| 日本軍用鳩年表 追補 |
| 2021年に全6巻が出そろった『日本軍用鳩年表』だが、その後、記述の誤りを見つける。 また、新たな資料が加わったことから、これを引用する必要性も感ずる。 そこで、『日本軍用鳩年表 追補』と題して、以下に追記する。 |
☆補足一 筆者(私)は同項において、「抜き商い」と記しているが、正しくは、「抜け商い」。黒岩比佐子『伝書鳩 もうひとつのIT』に「抜き商い」と記述してあったことから、この記述をうのみにしてしまった。 三省堂編修所『広辞林』(第六版)を引くと、「抜け商い」とは、規則を犯し、または仲間からはずれて、ひそかに商売をすること、とある。 ☆補足二 相模屋又市が使翔した伝書鳩は、オランダ人が持ち込んだものと考えられている、と同項で筆者(私)は記す。海外を経由しなければ伝書鳩は手に入らないし、その窓口がオランダであるからだ。 ちなみに、同時期に描かれた出島図(「出嶋阿蘭陀屋舗景」安永九年〔一七八〇年〕)を見ると、鳩小屋が二つあるのを確認できる。オランダ人が飼養していたように思われる。ただし、これが通信用の鳩だったのか、愛玩用なのか、観賞用なのか、はたまた食用なのか、はっきりしていない。 ☆補足三 「大坂町人の相場通信」(作・三田村鳶魚)という記事に、以下の記述がある(中央公論社『三田村鳶魚全集』〔第六巻〕より引用。引用文は一部、文字表記を改めている)
参考文献 『伝書鳩 もうひとつのIT』 黒岩比佐子/文芸春秋 『広辞林』(第六版) 三省堂編修所/三省堂 『出島図 ―その景観と変遷―』 長崎市出島跡整備審議会/長崎市 『三田村鳶魚全集』(第六巻) 中央公論社 |
関東長官が関東庁告示第六十六号を告示する。 内容は、以下のとおり(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている。左図以下は省略)
参考文献 『関東庁庁報』(大正十年八月三十一日付。第四三八号) |
☆補足 同項において、日本新聞協会『新聞研究』(昭和五十八年十一月号)に掲載された記事「スピグラと鳩」(戦後新聞写真史 連載4)の一文を引用しているが、記述に誤りがある。「大正十一年七月二十七日、天皇陛下が摂政宮のころ、富士登山をされた」とあるが、正しくは、「大正十二年七月二十七日、天皇陛下が摂政宮のころ、富士登山をされた」とすべきである。ちょうど、年が一年ずれている。筆者(私)はうかつにも、記事「スピグラと鳩」(戦後新聞写真史 連載4)の記述ミスに気づかず、そのまま引用してしまった。『信州大学付属図書館研究』(第十三号)に掲載された記事「松本高等学校山岳部の伝書鳩」(作・田中圭美)に、この誤りが指摘されていて、筆者(私)はこの事実を知った経緯がある。 ちなみに、黒岩比佐子も、記事「スピグラと鳩」(戦後新聞写真史 連載4)をもとに、その著書『伝書鳩 もうひとつのIT』の一文を記しているが、筆者(私)と同じミスを犯している。 以下に引用しよう。
繰り返しになるが、一九二二(大正十一)年七月二十七日の出来事ではなく、正しくは、一九二三(大正十二)年七月二十七日の出来事である。 悩ましいことに、黒岩の誤りは、ほかにもある。「これが、鳩による写真輸送が成功して日本の新聞の紙面に載った第一号である」と述べているが、この摂政宮裕仁親王の富士登山以前に、伝書鳩がフィルムを運んで、それが新聞写真として掲載されている事例がある(◆一九二二〔大正十一〕年十月十一日~の項、参照)。すなわち、「鳩による写真輸送が成功して日本の新聞の紙面に載った第一号」ではないことも、併せて記しておく。 なお、この黒岩の誤りは、記事「スピグラと鳩」(戦後新聞写真史 連載4)の誤記に影響されている。 記事「スピグラと鳩」(戦後新聞写真史 連載4)に、以下の記述がある。
大正十一年ではないことは前述したとおりだが、最後の一文に注目してほしい。黒岩の記した一文と酷似している。これがもとになっているのは明らかだ。そして、文章が似ているだけでなく、その内容も誤っている。 重ね重ねになるが、この摂政宮裕仁親王の富士登山が、伝書鳩による写真輸送の第一号ではないことを指摘しておく。 *摂政宮裕仁親王は後の昭和天皇。 参考文献 『信州大学付属図書館研究』(第十三号) 信州大学付属図書館 『昭和天皇実録』(第三巻) 宮内庁/東京書籍株式会社 『新聞研究』(昭和五十八年十一月号) 日本新聞協会 『新聞の写真』 伴 俊彦/同文館 『伝書鳩 もうひとつのIT』 黒岩比佐子/文芸春秋 |
☆補足 『昭和天皇実録』(第三巻)の大正十二年五月二十八日の項に、摂政宮裕仁親王が中野(電信第一連隊、軍用鳩調査委員会)を行啓した際の記述がある。 以下に引用しよう。
*摂政宮裕仁親王は後の昭和天皇。 参考文献 『昭和天皇実録』(第三巻) 宮内庁/東京書籍株式会社 |
☆補足一 「◆一九二三(大正十二)年七月二十二日」とあるが誤り。正しくは、「◆一九二三(大正十二)年七月二十七日」。筆者(私)の記載ミス。 ☆補足二 『昭和天皇実録』(第三巻)の大正十二年七月二十七日の項に、以下の記述がある。
*摂政宮裕仁親王は後の昭和天皇。 参考文献 『昭和天皇実録』(第三巻) 宮内庁/東京書籍株式会社 『大正天皇御物語』 水谷次郎/日本書院出版部 |
☆補足 『昭和天皇実録』(第四巻)の大正十三年八月十九日の項に、以下の記述がある。
*摂政宮裕仁親王は後の昭和天皇。 参考文献 『昭和天皇実録』(第四巻) 宮内庁/東京書籍株式会社 |
☆補足一 同項において、筆者(私)は、「同妃良子女王も同様の通信文を別の鳩に付して長門から放鳩する」と記している。これではまるで、戦艦・長門に良子女王も乗艦していて、良子女王が通信文を伏した鳩を放鳩したように読めてしまう。 実際は、長門に良子女王は乗り合わせておらず、摂政宮裕仁親王が貞明皇后および良子女王に宛てて、同様の通信文を鳩で送っている。 「同妃良子女王宛ての同様の通信文も別の鳩に付して長門から放鳩する」と訂正したい。 ☆補足二 参考文献に、以下の文献を載せるのを失念していた。要追記。 『鳩』(第三年七月号) 鳩園社 ☆補足三 『昭和天皇実録』(第四巻)の大正十四年七月十二日の項に、以下の記述がある。
*摂政宮裕仁親王は後の昭和天皇、良子女王は後の香淳皇后(昭和天皇の皇后) *追浜の海軍航空隊とは横須賀海軍航空隊のこと。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十四年七月十三日付) 東京朝日新聞社 『鳩』(第三年七月号) 鳩園社 『昭和天皇実録』(第四巻) 宮内庁/東京書籍株式会社 |
☆補足 愛鳩家の木村徳広は、公主嶺にある関東軍軍用鳩育成所で六ヶ月間、鳩術を学び、その後、移動鳩専門の鳩兵になっている。 木村徳広『津軽系』に、以下の記述がある。
五年間の鳩兵生活を送った、と本文にあるが、同書によると木村の軍歴は、昭和十三年十二月一日入隊、昭和十八年三月除隊とのこと。つまり、正確にいうと四年四ヶ月の軍隊生活となる。さらにいえば、最初の三ヶ月ほどは第一期の初年兵教育を受けていて、その期間は鳩兵ではないから、その分を差し引くと、鳩兵として約四年間過ごした、という言い方が適当であろうか。もちろん、木村当人にしてみれば、軍隊生活のほとんどは鳩兵として過ごしていたし、その期間はざっくり五年間と述べただけのことであろう。特段、発言の正確さが求められるものでもない。 なお、文中にあるとおり、木村は関東軍軍用鳩育成所で六ヶ月間、鳩兵教育を受けているが、その間にノモンハン事件が勃発したことからノモンハンに赴いている。そして、日ソ両軍による停戦協定締結後、再び公主嶺にある関東軍軍用鳩育成所に戻って、教育を再開している。ノモンハン事件の影響により、教育が一時中断し、修業中の鳩兵に呼集がかかってノモンハンに出動したようである。 ちなみに、木村の文章では、戦闘司令部付鳩兵として訓練成績抜群の表彰を受けたことから公主嶺の関東軍軍用鳩育成所で再教育を命じられた、となっているが、これは多分、文意がごっちゃになっているだけであろう。表彰されたことと、再教育を命じられたことに直接的なつながりはない。単に、ノモンハン事件に出動した際、訓練成績が抜群で表彰を受けた、というだけの意味であろう。 参考文献 『津軽系』 木村徳広 |
☆補足 戦後に津軽系を生み出した木村徳広は、戦中は鳩兵として移動鳩を担任し、『普鳩』誌を愛読していたという。 木村徳広『津軽系』に、以下の記述がある。
参考文献 『津軽系』 木村徳広 |
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