日本軍用鳩年表 追補


 2021年に全6巻が出そろった『日本軍用鳩年表』だが、その後、記述の誤りを見つける。
 また、新たな資料が加わったことから、これを引用する必要性も感ずる。
 そこで、『日本軍用鳩年表 追補』と題して、以下に追記する。

藤本泰久



◆一七八三(天明三)年三月十三日の項、訂正(相模屋又市)

☆補足一
 筆者(私)は同項において、「抜き商い」と記しているが、正しくは、「抜け商い」。黒岩比佐子『伝書鳩 もうひとつのIT』に「抜き商い」と記述してあったことから、この記述をうのみにしてしまった。
 三省堂編修所『広辞林』(第六版)を引くと、「抜け商い」とは、規則を犯し、または仲間からはずれて、ひそかに商売をすること、とある。

☆補足二
 相模屋又市が使翔した伝書鳩は、オランダ人が持ち込んだものと考えられている、と同項で筆者(私)は記す。海外を経由しなければ伝書鳩は手に入らないし、その窓口がオランダであるからだ。
 ちなみに、同時期に描かれた出島図(「出嶋阿蘭陀屋舗景」安永九年〔一七八〇年〕)を見ると、鳩小屋が二つあるのを確認できる。オランダ人が飼養していたように思われる。ただし、これが通信用の鳩だったのか、愛玩用なのか、観賞用なのか、はたまた食用なのか、はっきりしていない。

☆補足三
 「大坂町人の相場通信」(作・三田村鳶魚)という記事に、以下の記述がある(中央公論社『三田村鳶魚全集』〔第六巻〕より引用。引用文は一部、文字表記を改めている)

  伝書鴿の使用

 さて安永六年に身振の合図で脅かされた相模屋又市も、三年たてば三つになる。まして七年たっている。天明三年三月十三日の触れを見ると、
 相模屋又市……抜商と唱、右高下を記し、鳩の足に括付相放し、又は手品仕形抔にて相図致候者有之。
 またしても咎められているが、彼は何として伝書鴿の効用を知っていたろう。我等は相模屋又市が二度目に咎められた天明三年から、四十八年後の天保元年に編成した喜多村筠庭の『嬉遊笑覧』に、伝書鴿の記載があるのにさえ驚いている。
 鴿〔菟玖波集〕よみ人不知、「軒の下にて夜をあかすなり、籠の内のねぐら尋ぬるはなち鳥、〔新撰六帖〕「入ぞうきすゝめのひなの手なれつゝしはしも身をばはなれざるらん、よく馴てその家をわすれぬものは鴿なり、和名にいへばとといひ、俗にどばとゝいふ是なり、鴿に書を伝ふる事〔本草釈名〕に張九齢が故事をいへり、また〔八閩通志〕に性甚馴、善認主人之居舶人籠以泛海、有故則繋書、放之還家、故又曰舶鴿とあり。
 張九齢といえば唐代の人であるから、支那の伝書鴿は、大分古い。相模屋又市は書物から得た知識で、伝書鴿を相場通信に利用したのであろうか。彼より前にも後にもない事柄だけに、我等は考えさせられた。しかし米市の商人が特殊な書物を漁って読もうはずもない。しからば全く絞り出した知恵でなくてはならぬ。
 ふと『中陵漫録』を見た。これは文政度の随筆だがその中に、
 山に在る鳩なり、家に在るは鴿なり、一名飛奴と云、予が知己某は麻布に在りて多く鴿を養う、人、時々来て是を求め去て、目黒の不動及此辺の新寺と云に携至て是を放つ、其日の暮には飛帰る、或亦浅草観音の塔に納む、其夕に帰る、此主人云く、凡鴿は能く帰ると雖も一の伝あり、雛よりして黄粱を与て成長せしむ、是を食せしむる時は他の五穀を顧ず、只此黄粱を慕ひ帰来るなりと云、しかれども鴿の性は、遠方より能く帰る者なるが故なり、東呉都卯三余贅筆曰、鳥中惟鴿、性最馴、人家多愛畜之、毎放数十里或百里外、皆能自返、亦能為人伝書、昔人謂之飛奴此説の如し、飛奴の名、開元天宝遺事に見へたり。
とある。この麻布の鴿飼も、随筆学問などに耽ったらしくはないが、鴿の知識を持っていた。実験された飛翔の距離も、麻布から目黒または浅草というので、相模屋又市の堂島と江戸堀及び西高津新地を使用区域としたのと比較される。支那の方が早く開けていたので、日本のよりも距離が余程延びている。といっても支那は六町一里であるから、百里といったところで、我が国の十六里二十四町なのだ。
 も一つ『真佐喜のかつら』という嘉永度の随筆に、御愛嬌な話が書いてあった。これは通信に遣ったのではないが、鴿についての知識は、割合にその筋には拡まっていたように思われる。
 雑司ケ谷辺に軽き身分の老人有、常に酒をたしみけれど、其価の足らざるを歎く、程近き所に官の御鷹を飼部屋ありて、構の内には鳩を多く飼置り、或日此屋舗に住る人、かの老人に言様、汝酒のあたひ足らざるを患ふ、我よく工風せり、日々鳩を四五羽づゝ貸べし、是を籠へ入、鬼子母神の門前へ持行、放し鳥に売なば酒のあたへは有べしとをしゆ、老人悦び、翌日より鳩をかり、をしへの通門前にて売切り、老人は彼の方へ礼言んと戻りにたち寄見れば、鳩は皆構のうちに戻りゐたり、老人おどろき其故を問ふ、かの人云、かしたる鳩戻らざれば、日々汝に貸事いたらんや、我汝が酒をたしみ、価の不足を歎くを見るに忍びず、一時の戯までなりと一笑して過ぬ。
 鴿が戻って来ることを、誰も知らなかったわけでないにしても、相模屋又市は早いだけ、彼の知恵の凄じさが感ぜられ、いかにも投機商人の敏捷なところが見える。昔といえばばからしく、江戸時代といえば薄ノロばかりいたように思うが、さすがに大坂町人だ。天明三年は今日から算えて百四十三年前になる。

参考文献
『伝書鳩 もうひとつのIT』 黒岩比佐子/文芸春秋
『広辞林』(第六版) 三省堂編修所/三省堂
『出島図 ―その景観と変遷―』 長崎市出島跡整備審議会/長崎市
『三田村鳶魚全集』(第六巻) 中央公論社



◆一九二一(大正十)年八月三十一日

 関東長官が関東庁告示第六十六号を告示する。
 内容は、以下のとおり(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている。左図以下は省略)

関東庁告示第六十六号
金州警務所管内において警察用伝書鳩の通信練習を施行するに付きこれを捕獲すべからず
右伝書鳩には脚部に左図「アルミニューム」製足環を付しあるを以て迷鳩と認むべきものを発見したる者は最寄警察官署 警察官吏派出所を含む に届出つべし

大正十年八月三十一日 関東長官 山形伊三郎

参考文献
『関東庁庁報』(大正十年八月三十一日付。第四三八号)



◆一九二二(大正十一)年七月十九日の項、訂正(朝香宮一行の南アルプス登山)

☆補足
 同項において、日本新聞協会『新聞研究』(昭和五十八年十一月号)に掲載された記事「スピグラと鳩」(戦後新聞写真史 連載4)の一文を引用しているが、記述に誤りがある。「大正十一年七月二十七日、天皇陛下が摂政宮のころ、富士登山をされた」とあるが、正しくは、「大正十二年七月二十七日、天皇陛下が摂政宮のころ、富士登山をされた」とすべきである。ちょうど、年が一年ずれている。筆者(私)はうかつにも、記事「スピグラと鳩」(戦後新聞写真史 連載4)の記述ミスに気づかず、そのまま引用してしまった。『信州大学付属図書館研究』(第十三号)に掲載された記事「松本高等学校山岳部の伝書鳩」(作・田中圭美)に、この誤りが指摘されていて、筆者(私)はこの事実を知った経緯がある。
 ちなみに、黒岩比佐子も、記事「スピグラと鳩」(戦後新聞写真史 連載4)をもとに、その著書『伝書鳩 もうひとつのIT』の一文を記しているが、筆者(私)と同じミスを犯している。
 以下に引用しよう。

 一九二二年七月二十七日、摂政宮殿下(昭和天皇)の富士登山を各新聞社が取材しているが、この時、各新聞社の写真部員たちは陸軍の軍用鳩調査委員会から鳩を借りて、五合目の山小屋前で撮影したフィルムをそれぞれの鳩に託した。フィルムを背負った鳩は無事に中野の鳩舎に戻り、待ちかまえていた各新聞社の記者は、そのフィルムを持ってそれぞれの本社へ急いだ。これが、鳩による写真輸送が成功して日本の新聞の紙面に載った第一号である。

 繰り返しになるが、一九二二(大正十一)年七月二十七日の出来事ではなく、正しくは、一九二三(大正十二)年七月二十七日の出来事である。
 悩ましいことに、黒岩の誤りは、ほかにもある。「これが、鳩による写真輸送が成功して日本の新聞の紙面に載った第一号である」と述べているが、この摂政宮裕仁親王の富士登山以前に、伝書鳩がフィルムを運んで、それが新聞写真として掲載されている事例がある(◆一九二二〔大正十一〕年十月十一日~の項、参照)。すなわち、「鳩による写真輸送が成功して日本の新聞の紙面に載った第一号」ではないことも、併せて記しておく。
 なお、この黒岩の誤りは、記事「スピグラと鳩」(戦後新聞写真史 連載4)の誤記に影響されている。
 記事「スピグラと鳩」(戦後新聞写真史 連載4)に、以下の記述がある。

 大正十一年七月二十七日、天皇陛下が摂政宮のころ、富士登山をされた。各新聞社は中野の陸軍電信隊の鳩を借りて、五合目の山小屋前で殿下を撮ったフィルムを鳩に持たせた。これが伝書鳩による写真輸送の第一号となった。

 大正十一年ではないことは前述したとおりだが、最後の一文に注目してほしい。黒岩の記した一文と酷似している。これがもとになっているのは明らかだ。そして、文章が似ているだけでなく、その内容も誤っている。
 重ね重ねになるが、この摂政宮裕仁親王の富士登山が、伝書鳩による写真輸送の第一号ではないことを指摘しておく。

*摂政宮裕仁親王は後の昭和天皇。

参考文献
『信州大学付属図書館研究』(第十三号) 信州大学付属図書館
『昭和天皇実録』(第三巻) 宮内庁/東京書籍株式会社
『新聞研究』(昭和五十八年十一月号) 日本新聞協会
『新聞の写真』 伴 俊彦/同文館
『伝書鳩 もうひとつのIT』 黒岩比佐子/文芸春秋



◆一九二三(大正十二)年五月二十八日の項、補足(摂政宮裕仁親王、中野を行啓)

☆補足
 『昭和天皇実録』(第三巻)の大正十二年五月二十八日の項に、摂政宮裕仁親王が中野(電信第一連隊、軍用鳩調査委員会)を行啓した際の記述がある。
 以下に引用しよう。

関係者に賜謁の後、聯隊長工兵大佐杉原美代太郎より同聯隊の歴史につき言上をお聞きになる。それより音響通信・無線建柱を御覧になり、営庭にお手植えの後、固定無線通信所にて中野金沢間の通信送受の実況を御視察、御通路において諸種無線機を御覧になり、御休所において無線電信に関する実際的説明を御聴取になる。鳩舎前において放鳩を御覧の後、還啓される。

*摂政宮裕仁親王は後の昭和天皇。

参考文献
『昭和天皇実録』(第三巻) 宮内庁/東京書籍株式会社



◆一九二三(大正十二)年七月二十二日の項、訂正(摂政宮裕仁親王の富士登山)

☆補足一
 「◆一九二三(大正十二)年七月二十二日」とあるが誤り。正しくは、「◆一九二三(大正十二)年七月二十七日」。筆者(私)の記載ミス。

☆補足二
 『昭和天皇実録』(第三巻)の大正十二年七月二十七日の項に、以下の記述がある。

今回の富士御登山では通信に陸軍電信隊の用意した軍用伝書鳩が用いられ、皇太子御自身も、六合目、奥宮等より日光田母沢御用邸御避暑中の天皇・皇后へ御機嫌伺い並びに御登山御報告の文を認められ、自ら伝書鳩を放たれる。

*摂政宮裕仁親王は後の昭和天皇。

参考文献
『昭和天皇実録』(第三巻) 宮内庁/東京書籍株式会社
『大正天皇御物語』 水谷次郎/日本書院出版部



◆一九二四(大正十三)年八月十九日の項、補足(摂政宮裕仁親王、磐梯山で放鳩)

☆補足
 『昭和天皇実録』(第四巻)の大正十三年八月十九日の項に、以下の記述がある。

一時五十分、頂上に御到着になる。山頂では日光の天皇・皇后、翁島の皇太子妃への親書を伝書鳩に託され、お放ちになる。

*摂政宮裕仁親王は後の昭和天皇。

参考文献
『昭和天皇実録』(第四巻) 宮内庁/東京書籍株式会社



◆一九二五(大正十四)年七月十二日の項、訂正(摂政宮裕仁親王、戦艦・長門から放鳩)

☆補足一
 同項において、筆者(私)は、「同妃良子女王も同様の通信文を別の鳩に付して長門から放鳩する」と記している。これではまるで、戦艦・長門に良子女王も乗艦していて、良子女王が通信文を伏した鳩を放鳩したように読めてしまう。
 実際は、長門に良子女王は乗り合わせておらず、摂政宮裕仁親王が貞明皇后および良子女王に宛てて、同様の通信文を鳩で送っている。
 「同妃良子女王宛ての同様の通信文も別の鳩に付して長門から放鳩する」と訂正したい。

☆補足二
 参考文献に、以下の文献を載せるのを失念していた。要追記。

『鳩』(第三年七月号) 鳩園社

☆補足三
 『昭和天皇実録』(第四巻)の大正十四年七月十二日の項に、以下の記述がある。

御昼食後、皇太子妃に宛てた御書信を追浜の海軍航空隊へ伝書鳩にてお放ちになり、ついでデッキゴルフをされる。

*摂政宮裕仁親王は後の昭和天皇、良子女王は後の香淳皇后(昭和天皇の皇后)

*追浜の海軍航空隊とは横須賀海軍航空隊のこと。

参考文献
『東京朝日新聞』(大正十四年七月十三日付) 東京朝日新聞社
『鳩』(第三年七月号) 鳩園社
『昭和天皇実録』(第四巻) 宮内庁/東京書籍株式会社



◆一九三三(昭和八)年八月二十八日の項、補足(関東軍軍用鳩育成所)

☆補足
 愛鳩家の木村徳広は、公主嶺にある関東軍軍用鳩育成所で六ヶ月間、鳩術を学び、その後、移動鳩専門の鳩兵になっている。
 木村徳広『津軽系』に、以下の記述がある。

 関東軍軍用鳩育成所は、中野陸軍軍用鳩調査委員会の出先機関のようなもので、すぐ使えるヒナ鳩も中野から大分送られて来ていましたが、それでは間に合わないため繁殖を盛んに行ない、ヒナを関東軍の各部隊に配給していました。私たちは、飼育管理や移動鳩、夜間鳩の訓練だけでなく、交配・作出についても、かなり勉強することができたのでした。
 六カ月の教育の間に、ノモンハン事件があり、軍用鳩隊から選抜されて、関東軍の第三次総攻撃に参加しましたが、間もなく停戦協定が結ばれたため、軍は警備態勢にはいりました。私は、戦闘司令部付鳩兵として、訓練成績抜群の表彰を受けましたので、公主嶺で再教育を受けることを命じられ、教育修了後は移動鳩を専門に担当して、五年間の鳩兵生活を送りました。連隊でも、木村に任せておけば連隊の鳩は大丈夫だと言われるまでに信頼されましたので万事、自分の思うようにやれました。

 五年間の鳩兵生活を送った、と本文にあるが、同書によると木村の軍歴は、昭和十三年十二月一日入隊、昭和十八年三月除隊とのこと。つまり、正確にいうと四年四ヶ月の軍隊生活となる。さらにいえば、最初の三ヶ月ほどは第一期の初年兵教育を受けていて、その期間は鳩兵ではないから、その分を差し引くと、鳩兵として約四年間過ごした、という言い方が適当であろうか。もちろん、木村当人にしてみれば、軍隊生活のほとんどは鳩兵として過ごしていたし、その期間はざっくり五年間と述べただけのことであろう。特段、発言の正確さが求められるものでもない。
 なお、文中にあるとおり、木村は関東軍軍用鳩育成所で六ヶ月間、鳩兵教育を受けているが、その間にノモンハン事件が勃発したことからノモンハンに赴いている。そして、日ソ両軍による停戦協定締結後、再び公主嶺にある関東軍軍用鳩育成所に戻って、教育を再開している。ノモンハン事件の影響により、教育が一時中断し、修業中の鳩兵に呼集がかかってノモンハンに出動したようである。
 ちなみに、木村の文章では、戦闘司令部付鳩兵として訓練成績抜群の表彰を受けたことから公主嶺の関東軍軍用鳩育成所で再教育を命じられた、となっているが、これは多分、文意がごっちゃになっているだけであろう。表彰されたことと、再教育を命じられたことに直接的なつながりはない。単に、ノモンハン事件に出動した際、訓練成績が抜群で表彰を受けた、というだけの意味であろう。

参考文献
『津軽系』 木村徳広



◆一九三五(昭和十)年四月十八日の項、補足(普鳩)

☆補足
 戦後に津軽系を生み出した木村徳広は、戦中は鳩兵として移動鳩を担任し、『普鳩』誌を愛読していたという。
 木村徳広『津軽系』に、以下の記述がある。

 昭和十二年には日支事変が初まっておりましたので、戦地に送られることは覚悟の上で入隊したのですが、まだ飼鳩家として一人前になっていたわけではなかった私は鳩にそれほど未練もなく、ただ、あまりにも変った日常に茫然とした初年兵生活を送っていました。しかし、父母としては、たった一つの趣味として楽しんでいた鳩と別れて入隊した私がふびんでならなかったのでしょう、私が創刊のときから愛読していた「普鳩」の最近号を差入れしてくれました。永代静雄さんという人の主宰していた進歩的な鳩雑誌です。その一頁に、三〇〇粁大競翔の成績がのっており、そこに自分の名を見たときには、一瞬、楽しかった飼鳩生活が思い出され、近く戦地へ送られる身として、一体、もう一度ああいう生活ができるのだろうかと、思いつめずには、いられませんでした。
 三カ月の初年兵教育もそこそこに、私は大勢の同年兵とともに満州に派遣されました。到底、生きて帰れるとも思われない、悲壮な気分に包まれた長旅でした。しかし着いた先には、思いがけないことが私を待ち受けていました。すでに「普鳩」などで見知っていた軍の移動鳩舎が目に付いたのです。私には、鳩が自分を待っていた、としか考えられませんでした。
 二度と鳩には、さわられないのではないかと、きっぱり、あきらめて来たはずの私でしたが、目の前の軍用鳩の舎外訓練を見ては、矢も楯もたまらず、すきを見て鳩兵に接触した結果、公主嶺に関東軍軍用鳩育成所があり、定期的に鳩兵を募集していることを知りました。ただちに志願したところ、幸い、各分隊から一名ずつという選にはいることができました。
 そして約二〇人の同僚とともに、六カ月の教育を受けたのですが、本当に鳩が好きだったことが幸いしてか、抜群の成績をおさめることができて、第一選抜で上等兵になることができました。当時は、鳩兵で上等兵に選ばれること自体が珍しいとされていたのに、普通の兵科なら第一選抜は無理と思われていた私が選ばれたのですから全く、鳩のおかげだったわけです。

参考文献
『津軽系』 木村徳広



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