宮古島防衛戦斗経過


昭和十八年(一九四三年)

海軍飛行場工事始まる

八月 特設警備二〇九、二一〇中隊編成さる

昭和十九年(一九四四年)

三月 沖縄第卅二軍司令官渡辺正夫、同高級参謀八原博通大佐来島視察

五月八日 第二〇五飛行場大隊進駐、陸軍飛行場工事始まる

六月廿二日 独立混成第四十五旅団長宮崎武之少将着任、旅団の進駐始まる

七月五日 大本営派遣参謀、長勇少将一行来島

廿日 第廿八師団長櫛渕せん一中将着任、師団主力の進駐始まる

八月 宮古郡民の島外疎開始まる

    独立混成第五十九旅団主力伊良部島配備

九月 独立混成第六十旅団主力宮古島進駐

十七日 第卅二軍司令官牛島中将在宮古島部隊を視察

廿二日 宮崎少将八重山群島の守備担任を命ぜられ、石垣へ出発

十月十日 米機の初空襲、広田丸沈没

十三日 第二回目の空襲、友軍機の大編隊宮古島上空を通過台湾沖航空戦へ出撃

十六日 侍従武官坪島文雄中将来島視察

廿二日 在宮古島輜重兵第廿八聯隊長横山伊一郎大佐、輜重兵学校長へ転補

昭和廿年(一九四五年)

一月三日 本年の初空襲

十二日 櫛渕師団長、在中支漢口第卅四軍司令官へ栄転、十六日出発

十六日 新第廿八師団長納見敏郎中将台湾より着任

二月一日 廿八師団参謀長福地春男少将在南支第廿三軍参謀副長へ転補出発

七日 新参謀長一瀬寿大佐広島より着任

十二日 全部隊へ迎撃戦斗準備下令

十六日 師団司令部野原越へ移動

三月一日 大建、豊坂丸撃沈。市街地の平良町民郊外へ移動

廿三日 米機の連続空襲始まる

廿五日 米軍慶良間上陸

卅日 大空襲、女学校、無線受信所など吹っとぶ

四月一日 米軍沖縄本島上陸、天一号作戦始まる。連日数十機から百数十機に上る米機の空襲

五月四日 英東洋艦隊による始めてにして終りの艦砲射撃、米軍上陸企図の噂しきり

六月二日 乙戦備下令 独混第五十九旅団伊良部島から舟艇機動により平良町へ移動

卅日 在先島諸部隊、卅二軍の指揮下から離れ、第十方面軍の指揮下に入る。

六月八日 第十方面軍(在台湾)司令官、廿八師団長へ迎撃体勢完整命令

       中飛行場上空で白昼の彼我空中戦

廿二日 天一号作戦終わり、沖縄との連絡絶ゆ

七月 空襲やゝ閑散となり、食糧自給体制確立に力入れる

八月十五日 終戦の大詔下る

廿三日 納見師団長沖縄へ飛び停戦協定調印

廿五日 戦斗行為停止下令

廿六日 米軍来島、兵器奉還始まる

卅日 歩兵第三、三十、騎兵第廿八聯隊旗及び各学校の御真影野原岳の洞窟司令部に於て奉焼

九月一日 現地徴集将兵召集解除

廿四日 飛行場、測候所に連絡所を開設、米軍との折衝にあたる

十月六日 兵器奉還業務完了

廿日 復員第一船海防艦一九二号出る

十一月廿五日 米艦コーヘン号出港大量復員始まる

十二月一日 納見中将戦犯指名の発表

十三日 納見中将野原岳の司令部で自決

昭和廿一年

一月 在宮古島部隊一部を除き復員完了


引用文献
太平洋戦争記録 宮古島戦記』 瀬名波 栄 著 宮古島戦記刊行会



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