五十三・宮古島



 昭和十九年七月二十二日、宮古島上陸。
 戦争はどこ吹く風、宮古島は平和そのものだった。

*補足(石坂准尉と藤本)
石坂 「宮古島に部隊が上陸したとき、島民から熱烈に迎えられてね、至れり尽くせりの歓待には感動したよ。サツマイモもたくさんもらったし」
藤本 「いい思い出ですね」
石坂 「だけどね、戦争が激しさを増してきた昭和二十年になると、俺たちを慕ってくれた島民も生きるのに必死になって、そのようなことはなくなってしまったね」
藤本 「三十連隊の資料を見ると、宮古島では食料難に苦しんだことが分かります。それが関係しているんでしょうか」
石坂 「うん。宮古島は小さな島だ。島民の食料が乏しいというのに兵隊の飯まで確保するのは大変だった。輸送船が敵の艦船と航空機にみんなやられてしまって補給は途絶えていたからね。だからもうサツマイモをもらうようなことはなくなってしまった。あのときの歓迎ぶりがまるでうそのように」


*補足二(藤本)
 竜沼梅光『北満・宮古島戦記 
戦局と将兵の心理』に、サツマイモに関する記述がある。

***

 兵隊達は食べ物が足りないので止むを得ず、薩摩芋を購入するため民家を訪れ、売ってもらおうと小さくなって懇願するが、彼等の応対は剣もほろろである。上官からは乱暴してはいけないと強く戒められているので、怒鳴りたいのを我慢して次の家を訪れる。しかし次の家でも同じような調子なのだ。こうしたことが幾日も続いてくると、兵隊達もおとなしくしてはいられなくなってついに怒りが爆発し、畑を荒らして芋を食べたりする。それが地元民の気持をますます硬化させる原因となった。島民の中には畑の中に潜み、兵隊の行動を見守る者さえでてきた。これで日本人同士なのか、と疑わしくなってくる。まことに憂うるべき現象といえよう。
 伊良部島に上陸した時、わずか二日間の滞在であったが、すべて島民が好意を持ってくれていたが、宮古の印象は一般に悪い。これには出会いの問題が強く作用している。よい兵隊にあった島民は兵隊はよい人だと思い、悪い兵隊にあった島民は兵隊は悪いと思うのである。これは島民に対してもいえることである。暖かい交流もあれば、冷たい対立も出てくる。駐屯する兵隊にも責任はあるが、郷里を捨て島の防衛のために、兵隊は来てくれているという考えで、兵隊を処遇することに欠けている人が多い。主な理由は島の貧しさに起因すると思った。

『北満・宮古島戦記
 戦局と将兵の心理』の二百五十〜二百五十一ページまで引用

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