●石坂 「軍隊の演習はとんでもなく厳しいんだ。一番すごかったときは、五日間飲まず食わずで一睡もせずに歩き続けた。顔面蒼白で、体をけいれんさせながら死んじゃった兵隊が幾人も出たね。さすがに軍のお偉方も『やり過ぎた』と思ったんだろうね、演習は中途で打ち切られたよ。 亡くなった兵隊は事故扱いになった。過酷な軍事演習のことは伏せられたんだ。しかし『これくらいの演習』で死ぬようなやつは戦場で使い物にならないという考え方もできるから、公報上は軍歴に傷がつかないだけ幸運ともいえる。突き放した言い方に聞こえるかもしれない。だけどね、軍隊とはそういうところなんだ。 そういえば、演習が嫌になっちゃって途中で脱走した兵隊がいた。捜索隊が組織されたんだけど、発見されたときにはその兵隊は自殺していた。気が小さくて体の弱い男はそうやって脱落していくんだ。戦場でもそうさ。早く命を落とすのは大抵そういうやつと決まっている。図太い神経と強靱な肉体を持った兵隊がいつも生き残るんだ。 ……それにしても、演習は大嫌いだったな。ひたすら行軍、行軍、行軍なんだもの。完全装備でさ。あまりにつらいもんだから、行軍中は誰も口を利かないんだ。前を行く兵隊の背中を見つめながら黙々と足を動かすのみ。 たまにね、そんな苦難から救われることがあるんだ。日本軍を待ち伏せしていた敵が発砲してきたときだよ。小隊の兵隊が口笛吹いて喜んでさ、いざ戦闘開始だ。戦争している方が楽だからね。 『もう歩かなくていい』 言葉にはしないけど、心の中でつぶやくんだ」 *補足(藤本) ルース・ベネディクト『菊と刀 日本文化の型』に、日本軍の昼夜を分かたぬ訓練が紹介されている。 *** その証拠にまた彼らは容赦なく眠りを犠牲にする。試験準備をする学生は、寝た方が試験を受けるのに有利だという考えに拘束されることなく、夜昼ぶっ通しに勉強する。軍隊教育では、睡眠は全く訓練のために犠牲にすべきものとされている。一九三四年から一九三五年にかけて日本陸軍に所属していたハロルド・ダウド大佐は、手島大尉との対談を伝えている。平時の演習中に、その部隊は「二度、十分間の小休止や、状況が小康を得ているわずかな時間に、ほんの少しとろとろとまどろむだけで、後は全然睡眠を取らずに、三日二晩ぶっ通しの行軍を行なった。兵士たちは時おり歩きながら眠った。ある若い少尉は、ぐっすり眠りこんで、道ばたに積み重ねてあった材木の堆積にもろに衝突し、大笑いになった」。やっと兵営にたどりついた後も、まだ誰一人睡眠の機会を与えられず、兵士たちはみな歩哨勤務や巡視の部署に配属された。「『どうして一部のものに睡眠を取らせないのですか』と私は尋ねた。すると大尉は、『とんでもない、その必要はありません。あいつらは教えなくとも眠ることは知っています。必要なことは眠らない訓練をすることです』と言った」。この話は日本人の見解を簡潔な言葉の中に、遺憾なく伝えている。 『菊と刀 日本文化の型』(社会思想社)の二百八〜二百九ページまで引用 *補足二(藤本) 伊藤桂一『兵隊たちの陸軍史 兵営と戦場生活』に、行軍に関する記述がある。 *** 敗戦後の収容所内の生活などにおいては、変った性風俗(たとえば同性愛的なもの)が存在したのではないか、と考えられがちだが、そういう話はあまりきかない。戦い疲れた上の捕虜生活であり、かつ、おおむね給養悪くして労役過重、という状態では、性に関心を持つどころではなかっただろう。だいたい、戦場においては獣性を帯びた性が幅をきかしたろう、と考えるのは早計である。完全軍装(三十キロ以上ある)で、十里も行軍させられれば、眼の前を裸の女が通っても、それに見向く気もしないだろう。通常兵隊は兵隊でいる限り、睡眠不足と飢餓感に悩んだのである。兵隊は戦場へ、女遊びに行ったのではなく、戦争をしに行ったのである。そして戦争というのは、一言にしていえば、人間の耐久力の限界を超えた、言語に絶する労働の連続でしかない。実をいえば、敵と銃火を交えること自身は、まだ楽? なのだ。そこにいたる過程の行軍がきびしいのである。 『兵隊たちの陸軍史 兵営と戦場生活』(番町書房)の二百十九〜二百二十ページまで引用 *補足三(藤本) 『陸軍郷土歩兵連隊の記録/写真集 わが連隊』に、歩兵第三十連隊の連隊副官を務めた、清水清治大尉による、行軍の思い出が語られている。 *** 昔の歩兵の戦闘行動で最も苦痛なのは行軍であった。足の裏の豆に木綿糸を通して赤チンキを塗りそのままの急行軍、「この前の戦闘で戦死すればこんな苦しい行軍はやらんでよかったはず」などと心に思い顔には出せず、黙々として歩みつづける。敵の見えるまでは! 『陸軍郷土歩兵連隊の記録/写真集 わが連隊』の百五十三ページから引用 *補足四(藤本) 西沢 保『続 戦場の素顔』に、作戦間の行軍に関する記述がある。 *** 包囲されている友軍を思うと気持ちは急いたが、不眠不休でどの辺りを歩いているのか朦朧として歩く。前が進むから集団は動く。二晩目の行軍の小休止中、某中隊の兵隊が、手榴弾の安全栓を抜いて腹に抱えた。近くに居た分隊長が見つけ、素早くひったくり捨てようとしたが、間に合わず二人とも命を落とした。作戦間の行軍の辛さは死に勝る。敵に遭遇する期待さえ持つのだ。 *補足五(藤本) 上村喜代治『されど兵は戦う 宜昌攻略戦』に、行軍に関する記述がある。 *** さて、「戦争とは行軍なり」という言葉があるが、あの泥沼のような日中戦争の一側面を言い得て妙である。雨が降ろうが吹雪が荒れようが、炎熱天地を焦がすような日々が続こうが、何が何でも歩きに歩いて作戦遂行上の計画線まで進出し、是が非でも勝たねばならぬという大目的の前提条件だったからである。 普通は四十五分歩いて十五分休む。最初のうちは何だかんだと叩いていた無駄ロも一時間も経たぬうちに消え、千名の部隊であればその千名がひたすらに黙々と歩くのである。雪など降っていても忽ちビショ濡れになるほど発汗するのだ。そしてそれが休憩時間に冷え、全身粟を生ずる程の寒さに変わるのだからたまらない。 とにかく春夏秋冬、如何なる作戦行動にも、この「行軍」がつきまとう。肩に食い込む背嚢の負革、足の裏の削られるような痛み、渇き――まして私など機関銃の馭兵は、他の兵科の兵がとる休憩時間に、馬体の点検・水飼い――等休む暇すらないのである。馭兵に限らず、とりわけ初年兵達は何時終わるとも知れぬこの行軍を呪ったものだ。ひたすらに敵との遭遇が待ち遠しくてならなかった所以でもある。というのは、その間部隊が応戦のため行軍を一時停止するからに他ならない。他の兵が生命を危険にさらす時が、われわれ馭兵に与えられた束の間の休憩時間だったとは何とも皮肉な話ではある。 『されど兵は戦う 宜昌攻略戦』の二〜三ページまで引用 「猛訓練」
「軍総合演習〜その一」
「軍総合演習〜その二」
「秋季演習」
「冬季検閲」
「特殊演習〜その一」
「特殊演習〜その二」
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