*補足(藤本) 五常下士官候補者教育隊時代、石坂准尉は一等兵として北支に出動している。 ここに掲載している写真は下士官候補者教育隊全期にわたる画像である。あらかじめ、混乱のないように断っておく。 「五常下士官候補者教育隊」 ■藤本 「昭和十二年の七月七日に支那事変が勃発したじゃないですか」 ●石坂 「ああ、そうそう、八月には俺たちの部隊も出動したからね。支那事変がはじまってからすぐだよ」 ■藤本 「この時期、石坂准尉は下士官候補者教育隊にいましたよね。支那事変勃発のため、教育隊は解散したんですよね」 ●石坂 「五常の下士官候補者教育隊ね。大規模な戦争がはじまったから俺たち候補者は原隊に復帰したんだよ」
「下士官候補者」 ■藤本 「渡満してからすぐ教育隊に入ったんですか」 ●石坂 「すぐといえばすぐだけど、俺は学校出てないから一回試験に落ちているんだよ。大体、下士官候補者というのは最低でも中学を出ているのが普通なんだ。あの当時でいったら、中学出は今の高校出くらいかな。小学校卒の俺じゃ、数学なんて問題に出されたら、てんで分からないから、言い訳じゃないけどさ、まあ難しいよね。 中隊で何人だ、確か五人かな……その五人が行ったんだけど、俺は試験に落第して駄目だった。だけどまた募集したんだよ。下士官が足りなくてさ。それでたまたま入ったんだ」 ■藤本 「今度は試験とかなかったんですか」 ●石坂 「いや、もちろんあるよ。だけど状況が状況だからね。もしかしたら試験が簡単になっていたのかもね」 ■藤本 「なるほど。軍は見込みのある人間に一定の裁量を発揮したというわけですか。日本軍も愚かではないですから、科挙まがいのお勉強が上手な人間だけでなく、実力評価もしたんですね。大企業の人事担当者にはぜひとも軍隊の実力主義を学んでいただきたいものですな(笑)」
「原隊復帰」 ●石坂 「追加の二名を足して、合計七人が俺の中隊から下士官候補者教育隊に行ったんだ。だけど、ほかの六名はみんな中学校卒で小学校卒は俺だけだよ。 で、支那事変がはじまったんで、そんな教育なんてやっていられないから、下士官候補者教育隊は一時解散、みんな中隊に戻されたんだ。 そのときは候補者全員が集められ、教育隊の責任者である古橋中尉が解散の訓示をした。 『北支で戦争がはじまったのは周知のとおりだ。そこでわが教育隊は一時解散する。候補者全員、原隊に復帰し、任務を全うしてもらいたい。終わり』 と、ね。 それでね、自分でも不思議に思ったんだけど、俺がその中隊の七人の中で一番成績がよかったんだ。だから、俺が七中隊出身者を引率して原隊に復帰したんだ。ほかの中学出を追い越してね」 ■藤本 「へえっ、それは立派ですね」
*補足(藤本) かわいらしい子犬を抱いて、にっこりほほ笑んでいる豊野中尉。 (写真が見にくいので補足) 「猛勉強」 ■藤本 「……話を少し戻しまして、下士官候補者教育隊での勉強は大変でしたか」 ●石坂 「とても厳しかったよ。それこそあんた、夜中になった消灯後もみんな布団を頭からかぶって、懐中電灯の明かりを頼りに勉強するんだ。十室くらいある便所も全部鍵がかかっちゃって、中で教科書を読むんだ。おかげでこの時間は、誰も便所に入れない(笑)」 ■藤本 「予習、復習ですね」 ●石坂 「軍隊の勉強ってのはすごいよ。軍にいた八年間で、確か三回くらいかな、俺は内地に戻る機会があったけど、そのときだって絶対、本を片時も手放さないもの。道路を歩いていたって、操典とかを読みながら時間を惜しんだくらい。あれくらい勉強すれば、どんな大学でも受かるよね」 ▲明夫 (笑) ●石坂 「柿沼っていう俺より年輩の少尉がいたけど、よくこの頃の話をしたもんだよ。ほら、俺なんかは少尉候補者の試験を受けているでしょ。だからお互い、軍隊の勉強のつらさを知っているんだ。 『本当にあの当時は苦労しましたよね。石坂さんと同じで、私も必死で勉強したもんですよ』 なんてね」 ▲明夫 「宮山さんっているでしょ」 ●石坂 「あの人は中学校卒業以上の幹部候補者出身将校。だから少尉だよ。軍歴が足りないから、恩給も勲章もないけどさ」 ■藤本 「あれっ、宮山さんというのは誰ですか」 ▲明夫 「近所の商店街の店主。もう死んじゃったけど」 ■藤本 「ああ、なるほど」
「学歴」 ●石坂 「それにしても、俺はいつも残念に思っているんだけど、学校出ていないのが悔しくてね。だから、どんなに貧乏しても子供だけは教育しようと思った。 うちはみんな大学に行かせたよ、行ってないのは明夫だけだよ。まあ美術の専門学校を出たからいいようなもんだけどさ」 ▲ 明夫 (無言) ●石坂 「とにかく子供だけは、俺がルンペンしても大学出にしようと思った。法政、青山、後は短大か、ちゃんと俺は卒業させてやったよ。 今でも覚えているけど、尋常小学校の先生が家に来てね、俺の親に向かって言ったんだ。 『あんたの子は頭いいんだから、高等小学校に行かせるべきです』 と、ね。そしたら、親は、 『私の家は貧乏ですから、とても無理です』 と、答えちゃって、それっ切りだよ」 ■藤本 「結局、尋常小学校卒業が最終学歴ですか」 ●石坂 「そうだよ。だから、どこに行っても体裁悪いよ、格好悪いよ」 ■藤本 「でも、石坂准尉は軍隊に行って、実力を証明したじゃないですか。くその役にも立たない肩書きなんて飾りにもならないですよ。軍隊ではできるやつが評価されるもんです。大学出を自慢している、ひよこ将校に何ができるんですか。下士官だった石坂准尉はその点を一番理解しているはずじゃないですか」 ●石坂 「確かに出身部落で一番出世した兵隊は俺だ。俺より偉くなったのはいないから、実力の世界では立派に証明してみせたけどね。 ……昔はね、中学出てればたいしたもんさ。部落で大学行ったのが一人、中学行ったのが一人だったもんな。あの当時は中学を卒業していれば大旦那さ」 ■藤本 「大学なんていったら」 ●石坂 「そりゃ、もうすごいものだよ。そんな人はめったにいなかった」 *補足(藤本) 後 勝『ビルマ戦記 ――方面軍参謀 悲劇の回想』に、当時の厳しい就学事情が記されている。 *** やがて二年はまたたく間にすぎ、昭和九年(一九三四年)春、予科卒業とともに、高田歩兵第三十連隊の士官候補生を命じられた。重原慶司、山口満雄、小山永久(戦死)の三名とともに、高田駅に到着したが、四月というのに、一メートル以上の雪におおわれているのには驚いた。しかし、連隊では上司をはじめ先輩から、手厚い指導を受け、若い兵隊さんといっしょに山野を駆け回り、厳しい訓練の中にも楽しいものであった。 ところが、兵隊さんの中には、字が読めない者がいた。家が貧しく小学校にも行けなかったというのであった。それらの兵隊さんから、休憩時間に家からの便りを読んでくれとしばしば頼まれた。 たどたどしい文字ながら、――留守宅では人手が足りなくて困っているが、お前が兵役に出ているからといって、近所の人も手伝ってくれて助かっている。私も元気で働いているから安心してくれ。そしてその末尾には、きまったように、――家のことは心配しないで、立派にご奉公を務めるようにと、はげましの言葉が綴られているのである。また中には、――家計が苦しくて、妹を東京の遊里に出し、家計の不足をおぎなったが、妹も東京で元気でやっておるそうだと、まさに涙なくしては読めない文面もあった。 『ビルマ戦記 ――方面軍参謀 悲劇の回想』の二十三ページから引用
*補足(藤本) 昭和初期の農村では、小学校を卒業してから中学校に進学できる者は裕福な子供しかかなわなかった。石坂辰雄が卒業したこの年も、三十五名中、わずか一名が中学校に入学しただけだった。ほかの者は皆、社会人になって働きに出たのである。 「将校になれる?」 ●石坂 「あんたみたいな頭のいい人間はね、昔の軍隊に行ったら、絶対将校になれた(笑)」 ▲明夫 (大笑い) ■藤本 「何を突然(笑)……俺はばかですから無理ですよ(大否定)」 ●石坂 「間違いなくなれた、絶対(笑)」 ◆一同 (大笑い)
*補足(藤本) 猪鹿倉徹郎。 明治十九年八月三十日生。昭和四十五年二月二十六日没。 昭和十四年九月三日予備役、終戦を迎える。 (歩兵・鹿児島。陸軍士官学校第十九期。最終階級、陸軍少将)
第二章 北支出動 (五常─張北) 第一節 動員下令 大東亜の黎明 昭和十二年七月は我々にとって、否日本全国民にとって忘るべからざる月となった。 七月七日の夜半、北支宛平県盧溝橋畔に轟いた一発の銃声は、東亜に低迷した暗雲をついに打ち破った。 この瞬間の状況は、夜間演習中のわが豊台部隊の一小隊に対して、二十九軍兵士が、たった数発の不法射撃を加え来たったに過ぎなかったが、この銃声こそ彼にしてはこれ以上どこへも捌け口のない敵性の宿命的な帰結であり、我には共に東亜新秩序を建設すべき民族であるが故に、ただひたすらにその堪え難きを忍んで来た堪忍袋に最後の決を告げるものであった。 日支軍衝突!第一報はいち早く部隊全将兵に伝えられた。 ついに来たるべき時が来た。 大命と共に祖国をはなれた瞬間から我々の肝に銘じ神明に誓って来た男子の本懐は、いま目のあたり実現しようとしているのだ。 現地では、当局の不拡大方針にもかかわらず、かえってこれに増長した彼はいたずらに自らの墓穴を掘るのみ、遂に七月十一日の北支駐留軍声明となり、事態は北支事変の渦中に突入した。 十三日南苑馬村の衝突、 十六日安平、二十五日五ノ井部隊の郎坊の激戦、 同二十八日を以て開始された北平城攻略戦! 戦局は河北を席巻して山東へ! 山西へ! 蒙疆へ! 好まざるところといえども事ここに至っては手段はつくし終わったのである。すでに全北支は戦渦の中に投げ込まれた。 皇軍は暴支膺懲の大剣をかざして怒濤の進撃を続けた。 五常の山奥にも朝鮮部隊出動の噂が聞こえた。 内地部隊も一部出動の模様だ。 同じ在満部隊にも出動が下令された部隊もある。 いつ出るのだ! こんな馬鹿な事があるか! 部隊はあげて切歯扼腕した。 このさなか、 八月十三日 高田以来生死を誓い、共に辛酸を嘗めて来た儀我誠也部隊長が栄転された。我々は涙をのんで別れねばならなかった。大命の致すところ真に己むを得ず、ひたすら前部隊長の武運長久を祈り同日猪鹿倉徹郎新部隊長を迎えて我等は一死奉公の念を一段と強めたのである。 出動 昭和十二年八月十八日!待ちに待った出動命令は遂に降った。 剣を磨し、鞍を撫して待った日はついに来た。謙信公以来の脈々たる北越の血潮は火と沸いた。 目指す山西は天険にこもり精兵をたのむ敵が、北支の牙城を豪語している要地である。相手にとって不足はなし。 将兵の志気は限りない感激と共にまさに天を衝くの概を示した。 この日二十時五十四分、部隊は篠原兵団及び特科隊主力に対し○○○兵が下令された旨の電報を受領、同二十二時出動に関する兵団命令を受領した。 第○○団命令 八月十八日十八時三十分 於哈爾浜○団司令部 一、篠原○団(一大隊欠)及特科隊主力ハ北支方面ニ出動ヲ命セラル 二、田村部隊長ハ哈爾浜警備ノタメ其○団ヨリ大隊長ノ指揮スル三中隊(混成)ヲ速ニ当地ニ派遣スヘシ 右部隊ハ哈爾浜到着ノ時ヲ以テ予ノ直轄トス 第○○団長 岡村寧次 *** ○○第十五○団命令 八月十八日二十時三十分 於哈爾浜篠原部隊本部 一、○団ハ○○○兵ヲ命セラル 二、○○第十六○隊ハ○○中佐ノ指揮スル○○一中隊、機関銃一小隊、士官候補生ヲ其守備地区内ニ残置シ適宣其ノ警備ニアタラシメ主力ハ直ニ出動準備ヲ完了スヘシ 三、○○第三十○隊ハ○○中佐ノ指揮スル○○三中隊、機関銃二小隊、士官候補生及幹部候補生ヲ其守備地区ニ残置シ適宣其警備ニ任セシメ主力ハ直ニ出動準備ヲ完了スヘシ 四、予ハ哈爾浜本部ニアリ ○○第十五○団長 篠原誠一郎 右の命令により部隊は、ただちに各隊に伝達を終わると共に編成に着手した。最初は混成による一個大隊を残置、警備に任ぜしめるはずであったが、十九日に至り命令の一部が変更され、斎藤部隊(第三大隊)を建制により残留せしめる事になり、なお出動部隊は恐らく厳寒期にわたるであろう戦闘に備えて冬衣袴を着用する如く命ぜられた。 「第○○団 ○○第三十○隊将校各部将校職員表」 (八月十九日現在) ○隊本部 ○隊長──猪鹿倉 徹郎 大佐 副官──伊従 秀夫 少佐 旗手──後 勝 少尉 通信班長──古橋 正雄 中尉 ○○係──安斎 実 少尉 ○隊付──広池 文吉 軍医少佐 ○隊付──安田 土岐司 獣医中尉 第一大隊 大隊長──板倉 堉雄 少佐 副官──高橋 準二 中尉 主計──山下 正行 大尉 軍医──君 健男 中尉 軍医──菊島 広 中尉 第一中隊 中隊長──安江 寿雄 大尉 小隊長──折笠 政雄 少尉 小隊長──伊藤 喜久 見士 小隊長──五十嵐 源助 准尉 第二中隊 中隊長──菅野 定雄 中尉 小隊長──重原 慶司 少尉 小隊長──朝日 長一 准尉 小隊長──川島 育二郎 准尉 第三中隊 中隊長──服部 征夫 大尉 小隊長──古木 秀策 中尉 小隊長──清水 清治 准尉 小隊長──吉田 善二 准尉 第一機関銃中隊 中隊長──高橋 石松 大尉 小隊長──見波 隆示 少尉 小隊長──阿部 平八郎 准尉 小隊長──鈴木 祐司 准尉 小隊長──宮川 久司 准尉 第一大隊砲小隊 小隊長──羽柴 正一 中尉 第二大隊 大隊長──植田 勇 少佐 副官──熊倉 菊次郎 少尉 主計──藤田 三子吉 准尉 軍医──早川 釟郎 中尉 第五中隊 中隊長──林 司馬男 大尉 小隊長──加藤 恒安 中尉 小隊長──高見沢 孝平 見士 小隊長──安田 寅雄 准尉 第六中隊 中隊長──石原 英夫 大尉 小隊長──遠家 亀市 中尉 小隊長──小山 永久 少尉 小隊長──嘉村 省司 准尉 第七中隊 中隊長──森 康則 大尉 小隊長──宮田 金吾 少尉 小隊長──小暮 伝作 准尉 小隊長──池内 亀次郎 准尉 第二機関銃中隊 中隊長──浜 久 大尉 小隊長──佐藤 四郎 中尉 小隊長──大類 仁一 少尉 小隊長──桐生 憲辞 准尉 小隊長──滝沢 嘉長 准尉 第二大隊砲小隊 小隊長──伝田 鹿蔵 准尉 連隊砲中隊 中隊長──増成 正一 大尉 小隊長──小林 三治 准尉 小隊長──佐藤 善太郎 曹長 速射砲中隊 中隊長──斎藤 国松 大尉 小隊長──惣角 義治 准尉 小隊長──羽深 信治 准尉 ○○○兵時の部隊の配備は第二大隊(山口部隊)が後期検閲のため八月八日以降哈爾浜兵舎に出張演習中で、第二大隊の警備分担地区は第一大隊の一部が交代し左の如き配置で警備に任じていた。 部隊本部、第十中隊、連隊砲中隊、通信班──五常 第一大隊本部(第一機関銃、第二中隊の一小隊属)──山家屯 第一中隊(一小隊欠)──向陽山 第二中隊(一小隊欠)──小山子 第三中隊──沖河鎮 第一中隊の一小隊──沙河子 第三大隊本部(第三機関銃属)──帽児山 第九中隊(一小隊欠)──平山(二道河子) 第十中隊──楡樹 第十一中隊(一小隊欠)──三股流 第十一中隊の一小隊──烏吉密 各分屯地は警備の申し送りを行った直後のごたごたの中に○○○兵の命令を受けたわけである。しかも時期が夏期討伐の大多忙を極める最中であったので全部隊を一箇所に集結せしめるには種々の困難がともなった。 ために臨機の処置として部隊長は部隊を三個梯団に分かち、本部ならびに付属部隊、第一大隊(板倉部隊)第二大隊(植田部隊)ごとに独自に行動を起こして張北に向け急行を命じた。 山河屯にあった第一大隊長板倉少佐は、派兵伝達されるや部下各隊の准士官以上を集合せしめ諸注意を与えると共に、向陽山に在った第一中隊を引き上げ出動準備に着手した。小山子の第二中隊(一小隊欠)及び沖河鎮にいた第三中隊は直接五常に集結した。細部の指示はなかったが兵舎の保管ならびに監視を満警に託し浜江に向かった。第二大隊はそのまま浜江に集結して第一大隊を待った。 五常部隊は二十日二十一時三十分到着した服部隊を以て全部集結を完了した。二十一日、前夜来の豪雨は、車軸を流すように早朝まで飽かず降りしきった。伝田准尉を長とする諸材料、馬匹の積み込みが四時から開始されたが暗黒と降雨に妨げられて捗らず、かてて加えて部隊に配属された貨車は携行材料の半分足らずしか搭載能力がなかった。ためにせっかく徴発した満人馬車等は後発させる事にして行方軍曹以下三名はこれが監視に任じた。 |
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