山河屯到着~匪賊討伐


第二師団長 岡村中将
第十五旅団長 篠原少将

歩兵第三十連隊長 儀我大佐
第七中隊長 森大尉

*補足(藤本)
 石坂准尉の渡満時における直属上官。

***

 儀我誠也。
 明治二十一年十一月十一日生。昭和十三年一月二十四日病没(暗殺説あり)
 昭和十二年八月八日、天津特務機関長拝命。

 (歩兵・東京。陸軍士官学校第二十一期。陸軍大学校第三十期。最終階級、陸軍少将)




石坂准尉の覚書(山河屯)
私の歩んだ昭和史~栄光の日本陸軍破る』(本文より
 渡満直後の駐屯地山河屯は、拉浜線山河屯駅から徒歩で約二十分のところにある。街は土壁造りの平屋が密集していて、店舗などはない。気候は寒々しく、独特の不気味さが漂っている。
 質素な兵舎は借家である。室内の中央に通路があり、両側にアンペラを敷き詰めた奥行き約二メートルの場所が兵隊に与えられた空間。
 外出は二人以上が一組となって行動し、小銃に実弾を携行する異様さだった。



後列、小林、石坂、藤井、吉原、上杉
前列、伊藤、片桐分隊長、角住、古畑

渡満直後、駐屯地山河屯にて分隊記念写真を写す(昭和十二年五月)



「山河屯」

石坂 「朝鮮の羅津を後にしてからは満州鉄道に乗ってね、そして着いたところが山河屯。一番最初の駐屯地なんだけど、ここの兵舎はもとは酒屋さんだったんだ。酒造りのね」

藤本 「日本人じゃなくて、支那人か満人が経営していた酒屋さんですか」

石坂 「そうだよ」

藤本 「民家を接収、借り受けたというわけですね」



山河屯の町並み
山河屯兵舎の営門(渡満最初の駐屯地)

山河屯兵営裏の広場
(毎日ここで剣術の練習をしたという)
第二期検閲の様子



石坂准尉の覚書(匪賊討伐)
『駐満記念 鮫城部隊』 満州国牡丹江省穆稜 柏部隊将校集会所 (石坂准尉の書き込みより)

「匪賊討伐に出動」

 昭和十二年六月、匪賊の出没頻繁で治安は乱れ、住民の生活が脅かされる。これが平定のため、討伐に出動す。



「匪賊討伐」

石坂 「山河屯に移駐したすぐ後に、俺たち三十連隊は匪賊討伐に出動したんだ」

藤本 「匪賊討伐ですか。確か昭和十二年初頭から、関東軍は万単位の大兵力を投入して本格的な匪賊討伐をおこなっていますよね。謝文東なんかが、悪名をはせたことで有名なのかな。
 石坂准尉もそれら駆逐戦に参加したというわけですね。
 ……激しい戦いになりましたか」

石坂 「他隊の活躍は知らないけど、俺たちに限っていえば何もなかったよ。俺の経験だから、あくまでも一般論にはなり得ないと思うけど、匪賊というのはね、日本軍がやってくるという情報をつかむと、およそわれ先にと逃げ出してしまうものなんだ」

藤本 「まるで南京陥落時における支那兵のように」

石坂 「そうそう。だからね、単なる敗残兵の集まりにすぎないのさ。
 ……わが軍はすでに、満州から支那軍を追い払っていた。そうして、この混乱に落後した兵隊のくずなんかが寄り集まったのが匪賊なんだ。
 俺たちが出動したときには連中の巣窟とおぼしき土地はもぬけの空だったね」

藤本 「分かりました。では戦闘は起きなかったということですね。
 ちなみに、聞いておきたいんですが、匪賊討伐に部隊が出動すると、その期間はどれくらいでした。もちろん、個々の討伐によってまちまちなんでしょうが、戦いがあまり起きないとするならば、ある種のデモンストレーションみたいに、もしかしたら、およその日程が想定されているのでは、と思いまして。連中が出没する場所も大体決まっていたんじゃないですか」

石坂 「匪賊討伐に出動するとね、三日か四日くらいは兵舎に帰れないんだ。山に泊まったり、原っぱに野宿したりしてね。俺が言えるのはこれくらい」

*補足(藤本)
 伊藤桂一『兵隊たちの陸軍史 
兵営と戦場生活』に、討伐に関する記述がある。

***

 軍からの作戦命令によって行動する場合を、作戦と呼んでいた。討伐は、大隊討伐、連隊討伐というふうに、小さな単位で周辺地区の粛清に動き廻った。中隊の功績を挙げたいために、中隊長が兵員を引きずり廻す場合もあった。警備上や治安維持のための討伐――という大義名分は、戦場である以上つねに存在はしたが、実体は、中、大、連隊の成績をあげることにあったともいえる。考え方でどうにも解釈できる討伐――という戦闘行動で、兵隊は働かされ、鍛えられ、かつ死傷して行ったのである。

『兵隊たちの陸軍史 
兵営と戦場生活』(番町書房)の二百三十ページから引用


*補足二(藤本)
 竜沼梅光『北満・宮古島戦記 
戦局と将兵の心理』に、空振りに終わることが多い討伐について述べている。

***

内地から直接鶏冠山に来た時は、あまりの寒さに驚いたが、もっと驚いたことは、入隊してまだ小銃の撃ち方も教えられていないのに、馬賊の討伐に付いて行けといわれ、白だすきをかけて出発した時は悲愴な覚悟であった。
 またモーターカーで巡視の際、馬賊の夜行軍に遭遇して肝をつぶしたのもこの辺だった。馬賊と遭遇したのはこの時だけで、初陣の時も後の何回もの討伐も、すべて空振りのため、討伐と聞くとまたくたびれもうけかと思った。なにしろ、中隊長は馬で行くので、その馬の足なみについて行くのだから大変なのである。馬賊に遭遇しなくとも、時々馬賊出現の情報が入れば出動せねばならないのだ。

『北満・宮古島戦記 戦局と将兵の心理』の四十三~四十四ページまで引用



歩兵第三十連隊の出動(昭和十二年 春季大討伐)
討伐風景

歩兵第三十連隊の匪賊討伐~その一(昭和十二年)
歩兵第三十連隊の匪賊討伐~その二(昭和十二年)



『支那事変史』
満州第一七七部隊将校集会所

付図第一
 
五常駐屯地部隊配置図 昭和十二年四月



第二節 北満の護り (付図第一参照)

解氷期

 五常は拉浜線(拉法─哈爾浜間)のほぼ中央部、小白山脈の山麓よりに位置する浜江省五常県の中心地で人口約五千、当時部隊の他には独立守備隊が駐屯していた。街には日本旅館二軒、日系飲食店数軒といった程度の典型的な北満の街で部隊本部及び第三大隊(斎藤俊部隊)の主力が落ち着いた兵舎の如きも、満人の商店舗をそのまま改造した極お粗末なものであった。
 各分屯隊の配置は付図の如くであった。部隊はかくて篠原部隊(右防衛隊)の南地区隊として浜江省楡樹県の警備防衛に任ずる事になり、折からの増水のためにふりかかった種々の困難に遭遇しながら四月二十日を以て前任部隊との引き継ぎを完了、同二十一日(五常部隊)二十二日(山河屯部隊)二十六日(帽児山部隊)の三日間に行われた篠原部隊長の初度巡視を受け、いよいよ本格的な北満警備の任に就いたのである。
 北満は一年の半ば以上を永い冬に送る。わけても十一月下旬から二月下旬にかけては零下三十度、時には四十度にも達する酷烈な寒気が生きとし生けるものをいや応なしの冬眠に閉じこめてしまう。それだけに春の訪れはまるで堰をきられた水のようにとほうもない速さで押し寄せる。
 河川に張りつめた厚い氷が不気味な音をたてて流れ始めると、冬との闘争にとげとげしく枯れ切りながらなお生きながらえた樹木は、あわてて芽ぐみ、石の様に凍てついた大地からは可憐な野草が萌えあがる。
 人も草木と同様に永い冬から解放されて、陽光の下に飛び出して来る。この頃から厄介な北満の匪賊もぼつぼつ蠢動を始める。
 我々が駐屯したのはこの解氷期、即ち匪賊の蠢動期を目前に控えた頃であった。
 おかげで各分屯隊とも一律に長旅の疲れを癒す暇もあらばこそ、この厄介な連中の粛正に、八面六臂の活動を開始せねばならなかった。
 小山子に分屯した斎藤(国)隊(第二中隊)の如き、任地到着の翌四月二十日には、蘭彩橋(小山子西南方八キロ)付近に姿を見せた小匪を追って部隊最初の討伐を行ったほどであった。
 その上各分屯地の状況は、我々が想像したよりもはるかに悪かった。即ち分屯隊長の居室とは言うものの各地ともアンペラの二畳敷き程度で、それも壁はくずれ床は落ち、宛然乞食小屋といった代物であった。
 また水利が悪く、水はあっても赤くさびていて入浴するとかえって体があかくなるといった次第、食料と言っても乾燥野菜のみ、道路の悪いことはまた論外、それに一帯の山道はいつ匪賊の襲撃を受けるかも知れず、一個小隊以下の兵力では到底行動出来ぬ有様だったので、ちょっとした連絡にもたった一人の患者の入院にも小隊編成の護衛をつけて五常の部隊本部まで小山子から一往復に三日、沖河鎮からだと実に五日を要するといった具合で、警備とはいいながら身に沁みる辛苦を冒しつつ日夜喜んで軍務に猛進した。
 駐屯から五月下旬までの部隊の行動概要を挙げると大体次表のようになる。


「儀我部隊四月五月掃討粛正行動一覧表」

名称
年月日
指揮官及び兵力
蘭彩橋付近の粛正
一二、四、二〇
斎藤(国)中尉 第二中隊(一個小隊欠)

 西河口渡船場の舟、匪賊のため流失せらるとの報に接し、出動蘭彩橋付近を粛正検索す

名称
年月日
指揮官及び兵力
三家子付近の掃討
自一二、四、二一
至一二、四、二二
菅野少尉 第二中隊一個小隊

 三家子付近に山寨ありとの報に接し二十一日十四時出動せるも小葦河増水のため目的を達し得ず二十六日八時該地付近を粛正しつつ帰還す

名称
年月日
指揮官及び兵力
五常小山子間粛正
自一二、四、二六
至一二、四、二七
新田少尉 士候幹候一小隊

 小山子部隊暗号引き上げを兼ね同地域を粛正し二十七日十七時帰還す

名称
年月日
指揮官及び兵力
効果
二青頂子付近の掃討
自一二、四、二七
至一二、四、二八
服部大尉 第三中隊(一個小隊欠)
山寨覆滅 五

 二青頂子高地南側に山寨あり、時に約五十名の匪賊宿営すとの情報に接し二十七日二十時出動二十八日一時約二十名の匪賊を壊滅せしめ山寨五を覆滅し二十八日十七時十五分帰還す

名称
年月日
指揮官及び兵力
沖河鎮五常間の粛正
自一二、四、三〇
至一二、五、二
岩本曹長 第三中隊一個小隊

 服部隊警護ならびに粛正計画等の書類を携行し来常帰還、糧秣輸送に任ず

名称
年月日
指揮官及び兵力
小山子、五常間粛正
自一二、四、三〇
至一二、五、二
滝沢曹長 第二中隊一個小隊

 斎藤(国)隊警備ならびに粛正計画等の書類を携行し来常帰還、糧秣輸送に任ず

名称
年月日
指揮官及び兵力
効果
沙河子付近の検索
一二、四、三〇
石原大尉 第六中隊
逮捕匪賊 二 通匪者 一

 沙河子付近に銃器隠匿しあるを偵知し南(北)部を掃討す

名称
年月日
指揮官及び兵力
効果
北棒埵溝子及び三家子付近の掃討
自一二、五、二
至一二、五、五
斎藤(国)中尉 第二中隊
小銃 一 同弾薬 二
指揮刀 一 斧 一
山寨覆滅 五

 北棒埵溝子(小山子南方約十六キロ)付近に山寨ありとの報に接し二日四時三十分出動、山寨五を覆滅し五日十一時小山子に帰還す

名称
年月日
指揮官及び兵力
道路偵察及び粛正
自一二、五、七
至一二、五、八
山口少尉 第三中隊一個小隊

 沖河鎮、山河屯間の道路偵察ならびに沿道粛正の目的を以て七日早朝沖河鎮を出発、八日沖河鎮に帰還す

名称
年月日
指揮官及び兵力
楡樹県南部地域の粛正
自一二、五、一一
至一二、五、一二
古木少尉

 十一日七時楡樹出発、秀水甸子─新立屯─万宝水─〓(てへん+乍)樹廟─向陽泡─四阿城─太平嶺─楡樹道に沿う地区を粛正す

名称
年月日
指揮官及び兵力
効果
太陽廟付近掃討
一二、五、一二
折笠少尉 第一中隊一個小隊
小銃 一 同弾薬 二〇

 十二日早朝二道河子出発、会竜山付近を掃討中匪賊の遺棄せる手榴弾に触れ折笠少尉以下五名負傷し十八時帰還す

名称
年月日
指揮官及び兵力
楡樹県東方地区粛正
自一二、五、二〇
至一二、五、二二
長島大尉 第十中隊

 楡樹警備勤務を交代し楡樹県東北方大泥河流地区を粛正しつつ五常に至る

名称
年月日
指揮官及び兵力
篠原部隊第一次討伐
自一二、五、二三
至一二、五、三一
儀我大佐 隷下各部隊

 南地区隊第一次討伐計画に依る

***

討匪行

 五月も半ばすぎて本格的な解氷期になると共に、我々の警備地区一帯にもいよいよ匪賊の跳梁が目立って来はじめた。
 五月二十四日から篠原部隊第一次討伐が実施された。警備地区一帯の匪団は老嶺、小白山脈の山麓に蟠踞する双竜、常山、青好林、姚青山、兵林等々と称する大小頭目の下に集まったわずか百数十名前後の土匪ではあったが、断固膺懲の火蓋を切った討伐隊も、我に反して困難な密林地形を自由自在に馳駆する彼等を捕捉殲滅せんとする事は並大ていの労苦ではなかった。
 終日炎暑に照らされ、使役の満人すらしりごみする鬱蒼たる密林に、あるいは泥濘膝を没する湿地帯には、さすが健脚を誇る北越男児も行軍の辛さをしみじみ味わわざるを得なかった。
 しかも討伐隊出動を耳にはさんだ匪賊達は、部隊が出動した五月二十四日以後は得意とする逃げ足でそこら近所にまごまごしていなかった。わずかに安田准尉の指揮する一隊が二十八日密林中で便衣の匪数十名と遭遇、交戦約三十分にしてこれを壊走せしめ遺棄死体二を得たにすぎなかった。
 二十四日より三十一日にわたる討伐間、不幸めぼしい敵とも遭遇せず憤懣やる方ないところではあったが、警備地区粛正と言う当初の目的は充分達せられ、各部隊とも自己の担任地区を跋渉して、状況地形に通暁し得、かつ一日十数キロの密林湿地帯を征服した訓練上の効果、はては満軍との協力等々得る所甚大なものがあった。
 二十八日二十三時すぎ、最大の目あてであった老人溝山系中の最高所大青頂子の頂上に達した一同は、その連山をはるかに見下ろして万歳を三唱しこの行の一区ぎりをつけたのであった。

大陸の夏

 高粱の芽が五寸伸び一尺伸びて、いつか人の背丈をかくす様になった。
 六月を迎えて我々も渡満以来三ヶ月、大陸の生活にもぼつぼつ慣れて来た。
 北満の夏こそ我々に許された一年一度の大切な訓練期間である。猛烈な演習の合間には寧日ない討伐と、駐屯勤務もますます繁忙を極めて来た。六月中における各駐屯部隊の討伐出動回数は十五回、戦闘回数は二回であった。
 六月下旬に至り、従前よりひそかに兵力を増強中と伝えられた極東赤軍は突如、国境センヌハ島(奇克島西方十六キロ)を占領した。
 満州国の治安に任ずる関東軍としてはもちろん看過し得ざる所である。部隊も命令により即時○○兵準備態勢に入った。
 この事件は幸か不幸か双方の外交交渉によって、越えて七月三日円満に解決されるに至り、我々の緊急態勢も一応は解除される事になったが、如何したことか、軍情報によればこの頃より北満に於ける共産匪の地下運動は漸次活発となり、これと相呼応するが如く我々の警備地区の各地にも共産匪の蠢動が目に見えて激増した。我々の任務も日を追って多忙を極めるままに、日一日と不気味に過ぎて行った。

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