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■山西省原平鎮の戦闘
画・石坂辰雄
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昭和十二年十月六日朝五時、原平鎮に総攻撃の命下る。中隊長森大尉指揮せる第七中隊は、敵の察知を避けるため、高粱畑の中を匍匐前進にて移動、敵前約百メートルに迫った。
「突撃」
森大尉の号令下、隊員は一斉に突進した。しかし、敵前約二十メートルに迫るや、突如、城壁の銃眼から猛射を浴び、死傷者続出、苦戦する。
激闘、実に十一時間に及び、十四時、ついに突入、敵陣の一部を確保した。
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石坂准尉の覚書(原平鎮の戦闘)
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『駐満記念 鮫城部隊』 満州国牡丹江省穆稜 柏部隊将校集会所 (石坂准尉の書き込みより)
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「原平鎮の激戦 昭和十二年十月六日」
総攻撃前夜、澄み切った空に白銀の星がきらめき、一際明るい月光のもと、戦友との語らいの場が今なお脳裏に刻み込まれ、生涯忘れ得ぬ思い出になった。
昼間から行動を起こした中隊は、高粱畑の中に生えている二本の杉の木まで前進していた。そこは敵前約五百メートルの地点である。
次の攻撃命令を待つ私たちは、しばし与えられた休憩中、穏やかな会話を交わした。
「こよいはよい月だ。内地の両親も同じ月を見ているんだろうな」
「みんなと話し合えるのもあとわずか。明日は互いにこの世にいないだろう」
「悔いのない戦いをしようじゃないか」
そんな話を淡々と語り合ったことが記憶に残っている。
前進のときは刻々と迫った。誰一人眠る兵なく、緊張は高まった。
六日午前四時、前進命令が伝達され、左第一線第七中隊は高粱畑の中を匍匐前進にて敵前約二十メートルに迫った。そして、いよいよ突入寸前、これを待っていたように城壁の銃眼から猛烈な一斉射撃と手榴弾の投擲を受けた。
突入作戦は挫折した。兵は銃弾でばたばた倒れ、まさに地獄絵巻だった。高橋一等兵は私の脇で「天皇陛下万歳」と唱えて戦死。清水一等兵は苦しみながら息絶え、銃剣をかざして先頭を行く片桐分隊長も命を落とした。激しい戦いに一般の戦況不明のまま攻撃は不成功に終わった。
部隊はその場に伏したまま援軍を待った。午後(十三時)になって、ようやく援軍来着、大攻撃がはじまった。歩兵の決死隊、砲兵隊、戦車隊、航空隊の協力を得て、大攻勢に転じたのだ。彼我の攻防は熾烈を極め、想像を絶する激戦になった。
日没前、機を逸せず、破壊された城壁から歩兵部隊が城内に突入した。こうして、陣地の一角を占領するに至った。
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遅ればせながら……野砲部隊の活躍
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第七中隊に協力して敵を攻撃する戦車
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支那事変
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武勲赫々空高し
上・山西省平地泉における残敵清掃中の皇軍
下・果敢なるわが空爆下の原平鎮支那兵営
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「幻の金鵄勲章」
●石坂 「原平鎮の戦争で俺は金鵄勲章をもらい損なったんだ。藤田衛生兵が生きていたらの話だけど。敵弾を食らって、戦死してしまったからね。
藤田がこう言ったのを覚えている。
『石坂、大丈夫だ。お前の活躍はちゃんと記録しておくから。金鵄勲章の価値は間違いなくある』
戦闘記録に『石坂一等兵はこれこれの働きをして手柄を上げました』と、書いてくれるというんだ。目立つのは選ばれるからね」
■藤本 「そういうのは衛生兵が書くものなんですか」
●石坂 「そういうわけじゃないけど、その人が見ていなくちゃ誰も分からないじゃない。一緒に行動していたんだから」
■藤本 「言われてみれば、そうですね」
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高粱をへし折った障害物がわが軍を悩ませた
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突入路
(写真は戦闘後であるため、ひどく荒れている)
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廃墟と化した占領直後の原平鎮~その一
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廃墟と化した占領直後の原平鎮~その二
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「激戦」
▲明夫 「で、おやじは何をしたの」
●石坂 「いや、だから、藤田衛生兵は敵の弾に当たって死んだんだよ」
▲明夫 「そうじゃなくて、何をしたから勲章をもらえそうだったの」
●石坂 「たいしたことじゃないよ……(*藤本・注 石坂准尉、話しにくい感じ。今の平和ぼけした日本では全てを語るのは難しいのだろうか。以前に石坂准尉は、純然たる戦争行為と殺人行為を混同しているやからから犯罪者として突き上げられたことがあるらしく、嫌な思いをしたそうである。本対談中も話が戦闘の核心に迫ると、石坂准尉は決まって「俺は何も活躍していない」などと言って詳細を伏せてしまう)」
▲明夫 「で、何なの。何をしたからそうなったの」
●石坂 「一年先輩だよ」
▲明夫 「いや、違う違う。何をやったから選ばれそうだったの」
■藤本 「そうですよ。支那兵をたくさんやっつけたとか、一番乗りを果たしたとか、よほどの手柄がないともらえないですよね。何の功績があったんですか」
●石坂 「原平鎮はね、ものすごい戦闘だった(*藤本・注 話は変わる……)。耳なんか裂けるようだよ。どかん、どかん、砲声が鳴り響いてね。わずか十メートル先が砂ぼこりで見えないんだもの。砲弾がどんどんどんどん落ちて。目もくらむような弾幕だった。
……俺はね、この原平鎮で三発の敵弾を食らっているんだ」
■藤本 「えっ、食らっているんですか」
●石坂 「戦いが終わってみたら、下半身は血でべっとりだよ」
▲明夫 「終わってから気がついたの」
●石坂 「そりゃそうだよ。ドンパチやっているときに円匙(スコップ)で頭をぶん殴られたって分からないくらいだよ。何せ、こっちは必死なんだから。
当たりどころさえ悪くなければ、戦死した人間は痛くもかゆくもなかったと思うよ。だけど、清水という漢は苦しんで戦死したかわいそうな兵隊だったな。腹に敵弾を食らってさ、あまりに苦しいものだから、みんな自分で腸をかき出しちゃったよ。
『痛いよ~、痛いよ~』
と、俺のすぐ隣でもだえながらね。
それに高橋という兵隊も小銃弾が背中を貫通して、
『天皇陛下万歳』
と、俺のすぐ側で叫びながら戦死した。
近くの兵隊が助けてとわめいても、俺は絶対動けない。殺されちゃうからね。だって、敵はすぐ目の前にいるんだもの。もう数メートルの距離だよ。前方の高粱が揺れたと思ったら、ばばばばばばっと敵弾の雨あられ」
■藤本 「えっ、そんなに接近していたんですか」
●石坂 「そうだよ」
▲明夫 「十メートルもないんだ」
●石坂 「そう、十メートルもない」
■藤本 「それじゃ、何もできないですね」
●石坂 「だから、地面に伏せているので精いっぱい」
■藤本 「それにしても近過ぎますよね。何とかならなかったんですかね。もっと離れて撃ち合って、じっくり攻めるとか」
●石坂 「ここの戦場ではそうはいかなかったんだな。
……大体、戦争というのは、砲兵隊が砲撃してから、敵の陣地に向けて突撃するものなんだ。もうめちゃくちゃに破壊してからね。だけど、砲兵隊が到着する前に無理じいして突撃したものだから、このような有様となったわけだ。みんな死んだよ、この戦場では」
▲明夫 「指示出した人が悪いね」
●石坂 「ああ、そのとおり。命令した人には責任がある。確か六中隊だったかな、そこの石原中隊長なんか怒り心頭でさ、大隊長の植田少佐なんかも、自分の部下がばたばた死んでいくでしょ、だからしゃくに障っちゃって、
『こんなばかな戦争があるか』
と、憤怒の叫び声を上げながら、刀を抜いて敵陣目がけて突っ込んだんだ。その瞬間、敵弾がばりばり撃ち込まれて大隊長に命中、血しぶきが勢いよく飛び散って即死だよ。死ななくていいようなもんなんだけど、よっぽど頭にきたんだろうね」
▲明夫 「おやじはどこにいたの」
●石坂 「どこにいたのって、ひたすら伏せているしかないだろうに」
故 植田中佐
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殲滅の跡
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■壮烈 植田大隊長の戦死
戦友はばたばた倒れ、戦闘は熾烈を極む。
「突撃」
城壁まで数メートルに迫るや、大隊長の植田少佐は毅然と立ち上がって、軍刀を振るいながら敵陣に突入した。しかしその瞬間、敵弾命中、壮烈な戦死を遂ぐ。
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故 石原少佐
(第六中隊 中隊長)
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故 小山中尉
(第六中隊 小隊長)
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激戦を物語る原平鎮市街
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「大隊長とともに」
石原大尉、小山少尉、武人の本懐を遂げる。
*補足(藤本)
平和記念事業特別基金『軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦』(第八巻)に『新発田歩兵第十六連隊 原平鎮の戦闘』(作・茂岡勇太郎)という文章が載っている。
一部を引用しよう。
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次に山西省原平鎮の戦闘について申し述べます。木が一本もない岩山で、日中は山から撃たれるので夜襲で隠密に行く。敵は銃眼から手榴弾を投げる。そのとき、武田大隊長が馬上で敵の狙撃を受けて戦死された。私はなにかその予感がしたのです。原平鎮は城壁に囲まれていて、野山砲を何発撃っても破壊できない。そのため一日待機して大型砲(野戦重砲)を撃ち、それで突破口を開いたり、工兵隊が爆破したりした数カ所の穴から突入しました。
しかし敵はその突破口へ集中射撃をするので、わが方の犠牲は続出します。突入し、市街戦になったのですが、部落全部に足場を組んで上から徹底的に撃ってきます。岡本中隊長は眼鏡で敵状視察中、一発の狙撃で胸を撃たれ、歩哨は頭部に当たり二人とも即死された。私が当番をしていた佐藤曹長も戦死、結局中隊長以下七名の戦死者を出したのです。
この作戦は旧十六連隊や第三十連隊(高田)の各部隊によると一大包囲攻撃と、空陸一体の激戦でした。私は南門から第二番目に突入、わが第二大隊決死の突撃により占領できたのです。わが大隊長や中隊長の弔い合戦でした。部隊長は九州男児で幹部には厳しかったが兵隊はかわいがる。週初めの精神訓話は今でも思い出します。
市街戦になり、住民は逃げ遅れた者もいるが、「女、子どもは殺すな。敵は徹底的に」との命があり、壮烈な市街戦で、彼我両方に数多くの死者がでました。戦場掃除は、二、三日続き、敵方の戦死者は土中に埋めました。しかし、後日、夜中歩哨に立っていると、掛けた土が薄かったためか、土中から屍体が立ち上がるではありませんか。生き返って起き出してくる屍体、不気味な音をたてて立ち上がる者、この世の地獄とはこのことかと、身の毛もよだつ思いでした。今でも原平鎮のことが気になります。
先にも申したように、中隊長、鈴木曹長、兵二人が市街戦最中に戦死された。当番である私は、いち早く駆けつけ、二、三の上官と共に遺体を安全地帯に安置、中隊長以下四名のご遺体を空き家に安置し、中隊長の当番兵と二人で遺体の屍衛兵を命ぜられました。城内では掃討戦の最中で、時間は夕暮れになりました。
城内は濛々とし、戦火、銃撃の煙が立ちこめている。突如、中隊長の当番が命令受領と二人の夕食のため本隊へ行くこととなりました。中隊長ほか三名の遺体安置所に一人で蝋燭に火をつけたとき、付近の家から発火、煙が入ってきました。「大変だ」と蝋燭を消し、中隊長はじめ一人一人の遺体を三〇メートルほど先の安全な空き家に移動したのでした。
遺体の移動は大変な体験で、遺体を起こし両手を肩に掛けると、鼻血がでるなど、今でもあの勇気はどうしてでたのか不思議な思いです。しかも暗闇の中、よく移したなあと、当時のことを思い出すと身の縮む思いです。移動、安置して蝋燭に火を付けると、薄暗い光の中から付近の猫がでてきて、光る目玉が四つ、六つとあちこちから、不気味な声を出して遺体の白布を引っ張り、血痕の付着した部分をちぎる。不気味な目玉の数はだんだんと多くなり、払っても払っても数は増すばかりです。私は中隊長当番の帰りを待ちに待ちました。その間の一時間は私にとっては長い長い時間でした。その本部命令事項を聞き、夕食をとった時は、もう九時を過ぎていたと思います。
遺体移動の話、猫のことなど話し合っているとき、中隊の将校方が来た。小隊長などの焼香が続き、一晩中眠る暇もなく夜を明かし、昨夜のことが本気になれぬ思いでした。中隊長や曹長、戦友たちのご遺体をお守りするという任務を遂行できたことを、いまだに忘れることはありません。この作戦で名誉の戦死を遂げた者は六百名とも七百名ともいわれております。
『軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦』(第八巻)の二百九十九~三百一ページまで引用
「砲撃」
●石坂 「俺たちの部隊がこうして全部駄目になり、失敗に終わったでしょ、そしたら今度は後方が来るわけよ。俺たちを残したままね。このときには航空隊、戦車隊、砲兵隊もいた。
何度も言うけど、その砲兵の砲撃というのがものすごいんだ。こんなばかでかい砲弾を敵陣に打ち込むんだけど、敵が近いからさ、わずか数メートル先に着弾するんだよ。バァーと砂ぼこりが舞ってね」
▲明夫 「下手したら自分のところに落ちてきそうだね」
■藤本 「もしかして、友軍の砲撃に巻き込まれて死んだ人もいたんじゃないですか」
●石坂 「どうだろうね。見てないからはっきり分からないけど、同士打ちの失敗は戦場の常だ。だから、運の悪い人もいたかもしれない。
……話を続けるよ。それでね、敵軍を砲兵がはたいてから、俺たちを飛び越して友軍が突貫したんだ」
▲明夫 「ふぅーん」
*補足(藤本)
後藤四郎『聖旗は進む』という本に、下元熊弥(歩兵・高地。陸軍士官学校第十五期。陸軍大学校第二十三期。最終階級、陸軍中将)の言葉を、以下のように引用している。
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(3)歩砲の協同に就て
歩砲の協同は両兵種が互に互の兵種の性能を理解する事が最も必要だ。軽易陣地の攻略に於て始終砲兵や工兵の力にたよると云ふ考は不可である。例へば少々の鉄条網は歩兵自ら之を破壊する覚悟が必要であると共に、彼我の第一線が近接した時我が砲弾によつて味方の第一線が多少の損害を被るのは当然であつて、この事に関して砲兵を責めるのは酷に失する。我が砲弾に乗つて突入するつもりで多少の犠牲は之を甘受せねばならぬ。
『聖旗は進む』の百九十九ページから引用
石坂准尉の覚書(原平鎮の戦闘後)
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『駐満記念 鮫城部隊』 満州国牡丹江省穆稜 柏部隊将校集会所 (石坂准尉の書き込みより)
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「戦闘終わって 十月七日」
城内の一角を占領した中隊は休息を取った。百五十名の隊員は今回の戦闘で戦死、または傷つき、護送される兵が続出した。
生き残った者、中隊長森大尉以下十六名。中隊長は大勢の部下を失って責任を感じたのか、憂鬱な様子だった。
*補足(藤本)
話によると、森大尉の落ち込み方は相当なものだったそうだ。ぺたんと地面に尻をつけ、両足を両手で抱えたまま(体育座り)目はうつろだったという。
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「一握のおにぎり」
六日、激しい戦闘は終わった。
皆に一握ずつおにぎりが配られた。前日から一粒の飯も一滴の水も口にせず、極度の空腹のところ、このおにぎりは神の恵みだった。
おいしい、実においしかった。
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「原平鎮の戦闘における戦死者 六十八名」
内 中隊戦死者 十名
小島伍長 小林伍長 片桐上等兵 小山上等兵
同年兵 長谷川一等兵 高橋一等兵 青木一等兵 坂口一等兵 佐野一等兵 清水一等兵
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「慰問袋」
出動以来はじめて受け取った慰問袋に、将兵の喜びは想像以上。内地の見知らぬ娘さんからの写真や便りを手にしたうれしさたるや筆舌に尽くし難い。
私の受け取った慰問袋の送り主は、美しい女学生だった。ところは宮城県名取郡○○町○町 沼田喜江子。
満州に帰還後、昭和十六年、彼の女の嫁入りまで交際した。
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出動以来、はじめて配られる慰問袋に大喜びする兵隊
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軍馬も疲れ果て、しばしの休憩
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*補足(藤本)
原平鎮の戦闘を終えた明朝九時、次の戦場(南庄頭)に出発するため、部隊は郊外の広場に集結した。ここで将兵一同に慰問袋が配布された。この何よりうれしい贈り物を誰よりも喜んだのが石坂准尉だった。慰問袋の送り主である女学生に恋したのである。
北支出動後、石坂准尉は返事を書いた。文通は約四年にわたって続けられた。そして、石坂准尉がハルビンにいた当時、ついにこの内地のお嬢さん(米屋の娘)に手紙で告白した。
「喜江子さん、結婚してください」
しかし、返答は残酷だった。
「満州はとても寒いと聞きます。わたくし健康に自信がありませんわ」
彼女の写真を肌身離さずに過ごした日々が終わりを告げた。それから間もなく、彼女は他家に嫁に行った。石坂准尉は悔し涙で頬をぬらしたが、軍にたくさんあった缶詰をお祝いとして贈ったという。しかし、石坂准尉の思いは、戦後、日本に帰ってきてからも冷めずにいて、嫁ぎ先の神奈川に行ってみようと思ったことが一度ならずあったそうである。
「だけどよ、まさか他人の嫁に会いに行けないだろ(笑)」
そう語る老准尉の顔は爽やかそのものである。
ところで、石坂准尉と彼女の弟さん(都内在住)は今でも年賀状をやり取りしている仲だという。詳しくは尋ねなかったが、戦後この人が訪ねてきたことがあって、
「姉が大変お世話になりました」
と、お礼を述べたという。
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『東京朝日新聞』(昭和十二年十月十四日夕刊) |
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護国の勇士
〝戦勝の握飯〟
阿部君最後の便
戦死した猪鹿倉部隊阿部豊樹上等兵(二二)は新潟県柏崎の出身で淀橋区淀橋六九九古物商克平さん(三五)の弟、十二日夜原隊から戦死の通知があつた三日前同上等兵から
弾丸にも慣れて隊長が危いといつても顔を出し敵の方を見るやうになつた……戦ひ勝つた夜白い握飯を一つづつ貰つたがこの味は一生忘れられない、或る朝迫撃砲弾が一尺程前に落ちたが不発で助かつた
といふ便りがあつたばかりであつた
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『昭和二十八年 平和之礎』
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明治村
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故陸軍伍長 布施正四 殿
一、大正四年四月一日父由太郎長男として出生
昭和十二年十月六日支那山西省崞県原平鎮に於て戦死享年二十三歳
二、昭和十一年一月十日現役兵として高田三十連隊へ入隊
昭和十二年四月十日満州国五常へ警備兵として派遣さる
昭和十二年十月六日原平鎮の戦闘に於て戦死
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「にぎり飯」
●石坂 「今でも覚えているが──戦い終わってから、コンビーフのにぎり飯が配られたんだけど、あんまりおいしかったもんだから忘れられないよ。あれは昭和十二年十月六日夕刻のにぎり飯だ」
▲明夫 「日にちから時間まで、よく記憶しているね(笑)」
●石坂 「あんなにうまい飯は食ったことがない。生涯の思い出さ(笑)
ハエがたかって、もこもこしてたけど」
■藤本 「そんな、ハエまみれのにぎり飯がおいしかったんですか」
●石坂 「うめぇ、うめぇ。あんなにおいしいおにぎりは食べたことがない(笑……強い口調)。あんまりおいしいもんだから、口に頬張っても、もったいなくて喉にやれなかったもの」
◆一同 (大笑い)
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故 庭野中尉
(第二中隊 小隊長)
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故 五十嵐少尉
(第一中隊 小隊長)
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城壁を破壊、啓開した突撃路
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*補足(藤本)
関谷正直『深秀楼主 関谷春秋庵随感録』に、原平鎮の戦闘で戦死した庭野富治中尉に関する文章が載っている。
以下に引用しよう。
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同級生といえば、あるとき、私が連隊の衛兵司令として夜間に服務中、週番士官の巡察があった。肩章を肩からかけた週番士官は、連隊本部と各隊に一名ずついて、随時巡察をしていた。そして、週番司令は、衛兵司令にいろいろと服務上の質問をする。衛兵司令はそれらの質問に的確に答えなければならず、服務の中で一番緊張するときでもあった。私がその士官から質問を受けていると、同行していた一人の見習い士官が後ろでにやにや笑っている。それは何と私の幼友達で、庭野富治という小学校の同級生であった。
彼は幹部候補生で、朝鮮の部隊に召集になり、その後見習い士官の教育召集を受け高田の連隊に入隊していたのであった。
この庭野富治は、昭和十二年、支那事変が始まるとすぐ召集され、少尉として真っ先に戦死してしまった。私の同級生の中で最初の戦争犠牲者であった。
彼は十日町で一番大きな「一誠館」という料亭の息子で、神楽坂の「ボタン」という関西料理店で修行していた。同じく修行中の私はしばしば彼を訪ねた。彼はむこうハチマキでそこの板前や若い衆とよく花札をやっていて、私は「庭野は偉いなあ、大人だなあ」と変に感心したことを覚えている。
富治の実家の「一誠館」には、彼が存命中十日町に帰郷の折には寄り、よく二人で飲んだことを懐かしく思い出す。
昔、「一誠館」で大きな婚礼があると、喜太郎兄も頼まれてわざわざ東京から仕事に行っていたので、富治の両親とも懇意であった。
富治が亡くなってからも、私が十日町に帰ると、仲間が五、六名集まっては「一誠館」で飲んだ。そして、その都度、仏壇にお参りして富治の霊を慰めた。
余談になるが、終戦後十日町で四、五人の友人たちと集まったとき、同級生で十日町新聞社社主の山内正豊が打ちあけた。戦中、正豊が中隊長として出征したところが、そこは偶然にもかつて富治が駐屯していたところだった。その駐屯地の近くの食堂だったか、飲み屋だったかに行ったら、そこのおかみが仏壇に富治の写真を飾り供物を上げていたそうだ。正豊は、「若くして死ぬ者は、やることもなからにやっているものだな」といっていた。私はそのとき「ああ、富治もよかったなあ、そんな婦人がおったとは」と、祝福したい気持ちだった。
『深秀楼主 関谷春秋庵随感録』の九十~九十一ページまで引用
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故 滝沢少尉
(ⅡMG 小隊長)
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歩戦共同の掃討
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破壊の跡
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原平鎮における戦死者
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*補足(藤本)
三段目の左から二番目が高橋一等兵、その右隣が片桐分隊長、そして下段の一番右端が清水一等兵である。
明夫さんから教えてもらった話なのだが、石坂准尉は今になっても戦争の夢ばかり見るそうだ。寝汗をびっしょりとかいて、はっと飛び起きることがあるという。
「戦闘後」
●石坂 「それにしても、何もかもでたらめだったな、この戦闘は……。
戦い終わってから辺りを見渡せば、畑の中は友軍の死体だらけ。目も当てられない地獄絵図とはまさにこのことだ。だけど、このにぎり飯の話以外にもほっとする話がある」
■藤本 「何です、それ」
●石坂 「同村出身の宮という同年兵がいてね、彼が戦闘後、俺のところにやってきたんだ。
『石坂君、生きていたのか。皆が死んだってうわさしていたから心配したぞ』
『おお、俺は生きているよ』
『そうか、よかった』
と、二人して抱き合って喜んだんだ。
ちなみに、この宮はできるやつでね、俺より才人なんだけど、将校志願しなかったから、普通の下士官で終わっちゃったんだ」
■藤本 「ところで、石坂准尉は三発食らっているんですよね。その話をしてもらえませんか」
●石坂 「一つはね、銃を持っているでしょ、三八式。銃床が貫通していた。もう一つはね、円匙(スコップ)。これにも敵弾が当たっていた。使い物にならなくなってしまったね。
残りの一つは右股。血がべっとりと軍袴に染みついていたのを覚えている。そういえば、戦後になっても傷痕がはげになっていたけど、最近は傷がなくなったね」
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分隊長 片桐上等兵(戦死)
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第二大隊長 長沢太郎
(植田大隊長の後任)
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戦死者の火葬風景
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捕虜を詰問
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*補足(藤本)
歩兵第三十連隊戦友会『三〇会会報』の第十八号(昭和三十七年十月)に、原平鎮の戦闘で戦死した植田大隊長の冥福を祈る文章が載っている。執筆者は、その亡くなった植田大隊長の後任として赴任してきた長沢大隊長(画像右上)である。
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何十年振りかで生え抜きの地で、生え抜きの人々に会う、こんな感動の場面を他に求め得ようか。何もかも思出の種、どうしても筆舌で述べる事が出来よう。しかし世話人の伊従さん(*藤本・注 歩兵第三十連隊の連隊副官)から再三のご要望があったし、またこのような感激を自分独りの胸奥に秘めて置くのは参加されなかった方に申訳ないような気がして、禿筆を呵しその一端を書き連ねてみた。
過日伊従さんから営庭跡で撮って頂いた写真が送られて来たがその裏書に「年々歳々花相似たり歳々年々人同じからず」とまことに共感をそそられた。
当日は晴天で記念公園の満開の桜花の下、幾多の先輩、僚友とお目見えしたが、一寸分らず凝視暫くしてシワの中から昔の面影が浮び出て来て、手を握り、肩をたたいて健在を喜び合った。
候補生時代にお世話になった後藤賢士軍事教官殿さえすぐ分らず恐縮してご無沙汰を詫び漫歩のお供をして思出にふけった。
これは、あながち私ばかりでない。数年前に会った赤穂津正気君(*藤本・注 歩兵第三十連隊の第二十九代連隊旗手)を営庭で見つけて肩をたたいたところ変な顔?で凝視暫らく「どなたですか」との問にびっくりして「長沢だよ」というと「あまりスマートになったので……」との答えに大笑い。
何分積る思出、語り合えば何時間でも足らないのに限られた時間では誰と何から話してよいか其糸口さえ見出すことが出来ないままにお別れした方が多かった事を返す返すも遺憾に思っている。
村松駅(*藤本・注 村松は歩兵第三十連隊創設時の衛戍地。その後、高田に移駐する)に下車すると早速御徒士町にお住いの故植田勇君のご夫人を訪ねた。久闊を謝すると共に会合にお誘いしようと思って伺ったのだが、脚がご不自由で外に出られないとの事で、断念せざるを得なかった。
植田君とは中央幼年学校本科卒業とともに手を携えて村松に飛ばされ、最後は同君が山西省原平鎮で名誉の戦死を遂げられたとき後任として電報で呼びつけられ、飛行機で赴任し大原(*藤本・注 「太原」の誤り)攻略戦に参加した因縁がある。壇に安置された遺影にぬかずきつつありし日の千々の思出にむせび数刻にして辞去した。
ご夫人から皆様によろしくとのことでした。
稿を終るに当り物故された先輩僚友のご冥福を祈ると共にこのような終生忘れ得ぬ感激の場面を設けて下さった東京並地元の世話人各位のご配慮に対し深甚なる感謝の意を捧げます。
愛宕山春粧いて迎えけり
面影をしわにはほのかに花の下
英霊と共にあの日の花を見ん
陽炎に過去を辿る屯跡
花の雲かって精鋭練武の地
青春の我に還りて花の宴
兵舎跡東風の小松を連れ帰る
『三〇会会報』(第十八号)の二十五~二十六ページまで引用
植田関東軍司令官からの感状(昭和十二年十月二十一日付) |
感状
篠原支隊本部
歩兵第○○○隊
歩兵第○○○隊(第○、第○○隊欠)
騎兵第○○隊第○○隊ノ○○隊
工兵第○○隊第○○隊(○○隊欠)
篠原支隊通信隊
独立山砲兵第○○○隊(第○、第○○隊欠)
臨時通信隊ノ一部
九月二十五日軍ハ第○○団方面ノ戦況ニ鑑ミ速ニ恒山山系ヲ占拠セル敵ヲ撃破シ代県付近ニ進出スルニ決シ岱岳鎮付近ニ在リテ爾後ノ作戦ヲ準備中ナリシ篠原支隊長陸軍少将篠原誠一郎ニ命スルニ同支隊主力並独立山砲兵第○○○隊(○○隊欠)臨時通信隊ノ一部等ヲ指揮シ応県―茹越口―繁峙道ニ沿フ地区ヨリ当面ノ敵ヲ撃破シ先ツ繁峙ニ向ヒ前進シ第○○団ノ戦闘ニ協力スヘキヲ以テス
抑恒山山系ハ古来不落ノ要害タリ而シテ今優勢ナル敵ハ天険ヲ利用シ堅固ニ施設セル陣地ニ拠リ護郷ノ念ニ燃エ攻撃ノ困難ナルハ斉シク予期セシトコロナリ
篠原少将ノ指揮スル兵団ハ二十七日払暁ヨリ茹越口付近ノ敵ヲ攻撃シ夜間尚攻撃ヲ続行シテ主陣地帯ヲ奪取シ翌払暁前其背後ヲ急襲セル有力ナル敵部隊ヲ殲滅シ機ヲ逸セス敵ノ退却ニ先ンシテ険阻ナル峡谷ヲ突破シ二十八日更ニ数次ノ夜襲ヲ復行シ二十九日朝遂ニ鉄角嶺ノ要衝ヲ奪取シ以テ敵ノ死命ヲ制シ敵ヲ急追シテ繁峙ヲ占領シ第五師団正面数万ノ敵ノ背後ニ突進シ第○○団方面ノ力攻ト相俟チテ此敵ヲシテ五台山内ニ壊走スルノ已ムナキニ至ラシメタリ
当時兵団ハ山路険難ニシテ砲兵ノ大部追及スル能ハス兵力激減シ疲労累積シ補給途絶スル等極度ノ困苦ニ遭遇セシモ之ヲ意トスルコトナク三十日早朝ヨリ敢然攻勢ヲ続ケ随所ニ頑強ナル敵ノ抵抗ヲ打破シ果敢ナル追撃ヲ続行シ同日夜代県ヲ占領シ更ニ長駆シテ十月三日原平鎮ニ迫リ恒山山系ノ防備ヲ一挙ニ瓦解セシメタリ
惟フニ兵団ノ攻撃ハ堅鉄ノ如ク迅雷ノ如ク嚮フトコロ必ス破リ其追撃ハ神速ニシテ長駆敵ヲ席巻シ其成果ノ絶大ナル誠ニ希ニ見ルトコロニシテ克ク第○○団ノ作戦ヲ容易ニシ関東軍作戦ノ目的ヲ遺憾ナク達成シ得シメタリ特ニ篠原少将ノ指揮下部隊中冒頭列記ノ部隊ハ本戦闘間ニ於ケル武功抜群ニシテ他ノ範ト為スニ足ル
仍テ茲ニ感状ヲ授与ス
昭和十二年十月二十一日
関東軍司令官植田謙吉
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漢詩(原平鎮の戦い)
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『読売新聞』(昭和十二年十月七日朝刊) |
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原平鎮も陥落す
【原平鎮六日発同盟】 代州より崞県を経て更に太原に向ひ一路南進中の我○○部隊先陣は六日山西軍が長城線に次ぐ第二の要衝と恃む原平鎮を攻撃約一万の敵を撃破し六日午後三時遂に同地を占領、望楼高く日章旗を翻へした、同地は火災を起し目下延焼中
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『東京朝日新聞』(昭和十二年十月七日朝刊) |
城壁を攀ぢ上り
肉弾の突撃
原平鎮城炎々燃ゆ
【原平鎮六日発同盟】 長城線突破以来山西の野を疾風迅雷の勢ひを以て進撃の我が後藤、猪鹿倉両部隊は六日午前七時原平鎮城西側に進撃し破竹の勢ひで山西軍兵営及び軍倉庫を襲ひこれを攻略し、更に原平鎮城に拠る約一万の敵に対し猛攻撃を行つた
原平鎮城は山西軍が二段三段の防御陣地を構築してをり敵も必死の防戦に努めたが
六日午前十一時我軍は鎌田部隊長の指揮する飛行機○台の空爆及び高橋部隊の砲撃の援護により後藤、猪鹿倉両部隊は一斉に突撃を開始し手榴弾迫撃砲の十字火を浴びつゝ城壁に梯子をかけてよぢ登り敵と猛烈な肉弾戦を演じ午後三時必死の山西軍を撃退し陥落せしめ原平鎮城望楼高く日章旗を掲げた
原平鎮城は我軍の空爆と砲撃のため火災を起し火炎は空をも焦がす如く目下盛に延焼中
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『読売新聞』(昭和十二年十月七日朝刊) |
一挙平原駅占拠(徳州東南)
【天津本社特電】(六日発) 軍司令部午後七時発表=(一)六日午後零時廿五分敵飛行機保定上空二千九百米に現はれ我高射砲に依り撃墜せられたり(二)我装甲列車は六日午前十時ごろ平原駅(徳州東南方約十里)に進入同地を占領せり(三)猪鹿倉、後藤両部隊は六日早朝来原平鎮(代州南方約十五里)の敵陣地を攻撃、砲兵各部隊協力の下に午前十時卅分突撃を敢行し目下部落内を掃討中なり
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『読売新聞』(昭和十二年十月八日朝刊) |
閻の拠城太原へ
我軍躍進・同蒲鉄道を扼す
【天津本社特電】(七日発) 午後五時軍発表=十川、湯浅両部隊は去る四日以来崞県(代州南方八里)に蟠踞せる山西軍凡そ一万の敵に対し攻撃準備中のところ七日正午以来攻撃を開始し目下盛んに攻撃中
【天津七日発同盟】 山西北部の東五台山系及び西管涔山脈の要地を制したわが軍の行動は疾風の如く代州より南下の部隊は五台山脈の奇岩怪峰の南画的風景を展開する大街道を太原指して進軍し、六日原平鎮によつて邀撃する敵の有力部隊と激戦のゝちこれを占領し、一方西管涔山脈の要衝寗武を占領、同山脈地帯の敵を圧してゐた部隊の一部は友軍と相応じて六崗鎮の敵を撃破し破竹の勢ひで原平の北西八里に対し引続き南進しつゝある、かくて山西省中心部に驀らに突入せるわが軍は原平に兵を合して山西の動脈線同蒲鉄道の北端を完全に把握し閻錫山の本拠太原を遥に望んで士気軒昂たるものあり、山西心臓部はわが猛威に脅威され山西の支那軍は早くも動揺を来しつゝある
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『読売新聞』(昭和十二年十月八日朝刊) |
爆弾、軽油を大量鹵獲
【天津七日発同盟】 猪鹿倉、後藤両部隊は去る一日陽明堡(代県南方約二里)を進軍の際同地に敵空軍根拠地を発見、これに攻撃を加へ同飛行場守備の敵六百を難なく一蹴、飛行場内にある飛行機用爆弾一千発、ガソリン七千缶を鹵獲して凱歌をあげた
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『読売新聞』(昭和十二年十月九日第二夕刊) |
奈翁を凌ぐ用兵の妙
皇軍疾風の天険越え
原平、崞県の大攻略戦
【天津八日発同盟】 内長城の難攻不落の敵陣地を撃破し峨々たる恒山々脈の険を鉄脚下に克服して一路南方低く滹沱河の隘路に突入原平鎮を陥し更に後方に反転、崞県を収めたわが戦術はナポレオンのアルプス越えにも比されるべきもので果敢神速なる用兵の妙は正にそれを凌ぐものである、即ち山西北部山岳地帯を越え代州平野に兵を進めた我猪鹿倉、後藤両部隊は疾風の如く行動を起し一路南進早くも代州南方十里の崞県に迫つた
代州より太原に至るこの道は東に大行、西に呂梁山脈のそゝり立つ峻峰絶壁に挟まれ滹沱河に沿ひ峡谷を縫うて蜿蜒南方に延び山岳地帯より南下する屈強な天然の要害をなしてゐる、敵はこの天険に拠つてわが南進を阻止せんとしてゐた
わが両部隊は前方に迫るや巧に城内の敵を牽制しつゝその城壁の両方を迂回し崞県県城を後に疾風の如く南進し三日夜原平鎮北方二里の地点に到着宿営した、明くれば四日未明いよ〳〵原平鎮攻略の準備にかゝつた、両部隊はその東南方に展開、○砲隊は北方に陣を布いたが、更に展開線を移動して北方後藤、猪鹿倉部隊で包囲体勢を執つたのが、四日夜であつた、かくて攻撃の準備は成つた、五日未明荒涼たる残月の光を浴びつゝ、○砲は轟然火蓋を切り総攻撃は開始された、城内の敵は山西軍の三ヶ旅約一万五千、迫撃砲と機銃で頑強に抵抗、必死の防戦に努めるので戦闘は激烈を極め午後三時頃わが砲兵陣地は砲弾を討ち尽してしまつた程だつたが夕刻に至り北方よりわが○砲隊が援軍として到着直に砲門を開いて猛撃を加へ終夜激戦を交へて六日を迎へた、同日午後二時頃我航空部隊は上空に飛来し敵に猛爆を加へ、午後三時遂に城壁西北角はわが数百発の砲弾に二条の突撃路が開かれて猛然城内に突入、敵は無数の死体を遺棄して西南より城外に壊走した、斯くて二日に亘る激戦の後三日午後三時半遂にこれを占領太原攻略の北関門はわが軍に帰し凱歌は高く挙げられた、一方崞県の険による敵は素通りして南進した、原平のわが部隊の背後を衝かんとしたが間もなく十川、湯浅両部隊は三日原平北方二キロに迫つてこゝにまた〳〵彼我満を持するに至つた、対峙すること二日、北に十川、西に湯浅部隊が展開し後方の砲兵隊陣地と協力六日払暁から総攻撃を開始した、崞県は名だたる要塞で堅固な内城、外城を持ち城外東方陣地には中央軍の督戦隊が頑張つてをり敵兵は西角から再三猛烈に逆襲して頑強に抵抗したが六日午後に至り原平鎮を攻略したわが砲兵隊が急行して崞県に到着、西南方に放列を布き猛撃を加へ、さしも四日に亘つて頑強に抵抗した敵も今や南方退路は絶たれ殲滅の運命に瀕するに至つてゐるかくて機に臨み変に応ずる我が戦術の妙は天然の要衝を席巻して太原省城を目睫に望むに至つたのだ
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『東京朝日新聞』(昭和十二年十月十三日朝刊) |
太原攻略戦火蓋切る
朔風を突いて追撃
山西線
【天津にて河野、奥村両特派員十二日発】 山西省北部の戦況は我が後藤、猪鹿倉両部隊が原平鎮を占領したる後我が粟飯原部隊が更に十一日原平鎮南方一里半の平地泉を占領し太原を距る二十二里の地点に肉薄していよ〳〵太原攻略戦の展開を見るに至つた、即ち敵は太原の陣地の前哨陣地として忻口鎮(平地泉南方二里太原北方二十里)の西北山岳地区に相当堅固な構築を施し我軍の南進をこの天険の地形によつて阻止せんとした十一日夕忻口鎮方面から戦車一、装甲車三を有する兵力をもつて我部隊に逆襲を試みて来た、我粟飯原部隊は北支戦線において敵が初めて用ひた戦車の逆襲に奮ひ立ち直に応戦し間もなくこれを撃退し遂に装甲車一台を鹵獲して逆襲部隊を忻口平原に駆逐したのである、太原攻略戦は敵の逆襲を契機としていよ〳〵火蓋を切つたのであるが敵は太原北方の高地に本陣地を設けてゐるから忻口鎮より太原に至る鉄道沿線東西の山岳地帯を利用し極力我軍の南進を阻止する作戦に出た、而も五台(原平の東四十五キロ)の方面には内長城線の会戦に敗れて退却した山西軍、共産軍連合の約三箇師近くが蠢動してゐるので〓側背の敵にも弾圧の軍を進めなくてはならぬ情勢である、従つて太原攻略戦は平漢線方面の戦闘が余りにも急速な発展を見せてゐるに比較すれば相当の困難が察せられる、時既に仲秋朔風冷たく五台山上には早や白雪が見え山西戦線の我皇軍将士の健闘には最大なる国民的感謝の言葉が送らるべきであらう
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『東京朝日新聞』(昭和十二年十月十四日朝刊) |
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原平鎮占領第一報
=占領した小学校を警備する我が兵士=
八日木村特派員撮影【福岡電送】
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『東京朝日新聞』(昭和十二年十月十四日朝刊) |
閻の財産保護戦術
【天津特電十三日初】 崞県、原平鎮に於ける我が十川、湯浅、後藤、猪鹿倉各部隊の猛進撃に対し王靖国軍が敵ながら天晴れな抵抗をなしたがこれは原平鎮東方約十里の河辺村の閻錫山私邸にある数千万元の私有財産を運搬するに五日間かゝるため運搬の終了まではあくまで原平鎮崞県を死守せよと閻が王靖国に厳命してゐたためであつたと、今更ながら支那軍の突拍子もない戦法に我が皇軍将兵は呆れ返つてゐる
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『東京朝日新聞』(昭和十二年十月十五日朝刊) |
我陸軍機活躍
【原平鎮十四日発同盟】 我空の挺身部隊は十四日午前十時○○根拠地より銀翼をかゞやかせて○○機は鎌田部隊長指揮のもとに太原を襲ひ完膚なきまでに爆撃を敢行、午後二時無事○○根拠地に引揚た
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『東京朝日新聞』(昭和十二年十月十七日朝刊) |
北支戦線
内蒙及び山西方面
前週以来山西省北部の長城線に沿うた地区に在る残敵掃討に連日其快速を利用して活躍してゐた長谷川、中島、吉冨の諸部隊は、この週初より殺虎口、涼城を経て長躯綏遠城に迫り、東方及び北方より進撃する内蒙軍と呼応、十三日より綏遠城攻撃を開始した、長谷川部隊は東方より綏遠及び帰化城の堅塁に迫り、川村部隊と協力猛烈なる銃砲火を集中、一方中島、吉冨両部隊は敵の退路を遮断すべく西方より迫りここに壮烈なる激戦が展開された、然し嘗て北満に勇名を轟かせた馬占山の率ゐる騎馬隊も遂に我が快速部隊に敵し難く壊走し、綏遠城壁に迫つた田中部隊の一部は遂に十四日午前一時南門の一角に突入、徹宵の夜襲戦により午前八時には完全に綏遠城は我軍によつて占領され、引続き同九時には帰化城も陥落した、続いて内蒙軍も入城したが一部は更に西方に敗走する敵を追撃中である
山西省進撃の我軍は代州より南下、十川、湯浅両部隊は八日完全に崞県を占領、原平鎮も後藤、猪鹿倉部隊によつて占領された、又八月長城一帯の山岳戦に引続き察哈爾省南部に敗走する敵を追撃、更に平型関口の難関を突破山西省に入つた粟飯原、大場、長野等の各部隊は長躯南下して太原の前哨基地たる忻口鎮前面高地の堅固なる防塁に拠つて頑強に抵抗する山西軍及び共産軍約三万、中央軍一万に対し十三日早暁より砲兵部隊の協力の下に果敢なる攻撃を開始しこれを南方に圧迫中である、我が陸軍機もこれに協力して、忻口鎮及び太原の敵陣地に対し猛烈なる爆撃を敢行してゐる
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『読売新聞』(昭和十二年十月十七日第二夕刊) |
忻県攻略線
敵軍必死の猛抵抗
【山西省原平鎮十六日発同盟】 山西高原の天険忻県を我軍に破られれば一挙に太原まで一押しに雪崩込まれるため山西共産軍及び中央軍約五万の敵軍は断末魔のあがきにも似た必死の抵抗を行ひ物凄い頑強ぶりであるが、わが軍は粟飯原、大場、長野、猪鹿倉、後藤、堤各部隊を配し空軍と密接なる連絡を続け忻県陥落はもはや時間の問題となつてゐる、なほ忻県より太原までは十五里の距離でわが軍の太原入城は目睫に迫つた
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『読売新聞』(昭和十二年十月二十日朝刊) |
接吻貰つて突撃
出しぶる山西共産軍を激励して
塹壕内の若き娘子軍
【原平鎮十八日発同盟】 山西共産軍はわが軍の猛烈なる圧迫に次第に天険忻口鎮の陣地を放棄して退却しつゝあるが、敵の共産軍中にはうら若い断髪の娘子軍およそ二百名が銃を執り健気にもわが軍に必死の抵抗を試みてゐる、敵前凡そ五百メートルの○○地点より双眼鏡で遥かに望めばこの共産娘子軍は塹壕内の支那兵を盛んに激励し壕を進出する支那兵には盛んに接吻してゐるエロ的な激励ぶりが手に取るやうに見えた、これらの支那兵はこの激励によつて勇躍壕を乗越えてわが軍の前面に手榴弾を投げつけては娘子軍の壕内に帰り行くので攻撃中のわが長野部隊の将士も呆れ返つてゐた
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付図第十一
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崞県付近戦闘経過要図
昭和十二年自十月二日至十月三日
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第五章 原平鎮血戦記
第一節 崞県付近の戦闘
逝く秋とともに
恒山山系一帯にこもった敵は茹越口、鉄角嶺の痛棒を受けて、俄然背後を脅かされることになり、九月二十八日から九日にかけ、なだれをうって総退却を開始した。
ここにおいて篠原支隊は後藤部隊を主力とする左右追撃隊を編成し、鋭意これが追撃にあたる事となった。部隊は第二大隊を戦場整理のため鉄角嶺に残し、当時予備隊だった第六中隊(二小隊欠)を率いて、篠原部隊主力と共に繁峙に進出した。
繁峙に至る道は、鉄角嶺の峰続きの重畳たる山岳地帯で相当の険路だったが、十九時、滹沱河を渡河するあたりからようやく平坦地がひらけ、見渡すかぎりの高粱畠が海原のように続いていた。
夜行軍に引き続き三十日十時、部隊は南閘村北側付近にさしかかった。と見ると部隊の行く手の畠の中を、約三百名の敵の砲兵らしい一隊が、一列になって先を争って壊走して行くではないか。部隊は欣喜雀躍、早速第六中隊をして攻撃せしめ、したたかこれに損害を与えた。
道はますますひらけて行く。部隊は兵団予備隊として代州に向かい前進した。このあたりから我々の身体に虱が湧きはじめていた。
十四時、上磨坊、磨坊堡の線に進出した先頭部隊は、突如路ばたの煉瓦造りの囲壁から乱射を浴びた。兵団長はただちに前衛(後藤部隊)を以て第一線とし、これに本隊砲兵を配属せしめて攻撃を命じた。
敵兵は約四、五百名、小癪にもマキシム機関銃、迫撃砲等優秀な火器を有し、はてはどこからともなく山砲まで射ち出すなど、意外に頑強をきわめたため追撃に移ったのは暮れがたの十七時すぎだった。部隊は同夜磨坊堡付近に露営、払暁をまって行動を開始することになった。
ところがその夜も更けた二十三時半すぎになって、先行した後藤部隊はすでに二十三時代州に入城せりとの報告を受けた。よって兵団はにわかに予定を変更し、ただちに代州北側地区に進出、同地において北方に対する攻撃を行う事に決し、部隊は前衛となり、再び前進が開始され、十月一日三時、代州東門付近に到着、兵団主力はここに集結された。
この夜、鉄角嶺の戦場整理を終えた第二大隊は二十一時すぎ部隊に追及し、また大同警備を終えて長躯本隊を追って来た第一大隊は繁峙を目のあたりにする地点にまで到達していた。
当夜は城内で久方振りの露営の夢にまどろんだ。秋はいよいよ深く、つい二、三日前まで眠りもあえぬほど賑やかにすだいた虫の音も殊にかぼそく、将兵の軍衣は真っ白な霜に清められた。
翌二日九時三十分、部隊は南門外に集結を終わり、またまた行軍が開始された。部隊の進んで行く道は、幅が三十メートル近くあり、どうやら敵が新設した軍用公路らしかった。その道路に沿うて、まだ枕木も生々しい鉄道線路が、敷設半ばでうっちゃられていた。
両側にはアカシアの並木がたちならび、その道路上を太原めざす我が徒歩部隊、砲車、行李と、雑多な部隊が先を争って急行軍を続けていた。
迂回
連日の山岳戦に引き続いての強行軍で綿の如く疲れはててはいたが、勝ち誇った兵隊の足は行けども行けども軽かった。ただあまりの急進撃のため小行李の追及がしばしば途切れ、糧秣の補給などは到底思いもよらなかった。
携行した糧食は、代州での露営に乾パンの最後の一片までもたいらげられていた。代州からの行軍では皆の腹には一粒の米もはいっていなかった。秋の取り入れ時で、あたりの畑は野菜の出盛りだった。これ幸いと兵隊はもちろんのこと部隊長も、共に生大根をほおばり、生芋を囓りながらひたすら前進を続ける。
腹の空ききった昼近く、突然どこからともなく爆音が聞こえて来た。スワ敵機と見上げた秋空の澄みきった紺青にあらわれたのは、日の丸をくっきりと描いた翼だった。兵隊は日の丸の旗を敏捷にひろげた。懐かしい友軍機は何をせんとするのか、我々の上空を一回、二回翼を左右に振りながら頼もしく旋回した。と見るまに、突如、機体から何か真っ黒な箱が飛び出した。と、今度は真っ白なものがパッと開いた。落下傘だ。食糧投下だった。
声を挙げたくなる嬉しさだった。
一つ、また一つ。次つぎと投下されたこの歓喜。第一戦で爆撃、地上掃射をしてくれた時もさる事ながら、この時ほど飛行機が有り難かった事はない。
一同は取り敢えず天から降った乾パンを有り難く頂戴した。元気百倍した部隊は、いよいよ張り切ってまた行軍を続ける。十一時三十分、陽明堡付近で同地飛行場警備のため第一大隊より一個分隊が派遣された。
秋の陽は真紅に傾きはじめた。沿道の部落はにわか作りの日の丸を戸ごとに掲げていた。すぎし激戦の興奮も遠い思い出の壺に静まって、淡い郷愁に似た静かな落ちつきに、果て知れぬ行軍は続けられて行った。
部隊の先頭がまだら林にかかったちょうど十八時、どこからともなく敵の銃砲弾がだしぬけに飛び出して来た。よく見るとおぼろな行く手に城壁が見えて、弾はその上から飛んで来る。驚いた事にここはすでに崞県なのだ。部隊が頼りにして進んで来た地図には、まだこの新道が記入されていなかった。遠い遠いと思った崞県城が突如目の前に現れたのだ。
敵は厚い城壁の上に陣地を構築し、付近に逃げて来た敗残兵を収容して攻撃を加え来たったものと思われたが、さしあたってその兵力の見通しがつかなかった。
兵団はぴったり釘付けにされた。やがて部隊は兵団命令により左翼隊となり、後藤大佐の指揮する右追撃隊と連係をとりつつ、夜間を利用して前面の敵情を偵察すべく命ぜられた。第一大隊は城壁の西北角に進出し、敵前五百メートルの地点に取りついて工事を施し出足を挫いた敵と対陣した。
篠原兵団長は前面の敵の処置について熟考するところあったが、当時の大局的情勢から見て、恒山山系を逃げ出した敵はすでに五台付近の山地に入り、忻県を経て太原方面に退却中で、軍としては一時も早く太原に進出し、敗敵の退路を断つの必要ありと決意し、当面の敵は直接攻撃せず、一路原平鎮へと向かわんとし、前進の時期は三日払暁と定められた。
二十二時十五分、第六中隊より嘉村准尉を長とする将校斥候が出され、闇に怯えた敵の盲目撃ちの為に惜しくも西脇上等兵以下四名が傷ついた。真夜中ごろより、敵は最も得意とする砲の盲射をはじめた。砲弾は壕のあたりに盛んに火をはいたが、いたずらに高粱畑を荒らすのみである。
三日朝九時、第一大隊が追及して兵団予備隊となった。
この日の戦闘は、作戦上敵をやり過ごしたとも言うべき戦闘で、敵の方でもあてがはずれたかあまり射ちもせず、いずかたかというとあっけないような戦闘だった。九時、攻撃前進が開始された。夜のあけぬうちに右前方に転出していた第二大隊は、敵の左翼を包囲する如き態勢を保持しつつ前進、部隊本部は第一大隊砲を以て、下凹村付近より城壁西南部を射撃せしめ敵を圧倒しつつ、一方兵団主力を誘導していざ原平鎮へ、原平鎮へと怒濤の進撃を開始した。
「○○派兵部隊将校各部将校職員表」 (崞県付近戦闘)
○隊本部
○隊長──猪鹿倉 徹郎 大佐
副官──伊従 秀夫 少佐
旗手──後 勝 少尉
通信班長──桐生 憲辞 准尉
瓦斯係──佐藤 四郎 中尉
軍医──広池 文吉 少佐
獣医──安田 土岐司 中尉
第二大隊
大隊長──植田 勇 少佐
副官──熊倉 菊次郎 少尉
主計──藤田 子之吉 少尉
軍医──早川 釟郎 中尉
第五中隊
中隊長──林 司馬男 大尉
小隊長──安田 寅雄 准尉
小隊長──古垣 兼隆 准尉
第六中隊
中隊長──石原 英夫 大尉
小隊長──遠家 亀市 中尉
小隊長──小山 永久 少尉
小隊長──嘉村 省司 准尉
第七中隊
中隊長──森 康則 大尉
小隊長──小暮 伝作 准尉
小隊長──渡辺 儀興 准尉
第二機関銃中隊
中隊長──浜 久 大尉
小隊長──大類 仁一 少尉
小隊長──滝沢 嘉長 准尉
小隊長──戸塚 藤五郎 准尉
大隊砲小隊
小隊長──伝田 鹿蔵 准尉
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付図第十二
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原平鎮付近戦闘経過要図 昭和十二年十月四日
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第二節 原平鎮目指して (付図第十二参照)
使えぬ地図
鉄角嶺の戦闘に不朽の武勲を樹立して志気いよいよ奮いたった篠原兵団は、その後敗走する敵を追って一路南下した。
崞県付近の敵は作戦上故意にこれを避け、十月三日早朝その西方に迂回して、その間小規模の戦闘を交えたことは前述の通りである。
兵団に遅れていた第一大隊主力も、この朝崞県北方で兵団に追及し兵団予備隊となった。
兵団の原平鎮攻略は翌四日敢行と予定され、その準備のためこの日一日付近の部落に露営することになった。
部隊は前衛として北賈舗に宿営し、原平鎮方面の敵情地形偵察を命ぜられたが、この北賈舗はわずか数軒の家屋あるのみの小部落で、給養と作戦上不適当だった。原平鎮を偵察しようにも原平鎮まではかなりの道のりがある。独断、部隊は更に前方武彦村へ進出して露営するに決した。
当時友軍で使用していた地図は、地図とは名ばかりの極めて粗雑なもので、部落の大きさや道路など、図上ではなかなか見当がつかない代物だった。時々図にある道路がなかったり、ない道路が出現したりして、無いがましの場合がしばしば我々を苦笑させたくらいである。武彦村もこの例に洩れず、北賈舗とは全く正反対、村とはいえ人家三四百軒もある大部落だった。
十八時四十分、前衛たる第二大隊は敵の妨害を排除しつつ前進し、難なく武彦村に進入ただちに宿営の準備にかかっていた。ところが後続する本隊が同村の手前約八百メートルの地点にさしかかるや、不意に、車馬をもった約三個中隊の敵と斜つかいにぶつかった。
ちょうど本隊の先頭を前進していた部隊長は、ただちに第七中隊と第一機関銃中隊に攻撃を命じた。
敵は、我々がすでにここまで進出していようとは思っていなかったらしい。いきなり横から射たれて慌てたのなんの、全くなす所を知らず、死体三十、馬十五頭、小銃弾二箱、通信器材若干をそっくり抛り出して東南方に一目散に逃げ込んでしまった。思いがけない大漁だった。喜び勇んで足どりも軽く、もうとっぷりと暮れはてた夕闇に、十九時二十分武彦村に進入した。
土壁や家屋には反日、抗日の伝単がところきらわずベタベタ張りつけられていた。名だたる第八路軍の指導下、抗日、侮日の教育が徹底されていたのだ。一同は事態の悪化に今更の如く目をみはるばかりだった。
この誤った抗日思想を徹底的に叩きつぶすのだ。
新しい中華民国を誕生させるのだ。
我々は呆然たる中にも雄々しい決意を新たにした。
兄弟部隊である後藤部隊は右縦隊、我が部隊は左縦隊前衛となり、明早朝原平鎮に向かうよう、この夜二十一時兵団命令に接した部隊は、四日一時二十五分命令下達と共に鋭意攻撃前進の準備をした。
前兵たる第二大隊は、明けやらぬ四時、第六中隊より小山少尉以下一個分隊の将校斥候を本道ならびに原平鎮付近に出して敵情を偵察させた。
かくして五時三十分、第六中隊の一個小隊を尖兵、第二大隊(第五、第七中隊欠)を前兵とし、部隊本部、通信班、第五中隊、第一機関銃中隊(二分の一欠)、第一大隊砲小隊、第七中隊(二個小隊欠)の順序に本道上に集合を終わった。
すでに小山斥候の伝令が報告をもって帰って来ていたが原平鎮城内外に堅固な陣地を構築してたてこもっているという以外は、敵情全然不明である。
六時、いよいよ前進を開始した。
武彦村部落を出て間もなく、小山斥候の帰還にぶつかった。
「城外部落に有力な敵あり。また同部落の北方約三百メートルの地点に陣地あり。兵力不詳、砲を有する模様」
前兵長はこの報告を受けて誘導を小山少尉に命じた。
厳戒裏に前進は続く。
その夜も明けはなれた七時頃、先頭はとある小流にさしかかった。
と、突然、前方の林の中から猛烈な銃声が轟き、敵弾がせわしく飛んで来た。
前衛はただちに停止。
パッと疎開するや攻撃命令を固唾をのんで待ちうける。
それにしてもあんまり早かった。もう敵が出ようとは?一同全く意外な面持ちだった。
武彦村─原平鎮間、例の地図では約六キロである。しかるに武彦村を出てからまだいくらも進んでいない。どう考えてもおかしかった。
だが、だが事実はこれこそ正真正銘、めざす原平鎮の敵そのものだったのである。
我々の現在する水流の線から、前進陣地らしいその林まで五百メートルくらいにすぎなかった。狐につままれたような時間の一飛躍に、我等初の体験たる城壁攻撃の時は迫っていた。
敵陣地の状態は全然不明。
水流のすぐ向かい側は畑である。刈り入れを待つばかりの高粱が一面に茂っている。その向こうには名も知れぬ大きな濶葉樹が密生している。これが邪魔だ。全然敵が見えない。敵弾がどっちから来るのか、それさえ解らない。
が間もなく兵団の攻撃命令が下った。兵団予備隊であった第一大隊が復帰を命ぜられて帰って来た。
素晴らしき倉庫
部隊はただちに次のような命令を下達した。
一、敵ハ城内ヲ占領シアリ
二、部隊ハ兵団ノ右第一線トナリ水流ノ線ニ展開、ナルヘク敵ノ右側背ヨリ攻撃シテ原平鎮南方水流ノ線ニ進出ス
三、第二大隊(第七中隊欠)ハ右第一線、並木ノ線ニ展開
第一大隊(第三中隊欠)ハ左第一線、第二大隊ノ左ニ連係シテ展開、
第三中隊(第七中隊ノ一個小隊ヲ併セ指揮ス)ハ予備隊
四、攻撃ノ重点ハ第一大隊正面
各大隊は八時三十分展開完了。ひたすら前進命令を待つ。敵火はいよいよ激しく雨と飛び、早くも嵐を呼ぶ。息づまる緊張のうちに遂に九時。
前進は開始された。
予定の如く高粱畑を縫って、部隊は県城の東南角方面に迂回を企てた。
我が前進開始とみるや、敵はいよいよ激しく弾雨を送る。
第二中隊、第一機関銃中隊は早くも数名負傷者を出した。
だが我は少しもひるまない。丈なす高粱に身をよせてひらすら前進また前進する。
やがて第一大隊は東南角に、第二大隊は南方にそれぞれ進出、攻撃準備はいよいよ完了した。
城外の西側約三百メートル、停車場と倉庫を根城に敵、第五中隊は機関銃一小隊を配属されてその攻撃を命ぜられた。
停車場の敵はごく少数にすぎない。
第五中隊が猛烈に攻撃するやあわてふためき北方の倉庫に遁入する。得たりと停車場を占領する第五中隊めがけて、倉庫の外壁から約百名の敵が盛んに射ちまくって来る。中隊はただちに矛先を転じてこれに向かう。第一小隊は南側から、一個分隊を以て家屋に軽機関銃を据え、第二小隊は配属機関銃と共に鉄道線路を越えて西側から、機関銃を小高い丘に据え、共に倉庫の外壁門を見おろし相呼応して正確なる射撃を加える。
さすがの敵もややひるむかに見えたが、第一線は急がず焦らず慎重に敵に肉薄して行く。
間もなく台上の機関銃が城内の敵に発見された。すかさず砲撃が浴びせられる。
かくなる上は一刻の猶予も許さずと、第一小隊は決然鉄条網を破壊して貨車の引き込み線から突入する。続いて挙がる凱歌の声。時に十三時。
一部逃出したのみで大部分はここで殲滅された。遺棄死体約五十。
敵はこの原平鎮駅をその拠点とし補給路としていた。即ちこの駅は当時同蒲線の終点(原平─大同間未完成)にあたり、敵軍需品は鉄道によりここまで北上し、一旦集積された後自動車により更に前線に運ばれていた。敵にとっては非常な痛手である。
この倉庫のほかに西にまだ幾つかの倉庫があった。
占領してみると乾パンなど野ざらしのまま集積されていた。
米四千五百俵、メリケン粉六千袋、ソバ粉二百袋、鉄線その他三千巻、揮発油百五十缶等々莫大な在庫品だった。
これによって原平鎮の敵は全く孤立に陥った。反対にその後の我が戦闘給養は大したものとなった。第二長城線攻撃後の追撃に次ぐ追撃は、我々を大行李からすっかり引き離し、糧食の補給は絶たれてしまっていた。携帯口糧を食いあげてしまってからというものは米の飯にありつくすべもなく、宿営のたびに馬鈴薯やら何やら食えるものは何でもあつめ、辛うじて飢えを凌いで来た我々だった。倉庫にあった数千俵の米は、南京米とはいいながら全く山海の珍味にもまさること数倍、旱天の慈雨というもおろか実に神のめぐみと有り難く頂戴したのであった。
苦戦は続く
第五中隊が倉庫占領に奮戦しているうちに主力は鋭意前進を続けて行ったが、敵の抵抗はなかなか頑強で思うようには行かなかった。
十一時頃になって第二大隊長は、「敵は前方約二三百メートルの城外家屋及び城壁に銃眼を設け、畑地には工事を施して秘匿された陣地を有し、警戒極めて厳重、斥候の出入りを許さず」との第一線中隊の報告を受けた。
大隊長は重火器に対しそれぞれ有利なる地点に陣地の占領を命じ、当面の敵重火器を射撃せしめて第一線中隊の攻撃を援助させたが、敵陣の堅固に加えて戦意また熾烈、いささかもひるむ様子はなかった。
右第一線たる第六中隊は敵の正確な射撃をうけ、たちまちにして数名の死傷者を出した。
一方第一大隊正面もまた同様。
正午頃、敵との距離約三百、逐次陣地を増強しつつ敵情地形を偵察し好機到来を待っていたが、敵の地の利に反し我に利すべき地物なく、傷つくものが次第に多くなって来た。
城壁攻撃に最も必要な砲兵隊の主力はいまだ兵団に追及していなかった。わずかに独立○砲の一個中隊がこの攻撃に加わっていたにすぎなかった。
超越材料もなかった。
こうした態勢で堅固な城壁にこもる敵を攻撃する事は、極めて困難な事である。
敵は四段構えの配備をとっていた。土壁に三段の銃眼を穿ち、土壁の下に更に壕を掘って前方にも進出し得るように陣地を構築していたのである。偵察不充分なためこの情況を知り得ず、明瞭な最上方の銃眼にのみ制圧弾を送っていた部隊は、制圧したと思って前進すると、下からまた土壁前の壕から狙撃された。相次いで多数の犠牲者が出たのだった。
重火器の効力は付近の地形に祟られて効力を著しく減殺していた。
城外に繁茂している樹木は砲兵の観測を妨げたばかりでなく、往々砲弾が樹木に衝突して過早破裂を生じ、砲撃の効果は思う様に発揮し得なかった。
高粱畑は、単独の歩兵ならばさして困難も感ぜず却って我が身を隠蔽し得たが、機関銃はそうは行かなかった。通過どころか射撃位置の選定にすらすこぶる困難を極め、有利な射撃位置を選定しようとすれば、勢い敵前至近距離に進出して雨なす敵火に我が身をさらさねばならなかった。
全く四苦八苦だった。
部隊は敵前で昼めしを食った。
十二時三十分、部隊長は各大隊長に対し次の様な指示を与えた。
一、敵は囲壁あるいは城壁にこもって依然頑強に抵抗している。各大隊においては今後の攻撃において全般の関係上歩砲の協同を必要とするが、目下はその希望を満たすことが出来ない。その点考慮すること。
二、従って歩兵は独力で、自己の火力により目的を達成しなければならない。
これがため、大隊砲、機関銃、擲弾筒等の火力を一箇所に集中し、一局部宛敵陣を奪取するよう努める必要がある。
沈痛な面持ちだった。
十三時三十分頃、第一大隊方面に南方から敵将校斥候が現れた。予備隊はすかさずこれをとって押さえた。
この言に徴するに、敵は相当の兵力で装備もまた優秀である。加うるに住民の抗日意識また旺盛で、婦女子に至るまで直接間接に戦闘に協力し、防御施設に万全を期しつつあるという。
前途は全く楽観を許さなかった。
十四時、一斉に攻撃前進が再開された。同三十分、部隊の予備隊であった第七中隊を大隊に復帰させ第一線を強化したが、敵の射撃はますます猛烈となった。
敵砲兵もしきりに砲撃して来る。
攻撃はなかなか進捗しない。
友軍飛行機は朝来しばしば上空に飛来して、城内の敵及び陣地に対し痛烈な爆撃と地上掃射を加え縦横の活躍をしてくれたが、瀕死の打撃を与えるまでに至らなかった。土壁を利用して堅固な防空施設を施していた敵は、爆撃間は巧みにこれに隠れるのである。。大丈夫と思って歩兵が前進すると頭を出して猛射を浴びせて来る。我々はただ制圧の瞬時を利用する他に手はなかった。
移動
この方面から強行攻撃するはいたずらに犠牲を増すのみだった。
兵団は明五日払暁を期しこの正面を避けて西北角から攻撃する事に決し、十七時これが準備を部隊に命じて来た。部隊はこれに基づきただちに次の様な命令を発した。
命令要旨
一、原平鎮ノ敵ハ依然頑強ニ抵抗中、本支隊ハ態勢ヲ整理シ明払暁主力ヲ以テ原平鎮西北角ヨリ攻撃ス
二、部隊ハ支隊ノ左第一線トナリ明払暁迄ニ原平鎮北方五百米ノ地点ニ展開シ同地北端ニ対シ攻撃ヲ準備ス
三、各隊ハ本薄暮ヲ利用シテ兵力ヲ移動シ所命ノ地点ニ到ルヘシ
いざ移動となると、至近の距離に敵と対峙していただけに企図を暴露し、間断なき十字火を浴びた。だが幸いに損害なく、二十二時までに第五中隊を除き全部所命の地点に集結を終わり、闇夜を利用して移動をはじめた。
予定通り第一大隊を右第一線、第二大隊を左第一線とし、兵団の左翼隊となって原平鎮北方約五百メートルの地点に展開を完了したのは、五日三時だった。
部隊はただちに工事を実施して天明を待つ。
朝八時。
命令は一下した。
各大隊は高粱畠を縫って一斉に攻撃前進を開始した。
敵は飽くなき猛射を以て我に応戦する。第一線は敵弾をものともせず各個躍進に、匍匐前進に、じりじり敵に肉薄して行く。
高粱畑の中にところどころ清掃されたところがある。そこに頭を入れるや否や、待ってましたとばかり正確な射撃を浴びせる。
我が砲火の効果依然なし。
第一線は更に屈せず損害も顧みず、
一進
一止
敵に近迫して行く。
だが……………。
第一線の足並みが乱れがちになり出した。
戦闘は非常な凹凸の面で展開されて行く。
態勢をとりなおそうとするが思う通りに行かない。
困難がますます加わって行った。
時は、刻一刻いたずらにきざまれて行った。
第六中隊(機関銃一小隊属)は猛烈な敵火をくぐって最も敵に近接していた。十六時三十分頃、同中隊は外城陣地前百五六十メートルの台上の外廓陣地に向かい、果敢な突入を試みた。
乱闘しばし、遂に奪取に成功した。
だが、そこにとっつくや否や、待ち構えていた敵に四方八方から猛射を浴びた。
もう一歩も動けなくなった。
生か?
死か?
第六中隊は従容として各個掩体を構築し出した。
敵火は得たりとばかりはげしく攻め立てる。
右側胸部に貫通銃創を受けたが毫も屈せず部下を叱咤激励していた小山少尉は、再び左側頭部に貫通銃創をうけて倒れた。一昨夜来しばしば斥候となって重任を果たし、今また第一線に立っていた彼だった。
続いて傷者が出る。
第七中隊は第六中隊の左に展開していた。中隊長は大隊長のもとに招致された。
「第七中隊は、第六中隊を左側から脅威している敵を制圧し、以て大隊左側背を援護すべし」
第七中隊はただちにその方向を転じて制圧に努めたが、力戦甲斐なく無念不成功。
一方第一大隊方面も戦局は敵の猛火に悩まされ遅々として発展しなかった。第二大隊と歩調を揃えて進出する事も出来なかった。
日没は不遠慮に迫って来る。
部隊は一応攻撃を中止せねばならなかった。
遂に現在の態勢を以て敵の虚を窺いつつ夜を徹することとなる。
各隊は夜闇を利用して工事を増強し坑道を作って敵に近接を計る一方、戦死傷者の収容に努めた。
敵は闇夜ながらめくら射ちに撃ちまくり、どの作業も容易ではない。
第七中隊は大隊命令により現在地を撤収して大隊本部の位置まで後退した。
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付図第十三
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原平鎮付近戦闘経過要図 昭和十二年自十月五日至十月六日
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第三節 植田大隊長 (付図第十三参照)
夜襲準備
五日も幕を閉じて、翌六日の夜なか二時。
部隊長のもとに慌ただしく電話がかかって来た。
第二大隊長植田少佐からだった。
我が砲兵力が微弱であるのに反し、敵陣はすこぶる堅固で偽装また巧み、かつ部落周囲の樹木に妨げられ砲兵の威力を期待し得ず。重火器を以て制圧しつつ前進するにせよ我に損害加わるのみにて効果を期待し得ず。……………
要点、西北突角陣地夜襲決行を許していただきたい。
沈思黙考しばし、
部隊長はこれに断を与え許可した。
一、大隊ハ本黎明以前ニ原平鎮西北角部落ニ突入シ該地付近ヲ確保爾後ニ於ケル主陣地攻撃ヲ準備ス
二、第六中隊(三分の一欠)ハ第一線攻撃部隊トナリ白壁ノ家北端ニ突入シソノ付近ヲ占領スヘシ
三、第七中隊(三分の二欠)ハ第二線攻撃部隊トナリ大隊本部ノ後方続行第六中隊突入ト共ニソノ西方ヲ超越前進シテ東北端付近ヲ占領
四、機関銃中隊ハ一部ヲ第六中隊陣地付近ニ出シ突入部隊ニ協同シ得ル如ク準備
五、爾余ノ部隊ハ待機部隊トナリ現在地付近ニ位置シ第一線攻撃部隊ニ協同、攻撃部隊敵陣奪取ト共ニ進出シ得ル如ク準備スヘシ
勇躍した大隊長は二時四十分右のような大隊命令を下達し夜襲の準備に入った。
鬼神も哭け
六日五時
夜の帷はまだかたい。
闇に閉ざされた大陸は霜さえ呼んで、肌さす風は身にしみる。
長く秋晴れの胸のすくような日和が続いていた。中天を無限によぎる天の河は、冴えわたる星空に際立って白々と……。
下弦の月は出たばかり。
かぼそい月光に照らされてほの白い大地が息を弾ませている。
夜襲にはもって来いだ。
五時
命令一下!
第六中隊は前進開始。歩一歩、力強く敵に迫って行く。
敵前百二三十メートル。と……。
先頭の兵が倒れかけた。
(やられたッ)
のではなかった。高粱の代用係蹄に引っかかったのである。敵が膝の高さくらいに折り曲げておいたのだ。
闇に目を、高粱に足をとられては前進も困難、動作はいよいよ緩慢となる。思うつぼと撃ち出す敵火に危険は増大する。
我に反して地の利を得、あらかじめ射界を清掃して待ち構えていた憎っくき敵ながら、闇夜にかかわらぬ正確さ。囲壁の銃眼からどっと浴びせられた集中弾に、大隊副官遠家中尉、書記小野塚軍曹まず倒れた。逐次負傷者が増して来る。
第六中隊は兵力寡少ながら少しも屈せず、更に勇敢な前進を続けて行く。
敵前三十メートル。
第七中隊が左に増加。
続いて大隊本部がその中間に進出して来る。
大隊は今や全力を挙げて敵陣突破を試みる。
敵火はますます熾烈を加え、手榴弾はあたりかまわず投擲される。
事遂にここに至る。
全滅を賭するも悔いなしと、悲壮なる決意を固めた植田大隊長は、決然まなじりを決して突撃を号す。
これとみるや敵兵は健気にもついぞみないねばり強さで猛烈に抵抗する。
刀柄もくだけよとばかり伝家の宝刀ふりかざし、大隊長は敵陣めがけてまっしぐらに斬り込んだ。
六時
今一息という折しも飛弾一発、無念大隊長はバッタリ倒れる。
頭部貫通銃創、植田少佐は遂に壮烈な戦死を遂げてしまった。
第六中隊長石原大尉は残余の部下十数名を提げて率先先頭に立って敵陣囲壁に向かって突入したが、彼また無念、頭部及び前胸部に貫通銃創を受け、壮烈鬼神を哭かしむる戦死をとげた。
部隊の損害は次第に多くなる。
あるいは倒れ、あるいは傷つき、辛うじて囲壁にとりついたものわずかに数名。
いまだ明けやらぬ空に、暁の明星がただ一つキラキラと無心に光っていた。
砲兵到着
払暁攻撃は第二大隊の奮戦もその甲斐なく遂に不成功に終わった。
浜大尉は後方の機関銃陣地において伝令よりこの報告をうけた。
黎明は已に迫っていた。
これ以上の攻撃続行は到底不可能であった。このままの態勢で時を過ごしては、明けはなれてから必定敵火に暴露する。
浜大尉はただちに部隊長にこの情況を報告すると共に、第一線中隊に態勢を整理して現在地付近に工事を行うよう命じた。第一線中隊は有利な地点を選び応急の掩体を構築すると共に、死傷者の収容に努力した。
敵弾に妨げられては作業意の如くならず、死傷者収容はほとんど不可能に近かった。
第一線中隊は敵前至近距離の不充分な掩体の中で、長い間敵火の洗礼にさらされていなければならなかった。
第一大隊は第二大隊の右に連係してその夜襲を援助すべく、坑道を掘開して陣地を挺進せしめようと試みたものの、敵の頑強な抵抗にあっては第二大隊と歩調を合わせて肉薄し得なかった。
夜の白むにつれて図にのった敵は猛烈な抵抗力をますますふるった。
第一線の第一、第二中隊が敵前百五十メートル内外の地点まで前進した頃は傷者相次ぎ、これ以上の攻撃はやはり強行し得なくなっていた。
やがてすっかり明けはなれた。秋晴れの澄みきった空に、朝日は輝きを加えて登りつつあった。
悲憤のうちに九時となった。
兵団命令があって、「砲兵隊は九時五十五分から五分間突撃支援射撃を行う。第一線は十時を期して外廓部落に対し重点をその西北角に指向し一斉に突撃を敢行すべし」と、このように命ぜられた。
部隊はただちにその準備に入った。
第一線の兵力を増強するため、駅の倉庫を警戒していた第五中隊は一部を残して大隊に復帰せしめ、本突撃に協同させる事になった。
第二小隊を残しただちに部隊長のもとに駆けつけた中隊長は、部隊長から直接命令を受け右第一線となった。
部隊は万端の準備をととのえて、砲兵の支援射撃を今やおそしと待ちかまえる。
だが砲兵の射撃は諸種の都合で延期された。
各隊将兵は今しばらく不完全な掩体の中で、敵火にさらされながら切歯扼腕していなければならなかった。
折しもあれ、部隊主力をあらゆる困難と戦いつつ懸命に追及中であった斎藤大尉の指揮する連隊砲中隊と速射砲中隊が到着した。待ちに待っていた部隊長は、いたわるいとまもなくただちに付近の台上に陣地を占領せしめ、間もなく行わるべき総攻撃に協同を命じた。
時を同じくして待望の○○砲主力も来着した。
兵団の攻撃力は一段と増強され、これと知った第一線部隊はただ躍り上がって喜んだ。
突撃
十一時十分
連隊砲と速射砲とがまず砲門を開いた。
ついで十一時二十五分
○○砲が猛撃を開始した。
砲声は殷々と耳をろうし黒煙まさしく天に冲す。
だが地形に制約された我が砲撃はわずかに敵陣の一部を破壊し得たに過ぎず、敵の抵抗は衰うべくもない。
我が第一線はこの支援射撃にいよいよ勇気百倍し、敵砲火も何のそのあらゆる障壁を蹴ちらし蹴ちらし一意躍進を続けて行く。
第一大隊方面においては、右第一線たる第二中隊が右方の破壊口より突入すべく迂回しながら鋭意敵に接近して行く。
大隊の予備隊たりし第三中隊もやがて第一線に増加され突撃の機をねらっている。
弾薬を射ち尽くした大隊砲小隊は遂に砲をなげうって、拳銃あるいは傷ついた戦友の銃をとり突撃部隊に参加、敵前三四十メートルに迫って機を窺っている。
大隊長以下大隊本部もまた第一線に進出した。
第二大隊は夜襲の時のままの姿で最後の機会をうかがっている。
あらゆるものをあげての突撃は重苦しい緊張裏にひたおしに迫っていた。
十一時五十五分
遂に右第一線に喊声爆発した。
第二中隊だ。
第一中隊も左破壊口に向かって突撃した。
だが敵の射撃と手榴弾にバタバタ倒れる。
残った数名が土壁に向かって前進を続ける。
どうしてこれが見殺しに出来得よう。
越後健児の意気を示すは今ぞ。
続々諸隊は一斉に立って戦友の屍を乗り越え乗り越え突撃する。
護国の鬼
見よ!
土壁からほど遠からぬところ。
夢寐だも忘れ得ぬ。
ああ 植田大隊長!
目をクワッとみひらき、軍刀の柄をしっかと握って大の字に。
ご無念でしょう!
軍人らしいこの最期。この壮烈。
泣かざる者やある。
奮起せざる者やある。
復讐の嗔恚の炎にまなじりは血と裂け必死となった一同は、怨敵めがけ肉弾を叩きつけて行く。
やがて全線揃って土壁にとりついた。だが敵もさるもの一歩も退却しない。
部隊長は急遽第一線機関銃に弾薬を補充せしめ土壁内の家屋にこもる敵を掃射させる。
小銃中隊は今こそ火の塊と化し、機を見ては部落内に飛び込み一歩一歩地歩をかためて行く。
この間我が死傷者はますます増加する。
大隊長を失い今は浜大尉の指揮する第二大隊は、弔い合戦の猛闘に兵力わずか数十名となる。
軍旗 の赴くところ寡兵何かは苦にすべき、敵をたおさずんば死すともやまず、草むす屍とたぎりたつ大和魂は加わる困難にますます雄健を加え、逐次頑敵を屠って行く。
かくて十三時三十分頃からさしもの敵火も衰えはじめ、同時に敵兵は漸次退却を始めた。
十四時、遂に第一線諸隊は敵陣の一角を確保した。
部隊はかねて与えられていた任務に基づき引き続き部落内の掃討にうつった。
窮鼠の勇を振るう敵の抵抗を排除しつつ部隊は地歩を固めて行く。
日没頃敵はおおむね城内に遁亡し去った。我が軍は内城城壁付近に迫った。が部隊は兵団命令に基づきひとまず猛り狂う矛先をおさめる事になった。
厳重な警戒のうちにその夜は冷え冷えと更けて行った。
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付図第十四
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原平鎮付近戦闘経過要図 昭和十二年自十月十日至十月十一日
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第四節 内城攻撃 (付図第十四参照)
吹きなす笛
その日の二十一時、部隊は兵団命令と掃討計画書を受領した。
七日一時、部隊長は払暁後の掃討戦に関する命令を次の如く与えた。
一、兵団ハ七日十時ヨリ更ニ原平鎮ノ掃討ヲ実施ス
二、部隊(○砲隊一部属)ハ東掃討隊トナリ東半部ノ掃討ヲ実施ス
三、後藤部隊ノ第一大隊ト○○第十二○隊ハ中掃討隊トナリ旧城内ヲ、後藤部隊主力ハ西掃討隊トナリ西半部ヲ掃討ス
七日の黎明と共に敵の遺棄した手榴弾、軽機、弾薬等の収集を開始して九時には大体完了、いよいよ十時から掃討を再開した。
第一大隊は南部地区、第二大隊は北部地区の掃討隊となり、それぞれ旧城内城壁よりする敵火の間断を利用しながら果敢な掃討を強行し、十六時三十分頃になっておおむね担任地域内に敵影を見ざるに至り、日没と共に前日の如く露営した。
翌八日は城内攻撃のための諸準備に費やされたが、十五時から城外部落において、故植田中佐以下五十三柱の合同火葬をしめやかに執行する事となった。
凛々たる英姿いまいずこ。
現し身は秋深き大陸の野に千載の恨みをのんで神去りましたが、芳烈の御魂は永久に護国の神霊として天に鎮まり、永えに皇国を護り導き給う。
願わくは御加護を以て部隊に光輝あらしめ給え。武運を護らせ給え。
ただ一筋に祈りつつ焚きまいらす哀悼のうちに、秋の陽はつるべおとしに落ちて行く。
迫り来る夕闇のもなか、英姿を焼く煙は我が心をしるすがごとくただ重苦しくただよい、胸おしつぶすばかり。洟すすりあげ、眼くもらせて合掌の手もふるえる。
ワッと声をあげて泣き出したいさし迫った気持ちで、うたかたと消えゆくむくろにただ手を合わす一刻だった。
戦友よ、この仇は、この恨みは、必ず討つぞ!
きっと果たすぞ!
卿等の尊い生命は俺達が今、この瞬間完全にうけついだのだ。
戦友よ。安らかに眠れ。
卿等から引きつがれた生命もて、生けるしるしを生きとって靖国の御社で再び逢おう!
戦友よ。有り難う。
よくやってくれた。
草むさん我等の屍こそ大東亜の黎明をもたらす光明なのだ。
戦友よ、眠れ。安らかに……………。
袈裟のない僧侶の読経も殊更身にしみる。
砲声が、弔砲の如くどこかでとどろいた。
掃討計画
十月九日九時御骨あげをとり行い遺骨はただちに小学校へ奉安した。
さあ、戦はこれからだ。
英霊の弔い合戦だ!
一兵残らず息の根を止めて美事仇を報いてやるんだ。
部隊将兵一同志気いよいよ天を衝く。第三中隊の如きは村落攻撃の訓練を行って必勝を期した。
この日あたかも兵団命令下り、原平鎮掃討計画が手交された。
部隊は明払暁を期しいよいよ内城に盤踞する敵を攻撃し同地を確保するのである。原平鎮掃討計画は五項目よりなる詳細を極めたものだった。
原平鎮掃討計画要旨
第一、方針
兵団ハ十月十日払暁先ツ一部ヲ以テ南門東南側敵陣地ヲ奪取シタル後引続キ主力ヲ以テ南門西方地区ヲ攻撃シ城内ノ掃討ヲ完成ス
第二、軍隊区分
右翼隊
猪鹿倉部隊(第三大隊欠)
伝騎二
独立○砲第十二○隊ノ一中隊
左翼隊
後藤部隊
大泉支隊ノ○兵砲隊
伝騎三
其他
戦車隊・騎兵隊・砲兵隊・工兵隊及ビ大泉支隊
第三、攻撃準備
十月九日
一、両翼隊ハ薄暮ニ乗シ敵陣地前方約七八百米ノ線ニ展開シ敵情地形ヲ偵察ス
両翼隊ハ一部ヲ城壁西北側地区ニ残置シ敵ノ突破ヲ予防シ且敵ヲ牽制ス
二、戦車隊ハ一部ヲ以テ東側地区ニ行動シ敵ヲ東方ニ牽制ス
三、砲兵隊ハ駅付近ニ陣地ヲ占領シ得ル如ク準備ヲ完成シ且歩砲兵ノ協同ニ関シ打合セヲ行フ
十月十日
一、両翼隊ハ砲兵ノ射撃間ヲ利用シ敵前約二百米ノ付近迄接近シ攻撃準備ヲ完成ス
二、砲兵隊ハ駅付近ニ展開シ七時ヨリ約二時間攻撃準備射撃ヲ実施シ、敵砲兵ノ制圧敵陣地及ヒ城壁ノ破壊ヲナシ突撃路ヲ開設ス
三、八時三十分乃至九時ノ間ニ於テ飛行機ニヨル爆撃ヲ実施スル様予メ要求ス
第四、攻撃実施
一、砲兵隊ハ攻撃準備射撃二引続キ九時ヨリ三分間南門東南側付近ニ集中射撃を行ヒ突撃ヲ支援ス
右翼隊ハ右砲兵射撃ニ膚接シ九時過キ突撃ヲ実施ス
突撃奏功後城壁ノ東側ヨリ遁走スル敵ヲ殲滅ス
戦車隊ハ主力ヲ以テ右突撃ニ協同ス
コノ間砲兵ノ一部及ヒ左翼隊ハ右翼隊ニ危害ヲ及ホス敵ヲ制圧ス
二、次テ砲兵隊ハ右翼隊ノ攻撃進捗ニ応シ南門付近ニ集中射撃ヲ実施、左翼隊ハ之ニ連係シテ一部ヲ以テ西方ヨリ主力ヲ以テ西南方ヨリ突撃ヲ実施ス
第五、追撃
一、騎兵隊ハ南方及ヒ東南方ニ向ヒ退却スル敵ヲ追撃ス
二、歩兵突入後砲兵隊ハ追撃射撃ヲ準備シ機ヲ見テ退却スル敵ヲ射撃シテ壊乱ニ陥ラシム
三、所要ニ応シ戦車隊ヲ追撃ニ使用ス
部隊長は右計画受領後、ただちに各大中隊長を停車場西方の丘阜に集めた。兵団の掃討計画ならびに左翼隊の攻撃腹案に関し現地指示を行った部隊長は、次いで十六時命令を下して諸隊を部署した。
一、第一大隊(第一中隊、第二中隊ノ一小隊及ビ機関銃一個小隊欠)ハ左第一線
先ツ第一中隊ト機関銃中隊ハ薄暮ヲ利用シテ現在地ヲ出発原平鎮南方約七百米ノ線ニ展開シテ該地ヲ確保、ソノ他ハ十日六時三十分迄ニ原平鎮西南側ニ展開シ攻撃ヲ準備スヘシ
二、第二大隊(第五、第七中隊及ヒ機関銃一個小隊欠)ハ右第一線
先ツ第七中隊ト機関銃中隊(一個小隊欠)ハ同シク薄暮ヲ利用シテ現在地ヲ出発原平鎮南側本道西側ニ展開シテ該地付近ヲ確保、ソノ他ハ十日六時三十分迄ニ原平鎮西南側ニ展開シテ攻撃ヲ準備シ特ニ戦車隊トノ緊密ナ連絡ニ留意スヘシ、重点ハコノ方面ニ指向ス
三、第二中隊ハ即時現在地出発、原隊ニ復帰
四、第五中隊長ハ部下中隊、第二中隊ノ一小隊及ヒ機関銃二個小隊ヲ指揮シ現在地付近ヲ確保シ且敵ヲ牽制スヘシ
五、連隊砲中隊及ヒ速射砲中隊ハ日没ヲ利用シテ原平鎮南側付近ニ陣地ヲ変換スヘシ
六、○砲兵第三中隊ハ薄暮ヲ利用シテ移動停車場付近ニ陣地ヲ占領シ主火力ヲ左大隊正面ニ指向シ得ル如ク十日七時迄ニ諸準備ヲ完了スヘシ
七、ソノ他ハ予備隊トナリ十日六時三十分迄ニ原平鎮南側丘阜付近ニ到ルヘシ
各隊はこれに基づいてそれぞれ準備を行い、十日四時頃までにはおおむね敵前三四百メートルの線に展開し工事を実施してひたすら夜の明けるのを待った。
決死の爆破行
八時頃から砲兵の攻撃準備射撃が開始された。雷鳴とまがう砲声はずっしりと重く強く天地を圧する。
外廓奪取における苦い経験から徹底的にあらゆる障害を排除しての砲撃である。天地ために震撼するそのさなか、第一線部隊は戦車と緊密なる協同の下にじりじり敵に接近して行く。
九時三十分、いよいよ突撃支援射撃開始。
だが敵は依然頑強、更にたじろぐ色も見えない。
部隊長は敵の側防火器を制圧すべく速射砲中隊の主力を第一大隊に、一個小隊を第二大隊に配属した。
第一線は早くもほぼ突撃発起位置に前進し虎視眈々機を窺っている。
陣前一帯には鉄条網や地雷が敷設されていた。
配属の工兵小隊はこれを除去すべき命をうけた。
決死隊は敵弾と我が砲弾の下を縫いかつ潜りながら猛進して行く。
敵火はそれとみるや熱火の洗礼を浴びせるが、落ちつきはらった決死隊は着々と作業をすすめて行く。
固唾をのんで一心に見まっているうちにやがて作業が終わったか合図がした。同時に支援射撃が終わった。
九時四十分!
敵はとみると我が猛撃もこたえぬげに相変わらず頑強な抵抗を示している。
だが我が第一線各隊は敵火を冒して断固突撃を決意し猛然これに襲いかかった。
九時五十分第三中隊を先頭に突角陣地に突入!とみるや白兵戦を交えて美事に占領同地を確保する。八日の訓練が物をいったか比較的損害が少ない。
間髪を容れぬ得意の急襲を食った敵は、山砲数門をほうり出していち早く城内に遁走したが、またもやその堅固な城壁をたのんで新たに執拗な抵抗をはじめた。
左翼隊方面ではますます戦果の拡張に努め部落を掃討しつつ前進したが、内城壁はすこぶる堅固で容易に我を近づけなかった。
何しろ高さ約二丈、厚さ約一間もある城壁だ。これに加えて我との間に大きな樹木が生えているため、息つくいとまもない朝来の砲撃や爆撃も破壊し得ない。だが城内に突入して徹底的に敵を叩きつぶすには、どうしてもまずこの城壁に破壊口を作らねばならない。
たよりにした砲撃は有効ならず、事ここに至っては万已むを得なかった。
部隊長は遂に配属工兵小隊にこれが爆破を命じた。
十名の決死隊が選ばれた。
強い決心を眉宇にしっかりと刻んだ決死隊は、皆それぞれ爆薬を抱えながら落ちついて命を受けた。
この十人が今から数刻後にはこの世にいなくなるかも知れないのだ。
願わくは爆弾十勇士に神霊の加護あれかし。今はただ神に祈るほか、激励の言葉も見出せない。
敵火の間断を見すましていた彼等は、機を見て一挙城壁に向かって突進して行く。
これと見てすかさず敵の猛射乱撃。
ハッ、としたが誰も倒れぬ。
続いて決死隊は城壁直下の濠内へ!
敵はあらゆる方向から盲目射ちに射ちまくる。
(なにとぞ無事重任を果たさしめ給え)
手に汗握って一同は憑かれたようにじっと決死隊を見守っている。
壕内へ飛びこんでから状況全然不明。
五分……………
十分……………
出て来ない。
(やられたか?)
(やられたに違いない)
敵の猛射は不吉な予感をおしつけるようにいよいよ鋭い。遂に
十五分。
いまだ出て来ない。
敵が射っているからには生きているらしい。が………。
まだ………。
決死隊全滅?
不吉な予感はいよいよ胸をしめつける。
(生きていてくれ)
こうなればただそれだけ。
我々は悲壮な面持ちに蟻の動きも見落とさじと、必死となって悪夢のような刻一刻に堪えていた。
二十分!
(もう駄目だ)
一同は目をつぶる。
と、
どうだ!
いきなり一人が壕からパッと躍り出た。
(有り難い!)
(生存者がいた!)
見まもる我等の息づまる緊張の中に思わずホッとした声がもれる。
アッ!
続いて一人
また一人!
小隊長?
無事だ。
顔は分からぬが躍り出たその姿。
八人
九人
十人
全部無事だ!
思わず喜びの声が挙がった。いつの間にか一同は互いに手を握りあっていた。
十人の勇士はそれぞれ敵前四五十メートルのあたりまで帰って来た。
だがどうしたのか、
決死隊はいい合わしたようにぴたりと止まった。そして一斉に敵の方を見つめている。
ここまで帰って来ないのだ。
敵眼から遮蔽したところだが敵弾集中して危うい。
気が気でない。
殺しては大変だ。
我々は誰からともなく声を発して彼等を呼びつづけた。
聞こえたか聞こえぬか、彼等は一向応ずるそぶりもなく、依然化石のように城壁に頭を向けたまま動かない。
と突然!
グワーン……………
それこそ天地も裂けんばかりの爆音が轟きわたった。
一瞬城壁の一角は濛々たる黒煙に覆いつつまれ、ありとあらゆるものが天空高く吹っ飛んだ。
決死の作業は美事成功したのだ。
「工兵よ。有り難う!」
黒煙は砂塵と共に天地を呑み蒼穹また暗一色、しばらくは何一つ見えない地獄の様相だった。
やがてその中を十名の勇士は足どりも軽く凱旋将軍のように悠々引き下がって来る。
その姿の雄々しさ。たのもしさ。
これぞ日本人にあらずしては為し得ざる神業でなくて何であろうか。
有り難う。
ご苦労。
我々は実に泣きたい思いで感激にふるえつつこの十勇士を迎えた。
黒煙は三十分も経てようやく天空に吸い取られ砂塵もやがておさまった。
見よ!
日本人の生き血をむさぼった城壁は今こそ、現実に、ポッカリと口を開いている。消えやらぬ余燼を透かして原平鎮の城内が、待望の城内が……………
今こそ素通しに見えるではないか。
永久のように長かったこの三十分!
遂に破壊口はつくられた。あとはただ伝統の突撃あるのみ。勝利は已に我が上にあり。
だが恨むべし、惜しむべし、日没はすでに迫っていた。
日没と共に攻撃を中止した部隊は、至厳なる警戒裏に、胸おどらせて明日の攻撃準備を行う事になった。
夜に入っては逆襲のおそれがあった。各隊はなん時たりとも対応し得る如く陣地を確保し、特に南門に対して堅固な陣地を構築し万全の準備を整えたが、時たま思い出したような射撃のほかに逆襲はなかった。
昨日まではあれほど執拗に反撃して来たのにと、一同は彼を知るだけむしろ奇妙な感にうたれた。
さすがの敵も事ここに至っては逆襲を敢行する気力も失せ、浮き足たっていたのであろう。
厳戒裏に硝煙の臭いも生々しくこの夜は重苦しくふけて行った。
城内掃討
明くれば十月十一日、
遂に原平鎮最後の日は来た。
七時兵団命令にて忻口鎮より魏家庄方面にわたる敵情を知り、板垣兵団主力は本十一日平地泉及びその東方の桃園村方面に進出し攻撃準備をなす旨通達されると共に、当兵団は速やかに原平鎮の敵掃討を完了し爾後の前進を準備すべき旨を命ぜられた。
部隊は依然鋭意原平鎮城内の残敵掃討に邁進すべく、十一時頃これが攻撃を再開した。
重点は依然第一大隊正面。戦闘は工兵決死隊の破壊した南門の争奪を中心としてはげしく行われた。
敵はすでに守備兵の大半を失っていた。住民もまた我が飛行機及び砲兵の猛爆撃に遭っておびただしい損害をこうむっていた。かてて加えて頼みの城壁はこの通り、志気阻喪し浮き足立った敵は到底
軍旗 の前には抗すべくもなかった。
まして植田大隊長以下の痛恨を晴らすべきこの決戦だ。
戦車隊との緊密なる協同のもとに第二中隊は早くも正午、遂に敵が最後とたのむ南門を奪取した。
勇戦一番余勢を駆って更に城内深く進入した第二中隊は、左翼隊たる後藤部隊の右に連係して城内の掃討に努めた。
こうなっても敵はなおも家屋にこもって頑強な抵抗を続ける。彼等を献身抗戦に追いたてるものは誤れる抗日精神である。城内掃討はけっして楽観を許さなかった。
部隊は一撃の下に敵を殲滅せんものと急襲また急襲、新しい獲物に向かって猛然飛びかかって行く。
第一大隊は後藤部隊及び戦車隊と一層緊密なる連絡をとって城内深く進撃し、家屋を利して反撃する頑敵に決死の掃討を加えた。
挟撃作戦図にあたる
第二大隊は一部を以て掃討を続行しつつ、主力は敵の右側背に迂回して退路に迫り敵の包囲殲滅を試みた。
こうなっては、今まで敵ながら天晴れ死力を尽くして抵抗の限りをつくした頑敵もほどこさんにすべなく、やがて約八百名の敵は、十六時三十分頃より、果然城壁東北角から東南方に向かって続々退却しはじめた。
一般住民も多数加わっている。
兵団の挟撃作戦図にあたる。
わざととり残しておいた狭い道を、ただ一すじにわれおくれじと雪崩をうって逃げ出す有様は全く壮観ともいえよう。我が軍に遅かれ早かれ殲滅される運命も知らず、我先に先を争って、他人の頭を踏み台にしてまで土塀を越えて逃げて行く。
一同は哀れとも笑止とも名状し難い複雑な気持ちで、こみあげて来る笑いを片腹いたいまでゆすりあげては、呑みおろした。
連隊砲、配属○砲のほかに、はては前日鹵獲したばかりの敵山砲までひっぱり出して、手ぐすねひいて待ちかまえていた第二大隊主力は、ソレッとばかりこれに猛撃を浴びせる。
計画通りの挟み撃ちだ。
これが終わるやすかさず戦車隊が追撃また追撃、恨み重なる怨敵に壊滅的打撃を与えた。
一方左第一線大隊は後藤部隊と共に城内掃討を行い、日没までにほぼその目的を完遂した。
忻口鎮付近に主陣地をおき、その前進拠点として、全滅を賭しての従来に見ない頑強な抵抗を遂げた敵も遂に形をとどめず、ようやく戦闘一段落を告げた城内には、抗日の無意義を物語るかのように敵屍累々と横たわっていた。
十八時三十分、部隊は第二大隊に対し追撃を中止して原平鎮南門付近に集結するよう命じ、爾後の追撃を騎兵隊の快速に委ねた。
十九時三十分、第二大隊は態勢をととのえ所名の地点に集結を終わり、第一大隊も日没と共に一旦掃討を中止、城内に露営してそれぞれ次の行動を準備した。
殲滅し去ったとはいえ残敵の出没も計り知れず、部隊はいささかも警戒の手を緩めることが出来なかった。
十月四日以来思えば悪夢にも似た八日間だった。
南より北より、そして最後にまた南よりと、攻撃方向を転ずること三たび。戦闘三日目には植田大隊長及び石原中隊長を失い、文字通り悪戦苦闘を続けて来た将兵一同である。
戦はこれからと更に覚悟を強めるものの、遂に堅塁を壊滅し去った感激は、久しぶりに将兵一同にほっとした安堵をよびもどした。
時すでに十月半ば。
大陸特有の夜気いよいよ冷えわたり、音なく降りる霜さえも何がなふるさとの想いに似て懐かしく心をみたしつつ、警戒の夜は深々と更けて行った。
戦いのあと
原平鎮城は忻口鎮、南庄頭一帯にわたる陣地と共に、南方百二十キロ太原の前進陣地ともみるべく、かくまで頑強な抵抗を遂げしめたのは、堅固なる陣地に加うるにこの付近一帯の徹底した抗日思想そのものだった。
非戦闘員たる一般住民も、婦女子に至るまで、あるいは直接戦闘に参加しあるいは後方勤務に従事した。
弾雨をくぐる危険を冒して、女子供が食糧を運んだ。老頭児がごそごそと陣地の補強や雑役に従事しているのもみられた。
さすがは難攻不落を以て誇り得るだけの事はあったのである。
我が八日間にわたる死闘は遂にこれをしても陥落せしめたのであるが、かくあらしめた素因は、実に光輝ある
軍旗 の下、股肱たるの信念に徹した不撓不屈の攻撃精神そのものであった。
太原方面の敵主力は、この戦闘及び続いて開始された南庄頭の戦闘における我が勝利の前に、重大な脅威を感じた事は言をまたなかった。
植田大隊長以下多数の尊き犠牲者を出した我が部隊は、兵力において少なからぬ減少を来したが、数千に上る敵もまた、あわれ抗日の手先に踊らされて、はかない抗戦に従事した多数の住民を道づれに、ほとんどが地獄の旅を辿った。もとより無辜の中国人を敵とする我ではなかった。むしろ新生中国人と相携えて、東亜永遠の平和を確立する念願に挺身している我々だった。この念願ゆえに、真意を解せず英米侵略の魔手に踊らされ、自己を過信して遂に自ら墓穴を掘るの愚をあえてした蒋介石政権に対して、膺懲の鉄槌を下したのである。
中国の民はあくまで日本の兄弟であり友でなければならなかった。東洋民族という血のつながりを以て、共に大東亜を建設して大業を翼賛し奉らねばならない民であった。従って我々は極力戦渦を住民に及ぼす事を避けて来たのだった。
原平鎮は実に大東亜の前進のためにはらわれた痛ましい犠牲だった。
外その侮を防ぐべき時、愚かにも蒋介石政権を頼ってあらゆる敵対行為をとった彼等は、当然哀れな馬謖として皇軍念願の刃に衂られねばならなかった。
戦いすんで余燼さめやらぬ城内のそこかしこ、敵兵の遺棄死体の中に交じって老若男女の死体が無残にも生々しかった。自業自得とはいえ、一同は新生大東亜建設途上の哀れな犠牲者に大愛の涙を注がざるを得なかった。
崩れ落ちた土塀の下に残された頑ぜない小孩子の小さなむくろに、誰が手向けたのか、名も知らぬ野生の草花が供えられてあった。
部隊は兵力の著しい消耗と甚だしい疲労困憊とにかかわらず、整備休養のいとまもなく、翌十二日次の戦闘のために想い出多き原平鎮をあとにした。
「○○派兵部隊将校各部将校職員表」 (原平鎮付近戦闘)
○隊本部
○隊長──猪鹿倉 徹郎 大佐
副官──伊従 秀夫 少佐
旗手──後 勝 少尉
通信班長──桐生 憲辞 准尉
瓦斯係──佐藤 四郎 中尉
軍医──広池 文吉 少佐
獣医──安田 土岐司 中尉
第一大隊
大隊長──板倉 堉雄 少佐
副官──高橋 準二 中尉
主計──山下 正行 大尉
軍医──君 健男 中尉
軍医──菊島 広 中尉
第一中隊
中隊長──安江 寿雄 大尉
小隊長──折笠 政雄 少尉
小隊長──五十嵐 源助 准尉
小隊長──鴨下 政平 准尉
第二中隊
中隊長──菅野 定雄 中尉
小隊長──重原 慶司 少尉
小隊長──庭野 富治 少尉
小隊長──朝日 長一 准尉
第三中隊
中隊長──服部 征夫 大尉
小隊長──古木 秀策 中尉
小隊長──清水 清治 准尉
小隊長──岩本 末吉 曹長
第一機関銃中隊
中隊長──高橋 石松 大尉
小隊長──見波 隆示 少尉
小隊長──阿部 平八郎 准尉
小隊長──鈴木 祐司 准尉
小隊長──宮川 久司 准尉
第一大隊砲小隊
小隊長──羽柴 正一 中尉
第二大隊
大隊長──植田 勇 少佐
副官──遠家 亀市 中尉
主計──藤田 三子吉 准尉
軍医──早川 釟郎 中尉
第五中隊
中隊長──林 司馬男 大尉
小隊長──安田 寅雄 准尉
小隊長──古垣 兼隆 准尉
小隊長──近藤 宇平 准尉
第六中隊
中隊長──石原 英夫 大尉
小隊長──小山 永久 少尉
小隊長──嘉村 省司 准尉
小隊長──佐藤 徳蔵 曹長
第七中隊
中隊長──森 康則 大尉
小隊長──小暮 伝作 准尉
小隊長──渡辺 儀興 准尉
小隊長──深井 重司 曹長
第二機関銃中隊
中隊長──浜 久 大尉
小隊長──大類 仁一 少尉
小隊長──西野 清一郎 少尉
小隊長──滝沢 嘉長 准尉
小隊長──戸塚 長五郎 准尉
第二大隊砲小隊
小隊長──伝田 鹿蔵 准尉
連隊砲中隊
中隊長──増成 正一 大尉
小隊長──小林 三治 准尉
小隊長──篠田 善太郎 曹長
速射砲中隊
中隊長──斎藤 国松 大尉
小隊長──惣角 義治 准尉
小隊長──羽深 信治 准尉
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