石坂准尉の覚書(南庄頭の戦い)
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『駐満記念 鮫城部隊』 満州国牡丹江省穆稜 柏部隊将校集会所 (石坂准尉の書き込みより)
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「南庄頭の戦闘」
原平鎮から二昼夜の行軍で南庄頭に着いた。この日は部落内で休息する。前線から砲声が頻繁にとどろき、民家の軒下にいた戦友が流れ弾で戦死した。
翌日、前線警備に出動した。一個小隊、塹壕を掘って敵の襲撃に対する。ところが、日没となるや敵砲兵の猛射を受ける。絶え間なき砲弾に壕は崩れ、腰まで土砂に埋まった。あまりの激しさに隣の兵すら見えなかった。
多くの戦友を失ったものと思っていたところ、朝には砲撃が終わり、壕内から土砂にまみれた戦友がぽつぽつ顔を出した。互いに奇跡の無事を喜んだ。
その数日後、敵陣に白刃を振るって突入するも失敗、なおもわが軍の攻撃は間断なく続けられたが、戦果上がらず、持久戦になる。
戦死者は増すばかり。
敵との距離が近いため、戦死者の収容は不可能だった。野ざらしの遺体は暑さで腐乱し、うじ虫がわいた。鼻をつく異臭に気がめいった。
兵は日没を待ち、後方約四キロメートルの部落まで飯と水の補給を受けにゆく。敵前通過の難作業で、いつ敵の襲撃を受けるか分からない。壕内には数十体の敵兵のしかばねが遺棄され、それを踏みつけながら通る私たちの心情いかに!
夜はわが軍の夜襲を恐れた敵軍が手榴弾を乱投下し、陣地は爆発の火花で真昼のように明るかった。そんな戦闘のさなか、内地から援軍が来着した。原平鎮の戦闘で失った兵員が補充され、士気高揚する。
敵と対峙すること約一ヶ月、十一月三日、明治節を期して総攻撃を敢行、南庄頭の剣山上に日章旗ひるがえる。
「南庄頭占領」
昭和十二年十一月三日、明治節を期して総攻撃を敢行、敵はわが軍の猛攻に屈し、十万の敵は太原方面に退却す。この日は快晴、友軍の万歳こだます。
南庄頭における戦死者 四十二名
内 中隊の戦死者 四名
野崎上等兵 藤田上等兵
同年兵 古畑一等兵 近藤一等兵
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「熱暑」
●石坂 「南庄頭の戦いで印象深いのは昼間が暑かったことだ。とんでもなく、ね。日本の夏とは比べ物にならないくらいのすごさ。気温が何度まで上がったのか正確に覚えていないけど、まるでしちりんで焼かれているさんまのような気分だったね。暑いの何のって。南庄頭に進撃した頃は、そのさんまじゃないけどさ、秋だったんだけど、大陸の残暑はなかなかのものでね、本当、真夏といっても間違いなかった」
■藤本 「石坂准尉は極寒の満州から、この南庄頭のような酷暑地域まで、いろいろなところに行っていますよね」
●石坂 「俺、北国出身だから寒いのは我慢できるけど、暑いのは苦手かもしれない。南庄頭の戦いで一番記憶に残っていることは何って聞かれたら、いつでもこの暑さに触れるからね。
……南庄頭はさ、味方と敵がにらみ合う第一次世界大戦のような塹壕戦だった。そのせいで目の前に横たわっている戦死者を後方に運べなかった。彼らを焼いてやろうと思っても、何せ敵前だからね。身動きができないんだよ。
はえにたかられ、うじがわいた遺体は見るにたえなかった」
■藤本 「凄惨ですね」
石坂准尉の覚書(南庄頭の思い出)
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『支那事変史』 満州第一七七部隊将校集会所 (石坂准尉の書き込みより)
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「食事運搬」
敵前通過のため、昼間の行動は不可能だった。日没後、暗夜に乗じて五名が一組となって壕内を移動した。この食事受領の途中、暗闇の足下にぎょっとするものがあった――敵兵のしかばねである。一人、二人と幾人かの敵兵を踏みつけているうちに背筋が寒くなった。
「ああ、これが戦場だ」
「十一月三日は明治節――この日を期して総攻撃」
敵はわが軍の総攻撃を察知して三日早朝、太原方面に逃走した。山頂に陣取っていた敵はかなり動揺したらしく、朝食の準備をしたままだった。地面には小銃弾、手榴弾がざくざく転がっていた。
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南庄頭
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敵陣しらみつぶしに……砲撃
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通信隊
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シラミとの戦い
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*補足(藤本)
わが軍は山の中腹に陣取って山頂の敵と対峙した。両軍の距離、約百五十メートルである。
石坂准尉によると、この態勢が十日以上も続いた頃、兵は秋の日光を浴びながら、退屈しのぎにシラミ取り競争をおこなったという。一番多く取った者は一分間に三十五匹だったそうである。
*補足二(藤本)
伊藤桂一『兵隊たちの陸軍史 兵営と戦場生活』に、山西省の住宅事情について述べている一文がある。
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この部落へ行く以前に、筆者は山奥の小部落で、寒気きびしくかつ燃料がなく、それに甚だ疲労していたので、同僚とともに農具を焼いて暖をとったことがある。山西南部の山岳地帯は、黄土層のため、ほとんど禿山ばかりで、住居も煉瓦を積むか、または崖に穴を掘って住んだりしている。従って農具は貴重であり、何年も何十年も大事に使って来たものである。焼くときに、手垢で磨かれた木の肌をみて気が咎めた記憶があるが、ずっとのちまでも、あのときあとで部落へ引き上げてきた農民が痛嘆し怨嗟したのではあるまいか、と筆者には気になった。
『兵隊たちの陸軍史 兵営と戦場生活』(番町書房)の二百六十六ページから引用
「戦場の不条理」
●石坂 「南庄頭の戦闘で戦死した近藤という兵隊がいる。彼は実にかわいそうな死に方をした。今はもう時効だから真実を話すけど、近藤はね、用足しに行ったところを狙撃されたんだ。大便の方だよ。姿が見えなくなって皆が怪しみはじめた頃に尻丸出しの死体が見つかった。
近藤の家族には『名誉の戦死』とだけ伝えられたに違いない。ちょっと格好つかないからね。この話は俺が墓場まで持っていってもよかったんだけど、話しておくよ。俺もあんたも軍隊が大好きだけどさ、戦争というものの悲しさを分かってもらいたいからね」
■藤本 「……」
●石坂 「戦争ではね、運の悪い人間はあっけなく死ぬもんだ。そりゃもう、どんな理由か分からないよ。用足しに行って命を落とした近藤もそうだけど、ほかにこの南庄頭ではね、俺から五メートル先にいた兵隊が妙な死に方をした。俺の隣にいた兵隊の鉄兜に敵弾が命中してさ、その跳ね返った弾が目に当たって死んだんだ。もうちょっと射角が深かったら、俺の隣にいた兵隊が鉄兜ごと撃ち抜かれて戦死していたのにね。彼は鉄兜に傷がついただけで何ともなかった」
▲明夫 「驚きだね。まるで出来の悪いアメリカ映画みたいじゃない」
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長引く対陣~その一
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長引く対陣~その二
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故 宮川少尉
(ⅠMG 小隊長)
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最前線に配備されている機関銃隊
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故 近藤上等兵
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「人形劇」
●石坂 「長く敵と対峙する戦いというのは暇なもんでね、一ヶ月近い日数を要したこの南庄頭では兵隊が敵兵をからかってやる、ある遊びがはやったんだ。戦死者、戦傷者が結構いたから、彼らが残した鉄兜がごろごろあるよね。で、これを拾って棒の先っぽにかぶせてやれば敵兵はそれを日本兵だと思って機関銃を撃ってくるんだよ。
人形劇の要領さ」
■藤本 「鉄帽だけを上下させて、さも本物の兵隊のように見せかけたんですね。躍起になって銃を撃った支那兵は、
『手応えあり。日本鬼子を一人殺したぞ』
と、勘違いしていたこと、間違いないですね(笑)」
▲明夫 「悲喜こもごも、戦争はいろいろな側面があるね」
『読売新聞』(昭和十二年十一月八日朝刊) |
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明朗な青年佐野伍長
猪鹿倉部隊の歩兵伍長佐野進(二三)君は一日戦病死した、目黒区下目黒二ノ四四六農林省林業試験場事務員佐野仁(四三)さんの長男で昨春東京高等農林学校を優等で卒業後秋田営林局の嘱託をしてゐた、スポーツ好きな明朗の青年だつた
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明治佳節
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支那軍の壕
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急進、一路太原へ
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撃墜せられし敵機
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見えたり太原!
目指す山西省の首都太原近し
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*補足(藤本)
明治節に攻勢をかけたわが軍に対し、支那軍は大慌てだった。
石坂准尉はこう語る。
「よほど慌てたとみて、連中は朝食を準備したまま逃げ去ったんだよ。おかげでこちらはありがたくそれを頂戴したけどね」
『東京朝日新聞』(昭和十二年十月二十四日朝刊) |
劉庄村{忻口鎮西北方}占領
【天津二十三日発同盟】 二十三日山西省忻口鎮付近の前線に於て我が右翼後藤、猪鹿倉両部隊は忻口鎮西北方の山地劉庄村を占領、大場、粟飯原両部隊は滹沱河支流を渡河して忻口鎮西方の要地に進出し左翼長野部隊は滹沱河東岸忻口鎮東北方高地にある敵陣地を攻撃これを南方に撃退しつゝある
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『東京朝日新聞』(昭和十二年十月二十七日夕刊) |
重要拠点占領
忻口鎮付近
【○○二十六日発同盟】 二十五日正午過ぎ鳥田部隊の○○機は地上部隊と呼応して忻口鎮西方高地における敵陣地に対し猛爆撃を敢行地上の萱島部隊は此の猛撃の援護下に峨々たる山岳を攀ぢ敵陣に肉薄、午後一時過ぎ一挙に忻口鎮西側高地を占領した、一方忻口鎮西方三十キロの敵陣地を攻撃中の我が後藤、猪鹿倉両部隊は廿五日正午頃敢然敵の左翼陣地を撃破し之を占領した、之によりさしも要害を誇った忻口鎮東西の線に張られた敵陣も遂にその重要拠点を相前後して我軍に奪取され忻口鎮付近の敵は全線に亘り大動揺を来し戦況全く我に有利に展開しつつあり
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『東京朝日新聞』(昭和十二年十月二十九日夕刊) |
敵の左翼陣地
奪取
忻口鎮攻撃戦
【天津二十八日発同盟】 二十四日以来忻口鎮敵陣地の最左翼を攻撃中であつた後藤、猪鹿倉両部隊は滹沱河北方台地に拠る敵を猛撃し二十七日夕刻これを奪取し忻口鎮攻撃戦は我が方に有利に展開しつつある
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『読売新聞』(昭和十二年十月二十九日第二夕刊) |
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忻口鎮攻略
有利に展開
【天津廿八日発同盟】 廿四日以来忻口鎮敵陣地の最左翼を攻撃中であつた後藤、猪鹿倉両部隊は滹沱河北方台地を占領せる敵を猛撃し廿七日夕刻これを奪取し忻口鎮攻撃戦はわが方に有利に展開
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『東京朝日新聞』(昭和十二年十月三十一日朝刊) |
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山西方面
山西省境の難関娘子関攻撃は二十六日午前七時から開始され、猛烈な砲撃の後小林部隊が急坂を攀ぢる山岳戦によつて二十六日午後一時半遂に占領、鯉登、小林両部隊は同方面の山岳一帯の陣地を占領し南方に追撃中である、この娘子関の占領は二十五日来大行山脈を越えて東回鎮、二十六日柏井駅を占領して娘子関から敗走する敵の退路を遮断した森本部隊の神速果敢なる大迂回作戦の成功によるものである、娘子関付近の戦闘において支那軍は一万以上の遺棄死体を残し、十箇師の中、五箇師は徹底的に撃破され壊滅に瀕した、森本部隊は二十七日午前十時平定平野の門戸である石門口を占領し平定平野を進撃し二十九日午後三時には遂に平定県城を占領、ついで三十日午前十時陽泉を占領した、太原攻略までには寿陽平野の攻略を余すだけとなつた、一方、右翼後藤、猪鹿倉両部隊によつて太原正面を南下する忻口鎮の攻撃は二十七日夕刻滹沱河北方台地による敵陣を奪取し忻口攻撃戦は有利に展開してゐる
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『読売新聞』(昭和十二年十一月四日朝刊) |
愈よ太原総攻撃
我が軍全線猛追に移る!
【天津本社特電】(三日発) 忻口鎮の堅陣を奪取したわが軍は息つぐ暇もなく全線に亘り猛追を決行して右翼後藤、猪鹿倉部隊は忻県の西北方から、中央粟飯原、大場、萱島各部隊は忻口鎮、忻県道路の正面から、左翼長野部隊は忻県東北方から進撃、三日午前九時ごろ右翼は奇村鎮(忻県西方五里)中央部隊は廿四里堡(忻県北方二里)の線に達し壊乱の敵に殲滅的打撃を与へつゝある、敵の主力は午前十時頃には早くも忻県を捨て忻県、太原街道上の関城鎮、大孟鎮間を敗走し、太原に向つて敗走中であるが、今朝来敢行されたわが空爆に遭ひ大混乱を来してゐる、太原はすでに二日わが鳥田、中富両部隊の壮烈なる爆撃によつて敵軍司令部をはじめ砲兵司令部、歩兵旅団司令部、省党部等が爆破され動揺の色濃く正太線方面から猛撃の小林、鯉登、鈴木、森本の各部隊の急追と相俟つて太原総攻撃の火蓋はまさに切つて落されんとしてゐる
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『読売新聞』(昭和十二年十一月四日朝刊) |
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皇軍の威武
全山西を席巻す
今や閻錫山の豪語も空しく
〝太原〟愈よ壊滅へ
山西の一角にその険峻なる地形を擁し多年山西モンロー主義に閉ぢ籠り如何なる大軍をもつてしても一指だに触れしめずと豪語してゐた閻錫山の金城鉄壁とした牙城太原も未だ曾て戦史に見ざる皇軍の神速果敢なる進撃の前には今や風前の灯火の運命にある
由来山西省は支那における如何なる英雄も未だ攻略し得なかつた歴史を有する天下の険で、重畳たる山岳の頂上には閻錫山が過去約三ケ年にわたつて構築した堅固なトーチカ陣地が設けられ、宛然一大城郭をなし、東側は大行山脈をもつて河北省の平地に接し南は同山脈及び黄河によつて河南省と境を接し北方は北長城線により綏遠省と接し、西は連抜山々脈及び黄河の急流によつて陝西省と境して、此間に狭長な汾河平地及び桑乾河の河流があるのみである
省外に通ずる交通路としては北方大同より雁門関を経て太原に通ずる自動車道路と東方石家荘より娘子関を経て太原に至る正太鉄道及び旧道があるのみで大軍作戦は頗る困難とされ守備には絶好の地形に恵まれてゐる
事変突発と共に国民政府は八月十日頃までには中央直系たる第十三軍第八十九師(王仲廉)を南口(北京西北方約十里)永寧、延慶、懐来の地区にまた第四師(王万齢)は下花園沙城間の地区に進出、第八十四師(高桂滋)は赤城より竜関の地区に配置し、第廿九軍に属する第百四十三師(劉汝明)は張家口、宣化間の地区に集結、第八十六師(高双成)第廿一師(李仙州)等は大同付近に布陣した
わが軍は敵の包囲(外線)作戦に対し、山西方面は防共の見地より見ても政治的に重大意義を有するに鑑み、こゝに支那軍の包囲作戦を断固封殺せんとする大外線作戦に出で敵を完全に包囲せんとする方針を決し地上部隊は逐次前進を開始して京綏沿線各地を攻略し就中日露戦役の二〇三高地にも比すべき南口鎮を八月十二日午後八時、また古来『一夫関に当れば万夫これを開くなし』といはれた天険居庸関を廿三日午前六時それ〳〵占拠したが南口付近より居庸関を経て八達嶺付近に至る両側地区は峨々たる山岳重畳し加ふるに当時連日の悪天候は道路を泥濘と化せしめて飛行機の協力、砲兵の進撃、兵站の輸送能力を著しく困難ならしめたが、わが軍はあらゆる艱苦を克服した
即ち○○部隊の一部は八月廿四日午前七時孔家荘に入り確実に京綏線を分断して同日夜半張家口を占領した、かくて京綏線により京津地方を側面より脅威せんとした支那側の所定の作戦を粉砕して支那軍の第四、第八十九師は一、二個大隊を残すほか殆んど全滅、第廿一師、第七十二師はその過半を失ひ、わが軍の殲滅戦は完全に成功したのである
鋭鋒に抗しかねた敵は冀察省境より壊走、大同方面に退却したのでわが軍は直ちにこれが猛追に移り九月八日陽高を占拠、続いて十一日聚楽堡を攻略し余勢を駆つて疾風の如く敵を追撃し先鋒は十三日午前目的の大同に殺到するや敵は脆くも白旗を掲げて投降、こゝに山西の要地大同は完全にわが手中に帰した、かくてわが軍各部隊はいよ〳〵内長城作戦に移り敵が本拠と恃む太原攻略を開始すべく内長城北側地区(懐仁、渾源の線)に集結を了して内長城線に対する万全の準備を整へた、時に内長城線一帯にわたる敵の布陣状況は楊愛源及び傅作義の麾下部隊を主力としこれに共産軍を加へたものは繁峙方面に位置し、傅作義は寗武方面に位置し、山西省一帯に配備した敵兵合計廿五万のうち、約八万を以て概ね雁門関以南内長城線を守備し、また騎兵軍第三師は主力を以て朔県に各一部を以て井坪鎮、平魯、十里後及び馬邑に在つて左翼方面の守備警戒に任じた
共産軍(第八路軍)は霊邱においてわが軍と対峙したがわが軍は九月廿四日以来、敵陣地の右翼拠点である大営鎮に対し、東北方面より包囲し卅日遂にこれを占拠した、一方応県より進撃したわが部隊は一挙繁峙を占領、敵陣地を粉砕しまた北方より進出した一部隊は廿八日、朔県の敵騎兵団の本拠を衝き寗武に向ひ東南方太原に向つて敗走中の敵を急追した、かくて東西廿里にわたる敵陣地は繁峙付近において分断され総退却の已むなきに至つた、更に後藤部隊は廿八日猛烈な山岳戦を展開して茹越口(平荊関と雁門関の中央部)の敵陣を撃破、太原平野を一望に見下す大行山脈の一端内長城線高く日章旗を翻へした、この結果繁峙及び東部戦線の大営鎮占拠と相俟つて内長城線の敵兵約八万は完全に二分され、茹越口を突破して雁門関に迫つた後藤、猪鹿倉両部隊は卅日午後九時代州を攻略更に崞県を経て太原に向つて敵を急追、一方長駆北方より進撃した十川、湯浅両部隊は十月八日朝応県の山西軍約一万を撃破して同地を占領した
崞県を経て一路太原へと追撃戦に移つた後藤、猪鹿倉両部隊は十月十日原平鎮を陥れ、茲に内長城線に対する作戦も大成功裏に完結、いよ〳〵山西省省城閻錫山の本拠たる太原に対する攻略戦が展開された
太原攻略戦は一は内長城線を突破して南下した以上の各部隊と一は京漢線石家荘攻略戦に成功したのち正太鉄道によつて西進した鯉登、小林両部隊とによる二方面よりの外線作戦が行はれた、内長城線の天険を突破した大場、粟飯原、長野の各部隊は滹沱河の敵前渡河を敢行、中央軍、山西軍、共産軍の連合軍約八万を撃破して忻口鎮に迫り、原平鎮を陥れた後藤、猪鹿倉両部隊もそれ〳〵忻口鎮の攻略に馳せ参じた、忻口鎮南側の天険に拠つた敵は実に八里にわたる長蛇の堅陣を構築し山砲、迫撃砲を以て頑強に抗戦したのでわが軍各部隊は十月十三日より攻撃を開始し強襲を続けること七日間、十七日忻口鎮西側の高地一角を占領、長野部隊は忻口東方五台山脈の要点屋根形山及びその山麓の栄華村を攻撃同じく十七日同地を占領、雪本部隊は激戦の後船型高地を占領して当面の敵共産軍を南方へ敗走せしめた
一方石家荘より正太鉄道によつて進撃した鯉登、小林両部隊は十月十一日井陘を占拠、十三日より細川、堀砲兵部隊の協力を得て山西省の西門たる娘子関の攻撃を開始した、同所は忻口鎮とゝもに閻錫山がヒンデンブルグ線と称して如何なる大敵の進出をも阻止し得ると自負しつゝあつた鉄壁の陣である、鯉登、小林両部隊は森田部隊の増援を得た結果、森田部隊は十月廿一日井陘南方の一・〇三三高地を占領、また小林部隊は荘頭を抜いて山西省内に進撃し更に娘子関総攻撃の先陣を承はつて十月廿六日午前九時娘子関北方の一角を占拠、更に息をもつかせぬ攻撃を続行して同日午後三時完全に娘子関を占領した、一方、忻口鎮攻撃の各部隊は右翼方面に進出した後藤、猪鹿倉両部隊は十月廿三日忻口鎮西北方の山地劉庄村を占拠、また大場、粟飯原両部隊は滹沱河支流を渡河して忻口鎮西方の要地に進出、左翼方面に進出した長野部隊は滹沱河東岸忻口鎮東北方の高地を攻撃して敵を南方に圧迫した結果、右翼方面の後藤、猪鹿倉両部隊は廿五日空軍及び砲兵の協力のもとに忻口鎮東西の線に張られた敵の主要拠点を奪取、そのため敵は全線にわたり大動揺を来して忻口鎮全面占拠の要因をなした、十月十二日攻撃開始以来約二旬を費し昨三日払暁の総攻撃により堅塁忻口鎮も遂に陥落した、かくて各部隊は一斉に敵の牙城太原に向つて疾風の如く肉薄しつゝある
【写真は閻錫山】
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『東京朝日新聞』(昭和十二年十一月五日朝刊) |
猛攻六時間
壮絶! 関城鎮攻略
【関城鎮四日発同盟】 三日忻県の堅陣を撃破した我軍は更に太原北部の要衝関城鎮の支那軍を殲滅すべく福田、村井の両部隊を第一線に二宮、大場、野口の三部隊を陣地正面に押立てゝ四日午前九時四十分を期し関城鎮南方の高地の敵陣地に対し猛攻撃を開始した、一方太原進撃の最右翼として山岳地帯を南進中の後藤、猪鹿倉両部隊は関城鎮の支那軍右側背後をついて敵の退路を遮断すべく関城鎮西方五キロの庄磨鎮方面より追撃を開始した
関城鎮は太原を守る北部要害だけに峨々たる険峻は堅固なトーチカ陣地で埋められ陣地と陣地は数千の塹壕で繋がれ守るに易く攻めるに難い堅陣である、敵はこの陣地を第一線とし更に第二線第三線を有する堅固な県城をなし山西の首都太原城を守らんとしてこゝに二十万の大軍を配し我軍を要撃して大決戦を交へんとしたのだ、村井、福田両快速部隊の先遣隊は午前十時二十分岩を噛む鉄輪の音も勇ましく空爆隊の援護及び村岡部隊の砲撃援護の下に道路左側高地のトーチカ陣地を粉砕すべく雨霰と落下する敵弾をくゞり猛進撃を開始した
両部隊の勇士は正面に命中して炸裂する敵の銃砲弾をものともせず敵のトーチカ陣地を鉄輪に打ち砕きて支那軍を蹂躙り突飛ばして銃砲弾で撃ちまくり山頂といはず平地といはず阿修羅の如く暴れ狂ひ敵軍を各地に蹴散らせば右翼高地より渓谷を進撃した二宮快速部隊が敵の退路を遮断して殲滅射撃を浴せかけ中央陣地より進撃した大場、野口両部隊もこれまた敵陣を突破して更に背後をつきみる〳〵うちに敵陣は屍の山と化しさながら生き地獄を現出した
かくて彼我の銃砲声殷々として山野を圧すること約六時間半我軍はつひに午後三時三十五分関城鎮の第一陣地を完全に占領し嶺高く感激の日章旗をひるがへしたのであつた
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『読売新聞』(昭和十二年十一月六日夕刊) |
山西の皇軍に感状
山西方面の作戦に偉功をたてた陸の荒鷲三輪部隊並に地上に作業した篠原、後藤、猪鹿倉(一部欠)、本多(武)部隊の一部、伊藤(清)部隊の一部、篠原部隊通信隊、塚本部隊(一部欠員)等の各部隊に対し植田関東軍司令官よりそれ〴〵感状を授与されたが四日杉山陸相よりその内容を畏き辺の上聞に達し五日午後一時過ぎ発表した
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付図第十五
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南庄頭付近部隊態勢要図 昭和十二年自十月十四日至十一月三日
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第六章 南庄頭付近の戦闘 (付図第十五参照)
第一節 再び山岳地帯へ
予備隊
原平鎮の夜は明けた。昨日までの喧騒に比べて今日はまた打ってかわったような静けさだ。残敵はいまだ付近にいるのだろうが、もう反撃して来るだけの気力も失ってしまったらしい。
太陽は澄み切った秋空に次第に輝きを増して行く。もう色づきはじめたあたりの木々は、この陽光に照り映えて見事な色彩の陰影を描き出している。なかにもうすつり葉を落としてしまった名も知らぬ木が、こわれた祠のそばに一本寂しく立っている。時たま兵を呼ぶ指揮官の高い声が廃墟のなかにこだまする。余燼なお消えず破壊のあとも生々しく、かわりはてたこの町の姿は寂しい。しかし砲弾の破片によって白い木肌もあらわに無残に引き裂かれている楡の木の下に、馬が一匹二匹繋がれて無心に草を食んでいる姿は、早くも平和の蘇るを思わせる。──皇軍の行くところ、そこには必ず秩序と平和とがもたらされるのだ。もしここの住民にして、抗日軍に踊らされて無益な抵抗を試みさえしなかったならば、彼等は今日から平和なそして幸福な生活を享受出来たことであろうに……………
九時から篠原兵団長は戦線を巡視されたが、幾多の戦友の尊い血潮で彩られたこの激戦の跡に立たれて、誠に感慨深げに見うけられた。
兵団長の巡視が終わってから出動以来最初の慰問袋が渡された。駐屯地を出発してから約五旬、汗と土とにまみれて奮戦を続けて来た将兵一同にとって、それは何よりも嬉しい贈り物であった。
三々五々集まって慰問袋を開いている兵隊の顔は喜びに溢れている。なかにもう慰問品の玩具で遊びはじめたのか、ところどころから爆笑が湧いて聞こえる。同封の便りにはあるいは時期はずれのものもあろう。しかし一同食い入るようにして貪り読んでいる。慰問袋は今までも何回となく駐屯地で受けとったことがあったが、こういう土地でこういう状況のもとで受けとるのははじめてだ。それを手にした嬉しさは到底筆舌にはつくし難い。悪戦苦闘の末原平鎮の堅城を抜いた喜びは、今この慰問袋によって倍加されている。
しかし我々にはながいことこの喜びにひたっていることは許されない。我々は前途にいまだ重大な任務を持っているのだ。一同はまた折を見てお礼状を出す時のことを楽しみにしつつ、ひとまずこれを収めて次の行動の準備に移らねばならなかった。
この日朝七時過ぎに下された兵団命令により、我が兵団は永興村に向かうことになっていた。このため我々は原平鎮の撤収準備を行い、十二時三十分にはすっかり支度を終えて整列し、後藤大佐の率いる第一梯団にはいって前進をおこした。
さんさんとふりそそぐ陽光を浴びてわれらは進む。道は大分細くなったとはいえ、たんたんとして農村と農村とをつないでいる。警戒を緩めることは出来ないが、今日一日は銃声も聞こえず、なんとはなしにのんびりした行軍だ。付近の畑には刈り入れを急ぐ農民の平和な姿が散見される。抗日政権の狂態に比べて農民大衆のこの無関心、我々はここに中国民衆と完全に離間した蒋介石政権の正体を見、それを操る魔手を感じたのであった。
永興村には夕餉の煙がたなびいていた。我々はこのなかを何等の抵抗も受けずに進入、宿営した。
十三日七時四十分、兵団は前日と同じ編成を以て南庄頭に向かって前進を開始した。この時までにはいった情報によると、敵は忻口鎮から蘭村、閆庄、魏家庄西方高地に亘って陣地を占領しており、その数総勢十万と号し多数をたのんで意気とみに揚がり、小癪にも我を邀撃せんとの自信に燃えている様子であった。これに対し友軍は板垣兵団主力を以て忻口鎮西方高地の敵を、堤支隊を以て南庄頭付近の敵を攻撃し、そして我が兵団主力はこれらと相呼応して魏家庄東西の陣地を攻撃したのち、大唐林北方高地の線まで進出しようとしていた。
前進中猪鹿倉部隊長は部隊の指揮を板倉少佐に任せ、自らは副官ならびに所属の指揮機関を従えて兵団本部の位置にあったが、九時頃南大常付近で次のような騎兵斥候の報告を受けとった。
一、当面ノ敵ハ魏家庄ヨリ閆庄ヲ経テ蘭村ニ亘リ陣地ヲ占領中
二、堤支隊ハ目下魏家庄ヲ占領シ引続キ当面ノ敵ヲ攻撃中
鉄角嶺をおりて繁峙に出てからたんたんたる大道を歩いて来た我々は、またこのあたりから次第に悪路と闘わねばならなくなった。農村を縦横に貫く細いけれども平らな田舎道は、盆地を縫ってずっと先まで通じているのだが、もうこの辺りからはその道路上を行くことは危険だ。敵の砲撃を受けるおそれがあるからだ。道は悪くても姿を隠蔽出来るようなところを選んで歩かなければならない。
我々は本道を左にそれて行った。がこのあたりから雲中山脈の麓にさしかかったのだろう。次第に土地の起伏が多くなって来る。右手には荒削りの山がゴツゴツした地肌をあらわしているのが次第に近く見えて来る。時々大陸独特の大きな地隙が眼前に現れる。道は次第に悪くなって来て、○兵砲がデコボコの道で踊る音が次第に耳に強く聞こえて来る。ここからずっと右にはいった戦闘地帯の地勢が思いやられ、一抹の不安がサッと脳裏をかすめて行く。
しかし一方、この天険と十万と称する大軍とは我々にとって全く不足のない相手で、これでこそ働き甲斐もあるものと、意地と張りとが全身に漲りあふれて来るのが感ぜられる。敵が不落と誇る堅塁を次々と陥れて来た我々の自信は、何ものをも恐れぬ必勝の信念の火と燃えて、全軍の志気をいやが上にも鼓舞しているのだ。
九時四十分南庄頭北端にさしかかった頃敵砲火を受けた。予期していたこととてただちに攻撃展開命令が与えられた。大泉支隊は右側支隊となって劉庄村─楊家庄─石家庄道に沿って当面の敵を攻撃、また堤支隊は右翼隊となって魏家庄西南方高地の敵を、後藤部隊は左翼隊となって堤支隊に連係して前面の敵を攻撃することとなり、そして我が猪鹿倉部隊は兵団予備隊として南庄頭に集結を命ぜられた。
当時我々の目標はもっぱら太原にあった。太原へ!太原へ!それが我々の間の合い言葉とさえなっていた。上海戦線では我が精鋭は呉淞クリークの渡過に成功して、大場鎮を目前に睨んで奮戦を続けており、そこでは大場鎮が、そして我々の北支戦線では太原が、それぞれ一つのゴールをなしている観があった。我が国の不拡大方針が水泡に帰してしまった現在、戦線がどこまで広がるかはもとより予断出来ない。しかし北支派遣軍のとりあえずの目標が太原に置かれていることは間違いない。それだから我々の意気込みも自ら違って来ていたのだ。この当面の敵を撃破しさえすればあとは太原までたんたんたる道が開けている。これをやっつけさえすればゴールはもう間近だ。そう張り切っているところへ予備隊の命令だ。なんだか出鼻を挫かれたような形で遺憾千万やるかたないが、命令とあらばいたしかたない。予備隊として最善をつくしつつ機の至るのを待つほかない。我々は、第一線部隊が勇躍して所名の地点に前進して行くのを羨望の目を以て眺めながら、南庄頭の部落に集結したのであった。
十五時、我々の付近に陣地を占めている○○砲兵が砲撃を開始し、それと同時に第一線○兵部隊は攻撃前進に移った。そして十六時三十分には敵陣地奪取後の追撃に関してあらかじめ指示が与えられ、我々も態勢を整えて追撃命令を今やおそしと待っていた。しかし敵に近づくにつれてその抵抗は加速度的に強まったようで、彼我の銃声は、急に迫った黄昏があたりを牛乳色の冷ややかなヴェールで包んでしまった頃から、かえって激しく我々の耳に聞こえて来るのであった。そしてその白い靄があたりの闇にすっかり吸い込まれてしまって、小さな星までが恐ろしいほど澄み透った秋空にその姿を現しても、いまだ絶える様子がなかった。兵団の急襲追撃作戦はとうとう成功しなかったらしい。そこで我々はやむなく追撃の態勢を解いて、露営することとした。
右翼包囲へ
この日の戦闘で、我が兵団は魏家庄西南方高地の敵に重点を置いて、一挙に敵陣の突破を企てたのであった。しかし敵は劉庄村東南方高地からこの方向を俯瞰して、我が右翼隊の攻撃を側面から妨害したので、この作戦は残念ながら計画通り行かなかった。そこで兵団長はまずこの側面の敵を駆逐して戦局の発展を図ろうとされ、その任務を我が猪鹿倉部隊長に委ねられた。
即ち明けて十四日八時三十分次のような兵団命令が下された。
一、猪鹿倉部隊長ハ部下部隊(第二大隊及ヒ○砲兵中隊一小隊欠)ヲ指揮シ、劉庄村東南方高地ノ敵ニ対シソノ左翼方面ヨリ攻撃シテ兵団主力ノ攻撃ヲ容易ナラシメ且右翼支隊ノ任務ヲ継承スヘシ
魏村付近進出後大泉部隊ヲソノ指揮に入ラシム
二、砲兵隊長ハ○砲兵中隊ヲ直チニ猪鹿倉部隊ノ指揮ニ入ラシムヘシ
予備隊長として髀肉の嘆をかこっていた猪鹿倉部隊長はこの命令を受けて勇躍、ただちに第一大隊長と共に南庄頭東南方高地まで進出して自ら敵情地形の偵察を行い、板倉少佐と鳩首作戦を練りつつ砲兵の来着を待っていた。
ところが十時頃、突如蘭村方面から約五百の敵が兵団本部めざしておしよせて来た。兵団から暫く出発を延期してこれを撃退するよう命令が下った。部隊長はただちに展開命令を下し群がり来る敵を邀撃しようとした。敵は衆をたのんで機関銃を乱射しつつ接近して来る。いつもの通りの鳴り物入りの賑やかな逆襲ぶりが、近づくにつれて次第にはっきり見えて来る。我々はこれを近づけておいてから一挙に殲滅し去ろうと、満を持してなかなか放たない。しかしこの時付近の台上にあった砲兵隊は、近づけては面倒とばかりに寄せ来る敵に対して猛烈な砲火を浴びせかけたので、敵は近くまで肉薄することが出来ず、間もなく踵をめぐらして南方へ壊走してしまった。
折角手ぐすねひいて待っていたのにあまりにもあっけないこの結末、我々はしばし呆然として敵の敗走ぶりを見送っていた。がさきの任務がある。部隊は再び区署を解いて元の位置に集結して後命を待った。
正午頃いよいよ前命令の実行に移るよう指示があった。部隊長はこの時までに種々考えを練っていたが、迂回して敵を左側背から衝くを有利と認め、その旨兵団長に意見具申をして採用せられたので直ちにその準備に入り、十三時には完了して○砲の来着を待っていた。
ところがどうしたことか○砲はなかなかやって来ない。その間に敵は続々有力な援軍を送って、兵力の少ない我が軍を包囲する態勢に出て来る。なにぶん敵は太原の前進陣地としてこの地一帯を是が非でも死守しようとしており、抗戦意識が旺盛であるばかりでなく大軍を擁しているので、ぐずぐずして包囲されてしまっては一大事だ。どうしても包囲されないうちに敵陣の一角を突破してしまわなければならない。大泉支隊の安否が気にかかる。
十四時、もはや一刻の猶予もならないのか出撃命令が下った。
一、大泉支隊当面ノ敵ハソノ右翼ニ向ヒ急速ニ増加シツツアリ、故ニ貴隊ハ○砲兵中隊ノ来着ヲ待ツコトナク直チニ出発シナルヘク捷路ヲ経テ所命ノ地点ニ向ツテ前進スヘシ
我々○兵部隊は身軽だ。ものの十分も経たないうちに出発し、急行軍で最短距離を目的地に向かった。とはいうものの正直のところ目的地が判然としていないのだ。大泉支隊は大きく右から包囲されているらしいのだが、隊形など全然わからない。何よりもその位置を確かめることが必要だ。幸い水油湾の部落についた頃、その一部が東北方高地で戦闘中なのが見えた。早速連絡を出して戦況を聞かせたが、敵は刻一刻右方に向かって増加しており、部隊はその防衛のためすっかり分散してしまって非常な苦戦中で、ことに最右翼が最も危険な状態に瀕しているとのことであった。我々はとりあえず通信班の携行弾薬の一部を送付してこの部隊を援助し、それと同時に右翼の急を救うべく更に前進を続けた。
しかしこれから先は地隙断崖がますます多くなって来て前進は遅々として進まない。高地は一般に階段状をなしている。その比高は低くて三メートル高いものは七、八メートルもあり、単独兵ですらなかなかよじのぼれない。それだから機関銃隊の苦労は並大抵ではない。なぜ平素から臂力運搬の訓練をもっとやっておかなかったかと、今になって後悔される。
時々内地では想像もつかないような大きな地隙がポッカリ口をあけているのが見えて、思わず慄然とする。死そのものを怖れてではない。もとより御国に捧げた身体、死はかねてから覚悟しているところだ。しかし我々には死に場所というものがある。敵弾に倒れても断崖から落ちて死ぬようなことがあってはならない。敵弾の下ではあれほど勇敢な一同も、敵の見えないここでは極端に慎重だ。一歩一歩踏みしめるようにして難路を征服して行く。
が驚いたことには、こんな地勢のところが至るところ耕されているのだ。満州では平野でさえ未耕のまま放置されているところが方々にある。だから大陸というところは土地があり余っているとばかり思っていたのだ。ところがここではこんな山岳地帯にも至るところに耕地が見える。内地と同様ここでは土地が不足しているのだ。耕地が階段状をしているというのも、実は丘陵を切り開いて耕しているからだ。もう今はほとんど刈り取られてしまっているが、階段ごとの小さな数枚の畑に高粱やとうもろこしなどが作られている。北支の農民達が、めまぐるしい王朝の幾変遷にも禍いされず、孜々として営んで来た生活の結実が、ここに見られるような気がする。
断崖から畑へ、畑から地隙へ。爪をはぎ手をむきながら困難な前進はなお続く。がすでにこの頃白熱の輝きを失ってその相貌を真紅に変じつつあった太陽は、西に高くそびえる山のはさして急速にその姿を沈めて行く。あたりは見る間に濃い夕闇に包まれてしまう。そして突如吹いて来る一陣の嵐は、昼間太陽によって温められたこの大地からそのぬくもりを奪って行くかのようだ。間もなく気温は急激に低下する。しかし我々は全身玉の汗だ。ただ顔に襟に、冷たさが感じられるだけだ。
こうして戦線の最右翼たる麻港村西方高地に到着したのは、もうとっぷり暮れた十九時過ぎであった。
幸い月はない。濃い暗黒を利用して陣地配備を行う。第三中隊を最右翼として高地西端に、その左に機関銃、第二中隊の順序にそれぞれ現地指示を行って陣地占領をさせた。
しかしこの隠密裏の進出も敵に感づかれたのか、間もなくあらゆる方向から射撃急襲を行って来た。時には至近距離まで肉薄して手榴弾を投げて来る。が折角進出したこの陣地、死すとも一歩も退かずと寡兵ながら必至に応戦してその確保に努めた。
一方南庄頭に残った連隊砲と速射砲中隊は部隊主力苦戦と見て追及を命ぜられ、部隊本部から、後少尉の指揮する一個分隊が援護と誘導のため派遣されて来た。しかし第一大隊が通って行った道は断崖絶壁が多く、とても重火器部隊には通過出来ない。幸い後藤部隊の占領している魏家庄付近から部隊本部の位置まで、もうすっかり減水して底をあらわに出している川道がある。これとても昼間は到底危険で通れないが、夜間なら闇に乗じて強行通過出来ないことはない。もちろん敵の襲撃を受けるだろうが覚悟の上だ。この道あるのみだ。この道を行こう。
幹部の間にこう意見が一致して、一同強い決心の下に二十三時前進を起こした。
衛村付近にさしかかった頃、案の定敵の襲撃を受けた。約二百の敵が近距離から重機、軽機を乱射して来た。部隊はただちに付近に散開して応戦の態勢をとったが、敵は我を寡兵と見て猛烈に射って来る。はては後方の砲兵まで射撃して来る。覚悟していたところとはいえ非常な危機だ。もし敵が勇敢にも突撃して来たら全滅は免れがたい。救援を頼まなければならない。後少尉が自ら伝令となって本部まで急を告げに行った。
が待てども待てども救援隊は来ない。刻一刻、時は経過して行く。なにぶん優勢な敵だ。夜が白んでは一大事だ。一同は気が気でない。もちろん命なんか惜しくはない。しかし今ここで犬死にしたくはないのだ。我々には活躍すべき明日の戦場が待っている。戦友たちは我々の到着を一日千秋の想いで待っている。願わくば明日の攻撃でその戦友たちと共に華々しく戦死したい。どうにかしてこの場を切り抜けなければならない。
時は遠慮なく刻まれて行く。
四時。黎明は刻々迫って来る。進むも危険、退くことも出来ない。進退いずれに決すべきや、増成、斎藤両大尉が愁わしげな面持ちで鳩首協議している。
がこの時、前方の闇の中から待ちに待った援護隊の姿が現れた。部隊主力も苦戦しているなかを、貴重な予備隊の一個小隊を割いて遣ってくれたのだ。
ありがたい!もうこっちのものだ。早速道の左側に展開を命ずる。この援護の下に強行突破するのだ。さあ、行こう!
指揮官増成大尉の号令一下、一同脇目もふらず遮二無二突進した。これと見るや、敵はあらゆる火力を集中して妨害して来た。はては至近距離まで肉薄して手榴弾を乱投して来た。しかし、我は河底を進んで行く、彼はこれを断崖上から射ちまくる、という具合なので、幸い敵弾はみんな頭の上を飛び越して行った。
この間千メートル以上もの道のりだった。敵前を通り抜けて安全なところへ来た時、一同の顔に大きな安堵の色が浮かぶのが、夜目にもありありとわかるような気がした。異状の有無を調べると、奇跡的というか、損害は馬一頭だけだった。一同は今更の如く厚き神助に感謝の祈りを捧げたのであった。
こうして難関を切り抜けて水油湾に到着し、猪鹿倉部隊長の指揮下に復帰した重火器部隊は、不眠の疲れ切った身体に鞭ってただちに陣地占領に着手した。
が最も頼みとする○砲兵中隊はいまだ来ない。その間に敵の移動はますます活発になり、続々援軍が第一線に送られて来る様子だ。今までに敵に包囲されて危地に追い込まれていた大泉支隊の最右翼中隊は、我が部隊の進出によってようやく囲みをといて主力の位置に復帰したが、今度は我々が大泉支隊もろとも完全に包囲されてしまった。元来は敵を包囲するつもりで大きく右に迂回して出たのであったが、なにぶんにも敵は優勢で逆に包囲されてしまうような結果となり、情勢はますます緊迫して来た。
夜が明け放れて行くにつれて朝靄のなかに敵影がだんだんはっきりと浮かび出て来る。見渡せば四囲ことごとく敵だ。あまつさえ七時頃突然背後の山頂に有力な敵が現れて、我が軍を俯瞰しつつ猛射を浴びせて来た。なかなか正確で頭をもたげることすら出来ない。刻一刻情況は不利になって行く。
この情勢を見た第一大隊長板倉少佐は、なによりも部隊本部と連絡をとって善後策を講じようとした。しかし無線通信器は昨夜から故障を起こしており、また有線の方は案の定切断されていて用をなさない。こうなっては伝令あるのみだ。敵弾雨飛するなかだが、花里軍曹を連絡に出して現況を報告させると共に、なにぶんの指示を仰いだ。そして大隊はその間極力現在地の固守に努め援軍の進出を待っていることとしたが、時が経つにつれて脅威はますます加わるばかりであって、花里軍曹は帰来せず友軍の進出の気配も一向見えなかった。
この間部隊本部は水油湾にあったが、なにぶん第二大隊は兵団予備隊として南庄頭に残してあり、頼みとする○砲兵隊はいまだ来着せず兵力はすこぶる不足を告げていたので、第一大隊の苦戦を目の前に眺めながらこれに適当の救援をすることが出来ず、切歯扼腕していたのであった。
十五時三十分待ちに待った○砲がようやく到着した。逆襲に応戦していたため遅れたのだそうだ。ただちに劉庄村東北方高地に陣地進入を命じて、第一大隊の攻撃に協同させた。
ちょうどこの時、花里軍曹の帰りの遅いのを案じて大隊副官高橋中尉が自ら連絡に来ていたが、部隊長は同中尉に対し「第一大隊ハ大泉支隊ノ右ニ連係シテ新陣地ヲ確保スヘシ」と命じ、新布陣によって敵の反撃を受けとめ機を見て攻勢に転じようとした。
移動は第一中隊と砲兵の主火力の援護の下に薄暮を利用して行われ、正午までに新陣地について工事を行い攻撃準備を完了した。
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付図第十六
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南庄頭付近戦闘経過要図 昭和十二年自十月二十四日至十一月三日
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第二節 守勢から攻勢へ (付図第十六参照)
対陣の数日
十月十六日。
この日からながい対陣の日がはじまる。四五百メートルの距離にあって敵に包囲されての対陣だ。
北支の農村が我々の目の前で明け暮れする。農民たちは冬を迎える準備に忙しい。高粱がらや黍がらがところどころにうずたかく積まれている。刈り入れもおおかた終わって、畑は高い畝をあらわに見せて横たわっている。なにかもの寂しくひからびてしまっているが、一年の働きを終えてしばしの憩いに入る安らかさが感ぜられる。一枚一枚の畑はそれほど広くはないが、内地のようにせせっこましい感じは受けない。ところどころに置き忘れられたように立っているもうなかば葉の落ちた楊樹の曲がりくねった姿、ゴツゴツした山容、大地の腹をえぐって見せたような地隙、乾き切った埃を含んだ風、どれも海というものを身近には感ぜられない大陸の印象だ。
我々は寡兵なのと機が熟さないのとでいまだ攻勢に出ることが出来ない。一方敵は衆をたのんで毎晩のように逆襲して来る。多い時は一晩に三、四回もやって来る。敵は二、三日ごとに第一線の守備兵を交代させているらしく、その直後は必ず活況を呈し逆襲のたびもまた強い。
逆襲はまた第一線にばかり限られてはいなかった。南庄頭の兵団本部付近にも、我が手薄な警戒線を潜って時々有力な逆襲部隊が現れた。
こうして不気味な対峙の日が続いたが、何しろ鼻をつきあわせているので時々敵か味方かわからなくなったようなこともあった。「オイオイ」と手招きされたので行ってみると、あに図らんやそれは敵の奸計で、狙撃を受けて危うく逃げ帰ったことなんかもあった。
日が経つにつれて右翼方面の脅威はますます加わって来るばかりだった。そこで部隊長は兵団長に対し
「南韓家溝西方の高地から大きく迂回して敵の側背を衝いては如何」と意見具申をしたが、兵団の現有兵力では無理であるとて採用されなかった。
十九日、去る六日原平鎮の戦闘において戦死された植田中佐の後任として新大隊長長沢少佐着任し、第二大隊の指揮をとることとなり、将兵一同は新たにこの隊長の下に生死を誓ったのであった。
二十一日猪鹿倉部隊長は約二時間に亘り第一線を巡視したが、情勢はますます不利に傾きつつあり、この局面の打開のためにはどうしても右翼に重点を置いて攻撃しなければならぬと考え、その晩は一睡もせずに作戦計画に心を砕いたのであった。
この対陣の間第一線○兵隊は逆襲に応接するほか、敵情地形の偵察を行ったり断崖通過用の梯子を作るに余念なく、また砲兵隊は砲撃によって敵の工事の妨害を試みたり敵陣の破壊を行ったりして、今後の戦闘を有利に誘かうと努めた。
二十二日各部隊は兵団本部に集合を命ぜられ、今後の攻撃について種々打ち合わせをおこなった。これに基づいて翌二十三日十五時部隊長は次のような攻撃準備の命令を与えた。
命令要旨
一、板垣兵団主力ハ明二十四日重点ヲ本道西側高地ニ指向シテ一挙ニ敵陣ヲ突破ス
当兵団ハコレニ呼応シテ明払暁ヨリ重点ヲ右翼ニ保持シテ敵ヲ攻撃シ大唐林北方地区ニ進出ス
二、右翼隊
[猪鹿倉部隊、伊藤支隊(一小隊欠)、独立○砲第○○○隊ノ一中隊]
ハ明払暁マテニ麻港村南方水流ノ線ニ展開シ砲兵隊ノ突撃支援射撃ニ膚接シテ南峪東南方高地ヲ奪取シ、次テ東南方ニ戦果ヲ拡張シツツ大唐林北方地区ニ進出ス
攻撃ノ重点ヲ南峪東南閉鎖曲線高地ニ指向ス
三、左翼隊
[後藤部隊、戦車隊(一中隊欠)]
ハ本薄暮ヨリ現ニ堤支隊ノ占領シアル地区ヲ併セ守備シ兵団主力ノ攻撃ニ協同ス
四、砲兵隊ハ主力ヲ以テ魏家庄及ヒソノ西方高地ニ陣地ヲ占領シ右翼隊ノ戦闘ニ協同ス
攻撃準備射撃ハ八時ヨリ二時間、突撃支援射撃ハ十時ヨリ三分間次テ三分ヲ間シテ三分間トス
工兵隊主力モ右翼隊ノ戦闘ニ協同ス
五、第一大隊(第一中隊欠)ハ本二十三日薄暮ヲ利用シテ第一中隊トソノ位置ヲ交代シ明二十四日六時マテニ麻港村南方水流ノ線ニ展開シテ南峪東南方高地ニ対スル攻撃ヲ準備スヘシ
六、第二大隊(第六中隊及ヒ機関銃一小隊欠)ハ中第一線トナリ第一大隊ノ左ニ連係シテ展開シ該高地東側ニ対スル攻撃ヲ準備スヘシ
工兵中隊(一小隊欠)ハコノ戦闘ニ協同スル筈
七、伊藤支隊(二小隊及ヒ機関銃隊欠)ハ左第一線トナリ第二大隊ノ左ニ連係シテ展開
八、○砲兵中隊ハ現在地ヨリ一部ヲ以テ南峪西側高地ヲ、主力ヲ以テ同南方閉鎖曲線高地ヲ射撃
九、連隊砲中隊ハ先ツ南峪北方地区ノ敵ヲ制圧シタル後閉鎖曲線ノ敵陣ヲ射撃
速射砲中隊ハ南峪方面ノ敵側防火器ヲ求メテ射撃
十、第一中隊ハ伊藤支隊ノ一小隊ト共ニ右翼隊ノ背後ヲ援護
第六中隊ハ予備隊
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衛村付近高地敵陣地 昭和十二年十月二十一日
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久しく兵団予備隊として無聊をかこっていた第二大隊はもちろん、第一線にあって敵と不気味な対峙を続けていた諸隊も、この攻撃命令を受けて意気軒昂として与えられた配備についた。
まず第一大隊は日没を待って、夜闇に乗じ企図を秘匿して巧みに陣地を転換した。
一方第二大隊は、行く手は峻険な山道であったが、数日間の予備隊勤務にしびれを切らしていた足に、足取りも軽く第一線に進んで行った。水油湾付近で、第一大隊が寡兵ながらよく頑張り抜いた情況を詳しく知った。
「実際ご苦労だった。明日からは我々も一緒だ。明日こそは共々にこの頑敵を撃破しよう。明日こそは
軍旗 の下に共に死のう」
と心に堅く誓いつつ、第一大隊の左に展開を終わった。
重火器部隊もそれぞれ陣地進入を終わって、ここに攻撃準備は全く成った。
二十四日六時、各隊から展開完了の報告がもたらされる。一瞬、本部にはサッと緊張の気がただよった。
賞詞に輝く
二十四日八時二十分、朝の静寂を破って砲兵の射撃が開始された。久しく沈黙を守っていただけに今日の意気込みはもの凄い。一発また一発、轟音はあちらの山こちらの谷にこだましつつ遥か天空に消えて行く。それを追うかのようにまた次の轟音が全山を震わして響きわたる。第一線はあるいは梯子を利用しあるいは徒歩で、断崖をよじ絶壁を下りつつ一歩一歩前進して行く。が敵もさるもの、我が攻撃の再開に対して必至の抵抗を試みて来る。数線に亘る堅陣から小銃、軽機、重機、迫撃砲、山砲等ありとあらゆるものを間断なく射ちまくって、我が前進を妨害して来る。しかし幸いなことに死角が多いので損害は割合に少ない。
時の経過と共に砲火の応酬はますます熾烈となって来る。我が部隊は第一線と砲兵主力との連絡を緊密にし、砲撃によって敵を徹底的にいためつけようとして、砲兵隊に連絡将校の派遣を要求した。更に第一大隊方面では配属○砲の観測班が最前線近くまで進出して、砲撃の結果を細大もらさず後方の中隊長に電話で報告し、以て観測の確実を期すると共に歩砲一体の実を挙げるべく努めた。
天険を利用した敵陣はすこぶる堅固であったが、このような苦心の結果砲撃の効果は次第に挙がり、敵は漸次ひるむ色が見えた。かくして十時三十分頃まず伊藤支隊が敵の虚を窺って突撃を敢行し、所命の地点を占領した。
一方我が第一、第二両大隊も敵の弾幕を潜って一歩一歩肉薄して行った。急峻断崖は右翼に行くにつれて多く、将兵の労苦は増加する。しかしこの天険もなんのその、十一時三十分から行われた突撃支援射撃に膚接して敵陣前にとりつき、射撃終わると見るや大隊長の号令一下、両大隊一斉に敵陣めがけて躍り込んだ。真昼の陽光の下に銃剣はきらめく。砲声もしばし途絶えて台上では凄惨な肉弾戦が展開される。が白兵戦は皇軍の最も得意とするところ、間もなく台上一斉に第一線標示の日章旗が高々とあがった。
第二大隊の右第一線第五中隊は、ここで息を入れる間もなく余勢を駆って更に前進を続けた。そして戦機を見て第一大隊正面の(ヘ)高地に突入してこれを奪取し、更に一個分隊を出してこの高地に側射を浴びせかけんとする(ホ)高地の敵を駆逐してしまった。時まさに十二時。
やわらかい風をうけて日章旗はへんぽんとひるがえっている。この相次ぐ突撃成功を後方から望まれていた篠原兵団長は非常に喜ばれ、その勇を嘉して左の賞詞を与えられた。
賞詞
右翼隊ノ猛烈果敢ナル攻撃ニ依リ着々戦果ヲ収メツツアルヲ祝ス
右大隊ノ勇敢ナル攻撃ヲ賞ス
兵団長 篠原少将
さきに鉄角嶺の戦闘においては軍司令官より感状を授けられ、今またここに兵団長より賞詞を与えられる。日露奉天の会戦に不朽の武勲を立てた先輩の遺訓はここに実を結んで、
軍旗 の下我が鮫城部隊の栄誉はますます宣揚せられるを覚えるのである。
かくして総攻撃の緒戦はまず予定通り進捗した。しかし太原最後の防御陣地として正規軍と共産軍とが死力をつくして守備するところだけあって、その後は我が軍の猛攻にも拘わらず敵はいささかもひるむ色がない。いや、かえって援軍を繰り出して第一線を固めて来る。午後からは一歩も前進出来ない。日没は迫って来る。
そこで部隊は態勢を整理するため、(ホ)高地を占領した第五中隊の一分隊を薄暮を利用して中隊に復帰させ、代わって第三中隊の一小隊にその警備を命じ、また重火器はそれぞれ適当の地点に陣地を推進して翌日からの攻撃を準備した。
夜に入ると敵は我が夜襲を阻止するつもりか間断なく射撃を浴びせて来た。そればかりでなく最も突出している第三、第五中隊方面には入れ代わり立ち代わり夜襲を試みて来た。死角を利用して巧みに接近し突如手榴弾を投げて来る。これに対しては軽機小銃はほとんど功を奏さない。我が軍も手榴弾を投げかえして応戦する。鈍い炸裂音がしばし断続する。我にも時々軽微な損害が出る。しかし敵の損害はずっと大きく、白兵を交えるには至らないで間もなく退却しはじめる。これを繰りかえすこと三度四度、一同は秋の夜ながを眠りもやらず暁を迎えたのであった。
翌二十五日八時三十分から第二線陣地奪取のための攻撃準備射撃が開始された。しかし敵陣は堅固な上にすこぶる巧妙に構築されていて、主要重火器は我が猛撃にも拘わらずなおほとんど閉息せず、依然として頑強に抵抗して来る。飛行隊はもっぱら板垣兵団の戦闘に協同しているのか、こちらには飛んで来ない。かえって時には敵機が見えることがある。もちろん何もなし得ないで飛び去るのだが、一時的にでもあれこれに応戦しなければならず攻撃力が分散する。
がこの不利な情況もなんのその、伊藤支隊は敵砲火制圧の瞬時を利用して前進し、正午頃敵前至近距離に肉薄することが出来た。十二時二十分、突撃準備なったか支援射撃を要求して来た。左前面の台上はしばしの間爆煙に覆われる。
頃やよし十二時三十七分、最も突出していた第二中隊方面に喊声挙がり、続いて各隊一斉に(ヌ)及び枯松高地めざして突撃を敢行した。我が第七中隊及び機関銃中隊主力は、全火力を挙げてこれに協同する。剣光帽影が台上に躍る。激闘数刻、日章旗は鮮やかにひるがえった。
第二大隊正面は断崖絶壁が多く苦労は並大抵でなかった。しかしこの天険も何のその、一同は一歩一歩それを征服して敵に肉薄して行った。昨日勇戦奮闘した第五中隊は今日もまた花形であった。同中隊はまず一個小隊(機関銃一分隊を属す)を(ヘ)高地に残置して右側背を援護させ、主力は隣接する(ト)高地に突入、次いで更に(チ)高地に躍り込んで敵を駆逐してこれを奪取した。
こうして第五中隊と伊藤支隊とに挟撃された(リ)高地の敵は、次第に動揺をはじめた。これを見た第七中隊は機を逸せず前面の断崖を駆けおり、更に斜面をよじのぼって同高地を急襲、十六時これを占領した。
第二線陣地も遂に突破した。残るは第三線陣地だけだ。進め、進め!心ははやる。しかし第三線陣地からする敵の側射斜射は熾烈を極める。不気味な土けむりがところきらわずパッパッとあがる。(ワ)高地付近からは山砲が第二大隊正面を射って来る。前進出来ない。そのうちに日没も迫って来る。勝ちに乗って一気に押しまくってしまいたかったのだが、これではどうしても無理だ。残念だが前進を中止して陣地確保に専念することとし、配属工兵の援助の下に急造陣地を構築して敵の逆襲に備えた。
夜間機関銃は(リ)高地に陣地を推進し、連隊砲、速射砲も枯松高地付近まで進出して翌日の準備をおこなった。
伊藤支隊の奮戦
二十六日の攻撃は八時三十分から開始された。しかし第二大隊正面は大きな断崖があって前進出来ない。第一大隊方面もまた地形に阻まれて膠着状態にある。従ってこの日の戦闘はもっぱら伊藤支隊方面に限られた。
伊藤支隊はあらゆる火力の援護を受けて前進した。第二大隊は自ら前進出来ないくやしさに、せめて伊藤支隊の攻撃を成功させようと同支隊の攻撃正面に猛烈な斜射を浴びせかけた。が敵の抵抗はいささかも衰えず、伊藤支隊の損害は次第に増加して行った。
十三時三十分から行われた砲兵の突撃支援射撃によっても敵は制圧されない。そこで今度は連隊砲、速射砲も協同して十四時から再び猛烈な砲撃をおこなった。この時敵が瞬時沈黙するを見た勇敢なる伊藤支隊は断固突撃を敢行し、格闘数次の後(レ)及び(ソ)高地の縁端にとりついた。しかし敵は台上から一歩も退かず、高地の上と下とで睨み合ったまま夜を迎えなければならなかった。
この日の戦闘で伊藤支隊は、大隊長大隊副官共に傷つき、そのほかにも多数の犠牲者を出したが、昨日から今日に至るこの部隊の奮戦は実にめざましかった。地勢に阻まれたとはいえ、我が部隊の作戦が計画通り進捗しないで切歯扼腕していたこの二日間、この部隊の奮戦ぶりには全く感謝のほかなかった。そして我々は、大隊長以下数多の尊い犠牲が出たことを、我が身を切られるような想いで聞いたのであった。
我々のこの暗澹たる気持ちに天も涙したか、昼頃から崩れかけていた天気は日没過ぎてからとうとう雨となり、夜に入ってますます激しくなって来た。気温は急に下がって来る。焚き火するわけに行かないので寒さはひしひしと身にしみる。断崖に洞穴を穿って高粱がらを敷き、そのなかに入って雨と寒さとを凌いだが、夜中から雨は雪とかわり、いよいよ冬の到来を思わせた。
この間にも敵の射撃は一向絶える様子もなく、明け方雪がやんだ頃からはますます猛烈となり、我々はその抗戦意識の旺盛なのにあらためて目をみはったのであった。
明くれば十月二十七日、付近の山々には白雪が見られ三寒の風は肌をさす。我々の進路は全くの泥濘と化し困難はますます増加する。射撃の応酬は活発だが部隊は行動の自由がきかない。
この日夕刻、我々は、上海派遣軍が遂に大場鎮の堅塁を抜き、また第○○○団が娘子関を突破したことを知った。
大場鎮遂に陥つ。惟えば上海事件以来幾多の同胞の尊い血潮が流されたこの戦線だった。が今度こそは徹底的に禍根を芟除される日も近いことだろう。
娘子関も陥落した。太原包囲陣の完成も近い。我が国の威武はますます中外に宣揚されて行く。我々も一刻も早く当面の敵を撃破して太原攻略戦に馳せ参じなければならない。
十七時三十分兵団命令があり、新たに堤支隊が右翼隊長の指揮下に属せしめられた。同支隊は二十四日夕刻この戦線に到着、翌日から戦闘に加わり、伊藤支隊に呼応してこれと同様高地の脚にとりついて機を窺いつつあった。さきに勇戦奮闘しことに歩砲協同の実を挙げて知られていたこの部隊、我々は大きな期待をかけてこれを迎えた。
兵力は増加し志気は挙がったが、現在の態勢では攻撃成功は困難だ。作戦の変更が必要だ。第二大隊の転用を考慮しなければならない。
十八時次のような命令が与えられた。
一、右翼隊ハ現在地線ヲ確保スルト共ニ夜暗ヲ利用シテ態勢ヲ整理シ、盟謄村東北方高地ニ対スル明払暁以後ノ攻撃ヲ準備セントス
二、右第一線、左第一線両大隊ハ前任務ヲ続行スヘシ
三、中第一線大隊、第一中隊、第六中隊ハ明払暁マテニ陣地ヲ撤シ左ノ如ク兵力ヲ集結スベシ
中第一線大隊及ヒ第六中隊
枯松北方高地
第一中隊(予備隊)
衛村
(但シ占領地区ニハ適当ノ兵力ヲ残置セシム)
移動は予定に従ってスムーズに行われ、二十八日六時までにそれぞれ所命の地点に集結を終わった。この時部隊命令が与えられ、第二大隊は左第一線、堤支隊は右第一線としてそれぞれ伊藤支隊に連係して展開を命ぜられた。
第二大隊長はただちに斥候を出して前面の敵情地形を偵察させると共に、更に伊藤、堤両支隊との連絡のため大隊副官及び書記を派遣した。これらが帰って来ての報告を総合するに、敵陣はすこぶる堅固であるばかりでなく我々の現在地から伊藤、堤両支隊の位置に至るまでは全然敵に暴露しているので、部隊の前進は非常に困難なことを知った。しかしどうにかしてそこまで行きつかなければならない。それには配属工兵小隊の協同の下に壕を掘って進んで行くよりほかはない。敵弾集中下に早速工事がはじめられた。
工事は着々と進められて行く。この間作戦を練っていた部隊長は十九時命令を下し、当初の計画を変更して
「第二大隊ハ右第一線、伊藤支隊ハ中第一線、堤支隊ハ左第一線トナリ各々前面ノ敵ヲ攻撃、第一大隊ハ前任務ヲ続行スヘシ」と命じた。
我々は配属工兵小隊と共に寝ずに掘り進んだ。そして終夜かかってようやく堤支隊の後方の凹地まで進出したが、一同はこの不眠不休の疲れ切った身体に鞭って攻撃に移った。
第七中隊右第一線、第六中隊左第一線。後には予備隊の第五中隊まで繰り出して中間に増加し、掉尾の勇をふるって一挙に敵陣を突破しようとした。しかし数時間に亘る我が猛烈な砲撃も敵陣を覆滅することが出来ず、敵の抵抗はいささかも衰えなかった。
しびれを切らした第六中隊長は、ともかくも敵陣の一角でも奪取して爾後の戦闘を有利に導こうと、十三時敢然突撃を命じた。勇敢なる部下一同は、命令一下肉弾を以て第一線散兵壕に踊り込み、固守せんとする敵を鏖殺してこれを占領した。がこの時第二線散兵壕よりする敵機関銃の側射はもの凄く、中隊長春日大尉以下二十数名の死傷者を出して、攻撃は遂に頓挫してしまった。
十五時態勢を整理し、第五中隊を最右翼にまわして更に攻撃を続行しようとしたが、これも遂に成功しなかった。また伊藤、堤両支隊も山脚から一歩も前進出来ず、こうして各戦線とも敵前至近距離で相対峙することとなった。
第三節 佳節に挙がる凱歌
再度の対陣
この日からまた対陣の数日がはじまる。至近距離に睨み合っての対陣である。天気の良い暖かい昼日なかなど、陽気な鼻唄まじりで裸になって虱とりをしている敵兵の姿も見られる。
そういえば我々もなんだか身体がむずかゆい。崞県を過ぎた頃から、我々もこの「強敵」の大挙来襲を受けて閉口していたのだ。もう何日風呂にはいらないだろうか。いや、風呂はおろか、ながいこと顔すらも洗っていない。泥と硝煙とにまみれた戦友の顔は、この世のものとも思われない。艶と血の気を失ってどす黒く、ただ目だけが煌々と光っている。あの若々しかったまなざしも消えて、今はあの童顔に剃るに剃られぬ無精髭がのびほうだいにのびている。おそらく自分の顔も同じことだろう。誰か鏡を持ってないかしら。この世の名残にもう一度自分の顔に「面会」しておきたいような気がする。
手を見るとどうだ。脂気がなくなってカサカサに乾き切っている。指先はすっかりささくれ立っている。風呂などと贅沢なことはいわぬ。せめて顔と手だけでも洗いたい。そう思いはじめるともうとてもたまらない。満々と水を湛えた湯槽や金盥が目の前にチラついて来る。あの水の感触、あるいは明るくあるいは鈍く反射するあの水の色。たまらなくなつかしい。
だから我々は炊事の使役を進んで買って出たのだった。工兵隊に作ってもらった交通壕づたいに衛村まで戻り、付近を流れる小川の水を汲んで炊爨しなければならない。ずいぶん危険なしかも骨の折れる仕事だった。しかしこの時ついでに手を洗い口をすすいで来るのが、何ともいえぬほど楽しみだったのだ。
表面のどかなこの対陣の裏では懸命な工作が続けられていた。それぞれに陣地の強化に必死だった。この工事をまた互いに妨害する。今までの華やかさはないが、絶えずどこかで砲弾が炸裂し機関銃が音を立てている。
夜は作業強行の好機会だ。しかしそれもしばしば敵の逆襲によって妨げられた。それはことに中第一線方面において甚だしかった。敵は手榴弾手を先頭にその後方に銃剣手を、更にそのうしろには軽機関銃手を配して、極近くまで接近してから突如手榴弾を投げ、軽機を乱射して来る。時には突撃支援射撃に似た迫撃砲の集中射撃をおこなって、勇敢にも突入して来る。一時は敵の砲火を避けるため、断崖に穿った横穴に身をかくさなければならないこともある。が間もなく我が重火器の阻止射撃と相まって、敢然躍り出てこれを撃退するのであった。
こうして小ぜりあいを繰り返している間にも、攻撃準備は着々と進められて行った。工兵隊の協同を得て、あるいは一斉作業によりあるいは端末作業作業により陣地を推し進めて行った。
また部隊本部と第一線との間にも交通壕を掘ってもらった。途中が敵にまる出しになっていて危険だったからだ。
我々○兵隊の戦闘がうまく行かないで気をもんでいる間に、工兵隊はこうして我々のためにあらゆる援助をしてくれた。敵弾下をものともせず、攻撃準備のため献身的努力をしてくれた。我々と違ってそれは見事な作業ぶりだった。いかにも馴れきったその颯爽たる姿に見とれたこともしばしばだった。と同時につきせぬ感謝を彼等に捧げたのであった。
炎熱のもとを駐屯地を出発して征途についた我々であったが、もう十一月の声を聞くこととなった。西にそびえる連山の頂きには白雪が陽光に照り映えている。昼間は秋の陽の恵みを受けているが、夕方からは山麓のこの地帯でも薄氷が張りつめ、そぞろに火が恋しくなって来る。洞穴のなかに高粱がらを敷いただけでは震える手足を温めることは出来ない。が焚き火は厳禁だ。寒さに眠られぬ夜が続く。しかし誰もその苦しさを口に出して語らない。歯を食いしばってこらえている。
この時思いがけず防寒襦袢袴下、靴下、手套、防寒帽等が支給された。一同は早速それを身につけた。誰の顔にもホッとした面持ちが浮かぶ。やつれきった顔に血の気が蘇って来たのがありありとわかる。
総攻撃迫る
この間我々の位置から忻口鎮に至る蜿蜒八里に至る長い戦線は皆同様の状態で、虚々実々互いに隙を窺っていた。しかし志気において一段と優れた皇軍は、この対陣の間にも戦闘意識において次第に敵を圧迫して行きつつあった。
こういう塹壕戦は意気と意気との張り合いだ。頑張りの競争だ。艱難と苦痛とは両軍に等しくふりかかる。それによく耐えたものの上に勝利がほほえみ、それに耐え得られなかったものは同時に敗北をも味わわねばならない。
大稜威の下一死報国を念ずる皇軍将士にとっては、敵弾はおろかいかなる困難艱苦ももののかずではない。天の与えた試練が大きければ大きいほど、我々の戦闘意識はますます盛んになって来る。先祖代々北越のあの激烈な自然的環境のもとに育まれ、不撓不屈の堅忍持久の精神を培われて来た我々にとっては、このような塹壕戦こそ最も得意とするところだ。だから戦線は膠着していても、気持ちの上では一寸一尺と敵を圧迫しつつあるの慨があった。
十月三十一日十八時命令が下された。十一月四日を期して重点を盟謄村西北方高地に指向して総攻撃をおこない、一挙に敵陣を突破しようというのである。それと同時に詳細な攻撃計画も与えられ、各隊はそれに従って最後の総攻撃の準備にとりかかった。
十一月一日。
早朝からまず砲兵隊は意気込みも新たに一斉に砲門を開いた。一発また一発、一弾また一弾。敵陣に猛烈な砂塵が捲きあがる。昨日猪鹿倉部隊長は砲兵隊の首脳部と会同して、歩砲協同の一層の緊密化について打ち合わせをおこなったのだ。今日はきっとその成果が現れるだろう。
今日こそはどうか敵陣が徹底的に覆滅されるように!一同は工事する手を休めず、成り行きを見守りながらそう念じたのだった。
敵もこれに応じて負けじと射って来る。本部位置付近にもしきりに砲弾が落下する。狙いはなかなか正確だ。時々敵弾を避けるために陣地を左右に移動しなければならない。逆襲も相変わらずだ。時折損害も出る。がみんな与えられた仕事の完遂に一生懸命だ。いよいよ最後の五分間が迫った感が深い。
翌二日も同様猛烈な射撃の応酬だ。夕刻第一線は敵弾雨飛するなかを、遂に突撃陣地の構築に成功した。折も折、この両日に亘って罍中尉以下○○○名の補充員の来援を得て兵力はおおむね派兵当時に復し、我等の志気はいやが上にも奮いたったのだった。
あとはもう総攻撃の命令を待つばかりだ。が念には念を入れて明日もう一日を準備の完成に費やすこととした。
佳節に挙がる凱歌
明三日は明治節だ。戦場での明治節、いかばかり感銘深いものだろう。
そぞろに内地の明治節が想い起こされる。山々を彩る紅葉、人の心をひきしめるようなかすかな冷たさ、あの高い菊の香り。今日は僻村の農家にも戸ごとに日の丸の旗がひるがえっている。人々の顔には希望と喜びとがあふれている。我々はこうした明治節を幾たびか送り迎えて来た。嬉々として明治節の唱歌をうたう晴れ着をきた子供達の歌声が耳朶に蘇って来る。
今我々は北支の山地で敵と対峙している。あの色とりどりの紅葉は見られない。ゴツゴツした岩山のところどころに、もう色のさめかけた単調な黄色が見られるだけだ。身体は汗と埃とによごれている。しかしこの意義深い佳節を迎える敬虔な気持ちにはかわりない。
四温にはいったのか今夜は暖かい。天気も申し分ない。内地では明治節には雨が降ることがないといわれている。この地でも明日は快晴の明治節日和だろう。
夜になっても銃砲声は相変わらずさかんだ。我々の左に連なる戦線でも激戦が繰り返されているのだろう。殷々たる砲声が遥かに響いて来る。今までにない激しさだ。明後日の総攻撃の猛烈さが思いやられてそぞろに腕がなって来る。
三日三時頃から急に銃砲声が少なくなった。どうしたのだろう。どうも敵は退却準備を始めたらしい。早速斥候を出して状況を確かめにやる。間もなく帰って来ての報告はやはり退却とのことだ。さては昨日の夕方長さ千メートルばかりの敵縦隊が東方に移動しているのが見えたが、それはもう退却の前兆だったのか。それにさっきは、板垣兵団正面に何十台という自動車のヘッドライトがうすボンヤリ見えて、みんな不思議に思ったのだった。がこれでわかった。
早速兵団に報告する一方、動揺する敵に猛烈な追い撃ちを浴びせかけた。同時に第一大隊に対して現陣地を撤して盟謄村に前進するよう命令が与えられ、第一線大隊には当面の敵陣奪取とその後の追撃準備とが命ぜられた。
五時三十分兵団命令を受け、右翼隊長はただちに追撃命令を下した。
一、右翼隊ハ現在ノ態勢ヲ以テ先ツ大唐林北方水流ノ線ニ向ヒ敵ヲ急追スヘシ
長い初冬の夜は薔薇色に明けはじめた。第一線は左手に真紅の太陽を拝みながら勇躍敵陣地に躍り込んだ。
顧みれば十月十四日南庄頭到着以来ここに二旬、霜凍る夜に露営の夢も結びあえず、不眠不休の悪戦苦闘を重ねて来た我々であった。がこの佳き日に忻口鎮の堅城も板垣兵団の抜くところとなり、蜿蜒八里に亘るこの戦線の敵は一斉に退却をはじめたのである。
太原への道は開けた。
いざ、太原へ!
山西の空はこの日一片の雲さえとどめず、旭日はあたかもこの日この朝を祝福するかのように光り輝いていた。この陽光を浴びながら、我々は
軍旗 を先頭に高地上に集合し、東のかた
皇居 ならびに 明治神宮に対して遥拝をおこなった。
仰ぎ見る
軍旗 は旭日に照り映えて光彩一段と陸離たるものがあり、部隊長以下将兵一同は、この感激にあふれる涙を抑えることが出来なかった。
御稜威燦たり!
聖寿万歳の声は山西の天地に轟き、「君が代」の斉唱は山野を圧したのであった。
「○○派兵部隊将校各部将校職員表 (南庄頭付近戦闘)
○隊本部
○隊長──猪鹿倉 徹郎 大佐
副官──伊従 秀夫 少佐
旗手──後 勝 少尉
通信班長──南田 多次郎 曹長
瓦斯係──見波 隆示 少尉
軍医──広池 文吉 少佐
獣医──安田 土岐司 中尉
第一大隊
大隊長──板倉 堉雄 少佐
副官──高橋 準二 中尉
主計──山下 正行 大尉
軍医──宮越 靖 大尉
軍医──君 健男 中尉
第一中隊
中隊長──安江 寿雄 大尉
小隊長──宮沢 春正 少尉
小隊長──安田 寅雄 准尉
小隊長──鴨下 政平 准尉
第二中隊
中隊長──菅野 定雄 中尉
小隊長──重原 慶司 少尉
小隊長──朝日 長一 准尉
小隊長──川嶋 育二郎 准尉
第三中隊
中隊長──服部 征夫 大尉
小隊長──古木 秀策 中尉
小隊長──清水 清治 准尉
小隊長──内山 貞雄 准尉
第一機関銃中隊
中隊長──高橋 石松 大尉
小隊長──樋口 留吉 少尉
小隊長──鈴木 祐司 准尉
小隊長──木戸 高信 曹長
第一大隊砲小隊
小隊長──篠田 善太郎 曹長
第二大隊
大隊長──長沢 太郎 少佐
副官──西野 清一郎 少尉
主計──藤田 三子吉 准尉
軍医──早川 釟郎 中尉
軍医──菊島 広 中尉
第五中隊
中隊長──林 司馬男 大尉
小隊長──高見沢 孝平 少尉
小隊長──古垣 兼隆 准尉
小隊長──近藤 宇平 准尉
第六中隊
中隊長──春日 憲一 大尉
小隊長──熊倉 菊治郎 少尉
小隊長──嘉村 省司 准尉
第七中隊
中隊長──森 康則 大尉
小隊長──村山 太一 少尉
小隊長──渡辺 儀興 准尉
第二機関銃中隊
中隊長──浜 久 大尉
小隊長──佐藤 四郎 中尉
小隊長──桐生 憲辞 准尉
第二大隊砲小隊
小隊長──伝田 鹿蔵 准尉
連隊砲中隊
中隊長──増成 正一 大尉
小隊長──小林 三治 准尉
小隊長──荒井 俊一 曹長
速射砲中隊
中隊長──斎藤 国松 大尉
小隊長──惣角 義治 准尉
小隊長──羽深 信治 准尉
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