「三八式歩兵銃」 ●石坂 「銃というのはそれぞれ癖があるんだ。この銃は少し上を狙って撃つと真ん中に当たる、こっちの銃は大きく下を狙って撃つと真ん中に当たる、といった風にね。だから、銃の個性を覚えるのは射撃の基本中の基本だね」 ■藤本 「誰かが戦死すると、その彼が持っていた銃がありますよね。後で回収して使うものなんですか」 ●石坂 「いや、そういうのはなかった。鉄角嶺の戦場では死んだ兵隊をトラックに乗せて、ひもできつく締めて運んでいたけど、銃なんかの装備品も一緒に積んで、後で焼いてしまったからね。捨ててしまうんだよ。次の人にやるようなことはなかったね」 ■藤本 「でも、菊のご紋が彫られていますよね。問題はないんですか」 ●石坂 「自軍で処理するんなら問題ない。ただし、敵に降伏して武装解除するときはまずい。沖縄では菊のご紋を小石や小刀で削り取ってからアメリカ軍に渡した。祖国の誇りを取られたくないという気持ちからだよ」 ■藤本 「これは、いいことを知りました。骨董屋に行くと三八式の無可動実銃が売っているんですが、ほとんど菊のご紋がない物ばかりなんですよ。以前から、何でだろうと、首をひねっていました。戦勝国の連中が戦利品として持ち帰った後に、『これは日本の皇帝の紋章だから』と思って、消してしまったのかと考えたり、確かフィンランドかどこかの北欧に三八式が輸出されていたらしいとの話を聞いたことがあるので、はじめから菊のご紋がついていないのが逆輸入されたりしていたのかと思っていました。ですが、敵に供出する際に、かなりの数が自軍の手によって処理されていたわけなんですね。興味深い事実です」 *補足(藤本) 船橋忠利『歩兵第三十連隊・支那駐屯歩兵第一連隊 中国大陸五年の歩み ハルピン駐屯 大陸横断作戦 野戦病院』という本に三八式歩兵銃の個癖に関する文章が載っている。 *** 小銃は班の入口に置く銃架と云う場所があって、小銃番号(五桁から六桁の数字)と氏名、目標に対して狙う照準点が貼ってあった。 (銃によって照準点は全部違っていた。試験射撃を重ねて決まったものだが、目標の中央下部に照準をするのが正照準、こんなのは十挺に一挺あるかなしで、後は右、左、上下と黒点で印してあって、悪いのは標的より外れた所を狙うのもあった。新しい銃に多かったが、それは奉天の兵器しようの製造との事で命中率は悪かった。別名奉天製と悪名あり、自分の銃は古い小銃で正照準に近い命中率の好い方で、後々まで射撃は優秀で通る事が出来た。) 『歩兵第三十連隊・支那駐屯歩兵第一連隊 中国大陸五年の歩み ハルピン駐屯 大陸横断作戦 野戦病院』の十七ページから引用 (藤本・注 本文中に「兵器しよう」とあるが、正しくは「兵器廠」) *補足二(藤本) 朝香進一『初年兵日記』という本に三八式歩兵銃の個癖に関する文章が載っている。 *** 午後は、兵営内の小射撃場にて狭窄射撃の演練あり、これは実包(実弾)射撃の予備的な課目で、薬莢内の火薬量を少くし、その先端に五〜六ミリ程度の弾丸が付随している。これを歩兵銃に装填し、前方十五メートルの標的に向かって射撃するのである。自分が撃った弾丸は、みんな中心より左下へ集中した。銃にクセがあるらしい。銃声もちいさく反動もほとんどなかった。 『初年兵日記』の三十六ページから引用 *補足三(藤本) ヒストリーチャンネルで放映されたドキュメンタリー番組「撃つためのデザイン」の「日本軍の銃」という回に、小銃から菊のご紋が削り取られている理由が述べられている。 *** 一九四五年八月、広島に原爆が投下された。 続いて、長崎も標的となった。 その六日後、日本はついに降伏した。 国をさらなる屈辱から救うために、日本軍司令官は、生き残った兵士たちに最後の命令を下した。 アメリカ軍に引き渡す前に、小銃に刻印されている菊のご紋を削り取るように命じた。 それによって、銃には何の意味もなくなると考えたのである。 それは、日本人のメンツをつぶすべきではないというマッカーサー将軍の意向とも一致した。 そして、日本の銃を戦利品に持ち帰ろうとしていたアメリカ兵にも同じ命令を出したといわれている。 ヒストリーチャンネル「撃つためのデザイン」の「日本軍の銃」から引用 *補足四(藤本) 船橋忠利『歩兵第三十連隊・支那駐屯歩兵第一連隊 中国大陸五年の歩み ハルピン駐屯 大陸横断作戦 野戦病院』に、小銃から菊のご紋が削り取られている理由が述べられている。 *** 作戦中は、否入営以来今日まで、命より大切にしていた三八式歩兵銃と三〇年式銃剣を支那軍に引渡す事になった。馬部隊なり、自動車、砲、無線器等々兵器と名の付くものは総てであるが、吾々は一般中隊だから、軽機関銃、てき弾筒が筆頭だ。野戦用銃工具の中からヤスリが各小隊に配られた。全員小銃を担いで庭に出て、夫々の場所を確保して陣取って交替で、小銃の薬室の上に刻まれてある菊のご紋章を削り取る作業に取りかかった。このご紋章は通常は覆の中で見えない所に刻まれている、この為に天皇陛下から賜った物と大切にしていたのだが、支那軍に渡すについては日本軍の魂を削り取って鉄のかたまりとして引渡すわけかと一日中外でヤスリでご紋章を鉄粉にして中国の秋の空に飛散させた。この時点で吾々の武士道、軍人精神は中空に消滅して行ったのかもしれない。 その外には、日本陸軍の魂として恥辱にならない様に手入を充分にするように注意があった。然しご紋章の消えた小銃は兵器の感じではなく唯の鉄砲に過ぎなかった。 馬を取扱う兵隊、無線機の取扱者、自動車の運転者は夫々器材なり馬と共に支那の兵隊が馴れる迄同行する事になった。自動車運転者は一般中隊からも希望の者は行ける事になり二小隊の召集兵横川上等兵は運転手として行った。支那兵舎でトラックの運転を自分でしたり、教えたりしていると言って後日外出の折に中隊に立寄って話していた。 兵器引渡しの日の情景は連隊の兵器検査のように、集中営の庭に莚を敷いて、ピカピカに手入れをした兵器を全部並べて検査を受けた。将校の拳銃や軍刀は陳列されなかった。あれは私物だから引渡しの員数には入れないで検査員や受領員で来ている支那の将校の自由裁量となる物品だろうと後で兵隊は噂していた。 『歩兵第三十連隊・支那駐屯歩兵第一連隊 中国大陸五年の歩み ハルピン駐屯 大陸横断作戦 野戦病院』の百五十九ページから引用
「手榴弾」 ●石坂 「手榴弾はね、支那側が使用している、木の柄がついたやつが優れものだったね」 ■藤本 「ドイツ軍が装備しているあれですね。支那がこれをたくさん粗悪複製して使っているのを当時の写真で見かけます」 ●石坂 「わが軍の手榴弾は、起爆筒を靴のかかとや鉄かぶとなんかにぶつけてから投げるんだけど、向こうのはそんな不安定な機構もなく、何より投げやすかったから、日本軍が敵を駆逐した戦場では、われ先にと木の柄がついた手榴弾を拾って、身につけられるだけ装備したもんだよ」 ■藤本 「そして、次の戦場で鹵獲したその手榴弾を使うんですね。敵からぶんどったやつを。 ……ところで、この手榴弾の話は有名で、何度か耳にしたことがあります。ほかに、支那軍が使っていたチェコ製の機関銃がよかったとも聞くのですが」 ●石坂 「俺は機関銃をぶっ放す兵隊じゃなかったら、さっぱり分からないけど、弾詰まりを頻繁に起こす十一年式軽機なんかよりは具合がよかったらしいね。そういう話は当時、よく聞いたよ」 「実弾管理」 ●石坂 「銃の弾の預かりはものすごくうるさいんだよ。たかが一発、弾がなくなったって、中隊全員で演習場をはい回って探すんだ」 ■藤本 「あんな小さな三八式の銃弾が」 ●石坂 「そうだよ、もう実弾一発でも見当たらないなんて言ったら、そりゃもう大変な騒ぎ。地面にはいつくばって土とにらめっこだ。 『何があっても探し出せ』 と、上官が憤怒の表情を浮かべてさ。でも逆にね、戦争のときはそんなことに構っていられないから、そこら辺に金色の弾がざくざく転がっていたけどね」 ■藤本 「なるほど。平時における管理は厳しかったということですね」
「本当の死因」 ■藤本 「石坂准尉が三十連隊に入隊したときの連隊長は儀我大佐じゃないですか。この人は毒殺されたんですよね」 ●石坂 「連隊長はものすごく偉い人だったから、便衣隊が以前から機会を狙っていたんだろうね。詳しいことは知らないけど、地方人に化けた便衣隊がお茶の接待か何かで毒を飲み物に混入して犯行に及んだんじゃないかな。確か天津の特務機関で儀我大佐が辣腕を振るっていた当時、暗殺されたと思う」 ■藤本 「その情報は戦後になってから戦友会とかで知ったんですか」 ●石坂 「いや、軍隊にいるときだよ。儀我大佐が毒殺されました、と部隊で聞かされたんだ」 ■藤本 「疑問なんですが、俺の持っている本『日本陸軍将官辞典』(福川秀樹 著)の儀我誠也少将の項には病死と記されているんです。石坂准尉の話と食い違っていますよね」 ●石坂 「どういうことだろうね。でも間違いなく、俺はあの当時、儀我大佐は毒殺されたと聞いたよ。もしかしたら、裏に何か事情があって、本当の死因を伏せなければならなかったのかもな。それとも、俺の知った情報がデマだったのか。今となっては真相不明だ」 *補足(藤本) 後 勝『ビルマ戦記 ――方面軍参謀 悲劇の回想』に、儀我誠也連隊長に関する記述がある。 *** 盧溝橋の一発 昭和十二年(一九三七年)春、私たち第二師団は満州派遣となり、満州北部に駐屯することになった。そのとき私は、手塩にかけて錬成した兵隊さん六十名を率い、満州北部の前線の山中で、独立警備の任務についた。 これが私の軍人生活十年の間、後にも先にも、独立指揮官として兵を指揮したただ一度の経験で、短期間ではあったが、日夜緊張のうちにも、警備行動に、また部下訓練にと、思い出深い時代であった。(当時の兵隊さんとは、いまにいたるまで親交をつづけ、年に一度の会合を楽しんでいる) ついで七月末、私は連隊本部付となり、断ち難い感慨を押さえながら部下たちと別れ、連隊本部に出頭し、連隊旗手を命じられた。 そのころ中国では、七月七日、北京で盧溝橋事件がおき、わが国は不拡大方針を堅持して、現地解決に力を尽くしていた。ところが七月下旬、北京郊外の通州で、在留邦人数百名が、中国官憲の手により、女子供にいたるまで、一夜のうちに惨殺されるという大事件(通州事件)がおきた。 これに対しわが国は、居留民保護のため中国に出兵し、勢いの赴くところ、従来の不拡大方針も一擲され、わが連隊にも動員令が下った。時の連隊長は、中国問題の権威といわれた儀峨誠也連隊長であった。 このとき連隊長は、「これは困ったことになった。参謀本部には石原さん(満州事変の指導者石原莞爾将軍)がいるから、不拡大で抑えてくれると思っていたが、彼一人では抑え切れないのであろう」と、いかにも沈痛な面持ちで語られるのである。 当時若かった私は、中国軍、何するものぞと思っていたので、連隊長に尋ねたところ、「極東アジアの地は、北にはソ連、東と南には米英の強大国をひかえ、これらに対して日本は、独力で対抗することはできないのだ。どうしても蒋介石の国民政府と、協力する以外に道はない。そして困ったことに、わが国には中国を知っている人が非常に少ない。中国は途方もなく人口が多くて土地が広い。いま、わが国が中国に兵を進めても、満州事変のように、短期間にこれを解決する国力はない。かつて天津事変のとき、中国軍の作戦会議の議事録を手に入れたことがある。そのとき中国の主戦論者は、日支即時開戦すべしと言うものであった」と言われた。 つづけて連隊長は、「いかに日本軍が精鋭であっても、わずか数千名の日本の北支駐屯軍を、中国軍全力をもって攻撃すれば、これを殲滅することは容易である。そのとき日本は、その威信にかけても、本土の大軍を動員して、中国に侵攻して来るであろう。これに対して中国は、徹底抗戦をつづけながら、逐次、漢口、重慶までも後退して持久戦を行ない、諸外国に支援を求める。このとき欧米列強は、日本がほしいままに中国を征服し、領有することを許すはずがない。かならず欧米諸国の干渉により、日本を国際戦争に巻き込んで撃退し、勝利を獲得できる」と言う主張であった。そして「わが日本としては、これが一番手ごわいのだ」と言われたが、まさに大東亜戦争(太平洋戦争。当時の呼称)への、筋書き通りの予言であった。 ついで儀峨連隊長は、連隊が北支に出征する前日になって、急に北京の特務機関長に転出され、かの地で客死されたが、さぞかし地下で、その後の成り行きを嘆じられたことであろう。 『ビルマ戦記 ――方面軍参謀 悲劇の回想』の二十五〜二十七ページまで引用 (藤本・注 本文中に「儀峨連隊長」とあるが、正しくは「儀我連隊長」。また、同連隊長が「北京の特務機関に転出」とあるが、正しくは「天津の特務機関」)
「落第」 ■藤本 「少尉候補者って何ですか」 ●石坂 「俺なんか勉強が苦手だからさ、結局落第したけど、要するに中隊に下士官がいるでしょ、その中の優秀な人を少尉に選ぶわけ。試験があるんだよ。それを少尉候補者と言うんだ」 ■藤本 「ムーリンですか、ハルビンですか」 ●石坂 「ムーリンだな。曹長の頃だよ」 「肉弾」 ●石坂 「日本軍は強かったよ。沖縄で戦争したときだって、よくこう言ったからね。歩兵同士の戦争なら、向こうの兵隊十人、日本の兵隊は一人で対抗できるってね。でも、アメリカ軍は機械が発達しているでしょ。だから、俺たちの連隊が千五百人か二千人だったら、トラックは四台か五台なんだけど、向こうの軍隊が二千人いれば、トラックは三千台か四千台(*藤本・注 物のたとえの数字)あった。これじゃ戦争にならないよ」 ■藤本 「そうですね。それに、こっちが単発式の銃なら、向こうのは連発式の銃ですもんね。火器の差があまりにも歴然としていて、難しい戦争をしたと、俺なんか思うんですけど、その点、わが軍はよくやりましたね」 *補足(藤本) 厳密な定義にこだわる銃器愛好家の批判を受けそうなので、あらかじめ断っておきたい。日本軍の三八式歩兵銃は確かに「ボルトアクション式の連発銃」ではあるが、弾丸を発射するたびに槓桿をスライドさせて薬莢の排出と銃弾の装填をおこなわなければならない機構は「単発式の小銃」といってもイメージ上は正解だと思う。一方、米軍が装備しているM1ガーランドは初弾を装填しさえすれば、挿弾子が排出されるまで槓桿操作は必要なく、連射することができる。 ここでのくだりは、その意味においての発言である、と理解してもらいたい。 「藤本の適性」 ●石坂 「あんた随分と背が高いね(藤本は身長一七七センチメートル)。昔の軍隊に徴兵されたら、間違いなく海軍さんか砲兵になっていたろうね。スマートなやつは海軍、がたいのいいやつは砲兵と決まっているんだよ。俺みたいな背の低いのは歩兵か輜重兵に回されちゃうんだ」 ■藤本 「俺、泳ぎが苦手なんで海軍はあり得ないです。砲兵もご免です。重い砲弾を持ち上げたり、山砲を分解して組み立てたりするのも向いてないからです。やっぱり軍隊の華は歩兵ですよ。地べたにはいつくばって泥水をすすりながら粘り強く戦うんです。そして、戦闘が終われば、次の戦場に向けて黙々と行軍するんです。格好いいじゃないですか。 ……戦いの最後は、土地、住民、財産を制圧することができる歩兵が決します。歩兵こそ軍の主兵であることは間違いありません。兵隊になるんだったら、主役の歩兵科を志願したいです」 ●石坂 「うれしいこと言ってくれるね。ありがとう」 *補足(藤本) 『尋常小学国語読本』(大正期)の巻六に、各兵科への振り分けが体格によって異なることが記されている。 *** 第十一 入営した兄から 国では初雪が降つたさうだね。こつちは国よりよほどあたゝかだ。洋服は着なれなかつたので、はじめは寒いやうに思つたが、もうなれた。 入営後はじめて此の前の日曜日に外出をゆるされた。昨日はとなり村から来てゐる歩兵の音吉君と二人で町を見物した。お前はなぜ自分の村の人と見物しなかつたかと思ふだらうが、兵には歩・騎・砲・工・輜重の五種があつて、私の村から、今歩兵になつて来てゐるのは私一人だけなのだ。 正作君と大工の松さんは工兵、力松君は砲兵、役場につとめてゐられた下村さんは騎兵、私を入れて村からは五人も出てゐるが、兵種がちがふと、兵舎のあり場所もちがふので、めつたに一しよになることはない。どの町村からも、歩兵が一番多く出てゐるのに、ふしぎと私の村からは私一人だ。其の代り輜重兵の外は各種の兵が出てゐる。輜重兵にも其の中にだれか出るだらう。分家の万蔵君などは小男だから、ひよつとすると輜重輸卒にあたるかも知れない。お前は今の分では大男になりさうだから、砲兵か騎兵になれるだらう。からだをぢやうぶにして、よく学問をべんきやうしなさい。軍隊へ来ても、学校でなまけてゐた者は人一倍苦労をする。其の中に又くはしい事を知らせよう。 十二月十五日 兄から 千太どの |
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