*補足(藤本) 瀬名波 栄『太平洋戦争記録 宮古島戦記』という本に、納見中将の自決に関する記述がある。 *** 納見中将が自決したのは戦後の昭和廿年十二月十三日、野原越司令部の宿舎で毒を仰ぎ五十一年の生涯を閉じた。 これよりさき十二月一日連合軍により戦犯追及を受け、BC級戦犯に指名されていたので、逮捕間近いことを悟っていたようだ。 幼年、士官、陸大を卒え一生を陛下の股肱として奉公の道を歩んできた中将としては、かっての敵国に縄目のハジを受けることは武人として到底しのび得ないことであったにちがいない。 戦犯容疑は上海憲兵司令官当時の俘虜取り扱いが主だったが、中将自身は昭和廿年七月宮古島で米航空将校の処刑を命令実施したことについても責任を痛感していた。 自決の決心は戦犯指名後になされたようで、十二日の夜宿舎に一瀬参謀長、陸路、杉本両参謀を招き、それぞれ遺品を分ち与え、それとなく袂別したと云う。 中将の自決は翌朝発見されたが、遺族に累を及ぼすことをおそれて米軍には死因は脳溢血によると届出で検死を受けた。 遺骸はダビにふし、遺骨は専属副官豊島勝美中尉が持ち帰り、遺族に届けた。広島県尾道市本庄町市原に未亡人おはるさんが現存している。 (納見中将辞世) 勝ち国の法や如何にも裁き得む 踏みし忠義の道は変らず 納見中将の死後は安藤忠一郎少将(独混第六十旅団長)が集団長代理として在宮古島部隊の指揮統制に任じた。 『太平洋戦争記録 宮古島戦記』の八十九ページから引用
*補足(藤本) 以上、『自昭和十九年三月二十二日 至昭和二十年六月末日 第三十二軍戦闘序列および指揮下部隊一覧表』(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』の付図)から第二十八師団の部隊編成を引用した。 *補足二(藤本) 瀬名波 栄『太平洋戦争記録 宮古島戦記』に、宮古島の戦略的価値に関する記述がある。 *** 第三章 敵来攻愈々必至 一、沖縄か、宮古か、大本営も判断に迷う 昭和十九年二月米機動部隊による中部太平洋トラック島の大空襲は足下に火がついたように大本営をあわてさせた。大本営は南西諸島に対する米軍の来攻近しと判断、大急ぎで防備強化に乗り出したが、宮古島の配備状況は、 昭和十九年三月―四月ごろの応急配備 十九年七月廿八師団到着後は本格的来攻を予想しての決戦配備の 作戦準備が行われた。 当時大本営では米軍の進行コースがヒリッピン、台湾、硫黄島の何れかに向けられるか、あるいは直接本土を襲うか、判断に迷っていたが、全般的には昭和二十年三月―五月ごろがもっとも沖縄来攻の公算が大きいと判断していたようである。 沖縄島と宮古島との何れに来るかとの判断については、 イ、沖縄攻略の足がかりとするため先ず宮古島に来攻する(長参 謀長らの見解) ロ、本土に対する作戦のためには距離、航空基地の状況などから して沖縄本島に来る公算が強い ハ、沖縄、宮古両島に同時に来攻する ニ、沖縄攻略後における先島諸島に対する掃蕩作戦 以上の四つが考えられていた。 大本営は宮古島の戦略的価値について 一、南方航空作戦の中継基地 二、台湾又は沖縄本島に敵が来攻した場合における航空攻撃基地 三、支那大陸、特に上海方面に敵来攻した場合の航空中継基地 以上の観点からその航空基地を基本的要素としていたが、島が平坦で攻撃が容易なことから米軍による上陸作戦の可能性もあり得るとしていた。 米軍の当初の計画は沖縄作戦後第二次作戦として宮古島攻略を企図していたが、沖縄本島攻略後この計画を中止したが、もちろん日本側には分らなかった。 『太平洋戦争記録 宮古島戦記』の三十四ページから引用 「輸送船での出来事」 ●石坂 「満州駐箚の任を終えた三十連隊に、沖縄防衛という新たな任務が与えられた。戦局もいよいよ大詰め、誰一人口にしなかったけど、生きて戻ってこられないのでは……と、覚悟したもんだ。だけど、簡単に死ぬのもばからしい。俺はね、絶対生きて帰ってやると、心中ひそかに決意して、戦争がおっかないなんて思わなかった。でも、中にはそういうのがいたんだ。 九州から輸送船に乗って沖縄に行くときに、一人自殺した兵隊がいたけど、彼は戦争が怖くて船の中で命を絶ったんだ。銃でバーンとね」 ■藤本 「三十連隊の人ですか。まさか同じ中隊じゃないですよね」 ●石坂 「同じ第八中隊だよ。名前は忘れてしまったけど」 ■藤本 「九州から沖縄ということは宮古島に行く途中ですよね」 ●石坂 「そうだよ。釜山、桜島と経て……桜島には五日間くらい泊まったのかな。あの頃はトラック島がやられていたから、輸送船の安全が保障されなかったんだ。 頃合いを見計らって出航したね」 ■藤本 「自殺した兵隊の家族にはどんな理由で亡くなったと伝えたんですか。本当のことは言えないですよね」 ●石坂 「多分、適当な死因をでっち上げたと思うよ」 *補足(藤本) 瀬名波 栄『太平洋戦争記録 宮古島戦記』に、第二十八師団に関する記述がある。 *** 第二章 廿八師団に宮古島転用発令 一、櫛渕師団長ら乗り込む 第廿八師団が大本営命令により第卅二軍(球)に編入され、沖縄転用がきまったのは昭和十九年六月三十日だった。第廿八師団は昭和十五年七月第一、第九第十四師団のうちから各歩兵一個聯隊を抽出、それに以上の三個師団から特科部隊(騎、砲、工、輜重兵)より基幹要員をひき出し、内地から兵員を補充して編成された。兵は少数の補充兵をのぞく外殆んど現役、下士官は三分の二が現役、尉官クラスは大半予備役、佐官以上は現役で占め、とくに戦力の根幹をなす歩兵部隊は日清、日露両戦役に勇名を馳せた第三、卅、卅六聯隊で、山地局地戦斗に行動し得る装備をもち、当時の日本陸軍では最精鋭師団の一つに算えられ、砲兵が山砲聯隊であることもその特色であった。 師団は対ソ戦に備え、ハルピンに駐屯していたが、防諜上の関係で十九年二月十四日チチハルへ移駐(元高級副官浜中佐の記録ではチチハル移駐は五月三十一日)同方面の警備についた。同年六月二十日サイパンが危急を告げたので、大本営は六月二十二日、廿八師団れい下の歩兵卅六聯隊と工兵廿八聯隊に釜山集結を命じた。卅六聯隊は六月二十六日大本営命令によって在比島第十四軍に編入されたが、七月四日づけで廿八師に復帰、七月中旬師団からはなれて軍艦で南大東島、北大東島へ送られ、同島の警備についた。また工兵廿八聯隊は六月二十六日師団に復帰した。 同日師団は大本営命令によって上海付近に集結、待機を命ぜられ独立速射砲第廿五、第廿六両中隊を編入、戦力を増加した。同月三十日師団は大本営命令によって第卅二軍(球)に編入され、沖縄転用がきまった。同時に上海集結が釜山集結に変更され、各部隊は七月一日ごろから列車輸送によって釜山に集結、十五日ごろ集結を完了した。 このように集結先が上海から釜山へ変更されたのは大本営の方針が一定していなかったのではないか。司令部員も釜山で馬匹をチチハルに送還、七月二十一日釜山港出帆後始めて宮古島へいくことを知ったほどであると、浜元高級副官は語っているのから推しても当時の大本営のあわてかたが分るようだ。このような経緯をたどって二八師の宮古島転用がきまり、師団長 櫛渕せん一中将は七月九日飛行機でチチハルを出発、奉天経由で十一日釜山へ着いた。福地参謀長は外村情報班長らをともなって七月五日那覇へ先行、卅二軍司令部で諸般の指示を受けたのち、七日宮古島へ乗り込み、女学校を本拠にして師団主力の進駐計画指揮にあたった。櫛渕師団長は釜山で現地からの報告にもとずいて主力の輸送計画を指導、十六日釜山発、十八日福岡を軍用機で発って那覇着、廿日宮古島へ向かい、福地参謀長らに迎えられて女学校に至り、戦斗司令所を開設した。 同行者は陸路参謀、堀江専属副官。これよりさき、七月十四日第卅二軍司令官は第廿八師団長に対し、宮古島、石垣島、西表島地区防衛の任務を付与した。 『太平洋戦争記録 宮古島戦記』の二十一~二十二ページまで引用
「最後の帝国陸軍軍人」 ▲明夫 「藤本さ、おやじの宮古島時代の話は資料がそれなりに残っているから質問も少なくて助かるだろう」 ■藤本 「いや、全くそのとおり。一番やりやすいところだね。明夫さんも読んだろうけど、戦友会で作った本に載っているこの文章(*上記掲載)だけで事足りるよ」 ●石坂 「俺も楽だ(笑)。大昔の話だから、記憶に残っていない部分が多々あって、思い出しながらの会話は結構疲れるんだ。もう年だしね。人生おしまい。おばあちゃん(マツエさん)も死んじゃったしな」 ■藤本 「そんな弱気は勘弁してください。まだまだこれからです。最後の帝国陸軍軍人として、その貴重な体験談を伝えていってくださいよ。石坂准尉の宮古島従軍話は貴重極まりないです。涙を禁じ得ない大変な苦労をしているじゃないですか。まだもう一仕事やっていただきたい、ぜひ」 ●石坂 「疲れちゃうな~」 ◆一同 (笑) *補足(藤本) 瀬名波 栄『太平洋戦争記録 宮古島戦記』に、宮古島防衛に関する記述がある。 *** 第四章 水際決戦方針で重点配備 一、守備に困難な宮古島の地形 十九年秋に入るや敵潜艦の出没しきり、又大機動部隊の接近などにより、いよ〳〵戦場化必至の状勢となった。 宮古島防衛作戦研究のため第一回目の兵棋が卅二軍から長参謀長、薬丸参謀を迎えて行われたのは十二月二十二、三日だった。女学校の司令部で櫛渕師団長、福地参謀長各参謀、各団体長(聯隊長以上及び配属部隊長)らおよそ二十名が参集、米軍の上陸を想定して各地区隊の行動及び配属部隊の協力などについて熱心な研究討議が行われた。 孤島の防衛についてはサイパン戦などの戦訓から、友軍海空軍の全面的協力が期待されない限り成算が見込みうすであることはほぼ常識となったので、当初友軍の協力を期待しての戦略持久戦法も考えられたが、諸般の情勢から推して可能性がうすく、結局、敵上陸時に於て水際に兵力を重点的に集中、一気にこれがせん滅をはかる、水際決戦方式がとられることになったが、状況止むを得ない場合は敵上陸後も飛行場使用を妨げるため、長期にわたっての抵抗戦を展開すべく、復かく陣地を堅固に構築することなどがきまった。 宮古島防衛上の地形的難点として イ、島が狭小で、四囲から艦砲射撃を受けるおそれが大きい。 ロ、上陸可能地が多い。 ハ、島全体が平坦で不沈空母の状態であり、陣地の拠点となるべき 堅固な地形の乏しいこと。 ニ、敵上陸後その前進を阻止する障害地形の乏しいこと。 ホ、飛行場の防衛が地形上困難なこと。 ヘ、狭小で自活能力の低いこと。 などがあげられ、防衛戦の困難を思わしめた。とくに陣地構築作業が全島サンゴ礁で岩盤が固く、しかも工具不足のため、遅々として進まないのは現地軍の大きな悩みだった。 米軍上陸想定地として次の要素から、平良港付近、下地町宮国―嘉手刈付近、白川湾付近が挙げられ、重点的に兵力を配置、防衛に遺憾なきが期されることになった。 イ、上陸容易なこと。 ロ、上陸支援が容易なこと(艦砲射撃のため艦艇の行動容易) ハ、上陸後比較的平坦地区を一挙に島の中心部に殺到するのに適しており、資材の推進展開が容易である。 ニ、作戦目的の達成に容易なこと(たとえば飛行場の奪取) 以上の諸点があげられ、その他の地点は断崖概ね海岸に迫まつているので、上陸後一気に進出するのには不適当と判断された。 この防衛作戦計画はその後数回の兵棋を重ねて修正、廿年三月ごろ最終的に策定されたが、その根幹をなすものは別紙要図の如く、宮古全島を四地区に分け、守備担当部隊の配置と配属部隊の協力体制から成るものであつた。 (略) 一、北地区隊(平良町) 長独立混成第五十九旅団長 多賀少将 独立歩兵第三九三大隊 〃 三九四大隊 〃 三九五大隊 旅団 工兵隊 〃 通信隊 〃 砲兵隊 歩兵第三十聯隊(富沢大佐) 独立速射砲第廿五中隊 山砲兵第廿八聯隊第五中隊 海上挺進基地第四大隊第一中隊 (註、北地区は当初歩兵第卅聯隊長富沢大佐の担当だったが、昭和二十年六月伊良部島の守備に任じていた独混第五十九旅団主力(歩兵一大隊基幹残置)の平良町移動に伴って多賀少将の指揮下に入る) (略) 二、主戦力形成の両古豪れん隊 (宮古島防衛) 一、方針 有力な部隊を以て水際を堅固に占領し、努めて水際に敵を撃滅する。その重点を北地区及び南地区に指向する。 敵が上陸に確固たる地歩を獲得したならば戦斗警戒部隊(遊撃部隊)の果敢な戦斗と主陣地よりする挺進斬り込み戦斗によって敵戦力を漸減し、周到に準備せられた主陣地に誘致して敵にせん滅的打撃を与えて撃破する。状況止むを得ざる場合に於ても複かく陣地に拠って最後の一兵に至るまで敢斗し、敵をして飛行場の利用及び設定を妨害する。 二、指導要領 イ、北正面(平良港付近)より来攻の場合は第六十旅団長は南地 区隊を併せ指揮し、海軍地区隊陣地に主力を配備する。 ロ、南正面(下地村宮国―嘉手刈方面)に来攻の場合は北地区隊 長は主力を以て南地区隊内、川満拠点及びその東側、北側拠点 に主力を転移する。 ハ、海軍部隊は陸戦については第廿八師団長の指揮を受ける。 以上にみる如く宮古島防衛の重点は北地区及び南地区に指向され、とくに地形上、敵上陸の可能性がもっとも強いと目される南地区には歴戦の古強者で師団ただ一人の功三級拝授の武勲に輝やく古豪聯隊長、ム土軍大佐の率いる歩兵第三聯隊を配備した。ム土大佐は福岡県の出身、支那事変に従軍、上海、南京、漢口攻略戦に偉功をたて、引きつづき山西省太原西方地区の共産匪賊及び山西軍掃蕩に殊勲あり、武功抜群なりとして功三級を賜わったほか、軍司令官、師団長より感状賞詞を授与されている。 十八年三月、北満の聯隊長に転補、十九年八月、歩兵第三聯隊を率いて宮古島の守備に馳せ参じた勇猛果敢、もっとも頼もしい、指揮官の一人でもあった。 山砲第廿八聯隊長の梶大佐(故人、ガダルカナル戦生き残りの勇士)同期生のよしみで歩砲協力作戦について十分意志の疎通がとれていたようだ。 また北地区には同じく日清日露戦役以来の伝統的強味をもつ歩兵第卅聯隊(富沢大佐)を配し、のちに伊良部島から移動してきた独混第五十九旅団主力(多賀少将)の増援を得て一大戦斗兵団を形成していた。 米軍来攻に備えるための陣地構築は水際陣地、主抵抗陣地の二段構えで進められ、水際決戦で破れた場合は主抵抗陣地へ誘導して出来る限り長期間にわたって抵抗、敵の飛行場使用及び設定を妨害すろ戦術方式がとられることになっていたが、守備軍首脳の悩みは全島がサンゴ礁で固い岩盤におおわれていることと、たがね、爆薬などの資材工具不足のため、作業が遅々として進まず、敵来攻の公算が大きくなった二十年三月ごろになっても予定の七〇%(?)にも達しないことであった。飛行場作業に兵員を割かれたことも陣地構築が進捗しない原因の一つであったが、このことは守備軍首脳の焦燥を募らせた。しかし状況が切迫するにともなって作業は急ピッチで進められ、一通りの防衛陣地が完成したのは六月ごろだった。 作戦を担当した杉本参謀の回顧によると、自信のもてる陣地がほぼ出来上がったのは終戦時だったと云う。 戦後米側の資料によると、米軍は沖縄作戦一段落後に宮古島攻略作戦を考慮していたようだが、沖縄攻略後その必要度がうすくなつたので、取り止めたと云う。しかし当時現地軍側ではこのことを知るところとならなかったので、沖縄戦の終りごろにあたる六月下旬、米軍による南西諸島掃蕩作戦が実施される公算が大きいとして六月二日には乙号作戦が下命されている。 作戦参謀の杉本和朗中佐は東京都の出身、明治四十一年生、陸士四十二期生。昭和五年少尉任官、支那事変には中隊長、大隊長として参戦、北支方面の戦斗で殊勲を顕わし、功五級金し勲章を賜わっている。昭和十九年陸軍省軍務局付兼大本営報道部付、十九年陸大専科卒、第廿八師団参謀に補せられ、廿年三月陸軍中佐に任ぜられた少壮有為な参謀将校。宮古島防衛に智能と心血を注いだが、幸い米軍の上陸を迎えることなく終戦、復員後東京に在住している。 もし米軍の上陸作戦が行なわれたと仮定した場合、どれくらい持ちこたえられる見通しだったかと云うことについて、 イ、第一波の水際戦斗に成功すれば三カ月 ロ、第一波の水際作戦に破れた場合は一カ月。 ただし本判断は米軍が徹底した攻撃を加えてきた場合であって、単なる掃蕩作戦程度の場合、守備軍全部を全滅させるには数カ月を要したものと思われる、と自信のほどを述べているが、これは勿論友軍の全面的な協力(台湾、沖縄方面からの航空協力はある程度期待)は得られないことを想定した場合であって、状況によってはかなり変った結果になっていたことは想像に難くない。しかしこれは何れも仮定の問題であって、正確な判断は難かしいが、たとえ米軍大兵力が来攻したとしても戦場が我が航空威力圏内であり、守備部隊到着後三カ月足らずで、米軍の進攻を抑えたサイパンのようにそう赤子が手をひねられるようなことだけには終らなかったのではないことは十分想像できると思う。 『太平洋戦争記録 宮古島戦記』の三十八~四十四ページまで引用 *補足二(藤本) 瀬名波 栄『太平洋戦争記録 宮古島戦記』に、歩兵第三十連隊に関する記述がある。 *** 一、北地区隊(歩兵第卅聯隊=通称五六二三部隊=及び配属部隊) 聯隊本部平良町細竹 第一大隊 棚福 第二大隊 西仲宗根 第三大隊 盛加 歩兵砲大隊 東仲宗根 地区隊は富沢大佐が指揮、大浦及び平良港方面より上陸する敵に備えていたが、六月上旬伊良部島から移動してきた独混五十九旅団が加わり、同地区の指揮は多賀少将(添道楚野里に司令部設置)が執ることになつた。 『太平洋戦争記録 宮古島戦記』の六十六ページから引用 *補足三(藤本) 瀬名波 栄『太平洋戦争記録 宮古島戦記』に、北地区防衛の指揮権が歩兵第三十連隊長の富沢大佐から独混第五十九旅団長の多賀少将に移った経緯が記されている。 *** 三、乙戦備下令さる 五十九旅団平良町へ移動 六月始め沖縄作戦が大詰めに入るやアメリカ軍による宮古島奇襲上陸及び空挺部隊による攻撃の公算が強くなった。これは当時米軍によって実際に計画されていたもので、本土進攻作戦のため大空軍展開には沖縄島だけの飛行場だけでは十分でないとして地形的に飛行場設定に便利な宮古島を攻略して強力なる空軍基地化たらしめんとするネライから出たものであった(この計画は六月下旬ごろに至って中止されたが、日本側の知るところとならなかったことは前述の通り)第廿八師団長は敵来攻迫ると判断、二日全部隊に乙戦備を下令した。各部隊は戦斗資材、弾薬、食糧などを洞窟に移動すると共に防衛の重点を各飛行場及び野原岳一帯、比嘉部落の飛行場予定地に指向、戦斗体制に入った。 戦車隊は轟々とエンジンを始動して出撃を準備、各砲兵部隊も命令一下砲門を開くべく戦斗配置に就いた。このようなあわただしい部隊の動きは一般住民の不安を増大させ、深刻なる動揺を来した。 集団では戦局が逼迫を告げたので、二日在伊良部島部隊に平良町移動命令を下した。これは兵力の分散をさけ、兵力の有効集中をはかるための措置で、納見中将の決断によると云われた。 伊良部島の守備に任じていたのは多賀哲四郎少将の率いる独混第五十九旅団で、十九年九月上陸以来下地、伊良部両島に展開布陣して敵来攻に備えた。とくに上陸地点と目される字伊良部々落背後の高地には十五サンチ榴弾砲を配置して防備を固めていたが、師団命令により夜間舟艇機動(小型機帆船及び大発利用)によって逐次平良町へ移動、多賀旅団長は十日添道地区に戦斗司令所を開設、歩兵第卅聯隊長富沢国松大佐に替わって北地区防衛を担任した。 多賀少将は明治廿六年広島県に生れ、大正四年歩兵少尉任官、昭和二年陸大卒。朝鮮鎮海湾要塞、近衛師団、十四師団各参謀、同参謀長を歴補して昭和十七年少将。独混第十七旅団長を経て十九年九月独混第五十九旅団長補任、宮古島に赴任した有能な将軍だったが、現地でアミーバー赤痢にかかり、健康を害し復員後昭和卅年十二月廿七日永眠した。 当時伊良部青年学校長の職にあった与那覇春吉氏は陣地構築に協力したかどで同少将から表彰を受け、又宿舎(青年学校々長住宅)に招かれ、席を共にしたことも数回あった由だが、温厚篤実、感じのよい武人だったと語っている。 『太平洋戦争記録 宮古島戦記』の七十九ページから引用
*補足(藤本) 沖縄から復員する際、石坂准尉は第八中隊の引き揚げ責任者になった。米軍が将校と准士官以下を分けて移送したからである。 上掲の人事書類にこう記されている。 「第八中隊長 石坂辰雄」 「歩兵第三十連隊復員実績表」(R本部)
(備考) 現地除隊者、遺骨宰領者、入院患者は除く。 *** *補足(藤本)
「准尉の仕事」 ■藤本 「昭和十九年十二月一日付で曹長から准士官に昇進したじゃないですか。陸軍准尉というのは、どんな仕事をするんですか」 ●石坂 「そうだな……兵隊たちの毎日の演習の勤務割とか、宮古島なんかでは多かったんだけど、病気になった者の入院の手続きとか、あと何といっても一番は人事係の仕事だね。兵隊の昇進判断をするんだ。兵は人事係准尉直属だからさ」 ■藤本 「軍隊手帳にはどこそこで負傷、どこそこに移動とか、個人の軍歴が書いてありますけど、あれに書き込むのも准士官の仕事なんですか」 ●石坂 「そうだよ。だけど、俺の字ではないけどね。准尉には普通、筆記を担当する字のうまい助手がついているんだ。その彼に命令してやらせるんだよ。俺が宮古島から持ち帰った第八中隊の人事書類も助手に書いてもらったね。名前は忘れちゃったけど、俺の筆記助手の階級は、たしか曹長だったような気がする」 ■藤本 「ちなみに、准尉が面倒をみる階級ってどこまでなんですか。准尉の下、曹長までの昇進判断ですか」 ●石坂 「いや、下士官クラスになると、中隊長がするものなんだ。とは言っても、彼の勤務成績の資料は准尉が中隊長に提出するんだけどね」 *補足(藤本) 伊藤桂一『兵隊たちの陸軍史 兵営と戦場生活』に、准尉の職務に関する記述が載っている。 *** <准尉>准尉は、兵隊と幹部将校の中間にあって、一種の媒体的な立場をもっていた。それは准尉は十分に兵隊や下士官の苦労をなめて累進して来たので、比較的苦労人が多く、兵隊感情はむろん、軍隊の事情に精通していたからである。見習士官は将校待遇だが、准尉は下士官上級者としての待遇である。つまり旧称である特務曹長の位置に変りはなかった。従って、戦時には、ぐっと兵隊の立場に近づき、そのよき理解者となり、中隊長を核とする幹部将校群と、対立的な考え方をする者もあった。准尉と古参の曹長にはきわめて優秀な人材が多く、そういう人たちはへたな小、中隊長より、はるかに指揮能力をもっていたのである。 平時における中隊事務一般にしても、指導の責任はほとんど准尉にあった。兵隊と交渉が深く、かつ兵隊がけむたがったのは、人事係の准尉である。これは人事とともに、賞罰、休暇等に強い発言権をもっていたからである。営内で人事係准尉に顔をみられると、翌日必ず衛兵勤務につけられる、といった冗談が二年兵の間ではよくいわれたものである。 『兵隊たちの陸軍史 兵営と戦場生活』(番町書房)の六十ページから引用
「富沢大佐」 ■藤本 「宮永次雄さんの『沖縄俘虜記』は、石坂准尉のいた第八中隊の人をこき下ろしていて、ある意味、気持ちがいいです。同じような話はありますか」 ●石坂 「収容所生活を含めると軍隊に九年二ヶ月いたからね、そりゃたくさんあるよ。宮古島に限っていえば、連隊長の富沢国松大佐にいじめられたね」 ▲明夫 「(明夫、目を輝かせて)どんないじめ」 ●石坂 「俺は第八中隊の准士官だったでしょ。准尉という階級は野球でいったら捕手、つまり女房役でさ、中隊長や小隊長以上に部下の管理と監視をしなければならないんだ。一人でも兵隊が死ねば、俺の責任になってしまう。 でも、そんなこと言ったって、敗戦間際の宮古島は食糧難の飢餓の島で、マラリアの巣くう大変な場所だよね。兵隊がばたばたと倒れていくんだ。もう一准尉の手に負える状況じゃない。日本軍そのものが弱体化して追い詰められているんだから。俺のせいじゃない。でも、連隊長はそう思ってくれなかった。 ある日、富沢大佐から呼び出しをくったんだ。相手はさすがに連隊長だ。俺の方から『いかがしました』なんて軽口はたたけない。黙って俺は連隊本部で直立していたんだけど、そのうち連隊長が口を開いた。 『石坂、たるんどるぞ。一体、どういうことなんだ。毎日毎日、兵隊が死んでいくじゃないか。お前の管理がなっておらんからだ。罰として、俺がいいと言うまで、外に立ってろ』 怒りをあらわにして富沢大佐はそう吐き捨てると、俺をにらみつけた。 外に立ってろ、だと。心の中で畜生と思ったよ。こんな罰がまかりとおるのは小学生の世界だ。だけど、命令だから仕方ない。俺は平謝りで部屋を出ると、連隊本部の裏手に移動し、じっとその場に立った。 それが非常に長かった。いつまで経っても連隊長が『もういい』と言ってくれないんだ。しかも、ここは南国の宮古島だよ。喉はからからだし、意識はもうろうとするし、本当につらかった。猛烈な日差しのせいで脱水症状を起こして死ぬかと思ったよ。だけど、まだ声がかからない。 ときの流れをここまで遅いと感じたのははじめてだったね。しかし、いつの間にか、ふらふらで気力だけで立っている俺が、ふと辺りを見渡せば夕方頃になっていた。日が落ちて暗かったんだ。そのときだ、ようやく声がかかったのは。 だけど、連隊長が直々に『もういい』とは言いにきてはくれないさ。使いの兵隊が俺に連隊長の言葉を伝えるだけだ。 俺はがっくり上半身を落としてね、何度も何度も『この野郎、この野郎』とつぶやいた」 ■藤本 「ひどい話ですね。石坂准尉は悪くないじゃないですか」 ●石坂 「いや、軍隊なんてこんなもんだよ。地方人が考えるような常識は通用しない。兵隊が毎日倒れているという事実だけが問題にされるんだ」 ▲明夫 「不合理だ」 ●石坂 「なお、言っておくけど、この立ちんぼは何回もやらされているんだ」 ■藤本 「えっ、その後にもあったんですか」 ●石坂 「そうだよ。何度も連隊長から難癖つけられて、兵隊が死んでいく責任を取らされたんだ」 ■藤本 「石坂准尉は富沢大佐のことが嫌いですよね」 ●石坂 「ずいぶんな直球だな(笑)。大昔の話だから、あんたの想像に任せる」 *補足(藤本) 瀬名波 栄『太平洋戦争記録 宮古島戦記』に、歩兵第三十連隊長の富沢国松大佐の略歴が載っている。 *** 元陸軍大佐富沢国松氏略歴 歩兵第三聯隊とならんで宮古島守備部隊の中核だった歩兵第卅聯隊長富沢国松大佐は群馬県高崎市の出身、大正五年歩兵少尉任官、歩兵第十五聯隊、同五十聯隊大隊長、在満州ハイラル第六軍副官を経て昭和十八年年陸軍大佐、歩兵第卅聯隊長に補さる。 昭和十九年七月満州から宮古島に進駐、北地区(平良町)の守備を担当、細竹に本部を設け、のち独混五十九旅団長の指揮下に入った。沈着、剛毅、聯隊長クラスではもっとも頼もしい有能な指揮官として知られ、部下の信頼も厚かった。 昭和廿一年二月復員。民生委員等をつとめていたが、卅六年十二月十九日他界した。米子夫人は健在。 『太平洋戦争記録 宮古島戦記』の百七ページから引用
「はじめての鉄拳制裁」 ▲明夫 「兵隊を殴ったことはあるの」 ●石坂 「一回だけあるね。だけど、俺の軍歴中、一度だけだよ。このとき以外、人さまの頭に手を上げたことはない。 あれは終戦直後、帝国滅亡の失意に混乱する沖縄にいたときのことだ。週番の俺が部下の軍曹を連れて見回りをしていたんだけど、部落の方に行ったら騒ぎになっていた」 ▲明夫 「何、騒ぎって」 ●石坂 「大勢の地方人が一人の兵隊を取り巻いて袋だたきにしていたんだ。俺はあっと思って、考えるよりも先にそこに割り込んでこう叫んだ。 『兵隊は天皇陛下直属の部下である。おいそれと地方人が手を出せるものではない。わけを話せ』 そうして聞いたらさ、どうやら兵隊が泥棒をしたらしいんだ。部落の家々からお金を盗んでね。 確かにその兵隊は悪い。だけど、そのままではかわいそうだから、俺は彼を助けてやろうと思って、地方人に言ったんだ。 『ここは任せろ。お前たちの代わりに俺が殴ってやる。だから勘弁してくれないか』 ……はじめてだったよ、兵隊に手を上げたのは」 ■藤本 「意外ですね。散々兵隊を殴ったり蹴ったりしているもんだと思っていましたから。石坂准尉は温厚な軍人だったんですね」 ●石坂 「温厚かどうか分からないけど、とにかく俺の軍歴中ではこの一回だけだよ、部下を殴ったのはね。しかも、彼を助けるために仕方なく」 ■藤本 「前に教えてもらいましたが、初年兵時代に山口上等兵なんかから、こっぴどく指導されているのに、その本人は全く手を出さないなんて高潔ですね」 ▲明夫 「『高潔』だってよ、おやじ(笑)」 ●石坂 「あんまり褒められると困っちゃうな」
「歩兵第三十連隊将校各部将校職員表」 連隊長――富沢 国松 大佐 大隊長――津田 正男 少佐 大隊長――中島 周治郎 少佐 大隊長――小宮 善吉 少佐 大隊長――平崎 久吉 少佐 大隊長――山上 誠之 大尉 大隊長――吉田 周治 大尉 中隊長――清水 清治 大尉 中隊長――伝田 鹿蔵 大尉 中隊長――木村 嵩 大尉 中隊長――山谷 誠一 大尉 中隊長――鈴木 宇三郎 大尉 中隊長――広瀬 宏之 中尉 中隊長――佐藤 正己 中尉 中隊長――岡本 義一 中尉 中隊長――平田 良作 中尉 中隊長――小林 弘 中尉 中隊長――大平 桂佐吉 大尉 連隊付――新山 耕之進 少佐 連隊付――山田 二郎 大尉 連隊付――菅野 淳士 大尉 連隊付――坂本 光彦 大尉 連隊付――坂井 茂敏 大尉 連隊付――玉木 喜一 中尉 連隊付――篠崎 敏 中尉 連隊付――樫野 勇 中尉 連隊付――秋守 和気男 中尉 連隊付――萩野 美助 中尉 連隊付――後藤 一平 少尉 連隊付――小清水 恒 少尉 連隊付――橋口 克己 中尉 連隊付――中川 忠李 少尉 連隊付――永江 新三 少尉 連隊付――山川 文康 少尉 連隊付――外山 定郎 少尉 連隊付――都筑 鋼太郎 少尉 連隊付――仙田山 達郎 少尉 連隊付――井上 幸男 少尉 連隊付――江村 博一 中尉 連隊付――丹羽 米吉 中尉 連隊付――前川 昇英 中尉 連隊付――村山 一男 少尉 連隊付――藤上 勇 少尉 連隊付――山本 進 少尉 連隊付――広野 治彦 主計大尉 連隊付――馬嶋 孝雄 軍医少尉 連隊付――武田 藤夫 軍医中尉 連隊付――菊本 一正 軍医中尉 連隊付――伊藤 敏彦 軍医中尉 「歩兵第三十連隊編成(職員)表」 昭和二十一年復員時
「連隊人員表」
「歩兵第三十連隊編成(職員)表 別表」
「森参謀の妻・君子さんからの手紙」
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