四十一・十六連隊の奮戦



 歩兵第十六連隊の激戦。
 大軍の敵戦車部隊の逆襲を受け、全滅。

*補足(藤本)
 眉間にしわを寄せた苦渋の面持ちで石坂准尉が語ってくれたことがある。
「宮崎繁三郎大佐(最終階級 陸軍中将)率いる十六連隊の突入は命令違反だった。わが三十連隊は突然の攻撃中止に涙をのみながらも、命令を順守して突撃はしなかったんだ。
 その違いがこのざまだ。十六連隊は敵戦車数百台に蹂躙され、壊滅させられた」
 宮崎繁三郎といえば、後年ビルマ戦線で名をはせる将星だが、このノモンハンにおける、陸軍省と参謀本部の意向を無視した独断専行は問題にするべきではなかろうか。
 豊田 穣の『名将宮崎繁三郎 不敗、最前線指揮官の生涯』という本では、この命令違反問題を追及しておらず、ノモンハン事件唯一の勝利者として、宮崎中将を褒めたたえているのが奇異だ。甚大な被害を出した点に真っ向から触れていないし、後の国境線確定に大きく貢献したという、あの有名な「ノモンハンの標石」の話を持ち出している始末なのである。
 しかしながら、そうは言っても、「宮崎中将の命令違反問題」は、あくまで石坂准尉や私が疑っているだけであって、確たる証拠はない。
 くだんの宮崎中将は、雑誌『丸』に載った記事(『丸』昭和三十三年一月号の「歩兵第十六連隊奮戦す」)の中で、この経緯について、以下のように述べている。

***

 連隊からもたらされた、当面の敵陣地に対する夜襲準備完了の報告にもとづいて、片山支隊長は、その旨を軍司令官に報告したところ、夜襲実施の認可があつたので、連隊は、いよいよ九月六日の夜を期して、待望の夜襲を決行することになつた。連隊の意気はまさに天をつくの感がある。
 ところが、六日午後にいたつて、「本夜襲は中止すべし」という軍命令があり、まつたく出鼻を挫かれた。ところが、さらに翌々八日午前、軍の参謀が「歩兵第十六連隊がさきに準備した夜襲は、本夜決行すべし」という軍命令を、片山支隊司令部にもたらした。
 連隊長は、軍の無方針なることに痛嘆を感じたが、もちろん、放つておくわけにもいかず、この軍命令にもとづいて、ただちに左記要旨の連隊命令をだした。
 一、敵情別紙要図の通り(略)
 二、連隊は本八日夜、主力をもつて九九七高地を、一部をもつて秋山高地を奪取する。
 三、第一大隊(長・源紫郎少佐)は、日没後、出発して九九七高地を奪取すべし。
 四、第五中隊は、日没後、現在地を出発して秋山高地を奪取すべし。
 五、右両第一線部隊の敵陣地への突入は、午後十一時と概定す。
 敵陣地を奪取した後は、すみやかに工事を実施し、明払暁後における敵の恢復攻撃を拒守すべし。
 六、連隊砲中隊と速射砲中隊は、主として第一大隊の戦闘に強力すべし。
 七、第二大隊(第五中隊欠)は、予備隊となつて、現在地附近に位置すべし。
 八、予は現在地にあり、日没後、本部は高地に至る。

(*藤本注・本文中、連隊長と書いてあるのは、当時、歩兵第十六連隊長であった宮崎中将のこと)

***

 宮崎中将の言い分としては、第六軍の参謀の指示によって夜襲を決行した、とのことである。
 先に関東軍に伝えられていた大陸命第三百四十九号(ノモンハン方面における攻勢作戦の中止命令)に違反している事実には目をつむっている。
 断っておきたいのだが、日本軍全体のレベルで考えるならば、この歩兵第十六連隊の攻勢は完全に命令違反である。宮崎中将が述べていることが真実であり、そして、同中将の汚名にならないのだとしても、関東軍がこの大陸命第三百四十九号を無視して本夜襲を決行した不名誉は少しも揺るがない。それなのに、この点について、宮崎中将は、本文中で一切触れていない。たとえ、当時、宮崎中将が、一個連隊の長にすぎなくて、上部組織の命令に従わざるを得なかったとしても、そう簡単に「われに関係なし」として、この命令違反問題を受け流してしまってよいものか。
 議論の余地があろう。
 なお、論者の中には、大陸命第三百四十九号の中に、

兵力ヲ「ハルハ」河右岸係争地域(「ハンダガヤ」付近以東ヲ除ク)外ニ適宜隔離位置セシムヘシ

 と、あるのを引き合いに出して、この夜襲に理解を示す者がいる。しかし、都合のよい解釈にしか思えない。
 例えるなら、タックスヘイブン(租税回避地)を利用している資産家が、自らの所業を「合法である」と主張するようなものだ。仮に、法に触れていなくとも、それは法の網の目をくぐる行為といえる。法の精神を踏みにじる不正行為に違いない。実際問題、そうであるからこそ、タックスヘイブン(租税回避地)問題について、世間は批判するのである。
 宮崎連隊の夜襲決行も同じことだ。
 端的にいって、日本陸軍の中央は、「戦いをやめろ」と言っているのだから、関東軍はその命令に従う必要がある。
 命令の網の目をくぐる「駆け込み攻勢」など、許されない。


*補足二(藤本)
 後年、宮崎中将が指揮を執った、インパール作戦時のサンジャック戦(昭和十九年)が気にかかる。
 インパール作戦時、第三十一師団所属の歩兵団長であった宮崎中将は、第十五師団の戦闘地域であったサンジャックを独断で攻撃している。
 他部隊の担当領域を犯す独断攻撃であるから、穏当な話ではない。軍事的見地から宮崎中将を擁護したとしても、組織の規律がおざなりにされている点は否定しようがない。
 石坂准尉と私は、サンジャックでの経緯を踏まえて、宮崎中将はノモンハン事件においても、陸軍の中央に断りなく、一個連隊を率いてソ蒙軍の高地を攻撃したのではないか、との疑念を抱いている。
 第六軍の参謀から夜襲を決行するように指示された、というよりも、実態は攻撃精神あふれる宮崎中将が軍参謀の黙認を取りつけたのではないか、と。
 歩兵第三十連隊と歩兵第十六連隊は同郷の部隊であって、常に連係して各戦場を渡り歩いてきた。しかし、このノモンハン事件の夜襲(昭和十四年九月八日決行)では、歩兵第三十連隊が現陣地にとどまっている一方で、歩兵第十六連隊は敵地に単独で攻撃をしかけている。石坂准尉は「軍人の感覚」として、この状況が妙に思えて仕方ないそうである。

戦史叢書 関東軍<1> ―対ソ戦備・ノモンハン事件―
防衛庁防衛研修所戦史室

攻勢中止の第二次大命

 第二次大命の内容 大陸命第三百四十三号に基づく中島参謀次長の現地指導は、大本営作戦部を含め中央首脳の考え方と大きく掛け離れていた。
 よって同作戦課においては、九月二日第一部長の意図を受け、御裁可を仰いだうえ続いて攻勢中止の大陸命第三百四十九号を起案し、三日その旨を関東軍に電報し(参電第二八七号―一六四〇新京受)、四日再び中島次長が新京に出向いて伝宣に当たることになった。命令の要旨は次のとおりであった。

一 情勢ニ鑑ミ大本営ハ爾今「ノモンハン」方面国境事件ノ自主的終結ヲ企図ス
二 関東軍司令官ハ「ノモンハン」方面ニ於ケル攻勢作戦ヲ中止スヘシ 之カ為戦闘ノ発生ヲ防止シ得ル如ク先ツ兵力ヲ「ハルハ」河右岸係争地域
(「ハンダガヤ」付近以東ヲ除ク)外ニ適宜隔離位置セシムヘシ
 航空作戦ニ関シテハ情況已ムヲ得サレハ大陸命第三三六号ニ依ルヘシ
 作戦軍主力ヲ原駐屯ニ帰還セシムル時期ハ追テ命ス


 この命令はノモンハン方面における主力による攻勢中止を命じたもので、受動自衛の戦闘についてまで拘束するものではなかった。またハンダガヤ方面の要域はこれを確保するように支作戦を継続し、なお航空作戦については、その特性にかんがみ状況上やむを得ない場合には、依然大陸命第三百三十六号(八月七日下達)に基づいて、タムスク並びにその以東の戦場付近における飛行基地を攻撃できることを認めたものなのである。
 当時、現地における作戦準備は着々進捗し、増加の諸兵団、軍直轄部隊はおおむね九月七、八日ころには集結を終わる見通しにあった。また関東軍は九月三日、新たに第八師団(綏陽付近)の一支隊(歩兵旅団長の指揮する歩兵一連隊、野砲兵一大隊、工兵一中隊基幹)を関東軍直轄(総予備)として海拉爾へ向かわせ、騎兵第三旅団〔宝清駐屯―騎兵第四連隊(佳木斯)配属〕をもって彼の関心を西方に牽制するため札賚爾(満州里南東約二六粁)に進出させ、なお第二飛行団〔編組は飛行第九戦隊(戦闘)、同第六戦隊(軽爆)、同第六十五戦隊(重爆)〕を戦場に増強するなどの措置を講じつつあり、大陸命第三百四十九号は関東軍にとってまさしく〝青天の霹靂〟であった。

戦史叢書 関東軍<1> ―対ソ戦備・ノモンハン事件―』の七百二十三~七百二十四ページまで引用

ノモンハン事件の終結
秦 郁彦

陣取りの小競り合い――宮崎連隊と深野大隊

 ノモンハン戦史の諸著作を見ると、ロシア側は八月攻勢が一段落した八月末、日本側は九月三日の大陸命をめぐる騒動までで観察と記述を打ち切っている例が多い。戦史叢書やジューコフ、シュテルン両報告書も例外ではない。たしかに九月十五日の停戦に至る十数日、対峙する両軍の間に大規模な戦闘は起きておらず、概して戦線は平穏だったと言えるが、伏流の次元で観察すると日ソ間にはかなりの落差があった。
 ソ蒙軍はモスクワのきびしい指令で、彼らが国境と認定してきた線を守り防御陣地の強化に専念していたのに対し、日満軍は九月中旬の発動をめざす大規模な攻勢準備を進めていた。その過程で不慣れだが戦意の高い増援部隊が、攻勢のために便利な要点を確保する「陣取り」的行動が散発する。双方の斥候や偵察隊が衝突して小競り合いをひきおこす事例もあった。
 九月六日、関東軍司令部は第六軍司令官に対し、三日の大命を伝達する形式で攻勢作戦の中止を命じたが、同時に「第六軍は概ね既定計画集中末期の態勢に在りて敵を監視すべし。爾後の行動に関しては別命す」(関作命甲一七八号)とか「本職亦断腸の思……自重せらるると共に別命ある迄万一に応ずる作戦準備は依然継続(38)(九月七日発電)せられたいと、思わせぶりな指示を与えていた。傍点部分は、攻勢をあきらめきれぬ参謀たちの執念を反映したものだろう。
 その頃、第六軍に増加された諸部隊の多くは、全満の各地から指定されたノモンハン周辺の展開地へ向かいつつあった。そして大命発令後も引き返すことなく前進をつづけた。別命(攻勢発起)を予期しての処置だろうが、一時は意気消沈しかけていた第六軍も、こうした関東軍のテコ入れで戦意を盛り返しつつあった。何しろ増援を約束された兵力はいずれも精鋭の第二、第四師団、第一師団の半分、第八師団の一部等のほか重砲、山砲、速射砲、兵站自動車隊など約四万、手持ちを加えると六万人に近い大軍にふくれあがったからである。
 しかも頼まれてもいないのに、大本営は主として中国戦線から第五師団、第十四師団、野重二個連隊などの追加投入を指令していたから(39)、これらが到着すれば総兵力は一〇万に近い規模に達したろう。弱点とされた砲兵力も、七月の二倍に当る一〇基数、五万八六〇〇発の弾薬を集積する。
 とくに大本営を説得したと信じこんだ島貫武治参謀が九月三日に攻勢確定を報じると、大兵をもらった荻洲軍司令官の気分は高揚した。
 「(荻洲)中将の得意や知るべく、其喜悦は例うるに物なく大気焔なり(40)」と畑砲兵団長は観察している。そして荻洲は五日に部下の指揮官たちを集めて「速に敵に鉄槌的一撃を加え……国境鼠賊掃滅の蠢動を一挙に封殺し……皇軍の威武を宣揚し以て大元帥陛下の信綺に応え――(41)」と檄を飛ばし、「会戦指導の腹案」を示達した。
 荻洲にとってソ連軍はネズミに過ぎなかったようだが、兎にたとえた「豪傑」もいた。八月三十日に小林の後任として第二十三師団の歩兵団長として着任した佐藤幸徳少将は、部下たちへ「ソ連の戦車なんか怖るるに足らん。それは兎を狩るようなものだ……我らは外蒙はおろかウラル山脈を越えてモスコーを衝くんだ(42)」と壮語している。
 攻勢作戦の中止を命じる六日の関作命を受けた当直の本郷参謀は、一読した藤本参謀長が「何だこんなもの」とポケットにねじこみ、「当分のうちこの電報は絶対に他に洩らしてはならぬ(43)」と厳命した情景を回想しているが、実際にこの関作命が指揮下部隊に伝わることはなかった。
 それどころか第六軍司令官名で、「軍は既定計画に基き作戦準備の完成」を進め「断じて敵をしてハルハ河右岸地区に停止せしむべからず(44)」と返電している。この電報は第六軍司令部に派遣されていた島貫参謀の起案だから、大陸命を守る気のない関東軍強硬派が第六軍を利用した「蠢動」と見てよいだろう。
 彼らの挑発的策動で証跡が残っているのは九月七日と八日、片山支隊の歩16連隊(長は宮崎繁三郎大佐)による997高地(エルス山地区)の争奪戦、もうひとつは九月十一日の第三独立守備隊深野大隊等によるハルハ山(モンゴル側の呼称はマナ山)周辺の戦闘である。
 第二師団主力が八月二十六日の動員でハイラルを経て将軍廟へ向ったのに対し、片山支隊(第二師団の歩16、30連隊と砲兵一大隊を基幹とし、歩兵第十五旅団長片山省太郎少将が指揮)は、南まわりで白温線の終であるハロン・アルシャンから徒歩でハンダガヤを経て、その北西方ドロト湖地区へ八月末に進出した。
 到着時は第六軍から積極行動を禁じられていたが、その後のあわただしい朝令暮改ぶりを関東軍の動向(既出)と並べて眺めよう。
(九月二日)―関東軍司令官の訓示
九月三日―島貫参謀、片山支隊へ来て積極行動への転換を伝達
九月四日―片山支隊長→宮崎連隊長、六日夜に997高地への攻撃、歩30連隊へ885高地の攻撃を指示
(九月六日)―関東軍(辻起案)→第六軍、大命による攻勢作戦の中止を命令
九月六日―午後、第六軍→片山支隊長、夜襲の中止を指示
(九月七日)―関東軍司令官(辻起案)→第六軍司令官、万一に応ずる作戦準備の継続と軽挙を戒め、士気の維持を強調。
九月七日―午前、第六軍参謀(島貫か?)が片山支隊へ来て、歩30は中止し、歩16だけが七日夜に夜襲を決行せよと連絡。

 宮崎連隊長が「軍の無方針なることに痛嘆を感じた(45)」のはむりもないが、それなりの理由はあったわけだ。
 ところで夜襲の目標となった997高地を守備していたのは狙撃603連隊、モ騎兵23連隊の二〇〇~三〇〇人だったが、夜襲戦術を得意としていた宮崎連隊の第一大隊は暗夜の白兵戦で難なく奪取した。
 そして翌八日朝から西方へ追撃に移ったが戦車、装甲車を伴うソ蒙軍に反撃され、激烈な攻防戦となる。戦車を持たぬ宮崎連隊は苦戦に陥ったが、支隊から歩30連隊や砲兵などの増援部隊が到着したこともあり、日没を迎えてソ蒙軍は後退した。
 ソ蒙側の言い分は少しちがう。参戦したのは第6戦車旅団の戦車大隊(コブツェフ大尉、五〇両)、狙603連隊(ザイユリエフ少佐)の一部、狙撃80連隊、砲兵隊、モンゴル第8騎兵師団の装甲車隊、騎兵二個中隊と第六国境警備隊で、「日本軍を国境外に追い払った(46)」と言い分はちがうが、実態は引き分け、物別れに近かったのではあるまいか。
 宮崎連隊は戦果を戦車八両、遺棄死体七〇人と報告したが、戦死一九〇人、戦傷九八人という犠牲を払い、とくに大隊長をふくむ十一人の将校を失ったことは、第六軍司令部に衝撃を与えた。それでも宮崎が石工出身の兵に進出線を示す道標を埋めこんでおいたため、のちに国境画定交渉で日本側の主張が通る一因となり、「ノモンハン戦で唯一不敗の連隊長」という宮崎の名声は確立した観がある。
 次にとりあげる深野大隊の戦闘も、やはり関東軍と第六軍が大命騒動のドサクサにまぎれて仕掛けたものだが、宮崎連隊の攻勢に比べると胸を張れる言い訳の材料がないでもなかった。攻勢作戦の中止を命じた九月三日の大陸命三四九号の第二項後半に「兵力をハルハ河右岸地区けい争地域(「ハンダガヤ」付近以東を除く)外に適宜離隔位置せしむべし」というカッコ内の例外規定が入っており、その例外を援用できたからである。
 その頃、ハルハ河上流に近いハロン・アルシャンからハンダガヤを経てハイラル(または将軍廟)に至る鉄道の延長工事が計画され、測量工事が始まっていた。それを護衛する名目で索倫にいた第三独立守備隊(宮沢斉四郎少将)の深野大隊(独守歩第16大隊)へ出動命令が出たのは八月十八日である。
 八月下旬からは南まわりの増援部隊が次々に到着、アルシャンから将軍廟に至る補給線を確保する任務をもらった後藤支隊(歩兵第1連隊等、支隊長は後藤光蔵大佐)、独立守備歩兵第15(坂本弥平中佐)、16大隊(深野時之助中佐)等が、アルシャン西北方のハルハ河三角地帯へ展開した。
 ソ蒙軍との小競り合いは九月三日頃から断続していたが、七日頃に辻参謀が後藤支隊を訪れたのが目撃されている。それ以上は確認できないが、九月十一日、深野大隊(兵力四〇〇)と独守歩15大隊の黒崎中隊はハルハ山に進攻、吹雪のなかの白兵戦ののち奪取に成功する。
 前日から守備についたばかりのモンゴル騎兵第八師団22連隊(兵力六〇〇)は潰乱状態となり、兵員二二名、砲四門、数十頭の軍馬を捨てネメルゲン河の対岸へ逃げ帰り、責任を問われたバダルチ連隊長は処刑された。日本軍の戦死者は九名にすぎず、ノモンハン戦全体を通じ珍しい快勝と言えよう。ジューコフ司令部は、モンゴル軍の要望を容れ奪還計画の準備を進めたが十五日に停戦となり、その機会を失った。
 国境画定にさいし、満州国とモンゴルの国境は停戦時における両軍の停止位置で決まったため、モンゴルは南部のエルス山とマナ山の周辺で北部の係争地(ホルステン川周辺)とほぼ同じ面積(約五〇〇平方㎞)を失なう。
 モンゴルは現在でも「固有の領土がわが国の外側(注:中国)に取り残された(47)」不満をかこっているという。

(略)

***

(略)

(37) 九月六日陸軍大臣発関東軍司令官宛(前掲「関東軍機密作戦日誌」一四六ページ)
(38) 同右、一四七ページ
(39) 大本営が関東軍へ第五、第十四師団、野重二個連隊、速射砲九個中隊(五四門)、兵站自動車二十五中隊などの増援を内示したのは八月二十九日で、逐次大陸命で発令された。第十四師団(在華北)の満州派遣が発令されたのは九月五日(大陸令三五五号)である。
(40) 前掲畑勇三郎日誌、九月二日の項。
(41) 小松原日記の九月五日の項から引用した。なおこの軍司令官訓示はソ蒙軍が九月八日、977高地をめぐる戦闘で片山支隊の戦死者から入手して東京裁判に提出され、判決文にも引用された。速記録の日本訳は「ネズミ退治」、英訳はrat stirring となっている。
(42) 前掲『関東軍〈1〉』の西原未定稿、二三〇一ページ
(43) 本郷健「ノモンハン回想記」(『ノモンハン』6号、一九七一)。
(44) 九月六日第六軍司令官発関東軍参謀長宛(前掲「関東軍機密作戦日誌」)一四七ページ。
(45) 『歩兵第十六連隊歴史』に添付された宮崎繁三郎「ノモンハンに於ける歩十六連隊の戦闘」。なお同一の宮崎手記が「歩兵第16連隊奮戦す」(『丸』123号、一九五八)。宮崎連隊の展開と戦闘については歩16の「ノモンハン九〇四高地付近戦闘詳報」(靖国偕行文庫蔵)、秦郁彦「明暗のノモンハン戦秘史(下)―宮崎連隊と深野大隊の勇戦」(『昭和史の謎を追う』第十章)を参照。
(46) ソ蒙側から見たエルス山の戦闘についてはプレブドルジ中将「九月戦闘についての問題」(前掲『ノモンハン・ハルハ河戦争』、原書房、一九九二)を参照。なお、この戦闘の日付について9月8~9日説(宮崎回想記、戦史叢書)と7~8日説(第二師団行動詳報)の両説が混在しているが、戦死者公報の日付から後者が正しいと判定する。
(47) 前掲プレブドルジ論文、バダルチの処刑についてはS.Sandag, Poisoned Arrows (Westview,2000) p.p.116-117を参照、ハルハ山の攻防戦については前掲秦、第十章を参照。

(略)

秦 郁彦『明と暗のノモンハン戦史』の二百五十一~二百五十七ページおよび二百八十九~二百九十一ページを引用

*補足(藤本)
 以上、秦 郁彦『明と暗のノモンハン戦史』から、片山支隊に関する記述を引用した。なお、本文中に(略)とある箇所は、藤本が一部を省略して引用したあとである。原本に(略)と記されているわけではない。また、傍点をHTMLで再現することができなかったため、本文中の傍点部を省略している。


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