六十・石川捕虜収容所



 終戦から四ヶ月後の沖縄本島は、戦争の傷跡生々しく、緑のない島と化していた。
 破れた衣服をまとい、どこへ行くのか、集団行動をしている島民に出会った。私たち日本兵を見ると「兵隊さん、兵隊さん」と手を振ってくれた。その光景は痛ましい限りだった。
 ここで約二ヶ月、捕虜としての恥辱を受けた。

*補足(藤本)
 この顔のない青年が石坂准尉である。PWという屈辱の英字が正視にたえず、実に悲惨である。しかし、帝国陸軍軍人・石坂辰雄の誇りは、たとえ虜囚の辱めを受けたとしてもいささかも揺るがなかった。私はそう信じている。


*補足二(藤本)
 笹 幸恵『沖縄戦 二十四歳の大隊長 
陸軍大尉 伊東孝一の戦い』という本に、この捕虜収容所に関する記述がある。

***

 石川収容所は、東に金武湾を望み、さらに遠く太平洋が霞んで見える。
 収容されているのは、沖縄出身兵を除く日本兵で四〇〇〇名ほどだった。その後、逐次増加したため、米軍はほかにも収容所を造った。最終的には八〇〇〇〜九〇〇〇名ほどに膨れ上がったようだった。
 収容所は周囲に鉄条網を張り巡らせ、四隅の櫓から中に向かって機関銃が据えられている。グランドは砂地で、そこにたくさんのテントが列をなして整然と並び、収容者が入っている。将校・下士官・兵と別々のグループに分けられ、一つのテントに一二人一組で入れられていた。
 朝夕は人員の点呼がある。米軍の下士官が伊東たちを五列横隊に並べ、一列ずつ数えて点検していた。彼らは掛け算をするのが不得意なようだった。
 伊東はすべての権限を奪われ、囚われの身の惨めさをしみじみと味わっていた。しかし米軍の収容者に対する扱いは、多少の不満はあれど、まずは寛容だった。武装解除の交渉にあたったときも含めて、米軍の態度はきわめて丁重で、伊東の見聞きする範囲では、傲慢なところは一つもなかったと言っていい。
「そこが米軍の偉いところですよ」
 と伊東は言う。

『沖縄戦 二十四歳の大隊長 
陸軍大尉 伊東孝一の戦い』の二百七十九〜二百八十ページまで引用

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