宮崎繁三郎中将に関するメモ


■『昭和の名将と愚将』(半藤一利、保阪正康。文芸春秋)の誤記

 本書の百二十九〜百三十ページに、宮崎繁三郎中将について、以下のような記述がある。

保阪 私は、宮崎という軍人に人間的な興味を持ったきっかけが、半藤さんがお書きになったその猿の話なんです。それで、宮崎について調べはじめたのですが、あまり史料の類が出てこない。
半藤 この人を最初に取り上げたのは伊藤正徳さんで、『帝国陸軍の最後』という本でしたが、昭和史の流れの中では、何か大きな存在であったわけではないので、あまり出てこない。その次に「人物太平洋戦争」で私がとりあげたんです。

 半藤一利が言うには、宮崎繁三郎中将を最初に取り上げた本は『帝国陸軍の最後』(文芸春秋)で、次に『人物太平洋戦争』(文芸春秋)であるという。しかし、この主張は正しくない。それらの本が出版される前に、潮書房の軍事雑誌『丸』が宮崎中将を取り上げているからだ。私が知る限り、宮崎中将を取り上げた戦後の本は、この『丸』が一番古い。
 刊行順に記すと以下のとおり。


***

『丸』(昭和三十一年十二月臨時増刊。潮書房) 「インパール、アラカン作戦秘話」宮崎繁三郎

『丸』(昭和三十三年一月号。潮書房) 「歩兵第16連隊奮戦す」宮崎繁三郎

『丸』(昭和三十三年二月号。潮書房) 「学友小松君の友情」宮崎繁三郎

『帝国陸軍の最後 死闘篇』(昭和三十五年八月。文芸春秋)

『丸』(昭和三十六年一月号。潮書房) 「ベンガルの虎 第五十四師団」宮崎繁三郎

『人物太平洋戦争』(昭和三十六年十二月。文芸春秋)

***

 ちなみに、この半藤の間違いは、『経済往来』(昭和五十六年四月号。経済往来社)に載った、秦 郁彦の記事(「宮崎繁三郎――不敗の名将」)を妄信し、それを自分の意見として引用したことから生じているように思われる。同記事の中で、秦も半藤と同じ主張をしているのだ。
 よく言われることではあるのだが、
「調べ物はできる限り、自分ですること。引用や孫引きは避けた方がよい」
 ということを再認識させられた。秦 郁彦や半藤一利のような本職の書き手であっても、ときに信じられないような誤りを犯す。
 基本、信用できるのは自分だけ、というスタンスが、本職や素人を問わず、求められている。


引用文献
ウェブサイト「知識の殿堂」「キジバトのさえずり」(平成二十五年十月九日分の日記) *一部原文訂正



■無敗の名将

 大東亜戦争期の将軍の中で、陸軍最高の野戦指揮官は誰だ、と問われたら、専門家であろうが、ミリタリーファンであろうが、宮崎繁三郎中将、と答えるはずだ。しかし、悲しいかな、海軍でいうならば山本五十六元帥並の将星だというのに、はるかに知名度が劣る。
 多分、戦局に与える影響力の差、すなわち、立ち位置の差がそういう結果を生じさせているのだろう。
 確かに、山本元帥が社長級なら、宮崎中将は課長級に例えられる。しかし、社長級であろうが、課長級であろうが、人物評価は、その人のポジションではなく、その人の能力についてなされるべきだ。影響力の差なんて、関係ない。
 さて、最近は、そんな気持ちに駆られて、宮崎中将に関する資料を集めて、ひたすらそれらを読み込む日々を過ごしていた。その中で、宮崎中将について、的確に述べている文章を見つけた。『プレジデント』(プレジデント社)の昭和六十年十月号に載っている、「「強将」宮崎繁三郎と「インパール」」(笠原和夫)だ。一部を以下に引用しよう(百十八〜百十九ページ)

 こうして戦歴を眺めてみると、奇略縦横で敵を寄せつけない常勝将軍とはとても思えない。どの戦いも本当に勝利したのかどうかさえ疑わしい。ただ、宮崎は一度も負けなかったのである。それは最後のギリギリまで〈諦める〉ことをしなかったためで、敵が根負けして陣地を放擲せざるをえなくなるからであった。
 日露戦争中、日本海海戦に臨んで連合艦隊司令長官東郷平八郎は各戦隊の司令官を集め、
「砲撃戦になると戦況は見きわめ難くなり、自軍が敗勢に立たされていると思い込みがちだが、五分の戦いに見えたら七分で味方が勝っているときである。迷わず突撃せよ」
 と諭した。宮崎は、その五分五分と見える戦況をじっと耐え続けて、七分の勝利に持ち込む戦い方をしてきた。
 その強靱な粘りは、単に闘志の権化と呼ぶだけでは捉え切れない。一種の哲学的な境地さえ窺える。

 国立国会図書館で資料をあさっている際にこの記述を見つけたとき、私は膝を打って、
「そのとおりだ」
 と、つぶやいた。
 以前から、ノモンハンやビルマでの宮崎中将を評して、常勝将軍などと持ち上げる一部の風潮に違和感を覚えていた。しかし、この笠原和夫が書いた雑誌記事を読んでからは、その胸のつかえが取れた。ようやっと、宮崎中将に対する適切な評価を見定めることができたからだ。
 常に勝つ将軍なのではなく、常に負けない将軍。
 宮崎繁三郎中将は「敗れない名将」であったのだ。決して、常勝将軍などではない。


引用文献
ウェブサイト「知識の殿堂」「キジバトのさえずり」(平成二十五年十二月十七日分の日記) *一部原文訂正



■防衛研究所が所蔵している宮崎繁三郎中将に関する資料

満洲-全般-55
対北方情報機関回想録 昭30.1
陸軍中将 宮崎繁三郎

満洲-全般-56
対北方情報機関回想録 昭30.1
陸軍中将 宮崎繁三郎

満洲-全般-90
対北方情報機関回想録 −宮崎繁三郎中将回想録− 昭30.1
陸軍中将 宮崎繁三郎

満洲-全般-91
対北方情報機関回想録 −宮崎繁三郎中将回想録− 昭30.1
陸軍中将 宮崎繁三郎

満洲-全般-158
対北方情報機関回想録
元陸軍中将 宮崎繁三郎

満洲-全般-221
宮崎繁三郎研究録 昭和5.7.1

満洲-全般-222
宮崎繁三郎講話案 (歩31の新開嶺附近の戦闘)

南西-ビルマ-215
第54師団ビルマ作戦に関する回想手記 宮崎繁三郎中将の英軍将校との問答
第54.34師団 宮崎繁三郎

南西-ビルマ-572
インパール作戦 座談会 (牟田口廉也.宮崎繁三郎.戸川幸夫)
文芸春秋

南西-ビルマ-573
インパール作戦談話 (宮崎繁三郎.牟田口廉也.三国直福)
文芸春秋

南西-ビルマ-689
宮崎繁三郎中将回想 (2)(3)

南西-ビルマ-690
宮崎繁三郎中将回想 (4)

南西-ビルマ-698
吾が輩はチビ公である
陸軍中将 宮崎繁三郎

文庫-依託-33
イムパール作戦 第54師団戦闘回想録 昭和18.10〜19.5.7
第31旅団第54師団 陸軍中将 宮崎繁三郎


引用文献
ウェブサイト「知識の殿堂」「キジバトのさえずり」(平成二十五年十二月十九日分の日記) *一部原文訂正



■宮崎繁三郎中将の臨終の言葉

 豊田 穣『名将宮崎繁三郎 不敗、最前線指揮官の生涯』(光人社)のラスト(二百五十一ページ)に、以下のような記述がある。

 昭和四十年八月三十日、元陸軍中将・宮崎繁三郎は、東京御茶の水の東京医科歯科大学付属病院で、腎臓病悪化のため七十三歳で世を去った。
 元五十四師団参謀・村田中佐は、その臨終にまにあった。宮崎は、もう昏睡状態に近くうわごとのように言っていた。
「参謀、敵中突破で、分離した部隊をまちがいなく掌握したか?」
 これが名将の最後の言葉である。彼は死の間際まで、部下のことを思い、それが天成の名将の胸の中を現わしていた。
 これこそ名将の条件でなくしてなんであろうか。

 豊田によれば、「参謀、敵中突破で、分離した部隊をまちがいなく掌握したか?」が宮崎中将の最後の言葉であり、第五十四師団参謀の村田 稔中佐(戦後、陸上自衛隊の陸将)が臨終に間に合って、それを聞いたとのことである。しかし、当の村田参謀中佐が執筆している「第五十四師団長宮崎中将の統率」(『日本軍の研究 指揮官』の上巻に収録。今井武夫、寺崎隆治他執筆。原書房)の文中には、このように書いてある(二百三十六〜二百三十七ページ)

 私は、昭和二十年四月に第二十八軍参謀から第五十四師団参謀に補せられ、じ後終戦まで作戦主任参謀として側近に奉仕し、終戦後は昭和四十年八月三十日他界されるまで、お近づきを許されたのである。亡くなられる直前の八月ごろの病床では、病にうなされてしばしば「敵中突破にあたり分離した小部隊を間違いなく掌握したか」と尋ねられることがあり、また、看護の奥様の話によれば、絶えずビルマのことを口にされたと言う。御臨終の数時間前の全く意識を失われた中で、涙ぐんでしっかりと私の手を握られたが、その時は既に霊魂は遠く戦場に斃れた部下と共にあったのではなかろうか。

 村田参謀中佐によれば、宮崎中将の病床でのうわごとは、「敵中突破にあたり分離した小部隊を間違いなく掌握したか」である。しかし、豊田は、「参謀、敵中突破で、分離した部隊をまちがいなく掌握したか?」と記していて、文言に若干の相違が見られる。
 ここは、当事者である村田参謀中佐の言を尊重するのが適切であろう。
 以後、宮崎中将の病床でのうわごとは、「敵中突破にあたり分離した小部隊を間違いなく掌握したか」に統一するのが望ましい。
 ちなみに、なぜ、私がこのようなことを述べるのかといえば、宮崎中将のことを取り上げている各書によって、病床でのうわごとが微妙に異なっているからだ。
 以下にまとめてみよう。

「敵中突破で分離した部隊を間ちがいなく掌握したか」

『経済往来』(昭和五十六年四月号。経済往来社)の秦 郁彦「宮崎繁三郎――不敗の名将」より(二百四十九ページ)

***

「敵中突破でバラバラになった部隊は、間違いなく掌握したか」

土門周平『最後の帝国軍人』(文庫版。講談社)の「おわりに」より(二百五十四ページ)

***

「敵中突破にあたり分離した小隊を間違いなく掌握したか」

『プレジデント』(昭和六十年十二月号。プレジデント社)の笠原和夫「「強将」宮崎繁三郎と「インパール」」より(百二十一ページ)

***

「参謀、敵中突破でチリヂリになった部隊を全員掌握したか」

『捜査研究』(昭和六十二年七月号。東京法令出版)の斎藤之幸「小柄なやんちゃ坊主・宮崎繁三郎中将」より(二十ページ)

 少々の差異とはいえ、できる限り、正確を期したい。
 ちなみに、豊田は、宮崎中将が発した、以上のうわごとを「最後の言葉」であるとしているが、村田参謀中佐の手記を読んで分かるとおり、一概には「最後の言葉」であるとは断定できない。うわごとで何度も、そのような言葉を発していた、ということが読み取れるだけだ。
 豊田の『名将宮崎繁三郎 不敗、最前線指揮官の生涯』は、あくまで伝記小説なので、随所に事実とは言い難い記述が見受けられる。
 宮崎中将の印象的なうわごとを「最後の言葉」とした方が、小説として劇的に表現することができるので、作者の豊田がそう記しているにすぎないのではないか。
 司馬遼太郎の歴史小説『坂の上の雲』を読むときのような注意深さが読者には求められる。
 事実と小説は異なるのである。
 豊田の『名将宮崎繁三郎 不敗、最前線指揮官の生涯』を読む際には、一言一句、真実が記されていると思ってはならない。


引用文献
ウェブサイト「知識の殿堂」「キジバトのさえずり」(平成二十五年十二月二十六日分の日記) *一部原文訂正



■宮崎繁三郎中将の考え方

「転勤の通知があったとき、困難な状況のところから楽なところには、遅く行け。楽なところから困難なところには早く行け」というのが、宮崎の考え方であった。

『名将宮崎繁三郎 不敗、最前線指揮官の生涯』(豊田 穣。光人社)の二百二十二ページより


引用文献
ウェブサイト「知識の殿堂」「キジバトのさえずり」(平成二十六年一月十四日分の日記) *一部原文訂正



■宮崎繁三郎中将の命令違反疑惑

 石坂准尉と私は、ノモンハン事件における歩兵第十六連隊の夜襲(昭和十四年九月八日決行)を、中央の命令を無視した関東軍の独断としてとらえるばかりでなく、宮崎中将が犯した命令違反であると疑っている。そして、そのとおり、『石坂准尉の八年戦争』に書いてしまったのが災いした。
 ウィキペディアの「宮崎繁三郎」の項(http://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=648130)に以下のように書いてある(平成二十六年一月二十一日参照)

 陸軍大佐歩兵第16連隊長として参戦したノモンハン事件では、同事件唯一の勝利戦指揮官とも言われている。また停戦協定後には、機転を利かせて、駐留していた地域に日付と部隊名を彫った石を埋めさせ、そこは日本軍が占領していた地域であるという揺るぎない証拠を示す事で、国境線画定に大いに役立ったと言われている。これにはソ連側も驚嘆したと言う。ただし、この行為は命令に背くものであり、16連隊はソ連軍の戦車部隊の攻撃を受けて大きな損害を受けた。

 最後の方に書いてある「この行為は命令に背くものであり」という一文は、明らかに私のウェブサイトが主張していることをうのみにして書かれている。
 申し訳ない、心から謝罪する。
 石坂准尉と私は、「陸軍の中央に断りなく、宮崎中将が独断で夜襲を決行したのではないか」と疑っているだけのことであって、確固とした事実に基づいて批判しているわけではない。よって、「命令に背くものであり」とはっきり書かれてしまうのは本意ではない。もちろん、軍全体の視点に立ってみれば、ノモンハン事件における歩兵第十六連隊の夜襲決行は、陸軍中央に対する関東軍の命令違反であるととらえることはできる。しかし、宮崎中将個人の独断かといえば、宮崎中将は第六軍の命令に従っただけであると述べているので、はっきりとその責任を問えるものではない(雑誌『丸』(潮書房)の昭和三十三年一月号。「歩兵第十六連隊奮戦す」参照)
 どうも、そこら辺の微妙なところを、私がうまく文章をつづることができなかったために、ちまたに誤解を生じさせてしまったようである。

*平成三十一年一月二十二日、ウィキペディアの文章が修正されているのを確認(解決)

***

 インターネットを検索すると、以下のようなブログ(勉強になる秀逸な記事)があって、石坂准尉および私発の「宮崎繁三郎命令違反問題」がクローズアップされてもいる。

「宮崎連隊はノモンハンで勝ったか」
http://yamanekobunko.blog52.fc2.com/blog-entry-139.html

「続・宮崎連隊はノモンハンで勝ったか」
http://yamanekobunko.blog52.fc2.com/blog-entry-140.html

「続々・宮崎連隊はノモンハンで勝ったか」
http://yamanekobunko.blog52.fc2.com/blog-entry-141.html

 申し訳ない。
 もう一回、謝っておくが、あくまで「疑惑」なのである。はっきりと宮崎中将が命令違反を犯したとする事実はないので、大東亜戦争期の名将とうたわれている宮崎中将を安易に批判するのはやめた方がいい。


関係文書

「十六連隊の奮戦」
http://fujimotoyasuhisa.sakura.ne.jp/isizaka/kaigachou/e41.htm

「ノモンハンの戦い」
http://fujimotoyasuhisa.sakura.ne.jp/isizaka/honbun/st12.htm


引用文献
ウェブサイト「知識の殿堂」「キジバトのさえずり」(平成二十六年一月二十一日分の日記) *一部原文訂正



■ノモンハンの標石

歩兵第十六連隊がノモンハンの戦場に埋めた標石

*補足(藤本)
 「2599.9.8占據 日本軍片山部隊 9.16誌之」と石に彫ってある。
 「2599」は皇紀を表しているので、昭和十四年を指す。
 「據」は「拠」の異体字。
 「片山部隊」は、歩兵第三十連隊と歩兵第十六連隊の二個連隊を基幹とする片山支隊(片山混成旅団)のこと。
 「誌之」は漢文的な表現で、之(これ)を誌(しる)す、と読む。
 つまり、「昭和十四年九月八日占拠 日本軍片山支隊 九月十六日これを記す」という意味のことが石から読み取れる。


*補足二(藤本)
 満州第一七七部隊将校集会所『支那事変史』に、以下のような記述がある(満州第一七七部隊は歩兵第三十連隊のこと)

 この日第一線部隊たる第二、第三大隊は、軍の指示により現在占領しある地点に標石を埋没した。即ち第二大隊は石山高地頂上に、第三大隊は九七〇高地の頂上やゝ前方に「日本軍占領」と刻した標石を埋没し、皇軍奮戦の跡を永久に国境深くきざみ付けた。

『支那事変史』の二百五十七ページから引用

 昭和十四年九月十六日、歩兵第三十連隊と歩兵第十六連隊は、ノモンハンの戦場に標石を埋めている。しかし、宮崎繁三郎中将が本件について述べている、雑誌『丸』の記事(昭和三十三年一月号。「歩兵第十六連隊奮戦す」)の影響によって、標石埋没の発案者は宮崎中将であるかのように語られることが多い。同記事に、歩兵第十六連隊とともに歩兵第三十連隊も標石を埋めていたことが記されていなかったために、文脈上、宮崎中将が標石埋没の発案者である、というように読まれてしまっているからだ。
 正確を期して述べるならば、標石埋没の発案者は、今に至るもはっきりしていない。そして、前述の『支那事変史』に書いてあるとおり、軍の指示により片山支隊が標石を埋めた、ということが分かっているだけだ。つまり、支隊レベルで評価するならば、標石埋没の手柄は、歩兵第十五旅団の片山省太郎少将のものとしてもよいのである(現に石には「片山部隊」と彫刻されている)。連隊レベルで考えてはじめて、歩兵第三十連隊の柏 徳大佐および歩兵第十六連隊の宮崎繁三郎大佐の手柄になる。いや、『支那事変史』に記されている「軍の指示により」という一語を重んずるのであれば、上級部隊である、第六軍の荻洲立兵中将や第二師団の安井藤治中将の手柄としてもおかしくはない。いずれにせよ、宮崎中将一人の功績である、とは言い切れないことを指摘しておきたい。
 なお、上掲の標石の写真は、歩兵第十六連隊の関係者が持っていたものなので、歩兵第三十連隊が埋めた標石を撮影したものではない。しかし、そうは言っても、全く同じ文言か、ほぼ同じような文言であったことは想像に難くない。

引用文献
ウェブサイト「知識の殿堂」「石坂准尉の八年戦争」「ノモンハンの戦い」



■『寡黙の人 ―父・宮崎繁三郎のこと―』(増沢道子。甲陽書房)の読書メモ

 宮崎繁三郎中将は、明治二十四年の大みそかから明治二十五年の元日に生まれている。しかし、年末年始は役所が休みで、明けて四日に届け出が出されたため、明治二十五年一月四日が宮崎中将の生年月日になった。

***

 一般的に宮崎中将の名字は「宮崎」で通っているが、古い戸籍や軍籍では「宮嵜」で登録されている。戦後、宮崎中将が平易な「宮崎」を使うようになってから「宮嵜」の表記が廃れたのだという。


引用文献
ウェブサイト「知識の殿堂」「キジバトのさえずり」(平成二十六年三月六日分の日記) *一部原文訂正



■部下思いの宮崎繁三郎中将

 土門周平『最後の帝国軍人』(講談社)という本に以下のような記述がある(百三十五ページ。文庫版)

「宮崎支隊命令として、厳重に以下のことの実行を要求する。一、後退途中、まだ息のある行き倒れの兵にあったら、必ずこれを救うこと。二、既に死亡している者に対しては、部隊名と姓名を控えたのち、道路から見えない所に死体を運ぶか、または深く埋めること。以上。よいか。餓死した屍体を敵に写真に撮られて、宣伝材料に使われないよう。日本軍の退却は、このように立派だということを、敵に教えることも大切だが、もう一つ、戦友は絶対に捨てない、という考え方を確立することが、一番大切なのだ。軍隊として一番大切なことであるので、いま命令した二項目は、わが部隊がたとえ、それを実行することによって全滅してもよい。絶対に厳守して実行してほしい」
 低い声だが、宮崎の真意は十分、各部隊に伝達された。異常ともいえる宮崎の決意が、誰の胸にも伝わっていったのである。

 補給を軽視したことによって、餓死者多数を出したことで知られているインパール作戦(昭和十九年)。この無謀な戦いにおいて、宮崎繁三郎中将は、部隊が撤退するに当たって、以上のような命令を出している。
 端的にまとめれば、
「仲間の兵隊を絶対に見捨てるな」
 との意である。
 宮崎中将を名将たらしめる理由の一つとして、この崇高な部下思いの考え方がよく挙げられる。
 しかし、宮崎中将とて、はなから、それほどまでに部下のことを思っていたわけではない。
 少なくとも、昭和十四年のノモンハン事件においては、
「わが部隊がたとえ、それを実行することによって全滅してもよい」
 とまでは考えていなかった。
 『国際学術シンポジウム全記録 1991年東京 ノモンハン・ハルハ河戦争』(ノモンハン・ハルハ河戦争 国際学術シンポジウム実行委員会。原書房)という本に、牛島康允が書いた以下のような文章が載っている(九十二ページ)

(略)「歩兵第一六連隊(連隊長宮崎繁三郎大佐)が、たちまちにして優勢な外蒙騎兵を撃破し、この方面の戦略態勢は急速に我に有利となった」(『関東軍』(1)の七二七ページ)との評価とか、宮崎連隊を「不敗の連隊」などという評価は客観性を欠くことが明らかである。
 九月八、九日の戦闘における宮崎連隊の損耗は戦死一八八人、戦傷九九人にのぼり、第二師団の全損耗三〇四人の大部分を占めている。のみならず、戦死と戦傷の比率で、戦死数がはなはだしく高いことは、戦傷者を戦場に放置して退却したことを証明する以外の何ものでもない。
 戦う必要のない戦いを戦い、このような大きな損害を出したゆえにこそ、宮崎はノモンハンの戦闘について語ることを拒み、この敗戦の教訓あればこそ、ビルマ戦において名をなすことができたのである。
 では、何が失敗であったかといえば、山縣連隊、酒井連隊などの戦訓の無視である。暗夜時間の短いこの地域における夜襲は、暗夜のあいだ夜襲し、ただちに発起線に退避しないと、夜明けとともに砲撃と戦車の集中攻撃を受けて、撃破されるという戦訓を無視したため、夜襲の成功後の措置に適正を欠いたことにほかならない。夜襲を訓練し、夜襲なら必ず勝つという思い上がりこそ、他連隊の経験を学ぼうともせずに、闇雲に突き進んだ新着部隊の浅薄な失敗であった。   (牛島康允)

 牛島が述べるとおり、宮崎中将は、ノモンハン事件において、戦場に戦傷者を置き去りにして撤退している。そして、大きな被害を出したがゆえに、宮崎中将はノモンハンの戦闘について語ることを拒み、この敗戦の教訓あればこそ、ビルマ戦において名をなしている。
 ここら辺の事情については、長谷川栄作『生と死の極限に生きて 十五年戦争最前線に新発田歩兵第十六連隊と共に』(新潟日報事業社)という本に宮崎中将の胸中をうかがわせる一文が載っている(百五〜百六ページ)

 ノモンハン事変は命令とはいいながら、このような惨敗をし、多くの戦死者を出した宮崎連隊長の胸中がどんなものであったか察せられるものがある。後年ビルマのコヒマ攻略後の撤退作戦で見事な掩護部隊を指揮されたとき、絶対に将兵を無駄死をさせてはならないと誓って名将の名で讃えられたが、脳裡には既にこの作戦があったことと思う。終戦後十六連隊原駐地、新発田市のしまや料亭で御一緒したとき、それらのことに言及されていた。

 ノモンハンで、愛する部下を置き去りにしなければならない苦渋を味わった宮崎中将は、後年のインパール作戦において、二度と同じようなことを繰り返したくない、と思い、尋常でないほどの仁愛精神を発揮して戦うことになる。
 宮崎中将について思いをはせるとき、
「ノモンハンあってのインパール」
 という点を理解していないと、彼の人間性に迫ることはできない。
 しまや料亭に集まった十六連隊出身の部下たちを前に、渋い表情で、宮崎中将が思い出話を語る姿が思い浮かぶ。
 ノモンハンで部下を置き去りにしたことを悔やみつつ、後年のインパールでは、絶対に部下を見捨てることはなかった、などと、部下たちと語らう宮崎中将……。
 大東亜戦争期の偉大な野戦指揮官である宮崎中将は、失敗を糧にして大きく成長した軍人であった。


引用文献
ウェブサイト「知識の殿堂」「キジバトのさえずり」(平成二十六年七月十日分の日記) *一部原文訂正

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