石坂准尉は上官から何を命じられてもそつがないので、戦友たちから羨望のまなざしを向けられていた。運動神経抜群、分けても射撃、銃剣術は中隊の誰にも負けなかった。まして頭も切れれれば絵心もあり、性格温厚にして人懐っこいとくれば、もはや何も言うことはない。 日本陸軍の典型的な軍人であった石坂准尉以外にも、全国の部隊には才気あふれる人材が数多くいて各戦地で活躍していた。しかし、ときが流れるのは早いもので、戦争体験者は現在、わずかな存命者を残すのみとなってしまった。故に私は、数少ない生き証人の一人である石坂准尉との対談に真剣に取り組んだ。 「今、この機会を逃しては、あと数年で取り返しのつかないことになる」 約一年間、そのような不安に支配されて焦りに焦った。休日をほとんど返上して資料の山と格闘した。そうして、やっとこさ『石坂准尉の八年戦争』が日の目を見た。たった一人でもよい。ささいな感動を呼び起こすことができたら御の字だ。きっと石坂准尉も喜んでくれるだろう。 それにしても、若輩者の収入では参考書籍の購入がばかにならなかった。当時、珍しく女の子とデートしても、しゃれた服を買ってやったり、飯をおごってやったりしなかった。加えて、転職も考えていたから、うまくやりくりして月に十万円以上の貯金もしていた。自分で言うのも何だが、過密スケジュールと貧乏をよく我慢したと思う。ただ悔しいのは、素人であるが故に、完成した『石坂准尉の八年戦争』の出来はあまりに拙く、無残なものに終わってしまった。一番の原因は、さして文章量を必要としないのに文才がないから、くだらない言葉端を捕まえて何度も書き直したことだと思われる。文章は短く的確に、かつ素早く書かなければならない。石坂准尉の「話し言葉」をうまく「読み言葉」に変換するのも重要だ。が、三歩進んで二歩下がる日々が続き、作業は遅々として進まなかった。そして、とうとうもくろみどおりにはならなかったのである。力が入っている割に結果が伴わないのは、石坂准尉の軍隊生活と比べたら対照的だ。反省し過ぎて自虐的になるのは問題だが、事実である以上、致し方ない。二十代の若造ならば言い訳はいくらでも可能だが、三十、四十と歳を重ねていったら、通用しなくなる。もしも私が石坂准尉の年まで生きていられたなら、己を尊敬する「藤本青年」のような人生の後輩を得ることができるのであろうか。 今のところ、さっぱり自信がない。
愚痴をくどくどと述べるのも、読む人にとっては苦痛であろうから、これで終わりにしたい。 ──最後に感謝とおわびの言葉を。 (石坂准尉へ) 「石坂准尉、本当にありがとうございました。厚かましい人間と一年近くもおつき合いくださいまして、大変なご迷惑をおかけしたと思います。歩兵第三十連隊の勇ましい戦績を胸に、これからも長生きなさってください。近年は弱気に余生を送っていると明夫さんからうかがっておりますが、靖国の英霊に会いに行くのはまだまだ先のこと、武人らしからぬ、ふがいない自衛官でも見かけたら、問答無用に気合いを入れてやってください。帝国陸軍軍人の無限なる精神力を見せつければ、彼らのだらしない態度は改善されることでしょう」 (明夫さん、そしてお兄さん夫婦へ) 「たばこをぷかぷかと吸いながら、ばかでかい声でしゃべりまくる『悪童藤本』の暴虐には迷惑されたことでしょう。しかし、曲がりなりにも完成しましたので、何時間も居間を占拠されるようなことは、もう二度とありませんからご安心ください。 明夫さん、あなたと一緒に過ごした日々は今もしっかり覚えています。私より先に転職したときは皆悲しんでおりました。 在職中、明夫さんに関する悪いうわさを誰からも聞いたことがありません。ひとえに明夫さんの人徳です。仲間が休憩時間でくつろいでいるときも、明夫さん一人だけは時間が惜しいと言いながら、仕事をしていましたね。本当の働き者を見たように思えて勉強になりました。明夫さんのその姿があったからこそ、私も怠け心に打ち勝って『石坂准尉の八年戦争』を完成することができたと思っております」 「歩兵第三十連隊に栄光あれ」 平成十六年十二月三十日 藤本泰久 |
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