永嘉堡到着 天鎮の戦闘


承徳の全景

ラマ廟(在 承徳)



「北支出動」

石坂 「昭和十二年の八月に動員令が下り、俺たち三十連隊は北支に出動した。まず部隊はハルピンに集結してね、そこから汽車に乗って満州の承徳駅まで移動したんだ。
 その承徳駅がものすごくきれいでさ、まるでお城のような真新しい駅だった。乗り降りする客はまばらで辺りには一軒の民家もなかったけどね」

藤本 「承徳は熱河省の首都で、京都みたいな由緒正しい古都です。そこの玄関口である近代的な駅と対照的ですよね。人も少なくて場違いに立派な駅舎じゃ、なおさらそうです」



承徳駅
部隊本部



石坂准尉の覚書(北支出動)
『駐満記念 鮫城部隊』 満州国牡丹江省穆稜 柏部隊将校集会所 (石坂准尉の書き込みより)
 下士官候補者教育隊は解散、原隊に復帰を命ぜられ、石坂一等兵は第七中隊出身候補生六名を引率、山河屯駐在の第七中隊に復帰す。

北支出動経路(軍用列車)
浜江省山河屯(八月二十一日)――ハルピン――新京――四平街――鄭家屯――通遼――新立屯――義州――葉柏樹――承徳(八月二十五日)

***

 河北省に接する国境の町承徳。満州国西南の地にあり、満州鉄道の終着駅でもある。この承徳駅から町まで約二キロメートルの平坦地を部隊は行軍した。小高い丘の斜面に至ると承徳の町が美しく広がった。
 夕刻、町に入り、女学校に宿泊する。

 昭和十二年八月二十五日、満鉄終着駅承徳駅到着。
 承徳に二泊し、二十七日出発、内蒙古多倫へ。



内蒙大平原
休憩
承徳から山岳地帯を抜け、蒙古大平原に出る
昼は酷暑、夜は極寒
陸軍将兵を輸送する自動車隊



「空き缶」

石坂 「承徳から部隊は軍用トラックに乗り換え、一路多倫を目指したんだ。蒙古の大平原を全速力で移動し、数時間後、名もない部落を見つけて大休止した。
 その部落の家々は、地面に穴を掘って、ただ草を覆っただけのみすぼらしいものだったよ。
 ……ああ、そういえば面白いことがあったな」

明夫 「何、何」

石坂 「珍客に恐る恐る集まってきた未開の部族民を懐柔しようと思って、俺たちは缶詰を放ってやったんだけど、彼らは中身を全部捨てちゃうんだよ」

藤本 「何です、それ。もったいない」

石坂 「彼らにとっては缶の方が大事なんだ。まるで貴重品のように空き缶を扱ってね、大事そうにしていたよ(笑)」

明夫 「文化の違い……なのかな(笑)」



険しい山道を移動するトラック
承徳を出発
熱河省の山岳地帯を内蒙古多倫に向かって邁進する輸送部隊

蒙古軍政府の皇軍接待
蒙古包(パオ)



石坂准尉の覚書(万里の長城)
『駐満記念 鮫城部隊』 満州国牡丹江省穆稜 柏部隊将校集会所 (石坂准尉の書き込みより)
 多倫に着いたのは二十八日深夜。驚いたことにこんな辺鄙の地である蒙古に、国防婦人会の女性たちが茶の接待をしていた。
 翌朝、薄暗いうちに出発、張北を目指した。
 張北の町は日本軍各兵科の集結地であるため、とても慌ただしく、ごった返していた。
 万里の長城の起点張家口は、丈余の城壁が雄大だった。しかし、その城壁は激戦による弾痕生々しく、道側には支那兵の死体が折り重なって放置されていた。目を覆うばかりの惨状だった。
 万全駅は倒壊し、ここにも支那兵の死体が数十体遺棄されていた。どれも暑さで腐敗し、異臭が漂っていた。
 さらに戦線に急いだ。緑の平坦地が続く。はるか彼方の山頂には万里の長城が支那の古き歴史を象徴していた。



多倫を南下すること百キロメートル、張北の街にて大休止
城外は戦車集団
第七中隊 新立屯兵舎
一個小隊駐留



「死体」

藤本 「経験不足な地方人、おまけに戦後生まれの軟弱者なので、妙な質問に思われるでしょうが、万里の長城の起点である張家口で、はじめて敵兵の死体を見たんですよね」

石坂 「うん、そうだね。多分この辺りがはじめてだった」

藤本 「正直どうなんですかね、人間の死体を見てしまう気持ちは。
『うわっ、嫌なものを見ちまったな』
 とか思って、ご飯が食べられなくなったり、吐いてしまったりしましたか。
 私の知人が看護婦なんですが、その彼女が見習いのとき、ホルマリン漬けの死体の解剖に立ち会って、しばらく肉類を食べられなかったと言っていました」

石坂 「いや、そんなことはなかったよ。全然平気だった。そう教育されていたからね」

藤本 「驚きました。さすが石坂准尉は肝が据わった軍人だ。犬や猫の死骸を見た程度だったんですね」

石坂 「畜生の死体ってのは言い過ぎかもしれないけど、これくらいで飯が食えなくなってしまう兵隊じゃ戦場で使い物にならない」

明夫 「なんかおやじ、格好いいな(笑)」

藤本 「本当に俺もそう思うよ、明夫さん。淡々とした言葉の中に漢らしさの全てが詰まっているような印象を受ける。尊敬いたします(藤本、石坂准尉に平伏)」



石坂准尉の覚書(支那事変従軍)
『駐満時代 自昭和十二年 至昭和十九年』(石坂准尉の書き込みより)

「昭和十二年八月十八日、北支出動命令下る」

 下士官候補者教育隊解散、原隊第七中隊復帰。二十二日、山河屯兵営出発、鉄道輸送にて熱河省承徳へ。
 承徳から自動車輸送で蒙古大草原を通り、多倫─―張北─―張家口(万里の長城の起点)─―万全を経て、九月三日、最前線永嘉堡に到着。
 天鎮の戦闘を皮切りに、鎮辺の戦闘─―大同の戦闘─―鉄角嶺の戦闘─―原平鎮の戦闘─―南庄頭の戦闘─―太原の戦闘(山西省の首都。十一月九日に入城)
 戦闘任務終了し、同月二十七日、満州の原隊に帰還するため、太原出発。十二月三日、原駐地山河屯に凱旋。
 各戦闘における戦死者、第二大隊長植田少佐以下百名半。



永嘉堡駅
駅の裏側から敵陣に砲撃する野砲部隊



「砲兵の射撃」

石坂 「永嘉堡に着いて面食らったのは一軒も民家がないことなんだ。寂れているとかじゃなくて、ここの部落民はみんな山に横穴を掘って暮らしていたんだよ。それこそ家畜や食糧なんかも全部その穴に放り込んでね。穴蔵の民と言ったらいいのかな」

明夫 「中国は本当に広いよね。風変わりな人たちがいっぱい住んでいる」

石坂 「ところで、砲兵の射撃をはじめて見たのがこの永嘉堡なんだ。砲声がしきりにとどろいてさ、これにも面食らったよ。耳がおかしくなるくらいの爆音で、地獄に住んでいる得体の知れない巨獣が咆哮しているように感じられた」



石坂准尉の覚書(馬ふんのぬくもり)
『支那事変史』 満州第一七七部隊将校集会所 (石坂准尉の書き込みより)
 一夜は農家に宿泊、暖かくぐっすり眠る。しかし、朝起きてびっくり、寝たところは馬小屋で、ぽかぽかしたのは馬ふんのぬくもりだったのだ。

*補足(藤本)
 石坂准尉がこの珍事に出くわしたのは永嘉堡に進撃する途中だという。怒濤の出動でよほど疲れていたためか、馬小屋で寝てしまったことすら分からなかったようである。



一二三〇高地へ(山の至るところに岩塩あり)
総攻撃は早朝から薄暮に及ぶ
総攻撃へ
(機関銃の搬送)



「天鎮の戦闘」

藤本 「天鎮の戦いはいかがでした」

石坂 「簡単に言えば、敵兵がみんな退却しちゃったから、さして大きな戦闘にはならなかったね。わが軍の進撃を阻む脅威は全くなかったよ。まあせいぜい、永嘉堡付近の偵察行動で俺たち七中隊が少しやり合った程度かな」

明夫 「おやじは銃を撃ったの」

石坂 「俺が撃つ暇なんかない。あっという間に連中が逃げ去ってしまうんだから。戦闘記録なんかでは迫力満点に書いてあるけど、小さな遭遇戦にすぎないよ」



石坂准尉の覚書(天鎮の戦闘)
『駐満記念 鮫城部隊』 満州国牡丹江省穆稜 柏部隊将校集会所 (石坂准尉の書き込みより)
 九月六日九時、天鎮一二三〇高地の敵陣を総攻撃。同日二十時、同高地占領、敵は退却をはじめた。
 二十一時、逃走する敵を追撃するため、水桶寺方面に向かい怒濤の進撃を開始。ピューピューと敵の流れ弾が不気味に頭上を飛び交った。足下も分からぬ暗夜の追撃は、前人未踏の山険断崖地の隙間を縫う厳しいものだった。
 この日私は、極度の下痢に見舞われ、垂れ流しのふんが軍靴にたまってぐしゃぐしゃと不快な音を鳴らした。それでも隊列を離れて用足しすることはできなかった。暗闇の中、前を歩く兵隊の背中でさえおぼつかないというのに、ここに一人で放り出されてしまっては私の命が危うくなるからだ。
 翌七日、水桶寺部落に到達。

 天鎮の戦闘における戦死者
 連隊─―四名



「下痢」

石坂 「ここいら一帯の地形は断崖絶壁でね、追撃には手を焼いたよ。少しでも足を取られたら、底に真っ逆さま。この暗闇で一人の転落死も出さなかったのは幸運だったと思うよ。
 あと、覚えているのはそうだな……敵は地形を知っているからね、あちこちに隠れていて、逃げながら発砲してくるんだ。当たりはしないけどさ、真っ暗闇の中からぴゅんぴゅんと鼓膜を切る銃声というのは気味が悪いもんだよ」

藤本 「ちなみに、追撃というのは天鎮の戦闘から鎮辺の戦闘に移行する追撃ですよね」

石坂 「うん」

藤本 「石坂准尉の資料にある下痢の話というのもこのときですね」

石坂 「そうそう、泥水みたいなくそが下半身を伝わって軍靴に入ってさ、そのつらさは言葉に表せないくらいの苦痛だったよ。何に当たったのか知らないけど、ようやくわれに帰ったのは翌日のことだ。その日は空が青く澄んだ快晴でね、水桶寺の部落で汚れた体を拭いて着替えたんだ。予備の下着を背嚢から出してさ」



『支那事変史』
満州第一七七部隊将校集会所

第二節 北支めざして

雨中の輸送

 浜江に合した第一、第二大隊は部隊の第一次輸送部隊として先発の命を受け、板倉少佐輸送指揮官となって二十一日零時五十分降りしきる雨を冒して一路承徳に向かったが雨のため鉄道事故頻発し、計画を変更するの已むなきに至り鄭家屯─義県─承徳の経路をとり、途中しばしば大停車に逢いながらも二十四日三時三十分承徳に先着した。同地で板倉部隊本部は文廟小学校に、植田部隊本部及び各隊はそれぞれ城内に設営した。
 ついで二十六日植田大隊は兵団命令により第一中隊を合わせて張北に先行、板倉部隊は機関銃中隊と共に部隊本部を待機する事になった。
 猪鹿倉大佐以下の五常部隊は第一次部隊についで八月二十一日、九時二十分五常駅より乗車完了、そぼ降る雨の中をつめかけた在留邦人の盛んな歓送をうけていよいよ征旅へと進発した。
 同日十三時浜江駅についた。部隊はこれより二個梯団となり承徳に向かうことになった。

第一梯団 梯団長・猪鹿倉大佐
 部隊本部
 通信班
 菅野隊
 増成隊

第二梯団 梯団長・服部大尉
 服部隊
 斎藤隊
 羽柴隊
 伝田隊

 第一梯団は石原大尉が輸送指揮官となり、十九時二十分、第二梯団は続いて二十時三十分それぞれ浜江駅を発した。
 二十二日一時新京通過、早朝のこととて駅頭には駅員のほか人影をみることが出来なかった。
 四平街に着いたのが二十一時。このあたりより輸送列車が次第に輻輳し、運行もとまりがちになった。四平街ちかくになって雨はやんだ。冬服を着ているので盛夏の炎熱は焼くようにこたえる。四平街駅に到着した折、前方から引き返して来た一列車を見ると同じ○団後藤部隊の列車だった。事情を聞くと我が部隊より先発した同部隊は奉天まで直行したが、連日の豪雨で河川が氾濫し、新民─錦州間の鉄路が不通に陥ったと言う。部隊の先発隊と同様、輸送計画は四平街より奉天、錦州を経て承徳に至るはずであったが、ここに通遼─彰武─新立屯─義州を経て進むことに変更し、○団長ならびに○団に打電すると共に、設営者として安斎少尉以下十二名を後藤部隊と同乗先行せしめた。
 十七時四十分鄭家屯、二十時四十分通遼、あけて二十三日五時十分新立屯に到着した。
 一時は晴れた空はまたこの朝頃より沛然と降りはじめた。列車の運行はまたまた見通しがつかぬ事になった。降りしきる中を十八時、第二梯団が到着した。
 翌二十四日、翌々二十五日も相変わらずの雨で将兵は天を睨みしきりといらだつのみ、列車運行の見通しのついたのは二十五日夜の二十時近くであった。
 二日間の憂鬱な雨の滞在をへて、十九時五十分新立屯発、義州を経て二十七日十一時承徳に到着して県公署に設営、ここで先行して文廟小学校に宿営中の板倉大隊と合した。
 この頃哈爾浜を先発した植田部隊はすでに二十六日に承徳を出発して多倫に向け自動車輸送中であり、第二中隊の重原小隊も二十六日自動車で単独先行していた。

承徳から張北まで

 承徳は熱河省の首府でラマ教寺院、華麗な古建築、古美術を以て知られる都である。その中でも、もっとも壮麗をもって聞こえる離宮内には篠原部隊本部が設けられていた。
 すでに北支の戦局は日を逐って急を告げ、篠原部隊主力に対しても一時も早く戦線に到着するよう要請された。ために、○団は部隊主力を自動車輸送により、速やかに張北に向け前進せしめることに決し二十七日八時三十分左の如き支隊命令が発せられた。

篠原支隊命令

八月二十七日八時三十分
於承徳支隊本部

一、軍ハ本二十七日依然張家口西南高地ヲ確保スルト共ニ勉メテ西方ニ地歩ヲ進メテ爾後ノ作戦ヲ準備ス
二、支隊ハ主力ヲ勉メテ速カニ先ツ張北ニ前進セシメ爾後ノ行動ヲ準備セントス
三、各部隊ハ自動車ニヨリ輸送ヲ準備スヘシ

***

篠原支隊命令

八月二十七日十時三十分
於承徳支隊本部

一、猪鹿倉大佐ノ指揮ニ属スヘキ先遣部隊ノ第二次輸送部隊ハ自動車ニ依リ明二十八日朝承徳発張北ニ向ケ前進スヘシ


 右の支隊命令により部隊は自動車に依る輸送の困難なものを区署し、乗馬、各砲隊の輓駄馬は安田獣医中尉の指揮により、弾薬、材料行李、荷物(防毒面のほか化学戦資材を除く)は松浦銃工曹長が長となり、いずれも徒歩行軍により後続せしめ、爾余の主力を自動車輸送することになった。
 八月二十八日馬匹隊は五時、行李隊は五時三十分それぞれ先発、この日部隊長は命によって七時十五分、単身飛行機により張北に先行した。
 自動車輸送は二十八日二時五十分開始された。篠原部隊の一部、猪鹿倉部隊本部、○砲一個中隊、第六中隊、第二大隊砲小隊、連隊砲中隊、速射砲中隊、篠原部隊の一部、第二中隊、第一機関銃中隊、第一大隊砲小隊、第三中隊、弾薬車両の行軍序列をもって八十八車両よりなる延々たる輸送隊列は砂塵をあげて進発した。
 隆化にいたる道はつづらおりの山岳地帯の難行軍で、故障車が続出したが予備車両をもたなかったためにしばしば隊列もとぎれがちであった。
 かくてその日もおそい二十三時四十分隆化に到着した。この日の行程六十四キロ、部隊本部は隆化ホテルに設営した。ホテルといっても壁はしみだらけ、臭気がむっと鼻をつくお粗末きわまる支那旅館であった。
 二十九日六時隆化を出発再び自動車行軍が開始された。このあたりから行手はますます険しさを加えて来た。重畳たる山岳地帯をゆく道は時には切りたった断崖となり、時には五、六寸も起伏した凹凸の続く急坂をなして、自動車は時折これにひっかかっては狂ったような空ひびきをこだまさせた。遮二無二疾走しては逐次これを突破し囲城に到着したのは正午すぎであった。
 ここで昼食をとって多倫に向かった。初秋の冷気はひしひしと身にせまるようになったが険路はようやく終わりやがて丘陵地帯に入って行った。
 道は蒙古平原の外廓に入ったのだ。丸二日ゆられ通した一同は全くほっと生き返った思いだった。
 車の行く両側の草原にはむらさき、こがねと色とりどりの名も知らぬ野花が咲きみだれ、ガソリンの臭いのとだえに、得も言われぬ芳香をよみがえらせ、折からの夕陽に映える大蒙古平原の雄大な風景は、遠征の憶いを快くさそった。行軍は夜に入っても続行され三十日零時三十分ようやく多倫に着いた。
 我々はここで初めて北支における戦況の確報を手に入れた。張家口方面の戦況は極めて有利に展開中であった。
 将兵の志気はいやが上にもあがった。
 だがこの夜は全くの暗夜だ。やっとの思いで部隊を部落の小学校に集結し得たものの、さしあたって水と燃料には一番困らされた。蒙古人の一生は水と草を尋ねて歩く旅だと言われている。この実感がぴったり来たほど大平原は水に乏しかった。
 包(パオ)に住む蒙古の民は馬糞を乾かして燃料にしている。
 やっとのことで水を見つけ、貴重品にも等しいとんでもないこの燃料で飯をたき、チロチロ燃える青い火のそばで夕食を終えたのは、もう明け方近くだった。
 一行は小休みするいとまもなく五時三十分、ここを出発せねばならなかった。
 この日の行程は幸い自動車の故障もなかった。エンジンは快くひびき高原をただひた走りに進み、我々は三十一日二時三十分張北へ安着したのである。



付図第二
 
永嘉堡付近戦闘経過要図 昭和十二年自八月三十日至九月一日



第三章 山西戦線 (永嘉堡─大同、平地泉)

第一節 永嘉堡付近の戦闘 自八月三十一日 至九月一日 (付図第二参照)

永嘉堡へ

 張北の満蒙自動車公司で大休止をした部隊は、早くも九時秋雨肌につめたくけぶる中を柴溝堡に向かって再び車上の人となった。雨にとけた道路はタイヤの回転を妨げ前進意の如くならず、悪路はいよいよ前進を阻みようやく万全を通過したのがその夕刻、無理を続けて孔家庄に着いた時は車輪をすっかり泥濘に奪われて、いくらエンジンをかけたところでもう動かず、二進も三進も出来なくなってしまった。
 孔家庄はすでに田中大尉が交戦した所で敵の遺棄死体があっちこっちにころがっていた。
 部隊は遂にここに村落露営をする事になった。
 一方植田大隊(第六中隊欠、第一中隊属)は○○兵第二○隊の第四大隊(一中隊欠)と共に多倫─張北─万全道を急進し、二十九日十時敦磊庄に到着して酒井機械化兵団の隷下に入り柴溝堡に入城していた。
 猪鹿倉部隊長はすでに二十八日早朝、飛行機で急遽承徳を出発し張北に飛来し、八時には植田大隊の指揮をとった。

炸裂せぬ迫撃砲弾

 八月三十日、植田大隊は兵団の天鎮進撃を容易ならしむるため西湾堡駅付近を占領後、永嘉堡付近の敵状地形を偵察せよとの命に接し、十五時柴溝堡を出発し二十一時三十分には早くも西湾堡駅に到着した。
 ついで同地において第七中隊(MG一小隊属)は、田家庄を占領し永嘉堡付近の敵状地形偵察の命を受け、休む暇もなく同地を進発、真くらやみの中を粛々と鉄道線路に沿うて前進した。二十三時西湾堡を去る二キロの地点に達した時、突然五、六百メートル前方の高粱畑から猛烈な射撃を受けた。はっと思うまもなく続いて不気味に唸る迫撃砲弾が飛んで来た。南無三!と伏せたすぐ後方でドサッと音がした。何と不発弾だ!それっとばかりその場に展開、攻撃態勢をとりす早く軽機関銃で反撃した。中隊が猛射を浴びせかけると敵は案外呆気なく退却しはじめた。兵力は約二、三十名だったらしい。大地は再び静につつまれてしまった。これが出動以来はじめての敵弾の洗礼であった。
 更に歩を進めた中隊はほどなく田家庄付近に到着、至厳なる警戒のうちに同夜は背嚢を枕に露営し、ただちに伝令をして大隊長のもとへ大高崖付近には迫撃砲を有する敵歩兵約一中隊が陣地を占領している旨の報告を行った。
 これに対し大隊長は第七中隊に明払暁を期してこの敵の攻撃を命じ、大隊主力は田家庄に進出と決した。

大高崖占領

 翌三十一日、
 まだ明けやらぬに行動を起こした第七中隊は折からの篠衝く雨を物ともせず難行軍を続けて南方高地を迂回し、遂に大高崖敵陣地背後に進出した。
 同時に田家庄より急遽来援した第五中隊加藤小隊は東南方高地に進出し、機関銃小隊は東側南陽河右岸に位置し堅固な協同態勢をととのえて攻撃準備を完了した。
 部隊が攻撃を開始するかしない中に敵は射ちはじめた。敵の射撃は粗雑極まるもので我が軍と認めれば一兵だろうと何だろうと二、三千メートルも遠い距離から一斉に射って来る。おかげで彼等の陣地は手に取る様にわかる。我が包囲態勢を知ったと見えて早くも退却するのか敵の頭がチラリチラリと浮き出した。
 この時背後に迫った第七中隊(小暮小隊欠、MG一小隊を属す)が攻撃の火蓋を切った。熾烈な銃声は山にこだまする。孤立無援に陥った敵は、ほとんどなすところを知らず、ひとたまりもなく死体三を残し、たちまち文字通り蜘蛛の子を散らすように永嘉堡方向に遁走した。第七中隊はすかさず十三時四十分大高崖を完全に占領し、時を移さず同地の掃討を敢行した。

緒戦にしてはあっけなし

 大隊長は十五時頃大要次の様な情報を得た。
 永嘉堡東方約五キロ南陽河以東には敵兵なく、永嘉堡付近の敵情は不明、ただし情報によれば敵陣地あり。よって第七中隊は永嘉堡東方隘路口に進出して敵情地形の偵察、第一中隊(MG一小隊属す)は永嘉堡東北方約三キロの高地に出で、明払暁時、情況に応じ永嘉堡付近陣地に対する威力偵察を命ぜられた。
 その後やや経て加藤少尉より永嘉堡方面の敵情に関し

一、永嘉堡南方約三キロ閉鎖曲線ノ高地ヨリ以北南陽河岸ニ亘ル間ニ約百名ノ敵カ陣地ヲ占領中ニシテ其南方ニハ敵兵ナシ
二、敵陣地ノ背後ニ回ツテ偵察スルモ一線ノ陣地以外ニハ敵影ヲ見ス


 との報告がもたらされ、ついで払暁を利用して南陽河左岸高地方面より永嘉堡付近の偵察に向かった第一中隊折笠少尉の将校斥候が帰来し、永嘉堡北方約二キロの高地に二、三十名の敵を見るほか敵兵なしとの報告ももたらされた。
 以上の敵情により永嘉堡付近の敵兵力はさして大きなものでないと判断されたので、部隊は主力を以て速やかにこれを占領し天鎮方面の敵を撃砕するため、明一日まず当面の敵を攻撃することに決し、全力をあげてその準備に当たった。
 かくするうちに部隊本部から、大隊主力は永嘉堡平地に進出することなく大高崖付近に集結して敵情地形を偵察すべしとの部隊命令があった。ために先に前進を命じた第七中隊に対しては一小隊を隘路口に残置し、主力を再び大高崖に集結させるように命じ、大隊主力もまた同地に前進と定められた。
 一方第一、第七中隊は永嘉堡東北ならびに東方高地に進出して敵情地形を偵察しているうち、二十一時頃約一個中隊の優勢な敵の夜襲を受けた。もちろんなんなくこれを撃退したものの背後にある敵の兵力は予断を許さない。両中隊とも命は受けたものの大高崖に集結する事が困難な状況に立ち至った。
 暗夜の中に対陣することしばし、敵はうすうす我が態勢に気づいたのか、夜のあけきらぬ中に退却を開始した。第一中隊長は一日早朝、大隊長に右状況を報告し、依然敵と対峙しつつ敵情の変化を凝視し続けた。
 六時三十分、大隊長は自ら第五中隊の一小隊を率いて第一中隊の位置に進出したが、その時はすでに当面の敵は全く退却した後であった。
 ここにおいて第一、第七中隊は大隊長の指揮下に入り、何等の抵抗もなく八時同地を占領した。
 この頃主力はすでに大高崖に集結を終わり爾後の行動を準備中であった。
 第二大隊の後を追った第二梯団猪鹿倉部隊主力は孔家庄に於いて兵団樺参謀よりこうした前線の状況を知ることが出来た。よって出来得る限り速やかに前線に到着するため、増成隊と古橋隊の一部とを列車により後送する事とし主力は九月一日自動車行軍により柴溝堡に向け急行し、順調に行軍を続けて十五時同地に到着した。



付図第三
 
天鎮堡付近戦闘経過要図 昭和十二年自九月二日午後至九月七日



第二節 天鎮付近の戦闘 自九月二日至九月七日 (付図第三参照)

第二大隊進撃

 九月二日。
 酒井兵団は内蒙へ転進した。
 隷下を脱した植田第二大隊主力は大高崖を、一部は永嘉堡、李信屯を占領し敵状偵察に余念なかった。第六中隊は懐安鎮の長谷川部隊と交代し同地の警備に当たった。
 十三時頃大隊本部に鉄道修理の作業列車が永嘉堡に向かい前進中との電話連絡があったので、大隊は永嘉堡付近を警備中の第五中隊を同駅に進発せしめた。
 更に十五時柴溝堡を発した兵団から、兵団は天鎮付近攻撃のため永嘉堡に向かい前進中、第二大隊は速やかに永嘉堡に進出すべしと命ぜられ、ただちに現在の配備を撤し全力をあげて進出準備中、部隊通信班を乗せた作業列車が大高崖に到着、酒井兵団通信班と交代服務することになった。
 この頃兵団先頭部隊大泉部隊も大高崖を通過し、永嘉堡に向かって怒濤の進撃を続けていた。
 十八時、第七中隊小暮小隊を物件整理と兵団主力援護のため大高崖に残し、主力は作業列車で永嘉堡に向かった。途中李信屯北方を急進中の部隊本部に逢い、大隊本部と機関銃中隊を搭乗させて残部は第七中隊長森大尉の指揮を以て目的地に向かった。
 作業列車は二十時過ぎに永嘉堡駅に入った。間もなく大泉部隊も到着し、第五中隊と緊密な連絡を取って駅西側地一帯を確保した。二十二時三十分に至って森大尉の指揮する部隊が到着した。
 第二大隊は更に石咀屯に進出敵情地形を捜索すべく命ぜられたので、憩う間もなく出発した。
 夕刻より雨雲低く垂れこめてなまぐさいような南風がいつしか豪雨と変わり冷気がひしひしと身にしみる。
 咫尺も弁ぜぬ中を満身濡れねずみの姿となって所命の地点に急ぐ大隊から、第五中隊(MG一小隊を属す)が堡子湾に、また第七中隊宮田小隊が将校斥候として張家河底東北方一二三〇高地方向より西方一二五〇高地方向に派遣された。

第一大隊の行動

 九月三日。
 第一大隊と速射砲中隊は前夜柴溝堡に到着したが、警備と兵団糧秣援護のため一小隊を柴溝堡に残して部隊主力に追及し、六時三十分、夜来の豪雨あがって晴々しい朝まだき、板倉大隊長以下元気一杯に部隊主力に合した。承徳を出発以来実に七日振りだった。第一大隊はここで大泉部隊と警備を交代した。
 九時兵団本部到着、部隊長はただちに当面の敵状況につき委しく報告した。
 敵は温家窯南方高地より堡子湾南方高地に亘って陣地を構築していた。
 第一大隊は伊藤将校斥候を田家湾付近に派遣するや、十四時右より第三、第二中隊、中央後に機関銃、鉄道線路に沿う地区に大隊砲小隊と、それぞれ展開させた。
 突然、はるか前方の丘陵をおおう雑木林の中から狂気の如き乱射が起こった。弾丸は不気味な音を立てて頭上を高く飛んだ。やがてこれを合図に四方から敵弾が降って来た。
 遮蔽物の少ないすり鉢のような斜面を、部隊は一斉に黒豆をまいたように散開してグングン進んで行った。小銃の音に混じって軽機の音が気忙しく聞こえて来る。
 かくて二時間余りに亘る猛反撃も、地形全く不利のため功を奏しなかった。薄暮攻撃するに意を決した大隊長は、戦闘中の第二中隊に重火器の一部を援助せしめ、その他はこれを鉄道線路北側隠蔽地に集結せしめ、態勢を整えてから急進して二十時黄土崖北方鉄道屈曲点付近に到達した。
 だが敵陣地の偵察不充分に加うるに前進距離があまりに遠かった。そのため大隊長は遂に薄暮攻撃を断念し、夜襲を以てまず田家湾を奪取すべく決心、各隊長を集め現地に就いて攻撃に関する企図を明示しそれぞれ準備させた。四周は全く夜闇に包まれた。将校斥候の伊藤少尉が帰って来た。田家湾高地には有力なる敵集団あり、温家窯南方高地には堅固なる数線の陣地を構築し逐次後方より兵力増加しつつありと報告された。
 大隊は明払暁を期して砲兵の協同の下に総攻撃を決行することになった。ところが、この旨を部隊長に報告せんにも通信部隊は未到着、かてて加えて無電不円滑な状況だった。大隊長は副官高橋中尉を急遽部隊本部に連絡に出し右決心の意見具申をさせた。すでに二十三時になっていた。部隊は静粛行進を以て田家湾北方鉄道線路北側に向かい攻撃準備地点についた。
 ところが四日二時になり、はからずも、第一大隊は速やかに現位置を撤して永嘉堡駅付近に集結すべしとの命令が下った。大隊はただちに緑家湾に集結し、四時部隊主力と共にここを出発、十六時張家河底西北二キロの地隙に達し、部隊予備隊となって同地に露営した。部隊長も予備隊と共に第一大隊のもとに合し、銃砲声絶え間ない敵前至近に対峙したまま夜を徹した。

第二大隊戦闘準備

 第二大隊は二日の夜豪雨の中を石咀屯に向かって前進し、尖兵中隊たる第五中隊が堡子湾に達したのはあけて三日の九時だった。李家寨南方の敵情偵察に加藤中尉、斎藤准尉が任命された。両斥候は共に部下小隊中から、特に軽装させた約半個小隊をすぐって出発した。残余の部隊は近藤(宇)曹長が指揮し、部落の西端に位置して斥候の行動を援助する態勢をとった。両斥候は出発後間もなく敵と衝突した。よりすぐった兵に加うるに軽装だ。迅速機敏縦横に猛烈な戦闘を交えているうち、十時三十分頃一部の敵が李家寨方面から斥候の側面に向かって攻撃して来た。待機中の近藤曹長は時を移さずただちに攻撃を開始、敵を完全に制圧して両斥候を収容した。
 この戦闘で進路上に於ける一部の敵を駆逐したばかりでなく、明らかにこの方面の敵情を知り得た。
 十二時宮田将校斥候より堡子湾─張家河底道北方高地には敵兵なし、また一二五〇高地稜線にも敵兵を見ずとの報告があったので、大隊はただちに石咀屯を出発して同夜半一二五〇高地西北方高地に進出、第七中隊(MG一小隊属)を以てその前方高地を、第六中隊小山小隊を以て一二五〇高地を占領し当面の敵情地形を偵察せしめ残余を前記高地に集結した。四日黎明前、第一線中隊の報告により前方約千メートル高地に一連の敵警戒陣地があるのを知った。
 天明後再度偵察すると、夏家舗南方約二千五百メートル稜線より元営北方高地東端に亘って、軽機を有する約十数名の警戒部隊が四箇所に陣地を占領している。その他に天鎮東北方一二三〇高地及びその北方にも掩蓋を有する三角断面陣地の連接するのが見える。
 この警戒部隊は一兵でも我と見ればすぐ射撃するなど、水も漏らさぬ警戒ぶりである。
 大隊長はまず前面の警戒陣地を奪取すべく、第七中隊に夏家舗南方高地の敵を、第五中隊(一小隊欠、MG一小隊属)には元営付近高地東端の敵攻撃を命じた。機関銃主力は一二五〇西北方高地に位置し、両中隊の攻撃援助をなす事となった。七時三十分両中隊攻撃前進開始、一時間後にはそれぞれ所名の地点に達し陣地を占領した。

力戦

 第五中隊が占領した元営北方高地東端は、敵の前進陣地からわずか二百メートルくらいしか隔たっていず、その上左前方二百メートルの高地にも約三十名ほどの敵がいた。占領するや果然同中隊は猛烈な集中火を受けたがなおもひるまず進撃し、敵と対峙する稜線にかくれてぴたりとへばりつく。
 敵は思いのほかに優勢だった。今まで激しく動いていた兵が停止すると、弾丸がピュンピュン交錯する。こっちの機関銃が猛烈に射ちまくると、敵は機関銃を狙って来る。機関銃がすぐ移動する。そしてまたさかんに射ちまくる。
 敵弾は正面から左右から、まるで横殴りの雨のように落ちては勢いよく砂煙をあげた。第二小隊は遂に非常な苦戦に陥り死傷者続出する。
 植田大隊長は自ら第二線の第五、第六中隊の各一小隊と機関銃の主力を指揮し、九時半頃増援に出て来た。機関銃主力は第一線に増加された。かくして猛烈な攻撃を加えるうちに南方稜線上の敵は完全に敗退した。側面の援護は非常に楽になった。だが敵は連続的に執拗な猛射を浴びせ、十四時になっても寸時もやめず、天鎮東南方の砲兵と呼応して射撃して来た。付近一帯は砲弾が激しく落下炸裂し、壮絶といわんか凄絶といわんか猛闘を続け、十五時までに死傷者十三名も出た。第五中隊斎藤第三小隊長もまた負傷、戦況いよいよ不利となった。

爆撃と共に

 この時友軍機一機が第二大隊上空に銀翼を現した。稜線にへばりついて苦闘を続ける一同の真っ黒な顔が思わず綻びた。続いて痛烈な爆撃が始まった。初めて飛行機の活躍を見る一同の目はふと飛行機にそれるが、我にかえっては敵陣地を撃ち続ける。敵の銃砲声はようやく緩慢となった。飛行機は間もなく敵陣地要図を投下して帰ってしまった。また思い出したように敵は射って来る。ほどなく再び四機が銀翼を連ねて東の空に現れた。大胆にも高度約六百メートル。友軍飛行機は大隊の位置をたしかめてから直前の敵陣地に果敢な急降下爆撃を始めた。敵は反撃もせず飛行機のなすがままにしばし沈黙した。一弾ごとに敵陣は見事に吹っ飛ばされて行くのが手にとるように見えた。敵掩蓋も後方交通路も破壊された。一線にはほとんど敵影なし。機上部隊仲西中尉より、「奪取するの好機なり、貴隊これを攻撃するならば飛行機は協同する」と連絡があった。この陣地占領こそ部隊及び本多兵団の爾後の戦闘に大影響をもたらすのだ。何条これを見逃すべき、植田大隊長は得たりとばかり飛行機の協同下ただちに攻撃するに決した。第五中隊を右第一線、第六中隊小山小隊を左第一線とし、機関銃主力を第五中隊の占領地域に出して第一線中隊と協同せしめる態勢をとる。
 十五時三十分、同協定時刻である。
 待つ間ほどなく協定通り七機が飛来した。一二三〇高地陣地の爆撃及び機上掃射等、飛行機の縦横無尽の大活躍下適切な協同のもとに戦況は我に有利になって来た。
 第一線進出につれ敵陣は逐次深く深く爆撃されて行く。いよいよ敵は頭をあげるひまもない。この好機だ。我は一挙敵陣に突入した。残敵のはかない抵抗も何のその、難なくこれを突破し、十五時四十分遂に完全に敵前進陣地を占領した。
 第七中隊は予備隊となり、同地の確保に当たった。敵はこの重要地点を奪還せんものと依然各方面より絶えず反撃して来る。壕を掘り敵の来襲に備うる一方、第七中隊は主陣地の攻撃準備に大わらわである。やがて沈庄北側稜線の敗残兵のもとに新たに百名近くの兵が増加され、一二三〇高地及び天鎮東南方の砲兵と密接な連絡をとり続けさまに射って来た。二十三時頃敵の一部が健気にも喊声をあげて我が左翼に向かって夜襲して来たがただちに蹴散らしてしまった。

第一大隊交代

 五日になって八時十五分、「第二大隊は第一大隊と十四時までに交代を終わり予備隊の位置に集結せよ」との部隊命令によって、第一大隊は正午寒かった露営地を出発し、峻険を攀じ峡谷を渡り、敵の狙撃を避けつつ十四時半やっと第二大隊の位置に到着した。白昼砲煙弾雨の中だ。その行動を秘匿して大部隊を交代させる事はなかなか大変だ。特に敵の観測機関はすこぶる精巧を極め狙撃は実に巧妙だった。
 結局予定よりも五時間遅れて十九時ようやく交代を完了した。交代後は夜っぴて敵と対峙し間断なき敵の乱射を浴びながら一睡もせずはげしい気温の変化にふるえつつ夜を徹した。

総攻撃

 明けて六日九時、兵団長より左記要旨の無電命令をうけた。

一、後藤大佐ハ正面ニ一部ヲ残置シ二大隊ヲ以テ白陽口付近ノ敵ヲ攻撃ス
二、貴隊ハ武田大隊ヲ併セ指揮シ一二三〇高地ヲ奪取スヘシ
三、予ハ田家湾北方高地ニ在リ
四、其方面ノ状況ヲ知ラセヨ


 この無電を受けたものの通信途絶しているため、武田大隊の位置も分かりかねたし、正面の敵情報告さえ出来なかった。そこで連絡のため佐藤中尉が兵団長のもとに出された。
 わが正面の敵は、平地泉方面より展開前進して来る本多兵団の方へ重火器を以て猛射をあびせていたが、十時頃になった時、依然銃砲口をわれに転じて来た。
 こちらはただちに大隊砲を以て沈黙させてしまった。この頃中村兵団副官が来た。
 天鎮付近の敵主力はゆうべのうちに西方に退却してしまったようで、当面の敵も逐次動揺し始めた。好機失すべからず、十六時十五分総攻撃の命が下った。

一、○隊ハ当面ノ敵ヲ攻撃シ一挙南陽河右岸高地線ニ進出、次イテ水桶寺十里堡ノ線ニ向ヒ前進ス。攻撃ノ重点ヲ右翼ニ指向ス
二、第一大隊右第一線一二三〇高地ノ敵ヲ攻撃
三、第二大隊(第五中隊欠、速射砲一小隊属)左第一線トナリ十八時三十分迄ニ第一大隊ノ左ニ連係シ一二三〇高地南側稜線ノ敵ヲ攻撃スヘシ
四、両大隊ノ攻撃時機ハ十九時ト予定スルモ別名ス
五、両大隊ノ統制左ノ如シ
第一回一二三〇高地ノ線、第二回嘉家屯西側南陽河ノ線、第一大隊トノ戦闘地境一二三〇高地─葛塚屯南端、本多兵団トノ戦闘地境張家河底南端─鎮庄南端
六、連隊砲中隊ハ元営北側高地ヲ占領シ主トシテ一二三〇高地並ニ其ノ付近側防機能ヲ制圧


 十八時五十分右命令に基づく両大隊の攻撃態勢取り終わり、連隊砲中隊、速射砲中隊主力は第一線大隊との攻撃に協同すべく陣地を占領し終わった。
 一方、両大隊の機関銃は全部展開した。時まさに十九時。ここに
軍旗 を先頭に部隊全員必勝の信念を胸にたたんで壮烈なる総攻撃に移った。
 予備だった第二中隊、第五中隊の軽機も第一線に増加されて全線こぞっての攻撃前進である。
 夕陽西方に没し暮色蒼然と迫る。敵陣の斜面は曇って攻撃は困難だが、歩砲の緊密なる協同は敵を沈黙せしめずにはおかなかった。
 やがて高地から灯火信号が上がった。これと呼応するように天鎮南方高地にも同様な灯火信号が上がった。退却の徴候だ。
 すかさず第三中隊が突撃を起こし、続く各隊もおくれじと断崖絶壁もものともせず、数条の地隙も何のその、踏みこえ跳びこえ猛火を冒して前進また前進、遂に目標たる一二三〇高地に突入した。続いて予備隊は
軍旗 を捧じて右第一線の後方より突入する。さしもの敵も算を乱して退却してしまった。
 部隊は更に余勢を駆って一挙その西方高地を占領した。時に二十時。

闇夜の進撃

 二十一時両大隊は態勢を整えて夜間追撃に移った。第一、第二大隊、予備隊の順序に、足もとも分からぬ暗夜を所命の地点水桶寺に向かい懸命の進撃を続ける。断崖地隙にぶつかったり、敗残兵にぶつかったりしながらも七日九時水桶寺にようやく到着した。
 同地で隊伍を整え爾後の行動の準備をなした部隊は、兵団本部到着して行軍序列決定するや午後になって同地を出発、ここに兵団の総追撃戦に加わって鎮宏堡に向かい怒濤の進撃を続けて行った。
 山嶽地帯の猛闘だった。前人未踏の山険を冒しては所々で数丈の断崖地隙にぶつかった。重火器は分解搬送で辛うじて通ったが、車両部隊の行動はてんで駄目。補給はもちろんつかなかった。ただ水だけはところどころに清い流れを見せ、飲料だけは何とかすませた。炊事は山を下ってするために山道を再び上がって配給する苦労は並大抵の事ではなかった。
 現地調達の食料は芋、キャベツの他にまにあうものはなし、ただ秋のこととて林檎、西瓜、まくわを畑に見つけては副食とも間食ともして飢えをしのいで来た。
 進撃いよいよ急となっては芋を煮るひまもなかった。七日の夜から林檎が主食、怒濤の進撃は実に林檎を食いながらの猛進だったのである。



「○○○兵部隊将校各部将校職員表」 (天鎮付近の戦闘)

○隊本部

 ○隊長──猪鹿倉 徹郎 大佐
 副官──伊従 秀夫 少佐
 旗手──後 勝 少尉
 通信班長──古橋 正雄 中尉
 瓦斯係──佐藤 四郎 中尉
 軍医──広池 文吉 少佐
 獣医──安田 土岐司 中尉

第一大隊

 大隊長──板倉 堉雄 少佐
 副官──高橋 準二 中尉
 主計──山下 正行 大尉
 軍医──君 健男 中尉
 軍医──菊島 広 中尉

第一中隊

 中隊長──安江 寿雄 大尉
 小隊長──折笠 政雄 少尉
 小隊長──伊藤 喜久 少尉
 小隊長──五十嵐 源助 准尉

第二中隊

 中隊長──菅野 定雄 中尉
 小隊長──重原 慶司 少尉
 小隊長──庭野 富司 少尉
 小隊長──朝日 長一 准尉

第三中隊

 中隊長──服部 征夫 大尉
 小隊長──古木 秀策 中尉
 小隊長──清水 清治 准尉
 小隊長──吉田 善二 准尉

第一機関銃中隊

 中隊長──高橋 石松 大尉
 小隊長──見波 隆示 少尉
 小隊長──阿部 平八郎 准尉
 小隊長──鈴木 祐司 准尉
 小隊長──宮川 久司 准尉

第一大隊砲小隊

 小隊長──羽柴 正一 中尉

第二大隊

 大隊長──植田 勇 少佐
 副官──熊倉 菊次郎 少尉
 主計──藤田 三予吉 少尉
 軍医──早川 釟郎 中尉

第五中隊

 中隊長──林 司馬男 大尉
 小隊長──加藤 恒安 中尉
 小隊長──安田 寅雄 准尉
 小隊長──古垣 兼隆 准尉

第六中隊

 中隊長──石原 英夫 大尉
 小隊長──遠家 亀市 中尉
 小隊長──小山 永久 少尉
 小隊長──嘉村 省司 准尉

第七中隊

 中隊長──森 康則 大尉
 小隊長──安斎 実 少尉
 小隊長──宮田 金吾 少尉
 小隊長──小暮 伝作 准尉

第二機関銃中隊

 中隊長──浜 久 大尉
 小隊長──大類 仁一 少尉
 小隊長──桐生 憲辞 准尉
 小隊長──滝沢 嘉長 准尉
 小隊長──戸塚 藤五郎 准尉

第二大隊砲小隊

 小隊長──伝田 鹿蔵 准尉

連隊砲中隊

 中隊長──増成 正一 大尉
 小隊長──小林 三治 准尉
 小隊長──篠田 善太郎 曹長

速射砲中隊

 中隊長──斎藤 国松 大尉
 小隊長──惣角 義治 准尉
 小隊長──羽深 信治 准尉

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