大同を無血占領


大同占領
鉄橋の応急修理~その一
(於 北支大同)



石坂准尉の覚書(大同の無血占拠)
『駐満記念 鮫城部隊』 満州国牡丹江省穆稜 柏部隊将校集会所 (石坂准尉の書き込みより)

「大同攻略」

 鎮辺の敵を撃退したわが軍は、山西省第二の都市大同攻略へ。部隊は休む間もなく前進した。打ち続く不眠不休の戦闘と糧秣欠乏のため、疲労は極度に達した。誰も言葉を交わすことなく、山また山を黙々と歩き続けた。
 深夜、陽高に着いた部隊に二食分の食糧が配られた。久々に米のご飯にありついた。
 行軍はなおも続き、九月十三日を迎えた。この日は快晴、丘のかなたに巨大な城壁に囲まれた町が見えた。
 「大同だ、大同だ」
 疲れを忘れて小躍りする兵の歓声が上がった。この辺はスイカの産地なのか、畑にはたくさんのスイカがあって、腹を空かした兵を喜ばせた。
 十三時、部隊は一斉に大同に入城した。敵はすでに城内を去っていたので無血占領となった。
 入城を祝って大福餅が配られた。おいしい、実においしい。また翌日には、出動以来約一ヶ月ぶりとなる風呂に入った。一個の大福餅とはいえ、入浴とはいえ、そのおいしさ、ありがたさは生涯の思い出となった。
 わが軍によって破壊された鉄橋の復旧作業と発電所警備は二十六日まで続いた。この日、部隊は新戦場に出動した。



「大福餅」

石坂 「大同といえば山西省第二の都市だ。で、当然激戦が予想されたんだけど、敵さんはどうしたことかあっけなく退却し、わが軍は無傷で大同を占領した」

藤本 「恐れをなして遁走したんでしょうか」

石坂 「さあ、どうだろうね。蒋介石がわが軍を支那奥地へと誘導して、泥沼の消耗戦に引きずり込んでいった歴史を知っているよね。似たような作戦だと、考えられなくもない」

明夫 「おやじの記録に『大同は無人だった』って記述があるじゃない。軍人も住民も怖くなって逃げちゃったんだよ」

石坂 「とにかく、よく分からないけど、こうして俺たちは大同を占領した。それでね、大同占拠を祝って大福餅が配られたんだ。これがうまいのなんのって(笑)。たかが大福一個なんて思うだろうけど、飲まず食わずの昼夜を徹した行軍の後では、とんでもないごちそうだった」

明夫 「おやじの戦争談にはたびたび食い物が出てくるけど、そんなに飢えていたんだ、兵隊時代」

石坂 「そうだよ(強い口調)。今みたいに好きな物が食べられなかったんだから。いつも頭の中は食い物のことでいっぱいさ。あんパン、ようかんなどのお菓子はなかなか口にする機会がなかった」

明夫 「現代は本当に恵まれているよね」



鉄橋の応急修理~その二
(於 北支大同)
鉄橋の応急修理~その三
(於 北支大同)
鉄橋の応急修理~その四
(於 北支大同)



石坂准尉の覚書(夜間の鉄橋警備)
『駐満記念 鮫城部隊』 満州国牡丹江省穆稜 柏部隊将校集会所 (石坂准尉の書き込みより)

「友軍の爆撃によって破壊された鉄橋」

 わが片桐分隊十五名は夜間警備に一回任ずる。対岸まで一往復すると、有に一時間かかった。
 復旧工事は歩兵・工兵共同で毎日千人が動員された。一ヶ月後、土嚢の積み上げ作業終了、完成する。



「鉄橋警備」

藤本 「石坂一等兵が所属する片桐分隊は、大同駐留中、鉄橋の警備をしていますよね」

石坂 「うん。歩・工兵共同の大工事があってね、毎日千人を動員して応急修理したんだ。復旧後、俺たちの分隊が見回りをしたってわけ。だけど、この橋ってのがばかでかくてさ、端から端まで往復するのに一時間以上もかかった」

藤本 「それはすごい、いろんな意味で(支那にそんな立派な鉄橋があったんだ)」

石坂 「そうだ、一つつけ加えておこう。あんたに貸した本の中では支那側が鉄橋を破壊したように書いてあったはずだけど、本当はわが軍が吹っ飛ばしたんだ」

藤本 「あっ、そうなんですか。確かに写真のキャプションには支那が破壊したとありましたけど、日本軍がやったんですね。しかし、妙ですね、何で鉄橋を破壊した事実を隠そうとしたんですか」

石坂 「いや、違う。深読みし過ぎ。単にキャプションが間違ってしまっただけだと思うよ。そりゃそうだろ、ドンパチやっていれば、橋はおろかいろいろな物が壊されるのは当たり前なんだからさ。橋の一本や二本壊したのを隠蔽してどうするんだ。支那の住民に申し訳が立たないってか。そんなことないだろ、わが日本軍はそんなせこい軍隊じゃない。むしろそういう手口こそ、支那軍の常套手段といえる。
 ちょうどよい機会だから、あんたに教えてやるけど、さまざまな戦争関係の本が当時も今も出版されているよね。だけど、たとえ一次史料であっても簡単に信じてはいけないよ。あんたも気づいているでしょ、俺の話と貸した本(『支那事変史』など)の内容が食い違っている部分があることを。やっぱりさ、本を書く人間なんてのは役人が天職であるかのような『頭のよい』連中なの。舌先三寸ならぬ筆先三寸でどうにでもなるんだ」

藤本 「おっしゃるとおりです」

石坂 「でしょ、だから注意してほしい。当時を知る俺の話をよく聞いておいてね。もちろん、俺自身が語る話もどうしようもない偏見や勘違いで間違っていることがあると思うけど、やはり直接見てきた人間の証言は重要だよね」



『大阪毎日新聞』(昭和十二年九月十九日号外)

山西の要衝・大同に入城
中村本社特派員(十五・六日撮影)十九日朝大連福岡間空輸 (福岡より電送)


 
 
 
 

【写真説明】
①支那軍が爆破した大同城外御河橋を修理するわが部隊(御河橋は大同の東方近郊に架る平綏線の鉄橋、御河は豊鎮の北方より流れ大同の東二、三支里のところを南下し氷定河の二大支流たる桑乾河に合してゐる)
②わが空軍の爆撃を受けた大同駅構内の大穴
③爆破された大同城内三星閣全景
④駒居隊が大同駅で鹵獲した支那軍の装甲列車

『人』(昭和十二年九月二十三日号)

北門の要衝
山西の大同占領
長城戦に兵を進めて僅か二旬
察哈爾省内敵影なし

 わが○○部隊が長城線に兵を進めて僅か二旬、この間東は平綏線下花園より西は聚楽堡に至る五十余里の戦線を疾風迅雷の如く進撃して各地の敵軍を撃破し、いまだ世界戦史に見ざる進軍記録を残して西進、わが軍の先陣騎兵隊は十三日午前九時五十分遂に山西省の最要地大同東門に進出した。続いて○○隊も東門に達し一斉射撃を開始するや大同城内の敵は脆くも白旗を掲げて降服、こゝにわが軍は大同を完全に占領した。

 大同は山西省第二の都会で人口約六万、雁門道の中心地であり、北平から綏遠に通ずる平綏鉄道上の要衝に当り大同炭の産地として有名である。古来、大同は山西省の北門ともいふべき所で遠く満州から河北、察哈爾、綏遠地方に対する北方発展の基地をなし鉄道、自動車道もこゝに集まり交通上の要点である。従つてこれを占拠されることは山西省にとつては北門の咽喉を扼されたも同然で、外省との連絡を断たれ政治、軍事、経済交通上被る打撃は極めて甚大である。

 一方、南口、居庸関付近の山地戦において敗退せし敵は広霊(懐来西南方約四十里)付近において集結中の所わが○○隊はこの敵を撃滅する目的を以て悪路を冒し進撃中広霊の敵は十三日午前十時過ぎ遂に西方及び南方に壊走しわが○○部隊はこれを占拠、察哈爾省内には敵影を認めざるに至つた。

大同の市街中心地

大同の町並み
城壁

 
  豊鎮の戦闘に参加した第一大隊



『支那事変史』
満州第一七七部隊将校集会所

第四節 大同入城 自九月十一日至九月二十七日

大同へ

 十一日の九時頃友軍機が飛んで来て軍命令を投下して行った。

一、聚楽堡付近ノ敵ハ強ナラス軍ノ戦闘ハ有利ニ進展セルモノト認ム
二、軍ハ機ヲ失セス三十里堡南北ノ線ニ進出ヲ企図ス
三、猪鹿倉部隊ハ鎮宏堡ニ大隊長ノ指揮セル三中隊ヲ残置同地ヲ固守セシメ、部隊ハ速カニ陽高ニ向ヒ前進スヘシ
四、陽高ニ於テ戦闘司令所(停車場)ニ連絡スヘシ

軍司令官 植田大将


 これによって部隊主力は陽高に向かう事になり、支隊長は先に所要の指揮機関とともに陽高戦闘司令所に先行、部隊は十四時大営子に急遽集結を続行、間もなく副官伊従少佐の引率を以て陽高に向かって猛進をはじめた。
 猪鹿倉支隊長は十五時三十分陽高戦闘司令所に到着、鎮辺付近の戦闘状況を報告するとともに、更に篠原兵団への追及を命ぜられた。
 部隊主力は打ち続く不眠不休の戦闘に加えて糧秣は欠乏をきたしていたし疲労はその極に達していた。
 山また山、黙々として続けられる行軍はやがて夜となった。星もまばらな暗夜の中を、南陽河の水に秋を感じつつ幾度かこれを渡渉して、ようやく陽高に入城したのはすでに二十三時を過ぎていた。ここでただちに二食分の米が配給され、一同はしばしのまどろみをたのしんだが、夢も半ばの十二日三時三十分支隊長以下部隊将兵は列車輸送で聚楽堡に向かい、夜も白々とあけそめる六時四十分聚楽堡に着いた。さっそく駅前において二食分の炊事が行われた。
 七時すぎ支隊長はなおも所要の機関を率いて北孔家庄にある兵団本部に先行、部隊は残置荷物の監視として吉崎技術准尉以下五名を残し、植田少佐指揮のもとに正午支隊長の後を追った。
 なまじ列車などに乗ってたるんだせいか身体の節々が馬鹿に痛い。
 十七時四十分猪鹿倉支隊は北孔家庄において兵団長の指揮下に入り、ここに支隊としての任務を解かれた。
 兵団が同地に宿営するにあたり、我が部隊はやや後方の水月庄部落に露営する事になったが、部落付近には収穫を前に控えたじゃが芋、枝豆等がふんだんにあった。これこそ天の恵みとばかりわれわれはとかくとだえがちな糧秣の代用とした。
 夜更けてから珍しくも小気味よい音を立ててにわか雨がやって来た。
 十三日 晴
 昨夜の雨もからりと霽れて青空が高い。
 二十日振りの埃を払った秋景色は見るからに爽々しく、渡る風の冷たさに思わず身が締まる。まさに絶好の戦闘日和である。七時、部隊は三府庄を経て圏頭付近の敵状地形を偵察すべく前進した。
 前衛  植田少佐の率いる○兵一中隊―機関銃中隊(二小隊欠)―大隊砲小隊
 本隊  本部―植田部隊の二中隊―機関銃二小隊―連隊砲中隊―菅井隊
 十時、三府庄に到着。
 この頃、後藤部隊は三府庄西北方高地を萃雲瞼方面に移動しているのが見受けられた。
 部隊は更に前進して十三時、圏頭に着いたが、同時に目指す大同府はすでに十時三十分陥落して、我が軍は騎兵隊を先頭に目下続々入城中なる旨の通報を受けた。
 あまりにも呆気ない入城振りに将兵は若干物足りぬ感を抱きながらも、目的を達し得た喜びに勇躍前進、萃雲瞼を経て十五時大同府の北端に達した。

警備

 ここで第七中隊の宮田小隊及び機関銃一小隊は鎮家庄西方二里の鞍部付近警戒のために出発、爾余の部隊は大同駅北側停車場付近に宿営の準備を行った。
 本部は平綏線鉄道管理局(部内小学校)に入った。
 当時の信ずべき情報によれば、我が軍当面の敵主力は広霊付近より渾源南方高地を経て繁峙、代県の各北側高地に亘る線、いわゆる恒山山系一帯に陣地を占領している模様だった。
 一方大同北方戦線においては平地泉方面の敵はその後活発な動きを見せず、東南方に作戦中の板垣兵団は十二日南村北方蔚県付近に進出して広霊付近の敵を攻撃中だった。
 兵団はかかる情勢下において西北方及び西方の警戒を行うと共にもっぱら作戦用諸資材の整備を行い、常に出動出来るよう万般の準備をした。
 十四日 晴
 七時、川島准尉以下六名は聚楽堡にある残置荷物のため出発、自動車輸送を以て十七時帰還した。
 部隊は爾後におけるこれら残置荷物の搬送と、必要な馬匹車両等を徴発して大行李を編成した。

 馬匹 三十七(牛一)
 苦力 二十九名

 十五日 晴
 引き続き作戦資材の収集に努む。給養は主として携帯糧秣をあてたがなお不足の分は現地で調弁する事になった。
 しかしながら敵の策源地たりし大同だ。戦前の予想を裏切って簡単に陥落してしまったものの陰にどんな謀略がひそんでいるかはかり知れない。ことに便衣隊の毒物混入には細心の注意を払わなければならなかった。
 十六日 晴
 十一時過ぎ西方より敵機一機が約二千の高度を保ちつつ飛来したが、何等なす術もなく倉皇として南方に消えて行った。
 澄み透った秋空に浮かんだこの戸惑い者の姿は滑稽なまで侘びしかった。
 去る十一日以来鎮宏堡にあって軍背後の援護に任じていた第一大隊(一中隊欠)は千田部隊長の指揮に入り豊鎮攻撃のため出発した。
 十三時三十分、第七中隊の宮田小隊は鎮家庄付近の警備を第五中隊の加藤小隊と交代して無事帰還した。
 十七日 晴
 十三時、千田部隊は早くも豊鎮を占領したとの報に接する。
 十八時、明十八日を期して尚希庄に前進すべき兵団命令に基づいて各部隊は鋭意出発準備をなし瞬時にして完了したが、二十三時に至って我が部隊のみは軍の直轄となり大同府の警備を命ぜられた。
 十八日 晴
 六時、いよいよ篠原兵団主力は尚希庄に向かい出発、よって部隊本部は旧宿舎小学校より城内の兵団跡に移転した。
 十五時三十分、去月二十八日に承徳を出発以来鋭意部隊主力の後を追った松浦曹長の指揮する大行李が到着した。疲労にもめげず一同の士気はますます旺盛である。
 自衛力なき部隊を以て長途の険難悪路を踏破し文字通り不眠不休の強行軍を続ける事二十三日に及ぶその労苦は、まさに戦闘部隊の勇士に優るとも劣らぬものだった。
 十六時、部隊は軍の予備隊たる本多兵団の指揮下に入り北防衛地区司令官伊藤大佐のもとに警備を厳にして特に対空監視に主点を置いた。
 十九日 晴
 いよいよ本日より普通郵便の取り扱いが開始された。
 八月十八日○○○兵が下令されて以来の無沙汰をして来た故郷に我ながら予期せざりし今日の健在と、新たなる覚悟とを思い思いにしたためて送った。
 六時三十分、第一大隊大行李到着。
 八時、部隊と共にあった菅野隊は豊鎮の第一大隊に復帰すべく出発して十一時到着。
 十三時二十分、聚楽堡に残置せる荷物運搬のため安田准尉以下三十名は馬車三十二両を用意して出発した。
 本多兵団の情報によれば、篠原兵団主力は尚希庄に在って爾後の作戦を準備中であり、我が飛行隊は今十九日七時三十分より九時までの間に代県上空において敵機五機を撃墜し、また太原においても二機を撃破した。
 二十日 晴
 八時三十分、林大尉の指揮する百四十名は工兵の鉄道復旧作業を援助するため、大同東側鉄橋に赴いた。
 十一時三十分、豊鎮を警備中の第一大隊より大行李、駄馬等の急送を依頼して来たので鉄道隊と交渉の結果、明二十一日十時に輸送する事になった。
 十一時五十分、聚楽堡に出張中の安田准尉は半数の兵十五名を率いて帰還。
 二十一日 晴
 八時、聚楽堡に残置せる荷物輸送のため、田歌曹長以下十五名出発。
 十時、第一大隊大行李は立石曹長の指揮下に列車輸送によって豊鎮に向かった。
 二十二日 晴
 前日に引き続いて、平綏線鉄道修理のために第二大隊より中隊長以下百名を差し遣わす。十三時、田歌曹長聚楽堡より帰還。同時に去る十二日残置荷物の監視として聚楽堡に残った吉崎准尉以下三名も帰還し、かくて再三に亘る搬送により残置物件の全部を大同に収容し得た。
 二十三日 晴
 北支山西の新戦場に迎える秋季皇霊祭の日である。
 八時三十分、部隊は各隊ごとに東方遥かなるかたを遥拝して
大御祖宗の御霊に敬虔なる祈りを捧げ
聖寿の万歳を寿ぎ奉る。
 将士の感慨これに過ぎたるものなく、ただただ一死以て聖戦貫徹の赤誠を誓った。
 この日遂に連日の努力は報いられ、平綏線鉄橋の修理完成し午後より列車の開通を見たが、諸情勢を総合すると我が防衛地区に潜入した便衣隊は鉄道橋の破壊を企図しているようだったから、部隊は各担任区域の警備をますます厳にすると共に十七時、下士官兵以下一個分隊の警備隊を鉄道橋付近に派遣して万全の警戒を行い、部隊との間に電話を架設して増水等の危急に備えた。
 二十四日 晴
 一時、軍予備隊たる本多兵団が南進するにあたり、北防衛地区司令官伊藤大佐は新たに軍予備隊長となり、我が猪鹿倉部隊長は大同府防衛地区司令官を命ぜられた。
 八時、畏くも
皇太后陛下 より御下賜の真綿が頒与された。将兵は今更ながら鴻恩の深きに感泣した。十三時、部隊は城内にある前任の湯浅部隊跡に移転を終わった。始めて見る大同は古都に相応しい落ち着いた感じの街であった。住民の顔にはいずれも戦渦を免れ得た安堵の色がうかがわれ、軒々に掲げた日の丸の下で子供の群が無心に戯れている。平和な姿である。
 十七時、軍予備隊命令によって部隊は大同飛行場を警備する事になり○兵一小隊を派遣して前任部隊と交代せしめた。

「本日の四囲の状況」
一、軍当面ノ敵情ハ大ナル変化ナシ
一、千田部隊ハ豊鎮ヨリ北上シテ平地泉付近ノ敵ヲ攻撃中
一、板垣兵団ハ今早朝ヨリ主力ヲ以テ霊邱西方約二十粁ノ長城線ヲ攻略シテ一挙ニ滹沱河畔ノ大営鎮ヘノ進出ヲ企テ、其ノ戦闘司令所ハ昨二十三日以降霊邱ニ在リ

 よって軍は一部を以て板垣兵団の作戦に協同すべく今早朝隷下の十川支隊をして渾源付近より南下せしめて大営鎮西北方地区に進出させ、爾今大泉支隊をその指揮下に属せしめた。
 二十五日 晴
 二時、左記要旨の軍命令が下る。

一、軍ハ板垣兵団ニ協同ノタメ本二十五日主力ヲ応県、下社村付近ニ集結セントス
伊藤部隊ハ篠原兵団ノ桑乾河渡河援助ノタメ応県付近ニ向ヒ前進スヘシ
二、猪鹿倉大佐ハ本二十五日六時以降軍予備隊長タル任務ヲ伊藤大佐ヨリ継承スヘシ


 風雲はいよいよ急を告げる。友軍は陸続と恒山山系目指して南下した。
 板垣兵団は遂に本二十五日十一時、山系を突破して大営鎮を占領、滹沱河谷を代県方面に追撃せんとする態勢にあった。
 二十六日 晴
 庭野少尉以下二十四名の第一次補充員来たり部隊の士気ますます高ぶる。
 二十時、千田部隊に属して豊鎮に平地泉に輝く戦果をあげた第一大隊は無事大同に帰還した。
 二十三時、部隊は明二十七日篠原兵団主力に追及すべきを命ぜられた。
 待った日が遂に来た。
 将兵の夢は早くも応県平原を席巻して恒山山系一帯を呑みこんでいた。

賞詞に栄えゆ

 山西戦線において早くも偉勲を樹てた我が部隊を主力とする篠原兵団は、九月二十三日関東軍司令官植田大将より次の如き賞詞を受けた。

 賞詞

 篠原支隊(○兵第二○隊欠)
 大泉支隊
 戦車第四大隊軽装甲車中隊
 独立○○兵第十一○隊
 独立○○兵第十二○隊(第一中隊欠)
 ○兵第二○隊第一中隊
 独立○兵第十一中隊一小隊

 右各部隊ハ篠原支隊長陸軍少将篠原誠一郎ノ指揮下ニ在リテ篠原兵団トナリ九月三日以降軍ノ右第一線兵団トシテ天鎮東北方高地ノ攻撃ニ参加シ七日払暁敵陣地ヲ突破スルヤ鎮宏堡ニ向ヒ敵ヲ急追スヘキ命ヲ受ケ昼夜兼行猛烈果敢ナル追撃ヲ敢行シ八日敵ニ先ンシテ一部ヲ以テ陽高停車場ヲ主力ヲ以テ鎮宏堡ヲ占領シテ敵ノ退路ヲ遮断シ其主力ヲシテ南方ニ退却スルノ已ムナキニ至ラシメタリ軍ハ同日夕敵ノ主力聚楽堡付近ノ既設陣地ニ拠リ抵抗ヲ企図セルヲ偵知スルヤ全般ノ状況ニ鑑ミ速ニ該陣地ヲ突破シテ大同ヲ攻略スルニ決シ篠原兵団ニ命スル主力ヲ以テ聚楽堡方面ニ転進シ同地北方高地ノ敵陣地ヲ突破シ速ニ大同付近ニ進出スヘキヲ以テス当時兵団ハ長途ノ急追撃ニ依リ困憊甚シキモノアリシニモ拘ラス敢然起チテ夜間強行軍ヲ為シ十日南沙嶺ニ進出シ十一日払暁ヨリ聚楽堡付近敵陣地ノ鎖鑰タル同地北方高地ニ対シ攻撃ヲ開始シ数時間ニシテ之ヲ突破シ一挙ニ大同東北方高地ニ進出セリ
 以上旬日ニ亘ル兵団ノ果敢ナル行動ハ敵ヲシテ聚楽堡付近ノ陣地ヨリ総退却ヲ余儀ナカラシメタルノミナラス北部山西省ノ要衝タル大同放棄ヲ決意スルニ至ラシメ軍ノ企図セル作戦目的達成ニ寄與セルトコロ甚大ナルモノアルヲ認ム仍テ茲ニ賞詞ヲ與フ

 昭和十二年九月二十三日

 関東軍司令官陸軍大将 正三位勲一等功三級 植田 謙吉



付図第五
 
豊鎮付近戦闘経過鳥瞰図 昭和十二年自九月十六日至九月十七日



第五節 豊鎮付近の戦闘 自九月十三日至九月十七日 (付図第五参照)

第一大隊の行動

 部隊本部と離れて鎮宏堡及び二十六村付近を固守し軍背後の援護に任じつつあった第一大隊(板倉大隊)は、十六日十時三十分、軍無電により
「鎮宏堡守備隊は千田部隊の前進に伴い逐次西方に地歩を進めて豊鎮に対する攻撃を準備せよ」という要旨の命令をうけた。
 これと共に協同部隊として○○第二○隊第二中隊の一分隊、独立○砲第十二○隊の一中隊、独立○○兵第十一中隊から自動車十両などが配属されて来た。
 第一大隊はここに軍の直轄となり、大同警備の部隊主力と離れて千田部隊長の指揮下に入った。同大隊は尖兵たる第三中隊を先頭に十六日十四時、二十六村西端を出発、馬〓(王+乞)達窊西方高地付近の敵情捜索のため十三時、配属自動車二両に分乗して先行した。
 本隊は秋の陽の斜めに洩れる山道を進み、大隊砲その他の車両部隊は本道上を分進して行った。千田部隊はたしかに得勝堡に向かって前進しているはずである。だが無線はおろか何の連絡機関もない。つるべおとしの秋の日が沈みはててもこれとの連絡がつかなかった。時間は遠慮なく経過して行く。そのうちに西北方の黄昏を破って殷々たる砲声が轟きわたった。敵か味方かわからないいらだたしさに進むうち二十一時ようやく馬〓(王+乞)達窊に到着した。部隊はここで村落露営に決し、それぞれ警備部署について、頑敵を前にしてしばし綿の如く疲れた身体を横たえた。千田部隊との連絡はこの時になっても依然としてつかず、敵情もまた不明だった。第三中隊古木中尉以下六名の将校斥候は、敵情捜索ならびに千田部隊との連絡のため出されて行った。
 部隊は明けて十七日、まだあけやらぬ黎明の露を踏み、一路豊鎮に向かった。時に四時半。砲声はしばし聞こえしばし途絶える。それにひかれたように、部隊の速度はますます加わって行く。やがて楡樹溝を過ぎた。続いて豊鎮西南方四キロの地点に差しかかった。と見る間にはやての如く駆け付けて来た伝騎一、待ちに待った千田部隊の連絡だった。連日のたゆみなき努力は遂に報いられ連絡はようやくとれた。
 この連絡により敵陣地は概して豊鎮城東西高地を連ねる半永久的の堡塁である事も判明した。
 相当手ごたえあるものとは予期していたところである。将兵の心はしきりに逸ったが、正確な敵情を知って大隊長は沈思一番、遂に奇襲作戦を敢行する事に決心した。すなわちその正面を避けて黄土溝より道を北に取り、敵主陣地の左側背すなわち東北方高地に出でて一挙敵を殲滅し去ろうというのである。
 当時千田部隊主力は得勝堡北方に進出して敵陣地に猛攻撃を開始していた。朝来我々の耳たぶをうった砲声はその猛攻の雄叫びに他ならなかった。

凱歌はあがる

 七時五十分我々は左方遥かに敵陣地の線を俯瞰し、うす紫にけぶる朝露に己が姿をとかしこみ、沈着にしかも確実に、まったく彼等の予期しない左側背に進出した。手ぐすね引いて今か今かと時の至るを待つ厳粛なしじま。八時、大隊命令は遂に下った。

一、望楼付近ノ敵ハ掩蓋機関銃座ヲ有シ又陣地ノ右翼後ニハ迫撃砲陣地アリ
一、大隊ハ左ニ重点ヲ指向シ当面ノ敵陣地ヲ突破シ敵ノ退路ヲ遮断セントス
一、右ヨリ第一(一小隊欠)、第三中隊第一線、機関銃中隊ハ右翼ヨリ主トシテ第三中隊ニ協同、大隊砲ハ現在地ヨリ主トシテ望楼付近ノ敵機関銃ヲ撲滅スヘシ
一、第一中隊ノ一小隊ハ予備隊、右翼後方前進


 安江大尉の率いる第一中隊、服部大尉の率いる第三中隊の第一線は猛烈な攻撃の火蓋を切った。予期もしない背後の高地から、いきなり弾雨の洗礼を浴びた敵は、あわてて盛んに陣地を立て直して反撃に出たが、もう遅かった。かくと見るや第一線は果敢なる突撃にうつって行く。敵はもろくも浮き足立つ。折も折、我が大隊砲、機関銃は得たりとばかり正確無比な猛射をこれに浴びせかける。かなわじと腰を浮かせるを見てとった第一線は、それっとばかりに阿修羅のように敵陣地へ突入する。続いて一挙堅固な第二線陣地の掩蓋を突破しようとするが、敵もさるもの、窮鼠の勇をふるって側防機関銃がわめいた。
 小癪なとばかり高橋中隊長の指揮する機関銃中隊は放胆独力を以て敵前僅々二百メートルの距離に近迫し、右翼前面のトーチカに熱火の必中弾を浴びせる。第一線各隊また巧みに地形を利して一寸、また一寸と、敵にじりじりにじり寄って行く。敵正面にあった千田部隊も我に呼応して猛攻を続けた。この腹背よりする猛攻には敵は全面的に圧倒されはじめて、もはや戦意を喪失したかに見えた。あたかもその時、突然我が右翼後方より迫る敵騎約二〇〇。真っ黒い一塊となって小賢しくも逆襲して来た。あらかじめかかる事もやあると右翼後方に予備隊たりし五十嵐准尉の掌握する第一中隊第三小隊は、少しもあわてずこれを五〇〇メートルまで近づけて置いて、いきなり機関銃の一部と一緒にこれを叩きつけてしまった。
 十一時三十分、遂に彼等が鉄壁とたのむ第二線陣地を占領した。敵は文字通り蜘蛛の子を散らすように算を乱して遠く西方に壊走する。大隊はこれを殲滅すべくただちに怒濤の勢いを以て急追に移った。
 正午頃、豊鎮方向より千田部隊に追われたか、河川に沿うた山脚を続々と退却して来る敵七八百名ばかりを側方高地上から発見した我は、よき獲物ござんなれとばかり、手ぐすねひいて待ちかまえる。それとはつゆ知らぬ敵は五百、四百、三百メートルと段々と眼下に近づいて来る。それッと機関銃の全力をあげてつるべ撃ちに撃ちまくる。慌てふためいた敵兵は進退まったく谷まる。高橋隊長以下の機関銃隊は、うち物とっては面倒とばかり、拳銃、短剣をふるってこれに突入、獅子奮迅の働きを示し、大部分の敵はあえなくここで潰れてしまった。あれほど自信を以て撃った必中の弾丸だ。さぞかしと期待して行った現場には、予期に反して死体が少なかった。変だと思って上がって行くと、稜線にかくれた敵兵がたくさんいた。ほとんどが生きていたのだ。おどろいた我々は恐怖におののく彼等八十名を捕虜とした。
 残敵を西北に追撃して至る所にこれを捕捉剿滅した大隊は、反転息つくひまもなく豊鎮に入城した。事前の調査によってみると、この部落住民は一般に抗日侮日の思想に固まっている。それだけに掃討は徹底的に行った。次いで我がために潰え去った陣地の修築、爾後の行動準備等すべてに万全を期して豊鎮の警戒にあたることになった。時に昭和十二年九月十七日十三時三十分。
 強い秋陽に照らされた勇士の赤ら顔は、いずれも緊張の後に見られる一種のゆとりがあらわれていた。
 交戦した大隊当面の敵は捕虜の調査の進むに従い、義勇軍第一団の第二十三大隊で団長は馬豊成である事が判明した。
 彼等は抗日思想にこり固まっている部落住民を利用して堅固な陣地を築き、また相当な戦力を有していたものの如くではあったが、我が部隊の側背攻撃によって、まったく退路を遮断されたのが、その致命傷となり、かつは我が重火器部隊が勇猛果敢に肉薄攻撃を行った事によって空しく潰え去ったのだ。
 山のなぞえに美しく建てられた廟は、無心に丹青を誇っていた。
 素っぱだかにされた捕虜達は後手をくくられて一むれまた一むれと夕靄に消えて行った。



「豊鎮付近戦闘第一大隊職員表」

第一大隊

 大隊長──板倉 堉雄 少佐
 副官──高橋 準二 中尉
 書記──加藤 義勝 曹長
 書記──和田 登美雄 軍曹
 書記──石原 綱夫 軍曹
 主計──山下 正行 大尉
 主計──細目 幸治 曹長
 軍医──君 健男 中尉
 軍医──菊島 広 中尉
 衛生──岩田 寅松 伍長

第一中隊

 中隊長──安江 寿雄 大尉
 指揮班──塚田 正二 軍曹
 指揮班──竹内 一夫 伍長
 一小隊長──折笠 政雄 少尉
 二小隊長──鴨下 政平 准尉
 三小隊長──五十嵐 源助 准尉

第三中隊

 中隊長──服部 征夫 大尉
 指揮班──金田 志知 曹長
 指揮班──渡辺 弘 伍長
 一小隊長──古木 秀策 中尉
 二小隊長──清水 清治 准尉
 三小隊長──岩本 末吉 曹長

機関銃中隊

 中隊長──高橋 石松 大尉
 指揮班──木戸 高信 曹長
 指揮班──沢海 武雄 軍曹
 一小隊長──見波 隆示 少尉
 二小隊長──阿部 平八郎 准尉
 三小隊長──鈴木 祐司 准尉
 四小隊長──宮川 久司 准尉

大隊砲小隊

 小隊長──羽柴 正一 中尉
 指揮班──大平 桂左吉 曹長
 指揮班──木村 嘉衛 軍曹
 指揮班──工藤 勇 伍長

(備考)
 第二中隊ハ参加セズ



付図第六
 
平地泉付近戦闘経過鳥瞰図 昭和十二年自九月二十二日至九月二十五日



第六節 平地泉 自九月十八日至九月二十五日 (付図第六参照)

平地泉へ

 九月十七日豊鎮入城以来千田部隊の主力と共に付近一帯の確保と守備とに任じていた第一大隊は、翌十八日に至り大同にある兵団司令部の命により更に平地泉攻撃の準備にとりかかった。
 平地泉方面の敵は歩兵第六旅及び第九旅が主力となり、その西南側一帯に亘って騎兵を配し、その中「イ」陣地にはわずかながら山砲、迫撃砲を有し、その兵力約二千、なかなか侮り難い勢力を持するものと見られていた。
 我に協同する部隊には機械化部隊の酒井兵団の一部、堤支隊、それに友軍の爆撃機及び皇軍指導下に整々たる訓練を施された蒙古軍の一部があった。
 越えて十九日部隊主力と共に
軍旗 を捧じて大同にあった第二中隊を迎えて我等の士気いよいよ高ぶったが、協同部隊たる堤支隊の到着が意外に遅延したために進発し得ず、髀肉の嘆をかこちながら二十一日まで豊鎮にとどまった。
 二十一日、大隊大行李到着し、ここに承徳出発以来始めて完全な大隊編成を見た。
 その夜板作命第○○号の下命に接した。即ち、

一、平地泉、綏遠方面ノ敵兵力ハ絶大ナラズ且ツ大ナル積極的機動ヲ示シヲラス
一、酒井兵団ノ一部ハ殺虎口ヲ占領セリ
一、大隊ハ明二十二日第二次汽車輸送ニヨツテ蘇集ニ向ヒ前進セヨ


 というのである。この命令に基づき、十三時四十分鉄道によって豊鎮駅出発、同十八時蘇集に無事到着、ただちに夕食をしたため、しばし憩う間もなく千作命第○○号により大隊は二十二時二十分、平地泉北方約三キロのいわゆる十号地に集結、敵を目睫に控えて村落露営をする事になった。
 明けて九月二十三日草木も眠りさめやらぬ未明、十号地付近に陣地を占領していた友軍砲兵陣地から突如猛烈な砲撃が開始された。敵もすかさずただちに応戦して来る。彼我の砲声はようやく熾烈を加え、暁の山から山へ高く低くこだまし、鳥獣も慴伏して影を見せない。
 七時、千田支隊本部からは、

「板倉大隊ハナルヘク速カニ西廟ニ前進シ、同地東北方ノ敵情地形ヲ偵察セヨ」
「板倉大隊ハ第二次突撃部隊ノ右第一線トナリ、第三大隊(千田部隊)右後方地区ニ四時迄ニ攻撃準備ヲ完了セヨ。爾後突撃ニ際シテハ概ネ第三大隊ノ右翼後ヨリ敵陣内ニ突進シ外壕ニ沿フ地区ヲ後方ニ移動シ、主トシテ鉄道線路以東ノ地区ニ戦果ヲ拡大セヨ」


 との飛令が来た。すわとばかり急遽西廟に前進、同地東北方の敵情地形を偵察する事となり、九時十号地出発、新手の第二中隊を尖兵に、彼我砲声の殷々たる中をひたすら前進する。敵の砲弾は我が前後左右に炸裂する。馬鹿にならぬ正確さだ。友軍砲兵も逐次その射撃位置を変換しつつ、これに痛烈な制圧弾を送っている。
 十時西廟着。

「大隊ハ第二線右大隊トシテ先ツ揚樹窊東北方高地ニ向ヒ前進、第三中隊清水准尉ハ将校斥候トシテ揚樹窊東北方高地ヨリ、ト陣地ヲ偵察、蒙軍ト連絡セヨ」

 との命を矢継ぎ早に受ける。清水斥候はすでに第二中隊第一小隊長重原少尉の占領している揚樹窊東北方高地より敵情をつぶさに偵察、よく正鵠なる報告をもたらす。「ト」陣地の敵はこれに気付かぬものの如く工事に配兵に余念なく、陣地から陣地に慌ただしく移動しているのがよく見える。
 部隊は斥候に誘導されて歩一歩と敵に迫って行く。十三時三十分、揚樹窊東北方約一千メートルを離れた無名部落に差しかかった。俄然かねて我が進撃に備えて付近の鉄道線路上に待機していた敵装甲車我を発見、猛烈な砲火を浴びせた。ござんなれとばかりただちにこれを攻撃難なく壊滅。更に敵を求めて、十八時まで数時間進撃また進撃。この時あたかも千田支隊の命あり、即ち明払暁を期して一斉に開始される攻撃準備のため第二中隊重原小隊を陽前高地に配したまま、再び西廟に集結する事になった。

砲火

 平地泉前面の防御陣地は、左に「イ」陣地、右に「ト」陣地。「ト」陣地の奥、城壁に近く「ヘ」陣地があり、これらはいずれも深さ丈余の外濠に囲まれかつ特火点、交通壕等はすべてベトン製でしかもその四囲には無数の地雷が敷設されているという相当な代物である。我はかねてこの事あるを期し、外濠を渡河するため各隊とも長さ約五メートルの梯子さえも用意するなど万全の策を立てていた。
 西廟終結後も、付近の敵陣地から唸って来たる砲火は部隊の右に左に盛んに炸裂する。だが幸いに我に損害はほとんどない。そうこうするうちに黄昏が段々色濃くなって来る。昼間から空一面を重苦しく覆うていた雨雲は夕闇迫ると共にいよいよ低迷ますます殺気を帯びて来る。雨か!風か!凄壮の気が天地晦冥の中にひしひしと満ちて来る。おしつぶされるような暗黒の世界の中に時たま敵弾が狂ったように炸裂する。毒血のような生々しい色が一瞬グワンと目をくらませ消えて行く。一弾来たる。また一弾。闇がパッと開くとみるまにまた漆黒の闇が殴りつける。光りと闇の争闘がひしひしと将兵の胸に迫って来る。腹のどん底から異様な興奮が「糞ッ!糞ッ!」と無言に絶叫する。

夜雨を衝いて

 緊張の中に夜は不気味に更勝り、九月二十四日三時、部隊は暁とはいえ黒幕を降ろしたような闇を衝いて前進開始。三角山高地のあたりで千田支隊本部と左第一大隊と闇中の連絡を遂げた我等は攻撃準備の位置に更に前進した。すでにこの頃、千田支隊主力は平地泉に向かって猛攻を開始していた。
 西廟出発後、暗雲はいよいよ険悪を極め、やがて山渓を揺り動かして雷鳴が湧き立つと見るうちに、果然豪雨が狂ったように襲って来た。文字通り一寸先も弁じない。山を越え谷を渡って進撃する我等の健脚も、ともすれば大自然の暴威にさらわれそうになる。道は物凄い濁流と化し、気はあせれども意の如くならず、あるいは倒れあるいは流され行軍の困難は実に言語に絶す。砲声も雷鳴も一緒くたになって叩きつけて来る。光りと轟音のみの世界に我々は雄々しくも互いに励まし合い、第一線突撃部隊にぴったりと食いついたまま、泥濘と濁流を踏んでただひたむきに行軍を続ける。何も考えられない。ただ進むのだ。無言の団結がただひたむきに進撃するのだ。時間にすればわずか二時間の時が永遠のように長く一同の胸をかきむしった。
 五時三十分、さしも猛威を逞しうした豪雨もけろりと霽れ渡った。霧が一去すると視野が急に展けて来た。臍の穴までぬれた軍衣を乾かす暇もあらばこそ、豪雨にとって代わった敵砲火はますます熾烈かつ正確を極めて来た。一晩中雨に漬かっていた将兵一同は、誰の顔を見てもぶよぶよと白ちゃけて表情も何もない。置物のような面がないているのか笑うのかただ硬ばった顔の筋肉が歪んでいる。雨に洗われた青葉の反射か、皆一様に蒼い顔に目のみ鋭く烱々と光る。唇をギュッと噛みしめて一同はただ黙々と歩み続けている。
 敵陣地付近もはっきりと見えて来た。
 大隊は攻撃目標をまず左方「イ」陣地に指向した。大隊の左方から攻撃する千田部隊と連携しつつ第一中隊、第二中隊を第一線に、機関銃隊を両中隊の中央に位置し主として第一中隊に協同せしめ大隊砲を第二中隊後方に位置せしめ「イ」陣地攻撃に際して特に「ヘ」「ト」陣地の敵を制圧、第三中隊は予備隊として中央後方を前進する事となった。千田部隊は大隊の左方から包囲態勢をとりつつこれも主として「イ」陣地を攻撃する事になっていた。

攻撃開始

 攻撃開始の時が来た。友軍砲兵の攻撃準備射撃が開始された。耳を聾する一斉射撃だ。稜線に身をかくして待機していた我は、時こそ来たれと銃把をかたく握りしめる。敵弾は遠く近く我が前後を間断なく脅かす。
 安江大尉の率いる第一中隊は機関銃鈴木小隊を配属され、左第一線たる千田部隊第一大隊の右に連携して「イ」陣地に向かい攻撃前進を開始した。泥濘も物かわと、敵陣地にじりじりと近迫して行く。彼我の戦闘熾烈を極めるうちに遂に第二中隊との連係を失った。やや孤立に陥ったと見えたその時、千田部隊の第一次突撃が有利に展開された。それと察するや第一中隊は機を失せず敵陣地左翼に突入した。だが予期の通り外濠に阻まれてしまった。前進はすこぶる困難となる。しかも当面の敵は頑強に抵抗する。死傷者は相次いでおこる。だが闘魂はいささかも揺るぎはしなかった。あらかじめ用意の梯子を濠にさしかけたと見るや遂に成功、遮二無二突入して行った。さっそく濠内を占領した第一中隊は滑る城壁をものともせず突進して遂に五時五十分「イ」陣地を陥してしまった。これと見るや菅野中尉の率いる第二中隊は鋭鋒を右に転じて「ト」陣地に向かい、「ヘ」陣地からの敵側防火を浴びつつ勇猛果敢に突進する。機関銃は「ヘ」陣地に集中弾を叩きつけて友軍を援護すれば、予備隊たりし朝日小隊は敵のひるむ間隙に乗じて一挙に側防火点を奪取する。間髪をいれず重原小隊長は独断部下と共に「ト」陣地に突入してこれを占領する。頼む「イ」「ト」の両陣地を奪われて、こはかなわじと逃げまどう敗敵めがけて山上から拜み撃ちを浴びせれば、ひとたまりもなくバタバタと倒れてしまう。この間、大隊の予備隊として後方にあった第三中隊は服部大尉の命令一下阿修羅の如く「イ」陣地を蹂躙し、その退路を遮断して殲滅したと見るや、更に大きく右に回りこんで第一中隊に跟随、一挙に「ヘ」陣地に驀進した。ここに右より第二中隊、第一中隊、機関銃中隊、第三中隊の順序に、轡を並べて最後の堅陣に対峙した。
 だが敵もさるものなお頑強に抵抗してなかなか降らない。それどころか城内へは一歩も入れじの気勢を示した。この時、遥か南方から友軍爆撃機が数機銀翼を連ねてやって来た。天地をゆるがす爆音を聞いただけで怖じ気づいたか、敵は急に浮き足立って見えて来た。

占領

 七時三十分、ここぞとばかり、全線はあげて陣内攻撃に移る。
 死に物狂いの敵は半永久的トーチカにこもって必死の抵抗を続ける。我が死傷も相当出る。ことに第一中隊は高橋伍長の壮烈な戦死を初め戦傷実に十七を算するに至った。
 が、戦いの帰趨は自ずから明瞭である。朝来五時間にわたるぶっ続けの猛攻には、さすがの敵堅塁もなす術はなかった。十一時、我が重火器部隊の息もつがせぬ猛射に堪えかねてか、敵は次第に沈黙して来た。今ぞと打ち振る板倉大隊長の軍刀一閃。その光芒に吸われる如く一塊の火の玉と化した部隊全員は、喊声をあげて陣内に殺到、ここに壮烈極まる白兵戦となった。
 もとより白兵は我が得意中の得意とする所だ。たちまちにして当面の敵を粉砕し、余勢をかって城内に怒濤の如く殺到、またたく中に掃討を完了してしまった。この間にも友軍機は逃げまどう敗敵に対して猛烈な爆撃と掃射を繰り返し、徹底的にこれを捕捉殲滅する。
 かくて正午ひとまず戟を収めて駅前に集結、城内の警備にあたる事になった。
 城内住民は極めて愛想よく我等を歓迎し何くれとなく便宜を与えてくれた。
 豪雨に洗われた平地泉の街にはゆらゆらと陽炎が燃え、土塀に、屋根に、燦々とふりこぼれる秋の陽は連日連夜の激戦に疲れた将兵の目にいたかった。

復帰

 内蒙の要害たるしかも難攻不落と敵が誇った平地泉も確保して、綏遠作戦に太い線を一画した部隊は士気いよいよあがり、爾後の行動に備えて兵力を整備し、ひたすら後命を待つ事となったが、この日千田部隊は大同に集結を命ぜられた。大隊は二十六日十三時、思い出の平地泉を出発第一次汽車輸送により大同に向かう。
 秋晴れの陶山山脈の上には千切れ雲がゆったりと浮かび昨日までの悪戦苦闘の影一つ残していない忘れ果てたような悠久の大空であった。これが征旅の身にあらざればどんなにのんびりとした風景であった事だろう。疲れ切った兵隊はふと故郷の空を感じ、故郷の山の姿を瞼に浮かべた。だが列車のひと揺れに呼びもどされる現実はあまりにも生々しい苦闘の歴史である。安堵に似た落ち着きの中にはまだ沸々と湯気を立てている激情がのたうっていた。昨日まで共に笑い、共に泣き、共にたわむれて来た戦友の誰かれがすでにこの地上から消えて護国の英霊と化した厳粛な事実につきあたると、石を置かれたように押しだまってしまう。感情の試練にこうして幾度も幾度もぶつかっては我々の心に偉大な日本の性格が生まれてくる。そしてその度に不敵な魂がずっしりと重く鎮座して来る。沈鬱に見える兵のどの顔にも昨日に違う面魂がはっきり刻まれている。悲惨事をどうだと目の前につきつけられてもびくともしない顔である。この顔が、この目が、その顔で、その目で一様に暮れて行く蒼茫の野山を無心に逐っている。明日もあさってもそしていつまで続こうと、きっと戦い抜かんとする逞しい気迫が一人一人の汚れた戎衣に後光とさしていた。
 二十時、大同へ着いた。
 久しぶりで親元へ帰りその暖かいふところに抱かれては、越後訛りの土産話が花と咲きいつ尽きるともなく夜が更けて行った。



「平地泉付近戦闘第一大隊職員表」

第一大隊

 大隊長──板倉 堉雄 少佐
 副官──高橋 準二 中尉
 書記──加藤 義勝 曹長
 書記──和田 登美雄 軍曹
 書記──石原 綱夫 軍曹
 書記──花里 重春 軍曹
 主計──山下 正行 大尉
 主計──細目 幸治 曹長
 軍医──君 健男 中尉
 軍医──菊島 広 中尉
 衛生──岩田 寅松 伍長

第一中隊

 中隊長──安江 寿雄 大尉
 指揮班──塚田 正二 軍曹
 指揮班──竹内 一夫 伍長
 一小隊長──折笠 政雄 少尉
 二小隊長──鴨下 政平 准尉
 三小隊長──五十嵐 源助 准尉

第二中隊

 中隊長──菅野 定雄 中尉
 指揮班──松沢 己三 准尉
 指揮班──南田 多治郎 曹長
 指揮班──滝沢 正三 曹長
 一小隊──重原 慶司 少尉
 二小隊──朝日 長一 准尉
 三小隊──川島 育二郎 准尉

第三中隊

 中隊長──服部 征夫 大尉
 指揮班──金田 志知 曹長
 指揮班──渡辺 弘 伍長
 一小隊長──古木 秀策 中尉
 二小隊長──清水 清治 准尉
 三小隊長──岩本 末吉 曹長

機関銃中隊

 中隊長──高橋 石松 大尉
 指揮班──木戸 高信 曹長
 指揮班──沢海 武雄 軍曹
 指揮班(弾薬小隊長)──立石 誠治 曹長
 一小隊長──見波 隆示 少尉
 二小隊長──阿部 平八郎 准尉
 三小隊長──鈴木 祐司 准尉
 四小隊長──宮川 久司 准尉

大隊砲小隊

 小隊長──羽柴 正一 中尉
 指揮班──大平 桂左吉 曹長
 指揮班──木村 嘉衛 軍曹
 指揮班──工藤 勇 伍長

(備考)
 本表ノ外、星野光平伍長ハ小行李長トス

←前へ 次へ→



戻る