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■鉄角嶺の戦闘
画・石坂辰雄
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昭和十二年九月二十八日~二十九日、標高二千五百三十メートルの天険を中央突破、壮烈な挺身肉薄攻撃が敢行された。敵の守備兵約一千は大混乱、多数の死体を遺棄し、太原方面に退却した。
わが軍の戦死者二十一名。
石坂准尉の覚書(鉄角嶺の戦い)
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『駐満記念 鮫城部隊』 満州国牡丹江省穆稜 柏部隊将校集会所 (石坂准尉の書き込みより)
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「鉄角嶺の戦闘 昭和十二年九月二十八日~二十九日」
天険鉄角嶺の死闘三日、ついに敵を制圧、鉄角嶺上に日章旗ひるがえる。
わが片桐分隊は笠原参謀護衛の任解かれ、中隊復帰のため急追せるもすでに戦闘は終わり、参加できず。
鉄角嶺の戦闘における戦死者─―二十一名
内 中隊戦死者─―八名
中沢上等兵 谷口上等兵
同年兵
石田一等兵 滝沢一等兵 田中(初)一等兵 田中(秀)一等兵 松本一等兵 小川一等兵
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『東京朝日新聞』(昭和十二年十月十一日朝刊) |
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池田賢一一等兵
戦死した猪鹿倉部隊池田賢一一等兵(二二)は本郷区駒込動坂町一五八鳶職山田福次郎方で出征前まで鳶職をして居た野球好きの青年、母親のたまきさん(四二)は語る
非常におとなしい親孝行な子でした、昨日来た手紙には土産話がどつさり出来たとあり、返事を今出さうと思つて居た所でした
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『東京朝日新聞』(昭和十三年七月二十九日朝刊) |
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行賞に輝く勇士の家
行賞に輝く勇士のうち東京出身者四十余名(一部夕刊所報)不滅の勲は茲に燦然と記録されたが、その親、その妻、その子等は光栄の日を迎へてたゞ感激、雄々しくも銃後の奉公を誓ふ――言々句々、軍国日本の感激編である――
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倒れてなほ一弾
池田上等兵
猪鹿倉部隊池田賢一衛生上等兵(二二)は本郷区駒込動坂町一五八鳶職山田福次郎さんの長男、昭和九年まで新宿布袋屋整理部に勤めて居たが出征前には父の仕事を手伝つて居た
昨年九月二十九日山西省鉄角嶺の猛烈な払暁戦に奮闘中頭部に貫通銃創を受け戦死、正に倒れんとする際背負つたピストルを敵に向つて一発ぶつ放し「万歳」と一声叫んで息絶えたと、その気丈を示す戦闘ぶりが部隊長から齎されて居る
行賞発表の報に母親たまきさん(四三)は
親孝行な子でした……
と今更に仏壇の灯火を新たにして居た
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『東京朝日新聞』(昭和十二年十月十四日朝刊) |
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〝戦死とは残念〟
田中一等兵の父語る
猪鹿倉部隊の戦死者一等兵田中秀雄君(二二)は江戸川区平井二ノ九一二車夫加三二さんの長男で王子区浮間町二四九四大平加工製紙の職工、家庭には両親の外弟勝栄君(一八)がある、去る十一日「生れてはじめて戦争を経験した、元気安心してくれ」との頼りがあつた
戦死は覚悟してゐましたが軍人になつて間がないのが残念です
と父親は語つてゐた
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砂塵にまみれて(応県)
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小学校の国辱地図(応県)
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大陸の九月はまだまだ暑い
暑さと砂塵に悩まされながらの行軍
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歩兵第十六連隊占領の地
本隊は鉄角嶺に前進中
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休憩ともなれば疲れでぐったり(応県)
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塔のあるところ……(応県)
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*補足(藤本)
応県を訪れた片桐分隊十五名は、画面右上の小学校に宿泊した。
石坂准尉は、
「この写真に写っている掲示板は支那兵が書いた皇軍の悪口でいっぱいだったな。当地の兵隊がやっきになって落書きを消していたよ」
と、回想している。
「参謀護衛任務」
●石坂 「大同の無血占領の後、わが三十連隊は次の目的地である鉄角嶺に向かって進軍したんだけど、それに先立ち、片桐上等兵指揮する俺たち片桐分隊は関東軍参謀副長・笠原少将の護衛を命ぜられ、応県に出発した」
■藤本 「そのため、鉄角嶺の戦闘には参加できなかったんですよね」
●石坂 「そうだよ、別働隊になったからね。
……同年兵に聞いたけど、鉄角嶺は激戦だったみたい。片桐分隊が参謀護衛の任を終えて鉄角嶺に着いたとき、多数の戦死者がトラックで輸送されていた。荷台にさ、無造作に積まれた死者たちが無残だったよ。鉄帽、三八式歩兵銃、ゴボウ剣(三十年式銃剣)、背嚢、水筒、その他もろもろ。死体と一緒に装備一式みんな放り投げられていてね、縄できつく絞めて運んでいるんだ。
一歩間違えば、俺たちだって仏様の仲間入りってなもんだから、彼らを見つめる分隊員はみんな複雑な心境だよ」
■藤本 「分かりました。で、話を反らしてしまって申し訳ありません。護衛の様子を知りたいんですが、笠原参謀はどんな方でした」
●石坂 「いや、笠原参謀なんてのは少将閣下だよ。俺たち兵隊から見れば雲の上の人だ。話したこともなければ見たことだってないよ」
■藤本 「それだと参謀の護衛は不可能じゃないですか。離れて警護したということですか」
●石坂 「ああ、そうか、すまなかった。言葉足らずであんたは勘違いしているみたいだね。もう一度言うけど、俺は笠原参謀と会ったことないんだ。つまり、命令として、笠原参謀護衛のため、片桐分隊は出発したんだよ。そしてね、とうとう当人とは会えずじまいでさ、目的地の応県でまた本隊追及のため、急遽引き返してきたんだ」
■藤本 「なるほど。途中で予定が変わるなりして笠原参謀と出会えず、しかし当初は『笠原参謀護衛のため、直ちに片桐分隊は出発せよ』との命令を受けていたんですね」
●石坂 「多分、そういうことだろうね」
▲明夫 「俺もようやく理解した(笑)」
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代県城
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出発準備
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追撃の途
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*補足(藤本)
写真左上の代県城が問題の場所である(後述)
石坂准尉の覚書(笠原参謀護衛のための分隊行動)
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『駐満記念 鮫城部隊』 満州国牡丹江省穆稜 柏部隊将校集会所 (石坂准尉の書き込みより)
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「原隊復帰を急ぐ 九月三十日」
片桐分隊が鉄角嶺上に達したとき、すでに本隊は代県方面へ敗退する敵を追撃中だった。昨日まで激戦地だった鉄角嶺がうそのように静まり返っていた。
晴れ上がった空のもと、目指す繁峙がはるか眼下に見え、五台山を望んだ。
行軍の後、夕刻、繁峙に到着。城内は激戦の跡生々しく、人影なし。この夜は財閥の家らしい空っぽの民家に泊まった。屋内を物色するとメリケン粉が見つかり、みんなでお汁粉を作った。実にうまかった。
翌朝、町人三人と馬車を徴発し、背嚢を荷台に積み込んだ。私たちは銃一丁の軽装となり、敵も味方も見当たらない快晴の街道を原平鎮目指して行軍した。気分は内地の遠足、いや大名行列といったところだった。
日が西に沈み、こよいは代県で宿泊と決め込んだのはいいが、城門に近づいたところ、突如、城内の残敵から一斉射撃を受けた。
「こんなところで死んだら犬死にだ」
分隊は敵の攻撃を避けるため、道路側の草むらに伏せ、夜が更けるのを待った。幸い、雲が月光を暗く覆い、われに味方したので前進開始。
翌夕、原平鎮郊外に到着。高粱集積所に潜り込み、一夜を明かした。翌朝、民家で昼食を取った後、ようやく分隊行動が終わり、原隊復帰の日を迎えた。
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*補足(藤本)
分隊長の片桐上等兵は徴用した支那人に手間賃を渡したそうだ。ただ働きにならなかった幸運に支那人は感謝するべきだろう。もしも、自国民に冷酷な支那軍に徴用されていたら、彼らは労働報酬を受け取るどころか命が危うい。身ぐるみ剥がされた揚げ句、青竜刀でひと刺しもあり得る。
支那の敗残兵が民衆におこなった蛮行は数多く知られている。
*補足二(藤本)
日本軍と支那軍の違いについて知りたければ、楳本捨三『山西に潰滅した元泉旅団 ―悲惨たる壘兵団長の全生涯―』(楳本捨三著作集第三巻)に収録されている一編『終戦直後の日本軍の貌』の中の一文が参考になる。
以下に引用しよう。
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ここに満州事件の折の記録がある。河北省作戦の時のことだ。簡単に記してみよう。
(一)宮本部隊は爾後追撃隊となり、直ちに遵化に向い敵を追撃、但し其砲兵を払暁に追求せしむ。
(二)爾余の諸隊は午前四時接官庁北方道路屈回点附近に集合の後、追撃隊に続行(午前七時飛行機通報の要旨)
(一)坂本旅団は本日中に豊潤を占領するならん
(二)遵化方面の敵は西南方に退却せるも城内情況明らかならず
追撃隊の主力が五月十六日午前八時二里庄(遵化東方約二キロ)に達したとき、遵化城には機関銃三、四挺をもった相当有力な敵兵が各城門を閉ざし、一般非戦闘員を楯にして城壁上の銃眼を利用して、頑強に抵抗をつづけていた。
先遣参謀を宮本追撃隊長(少佐)のところへやり、指示を与え、追撃隊をもって直ちに遵化を包囲し、敵の脱走を監視させるとともに、砲兵をもって城壁の破壊射撃を準備させた。
敵は住民を楯にとって、日本軍の攻撃をはばむ作戦に出ていたので、附近作戦に対して日本軍は絶対、善良な市民には危害を加えない方針であるから城壁による支那軍隊を一刻も早く城外に出して、開城するように要求した。
だが、城壁によっている支那軍は、住民を利用して出ようとはしない。幾度命じても、住民を強迫して城壁によっている。作戦上の不利を忍び、再三支那官憲に通告するのだが猶予した規定の時間を度々すぎても実行しようとしない。
仕方なく追撃隊は砲兵をもって城壁の破壊射撃と山砲分隊、曲射歩兵砲で威嚇射撃を実施した。
旅団主力が遵化城外に達しているが支那兵は出ない、そのうち正午頃、白旗をかかげた密使がやって来た。
「約千名の守兵は国の為に殉ずる洵に忠誠の士というべきなり、しかれども、無辜の住民に損害を与えるに忍びざるところなり、三日間の余裕を給われば支那軍は城外に出すべし」
支那軍の命を受けて非戦闘員が使者になって来たのである。三日間――さすがに呑気な支那人――というより人をくった支那軍と思ったが、無辜の住民に被害を与えてはならない、作戦の不利を忍んで数時間の余裕を与えた。
しかし敵は約束を守らない。住民を傷つけないように不便な攻撃方法を選び、城壁に破壊孔を作り、そこから突入しようという方法をとったのだ。
敵は夕方四時頃、白旗をかかげさせた住民三十人ほどを城外に出して降伏して来た。
何時間かの余裕と、破壊孔の作業の為に攻撃を延引している間に、千余名の敵兵は便衣に姿をかえ、西方の包囲圏外の一地点から一人残らず逃亡した後であった。
良民を苦しめず、非戦闘員を殺さず――というのは日本の建軍以来の精神であり、伝統であった。それが武士道の精神でもあり、ヒューマニズムに通じるものであると思う。そして、こうした作戦上の不便を忍びながら、良民を助ける為、抵抗している敵に逃亡の機会を与えた戦記は実に多い。
『山西に潰滅した元泉旅団 ―悲惨たる壘兵団長の全生涯―』(楳本捨三著作集第三巻)の三百三十~三百三十一ページまで引用
山西マジノ線
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敵を追って……
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鉄角嶺へ急ぐ後続部隊(茹越口)
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鉄角嶺の戦場は近い
激しい戦闘が続いている(茹越口)
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茹越口の民家
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故 石坂武八 伍長
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*補足(藤本)
鉄角嶺の入口に位置する茹越口には、戦死者の収容場所になっている一軒の民家があった。片桐分隊は冥福を祈るため、ここに立ち寄った。
「石坂武八伍長」
●石坂 「笠原参謀護衛の任務で、一つ心残りがあるんだ。途中、茹越口という場所に立ち寄ったんだけど、ここには戦死者の収容所(民家)があってね、同村出身の石坂武八君が安置されていたそうなんだ。
後で知って驚いたよ。そのとき、分かっていたら、彼にまじまじと別れを告げられたじゃない。同じ故郷の村の人間だよ。今になっても気になってしょうがない」
■藤本 「……」
▲明夫 「……」
『東京朝日新聞』(昭和十二年十月一日夕刊)
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城門を爆破して突入
右翼部隊朔県を占領
鉄角嶺上・血の日章旗
【大同にて竹林特派員二十九日発】 察哈爾○○軍発表=右翼方面の○○部隊は二十八日午前十時朔県を占領、同地より神池方面に逃走中の敵を追撃中なり、朔県にて敵の捕虜五百、砲二門兵器多数鹵獲せり、該方面の敵は何柱国の騎兵部隊なり朔県攻撃に当たり我が工兵隊は城門を爆破し○○部隊これに続いて突入せり、この爆破に際し安江克一工兵大尉(二七)=岐阜県加茂郡出身=は壮烈なる戦死を遂げたり
【大同三十日発同盟】 ○○部隊二十九日午後八時発表=○○部隊は二十八日午後三時柴柴溝の線に進出し該方面敵主陣地大部分を突破し続いて追撃に移り大なる抵抗を受くることなく日没鉄角嶺を占領せり、廿九日該方面の戦況有利に進展し午後三時頃魏家庄(繁峙東北方七キロ)に達せり
血達磨の突撃 武田部隊長壮烈な戦死
【茹越口二十九日発同盟】 雁門嶺の要害鉄角嶺の敵陣地は二十九日払暁猪鹿倉、後藤両突撃隊が猛烈な敵襲戦により奪取したのだ、代州平野を一と目に見下す雁門嶺二五三〇高地こそは支那軍にとつてどうしても死守せねばならぬ堅陣だつたのである、敵は山頂に構築した堅固なる掩蔽陣地から猿の如く岩石伝ひに進撃する我が軍に対し猛烈な銃砲弾の掃射を浴びせかけたのだ、山頂の陣地を奪取し奪取されつゝ截り立てたやうな鉄角嶺の山頂で猪鹿倉部隊先陣の勇士は血みどろになつて敵の有力部隊と肉弾相打つ白兵戦を演じ鉄角嶺の百十数個の援護陣地の敵を撃破し東天ほのかに白む二十九日払暁完全に二五三〇高地を占領山頂高く日章旗を翻した
敵弾に傷き仆れた戦友を抱き起し代州平野も揺げよと逆襲し来たつた敵の銃砲弾の中で戦勝の万歳を三唱したのだ、敵弾に傷いて鮮血に染まつて斃れた勇士は幾度も繰り返される敵の逆襲に銃をとつて応戦、遂に敵軍約二千を殲滅し午前九時算を乱して代州平野に壊走する残敵を追撃して繁峙県に進撃激戦の後之を占領したのであつた
上田、武田両肉弾部隊は軍刀は折れ軍服は千切れ血潮を浴びて朱に染り、文字通りの血達磨となつて奮戦したので陣頭に立つて奮戦中の武田部隊長は二十九日午前十時敵の迫撃砲弾が顔前に炸裂し破片に胸部を撃ち抜かれ鉄角嶺山頂において壮烈なる戦死を遂げた、武田部隊長は陽高、聚楽堡の激戦を始め大同北方高地の攻撃に赫々たる武勲を樹て今繁峙県の占領を目の前に見つゝ惜しくも雁門嶺の華と散つた
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鉄角嶺の新戦場へ急進するわが部隊
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新発田歩兵第十六連隊の奮戦
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難攻不落を誇った敵の堅陣もわが軍の猛攻によりついに陥落
写真左 戦闘帽の人 猪鹿倉部隊長
写真奥 凛然たる軍旗──旗手 後 勝(うしろ まさる)少尉
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『東京朝日新聞』(昭和十二年十月二日夕刊)
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挺身肉弾となって突進!
壮烈・天険の中央突破
鉄角嶺に輝く不朽の叙勲
【鉄角嶺にて田中、竹林特派員三十日発】 雁門関山系の中央突破を敢行した後藤、猪鹿倉両部隊の奮戦こそ山西の山々のあらん限り永久に銘記せらるべき大激戦であった、血みどろの山岳戦に山嶺は哭き岳神も目を覆うたであらう、まこと察哈爾○○軍に取つても抗日支那軍閥に取つても忘れることの出来ぬ悲壮な血戦であつた、二十七日茹越口の長城線を奪取した後藤部隊は嶺々を覆ふ砂糖に集まる蟻の如き一面の敵陣の真只中に突入して以来山向ふの敵根拠地繁峙を一時も早く取るべく闘魂は炎と燃えてゐた、左右の嶺に群がる敵の退路を断ち有ゆる方向からひた寄する友軍と協力して敵兵殲滅戦法を成功させねばならぬのだ
妙義山よりも険しい厳峰は何処までも続き頂上といはず中腹といはず岩をくり掩蓋遮蔽陣地が布かれてゐる、寄する友軍後藤部隊は二隊に分れて一つの嶺から次の頂上へと攻め上つて行く山奥に進めば砲兵の援護も頼めず常に挺身肉弾の手榴弾と突入しつゝ三十メートルから時には十メートルの近くに迫つて互にがん〳〵岩を貫く手榴弾の投合ひが繰返される、大音響が岩にはね返る耳をつんざく地獄の巷、前日来一睡もせず米尽き水なく乾パンをかぢる暇すらない、然も又夜襲に続く払暁戦だ、然し我が兵は既に東洋平和の鬼と化した護国の精霊となつて人間の力を遥かに超えた神の業を揮つてゐた、敵弾の嵐を衝いて一角又一角と切崩し時には思はぬ岩角から不意討ちを喰ひ静まり返つたトーチカから瞞し撃ちの機関銃を浴び迫撃砲、山砲が滅多矢鱈に凄惨な唸りを飛ばして来る、後藤部隊長は声を嗄らして叫び続けた『最早全部隊はたゞ死を以てこの山を奪ふのみだ進め〳〵共に死なうたゞ突進だ』絶対普通戦闘法では用をなさなかつた
部隊長闘魂の雄叫ぶまゝに暴れ回つて猛進した、あゝ何といふ壮烈の極みであらう、廿九日朝に五百三十米の最高峰鉄角嶺は目前に迫つた、後藤部隊の左右二隊が前進を続けるその真中へ僅の隘路を突如友軍後続猪鹿倉部隊が進撃して来た、敵陣は乱れて行く、危ない岩角伝ひに敵兵は逃げ始めた、然しまだ頑強に死守する敵兵も多く午前九時後藤部隊武田少佐は山砲の破片に胸をやられて壮烈な名誉の戦死を遂げた、流石敵が死守する鉄角嶺は中々容易に陥ちず味方の兵も刻々犠牲者を増して行く、猪鹿倉部隊の第一線を行く部隊と共に猪鹿倉部隊長が先頭に立つて指揮刀を振ひ後藤部隊長も決死の顔を硬張らせて先頭に斬込んで行く、正に全部隊死闘の物凄き形相に変じたのだ、鉄角嶺は山西省を南北に分つ大分水嶺にして又戦況を決する関ヶ原であり抗日共産の山西軍の咽喉ですらある敵の死守するのも当然であつたが遂に正午近くさしもの要害も我手に帰した、然しあゝこの戦ひに後藤部隊は前日の犠牲者戦死十二名戦傷○○名に加へて更に戦死○○名、戦傷○○名の忠烈な兵を亡ひ、猪鹿倉部隊は戦死十五、戦傷○○に達し鉄角嶺山頂付近は点々これ等の死傷兵が銃をしつかと握りしめつゝ血潮に染つて倒れてゐる、共に参戦した○○部隊長以下全幕僚、○部隊長は悲壮な顔に感涙を湛へ一人々々に向つて『有り難う厚く礼をいふぞ、君の勲功に依つてこの要害も取れたのだ』直立不動挙手の礼にて戦死者に対して宛ら生ける人に向ふが如く沈痛の声をしぼり白布を掛けてその名誉を賞め讃へた、鉄角嶺山頂の劇的シーンは息づまるやうな光景を呈した、而もまだ敵弾は雨と降り注ぎ、死者の霊を弔ふが如く我が進撃の鬨の声は愈激しい、左翼を衝く我が○○部隊に圧された敗残兵が寄せて来る。右翼からも○○部隊に追はれた支那兵が吠えかける然し見よ既に目指す繁峙は目の下だ、一瀉千里崖を蹴立てる弾丸石の如く我軍は一散に駆け下つた、かくて繁峙はこの日午後七時半日没と共に我手に帰したのだ
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『東京朝日新聞』(昭和十二年十月三日朝刊)
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山西方面では大同方面より敗退せる敵大部隊を追撃南進中のわが部隊は大行、恒山山脈の険と内長城線により頑強に抵抗した敵と壮烈なる山岳戦を交へてゐたが九月二十八日わが右翼部隊は朔県を占領、ついで三十日には長城線を突破して寗武を占領、一部隊をもつて神池方面に敗敵を追撃した、又二十七日茹越口の天険による頑敵を攻撃これを占領した後藤、猪鹿倉部隊は雁門関山系中最も峻険といはれる鉄角嶺上の頑敵を粉砕して二十九日代州平原に進出遂に繁峙の堅陣を占領、その寺田先遣部隊は山田部隊と協力し内長城内の要地代州に迫り三十日壮烈なる白兵戦の後之を占領した、又同日粟飯原大場両部隊も長城線の要関平荊関を陥れ続いて代州東方約十八里の大営鎮を占領する等わが各部隊は天険と敵軍必死の防御を打ち破つて長城線内に進出さらに壊走する敵を南に追撃中である
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故 加藤大尉
(第五中隊 小隊長)
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陣を奪取して
鉄角嶺の頂上(万里の長城)
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山間を進む歩兵部隊
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断崖をよじ登って敵陣に迫る
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山頂から眺める戦跡
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植田部隊勇戦の地
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付図第七
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茹越口付近戦闘経過要図 昭和十二年九月二十八日
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第四章 感状燦たり鉄角嶺
第一節 戦機は熟す (付図第七参照)
梓弓
山西北の要衝たる大同府陥ちて早一旬、忍び寄る秋と共に大恒山山系攻略の機運は熟した。
第二長城線と相まって、有史以来外敵の侵入を許さずと言われた同山系は、更にモンロー主義の虜たる閻錫山の補強工事により一段とその険を加え、これを守る麾下は実に三十万を算し、従ってこれが制圧の成否は、ただちに我が北支戦局の上に重大なる影響を及ぼすものであった。
軍は九月二十四日以降、大同東南方霊邱方面より山系を突破して滹沱河沿いに西進を起こした板垣兵団の作戦に協同すべく、隷下本多兵団をして下社村方面、篠原兵団をして茹越口方面より一挙に南下せしめて退敵の背後を襲い、以て敵大軍の大包囲殲滅を期したのであった。
この時にあたり、我が猪鹿倉部隊は篠原兵団の一翼として峨々たる難路を強行、こよなくも山系の最険鉄角嶺に咲かせた山岳戦の華こそは、遺憾なき越後魂の発露とも言うべく、時の関東軍司令官植田大将より授与された感状と共に永く青史の一齣を飾ったのである。
大同を後に
九月十三日大同入城後、軍予備隊として引き続き、同府の警備に任じ、もっぱら戦力の快復を図りつつあった我が猪鹿倉部隊(第三大隊欠)は、二十六日深更兵団に復帰の命を受けた。
よって猪鹿倉大佐は第一大隊を同府の警備に残し、ただちに部隊を四梯団に編成すると共に逐次兵団主力に追及すべく命じた。
まず自動車輸送の困難な連隊砲中隊、速射砲中隊(斎藤大尉指揮)、乗馬班(安田中尉指揮)、大小行李(吉崎准尉指揮)等の徒歩部隊は三梯団となって十時懐仁へ向かった。
残りの部隊主力たる部隊本部、通信班、第二大隊(行李欠)はそれぞれ五十両の自動車に分乗、部隊長自ら指揮して十三時十分この後を追った。
城門を出ると急に速力を増した長蛇の列は、日照り続きの街道にもうもうたる砂塵を立てて驀進した。ほどなく先行の車両部隊を追い越して夕闇迫る十七時頃懐仁着、下車する暇もなく応県へと向かった。漆黒の闇に二筋の光芒が伸びて行く。零時三十分前灯の前に応県が現れ、更に一路南進を続けて茹越口北方二キロの〓(文+見)口前部落付近に達した頃は、夜もようやく明け離れんとする六時頃だった。
ただちに下車の命令が下る。寒い。昨夜来の寝不足も疲労も一時に吹っ飛んだ。
当時すでに我が兵団の主力は第二長城線の敵を攻撃中とおぼしく、朝靄をゆする銃砲声は熾烈を極めて戦いまさにたけなわなるを思わせた。
我々は何かジッとしていられぬ様な焦燥感に襲われながら集結しようとした折も折、突如けたたましい銃声が起こるや早く、自動車群は弾網に包まれてしまった。前面高地(茹越口東北方高地)の敵より発見されたのだ。すでに第七中隊では若干の死傷者が出たらしい。
今は一刻も猶予出来ない状態を見てとった部隊長は、独断第二大隊(第六中隊欠)を以てこの敵を攻撃させる一方、予備隊たる第六中隊の小山小隊を茹越口に急行せしめて司令部の直接警戒にあたらせた。
第一線の位置から考え、前面高地に敵が残存するとは解せぬ事ではあったが、種々観察の結果、これらは黎明前友軍たる後藤部隊の砲兵陣地に逆襲して来た兵力二、三百の部隊なる事、及び後藤部隊の一部はこの敵を東北方より攻撃中なる事などが判明した。
六時四十分第二大隊が第一線展開を終わって攻撃前進に移る頃、攻撃部隊は山畑の敵陣に向かって登攀を始め、これにともなって退却する敵の姿が認められたので、我が部隊は敗敵を追撃しながら茹越口に至り兵団長の隷下に入った。
茹越口
茹越口は第二長城線北側山脚に近接し、鉄角嶺に源を発した水流が山系を北上して応県平地に出でんとする所に位置していた。ちょうど渇水期の事で幅百メートルあまりもある河原にはほとんど流れらしいものはなく、従ってこれが応県─繁峙を真っ直ぐに繋ぐ唯一の通路ともなっていたため、該部落は作戦上重要性を持っていた。
昨日追いこした車両部隊の到着は到底望み得べくもなかった我々は、持てるだけの弾薬と食糧を身につけ、ひたすら進撃命令を待った。
七時部隊長は兵団命令に基づいて左記要旨の命令を達した。
命令要旨
一、後藤部隊ノ第一線ハ本払暁迄ニ石桟子ノ高地線ヲ占領
本多兵団ハ本二十八日ヨリ下社村南方高地線ノ敵ニ対シ攻撃ス
一、当部隊(第一大隊、連隊砲中隊、速射砲中隊、第二大隊ノ一小隊欠)ハ速カニ石桟子ニ向ヒ攻撃前進ス
一、植田少佐ハ部下大隊(○兵一中隊「一小隊欠」、機関銃一小隊欠)ヲ以テ前衛トナリ本道ヲ石桟子二向ヒ前進スヘシ
一、植田部隊ヨリ一小隊、機関銃一小隊ヲ茹越口ニ残置シ爾後兵団長直轄トス
河原を行く
かくて部隊は八時第二大隊、部隊本部、通信班、第六中隊(一小隊欠)の序列を以ていよいよ山系への第一歩を踏み出した(要図第一)
茹越口を出ればもうすぐに岩山が迫って来る。鋸の歯を思わせる巨大な岩塊の群れは、秋陽をあびて目にしみ入る様な茶褐色の肌もあらわに、いつ果てるとも知れなかった。その曲線にどっかと腰を据えた第二長城線も、今は守るに人もなく、ただ城壁の弾痕に空しい抵抗の跡のみをとどめていた。
尖兵中隊たる第七中隊は宮田小隊を尖兵として、河原の小砂利を踏みしめつつ前進した。突き出た断崖を右に避け左に避けて河原は続く。見渡す限り褐色の岩、岩、岩、
茹越口で見た樹が最後の緑であった。
我々の前進につれて浮き足だった両側断崖上の敵は、三々五々南方鉄角嶺方面に退却を始めたが、所々の突角陣地にはいまだ敵の警戒陣地があるらしく、時々頼りない射撃を浴びせて来た。これを意とせず前進する中、今度は河原に材木、岩石等で麋寨を築いてある。こんな物で我々の進撃を阻むつもりだとは笑止千万である。なおも進んで茹越口南方四キロ付近に来た頃前方両側高地よりやや激しい射撃を受けた。ここに左高地の高粱畑に陣取った一個小隊ほどの敵は、機関銃、チェコ等で猛烈に撃ちおろして来た。宮田小隊は機関銃、○○砲の援護下に勇躍これに突入、十時三十分同高地を占領した。敵は死体六を棄てて壊走し、我が方もまた一名の負傷者を出すに至ったが、敵の弾道となった高粱の林はことごとく折れ、その猛射振りがまざまざと刻印されていた。宮田小隊は占領と同時に日章旗を打ち振りながら音声で
「敵は鉄角嶺方向に退却中」と報告した。よって大隊は第五中隊を尖兵として前進を続けた。
この頃石桟子右前方七、八百メートル付近に縦隊を組みつつ南方に退却する敵の密集部隊を目撃した機関銃隊は、すかさず追射を浴びせ、大隊は十一時二十分石桟子に入った。
もののあわれ
河原沿いの地隙には泥から生えたような小部落が点々と見受けられたが、石桟子もその例に洩れぬ貧村で、住民はいずれも避難しており、我々の給養上なんの足しにもならなかった。
部隊はここで鉄角嶺攻撃の態勢を整えると共に、ささやかな流れを利用して二食分の飯盒炊事を行った。そろそろ鼻につきかけた牛缶が唯一の御馳走であったにも拘わらず、一同の食欲はともすると夕食分にまで食い込みそうである。
やがて腹ごしらえの出来た一同は出発までの間に水筒の水を補給し、痺れる様な冷水で汗とほこりの顔をたたいた。
第五中隊は更に東席麻付近の敵状偵察を命ぜられたので、配属の機関銃一小隊と共にここから先行したが同中隊がちょうど部落の北側に達した頃、通路東側高地より射撃を受けたため第二小隊は高地上に沿って攻撃しこれを撃退した。この敵は先に宮田小隊に蹴散らされた一部らしく二十名ほどのものだった。一方中隊主力は部落内を捜索したがすでに敵影はなかった。屋内に散乱している鉄兜、青竜刀、はては炊きたての飯が手もつけずにほうりだされてあったこと等から見ても、敵は我が進撃に余程慌てて退却したものらしく、恐らくこれが最後であろう昼飯にまで見放された彼等の運命は、むしろ哀れとも言うべきだった。
蒸風呂
十一時三十分猪鹿倉部隊長は石桟子にあって左記要旨の兵団命令を受領した。
命令要旨
一、第一線部隊ハ本道両側地区ヨリ鉄角嶺ニ向ヒ追撃スヘシ
一、猪鹿倉部隊ハ本道ヲ前進シ後藤部隊ノ追撃前進ニ応シ両側ヨリ河谷ニ逸出スル敵ヲ撃滅スヘシ
しかしながら当時後藤部隊の主力は石桟子右側高地において地形の峻険と敵の頑強な抵抗に遭い、いまだ石桟子以南の線には進出しておらぬ様子が目撃され、一方左側高地方面も同様地隙、急峻に悩まされて膠着状態だった。
部隊長はかかる状況下における爾後の前進にあたり、部隊全員に河底を前進させるか、または一部を哨戒部隊として両側高地上を行かせるかについて熟慮をこらした結果、両側高地の敵は後藤部隊の正面に気を奪われていて、河原のような遮蔽物のない所をよもや大部隊が前進して来はしないだろうとする敵の意表に出るべく、断固全員河底突進の冒険を決意したのだった。部隊長はただちに前衛司令官植田少佐にこの旨を告げ、部隊は隊形を変更する事なく追撃を続けた。
この河底突進は図にあたったか敵に発見されぬ間にぐんぐん追歩を増し、後藤部隊の左右を超越して逐次三角形の頂点を形造って行った。
河中が狭まって来るにつれて、小砂利はいつしか四、五寸角の石塊を交え、傾斜を増した断崖上を退却する敵の姿もだんだん大写しとなって来た。
つまづく者、滑る者が続出するたびごとに銃の林がサッとゆれる。目指す鉄角嶺が起伏の彼方に頭をもたげ、思い出したように敵砲弾が前進路付近に砂煙を上げ始めた。
九月も終わらんとするに真昼の暑さは格別だった。恐らく百度は越えているだろう。通風のてんできかない河谷のうちはさながら蒸風呂そのもので、完全軍装の重みを支えた足の裏が火のようにホテり、脂汗に濡れた床尾板が掌から逃げそうになる。
この頃から暍病患者が散発し始め、大部分の者は脚部に痙攣を起こす状態だったが、眼前に先を争う敵の醜態ぶりを見せられては何でほっておかれよう。気ばかり焦るが、動かぬ足をただ無茶苦茶に引きずりつつ追撃が強行された。
かくて追うも追われるも等しく鉄角嶺へ!鉄角嶺へ!それぞれの想いをこめてさながら吸い寄せられるが如くに戦場は移って行った。
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付図第八
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鉄角嶺付近敵状態勢図 昭和十二年九月二十八日十四時三十分
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付図第九
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鉄角嶺付近戦闘経過要図 昭和十二年九月二十八日自十五時至十七時
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第二節 鉄角嶺 (付図第八第九参照)
歩詰め
鉄角嶺東北方山脚にある楡東溝に達した十四時頃は、敵との距離わずかに三、四百メートル、河原もすでに尽きてしまい、ただ一筋の細い山道が鞍部を縫って繁峙方面に続いているのみだった。
これまではどうやら車両も通過出来そうな状態だったのだが、目の前に展けた急峻ではもはや己が身体一個の行動さえ危ぶまれるにたちいたった。まさしく鉄角嶺は今その全貌を現したのだ。山系中の最高地として、一大分水嶺を形成する標高二五三〇メートルの頂きより、出城とも言うべき鞍部東側高地に至る間は、ことごとく赤く爛れた急峻、断崖に装われ、所々に大きな口を開けた地隙には、秋の烈しい陽光がくろぐろと不気味な影をやきつけていた。高地一帯には点々既設陣地が見えていたが敵影は案外少ない。各陣地ではいまだ敗残兵を収容しきれないらしく、我が急追や思うべしである。やがて柴柴溝東方山嶽の稜線上に、本多兵団方面より敗走する敵が現れ始めた。猶予せば彼等は地形上から見ていずれも鉄角嶺に集結するは必至であった。加えて山嶽戦に欠く可からざる友軍砲兵の到着を見ない現在、敵陣の手薄に乗ずるのが最も有利と考えた猪鹿倉部隊長は、第二大隊(第六中隊、機関銃一個小隊欠)に対して速やかに鞍部東側高地の奪取を命じ、予備隊と共に第一線に続行した(付図二)
緒戦の凱歌
第二大隊は強行軍の疲労を癒す暇もなく東西に展開し、イ高地を左右からおし包むような態勢のもとに第七中隊(一小隊欠、四分の一MG属)は右、第五中隊(一小隊欠、四分の一MG属)左第一線、機関銃主力は主として第五中隊に協同させて前進した。間もなく二五三〇高地付近の敵山砲は俄然砲口をわれに集中、砲弾は周囲の岩盤をはじき飛ばした。これと呼応するかの如く前面高地一帯からも小銃、チェコ等で猛射を浴びせて来た。第一線部隊は弾丸雨飛を物ともせず一意所命の地点に向かって急峻に吸いつき、突き出た岩角を足場にしながらよじ進んだ。機関銃は言うまでもなく分解して運ばねばならなかった。十五時三十分、第五中隊は大した抵抗も受けずに高地東端の瘤に突入、同地を確保したが、(イ)陣地より猛射を受けたため、中隊長は第一小隊に(イ)陣地の攻撃を命じ、加藤小隊は時を移さず稜線上を西進して十六時十分、同高地を占領した。
この頃右前方(ロ)の瘤にいた百五十名ほどの敵が喚声をあげつつ逆襲して来た。混戦だったが結局これに大打撃を与えて撃退したものの、我も六名の死傷者を出すに至った。
一方(イ)陣地正面に向かった第七中隊も、ことのほか峻険な地形に阻まれて悪戦苦闘を余儀なくされたが、遂に同高地に進出して第五中隊の右に連係した。時に十六時三十分。
続いて大隊本部を始めとして機関銃主力、○○砲小隊等々、銃身を、車輪を、砲身を背に、よろめく足を踏みしめつつ追随、ここに全く鞍部東側高地一帯は我が手に帰した。
通信班は時を移さず部隊間の有線連絡をなした。将兵は岩への挑戦の跡も生々しく、早くも戎衣は破れ、指先はささくれ立っていた(付図三)
この頃部隊に配属された独立○砲隊が楡東溝に到着し、やや遅れて兵団砲兵もまた同地に進出したが、砲隊の等しく悩んだのは弾薬の補給が思う様にならなかった事で、これがため第一線部隊に充分な協同が出来なかったのは遺憾であった。
入日
かくて高地西端に陣地を確保した第二大隊は鉄角嶺本山の攻撃を準備したのであるが、敵弾はますます激しさを加えて来た。それは後方以外のあらゆる方面より集中された。
身近にささる弾はブスッブスッと不気味な音を残し、岩角に撥ね返った跳弾がビューンと秋空に唸って行く。まぶしい様な息づまる時刻の裁断が骨身にこたえた。
かかる時植田大隊長は部下の制止にも拘わらず、毅然、山頂に立って敵状を視察し、機関銃及び第五中隊に対して退敵への追射を命じた。これがため、(イ)陣地より鉄角嶺東北連峰道路をこけつまろびつ退却中の敵は大混乱、多数の死体を遺棄して繁峙方向に壊走した。
戦いはいよいよ高潮の一途を辿る中にも暮れ易き秋の陽は早くも山の端を茜に染め、刻一刻戦場一帯は薄靄に包まれて行く。惨烈な感情をよそに誠に綺麗な入日だった。
やがて山気がしんしんと身にしみて来た。
十七時半頃、聞き慣れぬラッパの音に目を遥か左方高地に向ければ、今や約七百名の敵大部隊が我が背後に回らんとするかの如く続々鞍部高地東側地区に向かって前進中で、すでに一部は山頂をきわめんとしていた。
機関銃で射っては見たが、何しろ二千メートルあまりの距離では効果が薄い。大隊長は当時高地東端にあった猪鹿倉部隊長にこの旨を電話で報告した。
久しく部隊の予備隊として髀肉の嘆をかこっていた第六中隊(二小隊欠)は、命によりただちに勇躍前進。同高地付近を攻撃中の後藤部隊の一個小隊と協同してこの敵をものの見事に撃退した。
その間第二大隊主力は部隊命令に基づき、前面の敵を急追して鉄角嶺南方部落たる板箱背の南側高地に進出し、本多兵団方向より退却する敵を挟撃せんがため、まず山道をやくする(ロ)陣地の攻撃を策した。
即ち第一線第七中隊は薄暮に乗じて機関銃、○○砲の援護射撃下に宮田小隊を先陣として前進したが、如何せん、辿る稜線は非常に狭隘で我が身を遮蔽する地物もなく、みすみす敵手榴弾の前に身をさらさねばならぬ苦戦を演じて一進一止した後、更に強引に突入せんとした小隊長まず傷つき、次いでばたばたと六名の負傷者を出してしまった。
暗さはますます募って来る。
形勢ことごとく不利と見た第七中隊長は、鉾を比較的薄弱と思われる右前方(ハ)陣地に向けることに決し、第五中隊に転進の援護を頼んで一意(ハ)陣地に向かい、損害もなくこれを奪取し得た。二十時頃だった。
同時頃またもや(ロ)より四、五十名の逆襲を受けたが、断固撃退して第七中隊は同高地を確保した。この間転進援護の依頼を受けた第五中隊の古垣小隊は、昼間では到底困難と思われる(ロ)の敵前二十メートルの鞍部山道付近において手榴弾戦を交えつつよくその任務を遂行した。
合言葉
残念ながら(ロ)の薄暮攻撃は失敗に終わった。
将兵は戦友の貴き血潮を敵の足下に踏み躙らせたくはなかったが、地形の不利な(ロ)の堅陣を破るには、どうしてもまず速やかに瞰制の地位にある(ニ)(ホ)(ヘ)の突角陣地一帯を奪取しなければならなかった。従い先に(ロ)陣地を占領し得たとしてもこの確保は容易な事ではなかったのである。
第七中隊長は大隊長に右の旨を意見具申した。大隊長もまた敵の抵抗力の増さぬ中、即ち払暁を待たずしてただちに大隊主力を以て夜襲を決行するを有利と認めた。ここに二十一時四十分、左記要旨の命令を達し、この企図を部隊長に報告した。
一、(ロ)陣地付近ノ敵ハ依然頑強ニ抵抗シアリ(ニ)(ホ)(ヘ)ノ敵ハ薄暮ヨリ兵力ヲ増加、盛ニ工事ヲ実施中
二、大隊(第六中隊、四分の一機関銃欠)ハ夜暗ヲ利用シ第七中隊ノ占領セル(ハ)ニ到リ(ニ)(ホ)(ヘ)陣地ニ対スル夜襲ヲ準備セントス
三、第七中隊ハ現陣地ヲ確保シ敵状地形ヲ捜索スヘシ
四、機関銃中隊及大隊砲小隊ハ浜大尉ノ指揮下ニ(イ)陣地ヲ確保シ明天明後主力ニ追及スヘシ
之カ援護ノ為第七中隊ヨリ一分隊ヲ属ス
二十二時三十分、第七中隊小山上等兵以下三名の斥候は、咫尺を弁ぜぬ暗黒の迷路を沈着に行動して(ニ)(ホ)(ヘ)陣地まぢかに潜入、そのもたらした報告によると、敵は有利な地形をたのんでか壕の内に入ったきり警戒兵もろくに出しておらぬ不用意さだった。
二時十五分大隊主力は(ハ)に集結をした。時は今。
夜襲命令は下されたのである。
一同は黙々として所命の隊形を整え、装填の弾は抽き、左腕に手拭い等を巻いて応急の標識を作り、思い出多き故郷「越後」「高田」の合言葉をしっかと胸に刻んだ。
第七中隊は(ニ)の突角より左へ、第五中隊は右へ。それぞれの突入部署が決められた。準備は全くなった。
折から新月に近き下弦の月が上がり始め、淡い光りに浮かぶ二五三〇高地は天空にくっきりと境界線を波うたせていた。
目指す突角陣地は四百メートルの彼方である。
三時半小山斥候長の誘導のもとに大隊は第七中隊─本部─第五中隊の接敵隊形を以て稜線沿いに前進を起こした。
神兵現る
全員粛として声なく、岩盤を踏みしめる軍靴のきしみのみがかすかに伝わって来る。
取り残された(ロ)陣地方面では依然として神経質な銃声の間に、急にひっそりとなった我が方の動静に敵が陥った孤立感の仕業だろう、ボスーンボスーンと鈍い手榴弾の炸音がこだましている。途中で二、三度停止しては部隊を整理し、方向維持に万全を期しつつ大隊は進んだ。
敵陣に近づくにつれ傾斜はますます急を加え、普通の歩行は許されなくなって来た。
各人は銃をしっかり握りしめ、手に、足に全神経を集中させて身の重心を制御し、ややもすれば崩れ落ちんとする角岩に気を配りつつ登って行った。全く一人の不注意は全軍の努力を一瞬にして無にしてしまうのだ。将も兵もただ一つの目的に向かって、己の苦痛を噛み殺し、歩一歩迫ったのである。やはり警戒兵はいないらしく何の反応もない。
額越しに(ニ)陣地中央の機関銃が薄黒く銃口を開いて見えて来た。
まさに咫尺の間に迫るや、第七中隊は「突っ込め」の合図一下機を逸せず突っ込んだ。
(ロ)陣地いまだ落ちずと安心し切っていた敵は、突如として降って湧いた神兵の姿に声も立て得ず、寝ぼけまなこでただ呆然としているところを、我はほとんどこれを刺殺した。眠ったまま引導を渡された後生のよい奴もあったが、いずれにせよ我が完璧な接敵動作の前には同じ運命を辿ってしまったのだ。
(ニ)陣地のこの物音に惰眠の夢を破られた(ホ)はじめ付近の敵陣はにわかに慌て出し、訳の分からぬ叫声を張り上げては手榴弾、小銃、チェコ等を滅茶苦茶に撃ち出して来た。
第七中隊はすかさず(ホ)陣地に飛び込んだ。
爆風が頬をかすめる。
明滅する炸火を冒してサッと黒い塊が飛び掛かって行く。
剣尖がキラッと光ると、断末魔の絶叫がこれに応える。
同じ事が何回となく繰り返されて行った。
かくして各所に乱闘を演じた後(ホ)の敵を殲滅し、敵の壕をそのまま利用して二五三〇高地に面し陣地を確保した。
背後は退く事を絶対に許さぬ断崖、我等の決意は偶然にも地形によって激しく現示された。一同は仇敵への重なる怨みに今ぞまなじりを決して来たるべき事態に身構えた。
はたして来た。百名からなる敵は、喊声を挙げつつ手榴弾の雨を降らせて逆襲して来たが、われは少しも騒がず果敢に邀撃してこれを撃退した。
この頃南方代州街道方面にあたって、自動車の光芒がひきもきらず西へ西へと移動していた。
早くも板垣兵団が進出したのかと思われたが、結局これは我に側背を脅かされて総崩れとなった敵の姿だった。
大浪の如く
これより先第七中隊が(ホ)に殺到する頃、(ニ)の突角にあって部下を督励していた植田大隊長は、自ら敵の機関銃をもって闇にうごめく敵群に猛射を浴びせた。
率先陣頭に立つ大隊長。
勇将のもとに弱卒はなかった。
一同の自負は最高の士気となって沸騰した。
第二線攻撃部隊たる第五中隊は(ホ)の乱闘に胸おどらせつつ第七中隊の右より超越して右前方(ヘ)(ト)高地を奪取すべく、稜線沿いを敵陣の右翼より大浪の如くに突っ込んだ。
指揮班を中央に右第一、左第三小隊の隊形である。敵陣には三名に一くらいの割合でチェコが据えてあったが、我に側背を衝かれては何の役にも立たず、ただ壕内をうろつきあるいは壕より這い出さんとするを、先頭の者はいとも簡単にこれを突き刺しながら突進し、約十五名を血祭りに挙げたが、主としてこれは右小隊方面によって片付けられたのだった。
更に突っ込む事二、三十メートル、(ヘ)陣地の切れ目に敵山砲が一門薄黒くゆがんで見える。
前日猛射を浴びせて来た奴だ。蹴飛ばしてやりたい怒りがこみ上げて来る。
左を行った第三小隊では、堆積した砲弾を暗さのために岩と思って飛び上がり滑った者、慌てた敵の発火せぬ手榴弾があたって打撲傷を負った者等もあったが、とにかく大した損害も受けずに(ヘ)陣地を占領した。
ここで中隊は瞬時停止して部隊をまとめた後、一挙に続く(ト)陣地に雪崩れ込んで行った。
今頃になってようやく常態に立ち返った敵は猛烈に手榴弾を投げつけ、ここに夜気を熱する一大白兵戦は展開された。
昼をあざむく炸火の中を、中隊長林大尉が、軍刀を真っ向にふりかざし、あたるを幸い叩き斬って行く。その後を隼の如く兵が続いた。
砲兵を交えた敵は、手元に飛び込まれてはどうにもならず、小癪にも円匙、十字鍬、青竜刀など手当たり次第に振り回して抵抗した。
片っ端から斬った。突いた。殴った。敵を突き損なった兵が壕内で前後の敵と取っ組み合っているのを戦友が襲い掛かって敵を刺殺した。
かくして(ト)の敵三十名は全滅を遂げてしまった。
この時敵機関銃正面を行った右小隊は、突入と同時に数発の手榴弾を集中され、猛烈な爆煙の中に死傷者続出したが、その一弾は先頭にあって奮戦中の小隊長加藤中尉の足下に轟然と炸裂、重傷にもひるまずなおも踏み込んで敵を突き通し、更に突進する勇姿が一瞬パッと浮き出て消えた。
壮烈極まりなき最期であった。
左小隊方面もまた正面及び左側方より百五十名ほどの逆襲を受けて、敵味方の識別も困難な大乱戦となったが、力闘に次ぐ力闘を以てこれを壊走せしめた。
夜明け
林大尉は更に(チ)陣地をも屠らんものと部下を集めたが、続く者わずかに十一名、他はいずれも重軽傷の身を這うが如くにして集まって来る文字通り全身創痍の中隊となっていた。
もう夜明けも間近。
林大尉はここでひとまず陣地を確保するに決し、壕より敵の死体を引き出して陣地の補強をしたが、円匙は岩肌にうつろな響きを与えるのみで、二、三尺掘り下げるのが精一杯だった。
かくする中にも(チ)陣地方面では逃げ仕度をするのか、二、三十名の敵がガヤガヤ言いながら動いた。先頭の軽機がこれを見つけて射ち出すとぱったり静かになった。
また山砲が一門、陣地のはずれに置き去られていた。
左方山岳より撃ち出す敵の曳光弾が、綺麗な弾道を描きつつ頭上を過ぎて行った。
四時二十分、第一線両中隊は数次に亘る執拗な逆襲をことごとく撃退して、鉄角嶺高地東南角一帯を完全に占領した。
植田大隊長はただちにこの旨を記号によって部隊長に報告すると共に昨夜来(イ)高地に待機中の大隊重火器部隊を呼び寄せた。
田歌曹長
(イ)高地の守備を後藤部隊の一個中隊と交代した機関銃主力及び○○砲小隊は、五時過ぎ浜大尉の指揮の下に分解搬送を以て大隊への追及を開始した。
暁に見た険しさは想像以上。夜襲部隊の労苦を偲びながら急峻をすがるように降って、ちょうど(ロ)の瘤付近にさしかかった時である。
この辺りに残存していた敵十数名がいきなり小銃、チェコ等で猛烈に挑戦して来た。ただでさえ遅れがちの部隊の行動は、思いがけぬ邪魔者に遭って停止を余儀なくされてしまった。
浜大尉はただちに田歌曹長に前面の敵撃退を命じた。
当時命令受領者として機関銃指揮班の先頭にあった田歌曹長は配属の小銃一個分隊を指揮して時を移さず飛び出した。
敵弾は等しくその方向に集中された。分隊の先頭に白刃を振りかざしつつ田歌曹長が、今にもころびそうな前かがみの格好でまっしぐらに駈ける。後を銃剣の兵がつづいて行く。敵陣までの間は約百メートルあまり、その間は非常に狭められた稜線につながれ、遮蔽物は何一つなかった。前日の薄暮攻撃に第七中隊の宮田小隊が恨みを呑んだのも同じ場所だ。敵弾の間隙を縫って田歌分隊は真一文字につき進んだ。この地形では他に進みようがないのだ。敵弾は相変わらず猛烈である。一分、二分、遂に分隊は五十メートルの直前にまで迫った。
敵は一挙に寄りつかれて呆気に取られたのか、しばしは弾の音も途絶えた。「突ッ込メッ」と叱咤しているであろう田歌曹長の右手が動くたびに、折からの旭日に白刃がキラッと光る。
凄絶と言うか、昼に描いた白兵戦そのままの姿だった。と思う瞬間、壕から頭を出した敵が高々と手榴弾を差し上げる姿が見えた。
「やられたか?」思わず目をつむる。ほどなくわずかに目標を外れて爆煙があがった。見守る一同はホッと胸を撫で下ろしたがまたもや次の一瞬に固唾を呑む。
うすく立ちのぼって行く爆煙の彼方に、またキラッと白刃が光って先頭の田歌曹長が動いた。追っかけるように兵が進んだ。やがて全員見事に死角に入った。撃てなくなった敵は両手に手榴弾を持ってメチャクチャに投げる。ジリジリと急峻を肉薄して行く一人一人が、そのたびにサッと岩に吸い付く。手榴弾は頭上を越して次々と後方に落ちて行った。頭をもたげる機会を無理にとらえては、十メートル、五メートル、三メートル、異常な努力を以てなおも突き進んで行く。
やがて敵が動揺し始めた。頃合いはよし分隊は先を争って壕に飛び込んだ。しばらくして田歌曹長の姿がひょっこり外に現れ陽光にまばゆい軍刀を丸く打ち振りながら陣地占領が合図された。豪胆な指揮官のもとでは一発の小銃弾も不必要だったのだ。
かくて部隊は更に前進を続け、七時過ぎ無事(ニ)陣地付近の大隊主力に合した。
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付図第十
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鉄角嶺付近戦闘経過要図 昭和十二年九月自二十八日十七時至二十九日十時
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第三節 鉄角嶺上血戦酣なり (付図第十参照)
殲滅戦
払暁となるにつれて敵は漸次退却の徴候があったが、なお一部の敵は各縦深陣地にこもって頑強に抵抗した。遠くは狙撃、近くは手榴弾を以て撃破しつつ、二十九日の夜は燦々と明けはなたれた。悪夢の一夜から開放された一同は心ゆくまで山気を吸い込んだ。
朝露が血に染んだ戎衣をしっとりぬらして、すっかりおちくぼんだ目は亡き戦友の影を追うのか、何物かを探し求めているかのように妖しく光っていた。
緊張の中に刻一刻太陽は輝きを増して来た。
(チ)陣地と睨み合ったままで夜を明かした第五中隊の(ト)陣地から二五三〇山頂一帯は手に取るように見える。目指す(チ)の石垣高地は、前面に蜂の巣のような各個掩体を設け、その中に逃げる機会を失った二十名ほどの敵がうごめいている。右方の急峻を後藤部隊の斥候らしいのが五名、敵のいるのも知らぬげに登攀して来る。
「オーイ、前に敵がいるぞ」と怒鳴ると聞こえたのかその場にぴたと止まった。
石垣高地上からは絶えず鋭い狙撃を浴びせて来る。こちらからもありったけの弾丸で応酬したがもうすでにほとんど射ち尽くしてしまっていた。
七時三十分、後方より朝の冷気をふるわせて殷々たる砲声が起こった。前日の夕刻我が部隊に追及して、鞍部東側高地の第一線に陣地を布いた独立○砲隊一個小隊の支援射撃が始まったのだ。こちらの○○砲も射ち出した。
暴れ狂う硝煙の中から敵のざわめきが聞こえて来る。砲撃のやむのを狙っては敵が一人、二人、三人と続いて這い出す。逃がすものかと、今度は約百メートル離れた第七中隊の(ホ)陣地から、友軍の機関銃が鳴り出した。撃たれると敵は一様に皆伏せてしまう。その機を逸せず第五中隊は林大尉の軍刀一閃、銃剣の襖を並べて蜂の巣陣地に躍り込んだ。と見る間にすでに気おくれしてしまった敵に得意の刺突を食わしてたちまちこれを撃滅、再び壕を飛びこえた中隊は、またたく間に石垣陣地に突入した。
時まさに八時。
同時頃二五三〇山頂もまた後藤部隊の一部によって占領された。
かくて敵は百三十数個の死体と多数の兵器弾薬を遺棄して南方五台山に、代州方面に続々退却を始め、十時過ぎには全く姿を消していた(付図四)
指揮官のなみだ
敵が最後の防塁とたのみ鎖鑰と誇った鉄角嶺の堅陣も、今や我等が肉弾の前に屈服してしまったのだ。
爽やかな朝風に頬をなぶらせながら山頂に立てば、秋気はあくまでも清く、白く西に延びた滹沱河を中に挟んで緑の繁峙平原がたんたんと開け、早くも上半身を雪化粧した霊峰五台山は遥か南方に蓮の花の咲くが如くおぼろに霞んでいた。三方面から攻め立てられた敵は、大涛の引くが如くこの雄大極まりない天地を西に南に一散に遁走しつつあるのだ。
我々の胸にしばしは快い勝利感がもたげるのだったが、ひとたび頭を巡らせば敵味方の死屍累々、つい最前までの激戦の様がただまざまざ満ち溢れていた。そこには占領の喜びに会わずして散った戦友の顔があった。我々の喜びはこの厳しい現実につきあたって、たちまち名状し難い憤情におきかえられざるを得なかった。
「俺のやり方が悪くてこんなに死傷者を出して済まぬ」
植田大隊長は声を上げて慟哭した。林大尉を始めとして並びいる将兵は隊長の心中を察してしばし声もなかった。
戦友を失った悲しみは突き刺す如く胸に迫るが、
軍旗 の下にこそ喜んで死ぬ
という固い覚悟が悲愁をふるいおとし、やがて天幕と銃で担架が急造され、戦死傷者の収容が開始された。
九十名にも上る戦死傷者を出して著しく兵力の消耗をきたした第二大隊は、その主力を以てこれを収容しなければならなかった。
来し方
思えば去る二十七日大同を出て以来徹夜の自動車輸送にはじまってただちに敵中の強行軍となり、更に千古未踏の険難に砲の援護は思うにまかせず、ただただ白兵を以て薄暮攻撃に、夜襲に、払暁戦に、全く息つくいとまもない激闘のその都度戦友が倒れて行ったのだ。もちろん兵力の増援はおろか、弾薬、食料の補給さえも許されなかった。
悪条件はかくもよく揃っていた。
がしかし寡兵敢然よく要衝の頑敵を撃破し、兵団主力の前進を容易ならしめ、板垣兵団、本多兵団正面の敵背を遮断し得た偉大な戦果は実に
軍旗 の下ただ黙々と歯を食いしばって実行して行く越後魂あって始めて成し遂げ得られたものであった。吾になお兵力の余裕があったならば、この敵に完璧の鉄槌を下し得たであろう。その大半を南方及び西南方山岳地帯に遁入せしめた万斛の痛恨は、それだけにやる方ないものであった。
十時頃関東軍参謀副長笠原少将の第一線巡視が行われ、山上一帯に広がった惨烈な情景に寄せられた無量の感慨を左の一詩にこめられた。
肉弾相縛屍蓋山
鉄角嶺上血戦酣
厳頭厳乎捧軍旗
将兵仰観期戦捷
さて戦いはこれからなのだ。今は何をおいても敗敵の追撃が急務だった。
猪鹿倉部隊長は兵団命令に基づいて前進を起こすにあたり、第二大隊に対してしばらく戦場整理ならびに死傷者の収容をなしたる後、部隊に追及すべく命じ、十三時自ら予備隊たる第六中隊(二小隊欠)を率い、兵団の先頭部隊として鉄角嶺以南の険路を一意繁峙に向かって追撃を強行したのである。
第四節 斎藤(国)部隊の鉄角嶺突破
恒山山系
鉄角嶺の作戦にあたり部隊主力を急追すること四晩五日、わずか二日分の食糧をもってこの険路を突破した斎藤(国)部隊の強行軍こそ、重火器部隊の精華とも言えよう。
九月二十七日、部隊主力が大同を自動車によって茹越口方面の戦場に急行した際、前述の如く連隊砲中隊(小林准尉以下五十八名、馬匹十三頭)速射砲中隊(中隊長以下五十名、馬匹十一頭)通信駄馬班(行方軍曹以下十三名、馬匹十五頭)は速射砲中隊長斎藤(国)大尉の指揮の下に徒歩により部隊主力を追及して懐仁に至る如く命ぜられた。
斎藤部隊は二十七日十時、本隊の出発に先だって懐仁に向かい行軍を開始した。
秋とは言え陽ざしはまだかなり厳しく照りつけて、ものの半道も進むと手綱はぐっしょり濡れ、砲にさわった手のあとは油でギラギラひかる。
高粱を折って作った即製の陽よけを愛馬の背にかざす兵もいる。五十余頭の馬と百名あまりの兵隊とを寄せあつめた部隊は、ほこりっぽい道を黙々と進んだ。十三時すぎ、部隊主力を乗せた自動車の列に追い越された。車上からは励ますようにてんでに手が振られたが、砂ぼこりは一行に遠慮なくかぶさった。
夜に入ると今度は反対に寒くなった。日中に汗のしみとおった軍服はからだを締めつけるように固く冷えて来る。小部落を見ることもあるが、闇の中にひそと静まり返って人っ子一人いるように思えない。二十一時頃やっと懐仁に到着したが部隊主力はどこにも見当たらない。なおも捜しているうちに友軍の砲兵隊を見つけた。これと連絡したら、本隊はここを素通りして応県に向かったとの事だった。
そこで夕食をすませ、更に二食分を炊事して。
さあまた行軍だ。明けて二時というに真っ暗な中を応県に向かって再び歩きはじめた。
明けたその日も前日に同じ様な日本晴れであった。だがこうした場合のお天気続きも良し悪しである。先頭を行く者はともかくも後になったら全く災難だった。もうもうと立ちけぶる砂塵の中を行くと玉なす汗にはほこりがつく。それが流れたと思うとまたほこりをかぶるのだ。兵隊の顔は真っ黒な泥の面をかぶったようになる。また馬を持った部隊の常で水が一番の苦労だった。
「オーイ大休止だ」と叫ぶと何をおいても愛馬の水飼いに飛び出す。二時間くらいの大休止では兵隊の休めるのはほんの二十分ぐらいである。まる二日間を歩き通して十五時応県に到着した。
街に入ると命令受領のため本隊と共に先行した吉沢軍曹が飛び出して来た。そして斎藤大尉に命令を手交した。斎藤大尉の口元がピクリと動いた。
命令の要旨は次の如くであった。
一、部隊主力ハ茹越口ニ向ケ前進ス
一、弾薬積載以外ノ車両ハ応県ニ残置シ茹越口ニ追及スヘシ
前方山岳地帯の戦況はまさに急を告げているのだ。○○部隊の戦闘にいかに砲の力が重要であるかは我が身に知りすぎるほど知っている。一時も、一分も、一秒も早く本隊に追及せねばならぬのだ。斎藤隊長の眉宇には、固い決意の色が読まれた。十七時進発開始、暮れんとする太陽は一同の背をほの紅く照らした。道は逐次悪くなって来る。行く手には恒山山系の峨々たる連峰がそびえ立っている。この山脈越しに繁峙平原に入るためには、本来ならばここよりはるか右方の雁門関を経て、回り回って代県に至る立派な本街道に道を求めるのだが、部隊は真正面から、最も険阻な鉄角嶺を強行突破しようとした。
月のない夜はますます暗く、路上には直径五、六寸もある石ころがごろごろする。兵も馬もつまづきながらの行軍では全く遅々として進まず、二十三時やっと接馬路(応県南方十二キロ)に達した。
二日分の携帯口糧はあますところ一日分、これで鉄角嶺を突破しなければならないのだ。そこで部落から見つけたわずかばかりの馬鈴薯で腹ごしらえをして二十九日三時、ここを出て歩み続けて行くうちに夜もほのぼのと明けんとする頃路上に自動車、砲車、行李など、様々の車両が目白おしに停まっているのに追いついた。あまりの路の悪さに行く手を阻まれた車両だった。もちろん、我々の砲も重かった。その上連日の行軍で疲れはてていた。だが、何くそ、越後健児の意地の見せ所とみんなの意気はますます高ぶった。道路をふさぐ車両を縫いながらの前進は思う様に行かなかったが蝸牛に似た歩みはたゆみなく続けられて行った。
二十九日の朝七時、茹越口北方約五キロ崔庄の南方を行進中、部隊の前方四キロの〓(文+見)口前付近に機関銃を有する五、六十名の敵が陣地を占領していることがわかった。斎藤隊長は警戒を厳にしつつなおも前進を続け敵陣地の前方約五、六百メートルに近接し速射砲を以て敵の機関銃銃眼を射撃すると同時に、小銃を所持する者二十六名を以て〓(文+見)口前部落の東側より向かわせ、五名を以て西方に備えこれを一挙に殲滅せんと近迫したが、突撃を発起せんとする寸前、敵は算を乱して南方山地へ壊走してしまった。敵は死体五を遺棄し、我には寸毫の損害もなかった。
険路は続く
再び前進を開始して九時茹越口に到達、同地警備隊長大類少尉と連絡をとって見たが、本隊がここを通過した事だけは分かってもその後の行動はてんでわからない。しかし分からないといって躊躇している場合ではない。とにかく前進、部隊主力の状況を考えればただ前進あるのみ、このとき幸いにして警備隊から二日分の食糧の補給を受けることが出来た。斎藤隊長は昨日の夕食からろくろく飯も食べていない兵の顔を見ては、見るに忍びず、補給を受けた食糧のなかから一食分を炊いて食べさせ、正午ここを出発した。
部落を出てしばし、道は第二長城線に達する。このあたりの長城は半ばくずれ果て、所々に辛うじて原型をとどめ、望楼がわずかに堅塁をしのばせるのみである。ここを越えて十六時すぎ、通信班長古橋中尉が負傷のため後送せられて来るのにばったり出会した。同中尉の話によると部隊主力はすでに鉄角嶺を奪取し繁峙に向け前進中との事だった。
ついに間に合わなかった。昼夜兼行の強行軍を続けて来たにも拘わらずついにおくれてしまった。
やんぬるかな、将兵はしばし涙をのんだ。だが見よ、行く手にそびえる山の連なりを。我等の戦場は、あの山にも、またその先の山にも至るところで我々を待っている。
部隊は疲れた身体に一鞭くれて再び進軍した。これからの道は分解搬送を行う事に決心した。標高千メートルを前後する山塊が群れをなしてたちはだかり、空と接するあたりは重畳たる雲の峰に続いて、どこで果てるともわからぬ。
群山の合間をつづら折りする水無し河づたいに部隊は進む。この道が結局一番良い道路なのだが、何しろ硬い石塊道なので蹄鉄はすりへり、軍靴もすりへりつき刺す様な痛みが骨身にこたえる。十四時恒山山系の山麓にようやく到着した。
三十日は早朝から行軍を開始した。孫家荘を経て東将村を過ぎると、文字通りの道なき道にさしかかる。これまでの悪路は無理すれば繋駕によっても進み得たが、これから先は人力による以外には方法のない険しさである。
いったい鉄角嶺というのは一塊りの岩に土をかぶせたような山である。登るに従い峻険はますます極まった。時には切り立った断崖の中にわずかに尺余の足掛かりを求め、あるいは生い茂る蔓草を唯一の手がかりに進んで行く。兵隊の肩には数十貫もある砲身が、車輪が、ずっしりとのしかかっている。一歩踏みはずせばひとたまりもない千尋の谷底である。
十四時頃、遥か西方上空に飛来した四機編隊の飛行機を認めた。高度は五、六百メートルもあったろう。眼鏡で見ると小癪、青天白日旗をマークした敵機である。敵機は我々の上空を東方に飛び去った。やれやれと思う間もなく今度は後方からさっと姿を見せた。と思うと一つ、また一つ、黒い爆弾が降って来た。畜生、撃ち落としてやるぞと気ははやるが兵力は少なし対空兵器はなし、取り敢えず小銃を所持するもの全員で一斉に射撃したが無念ついに撃墜し得ず約二十分の後我が兵一名、馬二頭に負傷を与えて南方に逸走し去った。
斎藤隊長は馬匹が敵飛行機のよい目標になるのに鑑みて乗、駄、輓馬を分離、これに駄載し得る諸材料を乗せ、夜行軍により進ませるに決し、これを水落准尉が指揮して夜に入るを待って十九時趙家荘に向け進発した。
十月一日早朝より逐次敗残兵が行路両側の各所に集結しているのを認めた。鉄角嶺南方の凹村付近には我々の見ただけでも優に千名以上の敗残兵がいた。彼等のある者は三々五々山路を逃げまどうもの、数十名も集まっていながら全く戦意を失って右往左往するもの多種多様だった。中には健気にも我に砲撃を加えて来るものもいた。だが我々の任務は一時も速く主力に追及せねばならなかった。彼等にかかり合う事なくただ進みに進んで行くのだった。
昼間の行軍はまだ良かった。夜行軍の辛さは昼間のそれに数倍した。数日前から月のない夜ではあったが、この夜も鼻をつままれてもわからぬ闇の中に一歩一歩足がかりをつけながら進んで行く。足もとに気をとられると肩の砲がずり落ちそうになる。肩に気を配れば足もとがお留守になる。少し油断すると遅れがちになる。連絡を取るにも大きな声は出せない。どこに敵の敗残兵が隠れているかも知れなかった。
食糧は茹越口で貰った二日分が命の綱だった。とても腹一杯は食うわけには行かなかった。空腹をこらえていると晩秋の冷気はまるで冬の様に五臓六腑にしみわたる。一人の兵隊が闇の中にうずくまってすすり泣き出した。
「どうしたのだ」
隊長が声を強めてただした。
「どうやってみても砲が動きません。口惜しくて泣きました。」
隊長も兵隊と同様重い砲の一部をかかえて、声は出さぬが歯ぎしりして口惜しがっているのだ。とてもだめだと思うような事が幾度かあった。だが一同には
陛下の股肱なり
という固い信念があった。また、一時も早く主力に追及せねばならぬという火のような責任観念があった。この二つが兵隊達を歩一歩すすませて行った。言語に絶する難行軍は十月二日も昼夜を通して続けられた。
明けて三日の払暁、部隊はいよいよ鉄角嶺の最後の難険にかかった。夜が白々とあけはなたれると共に、あたりはようやく平坦地に近い事を思わせる景色になって来た。もうすぐだ。いま少しで我々の労苦も実を結ぶのだ。兵隊の踏み締める力強い足もとに道は一寸二寸と広さを増して来た。
突然敵の砲弾がドドーッと地軸をゆるがして炸裂した。続いてまた一弾。西方の山上からだ。これに続いて二、三百名ぐらいもの敵兵が小癪にも我を包囲する如くばらばら飛び出して来る。敵襲だ!
かねて警戒中だった。ただちに反撃の態勢をとる。敵数に対しては数えるほどのわが部隊だが一発必殺の物凄い意気だ。ただ惜しむらくは徹底的に敵を殲滅する時間の余裕を持たない。激戦約一時間。我は一応大敵を撃退して、前進を続ける事が出来た。我に一兵の損害もなかった。これに引きかえ敵の損害は遺棄死体だけでも十六を数えた。
十一時趙荘に到達した。これで鉄角嶺の難険はすべて終わった。振り返ると名だたる連山は峨々とそびえ何事もなかったような静寂そのものの姿である。我々は遂にやり遂げたのだ。敵中でなかったら手を取り合って泣き出したかも知れない。が、周囲には我に数倍する敗残兵がしぶとくまとい付いて離れない。これにかまっていてはこれまでの辛労も水の泡になる。我々は急がなくてはならなかった。
はやる気持ちを任務の前に和らげ、敵中の諸準備を終えた。部隊は十四時ようやく進発して、巧みに敵を避けつつ繁峙─原平鎮街道を一路原平鎮に向かい前進を続け、途中崞県付近に敵の猛烈な砲撃を受けながらも、十月六日原平鎮において部隊主力への追及を果たし得たのだった。
「○○派兵部隊将校各部将校職員表」 (鉄角嶺付近戦闘)
○隊本部
○隊長──猪鹿倉 徹郎 大佐
副官──伊従 秀夫 少佐
連隊将校──増成 正一 大尉
旗手──後 勝 少尉
通信班長──古橋 正雄 中尉
瓦斯係──佐藤 四郎 中尉
軍医──広池 文吉 少佐
獣医──安田 土岐司 中尉
第二大隊
大隊長──植田 勇 少佐
副官──遠家 亀市 中尉
主計──藤田 三予吉 准尉
軍医──早川 釟郎 中尉
第五中隊
中隊長──林 司馬男 大尉
小隊長──加藤 恒安 中尉
小隊長──安田 寅雄 准尉
小隊長──古垣 兼隆 准尉
第六中隊
中隊長──石原 英夫 大尉
小隊長──小山 永久 少尉
小隊長──嘉村 省司 准尉
小隊長──佐藤 徳蔵 曹長
第七中隊
中隊長──森 康則 大尉
小隊長──安斎 実 少尉
小隊長──宮田 金吾 少尉
小隊長──小暮 伝作 准尉
(小隊長──渡辺 儀興 准尉)
第二機関銃中隊
中隊長──浜 久 大尉
小隊長──大類 仁一 少尉
小隊長──西野 清一朗 少尉
小隊長──桐生 憲辞 准尉
小隊長──滝沢 嘉長 准尉
大隊砲小隊
小隊長──伝田 鹿蔵 准尉
*補足(藤本)
この職員表は、『歩兵第三十連隊史』(第二巻 高田編)をもとに作成する。原著に当箇所のような表は載っていない。
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