近ノ距離ニ至ルモ固定目標ハ砲ヲ以テ射撃シ移動目標ニ対シテノミ機関銃射撃ヲ実施ス
二、敵戦車砲弾ハ瞬発信管付榴弾ニシテ発火鋭敏ナルヲ以テ地上ニ伏臥セバ二、三米ノ近傍ニ炸裂スルモ破片効力ハ殆ンドナシ壕ヲ掘開セバ全〓〓受ケザル限リ損傷ナキモノト認ム 但シ付近ニ叢樹等アル場合ハ相当威力ヲ発揮スルモノト思考セラル
三、敵ノ戦車砲射撃ノ技能ハ良好ナリ 本戦闘ニ於テハ約七百米ノ距離ニ於テ三発ニシテ命中セシメタリ
四、敵戦車ハ我ニ対シ百米以内ニハ絶対ニ近接セズ肉迫攻撃ヲ受クル顧慮ナキヲ確認シタル後始メテ近迫ス 故ニ肉迫ノタメニハ予メ攻撃手ヲ配置シ厳ニ企図ヲ秘匿シアルヲ要スルノミナラズ積極的ニ相当遠距離ニ於テ敵戦車ヲ撃破スル如キ戦闘法ノ工夫訓練ヲ必要トス
五、対戦車火器(特ニ火砲)ノ装備ヲ充実スルヲ要ス
六、本戦闘ニ於テハ敵ノ発煙弾ニ依リ野火ヲ起シタルタメ火炎ヲ浴ヒ戦闘困難ヲ倍加セルモ敵戦車亦火炎ノ中ニ突進セザルヲ以テ将来気象及地表面ノ状態之ヲ許セバ我ヨリ野火ヲ起シ敵戦車ヲ攻撃セバ之ニ殲滅的打撃ヲ与フルコト可能ナリト認ム予メ可燃物ヲ準備シ敵ノ近接ヲ待ツテ一斉ニ発火スルモ亦一考ナラン

***

(九月上旬南渡東北地区)宮崎(繁)部隊第三大隊

一、夜間攻撃ハ実ニ皇軍独技ノ精華ニシテ敵軍ハ之ヲ畏ルル事甚シカリシハ九月八日夜以後敵ノ盲射ト昼ノ如キ照明トニ徴スルモ明カナリ将来ニ於テモ益此ノ訓練ヲ精到ニシ如何ニ困難ナル地形ト至難ナル状況ノ下ニ在リテモ敢然夜間攻撃ヲ決行シ赫々タル戦果ヲ収ムル如クナルヲ要ス
但シ敵陣地奪取後ノ確保特ニ昼間敵機甲部隊ノ攻撃ヲ顧慮シ陣地ヲ強化シ対戦車障害物等ヲ設クルト共ニ多クノ対戦車火砲ヲ準備スル事絶対ニ必要ナリト思料ス
二、今次戦闘ニ於ケル我ガ砲兵陣地ハ常ニ後方ニ過ギ第一線歩兵トノ協力緊密ヲ欠キシ憾ナキニ非ズ
将来ハ砲兵モ歩兵ノ第一線ニ近ク進出シテ陣地ヲ占領シ止ムヲ得ザルモ観測者ヲ出シ第一線ニ推進シ対戦車射撃ヲ最有効ニ実施シ得シムル事絶対必要ナリト思惟ス
三、今次他師団ノ速射砲隊ヲ臨時我ガ部隊ニ配属セラレシハ誠ニ適切ナル処置ナリト思惟スルモ更ニ為シ得レバ他師団ノ野砲又ハ連隊砲等ヲモナルベク多数配属セシメ以テ対戦車射撃ニ任セシムレバ一層戦果大ナリシヲ疑ハズ
四、呼倫具爾地方ノ如ク起伏緩ナル大草原地帯ニ於テハ機甲部隊等快速部隊ノ使用ヲ最有利トスルハ贅言ヲ要セザル所ニシテ将来戦ニ於テハ斯カル地方ニ於ケル軍ノ編成装備ニツキテハ我モナルベク有力ナル機甲部隊ヲ使用シ兵力ノ転用ヲ機敏ニシ敵ヲ奇襲スル等ヲ緊要ナリト思惟ス
五、敵ハ狙撃ニ巧ナカリシガ如シ凡射撃術ノ訓練モサルコト乍ラ眼鏡銃等狙撃効力上価値アル兵器ノ整備シアルニモ由ルベシ 我ガ軍ニ於テモ速カニ狙撃銃ノ制定配給ヲ望ム所ナリ

***

(九月上旬南渡東北方地区)柏部隊

対「ソ」戦闘要領
其ノ一 攻撃
一、夜間攻撃ノ推奨並ニ要領
我ガ軍独特ノ夜間攻撃ハ優勢ナル機械化部隊及砲兵ヲ有スル「ソ」軍ニ対シ絶対必要ナルノミナラズ依然トシテ夜間戦闘ニ慣熟セズ且極度ニ之ヲ恐怖シアル敵ニ対シテハ益之ヲ推奨セザルヲ得ズ
而シテ之ガ実行ニ方リ注意スベキ要件ハ原則ノ示ス如ク部署ヲ簡単ニシテ一挙ニ敵陣ニ突入シ速カニ其ノ一角ヲ占領シ爾後逐次戦果ヲ拡張ス此ノ際敵ノ幕舎或ハ乗馬群等ニ対シテハ別ニ設クル有力ナル一部ノ掃討隊ヲシテ当ラシメ突撃部隊等ハ関知セザルヲ要ス
又夜襲開始ト同時ニ勇敢ナル潜入斥候ヲ以テ速カニ通信網ヲ破壊シ後方部隊トノ連絡ヲ遮断スルヲ必要トス
二、遭遇戦、陣地攻撃共ニ縦長部署ヲ取ルト共ニ対戦車火器ヲ各縦隊部隊ニ配属スルヲ要ス
特ニ後方ニアル本部、司令部等ノ直接警戒ヲ有力ナラシムルト共ニ一部ノ対戦車部隊(火器)ヲ付スルヲ要ス
此ノ際快速ナル移動性ヲ有スル対戦車火器ヲ有スレバ更ニ可ナリ
三、敵陣地ヲ奪取シ該線確保ノ任務ヲ有スル部隊ハ速カニ対戦車処置ヲ講ズルヲ要ス
夜間敵陣地ヲ奪取セル部隊ハ昼間優勢ナル砲兵ト戦車群ノ逆襲トヲ考慮セザルベカラズ
然シテ敵戦車ハ我ニ戦車壕等アルヲ発見セバ容易ニ近接セズ此ノ弱点ヲ捉ヘ陣地確保部隊ハ速カニ主力ヲ以テ比較的遠距離ニ戦車壕ヲ掘開スルヲ要ス而シテ幅員等ハ極メテ小ニテ可ナルヲ以テ成ルベク広正面ニ実施シ偽装等ヲ施スコトナク殊更ニ掘土ヲ高ク積上ゲ戦車壕アルヲ知ラシムルヲ可トス此ノ際若干ノ守兵(掩蓋ヲ有スルMGLG狙撃兵等)ヲ該線ニ配置シ敵戦車ヲ該線ニ阻止シ此ノ間対戦車火器砲兵等ヲ以テ敵戦車部隊ヲ撃滅スルヲ可トス
四、肉薄攻撃班ノ攻撃要領
敵戦車ノ来撃ヲ察知セバ巧ニ地形ヲ利用スルト共ニ速カニ多数ノ小掩壕(地形ナキ場合)ヲ掘開シ身ヲ潜メテ地物(壕内)ニ待機シ戦車ノ近接ヲ待チ匍匐ヲ以テ之ヲ攻撃スルカ又ハ戦車ヲヤリ過シ後方ヨリ攻撃スルヲ可トス、此ノ際各個防盾ヲ携行スルノ外擲弾筒、煙弾発射器等ヲ準備シ先ツ仮ニ目潰シヲ食ハセ然ル後迅速果敢ニ攻撃ヲ実行シ得ハ最モ有利ナルベシ
従来実施セルカ如ク近距離ニテ大ナル姿勢ヲ以テ攻撃セハ奏功セズ
五、攻防何レノ場合ヲ問ハス優勢ナル敵砲兵又ハ戦車ニ対シ適時小壕ヲ掘開スルハ極メテ必要ナリ
其ノ二 防御
一、防御ニ任スル部隊ハ前項第三ノ要領ニヨリ先ヅ戦車壕ノ掘開並ニ該線ニ於ケル守兵掩護ノ処置ヲ講シ爾後本陣地ノ構築ヲナスヲ可トス
二、防御配備ノ要領モ亦攻撃部署ト同様努メテ縦深横広ニ配備スルト共ニ各線ニ対戦車火器ヲ配スルノ外簡単ナル戦車壕ノ掘開ヲ怠ルベカラス
又第一線ニ配備スル兵力ハ努メテ僅少ニシ大ナル部隊ノ後方ニ控置シ好ンテ我ヲ包囲セントスル敵ノ翼側ニ向ヒ果敢ナル逆襲ヲ行ヒ一挙ニ敵ヲ殲滅スルヲ可トス
三、防御ニ任ズル部隊ハ其ノ任務ノ如何ニ係ラズ敵ノ攻撃ヲ予察シタル時又ハ我カ陣地前ニ有力ナル敵戦車部隊等アルコトヲ察知セルトキハ夜間勇敢ナル小部隊ヲ敵線ニ潜入セシメ敵後方部隊ヲ擾乱シ又ハ其ノ攻撃企図ヲ挫折セシムル等ノ手段ヲ講スルヲ要ス
防御ナルノ故ヲ以テ一地ニ固着シ徒ラニ優勢ナル敵ノ攻撃ヲ待ツガ如キハ得策ナラズ
其ノ三 通信連絡
戦闘間ノ通信連絡ニハ各種ノ考案ヲ必要トスベシ
即チ今次戦闘ニ於テ敵ハ焼夷弾及発煙弾ノ多数ヲ利用セシ為戦場ハ一面濛々タル黒煙ヲ以テ掩ハレ前線ト後方トノ通視不能トナレリ又砲弾並ニ多数戦車ノ行動ニヨリ電話線切断セラレ通信不能ニ陥ル虞大ナリ斯クノ如キ場合ニ於テ尚上下左右ノ通信連絡ヲ確保センガ為ニハ少クモ歩兵連、大隊本部ニハ小型無線機ノ配属ヲ必要トスルノミナラズ連絡ノ迅速ヲ期スル為軽装甲車等ノ配属ヲ必要ト認ム

教育訓練
今次事変ノ〓蹟ヲ具サニ観察スル時痛切深刻ニ感スルノ一事ハ「将来軍隊教育ハ更ニ一大革新ヲ要ス」ニアリ、即チ大ハ編制装備ノ改善ト戦闘資材ノ充実ヨリ小ハ一兵ノ戦闘動作ニ至ルマテ革新的気分ヲ以テ再検討ヲ行ヒ速カニ之カ改善ヲ期スルニ非サレハ西方戦場ノミナラス東方戦場ニ於テモ亦苦キ経験ヲ嘗ムルノ虞無シトセス以下若干事項ニツキ記述セントス
其ノ一 連隊以下ニ関スル事項
一、精神教育ノ徹底
将来戦ハ愈科学戦時代ノ出現ヲ見ルヘク戦闘ハ愈悲惨ノ実相ヲ呈スヘシ 此ノ間ニ処シ毅然トシテ喜ンテ任務ニ殪ルルノ将兵ヲ養成セサルヘカラス
之カ為上級将校自ラ修養ニ専念スルト共ニ愈率先垂範部下ヲ善導セサルヘカラズ
又中隊長ヲ核心トスル盤石ノ団結鞏〓ト滅私奉公ノ大精神ノ涵養トハ蓋シ軍隊教育ノ中心タルコトヲ銘記シ鋭意努力ヲ傾注スルヲ要ス
二、夜間訓練ノ徹底ト夜襲ノ方式
夜間訓練ヲ徹底セシムルノ要大ナリ之カ為連隊ニ於テハ期ニ応スル昼夜訓練時間ノ比率ヲ定メ之ヲ統一スルヲ可トス又連隊ニ於テ行フ教育検閲ノ如キ第一期ヨリ夜間訓練ニ重点ヲ置クヲ要ス
又従来夜襲ノ方式ニハ一定ノ形アリ歩校実施ノ要領即チ是ナリ然レトモ今次戦闘ニ於テハ敵陣地ヲ距ル九千米ノ地点ニ於テ夜襲実施ニ関スル諸準備ヲ行ヒ該線ヨリ夜襲ノ為ノ行動発起(重火器部隊ハ此ノ位置ヨリ卸下臂力搬送トス)ヲ計画セリ従ツテ敵陣地ノ細部ノ配備ノ如キ全ク不利ナリ 企図秘匿ヲ絶対必要トスル状況下ニ於テハ将来斯クノ如キ方式ヲ以テ敢然夜襲ヲ決行セザルヘカラザル場合少カラサルベシ 平時ノ演習ニ於テモ斯クノ如キ困難ナル夜襲ノ要領ヲ十分訓練シ置カザルベカラズ
三、兵(分隊長)教育ノ徹底
敵ト直接戦闘ヲ交ユルモノハ軍司令官ニアラズ、師、旅団長ニモアラズ実ニ兵(分隊長)ナリ而シテ従来之ガ教育ノ跡ヲ考察スル時極端ニ之ヲ評セハ実ニ一種ノ物真似的教育ニ過ギズ又観念的競技ノ域ヲ脱セハ極メテ不徹底ナル教育ニ終始セル結果今回ノ如キ苦汁ヲ嘗メタルヲ想起スル時吾人軍隊教育ニ任ズルモノ将ニ慙死ニ値スベシ即チ対戦車戦闘ヲ教育スルニ連隊ニ一台ノ戦車ナク一台ノ装甲車アルナク又一台ノ快速自動貨車ヲモ有セハ常ニ人力ヲ以テスル模擬戦車ヲ以テ満足シ之ガ教育ヲ実施セリ而シテ真ノ戦車ヲ以テスル教育ハ年僅カニ数回ノミ、斯クノ如キ状態ニ於テ如何ニシテ徹底セル教育ヲ為シ得ベキヤ模擬戦車ヲ以テスル教育ノ如キハ児戯ニ類シ百害アリテ一利ナシ 飛行機射撃亦然リ鉄条網(有刺鉄線、鋼鉄製鉄線)破壊教育亦然リ「トーチカ」攻撃亦然リ剣術試合ノ教育亦然リ以上ノ如キ観点ニ立チ吾人従来ノ教育状態ヲ静思再考シ今次事変ノ結果ニ〓到スル時余リニ責任ノ重大ナルヲ痛感スルト共ニ真ニ猛省スルトコロナカルベカラズ
茲ニ於テカ一部ヲ犠牲ニシ万難ヲ排シテ速カニ資材ヲ新設整備シ実戦同様ノ訓練ヲ実施シ次期作戦ニ備フルノ覚悟絶対必要ナリ
其ノ二 連隊以上ニ関スル事項
一、当局為政者ハ万難ヲ排シ第一線部隊ノ戦闘資材ヲ速カニ充実シ以テ軍隊ヲシテ実戦的訓練ニ徹底セシムル如クスルヲ要ス
二、軍師団、旅団ノ行事ヲ極力減ジ以テ兵教育ニ徹底セシムルヲ要ス
兵教育ニ徹底セシムル為ニハ中隊長ニ最大ノ教育時間ヲ与ヘザルベカラズ従来旅団以上ノ行事繁多ニシテ中隊長ガ自由ニ兵教育ニ従事スル日数甚ダ僅少ナルノ嫌ヒアリ 軍隊教育日ヲ逐フテ複雑多岐ナル現状ニ於テ特ニ然リトス
三、軍、師団等ニ於テ行フ剣術射撃競技会ノ方法等ハ再検討ノ要大ナリ
従来実施セラレタル剣術競技会ノ如キ道場剣術ニシテ今次ノ夜襲ニ於テ道場剣術ノ債値少キコトヲ体験セリ

補給衛生
今次戦闘ニ於テ弾薬、水ノ前送、傷者ノ後送等ニ於テ装甲車、装甲救護者ノ如キモノノ必要ヲ痛感ス将来斯クノ如キ資材ヲ平時ヨリ連隊ニ装備スルヲ必要ト認ム

其ノ他
一、戦場訓練ニ就テ
戦場訓練ノ必要ナルハ言ヲ俟タズ殊ニ将来戦ニ於テ然ルベシ
今次戦闘ニ於テモ待機間対戦車戦闘或ハ鋼線鉄条網通過要領ノ如キ教育ヲ徹底セシメ度キ希望ヲ有スルモ実物皆無ノ為実施シ能ハザリシハ遺憾ナリ 将来戦ニ於テハ軍首脳部ニ於テ時期ヲ失スルコトナク此等ノ資材ヲ第一線部隊(殊ニ中途ヨリ参戦シタル部隊等ニ対シ)ニ配属シ適時戦場訓練ヲ行ハシムルノ準備ニアルコト必要ナリ
軍靴ノ戦用品ハ平時相当程度使用シ置クカ又ハ軍靴ニ限リ平時用品ヲ使用セシムルヲ可トス今次作戦間新品軍靴ノ為足痛ヲ生ジ行軍戦闘動作ニ影響セルモノ少カラズ

*補足(藤本)
 以上、『第二次「ノモンハン」事件ニ於ケル作戦及戦闘ノ経験ニ基ク教訓』から、片山支隊に関する記述を引用した。



『支那事変史』
満州第一七七部隊将校集会所

第十章 ノモンハン事件

第一節 出動

ノモンハン事件

 昭和十四年二月初旬ごろ満ソ西部国境において頻々たるソ連兵の越境がおこなわれ、彼が何事かを企図しあるかに察知されるに至った。
 支那ではこの年の春、蒋介石が四月攻勢を号して蟷螂の斧をふるい、そのことごとくが脆くもやぶれ去ったが、あたかもこれと呼応するかの如く五月十一日、外蒙赤軍に属する一部隊がノモンハン付近で越境し来たり、国境警備の任にある皇軍ならびに満州国軍と衝突、激戦を交えた。
 日満両軍は寡兵よくこれを国外に撃退したが、ついで六月十五日、外蒙軍は再びハルハ河の線を襲い来たり、ここに第二次ノモンハン事件が惹起され、軍は七月二日を以て断固ハルハ地区の敵に総攻撃を開始しこれを圧倒した。
 軍の総攻撃により一時鳴りをしずめたかに見えた敵は、八月二十七日にいたりまたまたハルハ地区から大挙越境し来たり、わが軍との間に三度目の激戦が展開された。
 この三次にわたる戦闘がノモンハン事件の全貌であった。この間敵は膨大なる機甲戦力を以て我を襲い、我は肉弾を以てこれにあたる血戦が、ホロンバイルの草原を紅にそめて展開され、地上に於いて敵戦車四百余台撃破、また空中戦に於いて我が荒鷲は、ボイル湖上の戦闘、タムスク爆撃と敵を銀翼の下に慴伏せしめ、一千余機撃墜の驚異的な戦果をあげた。
 部隊は八月二十六日第三次ノモンハン事件のために出動、西部国境に鮫城健児の名を轟かせたのである。

○○下令

 昭和十四年八月二十六日八時五分、ノモンハン出動のための○○○兵が下令された。ちょうどこの日は部隊通信班の第一次検閲が練武台においておこなわれる予定であったので、部隊長以下部隊幹部は早朝から検閲地に出張中だった。○団司令部よりこの旨を電話で受領した部隊本部では、ただちに各隊に伝達すると共に諸準備に着手した。

第○○団命令

八月二十六日
下城子

一、○団ハ直チニ出動ヲ準備セントス
二、各部隊ハ既定ノ計画ニ基キ速カニ出動ヲ準備スヘシ、携行シ得ザル荷物ハ残置人員ニ保管セシメ○団主力ノ出発後成ルヘク速カニ原駐地ニ還送スヘシ


 部隊の目指す出動地は広漠たるホロンバイルの大広原、しかも敵は自他共に許す赤色の侵略者、科学装備を誇る極東赤軍だ。
 右の命令と同時に○団軍医部より特殊地域における防疫、化学戦における各種防毒に関する諸指示が達せられた。
 かくて部隊は片山支隊の編成に入り○団長ならびに支隊長から左の如き訓示があった。

訓示

 茲ニ急遽東北健児ノ精鋭ヲ率ヰ勇躍出動セントス本職欣快惜ク能ハサルト共ニ深ク期スルトコロアリ、惟フニ敵ソ連邦ノ積年ニ亘ル暴戻ハ天人共ニ許ササルトコロ殊ニ近時満蒙国境ニ於テハ我疆ヲ侵犯シ皇軍及満軍屢々之ヲ撃攘シツヽアルモ尚其不法ヲ改メス之ヲ徹底的ニ膺懲シ東亜永遠ノ平和ヲ確立スルハ日満両国民斉シク待望スルヤ切ナリ
 今ヤ正ニ此聖戦ニ赴カントス諸士ハ君国ニ報スル千載一遇ノ好機ニ際会シ男子ノ本懐武人ノ光栄夫レ何モノカ之ニ如カン
 敵ソ軍並ニ外蒙軍ハ其兵数ノ衆多ト物質的威力トヲ恃ムト雖モ精鋭ナル皇軍ノ精神威力ハ遥ニ彼ヲ凌駕シ常ニ彼ヲ屈服セシメアルハ諸士ノ既ニ熟知スルトコロ、殊ニ精鋭無比ヲ矜ル伝統ヲ有シ且平素猛訓練ニ精進セシ我○団ハ彼我兵数ノ如何ヲ問ハス必勝期シテ待ツヘシ
 特ニ緒戦ノ成果ハ爾後ノ作戦ニ影響スルヤ極メテ大ナルニ鑑ミ細心ニシテ放胆敵ノ弱点ヲ突キ以テ最大ノ戦果ヲ獲得スル為渾身ノ努力ヲ傾注スルヲ要ス
 諸士宜シク必勝ノ信念ヲ愈々鞏クシ生死ヲ超越シ旺盛ナル責任観念ト剛健ナル意志トヲ堅持シ斃レテ後尚已マサルノ概ヲ以テ一意其任務ノ遂行ニ奮進シ以テ○団ノ名誉ヲ愈々発揚シ上
聖旨ニ副ヒ奉リ下日満国民ノ負託ニ添ハンコトヲ期スヘシ
 時将ニ秋冷ヲ加ヘ気候ノ激変アル不毛ノ広野ニ臨マントス各自特ニ衛生ニ注意シ遺憾ナク其本分ヲ尽シ且武運ノ隆盛ナランコトヲ祈ル

昭和十四年八月二十六日

第○○団長 安井藤次

***

訓示

 本職今度隷下部隊及配属部隊ヲ指揮シ西方満蒙国境戦場ニ赴カントス誠ニ光栄ノ至ニ堪ヘス諸子亦武人トシテ本懐コレニ過サル可シ想フニ諸子ハ
聖諭ヲ奉体シ平素訓練セラレタル處ヲ而モ我長所ヲ発揮シテ彼ノ長所ヲ封止シ又彼ノ短所ニ乗シ益々志気ヲ振起シ体力ノ強化ヲ図リ以テ我伝統ノ名誉先人ノ武勲ヲ継承拡充センコトヲ望ム

右訓示ス

昭和十四年八月二十六日

片山支隊長 片山省太郎

***

片山支隊編成

支隊長 陸軍少将 片山省太郎
○○第十五○団(TA/ooi欠)
○○兵第二○隊第二大隊
○○第二○隊
○団通信隊ノ一部
○無線二小隊
○○兵第二○隊自動車隊
衛生隊

***

 十四時に至り早くも輸送命令が発せられ、部隊は二個梯団となりハロンアルシャンに向け列車輸送により進発する事になった。



「○○第○○○隊将校職員表」 (昭和十四年八月二十六日)

○隊本部

 ○隊長──柏 徳 大佐
 副官──斎藤 国松 大尉
 旗手──武藤 武夫 少尉
 兵器係瓦斯係──相沢 小寿 中尉
 通信班長──志賀 周平 准尉
 軍医──広池 文吉 少佐
 獣医──桜井 宗己 少尉

第一大隊

 大隊長──田沢 啓三 少佐
 副官──川久保 勇 少尉
 軍医──深川 太郎 中尉
 軍医──山田 豊 中尉

第一中隊

 中隊長──高野 諄平 中尉
 小隊長──佐藤 守信 中尉
 小隊長──大平 桂佐吉 准尉
 小隊長──加藤 義勝 准尉

第二中隊

 中隊長──森野 理吉 中尉
 小隊長──川島 育二郎 少尉
 小隊長──佐藤 源次郎 准尉
 小隊長──前川 清之助 准尉

第三中隊

 中隊長──重原 慶司 中尉
 小隊長──清水 清治 中尉
 小隊長──水落 定治 准尉
 小隊長──内山 貞雄 准尉

第一機関銃中隊

 中隊長──遠家 亀市 中尉
 小隊長──木戸 高信 准尉
 小隊長──鈴木 祐司 准尉
 小隊長──平田 良作 准尉
 小隊長──杉沢 久賢勇 准尉

第一大隊砲小隊

 小隊長──山口 新三 少尉

第二大隊

 大隊長──長沢 太郎 少佐
 副官──罍 徳重郎 中尉
 主計──竹田 正義 少尉
 軍医──金谷 一彦 中尉

第五中隊

 中隊長──宮田 金吾 中尉
 小隊長──長崎 勝平 中尉
 小隊長──小林 国武 中尉
 小隊長──近藤 宇平 准尉

第六中隊

 中隊長──小宮 善吉 中尉
 小隊長──佐藤 祐一郎 准尉
 小隊長──池田 庄太郎 准尉
 小隊長──丸田 寛治 准尉

第七中隊

 中隊長──五十嵐 六平 中尉
 小隊長──深井 重司 准尉
 小隊長──野口 春雄 見士
 小隊長──池内 亀次郎 准尉

第二大隊砲小隊

 小隊長──伝田 鹿蔵 少尉

第三大隊

 大隊長──斎藤 俊三 少佐
 副官──越村 藤吉 少尉
 主計──中村 正夫 中尉
 軍医──渡辺 清秀 少尉

第九中隊

 中隊長──坪川 精作 中尉
 小隊長──白田 精四郎 中尉
 小隊長──田中 正二郎 少尉
 小隊長──樺沢 仁一郎 准尉

第十中隊

 中隊長──西野 清一郎 中尉
 小隊長──土井 長治 中尉
 小隊長──田中 勇雄 少尉
 小隊長──鈴木 宇三郎 准尉

第十一中隊

 中隊長──清野 秀智 大尉
 小隊長──南田 多治郎 少尉
 小隊長──大山 秀二 准尉
 小隊長──佐藤 栄一 見士

第三機関銃中隊

 中隊長──宮沢 春正 中尉
 小隊長──片桐 和四 中尉
 小隊長──橋爪 一二三 見士
 小隊長──永井 由次郎 准尉
 小隊長──大石 孝逸 曹長

第三大隊砲小隊

 小隊長──恩田 吉五郎 准尉

連隊砲中隊

 中隊長──浜 久 大尉
 小隊長──田中 藤七 中尉
 小隊長──小林 三治 准尉



アルシャンへ

第一次輸送部隊
輸送指揮官 柏大佐

○団司令部
部隊(Ⅲ・RiA・TiA・行李欠)

第二次輸送部隊
輸送指揮官 斎藤少佐
第三大隊・RiA・行李欠

 北斗妖しくきらめく営庭に整列、北満の秋はすでにふかいのだが、完全軍装の背嚢は冬服の上からずっしりとかかって汗ばむくらいの陽気だった。
 第一次輸送部隊は同日二十四時、続いて第二次部隊は二十七日二時三十分穆稜駅を出発した。深夜の駅頭にはもちろん見送りの人を許さず、粛々たる出陣の風景だった。昭和十二年の山西出動の際とは全く事情が異なっていたのだ。敵が呼号する爆撃機は我々を輸送途上においていつ襲い来ぬとも限らなかった。各部隊とも対空監視を厳にし万一の場合の手配を充分にととのえてこれに対応したのである。
 第一次輸送部隊は二十八日零時三十分哈爾浜着、同地において武藤少尉をして所要の連絡をなさしめて二時四十分同地を出発した。
 列車は北満の平原をひた走りに走る。二十九日九時、列車が東屏駅に差しかかった際だった。澄み渡った秋空をきって友軍機の六機編隊が我々の列車上空に飛来し、輸送援護のため前後左右に哨空を続けた。わが航空部隊の驚異的な大戦果はすでに頻々と我々の耳にもはいっていた。青空に映える銀翼に見る日の丸の鮮やかさに無敵荒鷲の頼もしさをしみじみと感じたことであった。
 これより先六時片作命第○号が達せられた。ホルステン河左岸の戦況はますます緊迫した、ために各部隊はアルシャン到着後二時間以内に同地を出発、二十四時間以内にハンダガイに集結せよとの事だった。行程は少なくとも六十キロ以上と推定される。これを約一日の行程で突破するのだ。
 十一時三十分列車は目的地アルシャンに到着した。鉄道はここが終点になって両側の山が行く手を阻むように迫っている。左側は約二、三百メートル幅の平坦地がひらけ満人部落が数十戸散在する。機関庫は敵の爆撃を受けて半ばくずれ、鉄骨が無残にたれ下がっている。大きな岩がところどころ露出する両側の山には爆弾の跡がまるで地球の腫れ物のようにぽっかりぽっかりと数十個不気味な跡を残していた。



第二節 強行軍

歩度六キロ

 先に述べたごとく、命ぜられた進発の時刻までわずかに二時間の余裕しかなかったので、部隊本部は編成、命令の伝達とほとんど立ったままで万端の手順を終えた。
 残置を余儀なくされた物件の監視のために荒川曹長を長とし各隊より兵一名を残して十三時過ぎ早くも尖兵が出発、ついで第一大隊が前衛となって行軍が開始された。半岩石質の群山を縫って名も知らぬ小川が流れる。満州にもこんな川があったのかと思われる清楚な流れであった。道はこの川に沿って幅員約六メートル、まがりまがってたんたんとのびる。我々は敵機に備えて出来るだけ行軍長径を大にし、休止する際は徹底的に疎開して大事をとった。
 部隊はひた歩きに歩いた。いつか夜になった。幸い降るような星月夜であった。
 二十時すぎ部隊はアルシャン西北方約二十キロ、アルゼン橋に到着した。さあ大休止だ!早速三食分の炊爨開始。これから我々が向かわんとする平原はいつどこで水がみつかるか知れたものではない。水のある所でうんと飯を炊いとかなくてはならない。
 この大休止間に、本隊より約二時間遅れてアルシャンに下車した第二次部隊が、急行軍に次ぐ急行軍を以て追及し、部隊長の指揮下に入った。
 零時三十分進発した。道はここから小川と別れ、すみ絵のようにかすむ小高い山の間をはてしなく続く。昼間の暑さは忘れたように秋気がぐっと身にしみる。アルシャンに降りた時オヤッ!と思ったのだが藪蚊がだんだん多くなる。歩いていると顔から手首と容赦なく食いつく。はたきはたき歩いて行く中に掌が真紅に染まる。
 歩度は六キロ行軍にちかい。兵隊はただ黙々と歩いて行った。長途の輸送でしかも車両の配当が非常に少なくぎゅうぎゅう詰めの列車旅行であったので兵隊は疲れ切っていた。その上の強行軍である。夜明け近くになるにつれて疲労はその極みに達した。数時間ただに一度の休止もなく歩み続けて来たのである。夜が白々と明けた。憎い道ははるかの丘を越えてどこまでも続いている。太陽が眩しく照り始めると不眠の疲労はうずくように体一杯にひろがって来る。
 八時すぎ部隊がトロル河付近にかかった時、聞き慣れない軋るような金属性の爆音がどこからともなく聞こえて来た。敵機である。と見ると遥か西方の空に陽の光りを真っ向に浴びて敵機三機が素晴らしいスピードで我々の上に襲いかかろうとしている。高度は千メートル以上もあるであろう。突如、高射砲弾が狂ったように炸裂して敵機の周辺に綿をちぎったような白煙を撒き散らした。友軍の防空陣地が案外近い所に設けられていたのだ。部隊も直ちに射撃を開始した。小癪にも敵機は悠々と飛んでいる。ドドーッと地軸を揺るがす轟音が響き渡った。爆弾投下だ!我々から約三千メートルくらい離れた空き地に猛烈な砂けむりがたち上がるのが望見できた。敵機はそのあたりを散々に盲爆してはるか国境方面の空に飛び去った。

行けるところまで

 近代戦に於いては、まず第一に敵の航空機の洗礼を受けるであろうと、常々教えられた通りに、我々はまず敵機に見参したわけである。将兵の志気はますますあがった。行軍だ!行軍だ!暑い、実に暑い。ここまでの行軍中、夜明け方道ばたの陣地にあった満軍の給水所から一度水をもらっただけである。水筒一本ぐらいの水はたちまちの中に汗になってしまう。陽がたかくなるにつれて暑さはますます厳しくなった。軍靴の中でよじれた靴下は足の裏にくいこんで裂くように痛む。どの兵隊の足もまめだらけだ。
 さすがに健脚を誇る将兵も脂汗を流し、それが出なくなると塩をふいて塑像のような形相になる。このまま強行軍を続ければ暍病患者が続出するかも知れなかった。現に、各隊には鼻血を出しながら歩いている兵もあった。しかし我々は進まなくてはならない。部隊長は更に行軍を強行するに決した。おくれる者とて決して弱いのではない。あまりにも行軍が猛烈であったのだ。時によっては一個中隊数名になった時さえもあった。
 志気は如何に壮なりとも人間の体力には限りがある。ある中隊長は、足の疼きにたまりかねてうずくまってしまった兵を助け起こし、肩にかけて共に歩いた。飯を食う元気もなくなった兵には小隊長自ら箸を取って食わせてやった。将兵実に一体となった熱誠は難行軍をひたむきに征服せんと必死の努力だった。
 ハンダガイはちかいぞ!はげまし、はげまされつつ歩み続ける折、支隊本部に連絡に赴いた斎藤大尉が「片作命甲第○号」を受領して来た。
 前方の戦局は刻々緊迫しつつあり、支隊は続いて将軍廟に向け急進せんとす
 また歩くのだ。口には出さぬが、将兵は果たして歩けるか如何か?たとえ身を千々に砕くとも遂行せずんば已まぬ命令ではあるが、一抹の不安を覚えざるを得なかった。
 「行けるところまで連れて行こう」
 柏部隊長は傍らの斎藤副官をかえり見て、ただ一言こう言った。
 そうだ、我々はただ進まなければならぬのだ!十三時三十分、まず先頭がハンダガイに到着、例によって三食を炊爨、大休止をおこなった後、続いて吉丸高地に急進の部隊命令が発せられた。

大平原

 みんな裸になっての大休止中、十七時頃敵の三機編隊がハンダガイ上空に飛来した。たちまち大空をえぐるように高射砲が鳴り響いた。我々も裸のまま敵機めがけて射撃したが、敵機はしばしして遥かに逃げ去った。
 二十時、部隊は六梯団に分かれてまたまた行軍を始めた。

第一梯団 第一大隊、本部、通信班 (健脚部隊)
第二梯団 第二大隊 (健脚部隊)
第三梯団 第一大隊、本部、通信班 (一般部隊)
第四梯団 第三大隊、連隊砲中隊 (健脚部隊)
第五梯団 第二大隊 (一般部隊)
第六梯団 第三大隊、連隊砲中隊 (一般部隊)

 ハンダガイから行くこと約二十キロにしてハンダガイ峠にかかった。この坊主山を最後に、大地は一段と平坦さを増し、大波丘状の緩丘が見渡すかぎりに続く。道はいよいよホロンバイルの大広原にかかったのである。東京から熊本まで続くと言われる広野である。さえぎるものもないその広さは、夜目にもしるく底知れない不気味さで彼方に消えていた。
 ハンダガイまでの行軍を人間の有する最大限度の能力であったとすれば、これからは神業の行軍なのである。しばらく休んだ足は歩きなれるまで飛び上がるように痛かった。
 すでに二日二晩歩き続けたのだ。

遂に突破

 三十一日、太陽がかなたの草原から真っ赤にあがった。睡眠不足の目は陽光にさらされて、刺されるようにいたむ。夜があけてしばらく、行く手にあたって白いものがキラリと光った。やがて近づくにつれて段々と広さを増し、その全貌をあらわした。ドロト湖だ。はじめは白く輝いて見えた水も、このあたりからは澄んだ青銅色に重たく澱んで見える。この水は多分にソーダ分を含んでいるのである。
 八時、第一梯団を先頭に我々は湖の西方地区にかかった。
 あたり一帯の小高い丘には石油の空き缶が無数に散乱していた。友軍吉丸戦車隊激戦の跡で、吉丸高地と名付けられた所だった。部隊はここでただちに後続部隊の進出援護のために陣地を確保した。
 十時、第二梯団が到着するや支隊命令が発せられた。意外にも部隊は将軍廟に向かう予定を変更され、前面の満軍石蘭部隊の位置する軍右翼に進出して敵を牽制する命を受け、同夜は吉丸高地付近に露営と定められたのである。
 アルシャンから吉丸高地までの行程実に百余キロ、とうとうやって来たのだ。やり遂げたのだ。二日二晩、夜も日もない急行軍を我等は遂に征服したのであった。
 この日、夕方ちかく、遠空に轟く殷々たる砲声を聞いた。ここは戦線なのだ。我々ははじめて自分達がすでに敵陣ちかく迫っていることに気付いて、何かはっとした厳粛なものにうたれた。
 この時にあたり、軍正面の敵は狙撃三個師団半及び機械化旅団で、その主力は我が左翼方面にあって陣地を構築中と伝えられた。我々は三十一日の夜、出動以来はじめての露営を吉丸高地に於いて過ごした。天幕の中とは言え、のびのびと手足をのばした睡眠に、兵たちは連日の疲れを一時に取り戻した思いだった。



付図第十九
 
ノモンハン付近戦闘経過要図 昭和十四年九月六日



第三節 ドロト湖畔 (付図第十九参照)

攻撃準備

 あけて九月一日九時、部隊長は支隊長と同道して前面の敵情偵察に赴き十三時帰隊、部隊は引き続き同地に露営をおこなう事になった。
 吉丸高地から見ると右前方に小高いばらばら松の九七〇高地があり、そこには満軍石蘭部隊が陣地して、そのまた右前方はるかに松の疎林が続く。あたり一面は尺余の雑草が生いしげり、ハルハ河はみはるかす広野の涯てに長々と横たわって見えかくれする。
 この日、軍主力方面に砲声轟き、満軍陣地の上空では彼我入り乱れての壮烈な空中戦がかすかに認められた。
 九月一日の支隊長ならびに部隊長の敵前偵察により、敵は概ね九〇四高地(ハンダガイ西西北)より八八五高地、七八〇高地すなわちホルステン河屈曲部の線に停止しているが、逐次ノモンハン及び将軍廟の西方地区に近接せんとしていることが判断された。ここに支隊は集結地を前進するに決し、第九中隊は拠点占領部隊を命ぜられ、二日二十一時行動を起こして九五一高地に移動、部隊主力は三角標高九三七・二西側凹地に集結した。
 昼間は百度を越える炎熱であるが夜は厳しい寒気と変わる。二日の夜の寒気はまたひとしおであった。そぼ降る小雨に濡れた戦線は、深夜に入って零下五度の寒さに襲われた。冬服の上に天幕をひっかぶっても歯の根が合わぬくらいだった。
 広野の夜明けは早かった。短夜のあけ放たれるのを気遣いながら我々は爆撃に対する援護工事に専念した。一人を入れる各個掩蔽壕は、少なくとも一メートル五十以上に掘り下げなくてはならないのだが、幸い土質が軟らかかったため、工事は割に楽に進められた。入口はどうにか入れるくらいに、内部は何とか横に寝られる程度に掘り下げるのである。その他に足がかりを作って、ちょっとした物を置くにももちろん何もなかったが泥の棚を作るのはお好み次第だ。いよいよ穴ぐらしの用意は出来た。人の寝ている穴へ落っこちる。穴のアパートはなかなか物騒だ!
 三日、部隊より加藤准尉ならびに佐藤准尉が将校斥候として出された。
 この日から、正面の敵は戦機ようやく熟せるを思わせるように、一般に活況を呈して来た。
 三日十九時、遂に部隊命令が発せられた。

部隊命令

九月三日十九時三十分
於九三七・二高地西方約二粁凹地

一、軍正面ニ於ケル態勢大ナル変化ナキモ当正面ニ於テハ敵情一般ニ活況ヲ呈シツヽアリ
○団ハ敵ヲ当面ニ牽制スル目的ヲ以テ八八五高地ヨリ九九七高地ニ亘ル敵陣地ニ対シ攻撃ヲ準備ス、○○第十六○隊ハ一部ヲ以テ九〇四高地ヲ奪取スルタメノ諸準備ヲナス
独立○○第二十九○隊ハ一部ヲ以テ九九七高地ヲ奪取スルタメノ諸準備ヲナス
二、部隊ハ一部ヲ以テ八八五高地ヲ奪取スルタメノ諸準備ヲナサントス
三、重原中尉ハ小銃二分隊ヨリナル一小隊(軽機一ヲ有ス)ヲ以テ二十三時三十分出発明払暁迄ニ南部九四四高地方向ヨリ八八五高地ニ到リ同方向夜襲ノ目的ヲ以テ敵情地形ヲ偵察シ四日二十時迄ニ帰還スヘシ
四、宮田中尉ハ小銃一個分隊ヲ以テ二十三時三十分出発九〇四高地ニ夜襲ノ目的ヲ以テ敵情地形ヲ偵察シ五日五時帰還スヘシ
五、各隊長ハ夜襲ノ目的ヲ以テ九四四高地付近ニ到リ敵情地形ノ偵察ヲ実施スヘシ
六、警戒捜索地境左ノ如シ
○○第三十○隊○○第十六○隊間、片点線路上九五一高地南側─ハルハ河南側八三二高地ヲ連ヌル線、線上ハ右ニ属ス
七、攻撃ノタメ現在地出発ハ六日日没後トシ攻撃実行時機ハ七日前半夜ト予定ス
八、各隊ハ攻撃準備ノ捜索ニ方リテハ敵ヲ刺戟スルカ如キ行動ヲ避クルヲ要ス
九、第三大隊ヨリ一中隊(機関銃一小隊、○団無線一機属ス)ヲ石蘭支隊陣地ニ出シ○団並ニ後続部隊ノ進出ヲ掩護スヘシ
爾後○団長ノ直轄トス
十、合言葉ハ「山」「川」トス
十一、予ハ現在地ニ在リ

部隊長 柏大佐


 この日ヨーロッパにおいては果然英仏が対独宣戦を布告した。
 我が支那事変と呼応する如く独逸は遂に立ち上がった。さあ、我は今独逸と不可侵条約を結んでいる「ソ」連とここに戦い、独逸は今や欧州全土を向こうにまわして立ち上がったのだ。今や世界をあげて怒濤の如く、その帰すべきところに向かって驀進を開始したのである。無電に伝え聞いた将兵一同は、ここに判然と艱難なるべき皇軍の真姿を痛切に体得した。さもあらばあれ、皇国は大命のままに独り皇国の道を歩む。志気いよいよあがるのみ。

訓示

 四日、部隊長は各大隊長、副官、連隊砲中隊長、速射砲中隊長他に兵四名を率いて七時九四四高地付近偵察のため出発した。
 一行が九五一高地より九四四高地に至らんとする時、遥か前方に行動中の友軍斥候があった。馬をはせ駆けよって見ると昨夜出かけた重原、宮田の両斥候だった。重原中尉の報告によると同斥候はその行動中、長山北端において敵の騎兵斥候七名と遭遇しこれを撃退したとの事で、敵の斥候活動はますます活発になりつつあるのが知られた。
 この日はまた第十六○隊より出された将校斥候二組も敵と遭遇し、負傷者一名を出して苦戦に陥るなど、第一線部隊より頻々たる敵情報告がもたらされた。支隊本部は各隊に対し、潜入破壊班を選抜編成するように命じ、決戦は近きにありとの感がいよいよ迫った。
 こうした緊迫した情勢下にあって、部隊将兵がこれにも増して苦労したのは炊爨に要する水であった。やや近いところにやっと一箇所、水だまりを発見して、最初のうちはこのたまり水で辛うじて間に合わせていたが、馬匹の水飼と区別して使用しなかったのでせっかくの貯水池が泥沼と化してしまってからは、約十五、六キロも離れたドロト湖まで水くみに通わねばならなかった。
 夜二十時三十分、第十一中隊が機関銃一小隊、○団無線一機を配属されて○団長直轄となり、九七〇高地に進出して同地を占領すると同時に、後続部隊の援護を命ぜられた。
 五日ももっぱら夜襲のための諸準備に費やされ、きたるべき決戦を前に、部隊全員に戦勝酒が分配された。極めて小量ではあったが意気大いに上がった。この日軍司令官荻州立兵中将よりの訓示が伝達された。

訓示

 曩ニ第○軍ノ編組ヲ令セラレ図ラスモ立兵乏シキヲ以テ西北地区防衛ノ大任ヲ拝ス寔ニ恐惧感激ノ至リニ堪ヘス爾来匆匆ニシテ満蒙国境紛争ノ渦中ニ投シ次イテ直接戦線ニ於ケル戦闘指揮ヲ継承旬日余ニシテ今日ニ至ル
 此ノ間小松原中将ノ指揮スル諸隊ノ勇戦苦闘ニ依リ克ク戦局ノ破乱ヲ制シ軍ハ目下将軍廟周辺ノ地区ニ於テ次期攻勢ヲ準備シツヽアリ
 此ノ秋ニ方リ関東軍司令官ハ在満ノ最精鋭ヲ簡抜シテ当戦場ニ増派セラレ予ノ指揮ニ属シ以テ事変ノ迅速ナル処理ヲ企図セラル
 思フニ事態ハ既ニ単純ナル国境紛争ノ域ヲ脱セリ対支聖戦遂行ノ途上而モ暗澹タル内外政局ノ下今事変ノ推移ハ正ニ国家ノ大事ニ属ス
 而シテ軍カ斯ノ如キ難局ニ方リ対処スヘキ途ハ唯一ナリ即チ全軍全鉄ノ団結ヲ結成シテ速カニ敵ニ鉄槌的一撃ヲ加ヘ以テ彼ノ暴戻不遜ノ増長ヲ粉砕スルコト之ナリ
 今ヤ軍ノ戦備ハ着々トシテ国境鼠賊ノ蠢動ヲ一挙ニ封殺シ皇軍ノ精鋭ヲ世界ニ誇示スヘキ秋ニ会ス
 将兵ハ自重克ク事態ノ重大性ニ対スル認識ヲ深刻ナラシムルト共ニ上下一貫志気旺盛ニシテ靱強ナル攻撃精神ト必勝ノ信念トヲ堅持シ随所ニ敵ヲ圧倒殲滅シテ皇軍ノ威武ヲ宣揚シ以テ
大元帥陛下 ノ新倚ニ応ヘ下全軍ノ期待ニ副ハンコトヲ聊カ決意ヲ披瀝シテ訓示ト為ス

昭和十四年九月五日

第○軍司令官 荻州立兵

 これより先、九月三日以来九五一高地に拠点占領部隊を命ぜられていた第三大隊は、五日夜支隊直轄となり、軍正面にある敵を片山支隊正面に牽制する命を受けて八九一高地攻撃の準備中であった。
 六日十時から、部隊長は第一、第二大隊長及び各中隊長と共に九五一高地付近の偵察をおこなった。その途次九五一高地に於いて第三大隊長と会談の結果、部隊が夜襲を決行せんとする八九三高地の敵の注意力を北方に牽制するが有利と判明し、この目的を以て第九中隊より樺沢准尉を長とする将校斥候が派遣された。

樺沢斥候の行動

 樺沢准尉を長とする一個小隊は、六日十五時四十分陣地を勇躍出発、第九中隊より同斥候を援護する目的で、田中小隊が九五一高地西北一キロの凹地に前進待機した。
 樺沢斥候はまず陣地の西北、松林に沿う線を約四キロ前進して八二九高地に向かった。
 八二九高地付近の偵察を難なく終えた一行が、その東方三キロ付近に差しかかった時、突如敵の戦車四台が騎兵二騎を先頭にして襲撃し来たり、続いて八二九高地背後より敵騎兵一個小隊が同斥候めがけて襲いかかった。
 このありさまは遥か九五一高地からも手に取るように望見され、樺沢斥候危うしと見るや大隊長は第九中隊を以てこれの収容を命じ、一方速射砲隊はす早く敵戦車射撃の準備を終わった。
 八九三高地の北方にまたも戦車二台と歩兵一個中隊が現れた。敵は樺沢斥候を一挙に包囲せんとするかのようである。大隊長は、大隊主力を以て当面の敵を破砕すべく意を決し諸準備を整えた。
 すでに十九時ちかく、田中小隊は友軍の右に進出して戦闘を開始した。敵の戦車上からする射撃はますます猛烈となって来た。敵の鉄の攻撃に対して味方はただ肉弾を以て果敢に対抗して行く。
 しばらくして今度は敵の砲弾が我の周囲に土煙をあげはじめた。
 敵は八九三高地の背後より砲撃をおこなっている模様、十九時三十五分ようやく第九中隊主力が現場に取りついた。主力到着によって敵は逆に両翼を包囲された形になり、豆を煎るような銃声が、しばし高原にこだまして響く。あまりに広いあたりのため、彼我の銃声は金属板を叩くように聞こえる。
 やがてあたりはようやく暮色にとざされた。かくて勇戦二十分、かなわずと見た敵は散を乱して壊走し去った。



付図第二十
ノモンハン付近戦闘経過要図 昭和十四年九月七日



九四四高地へ (付図第二十参照)

 太陽は遥か草原の彼方に没した。部隊は夜に乗じて集結地を前進する事となった。
 まず十九時重原中尉は第三中隊を率いて露営地を出発、部隊主力援護のため九四四高地に進出した。その間部隊は全員背負い袋の軽装となり二十一時三十分粛々と行動を開始した。
 幸い咫尺を弁ぜぬ真の闇である。軟らかい土質は夜間行動には絶好だった。歩一歩と進むごとに鬼気にも似た厳粛な気持ちが身内をひきしめる。七日二時ついに命ぜられた集結地九四四高地に到達した。われわれはただちに
軍旗 を中心に各個の壕を掘って天明を待った。夜はますます暗い。敵は八八五高地一帯に鉄条網を張り、盛んに戦車壕を構築作業中との事だった。闇の中から金属の触れ合う音が微風に乗って聞こえて来るようにさえ思われた。

夜襲準備

 七日十時夜襲に関する部隊命令が達せられた。これによって、第一大隊(大隊砲小隊欠)は第一線となり二十時までに夜襲のための諸準備を完了、第二大隊(第七中隊欠)は第二線となり第一大隊の後方三百メートルを続行、第七中隊は予備隊となって第一線、第二線の中間を前進、通信班、連隊砲中隊、大隊砲小隊、速射砲中隊は浜大尉の指揮を以て部隊主力の後方四キロを続行する如く命ぜられた。そして時を同じうして第十六○隊は九〇四高地ならびに九七七高地に夜襲をおこない、○砲第三○隊は夜中に「ナマコ」形高地西側に陣地を占領し、八日払暁後における敵の逆襲に備える事になった。
 すでに攻撃のための配備は完了した。決行を当夜に控え部隊一同ははやりにはやって日の暮れるのをもどかしく待った。
 しかるに何事ぞ。
 十六時、突如支隊命令が発せられた。当部隊は夜襲を中止すべしとの命令である。まさにこれ九仭の功を一簣にかくの思い、将兵斎しく憤懣にも似た気持ちで切歯扼腕した。
 やむなく部隊は十九時三十分第二中隊をして九四四高地を確保敵情監視にあたらしめ、第一速射砲中隊(歩○○速射砲中隊)を新たに第三大隊長の隷下に入らしめた後、主力は九四四高地を出発二十四時、前露営地に移動した。
 部隊主力が露営地に帰りついて間もなく、十六○隊が夜襲をおこなうはずになっていた九〇四高地の方向に猛烈な機銃の音が聞こえた。それに引きつづき彼我いずれとも分からぬ砲弾の炸裂が響き、加えて手榴弾の音までが交じって来た。十六○隊が夜襲を決行したのだ!
 やったなっ!と思う間もなく、そのあたりにぱっと紅蓮の炎がたって炎々と燃えはじめた。敵が得意の火炎放射器か。かけつけて一戦争やりたいが命令なれば致し方ない。
 この火は一晩中炎々と燃え続け、夜明けと共にそのあたりの雑草は跡かたもなく焼きはらわれ、高地の頂上にたっていた松は一枝も残さず黒焦げになっているのが望見された。



九〇四高地付近の敵陣地(昭和十四年九月十二日)

付図第二十一
 
ノモンハン戦闘経過要図 昭和十四年九月八日



鋼鉄の瘤 (付図第二十一参照)

 八日九時四十五分第三大隊より左の要旨の報告を受けた。

一、敵ハ依然九〇四高地ニ砲撃中ニシテ極メテ的確ナリ
二、タマダ高地ノ敵ハ若干増強セル模様ナリ
三、九〇四高地ニハ友軍ヲ発見シ得ス

 また同十一時四十五分、第三大隊長及び第二中隊より、敵の歩騎兵約百は戦車七、八十両を伴い八八五高地方面より九〇四高地に向け攻撃を起せる旨の電話があり、部隊長はただちにこれを支隊長に報告した。
 前面の状況はまた一段と緊迫し来たったのである。十三時に至り、支隊より部隊は速やかに九四四高地に進出して当面の敵をハルハ河に圧倒殲滅せよとの命令が達せられた。再び決戦の機運は熟した。よって部隊長ならびに第一大隊長はただちに先行し、命令受領後十数分にして行動を起こした部隊は、早くも十六時まえに九四四高地に到達した。ここはすでに第二中隊によって占領されていた地点である。この高地から遥かに九〇四高地のかたをのぞみ見ると濛々たる火炎は天に冲し、敵味方入り乱れての砲銃弾は砂塵をまきあげて炸裂した。その間をじーっとすかした我々は一体そのところに何を見つけたか?実に高地を覆いつくした敵の重軽戦車に他ならなかった。今や小さい平原の瘤の全表面が鋼鉄を以て覆われていたのである。かくまで逼迫せる状況に、部隊長はただちに第二中隊をして前方約三キロにある石山高地に進出せしめた。森野中尉の命令一下、第二中隊は石山目がけて遮二無二急進を開始した。しばらく前進すると、これに気づいた敵は猛烈な射撃を加えて前進を阻止せんと試みた。その弾丸の雨をかいくぐり中隊は進みに進み、十八時五十分見事に石山高地に進出し、敵の左側背を衝く態勢をとった。



石山高地の戦闘(昭和十四年九月七・八日)



砲撃戦

 一方九四四高地に於いては、十八時再び支隊命令が発せられ、部隊は支隊の右第一線となり九四四高地西南三キロ閉鎖曲線の方向に前進し敵の背後を攻撃、日没後は潜入破壊班を以て敵戦車ならびに砲兵を襲撃壊乱したる後九四四高地東方三キロの凹地に集結する如く命ぜられた。
 この中に九〇四高地方向の敵戦車砲及び八八五高地南方、九〇四高地からの敵野砲は、部隊の前進を防ぐべく砲撃を開始し砲弾は高地周囲に炸裂しはじめた。
 部隊は十八時二十分、砲弾落下の間隙を縫って石山に向かい攻撃前進を開始、約三十分にして予定通り石山高地に進出した。目に物見せてやる時が来た。火炎瓶をさげ、爆雷を抱いた将兵は、まなじりを決しはるかに九〇四高地のかたをのぞんだ。
 しかるに何とまたまたこの時支隊本部から爾後の前進を中止せよとの命令に接した。友軍の危急を目前にする上からは、部隊長以下一同斎しく攻撃前進を願ったが命令なければまたやんぬるかな。現在の態勢のまますごすこととせねばならなかった。この時速射砲中隊は第一大隊の右翼に位置していたが、石山西方約二キロの高地に敵砲兵の観測所及び自動火器陣地があるのを発見、これに砲撃を開始した。これと同時にナマコ形高地付近にあった友軍○砲も同観測所に砲撃を加え、更に射程を延伸してハルハ河右岸地区の敵に猛然たる砲撃の火蓋を切った。と見る間に今まで九〇四高地に対して火力を集中していた敵の重砲、野砲の砲列は、一斉に射向を石山の方向に転じ、ここに凄絶極まりない砲撃戦が展開された。敵の弾着は極めて確実である。弾道は交互に天空をさいて唸り、第一線陣地に狂ったように炸裂する。部隊長以下全員は、その都度砂ほこりを頭から浴びた。これに対する友軍○砲はわずか四門にもかかわらず、的確な必中弾を以てやがて完膚なきまでに敵陣を破砕し尽くした。十九時ごろ、猛烈な砲撃戦の上空に約五十の敵機が襲い来たったが、部隊は機関銃を以てこれに応戦ついに撃退した。
 ようやく暮色を加え来たった十九時半すぎ、頑強なさしもの敵も、まず歩騎部隊が退きはじめた。これに続いて戦車が数十台そうそうと逃げ出した。得たり、と友軍砲兵はこれに弾雨をはなむけたが、陽はすでに没して目標は深い暮色の中に消え去ってしまった。彼我の砲声は逐次間遠くなり、敵の砲弾が思い出したようにドドーッと炸裂したのを最後に、戦場は静寂そのものの世界にかえって行った。つい先刻までの砲声と爆音にひきくらべてこの静けさは何としたことであろう。音のない凄気がひしひしと戦場にみなぎりわたった。
 かくて第一線部隊(第一大隊)は川島小隊を現地に残し、主力は集結地を石山より九四四高地東側に移動した。

吹雪と蚊

 九日の夜はあけた。相変わらずの穴暮らしである。我々は敵方に絶えず警戒の目をひからせていなくてはならぬ。一方炊爨にまたこっぴどく悩まされた。この頃から給水自動車が前線まで来はじめたがそれもともすると途切れがちであったので時によると飲料水のために二十数キロも離れたドロト湖まではるばる行かなくてはならなかった。この日も北方の二十三○団方面には絶え間なく砲声が聞こえ、黒煙がたちのぼるのが見えた。
 部隊はこの正午を以て○○第一○隊と現在地を交代して将軍廟に移動する事になっていたが、朝来敵は支隊前面に着々と兵力を増強し、強固なる陣地を構築中との情報によって急遽交代を変更される事になった。
 ひる過ぎより国境の空は急に険悪になり出した。草原を吹く風はやがて疾風と変わり雨を加うるにいたった。夜に入って雨足は多少弱くなったが、深夜ごろから今度は白いものが降りはじめた。九月上旬というに国境にははや初雪が訪れたのだ。寒気はますます厳しくなる。歩哨に立った兵の中には失心するものもあった。無理もなかった。昼間は百度を越す酷熱が、夜になるといきなり零下十度ぢかく降ってしまう。気だけはいくらしっかりしていても、人間の体力には限りがあった。それでいて敵は猛烈で、吹雪に入りまじる蚊の襲撃は、常識ではとても考えられない妙なものだった。この困苦の中に兵はみないっぱし詩人になって来た。知ってる限りの歌を土台にして替え歌が幾つも作られ、口吟まれた。単調に飽いてしまった兵達の、せっぱつまった鬱憤のはけ口だった。

 ハロンアルシャン出てからは
 昼も夜もない行軍で
 ひげに似合わず顎を出し
 水さえあればと負け惜しみ
 来る日来る日も米と味噌
 ハルハ湖畔の穴の中
 糧秣自動車来る度に
 水は来たかと顔を出す
 飯盒片手に雨の中
 どこがおいらの穴じゃやら
 見分けも付かぬたそがれに
 ドッコイ落ちたは人の穴

 ふざけたようだったが、こうした文句が、一番兵隊にぴったりした。
 九月十日の朝は広漠たる雪景色に明けた。雪は雨となり、また霜と変じて終日降り続いた。部隊長以下全員は泥まみれの穴の中で、飢えと寒気に戦いながら厳重な警戒を続けた。糧秣、飲料水、燃料の補給は到底望むべくもない。副食物は一日中梅干しばかり、それさえないと雨水を飯にかけてすすりこんだ。
 十一日になっても天候は依然回復せず、更に猛烈な吹雪となって来た。兵隊たちはもう乾いたところは一箇所もなくなった。
 十七時三十分、高野中尉以下の一個小隊が、九〇四高地西方よりハルハ河付近の偵察のため出された。
 高野中尉以下四十名は地雷二十個、爆雷五個、火炎瓶及び手榴弾を携行して出発した。まず石山東側を経て九〇四高地路上に至り、敵の通信網を発見破壊し、さらに敵戦車の集結地を求めてハルハ河の方向に前進した。約六キロ前進したけれども敵戦車を発見するに至らず、やむなく道を変じて九〇四高地南側陣地付近に差しかかるや、通信網を修理中の敵兵二名を発見した。手土産とばかりこれを捕虜にせんと取り囲んだが不意を食った敵は発砲しながら逃走せんと試みた。やむなくこれをしとめて翌十二日二時頃、利かぬ磁石に敵中をさまよいしつつようやく帰隊した。
 この行動において兵一名が左前膊部骨折貫通銃創をうけ、一名が咽喉部に槍創をうけた。

雨の中

 吹雪は雨と変わったが、寒気は厳しかった。
 十二日払暁、第三中隊笹川上等兵以下四名が、石山西方地区の敵情捜索を命ぜられ、すでに明からみはじめた三時、そぼ降る雨をついて中隊陣地を出発した。
 四時頃、一行が九四四高地西南約四キロの地点にかかった時、出会い頭に敵歩兵八名とぶつかった。笹川上等兵は、すかさず我に倍するこの敵に突入したが、敵のはなった盲目射ちの一弾は無念にも同上等兵の頭部を貫通した。不意をうたれた敵兵はたちまち南方に壊走し、一行は上等兵の死体を収容して七時帰隊した。この尊い犠牲によって部隊正面の敵斥候の活動は依然として活発であることが察知された。また高野斥候の行動に脅えてか信号弾がさかんに射ちあげられ、敵の動きは連日の悪天候にもかかわらず漸次激しくなるかに見えた。
 十三日になっても雨は降り続いた。朝六時に達せられた命令により、第三大隊は夜に入って満軍石蘭部隊と任務を交代して九七〇高地に移り、部隊は主力を以て九七〇高地より九五一高地を経て九四四高地の間を占領し、将軍廟──ハンダガイ道を確保する如く命ぜられ、第二大隊は第一大隊と第一線を交代した。
 この夜も九〇四高地付近には敵の照明弾、信号弾が盛んに射ちあげられ、手榴弾の炸裂、機銃、小銃の音が終夜断続した。
 十四、十五両日を部隊は終日至厳な警戒のうちに過ごした。相変わらずの雨、雨、雨である。水さえあればと負け惜しみをした兵隊も、こうなっては、壕の中で戦車地雷を抱きながら腹の底まで冷え切った。砂を多分に含んだ土が、濡れてもぬれてもどしどし水を沁みこませて行くのがせめてもの幸いだった。みなの穴には小さな野鼠が巣をつくりはじめた。そんなものにも何故か殺せぬ妙な親しさが湧いて来るのだった。
 十五日の暮れ方から、空がかすかながらも明るくなった。あけて十六日。空は忘れたように晴れ上がり、美しい太陽がさんさんと輝きはじめた。光りの魔術は、大草原の白露を限りない宝玉に変えて、われわれの目を奪った。
 すぐ前には敵の戦車群が、我々を蹂躙せんと手ぐすねひいていた。だが兵隊たちは、何物も忘れて、陽光のめぐみに白けきった身体をさらした。
 敵前の日光浴に濡れきった戎衣もどうやら乾いた。
 さあ陣地強化だ、対戦車壕の構築だ。各個の壕も修理しなくてはならぬ。この結構な穴の住居も、さすがに連日の雨でいたみ方がひどかった。やっぱり愉快なのか、背に筋の入った、リスのようなノモンハン鼠が、ピョコンピョコン壕のから飛び出して来た。
 この日は終日工事に専念した。
 十八時三十分、第三大隊より敵は薄暮攻撃を企図しあるものの如しとの報告があった。だが、全く奇妙な一日であった。眼鏡で見ると遥かノモンハンの方にぽっかりアドバルーンがあがっていた。一発の砲声もなく、銃声さえも聞こえなかった。これまでこんな日も夜も一度もなかった。この静けさは一体どうしたのだ?砲弾の子守唄に慣れた一同はその夜、かえって妙にねつかれなかった。

停戦協定

 十七日も、前日に増した日本晴れにカラリとあけた。八時斎藤大尉が連絡のため支隊本部に赴いた。ところが何と、停戦協定が昨日のうちに成立してしまっていた。国境をとざした血なまぐさい暗雲は、この天候と共に晴れ上がってしまったのだ。一体これで良いのか、悪いのか。とにかく事件は一応決着してしまったのだ。ホッとしたというよりもがっかりした気持ちで、みなしばらくはぐったりする気がした。昼過ぎ鈴木准尉以下三名が、アルシャンに置いて来た諸材料を自動車で運搬して来た。その荷物の中に、これはまた思いがけなく我々にあてた郵便物が十梱混じっていた。雨にうたれ、陽にやかれ、白い歯をむき出して目ばかりギラギラひからせている兵たちは、この日初めて心の奥そこからニンマリと微笑した。

警備

片山支隊命令

九月十七日三時
崖山東北側

一、昨十六日八時ヲ以テ停戦ヲ命セラル
二、各隊ハ直チニ戦闘行動ヲ停止スルト共ニ厳ニ現在地特ニ第一線ノ態勢ヲ確保シ後命ヲ待ツヘシ
三、予ハ現在地ニアリ

支隊長 片山少将


 部隊は停戦協定により、即日現配備のままドロト湖西南地区の警備に任ずる事になった。
 十八日からまたもや雨が降りはじめたので、前方の情況は充分に判明しなかったが、総じてソ軍の活動は消極的で、兵力も徐々に西方に向け移動している模様だった。
 二十日第○軍合同慰霊祭が、将軍廟南側レンゲ山付近で執行され、部隊より部隊長以下五名の代表が参列した。第一線部隊では同時刻に第一大隊のラッパを合図に、はるか将軍廟方向に対して一分間の黙祷を捧げ、国境血戦の鬼神と化した戦友の英霊に、心からなる冥福を祈った。
 この日、日ソ両軍は、停戦による第一線を標示するため赤白旗を樹立した。
 整備に入ってから敵弾の洗礼は一応遠ざかったが、情勢はいつ急変するか予断は全然許せなかった。我々はまず陣地の改造に着手した。
 これまではひとりひとり穴蜂のような各個壕を構築していたのだが、種種の不便から各小隊ごとに掩蔽壕を掘り、地上すれすれに携帯天幕を張って長期対陣の準備をした。
 国境の秋はいよいよ深く、日中の陽ざしはいくらか凌ぎ易くなったが、夜間の寒冷はひとしおと厳しさを増して来た。今までは戦場の騒音にかき消されて聞こえなかった蒙古狼の不気味な遠吠えが、毎夜のように聞こえた。風の疾い夜は、草のざわめきが風に乗って、遥かに遠のくのがいつまでも聞きとれた。対陣の間、われわれは角力に興じきたるべきものを待った。



第四節 帰還

御言葉

 二十三日午後、部隊帰還に関する要旨命令が達せられた。

要旨命令

九月二十三日

一、帰還ニ就イテ
1 二十八日現陣地ヲ撤シ支隊ハ「ハンダガイ」峠西側地区ニ集結ス
此際支隊予備隊ハ十時マテ主力撤退ノ援護ノ態勢ヲトル
第一線部隊ハ撤退ニ方リテハ中隊毎ニ将校ノ指揮スル一分隊ヲ現陣地ニ残置
主力ノ集結終リタル頃撤退集結地ニ到ル
2 先頭部隊ハ二十九日集結地出発十月一日ハロンアルシャン着、十月二日・三日ノ両日乗車
二、速射砲中隊ハ本夕片山部隊本部ニ集合明二十四日出発、二十七日乗車、○○兵○隊ヨリ自動貨車四両ヲ以テ之ニ協力セシム


 九月二十五日
閑院参謀総長宮殿下 より関東軍隷下諸部隊に対し、優渥なる御言葉を賜った旨、第○軍司令官より達せられた。

隷下一般ヘ達

参謀総長宮殿下 ヨリ左ノ如キ御言葉ヲ賜フ実ニ恐惧感激ニ堪ヘス隷下及指揮下部隊将兵一同自粛自戒益々奮励努力以テ御期待ニ副ヒ奉ランコトヲ期スヘシ

昭和十四年九月十九日
第○軍司令官 荻州立兵

今次「ノモンハン」事件ニ際シ関東軍隷下諸部隊ハ長時日ニ亘リ不毛ノ地ニ困苦ニ堪ヘ瘴癘ヲ冒シ克ク力戦健闘セリ深ク其ノ労ヲ多トスルト共ニ特ニ戦没ノ英霊ヲ悼ミ傷病ノ将士ヲ慰ム

昭和十四年九月十六日
参謀総長 載仁親王

 この日第一線部隊たる第二、第三大隊は、軍の指示により現在占領しある地点に標石を埋没した。すなわち第二大隊は石山高地頂上に、第三大隊は九七〇高地の頂上やや前方に「日本軍占領」と刻した標石を埋没し、皇軍奮戦の跡を永久に国境深くきざみつけた。
 九月二十七日、部隊はいよいよ苦闘の一月を過ごしたホロンバイル平原に決別を告げて原駐地に向け帰還の途についた。想えば苦しかった一ヶ月であったが去るとなると穴の住家もまた思い出ふかいものがあった。

生きて再び

 早朝四時第一線部隊は、監視のため将校の指揮する一個分隊を残置して撤退を完了、主力は第二中隊を尖兵としてハンダガイ峠西側の集結地に向かった。九時十分全員異状なく集結を終わり、監視のため現場に残置された小林分隊、清水分隊、南田分隊、田中分隊も、それぞれ夕刻にかけて同地に無事帰還した。
 その夜はここに露営して、翌日六時五十分行軍を開始した。このあたりは一ヶ月前に難行軍に難行軍を重ねた草原地帯なのだが、往路と異なりトラックが時々給水に来てくれた。ただ、蜿蜒と長蛇の列をなして驀進する自動車の群れが、目も鼻もあけていられないほど、濛々たる砂塵をあびせかけては行きすぎた。同夜はハンダガイに露営、二十九日早朝トロル河に向かって進んだ。今日もまたトラック群との道行で、十四時十分トロル河に着いた我々は、その夜はここに露営し、明けて三十日アルゼン橋に向かった。このあたりの道路は猛烈な車両の往来のため甚だしく破損していた。
 各中隊から下士官を長とする兵十名が出されわれわれは道路修理をおこないながら進み十三時三十分アルゼン橋に着いた。
 部隊は同地に四日間の露営を実施、その間道路修理及び帰還のための諸準備をおこない、ドラム缶の風呂に戦塵を流し魚を釣り英気を養った。
 十月五日アルシャン駅から乗車した。ちぎれ雲が飛んで、遥か国境の空はどこまでも高く澄みわたった秋空であった。かくて部隊は二梯団に分かれて一路原駐地に向かい、こえて八日、第一次部隊は十七時三十分、第二次部隊は十八時三十分、官民多数の盛んな歓迎に迎えられて懐かしの穆稜に第一歩を印したのであった。

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