軍鳩の使命と現況 『偕行社記事特号』より |
表紙 |
題名 |
偕行社記事特号 |
著者 |
陸軍偕行社編纂部 |
出版 |
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版 |
昭和十八年十月三十日印刷 昭和十八年十一月五日発行 |
備考 |
第八百三十号 |
軍鳩の使命と現況 (昭和十八年十一月号) 陸軍省交通課課員 一 鳩通信の沿革 鳩が何時頃から人に飼育せられるやうになつたかと云ふことは瞭でないが、兎に角有史以前より既に利用せられてゐたらしく、最初亜細亜地方に於て飼育せられ、次でアフリカ、埃及、羅馬に伝はり漸次西方の欧州諸国に伝はつたやうである。 鳩が軍用として始めて使用されたのは、我が国に於ては 祟神天皇の御代に防人が鳩通信に依り援軍を得たと伝へられ、西洋に於ては第一次十字軍(西紀一〇九六―一〇九九年)以来盛んに使用せられ近世普仏戦争に於て巴里の攻囲戦で鳩が気球で城外に搬送せられ、顕微写真による通信文を携へて帰還したのを始めとして逐次通信量は増大し、本戦争中鳩通信量は公文電報十五万通、私報電報百万通に及び之を普通活字に依り印刷すれば五百冊の図書を成すと云ふことである。 之より軍鳩の名声は頓に揚り欧州諸国は急に鳩の利用価値を認識し、独逸の如きは西紀一八八八年には動員鳩二十万羽を越える盛況に達した。仏、英、白の各国亦大いに飼鳩奨励して多数の鳩を保有するに至つた。 我が陸軍は明治三十二年に始めて支那方面より伝書鳩を輸入して研究を開始し、同三十四年には白耳義から種鳩三百羽を輸入して中野の鉄道大隊で飼育し対馬、下関要塞等に鳩分遣所を設けて実用に供し、翌三十五年には独逸鳩百五十羽を輸入して大いに研究の歩を進めた。 彼の日露戦役には台湾方面に多数の鳩を配置して警備通信に任じ又旅順要塞の敵が使用する鳩を捕獲する為鷹を用ふる実験を宮内省主猟寮が行ひ、畏くも 明治天皇より特に御下賜金を下賜あらせられたやに洩れ承はる。誠に畏き極みである。 然るに無線の発達に依り鳩通信は之に圧倒せられて軽視せられ、我が陸軍では明治四十二年全く之を廃止して欧米諸国亦之に倣ふに至つた。 然るに第一次世界大戦にて陣地戦生起し戦闘は激烈を極め、為に有無線の電気的通信は破壊又は妨害せられて蔬通を欠き、視号通信も亦爆烟や毒烟の為用を為さず伝令の派遣も許さぬ戦況現出し、独り鳩のみが戦場連絡の寵児となるに至り、かねて此の事あるを予想した独軍は私かに訓練して置いた軍鳩を戦場に使用して頗る偉功を奏したのである。仏軍も亦遅れ馳せながら民間鳩を集めて軍鳩隊を組織し、欧州大戦全期を通じ偉功を樹てしめたのである。 我が陸軍に於ては此等の教訓に基き大正八年仏国より軍鳩千羽と教官三名を傭聘し又軍用鳩調査委員を組織し、其の事務所を中野に置き各師団より将校、下士官を召集教育し、同年七月には早くも軍鳩通信班を編成、西伯利亜に派遣して戦場通信に活用し、其の後朝鮮、樺太にも之を増派し、夫々通信に従事し良好なる成績を収めてゐる。 大正十二年の大震災には臨時鳩隊を関東戒厳司令部に配属し、他の通信機関の一切途絶せる際克く重要機関間の連絡を確保して偉功を奏した。 其の後山東派兵、満州事変、支那事変又大東亜戦にては前線に於て盛んに活躍し、目下全軍の鳩数は○○○羽に達し将来更に増加する予定である。 軍用鳩調査委員は軍鳩の調査研究補充と将校、下士官の教育に従事して来たが、昭和十四年八月之を廃止せられ、同日陸軍通信学校に鳩部を設け軍鳩の育成、訓練、補充の外学生の教育及調査研究に関する業務を実施して現在に至つてゐる。昭和八年には関東軍育成所と、昭和十四年には支那派遣軍及北支那方面軍育成所を新に設け、通信学校鳩部の業務に準じ活躍してゐる。 二 鳩通信の特性 現代科学の粋を鐘め惨烈複雑なる陸海空の立体戦を展開する現代戦に於て、果して軍鳩が克く電気的通信に伍して役立ち得るや否やに就て疑問を抱く向もあらうが、如何に兵器が発達しても戦闘の決を与へるものは依然として最も単純原始的な白兵力であると同様に如何に優秀の通信器材が出来ても鳩の利用価値即ち副通信としての価値は豪も減少せず否寧ろ益々重要の度を加へたと云ふことが出来軍鳩でなければ役に立たぬ場面も相当あるのである。例へば彼のバタアン半島又はガダルカナル島の戦闘に於て有線は切断せられ、無線は電波を出せば忽ち敵砲弾の集中射撃を受けると云つたやうな戦況に於て無くてはならん通信機関であり、又斥候や小部隊など電気的通信機関を有せざるものが随時放鳩して軽易に通信を実施し得る等其の利用価値は極めて大である。 又極めて神速な電撃戦は別として一般野戦に於ける陣地攻撃の場合でも約一乃至○○日の余裕さへあれば十粁前後の移動鳩通信も可能である。但し此の如き短時間では若干の失踪鳩を生ずることは免れない。 固定鳩が百五十粁乃至二百粁の実用通信に使用出来ることは一般によく知られてゐる所であつて、此の種鳩は通信所位置を随時移動させることは出来ないが、通信距離が比較的大であると共に通信の確実性も亦移動通信に優ると云ふ事が出来る。其の他訓練に依つては夜間鳩、往復鳩の使用も可能である。 又防衛通信上鳩の価値は益々増大し彼の独逸のハンブルグ空襲の際の如く、繁栄を誇る一大文明都市と雖も一朝にして廃墟と化し、他の一切の通信施設が途絶した場合に於ては頼みになるのは只鳩だけだと云ふも過言でなかろう。過ぐる関東大震災の際に於ける鳩の目醒ましき活躍に此の間の消息を物語るものと言ふべきである。 近時各種通信器材は物資とか、生産能力等に制約されて益々窮窟となりつゝある際こそ大いに鳩を活用すべきであらう。特に南方占領地に在つては、其の各島嶼間に鳩通信網を構成するは極めて有利である。 鳩通信と電気的通信との長短と比較すれば次のやうである。
付表第一
付表第二
三 軍鳩使用の要領 鳩通信を実施するに方つては特に濫用を戒め、其の価値を発揮する緊要の時機に活用する事に勉めなくてはならぬ。 鳩通信の為には予め訓練するを要し、訓練の時日を増すに従つて使用地域も拡張せらるゝのであるから、通信を実施するためには之に相応する準備訓練に必要な時日を与へねばならぬ。鳩通信のためには鳩部隊を配属せらるゝか又は鳩のみを配属せらるゝのであるが鳩部隊を配属された指揮官は使用の時機、方向、地域、鳩通信所、之と指揮官との連絡手段等を定め鳩の素質、訓練程度、訓練に使用し得る日数、通信の要度、他の通信網の状態等を考慮して鳩通信網を計画し、鳩隊長等に鳩舎位置、訓練の目的、完成時期等を示し成るべく速かに準備訓練に着手せしめて、鳩の特性を発揮するやうに勉めなくてはならぬ。 鳩通信網を構成するためには鳩哨の配置又は鳩のみを配属する部隊、時期要すれば鳩数等を明示する必要がある。 鳩のみを配属せられた場合には鳩通信所、訓練の程度特に方向、距離等使用地域及留置日数等直接通信実施に必要な事項を詳知して其の使用を適切にすべきである。 通信の方向や距離が準備訓練の場合と一致してゐる時は、通信能力を最大に発揮することが出来るが、一致させる事が出来ない場合でも良く訓練されたものは方向では固定鳩は概ね百粁以内、移動鳩では二十粁以内ならば大した影響はなく、距離では準備訓練の概ね二倍から実施する事が出来る。 準備訓練は先づ其の地形に対する馴致に始まるのであるが、馴致の完了したものは鳩舎を一時他に移動しても再び旧位置に還した場合は通信能力には大した影響はない。併し旧位置に還さない場合は地形の変化と距離の増大するとに従つて漸次通信能力を減少するものである。鳩哨に於ては特に次の事項を承知して服務する事が必要である。 鳩には適時水与(人の飲み得る水)を行ふ事が必要であって、一般には一日二回以上、又夏季炎熱の場合は更に回数を増す必要がある。 飼与は留置が二日以上に亙る場合に行ふもので毎夕清潔な飼料少量(一羽に対して概ね半握……将校水筒蓋の八分目……)を与へるのである。鳩哨に於て豊富な飼与を行つた場合は現地に執着して帰巣能力を減退させ、放鳩しても徒らに遊翔して通信時間を遅延させるものである。鳩に鳩哨位置の地形や地物を認識させると鳩舎位置を忘れ現地に執着するから、鳩籠は覆を装して外界の目視を遮断する必要がある。輸送途中でも此の着意が必要であるが夏季炎熱時に於ては籠内の通風を妨げないやうにする事が大切である。 発信の為には一羽宛使用するのが通常であるが、重要な通信を実施する場合、途中害鳥の被害を予期する場合、使用地域外より使用する場合、留置を甚だしく超越した場合、天候気象不良な場合、鳩の能力劣る場合等に於ては二、三羽で通信する事が必要である。 日没に近く通信を実施する時は通信距離を顧慮して日没迄に鳩舎に帰還する事が出来るやうに、時間の余裕を置いて放鳩する事が大切である。此の場合は勉めて薄暮の訓練を施した鳩を使用すべきである。 飛行機より鳩を投下補充するには落下傘を付けた徒歩籠大を使用するのが便利である。機上から放鳩する際は鳩を機体に触れさせないやうに側方又は下方に強く放り出す事が必要である。 放鳩する前には必ず休養と水与をするに勉めなくてはならぬ。 一、通信の為鳩に負担させる事の出来る重量は通信距離、鳩の素質特に訓練の程度に依り異なるが体重の概ね百分の一(約四・五瓦)以内に止むべきである。 二、鳩通信所(鳩舎位置)で受領した通信は更に之を受信人に送達するのであるが之が為には各種の伝令、電話、電信等を利用するが何れの場合でも本文を迅速確実に送達する必要がある。秘密保持の為には勉めて略号又は隠語、要すれば暗号を使用する事が大切である。 鳩は輸送、訓練及通信実施等の際失踪、害鳥の被害、其の他病死等に依り損耗を免れないから予め之を予想して使用計画を樹てると共に其の補充を考へて置く必要がある。 鳩舎位置は成るべく指揮官の位置に近く且鳩の帰巣に妨げない限り敵眼、敵火に遮蔽し、人馬、車輌等の出入頻繁の地区を避けることが大切であるが、放鳩帰巣の為司令部位置を暴露させない着意が必要である。 其の他鳩舎は敵の砲爆撃等に対し掩護する為鳩舎の設備を堅固にし又偽装する必要がある。之が為要すれば鳩舎をトーチカや掩蔽部内に設けるか或は囲壁を設けるのである。 四 軍鳩の現況 一、軍鳩使用の現況 目下全軍の軍鳩総数は○○○羽の多きに達し逐年増加しつゝあるのであつて将来は尚増加せしむるよう研究中である。 満州、支那に於ては○○○羽の軍鳩を整備して作戦に、討伐に、警備に鳩の特性を遺憾なく発揮して大いに軍鳩の真価を発揮し、殊に固定鳩は討伐、警備に最も手軽に而も確実に通信を実施して重宝がられ、鳩に対して従来無関心の指揮官以下に大いに理解を深めてゐる現況である。南方占領地は気候風土が異なり軍鳩の使用に関し不安があつたのであるが、諸調査の結果十分使用することが出来る自信を得たので今後の鳩の活躍が期待される。 二、民間鳩の現況 現在民間鳩の総数は○○○羽と想像され従来主として趣味、娯楽として飼育してゐる者が多かつたが、軍鳩の使命を認識して近時積極的に軍に協力し軍鳩の補結源として欠くことの出来ない存在となり、補充鳩の其部分は此等民間鳩の購買に依つてゐる現況である。 此等民間鳩の指導団体として陸軍大臣の監督下に社団法人大日本軍用鳩協会があつて本部を東京に置き、主なる各府県及外地に支部を設け会員組織をとつて緊密に軍に協力してゐる。 近時更に軍防衛に積極的に協力する為、此等会員中より国防鳩隊を編成し防衛通信の一翼を担任せんと希望を申出て来てゐる次第である。 満州に於ても同様に大陸軍鳩協会があつて活躍してゐる。 |
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