アフリカ帰り


 ある夏の蒸し暑い日のことである。私はその日、十年ほど住んだ東京から、川口市の実家に舞い戻ってきた。調布飛行場の職を辞したのを機に、地元に逃げ帰ってきたのである。
 引っ越し作業にめどがついたころ、珍しい人物が訪ねてきた。
「やあ、久しぶりじゃないか。今日は暑い日だねえ」
 大学時代からの友人――森川だった。私の帰郷をどこかで聞きつけたようである。
 森川は太った体をしきりに揺すって喜びを表すと、汗でぬれた不潔な手を差し出してきた。私は一瞬、たじろいでしまったが、握手を拒むのも無礼なので、それと覚られないようにその手に少しだけ触れてごまかした。
「なに言ってんだ。貴様のせいで久しぶりになってしまったんだろう。連絡もせず、今までどこに行っていた。心配したんだぞ」
 私は苦笑いしながら、森川をたしなめた。
 森川という男は相当の変人である。堀口帝国大学を中退してすぐに世界放浪の旅をはじめ、数年に一回くらい、思いついたようにはがきをよこすだけなのだ。しかも、諸外国から送られてくる文面は素っ気なく、森川の奇人ぶりのみ伝わる奇怪な悪文でもあった。
「悪かったな。俺にもいろいろと事情があったのさ。つい最近もはがきを出そうと思い立ったんだが、なんやかんやと投函できなくなってしまったんだ。おわびといっては何だが、お前が地元に戻ったことを知って、はるばる内地まで帰ってきてやったんじゃないか。勘弁してくれよ。
 ああ、それにしても暑いなあ。どうしてこう、日本の夏は蒸し暑いのかねえ。暑いっ、暑いっ、暑いっ」
 会ったときから、森川はひどく汗をかいていた。ふんどし姿に粗末な浴衣を着ているだけの涼しい装いだというのに、まるで水をかぶったように全身がぬれていた。しかも、何年か前に会ったときよりも真っ黒に日焼けしていて、さながらアフリカの土人のように見えた。
「俺だってたいして怒っていないよ。数年ぶりに貴様と会えてうれしいさ。ところで、俺が川口に帰ってくるのをなぜ知っていたんだ。実家の父母と使用人くらいにしか話していないのに。
 俺としては、友達の驚く様子を想像して、ほくそ笑んでいたんだがな」
「お前が帰ってくるのは知っていた。虫が知らせてくれたとでも言っておこうかな」
 父母にでも聞いたのだろうと思い、この縁起の悪い言い方を私はまともに取り合わなかった。
「どうだい、立派なもんだろ。最近はセネガルの方を旅していてね、頑張って焼いてみたんだ。くそ暑い日にぴったりだろ」
 私の視線に気づいたのか、森川は日焼けした肌を自慢した。しかし、どうにも様子が妙なので納得がいかなかった。
 異常な勢いで吹き出ている汗や、とりわけ、焼けすぎた肌には異様な感じが拭い去れないのだ。この世ならざぬ姿とは仰々しいが、本能的に受けつけ難い嫌な感じがした。
 髪の毛がひどく縮れているのも気になるところだった。恥毛みたいにひん曲がった毛髪がこけむすようにして頭部を覆っているさまは、まさに黒人そのものだ。最近の理髪店のはやりなのだろうか。
 いやまさか、あり得ない。
 考えれば考えるほど、釈然としなかった。質問してみようか何度も迷ったが、気分を害されては私も気まずい思いをする。
 結局、あまり気にしないようにすることにした。
「炎天下の立ち話も何だし、喫茶店に行こう」
 私がそう誘うと、森川は豚に似た顔をほころばせて、気色の悪い奇声を上げた。
 その後、近所の喫茶店に落ち着くと、私たちは冷たい麦茶を注文した。
「暑いっ、暑いっ、暑いっ」
 森川は席に着いてからも、この言葉を連発した。また、不思議なことに、森川は流れ続けている汗をお手拭きで拭いながら、なぜだか悲しげに私を見つめていた。
「おい、森川。いいかげん、『暑いっ、暑いっ、暑いっ』はやめてくれないか。さっきから同じことを聞かされて耳障りだ。もう店の中だから、涼しいはずだろ。皮膚が分厚いと、扇風機の風はかえって生暖かくなるのか」
 変な気を使わせているうえにここまでうるさいと、我慢ならなかった。射るような目つきで森川を見据え、不機嫌であることをあからさまにした。
「暑いものは暑いんだ。仕方ないだろ。全身を針で刺されたような痛みがする」
「刺すような痛みだと。暑さとは関係ないじゃないか。それに貴様、体から変な臭いがするぞ。焦げたような臭いだ」
 森川の日焼けしすぎた肌から焦げ臭い異臭を嗅ぎ取ったような気がした。どす黒い肌に注視していたせいか、嗅覚の変調を起こしてしまうばかさ加減に気がめいった。しかし、次に森川が発した言葉によって、前言撤回どころではなくなった。
「話は変わるが、調布飛行場の仕事を辞めちまってどうするんだい。新聞社にでも勤める気かい」
「えっ、何で知っているんだ」
 背筋が寒くなった。
 新聞社に勤めようと決意していることは、まだ誰にも打ち明けていなかったからである。仮に私の文学的志向を加味して森川がそう考えついたとしても、出来過ぎていると思った。
「あっ、いけない」
 私の顔色が瞬時に青ざめたのを森川は見逃さなかったようだ。一方的にそう言って問答させなかった。
「用事があることをすっかり忘れていたよ。久しぶりに会ったばかりで申し訳ないんだが帰らせてもらう。
 君と交わした友情は永遠に忘れない。それじゃあな」
 森川は席を立ち上がると、そのまま喫茶店を出ていった。後を追ったが、出入口を出てすぐに見失ってしまった。
 喫茶店の前の通りは、たくさんの人や車でごった返していた。混雑した状況を紅白の旗を持った交通巡査がせわしく整理している姿が目についた。
 交通巡査の方まで駆け寄って、森川のことを尋ねてみた。
「ねえ、巡査君。この通りの真向かいにある喫茶店から、太った男が出てくるのを見なかったか。探しているんだ」
「はあ、申し訳ありませんが、わたくしは見ておりませんね。旗振りの仕事で手いっぱいですし」
 巡査はおどおどしながら答えた。
「そうか、見てないか。分かった」
 がっかりした私は喫茶店まで引き返すと、店の中には戻らず、歩道に面した赤れんがの囲いに腰をかけた。
「あいつは一体、何を隠しているんだろう。せっかく、久しぶりに会ったというのに」
 心の中でつぶやき、ただ落ち込むばかりだった。
 と、そのときである。
 誰かが肩をたたき、私の名を呼んだ。
 顔を上げると、見知った友人の顔があった。
「おい、見つけたぞ。さっきお前の実家に行ったら、女中が出てきて『若旦那さまは出かけておられます』なんて言われちまって、あっちこっちを探していたんだ。おまけに昨日、調布の家に電話したんだが、引っ越したっていうんでつながらなかったじゃないか。お前の風来坊にも困ったものだ。
 いや、そんなことはどうでもいいか。森川の訃報は残念だったな」
 目の前にいる友人は佐々木という男で、彼ともだいぶ会っていなかった。語り合いたいことは山とあったが、あいさつも抜きに身を乗り出した。
「冗談はよせ」
「やはり、知らなかったか。いいか、落ち着いて聞くんだぞ。森川は火事に巻き込まれて焼け死んじまったんだ」
 佐々木の道化はなかなかのものだった。思い返せば、幾度となくこのいたずらっ子にだまされた幼少期のエピソードがよみがえってくる。ただし、私は森川と別れてから、ものの十分も経っていない。
 返り討ちにしてやろうと、大きな声で問いただした。すると、佐々木は動揺を隠すようなそぶりで話しはじめた。
「あいつは最近、セネガルに旅行していたんだが、悲劇はそこで起きたんだ」
 佐々木はそう言うと、昨日づけの川口日日新聞を投げてよこした。見出しの一つに、「無残、黒焦げになった邦人」と書いてあるのが読み取れた。
 妙な事態に戸惑った。冗談にしては大げさである。
 記事を読む時間も惜しいとばかり、新聞を乱暴に突き返して佐々木をせかした。
「簡単に説明するぞ。三週間前に起こった事件だ。森川の滞在していた宿が、たばこの火の不始末から火事になった。
 あの巨体だ、やつは逃げ遅れてしまった。
 地元の消防団がすぐに動いたが、もう手遅れだった。ただ、勇敢なセネガル人の若者が炎に包まれた家に飛び込んで、黒焦げになった森川を引きずり出すのには成功した。
 結局、森川は全身やけどで死んでしまったんだが、救出された直後はまだ生きていた。苦しみもだえて絶叫する森川の様子に胸を痛めた土民たちは、慰み程度に井戸水をかけてやったそうだ。
 この記事はセネガルの宗主国から発せられた第二報によっているから信憑性は高い。だから、間違いなく森川は」
 佐々木はそこまで話すと、涙をこらえるようにして天を仰いだ。ことここに至り、私も涙がこみ上げてきて、音が鳴るくらい歯を震わせた。
「『君と交わした友情は永遠に忘れない』か。
 朋友よ、幽霊の存在を信じるか」
 唐突に私は言った。
「俺はついさっき、森川の幽霊と会ったんだ。多分、一番仲がよかった俺にお別れを言いにきたんだと思う。全身真っ黒で、髪の毛なんか縮れちゃって、体中びしょぬれだったよ。
 佐々木、その苦しみもだえる森川の絶叫ってのは新聞に書いてあるのかい」
「人ごとだと思って、おどろおどろしく太字で書き立てているよ」
「知りたい。読んでくれないか」
 涙でぬれた顔を向けると、佐々木はおもむろにこう言った。
「熱いっ、熱いっ、熱いっ」

***

 ある夏の蒸し暑い日のことである。私はその日、十年ほど住んだ東京から、川口市の実家に舞い戻ってきた。調布飛行場の職を辞したのを機に、故郷に逃げ帰ってきたのである。
 引っ越し作業にめどがついたころ、手伝いに来てくれていた佐々木とともに地下室に移動し、涼むことにした。
 女中が気を利かし、冷たい麦茶を持ってきた。盆の上には大きな茶封筒も添えられていた。差出人の名は署名されておらず、誰が送りつけてきたのか分からなかった。
 封を切ると、一人称で書かれた短編小説が入っていた。私は眉をわざとらしくひそめながら、簡単に目を通した。
 短い物語であるため、十分と経たずに読み終えた。
 佐々木に向き直ると、私は言った。
「俺を主人公にした貴様の作品か。はっきり言って駄作だ」
 佐々木は苦笑いしながら後頭部を無意味にかきむしった。自身思うところがあるのだろう。腰を据えて話し合いたいらしく、顔を近づけてきた。しかし、佐々木が何か言おうと口を開きかけた瞬間、庭に面している地下室の格子窓から、巡査とおぼしき人物が吹いた鋭い警笛の音が聞こえてきた。
 耳を澄ますと、聞き覚えのある声がする。
「泥棒なんかじゃない。屋敷の者と友達だ。森川と言えばすぐ分かる。引っ越し祝いに、ちょっと驚かせてやろうと思って忍び込んだだけだ」
 私と佐々木は腹を抱えて床を転げ回った。



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