海野十三作『愛国防空小説 空襲警報』 |
表紙 |
題名 |
愛国防空小説 空襲警報 |
著者 |
海野十三 |
出版 |
大日本雄弁会講談社 |
版 |
昭和十一年六月八日印刷納本 昭和十一年七月一日発行 |
備考 |
『少年倶楽部』 昭和十一年七月号付録 |
『海底軍艦』の作者として知られる海野十三の小説の中に『空襲警報』という短編がある。作中に、高田歩兵第三十連隊留守部隊の川村国彦中尉(高射砲隊第三中隊長)が登場し、活躍を見せる。 日本海の夕日 大きな夕日は、きょうも日本海の西の空に落ちかかった。うねりの出て来た海上は、どこもここもキラキラと金色に輝いていた。 「美しいなあ!」 旗男少年は、得意の立泳をつづけながら、夕日に向かって挙手の礼をささげた。こんな入日を見るようになってから、もう三日目、いよいよお天気が定まって本当の真夏になったのだ。 「オイ旗男君。沖を向いて、一体誰に敬礼しているんだい」 後から思いがけない声が旗男に呼びかけた。驚いて後をふりむくと、波の間から頑丈なイガ栗坊主の男の顔が、白い歯をむき出して笑っていた。 「ああ……誰かと思ったら、義兄さん!」 それは義兄の陸軍中尉川村国彦だった。旗男の長姉にあたる露子が嫁いでいるのだった。旗男は、東京の中学の二年生で、夏休を、この直江津の義兄の家でおくるためにきているのだった。 「義兄さんずいぶん家へ帰ってこなかったですね。きょう休暇ですか」 「そうだ。やっとお昼から二十四時間の休暇が出たんだよ。露子がごちそうをこしらえて待っている。迎えかたがた、久しぶりで塩っからい水をなめにきたというわけさ。ハッハッハッ」 「塩っからい水ですって? じゃあ、また海の中で西瓜取をやりましょうか」 「それが困ったことに、来るとき、西瓜を落してしまったんだよ」 「えッ落したッ? ど、どこへ落したんです。割れちゃったの?」 「ハッハッハッ、割れはしなかったがね。ボチャンと音がして、深いところへ……」 「深いところへって? 流れちゃったんですか」 「流れはしないだろう。綱をつけといたからね。ハッハッハッ」 「綱を……ああわかった。なーんだ、井戸の中へ入れたんでしょう……。また義兄さんに一杯くわされたなァ」 「まだくわせはしないよ。さあ、早く帰ってみんなでくおうじゃないか」 二人はくるりと向きを変えると、肩をならべて平泳で海岸の方へ泳ぎだした。 「義兄さん、お天気が定まったせいか、日本海も太平洋と同じように穏かですね」 「ウン、見懸だけは穏かだなァ……」 国彦中尉は、なんとなく奥歯に物の挟まったような言いかたをして、妙に黙った。 「見懸は穏かで、本当は穏かでないんですか。どういうわけですか、義兄さん!」 「ウフフ、旗男君にはわかっとらんのかなァ。君はいま、沖を見て挙手の礼をしていたね。あれは日本海を向こうへ越えた国境附近で、御国のために生命を投げだして働いている、わが陸海軍将兵のために敬意を表していたのかと思ったんだが、そうじゃなかったのかね」 「ええ、敬礼は太陽にしていたんです。……がその国境で何かあったんですか。例の国境あらそいで、世界一の陸空軍国であるS国と小ぜりあいをしているって聞いてはいましたが、……いよいよ宣戦布告をして戦争でも始めたのですか」 「さあ、何ともいえないが、とにかく穏かならぬ雲行だ。それにこれからは、昔の戦争のように、前以て戦を始めますぞという宣戦布告なんかありゃしないよ。S国の極東軍と来たら数年前の調べによっても、たいへんな数で、わが中国東北部駐屯軍の六倍の兵力を国境に集め、飛行機も一千台、ことに五トンという沢山の爆弾を積みこむ力のある超重爆撃機が、数十台もこっちを睨んでいる。そしていざといえば、国境を越えて時速三百キロの速力で日本へやって来て爆弾を撒きちらした上、ゆうゆうと自国へ帰ってゆくことが出来る。実に凄いやつだ。そんな物凄いやつを遠いところから、わざわざ日本の近くにもって来ているし、軍隊をしきりに国境近くに集め、毎日のように中国東北部をおびやかしている。もう宣戦布告ぬきの戦争が始まっているようなものだ。お天気が定まってくると油断がならない。昔、蒙古の大軍が兵船を連ねて日本に攻めてきたときには、はからずも暴風雨に遭って、海底の藻屑になってしまったが、今日ではお天気の調べがついているから、暴風雨などを避けるのは訳のないことだ。お天気の続くことが分かったら、いつやって来るか知れない」 「いやだなあ! お天気はもう三日も続いているのですよ。するとこれは危いのかな。ちっともそんな気はしないのだけれど……」 旗男はクルリと寝泳に移って沖をふりかえっていた。すると今も夕日は朱盆のように大きく膨れた顔を、水平線の上に浸そうというところだった。それはいつに変らぬ平和な入日だった。旗男には義兄がわざと彼をおどかすためにいっているように思えてしようがなかった。 ――義兄さんは高射砲隊長だから、きっとS国が空襲してくる夢ばかりみているのだろう。―― と、旗男は腹のなかで、義兄を気の毒に思ったのだった。――背の立つところまで来たらしく、先頭の義兄はヌックと立ちあがると、波を蹴ちらしながら汀の方へ歩きだした。 怪しい男 「まあ、おそいのねェ……」 汀のところで、女の声がした。姉の露子が一誕生を迎えたばかりの正彦坊やを抱いて迎えに来ていた。義兄はそれを見ると、とびついていった。 「ああ、正坊。お父ちゃまと、チビ叔父ちゃまのお迎えかい。おお、よく来たね。オロオロオロオロ、ばァ」 旗男も続いて砂地にあがると、照れかくしに正坊のところへ行って、 「オロオロオロオロ、ばァ」 とやった。 「じいタン。ばァばァ」 正彦坊やは、まわらぬ口を動かしてキャッキャッと若い母の腕の上ではねた。 「さあ旗男君。早いところ行軍を始めようぜ。――分隊前へ……」 国彦中尉はふざけた号令をかけると、正彦坊やを露子の手からうけとり、先頭に立った。浜から義兄の家まではすぐだった。 すっかり打水をした広い庭に面した八畳の間に、立派な食卓が出ていて、子守の清がひとりで番をしていた。 「ああ、咽喉がかわいた。何よりも西瓜をはやく出せ」 義兄は洗い場で身体を洗いながら大声で叫んだ。ホホホと、お勝手の方で姉の露子と子守の清のほがらかに笑う声がした。まったく和やかな光景だった。旗男も知らぬ間に自分ひとりで笑っているのに気がついた。 ――こんな平和な家庭、こんな平和な国。……それだのに、遠く離れたS国の爆撃機をおそれなければならないのか。 国彦中尉は浴衣姿となり、正坊を抱いてニコニコしながら座敷へはいってきた。入れちがいに旗男は、湯殿の方に立った。途中台所をとおると、大きな西瓜が、俎の上にのっていた。旗男はのどから手が出そうだった。 風呂槽からザアザアと水をかぶっていると、隣の台所で、清の脅えたような声が、ふと、旗男の耳にひびいた。 「……アノ奥さま。いま変な男が、井戸のところをウロウロしているのでございますよ。……故紙業のような男で……」 「アラそう?」 「いえ奥さま。それが変なんでございますよ。ジロジロと井戸の方を睨んでいるのでございますよ。……ああ、わかりましたわ。あのひと、井戸の中の西瓜を狙っているのでございますわ。西瓜泥棒……」 「これ、静かにおし……」 西瓜泥棒と聞いて、旗男はソッと硝子戸のすきまから外を覗いてみた。なるほど、いるいる。暗いのでよくは分からないが、頬被をした上に帽子をかぶり、背中にはバナナの空籠を背負っている男が、ソロソロ井戸端に近づいてゆく。…… ――怪しからん奴だ。……しかし、西瓜ならもう家の中に取りこんであるからお生憎さまだ。ハハンのフフンだ。―― と、旗男はなおも眼をはなさないでいると、かの男は、見られているとも知らず、井戸の上に身体をもたせかけると、右手をつとのばして何か井戸の中へ投げいれた様子、カチンと硝子が割れるような音が聞えた。一体何を入れたんだろう? と、とたんにあらあらしく玄関の格子戸が開いて、 「コラ待て……」 と、飛びだしていったのは国彦中尉。怪漢はギョッと驚いたらしく、まるで猫のように素早く、井戸端の向こうにまわって身を隠した。その素早さが、どうもただの男ではない。 「さあ出てこい。怪しからん奴だ」 と、中尉のどなりつける声。怪漢は、しゃがんだままゴソゴソやっていたが、何かキラリと光るものを懐中から取出した。ピストルか短刀か? 「あッ危い……」 旗男は義兄を助けるために、なにか手頃の得物がないかと、湯殿の中を見まわした。そのとき眼にうつったのは、斜に立てかけてある長い旗竿だった。よし、すこし長すぎるけれど、これを使って加藤清正の虎退治とゆこう。 「うおーッ、大身の槍だぞォ……」 いきなり湯殿の戸をガラリとあけると、旗男は長い旗竿を、怪漢の隠れている井戸端のうしろへ突きこんだ。 「うわーッ」 それが図にあたって、怪漢は隠れ場所からピョンと飛びあがった。そしてなおも逃げようとするところを、旗男はエイエイと懸声をして、旗竿の槍を縦横にふりまわした。 「しまった!」 と叫んで、怪漢はその場にたおれた。旗竿が向脛にあたったものらしい。 「ウヌ、この奴……」 と、国彦中尉が飛びこんでいって怪漢の上に折重なろうとしたとき、 ダーン…… と一発、凄い銃声がひびいた。その銃声の下に、ウームと苦悶する人の声。――旗男はハッとその場に立ちすくんだ。 伝染病菌の容器 まだ暮れたばかりの夏の宵のことだった。不意に起った銃声に、近所の人々は、夕食の箸を放りだして、井戸端のところへ集ってきた。 「どうしたんです。強盗ですか」 「あッ、こんなところに、人間がたおれている。誰が殺したんだ」 と、たち騒ぐ人々の声。 「みなさん。静かにして下さい。こいつは僕を撃とうとして、僕に腕をおさえられ、自分で自分を撃ってしまったんです」 国彦中尉はすこしもあわてた様子もなく、人々に話をして聞かせた。 「こいつは、一体何者なんです?」 「ピストルを持っているなんておかしいね」 人々はおそるおそる死体のまわりをとりまいた。 「……ああ、あなた。血だらけよ。浴衣も……それから手も……」 驚きのあまり、中尉のうしろに呆然と立っていた露子が、このとき始めて口をひらいた。 「ナニ、血? 大丈夫だ。おれには怪我はない」 中尉は元気な声で答えた。 「あなた、いま水を汲みますから、水でお洗いになっては……」 と、露子が井戸の方によろうとすると、 「待て、露子……。しばらく井戸に触ってはならん」 「えッ」 「皆さんも、井戸には触らないでください。その前に、この死んだ男の身体を調べたいのだが……、誰か警官を呼んできて下さい」 国彦中尉は、なぜか井戸をたいへん気にしていた。そこへ剣をガチャつかせて、二人の警官が息せき切って駈けつけてきた。 「さあ、どいたどいた」 国彦中尉は警官を迎えると、なにか耳うちをした。警官は顔を見合わせて大きくうなずくと、人々を遠くへどかせた上、中尉と三人きりになって、井戸の横に倒れているきたない服装をした男の持物を、懐中電灯の明りで調べだした。人々は遠くから固唾をのんでひかえていた。 と、突然、 「……ああ、あった。これだッ」 国彦中尉が叫んだ。そして懐中電灯の光でてらしだしたのは、死人の腹にまいてある幅の広い帯革であった。それには猟銃の薬莢を並べたように、たくさんのポケットがついていた。しかし中尉がそのポケットから取りだしたものは、猟銃の薬莢ではなく、注射液を入れたような小さい茶色の硝子筒だった。それには小さいレッテルが貼ってあり、赤インキで何か外国語がしたためてあった。 「ほう、コレラ菌ですよ……」 国彦中尉は、警官の鼻の先に、その茶色の硝子筒をさしつけながいった。 「ええッ、コレラ菌!」 警官の顔は見る見るまっさおになっていった。 「そうです。この死んだ男は、敵国のスパイに違いありません。この直江津の町におそるべきコレラを流行させるために、これを持ちまわって井戸の中に投げこんでいたのです」 「ああ、するとコレラ菌を知らないで飲んでしまった人もあるわけだ。さあ大変……」 警官は驚きのあまりよろよろとした。 「まあ、しっかりして下さい。今からでも、まだ遅くはない。すぐ手を廻して、町の人々に生水を飲むなと知らせるのですね」 「どうして知らせたらいいでしょう。こんなことがあるのだったら、サイレンか何かで『生水を飲むな』という警報が出せるようにきめておけばよかった」 警官は大きな溜息をついた。これを横から聞いていた人々も、全身の血が逆流するように感じた。なにも知らない町の人々は、今も盛んにコレラ菌を飲んでいるのだ。そしてやがてコレラ菌のため、ことごとく死に絶えてしまうのではなかろうか。なんというおそろしいことだ。スパイの持ってきた死神の風呂敷に、直江津の町全体が包まれてしまったのだ。 「義兄さん――」 と、旗男少年は列の中からとびだして来た。 「ぐずぐずしていないで、早く新潟放送局に電話をかけて放送してもらえばいいじゃありませんか。いま午後七時半の講演の時間をやっている頃だから、ラジオを持っている家には、井戸が使えないことをすぐ知らせられますよ」 「えらいッ……」 中尉と二人の警官とは、声を合わせて、同じことを叫んだ。そして三人は旗男の方を一せいにふりかえった。とたんに三人はアッといって目をむいた。 「うわーッ、旗男君。その恰好はなんだ。早く家へ入って猿股をはいてこんか」 と、国彦中尉が大喝した。それをキッカケに、井戸端からドッと爆笑がまきおこって、その場の暗い気持をふきとばしてしまった。――旗男は、すっぱだかなのをすっかり忘れていた。 智者は惑わず 夜に入ると、直江津のコレラ菌さわぎは、ますますはげしくなっていった。 新潟放送局では、講演放送を途中で切り、警察署からの臨時官庁ニュースとして、「コレラ菌の入った井戸水を注意して下さい」を放送しだしたから、ラジオを聞いていたものは驚いた。 「……当分生水はお飲みにならぬようにねがいます。さしあたり、井戸の中へ漂白粉を一キログラムほどお入れ下さい。……それから既に生水をお飲みになった方は、急いで医師の診察をうけられるか、それともすぐ梅酢をちょこに二、三杯ずつ飲んで下さい……」 コレラになっては大変だ。漬物屋へ徳利をもって梅酢を買いに走ってゆく男や女。青年団は、倉庫を開いて、漂白粉をバケツに詰めては、エッサエッサと夜の町の井戸を探しにゆく。漂白粉をなげこんだ井戸には、白墨で三角印をつけてゆく。……放送を聞いたとたんに腹が痛くなったという者もでてきたが、本当の発病は二十四時間ぐらいにでてくるものが多いから、それは気のせいであろう。 とにかく旗男が気をきかしたので、コレラ菌がまかれたことはわりあい早く直江津の町に知れわたった。ぐずぐずしていると大変なことになるところだった。 「義兄さん。あの西瓜はもう駄目ですね」 と旗男は残念そうにいった。 「ああ、西瓜! そうだ、あの騒で忘れていた。オイ西瓜を持ってこォい」 と、奥へ声をかけた。 「まあ、あなた、コレラ騒に西瓜でございますか」 露子はあきれたというような顔をして、国彦中尉の顔をみつめた。 「なァに、あの西瓜は大丈夫だよ。コレラ菌を入れる前に、上へあげたんだもの。それでも心配だったら、漂白粉を入れた水で、外をよく洗ってもっておいで」 「まあ、あなた、……そんなに食意地をおはりになるものではありませんわ」 「ばかをいっちゃあいかん。意味なく恐れるのは卑怯者か馬鹿者だ。十分注意をはらって、これなら大丈夫だと自信がついたら、おそれないことだ。僕は自信があるから西瓜を食べる。……旗男君、君はどうするかね」 中尉は笑いながら旗男の顔をみた。たしかに義兄のいうことは本当だ。 「智者は惑わず、勇者は恐れず」という格言がある。意味なくあわてるのでは、大和魂を持っているとはいえない。旗男のはらはきまった。 「僕、食べますッ!」 「姉さんは頂かないわ」 「ウフン、気の毒なことじゃ。ハッハッハッ」 二人の前に、俎にのった西瓜が出て来た。国彦中尉は庖丁をとりあげると、グラグラ沸きたっている鉄びんの蓋をとって中に入れ、やがてそれを出すと、ヤッと西瓜を真二つに切った。それをまた三つに切ってその一つを両手にもってガブリとかみついた。 「ああ、うまいうまい。旗男君、どうだ」 旗男は義兄の自信に感心しながら、西瓜の片をとりあげた。そいつはすてきにうまくて、文字どおり頬っぺたが落ちるようだった。 「義兄さん。あのコレラ菌を持っていたのはやはりスパイでしょうか」 「ウン、立派なスパイだ。日本にまぎれこんで、秘密をさぐっては本国へ知らせるスパイもあれば、あんなふうに、日本に対してじかに危害を加えるスパイもある」 「いまのスパイはS国人ですか」 「いや違う。東洋人だったよ。日本人か、他の国の人間か、いまに警察と憲兵隊との協力でわかるだろう。とにかくS国人に使われているやつさ」 「日本人だったら、僕は憤慨するなあ。しかしS国というのは悪魔のようなことを平気でやる国ですね」 「これまでの戦争は、本国から遠く離れた戦場で、軍隊同士が戦うだけでよかった。しかしこれからの戦争は、軍隊も人民も、ともに戦闘員だ。そして戦場は、遠く離れた大陸や太平洋上だけにあるのではなく、君たちが住んでいる町も村も同じように戦場なんだ。だからあんなふうにスパイが細菌を撒いたり、それから又敵の飛行機が内地深く空襲してきたりする」 「すると僕も戦闘員なんですね」 「そうだとも。立派な戦闘員だ。非戦闘員はというと重い病人と、物心のつかない幼児と、足腰も立たないし、耳も、眼も駄目だという老人だけだ。七つの子供だって、サイレンの音がききわけられるなら、防護団の警報班を助けて『空襲空襲』と知らせる力がある。大戦争になると、在郷軍人も、ほとんど皆、出征してしまう。後にのこった人たちの任務は多いのだ。たとえば防空監視哨といって、敵の飛行機が飛んでくるのを発見して、それを早く防空監視隊本部を経て防衛司令部に知らせる役目があるが、この防空監視哨を、視力が弱い者でも立派にやれるんだ」 「まさか、そんなことが……」 「笑い事じゃない、本当だ。いいかね……」 と、国彦中尉が、最後の西瓜の片を持ったとたんに、玄関の格子戸がガラリとあいて、大きな声がとびこんできた。 「……川村中尉どの、お迎えにまいりました」 非常呼集 「おお、沼田の声だ」 国彦中尉は、従卒の声を玄関に聞いて、座からとびあがった。 「中尉どのは、御在宅でありますか」 沼田一等兵は、露子に迎えられて、玄関の前で挙手の敬礼をしていた。 「おい沼田。まだ休暇の時間中だぞ、迎えが早すぎる」 「ああ、中尉どの」 沼田の面はひきしまっていた。 「そうでありますが、非常呼集の連隊命令であります。サイド・カーをもってお迎えに参りました」 「ナニ非常呼集……」 中尉はハッとした面持で、露子の顔を見た。露子もハッとしたが、武人の妻だ取乱しもせず奥にかけこんで、軍服の用意にかかった。 「義兄さん、お出かけですか」 「ウン旗男君。これはひょっとすると、今夜あたりから、物騒なことになるかも知れんぞ」 「物騒って、これ以上に物騒というと……アーもしや空襲でも」 「そうだ。なんともいえんが、S国の爆撃機が行動を起したのかもしれない。早ければ、ここ二、三時間のうちに敵機がやってくるかもしれない」 「ええッ、本当ですか。たった二、三時間のうちに……」 「距離が遠いといっても、○○○○から七百五十キロばかりだ。時速三百キロで、まっすぐにくるなら二時間半しかかからぬ。……とにかく、敵もさる者で、全くの不意打らしいぞ」 敵の飛行隊の根拠地から、二時間半しかかからないと聞くと、さすがに距離の近さがハッキリ頭に入ったような気がした。 川村中尉は、露子の抱いてきた正坊の寝顔を、太い指先でちょっとついてみたがそのまま起しもせず、暗い戸外に出ていった。西空には、糸のように細い新月が冷たく光っていた。沼田一等兵はもうサイド・カーのエンジンをかけて、中尉の乗るのをいまやおそしと待っていた。 「待たせたなァ。……では飛ばしてくれい」 爆々たる音響を残して、サイド・カーは街道を矢のように走りさった。目ざしてゆくのはこの直江津から南へ五キロほどいった高田連隊の高射砲隊だった。 義兄が出てゆくと、間もなくラジオの演芸放送がプツンと切れ、それに代って騒然たる雑音が入って来た。なんだかキンキン反響しているらしい。かすかではあるが、電話にかかっているらしい話声がする。どうやらそれは軍人らしい。活発な声だ、とたんに爆発するようなアナウンサーの声。…… 「ただいま、重大なる事態が起りましたため、マイクロフォンを東部防衛司令部に移して皆様に呼びかけます……」 重大なる事態発生? 旗男は思わず受信機のダイヤルを音の強い方にひねった。そして隣の部屋を向いて、大声で姉を呼んだ。 「姉さん。たいへんですよ。早くここへ来て、放送をお聞きなさい」 「あら、いよいよ始まったの……」 姉は正坊をソッと寝かしつけて、立ってきた。 拡声器からは、声なじみの中内アナウンサーの声が一句一句強くハッキリと流れてくる……。 「まず第一に、香取防衛司令官の告諭であります。司令官閣下を御紹介いたします」 しばらく間があって、やがて軍人らしい荘重な声がひびいてきた。―― 「本日午後八時、全国に防空令がくだされました。その目的は、S国の強力なる空軍が、わが帝国領土内に侵入を開始したのに対し、適宜の防衛を行うためであります。皇軍の各部隊は既にそれぞれ勇猛果敢なる行動を起しました。銃後にある忠勇なる国民諸君も、十分沈着元気に協力一致せられて、防護に警備に、はたまたその業につくされ、もって暴戻なる外国S国軍の反撃に奮励していただきたい。昭和十×年七月二十五日。東部防衛司令官陸軍中将香取龍太郎」 S国空軍! いよいよやって来たか、世界第一を誇るその悪魔隊、……しかし香取司令官の声には何物をもおそれないような、決意と自信とがこもっていた。 「……つづいて、東部防衛司令部の重大な発表がありますから、そのままでお待ち下さい。……ああ、お待たせいたしました。東部防衛司令部発表第一号。ただいま、能登半島より、大井川に至る線より東の地域は、警戒警報が発令されました。直ちに警戒管制でございます。不用な灯火は消し、他の必要なる灯火は、屋外に灯がもれぬよう黒い被をかけて下さい……」 いよいよ警戒警報が出たのだ。今夜のは防空演習ではない。 放送とともに、戸外がにわかにそうぞうしくなった。青年団員や在郷軍人が、活発な行動を起したものらしい。自転車のベルが、しきりと鳴りひびくのが、旗男の耳にのこった。 高射砲陣地 高田の歩兵第三十連隊の本隊は、日本海を越えて其方面に出征していた。あとには留守部隊がのこっていたが、これには臨時に、三箇中隊の高射砲隊が配属されていた。 川村国彦中尉は、その第三中隊長だった。敵機をうち落す高射砲、プロペラの音によって、敵機の位置をさがす聴音機、空を昼間のようにあかるくパッと照らす照空灯などが、この中隊に附属していた。それらは川村中尉の自慢のたねだった。兵員と機械とがまるで一人の人間の手足のように、うまく動くのであったから。 営門をくぐるのも遅しとばかり、中尉はサイド・カーから下りた。そして、いそぎ足で、連隊長の室に入った。 「おお、川村中尉か」 留守連隊長の牧山大佐は椅子から立ちあがった。 「せっかくの休暇が台なしになったのう。……さあ、そこで連隊命令を伝える」 川村中尉は不動の姿勢で、連隊長の命令書を読むのをまった。 「第○野戦高射砲隊ハ、既定計画ニ基キ陣地ヲ占領シ主トシテ高田市附近ノ防空ニ任ゼントス。各中隊は速カニ出発シ、第一中隊ハ鴨島ニ、第二中隊ハ柳島ニ、第三中隊ハ板倉橋附近ニ、陣地ヲ占領スベシ。終」 いよいよ出動命令が発せられたのである。川村中尉は、固い決心を太い眉にあらわして、おごそかに挙手の敬礼をした。そして廻れ右をすると、活発な足どりで連隊長の室を出ていった。 「高射砲第三中隊あつまれ!」 中尉の号令を待ちかねていたかのように、部隊はサッと小暗い営庭に整列した。点呼もすんだ。すべてよろしい。そこで直ちに部隊は隊伍をととのえて、しゅくしゅくと行進をはじめた。 市街を南へぬけて左へ曲ると、そこは板倉橋だった。――中隊は橋を中心として左右に散って陣地をつくった。――聴音機の大ラッパは暗黒の空に向けられ、ユラリユラリと重そうな頭をふった。敵機の来る方向はいずこだろう? 不気味な夜は、音もなく更けていった。 午後九時になると、とうとう非常管制が布かれた。サイレンの唸、ラジオの拡声器から流れてくるアナウンサーの声。「空襲、空襲!」と叫びながら走ってゆく防護団の少年。「灯火をかくして下さァい!」と消し忘れた家の戸を叩くけたたましい音。……そんなものがゴッチャになって、町や村は必死の非常管制ぶりだ。 午後九時半、○○海に出動していた第四艦隊から報告が来た。 「艦隊ハ午後九時二十分北緯四十度東経百三十七度ノ洋上ニ於テ、高度約二千米ヲ保チ、南東ニ飛行中ノ敵超重爆撃機四機ヲ発見セリ、直チニ艦上機ヲ以テ急追攻撃セシメタルモ、天暗ク敵影ヲ逸スルオソレアリ」 これで敵機の強さがわかった。やはりS国が世界に誇る超重爆撃機をもって攻めてきたのだ。それは、一台にすくなくとも五トンの爆弾を積んでいるはずだ。爆弾にもいろいろあるが一トンの破甲弾なら、十階の鉄筋コンクリートのビルディングも、屋上から一階まで抜けてメチャメチャになる。しかし敵機の持ってくるのは大部分が焼夷弾であろう。これには一キロ以下のや二十キロ位のやいろいろある。落ちて来るとたちまち三千度の熱を出し、鉄でもなんでもトロトロに焼き熔かしてしまうのだ。この焼夷弾をドンドン落して、日本の燃えやすい市街を焼きはらってやろうというのが、敵の作戦なのだ。 また、なかには恐ろしい毒瓦斯弾も交っているかも知れない。その毒瓦斯にもいろいろある。 それをまかれると、やたらにクシャミがでて、しまいには頭痛嘔吐になやむジフェニール、クロールアルシンなど、また涙がポロポロ出てきて、眼があけられず、胸が痛みだすというピクリン瓦斯。また嗅げば肺臓がはれだし、息がとまって死ぬようなことになるホスゲン瓦斯、もっとひどいのはイペリット瓦斯で、身体に触れるとひどくただれ、大きな水ぶくれができ、だんだん目や肺や胃腸をわるくしてゆくという恐ろしいものだ。その外にもまだ秘密にしている新毒瓦斯があるというから、それも持ってきて撒くにちがいない。――ああ、地獄の世界は、見まいとしても、もう一時間か二時間のうちに、見られるのではないか。われらの準備はできているかしら。…… 突如、高射砲陣地に、連隊からの警報電話が入ってきた。 「第四艦隊発警報。――敵ノ超重爆撃機二機ヲ、遂ニ南方ニ見失エリ。他ノ一機ハ高角砲ニヨリ粉砕シ、他ノ一機ハ海中ニ墜落セシメタリ。本艦隊モ駆逐艦一隻損傷ヲ受ケタリ」 「超重爆撃機二機ヲ南方ニ見失エリ」――ああ、それではいよいよやって来るぞ。 おお、憎むべき空魔! その空魔は、いまや刻一刻、わが海岸に近づきつつある。…… 深夜の空襲 ピカリ―― と、暗黒の空に、真青な太い柱がとびあがった。 照空灯だ! 太い光の柱は、生物のようにぐうっと動きながら、夜の空をかきまわした。それにぶっちがいに、また地上から別の照空灯の光がサーッと閃いた。どっちも、同じような場所を探している。――とたんに、いいあわしたように、光の柱はパーッと消えた。あたりは再び闇となった。しかし照空灯の強い光の帯だけが、いつまでもアリアリと眼の中に残っていた。どっちもかなり遠方で、方角からいうと、直江津よりもだいぶん東の方だ。海岸に陣地をしいている部隊が敵機を探しているのらしい。 川村中尉は、聴音機の上にとびのって、聴音手のそばにピッタリ身体をよせていた。さっきまで首をふっていた大きな聴音ラッパは、今は天の一角をさしてすこしも動かない。――ついに敵機の爆音をとらえたらしい。 ヒラリと中尉は地上にとび下りる。 ピリピリピリピリ。 注意せよ?――というしらせだ。 「……各個に対空射撃用意ッ!」 だが、高射砲はまだ沈黙して、ウンともスンともいわない。 そのときゴウゴウゴウと、天の一角から、底ぢからのある聞きなれない怪音がひびいてきた。――すわッ! 敵機近づく! その刹那だった。 サーッと、白竜のように、天に沖した光の大柱! それが、やや北寄りの空に三、四条、サーッと交叉した。 とたんに、空中に白墨でかいたようにまっ白に塗られた怪影があらわれたのだった。――兵はブルンと慄えた。恐ろしいからではない。待ちに待った敵機をついにとらえたからだ。なんとも奇怪なS国超重爆撃機の形! ドドドドーン。 ダダダダーン。グワーン、グワーン。 照準手が合図を送ると、砲手が一イ二ウ三イと数えて満身の力をこめて引金を引いたのだった。 ズズーン。 グワーン、バラバラバラバラ。 天空高く、一千メートルとおぼしき高度のところに、ピカピカピカピカと、砲弾が炸裂して、まるで花火のようだ。 だが敵機は、照空灯を全身に浴びたまま、ゆうゆうと砲弾の間を飛んでいる。 「ウヌ、ちょこ才な……」 高射砲にはすぐに新しい七十ミリの砲弾がつめかえられ、砲手はすばやく引金を引いた。砲弾は、ポンポンと矢つぎばやに高空で炸裂する。しかし敵機は憎らしいほど落ちついている。――そればかりか、機体の腹のところについていた縞が崩れて、なにか白いものがスーッと落ちてきた。 「あッ、やったぞ、爆弾投下だッ……」 誰かが大声で叫んだ。 白い爆弾の群は、斜に大きな曲線をえがいて落ちてくる。……一秒、二秒、三秒……。 ヒューッ、ウウーンという不気味な唸音をきいたかと思ったその瞬間、 グワ、グワ、グワーン。 ドドドドーン。 ガン、ガン、ガン、ガン。 目がくらむような大閃光とともに、大地が海のようにゆらいだ。ものすごい大爆発! まぢかもまぢか、聴音機の大ラッパがたちまちもげて火柱の間を縫うように吹きとんでゆく。それをチラリと見たが……。 「ウウーン。ば、万歳!」 悲痛なさけびごえ。 それにしても、ものすごい狙だ。わが部隊をぶっつぶそうとてか、破甲弾をなげおとしたのだった。 「……照準第一、あわてるなッ」 どこからか、川村中隊長のさけぶ声が響いてきた。 「中隊長どの、平気の平左であります……」 タダダダーン。シューッ。ダダダダーン。 勇猛なる兵は、手足をもがれても、部署から離れぬ。砲弾は、照空灯の光の柱をおいつづける。もう一弾! それ、もう一弾! ピカピカピカと、空中に奇妙な閃光が起ると見る間に、ぶるンぶるンと異様な空気の震動――とたんにパッと咲いた真赤な炎! あッという間もなくメラメラと燃えひろがり、クルクルクルとまわりだした。 「うん、命中だ。敵機は墜落するぞう!」 「バ、バンザーイ」 敵機は、すっかり炎につつまれて、舞いおちる。…… 「……さあ、残るはもう一機だッ。もう一がんばりだ。はやく探しあてるんだ」 伸びくる毒の爪 それまで直江津の町は、幸いにも、夜襲機の爆撃からまぬかれていた。 旗男は、不安な面持で、高田市方面と思われる方角の空と地上との闘いをみつめていた。空中に乱舞する照空灯、その間に交って破裂する投下爆弾、メラメラと燃えあがる火の手、遠くからながめても恐ろしい焼夷弾の力! 「あれが、この町の上に降ってきたんだったら、今ごろは冷たい屍になっているかもしれない……」 町いったいは、申分のない非常管制ぶりだった。直江津の全町は、まったく闇の中に沈んでいた。旗男は、この町の防空訓練のゆきとどいていることに感心していた。 そのとき、けたたましく半鐘が鳴りだした。 「オヤッ……」 と思って、ふりかえってみると、火事だ。近くの国分寺の方角だ。 「オヤオヤ、変だぞ」 火事は一箇所と思いのほか、町の南にあたる安国寺の方角にも起っている。そこへもう一つ、東の方に現れた――黒井の窒素会社の方角だ。――爆弾もなにも降ってこないのに、一時に三箇所の火事だなんて、どうもおかしい! と、思っていると、少年が二人ほど自転車にのって通りかかった。彼等は声を合わせてどなってゆく……。 「火の用心! 火の用心! 皆さん火に気をつけて下さい。一軒から必ず一人ずつ出て警戒していて下さいよう。いまの三箇所の出火は、どうもこれもS国のスパイがやった仕事ですよう」 「ナニ、S国のスパイ」 スパイは、だにのようにしつこく、この直江津の町に食いついているのだった。なぜ、この小さい港町が、スパイにねらわれるのだろう。同時に三箇所から起った火事というのも不思議だったが、やがて町の人には、そのわけがわかるときが来た。それは突然、音もなく町の上に落下してきた爆弾の雨! 「焼夷弾だッ……」 と気がついたときには、既に遅かった。 いわゆる爆弾とよばれる破甲弾や地雷弾とちがって、あまり大きな破裂音をたてない。だが投下弾は、民家の屋根を貫き、天井をうちぬいて畳の上や机の横に転がり、そこではじめてシュウシュウと、目もくらむような眩しい光をあげて燃えだすのだ。 そしてアレヨアレヨという間に畳も柱もボーッと燃えだした。たちまち室内は一面の火の海となり、なおも隣家の方へ燃えひろがっていった。 まったく手の下しようもない。みるみる火勢はものすごさを加えていって、往来へとびだしてみると、もう屋根の上へ真赤な炎が、メラメラと顔をだしていた。早く逃げなければならないが、この強い火の海にとりまかれてはどちらへ逃げてよいかわからない。まったく気のつきようが遅かった。三十秒以内に、落ちた焼夷弾のまわりの畳や襖や蒲団などの燃えやすい家具に、ドンドン水をかけてビショビショに濡らせばよかった。すると焼夷弾がクラクラに燃えさかり、はげしい火の子を吹きだそうと、その火の子の落ちたところが濡れていれば、あたりに燃えひろがる心配はなかったのだ。 焼夷弾の防ぎ方をハッキリ心得ている人が少かったばかりに、焼夷弾を全町にくらった直江津の町には、敵機の注文どおりに一時にドッと火の手があがった。 行方をくらました一機が直江津の上空にしのびこんだので、スパイは三箇所に火事を起して、直江津の町がここだと敵機に知らせたわけだった。だから焼夷弾は、町の上にちゃんと正しく落ちた。 「姉さん、逃げましょう――」 旗男は火が迫ったのを見て、姉をうながした。このとき姉はゴソゴソ押入を探していた。 「ちょっと、旗男さん。……逃げるにしても防毒面がなければね。もう一つあったはずだが……ああ、あった。旗男さん。早くこれをかぶんなさい」 さすがに軍人の家庭は用意がよかった。 旗男は、非常な感激とともに、その防毒面を情ぶかい姉の手からうけとった。 「……旗男さん。あんた、この町にぐずぐずしていちゃいけないわ。きっと東京は、もっとひどい空襲をうけていてよ。家はお父さまもお母さまも御病気なんでしょ。竹ちゃんや晴ちゃんでは小さくて、こんなときには頼みにはならないわ。こっちは大丈夫だから、あんたは急いで東京へ帰ってよ、ね、お願いするわ」 「ええ……」 旗男もさっきから、そのことを心配していたのだ。早く帰らないと申分ない。 そのとき裏手から、また焼けつくような煙がふきこんできた。 「さァ、姉さん、はやく……」 姉と坊やとを押しだすようにして庭へとびおりた。そのとき猛火はもう羽目板に燃えうつっていた。 廂からといわず、窓からといわず息づまるような黒煙が濛々と渦をまいて追ってくる。……旗男は渡された防毒面をかぶろうとしたが、一体、姉たちの用意はいいのかしらと心配になって、後をふりかえった。 「おお……」 旗男は、姉とその愛児の正坊とが、それぞれの頭にピッタリ合った防毒面をかぶっているのを見て感心した。――そこで旗男もあわててスポリとかぶった。煙がその吸収缶に吸われて、とたんに息がらくになった。姉たちは、その間に旗男のそばをぬけて、スルリと門外にとびだした。 真向こうの大きな二階建の家には、焼夷弾が落ち、階下で燃えだしたと見え、家ぜんたいが、まるでしかけ花火のような真赤な炎に包まれていた。すさまじい火勢が、家ぜんたいをグラグラとゆすぶった。旗男はハッと立ちすくんだ。 「あッ、姉さん、あぶないッ!」 と、叫んだが……それは残念にも、すでに遅かった。とたんに家はものすごい大音響をあげて、ドッと道路の上に崩れおちてきた。――ああ、いましも正坊を抱いた姉が駈け出したばかりのその道路の上に……。 避難民 どこをどう逃げてきたか、よくわからなかった。とにかく気のついたときには、旗男は、まっくらな畦道をまるで犬かなんかのように四ンばいになり、ハアハア息を切りながら先を急いでいる自分自身を見出した。 (なぜ、僕はこんなに急いでいるのだろう?) そういう疑いが、ふと彼の頭のなかを掠めたとき、彼はとつぜん気がついた。今まで何をしていたのか、ハッキリはしないけれど、とにかく、焼け落ちた家の下じきになったはずの姉と正坊の名を、あらんかぎりの声をしぼって呼びまわっている時、救護団の人たちが駈けつけたこと、そのうち逃げてくる人波に押しへだてられてしまったことだけが残っていた。それから先、どうして逃げたかわからない。 どうやらあまりの惨事に、しばらく気が変になっていたものらしい。 (ああ、姉さんや正坊はどうしたろう。これもみな、町のひとたちが、焼夷弾が落ちたらどうすればいいかを知らなかったせいだ。敵機も恐ろしいには違いないけれど、防護法を知っていたらこんなにはならなかったであろう?) 旗男は心配と口惜しさで、腸がちぎれるように感じた。 あたりをみまわすと、後にしてきた直江津の町は、まだ炎々と燃えさかっていた。しかし、さっきまでは活発に聞えていた高射砲のひびきは今は聞えない。僅かに高田市あたりと思われる遠空に、たった一本の照空灯がピカリピカリと揺れているばかりだった。――どうやら敵機はさったらしい。だが非常管制はそのまま続けられているらしい。 「元気を出さなきゃあ……」 と、旗男は自分自身にいいきかせた。そして、四ンばいをよして、二本の足で立ちあがった。 畦道がおしまいになって、暗いながらも、火炎の明るさでそれとわかる街道へ出てきた。 (これでやっと歩きよくなる――) と思って、彼は悦びながら、街道を歩きだしたが、わずか十メートルほどゆくと、道路の上に倒れている人間にドーンとぶつかった。 (オヤ、どうしたんだろう?) 旗男はこわごわ傍へよってみた。道路の上に倒れている人数は、一人や二人ではなかった。誰もみな、身体をつっぱらして死んでいた。そして、いいあわせたように、両手で咽喉のあたりを掴んでいた。 「ああ、敵機はやっぱり毒瓦斯を撒きちらしていったんだ」 旗男も、姉から防毒面を貰わなかったら、この路傍にころがっている連中と同じように、今ごろは冷たく固くなっていたことだろう。 それにしても、なんという憎むべき敵! ふり落ちる涙をおさえおさえ、旗男はようやく街道に出ることができた。そこで彼は、たいへん夥しい避難者の列にぶつかってしまった。狭い路上には、どこから持ちだしてきたのか車にぎっしりと積んだ荷物が、あとからあとへと続いていた。その車と車との間に、避難民が両方から挟みつけられて、キュウキュウいっていた。それも一方へ進んでいるうちはよかったけれど、そのうちに誰かが流言を放ったらしく、先頭がワーッというと、われさきに引きかえしはじめた。とたんに、どこから飛んできたのか火の子が、荷物の上でパッと燃えだしたので、さわぎは更にひどくなった。 「オイ、女子供がいるんだ……押しちゃ、怪我する。あれこの人は……」 「さあ、逃げないと生命がたいへんだ。どけ、どかぬか……」 「うわーッ」 蜂の巣をついたようなさわぎになった。そうさわぎだしては、助かるものも、助からない。群衆は、ただわけもなくあわて、わけもなく争い、真暗な街道には、あさましくも同士うちの惨死者が刻々ふえていった。 「あわてちゃいかん」 「流言にまどうな。落着けッ!」 声をからして叫ぶ人があっても、いったん騒ぎだした人たちを鎮める力はなかった。日本国民として、この上もなく恥ずかしい殺人が、十人、二十人、三十人と、数を増していった。ああ、このむごたらしい有様! これが昼間でなかったのが、まだしもの幸いだった。あわてた人間には大和魂なんて無くなってしまうものなのか? 旗男は、命からがら、この殺人境からのがれ出た。いくたびか転びつつ前進してゆくほどに、やがて新しい道路に出たと思ったら、いきなり前面に、ピリピリピリと警笛が鳴ったので、おどろいて立ちどまった。 「さあ、いま笛の鳴っている方角に歩いて下さい。この方角は駅の前へ出ます。……さあ、皆さん元気で、頑張って下さい。祖国のために……」 群衆のざわめく姿が、火事を照り返した空のほの明るさで、それと見られたが、かなり集っている。それだのに、これはさっきの群衆とちがって、なんという静粛な人たちだろう。落ちついているのと、あわてているのは、こうも違うものかとおどろいた。 旗男は、暗夜の交通整理のおかげで、思いがけなく駅の前に出ることができた。それは春日山駅といって、直江津と高田との中間にある小駅だった。ちょうど東京方面へゆく列車が出ようという間ぎわだった。町を守らねばならぬ義務をわすれて逃げだすような人たちは断られたが、旗男のように、東京方面へ帰るわけがある人たちは、プラットホームへ入れてくれた。 旗男は、思いがけないほど都合よく汽車に乗りこむことができた。 ――東京はどうだろう? 病身の両親や、幼い弟妹などが、恐ろしい空襲をうけて、どんなにおびえているだろうか。 疾走する暗黒列車 空襲をうけたといって、すぐ交通機関が停るようでは、ちょうど、手術にかかったとたんにお医者さまが卒倒したのと同じように、たいへんなことになる。 空襲下でも、交通機関は、できるだけ平常どおり動かさねばならぬ――と、鉄道大臣は、大きな覚悟をいいあらわした。 それは全くむつかしい仕事のうちでも、ことにむつかしい仕事であるのに、鉄道省は、見事にそれをやってのけた。……黒白もわかぬ暗黒の夜に、蛍火のような信号灯一つをたよりに、列車でもなんでも、ふだんと変わらぬ速さと変わらぬ時間で運転するなんて、神さまでも、ちょっとやれるとおっしゃらないだろう。 ――これを実際にやってのけたのだから、日本の鉄道の人たちは天晴なものだった。踏切や町かどの交通整理を引受けて、働いた青年団員も、実に偉かった。 「おどろきましたねェ、まったく……」 と、辻村という商人体の乗客が口を開いた。列車の内はすべて電灯に紫布の被がかけられていた。 「国がどうなるかというドタン場に、こうも落ちつきはらって、自分の職場を守りつづけるなんて、イヤ、どうも日本人という国民はえらいですな」 「いや全く、そのとおりでさあ」 と職工らしいガッチリした身体の男があいづちをうって答えた。 「われわれの先祖が、神武天皇に従って東征にのぼったときからの大和魂ですよ。大和魂は現役軍人だけの持ものじゃない。われわれにだってありまさあ」 「われわれにも、チャンとありますかなァ。わたしなんかにゃ、どうも大和魂の持合せが少いんで恥ずかしいんですよ……」 といって頭をかいたが、 「どうです、親方。この汽車は今夜中このとおり、鎧戸をおろし、まっくらにして走るんですかね」 「いや、いまに非常管制がとけて、警戒管制にかえれば、窓もあけられますよ」 「警戒管制になるのはいつでしょうな」 「いまに車掌さんが知らせに来ますよ。それまでは、すこし蒸暑いが、我慢しましょうや」 「我慢しますが、わしはどうも暑いのには……いやどうも弱い日本人だ。……どうです、親方。暑さしのぎに、暗いけれど一つ将棋を一番、やりませんか」 「えッ、将棋!」 親方は太い眉をビクンと動かした。 「この空襲警報の中で将棋ですか。いやおどろいた。あんたも弱い日本人じゃない。おそれいったる度胸。これァ面白い。さしあたり用もないから、じゃ生死の境に一番さしましょうか。これァ面白い。はッはッはッ」 辻村商人氏が、トランクから小さい将棋盤を出してきた。トランクを向かいあった二人の膝の上に渡し、その上に盤をおいた。そして駒をパチパチ並べはじめた。そのときまでの、この車内の光景ときたら、婦人や子供といわず、堂々たる若者たちまでが、本物の爆弾投下のものすごさにおびえて、すっかり度を失っていたのだ。ある大学生はブルブル慄えながらナムアミダブツを唱え、三人づれの洋装をした女たちは恐怖のあまり、あらぬことを口走っていた。列車の窓から外へ飛び出そうとする母親を子供たちが引留めようと一生けんめいになっていた。まるで動物園の狐のように車内をあっちへいったり、こっちへいったり、ウロウロしている会社員らしい男もあった。 「ああ呆れた。あそこを見なよ。この騒のなかに呑気な顔をして将棋をさしている奴がいるぜ。ホラ、あそこんとこを見てみろ……」 登山がえりらしい学生の一団の中から、頓狂な声がひびいた。――「将棋をさしている奴がいる」 その声に、室内の人々はあッとおどろいて、学生の指さす方角を覗きこんだ。 「さて残念! あいにくと銀がないわい……」 辻村氏は顔を真赤にして、毛のうすい頭からボッボッと湯気をたてていた。 「あッはッはッ。これァ愉快だッ」 学生団がドッと笑いだすと、いままで取り乱していた連中も、我に返ったように、おとなしくなった。そして、ほっとした色と一緒に元気が浮かびあがってきた。防毒面をとりもせず、座席の片隅に小さくなっていた旗男少年も、落ちつきと元気を取り戻した一人だった。そして、将棋さし二人男のほうをつくづくみていたが、急に飛びあがった。 「ああ、鍛冶屋のおじさんだ、兼吉君のお父さんだッ」 それは旗男の東京の家の崖下に、小さな工場を持っている鍛冶屋の大将鉄造さんだった。 旗男は「おじさんおじさん」と叫ぶと、いきなり、鉄造のガッチリした胸にとびついた。 「うわーッ」 と、さすがに後備軍曹の肩書を持つ鍛冶屋の大将も、不意うちに、防毒面をかぶった変な生物にとびつかれ胆をつぶした。膝の上にのっていた将棋盤も、ポーンと宙にはねあがった。いまや王手飛車とりの角を盤面に打ちこもうとしたエビス顔の辻村氏の頭の上に、将棋の駒がバラバラと降ってきた。おどろくまいことか、彼氏の金切声――。 「うわーッ、爆弾にやられたッ……」 毒瓦斯地帯 旗男は、思いがけなく親友のお父さんに会って、それこそ地獄で仏さまに会った思だった。鉄造は横に座席をあけてくれた。 「どうも、歩が一枚足りない……」 辻村氏は、腰掛の下にはいこんで、なくなった駒をさがしまわっていた。 「ああ、うちの赤ン坊が、手にもって、しゃぶっていましたよ」 そういって、女が、さっきの騒をまるで忘れてしまったような顔つきで、将棋の駒を返してよこした。車内はすっかり落ちつきを取りかえしていた。呑気な将棋が、救いの神だったのだ。 野尻湖近くの田口駅をすぎた頃、客車のしきりの扉が開いて、車掌がきんちょうした顔をして入ってきた。 「エエ、皆さんに申しあげます……」 車内の一同は、すわ、なにごとが起ったかと、車掌の顔を見つめた。 「エエ、ただ今非常管制がとかれて、警戒管制に入りましたが、警報によりますと、これから先に、だいぶ毒瓦斯を撒かれたところがあるようでございます。殊に一時間程のちに通過いたします長野市附近の如きは、窒素性のホスゲン瓦斯を落されたということでありました。そういうわけで、この列車も、毒瓦斯が車内に入ってくるのを防ぎますため、車窓も換気窓も、それから出入口の扉も絶対にお開けにならぬように願います。もちろん鎧戸の外には硝子戸を閉めていただきます。それから扉の隙間などには、眼張をしていただきます。眼張の材料が十分でございませんので、一つ皆さんで御相談の上、適当にやっていただきます」 これを聞いて、乗客たちは又色を失った。いよいよたいへんなことになった。この列車は毒瓦斯の中を通ることになったのだ。 「車掌さん、防毒面は貸してくれないのですか」 学生団から不安にみちた声がした。 「どうも配給がありませんので……」 「オイ車掌君。金はいくらでも出す。至急、防毒面を買ってくれたまえ」 一人の紳士があたり憚らない声をだした。 「お気の毒さまで……。室全体の防毒で、御辛抱ねがいます」 「じゃ君に百円あげる。拝むから、ぜひ一つ手に入れてくれたまえ」 紳士は泣きだしそうな顔で紙入をだした。 「お断りします」 車掌はキッパリいって、次の車室へドンドン歩いていった。 「おお、そこの子供くん。君は可愛い子だ」 と、紳士は旗男のところへヨロヨロと近づいた。 「二百円あげるから、その防毒面を売ってくれたまえ。私は肺が悪い、病人だ。ね、売ってくれるだろう。三百円でもいい」 旗男は困ってしまった。すると隣に腰をかけていた鍛冶屋の大将が、旗男をかばうようにしたかと思うと、食いつきそうな顔で紳士をにらみつけた。 「この馬鹿野郎!」 その破鐘のような声に吹きとばされたか、がりがり亡者の紳士は腰掛の間に尻餅をついた。 それに構わず、鍛冶屋さんはすっと立ちあがった。 「さあ皆さん。毒瓦斯を防ぐとなると、お互さまに知らぬ顔をしていられません。みんなで力を合わせて、この室を早く瓦斯避難室にしなければなりません。私は東京品川区の五反田では防護団の班長をしています。後備軍曹で、職業は鍛冶屋です……」 飛んだところまで口をすべらせるので、辻村氏があきれて、下から鍛冶屋の大将の服をひっぱった。 「……で、とにかく私が指揮しますが、文句はありませんか」 「委せるぞう……、よろしく頼むゥ……」 という声がかかって、鉄造は大満足だった。 「じゃ、まず眼張の材料だ。みなさん、使ってもいいだけの紙と布と、弁当の残りの飯とを出してください。その顔の長い学生君は紙係、青いネクタイの方は布係、その水兵服の娘さんは弁当飯係。すぐ集めにかかってください」 誰もいやな顔をしなかった。なにしろ、毒瓦斯だ。ぐずぐずしてはいられない。 材料は集った。それを手頃の大きさに裂く係ができ、材料を分ける係ができ、そしていよいよ全員が手分をして、眼張作業が始まった。紙と布とを飯粒で幾重にも隙間に張りかさねるのだった。例の紳士も、命ぜられて飯粒を盛んにこねまわしていた。この協力のかいあって、僅か十分たらずで眼張ができあがった。なお軍曹は毛布とシーツとを集めて出入口の扉よりすこし中へ入ったところに仕切りの幕をつくった。間違って出入口が開いても、毒瓦斯はこの幕で一時食いとめられる仕掛にして、そこには学生を二人ずつ、番兵につけた。 彼等はピッケルを、小銃のように持って警備についた。こうして全く安心のできる簡易瓦斯避難室ができあがった。 婦人たちは、いずれもニコニコ顔で、車内をなんべんも見まわした。 列車が、柏原駅についたとき、指揮をしていた鍛冶屋の大将は、なにを思ったものか、つと扉をあけて、プラットホームへ下りた。どこへ行ったんだろう? やがて列車はガタンゴトンと動きだした。しかし鍛冶屋の大将はどうしたのか、車内に姿をあらわさなかった。同室の人たちの顔には不安の色が浮かびあがった。 急造の防毒面 「どうしたんだろうな、われ等の防護団長は……」 と、商人辻村氏が、遂に心配の声をあげた。そのとき出入口の扉が、ガラリと開く音がきこえ、そして、毛布の幕の間から姿をあらわしたのは、案じていた鍛冶屋の大将だった。見れば両手に大きな新聞紙包を抱えている。中からゴロゴロ転がり落ちたのを見れば、なんとそれは木炭だった。 「炭なんか持って来て……お前さん、この暑いのに火を起す気かネ」 辻村氏の顔を見て、鉄造は首を横にふった。 「牛乳、ビール、サイダーの空壜を集めてください」 妙な物を注文した。――やがて七、八本の空壜が、鉄造の前にならんだ。 炭は女づれのところへ廻され、学生のピッケルを借りて、こまかく砕くことを命じた。一人の奥さんの指から、ルビーの指環が借りられ、それを使って、硝子壜の下部に小さな傷をつけた。それから登山隊の連中から蝋燭が借りられた。灯をつけると、硝子壜の傷をあぶった。ピーンと壜に割目が入った。壜をグルグル廻してゆくと、しまいに壜の底がきれいに取れた。一同は固唾をのんで鍛冶屋の大将の手許を見ている。 彼はポケットから綿をつかみだした。炭と綿とは、駅の宿直室から集めてきたのだった。――綿をのばしたのを三枚、抜けた壜底から上の方へ押しこんだ。 「炭をあたためて水気を無くし、活性炭にすれば一番いいのだが今はそんな余裕もないから……」 といいながら小さくした堅炭をドンドン中へつめこんだ。そしてまた底の方をすこしすかせ、綿を三枚ほど重ねて蓋をした。そうしておいて壜底を、使いのこりの布で包み、その上を長い紐で何回もグルグル巻いてしばった。 「さあ、これでいい。――みんな手を分けてこのとおり作るんだ」 辻村氏が、目をクルクルさせ、その炭のつまった壜を高くさしあげて、 「団長、これは何のまじないだい」 「まじないという奴があるものか。これは防毒面の代用になる防毒壜だ」 「へえ、防毒面の代り? こんな壜が、どうして代りになるのか、わからないねェ。第一これじゃ、顔にはまらない」 「あたりまえだ。顔にはまるものか。……しかし、こうして壜の口を口にくわえればいい。口で呼吸をするのだ。鼻は針金をこんな風にまげ、こいつで上から挟みつけて、鼻からは呼吸ができないようにする。こうすれば毒瓦斯は脱脂綿と炭に吸われて口の中には入ってこない」 「なるほど、こいつは考えたね」 「形は滑稽だが、これでも猛烈に濃いホスゲン瓦斯の中で正味一時間ぐらい、風に散ってすこし薄くなった瓦斯なら三、四時間ぐらいはもつ。立派な防毒面が手に入らないときは、これで一時はしのげるわけさ……」 「な、なァる……」 そのとき、扉がガラリと開いた。車掌が入ってきて目を輝かせた。 「これはこれは、この部屋は大出来ですね。よくやって下すった。これなら大丈夫でしょう」 車掌はいく度も室内をみまわしながら、次の車室へ向かった。 それから十分ののち、列車内には毒瓦斯警報が出た。いよいよ恐ろしき毒瓦斯地帯へ、音もなく滑りこんだ。車室内の全員は、さすがに黙って、鼻に全神経をあつめた。 一分、二分、三分……。今にもホスゲン瓦斯の堆肥に似た臭が鼻をつくかと心配されたが、四分たち、五分たっても、なんの変った臭もして来ず呼吸はふだんと変りなくたいへん楽であった。 (ああ、助かった!) 室内の誰もが、自分の胸のうちで、同じ事を叫んだ。そうだ、助ったのである。みんなは恩人である鍛冶屋の大将の方をふりむいた。かの大将は、急造の防護壜を前に並べて、腕ぐみをし、大きな鼻を豚のようにブウブウ鳴らしていた。その時だった。後の車室の方で、にわかに、ただならぬざわめきが聞えてきた。続いて、何かドタンドタンと大きな物がぶったおれるような物音がした。ガタガタガタンと、あわてて扉を引きあける音がして、とたんにヒイヒイと獣が泣くような気味の悪い声が近づいて来た。 帝都は間近し 「助けて、た、たすけてえ」 と、ひどくしゃがれた声が……。 室内の人たちは、一せいに入口の方に眼を注いだ。毛布の幕の聞から、ゴロリと転げこんできたのは、スポーツマンらしい大きな男だったが、顔色は紙のように白く大きな口をあけてあえぎながら、両手でしきりに咽喉のところをかきむしっていた。まさしく、毒瓦斯に中毒していることが一眼でわかった。鍛冶屋の大将はまっさきに立ちあがって、その男のそばにかけつけた。 「た、助けてやって、くれたまえ。こ……後車は毒瓦斯がたいへん、だッ……」 とまでいうと、彼ははげしく咳いった。 鍛冶屋の大将は、 「よォシ、助けてやるぞ」 と叫ぶなり、一座を見わたして、学生を五人ほど指名した。 「さあ、あの防毒壜をくわえて、助けにゆくんだ」 旗男も、防毒面を被りなおした。 学生たちは、鼻の穴に思い思いの栓をした。或者は、消しゴムを切ったものをつめたり、また或者は万年筆のキャップをつっこんだり、それから、また或者は一時の間にあわせに、綿栓をこしらえ唾でしめして鼻孔に挿した。 そうしておいて、鍛冶屋の大将を手本にして、防毒壜を口にくわえた。それは奇妙な格好だった。だが誰も笑う者はなかった。尊い勇士たちの出陣だから……。 後車へ飛びこんでみると、そのむごたらしさは筆紙につくされないほど、ひどかった。とても、ここに書きしるす勇気がない。どうしてそんなにひどいことになったかというと、結局、その車室の目張が、言訳的におそまつにしてあり、それも力を合わせず、めいめい勝手にやったための失敗だった。彼等は、毒瓦斯をあまりにも馬鹿にしていたのだった。 七勇士は、できるだけ彼等を助けたけれど、結局、すぐ元気にかえったものはごくわずかだった。多くは、もう胸にひどい炎症が起り、苦悶はひどくなってゆく一方だった。 壜をくわえた勇士たちが、やがて部屋へ帰ってきて、口から壜を放したときには、皆いいあわせたように顔をしかめ、歯をおさえて、口をきく者もなかった。 「どうもつらい防毒面だ……」 やっと一人が口をきいた。他の勇士は、いたみとおかしさとの板ばさみになって、苦しそうに笑った。 「何しろ、我輩が発明したばかりの防毒面だからこたえたんだよ」 と鉄造は口の上から歯をもみながらいった。 「皆さん、お互に今後は、せめて直結式の市民用防毒面ぐらいはもっていることにしましょう。あれなら、この五倍ももつ。今くらいの薄いホスゲンなら五十時間の上、大丈夫だ」 「そいつは、どの位出せば買えるかね」 「安いものですよ。たしか、六、七円だと思ったがね」 「六、七円? そりゃ安い。山登を一回やめれば買えるんだ」 「僕は、さっきこのおじさんに教わったように炭と綿とを使って、もっと楽に口につけられるような防毒面を自分で作るよ。断然、その方が安いからな」 「でも、保つ時間が短いよ」 「なァに、換えられるような式にして、三つか四つ炭と綿の入った缶を用意しておけばいいじゃないか」 「僕はその上、水中眼鏡をかけて、催涙瓦斯を防げるようにしようかな」 若い人たちの間には、防毒面の座談会が始まった。同室の人たちは、横から熱心にそれを聞いていた。そしてめいめいの心の中に思った。―― (今度東京へ帰ったら、まっ先に防毒面を手に入れよう……)と。 それから間もなく、毒瓦斯地帯を無事に通過することができた。 「篠ノ井、篠ノ井……」 と駅夫のよぶ声が聞えてきた。もう毒瓦斯がない証拠だ。窓は明けはなたれた。そとから涼しい、そして林檎のようにおいしい(と感じた)空気がソヨソヨと入ってきて、乗客たちに生き返った思をさせた。 車内の死者と中毒者とは、この篠ノ井でおろした。駅夫の話によると、夥しい毒瓦斯弾のお見舞をうけた長野市附近は、相当ひどいことになったらしかった。そこでも、平生の用意が足りなかったわけだ。 列車は、また警戒管制の夜の闇のなかにゴトゴト動きだしていった。――安心したのか、それとも活動に疲れたのか、例の勇士をはじめ、車中の人たちは、枕をならべて深い睡りにおちていった。高崎駅を過ぎるころ、夜が明けた。 しかし車中の人たちは、上野駅ちかくになって、やっと眼を覚ました。 車窓から眺める大東京! 帝都の風景は、見たところ、どこも変っていなかった。焼夷弾や破甲弾、さては毒瓦斯弾などにやられて、相当ひどい有様になっていることだろうという気がしていたが、意外にも帝都は針でついたほどの傷も負っていなかった。昨夜、悪戦苦闘した乗客たちは、何だか、まだ夢を見ているのではないかという気がしてならなかった。 だが本当のところ、帝都は昨夜、遂に敵機の空襲を迎えずにすんだのであった。帝都の四周を守る防空飛行隊と、高射砲の偉力とは、ついに敵機の侵入を完全に食いとめることができたのだった。 しかし、世界第一を誇るS国の大空軍を果していつまでも、完全に食いとめられるものであろうか、どうか。 ? ? 東部防衛司令部 東部防衛司令部は、防空令がくだされると、直ちに麹町区某町にある地下街にうつった。 それは空中からどんな爆撃を受けても、完全に職務をなしとげられるような十分安心のできる場所であった。そこには近代科学のあらゆる粋をあつめて作った通信設備や発電機や弾薬や食糧や戦闘用兵器などがそろっていた。 その日の午前中に、各地からの知らせが集ってきた。東部防衛司令官香取中将は作戦室の正面に厳然と席をしめ、鹿島参謀長以下、幕僚を大卓子のまわりにグルリと集め、秘策をねっていた。 「……さような次第でありますから……」 と参謀長は報告書を見ながらいった。 「昨夜、S国の空軍が行いました第一回の夜間空襲は、主として○○海沿岸の都市に相当の恐怖と被害とを与えましたようでありますが、遠征してまいった敵の超重爆撃機は、一機をのぞきましてことごとくわが高射砲のために射落されました。その損害は、そうとう大なるものであります」 香取将軍は大きくうなずいた。 「しかるに、S国はその痛手には一向参る様子もなく、チ市にあらかじめ待機させてあった超重爆撃機七十機を、○○○○の北方ス市に移しました。この目的はもちろん、わが国土内に深く入りこんで空襲をやるためでありますが、その飛行場出発はいつになりますやら不明と報道されています。とにかく、これが最も恐るべき相手であります」 香取将軍は、また大きくうなずいた。そして口を開いた。 「又、U国の有名な空軍も、いま○○○○半島に集っているそうじゃな。S国とU国との世界の二大空軍が握手しそうな様子に、大分心配しているむきもあるが本官は、それほど憂慮はしていない。たとえ、全世界の空軍が一つになっても、戦争となると、おのずから順序がある」 と、将軍の太い眉がピクリと動いた。 「さっき、C国の局外中立宣言(どちらにもつかぬということ)が一両日のびるという情報が入りました。やはり昨夜の空襲が原因しているものと見えます」 と、高級副官がいった。 「C国の態度はなかなか決まらんだろう。決まらんところがあの国の国がらなのだ。日本が強ければ、日本につこうとするし、日本が弱りかけたとみると、日本を離れようとする。東洋の平和のためには、わが帝国がどうしても強くなければいけないのじゃ」 「閣下のお言葉の通りです、C国はずいぶん優秀な軍用機をもっているのに、はっきりした行動をとれない。S国やU国が飛行根拠地を貸せといって迫っても、断るだけの力がないのです。あわれな厄介な国ですね」 「わが陸軍の主力がほとんど○○とC国とにでかけているのも、一つはこの弱い国を正しく導いてやって、東洋の平和に手落なからしめるためだ。平和を乱す国などに、むやみに飛行根拠地などを借りられるようなときには、わが国は、代って物もいってやらねばならぬ。東洋に於ける帝国の使命は実に重いのだ」 そのとき、若い大将参謀が、書類をもって入ってきた。 「司令官閣下、昨夜の空襲によってわが国土のうけましたる被害について御報告いたします」 「ほう、御苦労」 「○○海を越えてきました敵の超重爆四機が、攻撃いたしましたのは、大体に於て、本州中部地方の北半分の主要都市でございました。焼夷弾が十トン毒瓦斯弾が四トン、破甲地雷弾が三トンぐらい、他に照明弾、細菌弾などが若干ございますものと推測いたします」 「十七トンの爆弾投下か。――敵ながらよくも撒いたものじゃ」 「軍隊の損害は、戦死は将校一名、下士官兵六名、負傷は将校二名、下士官兵二十二名、飛行機の損害は、戦闘機一機墜落大破、なお偵察機一機は行方不明であります。破壊されたものは高射砲一門、聴音機一台であります。他に照空灯、聴音機等若干の損害を受けましたが、爾後の戦闘には、支障なき程度でございます」 「軍隊以外の死傷は」 「死者約七十名、重傷者約二百名、生死不明者約千名であります。この原因はおもに混乱によるもので、大部分は避難中、度を失った群衆のようであります」 「ウン、恐るべきは爆弾でもなく毒瓦斯でもない。最も恐ろしいのは、かるがるしく流言蜚語(根のないうわさ)を信じ、あわてふためいて騒ぎまわることだ。国民はもっと冷静にして落ちつくべきである」 「はッ、閣下の仰せの通りであります。……圧しつぶされて死んだ者についで、死者の多かったのは毒瓦斯にやられた者で、約二十名。これはふだんから、毒瓦斯とはどんなものか、どうすれば防ぐことができるかをよく心得ておかなかったためだと存じます……」 そのとき、通信係の曹長が、いそぎ足で部屋に入ってきた。 「お話中でございますが、司令官閣下、只今、T三号の受信機に至急呼出信号を感じました。秘密第十区からの司令官宛の秘密電話であります」 警報出づ その日の午後四時、真夏の太陽はギラギラと輝いていたが、帝都には突如として警戒警報が発令された。 品川区五反田に、ささやかな工場を持つ鍛冶屋の大将こと金谷鉄造は、親類の不幸を見舞いにいった帰り、思いがけぬひどい目にあったが、その疲を休めるいとまもなく、もう仕事場に出て、荷車の鉄輪を真赤にやいて、金敷の上でカーンカーンと叩いていた。そこへ防護団本部から急ぎの使がやってきて、「至急集合!」を知らせてきたので、仕事はあともう一息だったけれど、そのまま鎚をなげだして、団服を着るのももどかしく、往来へ走りでた。 「やあ鉄造さん。よく帰ってきてくれたね」 と、分団長の丸福酒店の主人、神崎後備中尉は、嬉しそうに、鉄造の手をとった。 「おお、分団長。……昨夜は汽車のなかで、どんなに気をもんだか知れやしない。なにしろ、ふだんの防空演習と違って、いつも先に立って働いてくれた在郷軍人の連中の大部分が、戦地へ召集されて出ていっている。残るは、わし等のような老ぼれと、少年達とばかりだ、それじゃ、とても手が足りなくて困っているだろうと思ったよ」 「ウン、そのとおりだ。全く弱っている。いまラジオでも聞いただろうが、突然また警戒警報が出た。ところが、この小人数になった防護団では、とても手が廻りゃしないことがわかっている」 「一体、人員はどのくらいに減ったのかい」 「とても話にならぬ。半分ぐらいに減っちまったんだよ。その上、頼みになるような若者達がいないと来ている。……これだけで、警護に、警報に、防火に、交通整理に、防毒に……といったところが、とても、やりきれやしない。まさか、こんなに防護団が貧弱になろうとは思わなかったよ」 神崎分団長は、心配の眉をひそめ、途方にくれたという顔附で鉄造の方を見た。 「仕方がないよ。防護団も、戦時にはこうなることが初からわかっていたのだ。愚痴をならべたって仕方がない。とにかく御国のために、ぜひ完全に防護してみせなきゃならない。困っているのは、この五反田防護団だけじゃない。日本全国で、みなこの通り手が足りなくて困っているのだ。……よし、俺たちは二倍の力を出すことにしよう。そうすれば、どうにかなるよ」 「他の防護団へ交渉してみようか」 「駄目駄目。それよりも、この際、少年達に大いに働いてもらう方がいい」 「少年達なんて、爆弾がドカーンと鳴るのを聞いたとたんに腰をぬかしたり、泣きだしたりするだろう」 「なんのなんの、そんなことはない。日本の少年の強いことは、むかしから、証明ずみだ。少年時代の頼朝の胆力、阿新丸の冒険力、五郎十郎の忍耐力など日本少年は決して弱虫ではない。ところが、この頃では子供だ、かわいそうだと、ただ訳もなくかわいそうがるから、子供たちは昔の少年勇士のような、勇ましい働きを見せましょうと思っても、見せる時がないのだ。今も昔もかわりはない。日本少年の胆力は、今もタンクのように大きい!」 「タンクのように?」 分団長は、鍛冶屋の大将の大袈裟ないい方におどろいて顔を見た。 「そうだ。タンクだ。だからこの際、少年たちに重大な任務を与えるのがいいのだ。きっと彼等は、頼朝や阿新丸や五郎十郎などのように、困難を乗りきって手柄をたてるよ。心配はいらないぞ、分団長!」 神崎分団長は、鉄造の言葉にすっかり感動してしまって、強い握手をもとめた。 「ああ、よく教えてくれた。やはり日露戦役に金鵄勲章をもらってきただけあって、鍛冶屋上等兵はえらいッ!」 「オイオイ、上等兵なんかじゃないぞ、軍曹だぜ!」 「ああ、そうかい。軍曹かい。これは失敬。もっとも、のらくろ二等兵なんかもこのごろ、少尉に任官したそうだからね。ましてや君なんか人間で……」 「こらッ!」 大分ヨボついているが、この後備軍人たちも相当なものだった。これから世界一を誇るS国空軍の強襲をうけようという場合にもかかわらず、平然と、いつものような冗談をいいあうほど、くそおちつきに落着いていた。 神崎分団長は、そこで肚をきめて、命令を発した。少年達を召集して、警護、警報、交通整理、避難所管理の各班に分属させること、救護班、防火班、防毒班、工作班は大人がやること……、これでやっと分団長の気は楽になった。 「オウ、分団長はいますかァ……」 と、自転車で駈けつけてきたのは、警報班長の髪床屋の清さんだった。 「分団長は、ここだここだ。清さん清さん」 声を聞きつけて、清さんは、青い顔を天幕のなかに入れた。 「あのゥ、これは大きな声でいえないことだけれど、実は、いま新宿駅のそばを通ってきたんですがね、駅のところは黒山の人なんで……」 「黒山の人? 喧嘩か、流言か」 「まァ流言の部類でしょうね。その群衆はてんでに荷物をもって、甲州方面へ避難しようというのです。なんでもいよいよ今夜あたり、帝都は空襲をうけて、震災以上の大火災と人死があるというのです。だから、帝都附近は危険だから、甲州の山の中に逃げこもうという……」 「ナ、ナ、ナ、ナーンだ。帝都から逃げ出す卑怯者が、そんなに沢山いるのか。それは日本人か」 と、鍛冶屋の大将は、真赤になって怒りだした。 「それがね。めいめい大きな荷物をしょいこんで、押合いへし合いなんです。女子供が泣き叫ぶ、わめく、怒鳴る、その物凄いことといったら……」 「憲兵や、警官はいないのか」 「いるんでしょうけれど、とてもあの群衆は抑えきれませんよ。……それで思うんですが、避難するなら早くやらないといけない。ぐずぐずしていると避難民はますますふえてきて、列車に乗れなくなりますよ。……全く帝都にいるのは危険だ」 「ほう……」 と分団長は驚きの色をあらわし、 「そんなことが始まるかもしれないと思っていたが……」 敵機いよいよ迫る 「貴様は……」 鍛冶屋の大将は憤然として、清さんの胸ぐらをとった。 「キ、貴様は逃げる気か。逃げたいのか。空襲をうけようとする帝都を捨てて逃げるのか!」 「あッ、苦しいッ、ハハ放せッ。……俺は逃げないが、弱い家族は逃がしたい……」 「ば、ばかッ!」 鍛冶屋の大将は、清さんを突きとばした。彼はヨロヨロとなり椅子につきあたると、ドーンとひっくりかえった。 「こーれ、よく聞け」 鉄造は一歩前に出て悲痛な声をはりあげ、 「貴様はそれでも、天皇陛下の赤子かッ! 大和民族かッ、五反田防護団員なのかッ! 恥を知れッ」 まァまァと分団長が中に入ったが、鉄造はそれをふり払いまた一歩前進した。 「忠勇なる帝都市民は、たとえ世界一の空軍の空襲をうけて、爆弾の雨をうけようが、焼夷弾の火の海に責められようが、帝都を捨てて逃げだそうなどとは思っていないぞ。こんどの国難においては、われわれ市民も立派な戦闘員なんだということがわからんか。考えてもみろ、貴様の家では、家族がみな逃げちまって空家になっているとする。そこへ敵の投下した焼夷弾が、屋根をうちぬいて家の中に落ちてきた。さあ、この焼夷弾の始末は誰がするのだ。おい、返事をしろ」 「……」 清さんは、赤くなって下を向いたきりだ。 「焼夷弾は、落ちて三十秒以内に始末しなかったら、火事になることはわかっている。空襲下で火事を出すのが、どんなに恐ろしいことか思っても見ろ。貴様の家の火事がわれわれの努力を水の泡にして、この五反田の町を焼き、帝都を灰にしてしまう。それでも貴様は日本人か。貴、貴様というやつは……」 「ワ、わかった、鉄さん。お、おれが悪かった」 清さんは、膝で歩きながら、鍛冶屋の大将にすがりついた。 「鉄さん、おれたちは日本人たることを忘れていた。……どんな爆弾が降って来ようと、自分の家を守る。この町を守る……どうか勘弁してくれ」 「そうれみろ。貴様だってわかるんじゃないか。わかれば何もいわない。……警報班長なんて委せておけないと思ったが、もう大丈夫だろうな」 「ウン、大丈夫! ウンと活動するぞ、おれは外で働き、家の方は女房を防護主任にしてやらせる」 「鉄さんのおかげで、わが防護団は俄然強くなった。さあ、二人で握手しろ」 分団長は、二人の手をとってにぎらせた。 「あッはッはッ」 「大いにやるッ。ハッハッハッハッ」 日没とともに、警報班の灯火管制係の活動は、目に見えて活発になってきた。なかでも鍛冶屋の大将の息子で、いつも少年ながら父親の向鎚をうっている兼吉は、親ゆずりの忠君愛国の精神にもえ、少年団の先頭にたって、西へ東へと、教えられた通り、定められた街灯を消してまわっていた。少年たちは五人一組となっていたが、持ちものは、長い梯子が一つと、高いところに届く竿が二本――それは、先のところが三つまたに割れ、その先を繃帯でグルグル巻いてあった。その三つまたを街灯の電球へおしつけ、竿を左まわりにねじると、電球がソケットからすこし抜けてもどるため、あかりが消える仕掛だった。 少年たちが、この作業のときに一番気がついたことは、共同の力の大きいということだった。 昔、毛利元就は三本の矢を一度に折ることのむつかしいことから、協力の大事なことを説いたが、いま少年たちは、五人で力を合わしさえすれば、大人がやっとかつげるような重い梯子もらくらくと運べ、大人がやるよりも、遥かに多くの街灯をはるかにはやく消してあるくことのできるのを知ったのだ。 帝都にはまったく夜のとばりが下りた。 そば屋の掛看板にも灯が消えた。町のネオン・サインもついていない。自動車のヘッドライトには、紫と黒との二重の布がかぶせられた。飛行将校の話によると、夜間飛行でもかなり低空にくだってくると、地上で吸っているタバコの火がハッキリと見えることさえあるそうだ。懐中電灯にも、被がいる。上から直接見える火は、ことに用心しないといけない。 午後八時十五分! 突如として、ラジオが鳴りだした。 「東部防衛司令部です。只今警報が発せられる模様であります……」 昨日から、中内アナウンサーは、おおわらわの奮闘だった。五百万の市民は、このなじみ深いアナウンサーが、いま何を告げようとするのかと、胸おどらせながら、拡声器の前に集ってきた。 「これァ、いよいよS国の超重爆が攻めてきたんですよ」 「さあ、これは大変だ。うちじゃ防毒室の眼張の糊がまだかわいていないので」 「なぜ、もっと早くこしらえなかったんだい」 「それが、あわてているものだから、糊を作ろうと思って、鍋を火にかけてはこがし、かけてはこがし、とうとう三べんやり直した」 「それで、今度は出来たかい」 「ところが、やっぱり駄目、仕方がないから冷飯を手でベタベタ塗ったんだが、つばきがついているせいか、なかなかかわかない。あッはッはッ」 「こらッ、警報が出るんじゃないか。シーッ」 不気味な沈黙が、ヒシヒシと市民の胸をしめつけていった。 「……警報! 警報! 只今関東地方一帯に空襲警報が発せられました。直ちに非常管制に入って下さい。……復誦いたします。只今……」 そのとき、サイレンが、ブーッ、ブーッと間隔をおいて鳴りだした。これに習うように、工場の汽笛がけたたましく鳴りだした。 五反田防護団では、警報班長の清さんが、天幕の中で、大声に叫んでいる。 「警報班のみんな。空襲警報だッ。直ちに受持区域に『空襲!』と知らせて廻れ、出動、始め!」 と、妙な号令のかけかたをした。 天幕の前にメガホンをもって並んでいる少年が二十人。半数は自転車で、他の半数は二本の足で、今にも飛出すばかりに身構えていたのだ。班員はサッと挙手の敬礼をすると、 「さあ、行こう!」 と叫んで、それぞれの受持区域にむかって、砲弾のように駈けだした。 防空飛行隊の活躍 志津村の飛行隊は、緊張のてっぺんにあった。 帝都から、数十キロほどはなれた、この飛行場には、防空飛行隊に属する諸機が、闇のなかに、キチンと鼻をそろえて並んでいた。 今しも三機の偵察機が、白線の滑走路にそい、戦闘機の前をすりぬけるようにして、爆音勇ましく暗の夜空に飛びだした。 場外に出ると、三機はそれぞれ機首を別々の方向に向けて、互に離れていった。前に出発した三機と合わせて、六機の偵察機の使命は、某方面から入った警報にもとづき、敵機を探しに決死の覚悟でとびだしたのだった。 「まだ、その後の報告はないか」 と、屋上の司令所にがんばっている隊長は、通信班長の軍曹にたずねた。 「はッ、まだであります」 「遅いなあ。何もわからぬか」 「はッ、さきほど報告いたしましたとおり、敵機らしきものから打ったあやしい無電をちょっと感じましたが、その方向をつきとめないうちに、怪電波は消えてしまいました。北西の方向らしいとわかったきりで、明瞭でありませぬ」 「敵機は、よほど用心しているな。相当に高く飛んで来ているように考えられる」 そのとき、通信兵がツカツカと室に入ってきて、一枚の紙片を軍曹に渡した。 「あッ。……ただ今、先発隊の第二号機から通信がありました。――『本機ニ二三〇三地点ニ達セルモ敵機ヲ発見スルニ至ラズ』……とあります」 「あッ。……ただ今、先発隊の第二号機から通信がありました。――『本機ニ三〇三地点ニ達セルモ敵機ヲ発見スルニ至ラズ』……とあります」 防空飛行隊が暗夜に必死の活動をつづけている間、帝都では、非常管制をはじめ、あらゆる防護の手段が着々として用意されていった。 五反田の裏通では、闇の中に、防護団の少年と住民との間に、小ぜりあいが始まっていた。 「おじさん。どうしても灯を消さないというのなら、僕は電灯をたたきこわしちゃうがいいかい」 「そんな乱暴なことをいうやつがあるか。電灯の笠には、チャンと被がしてあるし、窓には戸もしめてあるよ。外から見えないからいいじゃないか」 「だって、皆が消しているのに、おじさんところだけつけておくのはいけないよ。敵の飛行機にしらせるようなものじゃないか。おじさんは非国民だよ」 「なに非国民! これは聞きずてにならぬ。子供だからと思って我慢していたが、非国民とはなんだ。おれはこんなに貧乏して、ゴム靴の修繕をやり、女房は女房で軍手の賃仕事をしているが、これでも立派に日本国民だッ。まじめに働いているのがなぜ悪いんだ。仕事をするためには、下にあかりを出さなきゃできやしないぞ」 「だって、空襲警報の出ている少しの間だけ消せばいいのじゃないか。それをやらないから、非国民に違いないや。オイ皆、いくらいっても駄目だから、電球をとってしまおうよ」 ワーイという少年の声、家の中からキャーッとあがる悲鳴、靴屋のおじさんは棒をもって少年の方に打ちかかってきた。 「コラ、待て、この非常時に、喧嘩するのは誰だッ」 バラバラと近づく足音――格闘の中に飛びこんできたのは鍛冶屋の大将だった。 「なんだ、これァ……防護団の少年と、靴屋さんじゃないか」 「そうだよ、靴屋だよ……」 「まてまて、これァどうしたのだ」 そこで、靴屋のおじさんと少年たちとの言分をじっと聞いていた鍛冶屋軍曹は、やがて、強い感動をあらわしていった。 「よくわかったぞ。……少年たちは任務に忠実で、実に感心したぞ。それから靴屋のおじさんもこの非常時におちついて仕事をはげんでいるのには感心した」 「でも、あかりを消さないから、非国民だい」 「これこれ、もうすこし黙っていなさい。……そこで少年たちよ。今後、帝都が空襲されることは、たびたびあろうと思う。空襲警報もたびたびでて、何時間も非常管制がつづくことだろう。ところがいまは平時とちがって、戦争中だ。戦争は軍人だけでは出来ない。沢山の品物が入用だ。国民は、平時よりも仕事が忙しくなる。すこしでも仕事を休むことは国家の損なのだ。非常管制のたびに、全国の工場が仕事を休むとしたら、戦争に使う品物の製造は間に合うだろうか」 「……」 少年は皆、黙っている。 「品物が間に合わんと困る。いま、お前たちのゴム靴に穴があいていたとしよう。直しにやったが、非常管制で穴を直すことができなかったらどうだろう。お前たちは穴のあいた靴を履いて、往来を歩いている。そこへ敵の飛行機が糜爛性の毒瓦斯イペリットを落した。さあ漂白粉をバケツに入れてその上に撒かないと、沢山の市民が中毒する。さあ行け、といわれたとき、穴のあいたゴム靴を履いていて、それでイペリットの上を歩けるかね――」 鍛冶屋軍曹の言葉は、火のようにあつかった。 「それは歩けないだろう。靴の穴が直っていなけりゃ、消毒に行けないし、無理に行こうものなら、穴からイペリットが染みこんで、足の裏が火ぶくれになる。ひどければ、そこから身体が腐り出して死んじまう。そうなるのも、元は何から起ったことだといえば、非常管制のとき靴屋の仕事を休んだためだ。どうだわかったろう。――灯火管制で、外から灯を見えなくすることは防衛上もちろん必要なことだ。だがサァ空襲だ、ソレ電灯のスイッチをひねって真暗にしてしまえ……では感心できない。外からちっとも見えなくすると同時に、家の中で仕事が出来るようにして置くのが、もっともゆきとどいた灯火管制のやり方だ。そういう人は非国民どころか、甲の上の模範国民だ、そうだろうが……」 非国民と悪口をいった靴屋のおじさんが、模範国民だと聞かされて、少年たちは眼をパチクリ。どうして、靴屋のおじさんにあやまろうかと、小さい頭を寄せてコソコソ囁いていたが、やがて、一人の少年が一番前に出て、直立不動の姿勢をとると、両手をあげて大声で叫んだ。 「甲の上の、靴屋のおじさんとおばさん、バンザーイ」 「うわーッ、バンザーイ。バンザーイ」 思いがけない万歳の声に、靴屋のおじさんは、びっくり仰天したが、ハラハラと涙をこぼし、溝板に立ちあがるなり、 「忠勇なる少年諸君、バンザーイ。……おじさんも仕事をはげむから、どうか御国のために、帝都の防衛のことはみなさんによく頼んだよ。おじさんは嬉しい……」 そういう声の下に、そこにニコニコと立っていた鍛冶屋の鉄造の胸にワッといってすがりついた。 孝行の防毒室 防空飛行隊の強行偵察のかいもなく、帝国領土内に侵入したと思われた敵機の行方はついにわからなくなってしまった。防衛司令部へは「敵機ヲ発見セズ」という報告ばかりが集ってきた。各地の監視哨からも、なんの新しい報告も入ってこない。――帝都の附近は、午後十一時になって、ひとまず非常管制が解かれた。 「空襲警報解除! 只今より警戒管制!」 こんな夜更に、睡りもやらぬ少年団は、命令一下、まっくらな町を、寺の塀外を、そしてまた溝板のなる横町を、メガホンを口にあて大声で知らせて歩いた。 警戒管制に入ったので、町は少し明るくなって、住民たちは蘇生の思だった。防護の人々は、交替に休むことになった。 どこからともなく、ホカホカと湯気の立つ握飯が運ばれてきた。大きな西瓜をかつぎこんでくる紳士もあった。少年たちを、それぞれ家に帰らせようとしたが、なかにはどうしても帰らないで、この天幕の隅で寝るというがんばり屋もあった。とにかく帝都の町々は、ちょっと、ひといきついたという形だった。 旗男少年は、どうしたのであろうか。彼は今朝東京へ帰って来たが、いろいろ旅のつかれで弱りこんでいるのだろうか。そういえば、彼の姿は、防護団のなかにも見えなかったが。 いや、その心配はしないでよろしい。この朝、旗男は家へかえると、すぐ弟と妹とに手伝わせて防毒室を作りにかかったのだ。 旗男は両親と相談して、洋間の書斎を第一防毒室にすることにきめた。そしてまず、窓のガラスは、外から大きな蒲団でかくし、その上に、長い板をもってきて、蒲団をおさえつけるようにして両端をとめた。これなら爆弾のひびきでガラス窓がこわれ、そこから毒瓦斯が入ってくるという心配はない。 その次は、畳をあげて、床板の隙間に眼張をはじめた。兄弟三人ともお習字の会に入っていたので、手習につかった半紙の反古がたくさんあったから、これに糊をつけて、二重三重に眼張をした。それができると、その上に新聞紙を五枚ずつおいて畳を敷いた。これで床下からくる瓦斯は防げる。 「こんどは窓框と窓の戸との隙間と、それから壁の襖の隙間に、紙をはるんだよ」 洋間風にこしらえた部屋だったから、隙間はわりあいに少かった。 扉が二つあったが、一つは諦めて眼張をした。一つの扉から出入りすることにして、その内側には毛布でカーテンをおろした。 これは昨夜、汽車の中で鍛冶屋の大将のやったのを見習ったのだった。――これで、第一防毒室はできあがった。しかし、仕事はそれですんだのではなかった。 こんどは、防毒室の前の部屋に、同じような眼張をした。これが前室だった。 「いいかね。外から入ってくるときは、この前室をとおって、それからもう一つ奥の防毒室に入るんだよ。つまり家の外の毒瓦斯は途中に前室があるので、奥の防毒室には瓦斯がほとんど入ってこないというわけさ」 「あら、うまいことを考えたのね。どこで教わってきたの」 「なァに、『空襲警報』という本があったのを知っているだろう。あれを本箱の中にしまっておいた。それを、今日は引ぱりだして、見ながら作っているんだよ。ハッハッハッ」 「まあ、その本をしまっておいてよかったわね、兄さん」 「さあ仕事はまだある。急いで急いで」 旗男は、さらに竹男と晴子とをうながして、前室にあてた八畳の部屋にある押入の中のものをドンドン外に出して、この押入に眼張をほどこした。 「兄さん、ここは、お手伝いさん用の防毒室なのかい」 「そうじゃないよ。お手伝いさんも皆と一緒だ。これは、万一、第一防毒室が壊れても逃げこめるように作ったんだ。つまり第二防毒室さ」 旗男は、これでもう大丈夫だと思った。それに防毒面が一つあるから誰か時々これをかぶって外に出て、ちょっと防毒面と頭の間に指で隙間をつくり、嗅いでみればよい。 窒息性のホスゲンは堆肥くさく、催涙性のクロル・ピクリンはツーンと胡椒くさく、糜爛性のイペリットは芥子くさいから、瓦斯のあるなしはすぐわかるのだ。 「お父さんも、お母さんも、もう安心ですよ。すっかり防毒室が出来ました」 両親は旗男たちの働きを、病床から涙をだして喜んだ。旗男の旅行で、遅れていた家庭の防護設備も、兄弟の協力でどこの家にも負けないくらい堅固に出来あがった。 三人の兄弟は、にわかに腹がドカンとへったのを覚えた。そこへ、お手伝いのお花さんが山のように握飯をもって入ってきた。三人はウワーといって、まわりから手を出した。 「ああ、おいしい」 「町の防護団でも、いま、おにぎりを食べていますのよ。ホホホホ」 お手伝いさんは笑ってつげた。 夜は、不安をみなぎらせたまま、だんだんと更けていった。ひどく蒸暑い夜だった。 防護団は時間をきって、警戒員を交替させた。衛生材料がいっぱいつまった赤い十字のついた大きな箱が配給されてきた。どこからどこへ行くのか、重機関銃をもった一隊の兵士が、粛々と声もなく通りすぎていった。 「鍛冶屋の大将。今夜は来ないらしいね」 「おお分団長。警報は出ないが、しかし油断はならないぜ」 暁の空襲警報 茨城県湊町の鮪船が四艘、故郷の港を出て海上五百キロの沖に、夜明を待っていた。 その鮪船は、いずれも無線の送受信機とアンテナとを備えていて、魚がとれると、遠く内地海岸の無線局を呼び、市場と取引の打合せをすることができるのであった。 磯吉という漁夫の一人が、用便のために眼をさました。東の空は、もうかなり白みがかっていた。舳に立つと、互に離れないように、艫と艫とを太い縄で結びあわせた僚船の姿が、まだ寝足りなそうに浮かんでいるのが見えた。この天気では、今日もどうやら不漁のような気がする……と思いながら、彼は明けゆく海原を前にして、ジャアジャアと用をたしはじめた。 そのときであった。 「はてな、変な音がする……」 彼はふと遠い空から、異様な響の聞えてくるのをきいたのだ。 「ああ、そうか。……こいつはまた海軍の演習にぶつかったかな」 海にくらしている彼等にとって、何よりも嬉しいことは、思いがけぬ海上で、わが艦隊の雄姿を見ることだった。これも、演習で、海軍機が飛んでいるんだろう。…… 「だが、海軍機にしちゃ、すこし音が変だな。非常に音が高いし、その上、おそろしく響く音だ! なんだろう」 磯吉はまだ気がつかず、ボンヤリと眺めていた。怪音は、すばらしい速さで、ゴウゴウと大きくなってきた。音の来る方角が始めてわかったので、磯吉は好奇心にかられながら、なおも空を見上げていると、やがて晴れゆく朝霧の向こうに認めた機影! 一機、二機、三機、…… いやそれどころではない。たいへんな数だ。しかも驚いたのは、その飛行機の形だ。まるで蝙蝠を引きのばしたような、見るからに悪魔の化身のような姿! 長いこと飛行機は見てくらしたが、こんな飛行機を見たのは、後にも先にもたったいまが始めて……。 「あッ、これァ大変だ!……起きろ起きろ、みんな! 妙な飛行機が通っているぞう!」 磯吉はドンドン足を踏みならしながら、大声で呼ばわった。その音に、漁夫たちは、下から裸のままゾロゾロと駈けだしてきた。 「あッ、これはいけねえ」 と叫んだのは、昨年航空隊から除隊して来た太郎八という若者だった。 「……変なところを飛んでいるが、これは確かにS国の超重爆撃機だ。……さあ早く、これを○○無線局に知らせなきゃァ」 敵機の大集団きたる! この鮪船からの警報は、それから数分ののちに、○○無線局を経て東部防衛司令部に達した。―― 「○○無線局発。午前五時十五分、北緯三十六度東経百四十三度ノ海上ニアル茨城県湊町在籍ノ鮪船第一大徳丸ハ有力ナルS国軍用機ノ大編隊ヲ発見ス、高度約二千メートル、進路ハ西南西。超重爆撃機九機ヨリナル爆撃編隊七隊ナリ。以上」 超重爆六十三機の一大爆撃編隊の強襲だ! 防衛司令部は、俄かに活気づいた。 警報の用意が命ぜられた。 五百キロの海上だとすれば、あと二時間位で帝都の上空に達するはずだった。海上の防空監視はむつかしい。 この発見がもうすこし遅かったら、どうなったろう。思っても冷汗が流れる。 用意は出来た。 香取司令官は、厳然として「空襲警報」を下命した。 警報の発令と同時に、防空飛行隊にも出動命令がくだった。つづいて高射砲隊などの地上防空隊へも、それぞれ戦闘命令が発せられた。 マイクロホンの前で、中内アナウンサーは、命令遅しと待つほどもなく、香取司令官は手をあげた。 「ラジオ放送で一般に通報せよ。――司令部発表、南及び北関東地区、午前五時二十分、空襲警報発令!」 アナウンサーは、司令官の命令を復誦した。 「よろしい。落ちついて放送せよ」 アナウンサーは大きくうなずいて、マイクロホンに向かって唾をのんだ。さすがに顔の色がちがっている。 伝令があわただしく駈けてゆく。参謀が地図の上に赤鉛筆で数字を書き込む。副官が奥の戸棚から大きな掛図を小脇にかかえてきて、下士官に渡す。下士官は要領よくそれを壁に掛けてゆく。 ジ、ジ、ジーとしきりにベルが鳴る。着剣をした警戒兵がドヤドヤと入ってきて、扉の脇に立つ。――防衛司令部の中はまるで鉄工場のように活発になった。 暁の夢を破られた市民は、ドッと外にとびだした。サイレンがブーッ、ブーッと息をつくように鳴っている。夜霧でびっしょり濡れた朝の街路の上を拡声器から出るラジオの音がガンガンと響いてゆく。 「……空襲警報……空襲警報が発せられました。敵機は約二時間以内に帝都上空に現れるものと見られます。あッ……、ただ今、防衛司令官から諭告が発せられる模様であります。……香取閣下を御紹介いたします」 それにつづいて、香取将軍の重々しい声が響いてきた。 「私は香取中将であります。先程の発表にありましたるごとく、有力なるS国爆撃機隊は太平洋上より刻一刻、帝国本土に接近しつつあります。本官は既に防衛諸部隊に命じ、虐非道の敵隊の撃滅を期しております。さりながら悪運のつよき敵機の一部が、本土内に潜入するやも計りがたく、ここに於て忠勇なる国民諸君の、一大奮起をお願いする次第であります。沈勇と忍耐と協力とにより、完全なる防護を尽くされんことを希望してやみません。おわり」 このラジオを聞いた東京市民は、ただちに立って、大日本帝国万歳を絶叫した。暁の町から町を、熱血みなぎる声は、つよくつよくこだましていった。 恐ろしき空中作戦 正確にいうと、午前七時二十分――怪翼を左右にひろげた敵の爆撃機は、ついに帝都の上空にその姿をあらわした。 「おお、来た来た。あれが敵機だッ」 「うーン、やってきたな。さあ落せるものならどこからなりと、爆弾を落してみやがれ!」 市民は南の空をにらんで、覚悟を固めた。 しかし、敵機は、どこを潜って帝都上空に侵入して来たのだろう。 さきに、太平洋の鮪船から発した「敵機見ユ……」の警報にあったとおり、S国の日本空襲部隊は、超重爆撃機九機よりなる編隊を、次々に連ねて、東京へ東京へと、爆音もの凄く進撃をつづけたのであった。 わが防空監視船の警報は、あとからあとから防衛司令部へとどいた。 「爆撃機ハ九機ノ編隊七箇ヨリナル」 「爆撃編隊ハ高度約二千メートル、針路ハ真西ナリ」 「針路ヲ西南西ニ変ジタリ」 「只今上空ヲ通過中ナリ」 こうしてS国の空襲隊の様子は、手にとるようにわかって来た。 防衛司令部からの命令で、志津村と谷沢村との防空飛行隊に属する戦闘機○○機は、すでに翼を揃えて飛びだした。 ところが敵空襲部隊は、本土にあともう百五十キロというところで、急に陣形を変えた。 モロレフ司令官は、光線電話をもって、第一編隊長ワルトキンに、いそいで命令した。 「ワルトキンよ。貴隊は犬吠崎附近から陸上を東京に向かい、工業地帯たる向島区、城東区、本所区、深川区を空襲せよ。これがため一瓩の焼夷弾約四十トンを撒布すべし!」 「承知! 我等が司令! 直ちに行動を始めん」 焼夷弾を積んだこの第一編隊は、本隊から離れると、犬吠崎をめがけて驀進していった。 「第二編隊長、ミルレニエフ」 「おう、われ等が司令。破甲弾の投下準備は既に完了しあり」 「貴官は東京湾上より北上して、まず品川駅を爆撃したる後、丸の内附近より上野駅附近にわたる間に存在する主要官公衙その他重要建造物を爆撃し、東京市東側地区の上空に進出すべし。但し、東京市上空に進入の時期は第一隊より五分後とす」 「承知」 第二編隊は爆撃隊だった。 すぐに機首を西南の方に廻して、本隊を離れていった。 「第三編隊長、ボロハン!」 「おう……」 この編隊は、地雷弾と毒瓦斯弾とを半分ずつ持っている。 「貴隊は松戸附近より、東京の北東部にでて、まず環状線道路及び新宿駅を爆撃破壊したる後、東京市北部及び西部の繁華なる市街地に対し瓦斯弾攻撃を行い、住民をして恐怖せしめ擾乱を惹起せしむべし!」 「承知!」 第三編隊も、隊列を離れていった。第四編隊と第五編隊とは毒瓦斯と焼夷弾、第六編隊は地雷弾をもって、川崎横浜方面の爆撃を命ぜられた。毒瓦斯弾と細菌弾とを持った第七編隊にも特別な命令がくだった。 恐るべき作戦だった。このまま彼等の思い通りに爆撃が行われるとしたら、東京、横浜、川崎の三市は、数時間のうちに死の都となってしまうだろう。 司令官は、第七編隊を率いて進撃しつつ、ニヤリと笑って、 「さあ、これからいよいよ日本帝国を亡ぼし、東洋全土をわがS国植民地とするその最初の斧をふりおろすのだ。ああ、愉快!」 と、航空地図上の日本本土の横腹に、赤鉛筆で大きな矢印を描き、更に日附と自分のサインを誇らしげに書きいれた。 空中の地獄 空襲して来た敵機隊との最初の空中戦は、銚子海岸を東へ去ること五十キロの海原の上空で始まった。――志津飛行隊に属する戦闘機隊が、敵の第一編隊を強襲したのだった。…… つづいて、その南方の海面の上空で、谷沢飛行隊と、敵の第二編隊とが出合い、ここでもまた物凄い地獄絵巻がくりひろげられていった。 グワーン、グワーンとうなる敵の機関砲。 ヒューンといなないては宙返りをうち、ダダダダダーンと、敵機にいどみかかるわが防空戦闘機。 あッ、戦闘機が翼をうちもがれて、グルグルまわりながら落ちてゆく。と見る間に、敵の一機も真黒な煙をひいて撃ち落された。 こうした激しい空中戦が、敵の各編隊を迎え、相模湾上でも、東京湾の上空でも行われた。 口径四十ミリの敵の機関砲は、思いの外すごい力をもっていた。わが戦闘機は、敵に迫る前に、この機関砲の餌食となって、何台も何台も撃ちおとされた。 しかし、その間に、敵機の数もまた一台二台とへっていった。勇猛果敢なわが戦闘機は、鯱のように食下って少しも攻撃をゆるめないのだ。上から真逆落しに敵機へぶつかって組みあったまま燃落ちるもの――壮烈な空の肉弾戦だ。 敵の陣形はすっかり乱れた。 舵をかえして、太平洋の方へ逃出すものがある。のがすものかと追いかける戦闘機、中には逃足を軽くするため、折角積んで来た五トンの爆弾を、へどのように海上へ吐き出して行くのもあった。 ただ、各編隊を通じて十機あまりは、雲にまぎれて戦闘の攻撃機をのがれ、東京へ東京へと、呪の爆音を近づけつつあったのだ。 しかし、東京の外側を幾重にもとりまく各高射砲陣地が、どうしてこれを見のがそう。ねらいすました弾丸は、容赦もなく敵機に噛みついていった。 翼をくだかれて舞いおちるもの。 火災を起して、大爆音とともに裂けちるもの。 傷ついてふらふらと不時着するもの。 数十分前に、意気高く「東京撃滅!」を叫んだあの六十三機の大空軍は、今その姿を失おうとしている。 だが、安心するのはまだ早い。東京湾上の雲にひそんだ一機、二機、三機――が死物ぐるいに帝都の空へ迫っているではないか。 爆撃下の帝都 魔鳥のような敵機の姿はついに品川沖に現れた。海岸の高射砲は一せいに火蓋をきった。その煙の間を縫うようにして、見る見る敵機は市街の上……。 けたたましい高射機関銃の響が八方に起こった。 敵機の翼の下から、蟻の卵のようなものがパッととびだした。その下は、ああ、旗男たちの住む五反田の町! 「あッ、爆弾投下だッ。うわーッ、この真上だぞう……」 この爆弾の雨をみた旗男は、高台を駈けおりながら、大声で叫んだ。――彼は空襲の知らせを聞くと、病める両親をはじめ家族たちをすぐ防毒室の中に入れ、あとのことをお手伝いさんと竹男に頼むと、自分は少年団の一人として、町にとびだしてゆくところだった。そのとき旗男は大事な持物を忘れなかった。右肩には防毒面の入ったズックの鞄を、また左肩には乾電池で働く携帯用のラジオ受信機を、しっかり身体につけて出た。 「うわーッ、あれあれ。爆弾だ、爆弾だ」 「あわてるなあわてるな。落ちるところを注意していろ!」 鍛冶屋の大将は大童で防護団を指揮していた。 町々からは恐怖の悲鳴がまいあがる。 ガラガラガラガラ! ドドーン、ドドーン! 破甲弾よりは、ややひくめながら叩きつけるような大音響とともに、パーッとたちのぼる火炎の幕! うわーッという凄惨な人間の叫び! 町まで出てきた旗男は実をいうと、気が違いそうであった。しかしここで気が違っては日本男子ではないと思って、一生懸命、自分の手で自分の頭をなぐりつけた。ゴツーン、という音とともに感ずるズズーンという痛み、そこでハッと気がついた。 「あッ、焼夷弾が……」 向こうの屋根に小型の爆弾が落ちたと思うと、パッと眼もくらむような光が見えた。 「こっちだ、こっちだ」 「おお」 鍛冶屋の大将が声を聞きつけとんできた。 「オイ皆、早く消しにゆけ。防火班、全速力だッ!」 手近にいた者が駈けだそうとすると、その前に、またつづけさまに三発、ドドドーンと白煙が天に沖する。 「うわーッ、やられたッ……」 と鍛冶屋の大将が叫んだと思うと、どうと倒れた。 「おお、担架、担架」 「イヤ何、大したことはない」 大将はムクムクと起き上ってきて手を高くあげた。 「砂だ、砂だ。オイお前は、ホースを引っぱれ。早く早く。落ちついて急げ!」 防護団はあまりの強襲にあって、頭がカーッとして、何がなんだかわからない。 手あたり次第、眼にとまった方に駈けだしてゆく。これではいけない。もっと落ちつかねば……と気がついた旗男は、ふと天幕の中に、赤い房のついたラッパを見つけた。 「そうだ、これだッ」 旗男は天幕の中にとびこんで、ラッパをつかむより早く、口に当てて、タタタァ……と吹鳴らし始めた。それは勇ましい戦闘ラッパだった。 タッタ タッタ タッタ タッタ タッタ タッタ 「おお、戦闘ラッパが鳴っている!」 「おお、あれは誰が吹いているのだろう」 嚠喨たるラッパの音を聞いた人々は、にわかに元気をとりもどし始めた。 「おお、旗男君。さすがに、やるなァ!」 と鍛冶屋の大将は頭をふった。そして腹の底から声をふりしぼって叫んだ。 「そォらッ! 今あわてちゃいかん。がんばれがんばれ。あと十分間の我慢だ!」 火災は幸いにして、日頃の訓練が物をいって大事に至らずにすんだ。 「……瓦斯だッ、瓦斯、瓦斯!」 坂上から、伝令の少年が自転車に乗って駈けくだってきた。 「ホスゲンだ、ホスゲンだ。……防毒面を忘れるな」 「毒瓦斯が流れだしたぞう……」 恐怖の的の毒瓦斯弾が、落ちたらしい。それっというので、防護団の諸員はお揃の防毒面をかぶった。警報班員は一人一人、石油缶を肩からつって、ガンガン叩いて駈けだす。 「瓦斯は坂の上の方から下りてくるぞ。防毒面のない人はグルッとまわって風上へ避けろ。なるべく高い所がいいぞ。そこを、右へ曲って池田山へ避難するんだ!」 旗男は後に踏みとどまって、坂上から徐々に押しよせてくる淡緑色の瓦斯を睨みながら、さかんに手をふった。彼は、勇敢にも時々防毒面と頭との間に指ですき間をつくり、瓦斯の臭をかぎわけようとつとめた。 地上の地獄 ウウウーと、物凄い唸声をあげて、真赤な消防自動車が、砲弾のように坂を駈け上っていった。麻布の方に、烈々たる火の手が見える。防毒面をつけた運転手は、防毒面の下で半泣になっていた。それは爆弾がこわいわけではなかった。早く火元へ駈けつけたくても、あわて騒ぐ市民がウロウロ道に出てくるので、あぶなくて思うように運転が出来ないからだった。あッ、また向こうの横町から洋装の女がとびだしてきた。 「あぶない!」 運転手はわめいた。サイレンは、さらに猛烈に咆えたって、女の前をすれすれに駈けぬけた。 燃えやすい帝都に、一箇所でも火災をだすことは、この際一番おそろしい。ぜひとも早く消しとめなければならないと、消防隊は一生懸命なのだった。 火事はお邸町だった。 消防隊員はバラバラととびおりて、直ちにホースを伸ばしていった。物凄い火勢だ。どうして焼夷弾を消さなかったんだろう。 「……実にけしからん」 と小頭が頭をふって怒りだした。 「この辺の邸は、どこも逃げてしまって、なかには犬っころがいるだけだ。実にけしからん。だから焼夷弾が落ちても、誰も消手がないのだ。非国民もはなはだしい!」 消防隊員を憤慨させたこの辺一帯の避難民はどうなったであろうか。彼等は甲州の山奥に逃げこむつもりで、新宿駅に駈けつけたが、たちまち駅の前で立往生をしてしまった。あまりに夥しい避難民が押しよせたので、もう身動きもできなかった。駅員の制止も聞かばこそ、改札口をやぶり、なだれをうって一部はプラットホームに駈けあがり、そこに停車していた列車にわれがちに乗りこんだが、そこでも百人近い死傷者が出た。 列車の中にはいれない人は、窓の外にぶら下り、屋根の上によじのぼった。 それは地獄絵巻のように、醜くも恐ろしい光景だった。……そんなに努力して乗りこんだのはいいが、列車は遂に発車しなかった。防衛司令部が警備の目的のため、列車の出発を中止させたのだ。 ところが、悪いときには悪いことが重なるもので、そのうちに、こちらへ廻って来た敵機が、おびただしい爆弾と、焼夷弾とを投げおとして、新宿駅のまわりは、たちまち火の海となってしまった。 消防隊も、防護団も、ぎっしりの群衆に邪魔されて手の下しようがなく、アレヨアレヨと、死人のふえるのを見ていなくてはならなかった。 まったく恐ろしいのは共同の精神をうしなった群衆だった。 敵機は去ったが 「ウム、また次のやつが来るかも知れない。六十三機というのが、さっきは三機だけだったからな。まだ油断はならんぞ!」 防護団といわず、女子供といわず、みな不安にみちた眼をあげて空を仰いでいる。 「ラジオはどうしたッ」 鍛冶屋の大将がどなった。少年団の一人が天幕の中へかけこんだ。……が、すぐ真青になって、天幕からとびだしてきた。 「班長、駄目です!」 「駄目? なにが駄目だッ」 団員はハッとして、少年の方を見た。 「……ラジオが鳴らないんです」 「鳴らない! 壊れたのかな」 「班長!」 と旗男がいった。 「これは、きっと送電線が爆弾にやられて、ラジオが駄目になったのですよ」 「ラジオが駄目になったとは困った」 といって天幕の中に入っていったが、気がついて電話をかけてみた。大将の顔が、また暗くなった。 「どうしたの」 「いや、電話も駄目だ。電線はみなやられたらしい……さあ大変、これじゃ大事な耳も眼も利かなくなったも同然だ」 「するとサイレンも鳴らないんだな」 「これはいかん……」 団員一同は、離小島に残されたような心細さを感じた。 そのとき一台の自動車がやって来て、中から見なれない背広服の男がおりて来た。そして天幕の方へツカツカと寄ってくるなり、 「……皆さん、大変ですよ。いま暴動が起っている。下谷、浅草、本所、深川、城東、向島、江戸川などの方から数万の暴徒が隊を組んでやって来る。帝都を守れなかった防護団員を皆殺しにするのだといっている。早く逃げないと、皆さんは殺されちまいますよ……」 「えッ!」 団員はハッと驚いて、互に顔を見合わせた。そんなことが起っているのか? 俺たちはこんなに闘ったのに、それだのに殺されなければならぬのか。これを聞いて泣きだした少年もあった。 「流言だよ。そんなはずはない!」 と旗男は叫んだ。 「いや、本当かも知れない!」 図体の大きいわりに、気の弱いパン屋のおやじさんが、半分かじったパンを手にもったまま、泣きだしそうな声をだした。 「どうすればいいんだ?」 鍛冶屋の大将も、これには途方に暮れてしまった。同士討なんて、考えたこともなかった。ラジオも電話も不通では、この騒はさらに大きく広がってゆくだろう。だが、旗男は、見なれない背広男の言を、どうしても信ずることが出来なかった。――数万人の暴徒が防護団員を殺しにくるなんて、そんなバカバカしいことがあるものか。 「そうだッ……」 旗男はふと気がついた。 送電が停っても、ちゃんと働く電池式受信機をもっていたことを思い出したのだ。放送局の非常用発電ガソリンエンジンも停っていればしかたがないが、もしエンジンが働いていて放送をやっているとしたら、旗男の受信機には入ってくる筈だった。――彼は、たちさわぐ団員のところを少し離れて、肩にかけた受信機を開き、受話器を耳にあてて、ダイヤルを廻した。とたんに旗男の顔が林檎のように輝いた。 「おお、放送をやっている。うん聞えるぞ!」 旗男は地獄で仏に会うの思だった。前もって電池式受信機を作っておいてよかった。非常時には、ぜひともこれがいる! 受話器から出てくる声は小さいが、まぎれもなく、なじみ深い中内アナウンサーの声……。 「……以上申し上げましたようなわけで、S国空軍の三機もわが勇猛果敢なる防空飛行隊、高射砲隊によってついにとどめを刺されました。太平洋に逃げたものは、なお追撃中でございますが、これはもう燃料もあまりありませんので、その最期のほどは知れております。とにかく今回の大空襲で、帝都の被害が案外すくなかったのは、平素からの防空訓練の賜であることは明かであります。東京は只今、二、三火災の所はありますが、一体に静穏であります。防護団にあると家庭にあるとを問わず、この防空第一線を死守されました皆様に、衷心から敬意を表して放送を終ります。JOAK」 「あッ!」 旗男はあまりの嬉しさに、しばらくは口もきけなかった。 ああ、ついにS国の日本空襲部隊は、わが防衛軍のため全滅されてしまったのだ。 しかも、空襲の損害は意外に小さいものだという。これを聞いたら、敵国の将兵は口惜し涙にくれるだろう。 それだのに、これは何ということだ……かの自動車に乗って、怪しいことをいいふらしてゆく背広男! 「おお、旗男君。生きていたね」 突然に、旗男の肩を叩いたのは、自転車にのって、坂を駈けおりて来た少年――鍛冶屋の大将の子、兼吉だった。 「ああ、兼ちゃん。君が見えないので、どうしたのかと思っていた」 「あッはッはッ。姉さんが中央電話局から帰って来ないので、心配だから行ってみたんだよ」 「どうだったい……無事だったかい」 「ウン。無事だった。五十人の交換手が、みんな死ぬ覚悟で交換台を守っていたよ。警報の連絡に大手柄をたてたんだとさ。姉さんなんか、大した元気だった」 旗男は一瞬間、直江津の姉たちの安危を思った。焼崩れる家の下敷になったような気がするが、助ったろうか、それとも……。いや、今はそんなことを考えている時ではない! 眼前に、大変な流言を吐いている国賊がいるのだ! 「ねえ兼ちゃん。向こうで皆を集めてしゃべっている背広男がいるだろう。あいつけしからん流言をはなっているのだよ」 「どれどれ、あッ、あいつだ。あいつはスパイだよ。さっき丸の内でも、暴徒が品川の方から数万人も押しよせてくるから逃げろといっていた。防護団の人達が捕らえようとすると逃げだした。あいつはお尋者なんだ」 「そうか。そんなひどい奴か。ラジオや電話が切れたと思って、市民の心を乱してゆこうというのだな。よォし、じゃあ兼ちゃんと二人して、あの悪漢を捕らえてやろうじゃないか」 「うしろからいって、二人で彼奴の足を一本ずつ引きたおそう!」 敵国のために、人心を乱そうとしたスパイは、二少年によってあばかれ、防護団員に縛りあげられてしまった。団員は大喜びだった。その上、敵の空襲部隊が全滅したというラジオ・ニュースを旗男から聞いたので、防護団員は、その場に躍りあがって喜んだ。そして一斉に万歳を唱えた。 ああ遂に、帝都は救われた。大日本帝国の危機は遂に救われたのだ。 * それから三日して、旗男のところには二つの大きな快報が舞いこんで、彼を有頂天にさせた。 一つは、直江津の姉露子と可愛い正坊が、無事にたすかって、今は小学校の避難所に収容されているという手紙が届いたことだった。 「姉さんと正坊、万歳!」 それからもう一つの快報は、わが精鋭なる爆撃隊が、突如S国に侵入し、やがて、第二の日本大空襲を準備しつつあった敵の空軍根拠地を散々にやっつけてしまったことだった。S国は、この勇猛なる爆撃のため、再び日本空襲をする力を全く失ってしまった。またS国の参謀本部の中にも、日本人の防空訓練の行きとどいていることをあげて、たとい何百機の爆撃機があろうとも、この上、日本を空襲することは無駄であるという説が盛んになってきたという。 この話は、最近大尉に昇進して、高田の防空飛行隊附に栄転した義兄川村国彦中尉ではなかった川村大尉からの知らせだった。 「義兄さん、万歳! 防空飛行隊、万歳!」 引用文献 『海野十三全集』(第四巻 十八時の音楽浴) 海野十三 著 三一書房 |
戻る |