日本軍用鳩年表 追補


 2021年に全6巻が出そろった『日本軍用鳩年表』だが、その後、記述の誤りを見つける。
 また、新たな資料に出会ったことから、これを引用する必要性も感ずる。
 そこで、『日本軍用鳩年表 追補』と題して、以下に追記する。

藤本泰久



◆一七八三(天明三)年三月十三日の項、補足

 「大坂町人の相場通信」(作・三田村鳶魚)という記事に、以下の記述がある(中央公論社『三田村鳶魚全集』〔第六巻〕より引用。引用文は一部、文字表記を改めている)

  伝書鴿の使用

 さて安永六年に身振の合図で脅かされた相模屋又市も、三年たてば三つになる。まして七年たっている。天明三年三月十三日の触れを見ると、
 相模屋又市……抜商と唱、右高下を記し、鳩の足に括付相放し、又は手品仕形抔にて相図致候者有之。
 またしても咎められているが、彼は何として伝書鴿の効用を知っていたろう。我等は相模屋又市が二度目に咎められた天明三年から、四十八年後の天保元年に編成した喜多村筠庭の『嬉遊笑覧』に、伝書鴿の記載があるのにさえ驚いている。
 鴿〔菟玖波集〕よみ人不知、「軒の下にて夜をあかすなり、籠の内のねぐら尋ぬるはなち鳥、〔新撰六帖〕「入ぞうきすゝめのひなの手なれつゝしはしも身をばはなれざるらん、よく馴てその家をわすれぬものは鴿なり、和名にいへばとといひ、俗にどばとゝいふ是なり、鴿に書を伝ふる事〔本草釈名〕に張九齢が故事をいへり、また〔八閩通志〕に性甚馴、善認主人之居舶人籠以泛海、有故則繋書、放之還家、故又曰舶鴿とあり。
 張九齢といえば唐代の人であるから、支那の伝書鴿は、大分古い。相模屋又市は書物から得た知識で、伝書鴿を相場通信に利用したのであろうか。彼より前にも後にもない事柄だけに、我等は考えさせられた。しかし米市の商人が特殊な書物を漁って読もうはずもない。しからば全く絞り出した知恵でなくてはならぬ。
 ふと『中陵漫録』を見た。これは文政度の随筆だがその中に、
 山に在る鳩なり、家に在るは鴿なり、一名飛奴と云、予が知己某は麻布に在りて多く鴿を養う、人、時々来て是を求め去て、目黒の不動及此辺の新寺と云に携至て是を放つ、其日の暮には飛帰る、或亦浅草観音の塔に納む、其夕に帰る、此主人云く、凡鴿は能く帰ると雖も一の伝あり、雛よりして黄粱を与て成長せしむ、是を食せしむる時は他の五穀を顧ず、只此黄粱を慕ひ帰来るなりと云、しかれども鴿の性は、遠方より能く帰る者なるが故なり、東呉都卯三余贅筆曰、鳥中惟鴿、性最馴、人家多愛畜之、毎放数十里或百里外、皆能自返、亦能為人伝書、昔人謂之飛奴此説の如し、飛奴の名、開元天宝遺事に見へたり。
とある。この麻布の鴿飼も、随筆学問などに耽ったらしくはないが、鴿の知識を持っていた。実験された飛翔の距離も、麻布から目黒または浅草というので、相模屋又市の堂島と江戸堀及び西高津新地を使用区域としたのと比較される。支那の方が早く開けていたので、日本のよりも距離が余程延びている。といっても支那は六町一里であるから、百里といったところで、我が国の十六里二十四町なのだ。
 も一つ『真佐喜のかつら』という嘉永度の随筆に、御愛嬌な話が書いてあった。これは通信に遣ったのではないが、鴿についての知識は、割合にその筋には拡まっていたように思われる。
 雑司ケ谷辺に軽き身分の老人有、常に酒をたしみけれど、其価の足らざるを歎く、程近き所に官の御鷹を飼部屋ありて、構の内には鳩を多く飼置り、或日此屋舗に住る人、かの老人に言様、汝酒のあたひ足らざるを患ふ、我よく工風せり、日々鳩を四五羽づゝ貸べし、是を籠へ入、鬼子母神の門前へ持行、放し鳥に売なば酒のあたへは有べしとをしゆ、老人悦び、翌日より鳩をかり、をしへの通門前にて売切り、老人は彼の方へ礼言んと戻りにたち寄見れば、鳩は皆構のうちに戻りゐたり、老人おどろき其故を問ふ、かの人云、かしたる鳩戻らざれば、日々汝に貸事いたらんや、我汝が酒をたしみ、価の不足を歎くを見るに忍びず、一時の戯までなりと一笑して過ぬ。
 鴿が戻って来ることを、誰も知らなかったわけでないにしても、相模屋又市は早いだけ、彼の知恵の凄じさが感ぜられ、いかにも投機商人の敏捷なところが見える。昔といえばばからしく、江戸時代といえば薄ノロばかりいたように思うが、さすがに大坂町人だ。天明三年は今日から算えて百四十三年前になる。

参考文献
『三田村鳶魚全集』(第六巻) 中央公論社





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