軍用鳩229号 (『灯台と伝書鳩』より) |
表紙 |
題名 |
灯台と伝書鳩 |
著者 |
高野てつじ |
出版 |
天佑書房 |
版 |
昭和十八年七月十五日印刷 昭和十八年七月二十五日発行(一〇,〇〇〇部) |
備考 |
* |
それは昭和六年の暮、十二月三十一日――満州事変当時のことであります。 夕暮の色に、つゝまれやうとしてゐる大石橋守備隊の鳩舎へ、血に染つた一羽の鳩が飛んで来ました。 「おや?」と驚いた取扱兵が抱き上げて脚の番号を見ると、正しくこゝに飼はれてゐる軍用鳩229号でした。なほもよく見ると、信書管は血にまみれ、身には重傷を負つて息も絶え絶えの様子です。 丁度四日前のこと、錦州に向つて出発した皇軍は、まさかの時を考へて軍用鳩を連れて行くことを忘れませんでした。ところが、この日の前日、三十日のこと、大石橋と錦州の間にある盤山といふところにさしかゝると、物陰にひそんでゐた敵兵が、ふいに砲火をあびせて来ました。見れば敵軍は我軍よりも十倍、二十倍もの大軍です。しかし勇敢な皇軍将兵は少しもひるまず、敵の中心をついて前進また前進したので、さすがの大軍も足並乱してあわてゝ退却したと思はれましたが、再び前後にまわつて物凄い逆襲を行つて来ました。どうしても我軍は苦戦をまぬがれません。この様子を何とかして少しでも早く大石橋守備隊に知らせやうとしましたが、時すでにおそく電信も電話も敵のためにこわされてしまひました。今は唯ひとつ、鳩にたよる外はありません。 通信紙を入れた信書管を急いで伝書鳩の脚にとりつけた兵隊さんは、やゝしばらく鳩の体に頬づりして途中の無事を祈りました。軍用鳩229号は、胸をふるはせながらかはいゝ目で空を見上げてゐましたが兵隊さんの手を離れると見るや真直に空高く飛び上りました。そして二三回上空を旋回した後、矢の様に飛び去つてゆきました。 229号が大石橋に近い田庄台にさしかゝると、不幸にも敵軍に発見されて、丁度飛行機に対する対空射撃と同じやうに、小銃の一斉射撃をうけたのです。一弾は無念にも229号の左脚に命中してそれをもぎとり、もう一弾はその腹を貫きました。229号はその痛手にも屈せず、なほも飛び続けたのですが、途中苦しさにたえかねてとある木の枝にとまつて休んだのです。丁度そこに居合せた我軍の兵隊さんが発見して捕へやうとすると、229号は、再び翼をひろげて飛び去りました。木の枝には傷ましくも赤い血のあとがのこつてゐました。 傷いた小さい伝令使はその夜どこで休んだのか、翌日まで様子がわかりません。 そして今つひに二十余キロを飛んで、やつと目的地へ帰つて来たのです。229号を抱いた兵隊さんの目には感激の涙が光つて見えました。 「よく、飛んで帰つたなあ。御苦労さま、早くこの信書管を本部に持つて行くんだ」 「早く看護もしてやらなくちや」 229号は兵隊さんたちの心からの手厚い看護を受け、いたはられました。が、しかし、小さいこの勇敢な伝令使は、任務を果して気がゆるんだのか、兵隊さんたちに見まもられながら、たうとうその宝石のやうな目をつむつて冷たくなつてしまつたのです。本隊が229号のしらせによつて、すぐたくさんの援軍を自動車でおくり、敵を撃ち破つたのは言ふまでもありません。錦州占領はそれから間もなくでした。 229号の死は、勇敢な皇軍の将士にをとらぬ立派な戦死であります。この優しくも勇ましい軍用鳩に対し、殊勲甲の勲章が下され、その英霊をともなはれました。 |
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