入営から大陸上陸頃まで


軍隊入隊まで働いていた坂上屋酒店(昭和十一年頃)
辰ドンというのが石坂辰雄である
ご用聞き回りをしている石坂青年
坂上屋酒店の着物がよく似合っている



「入営」

石坂 「俺は子供の頃から軍隊が大好きでね、小さいときはよく戦争ごっこをやったものだよ。そこら辺から拾ってきた棒切れを指揮刀代わりにしてね、
『突撃』
 とか叫んでさ、みんなで遊んだよ」

藤本 「そうして、夢かなった日が昭和十二年一月十日、高田歩兵第三十連隊第七中隊への入営ですね」

石坂 「あのときはうれしくてうれしくて仕方なくてね、これでやっと一人前の漢になったと胸を張ったもんだよ。憧れの兵隊さんになれたんだからね。
 『祝入営 石坂辰雄君』というのぼりが坂上屋(東京・荻窪の酒屋)に飾られてね、故郷の村中が祝ってくれたな。万歳、万歳、万歳ってさ。
 村のみんなが台紙に寄せ書きしてくれて餞別をくれたよ。金五十銭とか、はがき二十五枚とかね」

*補足(藤本)
 石坂准尉の本籍地は新潟県であるため、働きに出ていた東京から帰郷して高田歩兵第三十連隊に入隊した。



広井千代野さん  坂上屋にひるがえる祝入営ののぼり

*補足(藤本)
 写真左「祝入営 石坂辰雄君」というのぼりの下にセーラー服姿の女の子がいるが、このお嬢さんに石坂准尉は恋愛感情を抱いていたそうである。写真が小さいので、顔をよく確認できないのが残念だ。




「私的制裁」

藤本 「なるほど……ところで、志願だったんですか」

石坂 「いや、志願ではないね。徴兵検査を二十歳のときに受けて入隊したんだ。無論、甲種合格だよ」

藤本 「資料を拝見しますと、一月に入営して四月には満州派遣の命が下っていますから、三ヶ月くらいしか内地にはいなかったんですよね」

石坂 「うん」

藤本 「つまり実質、満州の現地で本格的な訓練を受けたと、ふむふむ。
 ──初年兵時代の思い出を話してください」

石坂 「入って半年くらいは敬礼の練習とかの基本動作だよ。それに射撃だね。十五メートルくらいの標的を撃つことからはじめて、段々と的を遠くしていくんだ。最後は三百メートルくらいまで延ばしてね。支那でドンパチしていたから、実技教練も早かったような記憶があるよ。何より、精神的な教育も叩き込まれたね。まあ、そうはいっても、あの頃は軍国少年だったから、自分の命が惜しいとか、そんな弱気はみじんもなかった。軍隊に入ったときから俺の命は国にささげていたんだ。今更学ぶことなんてなかった」

藤本 「立派な心がけですね。戦後教育にどっぷり漬かっている団塊の世代に聞かせてやりたいくらいだ(笑)」

石坂 「初年兵時代の思い出といえば、二年兵が怖くて仕方なかったな。日曜日に酒保に行ってお菓子でも買っていようものなら、背中をぽんっと後ろから叩かれてね、
『おい石坂、何を買っているんだ』
 と、先輩の兵隊がおっかない顔してにらむんだ。だから、大福とかの差し入れがあっても食べるのは皆が寝静まった後だよ。それまでは布団の中に隠しておいて、夜中になってから毛布を頭からかぶって、もぐもぐとやるんだ。もし見つかろうものなら、
『お前はたるんでるぞ』
 と、怒鳴られて、びんたされてしまうからね」

藤本 「従軍体験のある人がよく話すことですね。ですが、殴られずに一人前の漢になった人なんていませんから、俺は体罰を肯定していますよ。みんな理不尽な体験を通して、世の中を理解するんです。実際に企業とかに就職すれば誰しもが分かることなんですけど、会社というのはむちゃくちゃなところでしょう。自分が悪くなくても上司の失敗をかぶったり、わけの分からない理屈で叱られたりする。免疫をつけておくためにも、軍隊経験は必要だと思いますよ。漢になりたかったら、理不尽に殴られなくちゃならないんです(笑)
 大昔のある空想科学小説家の思想なんですけど、
『若者を知識に導くことはできるが、考えさせることはできない』
 というのがあります。俺はこの言葉に諸手を挙げて同意します。二十歳前後の若者など、まだまだ子供です。軍隊の陰湿な体罰はよろしくないとか、きれいごとを言って反軍を気取る人が世にいますが、道徳を学ぶためにも、とにかく殴られなくちゃならないんです。そして、除隊してから、こう考えるんですよ。
『果たして、あの人は愛のむちで殴ったのか。それともただのごろつきだったのか』
 前者だったら、素晴らしいことです。その二年兵は倫理を教えるためにやむなく殴らざるを得なかったんです。後者だったら、ただの理不尽です。しかし、たとえ理不尽だって、俺が先に述べたとおり、実社会に出てから役に立つことなんですよ」

石坂 「そうだね。あんたが言うとおり、そういう一面はあるね。しかしね、俺の初年兵係についた兵隊が山口上等兵というんだけど、この人の私的制裁はすごかったよ。二百人ほどいる中隊で一番びんたをした兵隊として名をはせた漢だったからね(笑)。もうびんたは毎日のように飛んでくるんだ。体罰を絶対してはいけないという軍隊の決まりがあるはずなんだけど、守られたことなんて一度もなかった。でも軍隊では口答えが許されないから俺は黙って殴られるだけさ。そうだな、あの手この手でやられたけど、特に痛かったのは、上靴(スリッパ)でひっぱたかれるやつかな。あれはこたえたね。
 さすがの俺も頭にきたもんだから、口答えはしないまでも目がそう訴えていたんだろうね、ある夜、山口上等兵が不満げな俺を見てこう言ったんだ。
『石坂、勘弁しろよ。俺は何もお前が憎くて殴っているんじゃない。お前は見どころがあるから、特に厳しく指導してやっているんだ。中村や小野塚を殴ったって、たいした価値のないやつらだから意味がないんだ』
 そんなこと言われたって、同年兵の小野塚や中村を横目に、殴られるのは俺ばっかりだったから、畜生めと思ったよ。確かに中村なんかは上等兵で、つまり普通の兵隊で終わったんだけどさ、あの当時は参ったよ」

*補足(藤本)
 伊藤桂一『兵隊たちの陸軍史 
兵営と戦場生活』という本に、兵隊の一日の日課について記されている。

***

 〔営内における日課〕
 日常生活の基本である一日の日課は、つぎのようなものである。起床時間は夏季と冬季では一時間違う。要するに、明るくなるまでは寝かさない、というのが兵営生活の建前である。

<一日の日課>
区分
行事
時間
日常生活ノ概要
午前
起床
五、〇〇―六、〇〇
起床後直ちに服装を整え寝具を整頓する。
日朝点呼
起床直後
班内(室内)に整列し、週番(日直)士官立会の下に、内務班長の指揮で人員の検査を受ける。
この際診断を受けたい者は申出る。
点呼後内務班の掃除、兵器、馬匹の手入を行い、朝食までの間、射撃予行演習、銃剣術、又は乗馬等の訓練を行う。
朝食後、日課演習整列の準備を行う。
朝食
六、三〇―七、三〇

演習
診断
会報
昼食
午前八、〇〇――午後四、〇〇
一〇、〇〇
(会報)

正午―午後一時
(昼食)
入隊当初は主に営内で、軍人としての心得、軍人勅諭の精神等を学ぶ。
(患者は医務室で診断を受け、週番下士官は連隊本部で会報を受領)
徒歩教練(乗馬教練)等各兵科の訓練がつづく。
時には夜間演習も行う。
午後
入浴
四、〇〇―七、〇〇
全員毎日入浴し、保健、衛生につとめる。
夕食
五、〇〇―六、〇〇
演習終了後直ちに兵器、馬匹の手入。その他受持区域の清潔整頓をする。
休憩
六、〇〇―八、〇〇
学科の自習、家郷への通信、又は酒保へ出かける。
日夕点呼
八、〇〇
日朝点呼と同じ。命令、会報等伝達される。
消灯
八、三〇―九、三〇
不寝番以外の者は全員就寝。なお勉強する者は中隊事務室等をかりて行う。
備考
一、この表のほか、時に臨時点呼、不時点呼、非常呼集、防火、防空演習等が行われることがある。
二、中隊ごとに週番制があり、週番司令の指揮に属して、営内各区域を巡視警戒する。週番士官、週番下士官、週番上等兵、厩週番上等兵等である。(士官は懸章、下士官以下は腕章をつけている)

 右の日課は、すべて、ラッパにはじまりラッパに終る。ラッパだけが、生活のなかの音楽?なのである。

『兵隊たちの陸軍史 
兵営と戦場生活』(番町書房)の六十二~六十四ページまで引用




後列左から、初年兵 石坂二等兵、小野塚二等兵、中村二等兵
前列、二年兵 山口上等兵
(入隊時の戦友たち)
入隊時の班長 田辺伍長



石坂准尉の覚書(歩兵第三十連隊入営)
『支那事変史』 満州第一七七部隊将校集会所 (石坂准尉の書き込みより)
 昭和十二年一月九日、高田歩兵第三十連隊入営のため、村民盛大の歓送を得て越後川口駅から高田駅到着、高田旅館に泊まる。連隊から派遣された小野塚軍曹から入営に関する知識を教えられ、翌十日入営、第七中隊に編入。
 中隊長滝本大尉、教官宮田少尉、人事係池内准尉、班長小田軍曹、田辺伍長。一ヶ月後、中隊長滝本大尉栄転、後任に森大尉着任。



「山口上等兵」

明夫 「もう七十年くらい前の話なのに、おやじはまだ根に持っているんだ(笑)」

藤本 「そりゃそうだよ、明夫さん。だって石坂准尉はいまだに現役なんだから(笑)」

石坂 「面白いことにね、戦争が終わってから戦友会で山口さんと会ったんだけど、態度が豹変していたのは笑ったね。『鬼の山口上等兵』が『仏の山口上等兵』になっていた」

明夫 「何それ、おやじ」

石坂 「つまりね、俺を散々やっつけた山口さんがさ、戦後に会ってみればね、俺にべったりすり寄ってきて、えびす顔で話しかけてくるんだよ、いろいろとね」

藤本 「いい人じゃないですか。山口上等兵はあの当時、石坂准尉のことを思って指導されたんですよ」

石坂 「どうだかね」

明夫 「やっぱり根に持ってる(笑)」

◆一同 (笑)



池内准尉、木暮准尉、渡辺准尉
後列 深井曹長、成田曹長
(入隊時の准尉、曹長)
左 石坂二等兵、右 初年兵係 山口上等兵

(山口上等兵はなかなかの美男子だったそうだ)

*補足(藤本)
 第一期の検閲が終わり、はじめて外泊の許可が下りた石坂准尉は、軍服姿で両親のもとに帰った。家中の人から大歓迎されたという。




「食料事情」

藤本 「ほかに何か思い出はありますか」

石坂 「そうだな、また『教育的指導』の話なんだけど、軍隊には内務班というのがあるだろ。大体、二十数名くらいが一班で……班長の軍曹一名、伍長が一名、あと初年兵係の二年兵がいるんだけど、この教育係は数人の初年兵に一人がつくんだ。軍隊ではこの組が最小の家族になるのかな。
 あるとき、内務班の中で、絶対に叱ったりしないから、率直に自分が感じたことを作文にして提出しなさい、ということがあった。俺はこれ幸いとばかり、ばか正直に思いの丈を書きつづったんだ」

藤本 「何て書いて出したんですか」

石坂 「飯のことだよ。軍隊ではね、飯の時間が異常に短いんだ。遅い人でも三分はかからなかったくらい。一番早い人なら、わずか一分で、はいっごちそうさまだもの。さすがにこれではゆっくりしていられないから、もう少し時間を下さいと書いたんだ。そうしたらね、たんまりとびんたを食らったよ。
『お前は兵隊としてなっとらん』
 とか言ってさ」

藤本 「何ですか、それ。絶対に叱らないなんて言っておきながら(笑)」

石坂 「飯にまつわる話はまだある。やっぱりまだ初年兵だから、先輩たちのご飯を運ぶ仕事(飯上げ)をはじめはやらされるんだ。帰りには五、六人の初年兵で膳を下げるんだけど、腹が減っているものだから、炊事場に食器を返却する道すがら、残飯をつまんでみんな食べてしまうんだ」

明夫 「人の食べ残しのぐちゃぐちゃしたやつを」

石坂 「そうだよ。腹が減っているんだから仕方ないよね」

藤本 「当時の食料事情がうかがえる興味深い話ですね」

*補足(藤本)
 伊藤桂一『兵隊たちの陸軍史 
兵営と戦場生活』に、食事時間に関する記述がある。

***

 予科練の場合は、少年兵を短時日に有用の兵員に鍛えあげるため、格別にきびしい教育と訓練を必要とした。予科練については諸種の参考書もあるのでここでは触れない。ある席で予科練出身者が「在隊間時に食事を三十秒で食わされた」と話したので、その席にいた他の戦争体験者がみな驚いたが、関東軍出身の者だけは「われわれもやらされた」といって別に驚きもしなかった。どうして三十秒間に食事ができるのか、ときくと、どうしてかわからないが、「食事はじめ」の命令があり「食事終わり」の命令が出ると、そのときに眼の前の食事はなくなっていた、と、かれらは答えた。今では笑い話であるが、これは一部関東軍や予科練の生活の実態を語っているようである。

『兵隊たちの陸軍史 
兵営と戦場生活』(番町書房)の百十九~百二十ページまで引用


*補足二(藤本)
 船橋忠利『
歩兵第三十連隊・支那駐屯歩兵第一連隊 中国大陸五年の歩み ハルピン駐屯 大陸横断作戦 野戦病院』という本に初年兵の食料事情に関する記述がある。

***

 初年兵は教練の外に雑用が多く、一日中休む間もなく動いているから本当に腹が減る。一食二合の飯に副食もあるから量的には多いのだが何時でも腹ペコだ、古年兵の残したのを汁をかけて流し込む位は常例だ。これは机の末端に座って居て上から送って来る食器に残ってるのを素早く見て、一瞬に流し込む特技だ(秋元・志田は上手かった)。下士官室や中隊事務室に食器を下げに行くと大概食べ残しがある、これを中隊当番の茶器を置く薄暗い所に立寄って手摑みで食うか、洗面所に食器を洗いに行く振りをして流し込んで来る。

歩兵第三十連隊・支那駐屯歩兵第一連隊 中国大陸五年の歩み ハルピン駐屯 大陸横断作戦 野戦病院』の三十ページから引用


*補足三(藤本)
 朝香進一『初年兵日記』という本に、食料事情に関する記述がある。

***

 日増しに訓練がはげしくなり、食欲はとどまることを知らない。食事が待ち遠しいが満腹感など覚えず、いつも空腹をかこっている状態である。そのことは皆も同様であると思う。食缶下げが人気のマトで、使役志願者が殺到したことも故なしとしない。彼等は食缶にこびりついたコゲメシなどの余録を期待しているのだろう。食器洗い場の残飯桶はいつもカラッポだ。ただし予防注射の日は例外である。

『初年兵日記』の二十五~二十六ページまで引用



石坂准尉の覚書(軍歴)
『駐満記念 鮫城部隊』 満州国牡丹江省穆稜 柏部隊将校集会所 (石坂准尉の書き込みより
 昭和十二年一月十日、高田歩兵第三十連隊第七中隊入隊。二月十一日、第二師団に満州派遣の大命降る。四月十一日、駐屯地高田出発。十二日、新潟港出港。十五日、朝鮮羅津上陸。十六日、駐屯地浜江省山河屯到着。五月、匪賊討伐。
 八月十八日、北支戦線に出動命令下る。山河屯─―承徳─―内蒙多倫─―張家口(万里の長城)を経て九月三日、最前線永嘉保に到着。天鎮の戦闘―─鎮辺の戦闘―─山西省第二の都市大同無血占領(十三日)─―鉄角嶺の戦闘─―原平鎮の戦闘─―南庄頭の戦闘─―山西省の首都太原占領(十一月九日)。十二月三日、満州の原隊に帰還(戦死者百四十一名、戦傷者多数)
 昭和十三年六月、掖河移駐。七月、ムーリン移駐。
 昭和十四年八月、満蒙国境ノモンハンに出動。九月十六日、停戦協定成立。十月十八日、ムーリンに帰還。
 昭和十五年、連隊は第二師団から第二十八師団に編入。九月、ハルピン移駐。
 昭和十八年、饒河に移駐。
 昭和十九年、宮古島に進駐。
 昭和二十年八月、終戦。
 昭和二十一年、復員。

*補足(藤本)
 石坂准尉の残した資料を照らし合わせると、矛盾している記述が目につく。大昔の出来事なので、勘違いや不明な点があるのだろう。
 従軍記録をまとめるに当たって、できる限り不具合は修正したが、判然としない箇所はそのままになっている。




「運命共同体」

石坂 「話は変わるけど、軍隊ではね、便所に行くときも必ず班のみんなに断ってからじゃないといけないんだ。
『石坂二等兵、厠に行ってきます』
 帰ってきたら、
『石坂二等兵、厠に行ってきました』
 とね。
 生き死にをともにする仲間だから、約束ごとにはうるさかったね。班の一人が何かをやらかせば、一個班全員の責任になるんだ。そういうときは二十名くらいが横一列に並んで、順番にばちんばちんと営内靴で叩かれるか、半数ずつに分かれて対抗びんたをさせられた。
 もちろん、逆らうことはできないよ。一つでも階級が違う者のすることは天皇陛下のすることと思え、というのが軍隊のおきてだからね。さっきも言ったけど、一応は兵隊に手を上げてはいけないとか、いじめてはならないという決まりがあるんだけど、そんなものは言葉だけで現実は全然違うんだよ。でもね、満州に行ったら、制裁が全くなくなったね。さすがに外地だから、厳しく戒めたんだろうね」

藤本 「貴重な証言ですね。勝 新太郎の『兵隊やくざ』を見ていると、関東軍の平手打ちは甘いもんじゃないぞ、とか言って、すごいのかと思っていたんですが、満州ではそうではなかった、と」

石坂 「うん。百万人を擁する関東軍に俺はいたけど、びんたがなくなったね」

藤本 「つまり、内地での高田連隊は軍規が弛緩していたということでしょうか」

石坂 「まあ、言葉で言えばそうなってしまうのかな(不満げな表情の石坂准尉)
 ……見逃せないのは日本軍が朝鮮の女をさらってきたとか南京で虐殺があったとか、そういうのは全くなかったことを声を大にして言いたいんだ。自国の兵隊に対するびんたがなくなったというのに、まして他国の人に危害を加えるような情けないまねはできないよ。最前線の戦場を転戦した俺が言うんだから間違いない。この目で実際に見てきたんだから。
 敵地を攻略したとしても、二、三日もすればすぐ憲兵隊がやってきて治安は維持される。若いあんたに言っても昔のことは分からないと思うけど、憲兵っていうのは生真面目な連中でね、その憲兵たちがにらみを利かせている中で、一体どうやったらそんなひどいことができるというんだ。結局、みんな敵側のプロパガンダ、つまりでっち上げなわけさ。偽写真をこしらえたり、ありもしない極悪非道な事件を創作したり、とね。それらは全てわが軍の仕業にされ、敵側は声高らかにその邪悪を糾弾するっていう筋書きさ。
 武力で激突する戦いだけでなく、宣撫工作という思想戦があることをいいかげん理解するべきだよ。あの当時の支那側が捏造した謀略がそのまま今になっても引用され、日本国民自身が自軍になすりつけられた悪口を信じてしまっているんだから。
 まあしょせん、俺たちは負けてしまった側だから、勝てば官軍の理屈で、真実は歴史の闇に葬られてしまう運命なのかもしれないけどね。悔しいよ」



高田歩兵第三十連隊本部(新潟県高田市) 営門出発、征途に就く(昭和十二年四月十一日)

*補足(藤本)
 兵営の正門を出たすぐ近くに、石坂准尉の妻・マツエさんの生家がある。初年兵当時、石坂准尉は知る由もなかったが。
 二人が出会うのは先の話である(後述)



「出征」

藤本 「出征のときの様子を聞きたいんですが、どんな感じだったんですか」

石坂 「あれは昭和十二年四月十一日のことだ。さかのぼって二月十一日、第二師団に満州派遣の大命が降ってね、麾下の三十連隊もいよいよ渡満することになったんだ。営門を出て、軍旗を先頭に高田駅まで徒歩で移動した」

明夫 「町中が浮かれて、知り合いの人とかたくさん来たんでしょ」
 
石坂 「そうそう、もう万歳の声ではち切れんばかりの大騒ぎだった」

藤本 「国のために戦地に赴く若者たちの見送りですもんね」



儀我連隊長の訓示
高田駅頭にて市民に別れを告げる軍旗



「兄との別れ」

石坂 「高田の駅はね、人、人、人でぎっしりいっぱいだった。
 ……俺は三人兄弟でね、すぐ上の二番目の兄さんが高田駅まで見送りに来てくれたんだ。このときは思いもしなかったけど、俺が戦争から帰ってきた頃には病死していたんだ。だからこの別れが最後になってしまったね。死に目に会えなかったのは残念だったよ。しかもね、駅の中がものすごく混んでいたものだから、言葉を満足に交わすこともできず、固い握手をしてお互いに手を振りあうのが精いっぱいさ。二人の目には熱い涙が込み上げてきたのを覚えているな」

藤本 「悲しい話ですね」

*補足(藤本)
 戦争中、石坂准尉の兄・仁作さんは、軍需工場で働いていたそうだ。戦地で奮戦している弟のことが心配だったに違いない。




出征将兵を見送る高田市民
渡満時、石坂准尉がお世話になった民家の家族
(左から、美智、弘、忠雄、不明。後ろの大人が忠一)



「カレーライス」

石坂 「そうして、列車で新潟港まで行って市内の民家に一泊してから、輸送船天草丸に乗り込んだ」

藤本 「天草丸はいかがでした。たくさんの兵隊を乗せて出港したんでしょうから、すし詰めだったんじゃないですか」

石坂 「一個分隊は十五名で構成されていてね、俺たちに与えられた部屋が十畳くらいの大きさだった。だから、そんなにすし詰めだったわけじゃないね。今の感覚でいったら、確かに狭いといえば狭いけどさ。
 ……新潟から出帆して、佐渡を通り過ぎると、みんな甲板に出て、
『これで日本も見納めだな』
 と、別れを惜しんだのを覚えているよ。遠ざかる祖国の景色を眺めながら、それぞれの気持ちを胸にしまって戦地に赴いたんだ。
 さて、面白いのは次の日だ」

藤本 「と、言いますと」

石坂 「嵐になっちゃったんだ。その日の朝はカレーライスが出たんだけど、もう全員船酔いでぐったりしてさ、とても食事どころじゃなかった。船が揺れるたびに食器ががちゃがちゃと鳴ってね、まともに立っていられないくらいだった。
 でも、一人だけ平気な人がいた。その名は石坂辰雄(笑)
 俺はどんなに船が揺れても酔ったりしなかったんだよ。おかげで、好物のカレーライスを何人分も食べられて、いい思いをしたな」

藤本 「ちゃんとご飯を食べられたのは石坂准尉だけで、ほかのみんなはゲーゲーやっていたんですね」

石坂 「みんなには悪いけど、あのときは『ありがたい、ありがたい』と一人でほくそ笑んでいた」

◆一同 (笑)



出港を待つ天草丸 乗船する兵隊



「ヒエラルキー」

石坂 「便所の話だけど、天草丸にその設備はもちろんあった。だけど、それを使用できるのはお偉いさんだけだったから、俺たちのような下っ端の兵隊は、覆いの幕を垂らしただけの簡易式便所を使ったんだ。排泄物はすぐ海に廃棄される仕組みになっていた」

藤本 「将校以上ですか、ちゃんとした便所を使える身分というのは」

石坂 「そうだよ」

藤本 「どこの国の軍隊でもそうですが、軍という組織はヒエラルキーがすごいですね。便所一つとっても差があるなんて、とても勉強になります」

石坂 「同じような具合に風呂があるな。将校なんかは船の入浴所を使ってきれいでいられるんだけど、一般の兵隊は風呂には入れないんだよ。この当時は、船の中でゆったりと風呂に入れる人は限られていたから、珍しいことじゃないんだけどね。
 俺の経験上、船の中で風呂に入れたのは一度だけだ。宮古島に部隊が行く途中、そこにちょうど乗り合わせた同じ部落出身の船乗りに入浴させてもらったくらい」



石坂准尉の覚書(大陸に出征)
『駐満記念 鮫城部隊』 満州国牡丹江省穆稜 柏部隊将校集会所 (石坂准尉の書き込みより)

「第二師団に満州派遣の大命降る」


 昭和十二年四月十二日、部隊は市民の歓呼の声に送られて新潟港を出帆。二度と見ることがないものと覚悟しつつ、輸送船の甲板上から次第に遠ざかる日本列島に別れを告げた。皆、涙をこらえながら、食い入るように祖国を見つめていた。
 やがて佐渡も水平線上から没し、暗夜の日本海の荒波をけって船は北上した。次の日の朝、朝食にカレーライスが出されたが、あいにくこの日は嵐となり、誰一人食べる者がなかった。
 四月十五日、朝鮮羅津港に入港。港といっても、見渡す限り山に囲まれ、その山間に土造りの小さな平屋建ての民家が点在するだけである。浜の松風が吹きつける寒々しい場所だった。そうした中、部隊は直ちに下船、積み荷の運び出し作業に従事した。
 この夜は朝鮮の民家に宿泊した。はじめて味わう朝鮮料理の接待を受けた。
 明けて十五日、いよいよ大満州へ。満鉄を邁進する軍用列車の車窓から遠望する異国の風景は、果てしなく広がる大平原があるだけだった。ただ一時間に一ヶ村くらい、土塀に囲まれた集落が目に飛び込んできた。どの村にも高い見張りやぐらが見受けられた。
 同日深夜、目的地の山河屯に到着。それまでは防諜上、行き先がこの地であることは兵には知らされておらず、現地に着いてからはじめて知った。
 山河屯駅はハルピンの南、約三十里の地点にある。駅の周辺に民家はなく、鉄道員の宿舎が二、三軒あるだけだった。
 小雪が吹きつける零下二十度を越す寒さが身に染みた。山河屯の町まで一里もあろうか、軍用列車から降車したわが部隊の行軍は粛々と続いた。そうして、やがて町に入った。
 山河屯の目抜き通りの道幅は三メートルくらいで、両側の民家は土造りの平屋建てだった。朝鮮の羅津のように、やはり寒々しい雰囲気であった。
 兵営は町外れにあった。民家を借りたもので、高粱を使って建てられていた。室内は人の背丈よりわずかばかり上回っているだけしか天井の高さがなかった。部屋の中央には幅約一メートルの通路が設けられ、その両側はアンペラが敷き詰められていた。ここが兵隊たちの起居するところだった。暖はトーチカで取られていた。
 こうして、日本からの長旅は終わり、明日からは警備の重任が待っているのだった。



「朝鮮」

藤本 「カレーライスの話は面白かったです。船酔いしない体質の人は平衡感覚が優れている、と思われるからです。石坂准尉の兵隊としての資質、つまり身体能力を推し量ることができました。
 さて、話を進めましょうか、天草丸での船旅が終わって朝鮮の羅津に上陸したんですよね。この地の印象を簡単に教えてください」

石坂 「とにかく、何にもないというのが感想だね。見渡す限り、はげ山しかない。民家もわずかに点在しているだけで、寂しい港だったよ」

藤本 「朝鮮は昔から、山の木を切り倒してみんな赤土のはげ山にしてしまう悪習がある国ですからね。単純に、この地が栄えているとかいないとかのレベルを抜きにして、これは見過ごせませんね。おまけ話ですけど、朝鮮で水害が起きるとえらいことになりますが、これはあの国の人たちのそういった行為が大きく関係しているらしいですよ。木で覆われた山は水をため込むことができますが、はげ山ではどうにもなりませんからね。少し雨が降ったくらいでも、恐ろしい水害となって人々を苦しめるというわけなんです。
 何でも、李氏朝鮮時代、たくさんの木を切り倒してしまったらしいですよ。
 朝鮮人の一部に、
『日本統治時代に悪~い日本人(笑)が山の木を根こそぎ奪っていった』
 などと抜かしている者がいますが、あれは大うそです」

*補足(藤本)
 竜沼梅光『北満・宮古島戦記 
戦局と将兵の心理』という本に、朝鮮のはげ山に関する記述がある。

***

 名にしおう鴨緑江の流れを眼下に眺めているうち、列車は朝鮮へ滑り込んでゆく。大河とはいえ鴨緑江をへだてた、満州と朝鮮の文化、生活、環境など際だっていた。
 第一に眼につくのは水田の多いことである。車窓に映ずるものすべてが稲、稲、稲である。非常時の日本の穀倉といっても決して過言ではない。
 次には山に木が繁茂していることだ。満州の裸山に較べて、どの山を見ても松が青々と繁っている。元来この地方も禿山が多かった。その理由は冬の寒気が酷しいため、各家が温突を使っている。その燃料として木を焚いたのだ。無計画に山の木を切り、植林しなかったので、禿げ山ばかりとなっていた。朝鮮側は斎藤総督時代の植林政策が実を結んだため美林を貯えることができたのである。このことは半島人の間から非常に感謝されており斎藤実大将の功績が偲ばれる。

『北満・宮古島戦記 
戦局と将兵の心理』の四十六ページから引用



『支那事変史』
満州第一七七部隊将校集会所

支那事変満州第一七七部隊出動一覧鳥瞰図



第一章 第三次満州駐箚 (高田─五常)

第一節 大任を拝して


嵐に備う

 満州事変こそは、日本が、混沌たる古い世界に叩きつけた、現状打破、新理想建立の力強い一石であった。
 皇紀二千五百九十一年、皇国はこの年を以て、亜細亜の盟主、亜細亜の指導者として新亜細亜史の、否新世界史の第一頁を書きおろした。幾千万年に及ぶ大亜細亜の歴史に初めて時代が画され、大亜細亜に対する皇国の積極的指導が開始され、世界をあげて八紘一宇の大理想に生くべきを宣示されたこの年を、われらは強く記念せねばならない。
 文字通り東奔西走、大満州を一手にひきうけて、世紀の第一頁を書きあげた多門師団は、ゆかしい凱旋を故国に遂げ、わが部隊も共に昭和十二年一月二十一日、なつかしの故郷へ帰還した。ふるさとはまだ深い雪にうもれ、妙高、黒姫の連山は真白い冬化粧ながら我等を暖かく迎えてくれたが、われらの任務は決してこれで終了したのではなかった。大亜細亜の指導者として、世界の歴史に一線を画した皇国の前に、後に、次ぎに来たるべきものが不気味な胎動を見せてひたぶるに迫っていた。宣戦なき戦いが、内に自由主義、社会主義の爛熟した悪臭となり、外に全世界をあげての日本包囲となってあらわれていた。まさに非常時である。将に起こらんとするアジアの嵐、否地球の台風に備え、われわれはただ黙々と猛訓練に邁進した。妙高の天飃を冒して関山に、さては極寒の直江津海岸に、真実血のにじむ鍛錬がくりかえされた。
 苦しいにつけ、楽しいにつけ、われわれの脳裏を須臾も離れないのは、崇高な
軍旗 の神さびた御姿であった。日露戦役、満州駐箚、西比利亜出兵、満州事変と、大陸の礎石と神鎮まりました幾多先輩、戦友の血の教訓を思う時、いかなる時、如何なるおりも股肱たるの信念に生くるわれらの歩調はかるかった。

満州駐箚の大命降下す

 昭和十二年二月十一日、時あたかも紀元の佳節にあたり、第○○団満州駐箚の大命が降下された。
 想起すれば明治三十七年、日露の風雲急を告げる大陸に、初めて歩武堂々の軍を進めてこのかた、過ぐる満州事変に於ける赫々の征旅と、ここに数えて今や三たび、鮫ヶ城部隊に拝する満州の大命であった。
軍旗 の伝統の下、尽忠を誓う儀我誠也部隊長以下千余の健児の胸中は、この日、この佳き日に拝する大命の感激にただ波と騒いだ。
 事ここに至った昭和十二年春までの満州の状況は如何?
 満州は帝国の生命線である。我が日本民族はこの生命線を建設するため、御稜威の下幾十年もの長い間血みどろの戦いを続けて来た。
 言葉を換えて言うならば明治維新このかた日本の総力の大半はこの大陸に傾注されて来た。
 日本国民がこの大陸に感ずる骨肉の情こそは、大陸の礎石と散った幾十万父祖の尊い生命の囁きであり、何物にも換え難い言わばせっぱ詰まった感情に外ならない。
 満州国はこの年、昭和十二年を以て、建国第六周年を迎えた。この五年間に於ける新帝国の堂々たる建設の歩みはけだし世界の国家創造史上に、凛然たる新紀元を画するものであった。
 建国当初の大同元年(昭和七年)には実に三十数万を数えた匪勢も、康徳三年(昭和十一年)末にはわずかに数万に粛正され、またこの年を以て実施された軍政改編による国軍の確立、同じくこの年を第一年次とする経済五箇年計画の展開と、治安に、軍備に、経済に、文化に、はたまたその他のあらゆる部門に示した飛躍的な発展は、まさしく全世界を驚倒せしめた。
 昭和十二年若い満州は揺籃時代を脱して希望に充ちみちた青年時代に足を踏み入れようとしていた。三千万国民の総意によって、今見事に開花した「満州国」は、吹き荒ぶ飽くなき貪婪の嵐の中に意志と力とによって敢然生き貫いた血の結晶であった。
 我々が建設満州と呼ぶ所のものが、蒋介石を代表とした中華民国政府にとって、侵略行為以外の何ものでもなかったとしてもそれ程に不合理なことではない。新しい理念の上に立脚して東亜を再組織する事を自己の責任と観ずる日本の行動が、依然として民衆を搾取し、国を売る事によって生存を続けようとする彼に、全然うらはらに解釈される事は寧ろ当然であった。
 満州事変の総決算である塘沽協定が成立した瞬間、彼等の間に
 失地回復!という指標が生まれた。
 彼等の失地回復とは言うまでもなく満州の事であった。花園を荒らす嵐は早くも吹き始めた。支那は民治という点から言えば古代より東洋の先進国であった。三皇五帝の古えよりこの国の理想とする最も良き施政者は最も良く民を治める者であった。しかしながらこれは近代支那に関する限り全く別であった。孔孟を生んだこの国の政略家達は民を治する前に民衆を効用する事を学んで事大に生き永らえて来た。
 英雄蒋介石は孫文なき後、三億の民衆と巨大な資源を周って行われた露骨な覇権争奪戦下の代表的な政略家の一人であった。支那人である彼は、支那が満州を失った時に、密かにほくそ笑んだ。何となれば、全支統一という彼の宿望を達する唯一の機会が到来したのであった。
 彼は臆面もなく「失地回復」─対満攻勢─こそ支那(実は彼自身)を救う唯一の途なりと号した。
 民族の楽土と民衆の幸福を省みることなく行われた彼の対満示威は、排日、侮日の有形、無形の姿をもって支那全土に波及した。
 昭和十二年頃までの二、三年の間、全支各地でくりかえされた毎年数十件に上るこの種紛争事件の直接の矢面に立ったものは、実に満州そのものであった。
 しかも昭和十年リースロス案によって支那の銀が英米陣営に一握りにされてからは、この傾向が一段と拍車をかけられた事は忘れてはならない。蒋介石を中心とするその一派は、愚かしくも虎狼を柵に入れて頼もしい後援者と観じた。長城線を隔てた北支に就いてこのあらわれを見るならば、大陸の安全弁として設けられた冀東地区ではこの数年来、破廉恥にも我が目をぬすんで着々とその武装化が行われ、十一年一月北京朝陽門外の自動車射撃事件(二十九軍兵士が鈴木中尉以下七名乗車の自動車を拳銃で狙撃せる事件)、同五月二十九日、天津東站の我が輸送列車爆破事件、同七月二十六日、九月十八日と相次いだ豊台の皇軍侮辱事件等々、ほとんど枚挙に暇ない程侮日事件の頻発がある。北支の対満攻勢は今やまさに爆発点に達しつつあったのである。
 満州国が今一つ境を接する国ソ連はどうであったか。
 一徳一心の国満州と、共産主義の国ソ連との間柄は、建国より数年来必ずしも完全な友好が保たれていたとは言い得なかった。
 延々たる国境線の各所ではしばしばソ連兵の越境が行われたが、ただ事を好まざる日満当局の忍耐に依って辛うじて平穏を保ち得て来た。にもかかわらず、ソ連は昭和十二年の解氷期を目指して極東赤軍の兵力を増強中と伝えられた。また当時、三江省辺りに蠢動を始めた共産匪の動勢は、ソ連の弁明するとせざるとにかかわらず満州国の治安に及ぼす大きな影響となってあらわれて来たった。
 危ういかな北方の生命線!
 まさにかくの如くして昭和十二年春を迎え、東亜民族の楽土「満州」はあらゆる敵性の毒牙にその裸身をむき出していたのであった。

祖国よさらば

 おくればせな北越の春もようやく荒川の水にぬるみ、南葉山の桜も綻び初めた春四月、部隊はその月の一日、編成に着手した。不眠不休で同七日全くこれを完了、我々の出陣の用意は遂になった。
 四月十一日
 今日ぞ待ちに待った出発の日。
 この日朝まだきを期して六時、部隊全将兵は風薫る営庭に粛然と整列した。部隊長の出発に際しての訓辞に一しおの感銘を以て襟を正した全員は、やがて嚠喨となり響くラッパの音と共に、旭光を背に、奮勇のアーチに送られ、新田少尉の捧持する
軍旗 を先頭に歩武堂々、本町通りを一路高田駅に向かって行進した。
 懐かしい営門を出ると駅までの長い沿道は至るところ歓送の幟、装飾門に埋められ、手に手に日の丸の旗で我等の壮途を送らんとする熱誠あふるる市民の群れが、所狭きまでに立ちならんでいた。
 送る者も送られる者も、ただ感激にうちふるえ志気いよいよ軒昂、やがて到着した駅頭に於いては、高田市長の送別の辞が市民の決意となって披瀝され、これに対し部隊長よりの力強い答辞が、一言一言市民の胸につきささって行った。
 定刻。我等を乗せた軍用列車は思い出深い○○ホームを静かに離れた。
 息づまる感激の堰をどっと切って、期せずしてあがる歓呼の嵐!
 この郷党の輿望
 我等の胸に去来するものはただ一つ、二度と還らぬますらおの鉄の如き誓いであった。
 同日新潟へ着いた部隊は、ここでも市民の手あついまごころを受けて、祖国におくる最後の夜を心ゆくまであたたかく、過ごす事が出来た。
 明くれば四月十二日、新潟港出帆の日にあたり、
 畏き辺りでは、特に侍従武官町尻少将を埠頭まで御差遣遊ばされた。晴れの鹿島立ちを前に拝したこの
 御鴻恩に、将兵一同ただ感涙に咽ぶのみであった。
 十五時三十分。
 在郷軍人、地方有志の盛大な見送りの裏に、軍用船たこま丸を先頭に、天草丸、台中丸のわが船団は次々と静かに埠頭を離れた。
 見送りの人かげがだんだんに小さくなるにつれて懐かしい山々もやがてうすれ、左舷にぽっかりと緑の佐渡が浮かんだのを名残に、みはるかす紺青の海に向かって船団は進んで行く。
 兵隊たちは、今更の様に遠ざかる祖国に熱い目を投げる。未練の涙ではなかった。
 これ程に有り難く、
 尊い祖国を持った誇りと感激を、じっとうけこたえているのだ。
 心のほぞをじっとかみしめているのだ。
 文字通り一望千里の日本海の波頭を蹴って、船は一路目的地羅津に向かった。

羅津から五常へ

 十三日なまぬるい風に霧の降りしきる船旅を終えて、明けて十四日の正午過ぎ。
 たたなわる水の彼方に、目指す朝鮮半島が薄墨の様に見え初めてから小一時間過ぎ、我等を待つ羅津港がくっきりとその姿を見せた。あかちゃけた山肌が直接海辺に迫るこの北鮮の港は、のっぺらぼうな桟橋が一本、海中に突出して、人家もほんの数えるほど、故国の美しい港に別れて来た我々には寒村といい度い程に物寂しく、心なしかうそ寒かった。それもそのはず、長白おろしが吹きおろしていたのだ。寒気には相当自信のある我々も流石にこたえた。全く自分達は大陸の空気に対して無防備でいたのである。その夜を船中で過ごした部隊は明けて十五日八時上陸を開始、同日午後から列車輸送が行われた。
 いよいよ駐屯地へ行くのだ。
 いったいどんなところだろう?
 兵隊のささやき合うのは決まって未だ見ぬ自分達の第二の故郷の事である。
 十六日一時四十五分。部隊は鮮満国境図們を通過した。これでいよいよ我々も憧れの満州に第一歩を印したわけである。
 部隊は国境通過時を以て関東軍司令官の隷下に入り、我々の駐屯地はかねて内命のあった如く北満の五常県と決定した。
 正午すぎるころ敦化を通過した。ここから以西の一帯はわが部隊が過ぐる満州事変に於いて吉敦線警備に任じた転戦の地である。桂大隊の額穆討伐、相葉支隊の新站討伐、第七中隊の敦化砲台山の救援等々五指に余る激戦が想起される。
 それにしても高粱の繁茂する中を兵匪、土匪が我が物顔に跳梁したあの頃に比べて何とした違いであろう。見違える様に立派になった部落、町々、平和に農耕にいそしむ満人たち、当時を知る者には転た感慨無量のものがあった。
 この日は降りみ降らずみの小雨空で、やがて夕方から吹雪きに変わり、寒さは列車の北上につれてますます厳しくなる。かてて加えて沿線は連日の降雨のためかなりの増水で、このため我々の列車は約一時間延着してその夜の二十三時すぎ、ようやく五常駅に到着した。
 初めて見る北満の町である。
 大地からにょっきり生えた様な泥の家々から、話に聞いた馬賊さながらの物騒な顔付きの満人が、三々五々集まって来ては新来の珍客に怪訝な目を瞠る。あたりは粉雪が二寸近くも積もって居た。
 ホームに降りたとたんに一人の兵隊が「おうい」と呼んだ。
 「日本人が居るぞ!」
 なるほどホームを見すかした向かい側に白いエプロンの日本婦人が数人湯茶の接待に立ち働いていた。有り難いぞ!
 町に出ると思いがけなく軒並みに日の丸の旗が我々を歓迎していた。
 後になって全くおかしな事であったが、こんなところにも日本人が居てくれたと、兵隊達は真実有り難く思ったことであった。

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