ダゴン――もう一つの



 昭和二十年の初夏、私が所属する某隊──通称「夜桜決死隊」は、かねてからの計画どおり、イ号潜水艦一隻で米国西海岸に肉薄、ペストノミを散布するという絵空事のような作戦を決行した。隊員一同、無謀は百も承知だった。戦局不利の情勢下──乾坤一擲の反撃に賭けた軍首脳の後押しもあいまって──われわれは決死の大博打に命運を委ねざるを得なかったのだ。
 私の任務はイ号潜水艦に搭載された三菱工場製の特注機──げたばきの零式水上観測機の操縦である。米本土到達後、零式水観は細菌兵器散布に威力を発揮する。単機で米軍と銃火を交えなければならないことも予想されるだろう。
 責任重大だった。皆の期待に応えようと覚悟を決めた。しかし、私のやる気とは裏腹に、作戦立案段階から問題視されていたむちゃくちゃな計画は、イ号が中部太平洋に進出した段階で早くも頓挫してしまった。このときすでに、米国海軍はイ号を捕捉していて、撃沈の機会を今か今かと舌なめずりして待っていたのである。
 緊急事態に気がついたのは、くしくも私だった。そのとき、イ号は潜水艦長の精神衛生上の計らいによって浮上していたが、私だけは偵察飛行をおこなっていた。隠密作戦だというのに、水上機の姿をさらす真意が分からなかったものの、有無を言わさず命じられてしまったので致し方なかった。とはいえ、手持ちぶさたの環境にやきもきして落ち着かなかったから、与えられた命令には忠実だった。
 しばらくすると、零式水観の眼下に、敵艦とおぼしき姿がぼんやりと浮かんでいるのが分かった。装備されている貧弱な武装では太刀打ちできない。すぐさま操縦桿を滑らして、急迫した事態を知らせるために母艦に向かった。しかし、かかるときに限って発動機の調子がおかしかった。明らかに調子の狂った音が聞こえてくる。
「最近の飛行機は質が悪くなる一方です。何たって、女子供が組み立てているんですからね。下手すりゃ、アメ公とやり合う前に機体不良で落っこちちまいますよ」
 内地を出る前に、ある下士官と交わした会話を思い出して不安におののいた。戦況が窮迫しているこの時局、動員された女工らが作った本機は、確かにお話にならないくらいの仕上がりであった。稚拙な工作技術のために機体の強度に信頼が置けないので──極端なことをいえば、乱暴に扱ったら飛行機が空中分解してしまいそうな具合なのだ。
 そうこうするうち、耳障りな騒音はだんだんと音量を上げていき、徐々に機体の自由も利かなくなった。私は飛行技術の全てを尽くして持ち直そうとしたが、努力むなしく海面に激突してしまう運命から逃れられなかった。しかも、脱出用の落下傘を頼りに空に浮かんでいなければならないのに、運悪く操縦席から投げ出され、計器板に頭をぶつけて気を失ってしまった。
 目を覚ましたのは日暮れごろだった。額に負った傷はたいしたことなく、五体満足だった。
 自分が置かれている状況を確認すると、零式水観の操縦席に倒れ込んでいた。不可思議なことに機体の損壊はなく、だだっ広い太平洋の海原に漂っているようであった。
 後部座席を振り返って、もう一人の搭乗員が無事であるかどうか確かめた。しかし、不格好に首を垂らしている後部機銃があるだけで見知った上飛曹の顔はなかった。
 作戦は失敗に終わった。ひしひしと否定しようのない事実を受け止めた。どう考えても、米国艦船を偶然発見したとは思えなかったからである。わが潜水艦はずっと後をつけられてきたのに違いない、と――先程、述べたように──今更にして悟ったのだった。
 上飛曹の安否は絶望的、イ号も安穏と浮上しているところを撃沈されているのは疑いようがなく、こうして私は永遠に続いているかと思える太平洋のど真ん中でたった一人生き残ってしまった。
 少し気を落ち着かせようと思って、座席の下に転がっていた袋から炭酸水と牛缶を取り出した。しかし、食欲がわかず、飲み食いする手は休みっぱなしになってしまった。
 気の進まない食事を済ませた後、現実を忘れてしまいたい一心で疲れた体を横たえた──いや、正確には、このまま大海のただ中で誰にも知られずに死んでいく運命に身を任せたのだ。

 うだるような強い日差しの中、暑さにたえかねて起き上がると、干上がった河川のようにひび割れている荒れ地が目の前に広がっていた。あまりにも起伏の乏しい、信じられないようなほど単調な荒れ野に漠然と突っ立っている私は、なぜこの場所にいるのか理解できなかった。
 墜落した零式水観の操縦席で眠りについたところまではおぼえていた。しかし、以降の記憶が全く思い出せず、その空白を埋めるかのように零式水観を探してみたが、愛機の姿はどこにもなかった。
 いつ果てるともなく続いていた太平洋も消え失せていた。異常気象によって引き起こされた海水面の急速な蒸発が原因なのではないかと、一応は理解することにした。もちろん、この非常識なばかげた仮説に納得できるわけもなく、当惑した末の暴論にすぎなかった。
 手がかりを得ようと、地表を観察してみた。すると、辺り一面のひび割れた地面に、骨と皮だけの深海魚に似ついた異様な生物の死骸が無数に溶け込んでいるのが分かった。しかし、何とも言えない冒涜的な姿に妙な胸騒ぎを覚え、すぐに地表から顔を背けた。
 天を見上げると、異常な濃さで青々と染まっている雲一つとてない一面の空に、燃え上がる太陽が浮かんでいた。それ以外、見るべきものが存在していない世界に天地の上下感覚を著しく失っていった。
 広漠たる景色にいたたまれなくなった私は、この虚無に等しい荒野をさまよい歩くことにした。どれくらいの間、歩き続けていたのかは分からない。ただ、覆いかぶさってくる単一な世界の重圧から逃れようと──意識がもうろうとした状態になりつつも──確実に歩を進めていたようだった。
 そうして、不意に何かの足跡らしきものが発見できたとき、正気に戻った。よくよく見れば、紛れもなく人間のものだったからである。
 いつの間にか、日はすっかり落ち、鮮血のような色合いをした赤い月が夜空に浮かんでいた。真っ赤な月明かりに照らされた人類の痕跡を見つめていると、だんだんと希望がわいてきた。
 無我夢中で足跡をたどっていった。しかし、広大な荒野のただ中にあって、足跡だけが唯一の足がかりであったのに、急な崖によって痕跡が絶たれてしまうと、私の心はどん底にまで落ち込んだ。
 私と同じように異空間とおぼしき荒野に迷い込んだ人物は断崖絶壁から身を投げたのだろう。目の前で口を開けている宇宙空間のような真っ黒い闇の底を見下ろしているとそのように思えた。
 急に腹を抱えて笑い転げた。哀れの極み、私はとうとう発狂したのであろう。そのまま、うっかり勢いあまって崖から足を滑らせたのも当然であった。人は希望を失うと簡単に命を捨てられるものなのだ。
 永劫とも思える間、漆黒の世界に身を委ねていた。生暖かい風を全身に受けて、空を飛んでいるような浮遊感に安堵した。すさまじい速度で落下していることなど気にも留めず、大きく肩で息をすると、開戦以来疲れ果てていた神経が休まった。
 意識は次第に遠のいていって、死が押し迫ってくるのを感じた。
 次の瞬間。
 気がつくと、天高くそびえ立っている白亜の巨石の前にたたずんでいた。夢とも現実ともおぼつかない世界では唐突な展開に驚く気力さえ失っていた。人ごとのように、ぼうぜんとしていることを自覚するだけである。
 真白い巨石はおよそ六メートルくらいの大きさだった。表面の凹凸は幾何学的に入り組んでいる。今まで目にしたいかなる建築物とも似つかぬものであった。汚れは目立たなかったが、かえってその不健康な白っぽさが得も言われぬ不愉快な気分にさせた。
 荒野の風景は変わっていなかった。足元には例の足跡が続いている。巨石が突然、目の前に現れたのが唯一の変化だった。しかし、よく目を凝らすと、地面の足跡は私のもののように思えてきて、恐るべき事実に思い当たった。
 はじめから私の足跡だった、と。
 多分、自分で自分の足跡をたどることを何度も何度も繰り返していたのだろう。そして、あの真っ黒い闇の底に何回も何回も飛び込んだのに違いない。思い返せば、目の前にそびえ立っている邪悪な巨石のことも知っているような気がする。ここでおぞましい体験をしたことまで思い起こされる。しかも、決まりごとのように、その永遠の繰り返しをやめることはかなわず、私は荒野をひたすら歩き続けて崖から飛び降りて、この白亜の巨石の前で何かを目撃して記憶を失う事件に出くわし続けなければならないのであった。
 どうして──理由は──などと問われても、悪夢の世界を支配していると思われる自己破滅的な心理の法則──率先して自身を狂気に追い込む──と不条理な反復原理が存在している以上、私には何も答えられない。ただ言えるのは、平然と巨石の方に向かって歩いていく私がいるだけである。

 自分自身におののき、その異常な行動を阻止しようともがきはしたものの、尋常でないほどに湧き上がる好奇心を押しとどめておくことができなかった。深く垂れ込めた夜のとばりを追い払っている紅月の光は、白肌の巨石を赤く照らしていて、おぞましい驚愕の彫刻をあらわにしていたからである。
 イカやタコなどの軟体動物、古生代に生息していたような甲殻類の装飾が巨石のありとあらゆる部分に描いてあった。先にも述べたが、巨石の大きさと異様さは古今東西のいかなる創造物にも当てはまらず、強いて言うならば、あの悪魔が潜んでいてもおかしくない、フェルディナン・シュバルの理想宮の印象が近いように見受けられた。しかし、ある醜悪な魚の姿が巨石の天頂付近に大きく彫られているのを見て取ったとき、それ以上に息をのんだ。荒野で最初に目にしたもの──あの深海魚に似た冒涜的な生き物だったからである。ミイラでさえ胸がむかつくような気持ちにさせた魚もどきの嫌らしさといったら、あまりにも気味が悪くて気が変になってしまうほどであった。
 どことなく人間に似たデメキンのような目玉、黒人みたいな厚い唇、奇妙に張ったえらは全くもって異常としか言いようがなく、頭の血が沸騰したかのようなひどい頭痛と吐き気に襲われた。体が変調をきたした影響からか、幻を見てしまったようでもあった。目の前の彫刻から、汚らわしい生物が半魚人として実現化する幻である。
 やつはあっという間に巨石から飛び出すと、胸元付近にびっしりと生えだしている汚らしい毛をかきむしったり、臭いを嗅いだりする狂態を演じた。唇を小刻みに震わして不気味な笑い声さえ上げた。
 そのうち、魚人間はえらの張った顔をすさまじい勢いでたたき出した。直後、私はあまりのことに気が触れてしまったようだったが、頭に水かきのついた手が振りかざされ、額が割れる痛みが走ったとき、突然きのこのような雲が脳裏に浮かんだのは不思議だった。
 苦痛に顔をゆがめながら意識を取り戻すと、私は零式水観の操縦席に座していた。何気なく下を見てみると、手のつけられていない、炭酸水と牛缶の入った袋が転がっていた。しかし、その光景も渦巻きのようにねじ曲がってぼやけ出すと、今度は一転して、陰気くさい病室に寝かされていた。
 結局、私はサンフランシスコのある病院に収容されたのだった。大戦が終結した八月十五日、米国船籍の商船に太平洋を漂流しているところを捕らえられたのだという。長い間、ひどい悪夢を見ていたようで、わけの分からない言葉をつぶやいていたらしいが、相手にはされなかったとのことである。
 病院は四階建ての近代的な建物だった。屋上から安っぽい米国国旗が何枚も垂らしてあった。
 連中は今次大戦に勝利したことがよほどうれしいようだ。見張り役の憲兵の勝ち誇った嘲笑と暴力は、容赦なく私に浴びせられた。また、ほかのばかどももアメリカ万歳と、ことあるごとに叫んでいた。口惜しさと気持ち悪さで精神錯乱を起こした私は、何度なく卒倒した。
 もうこんなところは我慢ならなかった。売国奴の日系人通訳を除けば、邦人は私だけだったし、院内ですれ違う世界征服者たちの浮かれる姿を見続けるのもたえ難かった。何より、あの体験が私の心をむしばんでいた。天井の染みが何かの化け物に見えて、一睡もできなかった。昼は敗北者としての辱めを受け、夜は忘れ難い荒野の記憶がよみがえった。
 日増しに精神を病んでいったので、本国に帰れる状態ではないと診断された。額に負った傷の完治こそ早かったものの、私の心の傷が癒えることはなく、内地に帰還する日はやってこなかった。
 自殺を思い立つのにたいした時間は必要なかった。最果ての僻地にいられるだけの忍耐力も持ち合わせていなかったし、ともに戦った戦友と九段で再会したい気持ちにも駆られていた。
 その日は、砂粒交じりの強い風が吹いていた。体は自然と窓の方に吸い寄せられていって、四階の病室からちゅうちょすることなく飛び降りた。向かってくる風を体中に受けて、空を飛んでいるかのような浮遊感に安堵した。しかし、飛び降りたとき、地面は灰色の混凝土でしかなかったのに、いつの間にかそれが変貌して、真っ黒い宇宙空間のような闇夜にすり替わっていた。落下しながら、病院の建物を見つけようとしたが目に入らなかった。薄茶色い荒野の崖が見えるだけだった。
 だんだんと地面が目前に迫ってきた。ついに地表に頭がぶつかって額が真っ二つに割れた。
 楽になれる、と思ったが、果たして私は死ねるのだろうか。目が覚めると、眼前に白亜の巨石が天高くそびえ立っているのではなかろうか。あるいは零式水観の操縦席に倒れ込んでいるのか、今まさに邪悪な半魚人に額を割られた瞬間なのであろうか。
 何もかもが分からなくなってしまった。目に見えるもの、耳に聞こえるもの、手で感じるもの、全てがまやかしのように思える。しかし、荒野の幻影こそ、どこぞの蛮族が使用した悪魔の兵器による災禍の名残であって、地球はもう滅び去っていることくらい、私はとうに気づいている。人間の住める世界はどこにも存在していないのだ。
 そろそろ、真実を明かそう。
 あの創造者を否定するような化け物は、地球全土を汚染した放射能によって生まれた、人類の子孫なのだろう。かくも偉大なる力を誇っていた科学文明は、下等な魚類に退化する末路をたどった。次元の狭間に迷い込んだ私は、人類のなれの果てを幻視するだけである。
 生きているとも死んでいるともつかず、精神浮遊体として世界を漂っている私には見える。
 ほら、あの白い家だ。中に人がいる。
 おやっ。
 待て、その書類はまさか──絶対、署名してはならんぞ。
 考え直せと言っているのが聞こえないのか。牛飼いの野蛮人め。そんな兵器を開発しようなんて気が触れている。お前らは使ってしまうんだ。分からないのか、いかなる未来が待っているのか。
 やめろ。
 やめないか。
 むっ、ここはどこだ。
 あれっ、私はどうしたのだ。
 あっ、あれは、崖だ。
 いや、違うか。
 現実は夢。
 幻はうつつ。
 ああ、額が割れるように痛い。



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