日本軍用鳩年表 |
以下の内容は無料版である。 有料版とは内容の一部が異なり、写真も収録していない。 正式な内容は有料版(Kindle版または書籍版)で確認してほしい。 |
◎凡例 一、基本的に各項目を年代順に並べているが、年月日のはっきりしない出来事が多いため、各項目が年月日に反して前後していることがある。 月日が不明で年しか分からない項目は年の後ろに回している。したがって、項目が後ろの方にあるからといって、その年の末に該当の出来事が起こったとは限らない。 二、各項目の年月日は、該当の出来事の発生年月日となる。しかし、場合によっては、その出来事を報じている新聞や雑誌の発刊日になっていることがある(月日が不明なため)。そこら辺りの区別がつくように各項目の文章を記してはいるが、取り違えないように注意してほしい。 ちなみに、出版物の奥付に記された発行日と、現実の発行日が一致しないことがある。例えば、大日本軍用鳩協会発行の『軍用鳩』誌の六・七月号(*合併号)は、奥付に「昭和十九年六月一日印刷納本発行」とあるが、同号には八月十日に死去した永代静雄の訃報が載っている。つまり、実際の発行日は奥付に記されている六月一日ではなく、八月十日以降であることが分かる。 出版物の発行日は、不正確な場合があるので、出版物の発行日に基づいて記した各項も不正確な場合がある。 三、〓〓が〓〓宛てに「〓〓ノ件」を提出する、という定型の一文がよく出てくるが、普通、文書などは各所での回覧を経て受取者(宛先)のもとに届く。提出する、照会する、などと書いてあっても、これはほとんどの場合、その該当日に文書などが作成されたことを表しているだけである。受取者(宛先)の手元に届くまで、ある程度、日数にタイムラグが生じることに留意してほしい。 四、古い資料をもとに記している項目が多々あるので、なじみの薄い表記が頻出する(カタカナの外国地名など)。できるだけ、現代の一般的な表記に直しているが、調べのつかなかった地名などは原史料のままの表記になっている。 五、引用に際しては、旧字体を新字体に変えてある。 六、「文字表記を改めている」との断りがたびたび出てくるが、これは旧仮名遣いを新仮名遣いに直したり、文章や表のレイアウトまたはデザインを変更したりしていることを指す。 七、はっきりしない事実関係について、「詳細不明」などと記していることが多い。しかし、これはあくまで、筆者(私)にとって不明である、ということにすぎない。丹念に調査すれば、事実関係がはっきりする余地は多分にある。 八、事実を突き止められなかった事柄は、各項目においてそれぞれ、そこで参照した文献の記述に従って内容を記している。したがって、各項目を比較すると出来事や数字などが食い違っていることがある。 九、同じ団体や似たような組織などを別呼称で記していることがある。例えば、陸軍が中野で飼養している軍用鳩について、その所属を「軍用鳩調査委員会」(軍用鳩調査委員事務所)と言ったり、「中野電信隊」と言ったりしている(「軍用鳩調査委員会」と「中野電信隊」は別組織だが、隣り合って存在していることから同じ意味合いで用いられることが多い)。ほかには、軍事用の鳩のことを「軍用鳩」「軍鳩」「軍用伝書鳩」、鳩レースのことを「競翔」「レース」などと、別呼称で記していることがある。同じものなので、誤解しないように留意してほしい。 十、主に日本の軍用鳩事情について述べている。しかし、民間の伝書鳩に関する事柄(民間主催の鳩レースや、伝書鳩を利用した新聞社の報道など)であっても、筆者(私)が興味を覚えたものは書き記している。 十一、この『日本軍用鳩年表』は、かつて小野内泰治が『愛鳩の友』誌に連載していた『日本鳩界史年表』と照らし合わせて読むと理解が深まる構成になっている。『日本軍用鳩年表』は官(主に軍隊)の事情を中心に、『日本鳩界史年表』は民の事情を中心に、という特徴がある。双方に目を通すことで、日本鳩界史の一端が明らかになると思う。 以下に参考として、小野内泰治の『日本鳩界史年表』が載った『愛鳩の友』誌の各号を記す。手前の数字が昭和の年度を表し、その次の数字が月を表す(*例 33〈12〉 → 『愛鳩の友』昭和三十三年十二月号) 33〈5〉、33〈6〉、33〈7〉、33〈8〉、33〈9〉、33〈10〉、33〈11〉、33〈12〉、34〈2〉、34〈3〉、34〈4〉、34〈5〉、34〈6〉、34〈8〉、34〈9〉、34〈10〉、34〈11〉、35〈1〉、35〈2〉、35〈3〉、35〈4〉、35〈5〉、35〈6〉、35〈8〉、35〈9〉、35〈10〉、35〈11〉、35〈12〉、36〈1〉、36〈2〉、36〈3〉、36〈4〉、36〈5〉、36〈6〉、36〈7〉、36〈8〉、36〈9〉、36〈10〉、36〈11〉、36〈12〉、37〈1〉、37〈2〉、37〈8〉、37〈9〉、37〈10〉、37〈11〉、37〈12〉、38〈1〉 十二、各史料に登場する軍用鳩調査委員の人名がよく間違っている。例えば、「伊東」が「伊藤」に、「長谷」が「長屋」「永谷」などになっている。 人名の誤記を訂正したときは、できるだけその旨を記すようにしている。 十三、文章作成に当たっては、筆者(私)が二〇〇五(平成十七)年以来、調査、収集してきた、鳩に関する史料をもとにしている。しかし、その収集史料は中途半端で不完全である。 不備の多い年表であることを断っておく。 ◎難読名字などの参考 四王天延孝(しおうでん のぶたか) 長谷栄二郎(ながや えいじろう) *号・別称等――長谷波堂 井崎於菟彦(いざき おとひこ) *号・別称等――井崎乙比古 吉川晃史(よしかわ こうし) 五十島鶴松(いがじま つるまつ) 近久 央(ちかひさ ひさし) 中陸(なかりく) *陸軍軍用鳩調査委員会の略称。ただし、東京農業大学伝書鳩研究会『伝書鳩の飼い方』など図書によっては中陸(ちゅうりく)の振り仮名を振っていることがある。 通校(つうこう) *陸軍通信学校の略称。 |
ギリシャ神話において、戦をつかさどる神・アレス(ローマ神話ではマルス)と、愛と美の女神・アフロディーテ(ローマ神話ではヴィーナス)が鳩を伝書の使いにしていたといわれている。 また、『旧約聖書』の『創世記』に、以下の記述があることから、鳩は「平和の象徴」とされている(日本聖書協会『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』より引用)
☆補足一 『旧約聖書』の『創世記』に出てくる大洪水の話は、『ギルガメシュ叙事詩』などがもとになっている。 大洪水の後、水が引いたかどうか確認するために鳩を放つ場面が『ギルガメシュ叙事詩』に登場する。 ☆補足二 鳩は西洋において「平和の象徴」とされているが、日本ではこれと正反対である。鳩は八幡神(源氏の氏神。武神、軍神)の使いであることから、いわば「戦争の象徴」といってよい。武士は合戦前に鳩の姿を認めると、これを勝ち戦の吉兆として捉える。 もちろん、現代の日本では、西洋の考え方が浸透し、鳩を「平和の象徴」とする見方も一般的ではある。 一説に、鳩が「平和の象徴」または「平和の使者」として広く世間に認知されたのは、パリで開催された国際平和会議(一九四九年)のポスターをピカソが制作したからだという。 しかし、鳩を「平和の象徴」とする考え方は、前述したとおり、大昔から広まっている。仮にピカソが国際平和会議のポスターを制作していなくとも、鳩は「平和の象徴」であったろう。 時折、鳩の事情に明るくない人が、このピカソのポスターを取り上げて、鳩が「平和の象徴」である理由を語るが、ピカソを持ち上げて説明するのは適当でない。ピカソが駄目押しした、くらいの説明が妥当ではないか。 ☆補足三 逓信省逓信博物館『世界通信発達史概観』(上巻)によると、ソドムとゴモラの住人は互いに敏速な通信を必要とするときは鳩を用いて通信したそうである。神が硫黄と火を空から振り落としてその町を焼くまで、この鳩通信が続けられたという。 参考文献 『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』 日本聖書協会 『鳩(最新版)』 松本 興/博友社 『ギルガメシュ叙事詩』 月本昭男/岩波書店 『世界通信発達史概観』(上巻) 逓信省逓信博物館 |
ベルリン大学教授のカール・リヒャルト・レプシウス(エジプト学者)によると、鳩が人類に飼われていたことを示す一番古い記録はエジプト第五王朝時代(紀元前二四九八年頃~紀元前二三四五年頃)であるという。エジプトの建造物やパピルスに考古学上の痕跡が残されているそうである。また、それより前のエジプト第四王朝時代(紀元前二六一三年頃~紀元前二四九八年頃)の献立表に鳩が載っている、と大英博物館古物部部長のサミュエル・バーチ(エジプト学者)が述べているという。 ☆補足一 マルタン・モネスティエ『図説 動物兵士全書』によると、エジプトで鳩が飼われるようになると、船乗りたちは船上から放鳩して、港に戻る数日前に、自船の帰港を報知できるようになり、その後、この鳩による通信法は、フェニキアやキプロスをはじめとする、古代のあらゆるところの船団で、まねされたという。 ☆補足二 船に鳩が積まれているからといって、それは必ずしも伝書鳩であるとは限らない。船上から鳥を放つと、鳥は陸地に向かって飛んでいくので、それを目印にして陸地の方角を知る方法がある。 つまり、古代の船に鳩がいたとしても、その鳩は伝書鳩などではなく、ただの鳩である可能性がある。 余談だが、九世紀のバイキングは、船内で鳥を飼っていて、時折、船上からその鳥を放って、航海の安全性を高めたという。 ☆補足三 人類は紀元前に伝書鳩を用いていたといわれているが、それが具体的に、いつからはじまったことなのか分かっていない。 ベルトルト・ラウファー『飛行の古代史』に、以下の記述がある。
また、マルタン・モネスティエ『図説 動物兵士全書』に、以下の記述がある。
このシュメール、すなわち、メソポタミアでの伝書鳩使用については、武知彦栄『伝書鳩の研究』に、以下の記述がある。
ほかには、ノア・ストリッカー『鳥の不思議な生活 ハチドリのジェットエンジン、ニワトリの三角関係、全米記憶力チャンピオンVSホシガラス』に、以下の記述がある。
最後に、フレデリック・E・ゾイナー『家畜の歴史』に載っている記述を、以下に引用する。
上記のフレデリック・E・ゾイナー『家畜の歴史』によると、これより後の、ローマ時代のエジプトで伝書鳩が用いられたという。 最初に述べたとおり、人類がいつから伝書鳩を使翔するようになったのか、はっきりしていないために、論者によって、その開始時期にばらつきがある。 ちなみに、当項では便宜上、紀元前三〇〇〇年頃としているが、これは伝書鳩関係の書に一番多く見られる記述を採用しただけである。根拠があるわけではない。 ☆補足四 『ケンブリッジ 世界の食物史大百科事典2 ―主要食物:栽培植物と飼養動物―』によると、カワラバトの家禽化は六〇〇〇~一万年前に起こったと考えられるという。 また、同書に、以下の記述がある。
参考文献 『種の起源』(上巻) チャールズ・ダーウィン 著 渡辺政隆 訳/光文社 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『シェイクスピアの鳥類学』 ジェイムズ・E・ハーティング 著 関本英一 高橋昭三 訳/博品社 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『鳥の不思議な生活 ハチドリのジェットエンジン、ニワトリの三角関係、全米記憶力チャンピオンVSホシガラス』 ノア・ストリッカー 著 片岡夏実 訳/築地書館 『家畜の歴史』 フレデリック・E・ゾイナー 著 国分直一 木村伸義 訳/法政大学出版局 『ケンブリッジ 世界の食物史大百科事典2 ―主要食物:栽培植物と飼養動物―』 三輪睿太郎 監訳/朝倉書店 |
イスラエルのソロモン王は首都と地方を結ぶ鳩通信網を整備していたといわれている。 ☆補足 小山栄三『比較新聞学』に、以下の記述がある。
一方、上記のような主張を伝説と考える意見もある。 ベルトルト・ラウファー『飛行の古代史』によると、多くの著述家たちは古代ヘブライ人は伝書鳩を知っていたと主張しているが、これに関する直接的な証拠は旧約・新約聖書のどちらにも見当たらないという。 参考文献 『鳩(最新版)』 松本 興/博友社 『The Pigeon』 Wendell Mitchel Levi/Wendell Levi Pub Co 『比較新聞学』 小山栄三/有斐閣 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 |
アッシリアの伝説的な女王セミラミスが伝書鳩を使っていたとの言い伝えがある。セミラミスは、故郷のカナンから取り寄せた鳩と、イシュタル神殿の白鳩を用いて、本国と占領地を結ぶ鳩通信網を整備していたという。 アッシリアの言葉でセミラミスとは「鳩から来た者」を意味する。セミラミスは鳩によって育てられ、その最期も鳩に姿を変えて昇天したといわれている。 ☆補足 白鳩は人為的に作り出されたものと考えられている。シリア、アッシリア、バビロニアなどでは白鳩が好んで飼育され、通信用途にも使われたという。 参考文献 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 |
関口竜雄『鳩と共に七十年』によると、紀元前七七六年の第一回オリンピックで白鳩が放鳩され、これ以後、オリンピックで白鳩が空に放たれるようになったという。 ☆補足 スポーツの開会式や結婚式などでおなじみ、儀式のための放鳩であろうか。 しかし、東京農業大学伝書鳩研究会『伝書鳩の飼い方』をはじめ、いくつかの書籍に、紀元前七七六年の第一回オリンピックで、競技の参加者が伝書鳩を使ってその成績を故郷に伝えた、などと載っている。 儀式のための放鳩か、通信のための放鳩か、よく分からない。 参考文献 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 『伝書鳩の飼い方』 東京農業大学伝書鳩研究会/金園社 |
欧州で最初に鳩通信をおこなったのはギリシャだといわれている。その後、この通信法が普及すると、オリンピックの参加者は鳩を携行して、競技の結果をいち早く出身地に知らせるようになったという。 ☆補足一 武知彦栄『軍鳩』によると、伝書鳩飼育はシリアからギリシャへ、ギリシャからローマへ伝わったという。 ちなみに、武知は、シリアからギリシャに伝書鳩飼育が伝わったのは紀元前五世紀頃と記している。また、ベルトルト・ラウファー『飛行の古代史』も、伝書鳩を指すと思われる最も早期のギリシャの資料は紀元前五世紀の喜劇作家・フェレクラテスの断章の一つに見いだせる、などと記している。しかし、この項では、特に根拠があるわけではないが、マルタン・モネスティエ『図説 動物兵士全書』の記述に従って、紀元前六〇〇年初頭とした。 ☆補足二 昔、ギリシャでは長旅に出るとき、旅人が通信用に鳩を持っていったという。 ☆補足三 『東京朝日新聞』(昭和十五年一月十七日付)の記事によると、古代ギリシャの伝書鳩はオリンピック競技の優勝者の氏名を公開するのに使われていたという。 ただし、今日の伝書鳩とは種類が異なっていたらしい。 ☆補足四 古代ギリシャの抒情詩人・アナクレオン(紀元前五七〇年頃~紀元前四八〇年頃)が、鳩に関する詩を残している。 木村鷹太郎『快楽詩人アナクレオン』より、以下に紹介しよう。
参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『軍鳩』 武知彦栄/横須賀海軍航空隊 『快楽詩人アナクレオン』 木村鷹太郎/松栄堂書店 『鳩たより風船はなし』 荒井第二郎/恵愛堂 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 『東京朝日新聞』(昭和十五年一月十七日付) 東京朝日新聞社 |
ペルシャのキュロス二世(在位、紀元前五五九年~紀元前五二九年)は、その広大な領土内で鳩通信をおこなっていたといわれている。また、このペルシャ以外の地――アッシリア、エジプト、リディア、フェニキアなどでも伝書鳩は利用されていたという。 参考文献 『The Pigeon』 Wendell Mitchel Levi/Wendell Levi Pub Co |
クラウディオス・アイリアノス(一七五年頃~二三五年頃)によると、タウロステネスは、赤紫に染めた布切れ(勝利の象徴)をつけた伝書鳩をピサで放って、故郷アイギナにいる父親に、オリンピックのレスリング競技で優勝したことを伝えたという。 なお、放鳩したのは母鳩で、毛も満足に生えそろっていない仔鳩から引き離している。母鳩は仔鳩に会いたい一心で、ピサからアイギナまでを一日で飛ぶ。 伝書鳩の帰巣性を高める方法が、すでに紀元前から考えられていたことが分かる。 参考文献 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 『ギリシア奇談集』 クラウディオス・アイリアノス 著 松平千秋 中務哲郎 訳/岩波書店 「古代オリンピック レスリング」 ロッドマん http://www.geocities.co.jp/Colosseum/5207/olympia-w.htm |
カルタゴのハンニバル・バルカは、伝書鳩を使って、戦場で通信していたという。 参考文献 『Animals Go to War: From Dogs to Dolphins』 Connie Goldsmith/Twenty-First Century Books ™ |
漢楚戦争において、戦いに敗れた劉邦が項羽軍の追っ手から逃れるために井戸の中に身を隠す。井戸の上に二羽の鳩がいたことから、項羽軍の追っ手はこれを怪しまず、劉邦は敵に見つからずに済む。以降、漢家では元旦の放鳩を年中行事にしたという。 ☆補足一 上記の伝説は『畿輔通志』をはじめ、各書に載っている。 中国人の中には、この二羽の鳩を、劉邦の伝書鳩ではないか、と考える者がいる。また、前漢の張騫と後漢の班超が西域で伝書鳩を使っていた、と推測する者がいる。 しかしながら、どれも確証がなく、伝説の域を出ない。 ☆補足二 劉邦が項羽の追っ手に追われる状況といったら、紀元前二〇五年の彭城の戦いをイメージする。しかし、彭城の戦いであると断定できないので、漢楚戦争の全期間に年を設定(紀元前二〇六年~紀元前二〇二年)した。 ☆補足三 この劉邦の伝説と、よく似た話が日本にもある。 北口三郎『趣味と実用 食用鳩の飼育法』に、以下の記述がある。
中東にも似た伝説があり、多神教徒の追跡者に追い詰められたムハンマドが、洞窟に身を隠した際のエピソードがある。 イスラミックセンタージャパン『ムハンマド(彼の上に祝福と平安あれ)』から該当箇所を引用しよう。
中国、日本、中東と、どれも話が似ている。 原型となった話の特定は難しいが、世界の文化交流の痕跡を、こうした伝説から知ることができる。 ほかにも、鳩によって命拾いする話が世界に存在していると思われる。 参考文献 『畿輔通志』 黄彭年 『鳩』(第三年九月号) 鳩園社 『趣味と実用 食用鳩の飼育法』 北口三郎/大阪食用鳩試験場 『ムハンマド(彼の上に祝福と平安あれ)』 イスラミックセンタージャパン |
ガリア戦争において、その勝利の知らせは、ユリウス・カエサルの放った伝書鳩によって元老院にもたらされたといわれている。 後にカエサルは占領地に鳩舎を作って、情報がいち早く届くようにした。いくつかの民族が結託して反乱を起こせば、カエサルはすぐさま、兵を率いて、ガリアに向かうことができた。また、ガリア人も、そうした影響から、伝書鳩の飼養を覚えたという。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 |
マルクス・アントニウスの軍勢がモデナを包囲する。しかし、モデナ城内にこもるデキムス・ブルトゥスが放った鳩によって、執政官アウルス・ヒルティウスと、ガイウス・ウィビウス・パンサ・カエトロニアヌスの陣営に情報が伝わり、その援軍が到着する。 アントニウスのモデナ攻略は不首尾に終わったという。 ☆補足一 モデナ城内にいるブルトゥスが鳩を放ってヒルティウスらに連絡しただけでなく、彼の援軍としてやってきたヒルティウスも、モデナ城外から鳩を放ってブルトゥスと連絡したようである。 セクストゥス・ユリウス・フロンティヌス『〔新訳〕フロンティヌス戦術書 古代西洋の兵学を集成したローマ人の覇道』に、以下の記述がある。
☆補足二 アントニウスとクレオパトラは、伝書鳩を介して、互いの切ない思いを伝えたという。 往復鳩の起源については、マリー・アントワネットがタンプル塔に幽閉された際の鳩通信(後述)とするのが主流だが、それより以前の、このアントニウスとクレオパトラの鳩通信を往復鳩の起源とする意見もある。 上野修一郎『伝書鳩の飼い方と訓練の仕方』に、以下の記述がある。
☆補足三 大プリニウスによると、ローマの軍用鳩舎は塔の形をした大きなもので、最大で五〇〇〇羽(二五〇〇つがい)を収められ、奴隷が鳩の世話をしたという。 ☆補足四 ローマ人は鳩の血統と品種をいえるほどの鳩好きで、優秀な鳩は法外な値で取り引きされたそうである。 ローマの騎士――ルキウス・アクシウスが、ローマン・ラント種の一つがいを四〇〇デナリウスで売るとの広告を出したといわれている。 ☆補足五 ローマ人は闘技場の勝利者を知らせるために鳩を放ったという。 ☆補足六 ローマ本国と属州を結ぶ鳩通信網が整備されていたといわれている。 また、ローマ軍は、遠征先の各地に鳩舎を建てて、戦況を駅伝式にローマ本国に送り届けたという。 ☆補足七 小山栄三『比較新聞学』に、以下の記述がある。
☆補足八 フレデリック・E・ゾイナー『家畜の歴史』に、以下の記述がある。
☆補足九 ネロ帝(在位、五十四年~六十八年)は、スポーツの結果を友人や親戚縁者に知らせるために鳩を飛ばしたといわれている。 参考文献 『プリニウスの博物誌』(第一巻) 大プリニウス 著 中野定雄 中野里美 中野美代 訳/雄山閣 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『種の起源』(上巻) チャールズ・ダーウィン 著 渡辺政隆 訳/光文社 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 『〔新訳〕フロンティヌス戦術書 古代西洋の兵学を集成したローマ人の覇道』 セクストゥス・ユリウス・フロンティヌス 著 兵藤二十八 訳/PHP研究所 『伝書鳩の飼い方と訓練の仕方』 上野修一郎/金園社 『The Pigeon』 Wendell Mitchel Levi/Wendell Levi Pub Co 『鳩(最新版)』 松本 興/博友社 『伝書鳩』 岩田 巌/科学知識普及会 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 『伝書鳩の飼い方と訓練の仕方』 上野修一郎/金園社 『比較新聞学』 小山栄三/有斐閣 『家畜の歴史』 フレデリック・E・ゾイナー 著 国分直一 木村伸義 訳/法政大学出版局 |
インドで伝書鳩の利用が最も盛んになる。その当時、インドの王たちは、敵の軍隊の動きを知らせるために、通信文を付した鳩を放ったという。 カウティリヤ『実利論』に、以下の記述がある。
参考文献 『実利論』(上巻) カウティリヤ 著 上村勝彦 訳/岩波書店 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 |
ディオクレティアヌス帝(在位、二八四年~三〇五年)の時代、ローマ軍は伝書鳩を伝令として使っていたという。 ☆補足 伝書鳩飼育の伝播経路は、シリアからギリシャへ、ギリシャからローマへ、というものであったといわれている。そして、ベルトルト・ラウファー『飛行の古代史』によると、伝書鳩飼育の伝播はローマ止まりで、北ヨーロッパにまで伝わらなかったという。 ラウファーは、『飛行の古代史』に、こう記している。
参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 |
東ローマ帝国のユスティニアヌス一世(在位、五二七年~五六五年)の治世下、フォティウスという百人隊長がいたが、彼は偵察のときに数羽の鳩を放って、その様子を見守ったという。鳩が落ち着いて整然と飛んでいれば敵はいない、そうでなければ敵に備えよ、と判断したといわれている。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 |
エルサレムとアッコを包囲したイスラム教徒の軍隊が伝書鳩を用いたという。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 |
王仁裕の『開元天宝遺事』によると、唐代の宰相で詩人の張九齢(六七八年~七四〇年)は、若い頃に伝書鳩を飼っていて手紙のやり取りをしていたという。 張は鳩のことを「飛奴」と呼んでいたといわれている。 ☆補足一 東洋史学者・桑原隲蔵の著書『蒲寿庚の事蹟』に、以下の記述がある。
☆補足二 『文芸倶楽部』(第八巻第九号)に掲載された読み物「伝書鳩の話」(作・胡蝶園)に、以下の記述がある。
☆補足三 中国の鳩飼養の歴史はかなり古い。鳩通信に関しても、この張九齢の話が伝わっているように、すでに唐代に伝書鳩を用いていた。しかし、中国の鳩術は、世界一とは言い難い。 武知彦栄『伝書鳩の研究』によると、以下の理由が関係しているらしい。
また、羅信耀『続 北京の市民』に、以下の一文がある。
☆補足四 創作(戯曲)ではあるが、唐に渡ったことで知られる阿倍仲麻呂が伝書鳩を使翔している。 軍人会館事業部『戦友』(第二八九号)に掲載された記事「国防と伝書鳩(上)」(作・沢口長助)に、以下の記述がある。
入唐した阿倍仲麻呂は張九齢と会っているはず、というイメージから、この伝書鳩の話が創作されたように考えられる。 ☆補足五 清朝の話になってしまうが、香港に外国(イギリス、フランス、アメリカなど)から荷物が到着すると、中国の商人は鳩を放って、そのことを広東の取引先に知らせたという。 また、北京に電話がなかった頃、中国の都市にある銀行が満州の銀行に向かって鳩を放ち、外国為替の相場表を送ったといわれている。 参考文献 『開元天宝遺事』 王仁裕 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『桑原隲蔵全集』(第五巻) 岩波書店 『文芸倶楽部』(第八巻第九号) 博文館 『戦友』(第二八九号) 軍人会館事業部 『続 北京の市民』 羅信耀 著 式場隆三郎 訳/文芸春秋社 「中国兵法」 ふくら http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3816/ 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 |
トゥール・ポワティエ間の戦いにおいて、フランク王国のカール・マルテルがイスラム軍(ウマイヤ朝)を破った吉報は伝書鳩によってもたらされたといわれている。伝書鳩は筒状に巻いた薄いパピルスを運び、そこには「Saraceni-Obtrite」という二つの言葉が記されていたという。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 |
カイロに二〇〇〇羽の伝書鳩がいて、スルタンは旅の途中、携行している鳩籠から鳩を放って命令を伝えたという。 ☆補足 上記の一文は、マルタン・モネスティエ『図説 動物兵士全書』の記述をもとに記す。 臨時軍事調査委員『英、仏軍ノ軍用鳩ニ就テ』にも、同じような記述がある。 それによると、一二八八年、エジプトのカイロの通信所には一九〇〇羽の伝書鳩がおり、アル・マクリージ(一三六四~一四四二)によれば、王は旅行の際、常に一籠の伝書鳩を携行し、これを命令伝達のために用いたという。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A04017276400、単行書・陸乙七四・英仏軍ノ軍用鳩ニ就テ(国立公文書館)」 |
アッバース朝の第五代カリフ――ハールーン・アル・ラシード(在位、七八六年~八〇九年)は、鳩が大好きで、鳩に慰められたという。 ☆補足 ハールーン・アル・ラシードは、アッバース朝の最盛期のカリフで、『千夜一夜物語』にも登場する。 その『千夜一夜物語』の中に、ハールーン・アル・ラシードが大好きな、鳩の出てくる話がいくつかある。 分けても、以下の二つの物語は、普通の鳩ではなく、伝書鳩が登場する。 『オマル・アル・ネマーン王とそのいみじき二人の王子シャールカーンとダウールマカーンとの物語』 『「女ぺてん師ダリラ」とその娘の「女いかさま師ザイナブ」とが、「蛾のアフマード」や「ペストのハサン」や「水銀のアリ」とだましあいをした物語』 参考文献 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 『千夜一夜物語』(全十三巻) 豊島与志雄 渡辺一夫 佐藤正彰 岡部正孝 訳/岩波書店 |
唐代の長慶年間に成立したといわれている、李肇の『唐国史補』によると、師子国(ししこく。セイロン)の船では通信用の白鳩を飼っていて、それが数千里であっても、よく飛んで帰ったという。 ☆補足一 銭易の『南部新書』にも同様の記述がある。 ☆補足二 中国においては、白髪三千丈という言い方があるように、物事を大げさに述べる傾向がある。程度が甚だしいさまを伝えるための表現である。 つまり、『唐国史補』の文中に、白鳩が数千里を飛ぶ、などと書かれていても、はるか遠くにまで鳩は飛んでいける、との表現だと思われる。 ただし、中国の里を四、五〇〇メートル、数千里を三千里とそれぞれ仮定して計算すると、一二〇〇~一五〇〇キロとなる。一般的にいって、伝書鳩の実用通信は数百キロくらいなので、やや不自然な長距離ではあるが、鳩の能力でいったら飛べない距離ではない。 数千里を飛ぶ、という言い方は、白髪三千丈式の誇大表現なのか、それとも、鳩の長大な飛行能力について現実的に述べているのか、筆者(私)には判断がつかない。 参考文献 『唐国史補』 李肇 『南部新書』 銭易 『桑原隲蔵全集』(第五巻) 岩波書店 |
アッバース朝の第八代のカリフであるムータシムは、反乱軍に対する勝利の知らせを伝書鳩から受け取ったという。 参考文献 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 |
段成式(八〇三年?~八六三年?)が、その著書『酉陽雑俎』において、ベルシャの伝書鳩を取り上げる。 それによると、ベルシャの船にはたくさんの鳩が積まれていて、それらの鳩が数千里離れた彼らの故郷に自分たちの無事を伝えたという。 参考文献 『酉陽雑俎』 段成式 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 |
ファティマ朝のカリフ――アジーズ(在位、九七五年~九九六年)は、あるとき、どうしてもバルベク産のサクランボが食べたくなる。 そこで、ヤークーブ・ベン・キリス大臣の手配により、サクランボが一つ入った絹の小袋が計六〇〇袋、用意され、それを六〇〇羽の伝書鳩の脚にそれぞれ結びつける。バルベクで放たれた鳩はカイロに戻り、無事にサクランボを届けたという。 参考文献 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 |
元代に出された、トクトの『宋史』によると、慶歴の頃(仁宗皇帝〔在位、一〇四一年~一〇四八年〕の時代)、歩哨線で伝書鳩が使われていたという。 この伝書鳩に関する『宋史』の記述について、荒井第二郎『鳩たより風船はなし』に、以下の記述がある。
参考文献 『宋史』 トクト 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『鳩たより風船はなし』 荒井第二郎/恵愛堂 |
第一回十字軍において、十字軍がイスラム勢力下のハジャールの砦を攻囲した際、イスラム勢力の伝書鳩が弓矢で射抜かれて、ゴドフロワ・ド・ブイヨンのもとに通信文が渡る。 ゴドフロワ・ド・ブイヨンは攻囲を解くべきか決心がつきかねていたが、イスラム勢力の抵抗が限界に達していて降伏寸前であることが、この通信文によって判明する。 これがきっかけになって戦況は一変、イスラム勢力は敗北を喫する。 ☆補足一 ゴドフロワ・ド・ブイヨンにまつわる上記の一文は、その内容のほとんどをマルタン・モネスティエ『図説 動物兵士全書』に負っているが、武知彦栄『伝書鳩の研究』にも、同じ出来事が載っている。 しかし、両書の内容が一致しない。攻者と防者があべこべになっていて、伝書鳩の墜落理由に関しても、一方は弓矢、一方は猛禽類の襲撃になっている(城塞の名称が「ハジャール」(モネスティエ)「ホックラス」(武知)とそれぞれ異なっているが、これは単にカタカナ表記の相違だと思われる) モネスティエも武知も、何らかの書物に記されている一文をもとに文章を書いているはずである。 その彼らが参考にした書物が別々のものだった、ということなのだろうか。または、同じ原書だったとしても、どちらかが翻訳を誤ってしまった、ということなのだろうか。 何にせよ、はっきりしないので、参考までに、武知の記した一文を以下に引用しよう。
さらなる混乱を招くことになるが、モネスティエや武知の語る話と、これまた異なったバージョンが、ベルトルト・ラウファー『飛行の古代史』に載っている。それによると、トルコの使者が連れてきた伝書鳩によって、籠城軍は援軍が近づいていることを知る。 ベルトルト・ラウファー『飛行の古代史』から、該当文を引用しよう。
☆補足二 キリスト教徒が伝書鳩の軍事的有効性を認識したのが、この第一回十字軍だといわれている。伝書鳩を有するイスラム勢力に、キリスト教徒は常に圧倒されていた。しかし、モネスティエや武知の語る話のように、通信文が暗号化されていなかったことが、かえってイスラム勢力の敗北を招くこともあった。 ちなみに、十字軍は、一〇九九年のエルサレム包囲(第一回十字軍)と一二四九年のダミエット包囲(第七回十字軍)で伝書鳩を使用したという。 ☆補足三 一一三七年、ザンギー朝のイマードゥッディーン・ザンギーの軍勢がバーリンの城塞にこもる十字軍を包囲する。その封鎖は徹底していて、十字軍は外部で何が起こっているのか、全く把握できなかった。しかし、相手が十字軍ではなく、何世紀も前から伝書鳩を飛ばしていたアラブだったら、こんな風にはならなかっただろう。 アミン・マアルーフの『アラブが見た十字軍』に、以下の記述がある(引用文にある「フランク」とは、アラブ側が呼んだ、ヨーロッパ人の総称)
☆補足四 中世ヨーロッパの城には鳩舎が建てられていて、城同士を結ぶ鳩通信網が整備されていた。フランスのネールにある城の鳩舎は一二〇〇羽も収容できたという。 ☆補足五 中世のヨーロッパでは伝書鳩が飼われていた。ロシア、イタリア、フランス、イギリス、スペインなどである。ただし、タカ狩りの特権と同じで、基本的に鳩の飼養は領主に限られた。領主のあずかり知らないところで通信されてはたまらないから当然のことではある。しかし、十六世紀の宗教戦争の頃には、領主の特権が侵食されていて、カトリック、プロテスタントを問わず、人々が伝書鳩を利用するようになる。その風潮が決定的になるのが、一七八九年のフランス革命だったといわれている。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『アラブが見た十字軍』 アミン・マアルーフ 著 牟田口義郎 新川雅子 訳/リブロポート 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『鳩(最新版)』 松本 興/博友社 『伝書鳩』 岩田 巌/科学知識普及会 『The Pigeon』 Wendell Mitchel Levi/Wendell Levi Pub Co |
アッコからカエサレア(カイセリ)に十字軍が進軍したとき、タカに襲われた伝書鳩が陣地に落ちてくる。 伝書鳩の死体を調べると、プトレマイオスの大公がカエサレアの大公に宛てた手紙が見つかる。内容は十字軍の接近を知らせるものだった。 これに十字軍は驚きと喜びの声を上げる。敵の秘密が露見したのは、神のおかげだと思ったからだ。 この手紙は、公爵会議のときと全軍の前で、読み上げられたという。 参考文献 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 |
周密の『斉東野語』に、以下のような話が載っている。 南宋時代、張浚が視察のために曲端の陣営を訪れる。しかし、そこには曲端一人しかいない。張浚は不審に思うが、平静を装って、ある部隊を点検しようと名簿を開く。 すると、曲端は庭に置いてあった籠を開き、一羽の鳩を解き放つ。たちまち、張浚が点検しようとしていた部隊がやってくる。 これに張浚は愕然として、全部見たいと言う。 曲端はさらに五羽の鳩を放ち、指揮下の五つの部隊を呼び寄せたという。 ☆補足一 堤 達也 粂 卯之彦『二年程度 中学漢文和訳自修書』に、以下の記述がある。
☆補足二 二世紀中頃の中国にアラビアの船舶が来航し、その船の中には多数の白鳩が飼育されていた、などと、関口竜雄はその著書『鳩と共に七十年』に記している。しかし、正しくは、「二世紀中頃」ではなく、「十二世紀中頃」だと思われる。宋鳩について語っている文中に「二世紀中頃」と出てくるので、「十二世紀中頃」の「十」が脱落(脱字)して「二世紀中頃」になってしまったのだろう。 参考文献 『斉東野語』 周密 『二年程度 中学漢文和訳自修書』 堤 達也 粂 卯之彦/敬文館 「中国兵法」 ふくら http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3816/ 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 |
江少虞『皇朝類苑』の巻六十一によると、鳩は数千里を飛んでよく帰り、蜀(現在の四川省あたり)の人がこれを都に持っていってそこから放つと十日もたたずに手紙が届いたという。また、船上通信にも鳩が使われていたそうである。 ☆補足 森 克己『日宋文化交流の諸問題』によると、船上の鳩通信は海洋航海者にとって便宜があり、船中でたくさんの鳩が飼われていたという。 同書に、以下の記述がある(朱彧『萍洲可談』の記述を踏まえて、著者の森が述べている)
参考文献 『皇朝類苑』 江少虞 『手紙の歴史』 小松茂美/岩波書店 『日宋文化交流の諸問題』 森 克己/刀江書院 |
平治の乱に破れた源 頼朝は、約二十年間を伊豆の流刑地・蛭ヶ小島で過ごす。 以下に述べる伝説は、この当時の出来事といわれている。 ある日のこと、頼朝が縁先に立って秋の日和を眺めていると、一羽の鳩が飛んでくる。頼朝が鳩を捕まえてみると、「政」の朱印が押してある。これを見た頼朝は吉兆と喜び、和歌を一首したためる。 白鳩にゆかりもつ身の我軒を おとづれくるる汝が優しき 頼朝は、この歌を鳩の脚に結びつけて、空に放つ。 やがて、鳩は飼い主である北条政子のもとに戻る。そして、鳩の脚に付された和歌が頼朝作と知った政子は、非常に懐かしく思う。 後に、頼朝と政子は結婚しているが、この鳩の出来事が二人を結びつけたといわれている。 頼朝が北条氏に味方するようになったのは、鳩のおかげだという。 参考文献 『戦友』(第二八九号) 軍人会館事業部 |
ザンギー朝のヌール・アル・ディーン・マフムードが鳩通信網を整備していたといわれている。領土内にある全ての城と砦に鳩舎があったという。 参考文献 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 |
ペルシャのカリフ――アフマド・ナーセル・アル・ディーン・アラーフが、首都バグダッドと領地を結ぶ鳩通信網を整備していたといわれている。 領地の各地に設けられた鳩舎には鳩係の役人が昼夜兼行で張りつき、伝書鳩の帰りを待つ。伝書鳩はロバによって運ばれ、その輸送先で放たれる。 なお、伝書鳩が携行する薄手の通信紙は、軽い黄金の箱に入れられて、伝書鳩の首に絹のひもで結びつけられる。安全策として、通信文は複写を取って、それを別の鳩が運ぶ。 そうして、放たれたうちの一羽が鳩舎に帰ってくると、速やかにその内容がスルタンに伝わる。スルタンが眠っていても、起こして知らせる決まりになっていた。 ☆補足一 上記の一文は、マルタン・モネスティエの『図説 動物兵士全書』にその内容を負っているが、ジェイムズ・E・ハーティングの『シェイクスピアの鳥類学』という本にも、ほぼ同じことが記されている。 以下に引用しよう。
☆補足二 アフマド・ナーセル・アル・ディーン・アラーフは、伝書鳩に固有の名前と身分をはじめて与える。これは現在の鳩の血統につながる試みだった。 彼は、伝書鳩のくちばしと脚にマーキングして、これに手をつける者を即座に処刑した。通信文の内容を知られないようにするだけでなく、鳩自体を秘匿する意図があったという。 ☆補足三 松本 興『鳩(最新版)』によると、当時、しっかりと訓練された伝書鳩は、金貨一〇〇枚の高値がつけられたという。 ☆補足四 ベルトルト・ラウファー『飛行の古代史』によると、十二世紀末、充分に訓練された、つがいの伝書鳩は、金貨一〇〇〇枚もの値で売れたという。また、一等級の鳩の値段は七〇〇ディナール(金貨)にものぼり、その卵は二十ディナールもの値で売れたそうである。 ☆補足五 旅行者は数羽の鳩を携行して、適宜、それを放って、自宅と連絡したといわれている。また、ラクダの歩く道に沿って、いくつもの鳩舎が建てられたという。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『シェイクスピアの鳥類学』 ジェイムズ・E・ハーティング 著 関本英一 高橋昭三 訳/博品社 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 『鳩(最新版)』 松本 興/博友社 『伝書鳩』 岩田 巌/科学知識普及会 『The Pigeon』 Wendell Mitchel Levi/Wendell Levi Pub Co |
「カンディア島(クレタ島)にトルコ軍上陸」との知らせが伝書鳩によってヴェネツィア共和国に伝わる。 ヴェネツィアの十人委員会は、ガレー船からなる艦隊をカンディア島(クレタ島)に派遣し、トルコ軍を撃退する。 最も適切な時機に艦隊を派遣することができたのは、伝書鳩のおかげだった。 以後、ヴェネツィアは、この業績をたたえるために、数世紀にわたって、サン・マルコ広場で鳩を飼養したという。 ☆補足 上記の一文は、武知彦栄『伝書鳩の研究』と、マルタン・モネスティエ『図説 動物兵士全書』の記述をもとに記す。久留島武彦『長靴の国』にも、ドロマイトの「使い鳩」、という題の短編が載っていて、同じ内容を扱っている。ただし、カンディア島へのトルコ軍上陸を伝書鳩が知らせるのではなく、カンディア島でのヴェネツィア共和国軍(遠征軍指揮官――エンリコ・ダンドロ)の勝利を伝書鳩が知らせるストーリーになっている。 参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『長靴の国』 久留島武彦/丁未出版社 |
チンギス・ハン(在位、一二〇六年~一二二七年)がアジアとヨーロッパを結ぶ、伝書鳩のリレー通信をおこなっていたという。 ☆補足 Andrew D. Blechman『Pigeons: The Fascinating Saga of the World's Most Revered and Reviled Bird』によると、チンギス・ハンの孫のクビライ・ハンも伝書鳩通信をおこなっていたという。 参考文献 『Military Communications: From Ancient Times to the 21st Century』 Christopher H. Sterling/ABC-CLIO 『Pigeons: The Fascinating Saga of the World's Most Revered and Reviled Bird』 Andrew D. Blechman/Grove Press |
アイユーブ朝のスルタン――アル・マリク・アル・サーリフは、伝書鳩によって、十字軍とフランス王国・ルイ九世のエジプト上陸を知ったといわれている(第七回十字軍) 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 |
アッバース朝がモンゴル帝国によって滅ぼされる。 これにより、アッバース朝が整備してきた、各都市を結ぶ鳩通信網が途絶したという。 参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 |
バフリー・マムルーク朝のスルタン――バイバルス・アル・ブンドクダーリー(在位、一二六〇年~一二七七年)は、首都と各都市を結ぶ鳩通信網を整備していたといわれている。駅ごとに鳩舎があり、伝書鳩がリレー式に通信文を運ぶ。スルタンの鳩には、しるしがつけられていて、スルタン以外の者が通信文を取り外してはならない決まりになっていた。そのため、アラビア人は、鳩のことを「王たちの天使」と呼んだという。 参考文献 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 |
モンゴル軍がバグダッドの北西にある町モスルを包囲する。このとき、鳩が飛んできて、モンゴル軍の投石器にとまって、休む。 モンゴル軍が鳩を捕らえると、通信文を携行していて、それはモスルに援軍が近づいている、との内容だった。 これにより、モンゴル軍は、モスルにやってくる敵軍に軍勢を差し向けることができたという。 参考文献 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 |
一二五九年、モンゴル帝国の皇帝モンケによって、常徳が西域に派遣され、劉郁がこれに随行する。 そして、この年、常徳の紀行録を『西使記』として、劉郁がまとめる。 『西使記』の中に、千里も離れた場所に手紙を運ぶペルシャの鳩に関する記述がある。 参考文献 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 |
マムルーク朝のスルタン――カラーウーンは、ホムスの戦いでモンゴル軍を撃破する。このとき、カラーウーンは、撤退するモンゴル軍に徹底的な追撃をかけ、ユーフラテス川沿いにいた軍勢に伝書鳩で知らせて、敵軍の渡河を阻止したという。 参考文献 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 |
ヨーロッパの事業家、商人、仲買人が古代エジプトの漁民にならって、船に鳩を積み込む。陸地が見えると、鳩を放って、帰りを伝えたという。 ☆補足 トルコの船も同様に、鳩を放って、アレキサンドリア港の近くにいることを陸地に伝えた。また、アレッポにあるイギリス商館は、伝書鳩を用いて、商船と連絡を取った。 サン・マロ、ダンケルク、オーステンデの海賊は、船に鳩を積み込んで沖合を偵察した。めぼしい目標が見つかると、位置、方角、船の武装状況を記した紙片を鳩に付して放つ。これを受け取った、港にいる海賊は、この船を襲撃すべきか検討したという。 なお、以上の一文(補足)は、マルタン・モネスティエの『図説 動物兵士全書』にその内容を負っているが、時期が記されていないので、はっきりした年代は分からない。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 |
アフリカの隊商が鳩通信をおこなっていたという。 参考文献 『The Pigeon』 Wendell Mitchel Levi/Wendell Levi Pub Co |
フランシスコ会の修道士――サイモン・セミオンがアレクサンドリアにやってくると、その到着の知らせが伝書鳩によって、カイロのスルタンに伝わる。 スルタンの伝書鳩は、各都市に配置されていて、何か報告事項があると、このように放鳩されたという。 参考文献 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 |
陶宗儀が『南村輟耕録』(全三十巻)を出版する。巻二十四に、子供が伝書鳩を打ち落とすと羽毛の間に手紙が見つかる話が載っている。 参考文献 『南村輟耕録』 陶宗儀 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 |
ドイツの巡礼者――フォン・ボドマンがアレクサンドリアに近づくと、ボドマンの乗船している船に係官が乗り込んできて、積み荷を取り調べる。 係官はリストを書き上げると、それを伝書鳩に付して飛ばす。 伝書鳩は、バビロンのソルダ王の宮殿に飛んでいったという。 参考文献 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 |
明代に出された、黄仲昭の『八閩通志』によると、船乗りが鳩を籠に入れて持っていき、用があると、その鳩に手紙を付して船上から放ったという。この鳩は「舶鴿」と呼ばれたそうである。 参考文献 『八閩通志』 黄仲昭 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 |
ジョン・マンデヴィル(?~一三七二年十一月十七日)が著したとされる『東方旅行記』によると、シリアやその周辺の国々では、二ヶ国が交戦しているときや、他部隊が城や都市を包囲しているときは、使者を送るのではなく、首に手紙を結びつけた鳩を放つという。鳩は他部隊に手紙を運ぶと、再び、もとのすみかに戻ってくるそうである(往復通信か?) ☆補足一 著者のマンデヴィルは、さまざまな時代の資料を集大成して本書を記している。したがって、いつの時代の話なのか定かでない(十四世紀ではない可能性がある) ☆補足二 紀元前の話になるが、中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十八年六月号)に掲載された記事「家鳩と文化」(作・日下部 照)によると、ギリシャの史家・クセノポンは、以下のように述べているという。
参考文献 『東方旅行記』 ジョン・マンデヴィル 著 大場正史 訳/平凡社 『普鳩』(昭和十八年六月号) 中央普鳩会本部 |
アル・ダミリ(一三四四年~一四〇五年)が、その著書『動物の生活』の中で、伝書鳩について述べる。 それによると、伝書鳩は一〇〇〇リーグ離れたところから放たれても帰ってきて、ときに捕まって十年以上たったとしても、自分の故郷を覚えていて、そこに戻ることを望むという。 参考文献 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 |
大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十五年七月号)に掲載された随筆「霊翼気焔」(作・喜多山省三)に、以下の記述がある(一部の誤字を修正済み)
なお、『東国輿地勝覧』とは、李氏朝鮮で編纂された文化史的地誌のことである。 ☆補足一 関口竜雄『鳩と共に七十年』に、上記随筆の引用文が載っているが、「非刀」のことを誤って「非力」と記している。 ☆補足二 喜多山省三は、日本海軍の大佐で、海軍軍鳩研究の権威。中央普鳩会および名鳩薦彰会顧問。大東亜伝書鳩総連盟発起人の一人で役員を務める。その趣味は広く、動物に精通し、尺八の名手でもある。著書に『伝書鳩の話』がある。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年七月号) 大日本軍用鳩協会 『普鳩』(昭和十七年六月号) 中央普鳩会本部 『鳩』(第三年十月号) 鳩園社 『北国の鳩界』 佐々木 勇 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 |
ティムール朝フェルガーナ領国の君主――ウマル・シャイフ・ミールザーが、絶壁の上に建つアフスィ城の鳩舎で鳩の世話をしていると、突如、鳩舎が倒壊する。ウマル・シャイフ・ミールザーは、鳩舎もろともシル川に落下し、三十九歳の若さで命を落とす。 参考文献 『バーブル ムガル帝国の創設者』 間野英二/山川出版社 『バーブル・ナーマ1 ムガル帝国創設者の回想録』 バーブル 著 間野英二 訳注/平凡社 |
ルドヴィーコ・アリオストが叙事詩『狂えるオルランド』を出版し、作品内に伝書鳩を登場させる。 アストルフォ公が巨人のオッリロを討伐すると、ダミエッタの領主は、その朗報を伝書鳩に付して空に放つ。たちまち、鳩はカイロに舞い降り、そしてまた、別の鳩によって、オッリロの死が逓伝される。 こうして、数刻たたないうちに、エジプト中にオッリロ討伐の報が伝わる。 参考文献 『狂えるオルランド』(上巻) ルドヴィーコ・アリオスト 著 脇 功 訳/名古屋大学出版会 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 |
フランソワ・ラブレーが『第四の書』(ガルガンチュワとパンタグリュエル)を出版する。 この本の中に、ガルガンチュアの鳩舎に、パンタグリュエルの放った伝書鳩が帰ってくるシーンがある。 ガルガンチュアは、伝書鳩の脚に白いリボンが結ばれていることを聞くと、パンタグリュエルの無事を知って安心する。 これがもし、伝書鳩の脚に黒いリボンが結ばれていたら、パンタグリュエルの身に困難が生じていることをあらわす。 ガルガンチュワとパンタグリュエルは、白のリボンと黒のリボンの意味を事前に示し合わせていたのだ。 参考文献 『第四の書 ガルガンチュアとパンタグリュエル4』 フランソワ・ラブレー 著 宮下志朗 訳/筑摩書房 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 |
ムガル帝国のアクバル大帝(在位、一五五六年~一六〇五年)が未開の領土内を巡視するときには、一万羽~二万羽のタンブラー鳩を連れて、適宜、それを放鳩して、現在の位置を本国に知らせたという。これはアクバル大帝の身の安全を図るためであったといわれている。 ☆補足一 上記の一文は、関口竜雄『鳩と共に七十年』の記述をもとに記す。 しかし、『愛鳩の友』(昭和三十四年四月号)に掲載された記事「古今東西(5)」(作・関口竜雄)には、アクバル大帝は二〇〇〇羽~二五〇〇羽くらいのタンブラー鳩を連れていった、などと載っている。 鳩数がだいぶ食い違っているが、どちらの記述が正しいのか不明。 ☆補足二 十六世紀にオランダやベルギーで鳩の飼育が流行するが、この当時、ペルシャやインドから、たくさんの鳩がヨーロッパに輸出されたという。 ☆補足三 通信文を付すのではなく、色分けした二種の伝書鳩を使い分けることによって、それを一種の信号とするやり方がある。 ひろ さちや 監修 松波健四郎 河野亮仙 編『古代インド・ベルシァのスポーツ文化』に、以下の記述がある。
参考文献 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 『愛鳩の友』(昭和三十四年四月号) 愛鳩の友社 『古代インド・ベルシァのスポーツ文化』 ひろ さちや 監修 松波健四郎 河野亮仙 編/ベースボール・マガジン社 |
八十年戦争(オランダ独立戦争)において、フェリペ二世のスペイン軍に包囲された都市ハールレムが、オラニエ公ウィレムの信書を伝書鳩から受け取る。 ☆補足 このときに用いられた伝書鳩はバガデッテン鳩(オランダ人が最初にバグダッドから輸入した鳩)だったという。 参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『伝書鳩』 岩田 巌/科学知識普及会 |
八十年戦争(オランダ独立戦争)において、フェリペ二世のスペイン軍に包囲された都市ライデンが、オラニエ公ウィレムの信書を伝書鳩から受け取る。 実はこのとき、ライデンは、スペイン軍の包囲にたまりかねて降伏する寸前だった。しかし、徒歩でわずか二時間ほどのところにオラニエ公ウィレムの援軍が近づいていて、堤防を決壊させてスペイン軍を撃退しようとしていた。このことを鳩によって知ったライデンは、がぜん、息を吹き返し、都市の防衛に成功する。 戦後、オラニエ公ウィレムは、この偉業をたたえて、国家が鳩たちの面倒を見るように命じる。鳩たちが死んだあとは剥製にしてライデン市庁舎に飾る。 ☆補足 このときに用いられた伝書鳩はバガデッテン鳩(オランダ人が最初にバグダッドから輸入した鳩)だったといわれている。 参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 『伝書鳩』 岩田 巌/科学知識普及会 『The Pigeon』 Wendell Mitchel Levi/Wendell Levi Pub Co |
ユグノー戦争において、フランス国王・アンリ四世の軍勢がパリを包囲する。その間、パリは伝書鳩で外部と通じたという。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 |
李時珍の『本草綱目』が出版される。 張九齢が鳩を伝書の目的で使用していたことを記している。 ☆補足 日本には、一八〇三〔享和三〕年刊の『本草綱目啓蒙』がある。これは、小野蘭山が『本草綱目』について講義した内容を、孫の小野職孝と門人が整理したものである。 この『本草綱目啓蒙』に、「鴿ハ主人ノ家ヲヨク覚ヘタル者ユヘ遠方ニ行クト雖モ放ツ寸ハ必ソノ家ニ帰ル」と載っている。ほかに、張九齢が鳩を伝書の目的で使用していたことや、『八閩通志』と『広東新語』の鳩に関する記述を紹介している。 参考文献 『本草綱目』 李時珍 『本草綱目啓蒙』 小野蘭山 |
ロンドンからコンスタンティノープルへ渡航したトマス・ダラムが、現地で伝書鳩通信を目にする。ダラムが商店の中で話をしていると、白鳩が舞い降りて、一人の商人に手紙を届ける。手紙には、四時間前の十二ペンスの商売のことが書かれていたという。 参考文献 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 |
オランダの航海者――ヤン・ハイヘン・ファン・リンスホーテンは、その著書『東方案内記』において、広大な領土を有するオスマン帝国が鳩通信網を利用して支配下の国々に命令を伝えたり、報告を受けたりしていることを記している。 リンスホーテンによると、ときに鳩は一〇〇〇マイル以上飛ぶことがあるという。また、親しくしていたヴェネツィア人から数羽の伝書鳩を見せてもらったことがあり、そのヴェネツィア人は、鳩を見せ物にするためにインドまで持ってきたとのことである。 ☆補足 十六世紀末頃からヨーロッパ諸国は盛んに海外進出に乗り出し、この頃からオランダやベルギーで伝書鳩の品種改良が熱心におこなわれる。 参考文献 『東方案内記』 ヤン・ハイヘン・ファン・リンスホーテン 著 岩生成一 訳注 渋沢元則 訳 中村孝志 訳注/岩波書店 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 『鳩(最新版)』 松本 興/博友社 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 |
鳩に関する名著『鴿経』が張万鍾によって書かれる。 『伝書鳩の研究』の著者・武知彦栄は、『鴿経』の内容について、こう述べている(文中にある「彼等」とは中国人のこと)
☆補足 ほかに明代の書では、都卬の『三余贅筆』に伝書鳩が登場する。 逓信省逓信博物館『世界通信発達史概観』(上巻)に、以下の記述がある(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『鴿経』 張万鍾 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『叢書集成初編 三余贅筆 病逸漫記 琅琊漫鈔』 中華書局出版 『世界通信発達史概観』(上巻) 逓信省逓信博物館 |
十年以上、中東を旅したことで知られる、ピエトロ・デッラ・ヴァッレは、現地で伝書鳩通信を利用する。 アジアでは昔から鳩がこのように使われている、とヴァッレは書き残す。 参考文献 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 |
イエズス会の神父――フィリップ・アヴリルが、アレクサンドリア~アレッポ間の伝書鳩通信について述べる。 それによると、アレクサンドリアにどのような商品が船便で着いたのかアレッポに知らせるために、雛鳩から引き離してきた親鳩をアレクサンドリアから放つそうである。 雛鳩に会いたい親鳩は三時間足らずでアレッポに飛んで帰り、その首に付された通信文を届けるという。 ☆補足 武知彦栄『伝書鳩の研究』に、以下の記述がある(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 |
一六七二年~一六八一年にかけて東洋を旅行したジョン・フライヤーは、インド北西部の都市スーラトについて著書に記している。 その中で、鼻が厚く突き出た茶色の伝書鳩が手紙を運ぶ、と述べている。 参考文献 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 |
ベルギーで伝書鳩の飼養が注目される。 ☆補足 ベルギーの伝書鳩飼養に関する技術は、やがて、フランスとドイツに伝播する。 これが十九世紀初頭になると、ベルギー、オランダ、フランスで、鳩レースがおこなわれるようになる。 参考文献 『飛行の古代史』 ベルトルト・ラウファー 著 杉本 剛 訳/博品社 |
大坂豊武座の浄瑠璃作者・並木宗輔が『丹生山田青海剣』の中に、光源氏の命が危うい、という内容の文を運ぶ鳩を登場させる。 この鳩は、源 満仲が加茂明神に参詣した帰り道、乗り物の中に飛び込んできたことから飼養される。 参考文献 『義太夫節浄瑠璃未翻刻作品集成 37 丹生山田青海剣』 並木宗輔/玉川大学出版部 |
この頃からベルギーとオランダで伝書鳩の飼養が盛んになる。 ☆補足一 中世の頃、基本的に鳩の飼養は領主に限られていた。しかし、十八世紀にまで時代が下ると、原則、鳩の飼養は全ての者に許される。フランス革命がその風潮を決定づけたといわれている。 偕行社『偕行社記事』(第四十一号)に掲載された記事「使鳩ノ歴史飼養及教育」に、以下の記述がある(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
武知彦栄『伝書鳩の研究』にも同様の記述がある。 以下に引用しよう(一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
ブログ記事「クイズの答えは鳩小屋でした」によると、十七世紀末、フランス全土には四万二〇〇〇の鳩舎があったという。中世に作られた鳩舎は少なくて、十七、八世紀にその多くが建てられたそうである。フランス革命の後、誰もが鳩舎を持てるようになるが、現在、フランスの田舎でよく見られる鳩舎は十九世紀に作られたものが多いという。 ☆補足二 松本 興『鳩(最新版)』によると、十七世紀~十九世紀にかけて伝書鳩の飼育熱が全ヨーロッパに流行したという。その中でもベルギーが常に他国をリードし、現在、世界中で飼われている伝書鳩は全てベルギー種がもとになっているそうである。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『偕行社記事』(第四十一号) 偕行社 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 「クイズの答えは鳩小屋でした」 Otium(オティウム) https://otium.blog.fc2.com/blog-entry-2062.html 『鳩(最新版)』 松本 興/博友社 |
大坂町奉行所が以下のお触書を出す(大阪市『明治大正 大阪市史 第七巻 史料編』より引用)
当時、大坂の米商人・相模屋又市は、堂島の米市場の相場をいち早く知るために、堺~堂島間(直線距離で四里弱)を伝書鳩で通信し、利益を上げていた。 堂島の米市場は、もっぱら飛脚を通信機関としていたが、相模屋又市の行為は禁令を犯していた。いわゆる、抜き商いである。 そこで、前掲のようなお触書が出て、相模屋又市はお上にとがめられる。 ちなみに、一七七七(安永六)年三月十三日にも、相模屋又市は身ぶりなどによって米相場の高下を伝える、抜き商いをおこなったとして、お上にとがめられている。 ☆補足一 日本鳩レース協会『レース鳩』(平成十七年六月号)に掲載された記事「日本のレース鳩の夜明け」によると、元禄年間に中国より南京鳩が導入されたと資料に記述があるという。 ☆補足二 相模屋又市が使翔した伝書鳩は、オランダ人が持ち込んだものと考えられている。 ☆補足三 黒岩比佐子『伝書鳩 もうひとつのIT』に、「三月四日」にお触書が出たと載っているが誤り。 正しくは、「三月十三日」である。 ☆補足四 富田溪仙『無用の用』に、以下の記述がある。
参考文献 『明治大正 大阪市史 第七巻 史料編』 大阪市/日本評論社 『江戸時代の交通文化』 樋畑雪湖/刀江書院 『大坂城と城下町』 渡辺武館長退職記念論集刊行会/思文閣出版 『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 『愛鳩の友』(昭和三十一年十月号) 愛鳩の友社 『大坂町奉行所御触書総目録』 黒羽兵治郎/清文堂 『レース鳩』(平成十七年六月号) 日本鳩レース協会 『無用の用』 富田溪仙/人文書院 『愛鳩の友』(昭和三十六年七月号) 愛鳩の友社 『伝書鳩 もうひとつのIT』 黒岩比佐子/文芸春秋 |
浮田幸吉という表具師が鳩型の滑空機を作って空中を飛行する。竹内正虎大佐によると、天明五年の出来事ではないか、とのことである。 菅 茶山『筆のすさび』に、以下の記述がある(『日本随筆大成 〈第一期〉1』より引用)
参考として、上記の引用文に手を加えたものを以下に記す。 備前岡山の表具師・浮田幸吉という者は、一羽の鳩を捕らえて、その身の軽重や、羽翼の長短を計り、自分の身の重さを掛けくらべて、自ら羽翼を製作し、からくりを設けて、胸の前で操って飛行する。地からすぐに揚がることはできなくて、屋上から羽ばたいて飛び出す。ある夜、郊外を馳せ回り、ある場所で野宴しているのを下し見て、もしかしたら知っている人がいるかもしれないと近寄って見ようとしたところ、地に近づくと風力が弱くなって、思わず落ちたものだから、その男女は驚いて叫び、逃げてしまう。あとに酒肴が残っているので幸吉は思う存分飲み食いして、また飛び去ろうとするが、地より立ち揚がるのは難しいので、羽翼を収めて歩いて帰る。後にこのことが明らかになり、町奉行所に呼び出され、人のしないことをするのは、慰みとはいえ、一つの罪であるとして、両翼を取り上げ、その住んでいる町を追放されて、他の町に移り替えられる。一時の笑い話ではあるが、珍しいことなので書き記す。寛政の前のことである。 参考文献 『日本随筆大成 〈第一期〉1』 日本随筆大成編輯部/吉川弘文館 『航空五十年史』 仁村 俊/鱒書房 『江戸随想集 古典日本文学全集 35』 吉川哲史 森 銑三 杉浦明平 岩田九郎 訳/筑摩書房 |
フランス革命によって、タンプル塔に幽閉された王妃――マリー・アントワネットが、あらかじめ訓練された往復鳩を使って王党派と連絡を取り合ったという。 偕行社『偕行社記事』(第五四九号)に掲載された記事「鳩ノ往復通信ニ就テ」(作・軍用鳩調査委員)に、以下の記述がある。
☆補足一 『伝書鳩の研究』の著者である武知彦栄は、
と、述べている。 一方、『図説 動物兵士全書』の著者――マルタン・モネスティエは、
と、疑問を呈している。 『伝書鳩 もうひとつのIT』の著者である黒岩比佐子は、
と、両者の中間点に立った意見を述べている。 ちなみに、筆者(私)はモネスティエの意見に同意する。あらかじめ訓練された往復鳩がタンプル塔にいたというのなら、そのような鳩や鳩舎は真っ先に処分されなければならない。外部との連絡を許せば、王妃奪回の密議の場を提供することになる。 マリー・アントワネットにまつわる伝説は多いが、これもその一つだと思われる。 ☆補足二 鳩の飼育は領主や聖職者などの特権階級に限られていて、鳩を殺すことも禁止されていた。しかし、鳩は鳩舎を飛び立つと、近隣の農地の穀物を餌として食べるので、これが農民にとって、深刻な問題だった。 『ケンブリッジ 世界の食物史大百科事典2 ―主要食物:栽培植物と飼養動物―』に、以下の記述がある。
ちなみに、ブログ記事「クイズの答えは鳩小屋でした」によると、フランスの貴族は、約一ヘクタールの領土に対して、一つがいの鳩を飼ってよいことになっていたという。すなわち、城にある鳩舎の巣房を数えると、その領土の広さが分かる仕組みになっていた。また、立派な鳩舎は権威の象徴になることから、装飾性の強い鳩舎もあるという。 参考文献 『偕行社記事』(第五四九号) 偕行社 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『伝書鳩 もうひとつのIT』 黒岩比佐子/文芸春秋 『ケンブリッジ 世界の食物史大百科事典2 ―主要食物:栽培植物と飼養動物―』 三輪睿太郎 監訳/朝倉書店 「クイズの答えは鳩小屋でした」 Otium(オティウム) https://otium.blog.fc2.com/blog-entry-2062.html 『鳩(最新版)』 松本 興/博友社 『伝書鳩』 岩田 巌/科学知識普及会 |
フランスではじめて鳩レースが開催される(パリの市門から鳩を放す) ☆補足 十九世紀に入ると、ヨーロッパの各地で鳩の飼養が熱を帯びる。同時期にバイエルン、ザクセンなどでも鳩レースがおこなわれる。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 |
曲亭馬琴が『常夏草紙』を出版する。 劇中に、男山(おとこやま)という名の鳩が登場し、鳥田荘二時主(とりたのしょうじときぬし)の娘・撫子(なでしこ)の恋文を運ぶ。 参考文献 『常夏草紙』 曲亭馬琴/藤谷崇文館 |
ベルギーのリエージュ州で鳩レースが開催される(ローヌ湖畔から放鳩) ☆補足一 黒岩比佐子『伝書鳩 もうひとつのIT』に、
と、載っている。 しかし、マルタン・モネスティエ『図説 動物兵士全書』には、
と、載っている。 つまり、フランスで一八〇六年に鳩レースが開催されているのなら、一八一一年に開催されたベルギーの鳩レースは世界で初めての鳩レースにはならない、ということになる。 しかし、この問題に決着をつけるのは難しい。 いわゆる「元祖」を巡る論争は、どんなものであれ、紛糾する傾向がある。 「鳩レース」の定義一つ取っても、極論すれば、二人の愛鳩家が鳩を放てば鳩レースが成立する、と考えることもできる。その定義を採用すれば、ほぼ間違いなく、古代のエジプトで、二人の男がたわむれに、それぞれが所有している鳩を放して競争しているはずだから、それを世界初の鳩レースとすることも可能だ。もちろん、無制限に等しい何でもありの定義を振りかざす気は毛頭ないが、そう考えることもできるということである。また、何羽以上参加、なにがし公の臨席、何キロ以上の長距離など、どれくらいの規模、格式、距離などをもって、おおやけの鳩レースとするのか、個人の見解が分かれるところでもある。 ちなみに、黒岩比佐子は、関口竜雄『鳩と共に七十年』に載っている記述をもとに、このベルギーで開催された鳩レースを世界初だと述べているように思われる。しかし、そのもとになった『鳩と共に七十年』の記述を確認すると、明確にこのベルギーでの鳩レースが世界初であるとは記していない。関口の記述を用心深く読むと、「単にベルギーでは初めてのレース」という意味にも取れる。 参考として、関口竜雄『鳩と共に七十年』から該当箇所を引用しよう。
一方、NHK衛星第2テレビジョンで放送されたドキュメンタリー番組「飛べ 世界一速く ~ベルギー・ハトレースにかける男たち~」において、ナレーター役の吉田日出子は、以下のように語っている。
☆補足二 ウェブサイト「Encyclopedia Britannica」の「Pigeon racing」の項によると、スポーツとしての鳩レースはベルギーではじまり一八一八年に一六〇キロメートルを超える最初の長距離レースがおこなわれたという。 また、『愛鳩の友』(昭和五十年十一月号)に掲載された記事「堂々たる鳩歴50年」(作・関口竜雄)によると、鳩レースの歴史においては十九世紀のはじめ、ドイツのマイン河流域にあるフランクフルトで鳩を放したという記録が残っているという。 参考文献 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 『伝書鳩 もうひとつのIT』 黒岩比佐子/文芸春秋 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 ドキュメンタリー番組「飛べ 世界一速く ~ベルギー・ハトレースにかける男たち~」 *NHK衛星第2テレビジョン「地球に好奇心」枠で二〇〇二(平成十四)年に放送。 「Encyclopedia Britannica」 https://www.britannica.com/sports/pigeon-racing 『愛鳩の友』(昭和五十年十一月号) 愛鳩の友社 |
六月十八日、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍がワーテルローの戦いで連合軍に敗れる。伝書鳩によって、この情報を一般よりも三日、イギリス政府よりも二十四時間、早く知ったネイサン・ロスチャイルドは、ロンドンの証券取引所で公債を大量に買い占め、大もうけしたという。 ☆補足一 上記の書き方だと、ワーテルローの戦場から、直接、伝書鳩が飛び立ってイギリスに舞い降り、ネイサン・ロスチャイルドにナポレオンの敗報を伝えたように受け取れる。実際、この話はその理解の仕方で紹介されることが多い。ドーバー海峡を挟むとはいえ、ワーテルローとロンドンの直線距離は三五〇キロにすぎないので不自然なことではない。 しかし、別バージョンの話も伝わっている。それによると、六月二十日の未明にネイサン・ロスチャイルドは、ドーバー海峡を横断してイギリスにやってきた快速帆船からフランス軍の敗北を知ったとされる。ワーテルローの戦場から、港のあるオーステンデまで早馬が六時間で情報を伝え、そこから快速帆船がイギリスに向けて出港したのだという。 そして、ここからネイサン・ロスチャイルドはロンドンの証券取引所で役者ぶりを発揮し、いかにもイギリス軍の苦戦を見通しているかのように、コンソル公債を売りに出す。 たちまち、取引所は、ネイサンはイギリス軍の敗報をつかんだに違いない、という雰囲気になって、皆が一斉にコンソル公債を売りはじめる。 コンソル公債は暴落し続けたが、ネイサン・ロスチャイルドは頃合いを見て、今度は一転、コンソル公債を大量買いする。 フランス軍の敗報が証券取引所に伝わる頃には、ネイサン・ロスチャイルドはコンソル公債を底値で買い占め、大金持ちになっていたという。 ☆補足二 ネイサン・ロスチャイルドは、ワーテルローの戦場に情報員を派遣していて、その彼らが逐一、伝書鳩を使って戦況を伝えていたという。それが事実であるならば、先に述べたワーテルロー会戦における伝書鳩の手柄話は、その情報伝達に、一部、鳩が使われていただけ、ということになる。鳩が直接、ワーテルローの戦場からイギリスに情報を届けたのでない限り、早馬と快速帆船に言及しないのは、やや問題がある。 いや、そもそも、伝書鳩の話自体、伝説であるとしてこれを退ける論者もいる。 フレデリック・モートン『ロスチャイルド王国』に、以下の記述がある。
ほかに、デリク・ウィルソン『ロスチャイルド ―富と権力の物語―』に、ワーテルローの戦いにまつわるネイサン・ロスチャイルドの伝説が紹介されている。 以下に引用しよう(引用文にある「N・M」は、ネイサン・メイアー・ロスチャイルドのイニシャル)
横山三四郎『ロスチャイルド家 ユダヤ国際財閥の興亡』に、以下の記述がある。
ちなみに、ネイサン・ロスチャイルドは一八三六年七月二十八日に亡くなっているが、その訃報は伝書鳩によってヨーロッパ中のロスチャイルド事務所に伝わったという。 ☆補足三 俗に「ネイサンの逆売り」などと呼ばれている、この大ばくちについて、『ロスチャイルド自伝』の著者――ギー・ド・ロスチャイルドは、その事実を否定している。ギー・ド・ロスチャイルドは同書において、ワーテルローの前または後の英国の公債の相場はいかなる変化も受けていなかった、などと指摘し、完全な誤りであると述べている。 公債の相場に変化がなければ、確かに「ネイサンの逆売り」など起こらない。しかし、横山三四郎『ロスチャイルド家 ユダヤ国際財閥の興亡』に、以下の記述がある。
☆補足四 武知彦栄『伝書鳩の研究』に、以下の記述がある。
☆補足五 電信の発明以前、ロンドン、パリ、アムステルダムの相場所では伝書鳩を使って相場を知るのが流行したという。 参考文献 『ロスチャイルド家 ユダヤ国際財閥の興亡』 横山三四郎/講談社 『ニュースの商人ロイター』 倉田保雄/朝日新聞社 『ロスチャイルド王国』 フレデリック・モートン 著 高原富保 訳/新潮社 『ロスチャイルド ―富と権力の物語―』(上巻) デリク・ウィルソン 著 本橋たまき 訳/新潮社 『ロスチャイルド自伝』 ギー・ド・ロスチャイルド 著 酒井伝六 訳/新潮社 『通信の歴史 ――理科電話の実験的考察――』 鬼塚史朗/東京図書出版会 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『農業雑誌』(第六十七号) 学農社 『伝書鳩』 岩田 巌/科学知識普及会 『伝書鳩 もうひとつのIT』 黒岩比佐子/文芸春秋 『鳩(最新版)』 松本 興/博友社 |
文政の頃、大阪の商人・播磨屋喜平は、船の積み荷や数量、相場などを、大阪の本店に知らせるために伝書鳩を用いる。 船は数時間で川尻の船着き場に到着するが、船の入港時には、船上から放たれた伝書鳩によって積み荷の情報が事前に伝わっている。播磨屋は、一切の手はずを整えたうえで、船を待ち受けているのである。これにより、播磨屋は人一倍の利潤を上げる。 ☆補足 当時、伝書鳩を用いることは禁止されていたが、播磨屋は大阪城代の知遇を得て、特別にその使用を許可される。 しかし、その後の嘉永年間、堺の商人が米騒動の折に鳩通信によって巨利を得たことが発覚し、全国的に鳩の禁止令が敷かれる。播磨屋はその影響で伝書鳩を使えなくなるが、間もなく、お上の了解を得て、再び鳩を用いるようになる。 また、その頃、兵庫港の淡路屋善左衛門も数隻の回船に伝書鳩を積んで使用し、巨万の富を築く。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和四十九年九月号) 愛鳩の友社 『レース鳩』(平成十七年六月号) 日本鳩レース協会 |
佐藤中陵(佐藤成裕)が『中陵漫録』を出版する。 巻之十四に「飛奴」という話が載っている。 以下に引用しよう(吉川弘文館『日本随筆大成』〔第三期第3巻〕より引用)
参考文献 『日本随筆大成』(第三期第3巻) 吉川弘文館 |
徳川斉朝の隠居により、徳川斉温が九歳で家督を相続し、第十一代の尾張藩主になる。 斉温は鳩を非常に愛し、家臣に命じて数百羽を飼養し、全ての個体に名前をつける。しかし、家臣はこの鳩飼養に苦しみ、また、その飼米(餌)をごまかして不正をする者もいた。ときに侍読の石川魯庵が、物をもてあそびて志を失うの義を述べて、斉温をいさめる。斉温はこの諫言を聞き入れ、最も愛する数羽を除いて、鳩を全て放ったという。 ☆補足 徳川斉温は、侍読に命じて講義をおこなわせ、家臣とともに環座してこれを聞く。斉温は、学問を好み、文教の再興を望んだが、不幸にして二十一歳で早世したため、世間の人はその死を惜しんだという。 参考文献 『名古屋市史 政治編第一』 名古屋市役所 『名古屋市史 人物編第二』 名古屋市役所 『徳川御三家付家老の研究』 小山誉城/清文堂 |
ドイツのアーヘン(鳩の本場である、ベルギーおよびオランダの国境近く)に、幾人かのスポーツファンが集い、ドイツ最初の鳩クラブを結成する。 このクラブは「La Colombe」(伝書鳩の意)と命名され、アドルフ・ツルヘレを中心に活動する。 ツルヘレの熱心な鳩飼養は、当時の鳩飼育に多大な影響を与えたという。 ☆補足 その後、工業化に伴う鉄道網の整備によって、ドイツ全土に鳩飼養が広がる。 参考文献 『愛鳩の友』(平成二十一年五月号) 愛鳩の友社 「Verband Deutscher Brieftaubenzüchter e.V.」 http://web.brieftaube.de/ |
ロンドンの金融街において、伝書鳩を用いた不正な手段で情報を得ている者がいる、伝書鳩の出どころとおぼしきケント周辺にワシやタカなどを配置すべきではないか――。 以上のような内容の記事が、イギリスの新聞『タイムズ』に載る。 ケントには、ロスチャイルド家専用の鳩舎があることから、『タイムズ』は明らかに、ロスチャイルド家の糾弾を意図していたという。 参考文献 『富の王国 ロスチャイルド』 池内 紀/東洋経済新報社 |
伝書鳩でニュースを運ぶ方法が考案される。 ダニエル・クレイグは、ボストンの沖合でヨーロッパからの便船を待ち受け、その船上から伝書鳩を放って、『ニューヨーク・サン』や『ボルチモア・サン』などにニュースを届ける。 参考文献 『ニュースの商人ロイター』 倉田保雄/朝日新聞社 『新聞研究』(昭和五十八年十一月号) 日本新聞協会 |
イギリスの新聞『タイムズ』が英仏を結ぶニュース送信ルートを作り上げる。 方法としては、パリで放たれた伝書鳩がドーヴァー海峡に面した町ブーローニュに舞い降り、ニュースを伝える。次に、船がドーヴァー海峡を渡って、そのニュースをイギリスにもたらす、というものである。 参考文献 『ニュースの商人ロイター』 倉田保雄/朝日新聞社 『新聞研究』(昭和五十八年十一月号) 日本新聞協会 |
ブリュッセル~パリ間、ロンドン~パリ間における鳩通信網を整備したことによって、フランスのアヴァス通信社(一八三五年創業)の名声が高まる。 ベルギーの新聞に載った記事は当日の昼、ロンドンの朝刊に載った記事は当日の午後三時頃、シャルル・ルイ・アヴァス(アヴァス通信社創始者)のもとに送られる。 このアヴァス通信社のスピードに他社は追随できず、アヴァス通信社躍進のきっかけになる。 参考文献 『ニュースの商人ロイター』 倉田保雄/朝日新聞社 |
この年、曲亭馬琴の長編読本『南総里見八犬伝』が完結する。 劇中に、鳩の脚に檄文を結びつけて飛ばすシーンがある。 参考文献 『南総里見八犬伝』(全十巻) 曲亭馬琴/岩波書店 |
アヴァス通信社の使翔する伝書鳩が、アントワープだけで二万四〇〇〇羽を数える。 参考文献 『ニュースの商人ロイター』 倉田保雄/朝日新聞社 |
前年に、ベルリン~アーヘン間、パリ~ブリュッセル間が電信線で結ばれているが、いまだ、ブリュッセル~アーヘン間(約一七〇キロ)に電信線は通じていなかった。 ロイター通信の創始者――ポール・ロイターは、この間の欠落を一部、伝書鳩で埋める。 これは電信線が延びてゆくその年の末まで続く。 ☆補足 上記の一文は、倉田保雄『ニュースの商人ロイター』の記述をもとに記す。 これと似た内容が、中野 明『IT全史 情報技術の250年を読む』に載っている。しかし、ブリュッセル~アーヘン間の距離など、細部の内容がやや異なる。 参考として、『IT全史 情報技術の250年を読む』の記述を以下に引用しよう。
参考文献 『ニュースの商人ロイター』 倉田保雄/朝日新聞社 『IT全史 情報技術の250年を読む』 中野 明/祥伝社 |
ドイツにおいて、同国初の伝書鳩専門誌『Columba』が創刊する。 ☆補足 この数年後、鳩協会を設立しようという機運がドイツ国内で高まる。 参考文献 『愛鳩の友』(平成二十一年五月号) 愛鳩の友社 「Verband Deutscher Brieftaubenzüchter e.V.」 http://web.brieftaube.de/ |
関西の僧侶がベルギーとフランスに視察に行き、そこで入手した伝書鳩を日本に導入する。 ☆補足 小野内泰治『日本鳩界史年表』(1)によると、大政奉還後、鳩使用の禁令も解け、鳩の飼育および使用が自由になったという。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年五月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十九年九月号) 愛鳩の友社 |
普仏戦争において、パリはプロイセン軍の包囲を受ける。 パリは孤立するが、気球と伝書鳩を組み合わせた通信をおこなって、外部との連絡に成功する。 方法としては、伝書鳩を乗せた気球でパリを脱出したら、その気球が降り立った地(または安全な場所)から、信書を付した伝書鳩を放つ、というものである。 約四ヶ月にわたるパリ包囲の中、数十基の気球が打ち上げられる。そのうち、数百羽の伝書鳩が気球に分散して乗せられ、任務を果たす。 ☆補足一 必ずといっていいほど、伝書鳩関係の書物で紹介される、普仏戦争の故事。しかし、パリに戻ってきた鳩数や、普仏戦争中に運ばれた鳩信の数などが、各史料で一致しない。 例えば、マルタン・モネスティエ『図説 動物兵士全書』には、パリをあとにした六十四基の気球のうち四十八基に伝書鳩三五八羽を積み込んだが、パリに戻ってきた鳩は五十羽ほどで、運んできた文書は一〇〇〇通以上の郵便物などとされている。 一方、武知彦栄『伝書鳩の研究』には、パリに戻ってきた鳩は三〇二羽、『愛鳩の友』(昭和四十年四月号)に掲載された記事「普仏戦争と鳩郵便」(作・根岸清治)には、パリ包囲中、全部で十万通の手紙が運ばれ、そのうち六万通が完全に着いた、などと記されている。 東北鳩協会青森支部『伝書鳩』に掲載された記事「伝書鳩の人生に対する利益」(作・和田千蔵)には、普仏戦争中に打ち上げられた気球は六十四基で、この気球に搭載された伝書鳩三六〇羽のうち、パリに戻ってきた鳩は三〇二羽、運ばれた通信は、公文書十五万通、私文書十万通、などと記されている。 一方、武知彦栄『伝書鳩の研究』には、普仏戦争中、鳩が運んだ文書は、公文電報十五万通、私報電報一〇〇万通、郵便為替若干、などと記されている。 ☆補足二 辻本三省『家庭教育 小学生徒』に、以下の記述がある(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
ノーマン・ポルマー トーマス・B・アレン『スパイ大事典』によると、文書などの資料を縮小して撮影することをマイクロドットといい、普仏戦争当時のマイクロドットは、七十ミリメートル四方に三十万字を記すことができ、気球や伝書鳩で敵前線の向こう側に送られたという。 ☆補足三 ブログ記事「鳩と気球―パリ籠城期(1870-71年)における郵政事情(7)」(作・松井道昭)によると、このパリ包囲があった一八七〇年~一八七一年は、寒さが厳しかったために、伝書鳩の帰還率が低下したという。厳冬が頂点に達した一八七一年一月七日は、放たれた六十二羽のうち、パリに帰ってこられたのは、三羽だけだったそうである。 また、寒さ以外にも、銃声と砲声におびえた鳩が失踪することがあり、何羽かの鳩がプロイセン軍の放ったタカに襲われて命を落としたという。 ☆補足四 普仏戦争でフランスが使翔した鳩は、リエージュ種とアントワープ種の混血改良種だった。リエージュ種は軽快で近距離向き、アントワープ種は重厚で長距離向き、とそれぞれ特徴があり、ベルギー人が生み出す。 ☆補足五 パリから飛び立っていく気球に対し、プロイセン軍はこれを撃ち落とすための大砲を開発する。 水野大樹『図解 火砲』に、以下の記述がある。
☆補足六 普仏戦争によって伝書鳩の有用性が各国に認められ、戦後急速にその飼養と研究が進められる。 例えば、デンマークでは、官民一体の体制を敷く。軍用鳩舎こそ設置していないが、一朝ことあらば、鳩協会が鳩を軍事提供することを国家に誓っている。 この鳩協会はデンマーク王室の庇護を受けていて、その名誉会長職を皇族が務める。また、最も速い伝書鳩を持つ飼養者には、陸軍大臣から褒賞が与えられる。 民間の私企業の話になるが、数百の群島で構成されるフィジーでも伝書鳩が利用される。 オーストラリアの船がフィジーの島々を訪れて、バナナを積み込もうとする際、バナナが出荷されておらず、無駄足を踏むことが多かった。また、バナナは傷みやすいために、船に積み込む間際まで木に実らせておくのだが、収穫後のタイミングを計って、うまく船がやってこないと、せっかく採取したバナナを出荷できずに、その全てを廃棄しなければならなかった。フィジーでの伝書鳩通信は、この種の被害を免れるために導入され、食品ロス防止に貢献する。 ☆補足七 普仏戦争中、フランス軍の一羽の軍用鳩が、プロイセン軍のフレデリック・シャルル親王の軍に捕獲される。 親王はこの鳩をプロイセンの母后のもとに送る。それから四年間、鳩はここで飼養される。 しかし、ある日のこと、守衛が鳩籠のふたを閉め忘れて、鳩を逃がしてしまう。鳩は一路、故郷のフランスに飛んでいって、クレシーの昔のすみかに戻る。後に、新聞記者で愛鳩家のドヌーブが、この話を聞きつけたことから、世間に広まったという。 鳩の帰巣本能のすごさを示す話である。 参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『伝書鳩』 東北鳩協会青森支部 『愛鳩の友』(昭和四十年四月号) 愛鳩の友社 『家庭教育 小学生徒』 辻本三省/図書出版会社 『スパイ大事典』 ノーマン・ポルマー トーマス・B・アレン 著 熊木信太郎 訳/論創社 「鳩と気球―パリ籠城期(1870-71年)における郵政事情(7)」 松井道昭 https://blogs.yahoo.co.jp/matsui6520/13545026.html 『東京朝日新聞』(大正六年八月十八日付) 東京朝日新聞社 『図解 火砲』 水野大樹/新紀元社 『鳩たより風船はなし』 荒井第二郎/恵愛堂 『交通文化』(第十一号) 国際交通文化協会 『愛鳩の友』(昭和三十四年六月号) 愛鳩の友社 『高等読本』(巻之七) 山県梯三郎 編纂/文学社 『小学新読本女子用』(巻五) 文学社 『伝書鳩』 岩田 巌/科学知識普及会 『鳩(最新版)』 松本 興/博友社 『The Pigeon』 Wendell Mitchel Levi/Wendell Levi Pub Co 『偕行社記事』(第二五九号) 偕行社 |
ドイツの陸軍大臣が軍用鳩通信の委員を選定し、その組織化を図る。 ドイツは西方国境上に鳩通信網を構築するために、伝書鳩の徴集、飼養、訓練に関する研究をはじめる。 ☆補足 ドイツはベルギーやフランスに比べると鳩飼養は盛んではなく、鳩質が劣っていた。しかし、普仏戦争において、鳩の有用性にいち早く着目したことから、第二次世界大戦の頃には軍事方面で世界一を誇るようになる。例えば、重量級、軽量級、その中間級に鳩の体型を分類して、それぞれの特徴にあった役種(遠距離用、近距離用)に鳩を振り分けている。重量級は七八〇グラムまでの荷物を運搬、中間級は普通の通信用、軽量級は競翔専門といった具合である。また、ドイツは、毒ガスに対する鳩の抵抗力について研究し鳩用のガスマスクを開発したり、鳩に小型カメラを持たせて偵察写真を撮らせたり、優れた鳩関係の機材を製作したり、と他国を圧倒するようになる。 *重量級、軽量級、中間級とあるが、呼び方がいくつか存在する。重量級については重鳩もしくは重厚種、軽量級については小型鳩もしくは軽快種、中間級については並鳩もしくは中間種などと呼ぶ。特定の訳語は決まっていないようである。 参考文献 『鳩たより風船はなし』 荒井第二郎/恵愛堂 『兵事雑誌』(第七年第四号) 兵事雑誌社 『鳩(最新版)』 松本 興/博友社 『愛鳩の友』(昭和三十九年二月号) 愛鳩の友社 |
ケルンの愛鳩家――ヨーゼフ・レンツェンは、プロイセン王国戦争省から、プロイセンにおける、伝書鳩の軍事利用に関して、依頼を受ける。 参考文献 『愛鳩の友』(平成二十一年五月号) 愛鳩の友社 「Verband Deutscher Brieftaubenzüchter e.V.」 http://web.brieftaube.de/ |
ドイツの宰相――オットー・フォン・ビスマルクは、ベルギーから数十羽の良鳩を求め、これをベルリンの動物園で飼養、研究するように命じる。 参考文献 『鳩たより風船はなし』 荒井第二郎/恵愛堂 |
オーストリアで鳩協会がはじめて設立される。 オーストリアは、この年から、本格的な鳩研究に着手する。 参考文献 『鳩たより風船はなし』 荒井第二郎/恵愛堂 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 |
パリの各新聞は、議会のあるヴェルサイユでの議論を早く知るために、要約した記事を伝書鳩に付して現地から飛ばす。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 |
ドイツがヨーロッパではじめて、四〇〇羽からなる軍用鳩部隊を各軍管区に二つずつ配置する。 軍用鳩通信網は、ベルリン、ケルン、シュトラスブルク、メッツ間に設ける(各鳩舎宛て一〇〇羽飼養) ☆補足一 ドイツは官民一体で伝書鳩の育成に努める。 これは軍事に限らず、鳩レースの大会があると、陸軍大将が顔を出すほどだった。 四七〇キロ(約)を超えて、さらに遠くまで飛べる伝書鳩は、ドイツ皇帝が表彰したという。 ☆補足二 後に建設されるヴィルヘルムスハーフェンの鳩舎は、海軍の管轄で、鳩事に熟達した民間の愛鳩家を雇って、海軍兵とともに鳩の繁殖や研究をおこなっていたという。武知彦栄『伝書鳩の研究』によると、愛鳩家の給料は月額九十マルクだったそうである。 ☆補足三 この当時に結ばれた、ドイツ(文中では連邦)と鳩協会との主要な取り決めは、以下のとおり(荒井第二郎『鳩たより風船はなし』より引用)
参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『鳩たより風船はなし』 荒井第二郎/恵愛堂 『偕行社記事』(第二五九号) 偕行社 『官報』(明治二十年一月八日付。第一〇五四号) 『読売新聞』(明治二十年一月十一日付) 読売新聞社 『兵事雑誌』(第七年第四号) 兵事雑誌社 |
イタリアが試験的に軍用鳩舎を設ける。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 |
オーストリアが軍用鳩舎をコモルンに設ける。 参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『鳩たより風船はなし』 荒井第二郎/恵愛堂 『偕行社記事』(第二五九号) 偕行社 |
ロシアが軍用鳩舎をモスクワに設ける。 参考文献 『兵事雑誌』(第七年第五号) 兵事雑誌社 |
イタリアがアンコーナの第十二連隊内に、五〇〇羽を有する鳩舎を設ける。 参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『鳩たより風船はなし』 荒井第二郎/恵愛堂 『兵事雑誌』(第七年第四号) 兵事雑誌社 |
ポルトガルが軍用鳩通信をはじめる。 四箇所ある鳩通信所は、すでに前年までに設けられていて、一二〇〇羽の鳩を使翔する。 ☆補足 ポルトガルの鳩飼育は隣国スペインよりも先に開始されている。 しかし、鳩が苦手とする温暖な気候や山岳に富む地形にポルトガルは手を焼き、一八七六年になって、軍用鳩通信を開始する。 参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『鳩たより風船はなし』 荒井第二郎/恵愛堂 『兵事雑誌』(第七年第五号) 兵事雑誌社 |
フランスが徴用に関する法令を出す。これにより、ほかの動物と同じように鳩が徴用されることとなる。 ☆補足 この頃、フランスは、四二〇羽の鳩の献納を受け入れ、植物試験をおこなっている公園内に、逓信省会計局が鳩小屋を作る。二〇〇つがいの鳩が入れるほどの大きさだったという。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『鳩たより風船はなし』 荒井第二郎/恵愛堂 |
フランスが同年七月三日に出された法令に続いて、鳩の送遣法を制定する。 参考文献 『鳩たより風船はなし』 荒井第二郎/恵愛堂 |
西南戦争が勃発する。 この戦争で熊本城は西郷隆盛軍に包囲されるが、このとき、若干の伝書鳩があれば、数千の犠牲や数千万の軍費の浪費を防ぐことができた、などと、児玉源太郎や川上操六などの将軍が後に語ったという。 確かに、伝書鳩が熊本城にあったら、少なくとも、谷村計介伍長などが命がけの伝令に出る必要はなかっただろう。 ☆補足 似たような意見として、江戸時代の飛脚に関して、伝書鳩さえあったら、こんなまねをする必要はなかった、などと、鳩界で言われることがある。 参考文献 『鳩』(第三年八月号) 鳩園社 『伝書鳩 もうひとつのIT』 黒岩比佐子/文芸春秋 |
ベルギーがフランスに五万羽の鳩を輸出する。この輸送に当たっては、三十三両の特別列車が編成される。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 |
スイスがベルギーから五十つがいの鳩を輸入する。 参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『鳩たより風船はなし』 荒井第二郎/恵愛堂 |
スイスが通信文を付した鳩を放って試験する。 鳩は高山を越え、積雪の山中にあっても鳩舎を見いだす。 スイスは、この試験結果を受けて、軍用鳩通信の採用を決める。 参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『鳩たより風船はなし』 荒井第二郎/恵愛堂 『兵事雑誌』(第七年第五号) 兵事雑誌社 |
イタリアがボローニャとミラノに軍用鳩舎を設ける。 ☆補足 『愛鳩の友』(昭和三十四年六月号)に掲載された記事「古今東西(7)」(作・関口竜雄)によると、このとき、ボローニャの軍用鳩舎はフランス産の優秀鳩六つがい(十二羽)を収容するが、これらの鳩は数日間も餌を食べず、また、その後、二年近くたっても交配しないので、鳩係の兵隊が大いに困ったという。このことから、系統が優秀な鳩をボローニャと呼ぶようになったそうである。関口が言うには、優秀だけれども実際の作出にはすぐ役に立たない鳩、という意味を含んでいるという。 ちなみに、筆者(私)の見解を述べると、餌を食べず、子孫を残さないのに、これを優秀鳩と呼ぶのは奇異ではあるが、それくらいこの鳩は、元の鳩舎環境を覚えていて、食欲や性欲を忘れるほど、不安になっているわけである。つまり、裏を返せば、強烈な帰巣本能の高さを示している。優秀さの証しといえる。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『鳩たより風船はなし』 荒井第二郎/恵愛堂 『愛鳩の友』(昭和三十四年六月号) 愛鳩の友社 |
スペインがグアダラハラに軍用鳩舎を設置する。 参考文献 『偕行社記事』(第二五九号) 偕行社 『兵事雑誌』(第七年第四号) 兵事雑誌社 |
ヴァン・オプサルがベルギー鳩を輸入し、アメリカ軍に供する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年六月号) 愛鳩の友社 |
ベルギーからフランスに渡った鳩の数が一五七万五〇〇〇羽を超えたという。 参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 |
今度、北白川宮が東京博物館に出品した鳩はペルシャ産で、かの国ではこれを使役鳩として書簡を運ばせている。くちばしの形はムクドリに似ていてやや細く、鼻の穴から目の周りにイボのようなものがあり、性質は至って穏やかで人によくなれる。日本の鳩もよくならせば書簡を運ばせることができるが、その形状はペルシャ産の鳩と大きく異なる。 以上、同日付の『東京日日新聞』の記事より。 参考文献 『東京日日新聞』(明治十三年十一月十五日付) 東京日日新聞社 『朝日新聞』(明治十三年十一月二十一日付) 朝日新聞社 |
オーストリアがクラカウに軍用鳩舎を設置する。 参考文献 『偕行社記事』(第二五九号) 偕行社 『兵事雑誌』(第七年第四号) 兵事雑誌社 |
今度、フランスから帰国する予定の前田正名農商務大書記官が伝書鳩を持ち帰る、との記事が『読売新聞』の朝刊に載る。 二月二十七日付の『奥羽日日新聞』の記事によると、前田がフランスから持ち帰る鳩は十羽で、帰国後、熱海から長崎に向けて放鳩するという。 ☆補足一 黒岩比佐子は、その著書『伝書鳩 もうひとつのIT』の中で、
と、推測している。 しかし、それより六日も前に、『読売新聞』が大書記官の鳩について報じているので、これは誤りである。 ☆補足二 明治期の民間の鳩飼養について、軍用鳩調査委員『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』に、以下の記述がある(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
上記の内容と、やや異なるが、日本鳩レース協会『レース鳩』(平成八年二月号)に掲載された記事「日本の鳩レースは120年前の明治9年から郵便鳩の名称で行われていた。」によると、一八七六(明治九)年に実施された、奈良~京都間の短距離レース(三十キロに満たない)が日本初の鳩レースであるという。この鳩レースの番付表(成績表)を見ると、今でいうレース鳩が郵便鳩と表記されているそうである。 *日本鳩レース協会近畿地区連盟『ピジョンOf近畿』(昭和六十二年六月二十日発行)の記述を、同記事は参考にしている。 参考文献 『読売新聞』(明治十六年二月二十一日付) 読売新聞社 『奥羽日日新聞』(明治十六年二月二十七日付) 奥羽日日新聞社 『伝書鳩 もうひとつのIT』 黒岩比佐子/文芸春秋 『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 『レース鳩』(平成八年二月号) 日本鳩レース協会 『伝書鳩の研究』 江浪半造 |
現在、ドイツには七十を超える伝書鳩クラブが存在し、ほかに二つの鳩レース連合会がある。一八八一年設立でボーフムに本部を置くライン・ヴェストファーレン工業地帯連合会と、一八八二年設立のゾーリンゲン連合会である。 十二月十五日、設立総会を開催し、ドイツ伝書鳩愛好家クラブ連盟が結成される。 初代会長にはアルテン・リンジンゲンのカール・ゲオルク・エドムント男爵が就任する。 ☆補足 ドイツのレース鳩協会の歴代会長(一九四五年まで) 一八八四年~一九一六年 カール・ゲオルク・エドムント男爵(アルテン・リンジンゲン) 一九一八年~一九三三年 コンラート・トゥルーリエ(エッセン) 一九三四年~一九三五年 アレグザンダー・ハメスファール(ベルリン) 一九三六年 ヨーゼフ・キルハー(ヒュンフェルト) 一九三七年~一九三八年 コンラート・モスト(ベルリン) 一九三八年~一九三九年 クリスティアーン・ゼール(事務局長、ヴュルツブルク) 一九三九年~一九四五年 フランツ・ボンフィクト(ケルン) 参考文献 『愛鳩の友』(平成二十一年五月号) 愛鳩の友社 「Verband Deutscher Brieftaubenzüchter e.V.」 http://web.brieftaube.de/ |
イタリアのトリノで開催中の馴養動物博覧会において、イタリア陸軍省の馴養している伝書鳩が五都市(アンコーナ、ボローニャ、アレッサンドリアなど)に向けて試用放鳩される。 いずれの鳩にもその尾に浸水する恐れのない書信を巻きつけ、いちいち番号を記載し、翼には鳩舎の名を記してある。この催しには参謀本部の士官数名のほか、たくさんの観客が見学する。なお、五都市のうち三都市の鳩が無事に帰舎する。 以上、同日発刊のベルギーの刊行物より。 参考文献 『読売新聞』(明治十七年八月十五日付) 読売新聞社 |
エッセンにおいて、ドイツ伝書鳩愛好家クラブ連盟が最初の総会を開く。また、鳩の品評会も催す。 参考文献 『愛鳩の友』(平成二十一年五月号) 愛鳩の友社 「Verband Deutscher Brieftaubenzüchter e.V.」 http://web.brieftaube.de/ |
ドイツ伝書鳩飼育家中央連盟が設立される。 この組織は、以下の目的意識を持っていた(『愛鳩の友』〔平成二十一年五月号〕より引用)
参考文献 『愛鳩の友』(平成二十一年五月号) 愛鳩の友社 「Verband Deutscher Brieftaubenzüchter e.V.」 http://web.brieftaube.de/ |
ブエノスアイレス市近郊の製紙工場に働きにきたベルギー人がアルゼンチンに伝書鳩を持ち込む。これがきっかけになって、アルゼンチンの人々に伝書鳩飼養が広まり、鳩レースも実施されるようになる。 その後、鳩協会「ラ・パロコ・メンサヘーラ」が創設されるが、間もなく解散し、一九〇四年十月二十八日に同盟の伝書鳩協会が設立される。 これが現在、アルゼンチンで一番古い鳩団体といわれている。 ☆補足 一九三九年の時点で、アルゼンチンには四十四の伝書鳩協会と、これとは別のアルゼンチン伝書鳩協会連合会があり、これらの伝書鳩協会と伝書鳩協会連合会は連絡を取り合う。 ちなみに、アルゼンチン伝書鳩協会連合会は陸軍省に順行していて、アルゼンチン陸軍のニコラス・ヘルナンデス少将が会長に就いている。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十四年十一月号) 日本伝書鳩協会 |
同日発行のロシアの新聞によると、軍艦上で伝書鳩を飼養すれば、遠海での海難事故などの際にこれを放って急変を伝えられる、との意見がロシア海軍省に出されているという。 参考文献 『読売新聞』(明治十八年六月四日付) 読売新聞社 『朝日新聞』(明治十八年六月十日付) 朝日新聞社 |
ドイツは軍用伝書鳩の飼養に関して少なからざる金額を費やしている。現に、ケルン、ヴュルツブルク、メッツ、シュトラスブルク、トルンなどに伝書鳩飼養所を設置し、一箇所につき平均五〇〇羽を飼養しているという。 伝書鳩が鳩舎に帰ってくると、伝書鳩はくちばしを使って窓戸を開き、自ら舎内に入る。この窓戸には伝音器が設置してあり、養丁の部屋に銅線を通してつながっている。これにより、鳩群の帰還を知ることができる。また、脱羽や落毛が蓄えてあり、伝書を発する際には、これに包んでから伝書鳩の尾羽の間にくくりつける。敵人に鳩を捕らえられたときに伝書が発見されないようにするための処置である。 ドイツの陸軍大臣は、伝書鳩飼養を広めるために、馴養の妙を得た国民に与える目的をもって、金、銀、銅の賞牌を製定しているという。 以上、同日付のロシア官報より。 参考文献 『読売新聞』(明治十八年八月十六日付) 読売新聞社 |
七月中旬~八月上旬にかけて、淀川大洪水(明治大洪水)が発生し、大阪に甚大な水害をもたらす。死者・行方不明者八十一名、流出戸数一七四九戸、浸水戸数約七万二五〇九戸、被災人口約三十万四〇〇〇名にのぼる。 災害発生当時、大阪府知事は、被害状況を調べるために大木警部に命じて、大阪の渡辺(後の和田氏)という人物から五羽の鳩を借り受けて通信する。この鳩通信により、多数の人命が救われたことから、後に大阪府知事は渡辺を表彰する。 ☆補足 小野内泰治『日本鳩界史年表』(1)によると、ときの大阪府知事は渡辺 昇子爵で、この渡辺が鳩通信をするために大木警部に命じたとある。しかし、一八八五(明治十八)年当時の大阪府知事は建野郷三である。 詳細不明。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年五月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十九年九月号) 愛鳩の友社 『歴史学部論集』(第六号) 仏教大学歴史学部 |
ドイツ陸軍省は伝書鳩の訓養について大いにその拡張を計画しているが、最近、各伝書鳩会社はドイツ陸軍省の奨励に基づき、ドイツ国の連合会社を組織する。この連合会社は、常時、ハノーファーにおいてその事務を執り、ドイツ陸軍省から授けられた教訓を旨として、これを諸小会社に普及することに努める。 ドイツ政府は伝書鳩の所有者に対し、賞金もしくは賞牌を与え、陸軍省の軍用伝書鳩訓養長官にフリスト大尉を任命したという。 以上、同日発刊のドイツの新聞より。 ☆補足 明治頃の翻訳記事では、民間の鳩クラブなどを「会社」と表記することがある。日本法における「会社」ではなく、同人の会や結社の意味における「会社」である。 参考文献 『読売新聞』(明治十八年九月十八日付) 読売新聞社 |
同日発行のドイツの刊行物によると、ドイツは、伝書鳩の被害を防ぐために、ワシを駆除し、毎年一月五日までに前年における駆除成績を山林庁に報告することになったという。 参考文献 『読売新聞』(明治十八年十月八日付) 読売新聞社 |
フランスが政令を出す。これにより、民間鳩の鳩数と、軍が動員できる鳩数が調べられる。この国内調査は、フランスで、はじめてのこととなる。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 |
この年の九月、参謀本部の命令によって、石川潔太工兵中尉が清国の日本公使館に赴任する。その際に石川は、現地で鳩の飛翔を目撃し、あれは何か、と清国人に尋ねる。清国人によると、愛玩または通信用として鳩を使用しているという。石川は、士官学校在学中に鳩を通信用として使うことを習っていたので、これは国軍のためになるのではないか、と思い、さらに清国人に、飼養法は難しいものか、と聞く。すると、極めてたやすいものだ、とのことだったので、軍用鳩の研究を遂げよう、と石川は決意する。 当時、日本公使館は北京に新築されたばかりで、石川は参謀本部に許可を取って、旧日本公使館の空き家に住まい、そこに鳩舎を建てる。約二年間、ここで数十羽の軍用鳩を飼養し、研究する。その期間中に、浅田信興中佐が石川の研究を見にきて、軍用鳩の有用性を認める。 参考文献 『鳩』(第四年十二月号) 鳩園社 |
陸軍軍用電信隊所属の某尉官の発案により、一昨日、浅草公園内で四、五羽の鳩を捕らえ、軍用電信隊に持ち帰る。そして、鳩の尾にインクで目印をつけてから、この鳩たちを空に放つ。 鳩は首尾よく、浅草公園に飛び帰ったので、近いうちに、今度は横浜から放鳩するという。 以上、同日付の『東京横浜毎日新聞』の記事より。 参考文献 『東京横浜毎日新聞』(明治十九年一月二十三日付) 毎日新聞社 |
近頃、イギリスの某医師は、伝書鳩を携行して病家を見回り、大病人があれば、伝書鳩の脚に処方箋を付して放鳩するという。これにより、在宿の補助者がこの処方箋を見て薬を調合し、医師の帰宅に先立って、病家に薬を発送できるそうである。もともと某医師は繁盛していたが、これが評判を呼んで、一層その便益を押し広めているという。 以上、同日発刊の長崎の英字新聞より。 参考文献 『読売新聞』(明治十九年四月二十二日付) 読売新聞社 |
目下、陸軍軍用電信隊は、東京府下近傍の鳩を捕らえて、これをしばらく飼養した後、空に放つ試験をおこなっている。しかし、その結果が芳しくない。今度、各地方の鳩を集めて、これをしばらく飼養した後、放鳩するという。 以上、同日付の『東京日日新聞』の記事より。 参考文献 『東京日日新聞』(明治十九年七月十六日付) 日報社 |
今から数ヶ月前、ベルギーの記章を仮用したドイツの伝書鳩がフランス国内で見つかり、軍事上の通信をしていたことが発覚する。フランスの陸軍大臣は直ちに内務大臣と協議し、外国の伝書鳩に供する鳩舎の設立防止と、ドイツの鳩を放つ者を厳罰に処す規則を定める。 以上、同日発刊のアメリカの刊行物より。 参考文献 『読売新聞』(明治二十年一月九日付) 読売新聞社 |
フランスのパリで二十名の区長が、パリ市中の伝書鳩の数を調査すると、総計二五〇〇羽あまりの大数であることが判明する。そのうち、一七八〇羽はすでに訓練済みで、この鳩の飼養者を区別に分けると大きな差が見られた。五八〇羽に上る飼養数の区もあれば、わずか四羽の飼養数にとどまる区もあったのである。 甚だしいところでは、一羽も飼養せぬ、と区長が報告していたにもかかわらず、その区内において三〇〇羽以上の伝書鳩を一人で飼っている者が見つかる。この飼養者を取り調べてみると、ドイツ人で、それ故にフランスの調査から漏れてしまったものと見られる。 以上、同日発刊のフランスの刊行物より。 参考文献 『読売新聞』(明治二十年二月八日付) 読売新聞社 |
今秋、ドイツ軍の軽気球隊は三十名だった人員を五十名に増やしているが、マクデブルク新聞の報ずるところによると、今後は伝書鳩を使用するために球床の外部に軽い鳥籠を備えつける見込みだという。 以上、同日付の『朝日新聞』の記事より。 参考文献 『朝日新聞』(明治二十年十一月二十三日付) 朝日新聞社 |
ロシアで伝書鳩の価格が急騰している、と現地メディアが伝える。 陸軍省がサンクトペテルブルク、ワルシャワ、ウィルナ、オデッサ、キエフの軍管区に軍用鳩舎を設置する計画があり、その需要の高まりによる影響が考えられるという。また、鳥獣業者などは、ロシアやフランスに対する鳩の輸出を、ドイツが禁止したことが価格高騰の一大原因である、との説を唱えている。 従来、ロシアは、鳥類の多くをドイツからの輸入に頼っている。 参考文献 『官報』(明治二十年二月三日付。第一〇七六号) 『読売新聞』(明治二十年二月六日付) 読売新聞社 |
ドイツ伝書鳩愛好家クラブ連盟が伝書鳩の雑誌『Zeitschrift für Brieftaubenkunde』を創刊する。 参考文献 『愛鳩の友』(平成二十一年五月号) 愛鳩の友社 「Verband Deutscher Brieftaubenzüchter e.V.」 http://web.brieftaube.de/ |
スウェーデンがカールスベルク要塞に軍用鳩舎を設ける。 参考文献 『鳩たより風船はなし』 荒井第二郎/恵愛堂 『偕行社記事』(第二五九号) 偕行社 『兵事雑誌』(第七年第五号) 兵事雑誌社 |
陸軍大演習の際、イギリスのケンブリッジ公ジョージが伝書鳩を放つ。 参考文献 『鳩たより風船はなし』 荒井第二郎/恵愛堂 |
同日発行のフランスの刊行物によると、フランスはセーヌ州内の伝書鳩の羽数調査をおこなうという。 伝書鳩の所有者は、一八八七年一月十五日までに、以下の項目について役所に届け出なければならない。 一、伝書鳩所有者の姓名 二、住所および職業 三、伝書鳩舎の位置 四、各鳩舎伝書鳩の数 五、飛行飼養の方向 参考文献 『官報』(明治二十年二月二十八日付。第一〇九六号) |
昨年の十月九日、アメリカのボストン在住のヘンリー・ワグナーは、九羽の伝書鳩を汽船に載せてイギリスのロンドンに送る。そして、同月下旬、ロンドンに到着した鳩がそこから放たれて、大西洋越えの飛行をおこなう。 本日(一月十日)までに三羽が帰還していて、一羽はボストンまで自力で飛んで帰り、一羽はニューヨークの近傍で捕らえられ、一羽はペンシルバニアの山中で力尽きたところを住民に保護されてワグナーのもとに送られる。 残りの六羽はいまだ帰ってきていないが、大西洋越えの難飛行で命を落としたものと見られる。 参考文献 『官報』(明治二十年三月三十日。第一一二一号) |
ドイツ、フランスにおける伝書鳩飼養の現況を、この日の『読売新聞』が報じる(以下、記事要約) 一八七三年、ドイツは、シュトラスブルクの兵営に五〇〇羽の軍用鳩を飼養し、その後、次第に羽数を増やしていく。今日においては、国内や国境の重要箇所に鳩舎を置いている。民間の伝書鳩団体も七十四を数える。 目下、フランスは、陸軍省に属する軍用鳩舎を三十八箇所に設けている。軍用鳩の飼養については参謀本部と第四局(工兵局)の管轄とし、民間の鳩舎に属する伝書鳩も使翔する。 一例を挙げると、リヨンにある鳩舎では、民間鳩一五〇〇羽、軍用鳩三〇〇羽が飼われている。リールとヴァランシエンヌにある両鳩舎の羽数を合わせると、一万羽になる。各鳩舎には砲兵隊、または工兵隊に属する兵がつき、常にこれの監督に当たっている。 ☆補足一 この記事によると、ドイツは一八七三年にシュトラスブルクに鳩舎を設置したという。しかし、マルタン・モネスティエ『図説 動物兵士全書』などによると、それより一年後の一八七四年の出来事であるらしい。 どちらの記述が正しいのか、よく分からない。 ☆補足二 この記事によると、フランスは現時点において、軍用鳩舎を三十八箇所に設置しているという。しかし、マルタン・モネスティエ『図説 動物兵士全書』によると、一八八八年十月一日にフランスは政令を出して軍用鳩舎の設置を決め、パリ、マルセイユ、ペルピニャン、リール、ヴェルダン、トゥール、ベルフォールなどに鳩舎を設けたとある。 「補足一」に続いて、これも事実関係が食い違っている。 詳細不明。 参考文献 『読売新聞』(明治二十年一月十一日付) 読売新聞社 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 |
同日付の『朝日新聞』の記事によると、本日、陸軍軍用電信隊は和田倉門外辰の口から陸軍戸山学校に向けて使鳩試験をおこなうという。 参考文献 『朝日新聞』(明治二十年二月九日付) 朝日新聞社 |
東京の浅草公園で捕らえた鳩を、日金山(静岡)、大楠山(神奈川)、鹿野山(千葉)、久能山(静岡)から放鳩し、その帰還の具合を陸軍省が試験する。通信試験ではないので、鳩に通信文を付していないが、目印として絹の切れ端を脚に結びつけたり、羽毛を切ったりしている。 放鳩日とその羽数は、以下のとおり。 日金山――二月九日に五羽、二月十三日に二十羽 大楠山――二月五日に四羽 鹿野山――二月十四日に十一羽 久能山――二月七日に五羽 帰還成績については惨憺たるもので、毎日、浅草公園に調査しにいくが、一向に鳩が帰ってこない。そこで、本所の回向院と深川公園に調査の範囲を広げる。 二月十日、浅草公園と深川公園において、それぞれ二羽が帰ってきているのが確認される。 前者は日金山、後者は大楠山から放鳩された鳩だった。 ☆補足 何の訓練も受けていないドバトを捕まえて、これを放てば、悲惨な結果になるのは目に見えている。当時はまだ、伝書鳩に関する情報が少なかったとはいえ、陸軍省がこのような稚拙な実験をしていたことに驚かされる。 三浦喜雄 橋本留喜『尋常小学 国語読本教授書 第五学年後期用』に、以下の記述がある(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『読売新聞』(明治二十年三月二十三日付) 読売新聞社 『尋常小学 国語読本教授書 第五学年後期用』 三浦喜雄 橋本留喜/東京宝文館 |
ドイツの主要な土地所有者は、多数のハヤブサを飼養しており、ドイツの陸軍省がその羽数や管理状況を調査、管理している。 普仏戦争の際、プロイセン軍はハヤブサを使って、敵の伝書鳩を捕らえている。 以上、同日付のロシア官報より。 参考文献 『読売新聞』(明治二十年四月十四日付) 読売新聞社 |
同日付の『朝日新聞』の記事によると、ドイツ陸軍軍用電信本部から北白川宮と伏見宮に贈られた二つがいの優良軍用鳩が、今度、同宮から陸軍電信隊に下付されるという。 参考文献 『朝日新聞』(明治二十年三月一日付) 朝日新聞社 |
同日付の『読売新聞』の記事によると、相場師が情報を得るために、近頃、兵庫県の尼崎では鳩を飼養して、大阪の堂島との間で通信するのが流行しているという。 参考文献 『読売新聞』(明治二十年四月十九日付) 読売新聞社 |
同日付の『朝日新聞』の記事によると、陸軍省はドバトを用いて軍用鳩の試験をおこなっているが、ドバトでは血統的にその用を達するのが難しいことから、今度、アラビア産およびインド産の鳩を購入する予定だという。 ☆補足 その後、アラビア産およびインド産の鳩は購入されなかったようである。 理由は想像するしかないが、軍用鳩の本場はヨーロッパなので、アラビア産およびインド産の鳩という着想の誤りに気づいたのであろう。 日本軍の軍用鳩研究の黎明期は、ドバトを用いて使鳩試験したり、アラビア産およびインド産の鳩を手に入れようとしたり、と的を外している。 参考文献 『朝日新聞』(明治二十年七月二十六日付) 朝日新聞社 |
同日付のロシア官報によると、このたび、フランスの陸軍大臣が伝書鳩の輸出禁止に関する達文を発布したという。 参考文献 『官報』(明治二十年十月二十二日。第一二九六号) |
普仏戦争後、ロシアは軍用鳩通信の価値を認めてワルシャワに試験鳩舎を設置し、一八七五年にはモスクワに軍用鳩舎を置いていたが、この日、法令を発して、陸軍工兵隊に属する軍用鳩通信を正式に開始する。 参考文献 『鳩たより風船はなし』 荒井第二郎/恵愛堂 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『兵事雑誌』(第七年第五号) 兵事雑誌社 |
同日発行のロシアの刊行物によると、ドイツ海軍省は目下、軍艦等から軍鳩を放つ海上通信試験をおこなっているという。 なお、ドイツ軍は、メッツ、シュトラスブルク、マインツ、ケルン、ヴュルツブルク、ケーニヒスベルクなどの堡塞に鳩舎を設置しており、各五〇〇羽の鳩を飼養している。 参考文献 『官報』(明治二十年十二月二十三日付。第一三四七号) |
同日発行のドイツの刊行物によると、ドイツ陸軍省が愛鳩家団体に鳩の提供を依頼したという。 この鳩は城塞の内外で飼養し、冬期の鳩通信試験に用いる。その通信距離は三七五キロを越えないものとし、鳩の亡失などに対しては弁償される。 参考文献 『官報』(明治二十一年二月二十八日付。第一三九六号) |
往復通信の起源については諸説あるようだが、近代軍用鳩の往復通信は、イタリア軍を嚆矢とする。ドイツ語学者・堀江有政が訳した『独乙軍事技術雑誌一千八百九十九年第九号摘訳 軍用伝信鳩』によると、この年、イタリア軍のジュゼッペ・マラゴリ工兵大尉は、ローマ~チヴィタヴェッキア間(六十七キロ)の往復通信に成功し、以後、同様の試験が各国において実施されるようになったという。 武知彦栄『伝書鳩の研究』にも以下の記述がある。
☆補足 この当時のイタリア軍の軍用鳩事情については、偕行社『偕行社記事』(第二十四号)に掲載された記事「伊国軍用鳩」に概要が載っている(仏軍雑誌からの抄訳) また、ジュゼッペ・マラゴリ工兵大尉の著書『使鳩ノ歴史飼養及教育』の翻訳記事が、『偕行社記事』の第四十一号、第四十五号、第五十一号、第五十六号の各号に載っている。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06091049500、明治28年 公文備考拾遺 完自明治28年至36年(防衛省防衛研究所)」 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『偕行社記事』(第二十四号) 偕行社 『偕行社記事』(第四十一号) 偕行社 『偕行社記事』(第四十五号) 偕行社 『偕行社記事』(第五十一号) 偕行社 『偕行社記事』(第五十六号) 偕行社 |
同日発行のロシアの刊行物によると、ロシアは最近、陸軍伝書鳩飼養所設置令を陸軍部内に布達したという。 その総則は、以下のとおり(『官報』〔明治二十一年五月二十九日付。第一四七二号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『官報』(明治二十一年五月二十九日付。第一四七二号) |
タカを放って伝書鳩を捕らえることにより、敵軍の鳩通信を無効化する方法がある。一説に、日本や朝鮮のタカがこの任務に適しているといわれている。このたび、ドイツから、試験用のタカ数羽を送致してほしい、との依頼がその筋にあったという。 以上、同日付の『郵便報知新聞』および『東京朝日新聞』の記事より。 参考文献 『郵便報知新聞』(明治二十一年七月二十八日付) 報知社 『東京朝日新聞』(明治二十一年七月二十八日付) 東京朝日新聞社 『高知日報』(明治二十一年八月七日付) 高知日報社 |
同日付の『東京朝日新聞』の記事によると、今度、朝鮮に派遣される町田陸軍四等技師は、同地で軍用鳩を購入する予定だという。 ☆補足 『東京朝日新聞』(明治二十一年十月四日付)の記事によると、町田技師は朝鮮政府の要請を受けて、火薬製造所建設工事の監督を三ヶ月間務めるという。軍用鳩の購入は、この機会を利用したものと思われる。しかし、当時の朝鮮に満足な軍用鳩が存在するのか、という疑問を覚える。朝鮮経由で清国産の伝書鳩を手に入れる、というなら納得できるが、朝鮮の鳩が日本の鳩より優れているという話を聞いたことがない。 参考文献 『東京朝日新聞』(明治二十一年九月三十日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(明治二十一年十月四日付) 東京朝日新聞社 |
陸軍では軍用鳩を飼養し、各種の研究をおこなっているが、広島第五師団では、ドバト、飼い鳩の区別なく、皆、良好な成績を収めている。今度、同師団長の野津道貫中将は、伝書鳩成績の資料を携帯して上京し、師団長会議に提出するという。 以上、同日付の『東京朝日新聞』の記事より。 ☆補足 『東京朝日新聞』(明治二十一年十月六日付)の記事は、野津道貫の師団を「第四師団」と記しているが誤り。 正しくは、「第五師団」である(修正済み) 参考文献 『東京朝日新聞』(明治二十一年十月六日付) 東京朝日新聞社 |
同日付の『東京朝日新聞』の記事によると、ドイツは軽気球隊の改良に努め、本年夏季の実地試験においては、気球に写真器、測量機械、軍用鳩飼養のための鳩籠を付属させるまでの進歩を見せているという。 参考文献 『東京朝日新聞』(明治二十一年十一月二十二日付) 東京朝日新聞社 |
同日付の『東京朝日新聞』の記事によると、今度、陸軍参謀本部は、伝書鳩飼養規程を制定するという。 参考文献 『東京朝日新聞』(明治二十一年十一月二十七日付) 東京朝日新聞社 |
清国に陸軍の駐在武官として滞在中の石川潔太工兵中尉が、『月曜会記事』(第十一号)に「通信鴿ノ報告」と題した文章を発表する。 本記事の構成は、以下のとおり。 「鴿ノ種類」「鴿ノ性質」「雌雄ノ鑑定」「鳩小屋ノ構造 第一図」「鴿ノ飼養法」「鴿ノ食料」「鴿ノ携帯法第二図及ヒ第三図」「通信ノ試験」「通信法」「通信ヲ鴿ニ付スル法第四図」 この石川の記した「通信鴿ノ報告」について、軍事史学会『軍事史学』(第四十七巻第二号)に掲載された論文「日本陸軍における初期の伝書鳩導入」(作・柳澤 潤)に、以下の記述がある。
「おそらく日本で最初に伝書鳩の飼養法を述べた文献と思われる」と、執筆者の柳澤は述べている。より慎重にいえば、日本の軍人が記した、伝書鳩に関する文献としては、これが初であると思われる、などとした方が無難かもしれない。すでに記録上、江戸時代(天明年間)から日本では伝書鳩が飼われていて、これが明治に入ると競翔まで開催されている。この間一〇〇年ほどになるが、石川の「通信鴿ノ報告」が世に出るまで、伝書鳩の飼養本が存在しなかったようには考えにくい。単に伝書鳩の書が現代に伝わっていない(残っていない)か、そうした書が知られていないだけ、と想定した方がベターな気がする。 柳澤に他意はなく、ただ事実を指摘しているだけなのだろうが、「これらから石川は、伝書鳩の原理を正しく理解していたことがわかる」という一文にも、筆者(私)は引っかかりを感じる。軍用鳩の歴史において、石川潔太といったら日本軍の先駆者である。その功績ある先駆者が、伝書鳩の原理を正しく理解しているのは当然といってよい。例えるなら、先駆者の渋沢栄一に向かって、「経済の原理を正しく理解していたことがわかる」と評するに等しい。 しかし、柳澤がそう言いたくなるのも無理はない。日本軍の黎明期の鳩試験はひどいもので、浅草のドバトを捕まえてこれを放つ、という水準だった。血統の概念が充分に浸透しておらず、近所の鳩でも使い物になるのではないか、との甘い見通しがあった。柳澤はそうした事実を踏まえて、石川を少々、疑ってかかる一文を記したのではないか。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C15120189200、合本 月曜会記事 第6巻 明治19~21(防衛省防衛研究所)」 『軍事史学』(第四十七巻第二号) 軍事史学会 |
スイスが以下の条文を布告する(荒井第二郎『鳩たより風船はなし』より引用)
☆補足 スイスはこの布告によって、軍用鳩舎の組織化に努める。中央首地としてトゥーンに一二〇羽保有の軍用鳩舎を設置し、ここからバール、チューリヒ、ヴィーゼンの各鳩舎(ドイツ、オーストリアとの国境近く)につなげる。 参考文献 『鳩たより風船はなし』 荒井第二郎/恵愛堂 『兵事雑誌』(第七年第五号) 兵事雑誌社 |
矢野正敬工兵大尉が砲工共同会『砲工共同会紀事』に、「通信鳩新論摘訳」を寄稿する。 前書きは、以下のとおり(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『砲工共同会紀事』(号数不明。明治二十二年三月) 砲工共同会 |
ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世がエッセンの愛鳩会に台臨する。 「汝雄々しく愛らしき鳩よ、わが祖国のために」 と、ヴィルヘルム二世は愛撫の言葉をかけて激励する。 ☆補足 ドイツ皇帝は伝書鳩事業に熱心で、しばしばその御召船・ホーエンツォレルン号から信書を付した伝書鳩を放つ。皇帝は自らの行動によって、鳩通信の重要性を示す。 参考文献 『伝書鳩』 岩田 巌/科学知識普及会 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『軍事新報』(第二巻第九十九号) 軍事教育会軍事新報部 |
スペインが新たに、鳩通信所を十八箇所に設けることを定める。 東のフランス国境に四箇所、イベリア半島の北西海岸に一箇所、ポルトガル方面に二箇所、イギリス方面に一箇所、そのほかは各中継局や島嶼など。 ☆補足一 スペインは欧州の中で有数の養鳩国であり、昔から鳩通信を盛んにおこなっている。しかし、軍事面において、その通信法を完全に会得するのは、グアダラハラの陸軍大学校でベルギー産の鳩を用い、実験してからのことである。これが一八八九年の事業拡大となり、鳩通信所が新たに、十八箇所に設けられることになる。 ☆補足二 スペインの使翔する鳩は、これを全てベルギーに仰ぐ。 ベルギー種の鳩は優れていて、悪天候や乾燥によく堪えた。 ☆補足三 海岸に設置された鳩舎が海軍艦艇や税関船との通信に当たる。 参考文献 『鳩たより風船はなし』 荒井第二郎/恵愛堂 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 |
一八八五(明治十八)年より、清国北京の駐在武官として滞在していた石川潔太工兵中尉が帰国する。石川は清国から持ち帰った十数羽の鳩を陸軍工兵会議に提供する。 こうして、工兵会議における軍用鳩飼養がはじまり、同会議の泉大尉は石川から鳩術を伝授される。 なお、この年の初め、工兵会議は、十二つがいの鳩を収容できる広さの鳩舎を同会議内に設置している。 十月二十九日に清国産の鳩一つがい、十一月二十一日に日本産の鳩一つがい(孔雀鳩)、十一月二十二日に日本産の鳩一つがい(しまひよ)をそれぞれ飼養しはじめる。 十二月九日、さらに清国産の鳩八つがい、アメリカ産の鳩一つがいを導入する。 十二月二十三日の夜、鳩舎に野犬が侵入する。この時点の鳩数は二十六羽(卵は除外)だったが、そのうちの二十一羽が殺されて、二羽がけがを負う。亡失した鳩の中には、貴重なアメリカ産の鳩が含まれる。 放鳩成績に関しては、清国産とアメリカ産の鳩は、まずまずの結果を残すが、日本産の鳩が不良で、全く使いものにならなかった。 ☆補足一 武知彦栄『伝書鳩の研究』や岩田 巌『伝書鳩』をはじめ、いくつかの文献が、陸軍における軍用鳩飼養の開始年を一八九九(明治三十二)年と記している。しかし、これは誤りで、軍用鳩に関する史料のほとんどが、一八八七(明治二十)年、または一八八七(明治二十)年頃と記述している。この年に実施された、陸軍省などによる放鳩実験(浅草公園で捕獲した鳩を各地から放つ)を根拠にしているものと思われる。そして、その二年後に当たる一八八九(明治二十二)年、陸軍工兵会議は、石川潔太工兵中尉の帰朝に伴って持ち込まれた鳩をもとに、軍用鳩飼養を開始する。 ☆補足二 前述したとおり、陸軍の鳩飼養の開始年については諸説ある。一九二九(昭和四)年三月二十三日付の『東京朝日新聞』は「明治十八年頃わが陸軍で伝書鳩の飼育を始めて以来」と記している。多分、これが一番古い年を採用したものだと思われる。一方、武知彦栄『鴿の飼い方』は、一八八五(明治十八)年から清国で伝書鳩の研究をしていた石川潔太工兵中尉の帰国に焦点を当てて、陸軍の鴿飼養の開始年を一八八九(明治二十二)年としている。 筆者(私)が確認した限り、陸軍の鳩飼養の開始年は、一八八五(明治十八)年頃、一八八七(明治二十)年(頃)、一八八九(明治二十二)年の三説に分かれているように思われる。 ちなみに、筆者(私)は一八八七(明治二十)年説を支持している。大方の史料が一八八七(明治二十)年説を採用しているからだ。しかし、気がかりな点もある。その前年の一八八六(明治十九)年に陸軍は浅草のドバトを捕まえて放鳩試験をおこなっている。正規の伝書鳩ではなく、ただのドバトで、また飼養の事実までつかんでいないが、陸軍が実験を開始していたという意味では無視できない。上記三説に一八八六(明治十九)年説を加えた四説としてもおかしくはない。 ☆補足三 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十八年七月号)に掲載された記事「徳永大佐を訪ねて 軍鳩の揺籃を聴く」によると、陸軍工兵会議が最初に作った鳩舎は同所の裏庭にあり、南向きで日当たりはよく、大体、鳩の保健には満点なところだったという。鳩舎の大きさは、高さ九尺縦幅ともに九尺で、到着台や出口などを設け、上方三尺が巣房で下に三尺四方深さ三寸くらいの水浴場をこしらえていたそうである。 鳩の飼料に関しては、トウモロコシと白エンドウが主食で、時折、訓練の後に玄米や菜種などを与えていたが、麻の実はまだその当時はなかったように覚えている、などと徳永熊雄大佐は回想している。 参考文献 『鳩』(第四年十二月号) 鳩園社 『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 『偕行社記事』(第四十三号) 偕行社 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『鴿の飼い方』 武知彦栄/内外出版 『伝書鳩』 岩田 巌/科学知識普及会 『東京朝日新聞』(昭和四年三月二十三日付) 東京朝日新聞社 『日本鳩時報』(昭和十八年七月号) 大日本軍用鳩協会 |
イタリア軍がエチオピアの戦いで軍用鳩を放つ。 電信線不通の折、鳩はよく重大任務を果たす。 参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 |
この当時に競翔用のゴム輪や記録器などの鳩具が登場する。 それ以前は、競翔に参加する鳩の初列風切の十枚目や九枚目に放鳩地などを記したゴム印を押すなどしていた。参加鳩舎は、この帰ってきた鳩を審査所に持ち込んで、帰還時刻を記録した。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年六月号) 愛鳩の友社 |
同日付の『読売新聞』の記事によると、今度、実施する陸軍大演習において、回光機や伝書鳩などを実地試験することになり、一両日中に陸軍教導団から名古屋に向けて数羽の鳩を送る予定だという。 参考文献 『読売新聞』(明治二十三年三月七日付) 読売新聞社 |
同日発行のアメリカの刊行物によると、このほど、フランスの陸軍大臣は、フランス国内の伝書鳩の総数を調べるように命じたという。 フランスは戦時に際して、約五十万羽の伝書鳩を動員できるといわれている。 参考文献 『官報』(明治二十三年七月八日付。第二一〇六号) |
一月十二日、陸軍工兵会議の鳩舎において、成績不良を理由に、日本産の鳩(孔雀鳩)が廃鳩にされる。 一月二十日、日本産の鳩(しまひよ)が放鳩訓練中に失踪する。 鳩舎の害獣被害については、一月二十六日、猫が侵入し、雛鳩一羽が殺される。五月十三日、ネズミによって雌鳩一羽が殺される。 本年六月までの放鳩に関しては、最長三十八・八キロの距離まで飛行し、まずまずの帰還成績を残す。 参考文献 『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 『偕行社記事』(第四十三号) 偕行社 『普鳩』(昭和十八年二月号) 中央普鳩会本部 |
同日付のドイツ官報によると、スイスは永世中立国の実を失うことがないように、外国の代理人や鳩団体がスイス国内から伝書鳩を放つことを禁止したという。 参考文献 『官報』(明治二十三年十月九日付。第二一八五号) |
ドイツのベルリンで伝書鳩会議が開かれる。 フリードリヒ・レオポルト親王、カルテンボルン陸軍大臣、ヴァルデルゼー参謀本部長をはじめ、多数の陸軍将校が出席する。 現在、ドイツの飼養する伝書鳩は、少なくとも七万羽を下らないという。 参考文献 『官報』(明治二十三年十一月二十六日付。第二二二四号) |
華族同方会の例会において、谷 干城が軍用鳩の使用法について演説する。 参考文献 『読売新聞』(明治二十四年六月十六日付) 読売新聞社 |
イギリス海軍当局者は、数年来、鳩信役務に注目してこなかった。大陸諸国が国防の任務に関してこの方法を拡張していく中、ポーツマスにおいて数羽の伝書鳩を飼養しているにすぎない。イギリスだけが鳩信役務を採用しないゆえんは、新思想を排斥するイギリスの保守主義が原因である。 しかし、イギリス海軍当局者は、伝書鳩を重要な通信法と認識し、来年の海軍演習において、南海岸の諸所に設置中の該通信役務の利否を試験するという。 以上、同日発刊のイギリスの刊行物より。 参考文献 『水交社記事』(第二十号) 水交社 |
スコットランドの首都エディンバラで発行されている『イブニング・ディスパッチ』紙があるが、同紙を出している新聞社の社屋には、たくさんの鳩が飼われていて、これが巧みに利用されている。競馬や集会などの催しがあると、記者は一羽~数羽の鳩を取材先に持っていく。現地で記事を書いたら、これを鳩の両脚に結びつけて放鳩する。鳩は前日から餌を減らされているので、脇目も振らずに鳩舎を目指す。そして、鳩が鳩舎のトラップをくぐると、編集局のベルが鳴る仕組みになっていて、その帰りを知らせる。編集局で雇っている子供が屋上の鳩舎に行って、鳩に餌を与えながら、鳩の両脚から記事を受け取る。この仕組みは最も快速な方法だという。 以上、同日付の『東京日日新聞』の記事より。 参考文献 『東京日日新聞』(明治二十四年十月十三日付) 東京日日新聞社 |
ドイツ伝書鳩愛好家クラブ連盟とプロイセン王国戦争省が交わした契約に、以下の条項が盛り込まれる。 ・ドイツ国家が所望する特定の飛行経路における鳩の訓練 ・自由な飛行経路 ・国家メダルと証明書 ・金メダルの授与 ・銅メダルおよび銀メダルの授与 ・連盟に対する軍事機関からの補助金 参考文献 『愛鳩の友』(平成二十一年五月号) 愛鳩の友社 「Verband Deutscher Brieftaubenzüchter e.V.」 http://web.brieftaube.de/ |
時事新報社がフランスとベルギーから鳩を輸入し、飼養する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年五月号) 愛鳩の友社 |
陸軍工兵会議の鳩舎において、三羽~九羽の軍用鳩の成績が比較される。 これらの鳩は、アメリカ種、清国種、両種の雑種、に分かれるが、そのうち、アメリカ産およびアメリカ種の鳩が平均分速七五八メートルを記録し、他種を引き離す。 参考文献 『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 |
陸軍工兵会議の鳩舎において、米が浜(神奈川県)方面からの放鳩訓練がおこなわれる。 その結果、アメリカ種の軍用鳩が依然として好成績を残したことから、アメリカ種以外の鳩を廃鳩にする。 ☆補足 東京家禽雑誌社『東京家禽雑誌』(第二十五号)に、以下の記述がある(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 『東京家禽雑誌』(第二十五号) 東京家禽雑誌社 『東京朝日新聞』(明治二十五年七月二十二日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(明治二十六年一月十一日付) 東京朝日新聞社 |
近年、家禽協会の品評会に出品されるジャコビンやポーターなどが人気で、価格が高騰している。これらの鳩は一つがいで一〇〇円~一五〇円内外、卵は一個で十円~十五円くらいの値段で取り引きされている。 この流行は、四、五年前に、実業家の岩崎弥之助が一〇〇〇円を投じてイギリスから十つがいのジャコビン種を輸入したことがきっかけになっている。岩崎の染井の別荘で飼育されている、これらのジャコビンは、人によくなれて、大いに繁殖する。 最近では、伝書鳩や食用鳩も流行の兆しがあり、日本種のレンジャクバトやクジャクバトなども幾分か値を上げている。 以上、同日付の『読売新聞』の記事より。 参考文献 『読売新聞』(明治二十五年四月二十日付) 読売新聞社 |
ベルギー鳩界はその揺籃期からフランスを放鳩地に選び、毎年、膨大な数の鳩をフランスに運んでいる。しかし、フランス政府がこれに着目し、この日、一〇〇キログラムの鳩に対して二十フランの税金を課す法律を定める。ベルギーの愛鳩家は放鳩地をドイツに変更して対抗するが、種々の理由から放鳩地をフランスに求める愛鳩家がたくさんいたという。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年六月号) 愛鳩の友社 |
陸軍の鳩飼養に触発されて、東京朝日新聞社が一つがいのエンゲージ・キャリアーの飼育をはじめる。 ☆補足一 この年以降、東京朝日新聞社は、しばしば放鳩実験をしているが、実際に伝書鳩を通信に用いたのは、一八九五(明治二十八)年六月二十日、朝鮮から井上 馨公使が帰国した際のことで、品川で放鳩した伝書鳩が井上の帰国を東京朝日新聞社に知らせている。 ☆補足二 古くは通信用に使われ、現在は観賞鳩になっているイングリッシュ・キャリアー(English Carrier)の、なまった言い方がエンゲージ・キャリアーではないかと筆者(私)は想像している(エンゲージ → イングリッシュ)。または、エンゲージのスペルを「engage」、キャリアーを「carrier」とそれぞれ解釈すると、「Engage Carrier」となり、この単語からいくつかの意味を推測できる。 一方、日本鳩レース協会『レース鳩』(平成八年二月号)に掲載された記事「日本の鳩レースは120年前の明治9年から郵便鳩の名称で行われていた。」によると、一八九四(明治二十七年)年二月に日本海軍はアメリカの銘鳩「エンゲージ・キャリア号」を種鳩として導入したという。ときに〓〓号と称していても、鳩の系統などを表すことがあるので、鳩の一個体の名前とは限らないが、ここは素直に、鳩の個体の名称と受け止めたい。 さて、そのうえで、これはどう考えたらよいのだろう。 筆者(私)の想像とは別に、一八九三(明治二十六)年一月に朝日新聞が一つがいのエンゲージ・キャリアーを導入したという出来事(本項の記事)と、『レース鳩』誌の主張が食い違っている。すなわち、鳩の種類の名称なのか、鳩の個体の名称なのかが分からない。 臆測にすぎないが、当時は「エンゲージ・キャリア号」の血を引く鳩のことをエンゲージ・キャリアーと総称していたのかもしれない。そうだとすれば、一八九三(明治二十六)年に朝日新聞が一つがいのエンゲージ・キャリア一を導入し、翌年の一八九四(明治二十七年)年にその源鳩である「エンゲージ・キャリア号」を日本海軍が輸入したと解釈できる。 ちなみに、武知彦栄『伝書鳩の研究』では、イングリッシュ・キャリアーとエンゲージ・キャリアーをそれぞれ呼び分けて記していて、同書に、以下の記述がある。
詰まるところ、本件に関して、筆者(私)の力量では、よく分からない、としか言いようがない。 参考文献 『朝日新聞社史 明治編』 朝日新聞百年史編修委員会/朝日新聞社 『東京朝日新聞』(明治二十六年四月二十二日付) 東京朝日新聞社 『レース鳩』(平成八年二月号) 日本鳩レース協会 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 |
今月号の水交社『水交社記事』(第三十二号)に掲載された記事「欧州諸国伝書鳩営配置」によると、フランスが十八都市、ポルトガルが十四都市、スペインが十八都市、イタリアが十四都市、スイスが四都市、ドイツが十七都市、オーストリアが七都市、デンマークが一都市、スウェーデンが一都市、ロシアが五都市、伝書鳩営をそれぞれ設置しているという。 ☆補足 「伝書鳩営」という言葉が独特で古めかしいが、軍用の鳩舎のことと思われる。 参考文献 『水交社記事』(第三十二号) 水交社 |
シェルブールの伝書鳩会社が、シェルブールのナポレオン広場において、約二〇〇羽の伝書鳩を放鳩する。鎮守府司令長官および陸海軍の諸官憲がこの催しに臨席する。 以上、同日発刊のフランスの刊行物より。 ☆補足 明治頃の翻訳記事では、民間の鳩クラブなどを「会社」と表記することがある。日本法における「会社」ではなく、同人の会や結社の意味における「会社」である。 参考文献 『水交社記事』(第三十八号) 水交社 |
荒井第二郎が『鳩たより風船はなし』(恵愛堂)を出版する。『東京朝日新聞』(明治二十六年六月一日付)に載った広告において、本書は、以下のように紹介されている。
☆補足 「風船」とは飛行船のこと。 参考文献 『鳩たより風船はなし』 荒井第二郎/恵愛堂 『東京朝日新聞』(明治二十六年六月一日付) 東京朝日新聞社 |
陸軍工兵会議で飼養中の軍用鳩は、今度、第四師団の工兵大隊でも飼養することになり、すでに工兵会議から同大隊に数つがいが送致されている。 また、第五師団においても軍用鳩飼養の儀を申し出ているという。 以上、同日付の『東京朝日新聞』の記事より。 ☆補足 『東京朝日新聞』(明治二十一年十月六日付)の記事によると、すでに明治二十一年の段階で第五師団は鳩を飼養しており(◆一八八八〔明治二十一〕年十月六日の項、参照)、上記の一文にある、第五師団においても軍用鳩飼養の儀を申し出た、との記述と矛盾する。しかし、現在までの飼養が非公式で、今回、正式な飼養の許可を申請しているとしたら、一応、説明がつく。もちろん、筆者(私)の想像なので、この解釈が正しいという保証はない。また、どちらかが誤記している可能性も考えられる。 参考文献 『東京朝日新聞』(明治二十六年八月三日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(明治二十一年十月六日付) 東京朝日新聞社 |
明治天皇が陸軍砲工学校を行幸し、講堂において、川人潔太郎工兵中尉の「軍用鳩の応用」などの講話を聞く。 前田正隆工兵中尉が明治天皇の御前に進み、三羽の軍用鳩を籠から取り出し、市ヶ谷見付の砲兵会議所に向けて、これを放つ。軍用鳩の翼の下には通信文が挟み込んであり、羽根には笛が結びつけてある。この笛は飛翔すると音が鳴る仕かけになっていて、害鳥よけになっている。 午前十一時三十分に放鳩した軍用鳩は、二四七〇メートル先の砲兵会議所に午前十一時三十四分に到着する。その知らせを耳にした明治天皇は満足したという。 ☆補足一 『読売新聞』(明治二十六年十一月二十六日付)と『東京朝日新聞』(明治二十六年十一月二十六日付)が「軍用鳩の応用」の講演者を「前田正隆工兵中尉」と記しているが誤り。 正しくは、「川人潔太郎工兵中尉」である。 ☆補足二 伝書鳩の笛については、牧畜雑誌社『牧畜雑誌』(第一二八号)に、以下の記述がある(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
伝書鳩に付す笛は明治頃までの話で、余興をのぞくと、それ以降の大正、昭和の時代では廃れている。これはヨーロッパにおいても同様である。 その理由の一端をうかがわせる一文が、速記彙報発行所『速記彙報』(第五十五冊)に掲載された記事「伝書鴿」(話者・中村愛三)に載っている。 それによると、北京では竹で作った軽い笛を鳩に取りつけていて、それが風に逆らってヒューウという音がするので、鷹はこの音を恐れて鳩に近寄ってこないそうである。しかし、ヨーロッパ人はこれに疑問を持っていて、鷹よけの効用は少なく、多くは遊びのためにするものであり、かえって鳩が驚く害があるという。 また、ピジョンダイジェスト社『ピジョンダイジェスト』(昭和四十七年七月号)に掲載された記事「レース鳩の起源 NO.2」によると、第二次世界大戦中、R・A・F鳩部隊は鷹狩用のハヤブサの襲撃に悩まされ、エヴァル軍曹がこの被害を抑えるために中国製の竹笛を用いるが、そのもくろみは外れ、単に鳩を仰天させただけで、鳩飼養者には極端に不人気だったという。 参考文献 『読売新聞』(明治二十六年十一月二十六日付) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(明治二十六年十一月二十六日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(明治二十七年四月二十五日付) 東京朝日新聞社 『牧畜雑誌』(第一二八号) 牧畜雑誌社 『速記彙報』(第五十五冊) 速記彙報発行所 『ピジョンダイジェスト』(昭和四十七年七月号) ピジョンダイジェスト社 『陸軍砲工学校略史』 陸軍砲工学校 『明治天皇御伝記史料 明治軍事史』(上巻) 陸軍省/原書房 |
同日付のロンドン、チャイナ新聞の記事によると、先頃、アメリカ海軍の軍艦・コンステレーション号は、海上から伝書鳩の使用を試み、すこぶる好成績を収めたという。二十七羽の鳩のうち二十五羽が鳩舎に帰還し、二十五回の通信を遂げたそうである(以上、アメリカ海軍のチェスター少佐の報告より) 参考文献 『水交社記事』(第四十三号) 水交社 |
イタリアが首都・ローマに軍用鳩通信の中央局を設置し、全国の鳩通信所とこれを結ぶ。 ☆補足一 イタリアの軍用鳩研究は熱心で、鳩通信所の数が多くなかった一八八八年において、年六万フランを経費として支出している。 ☆補足二 イタリアは、ローマと近郊の都市を結ぶ往復通信をおこない、当時の軍用鳩関係者の注目を集める。 ☆補足三 イタリア海軍の艦艇から放たれた鳩がレコード記録を打ち立てている。また、艦隊行動中、通信艇より数時間速く、鳩が通信任務を果たす。 ☆補足四 例外もあるが、鳩が二〇〇キロ以上飛翔することがないように、イタリア軍はその範囲内に鳩舎を設ける。戦略的な理由のほかに、長距離飛行に伴う危険を回避する目的があった。 参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『鳩たより風船はなし』 荒井第二郎/恵愛堂 |
一八八八年九月七日の法律に基づき、ポルトガルの鳩通信所が十四箇所に増える。 ☆補足 鳩通信所間の距離は短く抑えられた。これはポルトガルが山国だったことがたたって、猛禽類が多く出没するからである。 鳩の飛行距離を短くすれば、それだけ猛禽類の被害を軽減できる。 参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『鳩たより風船はなし』 荒井第二郎/恵愛堂 |
一八九一(明治二十四)年よりイタリア公使館付武官として勤務中の伊地知彦次郎海軍大尉(最終階級、中将。日本海海戦時、戦艦・三笠の艦長)が、軍令部総長宛てに上申をおこなう。現在、イギリスで建造中の軍艦・竜田(水雷砲艦。後に通報艦)の日本回航時、イタリアのナポリに寄港してもらい、その際に伝書鳩十羽を竜田に積み込みたい、との要望である。これは、伊地知が飼養している伝書鳩を日本に持ち込むための方策であった。 ☆補足一 海軍大臣官房『海軍制度沿革』(巻十五)によると、伊地知は、オーストリアのプーラ軍港で手に入れた一つがいの鳩をイタリア公使館内で繁殖させて、その数を十羽に増やす。そして、さらに二十羽を購入して竜田に乗せ、計三十羽を日本に送ったとある(オーストリア産?十羽、イタリア産二十羽の内訳と思われる) なお、一八九八(明治三十一)年にまとめられた『横須賀鎮守府飼養伝書鳩ノ状況』に、
と、書かれていて、日本に持ち込まれたイタリア種の鳩数に若干の相違がある。 ☆補足二 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十五年八月号)に掲載された随筆「霊翼気焔」(作・喜多山省三)に、以下の記述がある。
参考文献 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06091012200、明治27年 公文備考 兵器図書医務衛生人事巻4(防衛省防衛研究所)」 『横須賀鎮守府飼養伝書鳩ノ状況』 『日本鳩時報』(昭和十五年八月号) 大日本軍用鳩協会 『連合艦隊軍艦銘銘伝 全八六〇余隻の栄光と悲劇』 片桐大自/光人社 |
日本海軍が横須賀鎮守府構内に鳩舎を建てて、アメリカ産の伝書鳩を飼育する。これが海軍における鳩飼養の端緒となる。 なお、海軍が鳩飼養をはじめたのは、東京朝日新聞社の神田記者の助言があったからだといわれている。 横須賀鎮守府を訪れた神田記者は、こう語ったという(朝日新聞出版『週間朝日』〔十二巻二十一号〕に掲載された記事「鳩の大手柄 空中飛脚雑話」より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足 日本鳩レース協会『レース鳩』(平成十七年六月号)に掲載された記事「日本のレース鳩の夜明け」によると、この海軍の軍鳩研究に刺激を受けて民間初の愛鳩家団体・大阪鳩楽会が結成されたという。そして、一九一四(大正三)年に名称を大阪好鳩会に改めたという。 参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 『週刊朝日』(十二巻二十一号) 朝日新聞出版 『レース鳩』(平成十七年六月号) 日本鳩レース協会 |
陸軍工兵会議の鳩舎において、昨年三月~本年二月まで、それぞれの鳩の能力を比較するために、数羽が毎回、羽田を経て館山方面から放鳩される。 この期間中、放鳩訓練停止による、通信能力への影響を明らかにするために、米が浜(神奈川)方面からの放鳩にとどめる実験もおこなわれる。 そうして、五ヶ月間、放鳩訓練を停止した後(制限を加えた後)に十六羽の鳩を放つと、無事に十五羽が帰舎し、失踪は一羽にとどまる。 参考文献 『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 『東京朝日新聞』(明治二十六年一月十一日付) 東京朝日新聞社 |
沿岸の灯台が難破船や漂流船を発見しても、その灯台のある地の市街に知らせに行かなければ救助船を出せず、しばしば手をつかねてその危害を傍観することがある。現在、四国の沿岸の一部に水難救済会が設けられているが、いまだ全国に実施するまでに至っていない。そこで、各灯台の中で最も音信不便な灯台で伝書鳩を飼い、難破船や漂流船を発見したときにはこの鳩を使って通報しようと、目下、協議中である。 以上、同日付の『東京朝日新聞』の記事より。 参考文献 『東京朝日新聞』(明治二十七年四月十四日付) 東京朝日新聞社 |
陸軍工兵会議の鳩舎において、回虫が発生する。腸内に巣くう、この虫によって、鳩は食欲を失い、やがて衰弱死する。ひどいときには一日で八羽の鳩が失われる。軍医と獣医が、病鳩の隔離、駆虫剤・強壮剤の投与、清潔法などを実施する。また、鳥獣業者に質問し、関係書籍をもとに治療に手を尽くす。 この回虫の発生により、一〇〇羽ほどいた鳩が四十羽に減少する。 十月になって病勢が衰えるが、一羽も産卵しなくなる。 鳩の訓練も中止を余儀なくされる。 参考文献 『偕行社記事』(第一六九号) 偕行社 |
ドイツが帝国議会において、伝書鳩保護法を可決する。これにより、ドイツの伝書鳩は、翼の下側にドイツ皇帝の保護印が押されることになり、その軍事的性格を強める。また、ドイツ鳩界は、プロイセン王国戦争省から、後には帝国海軍省から、毎年、補助金を受けるようになる。 ☆補足一 この法律により、戦時において陸軍官憲の許可なく鳩を私用通信に用いることが禁じられる。この禁を破った者は一ヶ月以上三ヶ月以下の禁錮刑に処される。 ☆補足二 フランスもドイツと同じような法令を制定している。それによると、警察署の許可なく伝書鳩を飼ってはならず、飼養鳩数と鳩の飛行経路を警察に届け出なければならない。毎年一回、内務大臣の命により、伝書鳩の登記をおこなう必要がある。以上の規則に違反した者には罰金が科せられる(治安を脅かす鳩通信〔スパイ行為の一環など〕をおこなった者は投獄される) なお、小長谷勝利『ピジョン・スポーツ入門 レース鳩に関するQ&A「170」』によると、フランスでは近年まで鳩飼育をするには国務省の許可が必要で、一九九四年になって鳩飼育が自由化されたという。 『愛鳩の友』(昭和三十八年十一月号)に掲載された記事「外国鳩界と日本鳩界 ―講演趣旨―」(作・関口竜雄)にも同様の記述がある。同記事によると、ヨーロッパで鳩を飼うには政府の許可が必要で、写真入りの許可証を持って協会に行き、登録をしてもらうという。脚環のない鳩は法律によって飼うことができず、国によっては必ず鳩の左脚に住所と氏名の入った脚環をつけなければならないとのことである。また、他人の鳩は一切飼うことができず、所有権証と実在する鳩が符合していなければならない、ということが法律に定められているという。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十八年十一月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(平成二十一年五月号) 愛鳩の友社 「Verband Deutscher Brieftaubenzüchter e.V.」 http://web.brieftaube.de/ 『東京家禽雑誌』(第五十八号) 東京家禽雑誌 『各国兵事摘要』(第八十五) 参謀本部 『ピジョン・スポーツ入門 レース鳩に関するQ&A「170」』 小長谷勝利/愛鳩の友社 |
日清戦争が勃発する。 この戦争で日本軍が軍用鳩を使用することはなかったが、民間愛鳩家のこぼれ話として、以下の話が伝わっている(武知彦栄『伝書鳩の研究』より引用。一部、文字表記を改めている)
☆補足 関口竜雄『鳩と共に七十年』によると、日本で最初に創立された愛鳩家団体はこの大阪鳩楽会で明治二十七年頃のことだという。当初はミジカバトや文鴿(いろもの)などの愛玩用の鳩のみを飼育する団体だったが、日清戦争の頃に帰巣性のある鳩を飼育する愛鳩家が次第に増加したことから鳩レースのために放鳩訓練をするようになり、後に会の名を大阪好鳩会に改めたそうである(一九一四〔大正三〕年、会名変更) なお、観賞鳩「ミジカ」については、『愛鳩の友』(昭和三十一年十月号)に掲載された記事「ものがたり日本鳩界史」(一、日本鳩界の夜明)に記述がある。 以下に、その内容を要約しよう。 大正時代の末期、「ミジカ」が流行したが、体形の特徴で優劣を競う観賞鳩だった。くちばしがとても短小で、くちばしがついていないと言ってよいほどの個体もあった。鼻瘤がエンドウ豆のような円形でポツンとついているのがよいとされた。自分でうまく餌をついばめないので、飼い主は水に浸した菜種をスプーンで与える。「ミジカ」に雛が生まれても、親は二、三日しか餌を与えないので、くちばしの長いキャリアー種のような仮母を用意し、代わりに雛の世話をさせる。雛の巣立ち後は、飼い主が一生、手数のかかる世話をしなければならない。くちばしが短ければ短いほどよいとされたので、優れた「ミジカ」の飼い主ほど、煩わしさが増大する、面倒な鑑賞鳩だった。 小野内泰治『日本鳩界史年表』(1)によると、「ミジカ」は背部が美しい鳩で中国から伝来したものであるという。大阪を中心に、京都、奈良地方で流行し、銘鳩ともなれば、一羽二、三十円~二、三〇〇円で売り買いされ、一〇〇円程度の鳩ならどこにもいたそうである。 参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 『愛鳩の友』(昭和三十一年十月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十三年五月号) 愛鳩の友社 『伝書鳩 もうひとつのIT』 黒岩比佐子/文芸春秋 |
日清戦争中、大本営は、清国軍の誇る二戦艦――定遠と鎮遠が、壱岐や対馬に接近してくることを恐れる。そこで本日、大本営は電命を発して、二十五羽の軍鳩(アメリカ産十二羽、イタリア産十三)を佐世保鎮守府に送る。 その後、定遠と鎮遠の動静をいち早く把握するために、佐世保~対馬間の鳩通信を試みるが、使翔者の不慣れや準備不足によって何の成果も得られずに終わる。 ☆補足一 一八九五(明治二十八)年一月十六日、壱岐島沖からの放鳩では五羽中二羽が帰ってくる。しかし、これが最後の成功となる。 一八九五(明治二十八)年一月二十三日、郷の浦(壱岐島)から放鳩した二羽が失踪したことにより、この通信計画は中止を余儀なくされる。 ☆補足二 武知彦栄大尉はその著作「軍用鳩研究ノ方針」において、以下のように述べる(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08021351200、大正8年 公文備考 巻37 航空2 (防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 『週間朝日』(十二巻二十一号) 朝日新聞出版 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08021351200、大正8年 公文備考 巻37 航空2 (防衛省防衛研究所)」 |
近年は民間にまで伝書鳩の飼養が広まっているが、元来、伝書鳩は六羽をもって一隊をなし、前衛(二羽)、中堅(二羽)、後殿(二羽)に分ける。各ペアは、一羽が通信文を携行し、もう一羽が害鳥よけの笛を装備する。 日本における飛翔記録としては、東京~横須賀間の成績が最もよい。大阪~東京間は、箱根山の存在が、やや鳩にとって危険だが、問題なく通信できる。 現在における確実な効用距離は八十里(三一四キロ)といわれていて、軍艦に軍用鳩を飼養するのが最も効用あり、と言う者もいる。 以上、同日付の『読売新聞』の記事より。 ☆補足 その後の大正、昭和の鳩教範を読むと、六羽で一隊を形成し、通信文を三通、笛を三つ携行する、という記述は見当たらない。明治頃までの知見と思われる。 また、軍鳩についても、軍艦上で飼養するのが最も効果的である、と言う者がいたというが、大正時代に実施された海軍の研究では、結果は正反対で、艦上鳩は労力の割に効果が薄い、として否定されている。 参考文献 『読売新聞』(明治二十七年十月十四日付) 読売新聞社 |
同日付の『官報』が、イギリスの新聞に載った、軍用鳩に関する記事を紹介している(以下、要約) ・戦時に重要な通信手段となる伝書鳩に関して深く留意していないのは独りイギリスのみである。 ・昔時、カエサルは伝書鳩通信をおこない、オランダ人もスペインからの独立戦争において伝書鳩を利用する。普仏戦争では、プロイセン軍に包囲されたパリが、伝書鳩を載せた気球を飛ばして、外部との連絡に成功する。この普仏戦争以降、各国で軍用鳩に注目が集まり、飼養されるようになる。 ・ロシアはポーランドの要塞で三〇〇〇羽の伝書鳩を飼養し、その経費として毎年四万マルクを支出する。ドイツはロシアより少ないが、それなりの経費を支出する。フランスは毎年八万マルクを支出する。 ・アメリカはインディアン戦争において軍用鳩を使用する。 ・船舶から陸地へ向けて、伝書鳩を飛ばすのはそれほど難しくないが、陸地から船舶に向けて飛ばすのはとても難しい。 ・海底電線の敷設が困難なところでは、灯台や灯台船において伝書鳩を使用し、この不便を補っている。 ☆補足 ノーマン・ポルマー トーマス・B・アレン『スパイ大事典』によると、アメリカは一八七〇年代のインディアン戦争中に陸軍に伝書鳩部門を設置し、一九五七年にこれを廃止したという。 このアメリカの伝書鳩部門の廃止は日本でも報道されていて、潮書房の軍事雑誌『丸』(昭和三十二年八月特大号)に「軍用鳩の動員解除」という題の記事が載っている。 同記事によると、第二次世界大戦中のアメリカ陸軍の軍用鳩は五万四〇〇〇羽に達し、世界各地の戦線に従軍して輝かしい戦功を立てたが、最近の電子兵器の発達は軍用としての鳩の価値をほとんどなくしてしまい、近くこれらの軍用鳩は兵役を解かれて、八つの動物園と公園に寄贈されることになったという。 参考文献 『官報』(明治二十七年十一月二十日付。第三四二〇号) 『読売新聞』(明治二十七年十一月二十一日付) 読売新聞社 『スパイ大事典』 ノーマン・ポルマー トーマス・B・アレン 著 熊木信太郎 訳/論創社 『丸』(昭和三十二年八月特大号) 潮書房 |
陸軍工兵会議の鳩舎において回虫が発生した事件以降、一羽の鳩も卵を産まなくなっていたが、この年、鳩が産卵するようになる。 一八九四(明治二十七)年五月中旬の回虫発生から、実に一年以上たってからのこととなる。 参考文献 『偕行社記事』(第一六九号) 偕行社 |
フランス軍が騎兵隊に軍用鳩を配備する。 ☆補足 はじめ、騎兵が軍用鳩を携行するのは不可能とされていた。馬の震動が鳩籠に伝わって、中の鳩が弱ってしまうのである。 後に、フランス軍のポール・ド・ブノワ将軍(熱烈な愛鳩家で知られる)は、馬の震動が鳩に伝わりにくいように工夫した騎兵籠を考案する。この背負い式の騎兵籠は、一八九六年、一八九七年、一八九八年のフランス軍の陸軍大演習で用いられる。その試験結果は良好で、以後、軍用鳩は騎兵と行動をともにするようになる。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 |
アメリカ海軍兵学校の伝書鳩役務に関する報告書(マリオン教授よりグリーリー信号部長宛て)の内容が、今月号の水交社『水交社記事』(第六十四号)に載っている(「米国海軍ノ伝書鳩役務」) 以下に、その内容を紹介しよう。 アメリカ海軍兵学校は、伝書鳩役務に係る試験を一八九二年より創始し、以来、兵学校生徒の演習航海の際は伝書鳩を携行しているが、昨年夏季の航海では、二五〇マイルの遠距離から通信をもたらし、最も速い鳩は一時間につき四十マイルの割合で飛翔する。練習艦・モノンガヘラ号から放った二十五羽のうち、兵学校の屋上に帰着できなかった鳩は一羽にすぎない。 同報告書は、この伝書鳩役務が海軍に有用であることは明白であるとして、フランス、ドイツ、イタリア、ロシア、オーストリア、イギリス、カナダ(ハリファックスに本屯所を設置)の諸国に倣って国会の決議を経てその基礎を確立されることを望む、などと提言している。 参考文献 『水交社記事』(第六十四号) 水交社 |
同日付の『読売新聞』に、「伝書鳩」(作・胡蝶園主人)と題した読み物が載っていて、いくつか興味深いことが書いてある(以下、要約) ・九州からの来客を横浜で出迎えた作者は、携行してきた伝書鳩を飛ばして、客人二名が無事に到着したことを東京に知らせる。また、第二便として、箱根に寄って数日保養してから東京に帰ることを知らせる。 ・東京朝日新聞社は伝書鳩を数十羽飼っていて、品川および原辺に出張する者が一、二羽を携行して、現地から本社に記事を送る。本社は迅速に原稿を入手できるので、編集上、都合がよいという。 ・横浜の貿易商・西村某は、日々、社員を東京株式取引所に出張させているが、その社員に五、六羽の伝書鳩を持たせて、時々の株式相場を横浜に送らせているという。 参考文献 『読売新聞』(明治二十九年三月二日付) 読売新聞社 |
陸軍工兵会議の鳩舎において、近場での放鳩試験が再開される。 一八九四(明治二十七)年五月中旬に起こった回虫被害による停滞をようやく脱する。 参考文献 『偕行社記事』(第一六九号) 偕行社 |
陸軍工兵会議の鳩舎において、羽田沖からの遠距離放鳩試験が再開される。 回虫被害が発生した一八九四(明治二十七)年五月中旬から数えて、二年がかりの正常化となる。 参考文献 『偕行社記事』(第一六九号) 偕行社 |
先頃、アントワープ~コンピエーニュ間において、伝書鳩とツバメの放鳥試験をおこなったアントワープ人がいる。そのアントワープ人は、自宅に巣を作ったツバメを捕らえて、これに彩色を施し、たくさんの伝書鳩とともにコンピエーニュに送り、午前七時十五分、放鳥する。 ツバメは電光のような速力で直ちに北方に飛び去るが、伝書鳩は空中をしばらく旋回して方向判定した後、飛び去る。 午前八時二十三分、ツバメはアントワープに帰還するが、伝書鳩はその第一着のものでも午前十一時半頃になってから帰還する。 ツバメは一時間七分の飛翔時間において二三五キロを飛び、一分間に三四五五メートルもの速力に至り、一時間に二〇七キロを飛翔する。一方、鳩は一分間に九二二メートル、一時間に五十七キロを飛翔するにすぎない。 以上、同日発刊の海外の刊行物より。 ☆補足 古い文献を読んでいると、伝書鳩と同様に、ツバメやミツバチを通信試験に供する記録が出てくる。 上記の一文もそのような記録の一つに該当し、この実験ではツバメが伝書鳩より好成績を収めている。 水交社『水交社記事』(第一二六号)に掲載された記事「伝書鳩ト燕」によると、冬季にツバメが生存して通信できるのか疑問があるが、ツバメの利点として、伝書鳩より快速であり、その快速ゆえに猛禽類の餌食になることが少ないという。 もっとも、その後、ツバメやミツバチを実用通信に利用した例を聞いたことがないので、伝書鳩ほどの成果は上がらなかったようである。 参考文献 『官報』(明治二十九年七月十三日付。第三九一一号) 『東京朝日新聞』(明治二十九年七月十五日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(明治三十四年六月十九日付) 東京朝日新聞社 『水交社記事』(第一二六号) 水交社 |
イギリス海軍が海上通信用として伝書鳩の訓養を決定する。 現在、フランスやアメリカの海軍では伝書鳩を訓養しているが、イギリス海軍ではデヴォンポート海兵団付の将校が自費で伝書鳩を飼育しているにすぎない。しかし、通信用として使える鳩が六十羽いて、将校らの努力により、その最長距離は約七十五マイルに及ぶ。 協議のうえ、海軍本部がこの事業を引き受け、水雷艇または水雷破壊艇を用いて訓練をおこなう予定になっている。 以上、同日発行のアメリカの刊行物より。 参考文献 『明治二十九年十二月 外事年報付録』 海軍軍令部 『水交社記事』(第七十二号) 水交社 |
フランス鳩界の底上げを目指す法律に、フェリックス・フォール大統領が署名する。これはフランス鳩界に関する、各種の政令、法律、規則の一つを代表するもので、先に出されている陸軍大臣ビロの省令(一八八七年八月十九日)につながるものである。 鳩レースの奨励や、その優勝者に対する陸軍大臣賞の授与など、細かく内容を定めている。伝書鳩の世界において、軍民一体の協力体制が形作られる。 『愛鳩の友』(昭和三十四年六月号)に掲載された記事「古今東西(7)」(作・関口竜雄)に、以下の記述がある。
*「旅行鳩」とあるが伝書鳩のこと。 ☆補足 フランス軍は軍用鳩通信の試験をモロッコでおこなう。移動する部隊と司令部との間を鳩がつなげる。 ユベール・リョーテ将軍は、数分間で分解できる、ロバに積載可能な鳩舎を考案する。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『愛鳩の友』(昭和三十四年六月号) 愛鳩の友社 |
同日発行の海外の刊行物によると、アメリカ政府はメア島の造兵所に伝書鳩駅舎を設けることを決定したという。 同港を抜錨する船舶が鳩を携行し、これを順次に放って通信する。その最大距離は二五〇マイルに及ぶという。 参考文献 『官報』(明治二十九年九月十七日付。第三九六八号) 『東京朝日新聞』(明治二十九年九月十八日付) 東京朝日新聞社 |
イタリア陸軍は、ナヴァ阻止堡の付近で実施した攻防演習において、ナヴァ~ローマ間に定期の伝書鳩通信を開設する。アレッサンドリア、ピアチェンツァ、ボローニャおよびアンコーナに中間局を設置し、通信文はわずか十分間~十五分間で到達する。 一方、イタリア海軍は、海軍大演習において、数百羽の伝書鳩をラ・スペツィアより常備艦隊旗艦・シチリア号に携行し、艦隊の報告を陸上に伝えたという。 以上、同日発刊のドイツの刊行物より。 ☆補足 上記の一文は、偕行社『偕行社記事』(第一六二号)に掲載された記事「伊国ノ伝書鳩勤務」をもとに記す。 同記事に、数百羽の伝書鳩、とあるが、史料によって羽数が異なる。 以下の三記事には、シチリア号ほか二艦に八十羽を搭載、などと載っており、数百羽なのか八十羽なのか、よく分からない。 水交社『水交社記事』(第七十五号)に掲載された記事「伊国海軍大演習伝書鳩ニ関スル試験」、海軍軍令部『明治二十九年十二月 外事年報付録』に掲載された記事「伊国海軍大演習中伝書鳩ニ関スル試験」、海軍軍令部『外事年報付録』(第二回)に掲載された記事「伊国海軍演習ノ際ニ試用セル伝書鳩」 参考文献 『偕行社記事』(第一六二号) 偕行社 『水交社記事』(第七十五号) 水交社 『明治二十九年十二月 外事年報付録』 海軍軍令部 『外事年報付録』(第二回) 海軍軍令部 |
イタリア海軍が本年の演習において伝書鳩に関する種々の試験をおこなう。その試験結果は秘密に属するが、シチリア号ほか二艦に計八十羽の伝書鳩を搭載する。 給餌は放鳩二時間前に実施し、天候がよく、猛禽類の襲撃などがなければ、速力は一時間に約四十八マイルに達する。信書は、極めて薄い紙でできていて、これを鵞羽の茎内に装入し、その両端に封蝋を施し、鳩の体躯に結着するという。 以上、同日発行のフランスの刊行物より。 ☆補足 一八九六年九月十二日発行のイギリスの刊行物にも、このイタリア海軍の演習の記事が載っている(以下、その要約) シチリア、ウンベルト、サヴォイアの三艦に八十羽の伝書鳩を分乗し、鳩の扱いになれた陸軍兵が試験事務をおこない、軍艦乗組の下士がこの補助に当たる。 都合四回、本試験を実施するが、いずれも満足のゆく結果が出る。概して、短距離においては雄よりも雌が速やかに飛行する。長距離においては雌よりも雄が体質強壮の故に好成績を残す。放鳩の際は五羽を通例とする。 イタリア海軍は、伝書鳩に対する考課表を作っていて、各鳩の年齢、両親、性能、作業などをここに記入し、役務の参考に役立てている。 *上記の要約では省略したが、支障なく平順に飛ぶ際は一時間につき「約八十四マイル」を鳩は進むと同記事にある。 フランスの刊行物では一時間に「約四十八マイル」、イギリスの刊行物では一時間に「約八十四マイル」とあるので、双方の記述が食い違っている(どちらかの誤植か) 普通、伝書鳩は一分間に一キロを飛ぶ、とされているので、これを単純に適用すると、「約四十八マイル」が妥当かと思われる。ただし、鳩が高分速で帰還する場合もあり得るので、「約八十四マイル」の可能性も捨て切れない。 詳細不明。 参考文献 『明治二十九年十二月 外事年報付録』 海軍軍令部 『外事年報付録』(第二回) 海軍軍令部 『水交社記事』(第七十五号) 水交社 |
同日発行のイギリスの刊行物によると、目下、イギリス海軍はデヴォンポートのワイズ山に伝書鳩二〇〇羽を飼養するための鳩舎を設置しようとしているという。これは過日、キーハム海兵団において、伝書鳩が軍艦と陸上間を通信しているが、その試験結果が良好だったため、いよいよ海軍本部は、伝書鳩飼養の規模拡張に至ったのだそうである。 『外事年報付録』(第二回) 海軍軍令部 『水交社記事』(第七十五号) 水交社 |
明治天皇の横須賀行幸において、横須賀鎮守府は、数百羽の軍鳩の中からイタリア種一つがいとアメリカ種一つがいの計四羽を選んで天覧に供する。 参考文献 『読売新聞』(明治二十九年十一月二十七日付) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(明治二十九年十一月二十六日付) 東京朝日新聞社 |
大阪朝日新聞社がフランスとベルギーから鳩を輸入し、屋上に鳩舎を設置する。しかし、不慣れのためか、全鳩が失踪する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年五月号) 愛鳩の友社 |
東本願寺の布教師がフランスから伝書鳩数十羽を持ち帰り、飼育する。しかし、経験不足により、伝書鳩利用は不成功に終わる。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年五月号) 愛鳩の友社 |
列強国の中でイギリスだけが唯一、官設の鳩舎を設けていなかったが、この年、イギリス海軍省はポーツマス(三〇〇羽)とデヴォンポートに海軍鳩通信所を設置する。 また、カナダのハリファックスに海軍鳩通信所を設置し、セーブル島から通信をおこない、この間を航行する海軍艦艇から鳩を放って、迅速な通信を図る。 ☆補足 イギリスでは長らく、沿海地の情報を中央に知らせるために、毎日、鳩を放つ。そして、その情報をもとに、新聞記事を作る。また、ボートレースなどが開催されると、船に乗り込んだ新聞記者が鳩を放ってレースの模様を伝える。 参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『鳩たより風船はなし』 荒井第二郎/恵愛堂 |
フランス海軍の大演習において、各艦艇が鳩を放つ。 鳩は平均七十キロの速度で郵便物と通信文を運び、トゥール、アンジェ、レンヌの三都市に帰還する。 演習後、フランス海軍省は海軍鳩舎を設置することに決める。 ☆補足一 この分野ではイギリスとアメリカが先んじていて、ドイツとイタリアも同様の試験を盛んにおこなっている。 遅ればせながら、フランスもようやく、海軍鳩舎の設置を実行に移す。 ☆補足二 フランス海軍は、ブレスト、ナント、トゥーロン、マルセイユなどの港湾都市に鳩舎を設ける。毎年、若干名の水兵が選ばれて、海上用軍鳩の使鳩術を学ぶ。海軍の鳩通信所には、その訓練用の水雷艇が一隻ずつ割り当てられる。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 |
デヴォンポートのワイズ山に造営中の鳩舎は、工事が進捗し、来年の三月末までには鳩舎を使用できるという。デヴォンポートの鳩舎では約二〇〇羽の伝書鳩を飼養し、海上通信のために利用する計画がある。 ほかにイギリス海軍本部は、ポーツマスに鳩舎を設置するため、来年度予算(一八九七年)に三〇〇もしくは四〇〇ポンドの支出を要求する予定だという。 以上、同日発行のイギリスの刊行物より。 ☆補足一 一八九七年に出た刊行物に「来年度予算(一八九七年)」と記してあることから、記事は前年の一八九六年のものと思われる。 ちなみに、そのポーツマスの鳩舎の位置は、信号台の設備のあるビクトリーの付近――ラット島に設けるという。 ☆補足二 海軍軍令部『外事年報付録』(第四回)に掲載された記事「通信法ノ前途(無線電信機ト伝書鳩)」によると、デヴォンポートの鳩舎をワイズ山に設けたのは、鳩がその巣を視認しやすくするためだという。 『外事年報付録』(第二回) 海軍軍令部 『外事年報付録』(第四回) 海軍軍令部 『水交社記事』(第七十九号) 水交社 |
八王子大火が発生し、焼死者四十二人、負傷者二二三人、全焼家屋三三四一戸の被害を出す。 宇田川竜男『レース鳩 飼い方と訓練法』によると、当時はまだ中央線がなく、東京の各新聞社は取材のために徒歩で現地に急行したが、そのうち朝日新聞社の記者は伝書鳩を携行していたので、他社よりも早くニュースを伝えることができたという。 ☆補足一 国松俊英『ハトの大研究 古代から人とともに生きてきた鳥』によると、現地に赴いたのは東京朝日新聞社の河野玄隆探訪員で三羽の鳩を携行して汽車で八王子に向かったという。 前述した、宇田川竜男『レース鳩 飼い方と訓練法』では、取材者は徒歩で現地に向かうが、この本では、取材者は汽車で現地に向かっている。事実関係がやや異なる。 ☆補足二 『愛鳩の友』(昭和五十年一月号)に掲載された記事「――若人にかたる―― 日本鳩界の歴史」(作・小野内泰治。連載第三回)に、以下の記述がある。
ほかに、東北鳩協会青森支部『伝書鳩』に掲載された記事『鬼熊事件当時の本社伝書鳩の活躍』(作・東京朝日新聞社伝書鳩係)によると、朝日新聞社は四月二十二日午前四時からの大火の顛末を四月二十三日の朝刊に詳報して読者はもとより同業者をあっと言わせたという。 参考文献 『レース鳩 飼い方と訓練法』 宇田川竜男/鶴書房 『ハトの大研究 古代から人とともに生きてきた鳥』 国松俊英 文 関口シュン 絵/PHP研究所 『愛鳩の友』(昭和五十年一月号) 愛鳩の友社 『伝書鳩』 東北鳩協会青森支部 『新聞研究』(昭和五十八年十一月号) 日本新聞協会 |
同月発行のイタリア海軍の刊行物によると、フランス海軍は海上の艦船から陸上へ迅速に通信するために伝書鳩を用いるに至り、ブレンヌ号には伝書鳩八十羽を収納する鳩舎があるという。 『外事年報付録』(第二回) 海軍軍令部 |
三人のスウェーデン人――サロモン・アウグスト・アンドレー、クヌート・フレンケル、ニルス・ストリンドベリが、スピッツベルゲン島から気球(エルネン号)に乗って旅立ち、気球による北極圏到達を目指す。 伝書鳩と、ブイに結ばれたカプセルによって、三回の通信がなされるが、その後、アンドレーらは消息を絶つ。 一九三〇年、ノルウェーのブラトヴァーグ探検隊によって、アンドレーらの遺体が発見される。 参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『氷島のロビンソン』 クルト・リュートゲン 著 関 楠生 訳/学習研究社 |
フランス海軍省は以前より、各艦隊の数隻に軍鳩を飼養することについて、その方法を研究しているが、最近、シェルブール軍港長に、北海艦隊の二隻に軍用鳩舎を設けるように命じる。 シェルブール軍港の造船部は、これを受けて、試しに戦闘艦・ブーレーヌと巡洋艦・ブリュイの二艦に、六十羽入りの鳩舎を設置するという。 鳩舎の製造費は二万四〇〇〇ルーブルで、亜鉛製の鉄柵でこしらえ、通風のよい甲板上に設置される予定である。 なお、鳩はブレストの海軍軍用鳩飼養場より送り届ける。 この試験が成功したらフランスの各艦隊は軍鳩を採用し、各国もまた、それに倣うだろう。 以上、同日発刊のロシアの刊行物より。 参考文献 『水交社記事』(第八十六号) 水交社 |
同日発刊のイギリスの刊行物によると、フランス海軍は全ての軍港および水雷艇停泊所に鳩飼養所を設置し、トゥーロン~コルシカ間、コルシカ~ビゼルタ間、ビゼルタ~アルジェリア間で連絡を取っているという。 訓練法としては、水雷艇あるいは小舟に鳩を搭載してこれを放鳩するが、その距離を順次増加していき、最終的に遠距離の通信に耐えられるようにするそうである。 参考文献 『外事年報付録』(第四回) 海軍軍令部 『水交社記事』(第八十八号) 水交社 |
ニュージーランドでグレート・バリア・リーフ鳩信商会が設立される。 オークランドに本社があり、グレート・バリア・リーフとの間の通信業務を請け負う。 利用者は伝書鳩を借りて船上からこれを放鳩する。そうして、鳩が通信文を持ってオークランドの鳩舎に帰ると、係員は通信文を取り出し、それを封筒に入れて、宛名を記入する。 この鳩便のために、グレート・バリア・リーフ鳩信商会は専用の郵便切手(鳩が封筒をくわえた意匠)を印刷する。ただし、一八〇〇枚しか発行されなかった。 参考文献 『交通文化』(第十一号) 国際交通文化協会 |
普仏戦争後、ドイツは熱心に伝書鳩の繁殖、研究に努める。 一八八八年には、わずか七十八団体だった鳩組合が、この当時には五一六団体に増えていて、戦時動員できる鳩数は二十万羽に達する。 参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『鳩(改訂版)』 松本 興/三省堂 『普鳩』(昭和十七年五月号) 中央普鳩会本部 |
米西戦争において、アメリカ軍は、沿岸二十二箇所に同色同型の鳩舎を設置して艦艇と海岸間で通信をおこない、いち早く戦況をつかむ。しかし、その通信成績は振るわず、平時待望していた結果は得られなかったともいう。 『愛鳩の友』(昭和三十四年六月号)に掲載された記事「古今東西(7)」(作・関口竜雄)によると、この戦争の結果、鳩の脚に取りつけるアルミ製の通信筒(信書管)がアメリカ海軍鳩舎の勤務者によって発明されたという。この通信筒(信書管)が登場する前は、鳩の尾羽の羽軸に小筒を無理に通して、これに手紙をつけていたとのことである。 なお、同記事に、以下の記述があることから、米西戦争前の一八九五年にすでに通信筒(信書管)は完成していたようである。
「発明」という言葉が、「一八九五年」と「一八九八年米西戦争」の二つの出来事に使われているので、執筆者の関口が何を言っているのか、よく分からない。「発明」が二回もある。 これを無理やり解釈すると、アメリカ海軍鳩舎の勤務者が通信筒(信書管)の材質をアルミ製に改良した、という「発明」を述べているのだろうか。そう理解すれば筋は通る。 または、戦争で通信筒(信書管)が用いられたのは米西戦争が最初である、という「発明」を述べているのだろうか。 詳細不明。 ☆補足 信書管の装着法について、共同通信社『ニュースマンズ・ハンドブック』に、以下の記述がある。
参考文献 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 『愛鳩の友』(昭和三十四年六月号) 愛鳩の友社 『外事年報付録』(第五回) 海軍軍令部 『ニュースマンズ・ハンドブック』 共同通信社/板垣書店 |
同日発行のアメリカの刊行物に、アメリカ海軍のエバール大尉の説が載っている。 それによると、よく訓練された伝書鳩は、その鳩舎所在地より一五〇マイル以内に在りては、陸上、海上を問わず、そのうちの八割が一時間に二十五マイルないし四十マイルの速度で飛行することは疑いないそうである。また、イタリア海軍の演習に徴するに、短距離では雌が雄よりも速く、長距離では雄が雌よりもはるかに優れているという。 参考文献 『外事年報付録』(第五回) 海軍軍令部 |
同日発行のイギリスの刊行物によると、目下、イギリス海軍は、ポーツマス、デヴォンポート、シーアネスの三造船廠において、伝書鳩約一五〇羽を飼育しているが、軍艦の試運転その他のための出港ごとに、この伝書鳩を搭載して、その飛行力を試験しているという。結果は良好で、道に迷う伝書鳩はわずかとのことである。 参考文献 『外事年報付録』(第五回) 海軍軍令部 |
海軍軍令部『外事年報付録』(第五回)に、「戦時ニ於ケル伝書鳩」という題の記事が載っている。これは、一八九八年九月十七日発刊のアメリカの刊行物を翻訳したもので、アメリカ軍の伝書鳩について述べている。 以下に、この内容を箇条書きにして紹介しよう。 ・アメリカ軍は米西戦争に際し、艦艇と海岸との間における通信上の媒介として伝書鳩を実地に使用する。その成績は、平時待望するようにならず、かえって不成功に終わる。 ・アメリカ海軍省は、昨年の十二月より伝書鳩を使役することに決し、一大準備を整える。従来、海岸に沿う全ての海軍衛地に信号手を派出し、これをもって艦艇の通航を当局者に通報しているが、今回、これらの衛地に鳩舎を設置し、また、主要な海軍活動の諸中心点――キーウェスト、ニューポート、ハンプトン・ローズ、ニューヨーク、メア島などにも鳩舎を新設する。とりわけ、キーウェストには鳩舎本部を設置し、老功な管理者と、海外の受賞鳩(昨年、海軍兵学校のマリオン教授が海外で買収する)を送致する。キーウェストは以前より警邏艦がしばしば至り、伝書鳩を使役して報告を海岸に送致できる便宜の地であると認識されている。ほかにトルタガスにも鳩舎を設置し、ニューポートには大鳩舎を設置する。 鳩は多くの場合において使命を果たさず、放鳩数の五割が首尾よく諸艦より飛び去って鳩舎に帰るにすぎない。これは、鳩が途中、キューバや南フロリダ付近の熱帯地方の果実に誘われ、政府より供与されている好餌を忘れ、帰舎しないためであろう。 キーウェストおよびトルタガスより放った伝書鳩は正確迅速に目的地に達するが、巡邏艦より放ったものは失敗に帰す。この伝書鳩使役制度が功を奏しないのは、熱帯地方の温度に起因する。その理由とするところは、北方になるに従って伝書鳩が奏功し、十中八九まで信書をもたらして指定の地に到達するからである。 ・アメリカ政府は、目下、ニューハンプシャー州のポーツマス、ニューポート、ニューヨーク、ノーフォーク、キーウェスト、ガルベストンおよび太平洋岸のメア島に鳩舎を有している。 先に二五〇海里の洋外にある米国輸送船(軍隊を搭載しマニラに赴こうとするもの)から伝書鳩を放ったところ、諸鳩は無事に帰舎し、放鳩当時の輸送船の位置を正確に伝える。この場合においては伝書鳩使役制度が見事に奏功したことから、アメリカ海軍当局者はキーウェストにおける失敗のために挫折せず、さらにこの制度拡張の議を唱えて、海岸における各海軍衛地に速やかに鳩舎と伝書鳩を備えるようにする。また、艦艇においても海岸を航行する際には伝書鳩を放って伝書鳩使役制度の効否を試験しようとする。伝書鳩がその任務を有効に果たしたときは、そのもたらした通信を取り、これをワシントンの海軍省に送致するという。 ・マリオン教授は、海外諸国における伝書鳩使役制度を視察し、精密な報告書にまとめているが、伝書鳩使用法が諸邦間に流行するに至り、とりわけ、これを商業用に応用するに至っていることを縷説する。マリオン教授の報告によると、至良の伝書鳩はベルギーに最も多く、ベルギーには数ヶ所の広大な鳩舎があり、政府は伝書鳩使役制度の発達を翹望し、その奨励に努めているという。 参考文献 『外事年報付録』(第五回) 海軍軍令部 |
軍用鳩研究のために、陸軍鉄道大隊(東京中野)の松本三省工兵大尉が清国北京に向けて出発する。 ☆補足 同年十月七日に松本が陸軍大臣宛てに上申した書類(官房第一七八〇号)に、十月二十三日出発との予定日を確認できたので、この日を出発日と仮定する。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10061649000、明治31年 官房3号編冊 3冊の1(防衛省防衛研究所)」 |
同日付の『東京朝日新聞』の記事によると、京橋区銀座三丁目の古月堂が御歌題「伝書鳩」にちなんだ新菓子を売り出したという。 参考文献 『東京朝日新聞』(明治三十一年十一月十八日付) 東京朝日新聞社 |
『横須賀鎮守府飼養伝書鳩ノ状況』という文書が作成される。 それによると、現在、横須賀鎮守府は、イタリア産(伊地知彦次郎大尉が持ち込む)とアメリカ産(東京某所より入手した数羽を繁殖させたもの)の二種類の軍鳩を飼養しており、鳩舎は、本府鳩舎(イタリア種およびアメリカ種)、布良望楼(イタリア種)、長津呂望楼(アメリカ種)の三つに分かれているという。 各鳩舎の羽数は、以下のとおり(引用している表は、文字やデザインなどを一部加工および修正している。「*注」は筆者〔私〕による注記)
参考文献 『横須賀鎮守府飼養伝書鳩ノ状況』(防衛省防衛研究所)http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/Viewer?id=1000367099&bid=0000006818 |
ル・アーヴル~ニューヨーク間を航行するフランス汽船は、今月中に伝書鳩の使用を開始する。汽船会社から鳩信部の組織を嘱託されている、フランス陸軍のレイノー騎兵大尉は、このたび、試験を実施し、航海中の汽船が陸地に向けて間断なく通信できることを確認している。 汽船は、訓練済みの伝書鳩十二羽を積み込んで、金曜日にル・アーヴルを出港し、日曜日の午前六時~午前十時にシリー島を航過後、乗客・乗員の通信を一つに集めて縮写する。そして、この縮写を鳩に付して空に放つ。鳩がル・アーヴルに帰還したら、運ばれてきた縮写を写真器で引き延ばして、各送付先に通信を配達する。通信を集めて縮写するのは、全ての通信を一羽の鳩で輸送できるからである。 汽船がニューヨーク近くに達した際の放鳩では、鳩はル・アーヴルに帰還するのではなく、ニューヨークに帰還し、この通信は海底電信によってル・アーヴルに転送される。 以上の方法を用いれば、汽船の乗客は絶えず故郷のル・アーヴルに通信できる。 以上、同日付の『ニューヨーク・ヘラルド』紙の記事より。 ☆補足一 鳩がル・アーヴルとニューヨークにそれぞれ飛んで帰るということは、ル・アーヴルの鳩舎で訓練した鳩と、ニューヨークの鳩舎で訓練した鳩を汽船は積んでいなければならない。 汽船の往来に便乗して、それぞれの鳩を搭載したように思われる。 ☆補足二 海軍軍令部『外事年報付録』(第八回)に掲載された記事「仏国海軍と伝書鳩」(『ニューヨーク・ヘラルド』〔一九〇〇年一月十三日付〕紙からの翻訳記事)に続報が載っている。 同記事によると、フランスの大西洋汽船会社は都合三十二回の航海に伝書鳩を使用し、五〇〇キロの長距離を通信したという。昨年の六月十七日に一回失敗しただけで、そのほかはことごとく成功し、鳩の失踪は全数の三分の一にすぎず、フランス海軍省はこの成績を見て、大いにこの通信法に重きを置くに至り、次回の演習には、この通信法を試用するそうである。 参考文献 『外事年報付録』(第六回) 海軍軍令部 『外事年報付録』(第八回) 海軍軍令部 |
軍用鳩研究のため、清国公使館付武官として派遣されていた松本三省工兵大尉が帰国する。 ☆補足 『読売新聞』(明治三十二年三月十五日付)に掲載された記事「伝書鳩と松本大尉」の内容をもとに、松本の帰国を四月もしくは五月と仮定する。同記事によると、一八九九(明治三十二)年四月下旬まで清国に滞留予定とのことなので、日本への帰国は四月末か五月上旬になる。 軍事史学会『軍事史学』(第四十七巻第二号)に掲載された論文「日本陸軍における初期の伝書鳩導入」(作・柳澤 潤)に、四月末に松本が帰国したと載っているが、帰国が五月にずれ込んでいる可能性があるので、やや不正確な記述といえる。 ちなみに、この論文の当該箇所も、上述した『読売新聞』の記事をもとに書かれている。 参考文献 『読売新聞』(明治三十二年三月十五日付) 読売新聞社 『軍事史学』(第四十七巻第二号) 軍事史学会 |
陸軍工兵会議議長が陸軍大臣に対し、構内において当分の間、空砲発火の認可を求める(議甲第十一号)。これは、陸軍工兵会議が飼養している軍用鳩に、小銃の発射音を聞かせて、戦場の音に慣れさせるためである。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C07041531400、参大日記 明治32年6月(防衛省防衛研究所)」 |
「伝書鳩取扱ノ件」(鉄運乙第一五六九号)が出される。 内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08021598800、大正9年 公文備考 巻45 航空9 (防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08021598800、大正9年 公文備考 巻45 航空9 (防衛省防衛研究所)」 |
ドイツ沿岸付近もしくは沿岸に遠くない場所にあるドイツ伝書鳩協会の伝書鳩は、戦時にはドイツ海軍の監督下に入って通信の任に当たる。目下、北海のヘルゴラント島および同島の西おおよそ三〇〇〇キロを隔てた洋上(スカゲラクおよびカテガットより北西もしくは南西)において、その実地練習をおこなっている。偵察艦が遠距離から敵艦の接近を伝書鳩で報知することにより、味方の艦隊は準備を整えられ、また、偵察途上の軍艦はこれを取りやめて戦闘事務に加われる利点がある。 沿岸に住むドイツの伝書鳩飼養者は、洋上での伝書鳩使用に賛成し、これを栄誉ある義務だと見なしている。 以上、同日発刊のドイツの刊行物より。 参考文献 『外事年報付録』(第七回) 海軍軍令部 |
目下、陸軍工兵会議は、アメリカ種の軍用鳩を試験中で、羽田、横須賀、下田(伊豆)と、その放鳩距離を延ばし、好成績を収めている。 八月二十四日の午前三時半、日本郵船会社の汽船・和歌浦丸に託されていた軍用鳩四羽が、御前崎沖(静岡県)から放鳩される。 八月二十五日の午後四時四十分、通信文を脚につけた一羽の軍用鳩が工兵会議の鳩舎に帰ってくる。ほかの三羽は、いまだ帰還していないが、道に迷っているとしても、そのうち帰ってくる見通しだという。 以上、八月二十一日付および二十八日付の『東京朝日新聞』の記事より。 ☆補足 陸軍工兵会議の放鳩訓練について、牧畜雑誌社『牧畜雑誌』(第九十七号)が以下のように伝えている(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『東京朝日新聞』(明治三十二年八月二十一日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(明治三十二年八月二十八日付) 東京朝日新聞社 『牧畜雑誌』(第九十七号) 牧畜雑誌社 |
ローマ市から約三キロ離れたモンテコリオ砲台のそばに、モンテコリオ伝書鳩飼養所がある。ここは僧正の別荘で、山上に高くそびえていて、付近から最も識別しやすい。 モンテコリオ伝書鳩飼養所は四階建てで、二階と三階を鳩の居住に充て、一階を食餌供給、事務室、電鐘、写真、馬車などに充てている。最上階である屋根の上面は、平坦で、たくさんの水盥があり、鳩が随時、水浴できるようになっていて便利である。 鳩室は、実用鳩、練習鳩、媾和鳩などに区分している。 実用鳩は使用地域に応じて室が異なり、マッダレーナ地方、ガイタ地方、アンコーナ、ピエモンテ地方というように、その使役方向に応じて訓練をおこなっている。鳩に地理を熟知させることを重視していて、決してこれを混ぜない。 練習鳩は、生後六ヶ月前後の鳩を集めた幼稚舎において、もっぱら練習を要する。 媾和鳩は、雄と雌の間に戸扉を設置し、夏期は自由に出入りさせるが、冬期は戸扉を閉めて媾合を遮断する。 鳩舎の各室は清潔を旨とし、たたきの土間は水掃に都合がよい。室内の食餌箱、水飲瓶、寝箱などの構造は、ジュゼッペ・マラゴリの教科書の図解どおりである。 以上、同日発刊のイタリアの刊行物より。 参考文献 『外事年報付録』(第十回) 海軍軍令部 |
ジャン・クレマン・バーゼンス砲兵大尉(ベルギー陸軍)の叙勲の裁可を、内閣総理大臣が明治天皇に仰ぐ。 バーゼンスは袁世凱の顧問として清国に滞在中、日本公使館付武官に清国軍に関する情報を伝え、貴重図書も同武官に交付する。また、軍用鳩研究のために清国に派遣されていた松本三省工兵大尉に、軍用鳩に関する情報を綿密に教示し、鳩舎の配置や軍用鳩使用法に関する冊子を編述して贈る。バーゼンスはベルギーへの帰国に当たって、日本に立ち寄り、良種の鳩若干を贈与する。 以上の功績により、バーゼンスは、勲五等双光旭日章に輝く。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A10112504800、白耳義国陸軍砲兵大尉ジャン、クレマン、バーゼンス叙勲ノ件(国立公文書館)」 |
陸軍が清国から三〇〇羽の鳩を輸入する。 参考文献 『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 |
この年から、横須賀鎮守府、佐世保鎮守府、竹敷要港部において、正式に軍鳩が飼養される。 佐世保鎮守府と竹敷要港部の軍鳩は、先行して鳩研究をおこなっていた横須賀鎮守府から送られる。 参考文献 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 |
『独乙軍事技術雑誌』(第九号。正式名称不明)がドイツで出版される。 内容としては、軍用鳩飼養に関する基本事項について、まとめている。 翻訳年は不明だが、ドイツ語学者の堀江有政が、『独乙軍事技術雑誌一千八百九十九年第九号摘訳 軍用伝信鳩』と題して、本誌の一部を日本語に訳している。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06091049500、明治28年 公文備考拾遺 完自明治28年至36年(防衛省防衛研究所)」 |
第二次ボーア戦争において、関係国の軍隊が伝書鳩を使って通信する。 ☆補足 中距離、長距離の通信で、ボーア軍が盛んに伝書鳩を用い、イギリス軍にあらがう。また、イギリス軍もレディースミスが包囲されたとき、伝書鳩を使って外部と通信する。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10062334100、明治32年 杜国事件の経過 第7号(防衛省防衛研究所)」 『動物の奇習奇観』(中巻) 松下禎二/細菌学時報社 |
陸軍工兵会議が実施中の春季伝書鳩試験は、赤羽から雀宮(栃木県)まで達し、好成績を収める。しかし、その一方、日本鉄道の好意により無賃乗車させた軍用鳩の成績が思わしくなく、おびただしい失踪を出す。 以上、同日付の『東京朝日新聞』の記事より。 参考文献 『東京朝日新聞』(明治三十三年五月五日付) 東京朝日新聞社 |
フランス海軍は今回の演習において、伝書鳩の試験を数回おこない、良好な成績を得る。艦隊とブレスト、あるいはシェルブールとの間の通信は問題なく維持され、一羽も失わなかったという。 以上、同日発刊のイギリスの刊行物より。 参考文献 『水交社記事』(第一二〇号) 水交社 |
在イギリスの小田喜代蔵中佐が海軍大臣宛てに、「伝書鳩ノ件上申」を上申する。 マンチェスターの養鳩家――アルフレッド・ダービシャーが、伝書鳩六つがい(食餌その他一切の用具つき)を日本に献納したいと同国駐箚帝国公使に申し出たので、装甲巡洋艦・吾妻の回航に合わせて日本に輸送したい、との内容である。 ちなみに、ダービシャーの献納の趣旨は、ボーア戦争において日本国民がイギリスに表した友情に対する一個人の礼意、とのことである。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10127162200、明治33年 公文雑輯 巻16 物件4止 土木1(防衛省防衛研究所)」 |
同日付の外国報によると、先日、黒海において、ロシア汽船・ノヴォセリスキーが伝書鳩の試験を実施するが、その長大な海上距離にもかかわらず、放鳩した二〇〇羽の伝書鳩の大半が各港の鳩舎に帰還したという。 参考文献 『外事年報付録』(第十回) 海軍軍令部 |
水交社『水交社記事』(第一二三号)に、「露国絶東ニ伝書鳩ノ必要ヲ感ス」という題の記事が載っている。 これは、一九〇〇年十月二十八日に発刊した、ロシアの刊行物の翻訳記事である。極東での伝書鳩の必要性について記してあり、事変における通信のほか、洪水や暴風などによる交通・通信の途絶時に、鳩が役に立つという。 同記事を以下に紹介しよう(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、判読不能箇所に〓を代入したりしている)
☆補足 「絶東」とあるが、「極東」に相当する訳語と思われる。 また、「浦塩斯徳」とは「ウラジオストック」、「彼得湾」とは「ピョートル大帝湾」のこと。 参考文献 『水交社記事』(第一二三号) 水交社 |
フランスのロワール社で建造された後、回航してきた、装甲巡洋艦・吾妻が横須賀に到着する。 装甲巡洋艦・吾妻はイギリス産の鳩十二羽とベルギー産の鳩三十六羽を積んでいて、これを日本に持ち込む。 ☆補足 その後、舞鶴鎮守府やその他の海軍望楼において、軍鳩の飼養がはじまる。 軍鳩の訓練は、出動艦艇にこれを乗せて、その出動先から放鳩する。 参考文献 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 |
陸軍省が仙台第二師団に向けて一羽の軍用鳩を放つ。しかし、鳩は仙台に到達せず、宇都宮の停車場前・白木屋支店の屋根に舞い降りる。 陸軍省はこの鳩を同地の警察署に付与する。 参考文献 『東京朝日新聞』(明治三十四年三月六日付) 東京朝日新聞社 |
下関ならびに対馬築城部支部と、陸軍鉄道大隊(東京中野)が軍用鳩の飼養をはじめる。 前者については、日清戦争後の一八九五(明治二十八)年、台湾が日本領に組み入れられているが、台湾と日本を結ぶ海底電線が未設であることを受けて、これの代用として、陸軍の要塞に軍用鳩が配備される。 後者の鉄道大隊については、中央鳩舎として要塞などに軍用鳩を分配もしくは補充する役割を担う。 ☆補足 鉄道大隊の鳩数は、費用の許す範囲において、漸次、三〇〇羽に至る計画だった。 参考文献 『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10062367400、明治33年自7月至12月 密受々領編冊附録 韓国駐箚隊長報告(防衛省防衛研究所)」 |
この年、第一師団管下の陸軍鉄道大隊は、陸上と海上の二方面から放鳩訓練をおこなう。陸上訓練は宮城県仙台(東京から三〇〇キロ)を目標(放鳩地)に、海上訓練は静岡県舞阪沖(東京から二五六キロ)を目標(放鳩地)とする。また、これとは別に、栃木県黒磯(東京から一四二キロ)と茨城県高萩(東京から一四二キロ)を目標(放鳩地)とする、幼鳩の放鳩訓練も実施する。 最終的に、以上の地点から放鳩しても、軍用鳩が東京に帰ってこられるようにするため、順次、放鳩距離を延ばして目標地点に近づけていく。 参加羽数は、以下のとおり。 ・仙台を目標とする鳩、十三羽 ・舞阪沖(海上)を目標とする鳩、九羽 ・黒磯を目標とする幼鳩、二十九羽 ・高萩を目標とする幼鳩、十一羽 こうして、はじまった放鳩訓練だったが、仙台を目標とする鳩(十三羽)は、福島県郡山(東京から一九五キロ)からの放鳩で半数が失われる。そして、残余の鳩も、宮城県越河(東京から二五八キロ)からの放鳩までは帰ってこられるものの、目標地点である仙台(東京から三〇〇キロ)からの放鳩で全羽が失踪する。 舞阪沖(海上)を目標とする鳩(九羽)は、静岡県御前崎からの放鳩で八割が失われる。しかし、残った優等の鳩は、目標地点である舞阪沖(海上)からの放鳩に堪えて、東京に戻ってくる。 幼鳩の訓練結果については不明である(*補足) ☆補足 上記の一文は、偕行社『偕行社記事』(第二八四号)に掲載された記事「伝書鳩」をもとに記す。 この記事中、広瀬大平工兵大尉は、幼鳩の放鳩訓練に関し、
と、述べていて、その帰還状況の説明を省いている。 参考文献 『偕行社記事』(第二八四号) 偕行社 |
フランス軍のリュネヴィルの騎兵師団に、ポール・ド・ブノワ将軍がやってくる。 後にブノワは、師団と行動をともにできる移動鳩舎(馬匹牽引)を考え出す。この案は軍の上層部に受け入れられ、フランス東部の要塞全てにこれが配備される。 この頃、第九軍参謀部のレイノー騎兵大尉は、車両型の移動鳩舎(鳩車)を試作していて、これが軍用移動鳩舎(鳩車)の原型になる(第一次世界大戦中の一九一六年、レイノー騎兵大尉は移動鳩舎を実戦投入している。後述) 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『鳩』 松本 興/博友社 |
横須賀鎮守府で飼養している軍鳩(ベルギー産およびイギリス産)が陸軍工兵会議に貸与される。 また、台湾総督府にも軍鳩を譲渡する。 参考文献 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 |
安西という人物が東京市の富士見町にある陸軍工兵会議付になる。 当時、軍用鳩の係は五、六人任命されていたが、皆、軍用鳩の仕事を兼務でおこなっていて、専属で飼育に従事したのは小使いのような者一人だけだった。馴致や舎外運動などは全然おこなわず、放鳩訓練を実施しないときは、鳩に餌を与えるのみだった。 軍用鳩は専任の小使いには馴れたが、安西ら係員には馴れていないので、鳩の取り扱いにずいぶん骨を折ったという。 ☆補足 現在の鳩飼育とは異なり、この当時は赤旗を立てて舎外運動をさせたり、口笛を吹いて餌を与えたりしなかったという。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年六月号) 大日本軍用鳩協会 |
偕行社『偕行社記事』の第二五九号に「欧州各国軍ニ於ケル軍用鳩舎」という記事(ロシア民事新聞より)が載る。 内容は大体、以下のとおり。 ・フランスの軍用鳩舎は国境付近一帯の要塞に設置され、工兵監部の管轄に属する。十個の鳩舎からなる中央飼鳩場はパリにあり、北境要塞との交通は、中間飼鳩場を待たずして、直接おこなう(二四〇キロ以内)。東境要塞における鳩舎との交通を維持するために、ラングルに中間飼鳩場があり、東南境要塞における鳩舎との交通を維持するために、リヨンに中間飼鳩場がある。パリとラングルの飼鳩場の鳩数で、六ヶ月間の鳩通信を全うし得るという。また、最近、戦時前進騎兵部隊と軍司令部との間に軍用鳩通信を設備するために騎兵部隊および司令部にも鳩舎を設置する。 ・ドイツは一八七一年、陸軍省が軍用鳩飼鳩場を設置すべきと問題提起し、一八七四年に及んで、ケルン、メッツ、シュトラスブルク、ベルリンに飼鳩場を設置する(各飼鳩場に一〇〇羽ずつ) 目下、各要塞に飼鳩場があり、規模によって大飼鳩場、中飼鳩場、小飼鳩場の三つに分かれる。小飼鳩場は二〇〇羽、中飼鳩場は六〇〇羽、そして、メッツ、シュトラスブルク、ケルン、トルンのような大飼鳩場は一〇〇〇羽の軍用鳩を飼養する。 以上の飼鳩場は要塞衛戍司令官の管轄に属し、戦時においては全ての民間鳩舎も陸軍省の管轄に入る。 現在の鳩数は七万三〇〇〇羽を数える。 ・オーストリアは一八七五年、コモルンに軍用鳩舎を設置し、次いで一八八二年、クラカウに軍用鳩舎を設置する。しかし、それ以降、国境付近の重要な要塞に軍用鳩舎を設置しようとするが、予算の関係から、いまだにこの計画を実行できずにいる。 ・イギリスは、海岸の若干の要地に鳩舎を設置しているだけである。概して、陸軍省は、鳩舎の設置に顧慮せず、あっせんしない。しかし、戦時においては、民間鳩舎を利用する計画がある。 ・イタリアは一八七六年、アンコーナに軍用鳩舎を設置し、一八七九年、ボローニャに軍用鳩舎を設置する(各鳩舎は五〇〇羽を収容) 現在、ローマにある中央飼鳩場を除けば、国境や海岸地帯に二十三箇所の飼鳩場があり、これらは工兵監部の管轄に属する。 ・スペインは一八七九年、はじめて軍用鳩舎をグアダラハラに設置する。目下、マドリードの中央飼鳩場をはじめ、バリャドリッド、サラゴサ、ヴァレンシア、コルドフ、マラガなどに中間飼鳩場があるが、これらを除いて、なお、国境や海岸の要地に十八箇所の飼鳩場がある。 ・ポルトガルは、リスボンに四〇〇羽を収容する中央飼鳩場を設置し、国境付近の要地に十二個の軍用鳩舎を置いている。 ・スウェーデンは一八八六年、カールスベルク要塞に軍用鳩舎を設置する。目下、唯一の軍用鳩舎である。 ・デンマークは、いまだ軍用鳩舎を設けていないが、陸軍省は必要に応じて民間鳩舎の鳩を利用する。 ・ベルギーは、アントワープに唯一の軍用鳩舎を設けている。民間の飼養鳩は六十万羽を数え、戦時には必要に応じて、充分に訓練された鳩を軍用に供する。 参考文献 『偕行社記事』(第二五九号) 偕行社 |
海軍大臣より横須賀鎮守府司令長官宛てに、「伝書鴿飼養訓練調査委員会ノ件」(海総第七七〇号ノ二)が出される。 内容としては、海軍が伝書鳩の飼養をはじめて数年が経つが、完全な実用化には至っていないことから、伝書鳩飼養訓練調査委員会を設立する、というものである。 この伝書鳩飼養訓練調査委員会は、飼養中の軍鳩について充分な研究をおこない、従来の飼養訓練の適否などについて調査するのを目的とする。 伝書鳩飼養訓練調査委員会の委員は、以下のとおり。 伝書鳩飼養訓練調査委員長 海軍大佐 藤井較一 同委員 海軍中佐 山県文蔵 同委員 海軍少佐 財部 彪 同委員 海軍大尉 山口 鋭 同委員付 海軍上等筆記 織内誠太郎 ほかに委員付一等筆記一名 参考文献 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 『東京朝日新聞』(明治三十四年四月一日付) 東京朝日新聞社 |
陸軍工兵会議付の安西ら五名が放鳩訓練のために国府津および二子山付近に出張する。 ☆補足 安西によると、当時の主任は徳永熊雄中尉だったという。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年六月号) 大日本軍用鳩協会 |
同日付の『東京朝日新聞』の記事によると、現在、工事中の舞鶴鎮守府は、開庁とともに海軍鳩舎を設ける予定だという(予算、一五〇〇円) ☆補足 舞鶴鎮守府は明治三十四年に開庁する。初代司令長官は東郷平八郎中将。 参考文献 『東京朝日新聞』(明治三十四年四月九日付) 東京朝日新聞社 |
村上格一中佐がベルギー陸軍のアルグラン少佐以下四名の叙勲を海軍大臣に上申する。 村上はフランス駐在中、これらのベルギー軍人に軍鳩の飼養・訓練法などについて懇切丁寧な指導や助力を受けている。 また、装甲巡洋艦・吾妻の回航委員付海軍上等筆記・織内誠太郎と、雇員・相沢豊吉が、伝書鳩の飼養・訓練法などの実地研究のため吾妻から派遣された際に、ベルギー陸軍省の許可を得て、アントワープ陸軍鳩舎においてジャンセン以下三名の同鳩舎員に懇切丁寧な指導を受けている。そして、この三名のベルギー軍人は、日本海軍が種鳩を買い入れる際にも伝書鳩のあっせんに力を尽くす。 ベルギー国リエージュ陸軍伝書鳩舎長 アルグラン工兵少佐 勲五等旭日章 ベルギー国アントワープ陸軍伝書鳩舎長 フランソア・ジャンセン工兵大尉 勲五等旭日章 ベルギー国アントワープ陸軍伝書鳩舎取締人 シャルル・ポアジエー工兵軍曹 勲七等瑞宝章 ベルギー国アントワープ陸軍伝書鳩舎掛 シュイス工兵卒 勲八等瑞宝章 ☆補足一 九月二十日、内閣総理大臣が天皇に叙勲の裁可を仰ぐ。 ☆補足二 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十八年十一月号)に掲載された記事「鳩界今昔物語」(作・飯島道之助)によると、執筆者の飯島道之助は、明治三十五、六年頃、海軍で伝書鳩係をしていたという。その当時の横須賀鎮守府参謀長は向山慎吉大佐で、伝書鳩の研究指導に非常に熱心だったそうである。また、その向山の部下に筆記長の織内誠太郎がいたが、陸軍の伝書鳩でいえば中野鉄道大隊に樋口曹長がいたのと同じだという(*注) 海軍における伝書鳩係の祖は相沢豊吉で、ドイツ鳩とフランス鳩をそれぞれ三十羽ほど日本に持ち帰り、欧州式の飼育訓練法を海軍に導入したとのことである(その相沢のあとを継いだ二代目が飯島道之助) *何が「同じ」なのか、飯島の言いたいことが判然としないが、陸軍に樋口がいるなら海軍には織内がいた、と両雄を並び称して述べているように考えられる。または両者とも同様の任務に就いていた、と説明しているように思われる。 *大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十八年七月号)に掲載された記事「徳永大佐を訪ねて 軍鳩の揺籃を聴く」によると、当時、陸軍工兵会議の軍用鳩の主任は樋口万蔵という中尉(故人)だったという。黎明期の軍用鳩関係者は限定されるので、上記の一文にある樋口曹長はこの樋口万蔵のことだと思われる。階級が異なっているが、昇進後の階級であるように考えられる。 樋口は移動鳩車について充分に研究したことで知られている。 ☆補足三 大日本軍用鳩協会『軍用鳩』(昭和十九年一月号)に掲載された記事「鳩界今昔物語(三)」(作・飯島道之助)において、執筆者の飯島は、鳩の帰舎時は飼養者以外、鳩舎に近づいてはならない、などと述べている。また、仮に飼養者であっても、普段と違う服装をしていると鳩が不審に思って入舎しないので、同じ服装でいることを心掛けよ、などとも述べている。 鳩が速やかに入舎しなければ、鳩をつかめないので、通信文を読むことができない。これが戦争中だったら、一刻を争う重大な通信が伝わらない、ということになる。 飯島は同記事において、以下の体験を述べる(大日本軍用鳩協会『軍用鳩』〔昭和十九年一月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
*飯島が笛を吹いたのは鳩を鳩舎に呼び込むためで、普段、この音を合図に餌を与えている。通常なら、笛の音がしたら、鳩は餌をもらえると思って喜んで入舎するが、見知らぬ参謀が二人いるので、これに身がすくんで到着台に近寄れなかったようである。 一方、東京学生軍用鳩連盟『学鳩』(第三号)に掲載された記事「鳩の習性を中心として」(作・山本直文)に、これとは正反対の意見が載っている。それによると、飼鳩家は従来の説を破って、服装などは一定にせず、また常に二、三人に鳩をなれさせておいた方がよいそうである。万が一、飼鳩者に故障が起こったときに、見知らぬ人がいるからといって、鳩が入舎しなかったり、おびえたりしたら大変に困るという。 趣味の範囲の飼育であれば、飼鳩者一人の手で鳩を育てた方がよいのは言うまでもない。しかし、軍隊での鳩飼育であれば、複数名の人間が関わるので、飼鳩者一人の手にとどまるのは到底不可能である。この点を踏まえて山本が意見を述べているものと思われる。 同様の意見が、陸軍省つわもの編集部『つはもの』(第五七四号)に掲載された記事「実戦的鳩訓練の必要 ――鳩兵私見――」(作・水井軍曹)に載っている。 意見の一部を以下に引用しよう。
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06091363000、明治34年 公文備考 巻37土木3止外国人建白請願外交及騒乱(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A10112531900、白耳義国アンウエルス要塞囲郭砲兵材料司令官陸軍砲兵少佐アルフレッド、、ベルトラン以下六名叙勲ノ件(国立公文書館)」 『日本鳩時報』(昭和十八年七月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十八年十一月号) 大日本軍用鳩協会 『軍用鳩』(昭和十九年一月号) 大日本軍用鳩協会 『学鳩』(第三号) 学習院輔仁会伝書鳩部/東京学生伝書鳩連盟 『つはもの』(第五七四号) 陸軍省つはもの編集部/つはもの発行所 |
「陸軍電信教導大隊託送軍用伝書鳩輸送方ノ件」(鉄運乙第九七五号)が出される。 内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08021598800、大正9年 公文備考 巻45 航空9 (防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足 陸軍電信教導大隊の発足は一九〇二(明治三十五)年であるのに、その前年に「陸軍電信教導大隊託送軍用伝書鳩輸送方ノ件」(鉄運乙第九七五号)が出されている。 草案にとどまったのであろうか、詳細不明。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08021598800、大正9年 公文備考 巻45 航空9 (防衛省防衛研究所)」 |
大阪南区市会議員三級選挙において、時々、会場開票の成績が伝書鳩によって予選派の運動事務所にもたらされる。 六月二日に十四回、六月三日に三回、伝書鳩が放たれる。 伝書鳩は秘密の漏洩の恐れがなく、電話が混み合っているときには、かえって便利であるという。 多年にわたり伝書鳩を用いている、予選派の人によると、京都から二十五分、神戸から三十分で、鳩は戻るそうである。 以上、同日付の『時事新報』の記事より。 参考文献 『時事新報』(明治三十四年六月七日付) 時事新報社 |
参謀本部の証明書携帯の付添人が軍用伝書鳩の輸送を鉄道作業局に申し出た場合、手荷物として取り扱う旨の規定が制定される。 以上、六月九日付の『読売新聞』の記事より。 参考文献 『読売新聞』(明治三十四年六月九日付) 読売新聞社 |
伝書鳩飼養訓練調査委員会が横須賀鎮守府司令長官宛てに、「伝書鳩飼養訓練調査復命書」を提出する。同書に添えられた意見書「横須賀鎮守府鳩舎ニ関スル意見」によると、使鳩術の進歩は遅々として進んでいないが、これにはいくつかの原因が考えられるという。放鳩訓練のための艦艇使用がままならないこと、鳩舎の設備が不充分であること、飼養者が数々交代していること、監督者の監督が不充分であること等である。 なお、「伝書鳩飼養訓練調査復命書」に添付されている、『伝書鳩飼養訓練調査委員会調査書』の目次は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06091839400、明治39年 公文備考 巻77運輸交通通信水路地理(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足 「伝書鳩飼養訓練調査復命書」に記されている、伝書鳩飼養訓練調査委員会の委員は、以下のとおり(記載順) 伝書鳩飼養訓練調査委員 海軍大尉 山口 鋭 伝書鳩飼養訓練調査委員 海軍少佐 財部 彪 伝書鳩飼養訓練調査委員 海軍中佐 山県文蔵 伝書鳩飼養訓練調査委員 海軍中佐 小田喜代蔵 伝書鳩飼養訓練調査委員長 海軍大佐 藤井較一 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06091839300、明治39年 公文備考 巻77運輸交通通信水路地理(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06091839400、明治39年 公文備考 巻77運輸交通通信水路地理(防衛省防衛研究所)」 |
同日付の『東京朝日新聞』の記事によると、モスクワ飼鳩支部は満州に伝書鳩を五十つがい送ったという。 参考文献 『東京朝日新聞』(明治三十四年七月四日付) 東京朝日新聞社 |
「陸軍電信教導大隊託送軍用伝書鳩輸送証明書雛形」(日報雑録)が出される(改正 明治三十六年四月 鉄運乙第六三七号) 内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08021598800、大正9年 公文備考 巻45 航空9 (防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている。軍用伝書鳩輸送証明書の雛形の引用は略す〔以下略〕と表記)
☆補足 陸軍電信教導大隊の発足は一九〇二(明治三十五)年であるのに、その前年に「陸軍電信教導大隊託送軍用伝書鳩輸送証明書雛形」(日報雑録)が出されている。 草案にとどまったのであろうか、詳細不明。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08021598800、大正9年 公文備考 巻45 航空9 (防衛省防衛研究所)」 |
「鉄道大隊託送軍用伝書鳩輸送方ノ件」(山陽鉄道運達第一二四七号)が出される。 内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08021598800、大正9年 公文備考 巻45 航空9 (防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている。軍用伝書鳩輸送証明書雛形の引用は略す〔以下略〕と表記)
☆補足 上記の一文は、武知彦栄大尉が書いた文書(参考文献を参照)をもとに記している。武知は同文書内で、山陽鉄道運達第一二四七号の公布日を「八月二十七日」「八月三十日」と、それぞれ別の日付で表記している。 どちらの記述が正しいのか不明。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08021598800、大正9年 公文備考 巻45 航空9 (防衛省防衛研究所)」 |
「下関要塞司令部託送軍用伝書鳩運送方ノ件」(山陽鉄道達第一八九二号)が出される。 内容としては、下関要塞への軍用伝書鳩託送は、山陽鉄道運達第一二四七号に係わる鉄道大隊への軍用伝書鳩託送の場合と全て同様の手続きにより輸送を取り扱うというものである。 ☆補足 上記の一文は、武知彦栄大尉が書いた文書(参考文献を参照)をもとに記している。武知は同文書内で、山陽鉄道運達第一二四七号の公布日を「八月二十七日」「八月三十日」と、それぞれ別の日付で表記している。 どちらの記述が正しいのか不明。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08021598800、大正9年 公文備考 巻45 航空9 (防衛省防衛研究所)」 |
陸軍鉄道大隊は、昨年の放鳩訓練の反省点を踏まえたうえで、軍用鳩を奥羽街道に十四羽、浜街道に三羽、舞阪沖に五羽を送って訓練する。 目標地点である宮城県仙台(東京から三〇〇キロ)からの放鳩はかなわなかったが、宮城県岩沼(東京から二八二キロ)から放たれた鳩が東京に帰り着く。 参考文献 『偕行社記事』(第二八四号) 偕行社 |
陸軍がベルギーから三〇〇羽の鳩を輸入する。 ☆補足 資料によっては、一八九九(明治三十二)年にベルギーから三〇〇羽の鳩を輸入した、と記している。 ここでは、武知彦栄『伝書鳩の研究』の記述にしたがって、一九〇一(明治三十四)年とした。 参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 |
ベルギーの愛鳩家――シルヴァン・ウィツークの著書を、大谷公造工兵大佐が翻訳、出版する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十六年十二月号) 愛鳩の友社 |
「陸軍工兵会議託送軍用伝書鳩輸送方ノ件」(鉄運乙第四〇三号)が出される。 内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08021598800、大正9年 公文備考 巻45 航空9 (防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めている。証明書の引用は略す〔以下略〕と表記)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08021598800、大正9年 公文備考 巻45 航空9 (防衛省防衛研究所)」 |
「築城部対馬支部託送軍用伝書鳩運送方ノ件」(山陽鉄道達第九六二号)が出される。 内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08021598800、大正9年 公文備考 巻45 航空9 (防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足 上記の一文は、武知彦栄大尉が書いた文書(参考文献を参照)をもとに記している。武知は同文書内で、山陽鉄道運達第一二四七号の公布日を「八月二十七日」「八月三十日」と、それぞれ別の日付で表記している。 どちらの記述が正しいのか不明。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08021598800、大正9年 公文備考 巻45 航空9 (防衛省防衛研究所)」 |
同日付の『東京朝日新聞』の記事によると、アメリカ海軍省は伝書鳩の費用として年々四万円を消費しているが、今回、同省は無線電信を採用することになり、今まで使用していた伝書鳩は全く廃物になる見通しだという。 参考文献 『東京朝日新聞』(明治三十五年五月二十五日付) 東京朝日新聞社 |
ロシアの動植物飼養協会の伝書鳩課は、最近の会議において、沿黒竜軍管区高級副官およびザバイカル国境護衛隊長の要求に従い、満州鉄道上に伝書鳩局を設置するため、最も優秀な伝書鳩数羽を司令部の監督に移すことを決議する。鳩が通信任務にたえられるか試験することになるが、多くの伝書鳩課員は会議において、この数羽にとどまらず、さらに見本の伝書鳩数羽を犠牲にせんとの意見を述べる。 以上、同日発刊のロシアの刊行物より。 参考文献 『偕行社記事』(第二九八号) 偕行社 |
クルスクの大機動演習に参加するロシア軍は、伝書鳩部を編成するために、陸軍省と、二、三の私設会社の協力を得て、現今、クルスクおよびコルネヴォ駅に鳩舎を置いている。この地で伝書鳩を馴致した後、騎兵と前衛がこれを鳩籠に入れて携行する。クルスクおよびコルネヴォ駅にもたらされる伝書鳩の報告は、電報によって軍司令部に送るという。 以上、同日付の海外の刊行物より。 ☆補足 「私設会社」とあるが、民間の鳩団体を指しているものと思われる。明治頃の翻訳記事では、民間の鳩クラブなどを「会社」と表記することがある。日本法における「会社」ではなく、同人の会や結社の意味における「会社」である。 参考文献 『偕行社記事』(第三〇二号) 偕行社 |
同日付の『読売新聞』の記事によると、近頃、ロシア陸軍省は、ハルビンの野戦司令部に、一五〇羽の軍用鳩をシベリア鉄道で輸送したという。その結果によっては、さらに一五〇羽の軍用鳩を輸送するとのことである。 参考文献 『読売新聞』(明治三十五年九月二十二日付) 読売新聞社 |
陸軍がドイツから五十羽の鳩を輸入する。また、この年、東京中野に陸軍電信教導大隊が発足する。 ☆補足一 上記の一文は、軍用鳩調査委員『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』の記述をもとに記す。しかし、武知彦栄『伝書鳩の研究』には、ドイツから輸入した鳩の数が「一五〇羽」と載っている。 ドイツからやってきた鳩は「五十羽」なのか、それとも「一五〇羽」なのか、よく分からない。 ☆補足二 小野内泰治『日本鳩界史年表』(1)に、「一八九九(明治三十二)年」に陸軍電信教導大隊が発足したとあるが誤り。 正しくは、「一九〇二(明治三十五)年」である。 ☆補足三 この当時(明治の頃)に作成されたとおぼしき「陸軍通信学校条例」に、以下の記述がある(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06083632100、明治35年乾「貳大日記10月」(防衛省防衛研究所)」より引用)
ちなみに、陸軍通信学校は一九二五(大正十四)年に設置されている。 「陸軍通信学校条例」は、草案だったように考えられる。 参考文献 『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『愛鳩の友』(昭和三十三年五月号) 愛鳩の友社 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06083632100、明治35年乾「貳大日記10月」(防衛省防衛研究所)」 |
ドイツ海軍は、通信用として伝書鳩の適否を厳密に試験した結果、良好な結果を得たので、伝書鳩屯所を常置するという。その本部は、北海はヴィルヘルムスハーフェンとヘルゴラント、バルト海はフリードリヒショルトに置く。 また、六十一の伝書鳩クラブがこの事業を補助し、ドイツ海軍省が軍艦と各クラブ間での鳩籠輸送の費用を支出する。 伝書鳩クラブは、東海岸においては、キールに二箇所、レンツブルクに二箇所、ノートフに一箇所、リューベックに一箇所の屯所を有する。北海岸においては、ハンブルクに十六箇所、ブレーメンに四箇所あり、その他はクレーフェルトとデュッセルドルフとの間のライン川下流地方に散在する。 通信試験の結果、伝書鳩は陸地から三〇〇キロ離れたところから飛び帰る能力があると判明する。海上の軍艦から目的地に速やかな通信を保持するため、実施については複信法を採用する。該法は、大気の状態や距離の遠近などによりそれぞれ異なるが、八十キロ以内の放鳩では、伝書鳩の両羽に同一の信書を付し、八十キロ以上の放鳩では三羽~五羽の伝書鳩を使用する。 羽茎の中に信書を入れて、これを伝書鳩の尾に付すのが一般的な方法である。しかし、このやり方はあまり適切でないことから、別の方法を採用する。植物性の紙に文字を記し、この紙をゴム函の中に入れたら、これをゴム製の環で伝書鳩の脚に固定する。伝書鳩が陸上の屯所に帰還後は、脚から信書を離し、封蝋された状態のまま、集信局に送る。なお、北海岸の伝書鳩屯所には無線電信局の設備があることから、この信書は同局を介してさらに本部に伝送される。 ドイツ海軍は、キールまたはヴィルヘルムスハーフェンを出港する各艦に必ず数羽の伝書鳩を搭載し、海上から放鳩するように規則を定める。 ドイツ陸軍省は伝書鳩を久しく使用して成功を収めているが、海軍における運用は真に新機軸といえる。 以上、同日発刊のアメリカの刊行物より。 参考文献 『水交社記事』(第一四一号) 水交社 |
陸軍鉄道隊(昨年に鉄道大隊から鉄道隊に改称)が軍用鳩の飼養を廃止する。 飼養していた軍用鳩と、鳩舎は、陸軍電信教導大隊に移管される。 今後は、電信教導大隊が中央鳩舎として、所要の要塞等に軍用鳩を分配、補充することとなる。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06084067700、明治38年乾「貮大日記8月」(防衛省防衛研究所)」 |
陸軍工兵会議と陸軍砲兵会議が合併して、新たに陸軍技術審査部が組織されることを受けて、工兵会議は、軍用鳩の飼養を廃止する。 飼養していた軍用鳩や鳩具は陸軍電信教導大隊に移管される。 引き渡された鳩の数と鳩具の一覧は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C07041698000、参大日記 明治36年3月(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、文字表記を改めている)
☆補足 陸軍工兵会議付の安西という人物が以下のように述べている(『日本鳩時報』〔昭和十八年六月号〕より引用)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C07041698000、参大日記 明治36年3月(防衛省防衛研究所)」 『日本鳩時報』(昭和十八年六月号) 大日本軍用鳩協会 |
ウワン・デル・デュッセン・ド・ケステルガット工兵大尉(ベルギー陸軍)の叙勲の裁可を、内閣総理大臣が明治天皇に仰ぐ。 一九〇〇(明治三十三)年、日本陸軍は、中央鳩舎として機能させる目的でもって、陸軍鉄道大隊において軍用鳩の飼養をはじめる。鉄道大隊で飼養する軍用鳩は、各要塞などに分配、補充される計画だったが、同大隊の軍用鳩は清国産で質が悪く、また、教範類や鳩具も充分とはいえなかった。そこで、佐藤忠義砲兵中佐は、知人であるケステルガットに手紙を書いて、種鳩、使鳩に関する書籍、各種鳩具の一切を送付してほしいと依頼する。ケステルガットは公務多忙の中、精選された四十つがいの種鳩(計八十羽。ベルギー種)、五ヶ月間分の鳩の餌(八十羽)、使鳩に関する書籍、鳩具を取りまとめて日本に送る。分けても、使鳩に関する書籍は、従来のありふれた読み物にとどまらない良書であり、ベルギーのアントワープ陸軍鳩舎付のウワン・デル・エイント中尉の講話筆記に至っては、他見を嫌って当時の雑誌等に発表されたことのない秘密に属する内容を扱っていた。 以上の功績により、ケステルガットは、勲五等双光旭日章に輝く。 なお、ケステルガットの送付目録は、以下のとおり。 一、ベルギー種の種鳩 四十つがい(八十羽) 二、鳩餌(八十羽の五ヶ月分) 三、アルミニウム製足環 三十個 四、信書管(アルミニウム製五十個、黄銅製五十個) 五、繋翼革紐 二十個 六、鳩籠(各種) 九個 七、覆卵用巣器(各種) 六個 八、給餌箱 二個 九、水与器(各種) 三個 十、鳩の丸薬 若干 十一、使鳩に関する書籍 三部 十二、アントワープ陸軍鳩舎付 ウワン・デル・エイント中尉の使鳩法に関する講話筆記(ケステルガット手記) *一九〇一(明治三十四)年七月六日、以上の鳩や物品が鉄道大隊に到着する。 ☆補足 ケステルガットの送付した種鳩や鳩教範などについて、一九〇一(明治三十四)年六月下旬に日本に到着した、などと、軍事史学会『軍事史学』(第四十七巻第二号)に掲載された論文「日本陸軍における初期の伝書鳩導入」(作・柳澤 潤)に載っている。この記述は多分、「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B07090261900、陸海軍用機械並器具関係雑件(5-1-5-0-8)(外務省外交史料館)」の中に、六月下旬本邦ヘ到着ノ予定、と記されているのを見て、六月下旬に日本に到着した、と判断しているように思われる。しかし、あくまで予定なので、実際に六月下旬に日本に到着したのか定かでない。このような不明確な日時を記すよりも、「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09122892600、明治35年 人事日記 参人秘号(防衛省防衛研究所)」の中に、明治三十四年七月六日当隊鳩舎ニ送付セラレタリ、という一文が確認できるので、この鉄道大隊に到着した日時を記す方が無難かと思う。もしくは、六月下旬到着予定である旨の断りがあれば適当か。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A10112566100、白耳義国工兵監兼築城監補官陸軍工兵大尉ウワン、デル、デュッセン、ド、ケステルガット叙勲ノ件(国立公文書館)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09122892600、明治35年 人事日記 参人秘号(防衛省防衛研究所)」 『軍事史学』(第四十七巻第二号) 軍事史学会 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B07090261900、陸海軍用機械並器具関係雑件(5-1-5-0-8)(外務省外交史料館)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09122892600、明治35年 人事日記 参人秘号(防衛省防衛研究所)」 |
陸軍電信教導大隊が、偕行社『偕行社記事』(第三二一号)に、「軍用伝書鳩ニ就テ」という記事を発表する。 内容は、「軍用鳩飼養法摘要」「軍用鳩演習実施成績表」(明治三十六年四月~六月まで)からなる。 参考文献 『偕行社記事』(第三二一号) 偕行社 |
日露戦争が勃発する。 この戦争において、日本軍が戦場で軍用鳩を使用することはなかったが、敵の軍用鳩に猛禽類をけしかけて、その通信を妨害しようとする実験を青山練兵場や富士裾野(国府津原)などでおこなう。当時、旅順要塞のロシア軍が鳩通信を実施していて、それが日本軍にとって目障りだった。 この実験には、特に明治天皇から御下賜金があり、宮内省主猟寮に属する腕利きの鷹匠が技を披露する。その結果は上々だったが、随時、使用される軍用鳩に対し、これを待機の姿勢で臨む猛禽類にとって、軍用鳩を捕らえるのは甚だ困難でもあった。 そうした理由もあって、結局、日露戦争において、日本軍が猛禽類を用いることはなかった。 ☆補足一 花見 薫『天皇の鷹匠』に、当時の様子が紹介されている。 以下に引用しよう。
*引用文にある「小林師匠」とは、「小林宇太郎鷹師」のこと。 ☆補足二 宮内省の主猟官・小原駩吉男爵は、日露戦争当時、伝書鳩捕獲用の猛禽類を陸軍に提供して行賞にあずかり、勲四等瑞宝章を受章する。 ☆補足三 長岡外史文書研究会『長岡外史関係文書 回顧録篇』に、放鷹試験に関する長岡外史の回想が載っている。以下に引用しよう(一部、空行を入れている)
上記の一文をもとに作家の司馬遼太郎は、小説『坂の上の雲』のワンシーンを作り上げているように思われる。劇中、長岡外史に「鷹をとばして鳩をおそわせるのだ」と言わせて、日本軍の放鷹試験の発案者を長岡のように描いている。 『坂の上の雲』は一小説なので、そうした誇張に何ら問題はない。問題なのは、この単なる創作の記述を事実だと思い込む読者がいることである(司馬遼太郎自身は本作をノンフィクションと主張しているが、世間一般では小説の扱いである) 余談だが、筆者(私)が軍用鳩に関する情報を集めている際に、「長岡外史発案の放鷹試験」なる話がインターネット上に出回っているのを見かけて困惑した。長岡が放鷹試験の発案者だと明確に示している史料を今まで目にしたことがないからだ。そして、調査を進めていくうちに、どうやら『坂の上の雲』が出典らしいと判明し、「長岡外史発案の放鷹試験」という話は信用ならない、と確信する。 他史料との比較から、長岡は鳩を捕らえる放鷹試験に関与しただけ、という印象を筆者(私)は受ける。放鷹試験の発案者は不明としておくのが無難だと思う。 ちなみに、『坂の上の雲』同様に、長岡を放鷹試験の発案者として描いている読み物『戦争秘録 将軍長岡外史』がある。 同書は劇中、長岡に、以下のように言わせている。
さて、『愛鳩の友』(昭和四十四年十一月号)に掲載された記事「鳩士官修業時代」(作・井崎乙比古)に、以下の記述がある。
ロシア軍の軍用鳩に対して日本の鷹匠が猛禽を放ち、これを捕らえたとする部分は誤りである。また、「と云う」と記されていることから明らかなように、伝聞情報である。 以上の点を踏まえると、全く当てにならない一文のように思える。しかし、執筆者は、軍用鳩調査委員の井崎於菟彦少佐である。鳩の専門家が記した一文を軽んじてよいものか判断に迷う。 その点を最大限、尊重したうえで、慎重にこれを読み解くと、敵軍の軍用鳩に対し、一策を案じたのは長岡外史であるとは書いていない、ということはいえる。単に日本軍が一策を案じたとだけある。つまり、軍用鳩調査委員の残した一文からも、放鷹試験の発案者を長岡外史であるとは断定できないのである。 なお、井崎は、昭和四十五年七月号の『愛鳩の友』誌に「鳩と乃木将軍」という記事を寄稿している。日露戦争当時の放鷹試験について、くだんの一文よりも詳しく説明している。また、その内容の誤りにも気づいたらしく、今回の記事では、間もなく旅順が降伏して開城し、鷹匠の妙技を振るうことはできなかった、などと、正確に事実関係を記している。ちなみに、その開城の際、ロシア軍陣地には立派な鳩舎があり、無心の鳩が目を丸くして豆を食っていたという。 井崎によると、乃木希典大将は、一八七〇年に勃発した普仏戦争において、フランス軍が有効に鳩を使ったことをよく知っていたそうである。ロシア軍の軍用鳩への対策について、日本軍の司令部が議論百出の状態だったとき、乃木は「日本には古来御鷹匠といって訓練した鷹で空飛ぶ大型な鳥さえ簡単に捕えうるから、鷹匠を軍で勤めさせるがよかろう」と発言したという。日本軍は、この乃木の発言により、大本営を通じて宮内省から鷹匠を軍属として迎えたとのことである。 井崎の記した一文が事実なら、放鷹試験の発案者は乃木ということになる。しかし、井崎がその場にいて、乃木の発言を直接聞いたわけではない。また、前述のとおり、井崎の残した文書には、ときに誤りがある。この内容を簡単に信じてよいものか迷う。つまり、依然として、放鷹試験の発案者は不明である、といえる。 ほかに、同記事には、ロシア軍に通じていた中国人スパイの実例が載っている。 旅順要塞の話であるとは断定できないが、参考として、以下に引用しよう。
*井崎は、一九六九(昭和四十四)年十二月十六日放送のフジテレビ「小川宏ショー」に出演し、司会者の小川 宏と以下の問答をしている(『愛鳩の友』〔昭和四十五年二月号〕より引用)
前述したとおり、この井崎の主張は誤りで、鷹匠を大陸に派遣してロシア軍の鳩を捕らえてはいない。 ☆補足四 『東京朝日新聞』(明治三十七年五月二十六日付)の記事によると、ロシア軍は七〇〇羽の軍用鳩を使翔して旅順と通信しているという。 ☆補足五 佐々木 勇『北国の鳩界』によると、ロシアは奉天と大石橋の間で盛んに軍用鳩を通信に使用していて、この軍用鳩が日本軍の頭上をかすめて勇敢に働いたという。日本はこの対策に腐心し、鷹狩りに用いる鷹を宮内省から借り受けて敵の軍用鳩を捕獲するための空中戦を考えたそうである。 ☆補足六 『愛鳩の友』(昭和三十一年十月号)に掲載された記事「ものがたり日本鳩界史」(一、日本鳩界の夜明)によると、日露戦争の頃、遠距離を飛ぶ能力のない観賞鳩「タタキ」(または「ハタキ」と呼ばれていたらしい)が流行したという。 「タタキ」は、伝書鳩のように帰舎スピードを競い合うのではなく、一間か二間ほどの距離を飛んだとき、羽を何回たたくかを争う。その〝たたき〟が多い方が優れた鳩とされた。台の上に雌の入った籠を置き、もう片方の台の上から雄を放つと、雌を目がけて雄が飛んでゆく。脊中の上で両翼をたたきながら飛ぶので、主羽の一枚一枚がノコギリの刃のように擦り切れている。より擦り切れているものが良い鳩のしるしだった。 「タタキ」の羽色はさまざまあり、それは各種の鳩と変わらないが、主羽が大きい特徴があって、現在のドバトをやや大きくした体つきをしていた。 なお、これは明治の頃に限定されないが、昔の鳩の羽色には、土羽、小紋、柿、バラリ、ルリなどがあった。土羽は現在でいう灰(B)か灰二引(B)、小紋は灰胡麻(BC)、柿は栗(R)、バラリはモザイク(M)、ルリは黒(BLK)といわれている。ただし、最後に挙げたルリに関しては、現在の黒よりも、より黒味があり、京都の愛鳩家・羽賀仙次郎によると、ビロードのようにフサフサしていたという。やや様相の異なる鳩だったようである。 *参考として( )を付け足し、その( )内に羽色のアルファベット記号を付す。ただし、その色だと限定しているわけではない。 例えば、栗と呼称する際、灰栗(S)や栗胡麻(RC)をも含んだ呼び方だった可能性がある。筆者(私)としては、多少、幅のある言い方だったと想像している。 ☆補足七 小野内泰治『日本鳩界史年表』(1)によると、日露戦争以後、京阪神では、くちばしの長いキャリア種という鳩が流行し、くちばしの長さが一寸二、三分(約四センチ)ほどのものもあったという。この系統は一九一九(大正八)年にフランスから一〇〇〇羽の伝書鳩が日本に輸入されるまで、もてはやされたようである。 参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 『天皇の鷹匠』 花見 薫/草思社 『東京朝日新聞』(明治三十七年五月二十六日付) 東京朝日新聞社 『長岡外史関係文書 回顧録篇』 長岡外史文書研究会/吉川弘文館 『読売新聞』(昭和三年二月二十七日付。夕刊) 読売新聞社 『坂の上の雲』(第四巻) 司馬遼太郎/文芸春秋 『戦争秘録 将軍長岡外史』 坂部護郎/二見書房 『北国の鳩界』 佐々木 勇 『愛鳩の友』(昭和三十一年十月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十三年五月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十四年十一月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十五年二月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十五年七月号) 愛鳩の友社 |
横浜税関の巡邏船・翁号が、三浦半島の網代湾を通過の際、一羽の軍用鳩がタカに襲われて岩山に縮こまっているのを発見し、これを救助する(軍用鳩には六十八号の番号が付してあった) その後、翁号は横浜に戻ると、同港に停泊中の警備艦・天城号にこの軍用鳩を交付する。 参考文献 『東京朝日新聞』(明治三十七年三月二日付) 東京朝日新聞社 |
「従軍外国通信員海上通信規定」(官房第一一四一号ノ三)が定められる。 AP通信社、ロイター通信社、シカゴ・デイリー・ニュース社などの外国の通信員は、この規定を順守する限り、通信船の使用とその船内における無線電信機および通信鳩を使用することができる。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B07091026800、日露戦役ノ際新聞通信船及使用方等出願一件 附従軍外国通信員海上通信規定制定ノ件(5-2-11-0-11)(外務省外交史料館)」 |
同日付の『読売新聞』の記事によると、遼陽に駐在しているロシア軍の将軍――アレクセイ・ニコラエヴィッチ・クロパトキンは、最近、チチハルと岫巌において軍用目的で数百羽の鳩を購入したという。 参考文献 『読売新聞』(明治三十七年四月三十日付) 読売新聞社 |
六月三日の夜、芝罘港内に碇泊中のノルウェー船・サイマル号に一羽の鳩が降り立つ。これを捕らえて調べてみると、ロシアの暗号文字で記された通信文二通が鳩に結びつけてあった。 六月四日、使いの者が、通信文をロシア領事館に届け、十ドルを受け取る。 以上の事実を『芝罘日報』がロシア領事館に問い合わせると、領事館はこの事実を否定せず、遺憾ながら新聞に発表すべき事柄はない、と回答する。 うわさでは、ロシア軍のいる旅順から送られた通信文だという。 ☆補足 芝罘で情報収集などの任務に当たっていた守田利遠少佐の報告(九月二十七日および二十八日)によると、廟島列島を中心として種々悪質の秘事が行われ、その中には伝書鳩飼養も含まれるという。 また、十二月十五日、参謀次長・長岡外史少将が「芝罘ノ露国領事館ニ伝書鳩ヲ飼ヒ居ルヤ又之ヲ使用スルノ形跡アルヤ」と守田に問い合わせている。 参考文献 『東京朝日新聞』(明治三十七年六月六日付) 東京朝日新聞社 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06040237300、「明治37年9月 参通綴 大本営陸軍参謀部 保管」(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06040237300、「明治37年9月 参通綴 大本営陸軍参謀部 保管」(防衛省防衛研究所)」 |
この日のロイター通信の報道によると、サンクトペテルブルクに達したロシアの伝書鳩が、旅順の近況は甚だ好都合だとの情報をもたらしたという。 参考文献 『東京朝日新聞』(明治三十七年六月八日付) 東京朝日新聞社 |
同日付の『東京朝日新聞』の記事によると、遼陽のロシア軍は軍用鳩を使って旅順と通信しているという。 参考文献 『東京朝日新聞』(明治三十七年六月十二日付) 東京朝日新聞社 |
最近、香川県その他の各地で伝書鳩の捕獲が相次いでいる。しかし、その筋によって放鳩したものではなく、そうかといって、敵の放鳩したものとも思われず、おそらく内地にいる者が何らかの必要性があって放鳩したか、もしくはいたずらに放鳩したのではないか、と人々にうわさされる。 そして本日、静岡県安倍郡清水町上町の藤田太助宅の屋上に一羽の黒鳩が飛来する。逃げ去る様子がないので、同家の者が竿に黐をつけて、この鳩を捕らえる。人によくなれていて、左脚に文字の掘られた金輪をはめ、左翼の七枚の羽根に文字が記してある。 時節柄、怪しまれている。 参考文献 『読売新聞』(明治三十七年六月二十五日付) 読売新聞社 |
静岡県浜名郡舞坂町の鈴木嘉一宅で一羽の伝書鳩が捕獲される。 この伝書鳩の羽色は白く、茶褐色のまだらである。目は赤色を帯びていてその周囲は全て白く、体は普通のドバトより大きい。脚にはめてある金環に文字が掘られていて、白で「014」、赤で「35」とある。また、羽根に白字で「cla」と捺してある。 同家ではその筋に届け出た後、目下、大切に伝書鳩を飼養している。 ☆補足 上記の一文は、『読売新聞』(明治三十七年六月二十七日付)の記事をもとに記す。 これと同じ内容が『東京朝日新聞』(明治三十七年六月二十五日付)にも載っているが、細部が食い違っている。 同紙によると、この出来事の発生日は六月二十三日ではなく六月二十四日で、金環ではなく伝書鳩の羽毛に数字が掘られていたという。 参考として、『東京朝日新聞』(明治三十七年六月二十五日付)の記事を以下に引用しよう。
参考文献 『読売新聞』(明治三十七年六月二十七日付) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(明治三十七年六月二十五日付) 東京朝日新聞社 |
本郷座の日露戦争狂言は陸軍士官学校出身の塩崎剣月が執筆しているが、その内容は伝書鳩によって敵情を知り、気球の偵察隊を狙撃するなど、斬新なものだという。 以上、同日付の『東京朝日新聞』の記事より。 参考文献 『東京朝日新聞』(明治三十七年六月二十六日付) 東京朝日新聞社 |
岐阜県益田郡の上原村、同県郡上郡の上保村で、軍用鳩が保護される(計二羽) 前者の鳩は左脚に「白B36、35キ」と刻印された脚環をはめており、左翼の五枚それぞれに「白B36」との文字が記されている。 後者の鳩は左脚に「白B35中35」と刻印された脚環をはめており、左翼の八枚それぞれに「白B32」との文字が記されている。 八月五日の午前九時三十分、二羽の軍用鳩は、新橋着の汽車で陸軍省に送られる。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03025821100、明治37年 「満大日記 8月 自1日~至15日」(防衛省防衛研究所)」 『東京朝日新聞』(明治三十七年八月六日付) 東京朝日新聞社 |
同日付の『読売新聞』の記事によると、ポーランドの首都・ワルシャワのロシア官憲は、自今三年間、ワイキセル領内の地方において軍用鳩の飼養を禁止したという。この禁令の違反者には三ヶ月の禁錮、または五〇〇ルーブルの罰金を科す、とのことである。 参考文献 『読売新聞』(明治三十七年八月四日付) 読売新聞社 |
同日付の『東京朝日新聞』の記事によると、ロシア軍はウラジオで一〇〇〇羽の軍用鳩を使用しているという。 ☆補足 大本営陸軍参謀部『最近之露軍』(第三号)に、以下の記述がある。
参考文献 『東京朝日新聞』(明治三十七年十月四日付) 東京朝日新聞社 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13110561300、最近の露軍 第2.3号 明治38.2~3月(防衛省防衛研究所)」 |
午前八時過ぎ~正午前、神奈川県国府津停車場の南方にある二十五丁の広地と、その西方二十余丁の距離を有する田島山において、捕鳥鷹(宮内省で飼養)の試用が実施される。 試用主裁は主猟局長の戸田氏共伯爵、主任は小原駩吉爵位局主事で、ほか十数名の鷹匠が参加する。また、山県有朋元帥、村田 惇少将、堀内文次郎中佐、鍋島精次郎式部官らが参観者として試用に立ち会う。 捕鳥鷹の試用結果は上々で、空に放たれたオオタカやハヤブサが、獲物であるキジ、ゴイサギ、カモ、ドバト、伝書鳩などを見事に捕獲する。 ☆補足一 過般、捕鳥鷹の試用は青山練兵場において一度おこなわれている。 ☆補足二 捕鳥鷹の試用は正午前に終了する。 猛禽が捕らえたゴイサギやキジなどは、参観者と宮内官の昼食の膳に上る(鷹匠料理) ☆補足三 『東京朝日新聞』(明治三十八年六月十九日付)に掲載された記事「宮内省の鷹」によると、宮内省のタカの訓練はすこぶる進歩し、敏捷なイタリア産の伝書鳩であっても五〇〇〇メートル離れたところから、これを容易に捕獲し得るという。また、キジ、サギ、ヤマバトなどの捕獲に至っては百発百中だそうである。 参考文献 『東京朝日新聞』(明治三十八年五月三日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(明治三十八年六月十九日付) 東京朝日新聞社 |
静岡県小笠郡土方村入山瀬の青野三太郎が自宅の軒下で一羽の軍用鳩を捕獲する。軍用鳩には、右翼の数枚に「陸軍電信教導大隊」と記された押印があり、左翼の数枚に「ベーハク五三」と記された押印がある。 五月二日、静岡県はこの軍用鳩の処置について陸軍省に問い合わせる。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04014056200、壹大日記 明治38年5月(防衛省防衛研究所)」 |
午前六時、神奈川県久良岐郡金沢村字の冨岡八幡神社の神殿において、神職の佐野亀次郎が一羽の軍用鳩を捕獲する(軍用鳩は人によくなれていて直ちに捕らえられる) その羽色は白く、両翼は茶色で、翼の裏面に「伊」「――」の紫色の記号がある。また、両脚に金輪をはめていて、「1」および「300」の番号のような文字がある。 六月五日、神奈川県はこの軍用鳩の処置について陸軍省に問い合わせる。 *「伊」の記号は正確には○+伊(○内に伊)。伝書鳩飼養訓練調査委員会『伝書鳩飼養訓練調査委員会調査書』の記述によると、イタリア種の軍鳩を表しているものと思われる。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04014063000、壹大日記 明治38年6月(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06091839400、明治39年 公文備考 巻77運輸交通通信水路地理(防衛省防衛研究所)」 |
大本営参謀総長が、式部官兼主猟官・鍋島精次郎と、爵位局主事兼主猟官・小原駩吉の両名を、勲功丁と認める。 勲績明細書の内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06041130600、「明治38年9月起 勲績明細書等控綴 大本営陸軍副官」(防衛省防衛研究所)」より引用)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06041130600、「明治38年9月起 勲績明細書等控綴 大本営陸軍副官」(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06041130700、「明治38年9月起 勲績明細書等控綴 大本営陸軍副官」(防衛省防衛研究所)」 |
同日発行のフランスの刊行物によると、本年に実施されたオーストリア軍第十四軍の演習において、興味深い試験がおこなわれたという。 偕行社『偕行社記事』(第三三八号)に掲載された記事「墺国騎兵演習中ニ於ケル伝書鳩」に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
放鳩した鳩の大半は、わずかな時間でリンツに戻ったが、成績不良の鳩もいた。それら成績不良の鳩は、箱内にあるときに馬上での震動を受けて疲労したため、途中で数時間、休息してからリンツに戻る。 フランス人の見るところ、オーストリア軍のやり方は不適当で、以前にフランス軍騎兵が試験したとおり、鳩の入った箱は帯革に固定するか、または背嚢のように背負うのがよいという。そうすることによって、馬上での震動が鳩に伝わりにくくなるそうである。 ちなみに、偕行社『偕行社記事』(第二一九号。明治三十二年六月)に掲載された記事「魯軍ニ於ケル伝書鳩ノ使用」に、ロシア軍の例が載っている。 同記事によると、ロシア騎兵は演習中、伝書鳩の入った籠を縄で肩に結びつけて、これを四十ないし五十キロの遠方まで輸送し、放鳩するが、鳩はそのため、非常に疲労し、六十羽中、遅滞なく帰還するのは三十七羽にすぎないという。 参考文献 『偕行社記事』(第二一九号) 偕行社 『偕行社記事』(第三三八号) 偕行社 |
台湾の澎湖島要塞司令部と台湾守備混成第二旅団司令部が軍用鳩を飼養しはじめる。 鳩は陸軍電信教導大隊から提供を受ける(係員一名を含む) 鳩数は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03026137400、明治38年 「満大日記 1月下」(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03026137400、明治38年 「満大日記 1月下」(防衛省防衛研究所)」 『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 |
大本営参謀総長が陸軍大臣に対し、主猟局長・戸田氏共伯爵の賞賜について移牒する。 内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06041130500、「明治38年9月起 勲績明細書等控綴 大本営陸軍副官」(防衛省防衛研究所)」より引用)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06041130500、「明治38年9月起 勲績明細書等控綴 大本営陸軍副官」(防衛省防衛研究所)」 |
「伝書鴿飼育廃止ノ件」(官房第二八七五号ノ二。海軍大臣より、横須賀鎮守府、舞鶴鎮守府、佐世保鎮守府の各司令長官宛て)が出され、日本海軍が軍鳩の研究と飼養を廃止する。 この廃止決定に先立ち、伝書鳩飼養訓練調査委員会は、以下の意見を述べている(海軍大臣官房『海軍制度沿革』〔巻十五〕より引用)
武知彦栄『伝書鳩の研究』によると、学識のない雇人が軍鳩の飼育訓練をつかさどり、研究の方法も徹底的でなかったことが、いい研究結果を残せなかった原因であるという。また、無線電信の発達によって、鳩通信の重要性が低下したことも大きかったようである。 ☆補足 海軍省『軍鳩研究報告』、武知彦栄『伝書鳩の研究』、海軍省教育局『軍鳩参考書』などを見ると、海軍の軍鳩研究廃止を、明治三十九年(一九〇六年)ではなく、明治三十八年(一九〇五年)と記している。明治三十九年(一九〇六年)においても軍鳩は飼養していたが、すでに明治三十八年(一九〇五年)には研究を中止していた、という意味だろうか。よく分からない。 なお、海軍の軍鳩飼養廃止は、明治三十九年(一九〇六年)の『読売新聞』や『東京朝日新聞』で何度か報道されている(『読売新聞』の例――明治三十九年六月十八日付、八月十日付、八月二十日付)。また、前述のとおり、明治三十九年(一九〇六)年九月五日付で「伝書鴿飼育廃止ノ件」(官房第二八七五号ノ二)が出されているので、明治三十九年(一九〇六年)が海軍の正式な軍鳩飼養廃止と考えて問題ないと思われる。 参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 『読売新聞』(明治三十九年六月十八日付) 読売新聞社 『読売新聞』(明治三十九年八月十日付) 読売新聞社 『読売新聞』(明治三十九年八月二十日付) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(明治三十九年八月十日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(明治三十九年八月二十日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(明治三十九年九月十八日付) 東京朝日新聞社 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695400、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 『軍鳩参考書』 海軍省教育局 |
台湾の澎湖島要塞司令部が陸軍省工兵課宛てに、「伝書鳩訓練成績調書」を提出する。 本調書の目次は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06084371800、明治40年乾「貳大日記11月」(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
最後の「第八 演習ニ関スル意見並ニ将来ニ就テ」がこの調書の肝で、澎湖島要塞での鳩通信は、相当、困難であると報告している。十月頃~翌年四月上旬まで続く強風期、猛禽類の出没、放鳩訓練で用いる専用船がないことなどを主な原因としている。 調書は、結論としてこう述べる(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06084371800、明治40年乾「貳大日記11月」(防衛省防衛研究所)」 |
台湾の澎湖島要塞司令部と台湾守備混成第二旅団司令部が軍用鳩の飼養を廃止する。 前年に、両司令部を結ぶ鳩通信網の構築を目指して、軍用鳩の飼養がはじめられたが、いまだに両司令部の通信を一度も成功させたことがなく、今度もその成功の見込みがないことから、この決定に至る。 飼養していた軍用鳩のうち優秀なものは、下関ならびに対馬築城部支部に移管される。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06084371800、明治40年乾「貳大日記11月」(防衛省防衛研究所)」 |
同日付の『東京朝日新聞』の記事によると、本日、茨城県の古河町において、戸田主猟局長以下二名が放鷹をおこなうという。また、参謀本部員六名も参加して、伝書鳩の捕獲について研究するそうである。 参考文献 『東京朝日新聞』(明治四十年五月十二日付) 東京朝日新聞社 |
同日発刊の仏紙が、平時における軍用鳩勤務に関してドイツが新教令を発する、と報じる。 その内容は、以下のとおり。 ドイツは今後も工兵および技術総監が軍用鳩について監督するが、軍用鳩勤務に関する直属の長官は、今までは軍用電信監だったが、今度からは技術会議の電気術部に変更になる。この技術会議に一名の軍用鳩係官を置き、この係官が軍用鳩勤務に関して、技術上、顧問をする。 各要塞の軍用鳩舎の管理は、同要塞に勤務する工兵将校一名がその任に当たる。要塞の軍用鳩は、要塞外の一点から鳩舎まで帰り着けるようにし、また、五十キロの距離内で往復飛行できるように馴致する。 国境地帯においては、将校斥候用の軍用鳩の養成を目指し、種々の方向からでも帰舎できるように鳩を訓練する。 参考文献 『偕行社記事』(第三七四号) 偕行社 |
陸軍電信大隊(前年に電信教導大隊から電信大隊に改組)が軍用鳩の飼養を廃止する。 軍用鳩通信は軍用通信の補助として採用してきたものの、無線電信技術の発達した今日においては、軍用鳩の補助を受ける機会が限られるとして、この決定に至る。 現在、下関要塞司令部と対馬警備隊司令部において軍用鳩を飼養しているが、軍用鳩研究の中心機関である電信大隊が軍用鳩の飼養を廃止したからには、事実上、日本陸軍における軍用鳩の飼養廃止を意味する。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C07072444600、明治41年 「肆大日記 8月」(防衛省防衛研究所)」 |
要塞内に設置する鳩舎とその使用条件、また、後方から運ばれてきた鳩を収容することについて、フランス軍は、陸軍工兵隊の規則によって、これを定める。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 |
欧州各国は軍用鳩の有用性を認めていたが、イギリスはこれに否定的だった。 時代遅れの通信法、中間を飛び越えてしまう上下直結型の情報伝達手段、敵に捕獲された味方の鳩による偽情報流布の危険性(通信文が差し替えられる)、猛禽類の襲撃による鳩の失踪など、各種の理由により軍用鳩通信に疑念を抱く。 電信の発達によって鳩通信の価値が低下すると、実用を尊ぶ国民性にあっては、その伝書鳩熱が冷めていったように考えられる。 しかし、その一方で、イギリスは鳩のスパイに警戒していて、海岸近くを飛ぶ鳥を撃ち落とすように沿岸警備隊に指示している。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『愛鳩の友』(昭和三十七年八月号) 愛鳩の友社 |
この当時、フランスには四〇〇近くの鳩団体があり、二十万羽あまりの鳩を軍事提供できた。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 |
イギリスが空中船取り締まりに関する命令および規則を発布する。飛行禁止区域の設定をはじめ、外国の空中船(飛行機および飛行船)は招待や許可がなければ入国できず、写真機、伝書鳩、銃器、無線電信器の携帯および使用を禁止する。 以上の規則に違反した者は、六ヶ月の禁錮、または二〇〇ポンドの罰金に処される。 これが軍事スパイであったら、七ヶ年の服役に処される。 参考文献 『読売新聞』(大正二年三月十七日付) 読売新聞社 |
京都市の愛鳩家が集い、鳴尾~大阪~京都連絡大飛行を実施する。幾原という人物が鳴尾を出発するのと同時に十一羽の伝書鳩を放鳩し、飛行機と競わせる。 ☆補足 『東京朝日新聞』(大正二年十一月二日付)に載った予定に従って上記の内容や日付を記す。したがって、予定に変更が生じていたら、出来事や日付が現実と異なっているかもしれない。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正二年十一月二日付) 東京朝日新聞社 |
下関要塞司令部と対馬警備隊司令部が軍用鳩の飼養を廃止する。これにより、日本陸軍における軍用鳩飼養が完全に途絶える。 廃止の理由は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03010002300、永存書類甲輯第1.2類 大正2年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
なお、下関要塞司令部および対馬警備隊司令部の軍用鳩や鳩舎などの処分は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03010002300、永存書類甲輯第1.2類 大正2年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足一 日本軍人として最初に軍用鳩を研究し(一八八五〔明治十八〕年~)、また、軍用鳩の飼養法などについて述べた「通信鴿ノ報告」(『月曜会記事』〔第十一号〕所載)の作者である石川潔太は、軍用鳩飼養の廃止に反対する。しかし、その意見は陸軍に採用されず、廃止の決定は覆らなかった。 後に石川は、中野の軍用鳩調査委員事務所での講演の際に、もし依然としてこの研究を継続していたならばその進歩の著しきものがあったろう、などと述べている。 ☆補足二 東北鳩協会青森支部『伝書鳩』に掲載された記事「伝書鳩の人生に対する利益」(作・和田千蔵)によると、無線電信の発達によって自然に伝書鳩を軽視するようになり、一九一二(大正元年)年限りで飼育経費が削除され、一九一三(大正二)年から民間の希望者に鳩を払い下げるようになったという。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03010002300、永存書類甲輯第1.2類 大正2年(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C15120189200、合本 月曜会記事 第6巻 明治19~21(防衛省防衛研究所)」 『鳩』(第四年十二月号) 鳩園社 『伝書鳩』 東北鳩協会青森支部 『東京朝日新聞』(大正二年九月二十七日付) 東京朝日新聞社 |
ドイツの鳩飼養者がロシアと国境を接するポーゼンとプロイセンで鳩を飛ばす。この地にはたくさんの鳩舎が作られているが、ここ以外にもドイツ国境全域に鳩舎が設けられている。 これはドイツ参謀本部が軍用鳩通信の価値を認識し、研究してきたことと関係している。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 |
ボスニアの首都・サラエボを訪問中のオーストリア皇太子夫妻(フランツ・フェルディナント大公)が、セルビア人のテロリストに暗殺される。 この事件をきっかけにして第一次世界大戦が勃発する。 第一次世界大戦前は、無線電信や有線電話などの発達によって、伝書鳩の地位が低下しつつあった。伝書鳩の飼養と研究に対して、疑問を投げかける者が少なからず存在した。 しかし、大戦がはじまると、頼みにしていた通信網は砲撃などで寸断され、通信の用を満足に果たせないことがたびたび起こる。そこで、鳩通信が見直されて、各国は積極的に軍用鳩を用いるようになる。 ☆補足一 ツェー・エー・リヒタース『科学戦と軍用動物』に、以下の記述がある(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足二 マルタン・モネスティエ『図説 動物兵士全書』によると、大戦勃発時のフランスには、常設の軍用鳩舎が十箇所ほどあり、四、五〇〇キロ飛べる軍用鳩が各鳩舎に二〇〇羽~四〇〇羽ほどいたという。 ノーマン・ポルマー トーマス・B・アレン『スパイ大事典』によると、フランスは暗号化された戦術メッセージを送るため、しばしば伝書鳩を用いたそうである。 ☆補足三 正確な時期は不明だが、第一次世界大戦中に、フランスのある山岳地方で飼われている一羽の鳩(雄)が活躍している。 この鳩を斥候隊が連れて敵情偵察に出かけたところ、斥候長を除いて、全ての隊員が戦死する。斥候長は瀕死の重傷を負いながら、以下の偵察状況を記して、これを鳩に託す(遠藤義男『飼鳥報国 伝書鳩読本』より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
鳩はこの通信文を味方の軍司令部の鳩舎に持ち帰る。しかし、途中、毒ガス弾の影響で目が見えなくなり、鳩は鳩舎内のストーブにぶつかって命を落とす。 その後、この鳩と配合していた雌鳩に、いかなる雄鳩をあてがっても交配を拒んだといわれている。鳩の死から八年後、この鳩の剥製を某軍医が何気なく雌鳩に近づけると、しきりに雌鳩は剥製に接吻したという。 ☆補足四 東京日日新聞社『世界交通文化発達史』によると、大戦勃発当初、ドイツ軍はベルギーを占領して各電信局を押さえると、盛んにフランス軍とベルギー軍に対して偽電を発したそうである。フランス軍とベルギー軍は極度に狼狽し、あわやドイツ軍の計略に引っかかりそうになるが、伝書鳩が偽電の真相をフランス軍とベルギー軍にもたらしたことから、そのからくりは看破されたという。 ☆補足五 ドイツ軍が占領地で最初におこなう処置は、伝書鳩の没収と殺処分だった。ベルギーだけで一〇〇万羽以上の鳩を没収、または殺処分している。 オーステンデから飛んできたとおぼしき鳩がドイツ軍憲兵に発見されたときには、オーステンデの町に一〇〇万マルクの罰金刑を言い渡している。 また、ドイツ軍は、鳩を隠し持っている者を見つけると、スパイとして銃殺した。 ☆補足六 関口竜雄『鳩と共に七十年』に、第一次世界大戦中の話が載っている。 以下に引用しよう(文中に出てくるポール・シオンはフランスの富豪で著名な愛鳩家)
☆補足七 ベルギーの愛鳩家は三十万を数え、そのうち一流の者の大部分がフランドル地方に住んでいた。 ドイツ軍は同地方の伝書鳩を没収し、その鳩舎を破壊しているが、当時、将校として従軍していたフィリップ・ワイスマンテル博士は、これを軽率な愚行だったと批判している。この民間の鳩舎を軍が管理して、重砲兵隊の前進観測兵に鳩を付与していたら、より効果的な砲撃が可能だったからだ。 参考文献 『伝書鳩』 岩田 巌/科学知識普及会 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『科学戦と軍用動物』 ツェー・エー・リヒタース 著 新美達郎 山極三郎 荘保忠三郎 訳/産業図書 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『スパイ大事典』 ノーマン・ポルマー トーマス・B・アレン 著 熊木信太郎 訳/論創社 『飼鳥報国 伝書鳩読本』 遠藤義男/極東報鳩会事業部 『世界交通文化発達史』 東京日日新聞社 『愛国伝書鳩の飼方』 白木正光/犬の研究社 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 『日本鳩時報』(昭和十五年八月号) 大日本軍用鳩協会 |
ドイツ軍がマルヌの戦いに敗れる。このとき、ドイツ第一軍は、その退却途上において、鳩を徴発、撲殺して歩く。 この情報がフランス第六軍司令部の第二部に伝わると、第二部は、こう判断する(武知彦栄『伝書鳩の研究』より引用)
その後、他方面においても、同様の報告があったことから、フランス軍は鳩の取り扱いに神経をとがらせる。 ☆補足一 当時、フランス本国と被占領地との間の通信は、オランダやスイスを経由するか、在ドイツ中立国外交官に依頼するかの二通りに限られていた。 ☆補足二 後にフランス軍は、軍用鳩部隊の編成やその勤務について、総合的に整頓し、教令を作り、これを全軍に普及させる。 ☆補足三 イギリス軍は、軍用鳩に対する理解に欠けていた。イギリス軍がマルヌの戦いの前にフランスに上陸したとき、一羽の軍用鳩も連れていなかった。 やがて、鳩通信ができずに不便を感ずるようになると、イギリス軍は軍用鳩部隊を編成したり、飛行機に鳩を積み込んだり、レジスタンスに鳩を投下したりするようになる。 参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 |
済南発の報道によると、青島(ドイツ勢力下)は外部との交通・連絡が完全に途絶したという。 孤立した青島が外部と通信するには、伝書鳩を使用するほか、手段は残されていないそうである。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正三年九月十九日付) 東京朝日新聞社 |
この日の北京発の報道によると、青島にこもるドイツ軍は、電信途絶のために伝書鳩を用いて内外の連絡をつけようとしているという。 ☆補足 『愛鳩の友』(昭和四十四年十一月号)に掲載された記事「鳩士官修業時代」(作・井崎乙比古)によると、ドイツ軍には「タウベ(鳩)」班という立派な鳩隊があり、鳩を持ったスパイが巧妙に日本軍の守勢状況を将軍に報告していたという。 参考文献 『読売新聞』(大正三年九月二十五日付) 読売新聞社 『愛鳩の友』(昭和四十四年十一月号) 愛鳩の友社 |
写真時報社『写真時報』(大正三年十一月号)の付録「戦時雑俎」に、「軍用鳩の話」という題の記事が載る(以下は、その内容の一部をまとめたもの) 先日、ロンドンで、たくさんの鳩を隠し持っていたドイツ人をスパイとして逮捕しているが、これと同時にベルギーのムーズ川でもドイツのスパイを取り押さえている。このスパイはムーズ川で釣りをしているように装っており、どうも挙動がおかしいので、ベルギー軍の兵がこの男を詰問する。すると、そのドイツ人が腰かけにしていた籠の中からクウクウという紛れもない鳩の声がしたという。 参考文献 『写真時報』(大正三年十一月号) 写真時報社 |
フランス軍の一隊五十名がスーシェの方に向かっていたところ、ドイツ軍に見つかって包囲される。 一隊は農場に立てこもって応戦するが、大部隊のドイツ軍に対して、長くはもちそうになかった。しかし、一人の兵が、通信文を付した軍用鳩三羽を十五分間隔で一羽ずつ放鳩し、助けを呼ぶ。 二時間後、フランス軍の大隊が救援に駆けつけ、一隊は全滅を免れる。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 |
フランス軍が一二〇羽の鳩と乗員二名を運搬できる鳩舎用自動車を十四台生産する。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 |
フランス軍総司令部が軍用電信局に対して、軍用鳩通信で使われるあらゆる器材をそろえ、かつ、製作するように命令を出す。これは携帯用鳩籠や餌箱など、細部にわたるものであった。 ☆補足 フランス軍は、大戦の半ばを過ぎた頃になって、ようやく、本格的な鳩通信網を整備したという。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 |
ヴェルダンにおける、フランス軍の第二十八師団は、ドイツ軍の猛攻を受けて、第一線と後方との連絡を約三時間半絶たれる。 しかし、軍用鳩通信によって、状況を明らかにする。 参考文献 『中央獣医会雑誌』(第三十三集巻の五) 中央獣医会 |
ヴェルダンの戦いにおいて、ヴォー堡塁を守るフランス軍の指揮官――シルヴァン・ユージン・レイナル少佐が、以下の一文を軍用鳩に付して放鳩する(岩田 巌『伝書鳩』より引用。一部、漢字をひらがなやカタカナに改めたり、文字表記を改めたりしている)
レイナルの通信文を携行する軍用鳩は、砲煙弾雨の戦場を飛んで友軍にたどり着く。後にこの軍用鳩はヴァイヤン(仏語で勇士の意味)と名づけられて、その勇ましい姿をたたえられる。 なお、ヴォー堡塁を守る約六〇〇の兵は、一日に数千発の砲弾を撃ち込まれる中、不眠不休で戦うが、敢闘及ばず、六月七日にヴォー堡塁はドイツ軍に降伏する。 ☆補足一 軍用鳩ヴァイヤンは、以下のように表彰される(マルタン・モネスティエ『図説 動物兵士全書』より引用)
☆補足二 一九三〇(昭和五)年の春、フランス滞在中の井崎於菟彦大尉がヴォー堡塁を訪れる。大破した堡塁の内部には湧き水がたまっていて、じめじめしている。そのためか、案内役のフランス軍伍長が木靴を履いている。フランス語で木靴のことをサボというが、俗説によると、このサボを工場の機械にかませて労働争議での破壊活動に利用したことから、サボタージュという言葉が生まれたという。井崎は木靴を目にして、サボタージュの語源を想起する。 カンテラのわずかな明かりを頼りにして、足場の悪い地下室を見ながら進むと、司令官の居室、電話室があり、その隣に目的の鳩舎がある。聞くところによると、二十羽ほどをこの鳩舎に収容し、これに夜間飛翔訓練を施していたという。そのため、夜間においても、軍用鳩を使用できたそうである。巣房を見ると、信書管であろうか、アルミニウムの残片などが残されている。 井崎は、ヴォー堡塁について、以下のように述べている(科学知識普及会『科学知識』〔第十一巻第七号〕より引用)
参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『伝書鳩』 岩田 巌/科学知識普及会 『科学知識』(第十一巻第七号) 科学知識普及会 『普鳩』(昭和十七年五月号) 中央普鳩会本部 |
第一次世界大戦中、フランス人のダヴィド・ブロックは、フランス軍第一五二歩兵連隊に入り、その後、ドイツ軍前線後方で暗躍する諜報員を志願する。 一九一六年六月二十二日~二十三日にかけての夜間、ブロックはドイツ軍占領下のアルザスに落下傘降下する。ここでドイツ軍の配置などについて情報を集め、携行してきた伝書鳩によって、フランス軍に通報するのである。活動期間は一週間で、飛行機の迎えが来る手はずになっている。 しかし、ブロックは無事にフランスに戻れなかった。 この地は、ブロックの郷里であるゲブヴィレールから二十キロほど離れたところにあったため、ブロックは最終日に生家を訪ねて、家族に面会しようとする。ブロックは平服をまとい、小さな顎ひげを生やして偽装していたが、町を出たところでドイツ兵に捕まり、ドイツ軍司令部に連行される。 その後、ブロックは、彼のことを知る住人の面通しと、父親との面会により正体が露見し、八月一日に銃殺される。 参考文献 『スパイ大事典』 ノーマン・ポルマー トーマス・B・アレン 著 熊木信太郎 訳/論創社 |
イギリス軍がソンムの戦いにマークⅠ戦車を投入する。これは戦車がはじめて戦闘に参加した、史上初の出来事である。 このマークⅠ戦車には軍用鳩が搭載されていて、司令部に戦闘の状況を伝える。 ☆補足一 後に、マークⅠ戦車は無線機を装備するようになる(一九一七年後半) ☆補足二 マークⅠ戦車のライバルといえる、ドイツ軍の戦車A7Vにも、軍用鳩が積まれていた。 参考映像 「戦車の時代がやって来た」 NHK BS世界のドキュメンタリー |
フランス軍のレイノー騎兵大尉が移動鳩舎(鳩車)を完成させ、実戦に投入する。 レイノーは、この移動鳩舎(鳩車)を一八九七年頃に考案し、約二十年をかけて、ようやく完成させたという。 ☆補足一 マルタン・モネスティエ『図説 動物兵士全書』によると、一九一六年にフランス軍は最初のトレーラー鳩舎を登場させ、一九一八年に至って、これを二五〇台使用したという。このトレーラー鳩舎なるものが、レイノー騎兵大尉が実戦に投入した移動鳩舎(鳩車)と同じものなのか、よく分からない。 ☆補足二 岩田 巌『伝書鳩』に、以下の記述がある(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている。文中にある「一騎兵大尉」とはレイノー騎兵大尉のこと)
日本の事情になるが、この移動鳩舎は、もっぱら陸軍が運用した。海軍は防備隊に置いた固定鳩舎や艦艇に設置した艦上鳩舎が主だった。 民間では各大学の鳩部が移動鳩舎を所有していた。固定鳩舎と異なり、訓練や移動に人員が必要になるので個人での運用は難しかった。 参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『伝書鳩』 岩田 巌/科学知識普及会 『レジャー・シリーズ/24 伝書バトの楽しみ方』 宇田川竜男/西東社 |
この年からドイツ軍は、軍用鳩を計画的(本格的)に採用し、各師団にこれを配属する。 ☆補足 後に、軍集団司令部や軍司令部にも軍用鳩を配属する。 参考文献 『偕行社記事』(第六七〇号) 偕行社 |
従軍中の全ての伝書鳩飼育家は伝書鳩勤務に関与せよとの命令を、ドイツのエーリッヒ・ルーデンドルフ大将が発する。 ドイツ陸軍省は、将校の身分にある伝書鳩飼育家を特に必要とし、当時、砲兵将校だったフィリップ・ワイスマンテル博士などを通信部隊に集める。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年七月号) 大日本軍用鳩協会 |
アメリカがドイツに宣戦布告する。 レオン・ポリアコフ『反ユダヤ主義の歴史 Ⅳ 自殺に向かうヨーロッパ』によると、アメリカが一九一七年の春に参戦すると、ほどなくドイツ人に対して憎悪の渦が沸き上がり、ドイツ人の活動員がドイツ産の特殊な伝書鳩を潜水艦でアメリカに持ち込み、スパイたちの便宜を図っているとうわさされたという。 参考文献 『反ユダヤ主義の歴史 Ⅳ 自殺に向かうヨーロッパ』 レオン・ポリアコフ 著 菅野賢治 合田正人 監訳 小幡谷友二 高橋博美 宮崎海子 訳/筑摩書房 |
同日付の『東京朝日新聞』に、「欧州戦場の伝書鳩(下)」(作・三枝光太郎)という題の記事が載る。 興味深い記述を二点、以下にまとめる。 ・陸軍教育総監部の工兵監・近野鳩三少将は、鳩の研究にすこぶる熱心である。鳩三という名は、近野の父が「鳩に三枝の礼あり」という格言から取ってきたものだという。 ・わが国の鳩研究の権威は、中松少佐、樋口大尉などであり、すでに十有余年の研究を続けている。この分野においては欠かすことのできない人材である。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正六年八月十九日付) 東京朝日新聞社 |
当時、従軍武官としてフランスの地にあった四王天延孝工兵中佐は、フランス第四軍において、フランス鳩界の権威者――ルロア・ベアーグ中尉とともに同軍の鳩舎を視察している。 そのときの様子を四王天延孝『四王天延孝回顧録』から以下に引用しよう。
☆補足一 鳩兵は、受け持ちの軍用鳩の脚環番号と羽色を暗記する。 一九一九(大正八)年に日本軍はフランスから三名の鳩術教官を招いて鳩術を学ぶが(後述)、軍用鳩調査委員だった井崎於菟彦少佐によると、受け持ちの鳩が一人三十羽あり、その脚環番号や羽色をフランス語で覚えたという。脚環の数字の桁が少なくとも五桁あり、多いのは七桁もあったので苦しんだそうである。しかも、期限があり、フランス軍将校の教官が、脚環番号は一週間、羽色は二日間で覚えるように言い渡す。血気盛んな生徒の中には、そんなことよりもほかに必要な方面に精力を使う方がよい、鳩番号暗記は精力の乱費だ、などと不満を口にする。しかし、仏人将校は承知せず、いやしくも自分の手飼いの愛鳩だ、と言う。確かに、理屈は通っているので、井崎ら生徒は語呂合わせをうまく使って脚環番号を覚える。仏人教官の来日後、最初に出された課題が、この脚環番号と羽色の暗記だったという。 なお、羽色に関して、最初はフランス語で呼称するが、後に灰胡麻、栗などと、日本語の名称で呼ぶようになる。鳩飼料の名称もフランス語だったが、仏人教官に日本語の名称を教えて、反対に覚えてもらう。 さて、番号の記された脚環とは別に、色脚環(または色別脚環)というのがある。 大関しゅん『鳩とともに ある鳩取扱兵の物語』によると、鳩は訓練された得意の方向を表すために、方向別に、その脚にセルロイド製の細い、色のついた環をそれぞれつけていて、この色脚環により、各鳩の性能を知ることができたという。 鳩の訓練方向別ではなく、鳩の性別や馴致別を表す色脚環になるが、『第七師団軍用鳩ニ関スル規定』の第三十九条は、以下のように定めている(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001954900、永存書類乙集第2類第4冊 昭和4年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、空行を入れたりしている)
脚環の種類について、海軍省教育局『軍鳩参考書』に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めている)
☆補足二 井崎於菟彦少佐は一八九一(明治二十四)年生まれ。軍人になりたくなかったが、父親が軍人であったために熊本陸軍地方幼年学校に入れられ、その後、陸軍士官学校に進学する。 士官学校卒業後の一九一四(大正三)年、陸軍少尉に任官し、鳥取の連隊に赴任する。 井崎は、鳩が通信に活躍していることを第一次世界大戦のアルバムを見て知り、興味を抱く。将来、日本にフランスのような鳩隊ができたら、その隊長になりたいと思う。 一九一九(大正八)年、中尉当時に軍用鳩調査委員を志願し、以後、軍用鳩の育成と訓練に従事する。 一九二五(大正十四年)、陸軍通信学校教官になる。 一九二七(昭和二)年夏、ベルギーに出張し、伝書鳩と鑑賞鳩を日本に輸入する。 一九二八(昭和三)年、山東出兵に際し、鳩通信班長として大陸に出動する。 一九二九(昭和四)年、欧州伝書鳩視察に出発し、一九三〇(昭和五)年四月に帰国、現地で手に入れた種鳩を日本に輸入する。 一九三三(昭和八)年、満州国軍の招聘武官として渡満し、現地で軍用鴿の育成と訓練に従事する。 一九四二(昭和十七)年、満州国治安部に所属していたが、日本軍に応召、復帰し、ビルマに赴任する。 一九四三(昭和十八)年、シンガポールの南方軍鳩育成所の所長として勤務する。 一九四五(昭和二十)年、陸軍通信学校の鳩部長の辞令を受けるが、戦局の悪化により、南方から日本に行く手段がなく、ベトナムのサイゴンで終戦を迎える。最終階級は少佐(満州国軍では上校〔大佐〕) 井崎は満州での暮らしが長かったため、現地の家に軍用鳩関係の資料を置いていたが、終戦とともにその一切が失われる。 一九七五(昭和五十)年七月三十日、死去する。享年八十四歳。 *余談だが、井崎の鳩好きは徹底していて、息子を鳩夫(やすお)と名づけている(*井崎鳩夫。学徒出陣者) *井崎は戦後、いくつかの回想文を残しているが、その内容は大まかで、事実関係を付き合わせると、つじつまの合わない記述がある。 井崎の回想文を読むときには注意を要する。 参考文献 『四王天延孝回顧録』 四王天延孝/みすず書房 『愛鳩の友』(昭和三十三年二月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十四年十一月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十七年六月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十九年七月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和五十年九月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和五十年十一月号) 愛鳩の友社 『鳩とともに ある鳩取扱兵の物語』 大関しゅん/銀河書房 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001954900、永存書類乙集第2類第4冊 昭和4年(防衛省防衛研究所)」 『洪思翊中将の処刑』 山本七平/文芸春秋 |
フランス軍が馬やロバで牽引できる馬車型鳩舎の試験をおこない、良好な結果を得る。この一種の移動式鳩舎は、経済性と実用性に富んでいて頑丈だった。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 |
北イタリアがドイツ・オーストリア軍に占領された際、夜間、その地の上空を飛行機が低空飛行し、地上からの合図(灯火)をもって、機上から伝書鳩を投下する。北イタリアの住民は、必要な情報をこの伝書鳩に付して放鳩し、軍司令部に報告する。 オーストリア軍も同じことをしていて、鳩の入った鳩籠を落下傘で地上に落とす。 ☆補足 第一次世界大戦中に、ドイツ軍はイギリス本土を空襲している。ドイツ軍の飛行士は、ベルギー鳩舎の中で最も優秀な伝書鳩を携行して敵地の上空を飛び、数千メートルの高さからこの鳩を空に放つ。これにより、飛行中隊の位置が時機を失せずに後方に伝わり、爆撃機を援護するための新たな戦闘機隊が飛んできて、ドイツ軍機を安心させる。 なお、伝書鳩は上空数千メートルの高さから放鳩すると、既知の気層に達するまで、大概、石のように下方に落ちていき、その後、二、三回大きく旋回してから飛び去る。当時の飛行機の達する高度であれば、伝書鳩にとって難しいことではなかった。ただし、飛行機上の放鳩は難事で、プロペラの気圧のために伝書鳩が負傷しないように、飛行士の注意を要した。 偕行社『偕行社記事』(第四七三号)に掲載された記事「飛行機ト伝書鴿ニ就テ」(千九百十三年十一月発刊 独字新聞所載)に、以下の記述がある。
同記事によると、ドイツ軍は、一九一三年の秋期機動演習において、方々で鳩通信を実施し、報告を伝達するが、この飛行機上の放鳩試験も充分満足な結果を得たという。 参考文献 『鳩』(第三年八月号) 鳩園社 『日本鳩時報』(昭和十五年九月号) 大日本軍用鳩協会 『偕行社記事』(第四七三号) 偕行社 |
ドイツ軍戦線の後方で、鳩籠に入ったまま死んでいる多数の伝書鳩が発見される。 一例として、ある一軍の後方では、以下の伝書鳩が見つかっている。 一九一七年十二月 六十三羽 一九一八年一月 四十一羽 一九一八年五月末 四十五羽 以上の伝書鳩は連合軍のもので、スパイが携行したものである。しかし、何らかの事情で放鳩されずにそのまま放っておかれ、やがて鳩籠の中で鳩が息絶えたと思われる。 ちなみに、第一次世界大戦中、連合軍は飛行機や気球を用いて鳩籠をドイツ軍の後方などに落下傘投下している。その鳩籠の中には、脚環や刻印のない伝書鳩(二、三歳)、鉛筆、通信紙および質問紙(二、三枚)が入っていて、よきベルギー人あるいはフランス人は誰でもこの伝書鳩を利用してほしい、などと質問紙に記してあった。スパイは、ドイツ軍の士気、軍馬の様子、通過連隊の数および連隊番号、弾薬庫の所在地など、全般にわたって通信紙に記録し、これを伝書鳩に託して連合軍に通報した。 スパイ相手ではないが、ドイツ軍も同様の方法で伝書鳩を前線に補充している。しかし、その落下傘投下は、はじめはうまくいかなかった。 大日本軍用鳩協会『軍用鳩』(昭和十九年四・五月号)に掲載された記事「第一次世界大戦に於ける軍用鳩の使用」(作・フィリップ・ワイスマンテル)によると、第一回の投下実験で墜死もしくは傷ついた伝書鳩は、好ましい肉のごちそうとして将兵に仕えたという。 同記事に、以下の記述がある(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足 戦争中、ベルギー人が伝書鳩用の首輪を発明している。ゴム製または鉛製で、これを伝書鳩の首につけると、伝書鳩は鳴き声を出せなくなる。ドイツ軍の歩哨や憲兵などに伝書鳩が露見しないようにするための工夫である。 ドイツ軍は、スパイ鳩の発見に莫大な褒賞をつけたが、実際のところ、そうしてドイツ軍に提供された伝書鳩は少数にとどまる。スパイ鳩の発見はほとんどが幸運な偶然にすぎなかった。 参考文献 『スパイ戦術を暴く ―防諜読本―』 R・W・ローウアン 著 和田篤憲 訳/東洋堂 『軍用鳩』(昭和十九年四・五月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十五年九月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十五年十月号) 大日本軍用鳩協会 |
同日付の『読売新聞』の記事によると、樺山資紀伯爵を会頭とする中央畜産会は、欧州大戦において伝書鳩が活躍していることを受けて、明治神宮外苑および全国主要の学校、動物園などで伝書鳩を飼養して、広く一般の研究に供し、戦時においてこれを利用することを、近くその筋に建議するという。 参考文献 『読売新聞』(大正七年二月十二日付) 読売新聞社 |
一三〇キロもの射程距離を誇る、ドイツ軍の長距離砲――パリ砲が、戦場ではじめて火を噴く。 当初、フランス軍は、通常の砲撃距離にドイツ軍が存在しないので、このパリへの攻撃を飛行機によるものと考える。しかし、ドイツ軍は、パリから約一二〇キロ離れたところにあるクシーの森から砲撃していた。 史料によっては、パリ砲の命中精度について批判的に論じているものもあるが、それは長距離砲撃ゆえの事情が作用しているように思われる。一二〇キロの砲撃といったら、東京~群馬間に相当し、大ざっぱな砲撃にならざるを得ない。しかし、反対にいえば、これほど離れていながら、ここに砲弾を落とせるだけ、命中精度は高いともいえる。言葉の定義や、何をもって命中精度がよい、と考えるのか、各論者の主張を慎重に推し量る必要がある。 しかし、これだけは、はっきりしている。当時、連合軍の兵士は、一体、どうやって、そんな遠くの場所から砲撃できるのか、パリ砲の性能に驚愕し、ミステリーになっていた。 そのからくりが明かされるのは後のことで、パリに潜伏するスパイが弾着観測し、その情報を伝書鳩に付して放っていたのだ。 ☆補足 パリ砲にまつわる、こんな話が残っている。 ある日、パリにあるボア・ド・ブローニュ公園(ブローニュの森)で、野卑な老人が捕らえられる。この老人はいつもセーヌ川で釣りをしているが、警官が服装検査をおこなうと、外套のポケットの中から、頭巾をかけて隠された一羽の鳩が出てくる。また、魚籠の中には、さらに三羽の鳩が見つかる。老人はスパイで、この鳩を使って、パリを震撼させていたパリ砲の弾着点をドイツ側に伝えていたという。 ほかにも、似た話が伝わっている。 当時、パリ当局は、砲弾の落下場所に速やかに板囲いを施して、弾着点や砲弾の効力がドイツ側に漏れないようにしていたが、ある日のこと、洗濯籠を手にした老婆が弾着点の辺りをうろうろしているので、防諜関係者の注意を引く。警察が老婆を捕らえると、洗濯籠の中から伝書鳩が見つかる。老婆は、この鳩を使って、弾着点と被害の具合を、ドイツに知らせるつもりであったという。 以上、二つの例を紹介したが、それらのスパイを当局が取り締まったところ、パリ砲の命中率が下がったといわれている。 参考文献 『週刊朝日』(十二巻二十一号) 朝日新聞出版 『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 『四王天延孝回顧録』 四王天延孝/みすず書房 『趣味の小鳥』 松山思水/実業之日本社 |
参謀総長が陸軍大臣宛てに「伝書鳩飼養再興ノ件照会」(参密第四九七号第一)を提出する。 内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031035200、永存書類甲輯 第1類 大正11年(防衛省防衛研究所)」より引用)
一九〇八(明治四十一)年に、日本陸軍は軍用鳩の飼養・研究を廃止している(下関要塞司令部と対馬警備隊司令部は一九一三〔大正二〕年まで飼養)。無線電信などの発達を受けて、もはや鳩通信は時代遅れ、と判断したのである。しかし、現今の欧州大戦(第一次世界大戦)において、軍用鳩が活躍していることが伝わると、陸軍は軍用鳩飼養を再開する。 ☆補足 砲兵沿革史刊行会『砲兵沿革史』(第5巻〔上〕 〔第五編〕 回顧録 其の一)に、以下の記述がある(*緒方勝一大将の体験記)
緒方の回想によると、陸軍重砲兵学校と中野電信隊との間で軍用鳩通信を実施し、大変便宜を得たという。 軍用鳩調査委員事務所との印が押された「横須賀鳩通信」という紙片によると、関東大震災発生の翌九月二日、重砲兵学校は中野の軍用鳩調査委員会宛てに計四信の鳩通信を実施し、横須賀が火の海と化し、浦賀方面においてはドックおよび浦賀全市の半分が全焼した、などと報告している。 参考までに、第一信の内容を以下に引用しよう。
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031035200、永存書類甲輯 第1類 大正11年(防衛省防衛研究所)」 『砲兵沿革史』(第5巻〔上〕 〔第五編〕 回顧録 其の一) 砲兵沿革史刊行会/偕行社 「横須賀鳩通信」 軍用鳩調査委員事務所 |
ドイツ軍は数週間の準備の後、部隊の種類、師団および連隊、ならびに第四軍の配置に関する虚偽の計画を五、六羽の伝書鳩に付して連合軍の手に握らせる。この企ては成功し、連合軍はそのうその内容を信用して対策を講じる。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年十月号) 大日本軍用鳩協会 |
同日付のロイター通信の報道によると、東部シャンパーニュにおいて、伝書鳩通信はドイツ軍の砲撃中、何ら支障なく実施されているという。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正七年七月二十二日付) 東京朝日新聞社 |
先頃、ニューヨークにおいて、アメリカ陸海軍の大会が開催される。 海外における婦人救護隊の寄付金募集に関する催しで、このとき、伝書鳩がウッドロウ・ウィルソン大統領夫人への招待状をワシントンに届ける。また、この招待状への返事も、他の伝書鳩が取り次ぐ。 以上、同日付の『読売新聞』の記事より。 参考文献 『読売新聞』(大正七年八月三日付) 読売新聞社 |
一九〇六(明治三十九)年九月五日に日本海軍は軍鳩研究を廃止しているが、欧州の戦場(第一次世界大戦)において、軍鳩が活躍していることが伝わると、横須賀海軍航空隊で軍鳩研究が再開される。 この軍鳩研究は、海軍の正式なものではなく、士官たちの寄付で費用を賄い、八島俊一大尉が主任となって飼育訓練をおこなう。活動に必要な鳩は、大阪好鳩会(民間)から種鳩八羽を譲り受ける。しかしながら、乏しい資金をもとにおこなわれた研究だったので、放鳩訓練など思いどおりにできず、目立った成果は上げられなかった。 ☆補足 第一次世界大戦の終結後、日本はフランスから三名の鳩術教官を傭聘し、同国から一〇〇〇羽の伝書鳩と器材を輸入する。また、陸軍に、軍用鳩調査委員会を設置する(後述) それ以前の日本では、本格的な伝書鳩はほとんど流通しておらず、観賞鳩の飼養が主だった。 当時、京都では「ミジカ」と呼ばれる、自分で餌を拾えないほど、くちばしの短い鳩や、「ハタキ」(または「タタキ」)という二、三メートルをバタバタ飛ぶだけの鳩がはやった。 大阪の堺では「バラリ」という羽色の鳩が人気を集める。羽色がほぼ黒く、首から頭部にかけて白斑がある鳩を「バラリ」と呼んだ。現在のモザイク(M)に相当する。堺で開催された鳩の市では京都や大阪方面から一〇〇〇羽近い「バラリ」が入荷し、「バラリ」愛好家たちの活況を呈する。一九一五、六(大正四、五)年頃、京都の羽賀仙次郎がこの鳩を使って名古屋~京都間の飛翔に成功し、「羽賀のバラリ」と話題になる。 一九二三(大正十二)年、「足毛」といわれる鳩が一時的に流行し、一つがい五〇〇円からの高値がつけられる。 参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『愛鳩の友』(昭和三十一年十月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十七年六月号) 愛鳩の友社 |
サン・ミエルの戦いにおいて、アメリカ軍は戦車から二〇二羽の軍用鳩を放つ。 砲火によって失われた鳩は二十二羽にとどまり、通信文は重複して発信しているので、全て目的地に到達する。 参考文献 『偕行社記事』(第六七〇号) 偕行社 |
午前一時、サン・ミエル戦線において、フランス軍の軍用鳩が放たれる。 この夜間鳩は、四十キロの距離を飛行し、午前一時五十五分、コンメルシーの鳩舎に帰り着く。この夜間鳩通信によって、連合軍の攻撃部隊指揮官は絶好の情報を得る。 ☆補足一 『愛鳩の友』(昭和五十年十二月号)に掲載された記事「鳩兵と軍用鳩 銃火を越えて結ぶ友情」によると、鳩の夜間通信はフランス軍通信隊のギューム中佐(動物学者)が考案したそうである。日没頃、鳩に舎外運動をさせて、それが終わったときに餌を与えるのが訓練のコツだという。 ☆補足二 『尋常小学 国語読本教授書 第五学年後期用』に、以下の記述がある(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足三 フランス軍は夜間鳩の通信だけでなく、往復鳩の通信にも成功している。フランス軍の司令部間を、距離一〇〇キロまでの定期通信でつなげる。 ☆補足四 張万鍾『鴿経』によると、中国では夜間鳩のことを「夜遊」と呼ぶそうである。中国の軍隊において、歩哨線で用いられる鳩がこの種だったという。 参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『愛鳩の友』(昭和五十年十二月号) 愛鳩の友社 『尋常小学 国語読本教授書 第五学年後期用』 三浦喜雄 橋本留喜/東京宝文館 『鴿経』 張万鍾 |
ムーズ・アルゴンヌ攻勢において、アメリカ軍は四四二羽の軍用鳩を放つ。そのうち、四〇三羽が無事に戻り、帰還率九割に達する。 ☆補足一 ムーズ・アルゴンヌ攻勢前、アメリカ軍の移動鳩舎は新位置に移動し、そこで軍用鳩の訓練をおこなう。この訓練は五日間しか実施できなかったが、四〇三羽の軍用鳩は、二十~五十キロの距離を飛翔し、アメリカ軍に通信文を届ける。 なお、第一次世界大戦の初年度には鳩通信の技術が未熟で、そうした訓練に数週間を要した。 ☆補足二 日本軍の鳩教範などによると、移動鳩舎は一日の放鳩訓練で五キロ、三日の放鳩訓練で二十キロ、七日の放鳩訓練で五十キロの通信能力(距離)を得られるという。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『偕行社記事』(第六七〇号) 偕行社 『偕行社記事』(第六八三号) 偕行社 『鳩の戦術的用法』(『偕行社記事』第五九八号付録) 偕行社 |
十月二日、ムーズ・アルゴンヌ攻勢において、アメリカ軍第七十七師団の一個大隊(五五四名)がドイツ軍の防御陣地を攻撃し、同大隊はムーラン・ド・シャレヴォーに到達する。しかし、このとき、それ以外の部隊がドイツ軍に押し戻されたことから、同大隊は敵中で孤立する。 十月三日、大隊はドイツ軍から二度の攻撃を受けるが、これを何とか撃退する。 十月四日、放った斥候の報告により、敵に包囲されていることを大隊は把握する。そこで、軍用鳩を放って、ムーラン・ド・シャレヴォーに大隊が到達していることを師団司令部に知らせる。しかし、これが不幸をもたらす。急きょ、大隊を支援するために砲撃が実施されるのだが、その位置をよくつかんでいなかったために、大隊は友軍から誤砲撃されてしまう。大隊長のチャールズ・ホワイト・ホイットルシー少佐は、この危機を知らせるために軍用鳩シェラミ(仏・Cher Ami。英・Dear Friend〈の意〉)を空に放つ。 そうして、飛び立ったシェラミは、途中、ドイツ軍に銃撃されて負傷するが、何とかして師団司令部に帰り着く。これにより、砲撃は中止され、大隊は難を免れる。 十月八日、ドイツ軍が戦略的撤退をはじめたことから大隊への包囲が解かれる。 また、救援部隊もやってきて、大隊は窮地を脱する。しかし、大隊の被害は甚大で、五五四名中、戦死者一〇七名、行方不明者六十三名、負傷者一九〇名の損失を出す。 ☆補足一 軍用鳩シェラミのけがはひどく、胸を撃たれ、片目と右脚を失う。 翌年の一九一九年六月十三日、シェラミは死に、剥製にされる。 現在、シェラミの剥製は、アメリカのスミソニアン博物館に展示されている。 ☆補足二 マルタン・モネスティエ『図説 動物兵士全書』と、同書の記述を引用している、黒岩比佐子『伝書鳩 もうひとつのIT』の両書が、シェラミ(Cher Ami)のことをベラミ(Bel Amiのカタカナ表記?)と誤記している。 また、ホイットルシー少佐の大隊を「ロスト歩兵大隊」と両書は記しているが、これも不適切である。「Lost Battalion」の日本語訳は、「ロスト歩兵大隊」ではなく、「失われた大隊」または「帰らぬ大隊」などとするのが適当である(ただし、『図説 動物兵士全書』については日本語訳の問題となるので、マルタン・モネスティエの責任ではない。同書のフランス語原書では「Lost Battalion」と正しく表記されている) 参考文献 「事例研究 アルゴンヌの戦い、ホイットルセーの死闘」 武内和人 http://militarywardiplomacy.blogspot.com/2016/02/blog-post_82.html 『Fly, Cher Ami, Fly! The Pigeon Who Saved the Lost Battalion』 Robert Burleigh /Harry N. Abrams 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『伝書鳩 もうひとつのIT』 黒岩比佐子/文芸春秋 |
フランス軍の第二十八師団参謀部は、この十月の一ヶ月間に、たった一つの移動鳩舎から二一〇通もの通信文を受け取る。 参考文献 『伝書鳩』 岩田 巌/科学知識普及会 |
フランス軍が馬車型鳩舎一五〇台の製作を計画に盛り込む。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 |
この年のある日、ベルギーの愛鳩家――オスカー・デルバールの自宅前に、ドイツ軍の軍用車がやってくる。オスカーは優秀な長距離鳩――ブラウエ・ウィール号を用いて繁殖をおこなっていたが、ブラウエ・ウィール号の名声はドイツ人の耳にも入っていたらしい。ドイツ軍はオスカーの鳩を全て没収し、軍用車でドイツに運び去ってしまう。 戦争終結後、オスカーはラインラントに進駐する連合軍に連絡を取り、六羽の愛鳩を見つけ出す。そのうち、五羽がブラウエ・ウィール号の直子(雌)だった。 ☆補足 直子(ちょっこ)とは、人間でいう実子と同じ意味。直接の子。 参考文献 『銘血・銘鳩 伝説の愛鳩家 ピート・デウェールトの回想録』 ピート・デウェールト/愛鳩の友社 |
戦場にいる動物には全て毒ガス防御面をかぶせるが、伝書鳩についても、この防御法を講ずる必要がある。 ドイツ軍においては、伝書鳩の入れ物に特殊な装置を施している。鉄製の箱の中央にある丸い入口から鳩を出し入れし、この丸い入口は鉄蓋で密閉することができる。他の数ヶ所ある息抜き穴には、防御面の内部に入れるのと同様に、消毒液に浸した布を張っている。 以上、同日付の『読売新聞』の記事より。 ☆補足 防御面とあるが、現在では防毒面(ガスマスク)の呼称が一般的である。 参考文献 『読売新聞』(大正七年十一月五日付) 読売新聞社 |
連合国と同盟国との間に休戦協定が結ばれ、第一次世界大戦が終結する。 その翌年にパリ講和会議(一九一九年一月十八日~)が開かれる。 ☆補足一 マルタン・モネスティエ『図説 動物兵士全書』によると、第一次世界大戦中に各国で使翔された鳩の総数は数十万羽といわれていて、フランス軍だけで六万羽ほどの鳩が登録されていたという。 偕行社『偕行社記事』(第五八三号および第六七〇号)によると、第一次世界大戦末期、ドイツは約三十万羽の鳩を飼養し、そのうち平素より八〇〇〇羽が軍用として訓練されていたそうである。ドイツ正面には約五六〇の鳩舎があり、その鳩数は約十二万羽を数えたという。 治安部参謀司『鉄心』(第三巻第七号)に掲載された記事「米国の軍用鳩」(作・井崎於菟彦)に、第一次世界大戦末期の各国軍の鳩隊人員および鳩数が載っている。 以下に引用しよう(一部、漢字をひらがなに改めている)
また、ツェー・エー・リヒタース『科学戦と軍用動物』に、以下の記述がある(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足二 マルタン・モネスティエ『図説 動物兵士全書』によると、終戦時、フランス軍には三万羽の鳩が手元にあり、フランス北部の戦闘だけで二万羽ほどの鳩を失っていたという。 ☆補足三 今次大戦の末期十ヶ月間において、アメリカ軍の遭難飛行機(水上機)――実に二一九機が、軍用鳩の通報によって救助される。 海上を八十時間漂流した後、助けられたストーン少尉は、その代表例である。 戦後、アメリカは全土の鳩を政府に登録し、必要に応じて動員できる組織を作り上げる。また、戦死した軍用鳩の慰霊祭を大々的に催す。 参考文献 『偕行社記事』(第五八三号) 偕行社 『偕行社記事』(第六七〇号) 偕行社 『鉄心』(第三巻第七号) 治安部参謀司第二課/治安部参謀司 『科学戦と軍用動物』 ツェー・エー・リヒタース 著 新美達郎 山極三郎 荘保忠三郎 訳/産業図書 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 |
大正七年十二月二十日付の『東京朝日新聞』の記事によると、米国戦時通商局は輸出制限保有指定品目中、十二月十六日付をもって、伝書鳩を削除品目にしたという。 参考文献 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 日米貿易(1-163) 東京朝日新聞 1918.12.20 (大正7) |
交通兵団長が陸軍大臣宛てに、「軍用伝書鳩研究調査方針提出之件」(鳩研第八号)を提出する。これは、昨年の十二月二十八日に出された陸訓第四十三号訓令第五項に基づき、今後実施される予定の軍用鳩研究の調査方針を述べたものである。 内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031035200、永存書類甲輯 第1類 大正11年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたり、判読不能箇所に〓を代入したりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031035200、永存書類甲輯 第1類 大正11年(防衛省防衛研究所)」 |
日本郵船汽船・亜細亜丸(村井汽船所有の小型貨物船。二四六〇トン。日本郵船がチャーター)がフランスのマルセイユを出港し、日本を目指す。三月九日頃にコロンボ(セイロン島)、三月二十日頃にシンガポール、四月十日頃に神戸に到着する予定である。 この亜細亜丸は、軍用鳩一〇〇〇羽、鳩車四両(大型自動車式鳩車二両と、車輪式鳩車二両)、そのほか鳩舎付属器材を積んでいる。また、ルネ・クレルカン砲兵中尉、オリヴィエ・ストリューヴ工兵軍曹、アルフォンス・ワロキエ工兵軍曹ら仏軍鳩術教官三名をはじめ、その家族三名(クレルカン夫人、ワロキエ夫人、クレルカンの六、七歳になる息子)と、それら傭聘者の引率に当たる四王天延孝工兵中佐が亜細亜丸に乗船している(軍用鳩関係者、計七名) ☆補足一 軍用鳩調査委員幹事などの要職を務めた井崎於菟彦少佐は、『愛鳩の友』(昭和四十四年十一月号)に掲載された記事「鳩士官修業時代」(作・井崎乙比古)において、以下のように述べている。
☆補足二 陸軍は当初、フランスから一〇〇つがい(二〇〇羽)の軍用鳩を輸入するだけで教官を傭聘するつもりはなかった。しかし、フランス大使館付武官の永井 来歩兵大佐が、少数の鳩を購入し、専門家不在の中で軍用鳩研究をおこなっても徒労に終わる、と意見具申したことから、陸軍は考えを改める。 その永井の意見を以下に引用しよう(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031035200、永存書類甲輯 第1類 大正11年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
こうして、少数の鳩ではなく多数の鳩を購入することになるが、その輸入された鳩の数が一〇〇〇羽だったのは、確固とした理由がある。 武知彦栄大尉が記した文書「軍鳩飼育に関する参考資料並に雑件」に、以下の記述がある(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足三 マルセイユを出帆した頃は、強いシケによって、亜細亜丸の甲板上の鳩舎が吹き飛ばされそうになる。しかし、船員たちが鳩舎の増強作業を懸命におこなったので、事なきを得る。 ☆補足四 亜細亜丸は無線機を装備していなかったために、二名からなるフランスの通信班が同船に乗り込む。しかし、その無線班は、地中海航行までの配属にとどまり、亜細亜丸がポートサイド(エジプト)に到着すると、彼らは下船してしまう。それ以降、亜細亜丸は、無線機なしで日本までの船旅を続けることとなる。 四王天延孝工兵中佐は、回顧録に、
と、少しあきれたような感じで、このことを記している(四王天延孝『四王天延孝回顧録』より引用) ☆補足五 亜細亜丸が日本に到着する頃には、二、三〇〇羽の鳩が病気などによって死んでしまう、と思われた。しかし、航海の半分を過ぎても、ほとんどの鳩が元気なので、中等程度の鳩を四羽、試しに放鳩してみよう、ということになる。そうして、インド洋上で鳩を放つが、一目散にパリの方向目指して飛んでいったり、目に見える陸地に向かって急いだりするなどして、一羽の鳩も亜細亜丸の鳩舎に帰ってこなかった。 ☆補足六 インド洋での放鳩実験から少したった頃の出来事である。 ある朝、何に驚いたのか、四〇〇羽あまりの鳩が鳩舎の中を穏やかならざる様子で飛び回る。 これを目にした四王天は、四〇〇羽の鳩を落ち着かせる方法が分からず、また、こうなってしまった原因も分からなかったので、大声でクレルカン中尉の名を呼ぶ。 クレルカンがオウと答えて下の室から現れると、 「オイオイ子供ら何をしているのだ」 と、胴間声で鳩たちに声をかける。 すると、それまで飛び回っていた鳩が静まって、おとなしく止まり木に止まる。 鳩たちは安心したように、クレルカンの顔を見つめる。 この見事な光景を前に、四王天は言葉を失う。 そして、四王天は、こう考える(四王天延孝『四王天延孝回顧録』より引用。一部、文字表記を改めている)
☆補足七 『愛鳩の友』(昭和四十九年七月号)に掲載された記事「鳩界今昔物語 第六話」(作・井崎乙比古)によると、フランスから輸入した鳩車は、大型鳩車二一二号と、中型鳩車八十二号という名称だったという。 また、『愛鳩の友』(昭和四十七年二月号)に掲載された記事「思い出のフランス鳩舎二百十二号」(作・井崎乙比古)によると、二一二号にはAとBの二鳩車があり、棲息鳩車(A鳩車)と給食鳩車(B鳩車)に分かれていたという(甲乙両地区を結ぶ往復鳩通信) 以上の情報を統合すると、大型鳩車二一二号と、中型鳩車八十二号には、それぞれABの鳩車(棲息鳩車および給食鳩車)があり、これがフランスから輸入した鳩車四両の内訳だったように考えられる。しかし、この考え方を採用すると、鳩車四両の全てが往復鳩通信用になってしまい、移動鳩通信用の鳩車はなかったのか、という疑問が生じる。往復鳩通信用兼移動鳩通信用と考えれば問題ないが、ただの想像であり、確証はない。 詳細不明。 ☆補足八 ルネ・クレルカン砲兵中尉と記しているが、このときはまだクレルカンは少尉で、日本到着後もしばらくは同階級にとどまっていた。日本滞在中に中尉に昇進したのである。しかし、その時期が明確に特定できなかったので、便宜上、以後も中尉と表記する。つまり、以降の項目において、ルネ・クレルカン砲兵中尉と記してあったとしても、その時点で中尉になっているとは限らない。注意してほしい。 なお、軍用鳩調査委員長が陸軍大臣宛てに申請した「仏国武官傭聘契約期間延長ノ件」(鳩第四十九号)によると、一九二一(大正十)年三月二十四日の段階で、クレルカンは中尉に昇進済みであることが分かっている。 参考文献 『四王天延孝回顧録』 四王天延孝/みすず書房 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031035200、永存書類甲輯 第1類 大正11年(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03025218500、欧受大日記 大正10年自4月至5月(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08021598700、大正9年 公文備考 巻45 航空9 (防衛省防衛研究所)」 『愛鳩の友』(昭和四十四年十一月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十七年二月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十九年七月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十九年八月号) 愛鳩の友社 『日本鳩時報』(昭和十八年三月号) 大日本軍用鳩協会 |
午前七時半、軍用鳩一〇〇〇羽や仏軍鳩術教官らを乗せた汽船・亜細亜丸が神戸に入港する。 フランスからの二ヶ月弱の長旅だったので、鳩が二、三〇〇羽、病気などによって死んでしまうのではないか、と思われていたが、ふたを開けて見れば、わずか二十羽の喪失にとどまる。 ☆補足一 このとき、交通兵団から出迎え者が派遣されている。 『東京朝日新聞』(大正八年三月三十日付)の記事によると、長谷川大尉以下三名とある。 一方、『読売新聞』(大正八年三月三十一日付)の記事によると、三宅尚継工兵大尉ほか兵三名(計四名)とある。 どちらの記述が正しいのか戸惑うが、中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十八年九月号)に掲載された記事「将来の鳩を語る」によると、当時、交通兵団司令部付の長谷栄二郎大尉が通訳と雇員を連れて神戸に行ったとのことである。 同記事は、神戸に出迎えに行った長谷当人の回想なので、これを踏まえると、『東京朝日新聞』(大正八年三月三十日付)の記事が正しいようである。ただし、この『東京朝日新聞』の記事は、「長谷」の名字を誤って「長谷川」と表記している。 ☆補足二 フランスからやってきた一〇〇〇羽の鳩のうち、わずか二十羽の喪失にとどまった、と上記に記したが、これは四王天延孝『四王天延孝回顧録』の記述による。 一方、『東京朝日新聞』(大正八年四月三日)の記事には十四、五羽が倒れたとある。 どちらの記述が正しいのか不明。 ☆補足三 松本 興『鳩(最新版)』に、フランスから一〇〇羽の優秀な種鳩を輸入した、との記述がある。 輸入した一〇〇〇羽の鳩のうち、特に一〇〇羽が優秀な種鳩だった、という意味に取れなくもないが、そうすると、残りの九〇〇羽の位置づけが不明瞭で釈然としない。一〇〇〇羽のところ、一桁抜けて一〇〇羽になってしまっただけのように思われる(誤記) ☆補足四 仏軍鳩術教官の待遇を定めた「軍用鳩勤務仏国将校下士傭聘ノ件」によると、ルネ・クレルカン砲兵中尉らの傭聘期間は満二ヶ年で、俸給は同中尉が日額十八円、オリヴィエ・ストリューヴ工兵軍曹およびアルフォンス・ワロキエ工兵軍曹が日額十二円だったという(毎月一日に支給)。また、官舎や家具の提供のほか、旅費や出張費など、業務に必要な費用は日本政府が負担する、とある。 ☆補足五 フランスから鳩と教官が到着する前に、陸軍は中野電信隊構内に鳩舎を建て、また、軍用鳩の専習員を募集する。 井崎於菟彦は、いの一番でこれに志願するが、「フランス語に堪能なる者」との採用条件に不安を覚える。幼年学校で少しフランス語をかじっただけだったからである。 幸いにも、フランス語の試験はなく、井崎の父親の友人・菅野尚一少将が初代軍用鳩調査委員長だったこともあって、井崎は合格通知を受け取る。しかし、そこから奮起してフランス語の猛勉強をはじめる。フランス夫人に一時間五円の授業料を払って、一日に二時間、フランス語を学ぶ。少尉の月給が四十円の頃なので、相当な重荷だったが、一日も欠かさずに授業を受けて、会話に差し支えない程度にまで、こぎつける。 そうして、一九一九(大正八)年の四月、フランスからやってきた三名の教官を迎えて、鳩術を学ぶ。外語出の通訳官二名がいたが、専習員のフランス語能力を高めるために、大抵の場合、通訳を介さずに会話したという。 *上記の一文は、『愛鳩の友』(昭和四十九年二月号)に掲載された記事「鳩界今昔物語 第一話 日本伝書鳩協会の誕生」(作・井崎乙比古)をもとに記す。 この記事とほぼ同じ内容が、『愛鳩の友』(昭和四十五年二月号)に掲載された記事「鳩放談 その三 鳩のお宿をたずねて」(作・井崎乙比古)に載っている。 しかし、そのフランス語学習の時期が異なっていて、前者が大正八年頃の話であるのに対して、後者は、昭和四、五年頃の話である(と思われる)。この後者については、井崎が欧州伝書鳩視察の旅に出る前に、語学の不安を打ち消すため、フランス夫人からフランス語を習ったという。 また、前者は、少尉の月給四十円から五円の授業料を支払うのは重荷だった、などと記しているが、後者は、一〇〇円そこそこの俸給から五円を支払うのは大きな負担だった、などと記している。 大正八年頃と、昭和四、五年頃の計二回、井崎はフランス夫人からフランス語を習った、と考えることもできるが、多分、井崎の記憶違いであろう。 実際は、このどちらか一方の時期の出来事だったと思われる。 ☆補足六 小野内泰治は、『日本鳩界史年表』(1)において、軍用鳩一〇〇〇羽の輸入と仏国鳩術教官三名の傭聘を、「大正七年」の出来事であると記している。しかし、正しくは、「大正八年」である。 この間違いは拡散していて、『愛鳩の友』誌のいくつかの記事に、「大正七年」と載っている。 参考文献 『四王天延孝回顧録』 四王天延孝/みすず書房 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031035200、永存書類甲輯 第1類 大正11年(防衛省防衛研究所)」 『東京朝日新聞』(大正八年三月三十日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(大正八年四月三日付) 東京朝日新聞社 『読売新聞』(大正八年三月三十一日付) 読売新聞社 『普鳩』(昭和十八年九月号) 中央普鳩会本部 『鳩(最新版)』 松本 興/博友社 『愛鳩の友』(昭和三十三年五月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十五年二月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十九年二月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十九年七月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和五十年十一月号) 愛鳩の友社 |
陸軍内で「軍用鳩調査委員設置ニ関スル件」という案が作成される。 この新組織――軍用鳩調査委員会の設置理由は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031035200、永存書類甲輯 第1類 大正11年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足一 軍用鳩調査委員会が設置されたことにより、軍だけでなく民間の鳩飼養も活気づく。 軍用鳩調査委員『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』に、以下の記述がある(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足二 中野の軍用鳩調査委員会では月報を発行していた。鳩園社の鳩雑誌『鳩』などに、記事のいくつかが転載されている。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031035200、永存書類甲輯 第1類 大正11年(防衛省防衛研究所)」 『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 |
ルネ・クレルカン砲兵中尉らの一行が東京に到着する。 このときの様子を歴史写真会『歴史写真』(大正八年五月号)が大きな写真とともに、以下のように報じている。
☆補足一 中野では、樋口雇員の設計によって鳩舎を建築し、一〇〇〇羽の軍用鳩が来るのを待ち構えていた。しかし、クレルカンがやってくると、「これは駄目だ、改造せよ」と言って、鳩舎の作りに問題があることを指摘する。「鳩舎のどこが悪い」と聞くと、「この鳩舎ではどうして鳩を捕まえるか」と言う。確かに鳩舎の天井は高く、手綱ですくって鳩を捕まえていた。クレルカンが言うには、それでは鳩を荒くするから駄目なのだという。こうして、大急ぎで鳩舎の改造に取りかかることになる。 なお、四王天延孝『四王天延孝回顧録』にも、同様の記述がある。 以下に引用しよう。
☆補足二 チャンピオン社『チャンピオン』(昭和五十年十一月号)に掲載された記事「仏国クレルカン中尉講述 軍用鳩ニ関スル講義 軍用鳩調査委員会」によると、クレルカンは時間と金を費やして鳩レースを二十四年間おこなうが、最初の四年間は失敗ばかりだったという。しかし、一九一四年七月二十四日、この日に開催された二〇〇キロレース(参加鳩数三〇〇羽)において、クレルカンは成功を収める。参加した選手鳩八羽が、一位、二位、四位、五位、七位、八位、十位、十七位の賞を取ったのだ。 参考文献 『歴史写真』(大正八年五月号) 歴史写真会 『普鳩』(昭和十八年九月号) 中央普鳩会本部 『四王天延孝回顧録』 四王天延孝/みすず書房 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031035200、永存書類甲輯 第1類 大正11年(防衛省防衛研究所)」 『チャンピオン』(昭和五十年十一月号) チャンピオン社 |
午後六時、フランス軍の飛行将校J・P・フォール大佐ほか二十一名ならびに今般鳩術教官としてフランス軍から招聘したルネ・クレルカン砲兵中尉を主賓とする招待会が、永田町の官邸で開かれる(原 敬総理主催) 田中義一陸軍大臣、上原勇作参謀総長、一戸兵衛教育総監、福田雅太郎参謀次長、山梨半造陸軍次官ら二十名の陸軍関係者が出席する。 ☆補足一 『東京朝日新聞』(大正八年四月三日付)に載った予定に従って上記の内容や日付を記す。したがって、予定に変更が生じていたら、出来事や日付が現実と異なっているかもしれない。 ☆補足二 『台湾新聞』(大正八年四月二十日付)に、「飛行機と鳩と」という題の記事が載っている。 同記事によると、フランス軍の飛行機将校数十名の来日あるいは伝書鳩の輸入など、フランスと日本の交通は種々の意味において頻繁だが、これは日本と英米の関係とは異なり、日仏間の利益関係が密接でないためにこの種の交通を見つつあるのだろう、とのことである。 『台湾新聞』のいう日仏間の交流を端的に述べるなら、関係ないから関係できる、ということになるか。 ☆補足三 四王天延孝『四王天延孝回顧録』に、クレルカンを接待したときのエピソードが載っている。 以下に引用しよう。
その後のある日、陸軍大臣の官邸で宴会が開かれ、クレルカン、軍用鳩調査委員の井崎於菟彦、オリヴィエ・ストリューヴ工兵軍曹、アルフォンス・ワロキエ工兵軍曹らが招かれる。 一流の日本料理が出るが、ストリューヴは外国人とは思えないほど上手に箸を使って、マグロの刺身を堪能する。ストリューヴは、隣にいた井崎に、お刺身のお代わりが欲しい、と言うが、井崎は、日本の宴席ではお代わりは出ない、と答える。ストリューヴはそれが不満らしく、ほかの皿に一通り箸をつけて、その日の宴会はお開きになる。しかし、ストリューヴは刺身への未練が断ちきれず、再度、井崎に、刺身を一皿宿舎にお土産にしたいので大臣閣下にお願いをしてほしい、と言う。 そこで、井崎は、秘書官を通じて土産用の刺身を大臣に所望する。大臣は大喜びして、トロを大皿に持ったのを用意し、井崎らの車に運び込む。 その後、車は中野にある宿舎ではなく、麹町の、とある家の前にとまる。そして、家の中から三十歳前後の上品な日本婦人が出てきて、トロの大皿をうれしそうにストリューヴから受け取る。それを見ていた井崎は、ストリューヴの二号さんと感づく。井崎は、鳩の先生の誇りを傷つけてはならぬ、と思って、このことを秘密にする。 前述した四王天延孝の回想では、当初、クレルカンは刺身の食べ方が分からず、戸惑っていた。しかし、井崎の回想によると、クレルカン、ストリューヴ、ワロキエの三人は日本滞在中、刺身を愛好し、日本趣味を満喫したという。 ☆補足四 「補足三」に続いて、ストリューヴの女性関係について紹介しよう。 日本にやってきた三名の鳩術教官のうち、クレルカンとワロキエは夫人を伴っていたが、ストリューヴは独身だった。この状態で、クレルカンおよびワロキエの一家と同じ官舎に住んで、日本での契約期間満了までを過ごすのは、健康な男子にとって酷である。このままではたまらぬ、とストリューヴが小声で井崎に言う。 そこで、井崎は、新宿のS屋を利用することに決めて、ストリューヴから申し出があると、夜間鳩訓練の名目で車を出す。ストリューヴが遊んでいる間、井崎は別室で待機する。 そうして、ことが済むと、ストリューヴは、さも満足したように毛だらけの大きな手を差し出し、「モッシュウ・メルシー・ボーリー」と言いながら井崎と握手する。 ☆補足五 井崎によると、ストリューヴの愛鳩家ぶりは徹底していたという。雌鳩が卵詰まりを起こして苦しそうにしていると、ストリューヴは一切ためらうことなく、鳩の肛門に口を押し当てて、卵を完全に吸い出す。 このことについて、井崎は、こう述べている(『愛鳩の友』〔昭和四十九年九月号〕より引用)
ほかに、ストリューヴは、鳩のフンを平然と指でつまんで箱に入れる。不潔感などは少しもなく、鳩舎の清潔には大いに注意を払う。 この鳩のフンについては、フランスの化粧品会社・コティが鳩のフンを製品に混ぜているといわれている。ストリューヴがコティの株を持っていて、ストリューヴが井崎に語るところによると、同社に限らず、フランス製の化粧品の中には大小の差こそあれ、鳩フンの加工したものを混入しているという。鳩のフンには肌によい効果があるらしい。実際、ワロキエ夫人は、鳩のフンを温水に溶かして顔料にしており、また、中野の軍用鳩調査委員会で六ヶ月間、兵は軍用鳩修業をするが、それぞれの兵が原隊に戻るとき、その手は乙女のような美しい肌をしていたと井崎は回想している。 ちなみに、鳩のフンには皮革をなめす作用があり、現代でもモロッコなどで用いられている。 中野では軍用鳩を数千羽飼養していたので、鳩のフンが大量に出る。大きな穴を掘って、鳩のフンを埋めても、すぐに一杯になってしまう。軍用鳩調査委員会で庶務主任を務めていた井崎は、この問題に頭を抱える。しかし、あるとき、関西の革製品会社から、このフンを使いたいと願ってもない申し出があり、同社の社長が上京して中野にやってくる。社長は、鳩フンの山の前で、フンの臭いを嗅いだり、フンを手に載せて粉末にしたりする。井崎が「無償で呈上します」と言うと、社長は大喜びする。そして、社長と別れ際、井崎は、「鳩糞なら何処の神社仏閣にも、鳩の巣もあるし態々運賃を使って東京より送るのは何か理由がありますか」と質問する。すると、社長は、「寺や神社の鳩は、皆、素性の知れない土鳩で又雑食ですから御隊の鳩には及びません」と答える。 はっきりした時期は不明だが、こうして、軍用鳩調査委員会産の鳩のフンは、貨車で関西に運ばれるようになる。 *「ストリューヴがコティの株を持っていて、ストリューヴが井崎に語るところによると、同社に限らず、フランス製の化粧品の中には大小の差こそあれ、鳩フンの加工したものを混入している」とあるが、この話は、『愛鳩の友』(昭和四十四年十二月号)に掲載された記事「フランスの鳩の先生たち」(作・井崎乙比古)をもとに記す。 これと同じ話が、『愛鳩の友』(昭和四十七年七月号)に掲載された記事「麗人 九条武子と鳩の糞」(作・井崎乙比古)にも載っている。同記事によると、関東大震災の発生を受けて、井崎は日光田母沢御用邸で鳩通信を実施するが、その帰京の際、九条良致男爵(妻・九条武子)の車に同乗し、九条男爵からこの鳩のフンの効用を教えてもらったという。井崎いわく、全くの初耳であった、とのことなので、井崎は一九二三(大正十二)年にはじめて、この知識を知ったことになる。 しかし、そうだとすると、フランス人教官三名の来日は、一九二三(大正十二)年より以前の一九一九(大正八)年のことになるので、井崎がストリューヴから聞いたという鳩のフンの効用話に疑問符がつく。 後年(昭和初期)に井崎は、ヨーロッパに出張してストリューヴの家を訪ねているので、そのときに鳩のフンについてストリューヴと会話したとすれば、一応、整合性は取れる。ただし、ワロキエ夫人が鳩のフンを温水に溶かして顔料にしていたり、軍用鳩修業兵の手が乙女のように美しかったりすることに思い至るには、事前に鳩のフンの効用を知っていないと難しい。もちろん、井崎がフランスでストリューヴの話を聞いてから、そういえばワロキエ夫人は鳩のフンを温水に溶かしていたようだ、などと想起し、また、帰朝後に、軍用鳩修業兵の手を見て、乙女のように美しいと思った可能性もある。しかし、常識的に考えると、筆者(私)には受け入れ難い可能性に思えてならない。井崎は、九条良致男爵から鳩のフンの話をはじめて教えてもらったのではなく、そのときすでに、ストリューヴからこの話を日本で聞いていたのではなかろうか。井崎の記憶違いのように思われる。 ☆補足六 フランス軍将校の招待会に上原勇作参謀総長が出席している。 はっきりした時期は不明だが、ある日、この上原が中野の軍用鳩調査委員会にやってくる。元帥閣下の突然の来訪とあって、日直士官の井崎が玄関で出迎えて、来訪の目的を尋ねる。すると、上原はにっこり笑って、「君、鳩の夫婦は、絶対に一雄一雌かね」と問う。井崎は、鳩の三枝の礼は怪しいけれども、一つがいの鳩は夫婦の純潔は犯さるることはありませぬ、と答える。 その後、上原は、フランス語まじりの鹿児島弁(上原はフランス語が得意)で話しながら鳩舎を巡り、当時輸入した優秀鳩・巴里号やナポレオン号を手に取って愛玩し、上機嫌で帰ってゆく。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正八年四月三日付) 東京朝日新聞社 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 海運(09-147) 台湾新聞 1919.4.20 (大正8) 『四王天延孝回顧録』 四王天延孝/みすず書房 『偕行』(昭和三十二年四月号) 偕行会 『愛鳩の友』(昭和三十二年四月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十四年十二月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十七年七月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十九年八月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十九年九月号) 愛鳩の友社 |
交通兵団長が陸軍大臣宛てに、「軍用伝書鳩ニ関スル庶務規定提出ノ件」(鳩研第十七号)を提出する。これは、昨年の十二月二十八日に出された陸訓第四十三号訓令第五項に基づき、軍用伝書鳩に関する庶務規定をまとめたものである。 その庶務規定をまとめた冊子は、『軍用伝書鳩研究調査業務規定 付 宿直服務規定』、『経理事務ニ関スル規定』、『雇傭者ニ関スル規定』の計三冊からなる。 各冊子の目次は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031035200、永存書類甲輯 第1類 大正11年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031035200、永存書類甲輯 第1類 大正11年(防衛省防衛研究所)」 |
「軍用鳩調査委員長ニ与フル訓令」(陸訓第十二号)が出される。 内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031248300、永存書類甲輯第1類 大正15年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
なお、「軍用鳩術修業員分遣要領」は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031248300、永存書類甲輯第1類 大正15年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031248300、永存書類甲輯第1類 大正15年(防衛省防衛研究所)」 |
「軍用鳩保護ノ為害鳥狩猟ニ関スル件」が出される。 害鳥の狩猟は狩猟期のいかんにかかわらずこれを実施してほしい、と要望する内容である。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031035200、永存書類甲輯 第1類 大正11年(防衛省防衛研究所)」 |
軍用鳩調査委員長が陸軍大臣宛てに、「軍用鳩調査委員事務所開設之件報告」(鳩第三十一号)を提出する。 内容としては、交通兵団長より事務の引き継ぎを終えて、中野電信連隊構内に事務所を置き、四月十六日より、業務を開始していることを報告するものである。 なお、軍用鳩調査委員会の委員長(初代)は菅野尚一少将、委員幹事(初代)は宮原国雄工兵大佐である。 ☆補足 軍用鳩調査委員会の委員長職は軍務局長が担当する。すなわち、歴代の軍用鳩調査委員長は、歴代の軍務局長となる。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02030870700、永存書類甲輯第1類 大正8年(防衛省防衛研究所)」 |
中野の軍用鳩調査委員会鳩舎で第一回目の出舎を実施する。単に軍用鳩が鳩舎から出て飛翔し、その後、帰舎するだけとはいえ、当日は陸軍省から見学者がやってくる。遠くヨーロッパから輸入された鳩が日本のものとなったのか、約一ヶ月間の馴致の成果が問われる。 鳩の出舎~飛翔~入舎は、一羽がアンテナにとまったほか問題なかったが、アンテナの柱を左右に張っている鉄線に鳩が衝突するアクシデントが発生する。ルネ・クレルカン砲兵中尉が驚いて、鉄線を取り除いてほしいと言う。はるばるフランスから持参した鳩が鉄線によって地上にたたきつけられるのを見ていられないという。しかし、だからといって、中野電信隊のアンテナを撤去するわけにいかないので、結局、白木綿の片を鉄線に巻きつけて、これを鳩用の避難赤信号として問題の解決を図る。 大正十五年四月十五日発行の鳩園社『鳩』(第四年四月号)に掲載された記事「中野軍用鳩会話」(作・B記者)にも同様のことが記してあり、クモの巣のように張り巡らされている電線やラジオのアンテナが鳩の飛翔の障害になるので、丸い輪をぶら下げているという。 また、四王天延孝『四王天延孝回顧録』に、以下の記述がある(引用文は一部、空行を入れている)
☆補足一 ルネ・クレルカン砲兵中尉が鉄線の撤去を訴えるのも無理はない。 『読売新聞』(大正二年八月十二日付)に掲載された記事「軍用の伝書鳩」によると、パリ付近にある要塞ヴォジラールの鳩飼育所では付近に電線等を設置しないように注意を払っているという。 これがフランス軍の標準的な鳩舎環境を表しているかどうか不明だが、実際にそうした場所がフランスに存在するのである。 クレルカンの胸中を察すると、何らかの目印を付して、これを鳩の激突防止策とするのは、生ぬるい処置に思えたのではないか。 ☆補足二 系統などの詳細は不明だが、巴里号、ナポレオン号、オルレアン号といった優秀鳩が中野の軍用鳩調査委員会鳩舎にいた。先の第一次世界大戦において殊勲を立てた、フランスおよびベルギー産の軍用鳩で、番号のほかに、その名を記した脚環をつけていた。いずれも、たくましい体格をしていて、相当な飛翔意欲を有していたという。 『愛鳩の友』(昭和三十三年二月号)に掲載された記事「爐辺鳩談」(作・井崎乙比古)に、執筆者の井崎がこれらの鳩の特徴を記している。 以下に引用しよう。
鳩の体に手を触れると白い粉で手が真っ白になった、とあるが、健康な鳩は脂粉を多く分泌する。つまり、調子のよい鳩のしるしである。 参考文献 『愛鳩の友創刊50年 半世紀の歩みを綴る永久保存版』 愛鳩の友社 『鳩』(第四年四月号) 鳩園社 『四王天延孝回顧録』 四王天延孝/みすず書房 『読売新聞』(大正二年八月十二日付) 読売新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十三年二月号) 愛鳩の友社 |
五月十日および十一日付の『東京朝日新聞』に、以下の募集広告が載る。
☆補足 本年三月にフランスから一〇〇〇羽の軍用鳩が日本にやってきている。軍用鳩調査委員会は、鳥類飼育の知識と経験を持つ民間人と力を合わせて、軍用鳩事業に乗り出す。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正八年五月十日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(大正八年五月十一日付) 東京朝日新聞社 |
海軍の金子中佐および大崎大尉が「陸軍軍用鳩研究委員会見学記事」を記す。題名どおり、軍用鳩調査委員会の見学記で、構成は「研究機関ノ組織」「設備」「飼育中ノ鳩」「飼育訓練」「所見」からなる。 以下に、筆者(私)の興味を引いた記述を箇条書きにして紹介しよう。 ・軍用鳩調査委員会の鳩舎は固定鳩舎と移動鳩舎の二種に分かれる。前者は同形のものが八棟あり、それぞれ一一二羽を収容する。後者は五両あり、そのうち一両が日本製で、他の四両がフランス製である(フランス製移動鳩舎四両のうち二両が一〇〇羽入り、他の二両が六十羽入り) ・伝書鳩の飼育訓練の経験ある者は、わずかに予備大尉一名と雇員一名があるのみで、この両名と地方農民の傭人数名が、フランスから傭聘した三名の鳩術教官(ルネ・クレルカン砲兵中尉、オリヴィエ・ストリューヴ工兵軍曹、アルフォンス・ワロキエ工兵軍曹)から指導を受けている。しかし、単に給料目的の者もあり、これでは到底、満足な成績を挙げられないと、委員の三宅尚継大尉は告白する。 ・三名の鳩術教官のうち、クレルカンは、伝書鳩を二十年間飼育した経験があり、今次大戦にも参加している。残りの二名の下士――ストリューヴおよびワロキエも約十五年間の飼育経験がある。 ・クレルカンとストリューヴは本年一月に復員し、ワロキエは現役中である。 ・三名の鳩術教官の契約期間は二ヶ年だが、契約期間満了後の進退は、本人の希望に一任する方針である。 ・目下、鳩を飼育するのみだが、わずかに移動鳩舎を用いた近距離放鳩を数回実施している。昨日は大久保駅から鳩を放ち、全鳩帰還したという。 ☆補足一 クレルカン、ストリューヴ、ワロキエの三名は軍人の階級こそ低いが、いずれもフランス鳩界の大家だという。民間人が応召して特別待遇を受けている立場にあったようである。それぞれが鳩クラブの幹事級を務めていて、自分の名を冠した鳩舎を持っている。各自の本業は、クレルカンがブドウ酒会社社長、ストリューヴが既製服問屋、ワロキエが楽器商だった。 三人の特徴は、クレルカンが理論家、ストリューヴが相鳩術に長じた実践家、ワロキエが経験に物言わせる人だったという。しかし、鳩の腕前は、将校のクレルカンより、下士のストリューヴとワロキエの方が優れていた。 『愛鳩の友』(昭和三十二年九月号)に掲載された記事「座談会 ものがたり日本鳩界史 ――大正から昭和の初期まで――」に、以下の記述がある。
ただし、井崎於菟彦少佐は、別の観点も提示している。井崎によると、クレルカンは第一次世界大戦において軍用鳩を縦横に使ったオーソリティーで、飼育訓練よりも鳩通信術に長じていたという。 この井崎の評価を踏まえると、ストリューヴやワロキエのような下士が実践家で、将校の地位にあるクレルカンが鳩通信術の権威であることは、階級相応の役割分担にはなっているように思える。 ☆補足二 高橋 昇『軍用自動車入門 軍隊の車輌徹底研究』に、日本軍の鳩舎(車)について載っている。 同記事によると、日本陸軍は手びき二十羽入移動鳩舎(車)、一馬式三十羽入移動鳩舎(車)、四馬式六十羽入移動鳩舎(車)などを用い、それらは四輪か二輪で、中には分解式や車載式のものもあり、専用の牽引車などで運搬したという。 手びき二十羽入移動鳩舎(車)は二輪式で、兵が手でひいて運搬する。 一馬式三十羽入移動鳩舎(車)は四輪式で、馬一頭で牽引し、運搬する。 四馬式六十羽入移動鳩舎(車)は四輪式で、第一次世界大戦時の仏英のものを手本に製作し、馬四頭で牽引、運搬する。この四馬式六十羽入移動鳩舎(車)は、その後、車両牽引方式に改めて、牽引式移動鳩舎(車)と呼ぶようになる。初期は木軸鉄輪式の車輪をはめていたが、後にゴムタイヤ式に切り替える。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08021351200、大正8年 公文備考 巻37 航空2 (防衛省防衛研究所)」 『愛鳩の友』(昭和三十二年九月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十四年十二月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友創刊50年 半世紀の歩みを綴る永久保存版』 愛鳩の友社 『軍用自動車入門 軍隊の車輌徹底研究』 高橋 昇/光人社 |
陸軍次官が鉄道院副総裁宛てに、「軍用鳩運賃半価輸送取扱ノ件」を照会していたが、この日、鉄道院副総裁から返答があり、了承される。 これにより、以後、公用であることを示す通券のある軍用鳩は、軍需品として運賃が半額になる。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02030906800、永存書類甲輯第5類第2冊 大正8年(防衛省防衛研究所)」 |
同日付の『東京朝日新聞』が中野の軍用鳩飼養の様子を記事にしている(以下、そのまとめ) フランスからやってきた軍用鳩は、中野の飼育所で訓練等が実施されている。 四王天延孝中佐の監督下、長谷栄二郎、三宅尚継、樋口の三大尉、桜井・大西両技手の各委員以下十二名が、三名の仏国鳩術教官――ルネ・クレルカン砲兵中尉、オリヴィエ・ストリューヴ工兵軍曹、アルフォンス・ワロキエ工兵軍曹の指導を受けている。 五月十四日、雛が孵化しはじめ、五月十六日にはさらに五十二羽が生まれ、計八十羽ほどになる。 飛翔訓練については、鳩が近場の土地になれてきたので、選抜した二十羽を新宿まで連れていき、そこから放鳩する。全鳩、無事に中野の鳩舎に帰還する。 ☆補足 『愛鳩の友』(昭和四十二年四月号)に掲載された記事「日本鳩界の理想的形態」(作・関口竜雄)によると、中野の軍用鳩調査委員会の初代所長は長谷栄二郎が務めたという。 軍用鳩調査委員事務所の初代所長だったという意味であろうか。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正八年五月十七日付) 東京朝日新聞社 『愛鳩の友』(昭和四十二年四月号) 愛鳩の友社 |
午前九時二十分、大正天皇が陸軍士官学校の卒業式に行幸する。「軍用鳩について」という題で優等卒業生の加藤定右衛門が御前講演し、軍用鳩調査委員会の伊東四郎中尉が通信文を付した三羽の鳩を中野電信隊に向けて放つ。その到着の返事は無線電信で打電される。 午後零時三十分、大正天皇が還幸する。 ☆補足一 『東京朝日新聞』(大正八年五月二十九日付)の記事では、軍用鳩調査委員の将校の名が「伊藤」になっているが、「伊東」の誤りと思われる。 上記の一文では、「伊東」に訂正してある。 ☆補足二 伊東四郎少将は、一八八九(明治二十二)年十一月十六日に生まれる(伊東巳代治伯爵の四男) 一九一五(大正四)年、陸軍士官学校(第二十七期)を卒業する。 一九一九(大正八)年、軍用鳩調査委員となる。以後、軍用鳩研究に従事し、「鳩のおじさん」「鳩の大尉」などと人々から呼ばれる。井崎於菟彦少佐の回想によると、伊東は近衛師団の自動車係で、髪を七三に分けて、インディアンの赤いオートバイにまたがって通勤し、通行人の目を引いたという。 一九二五(大正十四)年六月、山梨半造大将の長女・富子と結婚する。 一九二六(大正十五)年、近衛歩兵第二連隊に転任することになり、軍用鳩調査委員を免じられる。 一九四〇(昭和十五)年三月二十三日、自動車第二十二連隊の初代連隊長に就任する。 一九四四(昭和十九)年二月二十日、石門陸軍病院において戦病死し、陸軍少将に進級する。 *伊東の誕生日は、自動車第22連隊戦友会『北支派遣自動車第22連隊』の戦友名簿をもとに、「明治二十二年十一月十六日」と記す。しかし、晨亭会『伯爵伊東巳代治』(下巻)には、「明治二十二年十一月十七日」とあり、福川秀樹『日本陸軍将官辞典』には、「明治二十三年十一月十七日」とある。詳細不明。 なお、福川秀樹『日本陸軍将官辞典』に、「昭和十五年四月三十日」に自動車第二十二連隊長に就任したとあるが、誤りと思われる。自動車第22連隊戦友会『北支派遣自動車第22連隊』に掲載された記事「初代連隊長は釜井中佐とする説」によると、戦後に作製された「陸軍停年名簿」に「昭和十五年四月三十日」付で伊東は同連隊の長に補せられたと記してあるという。しかし、自動車第二十二連隊は昭和十五年三月二十八日に編成完結しているので、伊東の初代連隊長への就任が「昭和十五年四月三十日」付では編成完結後の連隊長となってしまう。連隊長が決定しないまま連隊の編成完結などということは有り得ないので、「陸軍停年名簿」の誤りの可能性があり、「昭和十五年四月三十日」というのは伊東が石門に到着した日ではないだろうかと同記事は推測している。 参考文献 『読売新聞』(大正八年五月二十八日付) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(大正八年五月二十七日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(大正八年五月二十九日付) 東京朝日新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十二年四月号) 愛鳩の友 『北支派遣自動車第22連隊』 自動車第22連隊戦友会 『日本陸軍将官辞典』 福川秀樹/芙蓉書房出版 『伯爵伊東巳代治』(下巻) 晨亭会 |
西発第四九七号に基づき、中野の軍用鳩調査委員会において、軍用鳩術修業員教育が開始される。 各師団から将校、下士らが集い、ルネ・クレルカン中尉ら三名の仏国鳩術教官から軍用鳩に関する知識や技術を学ぶ。 また、海軍からも、横須賀海軍航空隊の武知彦栄大尉および下士卒五名が鳩術を学ぶため、同委員会に派遣される。 ☆補足一 『愛鳩の友』(昭和三十三年二月号)に掲載された記事「爐辺鳩談」(作・井崎乙比古)によると、この当時、陸海軍合わせて十名あまりが中野に集い、仏人教官の指導を受けたという。一棟の固定鳩舎に二名ずつが専属となり、その一棟につき、五十つがい前後を飼育していたとのことである。 ☆補足二 一九二四(大正十三)年十二月の調査(海軍省『軍鳩研究報告』より)になるが、教育期間は、将校四ヶ月、下士卒七ヶ月(座学一ヶ月、実習六ヶ月)だったという。また、軍用鳩調査委員会は、士官八名、下士約十二名、兵約十六名が、もっぱら諸種の実験研究調査および移動鳩車の訓練飼育に当たり、雇員十二名と傭人二十一名が固定鳩舎の飼育訓練に従事していたそうである。そして、このほかに、兼任の軍用鳩調査委員が約二十名いたという。 参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696300、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C07060927500、西受大日記 大正9年4月(防衛省防衛研究所)」 『愛鳩の友』(昭和三十三年二月号) 愛鳩の友社 |
軍用鳩調査委員長が陸軍省副官宛てに、「害鳥捕獲ニ関スル件通牒」(鳩第五十二号)を提出する。 内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031035200、永存書類甲輯 第1類 大正11年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナをひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031035200、永存書類甲輯 第1類 大正11年(防衛省防衛研究所)」 |
フランスが、地方にある全ての伝書鳩協会を統合して、フランス最初の連盟を作る。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 |
「軍用鳩保護ニ関スル件」が出される。 これは今般、軍用鳩調査委員会を設けて、その業務を開始しているが、鳩の保護に関して地方官民の助力を希望する、という内容である。 その希望事項二点は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031035200、永存書類甲輯 第1類 大正11年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足 横須賀海軍航空隊鳩舎「海軍軍鳩研究状況 並ニ明年度研究方針及実施ニ伴フ要求」(一九二〇〔大正九〕年十一月二十一日)に、以下の記述がある(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08021598800、大正9年 公文備考 巻45 航空9 (防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031035200、永存書類甲輯 第1類 大正11年(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08021598800、大正9年 公文備考 巻45 航空9 (防衛省防衛研究所)」 |
同日付の『東京朝日新聞』の記事によると、今秋おこなわれる陸軍特別大演習において、一〇〇〇羽の伝書鳩が使用されるという。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正八年六月二十七日付) 東京朝日新聞社 |
軍用鳩調査委員会で飼養している軍用鳩が順調に繁殖し、約二〇〇〇羽に達する。そして、現在の鳩舎の収容力や予算の関係上、これ以上の鳩の増加は困難をきたすことから、八月以降、雛鳩の一部を民間に払い下げて鳩飼育に関する嗜好心を喚起したい、と同委員会は考える。 そこで本日、軍用鳩調査委員長は陸軍大臣宛てに、「軍用鳩払下ノ件伺」(鳩第九十五号)を上申し、許可を得る。 軍用鳩払下手続は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03011237800、永存書類乙輯第2類第7冊 大正8年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、空行を入れたりしている)
軍用鳩払下願の様式は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03011237800、永存書類乙輯第2類第7冊 大正8年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足 軍用鳩払下手続および軍用場払下願は、その後、細部が改訂される。 例えば、払い下げた鳩から繁殖させた鳩は売却してよいこと、払い下げる鳩の価格は一羽五円の定額になったこと等である。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03011237800、永存書類乙輯第2類第7冊 大正8年(防衛省防衛研究所)」 『伝書鳩』 岩田 巌/科学知識普及会 |
軍人歌人の菊池 剣(本名・松尾謙三。終戦時、陸軍大佐)が、静岡の連隊から千葉にある陸軍歩兵学校に転任する。以後、菊池は、全国の連隊から選抜されてきた兵の分遣兵教育の傍ら、軍用鳩の研究に従事する。 翌一九二〇(大正九)年の夏、軍用鳩について本格的に学ぶために陸軍歩兵学校を離れて中野(軍用鳩調査委員会)に十二月まで滞在する。その半年間にわたる期間中、北九州で挙行した大正九年度陸軍特別大演習に北軍鳩車長として参加する。 その後、陸軍歩兵学校に戻ると、現地戦術、機動演習、鳩車移動研究などのために各地に出張し、一九二三(大正十二)年の末頃まで同校で過ごす(満三年) ☆補足一 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十八年七月号)に掲載された記事「徳永大佐を訪ねて 軍鳩の揺籃を聴く」によると、この当時、陸軍歩兵学校は六十羽の軍鳩を持ち、大型の固定鳩舎、小型の移動鳩車二台(一台十二羽宛収容)があり、兵隊二名が専属で訓練をしていたという。 同記事において、徳永熊雄大佐は、記者にこう述べている。
☆補足二 明確な時期は不明だが、ルネ・クレルカン中尉の指導のもと、軍用鳩調査委員の井崎於菟彦が主任になって、千葉陸軍歩兵学校と中野軍用鳩調査委員会との間で往復通信を実施している。食事鳩車を千葉に、棲息鳩車を中野にそれぞれ設置し、鳩は食欲と性欲につられて、この二点間を行き来する。 千葉~東京間の往復通信が完成したとき、井崎は胸をなで下ろす。当時、陸軍の上層部は、そんなことができるか、と往復通信に懐疑的だったからだ。そして、通信完成の日、上層部が千葉と中野にそれぞれ立ち会い、その成績を検査することになるが、きちんと軍用鳩は千葉に飛んで、返信をつけて中野に帰ってくる。 難聴を煩っていた奥 保鞏元帥の耳元で、井崎は大声で説明し、鳩が運んできた陸軍歩兵学校長からの通信文を見せる。すると、奥は満足したように笑って喜ぶ。聞けば、軍用鳩輸入の経費を問題にする軍事参議官がいる中、奥は軍用鳩輸入に賛成していて、その責任も負っていたという。 余談だが、鳩が二点間を往復する原理について、クレルカンが陸海軍の将校に講義したとき、その通訳は菱田菊次郎少将が担当する。しかし、菱田は謹直な将官として、食欲の方の説明は問題ないが、性欲の方の説明には困ったらしく、言葉を濁して遠回しに述べる。すると、学生がわざと分からないふりをして、閣下、鳩はなぜ家庭に帰るのですか、と意地の悪い質問を菱田にする。 なお、ほかに、往復通信は、中野軍用鳩調査委員会~宇都宮第十四師団司令部間や、中央気象台~松戸陸軍工兵学校間(毎日、天気図を工兵学校に運ぶ)で実施される。 井崎いわく、鳩で天気図を日々運搬したなどという話はあまり知っている人は少ないと思う、とのことである。 参考文献 『歌集 道芝』 菊池 剣/国民文学社 『日本鳩時報』(昭和十八年七月号) 大日本軍用鳩協会 『愛鳩の友』(昭和三十二年四月号) 愛鳩の友社 |
本年三月にフランスから到着した一〇〇〇羽の鳩は順調に繁殖し、すでに一〇〇〇羽あまりの雛鳩が中野にいることから、今回、官報の広告欄に載ったとおり、民間に軍用鳩を払い下げることとなった。その価格は評価によるが、おおむね一羽五円が標準だという。 以上、同日付の『読売新聞』の記事より。 ☆補足一 中野の軍用鳩調査委員会では、民間人に一羽五円で軍用鳩を払い下げる。陸軍が心血を注いで育てた、血統のよい鳩だったことと、一般の鳥屋で伝書鳩を購入しようとするとその二倍の十円はしたことから、申し込みが殺到し、数ヶ月先まで予約が埋まる。 軍用鳩調査委員の長谷栄二郎によると、鳩を奨励するために相当優秀な個体を放出したという。ルネ・クレルカン中尉が自分で良い鳩を見て、希望者に渡していたのである。 ピジョンダイジェスト社『ピジョンダイジェスト』(昭和四十五年九月号)に掲載された記事「細川系の今日まで ――《第一回》 初期勢山系の確立――」によると、フランスの軍用鳩はそれまでのものとは次元の異なるほど優れていて飛躍的に鳩の能力が向上したそうである。これまでの鳩レース(関西)では名古屋か浜松どまりだったのに、この鳩を導入したことにより、東京や仙台へもレース距離が短時日のうちに延びていったという。 一九二二、三(大正十一、二)年頃の話になるが、宇都木系で知られる京都の愛鳩家・宇都木五郎が中野で鳩の払い下げを受けている。中野の鳩がいかに素晴らしかったか、宇都木は、以下のように語っている(『愛鳩の友』〔昭和三十一年十月号〕より引用)
☆補足二 民間の愛鳩家が優秀な軍用鳩を手に入れるために中野に足しげく通ったことから、これを通称「中野参り」「中野詣で」などといった。 鳩の払い下げは、陸軍の将校が一、二円程度、一般が五円~十円程度で受けられた。軍人だと鳩を安く入手できるので、軍用鳩調査委員の井崎於菟彦は民間人によく頼まれて、井崎名義で鳩の払い下げ手続きをおこなう。そのため、形式上、井崎一人で一〇〇羽くらい鳩の払い下げを受けていることになっている。また、民間人が鳩係の兵に菓子折などを持っていくと、内緒で種鳩鳩舎から卵をもらえることがあった。中には、鳩をうまく持ち出す(盗み出す)剛の者さえいた。昭和初期の話になるが、関口竜雄や山下清次郎は中野の竹下憲輔獣医のもとに通って試験鳩舎から卵を分けてもらったという。 日本伝書鳩協会『日本伝書鳩新聞』(第二号)に掲載された記事「鳩界今昔物語(二)」(作・井崎於菟彦)に、以下の記述がある。
偕行会『偕行』(昭和三十二年四月号)に掲載された記事「〝軍用鳩〟飛び始めのころ」(作・井崎於菟彦)によると、この会議の席上で、菅野ははじめ、鳩の払い下げ価格を一羽金五円と大声で言って決めるが、当時の軍用鳩調査委員である木下または弘岡のどちらかが、民間に普及するためにそんな高価では目的に反するし、かつまた、軍人でも飼いたい者があるはずなのにそれでも五円か、などと反問したという。すると、菅野は、しからば現役将校に限って一羽金一円に割引する、と、また大声で言う。これを聞いて一同は安心し、その後、新聞社や通信社に軍用鳩を払い下げる際は、現役将校の名義にして四円方安くしたという。 ☆補足三 教育学術研究会『教育画報』(第九巻第二号)に掲載された記事「軍用鳩」(作・谷 寿夫)に、以下の記述がある(引用文は一部、漢字をひらがなやカタカナに改めたり、文字表記を改めたりしている。一九一九〔大正八〕年の記事)
なお、『尋常小学 国語読本教授書 第五学年後期用』に、同記事が転載されている。しかし、作者の谷 寿夫を「歩兵少尉」と表記(誤記)している。 正しくは、「歩兵少佐」である。 参考文献 『読売新聞』(大正八年八月九日付) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(大正八年八月九日付) 東京朝日新聞社 『教育画報』(第九巻第二号) 教育学術研究会/同文館 『愛鳩の友創刊50年 半世紀の歩みを綴る永久保存版』 愛鳩の友社 *『日本伝書鳩新聞』(第二号)に掲載された記事「鳩界今昔物語(二)」(作・井崎於菟彦)を転載、収録 『尋常小学 国語読本教授書 第五学年後期用』 三浦喜雄 橋本留喜/東京宝文館 『ピジョンダイジェスト』(昭和四十五年九月号) ピジョンダイジェスト社 『愛鳩の友』(昭和三十一年十月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十一年一月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和五十年六月号) 愛鳩の友社 『普鳩』(昭和十八年九月号) 中央普鳩会本部 『趣味の小鳥』 松山思水/実業之日本社 |
目下、中野の軍用鳩調査委員会は、新造鳩車を代々木練兵場に八台、荻窪に二台、荻窪と中野の中間に二台の計三箇所に配置し、毎日訓練をおこなっている。今後はさらに鳩車の数と実施場所を増やし、今期訓練の終末期となる九月二十日頃に全ての鳩車を代々木練兵場に集めて訓練を続行する予定である。 なお、中野で訓練を受けた軍用鳩は、現在造営中の明治神宮創建後、奉献することになっている。 以上、同日付の『東京朝日新聞』の記事より。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正八年八月十六日付) 東京朝日新聞社 |
今秋の陸軍特別大演習に向けて、中野の軍用鳩調査委員会では熱心な訓練がおこなわれている。 軍用鳩調査委員の長谷栄二郎工兵大尉は、構内にある多数の鳩舎を案内しながら以下のように語る(『東京朝日新聞』〔大正八年八月三十一日付〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
以上、同日付の『東京朝日新聞』の記事より。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正八年八月三十一日付) 東京朝日新聞社 |
シベリアに鳩通信班を派遣し、ウラジオ派遣軍にこれを配属する。 当初、零下三十度になると鳩が飛べなくなったり方向判定の能力がにぶったりする、などと懸念されたが、ルネ・クレルカン砲兵中尉が「大丈夫です」と自信たっぷりに述べて、その懸念を払拭する。 一九二二(大正十一)年にシベリアから日本軍が撤退するまで、鳩通信班はよく各隊と連係し、重要な通信任務を担う。 ☆補足一 野戦交通部『野戦交通部業務提要』に、以下の記述がある( 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06032081800、大正7乃至11年西伯利出兵 野戦交通部業務提要 其3(5冊の内)第1聚 第1類 第3類 自第1篇 至第9篇 大正7年乃至11年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
ちなみに、軍用鳩調査委員『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』には鳩通信班の派遣時期は「七月下旬」と記されている。 しかし、上記のとおり、野戦交通部『野戦交通部業務提要』には派遣時期は「八月」とされている。 どちらの記述が正しいのか不明。 ☆補足二 鳩通信班の編成は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06032078000、大正7乃至11年西伯利出兵 野戦交通部業務提要 其3(5冊の内)第1聚 第1類 第3類 自第1篇 至第9篇 大正7年乃至11年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足三 『日本伝書鳩新聞』(第二号)に掲載された記事「鳩界今昔物語(二)」(作・井崎於菟彦)に、以下の記述がある。
井崎によると、三宅尚継工兵少佐は、フランス語が上手な温厚な軍人で、シベリアにおける鳩の手柄は三宅鳩隊長の力であると思う、とのことである。そして、この三宅と、柿本貫一少尉は、クレルカンの愛弟子で、その腕前に十分の期待を持たれた結果であろう、などと述べている。 ちなみに、このシベリア出兵において、はじめて日本は実地戦闘で伝書鳩を使用する。東北鳩協会青森支部『伝書鳩』に掲載された記事「伝書鳩の人生に対する利益」(作・和田千蔵)に、以下の記述がある。
*日本が伝書鳩をはじめて実地戦闘に使ったのは「大正八年」である。上記の引用文は、書き方が不明瞭で、「大正七年」に伝書鳩をはじめて実地戦闘に使ったようにも読めてしまう。誤読を誘うので補足しておく。 *「浦塩斯徳」は「ウラジオストック」のこと。 ☆補足四 鳩通信班は、日本軍がシベリアから撤退するまで鳩通信の真価を発揮する。一九二〇(大正九)年十二月十二日の、支隊長・羽入三郎大佐の賞詞をはじめとして、約十通の賞状・感謝状を授与される。 特に、一九一九(大正八)年と一九二〇(大正九)年の両年において、鳩通信班は、以下の戦績を残し、その殊勲鳩は惇明府に献上される(軍用鳩調査委員『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
軍用鳩調査委員『鳩通信術教程草案』にも、上記の戦績に関する文章が載っている。 以下に引用しよう(一部、誤字を修正してある)
☆補足五 シベリア出兵時、ニコラエフスクにおいて、在留邦人や日本軍守備隊などがパルチザンに虐殺される尼港事件(一九二〇〔大正九〕年)が発生する。 この凄惨な事件に対し、大正九年四月四日付の『大正日日新聞』は、日本政府の責任重大と報じる。ニコラエフスクを守る兵力がわずか三〇〇名内外だったことを批判し、少なくとも、歩兵一個大隊、砲兵一個中隊、機関銃四挺くらいを配布しておくのが、作戦上、至当な処置だったと指摘する。また、有線・無線の両通信に故障が生じるのは予想できたのだから、万一の場合に備えて伝書鳩を配属しておいたならば、現在のような失態を演ずることなく連絡ができたと述べる。 ☆補足六 煩雑になるので詳しく紹介するのは控えたが、野戦交通部『野戦交通部業務提要』に、シベリア出兵時における鳩通信班の活動の様子が克明に記録されている。 なお、同書によると、日本軍はシベリア出兵において、ク式鳩車という鳩車を使用したという。恐らく、この「ク」は、ルネ・クレルカン砲兵中尉の頭文字であると思われる。すなわち、クレルカンが設計した、クレルカン式鳩車という意味であろう。 筆者(私)の所有している絵はがきや写真を確認すると、このク式鳩車が写っているものがある。 以下に、何枚か紹介しよう。 参考文献 『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 『鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06032081800、大正7乃至11年西伯利出兵 野戦交通部業務提要 其3(5冊の内)第1聚 第1類 第3類 自第1篇 至第9篇 大正7年乃至11年(防衛省防衛研究所)」 『愛鳩の友創刊50年 半世紀の歩みを綴る永久保存版』 愛鳩の友社 *『日本伝書鳩新聞』(第二号)に掲載された記事「鳩界今昔物語(二)」(作・井崎於菟彦)を転載、収録 『愛鳩の友』(昭和四十五年二月号) 愛鳩の友社 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 外交(41-103) 大正日日新聞 1920.4.4 (大正9) |
臨時軍事調査委員が『英、仏軍ノ軍用鳩ニ就テ』を編纂する。イギリス軍の鳩教範とフランス軍の鳩教範を翻訳し、それを一冊にまとめたものである。 この英仏の原書は前年に書かれているが、早くもこれが日本に紹介される運びとなったのは、本年から本格的に開始されている軍用鳩事業が関係していると思われる。 本書の目次は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A04017276400、単行書・陸乙七四・英仏軍ノ軍用鳩ニ就テ(国立公文書館)」より引用。一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A04017276400、単行書・陸乙七四・英仏軍ノ軍用鳩ニ就テ(国立公文書館)」 |
現在、陸軍の軍用鳩調査委員会に出向し、軍用鳩について学んでいる武知彦栄大尉が、海軍技術本部第六部長宛てに、軍用鳩に関する各種書類を提出する(「伝書鳩一般ニ就テ」「軍用鳩研究ノ方針」「軍用鳩舎ニ就テ」「鳩舎ノ略図」「軍用鳩講義」) そのうち、「伝書鳩一般ニ就テ」の文中に、以下の記述があり、武知が問題点を訴えている(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08021351200、大正8年 公文備考 巻37 航空2 (防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08021351200、大正8年 公文備考 巻37 航空2 (防衛省防衛研究所)」 |
小笠原諸島においては各離島間の交通は船舶便のほかなく、電信電話は父島~母島間のみで、風波の高いときには交通が全く途絶する。しかし、軍用鳩があれば、各離島間、洋上船舶~陸地間で通信できる。 そこで本日、小笠原島島司は陸軍大臣宛てに、「軍用鳩保管転換ノ義」を稟請する。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03011237900、永存書類乙輯第2類第7冊 大正8年(防衛省防衛研究所)」 |
樺太の通信および交通機関は年々整備を図りつつあるが、いまだ不整備を免れず、山間部などの勤務者や出張者は急務の際でもその通報の手段を持ち得ない。 そこで本日、樺太庁長官は陸軍大臣宛てに、軍用鳩十羽の保管転換を稟申する。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03011238000、永存書類乙輯第2類第7冊 大正8年(防衛省防衛研究所)」 |
陸軍特別大演習の第一日目、東軍と西軍は壮烈な遭遇戦を演じる。 たけなわとなったところで、加古湖畔に屯する鳩車から一団の軍用鳩が放たれる。 ☆補足 四王天延孝『四王天延孝回顧録』に、以下の記述がある(引用文は一部、空行を入れている)
☆補足 本年度の陸軍特別大演習以降、軍用鳩の参加が恒例となる。また、それ以外の演習や訓練においても、軍用鳩が参加し、通信連絡の任を果たす。 そうした当時の様子が絵はがきになっている。 以下に、そのうちの何枚かを紹介しよう。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正八年十一月十二日付) 東京朝日新聞社 『四王天延孝回顧録』 四王天延孝/みすず書房 |
午後四時半頃、千葉県君津郡竹岡村の民家に一羽の鳩が飛来する。これを捕らえてみると、「軍用鳩第五十号北軍司令部」との書札が付してある。 通報を受けた警察は、直ちに憲兵分隊に知らせ、その憲兵分隊は第一師団に問い合わせる。すると、現在、同地で機動演習中の第一師団は軍用鳩を使用しておらず、兵庫県下の陸軍特別大演習において放たれた軍用鳩が任務終了後に帰途に迷ったのではないか、という。 目下、千葉憲兵分隊は中野電信隊に軍用鳩の引き渡しについて交渉中である。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正八年十一月十七日付) 東京朝日新聞社 |
正午、第一次世界大戦の平和条約有効の第一日目を祝して、中野の軍用鳩調査委員会の係員が日比谷公園ならびに各新聞社屋上から軍用鳩を放つ(日比谷公園、五十羽〔伊東四郎中尉指揮〕。各新聞社、四羽ずつ) この鳩たちは午砲を合図に飛び立ち、平和条約有効を祝す通信文を中野に運ぶ。 ☆補足一 『東京朝日新聞』(大正八年十二月二日付)の記事では、軍用鳩調査委員の将校の名が「伊藤」になっているが、「伊東」の誤りと思われる。 上記の一文では、「伊東」に訂正してある。 ☆補足二 読売新聞社では山本騎兵伍長が四羽の軍用鳩を放ち、午後零時十三分、中野から「只今 着」との連絡が入る。四羽の鳩は無事に帰還しているが、そのうち軍用鳩七二七二号が最後に戻ってくる(帰舎時間、午後零時三十五分) 東京朝日新聞社では長谷栄二郎大尉指揮のもと、四羽の軍用鳩を放つ。そのうち、軍用鳩七三九四号には『平和の女神の歓呼』の漫画を付して祝意を表し、軍用鳩六十七号には当日のニュース二つを付す。 東京日日新聞社では、ルネ・クレルカン中尉、菱田菊次郎少将、井崎於菟彦中尉、ほか助手が四羽の軍用鳩を放つ(軍用鳩十号、軍用鳩三十七号、軍用鳩二〇四号、軍用鳩七五〇六号)。そのうち、軍用鳩七五〇六号には、十分ほど前にクレルカンが撮影したフィルムを付し、残りの鳩三羽には通信文を付す。放鳩から九分後、通信文を付された鳩三羽が中野に帰ってくる。フィルムを付された軍用鳩七五〇六号は、放鳩から二十分後、中野に帰還する。 なお、これより一時間前の午前十一時、菱田がこの場で講話を試み、伝書鳩の能力や効用、その歴史などについて聴衆に語る。 ☆補足三 この奉祝放鳩に先立ち、軍用鳩調査委員会の菱田菊次郎少将は、以下のように述べている(『東京朝日新聞』〔大正八年十一月三十日付〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『読売新聞』(大正八年十二月一日付) 読売新聞社 『読売新聞』(大正八年十二月二日付) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(大正八年十一月三十日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(大正八年十二月二日付) 東京朝日新聞社 『東京日日新聞』(大正八年十二月二日付) 東京日日新聞社 |
陸軍の軍用鳩調査委員会に、海軍から出向していた武知彦栄大尉および下士卒五名は、講習を終えて、横須賀海軍航空隊に帰隊する。 参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C07060927500、西受大日記 大正9年4月(防衛省防衛研究所)」 |
近来、伝書鳩の効用が認められて、関東地方をはじめ、北海道、東北、九州、四国、中国の隅々から中野の軍用鳩調査委員会に軍用鳩の払い下げの申し込みがある。その数は八〇〇羽に及び、すでに五〇〇羽が民間に払い下げられている。 このことについて、軍用鳩調査委員会の長谷栄二郎大尉は、こう述べる(『東京朝日新聞』〔大正八年十二月十日付〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
以上、同日付の『東京朝日新聞』の記事より。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正八年十二月十日付) 東京朝日新聞社 |
東洋汽船株式会社は、昨今の軍用鳩の普及を受けて、この通信手段を船客に提供し、海陸の連絡を試みようと、現在、その調査をしている。このことについて、東洋汽船株式会社の瓜生荷客課長は、こう語っている(『東京朝日新聞』〔大正八年十二月十六日付〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
以上、同日付の『東京朝日新聞』の記事より。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正八年十二月十六日付) 東京朝日新聞社 |
八丈島の島司・原田文三は、中野電信隊の軍用鳩を八丈島~東京間、八丈島~青ヶ島間の通信に用いれば、海底電信不通の際に役立つとして、中野電信隊に鳩の分与と使鳩術の伝授を願い出ているが、さらに本日、東京府にその尽力を要請する。 参考文献 『読売新聞』(大正八年十二月十八日付) 読売新聞社 |
軍用鳩調査委員会は、明春一月六日より、通常の固定鳩舎の訓練に加えて、新たに移動鳩舎および夜間鳩通信の訓練に着手する。また、新年を祝して元日の午前十時~午前十一時の間に二重橋前から約一二〇羽を放鳩する。 以上、同日付の『読売新聞』の記事より。 ☆補足一 『東京朝日新聞』(大正八年十二月三十一日付)に、鳩の夜間飛翔の難しさについて、軍用鳩調査委員会の係員が以下のように語っている(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足二 一九二〇(大正九)年か、それ以降の出来事と思われるが、夜間通信の試験は、代々木練兵場に設置した移動式鳩車と小田原間で実施し、伊東四郎中尉が主任を務める。朝日新聞社がこの夜間通信に注目し、夜間鳩の訓練時には記者を派遣する。また、時事新報社もよく記事に取り上げる。 そして、ある夏の夜(年度不明)、東京~小田原間の夜間通信をすることになり、後に陸軍大将となる阿部信行をはじめ、航空関係者、動物学者、新聞・通信社の人々などが見学に集まる。 長身六尺のルネ・クレルカン中尉があいさつに立ち、先の欧州大戦における体験談を披露する(通訳・菱田菊次郎少将)。戦場で通信が途絶した際、夜間に軍用鳩を放って要塞にいる将兵を救助したという、クレルカンお得意の話である。 その後、約束の時間になると、第一陣の軍用鳩五羽が羽ばたきも軽く暗夜を飛んで鳩車の屋根に舞い降りる。鳩の脚には小田原にいる放鳩責任者の通信文が付してある。続けて、第二陣、第三陣と、全鳩が無事に帰舎する。鳩車には小さな電灯が一つ寂しくついているだけなので、一体、どうやってこの暗夜の中を飛んできて、ここに帰ってこられるのか、見学者一同が三嘆する。 その場にいた井崎於菟彦は、伊東さんの得意な童顔も忘れ難い、と当時を振り返っている。 ☆補足三 チャンピオン社『チャンピオン』(昭和五十一年一月号)に掲載された記事「鳩って夜飛ぶの?」に、夜間鳩に関する木村徳広の発言が載っている。それによると、木村が軍隊の鳩班にいた当時、七十キロまで軍用鳩の夜間訓練をおこない、三〇〇〇メートルもの高分速を記録したという。 参考文献 『読売新聞』(大正八年十二月三十一日付) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(大正八年十二月三十一日付) 東京朝日新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十二年四月号) 愛鳩の友社 『チャンピオン』(昭和五十一年一月号) チャンピオン社 |
本年三月にフランスから輸入した一〇〇〇羽の鳩は、死亡その他の理由で、一時、約八五〇羽に減少する。しかし、現在は順調に繁殖し、その数が約一六〇〇羽に増える(軍用鳩調査委員会にて飼養) 参考文献 『東京朝日新聞』(大正八年十二月三十一日付) 東京朝日新聞社 『読売新聞』(大正八年十二月三十一日付) 読売新聞社 |
軍用鳩調査委員の岩田 巌騎兵大尉が、中野の軍用鳩(よりすぐりのベルギー鳩)を関西に持ち込む。 もっとも、正規のルートではなく、脚環を切ってあり、勢山庄太郎が二羽、西種商店が三羽、ひそかに払い下げを受ける。 勢山庄太郎の勢山系は、この二羽をもとに生み出される。 ☆補足一 佐久間亮三 平井卯輔『日本騎兵史』(下巻)によると、元来、通信は工兵が主管していたので鳩通信も工兵の主管に置かれるものと見られていたが、騎兵は斥候、捜索隊等遠く主力と離れて行動することの多い特性上鳩通信を熱心に希望し、これを騎兵通信に取り入れたそうである。そして、これに当たった岩田 巌大尉の努力を多とせねばならない、という。 ☆補足二 『愛鳩の友』(昭和三十二年九月号)に掲載された記事「緑蔭鳩談」(作・井崎乙比古)によると、大阪の小鳥店・西種商店(明治六年創業)の三代目店主・西村種造は、相鳩眼に長じた人物で、鳩の良否、特に雌鳩の繁殖力の有無についてズバリと断定を下し、いささかの誤りもなかったという。これにルネ・クレルカン砲兵中尉は感心し、「ボン コロンボフイーユ ニシムラ」(立派な鳩飼い 西村さん)と西村を褒めたたえたといわれている。 余談だが、フランスからやってきた三名の鳩術教官――ルネ・クレルカン砲兵中尉、オリヴィエ・ストリューヴ工兵軍曹、アルフォンス・ワロキエ工兵軍曹のうち、観鳩眼に長じていたのがワロキエだった。 『愛鳩の友』(昭和四十四年十二月号)に掲載された記事「フランスの鳩の先生たち」(作・井崎乙比古)によると、ワロキエは雛鳩の雌雄の判別を約九割の確率で的中させ、長距離放鳩の際には、自分の選んだ鳩の分速などをズバリと言い当てたという。 ☆補足三 四王天延孝『四王天延孝回顧録』に、以下の記述がある(引用文は一部、空行を入れている)
参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十一年十一月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十二年九月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十四年十二月号) 愛鳩の友社 『日本騎兵史』(下巻) 佐久間亮三 平井卯輔/萌黄会 『四王天延孝回顧録』 四王天延孝/みすず書房 |
午前十時二十分、五名の下士卒を引き連れた、軍用鳩調査委員の伊東四郎中尉が、新年を祝して、二重橋前から約一二〇羽の軍用鳩を空に放つ。 軍用鳩の信書管には、伊東をはじめ、各記者合作の通信文が挿入されている。 その内容は、「大内山の新玉の春に於て最初の祝福の印として平和の天使が宮城の空高くより中野の鳩舎を指して飛ぶ」、読売新聞社は「心の限り全てに対し祝福す読売社」というものだった。 放鳩された鳩は、皇居の上空を二回旋回した後、再び二重橋の上を舞って飛び去る。 これを見た伊東は、以下のように語る(『読売新聞』〔大正九年一月二日付〕より引用)
☆補足一 『読売新聞』(大正九年一月二日付)の記事では、軍用鳩調査委員の将校の名が「伊藤」になっているが、「伊東」の誤りと思われる。 上記の一文では、「伊東」に訂正してある。 ☆補足二 『読売新聞』(大正九年一月二日付)の記事に従い、放鳩時間を「午前十時二十分」と記す。 一方、『東京朝日新聞』(大正九年一月二日付)の記事では、「午前十時十五分」が放鳩時間になっている。 どちらの記述が正しいのか不明。 ☆補足三 『愛鳩の友』(昭和三十二年五月号)に掲載された記事「爐辺鳩談」(作・井崎乙比古)によると、元旦の朝に正装をした鳩の士官が二重橋の前で一〇〇羽放鳩するのが大正年代の吉例になっていたという。 参考文献 『読売新聞』(大正九年一月二日付) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(大正九年一月二日付) 東京朝日新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十二年五月号) 愛鳩の友社 |
この日、軍用鳩調査委員会の菱田菊次郎少将以下将校数名が新国技館の開会式に出席し、来賓名士の祝辞を託した六十四羽の軍用鳩を新館の四階から放鳩する。フランスから傭聘した三名の鳩術教官――ルネ・クレルカン砲兵中尉、オリヴィエ・ストリューヴ工兵軍曹、アルフォンス・ワロキエ工兵軍曹も、式に列席する。 ☆補足 『読売新聞』(大正九年一月十五日付)に載った予定に従って上記の内容や日付を記す。したがって、予定に変更が生じていたら、出来事や日付が現実と異なっているかもしれない。 参考文献 『読売新聞』(大正九年一月十五日付) 読売新聞社 |
この日、朝香宮鳩彦王と北白川宮成久王が京都の雲ヶ畑御猟場に出場するが、雲ヶ畑御猟場に通信電話の設備がなかったことから、大阪毎日新聞社は、五十羽の伝書鳩を山城倶楽部から借り受けて、雲ヶ畑に運び込む。このとき、二人の宮様がその伝書鳩の運搬を目にし、北白川宮成久王が「あの鳩は何にするのか」と質問する。記者が、宮殿下御猟の記事を一刻も早く報道せんため、と答えると、北白川宮成久王は鳩籠に手を触れて、「この鳩は陸軍にて使用する軍用鳩と同一のものか、京都までは何分にて飛翔するか」と続けて質問する。二年間ほど養成せる鳩にて京都までは七分くらいを要する、と記者が答えると、「それは早い」と二人の宮様は満足した様子を見せる。 その後、記者は原稿を記すと、それを数羽の鳩に託して空に放つ。放たれた鳩は上空を旋回した後、京都方面に飛び去る。このとき、北白川宮成久王がその光景を写真に収める。 さて、十六分十五秒の記録で一番に帰舎した錦鳩号(浅野という人物の愛鳩)は、以下の通信文を大阪毎日新聞社にもたらす(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 社会事情(3-060) 大阪毎日新聞 1920.1.17 (大正9)より引用)
参考文献 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 社会事情(3-060) 大阪毎日新聞 1920.1.17 (大正9) |
今月発刊の偕行社『偕行社記事』(第五四五号)に、「軍用鳩ニ就テ」(作・岸本鹿太郎)という題の記事が載る。 執筆者の岸本少将は、本記事の冒頭で、こう述べる(偕行社『偕行社記事』〔第五四五号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めている)
なお、本記事の目次は、以下のとおり(一部、文字表記を改めている)
参考文献 『偕行社記事』(第五四五号) 偕行社 |
海軍大臣が横須賀鎮守府司令長官宛てに「海軍軍鳩ノ実験研究ニ関スル件」(官房第八五二号)を訓令する。 内容としては、飛行機、哨艦艇などから通信に用いる軍鳩の養成を主目的とし、当分の間、軍鳩一〇〇羽以内を飼養して研究、訓練する、というものである。 研究方針は、以下のとおり(海軍大臣官房『海軍制度沿革』(巻十五)より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、誤字を修正したりしている)
さて、横須賀海軍航空隊の鳩舎はこの月(三月)に完成する。また、先に陸軍の軍用鳩調査委員会で鳩術を学んできた武知彦栄大尉および下士卒五名が、軍用鳩調査委員会から譲り受けたフランス産の軍用鳩一〇〇羽を用いて、各種の研究と訓練を実施する(三月下旬より開始。横須賀海軍航空隊軍鳩研究部の首席研究員は武知大尉) 大正十年七月十三日までに、以下の成績を残す(武知彦栄『伝書鳩の研究』より引用。一部、文字表記を改めている)
☆補足一 「海軍軍鳩ノ実験研究ニ関スル件」(官房第八五二号)に基づく実験方針案を、武知彦栄大尉が「海軍軍鳩研究実験方針」と題してまとめている。 以下に紹介しよう(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08021598700、大正9年 公文備考 巻45 航空9 (防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足二 小野内泰治『日本鳩界史年表』(補遺)に、横須賀海軍航空隊が「大正九年六月」から鳩を飼育したとあるが誤り。 正しくは、「大正九年三月」である。 参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695400、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08021598700、大正9年 公文備考 巻45 航空9 (防衛省防衛研究所)」 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『愛鳩の友』(昭和三十六年七月号) 愛鳩の友社 |
シベリアのニコリスクを守備する、山村中尉以下六十名ほどの日本軍が、パルチザンの包囲を受ける。すでに電信、鉄道が敵に破壊されていたことから、守備隊は窮地に立たされる。 そこで、一羽だけ手元に残った軍用鳩を空に放って、ウラジオの軍司令部に救援を求める。 軍用鳩は、敵に狙撃されて片脚を失うが、一時間あまりの飛翔の後、軍司令部に飛来する。 その後、ニコリスクの守備隊の危機を知った軍司令部は、直ちに援兵を送って、パルチザンを撃退する。 血に染まりながら、軍司令部に帰還した軍用鳩によって、ニコリスクの守備隊は全滅を免れる。 参考文献 『少年少女 譚海』(第七巻第十号) 博文館 |
『東京朝日新聞』(大正九年四月二十四日付)に掲載された記事「戦塵余瀝(下)」(作・相馬砲兵大尉)によると、ニコリスクはシベリア過激派の根拠地であり、沿海州の各都市が過激派化したのも同市がまず革命の急先鋒に立ったからだという。そして、ニコリスクで激烈な戦闘が予想される中、事件勃発以来、同市との交通や通信が断絶していて、不安は高まる一方とのことである。 そうした中、本日の午前十時五分、第十三師団司令部に一羽の軍用鳩が飛来し、ニコリスクの歩兵第十五旅団長・小田切政純少将からの通信文をもたらす。 弾雨硝煙の上空を飛翔し、また、二十五里の距離を一時間で帰ってきたことから、その勲功は谷村計介以上であると、「戦塵余瀝(下)」の執筆者である相馬が、この軍用鳩を褒めたたえている。 さて、その「戦塵余瀝(下)」に、軍用鳩がもたらした戦報の大要が載っている。 以下に紹介しよう(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 軍事(国防)(9-084) 東京朝日新聞 1920.4.23-1920.4.24 (大正9)より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 軍事(国防)(9-084) 東京朝日新聞 1920.4.23-1920.4.24 (大正9) |
海軍次官が陸軍次官宛てに、「軍用鳩保管転換方依頼ノ件」を要請する。 内容としては、現在、横須賀海軍航空隊では、軍用鳩調査委員会から譲り受けた一〇〇羽の軍鳩を飼育、研究しているが、これは全て秋季産であることから、今回さらに、今春産の雄鳩三十羽・雌鳩二十羽の保管転換を依頼したい、というものである。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03011421400、永存書類乙輯第3類 大正9年(防衛省防衛研究所)」 |
沖縄県知事が陸軍大臣宛てに、「軍用鳩保管転換ノ件」を要請する(雄鳩十羽、雌鳩十羽) 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03011421500、永存書類乙輯第3類 大正9年(防衛省防衛研究所)」 |
五日間~七日間の予定で、この日、陸軍騎兵学校教導隊が伝書鳩移動訓練を実施する。同隊付の隅 省三中尉ほか下士卒三名がこの訓練に従事する。 茨城県取出町の埋立地に移動鳩舎一両(鳩六十五羽)を設置し、朝昼夕の三回、鳩に自由運動をさせる。そうして、鳩に地形を覚えさせたら、石岡・北条方面の短距離練習に移行するという。 ☆補足 取手市史編さん委員会『取手市史 近現代史料編Ⅱ』に転載されている『いはらき新聞』(大正九年六月十日付)の記事に従って、上記の内容を記す。したがって、予定に変更が生じていたら、出来事や日付が現実と異なっているかもしれない。 参考文献 『取手市史 近現代史料編Ⅱ』 取手市史編さん委員会/取手市教育委員会 |
同日付の『東京日日新聞』の記事によると、陸軍の軍用鳩放鳩訓練が熱心に継続されていて、本年は新記録を打ち立てるためにその距離を延ばすという。 菱田菊次郎少将の発言が同記事に載っている。 以下に引用しよう(『東京日日新聞』〔大正九年六月十日付〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『東京日日新聞』(大正九年六月十日付) 東京日日新聞社 |
軍用鳩調査委員長が陸軍大臣宛てに、「傭聘外国武官手当増給ノ件申請」(鳩第九十二号)を上申する。 フランスから傭聘した三名の鳩術教官――ルネ・クレルカン砲兵中尉、オリヴィエ・ストリューヴ工兵軍曹、アルフォンス・ワロキエ工兵軍曹に対し、尉官・日額十八円、下士・日額十二円を支給してきたが、その後、物価騰貴のために日常生活に不安を感じつつある現状にあり、七月一日以降、この手当を三割増しで支給したい、との申請である。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03025171300、欧受大日記 大正9年自7月至9月(防衛省防衛研究所)」 |
西発第七〇五号が出される。 北部沿海州派遣隊に鳩通信班を配属する必要から、先に教育総監部管轄の諸学校に分置した移動鳩車各一両宛てを軍用鳩調査委員事務所に回収する、との示達である。目下、補塡用の鳩車を取り急ぎ製作中で、それが完成次第、諸学校に分置されることとなる。 十一月三十日、軍用調査委員長は陸軍大臣に宛てて、「諸学校ヘ鳩車補填済ノ件報告」(鳩第二〇五号)を提出し、諸学校への補填が済んだことを報告する。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C07061125500、西受大日記 大正9年12月(防衛省防衛研究所)」 |
軍用鳩調査委員会が『使鳩飼育ノ要領』を出版する。 本書の目次は、以下のとおり(一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『使鳩飼育ノ要領』 軍用鳩調査委員 |
本日の午後、サガレン州に赴任するため、白岩軍医部長、佐藤獣医部長、谷多田法官部長以下○○○○名が、軍政署長・高須賀砲兵大佐指揮のもと、青森にやってくる。同じく、浜宮召集班工兵隊○○名も、土原工兵大佐指揮のもと、青森に到着する。そして、約三〇〇羽の軍用鳩(フランス種)も同地に輸送されてくる。 以上の各隊は、サガレン州派遣軍司令官・児島惣次郎中将の来着とともに新高丸に乗り、出発する。 計画では、現地の七箇所に鳩舎を設けて軍用鳩通信をおこなうことになっている。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正九年八月七日付) 東京朝日新聞社 |
サガレン州派遣軍に鳩通信班の一班を派遣する。その本部はアレクサンドロフスクに設置する。 ☆補足一 上記の一文は、軍用鳩調査委員『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』の記述をもとに記す。しかし、軍用鳩調査委員『鳩通信術教程草案』には、鳩通信班の派遣時期を「八月上旬」ではなく「八月下旬」としている。 詳細不明。 ☆補足二 サガレン州派遣軍司令部鳩通信班の軍用鳩および器材は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03010242700、西密受大日記 大正9年8月~9月(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
時期によって鳩数や器材などの数が異なる。 なお、人員については詳細不明。 ☆補足三 同班は一九二一(大正十)年七月下旬までサガレン州派遣軍において通信任務に就く。 参考文献 『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 『鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03010242700、西密受大日記 大正9年8月~9月(防衛省防衛研究所)」 |
武知彦栄大尉が海軍省軍務局航空部の大関鷹麿中佐宛てに、軍用鳩に関する翻訳書ならびに同上複写印刷物を送付する(計七冊) ・翻訳書原稿 a 飛翔高度 一冊 b 軍用鳩の調教 一冊 ・複写印刷物 前項aに対するもの 三冊 前項bに対するもの 二冊 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08021598800、大正9年 公文備考 巻45 航空9 (防衛省防衛研究所)」 |
同日付の『東京朝日新聞』に、福田雅太郎参謀次長の談話が載っている。 以下に引用しよう(一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『東京朝日新聞』(大正九年九月一日付) 東京朝日新聞社 |
九月六日、サガレン亜港の沖合で、軍令部所属の測量船が暴風雨により難破する。大波のために船体が横滑りを起こしたとき、船尾が暗礁の一角に触れてスクリューを折ってしまう。また、無線も故障し、電灯も消える。 測量船は、この状態で夜を過ごし、翌九月七日を迎える。 そのとき、測量船に乗り合わせていたS大尉は、万が一を考えて積み込んでいた伝書鳩二羽があることを思い出す。これは、司令部にいる鳩係(友人)の厚意だったが、S大尉はコンパスと定規の中に育ったような男だったため、伝書鳩などに興味はなく、このときは、ありがた迷惑くらいに思っていた。 午前四時半、S大尉は、救助を求める通信文を伝書鳩に付して空に放つ。ただし、この伝書鳩は夜間訓練を受けていない。できれば、夜が明けるまで放鳩を待った方がよいのだが、そのような余裕はなかった。 午前五時半、亜港軍司令部の鳩舎に伝書鳩が飛来し、鳩係のK軍曹に、以下の通信文をもたらす(博文館『新青年』〔昭和二年二月号〕より引用)
その後、救助の駆逐艦が現場に到着し、測量船の人々が歓喜の声を上げる。 参考文献 『新青年』(昭和二年二月号) 博文館 |
午前八時から、全国陸軍団隊長会議(第三日目)が開かれる。 田中義一陸軍大臣、山梨半造陸軍次官、菅野尚一軍務局長以下各局課長、武藤信義参謀本部総務部長、尾野実信教育総監部本部長などから、あいさつや訓示がある。 会議終了後、中野電信連隊において軍用鳩を見学する。 ☆補足一 正確な時期は不明だが、菅野尚一が軍務局長だった当時、軍用鳩調査委員の井崎於菟彦は同勢六名で富士山に登る。目的は、軍用鳩三十羽を用いた、富士~東京間の通信試験である。途中、この試験をどこかで聞きつけた『時事新報』の記者が井崎のところにやってきて、「私にも一枚の通信を書かせてくれ」と言う。井崎は、お安い御用と、その頼みを引き受ける。こうして、『時事新報』の記者が一行に加わる。 登頂後、富士山頂から三十羽を放鳩するが、井崎は軍用鳩調査委員長(菅野)と仏人鳩術教官に宛てた通信文を鳩に託す。『時事新報』の記者がウイスキーを取り出して、通信試験の成功を祈る。 その後、井崎は東京に戻り、報告のために陸軍省に行く。しかし、省内の雰囲気がおかしい。井崎が恐る恐る軍務局長室に入ると、菅野の怒声が飛ぶ。「君は時事新報の社員か、陸軍の人間か」とのことである。机の上に『時事新報』紙が広げられていて、記事を見ると、本社の伝書鳩富士山頂より東京へ通信する、井崎大尉も本社の壮挙に賛成して、うんぬんとある。局長の怒声も無理ないことと思い、井崎は菅野に平謝りする。 ちなみに、三十羽の軍用鳩は、平均分速一キロの速度で、全鳩が無事に帰還している。 *井崎の回想によると、『時事新報』の記事には「井崎大尉」と記してあったようである。しかし、菅野が軍務局長および軍用鳩調査委員長だった当時、井崎はまだ中尉だったと思われる。井崎の記憶違いであろうか。『時事新報』の該当記事を参照できれば答えが出るが、該当号が不明で、筆者(私)は未見である。 ☆補足二 「補足一」で述べた富士放鳩時の出来事について補足する。 このとき、一行にはルネ・クレルカン砲兵中尉も加わっていたが、御殿場に差しかかったところでクレルカンは体調を崩し、ある農家の座敷で横になる。そして、医者を呼んで注射を打ってもらう。 一方、井崎らは、クレルカンと付き添いの兵を残して、富士登山に挑み、六合目までやってきたところで休憩を取る。そのとき、下の方から声がするので、そちらを見ると、意外なことに、床に伏せっているはずのクレルカンが姿を現す。 クレルカンは、兵の補助を受けてここまでやってきて、顔色がよくなっている。「実は昨日陸軍大臣の招宴で、平素飲みつけない日本酒を口にしたので、ご心配かけて相すまぬ」と、クレルカンが笑いながら言う。 クレルカンが片手にトウモロコシを二本持っているので、井崎が不思議に思って質問すると、クレルカンがこう答える。「腹痛は一本の注射で回復したが、体調が回復すると、農家の軒さきに乾してある見事なマイスを眺め、一つ貰いうけて噛んでみると、鳩の飼料としては申し分なく全く理想的である。今後軍用鳩の飼料は御殿場地方のものとしたい」 実はクレルカンは、日本の玄米やエンドウについて、欧州でも手に入らないほど優良であると評価していたが、日本産のマイス(トウモロコシ)には納得がいっておらず、粒が大きすぎてタンパク質も脂肪も不足している、と述べていた。 クレルカンは、体調を崩しているというのに、平素、気にかけていた鳩飼料に思いを寄せて、トウモロコシ片手に井崎らのあとを追ってきた。井崎はこのことに感心して、「さすがにはるばるフランスより日本の鳩通信飼育法指導に特派された真の愛鳩家の心境である」と述べている。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正九年九月十九日付) 東京朝日新聞社 『愛鳩の友』(昭和四十六年四月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友創刊50年 半世紀の歩みを綴る永久保存版』 愛鳩の友社 |
軍用鳩調査委員長が陸軍大臣宛てに、「出張旅費制限ノ件」(鳩第一五二号)を申請する。これは、軍用鳩訓練のために旅行する者に、陸軍旅費規則の範囲内で、以下の手当を支給するものである(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02030953200、永存書類甲輯第3類 大正9年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナをひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02030953200、永存書類甲輯第3類 大正9年(防衛省防衛研究所)」 |
間島事件に際し、通信班の一班を第十九師団に配属し、支那、間島、局子街付近の通信任務に当たらせる。 その後、朝鮮国境の鳩通信用に、通信班の鳩車を第十九師団に分置する。 ☆補足 一九二〇(大正九)年七月、池田重雄少佐は、軍用鳩調査委員会に練習学生として派遣される(当時は尉官)。そして、その三ヶ月後の十月十日、間島事件の発生を受けて、鳩小隊長として間島に赴く。わずか三ヶ月ほどで戦地勤務になったことについて、「若鳩同様の指揮官であった」と、池田は回想している。 当時は、フランス直輸入型の大きな木造移動鳩車を使用していて、全備重量は三六〇貫もあった。ほかに兵の起居する分解式廠舎が加わり、鳩車は砲兵輓馬六頭で牽引する。この鳩車を目にした朝鮮人が日本の飛行機と誤認し、村総出で様子を見にくる。鳩車は悪路によって何度も立ち往生するので、これら部落民の援助を受けなければ前進できず、醜態をさらす。冬の早い北鮮国境で、粉雪の降る中、兵を苦しめる。 池田は、この大型鳩車と、その後の訓練法の変化について、以下のように述べる(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十八年五月号〕より引用)
参考文献 『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 『鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 『日本鳩時報』(昭和十八年五月号) 大日本軍用鳩協会 |
所沢の陸軍航空学校が第一回目の軍用鳩飛翔訓練を実施する。 放鳩された十羽は、入間川明治天皇御野立所の付近から、一分間に四キロの速さで、飛行機が縦横に往来する中を帰ってくる。 係員は、以下のように述べている(『東京朝日新聞』〔大正九年十一月五日付〕より引用)
参考文献 『東京朝日新聞』(大正九年十一月五日付) 東京朝日新聞社 |
本年度の陸軍特別大演習では、南北両軍に一四〇羽ずつの軍用鳩を配し、計二八〇羽が活動するという。 先月より、南軍の根拠地・速見郡立石町には、戸田大尉以下の南軍鳩通信班が二つの鳩舎を設けて、連日、訓練をおこなっている。 演習の前夜、鳩舎の一つは宇佐に移される手はずになっていて、立石と宇佐の両方から鳩班が活動する。 以上、同日付の『東京日日新聞』の記事より。 参考文献 『東京日日新聞』(大正九年十一月八日付) 東京日日新聞社 |
中野(軍用鳩調査委員会)で軍用鳩の研究をしている、陸軍歩兵学校の菊池 剣(本名・松尾謙三。軍人歌人)が、軍用鳩を携行して、陸軍特別大演習観兵式(豊前善光寺~宇佐道)に参加する。 菊池は、このときのことを、こう詠んでいる(菊池 剣『歌集 道芝』より引用)
参考文献 『歌集 道芝』 菊池 剣/国民文学社 |
「露領及北満州派遣部隊編成要領」の細則により、鳩通信班は、ウラジオ派遣軍司令官の隷下を脱し、新たに野戦交通部に定員外として配属される。 十一月十七日、鳩通信班は新編成を完結し、ウラジオ派遣軍行動地域内における鳩通信に任ずる。そして、一九二一(大正十)年一月二十六日にはハルビン鳩分遣班を、同年十一月十日にはポセット鳩分遣班をそれぞれ編成し、鳩通信を実施する。 各班の編成は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06032140500、大正7乃至11年西伯利出兵 野戦交通部業務提要 其5(5冊の内)第2聚 第1類 第2類乃至第5類 自第1篇 至第10篇 大正7年乃至11年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めている)
*ポセット鳩分遣班編成表中、人員や器材の数値が未記入で実数が分からない。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06032140400、大正7乃至11年西伯利出兵 野戦交通部業務提要 其5(5冊の内)第2聚 第1類 第2類乃至第5類 自第1篇 至第10篇 大正7年乃至11年(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06032140500、大正7乃至11年西伯利出兵 野戦交通部業務提要 其5(5冊の内)第2聚 第1類 第2類乃至第5類 自第1篇 至第10篇 大正7年乃至11年(防衛省防衛研究所)」 |
農商務省農務局長が軍用鳩調査委員長に、軍用鳩二十つがい(四十羽)の保管転換を申請する。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03011625700、永存書類乙集第4類 大正10年(防衛省防衛研究所)」 |
軍用鳩調査委員会では、以前から軍用鳩の長距離通信の実験をおこなっていて、先般、名古屋~東京間の通信を成功させている。 今回は、大阪~東京間の飛翔が計画され、一両日中に軍用鳩調査委員会の岩田 巌騎兵大尉が優秀な八羽の軍用鳩を携行して大阪に出張することになっている。天候の良い日を選んで放鳩するという。 以上、同日付の『東京朝日新聞』の記事より。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正九年十二月十六日付) 東京朝日新聞社 |
初の試みとなる、大阪~東京間の長距離通信が実施される。 午前九時十分、軍用鳩調査委員会の、岩田 巌騎兵大尉と、小川事務員は、中野から持ってきた八羽の軍用鳩(雄三羽、雌五羽)を大阪城内天守台から放鳩する。 このとき、岩田は、以下のように述べる(『大阪朝日新聞』〔大正九年十二月二十四日付〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『東京朝日新聞』(大正九年十二月二十四日付) 東京朝日新聞社 『大阪朝日新聞』(大正九年十二月二十四日付) 大阪朝日新聞社 |
岩田 巌騎兵大尉が大阪から放鳩した八羽の軍用鳩のうち、四羽が東京に帰ってくる(午前七時に一羽、午前九時に一羽、午前十一時に二羽) ☆補足一 大正九年十二月二十七日付の『東京朝日新聞』の記事によると、八羽放たれた軍用鳩のうち帰還できたのは四羽だけで、いまだ残りの四羽は帰ってきておらず、このことについて、軍用鳩調査委員会の一委員は、こう語っているという(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
その後、未帰還の軍用鳩四羽がどうなったのか、続報がないので分からない。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正九年十二月二十五日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(大正九年十二月二十七日付) 東京朝日新聞社 |
同日付の『読売新聞』の記事によると、中野電信隊で伝書鳩を飼養するようになってから、ちまたにもそれが流行し、すでに本年は一六八〇羽が民間に払い下げられているそうである。 また、同日付の『読売新聞』および『東京朝日新聞』(大正九年十二月二十五日付)の記事によると、徳川男爵、大河内子爵、大久保子爵、鍋島侯爵、大川漁業部・大川定次郎、日仏銀行・渡辺千冬、山県元帥、その他陸海軍の軍人連に多くの飼養者がいて、中にはそれらの手を経て、芸者などにも数十羽の鳩が払い下げられているという。 参考文献 『読売新聞』(大正九年十二月二十八日付) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(大正九年十二月二十五日付) 東京朝日新聞社 |
後に、漫画『のらくろ』の作者として著名になる田河水泡(本名・高見沢仲太郎)が、羅南歩兵第七十三連隊から第十九師団軍用鳩研究班に配属替えとなり、同日付で一等卒に進級する。 同研究班は、将校二、下士二、兵十三(歩兵八、騎兵二、砲兵三)の少数で編成され、約六十羽の鳩の寒地訓練に力を注ぐ。 鳩車は牛を使って牽引し、訓練は兵が数キロ離れたところまで鳩を持っていって、そこから信書管を付して空に放つ。 田河は当時を、こう振り返っている(田河水泡 高見沢潤子『のらくろ一代記 田河水泡自叙伝』より引用)
☆補足 鳩兵には役得がある。例えば、田河は絵の具箱を所持していて、休日に好きな油絵を描く。一般の兵隊では想像もつかない、優雅な軍隊生活である。また、鳩の餌用のエンドウ豆をゆでて食べたり、鳩の卵を失敬したりする。まれに見回りに来る将校に「どうだ。もうタマゴを生んだか」と質問されても「まだのようであります」と答えてごまかす。本来、鳩は繁殖させなければならないので、鳩の卵を食べるのは許されない。 秋季演習のときも、軍用鳩研究班は師団長直属なので、師団長と同じ旅館に泊まり、ごちそう(お膳)を食べて布団で眠る。ほかの兵隊が夜中に演習で走り回っているのと対照的である。 おまけに、演習終了後、経理担当の曹長から五円を渡される。 師団から旅館代が出たとのことである。田河は、そのようなお金を支払った覚えがないので間違いではないかと言う。しかし、曹長は、「軍隊でそんなことを言い出すと、かえってあとが面倒だ。こういうものは黙ってもらっておくもんだ」と軍隊の要領を説く。 ごちそうを食べて楽をしたうえに、お金までもらえる結果になって、大変な鳩のご利益であった、と田河は述べている。 ほかに、鳩兵の役得については、大関しゅん『鳩とともに ある鳩取扱兵の物語』に同様の記述がある。 以下に引用しよう。
参考文献 『のらくろ一代記 田河水泡自叙伝』 田河水泡 高見沢潤子/講談社 『私の履歴書――芸術家の独創』 田河水泡 岩田専太郎 土門 拳 横尾忠則/日本経済新聞出版社 『鳩とともに ある鳩取扱兵の物語』 大関しゅん/銀河書房 |
北海道帝国大学が軍用鳩調査委員事務所から軍用鳩三十羽を譲り受ける。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03011625900、永存書類乙集第4類 大正10年(防衛省防衛研究所)」 |
軍用鳩調査委員会の、岩田 巌騎兵大尉、井崎於菟彦中尉、山根獣医、西条少佐、長谷川技手などが礼装に身を包み、宮内省前広場(三十羽)と東宮御所(二十羽)から計五十羽の軍用鳩を空に放つ。このうち、二羽の鳩に、以下の通信文を付す。 「新年の瑞祥天地に充つ」 「大正十年の新春に当り天皇陛下の万歳を奉祝す」 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十年一月二日付) 東京朝日新聞社 |
愛媛県喜多郡長浜町長が陸軍大臣に、管内孤島通信用として軍用鳩十羽の保管転換を願う。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03011625500、永存書類乙集第4類 大正10年(防衛省防衛研究所)」 |
軍務局工兵課長が経理局建築課長宛てに、「軍用鳩調査委員事務所ニ付属建物構築ノ件通牒」を通牒する。 軍用鳩調査委員事務所に飼料庫その他を新築するに当たり、その建築に関する取り計らいを願う内容である。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C07061187900、西受大日記 大正10年3月(防衛省防衛研究所)」 |
野戦交通部長が陸軍次官宛てに、「哈爾浜ヘ鳩通信班ノ一部ヲ配置ノ件通牒」を通牒する。 ハルビンに鳩通信班の一部を配置する理由は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C07061159200、西受大日記 大正10年2月(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている。別紙は省略)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C07061159200、西受大日記 大正10年2月(防衛省防衛研究所)」 |
鹿児島県知事が陸軍大臣に、軍用鳩六十羽(雄三十羽、雌三十羽)の保管転換を申請する。 同県水産試験場所属の漁船(三十艘)から陸上に向けて鳩通信試験する際にこの六十羽を用いる。 ☆補足 水産試験場での伝書鳩飼育はポピュラーで、鳩に関する史料を見ていると、よく出てくる。 例えば、大正十五年五月十五日発行の『鳩』(第四年五月号)に掲載された記事「望ましい 実用通信二つ 各地に及ぼし度い」によると、三重県水産試験場は数年前から伝書鳩飼育を開始し、これを実用通信に用いているが、最近その数が三〇〇羽に達したという。また、秋田県の由利郡においても、漁業施設での伝書鳩使用の儀が起こり、静岡県水産試験場に伝書鳩五つがい(十羽)の分譲を交渉しているそうである。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03011625600、永存書類乙集第4類 大正10年(防衛省防衛研究所)」 『鳩』(第四年五月号) 鳩園社 |
オリヴィエ・ストリューヴ工兵軍曹(後備役)とアルフォンス・ワロキエ工兵軍曹(予備役)の叙勲の裁可を、内閣総理大臣が大正天皇に仰ぐ。 ストリューヴとワロキエは、一九一九(大正八)年二月八日、フランス政府より譲り受けた鳩一〇〇〇羽を携行し、マルセイユを出帆、同年四月一日、東京に到着以来、卓越した技能をもって軍用鳩勤務講習に努め、日本軍の軍用鳩復興の基礎を築く。ウラジオおよびサガレン州派遣軍の軍鳩通信班の編成に際しては、雛鳩の訓練を担任するとともに、人員や器材の整備を幇助し、軍鳩通信班の活動に支障がないように努める。 ストリューヴとワロキエは、終始、懇切熱心に任務に精励し、日本軍に貢献する。 以上の功績により、ストリューヴとワロキエは、勲七等青色桐葉章に輝く。 *勲一等から勲八等まである旭日章のうち、勲七等のものを勲七等青色桐葉章という。 ☆補足 ルネ・クレルカン砲兵中尉、ストリューヴ、ワロキエの鳩術教官三名には旭日章が授与されている(クレルカンの受章については後述) しかし、軍用鳩調査委員だった井崎於菟彦少佐によると、三名はこれが気に入らなかったという。当時、軍用鳩調査委員会の庶務主任だった井崎が受章内定の連絡を受けて、彼らにその旨を伝えると、実際にその勲章を見せてほしい、との要望を受ける。そこで井崎は、友人から旭日章を借りて彼らに見せるが、子供だましのような旭日章より君の佩用している十字架の瑞宝章の方が希望だ、などと予想外の反応が返ってくる。旭日章の方が瑞宝章よりも格が高い、と井崎は説明するが、彼らは納得しない。太陽を表徴した勲章よりもわれわれキリスト教徒は瑞宝章の方が好ましい、と言う。 その後、陸軍大臣室で勲章伝達式をおこない、祝賀会を催す。そして、一同は中野の宿舎に戻るが、クレルカンとワロキエの両夫人とも、井崎さんの胸に飾ってある十字架勲章の方が立派ですよ、と言う。 後年、井崎は渡欧して、現地で種鳩の買いつけをするが、その際に、かつてお世話になった三名の鳩術教官の家を訪ねている。あれほど不平をもらしていた三名だったのに、どこの家に行っても、旭日章を立派な額に入れて掲げていた。旭日章の真価が了解された、と井崎は思い、肩の荷が下りた心持ちになったという。 話はそれるが、クレルカンが日本に赴任していた当時、軍用鳩二十羽(中野~千葉間の往復通信用)を載せたトラックが千葉市外において肥料車と衝突し、道が人糞まみれになる事故が発生する。フランス人にとって、白昼に肥料車が人糞を運ぶことなど考えられなかったようで、クレルカンが大いに驚く。トラックの損害額は四十円で、往復通信の主任は井崎が務めていたため、責任者として、事故で軽いけがを負った農家の人を井崎は見舞っている。後年、井崎はフランスのクレルカン宅を訪問したとき、夜の思い出話は、この千葉街道で起こった「黄金」事件だったという。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A10112926800、仏国陸軍工兵軍曹オリヴェー、ストソーヴ外一名叙勲ノ件(国立公文書館)」 『愛鳩の友』(昭和三十二年四月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十九年十月号) 愛鳩の友社 |
今月末日をもって二年間の傭聘契約が終了する、オリヴィエ・ストリューヴ工兵軍曹とアルフォンス・ワロキエ工兵軍曹に、日本海軍から記念品として銀製のたばこ入れが贈られる。 二人は非常に喜び、銀製のたばこ入れを手渡した武知彦栄大尉に繰り返し礼を述べる。 ちなみに、ストリューヴとワロキエは、帰国準備として土産物を収集しており、特に絹布や陶器類を買い求めていたが、銀製のたばこ入れがどうしても欲しくて、ここ一週間ほどそれを探していた。図らずもそのようなとき、武知から銀製のたばこ入れを贈られたので、こんなうれしいことはない、と二人は大いに喜ぶ。二人が言うには、以前、日本海軍から仏国飛行団下士に贈られたものよりも立派な記念品であるという。 この二人の抜け間のなさに、武知はアッと驚く。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050218300、大正10年 公文備考 巻47 航空4(防衛省防衛研究所)」 |
ウラジオ派遣軍交通部付の佐藤中尉は、交通部から宮中に献上する二羽の軍用鳩を携行し、御用船・色丹丸に乗って敦賀に到着する。 この鳩について、佐藤は、以下のように語る(『東京朝日新聞』〔大正十年三月二十三日付〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足 「浦潮」とは「ウラジオストック」のこと。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十年三月二十三日付) 東京朝日新聞社 |
軍用鳩調査委員長が陸軍大臣宛てに、「仏国武官傭聘契約期間延長ノ件」(鳩第四十九号)を申請する。これは、本年三月末日をもって契約期間満了(一九一九〔大正八〕年四月一日~一九二一〔大正十〕年三月三十一日)を迎えるルネ・クレルカン砲兵中尉を、さらにもう一年、引き続いて傭聘したいとの上申である。 この要請は承認され、フランスから三名傭聘した鳩術教官のうち、オリヴィエ・ストリューヴ工兵軍曹とアルフォンス・ワロキエ工兵軍曹の二名だけが契約期間満了を受けて帰国し、クレルカンのみが日本に残ることになる。 なお、延長された契約内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03025218500、欧受大日記 大正10年自4月至5月(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナをひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03025218500、欧受大日記 大正10年自4月至5月(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03024401600、欧受大日記補遺 自大正3年至大正10年(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03025171300、欧受大日記 大正9年自7月至9月(防衛省防衛研究所)」 |
騎兵第一連隊に勤務する賀陽宮恒憲王は、四月四日~二十一日まで、毎日、中野の軍用鳩調査委員事務所に自動車で通う(大体、午前八時~午後四時頃まで)。これは興味を覚えた軍用鳩研究のためで、賀陽宮恒憲王は、仏国鳩術教官のルネ・クレルカン中尉をはじめ、長谷栄二郎大尉、瀬谷 啓大尉、伊東四郎中尉らの指導を受ける。主に午前中、クレルカンから鳩に関する一般的な説明を聞き、午後は前記各教官から専門的な説明を聞く。 賀陽宮恒憲王の鳩研究について、クレルカンは、以下のように語っている(『東京朝日新聞』〔大正十年四月六日付。夕刊〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
続いて、菱田菊次郎少将および早川少将は、以下のように語っている(『東京朝日新聞』〔大正十年四月六日付。夕刊〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足一 『東京朝日新聞』(大正十年四月六日付。夕刊)に載った予定に従って上記の内容や日付を記す。したがって、予定に変更が生じていたら、出来事や日付が現実と異なっているかもしれない。 ☆補足二 四月十三日、賀陽宮恒憲王は大正天皇に軍用鳩研究のことを奏上すると、大正天皇は殊のほか喜び、宮城内で鳩を放てと述べる。 四月十四日午後一時、賀陽宮恒憲王は軍用鳩六羽を持って参内し、大正天皇および貞明皇后の前で、通信文を付した鳩を空に放つ。このとき、貞明皇后も軍用鳩一三一六号を自らの手で放鳩する。鳩は六羽とも無事に中野の鳩舎に戻り、「唯今鳩を放つ、宮城にて恒憲王」という通信文を届ける。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十年四月六日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(大正十年四月十五日付) 東京朝日新聞社 |
福岡県知事が陸軍大臣に、漁業試験に用いる軍用鳩五十羽の保管転換を申請する。しかし、保管転換が認められたのは三十羽にとどまる。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03011625800、永存書類乙集第4類 大正10年(防衛省防衛研究所)」 |
午前七時十分、賀陽宮恒憲王は伝書鳩練習隊に参加し、東京駅発大磯地方行きの列車に乗る。 午後一時四十一分、賀陽宮恒憲王が列車で東京駅に帰ってくる。 ☆補足 上記の一文は、『東京朝日新聞』(大正十年四月二十六日付)の記事をもとに記す。 この記事は具体的なことを何も述べていないが、多分、伝書鳩練習隊というのは、列車に乗って遠方に行き、そこから鳩を放して訓練する、臨時の一団だと思われる。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十年四月二十六日付) 東京朝日新聞社 |
十日間にわたり、東京本所において、畜産博覧会が開催される。 期間中、軍用鳩調査委員会が、軍用鳩の孵化育雛よりその運用使用の方法に至るまで実物を出品する。 当時の絵はがき(高沢酒店 「大正十年四月三十日開会 畜産博覧会の光景 於東京本所」)によると、参考館の前に、伝書鳩の入った移動鳩車を設置し、観覧に供していたようである。 参考文献 『畜産博覧会報告』 中央畜産会 「大正十年四月三十日開会 畜産博覧会の光景 於東京本所」 高沢酒店 *絵はがき |
現時点での横須賀海軍航空隊の鳩数、二三五羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050218300、大正10年 公文備考 巻47 航空4(防衛省防衛研究所)」 |
トラック島南洋防備隊が軍鳩を飼養しはじめる(開始鳩数、三十羽)。これは、熱帯地方における軍鳩飼養法の研究を目的とする。 ☆補足 横須賀海軍航空隊鳩舎『鳩舎月報』(一九二一〔大正十〕年四月)に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050218300、大正10年 公文備考 巻47 航空4(防衛省防衛研究所)」 |
敷設艦・津軽において、横須賀海軍航空隊の藤井 勉三等兵曹が全国郡長に対し、軍用鳩に関する講話をおこなう。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050218400、大正10年 公文備考 巻47 航空4(防衛省防衛研究所)」 |
一等海防艦・富士において、横須賀海軍航空隊の武知彦栄大尉が東京市の小学校教師六〇〇名に対し、鳩の価値に関する講話をおこなう。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050218400、大正10年 公文備考 巻47 航空4(防衛省防衛研究所)」 |
北海道帝国大学総長が陸軍大臣に、軍用鳩二十羽(雄五羽、雌十五羽)の保管転換を申請する。 昨年度、北海道帝国大学では、軍用鳩調査委員事務所から軍用鳩三十羽を譲り受け、農学部動物学教室において研究している。しかし、研究材料に供したり病死したりした鳩が多く、その補充をする必要があり、今回の保管転換依頼となる。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03011625900、永存書類乙集第4類 大正10年(防衛省防衛研究所)」 |
航空母艦・若宮に艦上鳩舎が設置され、同艦が軍鳩を飼養しはじめる。鈴木兼吉三等兵曹が主としてこの飼育研究に従事し、軍鳩は横須賀海軍航空隊より譲り受ける(開始鳩数、二十羽) ☆補足一 水交社『水交社記事』(第二六六号)に掲載された記事「軍鳩(伝書鳩)」(作・内藤啓一)と、海軍大臣官房『海軍制度沿革』(巻十五)に、「一九二二(大正十一)年五月」に鳩舎を設置したとあるが誤り。 正しくは、「一九二一(大正十)年五月」である。 ☆補足二 五月十三日、航空母艦・若宮において、武知彦栄大尉が軍令部長以下各参謀長に対し、海軍の軍鳩研究に関する講話をおこなう。そのときの内容が「海軍軍用鳩研究摘要」という文書になって残っている。 同文書の目次は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050218400、大正10年 公文備考 巻47 航空4(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている。見出しのみ抜粋)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695400、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695700、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050218400、大正10年 公文備考 巻47 航空4(防衛省防衛研究所)」 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 |
三宅島の神着小学校において、横須賀海軍航空隊の藤井 勉三等兵曹が地方有志ならびに小学生徒に対し、軍用鳩について講話する。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050218400、大正10年 公文備考 巻47 航空4(防衛省防衛研究所)」 |
横須賀海軍航空隊鳩舎において、藤井 勉三等兵曹が掌鳩兵に対し、三宅島についてならびに軍鳩輸送中の心得に関して講話する。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050218400、大正10年 公文備考 巻47 航空4(防衛省防衛研究所)」 |
軍用鳩調査委員会の河野悦次郎中尉が横須賀海軍航空隊を訪ね、鳩舎記録用紙を所望し、これを受け取る。 ☆補足 海軍ではどのように記録しているのか、その参考のための資料であろうか。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050218400、大正10年 公文備考 巻47 航空4(防衛省防衛研究所)」 |
蘇城方面アンドレーフカに二〇〇名ほどの馬賊が現れる。 三、四十名のロシア人が捕縛され、そのうち二名が傷つけられる。そして、馬賊は略奪をほしいままにする。 この急報に接した歩兵第六十九連隊は、直ちに一中隊を出動させるが、二〇〇名ほどといわれていた馬賊は、意外にも優勢で、五〇〇名あまりいた。馬賊は付近の高地を占領し、頑強に抵抗する。このままでは極めて不利なので、中隊はシコトワの本隊に救援要請するために軍用鳩を放つ。軍用鳩はわずか十五分で帰舎し、その務めを果たす。 六月二十日、救援隊が出動し、急行軍でもって現地に到着、馬賊を討伐する。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十年六月二十六日付) 東京朝日新聞社 『尋常小学 国語読本教授書 第五学年後期用』 三浦喜雄 橋本留喜/東京宝文館 |
横須賀海軍航空隊鳩舎において、武知彦栄大尉が海軍予備練習生に対し、軍用鳩に関する講話をおこなう。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050218400、大正10年 公文備考 巻47 航空4(防衛省防衛研究所)」 |
この日の正午、秋田県秋田市の江畑清蔵の家に、通信文を携えた一羽の伝書鳩が迷い込む。 その通信文には、以下のことが記されていた(『読売新聞』〔大正十年七月二十日付〕より引用)
この上海丸とは、国際汽船株式会社に所属する四〇〇〇トンの貨物船で、主にハワイ航路に従事している。 通信文の内容が真実なら大変な事態である。しかし、日付が書かれていないのが不審だった。 誰かのいたずらか、嫌がらせか、と思われたが、実際そのとおりで、上海丸は沈没していなかった。 上海丸が沈没するのは、かなり後のことである。 一九四三(昭和十八)年四月九日、アメリカ潜水艦・グレイバック(SS-208)の雷撃を受けて撃沈されるまで、上海丸は日本の海運を支えている。 参考文献 『読売新聞』(大正十年七月八日付) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(大正十年七月八日付) 東京朝日新聞社 「なつかしい日本の汽船」 長沢文雄 http://jpnships.g.dgdg.jp/ |
同日付の『東京朝日新聞』の記事によると、今秋おこなわれる陸軍特別大演習に軍用鳩が参加するという。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十年七月十八日付) 東京朝日新聞社 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀海軍航空隊、一七七羽。 航空母艦・若宮、十九羽。 南洋防備隊、十五羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050218400、大正10年 公文備考 巻47 航空4(防衛省防衛研究所)」 |
山階宮藤麿王、山階宮萩麿王、山階宮茂麿王、華頂宮博忠王が横須賀海軍航空隊鳩舎を訪れ、見学する。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050218400、大正10年 公文備考 巻47 航空4(防衛省防衛研究所)」 |
八丈島~本土間の海底電線故障時、横須賀海軍航空隊の軍鳩が諸通信を実施する(おおむね、三時間あまりの所要時間) 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08051434100、大正14年 公文備考 巻51 航空(防衛省防衛研究所)」 |
午後五時半頃、長野県佐久郡畑八村の中島順三が軍用鳩一八六五号を保護する。 軍用鳩一八六五号は、飛ぶこともできないほど疲労しているという。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十年八月二日付) 東京朝日新聞社 |
臨時南洋群島防備隊司令官が海軍次官宛てに、「熱帯地域ニ於ケル軍用鳩飼育ニ関スル件」(臨南防機密第一〇九号)を提出する。 同件添付の冊子『熱帯地域ニ於ケル軍用鳩ノ研究』の目次は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050218500、大正10年 公文備考 巻47 航空4(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている。表紙に記された冊子名と、目次に記された冊子名が異なっている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050218500、大正10年 公文備考 巻47 航空4(防衛省防衛研究所)」 |
スパスカヤで鳩通信の任に当たっていた渡辺直彦中尉が御用船・新高丸に乗って敦賀に帰ってくる。 渡辺は、以下のように語る(『東京朝日新聞』〔大正十年八月十六日付〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『東京朝日新聞』(大正十年八月十六日付) 東京朝日新聞社 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数および従事員。 横須賀海軍航空隊、一七九羽(尉官一、士官一、兵四。計六名) 航空母艦・若宮、十八羽(下士官一、兵一。計二名。ただし、兼務) 南洋防備隊、三十羽(兵一) 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050218500、大正10年 公文備考 巻47 航空4(防衛省防衛研究所)」 |
八丈島よりする鳩通信計画の参考資料蒐集のため、軍用鳩調査委員会の岩田 巌騎兵大尉が横須賀海軍航空隊を訪れる。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050218500、大正10年 公文備考 巻47 航空4(防衛省防衛研究所)」 |
動物心理研究に関する事項の協議のため、東京帝国大学文学部心理学教室の内田文学士が横須賀海軍航空隊を訪れる。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050218500、大正10年 公文備考 巻47 航空4(防衛省防衛研究所)」 |
故・青山忠允子爵の未亡人である青山元子は、陸軍貸し下げの伝書鳩を飼っている愛鳩家である。 現在、青山は、軽井沢の千ヶ滝遊園地の別荘に滞在しているが、今月、この別荘に井崎於菟彦中尉が数羽の軍用鳩を携行して出張する。鳩に、別荘地の各家人(後藤新平東京市長、下郷伝平、藤田謙一、若尾璋八、吉田丹次兵衛、戸板関子、林 権助、中村是公)の通信文を付して飛ばし、中野に運ぶのである。鳩が中野に帰還後は、陸軍がその通信文を各自宅に届ける手はずになっている。 放鳩は八月二十日過ぎを予定し、その翌日は井崎が伝書鳩について講話することになっている。 参考文献 『読売新聞』(大正十年八月十日付) 読売新聞社 『読売新聞』(大正十年八月十六日付) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(大正十年八月十七日付) 東京朝日新聞社 |
午前十時五十分、グアム島方面からアメリカ軍の飛行機がロタ島(日本の委任統治領)に侵入し、同島上空で三羽の伝書鳩を放つ(領空侵犯と不審行動)。アメリカ軍機はロタ島を一周した後、グアム島に引き上げるが、ロタ巡査駐在所の巡査が、放鳩された三羽のうち一羽を射殺している。 鳩には、以下の通信文が付されていた。 Flying over Rota island everything so ask Ston 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B07090493300、軍事調査及報告雑件/外国ノ部(5-1-10-0-10_3)(外務省外交史料館)」 |
横須賀海軍航空隊軍鳩研究部に利根川忠三大尉が着任する。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050218700、大正10年 公文備考 巻47 航空4(防衛省防衛研究所)」 |
横須賀海軍航空隊軍鳩研究部の首席研究員・武知彦栄大尉が疾病のため、九月八日に転地療養する。 ☆補足 武知はその著書『鴿の飼い方』に、この疾病について、以下のように述べている。
*武知の予備役編入は一九二四(大正十三)年二月二十五日。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050218700、大正10年 公文備考 巻47 航空4(防衛省防衛研究所)」 『鴿の飼い方』 武知彦栄/内外出版 |
尼市北方の通信線と鉄橋を破壊して、日本側の連絡線を絶とうとしたパルチザンを討伐するために、先月の八月十一日、鎌内大隊が出動する。同大隊には七羽からなる鳩分遣班がつき従い、尼市高等司令部との通信連絡に当たる。 鳩班はこれまでに通信文を三回、司令部に届けていて、その第四回目に軍用鳩四九二八号(雌)を放鳩する。しかし、軍用鳩四九二八号は、敵弾を受けて、右胸部に貫通銃創を負う。普通の軍用鳩であったら、ここで力尽きてもおかしくなかったが、軍用鳩四九二八号は、鮮血にまみれながら、四十キロを飛び続けて、尼市郊外の憲兵隊付近までやってくる。軍用鳩四九二八号は、極度の疲労と重傷のため、息絶えるが、憲兵隊員に発見されたことにより、重要な通信文が司令部にもたらされる。 一九二一(大正十)年九月十一日、ウラジオ市外二番河で軍用鳩四九二八号の招魂祭が挙行される。 ☆補足一 上記の一文に「鎌内大隊」とあるが、これは大正十年九月十三日付の『読売新聞』の記事をもとに記す。 一方、科学知識普及会『科学知識』(第一巻第五号)に掲載された記事「伝書鳩の話」(作・岩田 巌)には、「鎌田大隊」と記されている。 どちらの記述が正しいのか不明。 ☆補足二 『尋常小学 国語読本教授書 第五学年後期用』に、軍用鳩四九二八号の活躍が載っている。 以下に引用しよう(一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足三 鯰江正太郎歩兵中佐の講演「戦場で鳩や犬はどんな働きをしたでしょう」(札幌放送局『学校放送講演集 2594』所載)によると、軍用鳩四九二八号がもたらした通信文の内容は、追撃に必要な兵糧を請うものであったという。 ☆補足四 「尼市」とは「ニコリスク」のこと。 参考文献 『読売新聞』(大正十年九月十三日付) 読売新聞社 『尋常小学 国語読本教授書 第五学年後期用』 三浦喜雄 橋本留喜/東京宝文館 『学校放送講演集 2594』 札幌放送局/日本放送協会北海道支部 『科学知識』(第一巻第五号) 科学知識普及会 |
霞ヶ浦臨時海軍航空術講習部において、横須賀海軍航空隊の藤井 勉三等兵曹が茨城県芳賀郡将校団に対し、軍鳩に関する講話をおこなう。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050218700、大正10年 公文備考 巻47 航空4(防衛省防衛研究所)」 |
福岡県水産試験場は、中野電信隊から保管転換を受けた軍用鳩三十羽を用いて、この月から飼育試験をはじめる(試験船・玄界丸から実地放鳩する) 参考文献 『大正十年度業務功程報告』 福岡県水産試験場 |
海軍教育本部第二部長・百武三郎少将が横須賀海軍航空隊鳩舎を見学する。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050218700、大正10年 公文備考 巻47 航空4(防衛省防衛研究所)」 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀海軍航空隊、一二六羽。 航空母艦・若宮、十八羽。 南洋防備隊、二十五羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050218700、大正10年 公文備考 巻47 航空4(防衛省防衛研究所)」 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀海軍航空隊、一五八羽。 航空母艦・若宮、十九羽。 南洋防備隊、三十四羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050218700、大正10年 公文備考 巻47 航空4(防衛省防衛研究所)」 |
午前七時頃、陸軍工兵学校(千葉県松戸)の伝書鳩が葛飾橋の上空を中野に向けて飛翔中、突如、何者かに銃撃されて三羽が失踪する。 さっそく、市川憲兵分隊が捜査に乗り出し、東京市浅草区福富町の伊藤正雄を逮捕する。伊藤は故意に鳩を射止めて一羽の鳩を持ち帰る。 目下、伊藤を取り調べているが、残りの二羽の伝書鳩の行方は分かっていない。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十年十一月十八日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
陸軍特別大演習(一日目)が実施される。 鳩通信班は東軍の一員として演習に参加する。 ☆補足 東京朝日新聞社は連日、伝書鳩を飛ばして、陸軍特別大演習の様子を報道する。また、横須賀海軍航空隊の掌鳩兵が陸軍の使鳩術実施を見学する。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十年十一月十七日付) 東京朝日新聞社 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050495400、大正11年 公文備考 巻58 航空4 (防衛省防衛研究所)」 |
上野の美術協会において、帝国家禽協会による第一回品評会がはじまる(向こう六日間)。クジャクバト、シラコバト、インコ、メジロ、カナリア、チャボなど、さまざまな鳥が全国から出品される。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十年十二月二十三日付) 東京朝日新聞社 |
同日付の『東京朝日新聞』の記事によると、軍用鳩は平時では約一割、戦時では約六割の回帰不能があるという。猛禽類に襲われたり、銃撃されたり、帰路に迷って失踪したりするのが原因だそうである。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十年十一月二十二日付) 東京朝日新聞社 |
同日付の『東京朝日新聞』の記事によると、中野の軍用鳩調査委員会の鳩舎近くに二羽のドバトがいて、帰還してくる軍用鳩を誘惑して道草を食わせるという。軍用鳩調査委員会では、やっとそのドバトの一羽を射殺したそうである。 ちなみに、道草を食った鳩は、帰ってきたときに脚の裏を見ると、土が付着しているので分かるという。軍用鳩調査委員会では、怠け癖のついた鳩には猿ぐつわをはめて、絶食の罰を与えているそうである。 鳩は二十三、四歳くらいまで使翔できるものもあるが、一、二歳~五、六歳までが最も鋭敏だという。 以上、軍用鳩調査委員会の堀江中尉の談。 ☆補足 軍用鳩調査委員の日下部 照中尉によると、軍用鳩の訓練を妨害する宮鳩、寺鳩、倉鳩――いわゆるドバト――を捕獲する計画が、大正八、九年頃、陸軍内で検討されたという。 しかし、鳩豆売りの老婆が生活できなくなるとの陳情があり、また、国民の信仰心を傷つける懸念から取りやめになったそうである。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十年十一月二十三日付) 東京朝日新聞社 『普鳩』(昭和十八年六月号) 中央普鳩会本部 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀海軍航空隊、一六五羽。 航空母艦・若宮、三十二羽。 南洋防備隊、十五羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050495400、大正11年 公文備考 巻58 航空4 (防衛省防衛研究所)」 |
交詢社において、軍用鳩調査委員の岩田 巌騎兵大尉が「軍用伝書鳩の話」との題で講演をおこなう。 ☆補足 上記の一文は、交詢社『交詢社百年史』をもとに記す。 同書によると、交詢社の主な集会を列挙するに当たり、その史料のほとんどを『時事新報』から拾ってきているという。したがって、この岩田の講演に関する記録も『時事新報』あたりから引用していると思われるが、予告記事のみとのことなので、予定に変更が生じていたら、出来事や日付が現実と異なっているかもしれない。 参考文献 『交詢社百年史』 交詢社 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀海軍航空隊、一七六羽。 航空母艦・若宮、三十二羽。 南洋防備隊、三十六羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050495300、大正11年 公文備考 巻58 航空4 (防衛省防衛研究所)」 |
横須賀防備隊の兵一名が横須賀海軍航空隊鳩舎に派遣され、軍鳩に関する実地教育を受ける。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050495300、大正11年 公文備考 巻58 航空4 (防衛省防衛研究所)」 |
横須賀海軍航空隊鳩舎に、二等敷設艇・黒崎丸の指揮官・〓〓少佐と、同乗組員・佐野兵曹長が、実地見学に訪れる。 また、入団兵の付添人おおよそ二〇〇〇名が同鳩舎に見学に訪れる。 ☆補足 黒崎丸の指揮官(少佐)の名が下記の参考文献に載っているが、癖のある字で読み取れず、〓を代入している。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050495300、大正11年 公文備考 巻58 航空4 (防衛省防衛研究所)」 |
南部家第四十三代当主の南部利淳伯爵がベルギーから優良鳩を輸入する。この優良鳩が原鳩になって系統が確立され、後に南部系と呼ばれることになる。 南部系の保存鳩舎として知られる池野金四郎によると、南部は商社などを介して鳩を手に入れたのではなく、ヨーロッパ旅行の際に、じかにベルギーで鳩を選んで、日本に持ち帰ったのだという。 ちなみに、南部は馬匹の向上と新興に力を入れていて、全国的に著名な南部駒を育てている。南部は動物の血統に通じた目利きだったらしい。 以上の点を踏まえたうえで、愛鳩家の金沢輝男の意見を以下に紹介する(宮沢和男 中根時五郎『南部系』より引用)
☆補足一 宇田川竜男『レジャー・シリーズ/24 伝書バトの楽しみ方』に、以下の記述がある。
☆補足二 南部伯爵のように、軍部とは別口で、外国から優秀鳩を輸入した愛鳩家がいる。横須賀在住の田村岩雄という船員である。田村は、その職業を生かして、ベルギーやイギリスから数百羽の鳩を日本に持ち帰る。この鳩群の中から、田部九十二号や八五〇一号などの銘鳩が出ている。 参考文献 『南部系』 宮沢和男 中根時五郎/愛鳩の友社 『レジャー・シリーズ/24 伝書バトの楽しみ方』 宇田川竜男/西東社 『愛鳩の友』(昭和三十三年五月号) 愛鳩の友社 |
中野の軍用鳩調査委員会が軍用鳩五十羽を用いて新年を祝う。 午前十時に二重橋前から二十五羽を、午前十一時に霞ヶ関御所から二十五羽を、それぞれ放鳩する。 ☆補足 『東京朝日新聞』(大正十年十二月三十一日付)に載った予定に従って上記の内容や日付を記す。したがって、予定に変更が生じていたら、出来事や日付が現実と異なっているかもしれない。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十年十二月三十一日付) 東京朝日新聞社 |
横須賀海軍航空隊司令が横須賀鎮守府司令長官宛てに、「海軍軍鳩実験研究ニ関スル件」(横航機密乙第三十四号)を提出する。武知彦栄大尉と横須賀海軍建築部嘱託・浜田銀次郎が共同で考案した艦船用分解鳩舎が実用に適すると認めた、との報告である(参考として設計図とその説明書を添付) 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050495300、大正11年 公文備考 巻58 航空4 (防衛省防衛研究所)」 |
ルネ・クレルカン砲兵中尉(後備役)の叙勲の裁可を、内閣総理大臣が大正天皇に仰ぐ。 クレルカンは、一九一九(大正八)年二月八日、フランス政府より譲り受けた鳩一〇〇〇羽を携行し、マルセイユを出帆、同年四月一日、東京に到着以来、鳩の孵化飼育訓練およびわが勤務員の教習などを担任し、移動鳩車や分解式鳩舎その他の伝習に所要の器材を設計し、その製作監督に任じ、日本軍の軍用鳩復興の基礎を築く。ウラジオおよびサガレン州派遣軍の軍鳩通信班の編成に際しては、雛鳩の訓育に当たり、次いで人員や器材の整備を幇助し、軍鳩通信班の活動に支障がないように努める。 クレルカンは、終始、懇切熱心にその任務に服し、日本軍に貢献する。 以上の功績により、クレルカンは、勲六等単光旭日章に輝く。 ☆補足 「軍用鳩勤務仏国将校傭聘契約解除ノ件報告」(鳩第五十六号)の内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031035200、永存書類甲輯 第1類 大正11年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、文字表記を改めたり、空行を入れたり、判読不能箇所に〓を代入したりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A10112953400、仏国後備役陸軍砲兵中尉ルネ、クレルカン叙勲ノ件(国立公文書館)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031035200、永存書類甲輯 第1類 大正11年(防衛省防衛研究所)」 |
大湊防備隊が横須賀海軍航空隊から非公式に軍鳩を譲り受け、これを飼養しはじめる(開始鳩数、二羽) ☆補足一 上記の一文は、海軍大臣官房『海軍制度沿革』(巻十五)の記述をもとに記す。同書によると、大湊防備隊の非公式な軍鳩飼養は一九二四(大正十三)年四月まで続き、それ以降、正式な軍鳩飼養になったようである。 一方、大湊防備隊が軍務局の吉田善吾大佐宛てに上申した「軍鳩ニ関スル件」によると、この上申が出された一九二五(大正十四)年七月二十七日をもって、正式な軍鳩飼養の許可を願い出たことになっている。 両書で、正式な軍鳩飼養の開始時期が食い違っているが、どちらの記述が正しいのか不明。 ☆補足二 先月に、大湊防備隊は、この鳩舎新設(飼養開始)に当たって、兵曹長一名と兵曹二名を横須賀海軍航空隊に派遣している。 以上の三名は、使鳩術講習員として、同航空隊において、実地および学科教育を受講する。 参考文献 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050495300、大正11年 公文備考 巻58 航空4 (防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08051434000、大正14年 公文備考 巻51 航空(防衛省防衛研究所)」 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀海軍航空隊、一五二羽。 航空母艦・若宮、十八羽。 南洋防備隊、三十六羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050495300、大正11年 公文備考 巻58 航空4 (防衛省防衛研究所)」 |
横須賀海軍航空隊鳩舎の掌鳩兵が陸軍軍用鳩通信班を見学する。 ☆補足 上記の一文は、横須賀海軍航空隊『海軍々鳩研究月報』(大正十一年一月)をもとに記す。 陸軍軍用鳩通信班とあるが、中野の軍用鳩調査委員会のことだと思われる。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050495300、大正11年 公文備考 巻58 航空4 (防衛省防衛研究所)」 |
野戦交通部が『野戦交通部現況報告』を編纂する。 同書に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている。付図第三は省略)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03010326800、西密受大日記 大正11年自1月至5月(防衛省防衛研究所)」 |
三月十日より、東京上野で、平和記念東京博覧会が開催される。 軍用鳩調査委員会の岩田 巌大尉以下の係員が三〇〇羽の軍用鳩を放鳩して開会を祝す。鳩には各方面宛ての通信文を付す。 大木栄助『平和記念東京博覧会写真帳』に、鳩車の写真があり、「伝書鳩」と題した一文が以下のように載っている。
☆補足 開催期間中、博覧会場(第二会場)の鳩車から鳩を放って、中野の軍用鳩調査委員会と通信する。 六月十九日、学習院初等科生三五〇名が平和博を見学する。生徒の一人である澄宮(後の三笠宮崇仁親王)は軍用鳩に自ら餌を与えて非常に喜ぶ。 七月二十日、平和博航空デーに九機の飛行機が参加し、そのうちのF.60に臼田特務曹長が軍用鳩五十羽を携行して乗り込み、機上から放鳩する。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十一年三月十一日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(大正十一年一月十五日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(大正十一年七月二十日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『平和記念 東京博覧会写真帳』 大木栄助/郁文舎出版部 『平和記念 東京博覧会写真帳』 東京博覧会写真帳発行所 『歴史写真』(大正十一年八月号) 歴史写真会 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 博覧会及商品陳列所(4-010) 中外商業新報 1922.3.10 (大正11) |
本日の午後、武知彦栄大尉が中野のルネ・クレルカン砲兵中尉宅を訪ねる。 武知は、今月末日をもって傭聘契約が終了するクレルカンに、銀製の箱(海軍大臣からの記念品)を贈る。また、クレルカン夫人にも記念品人形(胡蝶の舞)を贈る。クレルカン夫妻は非常に喜び、絶大なるスブニヤであります、と武知に感謝の意を表す(Souvenirとは、記念品、お土産という意味) さらにクレルカンは、以下のように語る(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050495400、大正11年 公文備考 巻58 航空4 (防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
武知は、数々の思い出話をクレルカン夫妻と語り、午後十時までクレルカン宅で過ごす。 ☆補足一 クレルカンは、フランスに帰国した後、直ちに鳩術に関する書物を出版したいとのことで、完成したらすぐに武知に贈るつもりだという。ただし、このことは陸軍の人には漏らさぬようにと武知に述べる。 ☆補足二 武知は、二月二十二日に記した、大関鷹麿中佐宛ての私信で、クレルカンについて、以下のように述べる(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050495300、大正11年 公文備考 巻58 航空4 (防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050495400、大正11年 公文備考 巻58 航空4 (防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050495300、大正11年 公文備考 巻58 航空4 (防衛省防衛研究所)」 |
最近、中野~千葉間の往復通信に成功した陸軍電信隊は、この日、最初の夜間長距離通信の試験をおこなう。須永電信隊長、工藤工兵大佐、軍用鳩調査委員会の委員らが大磯に赴き、午後七時、そこから代々木に向けて二十五羽の軍用鳩を放つ。一番速い鳩で午後七時四十五分着、一番遅い鳩でも一時間以内に帰還する。鳩には通信文を付していて、「岩田大尉の軍用鳩夜間訓練を見学す祈成功」という小泉少将の言葉を届ける。 実験の成功を受けて、主任の長谷栄二郎大尉、井崎於菟彦中尉らは、ほくほく顔だった。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十一年三月三十日付) 東京朝日新聞社 『大正NEWS年表』 加藤迪男/日本地域社会研究所 |
この日の朝、砲兵隊付の片山砲兵曹長が六羽の伝書鳩を携行して朝鮮の釜山に赴く。そして、第一桟橋から二羽の鳩を下関に向けて放つ。 釜山での伝書鳩使用は、これが初だという。 ☆補足 いつ頃のことか明確でないが、釜山での放鳩を引き受けた武知彦栄大尉は、以下のようにあいさつし、放鳩技術の重要性を指摘する(大阪好鳩会本部『競翔の手ほどき』より引用)
飼育者、選手鳩、放鳩者と、この三つを同等に並べていることから分かるとおり、放鳩者は単に選手鳩を放鳩地まで持っていって放鳩するだけではない。鳩を健康のまま、安全に現地まで輸送する責任があり、天候を充分に考慮して放鳩日と放鳩時間を決定する。そして、猛禽類の出没などにも注意する。放鳩者の仕事は、飼育者と選手鳩に劣るものではなく、武知の言うとおり、三位一体の関係にある。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十一年四月四日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『競翔の手ほどき』 大阪好鳩会本部 |
日本軍の守備地区にチタ軍が侵入したことを受けて、四月五日、スパスカヤ所在の師団は、この討伐のために同地を出発する。師団は、右縦隊と左縦隊の二隊に分かれていて、それぞれ歩兵一個連隊および騎兵一個小隊を率いている。 シベリアの雪解けの悪路は東京郊外の比ではなく、泥濘に膝を没する難行軍が続く。そのため、有線電話隊の機器が故障で使えなくなり、師団司令部と連絡を取るには、人馬の伝令を出すか、軍用鳩を飛ばすか、それ以外に通信の途が立たれる。 某日の午後二時、左縦隊が敵の大部隊に遭遇する。敵は優勢な機関銃隊を有していて、これをつぶすために味方の砲兵が砲撃を加える。 このとき、師団司令部では、遠く砲声を耳にしながら、師団長も幕僚も、何とか報告の届きそうなものだと首を長くして待っていたが、午後四時を過ぎても一切報告がない。 しかし、午後四時半、西の空から軍用鳩が二羽、三羽と続いて飛来し、師団司令部前の鳩車に帰ってくる。鳩の係員が信書管を取ると、それは右縦隊からの戦況報告で、これにより、師団長は手に取るように戦況をつかむ。謹厳な師団長もこのときばかりは寛爾として軍用鳩の労を謝す。 参考文献 『新青年』(昭和二年二月号) 博文館 |
佐世保防備隊が軍鳩を飼養しはじめる。 参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 |
航空母艦・若宮の搭載水上機が機械故障により、野島沖に不時着水する。操縦者の荒木中尉は大波に襲われて危機にひんする。 荒木は、このことを母艦に知らせるために軍鳩を放つ。 たちまち、軍鳩は、航空母艦・若宮に飛来し、荒木の通信文をもたらす。 その後、荒木は、無事に救助される。 ☆補足 航空母艦・若宮の艦上鳩舎に軍鳩が戻ってきた、ということは、若宮があちこちの海上を遊弋していたら、このように軍鳩が帰ってこられるはずがない。若宮はある程度、同じ位置で停泊し、また、軍鳩もある程度、ここで放鳩訓練を受けたものと思われる。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695400、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 |
富士裾野で演習をしていた軍用鳩六五三八号が駿河湾沖を航行中の伊勢丸(東京湾汽船)に舞い降りる。 伊勢丸の船長・難波亀太郎は、軍用鳩六五三八号を保護し、築地水上警察署に届け出る。 その後、軍用鳩六五三八号は、中野の軍用鳩調査委員会の委員に引き渡される。 以上、同日付の『東京朝日新聞』の記事より。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十一年五月十八日付) 東京朝日新聞社 |
五月十八日、軍用鳩調査委員である服部安三郎は、軍用鳩の試験のために原の町(福島県)を訪れる。 五月十九日午前五時半、服部は、原の町駅前から四十五羽の軍用鳩を中野に向けて放つ。続けて、第二回、第三回と四十五羽ずつの放鳩を計五回にわたり実施し、午前八時四十分までに二二五羽を空に放つ。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十一年五月二十日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
大阪好鳩会の主催で、東京~大阪間の伝書鳩飛翔試験がおこなわれる。 午前六時、中野の軍用鳩調査委員会の鳩舎から十三羽の精鋭を放鳩する。 十三羽中、八羽が当日までに帰舎し、一等は伊藤兵三郎の愛鳩二羽で、六時間一分の記録だった。 ☆補足 『東京朝日新聞』(大正十一年五月二十三日付)の記事によると、当日帰りの鳩は一〇〇〇円、翌日帰りの鳩は五、六〇〇円の値がつくという。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十一年五月二十五日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(大正十一年五月二十五日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(大正十一年五月二十三日付) 東京朝日新聞社 |
軍用鳩の放鳩練習のために仙台に出張している、軍用鳩調査委員の井崎於菟彦中尉が中野に向けて鳩を放つ。現在、仙台~東京間は、急行列車で九時間かかるが、鳩は五時間ほどでこの距離を飛んで東京に帰ってくる。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十一年五月二十九日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
武知彦栄大尉が航空母艦・若宮を訪問するが、若宮の航空長が腹を立てていて、「鳩を追浜へ返還致したい」と述べる(追浜とは横須賀海軍航空隊のこと)。そして、「このことは荒立てて言いたくないから貴殿(武知)から大関中佐にでも伝えておいてもらいたい」と、つけ加える。 さらに、航空長は、以下のように語る(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050495500、大正11年 公文備考 巻58 航空4 (防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、判読不能箇所に〓を代入したりしている)
航空長はそう言った後、ネズミがかじった鳩籠と、当然除去しなければならないような児鳩(今度補給されたもの)を武知に示す。 武知は、何ともいえない気の毒さを感じ、海軍鳩術界の前途の暗黒面を見たと思ったという。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050495500、大正11年 公文備考 巻58 航空4 (防衛省防衛研究所)」 |
横須賀防備隊が軍鳩を飼養しはじめ、海上方面における研究に着手する(開始鳩数、二十羽) 参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 |
横須賀海軍航空隊軍鳩研究部の首席研究員が武知彦栄大尉から利根川忠三大尉に代わる。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695400、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 |
武知彦栄大尉が海軍部内で『軍鳩』(非売品。五〇〇部)を出版する。軍鳩に関する基本書として知られる、武知彦栄『伝書鳩の研究』は、この『軍鳩』を後に訂正、増補したものである。 ☆補足 『軍鳩』の例言に、以下の記述がある(文中に「本年九月」とあるが、「一九二一〔大正十〕年九月」のこと)
上記のとおり、武知は執念の一冊として、本書を上梓する。 参考文献 『軍鳩』 武知彦栄/横須賀海軍航空隊 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050495400、大正11年 公文備考 巻58 航空4 (防衛省防衛研究所)」 |
学習院の初等科生三五〇名が上野公園の平和博覧会を見物する。その中に本年同科に入った澄宮(後の三笠宮崇仁親王)がいて、川島教授その他の人々から説明を受けつつ、各館を回る。外国館の人形の球投げ遊び、交通館の鉄道模型がお気に入りだったが、中でも軍用鳩への餌やりを非常に喜ぶ。その後、澄宮は、馬の芸当、黒人のダンス、カウボーイ、オットセイの曲芸、動物舎の犬などを見て回り、午後三時、会場を後にする。 ☆補足 小野内泰治『日本鳩界史年表』(2)に、「昭和四年六月十九日」に三笠宮が平和博覧会にお出になり伝書鳩の説明をお聞きになった、などとあるが誤り。 正しくは、「大正十一年六月十九日」である。 参考文献 『歴史写真』(大正十一年八月号) 歴史写真会 『愛鳩の友』(昭和三十三年六月号) 愛鳩の友社 |
軍用鳩調査委員会が『使鳩教程草案』を出版する。 本書の目次は、以下のとおり(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足 『使鳩教程草案』と同内容の教本『使鳩飼育訓練法』がある。題名が異なっているだけで別の出版物ではない。ただし、この『使鳩飼育訓練法』には奥付が存在せず、出版年は不明である。裏表紙に「光州日報社印刷部印行」との文字が確認できる。 参考文献 『使鳩教程草案』 軍用鳩調査委員 『使鳩飼育訓練法』 光州日報社印刷部 |
海軍協約の結果、小笠原島が防備区になったことを受けて、横須賀鎮守府参謀長・山梨勝之進少将は、同島を視察するために一等海防艦・八雲に乗り組む。八雲には横須賀海軍航空隊の利根川忠三大尉も乗艦していて、八丈島から鳩を飛ばして同海軍航空隊と通信する予定になっている。 ☆補足 『東京朝日新聞』(大正十一年七月一日付)の記事では、利根川忠三大尉の所属する隊名が追浜航空隊と載っている。しかし、これは横須賀海軍航空隊の通称なので、上記の一文では横須賀海軍航空隊と表記している。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十一年七月一日付) 東京朝日新聞社 |
フランスから傭聘した鳩術教官三名(ルネ・クレルカン砲兵中尉、オリヴィエ・ストリューヴ工兵軍曹、アルフォンス・ワロキエ工兵軍曹)の帰国後、中野電信連隊構内の仏国将校下士宿舎が空き家になる。 そこで、中野電信連隊の拡張に伴う、将校集会所の狭隘を救うために、この空き家を将校集会所として使用することになる。しかし、建物の整備が必要で、さしあたって、それが済むまでは、現状のまま、無線電信調査委員会の事務所として、この空き家を利用する。 以上、このような通牒案(建物管理換ノ件)が出される。 ☆補足 一九二〇(大正九)年、佐々木 勇は、上京して中野に住む。 中野電信隊の囲町の通りに面した角地で、中野駅前に当たるところが、クレルカン中尉らの官舎になっているが、佐々木は通学の途中、中野駅の付近でたびたびクレルカンが官舎を出入りしている姿を目にする。また、代々木練兵場で移動鳩車の訓練をしているクレルカンを見かけた際には、ときを忘れてその光景に見入る。クレルカンは、舎外運動中の鳩群に平手を鳴らして鳩車に降下させていたという。 ちなみに、この中野にあった仏国将校下士宿舎について、井崎於菟彦少佐は、以下のように述べている(『愛鳩の友』〔昭和四十四年十二月号〕より引用)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03011682700、永存書類乙集第2類第3冊 大正11年(防衛省防衛研究所)」 『北国の鳩界』 佐々木 勇 『愛鳩の友』(昭和四十四年十二月号) 愛鳩の友社 |
南アルプスを登山する予定の朝香宮らの一行が甲府駅に到着する。この一行には軍用鳩調査委員の伊東四郎中尉が軍用鳩八羽を持って加わっている。 伊東は、以下のように語っている(『東京朝日新聞』〔大正十一年七月二十日付。夕刊〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足一 七月二十一日、伊東は、アルプス山中からの第一信を二羽の軍用鳩に託し、中野に向けて放つ。 ☆補足二 大正十一年七月二十日付(夕刊)および二十二日付(夕刊)の『東京朝日新聞』の記事では、軍用鳩調査委員の将校の名が「伊藤」になっているが、「伊東」の誤りと思われる。 上記の一文では、「伊東」に訂正してある。 ☆補足三 日本新聞協会『新聞研究』(昭和五十八年十一月号)に掲載された記事「スピグラと鳩」(戦後新聞写真史 連載4)に、以下の記述がある。
*「天皇陛下が摂政宮のころ」とあるが、昭和天皇のこと。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十一年七月二十日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(大正十一年七月二十二日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『新聞研究』(昭和五十八年十一月号) 日本新聞協会 |
目下、陸軍工兵学校(千葉県松戸)では田中工兵大尉が主任となり、中央気象台の観測を伝書鳩によって通信する訓練がおこなわれている。 中央気象台に三十羽の伝書鳩を置いて、毎日午前と午後の二回、放鳩している。今のところ、工兵学校への片道通信にとどまっているが、鳩はわずか十五分で帰ってくる。 なお、千葉測候所の観測を東京に向かって通信する訓練も実施されている。 参考文献 『尋常小学 国語読本教授書 第五学年後期用』 三浦喜雄 橋本留喜/東京宝文館 |
中野の軍用鳩調査委員会の軍用鳩は、長距離飛行の記録を伸ばしているが、この日、長谷栄二郎大尉が姫路から十一羽の軍用鳩を放鳩する。第一着の鳩が八時間後、最後の鳩が十二時間半後に中野の鳩舎に帰ってくる。 ☆補足 『東京朝日新聞』(大正十一年八月五日付)の記事では、軍用鳩調査委員の将校の名が「永谷」になっているが、「長谷」の誤りと思われる。 上記の一文では、「長谷」に訂正してある。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十一年八月五日付) 東京朝日新聞社 |
椿本荘一『伝書鳩の話』(関西伝書鳩研究所)が発行される。 目次は、以下のとおり(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足 中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十八年三月号)に、本書の著者・椿本荘一と親交のあった喜多山省三中佐の随筆「椿本荘一氏」が載っている(以下、その要約) 椿本は天性、生物を愛好し、鳩は中野のルネ・クレルカン中尉の講義を聞きに行くほど熱心だった。ラテン語に通じていて、岩田 巌や井崎於菟彦ら軍用鳩調査委員と交際する。 喜多山が横須賀海軍航空隊軍鳩主任になった頃(一九二二〔大正十一〕年~)、椿本は大阪の玉出に関西伝書鳩研究所を開設する。 椿本が東京に来ると、よく喜多山の家に立ち寄る。椿本はベルギーから鳩を輸入し、陸海軍に十羽ずつ献納しようとするが、海軍がいらないというので、個人として喜多山にその二十羽の鳩を贈る。 椿本はオートバイ事故のけがの影響で、だんだん健康を損ない、一九二九(昭和四)年に病没する。享年三十の若さだった。 参考文献 『伝書鳩の話』 椿本荘一/関西伝書鳩研究所 『普鳩』(昭和十八年三月号) 中央普鳩会本部 |
ウラジオ郊外二番河の鳩舎付近において、招魂祭(鳩魂祭)が挙行される。 ウラジオ派遣軍司令官・立花小一郎大将をはじめ、二番河の各部隊長官、篤志看護婦人会員など数百人が集まる。 約一〇〇〇羽の軍用鳩を弔う祭壇を前に、鳩通信班長の鯰江正太郎大尉が以下の祭文をささげる。 「大正十一年八月九日沿海州の一角二番河山嶺に幾万将卒と難苦をともにしてその職に殉じたる空中の小伝令使軍用鳩の霊を祭る…」 ☆補足 三浦喜雄 橋本留喜『尋常小学 国語読本教授書 第五学年後期用』によると、大正八年出征当時、内地からシベリアに送られた鳩群は約二七〇羽で、翌年五九〇羽がこれに加わり、さらにシベリアで生まれた五七〇羽を入れると、総数一四三〇羽になるという(上記、招魂祭〔鳩魂祭〕挙行日前後の鳩数) 参考文献 『尋常小学 国語読本教授書 第五学年後期用』 三浦喜雄 橋本留喜/東京宝文館 |
軍用鳩調査委員会では軍用鳩の遠距離飛翔訓練を実施しているが、この日の午前五時四十分、岡山停車場外から九羽の軍用鳩を中野に向けて放つ。 午後四時半、九羽のうちの三羽が中野の軍用鳩調査委員会の鳩舎に帰ってくる。残りの六羽も翌日正午までに帰還する。 岡山~東京間六六〇マイルの長距離飛翔は新記録で、軍用鳩調査委員の井崎於菟彦中尉は、鳩に頬ずりして喜ぶ。 ☆補足一 この頃、麹町代官町の教育総監部を中心にして、千葉陸軍歩兵学校と中野軍用鳩調査委員会との間を鳩が毎日飛翔し、この三箇所をつなげて公文書をやり取りする。 ☆補足二 固定鳩舎の通信距離は五〇〇キロ~八〇〇キロが限度で、それ以上距離を延ばすと、多くの鳩が失踪して、これを無駄に失うことになる。 はっきりした時期は不明だが、一九一九(大正八)年にわざわざフランスから優秀鳩を輸入したのだから一〇〇〇キロを飛ばしたいと軍用鳩調査委員らが主張したという。しかし、ルネ・クレルカン砲兵中尉が反対し、「日本の急速に変化しやすい天候と、複雑な地形からいって千粁は無駄に鳩を失う結果になるから、八百粁でよい」と述べる。ただし、こうもつけ加える。「日本で八百粁を飛ぶ鳩だったら、千粁、千五百粁はきっと成功する」と。 軍用鳩は一定の距離を通信するのが目的であって、長大な距離を飛行するのが目的ではない。どちらかというと、長距離区間の翔破というのは、民間の競翔に属する娯楽に近い。すなわち、大正時代の軍用鳩調査委員らが長距離飛翔を目指していたとしても、それはあくまで、黎明期における軍用鳩研究の色合いが強く、実用的ではない。 事実、大東亜戦争勃発前までは一〇〇〇キロ競翔が開催されているが、無駄に鳩を失って国防資源を浪費することになるので、その後、長距離競翔は中止になる。大体、六〇〇キロまでの帰還記録があれば、能力的に充分と考えられたようである。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十一年八月十六日付) 東京朝日新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十八年九月号) 愛鳩の友社 |
軍用鳩調査委員会は岡山~東京間の鳩通信の成功に続き、この日の午前、広島県福山町から七羽の軍用鳩を中野に向けて放つ。そのうち四羽の軍用鳩が午後五時三十分までに中野の鳩舎に帰ってくる。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十一年八月二十一日付) 東京朝日新聞社 |
野戦交通部長が陸軍大臣宛てに、「支那軍へ鳩舎譲与ノ件」(交参発第三五六号)を提出する。 かねて中国軍は鳩舎の譲与を懇望していたが、日本軍のシベリア撤退前にハルビンにおいて、鳩通信班が試製した移動鳩舎一両(在ハルビン固定鳩舎の鳩全部とも)を同軍に無償譲与する、との内容である。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C07061495400、西受大日記 大正11年8月(防衛省防衛研究所)」 |
霞ヶ浦海軍航空隊が軍鳩を飼養しはじめる(開始鳩数、五十羽) 参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 |
横須賀海軍航空隊の十二号汽艇(一五〇トン)に艦上鳩舎が設置され、同艇が軍鳩を飼養しはじめる(開始鳩数、七十羽) その飼養目的は、艦上鳩舎に関する初歩的研究と、小汽艇における鳩通信の研究である。 ☆補足 水交社『水交社記事』(第二六六号)に掲載された記事「軍鳩(伝書鳩)」(作・内藤啓一)と、海軍大臣官房『海軍制度沿革』(巻十五)の記述に従って、「大正十一年八月」としたが、横須賀防備隊軍鳩実験研究部『軍鳩月報』(第十七号)には、「大正十二年八月」と載っている。 どちらの記述が正しいのか不明。 参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695700、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023923700、公文備考 昭和9年 Q 通信、交通、気象、時 巻2(防衛省防衛研究所)」 |
ハワイの真珠湾でアメリカ海軍の飛行機が飛行中に故障する。パイロットは、救助を請う信書を鳩に託して、これを空に放つ。 ときを移さず、救助艇が出動し、ほぼ墜落状態で大破した機体の中からパイロットを助け出す。 参考文献 『偕行社記事』(第五八七号) 偕行社 |
午前八時五十分、富士山頂から三十羽の軍用鳩が日比谷音楽堂前の鳩車に向けて放たれる。 動物愛護会による動物愛護宣伝のためで、鳩が各方面に宛てた通信文を運ぶ。 日比谷公園には山階宮武彦王をはじめ、山階宮妃佐紀子女王、大木遠吉鉄道大臣、鎌田栄吉文部大臣、水野錬太郎内務大臣、内田康哉外務大臣などが集まり、軍用鳩調査委員会の伊東四郎大尉らが待機する。 午前十時二十八分、最初の鳩が帰ってくる。 続いて、午前十時四十五分、数羽が帰還する。 最終的に三十羽中、二十六羽が使命を果たす。 午前十一時半、散会する。 ☆補足一 『長靴の国』の著者・久留島武彦は、この日比谷公園の催しを見に行っている。 同書から該当部分を以下に引用しよう(一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足二 この催しのスポンサーであるラクトー株式会社(後にカルピス株式会社)は、各新聞に懸賞つきの広告を打つ。富士山頂から日比谷までの飛翔時間を当てるクイズである。一等がカルピス一ダース(一名)、二等がカルピス半ダース(二名)、三等がカルピス大ビン一本(一〇〇名)だった。 『東京朝日新聞』(大正十一年九月三日付)に掲載された広告「富士山から日比谷公園まで 空中マラソン競走 破天荒な懸賞 何分何秒で到着するか 強風曇天でも決行 雨天順延」より、その懸賞内容を以下に引用しよう(一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
ダイヤモンド社『歴史をつくる人々 カルピス食品工業社長 三島海雲 初恋五十年』によると、三島海雲は、カルピスとは直接関係のないキャンペーンを多くおこなうが、それは全て社会的な意義を考えたものであるという。この動物愛護会とタイアップした伝書鳩通信もその一つで、中野の陸軍の伝書鳩を使って、大好評を博したそうである。当日は山階宮、内田外務大臣、水野内務大臣、三井信託株式会社の創立者・米山梅吉などが出席したことから、いやが上にも盛り上がり、そのキャンペーンの効果は絶大だったという。 ちなみに、富士の山頂から日比谷公園まで一〇〇羽の伝書鳩を飛ばした、と同書にある。『東京朝日新聞』(大正十一年九月十一日付。夕刊)の記事では三十羽、久留島武彦『長靴の国』には三十余羽と載っているので、その放鳩数に相違がある。 当項では、『東京朝日新聞』(大正十一年九月十一日付。夕刊)の記事に従って、放鳩三十羽中二十六羽が帰還して使命を果たす、などと記したが、もしかしたら一〇〇羽だった可能性がある。 ただし、同書は、この催しを「大正九年」の出来事と誤記(正しくは、「大正十一年」)し、また、三井信託の米山の名を「米吉」と誤記(正しくは、「梅吉」)していることから、一〇〇羽の伝書鳩を飛ばした、との記述も誤記の疑いがある。 ☆補足三 この日の昼、東京ステーションホテルの大食堂で、動物愛護大宣伝午餐会が開催される。 動物愛護会幹部の高島米峰があいさつに立ち、同会理事の広井辰太郎の功績をたたえる。 そのあいさつの一部を以下に紹介しよう(高島米峰『権兵衛と鳥』より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『東京朝日新聞』(大正十一年九月三日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(大正十一年九月八日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(大正十一年九月九日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(大正十一年九月十一日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『長靴の国』 久留島武彦/丁未出版社 『歴史をつくる人々 カルピス食品工業社長 三島海雲 初恋五十年』 ダイヤモンド社 『権兵衛と鳥』 高島米峰/高山書院 |
熱帯地方における軍鳩飼養法について、その研究目的を達したことから、トラック島南洋防備隊の軍鳩と鳩舎を島庁に移管する。 参考文献 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 |
十月十一日からはじまった富士裾野での陸軍攻防演習において、軍用鳩調査委員会は六十羽の軍用鳩を午前午後の二回に分けて放ち、裾野~中野間を鳩通信でつなげる。 ☆補足一 この演習中、東京朝日新聞社は、演習の様子を撮影したフィルムを軍用鳩に託して中野に輸送している。鳩によるフィルム輸送は近距離では珍しくないが、裾野~中野間の長距離輸送は記録破りの試みだという。軍用鳩調査委員はこのフィルム輸送の成功に非常に満足したらしい。 ☆補足二 報知新聞社出版部『今日の新聞』に、以下の記述がある(一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている) 。
参考文献 『東京朝日新聞』(大正十一年十月十三日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(大正十一年十月十四日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(大正十一年十月十四日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『今日の新聞』 報知新聞社出版部 |
午後三時半、報知新聞社の橋本特派員が富士裾野の攻防演習地から軍用鳩を放つ。軍用鳩には攻防演習の様子を収めた写真フィルムを付している。 午後四時四十分、中野の陸軍電信隊に軍用鳩が帰還し、無事に写真フィルムを届ける。 翌十月十四日、報知新聞社はこの成功を祝って、軍用鳩が運んだ二枚の写真と、その快挙を伝える記事を『報知新聞』に掲載する。 ☆補足 報知新聞社出版部『今日の新聞』に、以下の記述がある。
報知新聞社の主張によると、一九一九(大正八)年のフランス鳩一〇〇〇羽の輸入以来、日本の新聞社として最初に伝書鳩を採用したのは同社であるという。 一方、平野岑一『新聞の知識』に、以下の記述がある(引用文は一部、文字表記を改めている)
続いて、内閣資源局『伝書鳩ニ関スル調査』から、各社の飼養開始年月を以下に紹介しよう(岩手日報社の欄が空欄のため、暫定的に「不明」と記載している。また、鳩数は一九三一〔昭和六〕年当時のもの) 東京朝日新聞社 大正十四年四月 二〇一羽 時事新報社 大正十四年六月 一二七羽 東京日日新聞社 大正十三年五月二十二日 四九三羽 国民新聞社 大正十五年十月 一二五羽 報知新聞社 大正十一年 一九一羽 日本電報通信社 昭和二年五月 八七羽 読売新聞社 大正十四年 六五羽 大阪朝日新聞社 昭和二年五月 二八〇羽 大阪毎日新聞社 大正十三年五月 二三八羽 岩手日報社 不明 四二羽 函館日日新聞社 昭和五年四月 三七羽 東奥日報社 昭和二年九月 一四八羽 岩手毎日新聞社 昭和三年九月 二六羽 なお、参考として、昭和六年当時、各社の鳩舎がどのような環境であったのか、同年発行分の飼鳥時代社『飼鳥の時代』誌より、帝国通信社、国民新聞社、読売新聞社の三社を以下に紹介しよう(帝国通信社および国民新聞社は同誌三月号、読売新聞社は同誌六月号より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足 国民新聞社の伝書鳩導入については、軍用鳩調査委員幹事の井崎於菟彦中尉の働きかけがあった。 民間鳩指導の任に当たっていた井崎は、ある日、国民新聞社の社長室を訪ねて徳富蘇峰に面会する。そして、伝書鳩の利便性を説明して新聞取材に伝書鳩を用いたらどうかと述べる。しかし、徳富は、夢のような話だとして井崎の話を一蹴する。 そこで井崎は、実験を提案し、徳富にじかに鳩の有用性を示す。ときの首相・田中義一が暗殺されたとの仮想記事を付した鳩を東京駅から放って、十五分足らずで中野の陸軍鳩舎に帰ってくるところを徳富に見せたのである。 このことが功を奏したのか分からないが、一九二六(大正十五)年十月、国民新聞社は屋上に一〇〇羽入りの鳩舎を新築し、伝書鳩を導入する。 なお、伝書鳩史において、関東大震災で伝書鳩が活躍したことから、各新聞社などで鳩舎の設置が進んだ、などと記されることが多い。間違ってはいないが、軍の働きかけに触れていないので、歯抜けの印象を抱く。 井崎は、国民新聞社以外にも各社を巡っている。 『愛鳩の友』(昭和三十五年八月号)に掲載された記事「古鳩会会員に聞く 大正末期の思い出」に、以下の記述がある(文中にある「新井さん」とは、新井嘉平治のこと)
また、『日本伝書鳩新聞』(第二号)に掲載された記事「鳩界今昔物語(二)」(作・井崎於菟彦)に、以下の記述がある。
参考文献 『報知新聞』(大正十一年十月十四日付) 報知新聞社 『今日の新聞』 報知新聞社出版部 『新聞の知識』 平野岑一/大阪毎日新聞社 東京日日新聞社 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05022428100、公文備考 Q巻1 通信.交通.気象(時) 海軍大臣官房記録 昭和7(防衛省防衛研究所)」 『飼鳥の時代』(昭和六年三月号。第二巻第三号) 飼鳥時代社 『飼鳥の時代』(昭和六年六月号。第二巻第六号) 飼鳥時代社 『愛鳩の友』(昭和三十五年八月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十九年四月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友創刊50年 半世紀の歩みを綴る永久保存版』 愛鳩の友社 *『日本伝書鳩新聞』(第二号)に掲載された記事「鳩界今昔物語(二)」(作・井崎於菟彦)を転載、収録 |
御用船・中華丸が門司に入港する。中華丸には、約三〇〇羽を有する鳩班十五名と、約五十名の病院班が乗っており、シベリアからの帰還となる。 鳩班の鳩は、凍傷で脚の先がちぎり取られ、猛禽類にかまれた傷跡があって生々しい。 鳩班の班長・冨永清一騎兵中尉は、以下のように語る(『読売新聞』〔大正十一年十月二十五日付〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
また、冨永は、こう述べている(『東京朝日新聞』〔大正十一年十月二十五日付〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
なお、一行は、十月二十六日に台中丸に乗って門司を出港し、関東軍付として送られる。 ☆補足一 冨永の発言の中に「猛獣」という言葉が出てくるが、これは猛禽類のこと。 ☆補足二 『読売新聞』(大正十一年十月二十五日付)の記事では、「富永少尉」とあるが誤り。 正しくは、「冨永中尉」である。 参考文献 『読売新聞』(大正十一年十月二十五日付) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(大正十一年十月二十五日付) 東京朝日新聞社 |
逓信博物館長が軍用鳩調査委員長宛てに、「軍用鳩ニ関スル資料出品方ノ件」(博第一四四六号)を照会する。今般、空中に関する交通資料陳列室を設けるので、伝書鳩資料一式を半永久的に出品してほしい、との依頼である。 軍用鳩調査委員長は了承し、以下の物品を逓信省に保管転換する(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03011745800、永存書類乙集第2類第5冊 大正11年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03011745800、永存書類乙集第2類第5冊 大正11年(防衛省防衛研究所)」 |
武知彦栄大尉が『伝書鳩の研究』を出版する。大日本軍用鳩協会『軍用鳩』(昭和十九年九月号)に載った記事「軍鳩の参考書」(作・山本直文)において、同書は、こう評されている。
☆補足 山本直文は東京帝大出身のフランス文学者。長年、フランスに留学し、仏語関係の著書をいくつか残す。また、フランス料理に精通し、その道の権威者として有名である。また、愛鳩家(城北はとの会会員)としても知られていて、日本鳩界のご意見番だった。 当時は学習院大学教授の地位にあり、後に日本司厨協会の顧問や大日本軍用鳩協会の参与なども務める。 参考文献 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/横須賀海軍航空隊 『軍用鳩』(昭和十九年九月号) 大日本軍用鳩協会 『普鳩』(昭和十七年五月号) 中央普鳩会本部 『日本鳩時報』(昭和十六年三月号) 大日本軍用鳩協会 |
横須賀海軍航空隊軍鳩研究部の首席研究員が利根川忠三大尉から喜多山省三大尉に代わる。また、次席研究員として今田兵曹長が着任する。 ☆補足一 海軍省『軍鳩研究報告』の記述に従って、喜多山省三大尉の着任を「十一月」としたが、横須賀海軍航空隊『海軍軍用鳩月報』(大正十二年一月末日調)には「十二月初旬」と記されている。 どちらの記述が正しいのか不明。 ☆補足二 喜多山は着任に当たって、現在、病気療養中である武知彦栄大尉のもとを訪れ、以下のように決意を述べる(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050810900、大正12年 公文備考 巻68 航空(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、漢字をひらがなに改めている)
この言葉を耳にした武知は安心し、その日から安眠できるようになる。武知は海軍軍鳩研究の中心人物であったが、現在は病気によってその立場を退いている。「研究上の手違いを生じるようのことができてはお上に対して申し訳がない」「研究が遅れやせぬだろーか」「このままでは研究はつぶれやせぬだろうか」などと、武知は悩み、一夜として熟睡できなかった。しかし、ようやく、海軍軍鳩研究に有望な人材を得て、武知は胸をなで下ろす。 その後、喜多山は、武知の期待に応え、海軍における軍鳩研究の第一人者として知られるようになる。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695400、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050810900、大正12年 公文備考 巻68 航空(防衛省防衛研究所)」 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 |
安藤鉄夫騎兵少佐が軍用鳩調査委員に任命される。 参考文献 『日本騎兵史』(下巻) 佐久間亮三 平井卯輔/萌黄会 |
野戦交通部残務整理委員が陸軍大臣宛てに、「野戦交通部業務提要提出ノ件」を提出する。この『野戦交通部業務提要』は、シベリア出兵における交通業務の資料および戦史研究の材料とすることを目的として編纂されたものである。 そのうち、「第三類 鳩通信ノ部」に、「第一聚 鳩通信ノ業務」と「第二聚 鳩通信ノ業務」があり、シベリア出兵における鳩通信に関する事柄が詳細にまとめられている。 「第三類 鳩通信ノ部」の目次は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06032081800、大正7乃至11年西伯利出兵 野戦交通部業務提要 其3(5冊の内)第1聚 第1類 第3類 自第1篇 至第9篇 大正7年乃至11年(防衛省防衛研究所)」および「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06032140400、大正7乃至11年西伯利出兵 野戦交通部業務提要 其5(5冊の内)第2聚 第1類 第2類乃至第5類 自第1篇 至第10篇 大正7年乃至11年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている。各章を抜粋し、各節は省略)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C07061572300、西受大日記 大正12年自1月至2月(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06032081800、大正7乃至11年西伯利出兵 野戦交通部業務提要 其3(5冊の内)第1聚 第1類 第3類 自第1篇 至第9篇 大正7年乃至11年(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06032140400、大正7乃至11年西伯利出兵 野戦交通部業務提要 其5(5冊の内)第2聚 第1類 第2類乃至第5類 自第1篇 至第10篇 大正7年乃至11年(防衛省防衛研究所)」 |
一九二二(大正十)年五月から軍鳩の飼養を開始した航空母艦・若宮は、はじめこそ試験的な運用にとどまるが、飼育訓練を進歩させて乗員の信頼を勝ち得ると、この年には、出動する飛行機が必ず軍鳩を携行するようになる。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695700、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 |
競翔で優秀な成績を収めた民間鳩舎に対し、軍用鳩調査委員長が賞状または証明書を交付し表彰する制度が設けられる。 ☆補足 民間の鳩飼養の発達とともに、水産組合などにおいて、欠かすことのできない通信機関として鳩が利用される。 また、各官営学校(水産試験場、帝国大学、農林学校など)でも、実用および研究用として鳩が広く飼育される。 参考文献 『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 |
北海道帝国大学の命により、小熊 捍農学博士が動物の品種改良研究のために渡欧する。この二年間の派遣中、小熊は主任務の合間にベルギーとイタリアを訪れ、伝書鳩に関して理解を深める。 参考文献 『鳩』(第三年八月号) 鳩園社 |
一月三十日~二月十日まで、陸軍航空学校が雪の日本アルプス横断を目指し、金沢~東京間の軍用鳩通信演習を実施する。 ☆補足 この軍用鳩通信演習については、一月二十六日に、第九師団司令部に通牒してある。 参考文献 『読売新聞』(大正十二年一月二十七日付) 読売新聞社 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀海軍航空隊、二八九羽。 横須賀防備隊、二十羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、五十羽。 大湊防備隊、九羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050810900、大正12年 公文備考 巻68 航空(防衛省防衛研究所)」 |
海軍兵学校が軍鳩を飼養しはじめる(開始鳩数、十羽) 参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 |
千葉県岩崎で軍鳩の死骸が発見されたことを受けて、海軍省軍務局が横須賀海軍航空隊にこの件を照会する。 調査の結果、この鳩は、横須賀防備隊に属し、数日前に放鳩されたものと判明する。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050810900、大正12年 公文備考 巻68 航空(防衛省防衛研究所)」 |
貨車七台、乗用車五台、牽引車四台からなる、陸軍の自動車隊が、雪中耐寒訓練を実施する。自動車隊は軍用鳩などを用いて進行状況を伝える。 自動車隊には訓練済みの鳩三十羽、未訓練の鳩三十羽がおり、毎日十羽ずつを放鳩する。計画では、未訓練の鳩を下諏訪~軽井沢間に飛ばし、その成績を見てから、軽井沢~東京間に放つという。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十二年二月十四日付) 東京朝日新聞社 |
霞ヶ浦海軍航空隊が軍鳩の飼養を廃止する。 参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 |
徳島県水産試験場が軍用鳩を用いた海上からの漁況通信を計画し、同水産試験場長が陸軍大臣に、軍用鳩二十羽の保管転換を願い出る。 ☆補足 大正十四年七月十五日発行の『鳩』(第三年七月号)誌に、以下の記述がある。
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03011890200、永存書類乙集第2類第5冊 大正12年(防衛省防衛研究所)」 『鳩』(第三年七月号) 鳩園社 |
青森県水産試験場長が陸軍大臣宛てに、漁船通信用の軍用鳩二十羽の保管転換を願い出る(「軍用鳩保管転換ニ関スル件」〔水試発第四十号〕) 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03011890100、永存書類乙集第2類第5冊 大正12年(防衛省防衛研究所)」 |
軍用鳩の衛生、飼料、遺伝ならびに品種に関する研究の必要性があることから、陸軍獣医学校に約七十羽の軍用鳩が分置される(「軍用鳩分置ニ関スル件」) 軍用鳩の分置要領は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03011891100、永存書類乙集第2類第5冊 大正12年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03011891100、永存書類乙集第2類第5冊 大正12年(防衛省防衛研究所)」 |
一等海防艦・春日に艦上鳩舎が設置され、同艦が軍鳩を飼養しはじめる(開始鳩数、二十羽) これは、一等海防艦・春日がウラジオ方面に出動するに当たり、艦長の百武源吾大佐の希望により実現する。 この飼養開始に合わせて、専任の鳩係兵二名が一等海防艦・春日に乗船する。 ☆補足 当初、横須賀海軍航空隊の喜多山省三大尉は、鳩の素人である百武と、鳩係水兵の仕事を軽く見ていた。しかし、百武の期待する研究目的が十二分に達成されたほか、本年九月に発生する関東大震災において、一等海防艦・春日が活躍したことから、その認識を改める。 喜多山は、こう述べている(中央普鳩会本部『普鳩』〔昭和十七年三月号〕より引用)
参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695700、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 『普鳩』(昭和十七年三月号) 中央普鳩会本部 |
鳩の関西社が『鳩の関西』という月刊誌を発行する。 ☆補足 上記の一文は、『愛鳩の友』(昭和三十七年六月号)に掲載された記事「鳩飼い今昔」(第一回)などをもとに記す。 この『鳩の関西』誌は、一九二四(大正十三)年に改題して『鳩』となり、その取り扱い出版社も鳩の関西社から鳩園社に変わる(鳩の関西社が鳩園社に改名したように思われる) 大正十四年一月二十五日発行の『鳩』(第三年新年号)によると、大阪の地に呱呱の声を上げて以来三星霜、ときに叱咤され、ときに励まされ、休刊を重ねること数次、及ばずながら陰に陽に動いてきて、ここに第三年の春を迎えた、などと、巻頭で鳩園社の佐伯克己(佐伯尊勝)があいさつしている。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十七年六月号) 愛鳩の友社 『鳩』(第三年新年号) 鳩園社 『鳩』(三周年記念特別号) 鳩園社 |
奈良の愛鳩家・杉原医学士が十四羽の鳩を中野の軍用鳩調査委員会に持ち込み、午前六時一分、全鳩を放鳩する。 午後一時三十三分までに十二羽が帰還したとの電報が届くと、軍用鳩調査委員会では大成功と祝杯を挙げる。 ☆補足 上記の一文は、『東京朝日新聞』(大正十二年五月二十一日付)に掲載された記事「青鉛筆」をもとに記す。 同記事に明確な記載はないが、奈良~東京間を飛翔したものと思われる。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十二年五月二十一日付) 東京朝日新聞社 |
摂政宮裕仁親王が中野の軍用鳩調査委員会を行啓する。 一九三一(昭和六)年三月、これを記念して軍用鳩調査委員事務所職員一同が摂政宮殿下行啓記念の碑を中野に建てる。 *摂政宮裕仁親王は後の昭和天皇。 参考資料 「摂政宮殿下行啓記念碑」 *東京警察病院敷地内 |
陸軍では以前より朝鮮~満州間の鳩通信を計画している。新義州~京城間、奉天~新義州間で試験飛行をおこない、最終的に奉天~京城間を鳩通信でつなげる予定である。しかし、国際法上、中国側から苦情が出るおそれがあり、目下、富田領事は王道尹と交渉し、許可を求めている。 以上、同日付の『東京朝日新聞』の記事より。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十二年六月一日付) 東京朝日新聞社 |
大阪好鳩会の主催で宇都宮~大阪間の競翔が開催される。 午前六時、宇都宮第十四師団司令部前から十三羽を放鳩し、午後六時三分、徳永秀三(大阪北区)の愛鳩が第一着で帰還する。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十二年六月八日付) 東京朝日新聞社 |
午前八時半、陸軍士官学校内の雄健神社前で同校の記念祭が開催される。 祭典の後、陸軍士官学校の生徒一二〇〇余名が各競技(鳩手旗連合通信、斥候の鳩通信など)を実施する。 ☆補足 『東京朝日新聞』(大正十二年六月九日付。夕刊)に載った予定に従って上記の内容や日付を記す。したがって、予定に変更が生じていたら、出来事や日付が現実と異なっているかもしれない。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十二年六月九日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
松本歩兵第五十連隊機関銃隊の将兵一二〇名(機関銃六銃、軍馬一一三頭)が日本アルプス強行軍に出発する。一隊は松本高等学校の伝書鳩を携行する。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十二年六月二十六日付) 東京朝日新聞社 |
創設一周年を迎えた島津科学普及館は、現在、夏の旅行展を開催しているが、この日の正午、軍用鳩調査委員会の軍用鳩と民間の伝書鳩を東京市内の目ぬきの場所から放鳩して来館者に興を添える。 また、夜には、漫画活動写真大会と、陸軍戸山学校音楽隊の演奏会がおこなわれる。 ☆補足一 この旅行展と、夜間の漫画映画試写会および音楽演奏会は七月下旬まで催される。 また、伝書鳩通信は、七月五日にお茶の水駅前、七月六日に上野公園の西郷隆盛像前、七月七日に東京帝国大学の赤門付近、七月八日に三越百貨店の屋上などを発信地として、島津科学普及館まで通信文を届ける(通信を試みたい者は発信地に集合して申し込む) ☆補足二 七月十八日、島津科学普及館の島津男爵が、屋ケ田歩兵軍曹、佐々木騎兵軍曹、七羽の軍用鳩(本年三月生まれ)を連れて、東京朝日新聞社にやってくる。 午後零時五分過ぎ、通信文を付した七羽の鳩を島津科学普及館に向けて放つ。すぐに島津科学普及館から電話がかかってきて七羽とも無事に帰還したという知らせが入る。 鳩が運んだ通信文の内容は、以下のとおり(『東京朝日新聞』〔大正十二年七月十九日付。夕刊〕より引用) 「つゆ空の、今はれかゝる光の中、鳩はきらめき手をはなれたり」 「可愛鳩さん、わき道せずに、まつすぐおうちに、ゐらつしやい」 「永田市長閣下、この頃の市内の道路は全く閉口ですね、私共は空を自由に飛べるからまあ可いやうなものゝ親愛な東京の子供さんたちと一緒に遊びたいにも泥田圃の東京には鳩の降り場もないのです、はやく気持ちの可い路にしてやつて下さい(伝書鳩)」 ☆補足三 白木屋、三越、松屋などの百貨店において、伝書鳩展などの展覧会が開かれると、鳩便がよく利用された。 百貨店の屋上から通信文を付した鳩を放ち、それが中野の軍用鳩調査委員会の鳩舎などに帰り着くと、今度はその地から各通信文を一般家庭などに配達する。人々を楽しませる催しであるとともに、国民に伝書鳩の有用性を示す目的があった。 参考文献 『読売新聞』(大正十二年六月二十八日付) 読売新聞社 『読売新聞』(大正十二年七月六日付) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(大正十二年七月十九日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
海軍砲術学校が軍鳩を飼養しはじめる(開始鳩数、十二羽) 参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 |
摂政宮裕仁親王が富士山に登る。 このとき、名古屋市在住の後藤長三郎は、軍用鳩調査委員会より払い下げを受けた六羽の鳩(金城号)を携行して、お供をする。 山頂の銀明水のほとりで、摂政宮裕仁親王が金城号の名について後藤に尋ねる。 後藤は、 「名古屋城にちなんで金城とつけました」 と、答える。 すると、摂政宮裕仁親王は、おそばの二荒芳徳伯爵に向かって、 「愛知県知事あてに通信をしたためよ」 と、言う。 二荒伯爵が通信文を二通作成すると、摂政宮裕仁親王は、その内容を確認した後、それを鳩の脚に結びつけて空に放つ。 鳩は、富士山頂の高空をパッと舞い上がり、西の空を目指して、矢のように飛んでいく。摂政宮裕仁親王は、その姿を見て、満足そうにほほ笑む。 *摂政宮裕仁親王は後の昭和天皇。 ☆補足 一九二四(大正十三)年十一月一日、摂政宮裕仁親王は、北陸地方で挙行される陸軍特別大演習の統監の途中、名古屋の偕行社に立ち寄る。 このとき、昨年の夏の楽しい思い出がよみがえり、 「富士登山のとき放った鳩が健在ならば持参せよ」 と、言う。 このおぼしめしは、後藤長三郎に伝えられ、後藤は直ちに六羽の金城号を連れて、摂政宮裕仁親王のもとにやってくる。 摂政宮裕仁親王は、 「これだこれだ」 と、言って、興を催す。 六羽の鳩は、摂政宮裕仁親王の手や肩にとまって、愛嬌を振りまく。 参考文献 『大正天皇御物語』 水谷次郎/日本書院出版部 |
日本アルプスを登山中の秩父宮雍仁親王の一行には、松本高等学校の鳩班が加わっている。これは伝書鳩を用いて秩父宮雍仁親王の動静を伝えるためである。 七月二十六日の午後三時頃、槍ヶ岳の頂上から六羽の伝書鳩を放鳩する。しかし、その中の一羽が見当違いの方向に飛んでいってしまい、七月三十日の朝、北佐久郡御牧村役場の傍らに降り立つ。この鳩には、秩父宮雍仁親王の案内役を務めている松本高女校長の通信文(知事宛て)が付してあり、その行程が書きつけられていた。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十二年七月二十四日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(大正十二年七月三十一日付) 東京朝日新聞社 |
大久保大尉(陸軍歩兵学校軍用鳩班教官)以下八十名の一隊が、一〇〇余羽の軍用鳩を携行して、富士山の頂上に登る。 七月三十日午前十一時五十分、陸軍歩兵学校と千葉憲兵分隊(須藤隊長宛て)に向けて十羽の軍用鳩を放つ。 午後二時二十分、陸軍歩兵学校に軍用鳩が帰ってくる。 わずか二時間半での帰還は、軍用鳩の新レコードだという。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十二年八月一日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
特務艦・高崎に艦上鳩舎が設置され、同艦が軍鳩を飼養しはじめる(開始鳩数、八十羽) その目的は、艦上鳩術の基礎的研究で、喜多山省三大尉、丸山 勉二曹、高橋荻作二水、中川栄一三水がこの任務に従事する。 ☆補足一 特務艦・高崎での軍鳩飼養は、同艦が海軍大演習において航空母艦として行動する予定になったことを契機とする。 ☆補足二 特務艦・高崎での軍鳩研究の様子は、喜多山省三大尉の記した報告書「自大正十二年七月三十日 至同年十月八日 特務艦高崎艦上鳩舎研究報告」に記録されている。 参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695700、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050810900、大正12年 公文備考 巻68 航空(防衛省防衛研究所)」 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 |
この期間、松戸の陸軍工兵学校において、校長の古賀啓太郎少将指揮のもと、教導大隊三〇〇名の築城演習および天竜川二俣での敵前架橋演習が実施される。 松戸への連絡は陸軍工兵学校で飼養している軍用鳩が使用される。 ☆補足 『東京朝日新聞』(大正十二年八月二日付。夕刊)に載った予定に従って上記の内容や日付を記す。したがって、予定に変更が生じていたら、出来事や日付が現実と異なっているかもしれない。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十二年八月二日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
中野の軍用鳩調査委員会の井崎於菟彦中尉は、中野~日本アルプス間の鳩通信を開設するために松本歩兵第五十連隊にやってきて、午前八時三十七分、同連隊の営庭から十七羽の軍用鳩を放鳩する。 この飛翔訓練について、井崎は、以下のように語る(『東京朝日新聞』〔大正十二年八月十二日付〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足 『東京朝日新聞』(大正十二年八月十二日付。夕刊)は、軍用鳩調査委員の将校の名を「江崎中尉」「浜崎中尉」などと報じているが、「井崎中尉」の誤りと思われる(訂正済み) 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十二年八月十二日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
同日付の『東京朝日新聞』の記事によると、富士裾野で演習中の秩父宮雍仁親王は、午前二時に夜行軍で出発し、箱根の乙女峠を越え、小田原駅から列車に乗って帰京するという。 ちなみに、この秩父宮雍仁親王の動静は、軍用鳩調査委員会の軍用鳩が中野にもたらす。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十二年八月二十九日付) 東京朝日新聞社 |
午前十一時五十八分頃、関東大震災が発生する。関東地方各地に甚大な被害を及ぼし、各通信機関がまひする。 『愛鳩の友』(昭和四十六年九月号)に掲載された記事「鳩のお手柄関東大震災記」(作・井崎乙比古)によると、このとき、中野電信連隊の屋根瓦が全部落ちて、辺り一面、もうもうたる土煙によって建物は全く見えなくなってしまったという。また、軍用鳩が正午の食前舎外運動をしていたが、地上の騒ぎを知らぬげに悠々と飛んでいたので、空飛ぶ鳩に地震は何の関係もあるまい、と井崎於菟彦中尉は思ったそうである。 午後二時、陸軍省は鳩通信網の構成を命じ、同省を中心に、遠距離通信は固定鳩舎、近距離通信は移動鳩舎によって鳩通信をおこなう。 ☆補足一 岩田 巌『伝書鳩』に、以下の記述がある(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足二 『愛鳩の友』(昭和四十九年一月号)に掲載された記事「関東大震災の想い出」(作・井崎乙比古)によると、近衛師団司令部の鳩係将校で、軍用鳩調査委員(庶務主任)の井崎於菟彦中尉は、食堂に行こうと室外に出て歩き出すと、突如、激しい揺れに襲われたという。 そのときから通信機関はストップし、中野の軍用鳩調査委員会鳩舎は、さながら中央電信局の様相を呈し、繁忙を極める。 この未曾有の大災害において、日光田母沢御用邸に避暑中の大正天皇および貞明皇后の安否をはじめ、大杉 栄などのアナーキストの動向、憲兵隊や警察からの報告など、鳩が通信の要になる。鳩の交付分配、信書の配達など、なすべき仕事は多かった。井崎は、関東戒厳司令官・福田雅太郎大将(任命は九月三日)の命令を起掌し、東京駐在の各隊より集められた、兵員五十、オートバイ、自動車、自転車を用いて職務をこなす。 中野の鳩舎に帰ってくる鳩は、その両脚に信書管をつけ、背中には通信筒を背負っている。明らかに重量過多だが、鳩に満足な休息は与えられず、他方面よりの通信任務に再び用いられる。 疲れ果てた鳩が、わが子かわいさにピジョンミルクを雛に与える。鳩の世話を久しくしてきた井崎もこの光景には胸が詰まる。井崎が、中野に到達した信書をその宛先に配達すると、受信者が感謝の言葉を口にする。ゾクゾクと喜びが湧き上がる。 震災初日、多忙を極めた井崎に、大任が下る。明日(九月二日)、大正天皇および貞明皇后が避暑中である日光田母沢御用邸に赴き、当地で鳩通信主任をせよと命じられたのである。井崎は友人のK大尉に現在の職務を引き継ぐと自宅に戻る。 幸い、豊多摩郡杉並村にある井崎の自宅は小破損にとどまり、家族は全員、無事だった。 明日は日光に発たなければならないので、井崎は半日を利用して東京市内の被害状況の確認に努める。 鳩を携行してサイドカーで中野を出発する。そうして、本所の被服廠に向かうが、そこは阿鼻叫喚の巷だった。まるで焼き芋を並べたような、数万とおぼしき、焼けただれた死体が転がっている。乳飲み子を抱いたまま事切れている母の亡きがらもある。井崎は手を合わせて犠牲者の冥福を祈り、被服廠の被害状況や、中野から現在地に至るまでに実見した様子を鳩に付して司令官宛てに飛ばす。 井崎が被服廠をあとにしようとすると、見覚えのあるものを目にする。鳩輸送籠(小)で、それは女の死体の所有物だった。その鳩籠の中に位牌や経本などがしまわれている。多分、この女は愛鳩家で、手近にあった鳩籠に大切なものをしまい込んで避難したのだろう。しかし、火災の勢いはすさまじく、命を失ってしまう。井崎は、この鳩籠をそのままにできず、サイドカーに載せる。 後に井崎は、住職に願って、鳩籠を供養してもらったという。 *井崎はこのときの体験を幾つかの記事に残しているが、これを照らし合わせて読むと矛盾点が多い。参考として、以下にまとめておく。 ①「関東大震災の想い出」(昭和四十九年一月号『愛鳩の友』掲載) ②「鳩のお手柄関東大震災記」(昭和四十六年九月号『愛鳩の友』掲載) ③「震災記念日を迎え 貞明皇后さまを偲び奉る」(昭和四十八年十二月号『愛鳩の友』掲載) ■井崎が関東大震災発生時にいた場所 ①軍用鳩調査委員事務所の室外(部屋の外という意味の室外。屋内) ②③軍用鳩調査委員事務所の室内(②によると、このとき、井崎は、時事新報および国民新聞の記者二人と懇談していたが、地震の揺れにより書類棚が倒れ、三人は書類や雑品を頭からかぶったという) ■関東大震災発生時の中野電信隊での死傷者 ②気の早い兵士二人が二階から飛び降りて木に激突し、瀕死の重傷を負う。 ③一人の兵士が二階から飛び降りて、軽傷を負う。 ■井崎が日光田母沢御用邸での鳩通信主任を命じられた日付 ①③九月一日(③によると、陸軍省から一台のオートバイが中野にやってきて軍務局長〔軍用鳩調査委員長〕よりの命令を伝えたという。なお、井崎はこれを永田鉄山と誤記しているが、当時の軍務局長は阿部信行である) ②九月二日の黎明(自宅にいた井崎に、突然、出頭命令が下る) ☆補足三 『愛鳩の友』(昭和四十六年九月号)に掲載された記事「鳩のお手柄関東大震災記」(作・井崎乙比古)によると、時事新報および国民新聞の記者二人は、井崎於菟彦中尉(上記文中では井崎の階級が「大尉」になっているが誤り)の許可を取って、十羽の鳩(中野軍用鳩調査委員会の軍用鳩)を三つの籠に入れて背負い、これを報道に利用したという。 また、同記事によると、鳩舎を有している新聞社の中では火災を免れた社もあり、鳩の絶大な恩恵を受けたそうである。 ☆補足四 帝国在郷軍人会熊谷支部『震災特別号 支部報』(大正十二年十一月一日 第七十九回 十一月号)に、以下の記述がある(引用分は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
この鳩こそ震災第一番の殊勲者あろう、との一文は見逃せない。通信機関がまひする中、鳩がいかに重要な役目を果たしたか、それがよく分かる。 ☆補足五 機械的通信機関が復旧するまでの十七日間、横須賀海軍航空隊の軍鳩が諸通信に従事する。鎌倉方面三十三回、東京方面三十五回、葉山方面六回、金沢方面六回、千葉方面二回、飛行機より五回の総通信数八十七回。 同じく、海軍砲術学校の軍鳩も、機械的通信機関が復旧するまでの間をつなぐ。戒厳地区内各地からの救護作業の報告や、その他の重要な諸通信を担う。 同じく、一等海防艦・春日(横浜港停泊中)の軍鳩も、通信連絡を保持し、円滑、適切な救護作業の実施に寄与する。『軍艦春日震災関係報告』によると、長文の信号は手旗より伝書鳩の方が迅速確実で、二〇〇字の手旗信号は一箇所の中継所を経由して約十五分を要するが、鳩は大抵、十分以内に到達するという。 同じく、特務艦・高崎(横須賀停泊中)の軍鳩も、乗組士官の家族の被害状況を伝え、救護作業の報告をおこなう。また、関東大震災後、特務艦・高崎は、呉、青森、宮古の各地に寄港し、被災地に送る救護材料を積み込んでいるが、その状況報告を同艦の軍鳩がおこなっている。 ☆補足六 山階宮武彦王は、横須賀海軍航空隊で執務中(当時中尉)、この未曾有の震災に遭い、直ちに同隊鳩舎の軍鳩数羽を携行して由比ケ浜別邸に車を飛ばす。 爾後両三日間、軍鳩通信によって被災状況を報告する。 ☆補足七 震災当時、各地の被害状況などを伝えた陸軍の軍用鳩のうち、約五パーセントが信書管を落として、通信不達を起こしたという。これは軍用鳩の失踪率より高かった。 その後、作成された教範――例えば、『諸兵通信法教範草案』に、
と、書かれているが、以上の経緯を踏まえてこれを読むと、その切実の度合いがよく分かる。 ☆補足八 北京~天津間の通信を確保しておくための補助として、今月上旬、支那駐屯軍に軍用鳩一二〇羽、移動鳩車一両、付属通信器材を保管転換する予定だったが、関東大震災の発生を受けて、配属を一時見合わせる。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695400、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695500、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03011892200、永存書類乙集第2類第5冊 大正12年(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14110926000、熊谷連隊区司令部歴史 2/2 大正12.9.4~12.12.15(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08051005100、大正12年 公文備考 変災災害付属 巻7(防衛省防衛研究所)」 『伝書鳩』 岩田 巌/科学知識普及会 『愛鳩の友』(昭和四十六年九月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十八年十二月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十九年一月号) 愛鳩の友社 『普鳩』(昭和十七年六月号) 中央普鳩会本部 『諸兵通信法教範草案』 成武堂 |
関東大震災の発生を受けて、九月二日、臨時鳩隊(山本中佐以下、将校、下士、兵、雇員、傭人の八十三名、固定鳩一三〇〇羽、移動鳩七〇〇羽、固定鳩舎十、移動鳩車十八)が編成される。 臨時鳩隊は関東戒厳司令部の隷下に入り、遠距離通信を主眼として、交通・通信機関が途絶した各地との連絡に当たる。 ☆補足一 上記の臨時鳩隊の編成は、武知彦栄『鴿の飼い方』所載の「帝都大震火災ニ於ケル軍用鳩通信活動概況図」(軍用鳩調査委員・木場中尉調製)の記述に基づくが、別史料では鳩舎の数などが、やや異なる。 例えば、偕行社『偕行社記事 震災号』(第五八九号)に、以下のように載っている(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、読点を補ったりしている)
また、軍用鳩調査委員『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』に、以下のように載っている。
最後に、黒岩比佐子『伝書鳩 もうひとつのIT』の記述を以下に引用するが、臨時鳩隊の人員を「八百八十名」と記しているのは誤りで、正しくは、「八十三名」である。 「帝都大震火災ニ於ケル軍用鳩通信活動概況図」(軍用鳩調査委員・木場中尉調製。武知彦栄『鴿の飼い方』所載)の記述を、黒岩が読み間違えたものと思われる。
ちなみに、武知彦栄『鴿の飼い方』所載の「帝都大震火災ニ於ケル軍用鳩通信活動概況図」は、印刷の関係から非常に読みづらい。これが黒岩のミスを誘ったと考えられる。 ☆補足二 九月二日の早朝より陸軍工兵学校が出動し、赤坂御所の外柵修理、一つ橋と俎橋の架橋、主な交通路の整理等に当たる。この間、随意の地点から鳩通信を実施し、器具材料の補給、運搬工事の概況報告、人馬の整理増減の打ち合わせ、工事図面の布達、糧秣被服の輸送などに寄与する。 続いて、午前九時三十分横須賀発、午前十時三十分東京着の鳩通信を紹介しよう。 内容は、以下のとおり(『愛鳩の友』〔昭和三十七年十月号〕より引用)
正午頃、脚に油紙を巻きつけられた鳩が東京憲兵隊に帰着する。この鳩は関東大震災の発生前、訓練のために甲府付近で放たれていたが、その後、失踪状態にあった個体である。 この鳩が伝えた通信は、以下のとおり(『愛鳩の友』〔昭和三十七年十月号〕より引用)
午後零時二十分、安満欽一航空部長は、所沢の上原平太郎航空学校長宛てに、以下の鳩通信を陸軍省より中野に発信する(『愛鳩の友』〔昭和三十七年十月号〕より引用)
午後零時四十分、上記の鳩通信が中野の軍用鳩調査委員会鳩舎に到着し、ただちに所沢の陸軍航空学校に伝達される。 そして、○○通信により、同校から以下の返信がある(『愛鳩の友』〔昭和三十七年十月号〕より引用)
☆補足三 この日、井崎於菟彦中尉は、助手の兵を伴い、数十羽の軍用鳩とともに軍用トラックに乗って、日光田母沢御用邸に向かう。しかし、道路は避難民でごった返していて、先に進めない。「この騒ぎに自動車なんかに乗ってやがるのは誰だッ」「この非常の時に軍人だけが悠々と車で避難するとは何事か」などと罵声まで浴びる。 井崎には日光田母沢御用邸での鳩通信主任という大役があるので、軍用トラックの上に乗って、こう声を張り上げる。「日光の天子さまの処へ至急参る者だ。どうか通してくれ」。たちまち、避難民が道を譲ってくれる。その代わりに井崎は、けが人や老人、子供をできるだけ軍用トラックに乗せて、安全な場所まで送り届ける。頭部に包帯を巻いた老女が手を合わせて井崎に礼を言う。 その後、井崎らは、埼玉県の川口までやってくる。しかし、地割れのために、これ以上は軍用トラックで進めない。仕方がないので、川口から汽車に乗る。車内にはたくさんの負傷者がいて、石炭の乗った車両の上や汽車の横にまで人があふれている。 宇都宮に到着すると、線路故障のためにこれ以上は進行不能とのことで、井崎らはここで降車し、県庁に向かう。県庁で自動車の手配を願うと、一台のフォードを用意してくれる。ただし、三十五円の料金を取られる。中尉の給料でこの額は厳しい。 真夜中に日光田母沢御用邸に到着する。宮内官がちょうちんを振って出迎えてくれる。通信機関が途絶していて東京の情報が全く入ってこないことから、個々の宮内官の安否や、やれ麹町はどうの、やれ向島はどうの、と各地の様子について質問が飛ぶ。しかし、井崎にしても、東京が火の海になっていることしか分からず、どうにも答えようがなかった。 *井崎はこのときの体験を幾つかの記事に残しているが、これを照らし合わせて読むと矛盾点が多い。参考として、以下にまとめておく。 ①「大震災と伝書鳩」(昭和三十二年十月号『文芸春秋』掲載) ②「鳩と貞明皇后』(昭和四十五年九月号『愛鳩の友』掲載) ③「鳩のお手柄 関東大震災(その二) ――日光御用邸奉仕の鳩通信――」(昭和四十六年十月号『愛鳩の友』掲載) ④「震災記念日を迎え 貞明皇后さまを偲び奉る」(昭和四十八年十二月号『愛鳩の友』掲載) ■出発時刻 ①九月二日の午後 ②九月二日の未明 ③九月二日の早朝 ④記載なし ■鳩数および器材など ①鳩三十羽と飼料等 ②分解組立式鳩舎に鳩三十羽を収容し、さらに中野電信連隊の一角にある軍用鳩舎の鳩五十羽を加える ③優秀な固定鳩五十羽、組立式移動鳩舎二台、飼料や通信器材(③によると、トラック二台で鳩や鳩車などを運んだという。一方、①②④には車の台数は記されておらず、普通にこれを読むと車一台のように受け取れる。詳細不明) ④鳩と通信器材 ■井崎に付き添った兵の数 ①一名 ②二名 ③四名 ④助手と兵三名(計四名と理解してもよいが、助手というのは民間人〔嘱託、雇員、傭人など〕かもしれない) ☆補足四 朝鮮人が各地を徘徊して放火し、または爆弾を投ずる者あり、などと、うわさが広まっていたこの日、ジョン万次郎の息子で医師の中浜東一郎は、中野の軍用鳩調査委員事務所の岩田 巌少佐を訪ねて、協力を願う。 岩田は、中浜の願いを承諾し、連隊に相談すると言って出て行く。そして、その夜、六、七名の兵を出して警戒してくれる。 九月四日、中浜は岩田宅を訪問し、岩田に礼を述べる。 ☆補足五 大日本雄弁会講談社『大正大震災大火災』(関東大震災の発生からわずか一ヶ月後の大正十二年十月一日発行)に、臨時鳩隊の活動(九月一日~同月七日まで)が記録されている。 以下に引用しよう。
☆補足六 非常時とあって軍用鳩が通信用として一般市民に貸し出される。 臨時軍用鳩係は、以下のように一般市民に報知したという(『東京朝日新聞』〔大正十二年九月十三日付〕より引用)
☆補足七 岩田 巌『伝書鳩』に、関東大震災発生当時のあるエピソードが載っている。 以下に引用しよう(一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『大正大震災大火災』 大日本雄弁会講談社 『鴿の飼い方』 武知彦栄/内外出版 『偕行社記事 震災号』(第五八九号) 偕行社 『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 『愛鳩の友』(昭和三十七年十月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十五年九月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十八年十二月号) 愛鳩の友社 『文芸春秋』(昭和三十二年十月号) 文芸春秋新社 『中浜東一郎日記』(第四巻) 中浜東一郎/冨山房 『東京朝日新聞』(大正十二年九月十三日付) 東京朝日新聞社 『伝書鳩』 岩田 巌/科学知識普及会 『伝書鳩 もうひとつのIT』 黒岩比佐子/文芸春秋 |
この日の朝、鳩通信主任として日光田母沢御用邸にやってきた井崎於菟彦中尉が貞明皇后に謁見する。あいにく、大正天皇は病の床にあるので、内儀(貞明皇后)で全ての折衝をする。 井崎が貞明皇后に最敬礼すると、貞明皇后のそばに控えている女官三名のうちの一人が、着席するように井崎をうながす。 いすに腰かけた井崎は、肝を据えて、まず陛下が安泰であることを喜ぶ辞を述べ、その後、鉛筆書きのメモを手に二、三十分ほど、中野から日光にやってくる間に実見した惨状を報告する。貞明皇后は、「此度は御苦労であった、家族には別候はないか又住いはどこか」「鳩は一雄一雌、極めて節操正しい鳥である由聞き及ぶが、此度通信の為とは申せ日光と東京とに仲のよい夫婦を別々にさせるのは何としても可哀想である」「鳥の飼育には、飲料水は大切の旧であるが、日光と東京では、水質も相違するであろうが、差支はないか」などと述べて、井崎の話に逐一うなずき、ときには目にハンカチを当てる。 このときのやり取りが、『愛鳩の友』(昭和四十五年九月号)に掲載された記事「鳩と貞明皇后様」(作・井崎乙比古)に載っている。 以下に引用しよう。
その後、井崎が宿舎に戻ると、ガラスの丼に入った山盛りのアイスクリームが大膳職から届けられる。お上からのおぼしめしだという。 井崎は、助手の兵と一緒にアイスクリームを食べる。また、井崎の亡父の霊前にも供える。任務を果たした安堵感もあって、アイスクリームが実においしい。 後年、井崎は、欧州出張の折にパリで世界一と評判のアイスクリームを口にするが、このときに食べたアイスクリームには及ぶべくもないと回想している。 *昭和三十二年十月号の『文芸春秋』に掲載された記事「大震災と伝書鳩」(作・井崎於菟彦)の記述に従って、九月三日の朝、井崎は貞明皇后に謁見し、関東大震災の惨状を報告した、と記す。しかし、昭和四十六年十月号の『愛鳩の友』に掲載された記事「鳩のお手柄 関東大震災(その二) ――日光御用邸奉仕の鳩通信――」(作・井崎乙比古)によると、井崎は、皇后宮大夫・大森鍾一から「まず何よりさきに、皇后陛下に拝謁して、東京の実況を言上せられたい」との要望を受けて、二日の真夜中か三日の未明頃に貞明皇后に謁見し、関東大震災の惨状を報告したようである。 貞明皇后としては一刻も早く東京の状況を把握したいと思うはずなので、二日の真夜中か三日の未明頃に井崎から報告を受けた、とする方が納得がゆく。しかし、そうはいっても、夜遅いので、翌朝に報告を受けた可能性も充分に考えられる。 詳細不明。 ☆補足一 そのうち、東京から追送の鳩通信材料が届き、鳩の訓練ができるようになる。 ある日、その訓練の様子を貞明皇后が見学に来る。一緒に、皇后宮大夫・大森鍾一をはじめ、侍従女官ら数名もやってくる。しかし、貞明皇后の御前だというのに、鳩がくちばしを重ねて接吻しはじめるので、説明役の井崎が狼狽する。女官の中には顔を赤くしている者もいる。 井崎が緊張でコチコチになっていると、大森が耳元で、こう言う。「井崎君、今日は、皇后陛下などと思わないで、九条さんの娘だと思って、遠慮なくおやんなさい」(貞明皇后の旧名は九条節子。九条道孝の娘)。この言葉を聞いた井崎は、宮内官にしては大層さばけた人だと思い、少しだけ気を取り直す。 井崎は伝書鳩の育成や訓練について解説し、鳩の貞操は正しく、夫婦は仲睦まじいと述べる。すると、大森が「そうですかア、鳩は間男をしませんかい」と大きな声で言う。貞明皇后の耳に入ったに違いないと井崎は思ったという。 『愛鳩の友』(昭和四十五年九月号)に掲載された記事「鳩と貞明皇后様」(作・井崎乙比古)に、このときの様子が載っている。 以下に引用しよう。
*昭和四十六年十一月号の『愛鳩の友』に掲載された記事「日光御用邸奉仕の鳩通信」(作・井崎乙比古)によると、このときは貞明皇后のほかに大正天皇も放鳩の実況を見学したという。「今日は天皇陛下の御気さきもおよろしい」とのことである。しかし、当時の様子を記した、井崎の他の史料に、大正天皇の台臨に関する記述が見当たらない。かなり不自然なので、この大正天皇の台臨は、井崎の記憶違いのように思われる。 ☆補足二 この当時、貞明皇后以外にも、秩父宮雍仁親王や、学習院の制服を着た幼少の澄宮(後の三笠宮崇仁親王)が日光にある移動鳩車やその訓練の様子を見学している。 後に、三笠宮崇仁親王の御殿に鳩舎が設置されるが、その際、井崎に命が下り、井崎が二十羽入りの鳩舎を設計している。 大東亜戦争後も、三笠宮崇仁親王と井崎の交流は続き、鳩の昔話をして当時を振り返ったという。 ☆補足三 昭和四十六年十一月号の『愛鳩の友』に掲載された記事「日光御用邸奉仕の鳩通信」(作・井崎乙比古)によると、足尾銅山で働いている一部の朝鮮人が日光田母沢御用邸の襲撃を企てているとの流言が日光の町に流れ、当時、日光田母沢御用邸の警備に当たっていた井崎の友人・東宮中尉(近衛師団より一個小隊を引率)は、職掌柄、これを捨て置けないので、憲兵と警備兵とで極秘裏にこのうわさの根拠を探る計画を立てたという。そして、変装した勤務者が、随時、随所より鳩通信できるように、井崎にその協力を依頼し、井崎はこれを快諾したそうである。 結局、朝鮮人の陰謀は、井崎が貸し出した軍用鳩の活躍などもあって、未然に防止されたようである。井崎はこのことについて、殊勲の鳩と申さねばならぬ、とその愛鳩を褒めたたえている。 ちなみに、東宮中尉という人物が誰なのか、はっきりしない。近衛師団とあるところから、満蒙開拓移民を推進した東宮鉄男(最終階級、陸軍大佐)ではないかと筆者(私)は思ったが、確証がない。 ☆補足四 井崎らの日光田母沢御用邸での活動は九月二十日までで、その後、交代者に業務を引き継いで東京に戻る。その際、井崎らはそれぞれ金一封を賜る。井崎はこの褒美を使って、後年のドイツ視察の際に、ヴェルトハイム百貨店で懐中時計(二十円)を購入する。しかし、終戦後の満州引き揚げの際に、ソ連兵に奪われてしまう。 敗戦国たる日本人に対し一個人の財物を公然と掠奪するその行為は全く人間ではなく獣である、と井崎は戦後、その怒りを記事に記している(昭和四十六年十一月号の『愛鳩の友』に掲載された記事「日光御用邸奉仕の鳩通信」) 参考文献 『文芸春秋』(昭和三十二年十月号) 文芸春秋新社 『愛鳩の友』(昭和三十六年三月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十五年九月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十六年十月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十六年十一月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十六年十二月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十七年八月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十八年十二月号) 愛鳩の友社 |
日光の桑田安三郎侍従武官から、東京の奈良武次侍従武官長宛てに、以下の鳩通信が届く(『愛鳩の友』〔昭和三十七年十月号〕より引用)
関東大震災発生当時、日光田母沢御用邸に避暑中であった大正天皇および貞明皇后の安否が不確かだったが、この鳩通信によって無事であることが伝わる。 ☆補足 『愛鳩の友』(昭和四十五年九月号)に掲載された記事「鳩と貞明皇后様」(作・井崎乙比古)に、以下の記述がある。
軍用鳩関係の書物や雑誌記事の中には、伝書鳩の活躍によって、大正天皇と貞明皇后の安否が明らかになった、としているものがある。しかし、上記の引用文によると、すでに飛行機の連絡によって、大正天皇と貞明皇后の無事が東京に伝わっていたようである。 大正大学『大正大学研究紀要』(第九十七集)に掲載された論文「関東大震災と貞明皇后」(作・堀口 修)にも、同様のことが記してある。 同論文によると、九月三日に日光田母沢御用邸の上空に飛行機が飛来して幾つかの通信筒を投下し、これにより摂政の無事が確認されたという。また、地上でも大きな日の丸を左右に振ったので、飛行士がその意味を理解したともいう。つまり、九月三日の段階で大正天皇と貞明皇后の無事が判明していることになる。 軍用鳩関係の書物や雑誌記事の中に見られる、伝書鳩の活躍によって、大正天皇と貞明皇后の安否が明らかになった、うんぬん、という記述は、文書による通報としては九月四日の伝書鳩通信が最初である、という意味であるように考えられる。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十七年十月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十五年九月号) 愛鳩の友社 『大正大学研究紀要』(第九十七集) 大正大学 |
早朝、熱海から放鳩された鳩が東京の戒厳司令部に、以下の通信を届ける(『愛鳩の友』〔昭和三十七年十月号〕より引用)
☆補足 本日以後、臨時鳩隊の分遣鳩班が二十三組に達し、毎日、一〇〇以上の通信を取り扱う。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十七年十月号) 愛鳩の友社 |
九月七日、東京~神奈川間の往復通信に資するため、臨時鳩隊は鳩車二両を横浜(高島山の警備司令部)に送り、そこで訓練を開始する。 九月十一日、通信任務に就き、東京、横須賀、藤沢方面との連絡に当たる。当初は一日平均一〇〇通の通信を送達する。 九月十五日、電信、電話の一部が開通するが、なお三十通の通信を送達する。 ☆補足一 科学知識普及会『科学知識』(第十一巻第七号)に掲載された記事「軍用鳩伝書鳩の新傾向」(作・井崎於菟彦)によると、関東大震災の際、当時試験中だった小型鳩車の活動を目にしたアメリカの武官が、これを称賛し、その後、アメリカ軍は二十羽入りの小型鳩車を制定したという。 第一次世界大戦中の鳩車は、バスのように大きかった(実際、バス型鳩車がある)。日本陸軍はこれに改良を加え、独特の四十羽入りの小型鳩車を試作し、その鳩車訓練法も日本式に発展させる。しかし、これでもまだ、鳩車が大きかったため、歩兵用鳩車と銘打った、十四羽入りの小型鳩車(瀬谷式歩兵用鳩車)をさらに生み出す。 日本陸軍の鳩車は四十羽を定数とし、新位置到達後、二十四時間で五キロ圏内の通信が可能だった。 大型のものを小型化する技術に日本は定評があるが、軍用鳩の世界でもその定評に違わぬ成果を挙げる。 ☆補足二 「補足一」に続いて、日本陸軍の小型鳩車について述べる。 関東大震災が発生すると、乳母車を少し大きくした程度の小型鳩車を参謀本部の玄関に設置し、各地との通信に当たる。これが外国駐在武官の一団の目にとまり、大いに感心される。 フランスの鳩術教官が持ち込んだ鳩舎は、乗合バスほどの大きさがあり、舗装の行き届いた欧州ならともかく、日本の田舎道では使いものにならなかった。また、板倉陽之助によると、フランス式は製作費が高くつき、鳩の入舎が悪いという不便があったという。 この小型鳩車が誕生した当時、ルネ・クレルカン砲兵中尉はお冠で、「そんな小さな車では役に立たぬ」と言う。しかし、井崎於菟彦ら軍用鳩調査委員は、「いや、日本軍の実状から、是非作る」と言って譲らない。相当、議論を重ねるが、結局、採用することに決まる。日本陸軍独特の小型鳩車は金もかからず、移動にも便利で、鳩手が熱心に訓練すれば鳩の帰還率も悪くなかった。そうして、小型鳩車が採用された後、関東大震災が発生して、小型鳩車が存分に活動する。 さて、井崎は後年、鳩視察のために欧州を訪れているが、そのとき、ドイツ軍の鳩隊でジュラルミン製の小型鳩車を目にする。分解式になっていて、馬で搬送できるようになっている。アルプスでの山岳作戦を考えてのことだという。 その日の夕食時、ドイツの軍人が「あれは、貴国の歩兵鳩舎が御手本です」と井崎に言う。井崎はとても喜んで、帰国後にこのことを報告書に特筆する。これが上原勇作元帥の目を引き、「それは面白い。歩兵鳩舎は誰の考案か」と、上原が疑問を口にする。 その疑問の答えは、当時の軍用鳩調査委員・瀬谷 啓大尉(最終階級、陸軍中将。シベリア抑留により命を落とす)である。瀬谷は鳩通信の日本化の功労者で、彼が生み出した瀬谷式歩兵用鳩車は、その後、馬二頭の駄載式に改良され、駄馬二頭で軽快に運べるようになる。 参考文献 『横浜復興録』 小池徳久/横浜復興録編纂所 『偕行社記事 震災号』(第五八九号) 偕行社 『科学知識』(第十一巻第七号) 科学知識普及会 『愛鳩の友』(昭和三十二年五月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十三年二月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十五年九月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友創刊50年 半世紀の歩みを綴る永久保存版』 愛鳩の友社 |
午後一時、ソ連船・レーニン号が横浜港に入港する。同船は救援物資を搭載し、また医師をはじめとする医療従事者を乗せている。しかし、震災救援の名目で革命宣伝をおこなうたくらみがあると見られ、関東戒厳司令部は同船に対し、九月十四日午前十時までに退去するように命じる。 この「レーニン号事件」について、東北鳩協会青森支部『伝書鳩』に掲載された記事「伝書鳩の人生に対する利益」(作・和田千蔵)に、以下の記述がある。
この一文しか載っていないので、具体的にどのように伝書鳩がレーニン号に退去命令をもたらしたのか分からない。 参考文献 『大阪朝日新聞』(大正十二年九月十五日付。夕刊) 大阪朝日新聞社 『伝書鳩』 東北鳩協会青森支部 『関東大震災』 吉村 昭/文芸春秋 |
この日をもって、井崎於菟彦中尉らの日光田母沢御用邸での鳩通信任務が終了する。 その後、井崎らは、他の委員に業務を引き継いで、東京に戻る。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和四十六年十二月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十八年十二月号) 愛鳩の友社 |
本日より今月末まで、朝鮮の釜山において、朝鮮水産共進会が開催される。 農業と並ぶ、朝鮮の有力産業である水産業を、この催しによって、内外に力強く宣伝する。出品点数は約一万三〇〇〇点にのぼり、その内訳は、朝鮮から一万点あまり、内地および新領土から三〇〇〇点あまり、である。 四つある会場のうち第一会場に、福岡水産試験場の伝書鳩を展示する。 参考文献 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 水産物(2-059) 京城日報 1923.10.10 (大正12) |
横須賀海軍航空隊軍用鳩研究員の西久保蔵六一等水兵が満期除隊に際して、「海軍軍鳩速力一覧表」を作成し、提出する。 冒頭の一文は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050810900、大正12年 公文備考 巻68 航空(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050810900、大正12年 公文備考 巻68 航空(防衛省防衛研究所)」 |
十一月上旬に欧米各国に出張する高橋寿太郎大佐に対し、海軍大臣が以下のように訓令する(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050882700、大正12年 公文備考 巻106 兵員(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050882700、大正12年 公文備考 巻106 兵員(防衛省防衛研究所)」 |
特務艦・高崎から喜多山省三大尉が離艦する。しかし、鳩や係員はそのまま残り、軍鳩研究を続ける。 ☆補足 海軍省『軍鳩研究報告』の記述に従って、「大正十二年十月」としたが、横須賀防備隊軍鳩実験研究部『軍鳩月報』(第十七号)には、「大正十二年十二月」と載っている。 どちらの記述が正しいのか不明。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695700、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023923700、公文備考 昭和9年 Q 通信、交通、気象、時 巻2(防衛省防衛研究所)」 |
現時点でのアメリカ海軍における軍鳩数、八二五羽(アメリカ駐在大使館付海軍武官調査) 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696300、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 |
関東大震災の発生により設置されていた関東戒厳司令部が廃止される。 臨時鳩隊は、戒厳勤務終了まで通信連絡に任じ、関東戒厳司令官・山梨半造大将の功績確認書をはじめ、十数通の賞状と感謝状を授与される。 臨時鳩隊に関する報道は国内にとどまらず、海外雑誌においても伝えられ、称賛される。 なお、臨時鳩隊の通信数は、二七〇〇有余通に達する。 ☆補足一 武知彦栄『鴿の飼い方』に、臨時鳩隊の通信数が約一〇〇〇通と載っているが、これは関東大震災が発生した月(九月中)の通信数だと思われる。誤解を招くといけないので、全期間の通信数ではないことをここに述べておく。 また、科学新興社『通信青年』(昭和十八年八月号)に掲載された記事「軍鳩通信」(作・山内豊凱)に、臨時鳩隊の通信数が二万二七〇〇余通と載っているが、上述した数値(二七〇〇有余通。『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』所載)と桁が違っている。 詳細不明。 ☆補足二 武知彦栄『鴿の飼い方』に収録されている、関東大震災関係の二枚の図版について、黒岩比佐子はその著書『伝書鳩 もうひとつのIT』で言及しているが、その図版名が二枚とも間違っている。 以下に訂正しておく(左が誤り〔黒岩比佐子『伝書鳩 もうひとつのIT』〕、右が正しい名称〔武知彦栄『鴿の飼い方』〕) 「大震災軍用鳩通信活動概況図」 → 「帝都大震火災ニ於ケル軍用鳩通信活動概況図」 「戒厳区域鳩通信網概況図」 → 「戒厳区域内鳩通信網概況図」 参考文献 『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 『鴿の飼い方』 武知彦栄/内外出版 『伝書鳩 もうひとつのIT』 黒岩比佐子/文芸春秋 『通信青年』(昭和十八年八月号) 科学新興社 『伝書鳩』 岩田 巌/科学知識普及会 |
関東大震災で軍用鳩が活躍したことから、大阪城内天守台西側の空き地で軍用鳩が飼養されることになる。 この日、第四師団の軍用鳩通信班は下士卒の移動宿舎三戸を組み立て、三台の鳩車を配置する。 参考文献 『大阪朝日新聞』(大正十二年十一月二十七日付) 大阪朝日新聞社 |
横須賀海軍航空隊が「失踪軍用鳩ニ関スル件」を関係各所に通知する。これは、失踪鳩を見つけたときにはそのことを所属部隊に知らせてほしい旨の要請である。 以下にその内容を引用しよう(海軍大臣官房『海軍制度沿革』(巻十五)より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、空行を入れたり、文字の表記を改めたりしている。また、表記できない文字には〓を代入し、その後ろに説明文を付してある)
参考文献 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 |
横須賀海軍航空隊の十二号汽艇が軍鳩の飼養を廃止する。 艦上鳩の特質、定地固着性、および移動訓練法に関し、艦上鳩の訓練上必要となる多くの暗示を得る。 飼養していた軍鳩は、航空母艦・若宮に移管する。 ☆補足一 飼養期間における編成は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695700、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナをひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足二 海軍省『軍鳩研究報告』の記述に従って、軍鳩飼養の廃止月を「十一月」と記す。しかし、水交社『水交社記事』(第二六六号)に掲載された記事「軍鳩(伝書鳩)」(作・内藤啓一)と、海軍大臣官房『海軍制度沿革』(巻十五)には、軍鳩飼養の廃止月が「十二月」と載っている。 どちらの記述が正しいのか不明。 参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695400、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695700、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 |
この月のある日、喜多山省三大尉が横須賀海軍航空隊鳩舎で勤務していると、「博忠王殿下本日午後貴邸へならせらる」と海軍水雷学校から電話がある。華頂宮博忠王の目的は喜多山家(田浦町榎戸)の鳩舎見学であろうが、一介の大尉宅への宮様訪問とあって喜多山は驚き、光栄に思う。横須賀海軍航空隊司令も、「それはおめでたい、早速帰宅してお迎えの準備遺漏なくせよ」と言って、喜多山を祝す。 午後二時頃、喜多山家の門前で家族全員が待機していると、坂下で自転車を下り、手でそれを押して上ってくる博忠王の姿が見える。また、御付武官の少佐が汗を拭きながらその後に続く。 喜多山はまず、博忠王を鳩舎に案内し、喜多山の四歳になる長男に赤旗(鳩に飛翔を強制するための旗)を持たせて、舎外飛翔を展示する。座敷では、軍鳩の飼育や訓練、艦上鳩舎の苦心などについて博忠王に話す。また、喜多山は、軍鳩に関する写真数十枚を博忠王に記念品として贈る。 夕暮れどき、喜多山は、博忠王の帰宅を見送る。 ☆補足 その後、喜多山はしばしば、海軍水雷学校を訪ねて、博忠王(当時、水雷学校の学生。少尉)に面会し、東京の邸宅に鳩舎を建てた、等々の話を陪聴する。しかし、その翌年の一九二四(大正十三)年三月十九日、博忠王は病没し、三月二十四日にその薨去がおおやけに知らされる。 喜多山は、博忠王の葬儀に出席しているが、その薨去について、こう思ったという(中央普鳩会本部『普鳩』〔昭和十七年六月号〕より引用)
参考文献 『普鳩』(昭和十七年六月号) 中央普鳩会本部 |
海軍大臣官房から各庁宛てに、「軍用鳩定期通信ノ件」が通牒される。 これは、一九二三(大正十二)年十二月一日~一九二四(大正十三)年三月三十一日まで、海軍省~横須賀海軍航空隊間における軍用鳩定期通信の開始を告げるものである。 通牒の内容は、以下のとおり(海軍大臣官房『海軍制度沿革』〔巻十五〕より引用。一部、カタカナをひらがなに改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 |
午後九時頃、代々木練兵場にある軍用鳩調査委員会の掘っ立て小屋に、二十代の青年が飛び込んできて、「銃殺してくれ」と苦しみながら叫ぶ。久保田軍曹が青年を調べると塩酸を飲んで自殺を計ったことが判明する。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十二年十二月七日付) 東京朝日新聞社 |
久邇宮良子女王は、その父母宮や久邇宮邦英王などとともに千葉を行啓する。そして、陸軍歩兵学校(千葉)において、軍用鳩の演習を見学する。 歩兵学校では、久邇宮良子女王の行啓を記念して、五羽の軍用鳩を久邇宮邸への使者に立てる。 このとき、久邇宮邦英王は、以下の通信文(『読売新聞』〔大正十二年十二月二十六日付〕より引用)を鳩に託し、飛んでいくそれらの使者に、 「ご苦労様」 と、声をかけて喜ぶ。
*久邇宮良子女王は後の香淳皇后(昭和天皇の皇后) ☆補足一 『東京朝日新聞』(大正十一年六月二十一日付)の記事によると、久邇宮良子女王は二年ほど前から十羽ほどの伝書鳩を邸内で飼っていて、一度、中野から御邸まで通信実験をしたという。 また、『東京朝日新聞』(大正十二年十二月二十九日付。夕刊)の記事によると、久邇宮良子女王は朝、飼育している伝書鳩に自ら餌を与えるそうである。 ☆補足二 小野賢一郎『話術覚書』に、以下の記述がある(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
『愛鳩の友』(昭和三十二年五月号)に掲載された記事「爐辺鳩談」(作・井崎乙比古)に、これとよく似た話が載っている。 同記事によると、暴風雨の夜に久邇宮良子女王が寝所を抜け出したので、「このひどい雨風の夜どこにおいで遊ばしましたか」と側近が問う。すると、久邇宮良子女王は笑いながら、「鳩舎の扉が、バタバタと音をたてている。巣房には卵を抱いている二番がいるはず、戸を閉めに行きました」と答えたという。 参考文献 『読売新聞』(大正十二年十二月二十六日付) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(大正十一年六月二十一日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(大正十二年十二月二十九日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『話術覚書』 小野賢一郎/宝雲舎 『愛鳩の友』(昭和三十二年五月号) 愛鳩の友社 |
航空母艦・若宮の所属が佐世保に変わる。また、従来の貧弱だった艦上鳩舎を廃して、八十羽入分解式艦上鳩舎を新たに設置する。これは軍鳩の飼養を廃止していた十二号汽艇から譲り受けたもので、このとき、同艇で飼養されていた軍鳩も併せて受領する。これにより、航空母艦・若宮の鳩数は七十羽となる。 ☆補足 海軍航空本部『海軍航空沿革史』に、航空母艦・若宮の艦上鳩舎撤廃の日付が「大正十二年十二月」と載っているが、これは上述の鳩舎替えの件を取り違えたものと思われる(誤記) 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695700、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 |
横須賀海軍航空隊軍鳩主任・喜多山省三大尉によると、当時、同隊付の中尉だった山階宮武彦王は軍鳩に多大な関心を持ち、東京湾でおこなわれる艇上鳩舎の訓練にたびたび同船したという。 また、喜多山が読みたい外国の鳩書の主要部分を翻訳して軍鳩研究の便宜を図ったり、休日などは、喜多山の自宅の鳩舎から鳩を持っていって、鎌倉御用邸から信書を付して飛ばし、その消息を知らせたりしたそうである。 参考文献 『普鳩』(昭和十七年六月号) 中央普鳩会本部 |
舞鶴防備隊が軍鳩を飼養しはじめる(開始鳩数、四羽) 参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 |
一九二一(大正十)年九月に、トラック島南洋防備隊から軍鳩と鳩舎が島庁に移管されているが、この年に廃止になる。 参考文献 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 |
同期間中、並河才三獣医指導のもと、下士一名と兵卒一名が、「大型三十号 鳩車」(試験鳩の収容鳩車で固定したもの)と、以下の鳩を用いて、能力試験を実施する(飼鳥趣味社『趣味の飼鳥』〔大正十四年五月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
鳩の訓練は西方の中央線沿いに延伸して実施し、八月二十一日、まず五〇〇メートルの放鳩から開始する。おおむね、隔日ごとに、一キロ、二キロ、三キロ、五キロ、七キロ、十キロ、二十二キロと放鳩距離を延ばしていく。 能力試験の結果、十キロ以内の近距離であれば、どの鳩も訓練すれば辛うじて通信可能であることが判明する。しかし、十キロ以上の距離になると、仏国鳩以外は到底、通信不可能となり、それらの鳩は将来、軍用として研究する価値なしとの結論が出る。 参考文献 『趣味の飼鳥』(大正十四年五月号) 飼鳥趣味社 |
特務艦・高崎が軍鳩の飼養を廃止する。 飼養していた九十九羽の軍鳩は、巡洋戦艦・金剛に移管する。 ☆補足 飼養期間における編成は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695700、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695700、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 |
巡洋戦艦・金剛が特務艦・高崎から軍鳩を譲り受け、これを飼養しはじめる(開始鳩数、九十九羽) この軍鳩飼養は、第二艦隊司令部の希望により実現し、以後、艦隊旗艦における軍鳩使用の研究が開始される。 なお、特務艦・高崎から巡洋戦艦・金剛には、軍鳩だけでなく、鳩舎や鳩係員もそのまま移転する。 参考文献 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 |
横須賀海軍航空隊司令が海軍大臣宛てに、「伝書鳩寄贈ニ関スル件」(横空第五十三号)を上申する。 今般、横須賀海軍航空隊の軍用鳩係将校が種鳩購入のため大阪市に出張し、大阪好鳩会から優良鳩四十五羽の寄贈を受けるが、富豪好事家の寄り合いであるとして、同会が奉仕的寄付の意志を表明したことから、相当の金を渡せなかった。そこで、やむなくその篤志を了承して優良鳩を受納した。ついては、この鳩を訓令による軍用鳩研究用に供したい、認許してほしい、との内容である。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08051234600、大正13年 公文備考 巻92 物件止(防衛省防衛研究所)」 |
摂政宮裕仁親王および同妃良子女王が伊勢神宮を参拝する。 大阪毎日新聞社が飛行機と鳩を使って、このときの写真を大阪に送るが、飛行機よりも鳩の方が先に到着する(鳩は大阪好鳩会から十五羽を借り受ける) *摂政宮裕仁親王は後の昭和天皇、良子女王は後の香淳皇后(昭和天皇の皇后) 参考文献 『新聞研究』(昭和五十八年十一月号) 日本新聞協会 『「毎日」の3世紀 新聞が見つめた激流130年』(別巻) 毎日新聞社 |
軍用鳩調査委員会の長谷栄二郎大尉が約六ヶ月間の欧州派遣を命じられ、筥崎丸に乗って神戸港を出帆する。その任務は優良鳩の購入と、フランスおよびベルギーの伝書鳩事情の調査、研究であった。 現地では、かつて鳩術教官として日本に駐在したことのあるルネ・クレルカン砲兵中尉に案内斡旋役を依頼する。 フランス北部の数ヶ所から買いつけた鳩は、輸送準備が整うまでの間、クレルカン邸内のニワトリ運動場に収容する。購入した鳩は全部で一四〇羽あり、その内訳は、日本陸軍用が一〇五羽(雄が五十四羽、雌が五十一羽。そのうち二十二羽がフランス産ではなくベルギー産)で、日本海軍用が三十五羽である。また、必要な付属器材や飼料なども購入する。 鳩は雌雄を分けて十二個の輸送籠に収容し、ノール県オンナンからマルセイユまで汽車で運ぶ。そして、日本郵船の香取丸でマルセイユを出港し、インド洋経由で神戸まで輸送する。 九月一日、神戸に到着、翌九月二日、中野の軍用鳩調査委員会鳩舎に鳩を収容する。 ☆補足一 一九一九(大正八)年二月八日、フランスから一〇〇〇羽の鳩を輸送するために、日本郵船汽船・亜細亜丸がマルセイユを出港する。しかし、翌二月九日、船の動揺のために多数の鳩が食物を嘔吐する。長谷は、このことを耳にしていたので、今回は積み込み前から餌を減らし、出港当日は鳩に絶食させる。 ☆補足二 関口竜雄『鳩と共に七十年』に、以下の記述がある。
*「昭和十三年」とあるが、正しくは、「大正十三年」である。 ☆補足三 小野内泰治『日本鳩界史年表』(補遺)によると、このとき、海軍がフランスから輸入した種鳩三十五羽の系統は、昭和二十年の終戦によって海軍が解体されるまで飼育されていたという。 ☆補足四 中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十七年四月号)に掲載された記事「霊翼気焔(結) ―(その二)―」(作・喜多山省三)によると、海軍はこのとき、外国から鳩を購買した経験がなかったために書類調製でつまずいたという。備品、消耗品、兵器……。鳩がどれに該当するのか分からなかったのだ。日露戦争の記録を調べると、旅順で馬を購入した例が出てきて、厩が備品、馬が付属品だった。そこで、鳩は付属品として購入される。 ちなみに、海軍は明治時代に外国産の鳩を輸入している。その当時の鳩の購買はどうしていたのか、よく分からない。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十七年八月号) 愛鳩の友社 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 『愛鳩の友』(昭和三十六年七月号) 愛鳩の友社 『普鳩』(昭和十七年四月号) 中央普鳩会本部 『普鳩』(昭和十七年八月号) 中央普鳩会本部 『鳩』(三周年記念特別号) 鳩園社 『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695400、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 |
午後二時半、摂政宮裕仁親王および同妃良子女王が京都駅に到着する。それと同時に京都府連合の猟友会がこれを祝って、駅頭で三〇〇羽の伝書鳩を空に放つ。 *摂政宮裕仁親王は後の昭和天皇、良子女王は後の香淳皇后(昭和天皇の皇后) 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十三年二月二十六日付) 東京朝日新聞社 |
制度調査委員が「軍用鳩ニ関スル施設案」(幹事会議案第十四号)を作成する。 内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10073310800、大正13年3月 制度調査に関する書類 共5.其3.幹事会議案(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、空行を入れたりしている。所要経費調書は引用省略)
☆補足 制度調査委員が軍用鳩調査委員会の廃止を検討する。しかし、軍用鳩調査委員会が実際に廃止されるのは、それから十数年たった一九三八(昭和十三)年のことである(軍用鳩調査委員会の業務は陸軍通信学校が引き継ぐ) なお、軍用鳩育成所については、一九三三(昭和八)年に関東軍軍用鳩育成所が、一九三九(昭和十四)年に北支那方面軍鳩育成所および支那派遣軍鳩育成所が、一九四三(昭和十八)年に南方軍鳩育成所が、それぞれ設置されている。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10073310800、大正13年3月 制度調査に関する書類 共5.其3.幹事会議案(防衛省防衛研究所)」 |
横須賀の旧海兵団運動場でマラソン大会が開かれる。 堀内三郎横須賀鎮守府司令長官、平岡参謀長、大谷水雷学校長をはじめ、約二〇〇〇の海軍兵が参加する。走者は一定の一団となって走り出し、その都度、軍鳩が放たれて、ゴールとなる横須賀海軍航空隊に出発時刻を知らせる。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十三年三月十二日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
制度調査委員が「各種調査委員廃止案」を作成する。 内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10073312600、大正13年3月 制度調査に関する書類 共5.其3.幹事会議案(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足 削減経費の合計額の計算が合わない。軍用鳩研究費、自動車研究費、化学兵器研究費、無線電信研究費を全て足すと、「計 五六七、四二二」になる。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10073312600、大正13年3月 制度調査に関する書類 共5.其3.幹事会議案(防衛省防衛研究所)」 |
霞ヶ浦海軍航空隊のエス・エス軟式第三号航空船が、茨城県北相馬郡稲井戸村に差しかかったとき、突如、船体が爆発し、山中に墜落する。この事故により、高橋道夫少佐、片桐雄司大尉、介川与四郎一等兵曹、伊奈中二二等機関兵曹、高橋善三郎三等兵曹、軍鳩二羽が命を落とす。ちなみに二羽の軍鳩は、船体のつり籠の中にいて焼け死んだという。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十三年三月二十日付) 東京朝日新聞社 『取手町郷土史資料集 第二集』 取手町教育委員会 取手町郷土文化財調査研究委員会 『取手市史 通史編Ⅲ』 取手市史編さん委員会/取手市教育委員会 『陸海空ピクトリアル』(昭和四十八年九月号) 盛光社 『世界の翼・別冊 航空70年史―1 ライト兄弟から零戦まで 1900~1940』 朝日新聞社 |
軍用鳩調査委員が『軍用鳩ニ発スル最モ普通ナル疾病ノ診断及治療法ノ研究』を出版する。 目次は、以下のとおり(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている。表紙の題と、目次内の題がやや異なる〔発スル → 発生スル〕)
参考文献 『軍用鳩ニ発スル最モ普通ナル疾病ノ診断及治療法ノ研究』 軍用鳩調査委員 |
同日付の『読売新聞』の記事によると、関東地方における軍用鳩の通信網(往復)がようやく完成したという。 各通信間は、以下のとおり。 本省~中野、中野~横須賀陸軍重砲兵学校、中野~宇都宮第十四師団司令部、中野~教育総監部、中野~千葉陸軍歩兵学校、千葉陸軍歩兵学校~四街道陸軍野戦砲兵学校、千葉陸軍歩兵学校~習志野陸軍騎兵学校。 なお、本省~中野間は、本日より毎日、午前午後各一回、通信を開始する。 参考文献 『読売新聞』(大正十三年四月十五日付) 読売新聞社 |
一等海防艦・春日が軍鳩の飼養を廃止する。 約一年にわたって実用通信を実施し、また、各地でおこなった実験により、貴重な研究成果を得る。 研究終了に伴い、飼養していた軍鳩は、横須賀海軍航空隊に移管する。 ☆補足一 水交社『水交社記事』(第二六六号)に掲載された記事「軍鳩(伝書鳩)」(作・内藤啓一)、海軍大臣官房『海軍制度沿革』(巻十五)、海軍省『艦上鳩舎』の記述(第一章)に従って、軍鳩飼養の廃止月を「四月」と記す。しかし、海軍省『軍鳩研究報告』、海軍省『艦上鳩舎』(第二章)、海軍航空本部『海軍航空沿革史』には、軍鳩飼養の廃止月が「五月」と載っている。 詳細不明。 ☆補足二 飼養期間における編成は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695700、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695400、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695700、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 |
横須賀鎮守府基本演習において、潜水艦と本隊航空機間の通信連絡に軍鳩が使用される。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08051434100、大正14年 公文備考 巻51 航空(防衛省防衛研究所)」 |
東京日日新聞社が軍用鳩調査委員事務所から軍用鳩三十羽の払い下げを受ける。 東京日日新聞社第三代社長・伊東巳代治の四男で、軍用鳩調査委員の伊東四郎大尉が、東京日日新聞社事業部長・小野賢一郎に伝書鳩の飼育を提案し、この払い下げを手配する。また、伊東は人材面においても、部下の田中、山川を東京日日新聞社に送り込む。 こうして、東京日日新聞社での報道用鳩通信が産声を上げる。 なお、東京日日新聞社は、翌年の一九二五(大正十四)年五月にも、軍用鳩調査委員事務所から軍用鳩三十羽の払い下げを受ける。 参考文献 『「毎日」の3世紀 新聞が見つめた激流130年』(別巻) 毎日新聞社 |
軍用鳩調査委員が『軍用鳩検査法』を出版する。 「第一 検査ノ準備並一般ニ就テ」「第二 鳩体検査ノ順序方法」「甲 接触検査」「乙 望観検査」「丙 運動検査」から構成される。 前書きは、以下のとおり(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足 出版年は不明だが、本書と似た内容を取り扱っている、軍用鳩調査委員『軍用鳩ノ審査法』という冊子がある。 目次は、以下のとおり(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『軍用鳩検査法』 軍用鳩調査委員 『軍用鳩ノ審査法』 軍用鳩調査委員 |
欧州滞在中の小熊 捍農学博士は、イタリア大使館付武官・飯田少佐の紹介を受けて、イタリア陸軍省の某中将に面会する。しかし、鳩舎は、フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノの各要塞にあるが、現在、ローマにはないという。そこで、小熊はフィレンツェに向かうが、今度はそれと行き違いに、イタリア要塞の鳩は全てローマに集められた、と飯田が手紙で知らせてくる。 翌年の一九二五(大正十四)年一月、小熊は再びローマに行き、ようやく鳩舎を見学する。 参考文献 『鳩』(第三年八月号) 鳩園社 |
陸軍大臣の命令により、各師団および学校に鳩が配属され、平時・非常時における補助通信機関として、一部の鳩が準備される。 ☆補足 一般的に軍用鳩は補助通信機関として用いられるが、喜多山省三中佐は、この認識に異を唱える。中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十七年二月号)に掲載された記事「霊翼気焔(結)」(作・喜多山省三)において、喜多山はおおよそ、以下のようなことを述べる。 無線・有線そのほか電気的機械的通信機関に対して軍鳩通信は劣っているわけではない。各種の通信機関にはそれぞれ長所と短所があり、互いに補い合って運用されるのが通信の常である。ときには軍鳩通信が主で他通信が従の場合もあり、軍鳩通信を刺身のツマのように侮るのは、その発達と普及に悪い影響を与える。 往年、陸軍の軍用鳩調査委員会が軍用鳩係の将校を各師団に募るが、送られてきた者のほとんどに胸部疾患があり、その顔色は青ざめていた。軍用鳩調査委員会は大いに弱ってしまい、結局、比較的健康だった一部の者だけが軍用鳩修業を終える。姥捨山として、軍用鳩調査委員会に人員が放逐された疑いがあった。 この姥捨山の問題とは異なるが、軍人の健康問題が軍鳩研究に影を落としている。海軍軍鳩の祖述者で、ルネ・クレルカン中尉にも称賛された武知彦栄大尉は、軍鳩研究の中途で健康を害し、予備役に編入されている。また、横須賀防備隊軍鳩実験委員の久保田大尉も志半ばにして夭折している。 参考文献 『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 『普鳩』(昭和十七年二月号) 中央普鳩会本部 |
四日市~横須賀間を飛行する、横廠式水上機飛行機演習において、五機中二機が駿河湾および相模灘に不時着水する。このとき、水上機が携行していた軍鳩が放たれたことにより、水上機の現在地が判明し、人命と機体が無事に保護される。 ☆補足 横廠とは横須賀海軍工廠の略。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695400、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08051157500、大正13年 公文備考 巻49 航空(防衛省防衛研究所)」 |
避暑のため日光に滞在している大正天皇は、儀仗衛兵競技会の際、日光から中野に帰還する鳩の出発状況を観覧する。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031182400、永存書類甲輯第5類 大正13年(防衛省防衛研究所)」 |
高田歩兵第三十連隊の鳩班が若松~高田間において、軍用鳩の訓練をはじめる。期間は一ヶ月を予定し、四十五キロ飛行の基礎訓練を終えた幼鳩九羽と、その親鳩十四羽の計二十三羽が、一九五キロの山脈横断に臨む。 ☆補足 大正十五年七月十五日発行の鳩園社『鳩』(第四年七月号)に掲載された記事「高田隊の練習」に、続報が載っている。同記事によると、若松~高田間の長距離鳩通信練習を大馬力でおこなっているが、去る七月十日、海川~高田間の練習中に二羽の迷い鳩を出したという。当日は悪天候だったため、その際に鳩が方向を誤ったようである。迷い鳩は本年に入ってから、これで六羽となり、七月二十六日には疾病で一羽が病死しているという。 参考文献 『歩三〇営内月報』(創刊号) 『鳩』(第四年七月号) 鳩園社 |
第八師団が全十条からなる『第八師団軍用鳩取扱仮規定』を定める。 ☆補足 この同時期に、第八師団司令部が全八条からなる『第八師団軍用鳩管理ニ関スル規定』を定める。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001954900、永存書類乙集第2類第4冊 昭和4年(防衛省防衛研究所)」 |
『鳩の戦術的用法』が出版される(偕行社『偕行社記事』第五九八号付録) 本書の冒頭で、軍用鳩調査委員長の畑 英太郎少将が、こう述べる(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
目次は以下のとおり(一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『鳩の戦術的用法』(『偕行社記事』第五九八号付録) 偕行社 |
海軍潜水学校が軍鳩を飼養しはじめる(開始鳩数、三十九羽) 参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 |
大正天皇および貞明皇后が日光田母沢御用邸へ(七月中旬より約三ヶ月間)、摂政宮裕仁親王および同妃良子女王が翁島高松宮御用邸へ(八月上旬より約一ヶ月間)、それぞれ避暑のために滞在する。この間、実用通信の需要に応じるために移動鳩舎と人員を派遣し、鳩通信網を構築する。この鳩通信網は、日光、翁島、宇都宮、中野の四点を結ぶ。 *摂政宮裕仁親王は後の昭和天皇、良子女王は後の香淳皇后(昭和天皇の皇后) 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031182400、永存書類甲輯第5類 大正13年(防衛省防衛研究所)」 |
この期間、目黒で林間学校が開かれ、毎日一五〇〇名~二〇〇〇名の子供が集まる。軍用鳩調査委員会の井崎於菟彦大尉は、部下二名(曹長と助手)を引き連れて林間学校に参加し、子供の前で軍用鳩に関する話をする。また、子供たちの通信文を付した三十羽の軍用鳩を中野に向けて飛ばす。 子供たちの書いた文章を二通、以下に紹介しよう(『東京朝日新聞』〔大正十三年八月十九日付〕より引用。一部、空行を入れている)
☆補足 少なくとも、井崎とその部下二名は、八月十日と八月十七日の二回、林間学校に参加して三十羽の軍用鳩を放鳩している。それ以外の日に井崎らが林間学校に参加したかどうかは不明。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十三年八月十日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(大正十三年八月十七日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(大正十三年八月十八日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(大正十三年八月十九日付) 東京朝日新聞社 |
仙台騎兵第二連隊の宮地久衛騎兵少佐が中佐に進級する。そして、仙台騎兵第二連隊より陸軍通信学校付属軍用鳩調査委員会高級幹事を命ぜられる。 これは山本大佐の後任人事で、宮地は、一九二七(昭和二)年五月二十五日まで、軍用鳩調査委員会に在任する。 ☆補足 宮地先生記念事業会『宮地久衛大佐伝』に、井崎於菟彦の記した一文が載っている。 それによると、宮地が騎兵中佐として中野の軍用鳩調査委員会に在籍していた当時、井崎はその副官格として三年間勤務したという。宮地は、諸外国に例のない、わが国独自の移動通信の諸元を作り上げ、その熱と実行力によって議論の多い軍用鳩調査委員を無条件で従わせたそうである。これは術策や技巧でなせるものではなく、宮地の風格と徳によるものだという。日本軍と満州国軍の鳩隊が現在のように整備されたのはそのたまものである、などと、井崎は述べている。 参考文献 『宮地久衛大佐伝』 宮地先生記念事業会 『鳩』(第三年九月号) 鳩園社 |
貞明皇后、摂政宮裕仁親王、同妃良子女王、崇仁親王が日光通信所に行啓し、鳩の運動を見物する。 *日光通信所は、日光、翁島、宇都宮、中野の四点を結ぶ鳩通信網のうち、日光に設けられた鳩通信所の一つ。 *摂政宮裕仁親王は後の昭和天皇、良子女王は後の香淳皇后(昭和天皇の皇后) 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031182400、永存書類甲輯第5類 大正13年(防衛省防衛研究所)」 |
摂政宮裕仁親王が秩父宮雍仁親王とともに磐梯山を登る。摂政宮裕仁親王は頂上で二羽の伝書鳩を放って、大正天皇および貞明皇后に信書を送る。 *摂政宮裕仁親王は後の昭和天皇。 参考文献 『読売新聞』(大正十三年八月二十三日付) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(大正十三年八月二十日付) 東京朝日新聞社 |
御殿場で開催中の東京市林間学校において、並河才三一等獣医以下係官の指導のもと、御殿場から中野に向けて三十羽の軍用鳩が放たれる。 軍用鳩には児童らの書いた思い思いの通信文が付してあり、放鳩から一時間後、それらのメッセージが中野に届く。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十三年八月二十三日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(大正十三年八月二十四日付) 東京朝日新聞社 |
海軍が小笠原特設鳩舎を設置する(開始鳩数、五十六羽) この父島に建てた特設鳩舎は、大正十三年度海軍大演習において、飛行機の応急用および付属艦艇よりの通信に使用するために急設される。 なお、鈴木兼吉一等兵曹と小泉一等水兵がこの任に従事する。 ☆補足 水交社『水交社記事』(第二六六号)に掲載された記事「軍鳩(伝書鳩)」(作・内藤啓一)と、海軍大臣官房『海軍制度沿革』(巻十五)に、「九月」に鳩舎を設置したとあるが誤り。 正しくは、「八月三十日」である。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696000、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695400、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08051173500、大正13年 公文備考 巻58 航空(防衛省防衛研究所)」 |
『鳩の世界』の九月号が発行される。 震災一周年を回顧して、当時の軍用鳩の活動を記事にしている。 ☆補足 『鳩の世界』は、脇本 泰による、大正十三年創刊の月刊誌らしいが、いかなる雑誌であったのか、筆者(私)は未見なので不明点が多い。 鳩園社『鳩』(第三年七月号)に掲載された記事「本社の九州支局設置に就て」(作・藤本真一)によると、『鳩の世界』は第六号まで発刊し、大正十四年二月に休刊した後、改めて三月に発刊するが、四月以降は何らの沙汰もなかったという。一年ほどの発行で廃刊になった雑誌だったようである。 ちなみに、上記記事(「本社の九州支局設置に就て」)の執筆者である藤本は、九州支局を引き受けて、創刊から第六号まで活動したという。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十七年十月号) 愛鳩の友社 『鳩』(第三年七月号) 鳩園社 |
同日付の『読売新聞』の記事によると、海軍潜水学校では近く、潜水艦に伝書鳩を搭載、飼養して、一般艦船に対する諸種の通信実験をおこなうという。 潜水艦の潜航中、鳩がそれに耐えられるのか懸念されているが、同校は理想的な鳩舎を作るために、近く中野電信隊に軍用鳩資料の借用を交渉するそうである。 ☆補足 大正十三年十一月二十二日付の『大阪朝日新聞』に、続報が載っている。 同記事によると、潜水艦は広島湾で四時間潜航した後、宮島沖から軍鳩を放ったところ、海軍潜水学校までの通信連絡に成功したという。学校関係者らは大喜びで研究の歩をさらに進めるそうである。 この件について、海軍省当局は、以下のように述べる(『大阪朝日新聞』〔大正十三年十一月二十二日付〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『読売新聞』(大正十三年九月三日付) 読売新聞社 『大阪朝日新聞』(大正十三年十一月二十二日付) 大阪朝日新聞社 『趣味の飼鳥』(大正十三年十二月号) 飼鳥趣味社 |
鎮海防備隊が軍鳩を飼養しはじめる(開始鳩数、四羽) 参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 |
大正十三年度海軍大演習において、出動飛行機に毎回、不時着水応急用として軍鳩が搭載される(飛行機の不時着水を二回報告) そのほか、各種の通信連絡に軍鳩を用いる。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695400、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 |
大正十三年度海軍大演習の終了を受け、海軍は小笠原特設鳩舎における軍鳩飼養を廃止する。 参考文献 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696000、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 |
同日付の『官報』に、「伝書鳩ではないか?」と題した一文が載る(作・軍用鳩調査委員) 内容は、以下のとおり(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足 小熊 捍農学博士は、一九二二(大正十一)年から二年間にわたり、欧州に派遣されている。 その間、小熊は、ベルギー軍の鳩舎を訪問し、軍用鳩主任の中尉にいくつか質問している。 訓練中の伝書鳩が射殺されることはないかと聞くと、ベルギーでは伝書鳩が撃たれることはほとんどなく、もしもこれを撃った場合は禁錮に処せられると中尉は答える。ベルギーでは国民一般に伝書鳩に関する知識が発達していて伝書鳩と野鳩を見誤ることはないという。 ほかに、小熊は、帰巣速度の早い鳩と、確実性の高い鳩があるが、ベルギーではどちらの鳩が選ばれるのかと質問する。中尉によると、軍用鳩は確実性の高いものがよく、胸部の発達した体格のよいものが選ばれるという。反対に民間鳩は、速力の早いものを尊ぶので、体格は小さく、神経質のようなものが選ばれるそうである。そのため、民間鳩は分速一七〇〇メートルくらいを有するが、軍用鳩は分速一〇〇〇メートルくらいを標準にしているという。 参考文献 『官報』(大正十三年十一月十九日付。第三六七三号) 『鳩』(第三年八月号) 鳩園社 |
青森憲兵分隊に届けられた所属不明の軍鳩二羽を、大湊防備隊が譲り受ける。 その後、一九二五(大正十四)年七月二十七日の時点で、五羽を飼育する。 ☆補足 上記の一文は、「軍鳩ニ関スル件 大湊防備隊」をもとに記す。 この譲り受けた軍鳩二羽が繁殖して五羽になったのか、よく分からない。また、この二羽以外に、もともと大湊防備隊で飼っていた軍鳩がそのとき何羽いたのかも分からない。 青森憲兵分隊から所属不明の軍鳩を譲り受ける、という出来事が奇異なので、この当時、訓練時の失踪や病気などによって、大湊防備隊には鳩が一羽も存在しなかった可能性がある。そうした切実な事情がないと、正式な払い下げ手続きによらず、出所不明の鳩を再利用するなど、通常では考えにくい。 もちろん、その可能性がある、というだけのことであって、筆者(私)の勝手な想像にすぎない。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08051434000、大正14年 公文備考 巻51 航空(防衛省防衛研究所)」 |
沼津御用邸で避寒する大正天皇に関する記事と写真を、東京日日新聞社の伝書鳩が、翌一九二五(大正十四)年四月までに計二十八回輸送する。 参考文献 『「毎日」の3世紀 新聞が見つめた激流130年』(別巻) 毎日新聞社 |
巡洋戦艦・金剛の軍鳩研究主任・石川 信大尉が、軍務局の原 五郎中佐宛てに手紙を出す。 その中で石川は、以下の不満を訴える(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08051173600、大正13年 公文備考 巻58 航空(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08051173600、大正13年 公文備考 巻58 航空(防衛省防衛研究所)」 |
両日にわたり、中野の軍用鳩調査委員事務所において、鳩講話会が開催される(軍用鳩調査委員会主催) 各地より鳩に関するものが出品され、東京、大阪の民間愛鳩家からも多くの参考品が出陳される。 近衛師団将校をはじめ、東京はとの会の会員ら約二〇〇名が参加し、盛況を博す。 参考文献 『鳩』(第三年新年号) 鳩園社 |
福知山歩兵第二十連隊で保護されていた迷い鳩は、名古屋在住の三輪耕三の愛鳩と判明し、本日、この鳩が同連隊の塚本中尉より三輪に引き渡される。 該鳩は、昨年の九月、大阪毎日新聞社主催でおこなわれた伝書鳩リレー練習中に失踪していた。 ☆補足 上記の一文は、大正十四年一月二十五日発行の『鳩』(第三年新年号)の記事をもとに記す。 同号にはほかに、福知山連隊の話題が載っている。 それによると、福知山陸軍始観兵式に軍用鳩が参加し、空中分列式がおこなわれたという。 参考文献 『鳩』(第三年新年号) 鳩園社 |
現時点での佐世保防備隊における軍鳩数、二十羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08051434000、大正14年 公文備考 巻51 航空(防衛省防衛研究所)」 |
現時点での日本陸軍における軍用鳩数、六〇〇〇羽(以下、 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696300、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」より引用)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696300、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 |
佐世保海兵団が軍鳩を飼養しはじめる。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08051434000、大正14年 公文備考 巻51 航空(防衛省防衛研究所)」 |
日本海軍の軍鳩通信は、この年くらいまでは昼間通信に限られていた。しかし、本年五月から研究を開始し、その後、昼夜両用の夜間鳩を育てて実用化する。 参考文献 『軍鳩参考書』 海軍省教育局 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05035336700、公文備考 昭和11年 Q 通信、交通、気象時 巻1(防衛省防衛研究所)」 |
京阪神鳩界の権威である、勢山、鈴木両名の努力によって、脇本 泰が鳩界の機関誌『鳩の世界』を発行する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年五月号) 愛鳩の友社 |
現時点でのイギリス海軍における軍鳩数について、「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696300、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めている。イギリス駐在大使館付海軍武官調査)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696300、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 |
現時点でのイギリス陸軍における軍用鳩数について、「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696300、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めている。イギリス駐在大使館付陸軍武官調査)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696300、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 |
現時点でのフランス海軍における軍鳩数、五〇〇〇羽?(フランス駐在大使館付海軍武官調査) 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696300、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 |
現時点でのフランス陸軍における軍用鳩数、二一〇〇羽(長谷栄二郎工兵少佐調査) 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696300、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 |
現時点でのアメリカ陸軍における軍用鳩数、一五〇〇羽(アメリカ駐在大使館付陸軍武官調査) 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696300、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 |
現時点での各国における民間鳩数。 アメリカ 一〇〇万羽(推定) イギリス 五十万羽(推定) フランス 三〇〇万羽(推定) ベルギー 四〇〇万羽 ドイツ 三十万羽(推定) 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696300、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 |
『鳩』誌を発刊している鳩園社に年賀状が届く。軍用鳩調査委員高級幹事・宮地久衛騎兵中佐のものは、日本の飼育鳩数と外国の飼育鳩数を比べ、その大きな落差に今後の日本鳩界の発達を叱咤し、下欄には伝書鳩の実績と効用を訴える。同調査委員・木場中尉のものは、科学の発展はついに破壊的科学を招来すると述べ、鳩は国防の一要素であるが故に、鳩の保護と害敵の殺傷を奨励する。並河獣医は「鳩の特性」について述べる。海軍兵学校・古沢林造のものは通信用紙を模写して用文を記し、下記に伝書鳩と信書管を並べる。 ☆補足一 上記の一文は、鳩園社『鳩』(第三年新年号)に掲載された記事「年賀ハガキで 盛に鳩宣伝」をもとに記す。民間からも年賀状が届き、いくつか紹介されているが、省略する。 なお、同記事に「並川」とあるのは誤りで、正しくは、「並河」である(訂正済み) ☆補足二 鳩園社『鳩』(第四年一月号)に掲載された記事「中野軍用鳩調査会専任高級幹事 騎兵中佐 宮地久衛氏 ―氏と年賀状のこと―」によると、宮地は年賀状作りに力を入れていて、ときに三ヶ月も前から有意義に刷り上がるように頭をひねるという。そして、文意が他に漏れないように親族にも秘密にし、六〇〇枚のハガキの宛名を全て自分で書き、また、切手も自分で貼って投函するそうである。 参考文献 『鳩』(第三年新年号) 鳩園社 『鳩』(第四年一月号) 鳩園社 |
京都第十六師団が始観兵式をおこなう。京都の愛鳩家有志の希望により、当日は三〇〇羽の伝書鳩を練兵場西隅から一斉放鳩する。 鳩には各色の風船玉や色紙を付しており、その光景に観覧者は喜び、拍手が鳴りやまなかった。 参考文献 『鳩』(第三年新年号) 鳩園社 |
午後六時、宇垣一成陸軍大臣は、野田卯太郎副総裁以下の立憲政友会の幹部を官邸に招き、大正十四年度陸軍予算ならびに軍備整理などについて説明し、了承を求める。 これに関して、全軍の通信教育とその研究の統一について、大正十四年一月十七日付の『大阪朝日新聞』が陸軍当局談として以下のように報じている。
軍用鳩育成機関を設く、との一文が分かりにくいので補足すると、従来の軍用鳩調査委員会は、そこに調査の二文字があることから分かるように、調査研究にとどまる暫定的な組織であり、恒久的なものではない。つまり、軍用鳩に関する常設かつ実用の機関を設ける、との意味である。 ちなみに、軍用鳩調査委員会は、一九三八(昭和十三)年八月に解散し、陸軍通信学校鳩部にその業務を引き継いでいる。大正の頃から、常設の軍用鳩育成機関を設ける、と計画していた割に、実際はずいぶん長く、臨時の委員会が存続する。 参考文献 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 軍事(国防)(16-088) 国民新聞 1925.1.18 (大正14) 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 軍事(国防)(15-153) 大阪毎日新聞 1924.9.7 (大正13) 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 軍事(国防)(16-085) 大阪朝日新聞 1925.1.17 (大正14) 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 軍事(国防)(15-152) 大阪時事新報 1924.9.7 (大正13) 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 軍事(国防)(15-156) 時事新報 1924.9.8 (大正13) 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 軍事(国防)(15-157) 大阪朝日新聞 1924.9.9 (大正13) |
鳩園社『鳩』(第三年新年号)が発行される。 本号に、中野の軍用鳩調査委員会の人事異動などについて載っている。 それによると、軍用鳩調査委員長の畑 英太郎少将は、今回、中将に昇進したという。また、同委員会幹事の若山善太郎大佐は少将に昇進して陸軍工兵学校長に栄転、後任は電信第一連隊長の杉原美代太郎工兵大佐が就任するとのことである。杉原は長年、ヨーロッパに留学し、航空術や電信術などを研究した、その筋の第一人者で、かつて陸軍省軍務局航空課長を務めている。 参考文献 『鳩』(第三年新年号) 鳩園社 |
深夜、中央気象台から夜間鳩が放たれ、翌朝の大降雪の天気予報を横須賀海軍航空隊に伝える。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695900、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 『東京朝日新聞』(大正十四年一月三十日付) 東京朝日新聞社 |
巡洋戦艦・金剛が軍鳩の飼養を廃止する。 約一年間、石川 信大尉指揮のもと、軍鳩研究を続け、海軍大演習時や艦隊における軍鳩使用について充分な経験を得る。 飼養していた九十五羽の軍鳩は、潜水母艦・迅鯨に移管する。 ☆補足一 飼養期間における編成は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695700、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
高橋荻作の階級が二水(二等水兵)と表記されているが、高橋はこれより以前に一水(一等水兵)の階級にあったようである(引用元の同史料より)。誤記の可能性がある。 ☆補足二 鳩園社『鳩』(三周年記念特別号)に掲載された記事「艦上鳩舎の偉績」(作・喜多山省三)に、巡洋戦艦・金剛(旗艦)の軍用鳩実用摘録が載っている。 以下に引用しよう(一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、表のデザインを改めたりしている)
☆補足三 大正十四年五月十五日発行の鳩園社『鳩』(三周年記念特別号)に掲載された記事「艦上鳩舎の偉績」(作・喜多山省三)によると、艦上鳩舎を有す艦船が新しい港に錨を入れた当日は十五キロ圏内、翌日は五十キロくらいの軍鳩通信が可能で、また航海中、条件がよければ、三十キロくらい離れた他船から放鳩しても鳩が帰り、通信文をもたらすという。汽艇の方は型が小さく、行動範囲も狭く、遠距離放鳩の実験記録はないが、相応の能力があるそうである。 参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695700、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 『鳩』(三周年記念特別号) 鳩園社 |
潜水母艦・迅鯨が巡洋戦艦・金剛から軍鳩を譲り受け、これを飼養しはじめる(開始鳩数、九十五羽) 巡洋戦艦・金剛が横須賀に長期停泊することになったため、これを契機として、潜水母艦における鳩通信の研究がはじまる。 潜水母艦・迅鯨での艦鳩飼育訓練主任は、喜多山省三少佐が務める。 なお、巡洋戦艦・金剛からは、軍鳩だけでなく鳩舎も譲り受ける。 ☆補足 帝国海軍社『帝国海軍』(昭和九年十二月号)に掲載された記事「軍鳩に就いて(六)」(作・萩原春午郎)に、以下の記述がある(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695700、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 『帝国海軍』(昭和九年十二月号) 帝国海軍社 『鳩』(第四年二月号) 鳩園社 |
代々木原頭において帝都学生生徒の連合大演習がおこなわれる。 この演習には立川飛行第五大隊の乙式一型偵察機十機が参加し、無線電信および伝書鳩十八羽を用いて地上と交信する。 ☆補足一 『東京朝日新聞』(大正十四年二月七日付。夕刊)に載った予定に従って上記の内容や日付を記す。したがって、予定に変更が生じていたら、出来事や日付が現実と異なっているかもしれない。 ☆補足二 余談だが、軍用鳩調査委員の井崎於菟彦は、立川の飛行第五連隊(名称変遷は、飛行第五大隊 → 飛行第五連隊 → 飛行第五戦隊)を訪問し、よく軍用鳩の訓練をしたという。 『愛鳩の友』(昭和三十九年二月号)に掲載された記事「随想」(作・井崎乙比古)に、以下の記述がある。
参考文献 『東京朝日新聞』(大正十四年二月七日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十九年二月号) 愛鳩の友社 |
現時点での佐世保海兵団における軍鳩数、二十五羽。 参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 |
航空母艦・若宮が三田尻に停泊しているとき、同艦搭載の水上機の行方が分からなくなる。全艦隊が憂慮する中、遭難機から放たれた軍鳩によって、現在、周防灘に不時着水していることが判明する(航空母艦・若宮から十六マイルの距離) 航空母艦・若宮は救助艇を派遣し、人機ともにこれを保護する。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695400、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 |
海軍省は、大蔵、宮内、文部の各省高官と大学教授を約三〇〇名招いて、横須賀沖で飛行機、潜水艦、軍鳩などの活動状況を展示し、戦艦・長門でごちそうを振る舞う。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十四年四月八日付) 東京朝日新聞社 |
飼鳥趣味社『趣味の飼鳥』(大正十四年四月号)が発行される。 同号に、「伝書鳩がカメラを携へて空中から撮影 ビラまきや空中管弦楽も」との題の記事が載る。 それによると、福知山歩兵第二十連隊の軍用伝書鳩団長・塚本中尉は、先日、同隊で飼育中の軍用鳩二十七羽をもって空中分列式を成功させるが、さらにこの鳩らを楽手とする空中管弦団を組織することとなり、その準備に着手したという。 塚本は、以下のように語る(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
また、河原中尉は、空中から宣伝ビラを散布するために軍用鳩を訓練していて、その結果は良好だという。 同中尉は最近、最新式の移動鳩舎を発明しており、ほかにも軍用鳩にカメラを装着して空中撮影する準備を進めている。 連隊は近く北満の守備に赴くが、現地に軍用鳩を携行して、空中撮影その他に応用することになっている。 ☆補足 塚本、河原の両中尉が登場するが、連隊の編成上、軍用鳩担当の中尉が二名も存在するのが奇異である。もしかしたら、どちらか一人の中尉の名は誤字で、同じ人物について述べているのかもしれない。ただし、軍用鳩の実験が込み入っているので、二名の将校が割り当てられている可能性も充分に考えられる。 参考文献 『趣味の飼鳥』(大正十四年四月号) 飼鳥趣味社 |
徳川義恕男爵(東京はとの会会長)の下落合にある牡丹園(静観園)では、毎年数日間、一般の観覧に供しているが、この日、東京はとの会の会員一同が同園に招待され、皆が鳩を持ち寄る。 午後三時、東京はとの会副会長の福島四郎男爵が伝書鳩について観衆に分かりやすく説明し、その後、七十羽の鳩を集団放鳩する。 また、同日、東京はとの会は、大正天皇・貞明皇后の銀婚式を祝すとともに、第一航空学校の飛行機上から五色に印刷した宣伝ポスターを東京市に散布し、伝書鳩の宣伝に努める。 *宣伝ポスターの文言 「平和のシンボルたる伝書鳩を実用通信に競翔娯楽に飼育愛護して下さい」 参考文献 『鳩』(第三年六月号) 鳩園社 |
大正天皇・貞明皇后の銀婚式を祝って、京都の愛鳩家らが東京~京都間の奉祝放鳩をおこなう。 午前七時二十分、田川潤一郎大尉、井崎於菟彦大尉、伊東四郎大尉ら各軍用鳩調査委員の立ち会いのもと、中野の軍用鳩調査委員事務所から京都に向けて八十六羽の伝書鳩を放つ。 ☆補足 『東京朝日新聞』(大正十四年五月十二日付)は、軍用鳩調査委員の将校の名を「江崎」と報じているが、「井崎」の誤りと思われる(訂正済み) 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十四年五月十二日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
海軍潜水学校研究部が『潜水艦ニ於ケル軍鳩実験』(潜校研究資料 第八号)という研究資料をまとめる。潜水艦が八キロ~三十キロ先の巡航地まで移動後、艦内に閉置してある軍鳩をそこから放鳩した際の実験記録である。 閉置後の鳩を上甲板で休ませてから放鳩した方が帰巣成績が上がる、との結果が出る(実験では一、二時間休憩させる) 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08051434000、大正14年 公文備考 巻51 航空(防衛省防衛研究所)」 |
午前十一時十分、兵庫県北部円山川河口付近を震央とするM6.8の北但馬地震が発生する。死者四二八名、家屋全壊・全焼二六三八戸の被害を出し、交通・通信の便が断たれる。 福知山歩兵第二十連隊の軍鳩班は、ほぼ全ての鳩を携行して震災地に入り、活動する。 五月二十四日より、齋藤少佐指揮のもと、連隊本部宛てに軍用鳩を放ち、各地への通信連絡に功を奏す。 ☆補足 篠原属官は兵庫県庁特派第一視察員として、午後二時四十七分神戸発の列車で震災地に急行する。そして、午後三時、兵庫県社会課は、六甲山麓に鳩舎(帝国在郷軍用鳩訓練所)を持つ村上五郎に鳩の出動を促し、篠原に続く第二視察員がこれを携行して震災地に向かう。以後、村上が提供した二十数羽の鳩が震災地で通信連絡の任に当たる。 大正十四年五月二十五日付の『大阪朝日新聞』に、以下の記述がある(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 災害及び災害予防(2-187) 大阪朝日新聞 1925.5.25 (大正14)より引用。一部、空行を入れている)
参考文献 『鳩』(第三年六月号) 鳩園社 「1925年北但馬地震における豊岡町の被害と復興過程」 植村善博 https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/RO/0004/RO00040L001.pdf 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 災害及び災害予防(2-182) 大阪朝日新聞 1925.5.24 (大正14) 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 災害及び災害予防(2-187) 大阪朝日新聞 1925.5.25 (大正14) |
欧州留学に向かうため、一等海防艦・出雲に乗艦中の秩父宮雍仁親王は、その日の夕刻、通信文を付した軍鳩(横須賀海軍航空隊所属)を艦上から放つ。 放たれた鳩は十六羽(昼間鳩十羽、夜間鳩六羽)いたが、夜間鳩の訓練を受けた一羽だけが、折からの大暴風雨を冒して、午後八時頃に帰舎し、通信文を届ける(翌五月二十五日に十四羽が帰還) ☆補足 皇室の鳩飼養に関して、軍用鳩調査委員『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
*「今上陛下」とは昭和天皇のこと。 上記引用文の最後にある、秩父宮雍仁親王の霧島登山に関して補足すると、某武官が五羽の鳩を携行し、そのうち三羽に通信文を、二羽に写真を、それぞれ付して放鳩する。その日は寒風が強く、雪が降っていたが、三時間半で全羽が帰還する。 なお、写真については、九州日日新聞社写真班の記者が担当し、秩父宮雍仁親王の霧島神社参拝や御手植などの様子を撮影する。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695900、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08051434000、大正14年 公文備考 巻51 航空(防衛省防衛研究所)」 『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 『東京朝日新聞』(大正十四年五月三十日付) 東京朝日新聞社 『鳩』(第三年十二月号) 鳩園社 |
大阪毎日新聞社の主催で、同社において、鳩と飼鳥の展覧会が二日間にわたり、開催される。 仙台~大阪間を飛翔した伝書鳩三十六羽をはじめ、大阪の雪衣園から、各国の伝書鳩、八十種の観賞鳩、七種の食用鳩、飼料、通信用具、各種器具、鳩に関する内外の参考書数十種が出品される。 飼鳥の部では、岡田胡錦園(兵庫県伊丹町)から、約五十種の珍鳥、名鳥などが出陳される。 また、六月二日、宇垣一成陸軍大臣のために、仙台戻りの銘鳩のみを陳列する。宇垣は、大阪毎日新聞社の本山彦一社長とともにこれを観覧する。その際、戦時における軍用鳩の写真機に関する説明などを、元軍用鳩調査委員で、現在、大阪毎日新聞社の鳩担当である岩田 巌が詳しく説明する。 ☆補足 大正十四年十月十五日発行の鳩園社『鳩』(第三年十月号)に掲載された巻頭写真(雪衣園鳩舎)の説明文によると、芝田大吉の経営する雪衣園は、大阪市天王寺区にある食用鳩研究所で、七種の食用鳩を五〇〇羽、数十種類の観賞鳩と優良伝書鳩を約二〇〇〇羽、飼育しているという。 参考文献 『鳩』(第三年六月号) 鳩園社 『鳩』(第三年十月号) 鳩園社 |
京都の鳩を数十羽、仙台から放鳩する。 鳩の一群は、一路、京都を目指して飛んでゆく。しかし、畏れ多いアクシデントが起こる。旅の疲れを癒やすためであろうか、山上鳩舎の鳩が澄宮(後の三笠宮崇仁親王)御殿内の鳩舎に迷い込んだのである。山上は恐縮し、中野の軍用鳩調査委員会を通じて、鳩の引き取り方を願い出る。 参考文献 『鳩』(第三年七月号) 鳩園社 |
鳩園社『鳩』(第三年六月号)が発行される。 本号に、「飛行機に鳩を搭載」との記事が載っている。 それによると、今回、日本航空会社別府飛行場においては、飛行機一機につき伝書鳩二羽宛てを搭載し、不時着時などの非常通信に用いるという。 伝書鳩は、別府市在住の愛鳩家・許斐松次より寄贈されたそうである。 参考文献 『鳩』(第三年六月号) 鳩園社 『鳩』(第三年七月号) 鳩園社 |
競翔での失踪、猛禽類の襲撃、狩猟家の発砲などにより命を落とした鳩の霊を慰めるために、この日の午後二時、大阪天王寺の一心寺に関西の鳩界人が集い、鳩の追悼会を催す。僧侶の読経、来会者の焼香、各代表者の弔辞、各地から寄せられた弔電の朗読の後、午後三時、閉会する。 その後、一同は記念写真に納まる。 参考文献 『鳩』(第三年六月号) 鳩園社 『鳩』(第三年七月号) 鳩園社 |
福岡県商品陳列所において、三日間にわたり、小禽の会が開催される(福岡愛鳥会主催) 福岡、熊本、長崎、四国、中国などから多数の出品があり、盛況を博す。 なお、小鳥だけでなく、伝書鳩や伝書鳩器具、飼料一切なども出陳される。 参考文献 『鳩』(第三年八月号) 鳩園社 |
現時点での佐世保海兵団における軍鳩数、二十四羽。 参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 |
軍用鳩調査委員会が組織改正をおこなう。 *現在 委員長 将官一名 幹事 佐官一名 委員 佐尉官 同相当官 若干名 *改正 委員長 将官一名 幹事 佐尉官 同相当官 若干名 委員 将官 佐尉官 同相当官 若干名 なお、改正理由は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031195800、永存書類甲輯第1類 大正14年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031195800、永存書類甲輯第1類 大正14年(防衛省防衛研究所)」 |
午後一時、京成電車の東京市内乗り入れ問題について市会の委員会が開かれる。 このとき、敷地に関して反対運動をおこなっている押上住民は、市会に代表者三十名を送り込み、その様子を逐一、伝書鳩によって本部に伝える。 参考文献 『鳩』(第三年七月号) 鳩園社 |
摂政宮裕仁親王は、七月十四日におこなわれる海軍兵学校卒業式への出席と、佐伯湾内で挙行中の連合艦隊戦技作業を視察するために戦艦・長門に乗り込み、江田島に向かう。 この日の午後零時四十分、摂政宮裕仁親王は、母宮(貞明皇后)宛ての通信文を三羽の伝書鳩に託して空に放つ。同妃良子女王も同様の通信文を別の鳩に付して長門から放鳩する。 午後三時二十分、摂政宮裕仁親王の放った三羽の伝書鳩が横須賀海軍航空隊に到着する。その後、同隊から宮内省を通じて通信文が配達される。 摂政宮裕仁親王のしたためた通信文は、以下のとおり(『東京朝日新聞』〔大正十四年七月十三日付〕より引用)
なお、鳩園社『鳩』(第三年七月号)に掲載された記事「摂政宮さまが伝書鳩に託してお懐しのみたより」にも、摂政宮裕仁親王の記した通信文が載っている。しかし、上記に引用した朝日新聞の記事と文面がやや異なる。 以下に引用しよう。
*摂政宮裕仁親王は後の昭和天皇、良子女王は後の香淳皇后(昭和天皇の皇后) 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十四年七月十三日付) 東京朝日新聞社 |
伊豆七島と本土は海底電信を通じて連絡しているが、これがたびたび故障し、島民はその都度、大きな不安を覚え、不便が生じている。そこで、警視庁はこの日、横須賀海軍航空隊から借りてきた軍鳩を伊豆七島から放鳩する実験をおこなう。 七月二十四日午後三時、警視庁に軍鳩が飛んで帰り、「目下大島は便船毎に百名内外の避暑客が来島し甚だにぎやかだ、平穏無事」という通信文を届ける。 軍鳩を用いれば、海底電信の故障時に対応できることが判明したので、目下、警視庁ではその利用法と具体化について協議している。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十四年七月二十六日付) 東京朝日新聞社 |
警視庁警務課が横須賀海軍航空隊の鳩を借りて、第一回目の八丈島~東京間の連絡試験を実施する。八丈島は、便船と海底電信によって連絡されているが、とかく遅れがちのため、伝書鳩を用いて能率を上げることになったのである。 試験の結果は良好で、今後、急を要する場合は伝書鳩を使って警察事務を処理することになる。 参考文献 『鳩』(第三年八月号) 鳩園社 |
白根竹介岐阜県知事の一行(七十余名の登山者)が乗鞍岳の山頂に至る。このとき、随行の豊田官房主事が伝書鳩を放ち、一行の消息を伝える。 参考文献 『鳩』(第三年八月号) 鳩園社 |
朝鮮の京城地方で水害が発生し、交通・通信に支障が出る。 このとき、第二十師団に分置してある軍用鳩が各方面から放たれ、通信される。 参考文献 『鳩』(第三年八月号) 鳩園社 |
東京日日新聞社は、久邇若宮の富士登山に際し、山頂より伝書鳩を放って、その随行記を伝える。 参考文献 『「毎日」の3世紀 新聞が見つめた激流130年』(別巻) 毎日新聞社 |
鳩園社『鳩』(第三年八月号)が発行される。 本号に、「中野近信」という題の記事が載っている。 以下に引用しよう(一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
ほかに、同号には、海軍潜水学校は近日、練習艦である第五十一、第五十二の両潜水艦を用いて、艦内で最も気圧の高い水雷発射管室で軍鳩に関する試験をおこなう、との記事を掲載している。水雷発射管室には、軍鳩の馴育場があり、その耐圧力を試験するとのことである。潜水艦内に伝書鳩を飼育し、通信することに、各方面の注目が集まっているという。 また、予定では八月六日、佐伯湾にある潜水母艦・迅鯨と、海軍潜水学校より、交互に軍鳩を放鳩して、長距離通信試験をおこなうそうである。 参考文献 『鳩』(第三年八月号) 鳩園社 |
中野電信隊の荻原大尉は、長野県上諏訪町に出張し、この日の午前七時、同地から中野に向けて六十羽の軍用鳩を放つ。甲信国境の八ヶ岳飛翔は難しいといわれていたが、約二時間三十分後、第一着の鳩が到着し、以後、続々と中野に鳩が帰ってくる。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十四年八月二十二日付) 東京朝日新聞社 |
午後七時三十分頃、佐賀県佐賀市米屋町の森永某宅付近のクスノキに、一羽の伝書鳩が落ちてくる。 森永がこの伝書鳩を保護すると、その右脚の脚環に、「T」のローマ字と「福岡廿四」と記された記号のようなものが確認できた。 そこで、森永は、この伝書鳩は福岡連隊所属だと思い、直ちにその筋に届け出る。 参考文献 「迷子の伝書鳩(大正14年8月25日付)」 佐賀新聞 https://www1.saga-s.co.jp/koremade/timetrip/1925/03.html |
現時点での日本海軍における軍鳩数(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696300、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、各飼育所の漢字表記を改めたり、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、記号を省略したりしている)
総計、約八〇〇羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696300、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 |
鳩園社『鳩』(第三年九月号)が発行される。 本号に、中野の軍用鳩調査委員事務所を、同誌が訪問したときのことが記事になっている。 その内容を以下に紹介しよう。 ・軍用鳩調査委員会への行き方。中野駅を下車したら線路に沿って一丁半歩くと、駅から二つ目の踏切があるので、そこを右へ鉄路を横切る。そして、さらに一丁ほど線路に沿って進むと、右手に「陸軍通信学校」の標柱があり、そこから数間行くと、同じく右手に、砂利を敷いた、生け垣をひける右折路がある。その正面の門柱に「陸軍軍用鳩調査委員事務所」という表札が掲げてある(同所の電話番号「四谷二五一番」) ・軍用鳩調査委員事務所には、高級委員の宮地久衛中佐をはじめ、長谷栄二郎少佐、伊東四郎大尉、井崎於菟彦大尉、木場大尉、田川潤一郎大尉、萩原 泰大尉、竹下憲輔獣医らがおり、ほかに技手雇員が数名、修業下士卒数十名がいる。以上の面々が日々、軍用鳩の研究に従事している。また、軍用鳩調査委員長は畑 英太郎中将で、軍用鳩調査委員幹事長は杉原美代太郎大佐である。 ・各軍用鳩調査委員の分担については、井崎が鳩舎係、木場が調査係と民間鳩係、伊東が教育係(主に移動自動車にて)、萩原が夜間鳩舎係、田川が事務一般、竹下が衛生係と、それぞれ主任を務めている。 ・宮地の語るところによると、当所は軍用鳩調査委員会であることから、今まで予算は臨時費で賄われ、調査の要だけとされていたが、今年度の予算からは経常費として計上されるようになり、四月の予算編纂の際には軍用鳩育成所に改称される予定だったという。しかし、管理の件について議論した結果、従来どおり、ということになったそうである。 参考文献 『鳩』(第三年九月号) 鳩園社 |
東京帝国大学の増井 清助教授が中野の軍用鳩調査委員事務所を見学する。また、「遺伝」について同所で講演する。増井は遺伝学の権威だが、鳩にも関係の深い学問であるため、軍用鳩調査委員・竹下憲輔獣医の勧めにより、今回、伝書鳩の研究をはじめることになった。 当日は、増井の来所が東京はとの会にも通知されていたので、軍用鳩調査委員事務所の関係者だけでなく、会員数名が講演を聞く。 参考文献 『鳩』(第四年一月号) 鳩園社 |
イタリア軍のデ・ビネド中佐の日本訪問飛行機が鹿児島を発して、串本(和歌山県)の沖合に着水する。大阪毎日新聞社の記者は、この模様を伝える原稿と写真を伝書鳩に付して、これを空に放つ。伝書鳩は二時間十分で串本~大阪間を飛翔し、無事に帰還する。 参考文献 『新聞の知識』 平野岑一/大阪毎日新聞社 東京日日新聞社 |
現時点での日本における民間鳩数、約二万五〇〇〇羽。 ☆補足 この年の八月に出版された、陸軍歩兵学校准士官下士集会所『陸軍歩兵学校案内』に、以下の記述がある(引用文は一部、漢字をひらがなに改めている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696300、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 『陸軍歩兵学校案内』 陸軍歩兵学校准士官下士集会所 |
民間鳩界の発達が目覚ましいことを受けて、このたび、中野の軍用鳩調査委員事務所は、第一回の試みとして、民間鳩の買い上げを実施する。 条件としては、二歳以上の鳩で、鳩の会または会員所有のものであること。そして、確実な脚環をはめていて、出所系統が確然であること。鳩体強健にして特に翼に欠陥がなく、蕃殖に支障がないこと。名古屋以東の飛翔について未訓練のもの(例――東京、水戸、仙台、盛岡、青森の各地と、京阪神間を飛翔していないもの)となる。 今回の民間鳩買い上げについて軍用鳩調査委員が打ち合わせた各団体は、神戸愛鳩倶楽部、大阪好鳩会、大阪南鳩会、京都山城倶楽部、京都競翔会の計五つ。買い上げ価格は、一羽十円以内とし、一〇〇羽で一〇〇〇円見当と軍用鳩調査委員会は概算している。 ☆補足 上記の一文は、鳩園社『鳩』(第三年九月号)に掲載された記事「愈実現する 民間鳩の買上げ 先づ第一回の試みとして京阪神の各会から」をもとに記す。同記事において、軍用鳩調査委員の長谷栄二郎少佐が「先づ第一回として百羽を九月下旬か十月初旬に買上げて試験することになりました」と述べているので、便宜上、本項では九月下旬~十月初旬とする。しかし、予定に変更があった場合は、多少、時期がずれ込んでいる可能性がある。 ちなみに、鳩園社『鳩』(第四年二月号)に掲載された記事「海軍でも 民間鳩の買上げ 各倶楽部から八十羽 益々斯界の前途好望」によると、十月に陸軍が民間鳩を官採したとある。この記述に従えば、十月となるが、慎重を期して、九月下旬~十月初旬のままとしておく。 参考文献 『鳩』(第三年九月号) 鳩園社 『鳩』(第四年二月号) 鳩園社 |
昨日より海陸連合演習が実施されているが、本日の午後二時、高橋大尉操縦の海軍機一〇九号が駿河湾沖二十マイルの海上を偵察中、機体故障により墜落する。しかし、携行していた軍鳩を高橋が空に放ったことにより、救助艦が派遣され、事なきを得る。 高橋は軽傷で、損傷した機体は曳航される。 参考文献 『鳩』(第三年十月号) 鳩園社 |
計八日間、動物愛護と趣味普及のため、東京市が上野動物園において、動物陳列観賞会を開催する(公園課主催)。中野の軍用鳩調査委員会が移動鳩車二両を出品し、軍用鳩による往復返信の実際を展示する。また、東京はとの会からは伝書鳩の出陳のほか、小型鳩舎二個を出品し、毎日、会場から放鳩して宣伝に努める。 参考文献 『鳩』(第三年十月号) 鳩園社 |
鳩園社『鳩』(第三年十月号)が発行される。 本号に、慶應義塾普通部内に組織された慶応義塾普通部愛鳩会の話題が載っている。 記事によると、同会は陸軍から移管された軍用鳩をもとに有志が結成し、軍用鳩調査委員・田川潤一郎大尉の指導で研究を進めているという。目下、会員数は一二〇名だが、将来的には普通部だけでなく、大学部へも飼育を勧め、会員三〇〇名を得るのも難事ではないとのことである。 各学校に先んじてこの挙に出でたことは注目に値する、と記事は評価している。 ☆補足 鳩園社『鳩』(第三年十一月号)に掲載された記事「慶応普通部愛鳩会」に、続報が載っている。 同記事によると、慶応義塾普通部愛鳩会には研究希望者がますます増加し、目下、東京はとの会の会員らと連絡を取り、指導者として軍用鳩調査委員の伊東四郎大尉に就き、基礎を固めつつあるという。 参考文献 『鳩』(第三年十月号) 鳩園社 『鳩』(第三年十一月号) 鳩園社 |
東京日日新聞社が、仙台地方でおこなわれた陸軍特別大演習に際し、伝書鳩を用いて仙台~東京間(約三五〇キロ)を通信する。 午前八時、フィルムを背負った鳩が飛び立ち、午後零時四十分、東京日日新聞本社に帰り着く。 参考文献 『伝書鳩の話』 東京日日新聞社/東京日日新聞社 大阪毎日新聞社 『「毎日」の3世紀 新聞が見つめた激流130年』(別巻) 毎日新聞社 |
鳩園社『鳩』(第三年十一月号)が発行される。 本号に、中野の軍用鳩調査委員事務所を、同誌が訪問したときのことが、前々号に続いて、記事になっている。 その内容を以下に紹介しよう。 ・軍用鳩調査委員事務所の玄関を入って、すぐ左側にある部屋が、長谷栄二郎少佐の事務室である。長谷は昨年、白仏(ベルギー、フランス)の鳩界を視察し、その知識を輸入していることから、軍用鳩調査委員会きっての白仏通で、鳩のことに精通している。 ・某氏によると、鳩の「管理規則」を制定するための腹案があり、遠からず公布されるという。 ・調査係と民間鳩係を主任している木場大尉は、気の毒になるほど多忙を極めている。さまざまな調査事項は調査係で一度取りまとめてから上申することになっており、民間鳩係は民間鳩界の全般を処理するので、民間の各鳩団体、愛鳩家らは、頻繁に木場の世話になる。毎日、木場のもとに迷い鳩捕獲の通知が数件あり、その処理をするだけでも大変である。また、放鳩のため外出するので、その準備にも、せわしない。 ・鳩舎係の主任を務めている井崎於菟彦大尉は、長谷川技手、田中、佐々木と、もっぱら固定鳩舎の調査研究に従事している。なお、木場が主任している事務仕事を、以前に数年間、井崎が担当していたので、井崎は民間の愛鳩家にとって、おなじみの人物である。 ・夜間鳩舎係の主任を務めている萩原 泰大尉は、あいにく不在だった。 ・教育係の主任を務めている伊東四郎大尉は、現在、移動鳩舎と夜間鳩舎の収容鳩教育のために、修業下士と修業兵を連れて、戸山ヶ原、代々木ヶ原に出張している。伊東は、東京市民から、鳩の大尉と言われ、尊敬されている。 ・事務主任を務めている田川潤一郎大尉は、同所第一の多忙を極めている。 ・衛生係の主任を務めている竹下憲輔獣医は、松田助手とともに、病理と飼料の研究のため、日々、顕微鏡をのぞいている。しかし、特筆すべき発見はないことから、近くこの研究を終えて、有益な記事を寄せるだろう。 なお、以前に衛生係の主任を務めていた並河才三獣医は、現在、伝染病研究所に入所していて、鳩に関する生理学を研究中である。 ・樋口大尉と有賀氏は、現在、軍用鳩調査委員事務所に勤務しておらず、辞任している。 参考文献 『鳩』(第三年十一月号) 鳩園社 |
飼鳥趣味社『趣味の飼鳥』(大正十四年十一月号)が発行される。 同号に、「海底から放鳩 潜水艦からの通信 試験の結果見事に成功」との題の記事が載る。 それによると、海軍は最近、潜水中の潜水艦から、タイムストップ装置を付した真空管を水上に向けて発射する試験を実施したという。真空管の中には軍鳩が入っていて、水圧の抵抗がなくなったところで扉が開き、そこから軍鳩が飛び出す仕組みになっている。果たして、鳩が真空管内の閉置に耐えられるのか、またタイムストップ装置が正常に作動するのか、呉海軍工廠造船部で実験したところ、水雷発射管から発射された真空管は二分八秒で水上に達し、それと同時に開扉して軍鳩が飛び出し、海軍潜水学校との通信連絡に成功したという。 ☆補足 同時期に、ほぼ同様の実験が民間でも実施されていたようである。 大正十四年十月十五日発行の鳩園社『鳩』(第三年十月号)に掲載された記事「鳩の海中通信」(作・村上鳩翁)によると、日清戦争の際、呉海軍鎮守府造機製図課に修技生として勤務していた村上は、海底と海上との通信連絡に水素ガスを満たしたゴム風船を利用していることにアイデアを得て、伝書鳩に考えが及んだという。伝書鳩を入れた通信筒を海中で打ち出し、それが海上に浮上すると、そこから鳩が飛び出していく仕かけである。そして、今より数年前、疎造器具に鳩を入れて実験し、深海底の圧力に三十分間耐えられることを確認する。それ以後、辛苦の結果、このたび確信を得たので、本年の八月十一日、神戸川崎造船所の松方幸次郎社長に建議し、目下、専門の技術者が通信筒を考案しているという。 参考文献 『趣味の飼鳥』(大正十四年十一月号) 飼鳥趣味社 『鳩』(第三年十月号) 鳩園社 |
東京丸の内ビルヂング八階の精養軒において、東京はとの会の創立三周年祝賀会が開かれる。 会員二十名が出席したほか、軍用鳩調査委員会の田川潤一郎大尉と、横須賀海軍航空隊の喜多山省三少佐の二名が臨席する。 創立功労者である、岩田、師岡、小坂の三名への表彰状贈呈、喜多山少佐、田村、新井の三名の鳩による空中オーケストラ披露、屋上庭園での記念撮影のほか、会員諸氏の鳩一七五羽を集団放鳩して、創立三周年を祝す。 ☆補足 「空中オーケストラ」とは、鳩の一群に笛をつけて放鳩し、その音を楽しむことをいう。鳩が風を切って飛ぶと、笛が鳴る仕組みになっている。 参考文献 『鳩』(第三年十二月号) 鳩園社 |
一九二〇(大正九)年三月十三日に出された訓令「海軍軍鳩ノ実験研究ニ関スル件」(官房第八五二号)に基づく各種の実験研究が、おおむね終了したことを受けて、横須賀海軍航空隊司令が横須賀鎮守府司令長官宛てに、その研究成果をまとめた冊子『軍鳩研究報告』を提出する。 横須賀海軍航空隊司令は、この冊子に添えた報告書において、以下のように述べる(引用文は、一部、カタカナや漢字をひらがなに改めている)
参考として、『軍鳩研究報告』に載っている、軍鳩の価値に関する所見を以下に引用する(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
また、同書は、軍鳩の通信精度について、こう記している(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めている)
艦船や飛行機などにおける、軍鳩の配布基準に関して、同書は、こう記している(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
所要人員に関して、同書は、こう記している(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
掌鳩兵の理想的な教育期間について、同書は、こう記している(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字の表記を改めたりしている)
軍鳩研究経過概要(自大正九年 至大正十四年)について、同書は、こう記している(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字の表記を改めたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695300、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695400、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 |
シリアのフランス外人部隊が三〇〇〇人のドルーズ族に包囲され、危機を迎える。 救援を呼ぶ軍用鳩を放つが、もはや援軍は間に合わない、と指揮官は考える。そのため、フランス外人部隊は最後の突撃を準備する。しかし、そのとき、救援隊が到着し、ドルーズ族を蹴散らす。 フランス外人部隊は、辛くも生き残る。 参考文献 『フランス外人部隊』 柘植久慶/原書房 |
中野の軍用鳩調査委員会は、萩原 泰大尉の甲班と、伊東四郎大尉の乙班に分けて、東京、埼玉、栃木で移動鳩の訓練を実施する。甲班の鳩車には民間から買い上げた鳩を、乙班の鳩車には中野で生まれた仔鳩を収容している。民間鳩の軍事的価値を判定するとともに、鳩車の所式を決定するための大切な試験とあって、部内で重要視される。 なお、民間鳩移動訓練研究要項は、以下のとおり(鳩園社『鳩』〔第四年四月号〕より引用。一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『鳩』(第三年十二月号) 鳩園社 『鳩』(第四年四月号) 鳩園社 |
鳩園社『鳩』(第三年十二月号)が発行される。 本号に、「青森営林局で山火防止に伝書鳩を使ふ」という題の記事が載っている。それによると、青森営林局では山火防止に伝書鳩を利用する方針を固め、試験的に市営林局で鳩飼育をはじめるそうである。来年には、一営林署に十羽ほどを飼育し、管内全部に鳩を普及させる予定だという。 さて、同号にはほかに、中野の軍用鳩調査委員会の動向が載っている。 その内容を以下に紹介しよう。 ・軍用鳩調査委員事務所付の専任委員は、今回、常任幹事に改称する。数名の兼任幹事のほかに、大佐もしくは将官クラスの委員が数名となる。なお、軍用鳩調査委員事務所の長は、専任高級幹事の宮地久衛中佐である。 ・萩原 泰大尉は軍を退き、熊本に帰郷する(少佐に昇進)。木場大尉は鹿児島歩兵第四十五連隊付となり、転出する。一九二一(大正十)年以来、第十九師団の鳩班長を務めていた池田大尉は、陸軍通信学校付となり、軍用鳩調査委員常任幹事として勤務する。 ・新嘱託として北海道帝国大学の小熊 捍教授を迎える。日本の伝書鳩改良について、さらなる努力をなす模様。 ・本年度の鳩通信術修業(二ヶ月間)を終えた修業将校十名は、十二月五日卒業し、各隊に復帰する。修業下士については、歩兵第十三連隊の一野軍曹と、電信第二大隊の諏訪一等卒が好成績を収め、軍用鳩調査委員長の畑 英太郎中将から表彰される。 ☆補足 鳩園社『鳩』(第四年二月号)に掲載された記事「伝書鳩の由来」(談・萩原 泰)によると、萩原予備騎兵少佐は、第一次世界大戦の際、第十二師団副官としてシベリアに赴き、その地で伝書鳩の必要性を痛感し、日本に戻ってから、その道の研究に没頭したそうである。そして、大正十二年、懇望されて軍用鳩調査委員となり、日本鳩界に貢献するが、年来の希望により、現在は郷里の熊本に戻り、老いた父母に孝養を尽くしているという。 参考文献 『鳩』(第三年十二月号) 鳩園社 『鳩』(第四年二月号) 鳩園社 |
航空母艦・若宮が軍鳩の飼養を廃止する。 飼養していた五十五羽の軍鳩は、特務艦・能登呂に移管する。 ☆補足 飼養期間における編成は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695700、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015695700、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 |
特務艦・能登呂が航空母艦・若宮から軍鳩を譲り受け、これを飼養しはじめる(開始鳩数、五十五羽) 二名の将校が軍鳩実験委員となり、ほかに兵二名が軍鳩の飼育訓練に従事する。 ☆補足 水交社『水交社記事』(第二六六号)に掲載された記事「軍鳩(伝書鳩)」(作・内藤啓一)と、海軍大臣官房『海軍制度沿革』(巻十五)の記述に従って、「十二月」を鳩舎設置の月とするが、海軍省『特務艦能登呂研究報告』と、海軍航空本部『海軍航空沿革史』には、「十一月」に鳩舎設置と載っている。 どちらの記述が正しいのか不明。 参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696500、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 |
横須賀海軍航空隊軍鳩研究部の首席研究員(軍鳩主任)が喜多山省三少佐から石川 信大尉に代わる。 鳩園社『鳩』(第四年四月号)に掲載された記事「関西鳩界訪問の所感」(作・石川 信)によると、喜多山は今回、海軍の海上部隊における軍鳩の研究改善にもっぱら従事することになったため、それまで喜多山が務めていた横須賀海軍航空隊軍鳩主任の職を石川が引き継ぐことになったという。 石川の就任のあいさつは、以下のとおり(鳩園社『鳩』〔第四年二月号〕より引用。一部、文字表記を改めたり、誤字を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足 この軍鳩主任の交代に関連して、各人の人事異動も発生している。石井金蔵特務少尉が横須賀海軍航空隊の夜間鳩研究主任へ、潜水母艦・迅鯨の鳩舎主任だった丸山 勉一等兵曹が横須賀海軍航空隊の鳩舎主任へ、横須賀海軍航空隊の鳩舎主任だった鈴木兼吉兵曹が潜水母艦・迅鯨へ、と、それぞれ転任する。 参考文献 『鳩』(第四年二月号) 鳩園社 『鳩』(第四年四月号) 鳩園社 |
横須賀鎮守府基本演習において、軍鳩を通信連絡に用いる(飛行機からの諸緊急通信および不時着水応急用、潜水艦および哨戒艦艇からの戦況報告、館山基地からの報告など) 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08051434100、大正14年 公文備考 巻51 航空(防衛省防衛研究所)」 |
軍用鳩調査委員の井崎於菟彦大尉が陸軍通信学校の教官になる。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和四十四年十一月号) 愛鳩の友社 |
東京日日新聞社事業部が市内の小学校に講師を派遣し、計十八校で「子供の会」を開催する。会の内容は、伝書鳩に関する講演や実習である。 参考文献 『「毎日」の3世紀 新聞が見つめた激流130年』(別巻) 毎日新聞社 |
現時点でのベルギー陸軍における軍用鳩数、二〇〇〇羽(小熊 捍農学博士調査) 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696300、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 |
現時点でのイタリア陸軍における軍用鳩数、四〇〇羽(小熊 捍農学博士調査) ☆補足 一九二五(大正十四)年一月、小熊はローマの鳩舎を見学している。 かつて、フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノの各要塞に鳩舎があったが、昨年の一九二四(大正十三)年に、ローマに全ての鳩が集められる。 小熊によると、各種通信機器の発達と経費の関係上、イタリア軍で軍用鳩は継子のような扱いを受けているという。サンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ聖堂に接した小さな軍用鳩舎に四〇〇羽しかおらず、体格はかなり大きいものの、眼光その他から見て、あまり優秀な鳩とは思えなかったそうである。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696300、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 『鳩』(第三年八月号) 鳩園社 『鳩』(第四年二月号) 鳩園社 |
中野の軍用鳩調査委員会は、昨年に鳩の耐寒試験をおこなっているが、今年もその試験を続け、移動式鳩車の耐寒耐雪試験を実施することになった。 そこで、本日、田川潤一郎歩兵大尉は、軍用鳩四十羽を携行して旭川の第七師団に赴き、雪国での鳩研究に従事する。訓練期間は七日間を予定している。 ☆補足一 鳩園社『鳩』(第四年二月号)に掲載された記事「吹雪の中で軍用鳩の研究」に、続報が載っている。 それによると、先頃、軍用鳩調査委員高級幹事・宮地久衛騎兵中佐と、参謀本部員・西大條 胖大尉が見学のために旭川を訪れたという。 *同記事中、「宗地騎兵中佐」とあるが、正しくは、「宮地騎兵中佐」である。同じく、「参謀本部々員西大條田大尉」とあるのも、「西大條 胖」の誤りと思われる(以上二名、訂正済み) ☆補足二 この耐寒耐雪試験に関係しているのか不明だが、鳩園社『鳩』(第四年二月号)に掲載された記事「迷ひ鳩」によると、先般、中野電信隊の軍用鳩四羽を札幌から旭川に向けて放鳩したところ、寒気と凍靄のため、この四羽が行方不明になっているという。また、旭川第七師団の軍用鳩二十羽を上川郡比布村から旭川に向けて放鳩したところ、これも行方不明になっているそうである。 ☆補足三 鳩園社『鳩』(第四年二月号)に掲載された記事「第七師団は本春は繁殖方針」によると、第七師団の軍用鳩四十羽の訓練主任を務めている、騎兵第七連隊の吉野伍長勤務上等兵は、一時放鳩訓練を中止して、今春は軍用鳩の繁殖に努めるという。 ちなみに、吉野は先頃、中野の軍用鳩調査委員会で鳩術教育を受けている。 参考文献 『鳩』(第四年一月号) 鳩園社 『鳩』(第四年二月号) 鳩園社 |
海軍大臣が横須賀鎮守府司令長官宛てに、「海軍軍鳩ノ実験研究ニ関スル件」(官房第四十一号)を訓令する。 訓令の内容は、以下のとおり(海軍大臣官房『海軍制度沿革』〔巻十五〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、空行を入れたりしている)
以上の訓令に基づき、一九二六(大正十五)年一月~一九二九(昭和四)年三月まで実験研究がおこなわれる。 この期間について、海軍航空本部『海軍航空沿革史』に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている。左記実験訓令とは「海軍軍鳩ノ実験研究ニ関スル件」〔官房第四十一号〕のこと)
続いて、同書に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている。付表第二は省略)
*昭和二年十月より艦上鳩の飼育を廃するが後年また実験を行う、などとある。これは一九三四(昭和九)年四月~八月に敷設艦・厳島が南洋方面において艦上鳩舎の研究を実施していることと、一九三五(昭和十)年五月以降、長江方面派遣艦船に艦上鳩の搭載を試みていることを指す。 ☆補足 一九二八(昭和三)年二月二十二日、海軍省副官より横須賀鎮守府参謀長宛て依命通牒により、「海軍軍鳩ノ実験研究ニ関スル件」(官房第四十一号)が下記のとおり訂正される(海軍航空本部『海軍航空沿革史』より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 |
本日の午後二時頃、香川県綾歌郡坂本村の田中喜八の家に一羽の鳩が迷い込む。 一月二十五日、この迷い鳩が同村の坂出署に届けられる。 調査の結果、一月十七日に高松から善通寺町に向けて放鳩された、第十一師団の軍用鳩と判明する。 参考文献 『鳩』(第四年二月号) 鳩園社 |
川住主任以下の係員により、静岡歩兵第三十四連隊が静岡~三島間の往復鳩訓練をおこなう。 ☆補足 鳩園社『鳩』(第四年二月号)に掲載された記事「静岡連隊使鳩班」の予定に従って上記の内容や日付を記す。したがって、予定に変更が生じていたら、出来事や日付が現実と異なっているかもしれない。 参考文献 『鳩』(第四年二月号) 鳩園社 |
昨年に陸軍が民間鳩の買い上げを試験的に開始しているが、海軍においても、一月末日より、民間鳩の買い上げをはじめる。名古屋好鳩会、名古屋愛鳩倶楽部、京都山城倶楽部、京都競鳩会、京都研鳩会、大阪好鳩会、大阪南鳩会、神戸愛鳩倶楽部の計八団体が対象である。予算の都合上、一羽八円の安値で八十羽が買い上げられるが、これは民間愛鳩家諸氏の犠牲的国家奉仕による。 海軍の石川 信大尉は、以下のように語っている(鳩園社『鳩』〔第四年二月号〕より引用)
☆補足 この民間鳩の買い上げのため、横須賀海軍航空隊軍鳩主任・石川 信大尉と、同隊・遠藤義吉は、一月三十日~二月五日まで、名古屋、京都、大阪、神戸の各地に出張し、二月六日、帰隊する。 参考文献 『鳩』(第四年二月号) 鳩園社 |
有明湾に浮かぶ二十余隻の艦隊のうち、潜水母艦・迅鯨から通信班員が上陸する。そして、午前十一時半、志布志海岸から一〇〇余羽の艦上鳩舎鳩を放鳩する。鳩が潜水母艦・迅鯨に向けて飛翔し帰舎するその美しい光景に見物人が集まり、盛況を博す。 潜水母艦・迅鯨の艦鳩飼育訓練は喜多山省三少佐が主任を務めているが、約八十羽が教育済みで、残りの未教育鳩の訓練も好成績を収めている。また、潜水母艦・迅鯨の移動時における放鳩訓練も良好で、確実に鳩が帰還する。 参考文献 『鳩』(第四年二月号) 鳩園社 |
陸軍軍用鳩調査委員処務規定の一部が以下のとおり決定する(鳩園社『鳩』〔第四年四月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『鳩』(第四年四月号) 鳩園社 |
「軍用鳩調査委員長ヘ与フル訓令」(陸訓第六号)が出される。 これにより、一九一九(大正八)年四月十五日に出された「軍用鳩調査委員長ニ与フル訓令」(陸訓第十二号)が廃止される。 内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031248300、永存書類甲輯第1類 大正15年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足 上記の訓令第二項にある「軍用鳩通信術修業員の教育に関しては別に指示す」については、「軍用鳩通信術修業員教育ニ関スル件」(昭和十一年六月)に詳細が載っている。 以下に引用しよう(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01006002800、永存書類甲輯 第4類 第1冊 昭和11年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031248300、永存書類甲輯第1類 大正15年(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01006002800、永存書類甲輯 第4類 第1冊 昭和11年(防衛省防衛研究所)」 |
一部、発動機に改正を加えられた、所沢陸軍飛行学校所属の甲式四型戦闘機が、試験飛行中に消息を絶つ。しかし、午後二時半、同機が千葉県松戸付近の江戸川沿岸に着陸していることが軍用鳩通信によってもたらされる。 参考文献 『鳩』(第四年四月号) 鳩園社 |
岩田 巌少佐が『伝書鳩』を出版する。大日本軍用鳩協会『軍用鳩』(昭和十九年九月号)に載った記事「軍鳩の参考書」(作・山本直文)において、同書は、こう評されている。
*「以上の二書」とは、武知彦栄『伝書鳩の研究』と岩田 巌『伝書鳩』のこと。 ☆補足一 岩田 巌『伝書鳩』は、関東大震災前(大正十二年九月一日以前)に発刊していたが、この天変地異の影響によって原版を焼失し、絶版になっている。しかし、一九二六(大正十五)年二月二十五日、愛鳩家の熱望を受けて改正増訂版を再刊する。それが本書である。当初は、『伝書鳩飼育の手ほどき』、または『伝書鳩の飼育と訓練』に改題する予定だったが、結局、旧題の『伝書鳩』のまま、復刊を果たす。 ☆補足二 岩田 巌『伝書鳩』の自序に、以下の一文がある。
一般的に鳩の雌雄を判別するのは困難で、外貌などをもとに職人芸的におこなわれる。 ルネ・クレルカン砲兵中尉がこの技術に優れていて、一〇〇羽中九十五羽を言い当てることができたという。軍用鳩調査委員会の井崎於菟彦は、その神技を伝授してほしいとクレルカンに何度も頼むが、とうとう教えてもらえなかったそうである。クレルカンが秘技を出し惜しみしたのではなく、指先の微妙な感触などをもとに雌雄を判定するので、口で言い表せるようなものではなかったらしい。 さて、上記引用文の執筆者である岩田も、この問題に取り組んでいて、長年の研究の結果、科学的な方法に行き着く。体格、鼻瘤、鳴き声といった、もろもろの不確定な要素を積み上げて雌雄を判定するのではなく、鳩の総排出腔(正確ではないが、くだけていうと肛門)の形を検査して雌雄を見分けるのである。当時、この方法が珍しかったことから、上記引用文にあるとおり、「江湖に発表し得るの機会に到着した」と、岩田はその喜びを巻頭に記したように思われる。 ちなみに、この岩田の研究にどこまで影響を与えているのか分からないが、佐々木 勇『北国の鳩界』(昭和十年四月二十日発行)によると、一九二五(大正十四)年に、ニワトリの初生雛のクロアカ(総排出腔)による雌雄鑑別を農林省畜産試験場が発見しているという。同試験場の増井 清獣医学博士および橋本重郎農学士の世界的な業績であるらしい。そして、今日においては、ヒヨコの雌雄鑑別は日本人の特技の一つとされていて、日本の若い青年が技術者として高給をもって海外から招聘を受けているほどだという。 ところで、今、名の挙がった増井 清博士は、一九三一(昭和六)年十二月の『中外商業新報』に掲載された記事「雌雄鑑別の研究について」(作・増井 清)において、岩田の『伝書鳩』に言及している。 以下に紹介しよう(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 畜産業(4-127) 中外商業新報 1931.12.1-1931.12.5 (昭和6)より引用)
参考文献 『伝書鳩』 岩田 巌/科学知識普及会 『軍用鳩』(昭和十九年九月号) 大日本軍用鳩協会 『愛鳩の友』(昭和四十九年九月号) 愛鳩の友社 『鳩』(第三年新年号) 鳩園社 『鳩』(第三年十二月号) 鳩園社 『北国の鳩界』 佐々木 勇 「雄鷄に於ける退化交尾器官並に初生雛の雌雄の鑑別に就て」 増井 清 橋本重郎 大野 勇 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jvms1888/38/4/38_4_277/_pdf/-char/ja 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 畜産業(4-127) 中外商業新報 1931.12.1-1931.12.5 (昭和6) |
横須賀鎮守府司令長官が海軍大臣に宛てて、「海軍軍鳩ノ実験研究ニ関スル件」を上申する(横鎮第一〇七号ノ八) これは先に出された官房第四十一号訓令に基づく海軍軍鳩の実験研究計画で、横須賀海軍航空隊、横須賀防備隊、舞鶴防備隊、佐世保防備隊、大村海軍航空隊、潜水母艦・迅鯨、特務艦・能登呂が参加する(後に、呉防備隊、鎮海防備隊、霞ヶ浦海軍航空隊、大湊防備隊、馬公防備隊が加わる) 計画の概要は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015697000、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、漢字表記を変更したり、誤字を修正したり、空行を入れたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015697000、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 |
午後三時頃~午後五時まで、鳩園社の記者が中野の軍用鳩調査委員会を取材する。そして、そのときの様子を「中野軍用鳩会話」(作・B記者)として、大正十五年四月号および五月号の鳩園社『鳩』に掲載している。 筆者(私)の興味を引いた内容を、いくつか紹介しよう。 ・旧型の移動鳩車(七、八十羽収容)と、新型の移動鳩車(四十羽ほど収容)があり、馬で牽引する。鳩車の裏手にある、網のようになっている窓から鳩が入舎する。 なお、日本軍のものとは型の異なる、第一次世界大戦で用いられたフランス軍の移動鳩車が一部ある。 ・鳩舎は八棟あり、仙台方面担当の前衛と、東海道方面担当の後衛に区別して研究されている。成績は、仙台方面から帰還してくる鳩の失踪率が高いが、関東大震災の際に活躍した鳩は、この仙台方面の鳩舎にいた。 ・夜間通信鳩を入れている夜間鳩舎がある。生後二十二、三日くらいの雛鳩が適当で、訓練は夕方から開始し、十分、十五分と次第に時間を延ばしていき、一ヶ月ほど暗さになれさせる。給餌の際は、最初は明るいところで食べさせるが、だんだんと暗くしていき、電光によって窓から餌を差し入れる。中野のC担当書記によると、「夜間鳩には成るべく昼間の光線をゐれない習慣をつけております」とのことである。 ・現在、八号鳩舎において、大体、大正十二年産の親鳩に雛を抱かせている。事務室に出している統計表の順序によって卵が孵化している。 また、巣立室として使っている鳩舎があり、フランスおよびベルギー産の雛鳩がいる。 参考文献 『鳩』(第四年四月号) 鳩園社 『鳩』(第四年五月号) 鳩園社 |
陸軍記念日を迎えた本日、山口県の下関では軍用鳩と民間鳩の記念放鳩がおこなわれる。 また、下関要塞司令部においても、一〇〇羽の軍用鳩が空に放たれる。 参考文献 『鳩』(第四年四月号) 鳩園社 |
三月十四日と二十日の両日、静岡県の三島町付近において、軍用鳩調査委員・長谷栄二郎少佐統裁のもと、池田大尉率いる使鳩一小隊(小型鳩車 四)が軍用鳩の通信演習を実施する。当日は、三島重砲兵旅団の将校、下士がこの演習を見学する。 参考文献 『鳩』(第四年四月号) 鳩園社 |
中野の軍用鳩調査委員会で、鳩舎鳩の一番仔の孵化が一〇〇〇羽を突破する。今年は三番仔まで計三〇〇〇羽の仔を取る予定だという。 ☆補足 中野の軍用鳩調査委員会が民間に鳩を放出する際は、一番仔や二番仔は払い下げなかったといわれている。余剰になった鳩を払い下げるだけで、優秀な鳩は温存していたらしい。 一般的にいって、鳩は一番目に生まれたものが一番よい、と認識されている。 極端な愛鳩家になると三番仔には脚環を装入しないという者までいるそうである。 一番仔を尊ぶ論拠については、さまざまに言われているが、要するに、健康面などの点で好ましいのだという。種鳩が卵を産んで、これを育てると、その分だけ消耗していくので、その影響が残るのである。たとえ、仮母を利用して子育ての労苦を軽減したとしても、根本的な状況は変わらない。一番仔を尊ぶ理由は、それなりに理にかなっている。 もちろん、一番仔だからといって、二番仔や三番仔よりも優れているとは限らない。人間の一番仔、すなわち、その長男や長女が一番優れているとは限らないのと同様である。 参考文献 『鳩』(第四年四月号) 鳩園社 『愛鳩の友』(昭和三十四年九月号) 愛鳩の友社 |
海軍潜水学校が軍鳩の飼養を廃止する。 ☆補足 海軍潜水学校は、この時点で、四十八羽の軍鳩を飼養していたが、その行方がはっきりしない。 他部署に移管したか、民間に払い下げたように思われる。 参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 |
この日、北海道帝国大学の小熊 捍農学博士(軍用鳩調査委員会嘱託)と、軍用鳩調査委員の竹下憲輔獣医が大阪を訪問する。そして、二日間にわたり、大阪鳩界を見て回った後、次は四国に渡り、高知方面の状況を確認する。 四月十八日、竹下は東京に戻るが、小熊はさらに九州に渡り、鳩界の視察とその研究を続ける。 参考文献 『鳩』(第四年四月号) 鳩園社 |
鳩園社『鳩』(第四年四月号)が発行される。 本号に紹介されている、軍用鳩に関する話題を、いくつか紹介しよう。 ・一九一九(大正八)年以来、伊東四郎大尉は軍用鳩調査委員として、主に通信器材自動車の主任を務めてきたが、今回、近衛歩兵第二連隊に転任することになり、軍用鳩調査委員を免じられる。 ・軍用鳩調査委員だった萩原 泰少佐の予備役編入後、井崎於菟彦大尉が民間鳩の移動訓練試験を引き継いでいたが、それが終了したので、現在、同大尉と八木 勇中尉が報告書を作っている。 ・国泰寺の辺りから広島第五師団に飛んでくるドバトが、最近はめっきり数を減らす。また、そのドバトが意気消沈し、栄養不良に陥る。 二、三ヶ月前、軍馬に与えている飼料を麦から大豆かすに変更したのが原因らしい。軍馬の飼料は麦と決まっているが、大豆かすは栄養価が高く、肥料に使用される馬ふんの品質にも遜色がなかったので、今回、試しに採用する。しかし、そのせいで、馬ふんに含まれる麦粒をドバトがついばめなくなり、先に述べたような状態になる。 ・毎朝、名古屋第三師団司令部の通信班は、軍用鳩を使って、各務ヶ原に通信をもたらす。そして、この軍用鳩を訓練するために、舞鶴公園や覚王山の大灯籠付近などに鳩車を整置する。松田輜重兵中尉指揮のもと、歩兵第六連隊・市岡軍曹、野砲第三連隊・横井一等卒、歩兵第六連隊・竹居一等卒がこの任務に当たる。全員、鳥類好きで、丹精込めて鳩の世話をしつつ、余暇には歩兵操典を読みふけっている。 ・第九師団の鳩班長を務め、軍用鳩の研究を一年半ほど続けていた柴野為亥知中尉が更迭され、歩兵第七連隊付となる。後任は歩兵第三十五連隊第十中隊付の伊東武敏中尉である。 ・秋田県の、象潟、金浦、平沢、本荘などから放鳩した、歩兵第十七連隊の軍用鳩十二羽のうち、六羽(雄二羽、雌四羽)が、未帰還だという。六羽はいずれも未訓練鳩で、吹雪のためにどこかに迷い込んでいるものと思われる。 ・近衛師団の往復通信の利用は日本一であろう。同師団の鳩班は、一月十九日に近衛師団司令部~立川間(約九里)、一月二十一日に近衛師団司令部~四街道間(約十里)の実用通信を、それぞれ開設する。続いて、二月十一日に近衛師団司令部~習志野間(約八里)、二月十四日に近衛師団司令部~所沢間(約八里)、二月十五日に近衛師団司令部~千葉市間(約九里)を、同じく開通させている。 ・伝染病研究所の並河才三獣医は、鳩のミューゲ病の研究をおおむね終えたので、近くその研究成果を発表するという。 ・安東県の鴨渾水上警察庁は、昨年来飼育中の伝書鳩六羽が通信任務をよく果たしていることから、解氷を待って、安東憲兵分隊の鳩舎班と連係し、鴨緑江岸で伝書鳩の訓練を実施するという。 参考文献 『鳩』(第四年四月号) 鳩園社 |
午前十時、中野の軍用鳩調査委員会の長谷川技手が、ぜんそく性気管支炎により死去する。長谷川はかつて、宮内省の狩猟寮に勤めており、鳥類の飼育訓練に関して、名のある人物だった。その後、軍用鳩界に入り、昨年、技手に昇進する。そして、その秋には民間鳩購買のため、軍用鳩調査委員の長谷栄二郎少佐に同行して関西を訪れている。 四月二十六日、浅草で葬儀がおこなわれ、中野の軍用鳩関係者らが参列する。 参考文献 『鳩』(第四年五月号) 鳩園社 |
福知山歩兵第二十連隊の軍旗祭がおこなわれる。 軍用鳩に鳩の笛をつけて飛ばす空中オーケストラが披露され、居並ぶ将校連をあっと言わせる。 参考文献 『鳩』(第四年五月号) 鳩園社 |
鳩園社『鳩』(第四年五月号)が発行される。 本号に紹介されている、軍用鳩に関する話題を、いくつか紹介しよう。 ・近衛歩兵第二連隊に転任した伊東四郎大尉に代わり、大阪歩兵第三十七連隊の柿本貫一中尉が軍用鳩調査委員として中野に赴任する。 柿本は、第一回の軍用鳩修業将校で、シベリア出兵の際は鳩通信班付として現地に赴く。そして、帰還後は、大阪第四師団の軍用鳩主任を務める。 ・長い間、懸案になっていた鳩車の所式が、四十羽入り一馬曳小型鳩車に決定する。この小型鳩車は日本軍独特のもので、活躍が期待されている。 現在、日本自動車会社で十数両を製作中である。 ・従来、陸海軍は軍鳩研究を互いに秘密にしていたが、最近は国家的な見地から集合研究を実施していて、双方の交流が盛んである。中野軍用鳩調査委員会から横須賀海軍航空隊へ、横須賀海軍航空隊から中野軍用鳩調査委員会へ、というように、陸海軍将校が頻繁に往来し、研究内容を交換している。 ・予算の都合上、数年前から各地の午砲が廃止されている。 近く熊本市の午砲台も廃止されるが、熊本第六師団はここに遠距離通信用の固定鳩舎を新設すべく、現在、設計中である。完成後は、軍用鳩五十羽を中野から移管し、門司、長崎、奄美大島の要塞地等と通信するという。 ・岐阜憲兵隊では、前任の河内隊長当時に三羽の鳩を飼っていて、その数を五、六羽に増やしていたが、最近、夜間鳩舎に野良猫が侵入し、一羽だけになる。 ☆補足 ほかに、本号には、「放鳩訓練出張者に対する指示事項」(作・軍用鳩調査委員)が載っている。 以下に引用しよう(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、誤字を修正したり、空行を入れたりしている)
大関しゅん『鳩とともに ある鳩取扱兵の物語』によると、鳩取扱兵たちは毎日、徒歩または自転車で輸送籠を背負って遠方に出かけ、各個放鳩または集団放鳩の訓練を交代制でおこなうという。ただし、外出だからといって、遊んでいるわけにはいかなかったそうである。 参考文献 『鳩』(第四年五月号) 鳩園社 『鳩とともに ある鳩取扱兵の物語』 大関しゅん/銀河書房 |
摂政宮裕仁親王の中国三県行啓の際、尾道愛鳩倶楽部の伝書鳩が鞆~尾道間(約十一海里)の動静を伝える。 通信内容は、以下のとおり(鳩園社『鳩』〔第四年六月号〕より引用)
*摂政宮裕仁親王は後の昭和天皇。 参考文献 『鳩』(第四年六月号) 鳩園社 |
大村海軍航空隊が軍鳩を飼養しはじめる(開始鳩数、三十羽) 参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 |
計五日間、大阪長堀橋の高島屋呉服店(三階)において、「鳩に関する展覧会」が開催される(鳩園社主催、陸海軍当局ほか後援) 軍用鳩、観賞鳩、標本、鳩車、鳩用器具、飼料、賞状、薬品、写真、書籍、優勝旗など、官民から七四〇点の出品があり、来場者に対し、絵はがき(数万枚)や佐伯克巳『伝書鴿飼養の手ほどき』が配布される。 展開会の開催前、約五〇〇〇枚のポスターを配って全国的に宣伝し、大阪の各新聞社がこの展覧会の開催を報じたので、いやが上にも盛り上がり、期間中、五万名の観客が会場に足を運ぶ。 展覧会の期間中、毎日、百数十羽の鳩を楼上から放鳩して興を添え、一日に二回、陸海軍の軍鳩、ドイツ軍用鳩の活躍状況、大阪毎日新聞社の伝書鳩訓練など、各種フィルムの上映会を催す。 ☆補足一 六月九日の午後、堺大浜の茅海楼(階上大広間)において、「鳩に関する展覧会」の役員慰労清宴が開かれる。 大阪毎日新聞社、大阪好鳩会、大阪南鳩会、鳩園社などの関係者が集う。 ☆補足二 佐伯克巳『伝書鴿飼養の手ほどき』の目次は、以下のとおり(一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『鳩』(第四年六月号) 鳩園社 『鳩』(第四年七月号) 鳩園社 『伝書鴿飼養の手ほどき』 佐伯克巳/鳩に関する展覧会 |
松本歩兵第五十連隊と高崎歩兵第十五連隊の間で、軍用鳩通信の実験がおこなわれているが、筑摩アルプス連峰が非常な難所になっていて、不成功に終わっている。しかし、本日、高崎歩兵第十五連隊から午前九時五十分に飛び立った軍用鳩が、午前十一時三十分、松本歩兵第五十連隊に到着する。放鳩された六羽のうち一羽の失踪を出すが、今回はじめて、完全に近い成功を収める。 参考文献 『鳩』(第四年七月号) 鳩園社 |
午後六時、板屋橋北詰の大紙倶楽部において、全国愛鳩家懇親大会が開かれる。 これは、現在開催中の「鳩に関する展覧会」に関連していて、鳩界関係者四十数名が一堂に会する。 陸軍の井崎於菟彦大尉、海軍の石川 信大尉、大阪府の坂井勝一農務課長などが、それぞれ意見を述べる。 午後九時過ぎ、散会する。 参考文献 『鳩』(第四年六月号) 鳩園社 『鳩』(第四年七月号) 鳩園社 |
本年の六月中旬~八月中旬にかけて、全国の各師団に、以下の羽数で補充鳩を交付することとなり、去日、中野の軍用鳩調査委員会は各希望部隊にその旨を通報する。 近衛師団 三十羽 六月中旬 第二師団 三十羽 七月中旬 第三師団 四十五羽 七月中旬 第四師団 三十羽 八月中旬 第五師団 三十羽 八月中旬 第六師団 六十羽 八月中旬 第七師団 二十六羽 八月中旬 第九師団 一二〇羽 七月中旬 第十師団 二十羽 七月中旬 第十一師団 四十羽 八月中旬 第十二師団 四十羽 八月中旬 第十四師団 四十羽 六月中旬 第十六師団 五十羽 七月中旬 飛行第一連隊 二十羽 六月中旬 飛行第四連隊 三十羽 七月中旬 所沢飛行学校 二十羽 六月中旬 野戦砲兵学校 四十羽 六月中旬 なお、補充鳩の受領に関する備考は、以下のとおり(鳩園社『鳩』〔第四年七月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足 軍用鳩調査委員会は、全国の各師団に約一〇〇〇羽の鳩を補充し、予定どおり、八月十五日をもって本年度の交付を終える。 参考文献 『鳩』(第四年七月号) 鳩園社 『鳩』(第四年九月号) 鳩園社 |
鳩園社『鳩』(第四年六月号)が発行される。 本号に紹介されている、軍用鳩に関する話題を、いくつか紹介しよう。 ・姫路白鷺愛鳩会は、先に姫路市で開催された国産業博覧会において、会場中央の広場に鳩舎を設置する。また、第十師団に移動鳩舎の参加を依頼して軍用鳩の飼育と繁殖の様子を展示する。 余興として、鳩の空中オーケストラと、飛行機上からの放鳩を来場者に披露する。 ・第九師団司令部の鳩班では、午前八時三十分と午後三時三十分の二回、三十分~一時間の間で、鳩に舎外運動をさせている。また、午前八時に、富山歩兵第三十五連隊に鳩を飛ばして往復通信の訓練をする。通信成績は良好で、五十キロほどの距離を三十分で到達する。 鳩班には、成鳩四十七羽、雛鳩十九羽がいる。この雛鳩は第一回交尾によって生まれているが、これが鳩班初の作出となる。そのため、かなり失敗したらしく、現在、第二回目の作出に注意を払っている。 鳩班は今月に入ってから班を二つに分けて訓練を進めている。一班を出羽町練兵場に差し向け一週間、もう一班を野村練兵場に月末まで止めて、移動訓練をする予定になっている。本年度の師団演習を見越した訓練だという。 ・現在、松山歩兵第二十二連隊には十四羽の軍用鳩がおり、毎日、兵隊が軍用鳩を籠に入れて放鳩訓練している。四方十里くらいの放鳩であれば、必ず軍用鳩が帰ってくるという。 ・陸軍当局は朝鮮博覧会に陸軍館を設置して、新兵器や新戦術の周知および宣伝に努めている。工兵部隊の伝書鳩通信班も鳩通信の実況を一般に展示する。第二会場の景福宮広場に鳩舎を置いて、鳩通信班長・平井中尉指揮のもと、午前九時と午後四時の一日二回、鳩笛を付した軍用鳩数十羽を飛翔させる。また、午後一時から三十分ごとに、第一、第二、第三の各会場に鳩通信で連絡し、観覧に供する。 参考文献 『鳩』(第四年六月号) 鳩園社 |
過般来、和歌山歩兵第六十一連隊では軍用鳩の訓練をおこなっているが、今回、大阪第四師団司令部に鳩班分遣所を設置し、毎月二回、大阪と通信文のやり取りをすることになる。 この日、試しに和歌山から軍用鳩を放鳩したところ、良好な成績を収める。 参考文献 『鳩』(第四年六月号) 鳩園社 |
「台北の鳩の父」と呼ばれている西村大尉が十羽の鳩を携行して桃園公園運動場に向かう。 午前九時五十五分、鳩に通信文を付して、台湾日日新聞社宛てに放鳩する。しかし、道に迷ったらしく、午後四時三十二分、だいぶ遅れて鳩が帰還する。 通信文の内容は、以下のとおり(鳩園社『鳩』〔第四年六月号〕より引用)
参考文献 『鳩』(第四年六月号) 鳩園社 |
軍用鳩調査委員会は一九二〇(大正九)年に定められたままの民間伝書鳩の奨励規定を改定し、本日より新規定に切り替える。 大体の内容は、以下のとおり。 ・第一距離の測定法を直線距離としたこと。 ・第二脚環には鳩の誕生地、系統、年齢等を明記して鳩の個性を認めたこと。 ・放鳩時には陸軍の立会証明書、審査証明書を送付すること。 等。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十五年七月二日付) 東京朝日新聞社 |
京都の岡崎公園において、こども博覧会が開かれる(大阪毎日新聞社、東京日日新聞社、両社主催) 京都の鳩クラブが連合し、毎日曜および祭日に、愛鳩家の鳩を集めて会場から集団放鳩する。 ☆補足 上記の一文は、鳩園社『鳩』(第四年七月号)に掲載された記事「こども博と鳩」に載った予定に従って記す。したがって、予定に変更が生じていたら、出来事や日付が現実と異なっているかもしれない。 参考文献 『鳩』(第四年七月号) 鳩園社 『皇孫御誕生記念 京都こども博覧会誌』 大阪毎日新聞社 |
横須賀愛鳩倶楽部が伝書鳩の普及と宣伝のため、横須賀で開催された軍港博覧会に、以下のものを出陳する。ベルギー系統の伝書鳩百数十羽、食用鳩、観賞鳩、各種図書、ポスター、感謝状、賞状、内外の鳩具付属品など。また、田村式トラップの実地入舎訓練の様子を来場者に展示する。 ほかに、例日の午後二時と午後五時の二回、鳩の一群に笛を付して放鳩する空中オーケストラを披露する。そして、会場と本部間を鳩で通信し、田村、佐藤、中田らの横須賀愛鳩倶楽部の幹部が、伝書鳩について詳しく説明する。後に、これがきっかけになって、横須賀愛鳩倶楽部は多くの新入会員を獲得し、軍港博覧会を総裁する平山威信から感謝状を贈られる。 参考文献 『鳩』(第四年九月号) 鳩園社 |
福山歩兵第四十一連隊に広島第五師団から軍用鳩八羽が送付される。 以後、同連隊は、軍用鳩の通信訓練をはじめる。 参考文献 『鳩』(第四年七月号) 鳩園社 |
鳩園社『鳩』(第四年七月号)が発行される。 本号に、軍用鳩調査委員会が改正通牒した「民間伝書鳩競飛賞状交付規定」が載っている。 以下に引用しよう(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、誤字を修正したり、空行を入れたりしている)
☆補足 本号にはほかに、軍用鳩に関する話題が載っている。 以下に紹介しよう。 ・昨年以来、名古屋第三師団の鳩通信班は、以下の四ヶ所において往復通信を実施している。師団司令部~豊橋歩兵第十八連隊間(片道七十五キロ)、師団司令部~各務原飛行第一連隊間(片道三十キロ)、豊橋歩兵第十八連隊~浜松同隊分屯大隊間(片道三十キロ)、静岡歩兵第三十四連隊~三島野戦重砲兵第一旅団間(片道五十三キロ)。いずれも通信成績は良好である。 なお、現在、第三師団では、十二羽入りの自転車曳鳩車を使って移動鳩の訓練をしているが、八月より一馬曳小型鳩車の訓練もはじめるという。 ・富山歩兵第三十五連隊の鳩班は、第九師団司令部との往復通信を一日に一回おこなっているが、七月一日より午前と午後の毎日二回実施することになり、現在、その準備を進めている。 参考文献 『鳩』(第四年七月号) 鳩園社 |
羅南(朝鮮)の野砲兵第二十五連隊が、第二期検閲終了の慰安会を独津(日本海沿岸)で開く。 余興としておこなわれた地引き網では、秋本喜一郎中尉と角田伍長が日々訓練している軍用鳩(十羽)が活躍する。これを鳩通信手が携行して出張し、マグロが五匹捕れたので料理人の手配を頼むうんぬん、と連隊炊事班宛てに通信したのである。 その後の夕食では、町からやってきた料理人がマグロをさばき、連隊の将兵八〇〇名が舌鼓を打つ。 参考文献 『鳩』(第四年九月号) 鳩園社 |
午後四時、鉄道局食堂において、第二十師団の龍山使鳩隊長である平井中尉が、「伝書鳩の利用と鉄道」という題で講演をおこなう。 参考文献 『鳩』(第四年九月号) 鳩園社 |
横須賀軍港に停泊中の巡洋戦艦・榛名、巡洋戦艦・金剛、練習特務艦・富士から、艦載水雷艇三隻が隅田川に派遣される(練習特務艦・富士の山崎大尉指揮) 水雷艇には、軍用鳩、測量機その他が満載されていて、水路調査を実施する。 ☆補足 『東京朝日新聞』(大正十五年七月二十二日付。夕刊)に載った予定に従って上記の内容や日付を記す。したがって、予定に変更が生じていたら、出来事や日付が現実と異なっているかもしれない。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十五年七月二十二日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
参謀本部第一課は、課員の吉積正雄大尉の担当により、軍用鳩教範の編纂を進める。現状、軍用鳩に関する、拠るべき典範類が存在しないことから、編制や動員を担当する第一課が典範編纂に従事したのである。しかし、典範を編纂するうえで問題があった。軍の運動戦に軍用鳩が追随して通信機能を発揮できるのか、少しも研究が積まれていなかったのである。そのため、原則を掲げられず、その編制装備をどのようにすればよいのか決定できないでいた。 そこで、この月、岩沼~仙台間で試験する。 そうしたところ、通信所の移転を甚だしくおこなわない限り、運動戦においても軍用鳩通信が可能であると実証される。 ちなみに、第一線から放鳩するには、前夜に通信所の鳩車から鳩を取り出す必要があるが、軍用鳩調査委員の将校がこれに異議を唱える。 夜間に明かりをつけて鳩車に入ると鳩が驚いて喧噪し、その能力が低下するため、昼間にすべきであり、夜間の鳩車移動についても、鳩の能力低下を招くので避けた方がよいとのことである。 しかし、参謀本部第一課長の小磯国昭大佐は、鳩の第六感を人間の常識で推論したもののように疑い、殊更に実験をおこなう。すると、軍用鳩調査委員の意見は正しくなかったことが判明する。夜間に明かりをつけて鳩車に入っても鳩は少しも喧噪せず、夜間に鳩車を移動させても鳩の通信能力に低下は見られなかった。 以上の試験結果を受けて、鳩班の編制装備、鳩および鳩車の取り扱い、鳩通信所位置の選定法など、各種の問題が解決する。 ☆補足 上記の一文は、小磯国昭『葛山鴻爪』の記述をもとに記す。 著者の小磯は、軍用鳩調査委員の危惧を取り合っていないが、同委員の指摘は、鳩に関する一般論としては妥当である。 参考文献 『葛山鴻爪』 小磯国昭/中央公論事業出版 |
全国少年団連盟が愛知県額田郡美合村平地原に野営する。その際、後藤長三郎の飼育する伝書鳩・金城号が通信の一切を担う。 八月四日には、東京少年団総長・後藤新平子爵に送った鳩が、祝賀文を携行して帰還する。 ☆補足 野営前に、名古屋の鶴舞公園で結盟式を挙行する。 そのとき、伝書鳩に鳩笛を付して放鳩する、空中オーケストラが披露される。 この伝書鳩も、後藤長三郎が供する。 参考文献 『鳩』(第四年九月号) 鳩園社 |
同日付の『大阪朝日新聞』の記事によると、予算の都合上、朝鮮国境の守備は、一個小隊または一個分隊ほどの小部隊が平均二十里の距離を隔てて無人の地に駐屯しているだけだという。この小部隊が、大部隊の馬賊や不穏な朝鮮人らの襲撃を受けた場合、有線電信ならびに軍用鳩で連絡を取るが、有線電信はしばしば切断され、軍用鳩も森林地帯であるために猛禽類に補食されてほとんど用をなさず、そのため、部隊が孤立に陥り、思わぬ犠牲を出すことが頻々に起こるそうである。 そこで、兵力の増加は難しいので、せめて通信連絡方法だけでも改善することになり、今回、各駐屯部隊に無線電話を設置するという。 参考文献 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 軍事(国防)(17-117) 大阪朝日新聞 1926.8.5 (大正15) |
本日付の『読売新聞』の記事によると、目下、仙台第二師団は小規模の諸兵連合演習をおこなっているが、同演習に中野電信隊の軍用鳩千数百羽が参加しているという。演習の結果いかんにより、陸軍の軍用鳩通信に多少の変革が加えられるとのことである(軍用鳩演習は八月十三日終了予定) 参考文献 『読売新聞』(大正十五年八月十一日付) 読売新聞社 |
秩父宮雍仁親王の穂高登山に際し、この日の黎明、東京日日新聞社が十二羽の伝書鳩を山上から飛ばす。正午までに九羽が無事に帰還し、秩父宮雍仁親王の写真や記事などを東京日日新聞本社に届ける。 参考文献 『伝書鳩の話』 東京日日新聞社/東京日日新聞社 大阪毎日新聞社 |
午後六時、山口県岩見島西沖合で漁業中の大削春吉が、『迅鯨』二七、と羽根に記された軍鳩を保護し、三津警察署に届け出る。 ☆補足 日本海軍の潜水母艦・迅鯨の軍鳩と思われる。 参考文献 『鳩』(第四年九月号) 鳩園社 |
八月二十六日から四日間、北海道旭川付近の美瑛陸軍演習地において、陸軍科学研究所が毒ガス試験をおこなう。野砲の弾に毒ガスを装填して発射し、鳩にいかなる影響があるのか調査する。この実験のため、中野の軍用鳩調査委員会から井崎於菟彦大尉が出張し、鳩車二両と鳩を現地に携行する。 試験項目は、以下のとおり(鳩園社『鳩』〔第四年九月号〕より引用。一部、漢字をひらがなやカタカナに改めたり、文字表記を改めたりしている)
ちなみに、軍用鳩調査委員会は八月上旬に、この毒ガス試験に供する鳩二五〇羽を大阪好鳩会と大阪南鳩会から購買する。 両会とも、その事情を了解し、陸軍に協力したという。 ☆補足一 毒ガス試験を担当した井崎は、九月に帰京する。 ☆補足二 防毒研究会『米国陸軍瓦斯防護教令』に、以下の記述がある(引用文は一部、漢字をひらがなやカタカナに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『鳩』(第四年九月号) 鳩園社 『鳩』(第四年十月号) 鳩園社 『米国陸軍瓦斯防護教令』 防毒研究会 |
午後四時頃、大分県東国東郡上国崎村の有松寛次郎が自分の畑で一羽の鳩を保護する。 「チー・エス・ゼット」という字の入ったアルミニウム製の脚環をつけていることから軍用鳩と思われる。 ☆補足 上記の一文は、鳩園社『鳩』(第四年九月号)に掲載された記事「迷ひ鳩」をもとに記す。 「チー・エス・ゼット」とあるが、「チー」は「ヂー」の誤植かもしれない。すなわち、「GSZ」の可能性がある。 参考文献 『鳩』(第四年九月号) 鳩園社 |
東京日日新聞社主催の那須野夏季自由学園において、東京日日新聞社は、伝書鳩を使ってその様子を伝える。 澄宮(後の三笠宮崇仁親王)来訪時には、同宮を写した写真を伝書鳩が運ぶ。 参考文献 『「毎日」の3世紀 新聞が見つめた激流130年』(別巻) 毎日新聞社 |
八月二十日、鬼熊こと岩淵熊次郎は、痴情のもつれから交際相手の女らを殺害し、山奥に行方をくらます(通称・鬼熊事件。四名殺害、三名負傷、家屋放火全焼)。警察は包囲網を敷いて鬼熊を逮捕しようとするが、事件発生から一ヶ月半近くたった九月三十日、鬼熊が服毒自殺したことによって事件が収束する。この間、新聞紙上で事件報道が過熱し、現地の通信機関の不備から、各社は伝書鳩を用いて記事や写真を本社に届ける。 東京朝日新聞社では、九月三十一日の午前八時二十分、多古山中で三羽の伝書鳩を放ち、この三羽は曇天小雨の悪天候の中を一時間二十五分で飛んで、本社に記事と写真を送り届ける。これにより、東京朝日新聞社は、その日の夕刊に記事を間に合わせている。 東京日日新聞社では、九月十五日から連日、五羽~十羽の伝書鳩を出動させて事件報道に役立てている。 参考文献 『伝書鳩』 東北鳩協会青森支部 『「毎日」の3世紀 新聞が見つめた激流130年』(別巻) 毎日新聞社 |
富士山麓を巡遊中のスウェーデン皇太子――グスタフ・アドルフおよび同妃が富士の秀麗に接し、また、山梨県下の小学児童の大歓迎を受ける。この際、ルーデベック東宮武官は、駐日スウェーデン公使のオスカー・エヴェルロフに宛てて、以下の内容を本国に打電するよう、東京日日新聞社の伝書鳩を利用して依頼する(東京日日新聞社『伝書鳩の話』より引用)
エヴェルロフは東京日日新聞社に対し、以下のように述べる(東京日日新聞社『伝書鳩の話』より引用)
参考文献 『伝書鳩の話』 東京日日新聞社/東京日日新聞社 大阪毎日新聞社 『「毎日」の3世紀 新聞が見つめた激流130年』(別巻) 毎日新聞社 |
第十四師団隷下の各連隊――松本、高崎、宇都宮、水戸が、この日より軍用鳩の演習を実施する。 参考文献 『鳩』(第四年九月号) 鳩園社 |
今年の六月より、基隆重砲兵大隊は、島内の各駅から軍用鳩を放鳩して試験しているが、今回、台中~基隆間の通信を実施することになり、この日、数十羽の鳩を台中駅に発送する。 九月十二日の午前七時半、台中駅の東助役は、基隆駅長宛ての暑中見舞いを付して、これらの鳩を基隆に向けて空に放つ。 基隆重砲兵大隊では、十月頃まで、島内の各駅に放鳩を依頼して伝書鳩の放翔試験をするという。 参考文献 『鳩』(第四年九月号) 鳩園社 |
軍用鳩研究は日に日に進歩しており、第二師団が実施した軍用鳩通信の実戦的演習において、軍用鳩は優秀な成績を収める。陸軍はこれをもって、全国の部隊に軍用鳩班を設けることに決し、現在、陸軍省と軍用鳩調査委員会がその実行方法について協議している。 以上、同日付の『読売新聞』の記事より。 参考文献 『読売新聞』(大正十五年九月十三日) 読売新聞社 |
中外商業新報社が創立五十年を記念し、上野公園不忍池畔において、産業文化博覧会を開催する。 展覧会初日の九月十五日午前十一時三十分、東京はとの会は、飼育鳩四五〇羽を結集して空に放つ。また、同会会長・徳川義恕男爵らの愛鳩に鳩笛を付して放鳩する。この空中オーケストラにより、産業文化博覧会の前途を祝す。 参考文献 『鳩』(第四年十月号) 鳩園社 |
鳩園社『鳩』(第四年九月号)が発行される。 本号に紹介されている、伝書鳩に関する話題を、いくつか紹介しよう。 ・長崎県壱岐郡香椎村勝本鶴谷区の大野奥八の外庭に一羽の鳩が迷い込む。羽根に横須賀航空隊の文字と番号があり、大野は派出所に届け出たうえ、この軍鳩を自宅で保護する。 九月二十九日の午後二時、同郡箱崎村本村触の日高平四郎の外庭に、脚環をはめた鳩が墜落、斃死していると届け出がある。 また、同郡武生水町でも、一両日前に一羽の鳩が斃死していると届け出がある。 以上の軍鳩は、先日おこなわれた通信試験の参加鳩であると見られ、現在、照会中である。 ・本年度の軍用鳩の払い下げは二〇〇羽を見込んでいるが、すでに申込数が予定を超えており、目下、軍用鳩調査委員会では、払い下げ羽数を増やすべく考慮中である。 ・今度、第六師団の高木義人参謀は、少佐から中佐に昇進し、参謀本部に栄転する。高木は今まで、忙しい参謀職にありながら、その合間を縫って、新設の軍用鳩通信班の指導に当たる。先頃おこなわれた航空陸軍連合演習において、「鳩の迅速確実なる通信の報道は飛行機以上だ」などと飛行連隊長から称賛されているが、これはシベリア出兵以来、軍用鳩に通じている高木の計画と、係主任・園田軍曹の熱心のたまものである。 なお、第六師団では固定鳩舎の増設を計画しているが、その鳩舎が九割方完成したことを受けて、近いうちに午砲台跡にこれを設置する予定である。経費削減のさなか、この固定鳩舎の増設が実現したのは、高木の努力による、という。 ・第七師団の鳩班は、演習や行軍などにおいて軍用鳩通信をおこなっているが、さらに札幌歩兵第二十五連隊~師団司令部間の軍用鳩通信を実施することになり、近く訓練をはじめる。また、軍用鳩調査委員会から入手した優秀鳩二十六羽を今度の師団秋季演習に参加させる予定である。 ・日本郵船会社の横浜支店が伝書鳩六羽を飼育し、その訓練をはじめる。近頃、港を出入りする汽船が激増し、小蒸気艇の定期巡航だけでは、碇泊中の諸船と横浜支店との書類運送が間に合わなくなり、その補助として伝書鳩を採用する。 ☆補足 本号に掲載された記事「伝書鳩の奨励法に就て」(作・岩田 巌)の中で、執筆者の岩田は、伝書鳩の保護と奨励に関して、以下の提案をする(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『鳩』(第四年九月号) 鳩園社 |
横須賀海軍航空隊所属の二機のF-5号飛行艇が、横須賀~元山(朝鮮)間の日本海横断飛行を実施する。その際、舞鶴防備隊から十四羽の軍用鳩を携行し、途中、機上から海上通信をおこなう。 参考文献 『鳩』(第四年九月号) 鳩園社 |
横須賀鎮守府第二回基本演習において、横須賀海軍航空隊の軍鳩が使用される。 飛行機、飛行船、各司令駆逐艦、各潜水艦、聴音所、陸軍守備隊その他の応急通信用・補助通信用として、軍鳩が好成績を収める。 参考文献 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 |
霞ヶ浦海軍航空隊が、廃止していた軍鳩飼養を再開する(再開鳩数、十羽) ☆補足 海軍大臣官房『海軍制度沿革』(巻十五)の記述をもとに、霞ヶ浦海軍航空隊の軍鳩飼養再開の年月を「一九二六(大正十五)年九月」と記す。 一方、水交社『水交社記事』(第二六六号)に掲載された記事「軍鳩(伝書鳩)」(作・内藤啓一)には、霞ヶ浦海軍航空隊の軍鳩飼養再開の年月が「一九二六(大正十五)年二月」と載っている。 どちらの記述が正しいのか不明。 参考文献 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 |
宇都宮第十四師団司令部付の下士四名が茨城県の下妻来町に五日間滞在し、軍用鳩の訓練を実施する。 参考文献 『鳩』(第四年十月号) 鳩園社 |
北海道茅部郡落部村にある落部御料林地帯の北西上空より、黒白二羽の軍用鳩が飛んできて、小笠原喜助方前に舞い降りる。鳩に付してあるセルロイドの札に「1983」と記されていることから、師団の鳩が迷い込んだものと思われ、同家においてこれを保護する。 参考文献 『鳩』(第四年十月号) 鳩園社 |
鳩園社『鳩』(第四年十月号)が発行される。 本号に紹介されている、伝書鳩に関する話題を、いくつか紹介しよう。 ・八月中旬~九月中旬にかけて、第五師団の軍用鳩の約五割が鳩痘に罹患する。これにより、八月に数羽、九月に五羽の鳩が死亡する。同師団には九十四羽の鳩がいるが、現在もそのうちの二十一羽が該病に冒されている。 今夏、中野の軍用鳩調査委員会の鳩舎で鳩痘が発生していることから関係が疑われている。 ・軍用鳩研究の進歩と、その必要性の高まりを受けて、陸軍はいよいよ、全国の各師団に鳩班を設置しようと動き出し、目下、陸軍省、軍用鳩調査委員会、第一連隊内の軍用鳩班と協議中である。 ・歩兵第十九連隊は、金沢第九師団との間で軍用鳩通信の試験を実施し、好成績を収めているが、このたび、同師団より数十羽の軍用鳩を借り受け、両地間の通信連絡の放翔をしつつある。 ・鹿児島県出水郡の出水警察が出水高女校から数羽の伝書鳩を受領し、試験的に飼養をはじめる。今後、成績がよければ警察の通信連絡に用いるという。 参考文献 『鳩』(第四年十月号) 鳩園社 |
東京市主催の愛玩動物観賞会において、東京はとの会の有志が数十羽の伝書鳩を放鳩し、鳩の空中オーケストラを奏する。 参考文献 『鳩』(第四年十一月号) 鳩園社 |
宇都宮第十四師団は、茨城県新治郡中家村中高津~同師団司令部との間で、軍用鳩の通信連絡演習をおこなう。 演習結果は良好で、十月二十六日、館中尉以下の係員が帰隊する。 参考文献 『鳩』(第四年十月号) 鳩園社 |
第十二師団の石丸儀六中尉は、九十三名の兵卒と、第三号移動鳩舎に収容した軍用鳩五十羽(雄二十八羽、雌二十二羽)をもって、移動鳩通信の演習をおこなう。 十月十九日と十月二十日は山口県豊浦郡安岡町において、十月二十一日と十月二十二日は同郡小串町において、十月二十三日と十月二十四日は神田村特牛港において、十月二十五日と十月二十六日は同郡西市町において、十月二十七日と十月二十八日は同郡小月村において、それぞれ演習を実施する。 なお、西市町での滞在中、同町の訓練所生徒に対し、約一時間あまり、軍用鳩について講話する。 参考文献 『鳩』(第四年十月号) 鳩園社 |
軍務局長および軍用鳩調査委員長の畑 英太郎中将が異動により陸軍次官に栄転し、後任として参謀本部総務部長の阿部信行少将が軍務局長および軍用鳩調査委員長の職を引き継ぐことになる。 この日の午前九時、両名は中野の軍用鳩調査委員事務所を訪問し、辞任および就任について、委員の将校一同にあいさつする。 参考文献 『鳩』(第四年十一月号) 鳩園社 |
鳩園社『鳩』の記者が中野の軍用鳩調査委員事務所を訪問し、常任幹事で高級委員である宮地久衛中佐を取材する。 宮地の談話は、以下のとおり(鳩園社『鳩』〔第四年十一月号〕より引用)
参考文献 『鳩』(第四年十一月号) 鳩園社 |
愛媛県温泉郡三津浜町にある五十二銀行の倉庫の軒下で、脊部に負傷し息絶えている軍用鳩が発見される。 調査の結果、潜水母艦・迅鯨の第二三七号と判明する。 参考文献 『鳩』(第四年十月号) 鳩園社 |
日本郵船の熱田丸が大阪港に入港し、最新式の競飛時計(競翔で記録に用いる鳩時計のこと。ピジョンタイマー)三十六個が日本に到着する。 以前、小熊 捍博士が欧州視察の際にこれを目にしているが、本年の四月、同博士が大阪に出張した折、関西の鳩界人がこのことを耳にしたのが今回の輸入の契機になっている。 小熊をはじめ、中野の軍用鳩調査委員らの便宜を得て、日本にやってきた競飛時計は、十一月十日、代表注文者である大阪好鳩会に導入される。 なお、この競飛時計は、競翔において、一個につき最大で十羽の参加鳩を記録できる。 参考文献 『鳩』(第四年十一月号) 鳩園社 |
鳩園社『鳩』(第四年十一月号)が発行される。 本号に紹介されている、伝書鳩に関する話題を、いくつか紹介しよう。 ・旅順重砲兵大隊が『鳩』誌を定期購読することになり、十一月号より送ってほしい旨を鳩園社に投書する(送付先、旅順重砲兵大隊第二中隊の大成軍曹宛て) ・各師団、各水産試験場、各漁業組合、各学校などの公共団体において、近来、鳩飼育が増加傾向にある。それ以外の各種団体においても、岡山県井原町の在郷軍人会が鳩飼育をなしつつあり、大阪府堺市の熊野分会も中野の軍用鳩調査委員会より軍用鳩十羽の払い下げを受けている。目下、熊野分会は、第四師団軍用鳩班主任・遠井中尉の指導により、往復通信の訓練を実施している。 なお、退営者が各地の在郷軍人会において伝書鳩飼育の議を起こしつつあるので、やがて全国に鳩飼育が広がる見込みだという。 ・JOBKでは、局員が自転車で新聞社と通信社に出張してニュースを受け取り、これを逓信局に通報した後、スタジオに届けている。しかし、同局は近く、上本町にある新局舎に移転するため、このニュースの受け渡しに従来の二倍以上の時間が必要になる。そこで、一部の理事者の間に、伝書鳩を使ってこの欠点を埋めようとの意見が出されているという。 参考文献 『鳩』(第四年十一月号) 鳩園社 |
先におこなわれた海軍小演習において、艦上鳩舎、潜水艦、飛行機など、軍鳩はあらゆる方面に用いられて好成績を残す(主任・喜多山省三少佐)。今後、各戦隊に通信鳩班を設置し、訓練内容もさらに進めて、軍鳩による空中撮影を実施するという。方法としては、軍鳩の胸に小型の写真機をつけて飛ばし、空中撮影するのだが、この写真機は地上五、六〇〇メートルのところで空気の圧力によりシャッターが切られる仕組みになっている。十数羽の軍鳩によって撮影された偵察写真をつなぎ合わせると、飛行機でも撮影不能な大写真が完成する。 以上、同日付の『東京朝日新聞』の記事より。 参考文献 『東京朝日新聞』(大正十五年十一月二十三日付) 東京朝日新聞社 |
佐賀県下で挙行された陸軍特別大演習に軍用鳩が参加する。 参考文献 『鳩』(第四年五月号) 鳩園社 『大正十五年十一月於佐賀県下 陸軍特別大演習記念写真帳』 栄城写真通信社 |
今月発刊の偕行社『偕行社記事』(第六二六号)に、天津駐屯歩兵隊が寄稿した「事変に際する軍用鳩の実用に就て」という記事が載る。 この記事の冒頭文は、以下のとおり(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
目次は、以下のとおり(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足一 余談だが、現代の日本鳩界人が軍用鳩について語るとき、日本の地形は山あり谷ありと複雑で、この環境に適合させていった系統(在来系)が軍用鳩である、などと主張することがある。 確かに、そのとおりなのだが、肝心な点を見逃している。基本的に日本軍は外征軍である、ということだ。 陸軍の軍服がカーキ色をしているのは、大陸の戦場を想定しているからにほかならない。これは軍用鳩についても同様である。大陸向きの鳩を作出し、それをどう運用するのか、その視点がないと、はじまらない。 つまり、現状、日本鳩界の人たちの語る軍用鳩とは、日本国内の話にとどまっていて、外征軍である日本軍の事情を踏まえていない、ということになる。 軍用鳩といったら、まず、内地よりも外地をイメージした方がよい。主戦場である大陸で、軍用鳩をどうやってうまく飛ばすのか、その点が問われる。 ちなみに、内地の鳩と外地の鳩に差があることは、当時の史料からうかがえる。 北支那方面軍鳩育成所「移動鳩保能訓練実施報告」に、以下の記述がある(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110540400、軍用動物に関する書類 昭和12年1月20日(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
続いて、偕行社『偕行社記事』(第七〇六号)に掲載された記事「軍用鳩の活動と将来に対する希望」(作・湯川忠一)に、以下の記述がある(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
なお、耐寒性についても、内地鳩は外地鳩に比べて問題があるらしい。 同記事に、以下の記述がある(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足二 『愛鳩の友』(昭和三十六年三月号)に掲載された記事「…文献に見る… むかしの鳩(一)」に、以下の記述がある。
この記事のとおり、戦前戦中までに導入されて現在に至るものを在来系、戦後に導入されて現在に至るものを輸入系と一般的に呼ぶ。 一方、大正十五年七月十五日発行の鳩園社『鳩』(第四年七月号)に掲載された記事「雄? 雌?」(作・武知彦栄)において、執筆者の武知は、以下のように提案している。 仏人クレルカン来日前の大正八年以前を「在来種鴿時代」、大正八年以後大正十五年六月以前すなわち「鳩に関する展覧会」開催以前を「仏蘭西鴿時代」、そして現在は「日本鴿時代」に入っている。 この武知の提唱する三つの時代区分はメジャーではなく、その後、日本鳩界に定着していない。武知個人の考えといってよい。 つまり、在来系とは通常、先に引用した『愛鳩の友』誌の一文の意味を指す。そして、例外的に、武知彦栄などの述べる、意味の異なる在来系(在来種)がある。 混同することは、まずないと思われるが、念のため、補足しておく。 参考文献 『偕行社記事』(第六二六号) 偕行社 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110540400、軍用動物に関する書類 昭和12年1月20日(防衛省防衛研究所)」 『愛鳩の友』(昭和三十六年三月号) 愛鳩の友社 『鳩』(第四年七月号) 鳩園社 |
特務艦・能登呂の特務艦長が海軍大臣に、『特務艦能登呂研究報告』との報告書を提出する(能登呂機密第十二号ノ二十三)。これは、特務艦・能登呂において、現在までにおこなわれた軍鳩実験の概要と経過を記したものである。 同報告書の所見部分に、
と、載っているが、これには、ただし書きがつく。 特務艦・能登呂の現状について、同報告書に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
以上の状況を踏まえたうえで、同報告書に、以下のような今後の方針が載っている(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696500、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 |
大阪府立実業会館において、大阪連合鳩協会の創立大会が開催され、主義綱領、会則、役員選挙などの案件が審議される。 この大阪連合鳩協会は、大阪好鳩会と大阪南鳩会を一丸とした日本最大の集団で、約二〇〇名の愛鳩家を擁する。当日は両会員のほか、第四師団軍用鳩主任の遠井中尉、大阪毎日新聞社の岩田 巌、鳩園社の佐伯克己(佐伯尊勝)らが出席する。 なお、創立大会と同じ日に、「競飛時計輸入記念 伝書鳩競翔大会」を、鳩園社主催、両会後援で開催し、早速、先月輸入されたばかりの競飛時計をこの競翔で用いる。 ☆補足 決議された会則原案は、以下のとおり(鳩園社『鳩』〔第四年十二月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『鳩』(第四年十一月号) 鳩園社 『鳩』(第四年十二月号) 鳩園社 |
横須賀海軍航空隊がまとめた報告書『海軍軍鳩実験研究報告』を、海軍軍鳩実験研究委員長が海軍大臣に提出する(横空第四十八号ノ三ノ十四) この『海軍軍鳩実験研究報告』は、本年三月から実施されている、海軍軍鳩の実験研究に関するもので、現在までの概況を記している。 その結論部分ともいえる所見の内容を、簡単にまとめて、以下に紹介する。 ・軍鳩は局地防備隊において、最も利用する機会多く、有効である。 ・航空機の保安ならびに補助通信用として、その効果は極めて大きい。 ・艦上鳩舎は労力の割に効果が少ない。 ・揚子江方面の軍艦に軍鳩を有するときは、その任務遂行上、とても便利であり、その機会は多いと信じて疑わない。 ・わが海軍における軍鳩の実験研究は、その基礎的研究を完了し、実用の域に入るべき時期に到達した。 ・重要なる件は掌鳩兵の養成である。この掌鳩兵を養成するための教育制度や組織を樹立せずして、今日より以上に軍鳩通信が進歩向上するのは不可能である。各鎮守府より、掌鳩兵たるべき者を選出して、横須賀海軍航空隊において、六ヶ月間の軍鳩講習をおこなうのが適当である。軍鳩の実用上、考慮すべきは、鳩の問題にあらず、器材・需品の問題にあらず、鳩を飼育訓練する掌鳩兵の養成にかかっている。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015697300、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 |
葉山御用邸で大正天皇が崩御する。 この前後、東京日日新聞社は、連日にわたって伝書鳩通信をおこなう(十一月十三日~十二月二十八日)。特に十一月十七日は、その日だけで四十七羽の伝書鳩を用いる。 参考文献 『「毎日」の3世紀 新聞が見つめた激流130年』(別巻) 毎日新聞社 |
潜水母艦・迅鯨が軍鳩の飼養を廃止する。 飼養していた六十三羽の軍鳩は、横須賀海軍航空隊に移管する。 ☆補足一 水交社『水交社記事』(第二六六号)に掲載された記事「軍鳩(伝書鳩)」(作・内藤啓一)と、海軍大臣官房『海軍制度沿革』(巻十五)の記述に従って、「十二月」を軍鳩飼養の廃止月としたが、海軍航空本部『海軍航空沿革史』には「十一月」が軍鳩飼養の廃止月と載っている。どちらの記述が正しいのか不明。 なお、横須賀防備隊軍鳩実験研究部『軍鳩月報』(第十七号)に、大正十五年一月末に潜水母艦・迅鯨は鳩舎を廃止し、翌二月に同鳩舎と軍鳩六十羽を横須賀海軍航空隊に収容したとあるが誤り。 ☆補足二 潜水母艦・迅鯨の軍鳩飼養廃止時の鳩数について、水交社『水交社記事』(第二六六号)に掲載された記事「軍鳩(伝書鳩)」(作・内藤啓一)が「六十三羽」、海軍大臣官房『海軍制度沿革』(巻十五)が「六十二羽」、横須賀防備隊軍鳩実験研究部『軍鳩月報』(第十七号)が「六十羽」と記している。 どの記述が正しいのか不明。 ☆補足三 潜水母艦・迅鯨での任務を終えて横須賀海軍航空隊に戻った喜多山省三少佐は、軍鳩実験委員長から次回は遣支艦隊旗艦・利根(二等巡洋艦)で艦上鳩舎の研究をしてはどうかと勧められる。しかし、喜多山は、「遣支艦隊の各艦に分置実験することは、平素の持論で望むところであるが、旗艦のみに搭載研究することは迅鯨の復習にすぎない。研究も尽きたように思う」と述べて、その依頼を断る。 後年、喜多山は、このときの考えを改める。数年後に起こった南京での不祥事件の際に、「あるいは一羽の鳩が八挺の銃にまさる効験があったのではなかったか」と喜多山は思い、環境と状況の変化が鳩通信研究達成に影響のあることを閑却した、として、利根で研究実験しなかったことを悔やむ。 参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023923700、公文備考 昭和9年 Q 通信、交通、気象、時 巻2(防衛省防衛研究所)」 『普鳩』(昭和十七年三月号) 中央普鳩会本部 |
京阪神地方で小鳥の飼育が流行したことから伝書鳩飼育が下火になる。常時二〇〇名ほどいた愛鳩家が、一時期は二十名くらいに落ち込んだという。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年五月号) 愛鳩の友社 |
神戸の愛鳩家・大江 礼が、『伝書鳩時報』という鳩雑誌を創刊する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十五年八月号) 愛鳩の友社 |
ソ連が民間の伝書鳩飼育を禁止する。 全ての伝書鳩は国家に帰属し、国防、軍事に役立たせることとした。 参考文献 『鳩(最新版)』 松本 興/博友社 |
午後四時半、ジャワ島のスラバヤにある日本料理店・松本楼の庭で、一羽の伝書鳩が保護される。 その翼に「四日市四四」との楕円形のスタンプが押してあり、アルミニウム製の脚環には「一五」「A七」の文字が刻印されている。 軍用鳩調査委員会で調査したところ、大阪好鳩会の伊地知秀知の愛鳩と判明する。一九二六(大正十五)年八月、四日市での競翔の際に、放たれたものであるらしい。 日本からジャワ島までは五〇〇〇キロを超え、神戸発からの船便で三週間を要する。これほどの長距離を飛翔した伝書鳩は珍しく、世界的な記録であるという。 ☆補足 四海書房『研究評論 歴史教育』(昭和二年六月号。第二巻第三号)に掲載された記事「支那中古以来の伝書鳩」(作・中村久四郎)に、「伊知地英治」とあるが誤り。正しくは、「伊地知秀知」である。 また、小野内泰治『日本鳩界史年表』(2)にも、「伊知地秀知」とあるが、これも誤り。正しくは、「伊地知秀知」である。 参考文献 『東京日日新聞』(昭和二年三月三日付。夕刊) 東京日日新聞社 『研究評論 歴史教育』(昭和二年六月号。第二巻第三号) 四海書房 『レース鳩』(平成八年十二月号) 日本鳩レース協会 『愛鳩の友』(昭和三十三年六月号) 愛鳩の友社 『昭和十一年度 競翔成績表』 日本伝書鳩協会 『昭和十四年八月現在 会員名簿 付定款及諸規則』 日本伝書鳩協会 『昭和十七年四月現在 会員名簿 付定款及諸規則』 大日本軍用鳩協会 |
秩父宮雍仁親王の乗った御召艦・さいべりや丸が横浜港に到着する。 午前十時二十分、館山湾から伝書鳩十羽が放鳩され、その三十五分後、司令駆逐艦・太刀風(一等駆逐艦)からさいべりや丸を撮影した写真および記事原稿が東京朝日新聞社に運ばれる。 これにより、秩父宮雍仁親王の東京入りより早く夕刊紙上にニュースが載る。 参考文献 『伝書鳩』 東北鳩協会青森支部 『新聞研究』(昭和五十八年十一月号) 日本新聞協会 |
軍用鳩調査委員長が陸軍大臣宛てに、「優良伝書鳩購入ニ関スル件」(鳩甲第三号)を提出する。 内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01006097000、永存書類乙集第4類第5類 合冊 昭和2年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
この任には、現在、フランスに在り、鳩に関して経験がある吉田隼雄航空兵中尉が当たる。予定では、伝書鳩約一〇〇羽の購入後、吉田は大阪商船・あまぞん丸に乗って、これを輸送する(五月中旬ハンブルク発~七月下旬神戸着) ☆補足一 当初、鳩の購入とその輸送は四王天延孝少将が担当するはずだった。しかし、四王天は、三月五日出発の鹿島丸で帰国することになっていて、多少の時日を要する鳩購入に関与すると、鹿島丸に乗り損なうおそれがあった。そこで、吉田隼雄航空兵中尉が代わりに担当者になる。 ☆補足二 七月二十六日、商船・あまぞん丸が門司港に到着する。ベルギーおよびフランスから取り寄せた約一〇〇羽の鳩(ベルギー産約二十羽、フランス産約八十羽)が、無事に日本に届く。 ☆補足三 「優良伝書鳩購入ニ関スル件」(鳩甲第三号)において、「五、羽色は濃厚にしてなるべく白色を混ぜざるもの」とあるが、これは白い羽色をしていると目立って猛禽類などに狙われるからである。たとえ、羽色の一部分だけが白くても当時は敬遠された。 門口元一『鳩ノ飼育ト訓練』に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
宮沢和男『鳩レース必勝百科』にも同様の記述があり、昔、軍用鳩の時代には、体に刺白毛がある鳩は嫌われたという。また、同書に収録されている記事「陽光系の飼育」において、板倉陽之助は、以下のように述べている。
同書によると、バルセロナ・インターナショナル・レースで三度も入賞している刺白毛の鳩・アンファディガブル号が存在するように、刺白毛があるからといって能力的に劣るわけではなく、現代の愛鳩家は刺白毛を全く問題にしないという。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01006097000、永存書類乙集第4類第5類 合冊 昭和2年(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01006097040、永存書類乙集第4類第5類 合冊 昭和2年(防衛省防衛研究所)」 『東京朝日新聞』(昭和二年七月二十七日付) 東京朝日新聞社 『鳩ノ飼育ト訓練』 門口元一 『鳩レース必勝百科』 宮沢和男/愛鳩の友社 |
呉防備隊が軍鳩を飼養しはじめる(開始鳩数、三十羽) 参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 |
フランスで全十四ヶ条からなる「伝書鳩飼育竝ニ其ノ使用ニ関スル法令」が定められる。 内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10073321400、自大正15年11月至昭和3年3月 軍事調査班調査書綴 航空部.騎兵監部 徴募課の分含む(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足一 松本 興『鳩』に、「一九二八年二月十八日付」と本法令の日付が記されているが、正しくは、「一九二七年二月十八日付」である。 ☆補足二 一九三五年十月三十日、フランスはさらに法令を定めて、上記の「伝書鳩飼育竝ニ其ノ使用ニ関スル法令」に修正を入れる。法令の根本は変わっていないが、第一条、第二条、第三条、第四条、第十条、第十一条、第十三条に細かな変更を加えている。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10073321400、自大正15年11月至昭和3年3月 軍事調査班調査書綴 航空部.騎兵監部 徴募課の分含む(防衛省防衛研究所)」 『鳩』 松本 興/三省堂 |
海軍軍鳩の基礎機関である横須賀海軍航空隊の鳩舎において、ジフテリア性の伝染病が発生し、十日ほどの間に二〇〇羽あまりの軍鳩が罹患する。消毒、隔離、注射など、全力で防疫に努めた結果、大事に至ることはなかったが、この影響によって、多数の優秀鳩を失う。 海軍は、この損失を回復するまでに相当の日数を要する。 ☆補足 水交社『水交社記事』(第二六六号)に掲載された記事「軍鳩(伝書鳩)」(作・内藤啓一)によると、昭和三年度までは横須賀海軍航空隊に基礎機関を置き、同隊司令を軍鳩研究委員長とし、各飼育庁に適宜委員を任命し、研究したという。昭和四年度以降は基礎機関を横須賀防備隊に置き、同隊司令を軍鳩研究委員長として研究を続けたとのことである。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696800、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 『軍鳩参考書』 海軍省教育局 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 |
第二師団が『第二師団軍用鳩ニ関スル規定』を定める。 目次は、以下のとおり(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている。目次のページが存在しないので見出しを並べて構成する)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001954900、永存書類乙集第2類第4冊 昭和4年(防衛省防衛研究所)」 |
第二師団が『第二師団司令部鳩班勤務規定』を定める。 目次は、以下のとおり(一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている。目次のページが存在しないので見出しを並べて構成する)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001954900、永存書類乙集第2類第4冊 昭和4年(防衛省防衛研究所)」 |
上海海軍特別陸戦隊が呉防備隊から軍鳩を譲り受け、これを飼養しはじめる(開始鳩数、十羽) ☆補足一 横須賀防備隊『研究実験成績報告 其十六(軍鳩実験研究)』(昭和九年七月三十一日)に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
また、横須賀防備隊『研究実験成績報告 其十七(軍鳩実験研究)』(昭和九年十一月三十日)に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足二 時期は不明だが、上海海軍特別陸戦隊の鳩に関する、以下の話が伝わっている。 上海海軍特別陸戦隊から軍鳩をもらい受けた砲艦・勢多が、宜昌の警備に赴く。ある日、軍鳩に舎外運動をさせていると、そのうちの一羽が南へ飛んでいく。その軍鳩は古巣恋しさに直線距離で一〇〇〇キロあまりを飛翔し、もとの陸戦隊鳩舎に帰ってしまったという。 ☆補足三 高橋 昇『軍用自動車入門 軍隊の車輌徹底研究』によると、上海海軍特別陸戦隊はオートバイに小型鳩舎を搭載し、通信機の通信不良時にこれを代用の連絡手段にしていたという。 参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023925100、公文備考 昭和9年 Q 通信、交通、気象、時 巻2(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023924600、公文備考 昭和9年 Q 通信、交通、気象、時 巻2(防衛省防衛研究所)」 『レース鳩』(平成十八年八月号) 日本鳩レース協会 『軍用自動車入門 軍隊の車輌徹底研究』 高橋 昇/光人社 |
佐世保海兵団が軍鳩の飼養を廃止する。 参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 |
午前六時半、大阪好鳩会および大阪南鳩会が持ち込んだ伝書鳩二十四羽が、中野の軍用鳩調査委員会の広場から大阪に向けて放鳩される。 そのうち二十羽が同日中に大阪に帰還する。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和二年六月九日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和二年六月九日付) 東京朝日新聞社 |
フランスで全十六ヶ条からなる「伝書鳩ノ飼育ニ関スル大統領令」が発せられる。 フランスは本年二月十八日に「伝書鳩飼育竝ニ其ノ使用ニ関スル法令」を発布しているが、今回さらに、その法令の細部の点に関し、大統領令を定める。 内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10073321400、自大正15年11月至昭和3年3月 軍事調査班調査書綴 航空部.騎兵監部 徴募課の分含む(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10073321400、自大正15年11月至昭和3年3月 軍事調査班調査書綴 航空部.騎兵監部 徴募課の分含む(防衛省防衛研究所)」 |
『伝書鳩と食用鳩』という月刊誌が創刊する。 大江 礼が営む、伝書鳩と食用鳩社が発行元で、一部三十銭、半年分一円七十銭、一年分三円二十銭だった。 同誌は「東洋唯一鳩界機関雑誌」をうたうが、本当にそうなのか不明。 ☆補足 『伝書鳩と食用鳩』は、昭和三年五月号で廃刊となる(計十一号) 参考文献 『鳩』 大江 礼/大江礼伝書食用鳩研究所 『北国の鳩界』 佐々木 勇 |
昭和天皇の小笠原島巡幸の写真(フィルム)を背負った伝書鳩が、八丈島から飛び立ち、わずか五時間で本土の新聞社に帰り着く。 毎日新聞社『「毎日」の3世紀 新聞が見つめた激流130年』(別巻)によると、東京日日新聞社は、一等海防艦・春日に伝書鳩八羽を積み込み、帰途、八丈島に到着後、これを放鳩したという。ただし、五羽しか帰還できなかったそうである。 ☆補足 フィルムを入れた通信筒を鳩に背負わせる際、左手の人さし指と中指で鳩の両脚を挟んで固定し、右手で通信筒の上下についているゴムバンドを鳩の首と尾にそれぞれ引っかける。この通信筒の装着を誤ると、鳩は羽をばたつかせて身震いし、飛び立たない。仮に飛び上がっても、木などにとまって動かなくなる。一定の技術が必要だった。 この通信筒(写真筒)の装着法については、共同通信社『ニュースマンズ・ハンドブック』に、以下の記述がある。
ちなみに、写真の乾板を鳩に付すことはできなかったため、ベスト判のロールフィルムの出現後、以上の方法による鳩便が可能となる。 参考文献 『国語科教授の実際 ――帝国読本提要巻一――』 冨山房編集部/冨山房 『新聞研究』(昭和五十八年十一月号) 日本新聞協会 『「毎日」の3世紀 新聞が見つめた激流130年』(別巻) 毎日新聞社 『ニュ-スマンズ・ハンドブック』 共同通信社/板垣書店 |
秩父宮雍仁親王の日本アルプス登山に、東京日日新聞社の記者が随行する。 八月二十日は松本駅から、八月二十二日は上高地徳本峠から、八月二十四日は穂高山頂から、それぞれ伝書鳩を放つ。 参考文献 『「毎日」の3世紀 新聞が見つめた激流130年』(別巻) 毎日新聞社 |
軍用鳩調査委員の井崎於菟彦大尉がベルギーに出張し、伝書鳩や観賞鳩(キャリアー、ファンテール、サチネットなど)を輸入する。 これらの鳩は、軍用鳩調査委員の竹下憲輔獣医官が試験鳩舎で飼育研究に当たる。 参考文献 『普鳩』(昭和十七年二月号) 中央普鳩会本部 |
現時点での馬公防備隊における軍鳩数、十一羽。 ☆補足 馬公防備隊の軍鳩飼養の開始時期は不明だが、水交社『水交社記事』(第二六六号)に掲載された記事「軍鳩(伝書鳩)」(作・内藤啓一)と、海軍大臣官房『海軍制度沿革』(巻十五)によると、馬公防備隊の当初の飼養数は二十羽だったようである。 参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 |
昭和二年度特別大演習観艦式予行等において、東京朝日新聞社は、伝書鳩によるキャビネ形写真輸送に成功する。同社いわく、世界最初の試みだという(本当なのか不明) なお、海軍は、この大演習において、館山、八丈島、下田などの各航空基地より多数の実用通信に軍鳩を使用する。また、軍鳩を用いた、中央気象台からの昼夜天気図輸送にも成功する。 参考文献 『伝書鳩』 東北鳩協会青森支部 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 |
過般来、中野電信隊は、いはらき新聞平支局前の町有の空き地に臨時鳩舎を設けているが、今月十九日、午前七時~午前七時四十分にわたって、十羽の軍用鳩を飛ばす。この軍用鳩は、板囲いによって目隠しされた鳩舎の中で一週間を過ごしているので、未知の空を飛翔する。 軍用鳩は、帰還方向を見定めるために上空を数回、旋回した後、午前九時頃に全鳩が南の空に姿を消す。 今月の下旬、この放鳩試験に続く第二回目の放鳩試験を実施する予定で、今度はさらに二週間、鳩を目隠ししてから空に放つという。 陸軍通信学校付で軍用鳩調査委員幹事の井崎於菟彦大尉は、当地における軍用鳩試験の監督者として、以下のように語る(『磐城時報』〔昭和二年十月二十一日付。夕刊〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
なお、平町での軍用鳩試験は、本年中、実施されることになっている。 参考文献 『磐城時報』(昭和二年十月二十一日付。夕刊) 磐城時報社 |
現在における、日本鳩界の最大通信距離(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696600、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナをひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696600、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 |
特務艦・能登呂が軍鳩の飼養を廃止する。 飼養していた三十六羽の軍鳩は、横須賀海軍航空隊に移管する。 なお、特務艦・能登呂が軍鳩の飼養を廃止した理由について、「海軍軍鳩実験研究報告其三(昭和二年十二月)」に、以下の記述がある(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696900、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696900、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 |
南部利淳伯爵家の鳩飼養中止に伴い、盛岡高等農林学校が二十一羽(二十羽ともいわれている)の至宝鳩を同家から譲り受ける。 また、軍用鳩調査委員の竹下憲輔獣医官の仲介により、南部伯爵家の輸入鳩の直子(ちょっこ)や直孫の一部を、五十島鶴松が手に入れる。これが後に五十島南部系になる(戦前のもの。戦後の五十島南部系は再興されたもので内実が異なる) ☆補足一 日本鳩レース協会『レース鳩』(平成二十二年十一月号)に掲載された記事「在来系の中で異彩を放つ、殿様の鳩」(作・荒井忠尋)によると、南部伯爵家が鳩飼養を中止したときの鳩数は七十七羽で、同家は、徳川義恕男爵と軍用鳩調査委員の竹下憲輔獣医に相談して、譲渡先を決めたという。その結果、東京はとの会に四十四羽、盛岡高等農林学校に二十一羽、中野陸軍通信隊に八羽(そのうち四羽は五十島鶴松に)、北林網太郎に四羽、がそれぞれ渡ったそうである。 ☆補足二 盛岡高等農林学校が入手した約二十羽は、全て輸入鳩だったとする説が有力である。 しかし、金沢輝男は、以下のように述べている(宮沢和男 中根時五郎『南部系』より引用)
☆補足三 盛岡高等農林学校は、一九二一年(大正十年)頃から伝書鳩の飼育をはじめたという。そして、一九二八(昭和三)年に結成された盛岡はとの会が、同校に事務所を置く。盛岡はとの会の会長は、盛岡高農の鏡 保之助校長が務め、一般の愛鳩家と学生がここで伝書鳩の研究等をする。特に、盛岡高農の家畜病院長で学生課長の小西 要教授と、鳩舎管理責任者の沢口長助が熱心に鳩飼育に打ち込む。 『愛鳩の友』(昭和三十三年四月号)に掲載された記事「=系統研究 南部系の行方 ◎盛岡南部系について」(作・金沢輝男)に、以下の記述がある。
参考文献 『南部系』 宮沢和男 中根時五郎/愛鳩の友社 『レース鳩』(平成二十二年十一月号) 日本鳩レース協会 『レース鳩』(平成二十四年十二月号) 日本鳩レース協会 『愛鳩の友』(昭和三十三年四月号) 愛鳩の友社 『軍用鳩』(昭和十八年十二月号) 大日本軍用鳩協会 |
仙台地方で実施された陸軍特別大演習において、東京日日新聞社は、フィルムを持たせた鳩を仙台から放鳩する。鳩は、仙台~東京間(約三〇〇キロ)を四時間四十分で飛翔し、無事にフィルムを届ける。通常、フランスでは一〇〇キロ~一五〇キロ、陸軍では一〇〇キロに通信距離をとどめるが、東京日日新聞社の鳩は、通信筒を携行して三〇〇キロあまりを翔破する。 東京日日新聞社は、わが社のもっとも誇りとするところである、などと述べる。 ☆補足 『愛鳩の友』(昭和三十三年六月号)に掲載された記事「新聞社の鳩舎めぐり(中)」に、以下の記述がある。
参考文献 『伝書鳩』 東北鳩協会青森支部 『愛鳩の友』(昭和三十三年六月号) 愛鳩の友社 |
海軍軍鳩実験研究委員長が海軍大臣宛てに、「海軍軍鳩実験研究報告其三(昭和二年十二月一日現在)」という報告書を提出する(横空第二十七号ノ八十六) 先に提出されている『海軍軍鳩実験研究報告』(横空第四十八号ノ三ノ十四)と似たり寄ったりの内容で、ほぼ同じ所見を述べている。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696900、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 |
横須賀海軍航空隊軍鳩実験研究委員が『海軍使鳩教科書草案』を編纂する。海軍公式の使鳩教科書は、これが初となる。 目次は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696600、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、空行を入れている。各章を抜粋し、各節は省略)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696600、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696700、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696800、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015696900、公文備考 航空4止 巻60(防衛省防衛研究所)」 |
北海道旭川付近の美瑛陸軍演習場において、陸海軍人や動物学者など、各方面から関係者が集い、毒ガスの効力試験を実施する。この試験には、鳩車五両、人員十五名の一行で、軍用鳩調査委員幹事の井崎於菟彦大尉も参加する。井崎は東京を出発する前、参謀総長・鈴木荘六大将に呼ばれて、このたびの演習の研究の主目的は動物試験、特に軍鳩への影響にある、との訓示を受ける。 さて、試験の内容としては、鳩車の周囲に毒ガス砲弾を撃ち込み、一帯を毒ガス地帯にしたうえで鳩を空に放ち、この鳩が毒ガス地帯を突破して鳩車に帰れるのか、それとも、毒ガスを嫌って鳩車に帰れないのか、といったものである。ほかに、風下に並べた試験動物(鳩、ジュウシマツ、ベニスズメ、ニワトリ、牛、馬、猿など)に毒ガスを浴びせて、その影響を調べる。 試験の結果、鳩は相当、毒ガスへの抵抗力があると判明する。鳩は毒ガス地帯を突破して全鳩が鳩車に帰ってくる。また、鳩にイペリットなどが付着しても羽毛のある部分であれば、これに侵されないことも分かった。 その後、鳩を解剖して肺や肝臓を摘出し、毒ガス吸入の程度を調査する。 ☆補足 上記の一文は、『愛鳩の友』(昭和三十二年二月号)に掲載された記事「爐辺鳩談」(作・井崎乙比古)をもとに記す。 井崎は同記事の中で、毒ガスの効力試験の実施時期を「昭和の初頃」と記している。軍用鳩調査委員『自大正八年 至昭和八年 調査研究概見表』(其一、実施)によると、化学兵器に関する研究は、「大正十五年(昭和元年)」と「昭和二年」に実施しているので、井崎の回想に合致するのは「昭和二年」が適当かと思われる。よって、本項では「昭和二年」の出来事と仮定する。 *昭和元年は、同年十二月二十五日~三十一日までの七日間にすぎない。また、それに関する、大正天皇の崩御と昭和天皇の即位があったとすれば、このことについて井崎が回想で触れていないのは奇異である。 さらにつけ加えると、年末の慌ただしい時期に、各方面の関係者を集めて毒ガスの効力試験を実施する、というのは考えにくい。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十二年二月号) 愛鳩の友社 『自大正八年 至昭和八年 調査研究概見表』(其一、実施) 軍用鳩調査委員 |
同日付の『読売新聞』の記事によると、昨今、伝書鳩が有力な通信機関として利用されているが、このたび、宮内省主猟課では、ハヤブサを使って敵の伝書鳩を捕らえるために、陸軍省の伝書鳩係将校立ち会いのもと、四月上旬に実験をおこなうという。 参考文献 『読売新聞』(昭和三年二月十八日付) 読売新聞社 |
大江 礼が『鳩』という小冊子を出版する。 伝書鳩と食用鳩の飼育法について記されている。 参考文献 『鳩』 大江 礼/大江礼伝書食用鳩研究所 |
北足立郡南部十ケ町村青年訓練所連合教練に、東久邇宮稔彦王が台臨する。 この模様を伝える記事と写真が東京日日新聞社の伝書鳩に託され、午後二時、埼玉会館屋上から東久邇宮稔彦王が自らこれを放鳩する。 通信文には宮脇梅吉埼玉県知事が「平和」と書き記す。 参考文献 『伝書鳩の話』 東京日日新聞社/東京日日新聞社 大阪毎日新聞社 |
「海軍軍鳩ノ実験研究ニ関スル件」(官房第六四八号決裁)が出される。 これは海軍省軍務局長の提案による覚書で、各部(軍令部長、航空本部長、経理局長、人事局長、軍需局長、教育局長)の回覧と了承を経て、一九二九(昭和四)年以後の軍鳩に関する方針を定めたものである。 その方針を端的に述べると、今後は研究から実用の時代に入り、海軍における軍鳩飼養も防備隊などを中心とする、というものである。 覚書の内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04016260600、公文備考 航空1 巻84(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04016260600、公文備考 航空1 巻84(防衛省防衛研究所)」 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 |
茨城県松原町の松原炭坑争議において、水戸憲兵分隊が軍用鳩を用いて通信する。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001954900、永存書類乙集第2類第4冊 昭和4年(防衛省防衛研究所)」 |
夷隅郡(千葉県)における青年訓練所連合青年団および大多喜中学の合同大演習の際、東京日日新聞社の伝書鳩が記事と写真を運ぶ。 本演習を統裁する東久邇宮稔彦王が、福永尊介千葉県知事や九鬼学務部長らとともに放鳩し、「ここからは何時間位にて東京に到着するか」と質問する。 参考文献 『伝書鳩の話』 東京日日新聞社/東京日日新聞社 大阪毎日新聞社 |
神奈川県知事が陸軍大臣宛てに、「軍用鳩保管転換ニ関スル件」(三水収第一〇二八号)を照会する。今般、水産試験場分場を三浦郡美崎町に設置するので、漁業通信に用いる軍用鳩二十羽の保管転換を願う内容である。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01006193300、永存書類乙集第2類第4冊 昭和3年(防衛省防衛研究所)」 |
軍用鳩調査委員会が『鳩通信術教程草案』を編纂する。 本書の冒頭で、軍用鳩調査委員の長谷栄二郎は、以下のように述べる(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
目次は、以下のとおり(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 |
現時点での日本海軍における軍鳩数、一三四一羽。 実用通信数は、一五六八回に達する。 参考文献 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 |
七月十五日、田の首(山口県)~大里(福岡県)間の海底電線に障害が発生し、下関要塞の通信に支障が出る。 九月四日に復旧するが、その修繕までの間、軍用鳩が通信連絡を担う。 ☆補足 下関要塞は、海底電線を傷つけた責任は豊彦汽船株式会社にあるとして、同社に損害賠償請求する。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01003878400、密大日記 第4冊 昭和4年(防衛省防衛研究所)」 |
松平節子(後の秩父宮雍仁親王妃勢津子)が列車に揺られて、東北本線蓮田駅を通過する頃、車内で東京日日新聞社の伝書鳩を見せられる。 節子の父である松平恆雄大使が伝書鳩について説明した後、節子は鳩籠から鳩を取り出して、窓外に放つ。しかし、鳩がしばらく上空を回っているので心配になり、節子はいつまでもその様子を見つめる。 ☆補足 鳩が上空を旋回していたのは、方向判定をしていたように思われる。 参考文献 『伝書鳩の話』 東京日日新聞社/東京日日新聞社 大阪毎日新聞社 |
秩父宮雍仁親王が、第十四師団の松本鳩舎および高崎鳩舎の軍用鳩を携行して、日本アルプスを登山する。 登山の状況は、この軍用鳩によって、新聞社と一般に通知される。 ☆補足 那須や日光などの御用邸で避暑の折にも、警備憲兵と憲兵隊本部との連絡に鳩が用いられる。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001954900、永存書類乙集第2類第4冊 昭和4年(防衛省防衛研究所)」 |
第十師団司令部が『第十師団軍用鳩班規定』を定める。 目次は、以下のとおり(一部、漢字をひらがなに改めている。目次のページが存在しないので見出しを並べて構成する。第六章が重複しているが原文ママ)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001954900、永存書類乙集第2類第4冊 昭和4年(防衛省防衛研究所)」 |
『伝書鳩新報』という月刊誌が創刊する。 ☆補足 『伝書鳩新報』は、昭和四年四月号で廃刊になる。計九号と思われる。 参考文献 『北国の鳩界』 佐々木 勇 |
大阪府堺市の酒店「酒の司」は、店の発展に伴って、電話線を架設する必要に迫られていた。大仙陵古墳の近くにある住居と連絡を取るためである。しかし、工事費用が三〇〇〇円もかかるとのことで尻込みし、かれこれ四年もの時が過ぎる。 さて、今秋、在郷軍人会分会長を務めている店主の天野が、在郷軍人会総会に出席し、師団の鳩通信係将校の隣の席になる。すると、たまたま、通信の話題になり、将校から、伝書鳩を使って店舗と住居の二点間を往復通信すればよいと教示される。 翌日、天野はさっそく鳩十二羽を購入し、将校に言われたとおりに鳩を仕込む。すると、店舗~住居間(約十キロ)の往復通信を一週間を出ずして完成させる。 鳩は大風雨雪の悪天候下でも支障なく二点間を通信し、電話の代用を果たす。 参考文献 『伝書鳩』 東北鳩協会青森支部 |
陸軍省副官が朝鮮軍参謀長および第十二師団参謀長宛てに、「軍用鳩配属ニ関スル件通牒」を通牒する。 この「軍用鳩配属ニ関スル件通牒」に基づき、鎮海湾要塞および壱岐要塞にそれぞれ軍用鳩六十羽が配属され、補助通信用として使翔される。 配属に至る理由は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01006195200、永存書類乙集第2類第4冊 昭和3年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01006195200、永存書類乙集第2類第4冊 昭和3年(防衛省防衛研究所)」 |
並河才三一等獣医の『軍用動物学(鳩ノ部)』が出版される。 本書は、陸軍獣医学校における士官学生教育のための講授録で、著者の並河が軍用鳩調査委員幹事として調査研究した事項と内外の文献を渉猟して得た知識をもとに編纂する。 目次は、以下のとおり(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている。各章を抜粋し、各節以下は省略)
参考文献 『軍用動物学(鳩ノ部)』 並河才三/陸軍獣医学校将校集会所 |
昭和三年度陸軍特別大演習が盛岡(岩手県)を中心に挙行される。 東奥日報社は、事前に鳩通信を計画し、鳩の訓練をおこなっていたが、降雨のために予定が変更になり、尻内(青森県)までの放鳩訓練にとどまる。 そうした中、第八師団観兵式が八戸(青森県)町外でおこなわれる。 東奥日報社はこの地から、尻内(青森県)までの訓練鳩に記事と写真を付して空に放つ。東奥日報社初の、鳩による写真輸送となるが、鳩は七十五キロの距離を一時間二十分で飛行し、同社の鳩舎に帰ってくる。 これにより、翌日の朝刊一版(郡部版)に記事が間に合う。 参考文献 『伝書鳩』 東北鳩協会青森支部 |
大阪放送局が第一次世界大戦休戦記念日の御大典を祝う競翔をおこない、奉祝文を付した鳩を飛ばして大阪まで運ばせる。 東京においても、香取神宮と鹿島神宮から祝いの文を鳩に付して運ばせ、名古屋好鳩会に伝達して、大阪に送る。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年六月号) 愛鳩の友社 |
昭和天皇の即位の礼がおこなわれる。 盛儀の模様は、逐一、伝書鳩によって報道される。 参考文献 『新聞の知識』 平野岑一/大阪毎日新聞社 東京日日新聞社 |
農林次官が陸軍次官宛てに、「軍用鳩保管転換ニ関スル件」(畜第七八〇九号)を照会する。農林省畜産局の鳥獣実験場において飼養実験に供する軍用鳩二十羽の保管転換を願う内容である。 ☆補足 一九二九(昭和四)年二月六日、軍用鳩調査委員会から保管転換された軍用鳩二十羽が鳥獣実験場内の鳩舎に入れられる。 ここは棲息鳩舎で、食事鳩舎は鳥獣調査室に設けられている。 つまり、棲息鳩舎のある鳥獣実験場と、食事鳩舎のある鳥獣調査室の二点間を軍用鳩が往復し、通信する。この往復通信は同年十月三日に完成する。 なお、同通信期間中に使用された軍用鳩は計五十五羽で、その内訳は軍用鳩調査委員会から保管転換を受けた二十羽、鳥獣実験場で生産した仔鳩三十五羽である。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01006193400、永存書類乙集第2類第4冊 昭和3年(防衛省防衛研究所)」 『鳥獣彙報』(第一巻第五号) 農林省畜産局 |
午前九時五十分、横浜沖で挙行中の大礼特別観艦式において、事故が発生する。大礼特別観艦式列外陪観船・鎌倉丸は、多数の見物人を乗せていたが、仮設の雨覆いの上に大勢が乗ったため、これが崩れ落ち、甲板上に見物人が転落して十二名の重軽傷者を出す。 東京日日新聞社の特派員は、この事件を通報するために伝書鳩を放ち、二十分後、該鳩は同社に到着する。折から、お召し艦の動静をJOAKが放送中であったため、全艦船は無電発信を禁じられていた。鎌倉丸は、郵船支店ならびに税関監視部と連絡が取れず、午後二時十五分になって、ようやく無電を発信する。 ちなみに、東京日日新聞社の特派員だけが伝書鳩を携行していたため、夕刊に悠々とこの事件を掲載する。 ☆補足 上記の一文は、東京日日新聞社『伝書鳩の話』と、毎日新聞社『「毎日」の3世紀 新聞が見つめた激流130年』(別巻)をもとに記す。 両書の鎌倉丸事件に関する記述について、二点異なるところがある。 東京日日新聞社の伝書鳩が本社に通報した時間を、前者は「二十分」、後者は「三十分」としている。また、無電発信禁止の範囲を、前者は「港内全艦船」、後者は「港内外の全艦船」としている。 ささいな相違ではあるが、正確を期して記しておく。 参考文献 『伝書鳩の話』 東京日日新聞社/東京日日新聞社 大阪毎日新聞社 『「毎日」の3世紀 新聞が見つめた激流130年』(別巻) 毎日新聞社 |
歩兵第十連隊が『第十師団軍用鳩班ニ関スル細部ノ規定』を定める。 目次は、以下のとおり(一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている。目次のページが存在しないので見出しを並べて構成する)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001954900、永存書類乙集第2類第4冊 昭和4年(防衛省防衛研究所)」 |
第四師団が『第四師団鳩通信班編成及勤務規定』を定める。 目次は、以下のとおり(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001954900、永存書類乙集第2類第4冊 昭和4年(防衛省防衛研究所)」 |
フランスの通信長官――ギュスターヴ・フェリエ将軍が、陸軍予算に関して、フランス議会で以下のように発言する(偕行社『偕行社記事』〔第六七〇号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『偕行社記事』(第六七〇号) 偕行社 |
国民革命軍の北伐から山東省の在留邦人を保護するために、前年、同省に日本軍が派遣されているが(第一次山東出兵)、本年も第二次、第三次の山東出兵がおこなわれる。 この出兵には、井崎於菟彦大尉を長とする鳩通信班が現地に派遣され、活躍する。 ☆補足 軍用鳩調査委員『昭和十三年改訂 軍用鳩通信術教程』(上巻)に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『通信青年』(昭和十八年八月号) 科学新興社 『昭和十三年改訂 軍用鳩通信術教程』(上巻) 軍用鳩調査委員 『愛鳩の友』(昭和四十四年十一月号) 愛鳩の友社 |
本年以来、北海道庁林務課は、繁殖用の一〇〇羽飼い鳩舎を札幌に建てて、北海道各地の営林区署、森林保護区員駐在所に伝書鳩を配置する。 この鳩は、山火の予防通報に用いる。 参考文献 『北国の鳩界』 佐々木 勇 |
本年度の軍用鳩通信術修業員の派遣要領・携行兵器被服等員数表などは、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01006201400、永存書類乙集第3類第1冊 昭和3年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足 別紙の将校成績表は欠のため、優等成績者は不明。 下士については、騎兵第十二連隊(第十二師団)の大塚勝見騎兵軍曹が第一位で、陸軍大臣から賞品を、軍用鳩調査委員長から賞状を、授与される。 第二位は輜重兵第九連隊(第九師団)の新田元右衞門輜重兵軍曹で、軍用鳩調査委員長から賞状を授与される。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01006201400、永存書類乙集第3類第1冊 昭和3年(防衛省防衛研究所)」 |
歩兵第六十三連隊が『歩兵第六十三連隊軍用鳩班規定案』を定める。 目次は、以下のとおり(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001954900、永存書類乙集第2類第4冊 昭和4年(防衛省防衛研究所)」 |
治水事業に反対する住民が警察と衝突する犀川事件の発生を受けて、陸軍の鳩班が出動し、岐阜歩兵第六十八連隊~第三師団司令部間の連絡に当たる。 鳩班は一月九日に八羽、一月十日に十羽を携行し、西大条参謀および連隊留守隊長からの重要な通信文をもたらす。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001954900、永存書類乙集第2類第4冊 昭和4年(防衛省防衛研究所)」 |
陸軍が師団、要塞、学校などに、軍用鳩に関する状況調査を命じる(報告期限、二月末日) この全国的な調査により、鳩勤務員の編成、所属、鳩および鳩舎(車)の数、鳩の飼育訓練、通信実施ならびに経費の使用景況などが文書にまとめられる。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001954900、永存書類乙集第2類第4冊 昭和4年(防衛省防衛研究所)」 |
この夜、久邇宮邦彦王の容態が悪化する(急性内臓疾患) 東京日日新聞社は、十数名の記者、写真師、鳩係(伝書鳩数十羽を携行)を熱海御用邸に特派する。 久邇宮邦彦王は翌日に亡くなるが、この一連の報道において、写真や記事原稿を伝書鳩が運ぶ。 参考文献 『伝書鳩』 東北鳩協会青森支部 |
一九二八(昭和三)年三月二十四日に出された「海軍軍鳩ノ実験研究ニ関スル件」(官房第六四八号決裁)の「軍鳩ニ関スル覚書」に基づき、海軍大臣が横須賀鎮守府司令長官宛てに、「海軍軍鳩ノ実験研究ニ関スル件」(官房第五二五号)を訓令する。 訓令の内容は、以下のとおり(海軍大臣官房『海軍制度沿革』(巻十五)より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足一 上記第四項の「軍鳩を飼育すべき庁」には、後に上海海軍特別陸戦隊(一九三四〔昭和九〕年四月)と旅順要港部(一九三五〔昭和十〕年十月)が加わる。 ☆補足二 この海軍の実験研究(官房第五二五号)については、以後、これを継続するように、と毎年、訓令が出される。 海軍航空本部『海軍航空沿革史』に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
昭和十七年一月十日印刷の海軍大臣官房『海軍制度沿革』(巻十五)に収録されている訓令などを見ると、少なくとも、昭和十五年度まで実験研究が続いたようである。 もちろん、研究に終わりはないので、終戦のその日まで何かしらの軍鳩研究がおこなわれていたはずである。ここでいう、昭和十五年度まで実験研究が続いた、とは、筆者(私)が調査した限り、その時点まで公的な訓令などが確認できる、という意味である。終戦時に大量の関係資料が処分されているので、そうした資料類が現存していなければ確認のしようがない。また、筆者(私)の力量の問題もあり、これ以上のことは突き止められなかった。 *一九四〇(昭和十五)年五月二十二日、海軍大臣は横須賀鎮守府司令長官宛てに、「海軍軍鳩実験研究ニ関スル件」(官房第二六八九号)を訓令する。その中に、以下の一文がある(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めている)
☆補足三 海軍航空本部『海軍航空沿革史』に、「第二十六章 軍鳩ノ実験研究」という章があり、一九三五(昭和十)年三月現在までの海軍軍鳩研究を三期に分けて説明している。 その区分けは、以下のとおり(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
また、同書に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
*時事通信社『日本海軍航空史 (3)制度・技術篇』が、本書の記述をほぼそのまま転載している。ただし、その転載を一部誤記している。「軍鳩研究の初期は飛行機および哨戒機からの通信」うんぬんとあるが、正しくは、「哨戒機」ではなく、「哨戒艇」である。 参考文献 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 『日本海軍航空史 (3)制度・技術篇』 時事通信社 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 |
歩兵第三十九連隊が『歩兵第三十九連隊鳩班規定』を定める。 目次は、以下のとおり(一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている。表紙に記された冊子名と、目次に記された冊子名が異なっている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001954900、永存書類乙集第2類第4冊 昭和4年(防衛省防衛研究所)」 |
第七師団が『第七師団軍用鳩ニ関スル規定』を定める。 目次は、以下のとおり(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001954900、永存書類乙集第2類第4冊 昭和4年(防衛省防衛研究所)」 |
明治時代から現在まで、軍、官、民、報道関係において活躍した伝書鳩(約一万羽)の霊を慰めるため、中野の軍用鳩調査委員会の前庭に鳩魂塔を創建する。軍用鳩調査委員の井崎於菟彦大尉や、東京はとの会の会長・徳川義恕男爵らの肝いりでこれが実現する。費用は愛鳩家などに寄付を募って工面する。鳩魂塔のデザインは浅井定吉が手がける。 この日の午後一時、鳩魂塔除幕式と鳩魂祭をおこない、陸軍関係者を中心に、海軍、民間、ベルギー・フランス・アメリカ等の外国使臣武官など、五〇〇名が中野に参集する。 午後二時頃、式が終わると、軍用鳩調査委員会の軍用鳩三五〇羽と、各方面から集められた一五〇〇羽の鳩を一斉放鳩する。 ☆補足一 参考として、当時のチラシ(鳩魂祭次第)を以下に引用しよう(一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足二 鳩魂塔除幕式の開催日について、小野内泰治『日本鳩界史年表』(2)が「昭和四年三月四日」、『愛鳩の友』(昭和三十三年五月号)に掲載された記事「鳩魂塔」(作・井崎乙比古)が「昭和四年四月二十四日」、とそれぞれ載っているが誤り。 正しくは、「三月二十四日」である。 ☆補足三 『愛鳩の友』(昭和三十三年五月号)に掲載された記事「鳩魂塔」(作・井崎乙比古)によると、鳩魂塔の創建は、井崎於菟彦が徳川義恕男爵らに相談しに行ったことがはじまりだという。 以前に井崎は、赤坂一流の四人の紅裙を軍用鳩調査委員会鳩舎に案内したことがあるが、そのとき、戦死した鳩は兵隊のように靖国神社に祭られるのか、などと質問を受ける。返答に窮した井崎は、兵隊のように靖国に祭られることはないが、やがて立派な塔を建立して慰めるつもりだ、などと答える。 また、井崎は軍用鳩の毒ガス効力試験の際に、もうもうと立ち込める毒ガス幕を突破してきた鳩の腹を割いて肺の状態を検査している。その残酷な実験の犠牲になった数十羽の軍用鳩の姿に井崎は慄然とする。 そうした思いが、鳩魂塔の創建につながる。 井崎は、同記事において、以下のように述べている。
☆補足四 大正十五年四月十五日発行の鳩園社『鳩』(第四年四月号)に掲載された記事「中野軍用鳩会話」(作・B記者)によると、中野の軍用鳩調査委員会には鳩魂碑があり、一九一九(大正八)年頃から、犠牲になった鳩の脚環をここに埋めているという。 その鳩魂碑がどのようなものであったのか記事は詳しく触れていないが、鳩魂塔の建立以前は、この鳩魂碑が代役を務めていたようである。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和三年三月十七日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和四年三月十二日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和四年三月二十三日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和四年三月二十五日付) 東京朝日新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十一年六月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十二年九月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十三年五月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十三年六月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和五十六年十一月号) 愛鳩の友社 「鳩魂祭次第」 *チラシ 『鳩』(第四年四月号) 鳩園社 |
大村海軍航空隊が軍鳩の飼養を廃止する。 飼養していた五十五羽の軍鳩は、横須賀海軍航空隊に移管する。 参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 |
海軍軍鳩の基礎機関が横須賀海軍航空隊から横須賀防備隊に移る。 ☆補足 防備隊での軍鳩飼養の意義について、『軍鳩実験研究録』に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05034609500、公文備考 昭和10年 Q 通信、交通、気象 巻1(防衛省防衛研究所)」 |
午後一時、時事新報社において、軍用鳩調査委員会嘱託で北海道帝国大学教授の小熊 桿博士が、鳩に関する講演をおこなう(一時間あまり)。山階芳麿侯爵、長谷栄二郎中佐、井崎於菟彦大尉、柿本貫一大尉、竹下憲輔獣医、佐々木宝記技師、獣医学校甲種学生、東京はとの会会員、各新聞社鳩係など、関係者数十名が集う。 午後四時過ぎ、散会する。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和四年五月十九日付) 東京朝日新聞社 |
昭和天皇が八丈島に上陸し、同島を行幸する。 内外社『総合ヂャーナリズム講座』(第四巻)に掲載された記事「新聞通信鳩の研究」(作・小野賢一郎)において、執筆者の小野は、以下のように述べる(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
水交社『水交社記事』(第二六六号)に掲載された記事「軍鳩(伝書鳩)」(作・内藤啓一)によると、新聞社の鳩は八丈島から二時間あまりで東京の本社まで昭和天皇の写真を送達し、その日の夕刊に昭和天皇の写真を載せることができたという。 毎日新聞社『「毎日」の3世紀 新聞が見つめた激流130年』(別巻)によると、このとき、東京日日新聞社は二十羽の伝書鳩に記事と写真を託して飛ばすが、無事に帰還できたのは四羽だけで、残りは行方不明になったという。 参考文献 『総合ヂャーナリズム講座』(第四巻) 内外社 『伝書鳩の話』 東京日日新聞社/東京日日新聞社 大阪毎日新聞社 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『「毎日」の3世紀 新聞が見つめた激流130年』(別巻) 毎日新聞社 |
アメリカのバーネット大佐夫人が、中野の軍用鳩調査委員会の前庭にある鳩魂塔を訪れ、関係者一同とともに参拝する。 ☆補足 バーネット大佐夫人は、動物愛護団体である日本人道会の中心人物である。 参考資料 「昭和四年六月三日 バーネット婦人鳩魂塔参拝記念撮影」(仮称。写真の裏書きより) *筆者所有写真 |
軍用鳩調査委員が『軍用鳩ニ関スル参考書』を出版し、陸普第三六九六号(一九二九〔昭和四〕年八月六日)により、陸軍各隊に本書を配布する。 『軍用鳩ニ関スル参考書』の冒頭、軍用鳩調査委員長の杉山 元少将は、こう述べる(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
本書の目次は、以下のとおり(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『軍用鳩ニ関スル参考書』 軍用鳩調査委員 |
松本 興が『ピジョン・タイムス』という鳩新聞を創刊する。 昭和十一年七月号で廃刊となるが、翌月から帝国伝書鳩協会の機関誌『伝書鳩』に生まれ変わり、一九三七、八(昭和十二、三)年頃まで発行する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年六月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和五十年七月号) 愛鳩の友社 『北国の鳩界』 佐々木 勇 |
動物愛護週間の催しとして、富士山頂からの放鳩(鳩通信)が注目を集める。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年六月号) 愛鳩の友社 |
本年七月に陸軍士官学校を卒業(中華民国第二十期生〔歩兵科〕)している、詩人の黄瀛が、中野の陸軍電信隊(軍用鳩調査委員会)に入り、ここで軍用鳩の飼養法などを学ぶ。 黄瀛が当時の体験を詩に残している。 以下に紹介しよう(黄瀛『詩集「瑞枝」復刻版』より引用。一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている。PCで入力できない旧字体は新字体に変えてある)
☆補足一 軍用鳩調査委員会に学生としてやってきた黄瀛を指導したのが池田重雄少佐(当時、尉官)である。 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十八年六月号)に掲載された記事「支那事変と蒋軍の鳩通信」(作・池田重雄)によると、黄瀛は熱心で、そしてかわいげのある人格をしていて、他の日本学生から「黄さん黄さん」と親しまれたという。また、池田の家によく来て夕食をともにしたそうである。 ☆補足二 当項では、大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十八年六月号)に掲載された記事「支那事変と蒋軍の鳩通信」(作・池田重雄)の記述に従って、黄瀛の軍用鳩調査委員事務所への入所を「一九二九(昭和四)年秋」と記す。 一方、黄瀛の伝記二冊(佐藤竜一『黄瀛 その詩と数奇な生涯』、佐藤竜一『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯 日本と中国 二つの祖国を生きて』。前者が旧版、後者が新装版)には、「一九三〇(昭和五)年」と書いてある。 筆者(私)としては、黄瀛を実際に指導した池田の証言(「一九二九〔昭和四〕年秋」)が正しいように思える。しかし、確証があるわけではないので、どちらの記述が正しいのか、はっきりしない。 そこで、筆者(私)は、できることはしようと思い、インターネット上(Twitter)で、この伝記の著者に、どのような史料を見て、「一九三〇(昭和五)年」と判断したのか質問する。大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十八年六月号)には、「昭和四年秋」と記されていることも、併せて伝える。 しかし、返答をもらえなかった。 事実関係を確認できなくて、残念である。 ☆補足三 中国人の父と日本人の母の間に生まれた詩人・黄瀛(一九〇六〔光緒三十二〕年十月四日~二〇〇五年四月三十日) 第一詩集『景星』と第二詩集『瑞枝』の二冊を著す。 黄瀛は、高村光太郎、草野心平、宮沢賢治、萩原朔太郎などと交友を結び、その詩を高く評価される。 しかし、黄瀛の存在は忘れ去られていて、現在では無名に近い。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年六月号) 大日本軍用鳩協会 『詩集「瑞枝」復刻版』 黄瀛/蒼土舎 「国民革命軍将校・詩人黄瀛と陸軍士官学校」 劉黎 https://core.ac.uk/download/pdf/268153834.pdf 『黄瀛 その詩と数奇な生涯』 佐藤竜一/日本地域社会研究所 『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯 日本と中国 二つの祖国を生きて』 佐藤竜一/コールサック社 『詩友 国境を越えて 草野心平と光太郎・賢治・黄瀛』 北条常久/風濤社 |
並木安一、五十島鶴松の両愛鳩家が中心になって、全関東伝書鳩連盟が設立される。 東京および近県の伝書鳩団体がこれに賛同して加わるが、関東で一番有力な東京はとの会(会長・徳川義恕男爵)だけ参加しなかった。 この事情について、『愛鳩の友』(昭和三十五年二月号)に掲載された記事「古今東西(16)」(作・関口竜雄)に、以下の記述がある。
軍用鳩調査委員である、竹下憲輔と井崎於菟彦が、それぞれの派に分かれて対立していたようである。 ちなみに、一九三〇(昭和五)年十二月七日創立の日本伝書鳩協会の初代会長に、東京はとの会会長の徳川義恕男爵が就任している。この経緯を踏まえると、徳川ら東京はとの会が全関東伝書鳩連盟に参加しなかった理由がそれとなく分かる。 『愛鳩の友』(昭和三十五年二月号)に掲載された記事「古今東西(16)」(作・関口竜雄)に、以下の記述がある(引用文にある「全関」とは全関東伝書鳩連盟のこと)
日本伝書鳩協会の設立に当たっては、東京はとの会の会員(新井嘉平治、相馬英雄、師岡昌徳など)が、うなぎ屋の鮒与に、全関東伝書鳩連盟の幹部を招いて、全国的な伝書鳩組織結成に協力してほしいと要請する。この鮒与で、先に紹介した、並木安一の買収事件が起こる。 関口竜雄『鳩と共に七十年』によると、全関東伝書鳩連盟は解散の憂き目を見たという。全関東伝書鳩連盟の結成に尽力した五十島鶴松や山下清次郎は、こころよく思わなかったそうである。また、このとき、東京好鳩会が日本伝書鳩協会に加入することになったので、山下清次郎とその同志は東京好鳩会を脱会したという。 参考文献 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 『愛鳩の友』(昭和三十五年十二月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和五十年一月号) 愛鳩の友社 |
茨城県でおこなわれている陸軍特別大演習において、統監部に鳩通信部が設置され、参加師団の鳩班が活動する。 そして、この日の観兵式では、八〇〇羽の鳩を一斉に放つ。そのうち半分は民間の鳩で、軍以外の鳩が観兵式に参加するのは、これがはじめてのことである。 ちなみに、東京はとの会(会員六十名)、全関東伝書鳩連盟(会員五十名)、ほか七団体、各新聞社が、中野の軍用鳩調査委員事務所にあらかじめ鳩を送致して準備したという。 ☆補足 『東京朝日新聞』(昭和四年十月二十三日付)に載った予定に従って上記の内容や日付を記す。したがって、予定に変更が生じていたら、出来事や日付が現実と異なっているかもしれない。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和四年十月二十三日付) 東京朝日新聞社 『昭和四年 陸軍特別大演習並地方行幸茨城県記録』 茨城県 |
東京高等学校長が陸軍大臣宛てに、動物学研究用の軍用鳩十羽の保管転換を願う。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001955200、永存書類乙集第2類第4冊 昭和4年(防衛省防衛研究所)」 |
慶応大学と農業大学による大学対抗の競翔が開催される。 午前八時、静岡越前から慶応八羽、農大十七羽の伝書鳩が空に放たれる。 この放鳩には静岡連隊の田川潤一郎少佐が立ち会う。慶応と農大の鳩舎をはじめ、各飼養者宅の鳩舎において、参加者が鳩の帰りを待ち受ける。 そうして、午後三時までに十一羽の伝書鳩が帰還し、記録が取られる。 午後四時から時事新報社において審査がはじまり、陸軍通信学校の井崎於菟彦大尉と、東京はとの会の新井嘉平治がこれに立ち会う。 結果は、農大が点数で上回り、同大学が優勝する。 ☆補足 小野内泰治『日本鳩界史年表』(2)に、競翔の開催日が「十二月二日」と載っているが誤り。 正しくは、「十二月一日」である。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和四年十二月二日付) 東京朝日新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十三年六月号) 愛鳩の友社 |
日本鳩界の衰退を心配し、大阪好鳩会と大阪南鳩会の代表が、宇垣一成陸軍大臣や財部 彪海軍大臣らに伝書鳩の奨励陳情書を提出する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年六月号) 愛鳩の友社 |
海軍砲術学校が軍鳩の飼養を廃止する。 飼養していた三十羽の軍鳩は、横須賀防備隊に移管する。 参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 |
ベルギー政府から日本陸軍に対し、灰色の雄の伝書鳩(Belg 1929-1550591 B ♂)と、灰胡麻色の雌の伝書鳩(Belg 1927-1335646 BC ♀)のつがいが贈られる。 この二羽の選定には、軍用鳩調査委員の井崎於菟彦大尉の強い希望があったといわれている。姿かたちがドイツ軍の重厚種に似ていることから、軍用鳩調査委員会ではその子孫を「ドイツタイプ」「ドイツ鳩」と呼び、井崎などは、(第一次世界大戦で敗れた)ドイツ軍より没収された鳩の子孫に違いない、と考える。 特にこの雄鳩(Belg 1929-1550591 B ♂)は、ベルンおよびボルドーからベルギーの某地点までの競翔で優勝した俊鳩であり、いわゆる「ドイツ鳩」と呼ばれている系統の源鳩になる。 『愛鳩の友』(昭和三十二年十一月号)に掲載された記事「レース鳩の遺伝 …〔七〕…」(作・金沢輝男)に、以下の記述がある。
☆補足一 ドイツ軍は軍用鳩の体型を、軽快種、重厚種、中間種の三種に分類している。井崎於菟彦はそのうち重厚種に着目し、帰巣本能の高さや重い荷物を運べる運搬能力を評価する。 井崎は、鳩の買いつけや研究調査のために欧州を訪れているが、その際にドイツ軍と何度も交渉して重厚種の導入を図る。しかし、第二次世界大戦が勃発すると、交渉は棚上げになってしまう。 そうした経緯もあって、ベルギーから贈られた鳩(B29-1550591 B ♂)がドイツ軍の重厚種のように扱われる。 いわゆる「ドイツ鳩」の誕生である。 余談だが、井崎が「ドイツ鳩」の信奉者であったのは、関東大震災のときに、両脚に信書管をつけ、背中に通信筒を背負った、重量過多の軍用鳩を取り扱った体験が関係しているように思われる。このような大災害においては、鳩に過積載を強いる状況が発生する。軍用の鳩には重厚種の力強さが何より必要、と井崎は考えたのかもしれない。 『愛鳩の友』(昭和三十四年二月号)に掲載された記事「古今東西(3)」(作・関口竜雄)によると、日本軍は、大きな、胸の厚い鳩を理想的な仔鳩と考えていたという。軍の鳩は通信の要務のために通信筒を背負うので、そういう型がよいとされ、ルネ・クレルカン砲兵中尉の説明も同様だったそうである。 *軽快種、重厚種、中間種とあるが、呼び方がいくつか存在する。軽快種については小型鳩もしくは軽量級、重厚種については重鳩もしくは重量級、中間種については並鳩もしくは中間級などと呼ぶ。特定の訳語は決まっていないようである。 *東海ドイツ鳩同好会『在来ドイツ系』によると、井崎は重厚種を導入するためにドイツ軍と幾度も交渉を重ねるが、第一次世界大戦の勃発によって、交渉は中断してしまったという。 この件について補足すると、「第一次世界大戦」とあるが、「第二次世界大戦」の誤りであろう(当項では修正済み)。第一次世界大戦において、伝書鳩の実力が再評価されたことにより、日本に軍用鳩調査委員会が誕生し、外国産の伝書鳩が導入されているからだ。第一次世界大戦の勃発前に、井崎がドイツ軍と交渉していたというのは考えにくい。 ☆補足二 一九三七(昭和十二)年頃の話である。 ドイツ系鳩が中野から仙台に渡り、三浦や佐藤らの設立した「仙台鳩舎」において、これが繁殖し、競翔で好成績を収めていた。このことを知った吉川晃史は、調査のために仙台を訪れ、すぐにこの鳩を気に入る。そして、東京に戻った吉川は、中野通信隊に出向いて、飯野賢十大佐にドイツ原鳩の払い下げを相談する。飯野は、鳩の払い下げには同意するが、よりすぐりの鳩で、数も限られていたために、なかなか吉川に鳩を下ろしてくれなかった。 結局、三月に相談してから、その半年後となる秋に、吉川は一羽五円でドイツ鳩を手に入れる。毎年、これを増やしていって、一時期は五十羽ほどになり、ドイツ鳩専用の鳩舎まで作る。また、中根時五郎や並木安一らとドイツ会を作る。ただし、鳩は純系の保存と鑑賞のため、門外不出だったという。 *上記の一文は、『愛鳩の友』(昭和三十一年十月号)に掲載された記事「競翔鳩としてのドイツ系について」をもとに記す。同記事中に、「中野通信隊の隊長井野大佐(後に少将)」という人物が出てくるが、「飯野賢十大佐」の誤りであろう。よって、当項では、「飯野賢十大佐」と記している。 ☆補足三 中野の軍用鳩調査委員会鳩舎から払い下げた鳩の系統を中陸系と呼ぶ。この中陸系をなす、外国からの種鳩輸入は、おおよそ四回あったという。 ルネ・クレルカン砲兵中尉ら仏国鳩術教官とともにやってきた鳩、長谷栄二郎が外遊の際に購入した鳩、委託販売によってベルギーから送られてきた鳩、井崎が欧州伝書鳩視察の際に購入した鳩、である。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十一年十月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十二年十一月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十四年二月号) 愛鳩の友社 『在来ドイツ系』 東海ドイツ鳩同好会 『レース鳩』(平成二十四年九月号) 日本鳩レース協会 『作出と競翔 レース鳩の総合研究』 並河 靖/愛鳩の友社 |
軍用鳩調査委員の井崎於菟彦大尉が欧州伝書鳩視察のため、シベリア鉄道(ウラジオストック~モスクワ)に乗って欧州に向かう。このとき、旅費や種鳩の購入費として、井崎は四万円を支給される。 鉄道ではなく船舶を利用してもよかったが、このとき、井崎は日本軍人らしく頭を丸めていて、このままの状態で外国に向かうと、日本将校の対面に関わるとのことで、髪を伸ばす必要があった。そこで、シベリア鉄道で半月ほどゴトンゴトンと揺られていけば髪が伸びるので、パリ到着後、当地の床屋で散髪してもらえば問題ない、ということになって、鉄道の旅を選ぶ。このアイデアは、先輩から教えてもらったという。 ☆補足一 井崎の欧州出張の命令が官報に出た日、井崎は父の墓参りをして、このことを報告する。井崎の父は陸軍教導団の出身で、本来なら下士官で終わるはずだったが、苦労して士官学校に進み、同校でフランス語を習う。そして、一度パリの月を眺めたいと言いながら、五十八歳で亡くなっている。 井崎は、以下のように述べている(『愛鳩の友』〔昭和四十四年十一月号〕より引用)
☆補足二 『愛鳩の友』(昭和四十五年五月号)に掲載された記事「鳩のお宿をたずねて(二) ――やっとモスコー到着――」(作・井崎乙比古)によると、井崎はシベリア鉄道に乗って、八日目に、冬の十一月のモスクワ駅に到着したという。つまり、一九二九(昭和四)年十一月に井崎はモスクワに滞在していることになる。しかし、昭和四年十二月二日付の『東京朝日新聞』の記事によると、同年十二月一日に開催された、慶応大学と農業大学の大学対抗競翔に、井崎は審査官として立ち会っているという。井崎はモスクワ到着後、欧州各国を巡り、その翌年に帰国しているので、一九二九(昭和四)年十二月一日に井崎が日本国内にいるのは、つじつまが合わない。 どちらかの記述が誤っているように考えられるが、もしかしたら、井崎のモスクワ訪問は、一九二九(昭和四)年の出来事ではなく、別の年の可能性もある。 詳細不明。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和四十四年十一月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十五年二月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十五年四月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十五年五月号) 愛鳩の友社 |
日本家畜人工授精師協会『家畜人工授精変遷史』によると、この年、山根、加藤らによって、真駒内牧場から新冠御料牧場までの一二〇キロを、伝書鳩を使って、馬精液の長距離輸送をおこなったという。しかし、散発的な授精試験にとどまり、普及するまでには至らなかったそうである。 鳩による精液輸送が実用化されるのは、大東亜戦争後のことで、数県で成果を上げたという。 ☆補足 本書を確認する限り、この一九二九(昭和四)年に北海道でおこなわれた試験が、鳩による馬精液輸送の日本最古の記録のようである。 参考文献 『家畜人工授精変遷史』 日本家畜人工授精師協会 |
この年、アルフレッド・ヘンリー・オスマン大佐をはじめとする、第一次世界大戦に従軍した軍用鳩関係者がロンドンのラッセルホテルに集い、オールド・コムレッドショーというレース鳩品評会の開催を決定する(以来、イギリスでは毎年、この催しが開かれている) 当時、ヨーク公であった、後のジョージ六世は、第一次世界大戦で軍用鳩が活躍したことや、オスマンが大佐の地位にあって軍用鳩の権威者だったことを高く評価し、後援者の地位に就く。そして、後にジョージ六世から後援者の地位を継いだアレクサンドラ王女が、毎年このショーに臨席する。 *「オールド・コムレッド」とは古い同志という意味。 ☆補足 上記の一文は、ピジョンダイジェスト社『ピジョンダイジェスト』(昭和四十七年十月号)に掲載された記事「世界最大最古の品評会 “オールド・コムレッドショウ”」をもとに記す。 同記事は、即位前のジョージ六世を「ヨーク公」ではなく「エジンバラ公」と誤記している(修正済み) 参考文献 『ピジョンダイジェスト』(昭和四十七年十月号) ピジョンダイジェスト社 『愛鳩の友』(昭和四十三年五月号) 愛鳩の友社 |
第一次世界大戦後、アメリカで鳩の飼養が盛んになり、欧州各国から優れた鳩が輸入される。 そうして、繁殖した結果、一九二十年代には、五十万羽を越える羽数になる。 ☆補足 鳩といったらベルギーが本場である。世界中で飼われている伝書鳩のほとんどは、ベルギー種の血を引いている。その名高いベルギー鳩の数が急に増えたきっかけが、第一次世界大戦後のアメリカにおける鳩ブームだったといわれている。ベルギーからアメリカに輸出される鳩の数が激増し、それに伴って、ベルギー国内の鳩の数も増えていった。 なお、ベルギーでは昔から鳩レースが人気で、巨額の金が動く賭け事になっている。鳩王国と呼ばれるほど、ベルギーでたくさんの鳩が飼われているのは、この鳩レースの盛況が少なからず関係している。 著名な愛鳩家である松本 興が一九三三(昭和八)年にベルギーを訪れたときには、鳩があまりにも増えすぎたために、ベルギー政府が鳩に課税して制限しようとしていたほどだったという。 参考文献 『鳩(最新版)』 松本 興/博友社 |
横須賀防備隊において、第一回軍鳩術講習が開かれる。 各隊から集められた軍鳩要員が四十日間、座学と実業により、必要な鳩術を習得する。 これ以後、軍鳩術講習は海軍に定着し、一九三一(昭和六)年一月に第二回が、一九三二(昭和七)年一月に第三回が開かれている(以下続く) 第一回軍鳩術講習のものではないが、参考として、一九三六(昭和十一)年の試験問題を以下に引用しよう(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05035336200、公文備考 昭和11年 Q 通信、交通、気象時 巻1(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、空行を入れたり、文字表記を改めたりしている。一六~二〇は実技問題)
参考文献 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05035336200、公文備考 昭和11年 Q 通信、交通、気象時 巻1(防衛省防衛研究所)」 |
土屋侍従の子息・土屋秀直ら一行(六名)が剱岳を登山する。しかし、剱沢小屋で就寝中、雪崩に襲われて全員が遭難死する。 第九師団の下士一名および兵二名が遭難者捜索隊に加わり、携行してきた軍用鳩十三羽(移動鳩八羽、固定鳩五羽)を使って、通信連絡に当たる。 参考文献 『読売新聞』(昭和五年一月十八日付) 読売新聞社 「剱御前小舎誕生秘話 昭和5年の新聞記事に見る剱御前小舎の誕生の物語」 http://sanzokuan.jp/Lodgehistry/Lodgehistry.htm |
薪運搬用の道作りのため、付近の山中に入った、秋田県雄勝郡三関村の村人一〇〇余名が雪崩に遭い、十五名が生き埋めになる。幸い、村人の中に伝書鳩を携行していた者がいて、この鳩通信によって危急が伝わり、全員が無事に救助される。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年六月号) 愛鳩の友社 |
『往復訓練ニ関スル参考』が出版される。 大正十五年二月に近衛師団が実施した往復通信訓練の記録や所見を印刷したものである。 本書に、目次は存在しないが、以下に見出しを抜き出し、紹介しよう。
本書によると、近衛師団を棲息鳩舎とし、それ以外の場所(立川および四街道、習志野および千葉、所沢)に食事鳩舎を置いて、この二点間(棲息鳩舎~食餌鳩舎)を軍用鳩が往復して通信したという。 参考文献 『往復訓練ニ関スル参考』 |
軍用鳩調査委員会の井崎於菟彦大尉が欧州伝書鳩視察の旅を終えて帰国する(フランス、ベルギー、ドイツなど) 井崎の視察談から、そのいくつかを箇条書きにして紹介しよう。 ・ベルギーは鳩の系統において優れ、独仏は訓練、飼育の点に勝っている。 ・ベルギーは国を挙げて伝書鳩飼育に力を入れている。ベルギーの昨年の登録鳩数は四五〇万に及び、中産の家庭が数百羽の伝書鳩を飼っているのも珍しくない。小売り商人までもが伝書鳩の話となると仕事を忘れて論じるほどである。 ・ベルギーの鳩レースの一等には五、六万フランの賞金と、種々の副賞がつく。そうした鳩やその子孫は、鳩の展覧会などで高値で取り引きされる。 鳩の展覧会は、町の広場で午前中だけ開かれるようなものもあるが、多くの鳩が出品されて審査と売買がおこなわれている。 ・ドイツの訓練、飼育が科学的に非常に発達している。例えば、鳩の体の大きさに大、中、小の区分を設けて、大型の鳩には写真機その他、重量のあるものを運ばせる用途に向かって訓練を施している。小型のスピードのある鳩にはスピードを出させるように努めている。 ・ドイツの軍用鳩は、毒ガス恐るるに足らず、とのレベルに達している。毒ガスに対する抵抗力は訓練済みである。 ・ドイツは悪天候でも鳩が飛べるように熱心に研究している。 ・ドイツは最小限の鳩舎で鳩が飼えるように、手提げ鳩舎を製作している。小さな鳩舎で巣引きできれば、持ち運びなどにおいて何かと便利である。その点においては、鳩舎の軽量化にも努めていて、金属製の鳩舎・鳩車を製作し、鳩を持ち運ぶ容器もズック製のほか、各種用意している。 ・ドイツに限った話ではないが、ドイツは鳩の薬(丸薬その他)をいろいろと製剤している。 ☆補足一 この当時の出来事と思われるが、井崎はドイツ陸軍省に依頼して、ドイツ軍のポツダムの鳩隊に一泊している。当日(三月十日)の朝、ドイツ軍が軍用自動車を手配してくれて、井崎と通訳のS(井崎の友人)がこれに乗って現地にゆく。その際、井崎を乗せた自動車がポツダムの街に十分ほど早く到着する。時間に正確なドイツ軍だけあって、十分間、自動車は迂回してから鳩隊のある営門に時間どおりに入る。正確第一のドイツ式の実例を見て、井崎は感心し、驚く。 さて、日本から来た鳩士官ということで井崎は鳩隊で歓迎され、通信隊司令官のカール・ニュイッタン少将の部屋に招かれる。 井崎はニュイッタンに、「日本陸軍の大先輩たる貴国に敬意を表しうるのは、誠に光栄である」と、あいさつする。ニュイッタンは、「貴国陸軍創設当時はドイツ陸軍を参考とせられたが、今日の貴国陸軍は実に堂々たるものです。なお平和のシンボル(タウベ・鳩)は、軍用通信の殊勲者である。せいぜい見てください」と述べる。そして、鳩舎を案内しようとも言う。しかし、井崎は、司令官自らの案内に遠慮して、これを断る。すると、ニュイッタンは、多少フランス語ができるドイツ士官(中尉)に、井崎の案内役を命じる。 ポツダムの通信隊は、第一中隊が無線、第二中隊が有線、第三中隊が鳩、第四中隊が気球を担当しており、この四個中隊で編成されている。 井崎は、ドイツ士官の案内で鳩舎を巡り、第一号鳩舎の優秀鳩や、鳩を背負った軍用犬の運搬訓練などを見学する。 昼食時、大皿に乗ったジャガイモが出て、「いもはオランダが世界一だが、最近ドイツでもうまいのが食べられます。さあ」と、ドイツ士官が言う。その言葉どおり、大変おいしい。 日が変わって、翌朝、井崎は軍用鳩の舎外運動を眺める。軍用鳩が円を描いて飛翔する。 と、突然、一羽の猛禽が現れて鳩を追いかけ回す。「射撃兵!」とドイツ士官が連呼すると、鳩兵が空に一発、煙弾を発射する。たちまち、白煙が立ち込めて猛禽を取り巻く。「こんな近距離なら、実弾で射殺したらよいではないか」と、井崎がドイツ士官に言うと、彼は、こう答える。「鷹も生あるものである。鳩を害しないならば生命をうばう必要はない」。井崎は、その情け深い言葉に感銘を受けて、これを日本へのお土産にする。 ちなみに、井崎はフランス語を話せるが、ドイツ語は不得手である。また、ドイツ士官から説明を受ける際、専門的な鳩用語に触れざるを得ないので、なかなか意味をつかめない。ドイツ士官は、その井崎の様子から、たどたどしいフランス語を使って、井崎に説明してくれる。井崎は、その寛大な気づかいに感心する。 井崎は、一九三〇(昭和五)年三月十五日にマルセイユを発ち、帰国の途に就くが、その二日前にドイツ陸軍が二名の宰領者を派遣してドイツ鳩を届けてくれる。 何羽のドイツ鳩が日本にやってきたのか明確でないが、ドイツ軍の区分による三種の鳩――重鳩、並鳩、小型鳩のうち、並鳩五つがい(十羽)を、井崎はポツダムの鳩隊から分けてもらう(このポツダムの鳩隊から分けてもらった五つがい〔十羽〕が日本に輸入されたドイツ鳩の全てなのか、それとも別のドイツ鳩も含まれていたのか不明) 井崎は、ドイツ鳩のほかに、パリで開催された鳩展覧会でクジャクバトなどの鑑賞鳩を買いつけ、これを持ち帰る。 帰路の上海でクジャクバトが産卵し、籠の中で卵を温める。その愛らしい姿に井崎は目を細めるが、井崎に命じられた欧州の視察任務に、軍用鳩の購入はあっても鑑賞鳩の購入はなかった。 井崎は帰国後、「愛玩鳩を買ってくるとは命令違反だ」と上官から叱責される。しかし、井崎にしてみれば、日本唯一の鳩研究所に参考鳩があってもよいではないか、との考えがあった。 *上記の一文は、『愛鳩の友』(昭和三十九年二月号)に掲載された記事「随想」(作・井崎乙比古)に基づき、ドイツ軍が手配した軍用自動車に乗って井崎はポツダムの鳩隊を訪問した、と記す。しかし、『愛鳩の友』(昭和四十六年六月号)に掲載された記事「鳩のお宿をたずねて ――独乙軍用鳩隊見学記――」(作・井崎乙比古)には、日の丸を掲げた日本大使館の車に乗って井崎はポツダムの鳩隊を訪問した、とある。 どちらの記述が正しいのか不明。 *重鳩、並鳩、小型鳩とあるが、呼び方がいくつか存在する。重鳩については重厚種もしくは重量級、並鳩については中間種もしくは中間級、小型鳩については軽快種もしくは軽量級などと呼ぶ。特定の訳語は決まっていないようである。 ☆補足二 このとき、井崎は、種鳩のほかに、ベルギー軍の世話でツーレー式の鳩時計(競翔用の記録時計)を購入し、日本に輸入する。これが日本における公的な導入となるが、民間では大正時代に東京はとの会が鳩時計を輸入し、使用していた。 日本に鳩時計が存在しない頃の競翔では、ゴム印を押した風切り羽根を抜いたり、脚環に紙を巻いたり(ゴム環に相当)して、帰舎記録を取った。 『愛鳩の友』(昭和三十二年九月号)に掲載された記事「座談会 ものがたり日本鳩界史 ――大正から昭和の初期まで――」に、以下の記述がある。
軍隊では人手を出せるので、このような方法が可能であった。 ☆補足三 『愛鳩の友』(昭和五十年一月号)に掲載された記事「――若人にかたる―― 日本鳩界の歴史」(作・小野内泰治。連載第三回)に、以下の記述がある。
一〇〇〇羽の鳩が神戸についた、との一文は、昭和五年ではなく大正八年の出来事を述べているが、この当時、遠い船旅で日本に伝書鳩がやってくるので、その途中、雛がかえることは珍しくなかった。その雛を一般に分けるアルバイトをしていた現役将校がいて、軍で問題になったという。 現役将校の氏名やその正確な時期は不明だが、いわゆる物資の横流しのような行為、と考えてよいのか。 参考文献 『趣味の伝書鳩飼い方』 白木正光/正和堂書房 『愛鳩の友』(昭和三十二年九月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十三年二月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十九年二月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十九年六月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十六年六月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和五十年一月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和五十年六月号) 愛鳩の友社 |
第九回極東選手権競技大会(開催地、東京)において、陸海軍、民間鳩団体、各新聞社の伝書鳩二〇〇〇羽あまりが国旗掲揚とともに一斉放鳩される。 参考文献 『読売新聞』(昭和五年五月二十一日付) 読売新聞社 『愚感 伝書鳩』 城島嘉輝 |
昭和五年海軍特別大演習において、軍鳩を使用することになり、この日、官房第二一二号により各鎮守府司令長官および各要塞部司令官宛てに、以下の訓令が出される(海軍航空本部『海軍航空沿革史』より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
以上の訓令により、民間から約三〇〇羽の幼鳩と器材類を購入し、夜間鳩舎を各防備隊に設置する。 軍鳩は、大演習中の無線電信封止の際、防備隊付属艦船よりの通信を担う。 参考文献 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 |
現時点での、海軍兵学校および上海海軍特別陸戦隊における軍鳩数。 海軍兵学校、三十一羽。 上海海軍特別陸戦隊、四十二羽。 参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 |
陸軍省賛同のもと、農業大学と法政大学の伝書鳩ファンが中野の軍用鳩調査委員会に集まり、この日から兵の間に交じって訓練を受ける。予定では七月下旬に鳩車を富士裾野に据えて移動鳩訓練をおこない、それが仕上がったら、日比谷公園の広場に鳩車を並べて競翔を実施することになっている。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和五年七月二十一日付) 東京朝日新聞社 |
フランスとベルギーが共同で、アルジェリア~ブリュッセル間一五〇〇キロ競翔を開催する。一五〇〇キロに及ぶ長距離と、地中海越えとなる難レースであることから、地中海の翔破が可能か議論された末に、レース決行となる。 この日の午前六時、アルジェリアの海岸から約五〇〇〇羽の参加鳩を一斉放鳩する。 七月十六日の午前八時、マルセイユとニースに同時に鳩が帰還し、これがフランス組の第一着となる。一方、ベルギーでは、七月十六日の午後八時三十二分、ブリュッセルに第一着の鳩が帰還する。 当時、この長距離競翔は、ヨーロッパ鳩界にセンセーションを巻き起こす。 ☆補足一 『愛鳩の友』(昭和三十八年九月号)に掲載された記事「二〇〇〇粁競翔のおもいで」(作・井崎乙比古)に、以下の記述がある。
執筆者の井崎は、二〇〇〇キロ競翔と記しているが、単に距離の表現が異なっているだけで、アルジェリア~フランス・ベルギー間競翔のことを述べていると思われる。 参考文献 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『愛鳩の友』(昭和三十八年九月号) 愛鳩の友社 |
全関東伝書鳩連盟が東京日日新聞社講堂において、伝書鳩の講演と映画の会を開催する。 中央気象台長の藤原咲平が「伝書鳩と気象」について、軍用鳩調査委員の井崎於菟彦大尉が「欧州伝書鳩の近況」について、それぞれ講演する。 映画の部では、「フランスの伝書鳩」(一巻)、「ドイツの伝書鳩」(三巻)、「日本の伝書鳩」(四巻)を上映する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年六月号) 愛鳩の友社 |
「制限旅費、日額旅費ノ減額支給ニ関スル件」(陸普第三〇六四号。一九三〇〔昭和五〕年七月十一日付)の趣旨にのっとって、当分の間、軍用鳩訓練のために旅行する軍用鳩調査委員会関係者の旅費を以下の減少額に定める(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001163800、永存書類甲輯第3類 昭和5年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナをひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足 減額の程度については、一九二〇(大正九)年九月二十四日の「出張旅費制限ノ件」(鳩第一五二号)を比較参照してほしい。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001163800、永存書類甲輯第3類 昭和5年(防衛省防衛研究所)」 |
「制限旅費、日額旅費ノ減額支給ニ関スル件」(陸普第三〇六四号。一九三〇〔昭和五〕年七月十一日付)の趣旨にのっとって、当分の間、軍用鳩訓練のために旅行する陸軍獣医学校関係者の旅費を以下の減少額に定める(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001165400、永存書類甲輯第3類 昭和5年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナをひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足 減額の程度については、一九二〇(大正九)年九月二十四日の「出張旅費制限ノ件」(鳩第一五二号)を比較参照してほしい。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001165400、永存書類甲輯第3類 昭和5年(防衛省防衛研究所)」 |
軍用鳩調査委員会が『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』を編纂する。 目次は、以下のとおり(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている。各章を抜粋し、各節以下は省略。第四章〔第二編 訓練〕が重複しているが原文ママ)
本書は、昭和三年六月に出版された軍用鳩調査委員『鳩通信術教程草案』に比べると、内容が飛躍的に充実している。用語の説明が詳しくなり、写真、付図、付表が盛りだくさんである。 軍用鳩調査委員会が編纂した、いくつかある鳩教範のうち、本書はビジュアル面に優れていて、軍用鳩に関する基礎知識を把握する際に重宝する。 参考文献 『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 |
目下、改造工事中である上野動物園は、その工事がほとんど終わったので、今月の二十二日、二十三日、二十四日の計三日間、同園において動物祭を施行する。 予定では、十一月二十二日の正午に、陸海軍、民間鳩団体、各新聞社の伝書鳩数千羽を一斉に放鳩する。 以上、一九三〇(昭和五)年十一月二十一日付の『読売新聞』の記事より。 参考文献 『読売新聞』(昭和五年十一月二十一日付) 読売新聞社 |
陸軍運輸部長が陸軍大臣臨時代理宛てに、「軍用鳩研究廃止ニ関スル件」を意見具申する。運輸部は現在、上陸作戦に関する鳩通信について研究調査しているが、これをひとまず廃止したいとの要望である。 その理由は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001255300、永存書類甲輯第5類 其3 昭和6年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足 上陸作戦に関する鳩通信の研究調査は、陸普第二七一二号(一九二四〔大正十三〕年)および陸普第一〇三〇号(一九二五〔大正十四〕年)に基づき、実施される。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001255300、永存書類甲輯第5類 其3 昭和6年(防衛省防衛研究所)」 |
有事に備える目的から、日本の愛鳩家を全国的に統一する組織――日本伝書鳩協会が創立する。 並木安一が日本伝書鳩協会の発足に至る経緯を以下のように語っている(『愛鳩の友』〔昭和五十年一月号〕より引用。文中にある「全関連」とは全関東伝書鳩連盟のこと)
日本伝書鳩協会の発足以前は、全国統一の脚環は未頒布で、それぞれの鳩会の脚環や個人のものを用いていた。それらの脚環をつけた鳩は、一九三五(昭和十)年まで競翔に出場できたが、それ以降は、鳩協と刻まれている、日本伝書鳩協会の脚環をつけていなければ認められなかった(一九三一〔昭和六〕年から全国統一の脚環を発行) カップについては、日本伝書鳩協会発足の同日、陸軍大臣杯、海軍大臣杯、資源局長官杯がそれぞれ二個ずつ下付され、これを東京と大阪に分けて保管する。 ☆補足 小野内泰治『日本鳩界史年表』(1)によると、伝書鳩団体の発展を助成し、全日本伝書鳩連盟の独立を望むという論文が昭和五年一月の『ピジョン・タイムス』に掲載されたという。執筆者は、中野軍用鳩調査委員会の長谷栄二郎とのことである。 つまり、日本の愛鳩家を全国的に統一する組織――日本伝書鳩協会は、この長谷の提言から約一年をかけて、本年の十二月七日に産声を上げたことが分かる。 なお、同記事によると、日本伝書鳩協会設立当時の全国の鳩クラブは約六十あり、会員数は一〇〇〇人、鳩数は一万九〇〇〇羽程度だったという。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年六月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十七年十月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和五十年一月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和五十年三月号) 愛鳩の友社 『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 |
フランス滞在中の井崎於菟彦大尉は、ルネ・クレルカン砲兵中尉の紹介で、パリのブーローニュ公園(ブーローニュの森)近くの某マンションに宿泊する。ここには五、六世帯が暮らしていて、屋上には大家のダンリーの鳩舎があり、二〇〇羽の伝書鳩が飼われている。 住人は全て愛鳩家で、一ヶ月交代で鳩の世話をしている。 クリスマスの本日、井崎の発案で、パリの各所から、ダンリー家の伝書鳩を空に放って、お祝いすることになる。 放鳩場所はエッフェル塔、ノートルダム寺院、凱旋門、セーヌ左岸、シャンゼリゼの五箇所とし、抽選で決めた結果、井崎はエッフェル塔の担当になる。 そうして、この日の朝、井崎は五羽の鳩を携えてエッフェル塔に行く。日本の軍人がエッフェル塔の頂上から放鳩するとあって、パリジェンヌたちは興味津々、井崎の後ろをついていく。 一斉放鳩ではなく、個別放鳩でおこない、一羽ごとに放鳩時間を記した信号管を鳩に付す。井崎が鳩を放つたびに、やじ馬はその飛んでいく方向を目で追って、ガヤガヤ騒ぐ。 井崎が最後の鳩であるナポレオン号に信号管を付していると、十五、六歳くらいの美しい少女がそばにきて、「誠にすみませんが、最後の鳩を私の手で放させていただけませんか」と言う。井崎は、女性の愛鳩家の友人を得て喜び、「ウイ、マドモアゼール、コンムブーブドレー」(お嬢さん、あなたのお望みのとおりに)と答える。 少女がナポレオン号をつかむと、脚環をジッと見つめる。井崎は早く放鳩したかったので、「脚環に何か記憶でもあるのですか?」と問う。すると、少女は「この鳩は昨今フランス鳩界で、一番流行り子です。私の家でもナポレオン系の鳩三十羽を愛育しております」と大きな声で言う。 やがて、少女はナポレオン号のくちばしに接吻し、「アレー」(さあ行け)と言って放鳩する。 少女の手を離れたナポレオン号は、いったん、地上すれすれに降下し、そこから急上昇して方向判定に移り、セーヌ右岸の方向に飛んでいく。「セーヌ右岸、セーヌ右岸」と少女は大きな声で連呼し、視界からナポレオン号の姿が消えるまで空を見つめる。 井崎はセーヌ右岸を一巡した後、宿泊先のマンションに戻る。ダンリー夫人は無事にナポレオン号らが帰ってきたことを井崎に告げる。 その後の夕食会では、ダンリー夫人が「ノエルに幸あれ」と喜色満面で言って、大コップに一杯宛ての白ブドウ酒を住人に配る。 ☆補足一 ダンリー夫人は、第一次世界大戦で戦死したダンリー大尉の未亡人。 ☆補足二 ダンリー夫人にはジャーヌという四十歳近い一人娘がいた。このジャーヌが忙しいときには、井崎がその代わりに鳩の世話をしたという。 井崎が放鳩の手伝いをしたのか明確ではないが、ブーローニュ公園(ブーローニュの森)から鳩を空に放つこともあったそうである。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和四十七年八月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和五十年二月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和五十年三月号) 愛鳩の友社 |
本日出版の、内外社『総合ヂャーナリズム講座』(第四巻)に、小野賢一郎の記した記事「新聞通信鳩の研究」が載っている。 同記事によると、東京方面における新聞通信社の所有鳩の概数は、東京日日新聞・五五〇羽、東京朝日新聞・三〇〇羽、時事新報・二五〇羽、電報通信・二〇〇羽、報知新聞・二〇〇羽、読売新聞・一〇〇羽、帝国通信・五〇羽だという。 また、地方における新聞社で通信鳩を所有するものは、大阪毎日・三五〇羽、大阪朝日・三〇〇羽、北海タイムス、河北新報、福岡日日、秋田魁、新潟毎日、伊勢新聞その他、とのことである。 参考文献 『総合ヂャーナリズム講座』(第四巻) 内外社 |
関東ピジョン倶楽部が創立する。メンバーは山下清次郎、関口竜雄、森谷義一、鈴木房太郎、高木俊夫、松濤泰正、金井正次郎、青木梧郎、久住祐三など。 関ピ記号の脚環と所有権証を発行し、また、『ツバサ』(昭和七年一月五日に第一号)という機関誌を出版する。 特に、所有権証の発行は、日本初の試みで、脚環番号や両親の系統、記録などを記載できた。この当時の所有権証の形式が戦後の日本鳩界に受け継がれる。 ☆補足 一九三〇(昭和五)年十二月七日の日本伝書鳩協会の創立に当たって、全関東伝書鳩連盟は解散している(「◆一九二九(昭和四)年十一月三日」の項、参照)。また、これにより、山下清次郎らは東京好鳩会を脱会する。 この関東ピジョン倶楽部は、以上の経緯を受けて新たに結成した鳩会であることから、日本伝書鳩協会とは複雑な関係にある。 日本伝書鳩協会『昭和十四年八月現在 会員名簿 付定款及諸規則』を確認すると、各鳩会に並んで、関東ピジョン倶楽部の会員名簿も記載されているが、この一九三九(昭和十四)年八月の時点においては、日本伝書鳩協会と帝国伝書鳩協会(後述)が合併を果たしているので、関東ピジョン倶楽部がその傘下にあっても、それほど奇異なことではない。 ただし、一九四二(昭和十七)年六月二十七日に大東亜伝書鳩総連盟(後述)が結成されて、日本鳩界が再び分裂すると、対立が再燃する。山下清次郎や関口竜雄らは、大東亜伝書鳩総連盟に参加したのである。 参考文献 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 『愛鳩の友』(昭和五十三年十一月号) 愛鳩の友社 『昭和十四年八月現在 会員名簿 付定款及諸規則』 日本伝書鳩協会 |
朝鮮総督府逓信局長が陸軍大臣宛てに、「鳩通信ノ実施調査ニ関シ軍用鳩譲受ノ件」(逓養第一号)を照会する。朝鮮総督府逓信局の希望鳩数は一〇〇羽である。 理由は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01006502200、永存書類乙集第2類 其4 昭和6年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01006502200、永存書類乙集第2類 其4 昭和6年(防衛省防衛研究所)」 |
宇都宮将校婦人会互社会の新年初顔合わせが偕行社でおこなわれる。 師団司令部鳩班が軍用鳩に「おめでとう」の通信文を付して放ち、水戸、高崎、松本の各衛戍地の将校婦人にこの祝いの言葉を届ける。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和六年一月十一日付) 東京朝日新聞社 |
順宮厚子内親王の生誕(三月七日)を祝して、霞ヶ浦海軍航空隊の飛行船三隻が東京を奉祝飛行する。飛行船は丸の内の上空に至ると、船上から数十羽の鳩を放って祝意を表する。 三隻の飛行船の飛来に都民は熱狂し、ビルの屋上や窓、電車の車窓から飛行船を眺め、通行人は足を止めて空を仰ぎ、小学校の児童らはヤンヤの騒ぎだった。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和六年三月十二日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
北太平洋の横断を目指す、吉原清治飛行士操縦の報知日米号(ユンカースA五〇型軽飛行機)が、約六〇〇メートルの滑走をもって羽田海上さして離水する。 この出発と同時に、北太平洋横断飛行の壮挙を祝して、鳩笛を付した伝書鳩が放鳩される。 しかし、報知日米号はその後、突然の発動機停止により、新知湾外北部において不時着水を余儀なくされ、北太平洋横断飛行は中止になる。 参考文献 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 航空(2-014) 報知新聞 1931.5.5-1931.6.16 (昭和6) |
日本飛行機株式会社(横浜磯子区金沢町)の飛行艇・烏号(からすごう。六人乗り)が、通信試験のために八羽の鳩を乗せて羽田飛行場から飛び立つ。飛行中に第一便「ただ今、本牧にさしかかる」の鳩通信を発信し、続いて第二便は「鶴見の上空異状なし」、第三便は六郷から「調子よく飛んでいる」、最後は羽田に戻ってきて「異状なく到着」の報告をする。 六月六日、旅客機・サザンプトン号からも機上放鳩を実施し、通信に成功する。 以上の通信試験には日本飛行機株式会社の萩原放鳩主任が当たるが、萩原は以前、横須賀防備隊軍鳩実験研究所の鳩舎長を務めていて、その方面の権威である。「これから長距離飛行にも試験をなし、十分訓練するつもり」などと萩原は話す。 参考文献 『レース鳩』(平成八年十二月号) 日本鳩レース協会 |
同日付の『読売新聞』の記事によると、来年度から朝鮮全土にわたって鳩通信網が整備されるという。 内容は、以下のとおり(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
朝鮮の西海岸沿いには、交通不便な島が多くある。これが孤島になると、陸上との交通は月に一、二回に限定される。 本年の二月、近海航路の天安丸が暴風雨に遭って消息を絶つ。天安丸の乗員(船長以下約四十名)は全員、船とともに海の底に沈んだように世間は思った。しかし、遭難から一ヶ月後、天安丸の乗員が灯台にいることが判明する。彼らは、灯台守の一ヶ月分の食糧で飢えをしのいでいたのだ。 逓信省としては、こういう悲劇が起こらないように、朝鮮の諸島に海底電信を敷設したいとの考えがある。しかし、莫大な金がかかるので簡単な話ではない。 そこで、考えられたのが伝書鳩の活用である。 軍用鳩調査委員会から池田重雄大尉がやってきて、六月から諸種の実験と指導をおこない、仁川~八尾島(仁川から八海里。灯台あり)間の往復通信を構築する。 この件について、池田は、こう述べている(『読売新聞』〔昭和六年八月十六日付〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足 一九二〇(大正九年)年七月、池田重雄は練習学生として、中野電信連隊内の軍用鳩調査委員会に派遣され、以後、軍用鳩通信に専任する。間島事件、済南事件、満州事変のほか、朝鮮国境あるいは朝鮮逓信局灯台通信など、軍用鳩の訓練、蕃殖、実用通信に当たる。 一九三三(昭和八)年、池田は軍を退くが、その四年後の一九三七(昭和十二)年、支那事変の勃発を受けて応召する。中京地区の愛鳩家から献納された軍用鳩三五〇羽を携行して、北支から杭州湾上陸、南京攻略戦と、池田ら鳩隊は転戦する。しかし、行動が迅速のため、鳩の馴致をしている暇がなく、また、悪路と警備の関係から訓練もできなかった。鳩通信の戦機はいくつもあったが、うまく活用できなかったのである。 しかし、一九三八(昭和十三)年三月、上海杭州地区の警備において、ようやく鳩通信の利用がかなう。また、これ以後、鳩隊は二つに分かれ、その一つが漢口作戦に参加して武昌に至り、その後、某地に転じ、ここが中支全般の警備通信網構成の基礎になる。 一九三九(昭和十四)年一月より、池田は南京特務機関長両備官を務める。 一九四三(昭和十八)年、池田は大日本軍用鳩協会の常務理事に就任する。 *大日本軍用鳩協会の軍人の役員は、いずれも予備役将校である。このことを踏まえると、池田が同協会の常務理事に就任した頃には応召を解かれていたと考えられる。 参考文献 『読売新聞』(昭和六年六月九日付) 読売新聞社 『読売新聞』(昭和六年八月十六日付) 読売新聞社 『日本鳩時報』(昭和十八年五月号) 大日本軍用鳩協会 |
現時点での日本の鳩数、三万九五三六羽(内閣資源局調査) 内訳は、陸軍が一万二三四八羽、海軍が一〇五六羽、官公署その他が三九六七羽、民間が二万二一六五羽。 ☆補足一 現時点における一〇〇羽以上の個人飼養者は、以下のとおり。 松本新太郎(東京はとの会) 四〇五羽 師岡昌徳(東京はとの会) 一八六羽 山本嘉兵衛(東京はとの会) 一四二羽 持田伝七(東京はとの会) 一三五羽 中村録造(東京はとの会) 一三二羽 加藤まさを(東京はとの会) 一三一羽 徳川義恕男爵(東京はとの会) 一三〇羽 並木安一(東京愛鳩会) 一〇三羽 田部重兵衛(東京愛鳩会) 一〇二羽 佐野秋次郎(東京南鳩会) 一二二羽 鈴木重太郎(東京鳩倶楽部) 一二一羽 平川次郎(千葉松鳩会) 一〇五羽 中野功次郎(樺太中野伝書鳩研究所) 一六四羽 塚本佐七(大阪好鳩会) 一五五羽 芝田大吉(大阪好鳩会) 一三〇羽 徳永秀三(大阪好鳩会) 一〇六羽 太田達夫(山城倶楽部) 一四九羽 今西小三郎(山城倶楽部) 一三〇羽 滝川忠三郎(山城倶楽部) 一一〇羽 山上伝次郎 一四七羽 木村光治(神戸研究会) 一三九羽 福中室次郎(神戸研究会) 一一二羽 久下三郎(神戸愛鳩会) 三〇〇羽 続いて、明治時代以来の古参飼養者は、以下のとおり。 朝川新之助(大阪南鳩会) 明治三十四年 吉村房三(大阪南鳩会) 明治三十五年 奥中亀太郎(大阪南鳩会) 明治三十九年一月 西村種造(大阪好鳩会) 明治六年四月 伊藤銀三(大阪好鳩会) 明治十二年 田中丑松(大阪好鳩会) 明治二十三年 和田永次郎(大阪好鳩会) 明治二十五年 伊藤豹三郎(大阪好鳩会) 明治三十二年 筑紫三郎(大阪好鳩会) 明治三十三年 奥中亀太郎(大阪好鳩会) 明治三十九年一月 塚本佐七(大阪好鳩会) 明治四十年五月 重根清治郎(大阪好鳩会) 明治四十年七月 福田友蔵(大阪好鳩会) 明治四十一年 徳永秀三(大阪好鳩会) 明治四十二年 今西小三郎(山城倶楽部) 明治二十五年 堀尾卯三郎(山城倶楽部) 明治二十五年 西川宗七(山城倶楽部) 明治四十三年 久下三郎(神戸愛鳩会) 明治三十八年九月 ☆補足二 上記「補足一」の中に、持田伝七の名がある。 持田は、一九一九(大正八年)頃に中野で軍用鳩の払い下げを受けて、鳩飼育をはじめる。本業は持田伝七商店を営む銅鉄鋳物問屋だった。 足しげく中野に通ったことから、軍用鳩調査委員の井崎於菟彦などと親密になる。井崎によると、持田は、任侠豪腹な神田っ子の典型だったという。 そのうち、これを作れ、あれを作れと伝書鳩器具の注文(脚環や折り畳み式の鳩籠など)が入るようになり、持田商店内に伝書鳩器具製作部を立ち上げる。そうして、軍の御用達になると、持田商店の鳩具は鳩界で評判を博す。 当時、軍では経費削減がうるさく言われていたため、鳩の脚環一個十銭は高いから五銭に値下げせよ、と持田は言われてしまう。しかし、持田は、「ようがす、五銭にしましょう」と胸をたたいて承諾する。日本の伝書鳩がつけている浮き出し文字の脚環は、フランス産の優秀鳩――巴里号やナポレオン号などの金色の脚環をもとに持田商店で生まれる。 『愛鳩の友』に掲載された記事「座談会 ものがたり日本鳩界史 ――大正から昭和の初期まで――」に、以下の記述がある。
ちなみに、大東亜戦争の際、持田商店から多くの鳩関係のものが戦地に送られるが、鳩は神様の使いだから鳩を積んだ船は沈まない、といわれていた。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05022428100、公文備考 Q巻1 通信.交通.気象(時) 海軍大臣官房記録 昭和7(防衛省防衛研究所)」 『愛鳩の友』(昭和三十二年九月号) 愛鳩の友社 『HATOGU CATALOGUE』 持田商店鳩具製作部 |
午後一時~午後五時まで、上野松坂屋の七階において、伝書鳩の会が開催される(日本伝書鳩協会主催) 徳川義恕会長、陸軍大臣、資源局長官など、関係者一〇〇〇名あまりが集う。 昭和六年度の陸軍大臣杯および資源局長官杯は、沼宮内(岩手県)~東京間五〇〇キロを七時間あまりで飛翔した伊藤鳩舎に授与される。 ☆補足 『愛鳩の友』(昭和三十一年六月号)に掲載された対談記事「総理大臣杯農林大臣杯を語る」(作・渡辺 敏、小野内泰治)によると、陸軍大臣杯は関東地区、海軍大臣杯は関西地区の、それぞれの総合優勝者に贈られ、その次に、少し格の下がる資源局長官杯があったという。 参考文献 『読売新聞』(昭和六年七月十日付) 読売新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十一年六月号) 愛鳩の友社 |
午後七時、群馬県の本町商工会議所において、前橋はとの会が「伝書鳩の講演と映画の夕べ」を開催する(上毛新聞社後援) 軍用鳩調査委員の井崎於菟彦大尉が登壇し、「軍用と趣味の伝書鳩」との題で、前年の欧州伝書鳩視察の土産話を満員の聴衆に語る。 午後九時、「日本の軍用鳩」「ドイツの伝書鳩」「フランスの伝書鳩」など、陸軍所蔵の教育映画を上映する。 井崎は最後に、以下のように述べる(『上毛新聞』〔昭和六年八月十七日付〕より引用。誤字脱字を修正済み)
なお、井崎は、「鳩をお飼いください」と聴衆に繰り返し訴える。 ☆補足 井崎はこの当時、群馬県立渋川高等学校の校庭に移動鳩舎を設置して、毎夜、午後八時~午後九時頃まで、軍用鳩に夜間飛翔をさせる。 これは今秋に挙行される陸軍特別大演習に備えた訓練である。 参考文献 『上毛新聞』(昭和六年八月十七日付) 上毛新聞社 |
この日、フランスのアラスを飛び立ったレース鳩が七二〇〇マイルの距離を飛翔して、ちょうど二十四時間後にインドシナのサイゴンに帰舎する。 ☆補足 上記の一文は、『読売新聞』(昭和十二年七月二十一日付)の記事をもとに記すが、どう考えてもおかしい。 フランスからベトナムは一万キロ以上離れている。それをたった二十四時間で飛べるわけがない。 最高速度時速三二〇キロの新幹線で二十四時間走っても八〇〇〇キロに届かない。つまり、このレース鳩は、新幹線の最高速度を超える速度でフランス~ベトナム間を飛んだことになる。 これは何かのミステリーか、それとも単なる間違いか……。 参考文献 『読売新聞』(昭和十二年七月二十一日付) 読売新聞社 |
偕行社『偕行社記事』(第六八三号)に、角田春三砲兵中尉が記した「運動戦に於ける鳩通信の用途に関する一考察」が掲載される。 長谷栄二郎工兵中佐の前書きは、以下のとおり(引用文は一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
目次は、以下のとおり(引用文は一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
さて、角田の主張を、以下に簡単にまとめる。 歩兵に関しては、戦闘初期には鳩の使用を控えて、突撃発起の前後や敵陣地突入後にこれを用いるのがよい。反対に歩兵が防御戦闘をおこなう際には、その当初に鳩の特性を発揮できる機会に恵まれるので、戦闘初期に鳩を放つべきである。防御側が攻勢に転じる頃には、必勝の信念をもって断行するのであるから、通信連絡の多少の頓挫は構わなくてよい。 騎兵に関しては、その特性上、主力と離れて行動することが多く、また、通信装備も他兵種に比べて劣っているので、鳩は有効な通信機関として活用される。 砲兵に関しては、各作業班に鳩を持たせて、現地から測定諸元を観測所に通報させるのがよい。 航空兵に関しては、鳩は航空機が投下する通信筒とほぼ同一の価値を有する。しかも、通信筒のように地上で捜索する手数が省けるので有益である。 その他の兵種に関しては、工兵に鳩を配属するのは珍しく、特殊な場合に限られる。 第一線の鳩車鳩を後方通信に充当するのは策を得たものではなく、輜重兵の鳩の使用についてはここに論及するに及ばない。 *工兵に鳩を配属するのは珍しいそうだが、他方、軍用鳩は各国軍とも工兵の領分で、日本においても明治時代は陸軍工兵会議が軍用鳩の研究をおこなっている。また、その後の大正時代以降も軍用鳩調査委員の多くが工兵科の将校である。これはつまり、工兵の担当ではあるが、工兵隊に鳩を配属するのはまた別な話、ということだと思われる。 参考文献 『偕行社記事』(第六八三号) 偕行社 |
劉牛彦章の付近において、谷および詠村の両支隊(将兵五〇〇、軍馬九十)が匪賊を撃退し、白石嘴門まで追い払う。しかし、敵が兵を増やして逆襲に転じるおそれがある中、両支隊は食糧を切らす。 進退に困った両支隊は、この危機的な状況を留守隊に知らせるために、軍用鳩を放つ。 ただし、この日はあいにくの雷雨で、こんな状況で鳩が飛べるのか、一同は気が気でない。 それから約三時間、両支隊は身動きせずに待ち続ける。 随分、長い間、待ったように思われて、皆は不安を募らせる。しかし、そんなとき、地平線上に味方の姿が現れて、たくさんの食糧を運んでくる。 鳩は留守隊に帰り着いて、急報を届けてくれたのだ。 たちまち、両支隊は元気になり、やがて、付近の匪賊を壊走させる。 ☆補足一 軍鳩とレース鳩の違いについては、横須賀防備隊『研究実験成績報告 其十(軍鳩実験研究)』に、以下の記述がある。
これに付け加えるならば、天候を考慮しないで放鳩するのが軍鳩、天候を考慮して放鳩するのがレース鳩となる。軍鳩は、軍の作戦や現在の状況が優先されるので、雷雨のような悪天候であっても放たれる。敵の包囲下にある部隊がこの危急を本部に知らせるために鳩を放つのだから、天候などに構っていられない。一方、レース鳩は、天候の良い日を選んで放鳩される。悪天候だったら放鳩委員長が判断して放鳩日を日延べする。悪天候のさなかに鳩を放てば、いたずらに良鳩を失うからだ。 また、鳩作りに関しても異なる。軍鳩は、確実に通信文を持って帰る能力が問われるので、強固な帰巣性が速度よりも求められる。また、フィルムや要図を運ぶので、重厚な体格が望ましい。一方、レース鳩は、レース用の鳩なので、速度に特化して配合、作出される。フィルムや要図を運ぶことはないので、軽快性が重んじられる。同じ鳩とはいえ、軍鳩とレース鳩では、以上の違いがある。 中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十八年八月号)に掲載された記事「提唱二則」(作・長谷波堂 *長谷栄二郎の筆名)に、以下の記述がある。
もっとも、日本の伝書鳩飼育の黎明期は、よほどの暴風雨でなければ、天候などお構いなしに競翔を実施していた。 中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十八年九月号)に掲載された記事「急務は荒天、海上訓練」(作・関口竜雄)に、以下の記述がある(一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『戦友』(第二九〇号) 軍人会館事業部 『読売新聞』(昭和七年十二月四日付) 読売新聞社 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05022428100、公文備考 Q巻1 通信.交通.気象(時) 海軍大臣官房記録 昭和7(防衛省防衛研究所)」 『普鳩』(昭和十八年八月号) 中央普鳩会本部 『普鳩』(昭和十八年九月号) 中央普鳩会本部 |
大阪工業大学教授で大阪学生愛鳩会会長の上野誠一工学博士が神戸港から照国丸に乗船し、欧米視察の途に就く。このとき、大阪学生愛鳩会の会員が神戸港から数十羽の伝書鳩を放鳩して上野を見送る。 その後、照国丸が舞子付近を通過する際、上野は大阪学生愛鳩会の伝書鳩に、見送りの礼を記した通信文を付して空に放つ。 上野は一九三二(昭和七)年四月に帰国する予定である。 参考文献 『鳩鴿の研究』(昭和七年三月号。創刊号) 大阪学生愛鳩会 |
本年度の特別工兵演習は大河渡河作業の演練を目的とし、工兵を中心に歩兵、砲兵、戦車隊、自動車隊、軍用鳩調査委員会の軍用鳩などが参加する。 ☆補足 『東京朝日新聞』(昭和六年七月二十九日付)に載った予定に従って上記の内容や日付を記す。したがって、予定に変更が生じていたら、出来事や日付が現実と異なっているかもしれない。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和六年七月二十九日付) 東京朝日新聞社 |
奉天郊外の柳条湖において、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破する(柳条湖事件)。関東軍はこの爆破事件を中国軍の仕業と断定し、直ちに出動する。 北大営の攻撃に際しては、留守隊にこのことを伝えるために、軍用鳩二七一号を空に放つ。途中、軍用鳩二七一号は、敵弾を胸部に受けて負傷するが、気力を振り絞って隊に戻り、見事、通信文を届ける。 鳩班は事変終結(一九三三〔昭和八〕年五月三十一日の塘沽協定)まで、重要な通信任務に従事する。 ☆補足一 柳条湖事件に端を発する、この満州事変において、軍用鳩は目覚ましい活躍を見せる。 以下に、そうした例をいくつか紹介しよう(軍人会館事業部『戦友』〔第二九〇号〕に掲載された記事「国防と伝書鳩(下)」〔作・沢口長助〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
次は、陸軍発行所『陸軍』(昭和八年六月号)に掲載された記事「軍用犬・鳩・馬美談」(作・大久保弘一)より引用する(一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足二 軍用鳩調査委員『昭和十三年改訂 軍用鳩通信術教程』(上巻)に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めている)
☆補足三 『愛鳩の友』(昭和三十二年一月号)に掲載された記事「主として若人のために」(作・荻島喜四郎)によると、執筆者の荻島は、十七歳のときに中野電信隊に見習いとして三ヶ月間通い、成人後は家の回りを全部鳩舎にして世界一の鳩界人になろうとの信念を持ったという。その後、騎兵隊の通信に入隊し、満州事変には鳩係としてチチハルの多門師団に配属され、鳩のおかげで功七級金鵄勲章を受章したそうである。「何万という鳩界人のなかで、これは萩島たゞ一人だろうと自負しております」と荻島は述べている。 ☆補足四 軍用鳩だけでなく、民間の伝書鳩も活躍している。 至誠会本部『満州産業建設学徒研究団報告 第四篇 農・工・医編』によると、満州事変勃発当時、蒙古シヤリの牧場を経営する日本人の一団が、シヤリに一名の残留者を残して、満鉄の皇軍勢力圏内に引き上げようとするが、その途中、匪賊の襲撃に遭って数人が人質に取られ、他の者も危険に陥る。しかし、一団は、携帯していた伝書鳩を飛ばして、匪賊襲撃の報をシヤリにいる残留者に伝える。そうして、一団の危機を知った残留者は、直ちに付近に駐屯する軍に通報する。これにより、匪賊討伐の手配が迅速におこなわれ、人命と財産が守られる。 ☆補足五 宇田川竜男『レース鳩 飼い方と訓練法』によると、満州事変のときに伝書鳩のブームが巻き起こり、民間で育成された鳩が軍に買い上げられたり、献納されたりしたという。そして、そのブームは支那事変が起こり、それが大東亜戦争に拡大していく時期まで続く。しかし、大東亜戦争に突入すると、次第に飼料が欠乏して飼育が困難になり、伝書鳩のブームは自然消滅したという。 参考文献 『通信青年』(昭和十八年八月号) 科学新興社 『戦友』(第二九〇号) 軍人会館事業部 『陸軍』(昭和八年六月号) 陸軍発行所 『昭和十三年改訂 軍用鳩通信術教程』(上巻) 軍用鳩調査委員 『読売新聞』(昭和七年十二月四日付) 読売新聞社 『読売新聞』(昭和九年十月十六日付) 読売新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十二年一月号) 愛鳩の友社 『満州産業建設学徒研究団報告 第四篇 農・工・医編』 至誠会本部 『レース鳩 飼い方と訓練法』 宇田川竜男/鶴書房 |
松本 興が『鳩』を出版する。大日本軍用鳩協会『軍用鳩』(昭和十九年九月号)に載った記事「軍鳩の参考書」(作・山本直文)において、同書は、こう評されている。
参考文献 『鳩』 松本 興/三省堂 『軍用鳩』(昭和十九年九月号) 大日本軍用鳩協会 |
この日の早暁、独立守備歩兵第二大隊は、軍用列車(前方に護衛の装甲列車あり)に乗って西進し、饒陽河に向かう。しかし、その前進中、白旗堡の西方地区において、錦州軍の装甲列車・中山号から砲撃を受ける。この敵は、直ちに応戦して撃退したが、不幸にも大隊副官代理・板倉 至大尉が敵の砲弾を腹部に受けて命を落とす。 電信電話線は、敵によって寸断されていたために、戦闘の状況や板倉大尉戦死の報などは、数度にわたる軍用鳩通信によって奉天の大隊本部(残留隊)に伝えられる。 参考文献 『偕行社記事』(第七〇六号) 偕行社 『戦友』(第二九〇号) 軍人会館事業部 「帝国ノ犬達」 紅殻 https://ameblo.jp/wa500/ 『読売新聞』(昭和七年十二月四日付) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(昭和七年一月九日付) 東京朝日新聞社 |
日本橋の白木屋で開催された満蒙展覧会において、来場者の私信を伝書鳩が運ぶ。 この展覧会には、陸軍通信隊が鳩や器材を出陳する。 ☆補足 上記の一文は、小野内泰治『日本鳩界史年表』(2)をもとに記す。展覧会が一日だけで終了するとは思えないので、この十二月三日が初日だったように思われる。開催期間は不明。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年六月号) 愛鳩の友社 |
偕行社『偕行社記事』(第六八七号)に、菅原万吉輜重兵大佐の投稿した「偕行社記事六八三号運動戦に於ける鳩通信の用途に関する一考察を読みて」が掲載される。 これは、偕行社『偕行社記事』(第六八三号)に掲載された記事「運動戦に於ける鳩通信の用途に関する一考察」(作・角田春三)に対する反論記事で、執筆者の菅原は、以下のように述べる(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『偕行社記事』(第六八七号) 偕行社 |
昭和六年十二月二十五日夜半、錦州軍の別動隊である鄧鉄梅および徐文海の率いる数千名の兵匪が鳳凰城に押し寄せる。 鳳凰城を守る日本軍はわずか一個小隊(西河中尉率いる四十名)で、その頃、大隊主力は遠く本渓湖方面で匪賊討伐に当たっていた。 敵は機関銃と迫撃砲を乱射し、鳳凰城を一挙に占領しようと殺到してくる。 西河小隊としては、この危急を本隊に知らせたいところだが、すでに通信機関(電信電話線)は敵に破壊されている。 しかし、ここに一羽の軍用鳩があった。西河小隊の田川軍曹は、現在の苦境を記した通信文を鳩に付して、これを空に放つ。鳩は鳳凰城の上空を大きく一周してから北の空に姿を消す。 十二月二十六日午後三時十七分、西河小隊の鳩が鶏冠山留守隊(少数の残留者で構成)の鳩舎に帰り着く。 鳩の持ってきた通信文により、西河小隊の危機を知った留守隊長・広田特務曹長は、このことを行軍の途にある鈴木部隊に電話で知らせる。そうして、鈴木部隊は、急きょ、鳳凰城の救援に向かう。 鳳凰城を守備する西河小隊は援軍を得ると勇気百倍、城内外で相呼応して敵を撃退する。 参考文献 『偕行社記事』(第七〇六号) 偕行社 『戦友』(第二九〇号) 軍人会館事業部 『読売新聞』(昭和七年十二月四日付) 読売新聞社 |
十二月二十七日、新聞記者の神倉某は、大石橋守備隊(独立守備第三大隊)から軍用鳩を借りて、錦州攻撃軍である第二師団に随行する。 十二月三十日、大石橋と錦州の間の盤山において、日本軍は敵軍から攻撃を受ける。敵の数は多く、たちまち、日本軍は苦境に陥る。日本軍は、この不利な状況を味方に伝えたかったが、敵が通信機関(電信電話線)を破壊していたために、これを使用できなかった。 そこで、くだんの軍用鳩が空に放たれる。 この軍用鳩二二九号(B ♂)は、上空を二、三回、旋回した後、矢のように飛んでゆく。 しかし、軍用鳩二二九号が、大石橋に近い田庄台に差しかかったとき、敵軍から一斉射撃を受ける。敵弾は軍用鳩二二九号の腹を射抜き、また、左脚をもぎ取る。 軍用鳩二二九号は深手にもかかわらず、なおも飛び続け、やがて、木の枝にとまって休む。その姿を偶然、兵が見つけて、手を差し伸べるが、これに軍用鳩二二九号は驚いて、どこかに飛び去ってしまう。 一体、その夜をどうやって明かしたのか分からないが、翌日の十二月三十一日、軍用鳩二二九号が大石橋守備隊の鳩舎に帰ってくる。 軍用鳩二二九号は、全身血まみれで息も絶え絶えだった。 菅原軍曹は軍用鳩二二九号から信書管を取り外して、これを守備隊長に渡す。そして、この傷ついた鳩に応急処置を施す。しかし、軍用鳩二二九号は、そのまま死んでしまう。 その後、軍用鳩二二九号の届けた通信文から敵情が明らかになり、盤山の日本軍は、自動車で送られた援軍とともに敵軍を打ち破る。 間もなく、日本軍は錦州を占領する。 ☆補足一 その後、軍用鳩二二九号は剥製になり、昭和天皇に献上される。 また、軍用鳩二二九号の軍国美談が国定教科書に載る。 ☆補足二 小野内泰治『日本鳩界史年表』(2)に、「昭和六年十二月十八日」の出来事と載っているが誤り。 正しくは、「昭和六年十二月三十一日」である。 参考文献 『偕行社記事』(第七〇六号) 偕行社 『尋常科用小学国語読本』(巻八) 文部省 『灯台と伝書鳩』 高野てつじ/天佑書房 『戦友』(第二九〇号) 軍人会館事業部 『読売新聞』(昭和七年十二月四日付) 読売新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十三年六月号) 愛鳩の友社 |
この年の初頭、詩人の黄瀛は日本を離れて、国民党軍の将校として軍務に就くために南京に赴く。 同年四月、黄瀛は少校(少佐)の階級章をつけて意気揚々と訪日し、中野の陸軍電信隊を訪れる。今度、国民党軍においても軍用鳩を飼養することになり、その基礎となる種鳩を仕入れるためである。 軍用鳩調査委員の池田重雄大尉は、以前に教官として黄瀛を指導した関係から、鳩や必要器材を準備して便宜を図る。 この来日時、銀座のバー・瀟湘園で黄瀛と会った奥野信太郎は、こう述べている(奥野信太郎『芸文おりおり草』より引用)
☆補足一 黄瀛に会ったことのある人たちが、蒼土舎『詩人黄瀛 回想篇・研究篇』に文章を寄せており、黄瀛の印象を書き残している。 そのうち、戸川エマと近藤 東の思い出を、以下に箇条書きにして紹介しよう(証言者の記憶があやふやで、「確か」「~だったと思う」などと原文にあった場合は、文章の末尾に(仮)の一文字を付す) ◎戸川エマ 年代――昭和初期 黄瀛の所属――文化学院大学部を中退し、陸軍関係の学校だかにいた(仮) *筆者(私)注・軍用鳩調査委員会の所属か 黄瀛の姿――伝書鳩の籠を下げている 思い出――文化学院を中途で辞めた黄瀛が同学院にやってくる *遊びにきた模様 *黄瀛が伝書鳩の籠を持って立っている姿を、戸川は鮮明に記憶しているという。 *戸川の回想では、黄瀛が文化学院を中退したとあるが、事実と異なるようである。劉黎の論文「国民革命軍将校・詩人黄瀛と陸軍士官学校」によると、黄瀛は一九二九(昭和四)年三月に文化学院を卒業しているという。 ◎近藤 東 年代――黄瀛が日本に伝書鳩を買いに来日した頃(仮) *筆者(私)注・一九三一(昭和六)年か 黄瀛の所属――南京の軍政部特殊通信教導隊(仮) 黄瀛の姿――イギリスの軍人が略装のときに持っている、立派なケイン(杖)を小脇に挟んでいた 思い出――黄瀛と一緒に銀座を歩く *今でも近藤は、蒋介石の応接室にはテーブルはあるが椅子は設けてない、などの話を、黄瀛から聞いたことを覚えているという。 ☆補足二 一九三七(昭和十二)年七月に支那事変が勃発すると、黄瀛は漢奸狩りに遭って銃殺された、というデマが広がる。黄瀛は母親が日本人であり、また、日本の友人を多く持っていたために、いかにもあり得そうな話だった。 その年の暮れ、南京に入城した日本軍の中に池田重雄少佐がいて、黄瀛の安否を気づかう。池田は、かねて文通していた頃を思い出し、南京市羊皮巷に黄瀛の痕跡を求めて、各方面にわたり、調査する。しかし、何の手がかりも得られなかった。 この件について、草野心平は、こう述べている(草野心平『続・私の中の流星群』より引用)
☆補足三 支那事変の勃発後、井崎於菟彦少佐は、香港の三井物産に勤めている知人から、鳩の参考書を送ってほしい、と手紙で頼まれる。昔からの知人とあって、井崎はためらうことなく、鳩の参考書を小包にして送る。しかし、しばらくすると、国民党軍の何応欽将軍からの依頼だったことが判明する。黄瀛が何応欽と少なからぬ間柄であったことは知られていたから、国民党軍の鳩専門家――黄瀛の手に鳩の参考書が渡ったことは想像がつく。ただし、当時は黄瀛の死亡説が流れていたので、井崎はこのことに気づいていなかったようである。 戦後、井崎は、こう述べている(『愛鳩の友』〔昭和三十二年九月号〕より引用)
☆補足四 黄瀛の妹・黄寧馨は、何応欽の姉の子である何紹周と結婚している。このことが黄瀛のその後の栄達に有利な影響を与えている。 蒼土舎『詩人黄瀛 回想篇・研究篇』に掲載された記事「黄瀛の母とその妹」(太田 卓)によると、黄瀛は蒋介石直系の軍人であり、国府軍の軍政部特殊通信教導隊長、参謀本部部員、第一線連隊長などの軍務に従事し、終戦後は旅団長(少将)として南京に現れ、親友の草野心平と再会し、旧交を温めたという。 ☆補足五 台湾の愛鳩家・林 恵石が黄瀛について、こう述べている(『愛鳩の友』〔昭和三十三年十一月号〕より引用。文中にある「鳩時報」とは『日本鳩時報』誌のこと)
「井崎氏の随筆に出ていた黄中尉」とあるが、将官にまで出世している黄瀛をそう呼ぶのは、不自然な感じがする。 また、「黄瀛が何応欽の甥」とあるが、何応欽の「甥」が何紹周なので、その「甥」と取り違えたか。 ほかにも、文中で気になるところがいくつかある。 しかし、筆者(私)は、黄瀛に関する専門家ではないので、これ以上の指摘は控えたい。かえって、誤った情報を読者に提供するおそれがある。 参考文献 『芸文おりおり草』 奥野信太郎/春秋社 『詩人黄瀛 回想篇・研究篇』 蒼土舎 「国民革命軍将校・詩人黄瀛と陸軍士官学校」 劉黎 https://core.ac.uk/download/pdf/268153834.pdf 『続・私の中の流星群』 草野心平/新潮社 『愛鳩の友』(昭和三十二年九月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十三年十一月号) 愛鳩の友社 『黄瀛 その詩と数奇な生涯』 佐藤竜一/日本地域社会研究所 『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯 日本と中国 二つの祖国を生きて』 佐藤竜一/コールサック社 『日本鳩時報』(昭和十八年六月号) 大日本軍用鳩協会 『詩友 国境を越えて 草野心平と光太郎・賢治・黄瀛』 北条常久/風濤社 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、一八四羽。 呉防備隊、八十八羽。 佐世保防備隊、九十二羽。 舞鶴防備隊、六十羽。 大湊防備隊、四十羽。 鎮海防備隊、六十二羽。 馬公防備隊、八十四羽。 横須賀海軍航空隊、九十二羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、五十三羽。 ☆補足 上記の一文は、「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05022427900、公文備考 Q巻1 通信.交通.気象(時) 海軍大臣官房記録 昭和7(防衛省防衛研究所)」をもとに記す。しかし、水交社『水交社記事』(第二六六号)に掲載された記事「軍鳩(伝書鳩)」(作・内藤啓一)と、海軍大臣官房『海軍制度沿革』(巻十五)には、鎮海防備隊が「六十一羽」、横須賀海軍航空隊が「九十六羽」と載っていて、鳩数に若干の相違がある。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05022427900、公文備考 Q巻1 通信.交通.気象(時) 海軍大臣官房記録 昭和7(防衛省防衛研究所)」 『水交社記事』(第二六六号) 水交社 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 |
日本伝書鳩協会の、師岡昌徳、新井嘉平治両理事が陸軍省を訪れて、小磯国昭軍務局長と、杉山 元次官に面会し、伝書鳩一五〇羽の献納を申し出る。 現在、軍用鳩は満州の荒野で通信任務に従事しているが、敵弾や猛禽類などによって、多くの犠牲を出している。軍用鳩調査委員会が鳩の殖産を進めているものの、補充が追いついていない状況である。 そうした中、この日本伝書鳩協会の申し出は、陸軍にとって願ってもないことで、杉山は大いに喜ぶ。 予定では、一月二十六日に、全国から精選された伝書鳩を新井が東京駅に持っていくことになっている。そして、それらの優秀な鳩たちは、そこから途満する。当日は初の民間鳩の出征を祝って、軍用鳩、軍用犬、東京府下の子供たちが見送りにくるという。 参考文献 『読売新聞』(昭和七年一月二十日付) 読売新聞社 |
一月十八日、抗日中国人集団による上海日本人僧侶襲撃事件が発生する(日本人僧侶一名死亡、二名重傷) 一月二十日、青年同志会が事件の報復として、現場になった三友実業社(タオル製造工場)を襲撃し、火を放つ。このとき、同社の職員や工員は不在だったが、青年同志会と中国巡警の間で衝突が起き、双方に死傷者が出る。 さて、本日、上海の北四川路筋の中国商人七〇〇名が緊急会議を開き、日本浪人の襲撃に対して武装自衛を宣言する。 この緊迫した状況に対し、東亜同文書院は、上海海軍特別陸戦隊の軍鳩を備える。 参考文献 『東亜同文書院大学史 ――創立八十周年記念誌――』 大学史編纂委員会/滬友会 |
軍用鳩一五〇羽と、日本伝書鳩協会の肝いりで全国四十の鳩クラブから選ばれた優秀鳩二五〇羽が、中野の軍用鳩調査委員事務所に集められる(計四〇〇羽ほど) そして、この日、それらの鳩を二十数個の鳩籠に入れてトラックに積み込み、東京駅に送る。 東京駅で、これを待ち受けていた民間の愛鳩家らが、鳩笛を付した二〇〇羽の鳩を空に放って、これから満州に旅立つ約四〇〇羽の壮途を祝う。 駅頭には、日本伝書鳩協会会長・徳川義恕男爵、同協会・師岡昌徳理事、宇佐美勝夫資源局長官、長谷栄二郎中佐、井崎於菟彦大尉ら二〇〇名ほどが見送りにくる。 午前十時、約四〇〇羽の鳩が東京駅をたつ。 奉天に到着するまで、日本伝書鳩協会の新井嘉平治と軍用鳩調査委員の横山健重が鳩の面倒を見る。 予定では、神戸でハルピン丸に乗船し、来月の一日頃、満州の独立守備隊に鳩を引き渡すという。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和七年一月二十六日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
第一次上海事変が発生し、日中両軍が激突する。 両毛毎夕新聞社『リレー漫談集』に掲載された記事(作・木島正夫)によると、事変前に支那側はたくさんの鳩を日本の軍部と民間から買い入れていて、今回その鳩を使用したという。しかし、成績はよくなかったらしく、しゃくに障って皆殺して食べてしまった、とのことである。 ☆補足 しゃくに障って皆殺して食べてしまった、とのことだが、中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十七年七月号)に掲載された記事「新鳩史第一頁」(作・関口竜雄)には正反対のことが書いてある。 同記事によると、上海事変において敵砲の着弾が正確を極めたのは着弾ごとに報告する鳩の活躍があったからだという。 昭和七年二月十一日付の『大阪毎日新聞』の記事にも、同様の記述があり、野砲の測定の正確さにはわが軍も感嘆している、また呉淞閘北間には伝書鳩が暗号の通信連絡に当たっていることが判明した、などと載っている。 参考文献 『リレー漫談集』 両毛毎夕新聞社 『普鳩』(昭和十七年七月号) 中央普鳩会本部 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 外交(111-089) 大阪毎日新聞 1932.2.11 (昭和7) |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、一六一羽。 呉防備隊、八十羽。 佐世保防備隊、九十羽。 舞鶴防備隊、七十九羽。 大湊防備隊、四十二羽。 鎮海防備隊、八十三羽。 馬公防備隊、一二三羽。 横須賀海軍航空隊、九十九羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、五十二羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05022427900、公文備考 Q巻1 通信.交通.気象(時) 海軍大臣官房記録 昭和7(防衛省防衛研究所)」 |
紀元節時事童話会において、軍用鳩調査委員の井崎於菟彦大尉が「伝書鳩のお話」という題の講演をおこなう。 また、これに引き続いて、「輝やく軍用鳩」という映画が上映される。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年六月号) 愛鳩の友社 |
時事新報社の三階において、伝書鳩資料展覧会が開催される。 軍用鳩調査委員会が各種の鳩具などを出陳する。 ☆補足 上記の一文は、小野内泰治『日本鳩界史年表』(2)をもとに記す。鳩の展覧会が一日だけで終了するとは思えないので、この二月九日が初日だったように思われる。開催期間は不明。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年六月号) 愛鳩の友社 |
第一次上海事変において、第九師団が対敵行動を開始するに当たり、軍用鳩一六七号(昭和六年二月中野産)が不案内の最前線から飛んできて、司令部に通信文をもたらす。師団長はその報告から敵軍の不撤退を把握する。 ☆補足一 鯰江正太郎歩兵中佐の講演「戦場で鳩や犬はどんな働きをしたでしょう」(札幌放送局『学校放送講演集 2594』所載)において、軍用鳩一六七号の活躍が語られる。 以下に引用しよう(一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足二 『非常時国民全集 陸軍篇』に掲載された記事「満州事変と伝書鳩 ―讃えよ、無言の戦士の勲功と美談―」(作・田川潤一郎)に、以下の記述がある。
☆補足三 軍用鳩一六七号と軍用鳩十六号は、同じ師団で活躍した別々の軍用鳩である。混同されやすいので、補足しておく。 参考文献 『読売新聞』(昭和八年十一月十五日付。夕刊) 読売新聞社 『学校放送講演集 2594』 札幌放送局/日本放送協会北海道支部 『非常時国民全集 陸軍篇』 中央公論社 |
午後一時二十分、第九師団の江湾鎮攻撃において、同師団は中央隊の歩兵第十八旅団司令部から、「江湾鎮、狄家浜間に敵を見ず」との通信文を軍用鳩十六号から受け取る(師団長への手交は午後一時五十分) そのとき、第九師団は、諜報と飛行機によって敵情を捜索していたが、思ったように情報を得られず、困難をきたしていた。そうした中、軍用鳩十六号によって情報がもたらされたのである。第九師団は、作戦上、大きな恩恵を受ける。 ☆補足 軍用鳩十六号と軍用鳩一六七号は、同じ師団で活躍した別々の軍用鳩である。混同されやすいので、補足しておく。 参考文献 『偕行社記事』(第七一五号) 偕行社 『読売新聞』(昭和八年十一月十五日付。夕刊) 読売新聞社 『学校放送講演集 2594』 札幌放送局/日本放送協会北海道支部 『日本鳩時報』(昭和十八年三月号) 大日本軍用鳩協会 |
ロボット「学天則」の生みの親として知られる西村真琴博士は、大阪毎日新聞社および東京日日新聞社を代表する、陣中慰問団の団長として上海に在ったが、その戦渦(第一次上海事変)のさなか、三義里街の一隅で一羽の鳩を保護する。この鳩は、三義里街で拾われたことから、上海海軍特別陸戦隊の植松練磨少将が三義と名づけたという。 その後、西村は三義を日本に持ち帰り、大阪毎日新聞社の鳩舎に入れる。やがて、三義に仲のよい一羽ができたので、西村は新聞社の鳩舎から移してやることに決めて、この二羽(つがい)を大阪豊中の自宅で飼育する。仔鳩を取って上海市に寄贈する考えだった。 当時、西村は、事変講演会などの催しがあると二羽を連れていって、鳩同士の親善、すなわち、中国の三義と日本の鳩が仲よくしていることを指して、日中友好の大切さを大衆に説く。 三月十六日、三義はイタチ(あるいはテンとも)に襲われて死亡する。西村はその死を悼み、庭の藤の根近くに葬る。また、「西東国こそ違へ小鳩等は親善あへり一つ巣箱に」と作詩し、鳩の絵とともに魯迅に贈る。これに感動した魯迅は、六月に七言律詩「三義塔に題す」を詠み、西村に贈る。 三義が亡くなった一年後の一九三三(昭和八)年三月、村の人が集まって三義の墓に小さな碑を建てる。重光 葵上海公使の筆により「三義之塚」と碑に題字される。 西村の死後、旧宅から孫娘宅の庭に三義塚が移される。 そして、一九八六(昭和六十一)年、豊中市制五十周年を記念して豊中市中央公民館に三義塚が移され、現在に至る。 参考文献 「三義塚の由来」 *三義塚に設置された案内板 『感想集 桃の雫』 島崎藤村/岩波書店 「西村真琴と魯迅」 http://tyo-cfa.or.jp/story.html 『大東亜科学綺譚』 荒俣 宏/筑摩書房 |
満州国が建国される。 すでにこの頃から満州国軍の通信機関として軍用鴿を活用しようとする案が台頭する。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年六月号) 大日本軍用鳩協会 |
大阪学生愛鳩会が『鳩鴿の研究』という機関誌を創刊する。 ☆補足 本誌が何号まで発刊したのか不明だが、一九三六(昭和十一)年十二月三十一日に第八号が出ている。この第八号は、活字ではなく、手書きを刷ったもので、題も『鳩鴿の研究』ではなく『鳩鴿之研究』に変わっている(ひらがな「の」が漢字表記の「之」に変わる) ちなみに、筆者(私)は、創刊号の複写と、第八号の現物しか所持していないため、手書きの印刷と、題名の変更が、第何号からのことなのか把握していない。 参考文献 『鳩鴿の研究』(昭和七年三月号。創刊号) 大阪学生愛鳩会 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、一七三羽。 呉防備隊、八十五羽。 佐世保防備隊、一〇二羽。 舞鶴防備隊、八十七羽。 大湊防備隊、六十七羽。 鎮海防備隊、八十六羽。 馬公防備隊、一二八羽。 横須賀海軍航空隊、一一九羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、五十二羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05022428000、公文備考 Q巻1 通信.交通.気象(時) 海軍大臣官房記録 昭和7(防衛省防衛研究所)」 |
独立守備歩兵第五大隊が洮昂線の沿線に出動するに当たって、全く訓練していない土地から軍用鳩を放つ。鳩は無事に鉄嶺の鳩舎に帰還するが、その間の直線距離は三五〇キロ強だった。 参考文献 『偕行社記事』(第七〇六号) 偕行社 |
『朝鮮総督府鉄道局局報』(昭和七年四月一日付。第一五三二号)に、以下の記事が載る(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足 上記の規則改正は、朝鮮だけでなく日本本土も同様で、この日をもって、鳩の鉄道輸送費が減額される。 小野内泰治『日本鳩界史年表』(2)によると、動物輸送費として普通小包の二倍の運賃を支払っていた鳩の鉄道輸送料が鉄道省に交渉した結果、半減されることになり、以後、訓練のため、伝書鳩を遠くへ運ぶのが容易になったという。 参考文献 『朝鮮総督府鉄道局局報』(昭和七年四月一日付。第一五三二号) 『愛鳩の友』(昭和三十三年六月号) 愛鳩の友社 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、三七一羽。 呉防備隊、八十五羽。 佐世保防備隊、一三一羽。 舞鶴防備隊、九十一羽。 大湊防備隊、九十九羽。 鎮海防備隊、七十五羽。 馬公防備隊、一五六羽。 横須賀海軍航空隊、一三六羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、五十二羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05022428100、公文備考 Q巻1 通信.交通.気象(時) 海軍大臣官房記録 昭和7(防衛省防衛研究所)」 |
上海の虹口公園で天長節祝賀会が催される。 しかし、このとき、朝鮮人テロリストが壇上の要人に爆弾を投げつけるテロ事件を起こす(上海天長節爆弾事件) 白川義則大将が死亡したほか、重光 葵上海公使が右脚を切断、野村吉三郎中将が右目を失明、植田謙吉中将が左足を負傷するなど、大きな被害を出す。 なお、第九師団司令部の軍用鳩十六号も部隊本部との連絡用として会場に控えていたが、爆弾の破片を浴びて左目を失う。 その後、この軍用鳩十六号は、将兵とともに内地に凱旋帰国し、第九師団に在ってその戦功をたたえられる(左目を失った軍用鳩十六号は、テロ事件発生以前より江湾鎮の攻撃などで勇名をとどろかせている。後に第一号の乙功章を授与される) ☆補足 中野の軍用鳩調査委員会の前庭に鳩魂塔があるが、その題字は、このテロ事件によって斃れた白川義則の絶筆である。 参考文献 『偕行社記事』(第七一五号) 偕行社 『読売新聞』(昭和八年十一月十五日付。夕刊) 読売新聞社 『学校放送講演集 2594』 札幌放送局/日本放送協会北海道支部 『日本鳩時報』(昭和十八年三月号) 大日本軍用鳩協会 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、五〇八羽。 呉防備隊、九十四羽。 佐世保防備隊、一四六羽。 舞鶴防備隊、八十五羽。 大湊防備隊、九十七羽。 鎮海防備隊、六十九羽。 馬公防備隊、一二四羽。 横須賀海軍航空隊、一六〇羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、五十一羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05022428100、公文備考 Q巻1 通信.交通.気象(時) 海軍大臣官房記録 昭和7(防衛省防衛研究所)」 |
池田重雄少佐宛てに、国民党軍の将校で詩人の黄瀛から手紙が届く。 懇切な謝恩を記した書面のほか、国民党軍の鳩通信隊の写真と個人の写真が入っていた。 日中両軍が激突する第一次上海事変当時のことだったので、池田はこの手紙の意味を以下にように了解する(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十八年六月号〕より引用)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年六月号) 大日本軍用鳩協会 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、五一一羽。 呉防備隊、一二〇羽。 佐世保防備隊、一三七羽。 舞鶴防備隊、八十三羽。 大湊防備隊、九十三羽。 鎮海防備隊、六十八羽。 馬公防備隊、一一二羽。 横須賀海軍航空隊、一五五羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、五十八羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05022428100、公文備考 Q巻1 通信.交通.気象(時) 海軍大臣官房記録 昭和7(防衛省防衛研究所)」 |
大日本航空思想普及会の飛行曲技大会において、飛行機の上から鳩を放つ、空中伝書鳩実験が実施される。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年六月号) 愛鳩の友社 |
大阪朝日新聞社の主催で、伊勢二見浦~大阪間伝書鳩マラソン競走が開催される。 各社とのタイアップにより、商品名から一般投票で出場鳩の名前を決める。 三時間半で戻ってきた「メガネ肝油」号が優勝を果たす。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年六月号) 愛鳩の友社 |
福井県遠敷郡口名田村の大智寺に、ぼろぼろの翼をした、一羽の疲れ切った伝書鳩が迷い込む。足環を見ると、「水戸二八号」とあったので、水戸警察署に照会すると、満州のハルビン付近に在る水戸歩兵第二連隊所属の軍用鳩と判明する。この水戸二十八号は、ハルビン付近で通信任務を帯びて本隊との連絡中、行方不明になっていた。 それにしても、ハルビン~福井間といったら、日本海を挟んで一三〇〇キロ以上も離れている。水戸二十八号が海越えの長距離を飛んできたことに関係者は大いに驚く。 参考文献 『読売新聞』(昭和七年七月三日付。夕刊) 読売新聞社 『読売新聞』(昭和七年七月十七日付) 読売新聞社 『普鳩』(昭和十八年九月号) 中央普鳩会本部 |
奉天から海龍に通ずる瀋海鉄道の沿線に匪賊が出没し、付近の住民に被害が及ぶ。そこで、鉄嶺守備隊の一隊が山城鎮に出動し、治安維持に当たる。 さて、この日の午後、支隊は山城鎮付近において匪賊と交戦し、弾薬に欠乏をきたす。支隊と鉄嶺守備隊本部との間は、軍用鳩しか通信手段がなかったため、鉄嶺鳩舎の軍用鳩五十六号が通信連絡を担う。 そうして、支隊を飛び立った軍用鳩五十六号だったが、途中、敵に射撃されて、右腿に貫通銃創を負う。しかし、軍用鳩五十六号は、一八〇キロあまりを一挙に飛翔し、守備隊本部に通信文を届ける。 参考文献 『非常時国民全集 陸軍篇』 中央公論社 |
現時点での日本の鳩数、三万七〇八七羽(内閣資源局調査) 内訳は、陸海軍官公署その他が一万六八五四羽、民間が二万二三三羽。 参考文献 『北国の鳩界』 佐々木 勇 『陸軍』(昭和八年六月号) 陸軍発行所 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、三七一羽。 呉防備隊、一五〇羽。 佐世保防備隊、一二九羽。 舞鶴防備隊、八十三羽。 大湊防備隊、九十羽。 鎮海防備隊、九十三羽。 馬公防備隊、一一二羽。 横須賀海軍航空隊、一二七羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、五十八羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05022428100、公文備考 Q巻1 通信.交通.気象(時) 海軍大臣官房記録 昭和7(防衛省防衛研究所)」 |
午後六時三十分、軍用鳩調査委員の井崎於菟彦大尉がラジオ番組に出演し、「欧州の伝書鳩」という題で話をする。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年六月号) 愛鳩の友社 |
日本伝書鳩協会が日本橋白木屋で第一回の伝書鳩展覧会を二日間にわたり開催する。 優秀鳩二〇〇羽あまりの展示(横須賀防備隊の夜間鳩――⚓B九十八号ほか)、海軍大臣杯の授与式、鳩の慰霊祭などをおこなう。 ☆補足一 『東京朝日新聞』(昭和七年七月二十六日付)に載った予定に従って上記の内容や日付を記す。したがって、予定に変更が生じていたら、出来事や日付が現実と異なっているかもしれない。 ☆補足二 関口竜雄『鳩と共に七十年』によると、民間主催の鳩の品評会としては、これが最初の催しになるという。 ちなみに、関口は、ピジョンダイジェスト社『ピジョンダイジェスト』(昭和四十七年十月号)に掲載された記事「マンスリーてい談」において、日本の品評会の歴史は昭和二、三年にはじまり、陸軍が主体になって農業大学で実施し、当時、キリンビール東京支店長だった松本新太郎がポスターを自作して張り出していた(鳩の絵を描き、その絵の下にキリンビールの社名を書き入れる)、などと述べている。 また、『愛鳩の友』(昭和三十四年二月号)に掲載された記事「古今東西(3)」(作・関口竜雄)によると、竹下憲輔獣医が主体になって審査委員長を務めていたらしく、品評会の出陳条件は、雄と雌のつがいを出さなければならなかったとのことである。この雌雄での出品は、一般の家畜の展覧会と同じだという。 ☆補足三 当時の品評会の審査基準は、陸軍の教程の規定に当てはまったものを良鳩と判定した。ルネ・クレルカン砲兵中尉の伝えた鳩の形を母体にしていたのである。 関口竜雄によると、標準鳩は二種類に分かれ、一つは尾羽が床よりも上がっている型、もう一つは尾羽が床についている型であったという。大きな方の鳩は腰のところで段ができていたそうである。ただし、関口に言わせると、背中を後列風切が覆っていない、背中の出ている鳩なので、鳩としてはよくないという。 むろん、この関口の意見は、現代の観点や、非軍事的な観点が加わっているので、その言葉どおりに受け止めてよいものか迷う。しかし、当時はまだ、鳩に対する知識が不充分だったことは、多かれ少なかれ、事実であろう。実際にその当時は、食用鳩の品評会(アメリカ)の基準を手本にしていたらしく、くちばしや爪、目ぶちの色は羽色と一致していなければならなかった。また、雌雄で出品して両方が同じようなタイプでなければならないとされていた。刺毛がある鳩もよくないとされた。関口に言わせると、レース鳩には関係のないことだという。 ちなみに、『愛鳩の友』(昭和三十四年二月号)に掲載された記事「古今東西(3)」(作・関口竜雄)に、その頃の優良鳩の体形について、関口が以下のように述べている。
☆補足四 日本鳩レース協会『レース鳩』(平成八年九月号)に掲載された記事「アントワープから夢を運んだ男」によると、キリンビール生麦工場(横浜市鶴見区)の支店長を務めていた松本新太郎の息子が、松本 興であるという。 *松本家は親子そろっての愛鳩家である。松本 興は、『鳩』などの著作で知られる。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和七年七月二十六日付) 東京朝日新聞社 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05022428300、公文備考 Q巻1 通信.交通.気象(時) 海軍大臣官房記録 昭和7(防衛省防衛研究所)」 『ピジョンダイジェスト』(昭和四十七年十月号) ピジョンダイジェスト社 『愛鳩の友』(昭和三十三年六月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十四年二月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十四年九月号) 愛鳩の友社 『レース鳩』(平成八年九月号) 日本鳩レース協会 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、三四九羽。 呉防備隊、一四四羽。 佐世保防備隊、一二九羽。 舞鶴防備隊、七十二羽。 大湊防備隊、八十八羽。 鎮海防備隊、八十一羽。 馬公防備隊、八十四羽。 横須賀海軍航空隊、一二四羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、五十八羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05022428200、公文備考 Q巻1 通信.交通.気象(時) 海軍大臣官房記録 昭和7(防衛省防衛研究所)」 |
日本丸、海王丸が東京湾を周航する催し「海上こどもの会」が開かれる。 船には東京朝日新聞社の伝書鳩三〇〇羽が積まれており、参加者の記した通信文をその鳩に付して船上から空に放つ。そうして、通信文が東京朝日新聞社に届いた後は速達で各家庭に郵送される。 ☆補足 『東京朝日新聞』(昭和七年八月二日付)に載った予定に従って上記の内容や日付を記す。したがって、予定に変更が生じていたら、出来事や日付が現実と異なっているかもしれない。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和七年八月二日付) 東京朝日新聞社 |
英国伝書鳩愛好家クラブの主催で英仏海峡越えの国際鳩レースが開催される。 しかし、海上で発生した暴風雨によって各国の参加鳩約一万羽が無残な死を遂げる。イギリスから参加した鳩の被害は数千羽に達し、ほとんど全てが海の藻くずと消える。被害額は約二〇〇万円に上ると見られ、イギリス一の鳩好きとして知られるロンスデール伯爵が一番の損害を被ったという。 ドイツからも、約六五〇羽がこの鳩レースに参加しているが、わずかに五十羽しか生き残れなかったそうである。 ☆補足 軍用鳩調査委員会の長谷栄二郎中佐は、この悲劇に関して、以下のように述べている(『読売新聞』〔昭和七年八月十四日付〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『読売新聞』(昭和七年八月七日付。夕刊) 読売新聞社 『読売新聞』(昭和七年八月十四日付) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(昭和七年八月七日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
独立守備歩兵第○大隊が劉二堡(鞍山の西北八キロ)付近の匪賊討伐に当たる。しかし、大隊は、数倍の匪賊に包囲されて多数の戦死傷者を出す。また、弾薬も不足する。 そこで、大隊はこの苦境を知らせるために、通信文を付した軍用鳩を放鳩する。軍用鳩は一分間二〇〇〇メートル以上の高分速で鳩舎に帰り、通信文を届ける。 これにより、大隊の危機が救われる。 参考文献 『非常時国民全集 陸軍篇』 中央公論社 |
井崎於菟彦少佐が軍用鳩調査委員を辞任し、麻布歩兵第三連隊付になる。井崎は、一九一九(大正八)年の委員就任以来、十三年間にわたって、日本鳩界の発展に尽くしてきた功労者である。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年七月号) 愛鳩の友社 |
六月中旬、瀋海線の沿線一帯で遼寧民衆自衛軍が蜂起し、鉄道や電線を破壊する。 この暴動は七月に平定されるが、八月中旬、再び蜂起して、七十余箇所の鉄道線路を破壊する。これにより、独立守備歩兵第二大隊は通信能力を失い、全くの孤立状態に陥る。 そこで、第二大隊との連絡は、軍用鳩と飛行機の組み合わせによって、おこなわれる。 第二大隊から放鳩された軍用鳩が同大隊の日々の状況を外部に伝え、その回答は飛行機の通信筒投下によっておこなわれる。軍用鳩を切らしたら、飛行機が軍用鳩を落下傘投下して、これを補充する。 なお、第二大隊の軍用鳩は、瀋海線方面において放鳩訓練を実施していなかったが、よく連絡を保持する。 参考文献 『偕行社記事』(第七〇六号) 偕行社 |
午前五時頃、静岡県の修善寺から伊豆の伊東に通じる天城山奥野地内の谷底(九メートルあまり下)に、陸軍の自動車(シボレー三十年型)が落下しているのを通行人が発見する。 その後、通報を受けた伊東警察署が調査すると、自動車の番号は「鳩講三」とあり、車体に血痕が付着していた。しかし、乗員の姿が見当たらず、伊東署は三島憲兵分隊にその旨を通牒して、乗員の行方について情報を集める。 なお、自動車は「鳩講三」という番号から、中野電信隊の軍用鳩調査班のものと判明している。 この軍用鳩調査班は、柿本貫一大尉指揮のもと、下士官兵四名が車鳩の育成、訓練のために富士裾野の板妻廠舎に出張している。そして、八月三十一日、その日程を終えて伊東方面に移動中、当事故を起こしたものと思われる。ちなみに、柿本は事務打ち合わせのために帰京していたことから事故を免れている。 九月一日現在、中野電信隊に軍用鳩調査班からの連絡はないが、中野電信隊は事故について、こう述べている(『読売新聞』〔昭和七年九月一日付。夕刊〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足 小野内泰治『日本鳩界史年表』(3)によると、中野陸軍電信隊の自動車が天城山の谷底に墜落したが、柿本大尉の部下一同無事であったという。 参考文献 『読売新聞』(昭和七年九月一日付。夕刊) 読売新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十三年七月号) 愛鳩の友社 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、三二九羽。 呉防備隊、一二九羽。 佐世保防備隊、一二九羽。 舞鶴防備隊、六十六羽。 大湊防備隊、八十五羽。 鎮海防備隊、七十五羽。 馬公防備隊、八十七羽。 横須賀海軍航空隊、九十二羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、五十八羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05022428200、公文備考 Q巻1 通信.交通.気象(時) 海軍大臣官房記録 昭和7(防衛省防衛研究所)」 |
駐仏大使が外務大臣宛てに、「仏国ニ於ケル野生鳥獣輸出入取締規定送付ノ件」を提出する。フランスの野生鳥獣輸出入取締規則について調査し、それを取りまとめた報告書である。 そのうち、鳩に関する規則のいくつかを箇条書きにして以下に紹介しよう。 ・原産地による輸入制限(一八九六年七月二十二日の大統領令)。いかなる用途に使用せらるるを問わず、フランスへの輸入は相互主義によるほか、これを許さず(現今、相互主義により輸入を許さるるはスペイン、イギリス、ベルギー、オランダおよびルクセンブルクなり) ・外国産の伝書鳩を放鳩する際は、スペイン、イギリス、ベルギー、オランダおよびルクセンブルグに産したるものに限る。国境地方、要塞地帯および軍用建築物の周囲においては放鳩を禁止する(一八九六年七月二十二日の大統領令) ・外国の団体に属する鳩については各団体ごとに特別の原産地証明を付するを要す。 ・食用鳩の輸入は自由なり(一九一九年十月十三日の大統領令) 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B08061985000、諸外国ニ於ケル輸出入手続並取締法規関係雑件 第二巻(E-3-0-0-3_002)(外務省外交史料館)」 |
馮占海、宮長海らの率いる匪賊を討伐するため、第二師団の主力が吉長線の北方地区を掃討する。この間、騎兵第二連隊の一小隊は盤石に駐屯し、吉海線を守備する。しかし、同隊は、黒石鎮付近に蟠踞する、宋黒栄の匪賊五〇〇名に包囲されて孤立する。 このとき、朝鮮人三名が何とか盤石を脱出し、独立守備歩兵第五大隊の上田中隊(朝陽鎮駐屯)に、騎兵小隊の危急を伝える。ただし、瀋海線と吉海線の両線は、匪賊の破壊活動によって電信電話線が寸断されていた。 そこで、上田中隊は、朝陽鎮から鉄嶺に向けて軍用鳩を放ち、騎兵小隊の苦境を通報する。 これを受けた、守備隊司令部および軍司令部は、直ちに盤石に援軍を派遣し、騎兵小隊を救出する。 参考文献 『偕行社記事』(第七〇六号) 偕行社 |
先頃、盲目のアメリカ軍飛行士――ウィリアム・C・オッカー少佐は、伝書鳩の帰巣性と盲目飛行の関係を研究するために、遠隔地の上空より、目隠しをした伝書鳩を飛行機上から放鳩する。 数時間後、この伝書鳩は、普通の伝書鳩同様に自分の巣に帰還する。 この実験について、オッカーは、以下のように述べる(『読売新聞』〔昭和七年九月十三日付〕より引用)
以上、同日付の『読売新聞』の記事より。 参考文献 『読売新聞』(昭和七年九月十三日付) 読売新聞社 |
満州事変勃発以来、電信電話の通じていない満州の荒野で軍用鳩は活躍しているが、このたび満州事変一周年を記念して、日本伝書鳩協会が寄付金の募集をはじめる。目標額は三万円とし、この寄付金でベルギーやフランスの優良鳩を購入して陸海軍に献納する。 参考文献 『読売新聞』(昭和七年九月十八日付) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(昭和七年九月十八日付) 東京朝日新聞社 |
午前八時五十五分、中込大尉ほか三名搭乗の気球が霞ヶ浦海軍航空隊を出発し、風に乗って西方に移動する。 気象観測の結果は、伝書鳩によって逐一もたらされる。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和七年十月一日付) 東京朝日新聞社 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、三〇〇羽。 呉防備隊、一〇一羽。 佐世保防備隊、一二二羽。 舞鶴防備隊、六十六羽。 大湊防備隊、八十二羽。 鎮海防備隊、五十九羽。 馬公防備隊、八十七羽。 横須賀海軍航空隊、八十七羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、五十八羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05022428200、公文備考 Q巻1 通信.交通.気象(時) 海軍大臣官房記録 昭和7(防衛省防衛研究所)」 |
陸軍の嘱託を受けて、ベルギー、フランス、ドイツに伝書鳩視察に行っている松本 興から、日本に第一報が届く。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年七月号) 愛鳩の友社 |
日本伝書鳩協会が陸軍省に一五〇羽の伝書鳩を献納する。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和七年十月七日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
学習院において、同院伝書鳩研究会主催の伝書鳩展覧会が開催される。 横須賀防備隊から夜間鳩二羽(⚓B九十八号ほか)が出品されたほか、一斉放鳩用の軍鳩一五〇羽が参加する。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05034609900、公文備考 昭和10年 Q 通信、交通、気象 巻1(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05022428300、公文備考 Q巻1 通信.交通.気象(時) 海軍大臣官房記録 昭和7(防衛省防衛研究所)」 |
二二〇〇名の選手と、観客の児童一万名らが集まり、全東京市小学校陸上競技大会(第一回)が明治神宮外苑において開催される。 入場式終了後の行進時、陸軍鳩班および東京朝日新聞社の伝書鳩一二〇〇羽が一斉放鳩される。 ☆補足 軍と新聞社の合同で伝書鳩を放鳩した、とあるが、明治神宮外苑競技場などにおける、こうした慶祝放鳩は、井崎於菟彦少佐の考案によるという。 はっきりした時期は不明だが、あるとき、固定鳩舎の主任だった井崎は、明治神宮外苑競技場での軍民合同の放鳩式を準備する。しかし、上官に相談せずに進めてしまったため、陸軍省のやかまし屋から「鳩や馬は、生きている兵器である。それをお祭り騒ぎに使用するのはけしからぬ」との叱責を受ける。しかし、井崎には考えがあったので、「そもそも鳩は、一回でも多く訓練しておかねばならぬ。訓練とは、大空を飛ばせること以外にはない。神宮から飛ばそうと、富士山から飛ばそうと勝手ではないか」などと反論する。そして、神宮あたりで放鳩する際は陸軍の自動車を使用せずに、社旗を立てた新聞社の車を使っていることに着目して、「陸軍は、ガソリンを一滴も用いず、無償で訓練が出来ます」と井崎は述べる。当時は、経費削減について、うるさくいわれていた時期だったこともあり、この問答は井崎が勝利を収める。 この出来事以降、陸軍の☆印をつけた自動車が出動し、軍用鳩が大いに慶祝放鳩に使用されるようになったという。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和七年十月十八日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十二年五月号) 愛鳩の友社 |
午後零時五十分より、愛国伝書鳩献納期成会主催、東京市後援、「愛国伝書鳩の集い」が日比谷公会堂で開催される。 日本伝書鳩協会会長・徳川義恕男爵のあいさつの後、池田義夫騎兵大尉の講演「満州事変と鳩の活動」、徳川夢声の漫談「ポッポの話」などがあり、盛況を博す。 ☆補足一 池田義夫騎兵大尉の講演について、各史料に載っている題に少々の違いが見られる。 以下に紹介しよう。 ・『東京朝日新聞』(昭和七年十月三十日付) 「満州事変と鳩の活動」 ・小野内泰治『日本鳩界史年表』(3) 「満州における伝書鳩の活躍」 ・『時事写真速報』(昭和七年十一月一日。第一四七二号) 「満州事変に於ける伝書鳩の活動について」 *三番目に紹介した『時事写真速報』(昭和七年十一月一日。第一四七二号)掲載の題については、同記事中の一文から抜き出したものなので、題ではなく、単なる説明文かもしれない。 ☆補足二 『東京朝日新聞』(昭和七年十月三十日付)の記事内において、「愛国伝書鳩の集い」の開始時刻が「午後零時五十分」と「午後一時」という、二つの異なる時間が記されている。 どちらが正確な開始時刻だったのか不明。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和七年十月三十日付) 東京朝日新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十三年七月号) 愛鳩の友社 『時事写真速報』(昭和七年十一月一日。第一四七二号) |
歩兵第三十連隊の携行する、安東守備隊の軍用鳩が、遠く鴨緑江をさかのぼり、臨江に至って放鳩される。 鳩は無事に帰ってくるが、この間の直線距離は三五〇キロで、全く未知の地形を飛翔する。 参考文献 『偕行社記事』(第七〇六号) 偕行社 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、二九〇羽。 呉防備隊、八十三羽。 佐世保防備隊、一〇七羽。 舞鶴防備隊、六十四羽。 大湊防備隊、八十羽。 鎮海防備隊、五十四羽。 馬公防備隊、八十七羽。 横須賀海軍航空隊、八十七羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、五十八羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05022428200、公文備考 Q巻1 通信.交通.気象(時) 海軍大臣官房記録 昭和7(防衛省防衛研究所)」 |
満州国の軍政部内に四十羽入り鴿舎を設置し、三十羽の軍用鴿を収容する。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年六月号) 大日本軍用鳩協会 |
埼玉県の熊谷を中心に実施した、第一師団の対抗演習において、これに協力した民間鳩舎の鳩が驚異的な活躍を見せる。たった三分で十二キロの距離を飛翔し、分速四〇〇〇メートルの記録をたたき出したのである。この鳩は熊本町の小川歯科医の俊鳩で、前年の伊豆~熊谷間の競翔でも一等になっている。 ☆補足 上記の一文は、小野内泰治『日本鳩界史年表』(3)をもとに記す。 分速四〇〇〇メートルを時速に直すと、時速二四〇キロになる。わずか十二キロの短距離とはいえ、鳩が時速二四〇キロの高速度で飛ぶことなど、あり得るのだろうか。何かの間違いではなかろうか。 戦後の記録になるが、『愛鳩の友創刊50年 半世紀の歩みを綴る永久保存版』に掲載された記事「距離別日本の最高分速」によると、一九七六(昭和五十一)年四月十二日に開催された二〇〇キロレース(放鳩地、松前)において、北海千代田クイン号が分速二五九一・八八四メートルの最高分速をマークしているという。現状、この公式記録が日本鳩界における最高分速であると思われる。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年七月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友創刊50年 半世紀の歩みを綴る永久保存版』 愛鳩の友社 |
横須賀防備隊が『夜間鳩(昼夜鳩)養成法』を出版する(編纂・石井金蔵)。題名どおり、夜間鳩に関する基本的な飼育法などについて述べている。 目次は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05022428300、公文備考 Q巻1 通信.交通.気象(時) 海軍大臣官房記録 昭和7(防衛省防衛研究所)」より引用。見出しのみ抜粋)
☆補足一 横須賀防備隊『研究実験成績報告 其十五(軍鳩実験研究)』(昭和九年三月三十一日)に、以下の記述がある(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023924800、公文備考 昭和9年 Q 通信、交通、気象、時 巻2(防衛省防衛研究所)」より引用)
また、江浪半造『伝書鳩の研究』に、以下の記述がある。
☆補足二 『軍鳩実験研究録』に、以下の記述がある(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05034609500、公文備考 昭和10年 Q 通信、交通、気象 巻1(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05022428300、公文備考 Q巻1 通信.交通.気象(時) 海軍大臣官房記録 昭和7(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05022428400、公文備考 Q巻1 通信.交通.気象(時) 海軍大臣官房記録 昭和7(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023924800、公文備考 昭和9年 Q 通信、交通、気象、時 巻2(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05034609500、公文備考 昭和10年 Q 通信、交通、気象 巻1(防衛省防衛研究所)」 『伝書鳩の研究』 江浪半造 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、二六八羽。 呉防備隊、八十三羽。 佐世保防備隊、八十九羽。 舞鶴防備隊、五十三羽。 大湊防備隊、七十二羽。 鎮海防備隊、四十六羽。 馬公防備隊、八十一羽。 横須賀海軍航空隊、八十羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、五十八羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05022428500、公文備考 Q巻1 通信.交通.気象(時) 海軍大臣官房記録 昭和7(防衛省防衛研究所)」 |
遠藤義男が警視庁交通課に、鳩によるビラ散布の許可を求める。一羽の鳩が約三〇〇枚のビラを背負って飛翔し、一定時間たった後に、自動的に空から散布される仕組みになっている。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年七月号) 愛鳩の友社 |
日本軍が三角地帯の討伐を実施する。匪賊の根拠地に向けて、各縦隊が分進、合撃する。 このとき、既設の電話線は、敵の破壊工作によってその用をなさず、討伐に使用する無電も少数にとどまったため、半日行程も離れている各縦隊間の連絡に軍用鳩が用いられる。 この軍用鳩の活躍によって、各縦隊間ならびに大隊間の連絡が完全に保たれる。 参考文献 『偕行社記事』(第七〇六号) 偕行社 |
満州国の寛城子東南角に木造鴿舎二棟が建設され、関東軍から譲り受けた軍用鴿七十五羽がここに収容される。 そして、先月より満州国軍政部内で飼育をはじめた三十羽の軍用鴿(四十羽入り鴿舎に収容)とともに、これを軍政部鴿班と命名する。 満州国軍部における軍用鴿飼育の端緒が開かれる。 ☆補足 鴿舎のうち一棟(四十八羽入り)は民政部の所属であったらしく、遊動警察隊が使用したという。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年六月号) 大日本軍用鳩協会 |
岫巌に入城している、第六大隊の隈崎中隊が、四、五〇〇〇の兵匪に包囲される。 十二月二十三日午後零時三十分、隈崎中隊は軍用鳩二八六号を空に放つ。 翌十二月二十四日午後三時三十分、該鳩が鞍山の大隊本部に舞い降り、次の報告をもたらす(陸軍発行所『陸軍』〔昭和八年六月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
以上の報告を受けて、直ちに岫巌に増援が派遣される。 そして、瞬く間に岫巌を囲む兵匪を蹴散らし、十二月二十五日には隈崎中隊を無事に助け出す。 ☆補足一 『読売新聞』(昭和七年十二月二十五日付)が「熊崎部隊」と記事に記しているが、正しくは、「隈崎部隊」である。 ☆補足二 『読売新聞』(昭和七年十二月二十五日付)の記事によると、隈崎中隊の放った鳩は「十二月二十四日午後四時」に鞍山に到着したとある。 一方、陸軍発行所『陸軍』(昭和八年六月号)、大日本雄弁会講談社『幼年倶楽部』(第十二巻第四号)、齋田 喬『非常時日本の学芸会資料』には、「十二月二十四日午後三時三十分」に到着したとある。 どちらの記述が正しいのか不明。 参考文献 『陸軍』(昭和八年六月号) 陸軍発行所 『読売新聞』(昭和七年十二月二十五日付) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(昭和七年十二月二十五日付) 東京朝日新聞社 『幼年倶楽部』(第十二巻第四号) 大日本雄弁会講談社 『非常時日本の学芸会資料』 齋田 喬/弘学社 |
日本伝書鳩協会で寄付を募った愛国伝書鳩献金が、この年の末、約五〇〇〇円に到達する。この献金で優秀鳩を購買して陸軍と海軍に献納するほか、これを永久に記念するため、愛国伝書鳩鳩舎の設置を企画する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年六月号) 愛鳩の友社 |
井崎於菟彦少佐が麻布歩兵第三連隊に勤務していた頃の話である。 ある日の昼食後、秩父宮雍仁親王をはじめ、将校一同が雑談に花を咲かす。かつて井崎が軍用鳩調査委員だったことから、井崎に軍用鳩に関する質問が集中し、ある将校が夜間鳩に疑問を呈する。鳥目を例に出して、夜に鳥の目が見えるわけがない、などと強い調子で言う。そこで井崎は、こう返突を繰り出す。「私は中野の陸軍鳩舎で訓練した、立派な夜間鳩を知っているので、皆さんは軍用鳩に関する常識が足りない、もう少し通信を勉強する必要がありますよ」。すると、まるで裁判官が被告を取り調べるような感じで、「鳩が鳥である以上、いくら軍用鳩でも、夜飛ぶことなど絶対にない、井崎少佐は責任ある説明答弁を」などと、猛烈な反論がくる。井崎は、その非常識な発言に驚くとともに、侮辱された心持ちになって気分を害し、大声で、こう言う。「諸君の論が是か、私の説が否か、論より証拠、皆さんの眼前で夜飛ぶ軍用鳩をお目にかけましょう」。そして、井崎は中野の軍用鳩調査委員会に電話して、夜間鳩十羽を今夜八時に歩三に届けてほしいと頼む。夜間に通信可能かどうか試してみようというのだ。しかし、この場にいる将校全員に夜まで居残ってもらうのは気の毒なので、立会人として希望者十人を選出する。 そこで、いったん解散しようとすると、古参の中佐が井崎にこう言う。「今夜もしも鳩が夜通信ができたら、井崎少佐の勝ちとしてビール二ダースを贈呈する、飛ばぬときはわれわれの前で三度頭をさげて陳謝する」。がぜん面白い勝負になってきて、その場にいた秩父宮雍仁親王も笑いながら双方の論争に耳を傾ける。 日没後、細雨が降る。しかし、鳩が夜間飛翔できることを知っている井崎は、悠然と構えて、勝負に臨む。十名の立会人にそれぞれ通信文を書かせて、それを十羽の軍用鳩に付す。そして、いざ放鳩、軍用鳩が夜の暗闇の中に消えていく。 十四、五分後、中野から電話があり、全羽が帰着し、十通の通信文を受領したとの連絡が入る。井崎の完勝だった。 翌日、賭けに勝った井崎は、約束どおり、ビール二ダースを受け取ったので、将校集会所の各人に一本ずつ、ビールを振る舞う。 ☆補足 「一九三二(昭和七)年」としたのは筆者(私)の推測で、歩三に秩父宮雍仁親王と井崎が在隊していた期間から仮定する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和四十九年六月号) 愛鳩の友社 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、二四〇羽。 呉防備隊、八十三羽。 佐世保防備隊、六十羽。 舞鶴防備隊、五十羽。 大湊防備隊、七十羽。 鎮海防備隊、四十七羽。 馬公防備隊、四十九羽。 横須賀海軍航空隊、八十羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、五十八羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023283600、公文備考 昭和8年 Q 通信 交通 気象 巻1(防衛省防衛研究所)」 |
昨年九月、松本測候所は、松本歩兵第五十連隊その他から伝書鳩を譲り受け、現在、十四羽がすくすくと成長している。 同測候所は、今年の夏の北アルプス連峰の気象観測までに、この鳩を仕込んで、山頂から麓まで通信できるようにする。 将来的には一般の登山者に伝書鳩を貸与する予定だという。 以上、同日付の『読売新聞』の記事より。 ☆補足 小野内泰治『日本鳩界史年表』(3)によると、松本測候所は昭和七年九月に松本連隊から伝書鳩十七羽の分譲を受けているという。すなわち、現在の鳩数が十四羽ということは、少なくともそのうち三羽が失踪や病気などにより失われていることが分かる。 参考文献 『読売新聞』(昭和八年一月十七日付) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(昭和八年一月十七日付) 東京朝日新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十三年七月号) 愛鳩の友社 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、三一九羽。 呉防備隊、九十四羽。 佐世保防備隊、八十羽。 舞鶴防備隊、七十三羽。 大湊防備隊、一〇一羽。 鎮海防備隊、五十八羽。 馬公防備隊、四十四羽。 横須賀海軍航空隊、七十七羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、五十八羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023283600、公文備考 昭和8年 Q 通信 交通 気象 巻1(防衛省防衛研究所)」 |
同日付の『東京朝日新聞』の記事によると、満州国軍政部陸軍文官の佐々木宝記(元陸軍技師)は、二月十日午後、民間から買い上げた優秀鳩二〇〇羽を持って満州に渡るという。気候温度の異なる満州では鳩の繁殖が問題になるが、佐々木は五ヶ年計画でやり遂げるそうである。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和八年二月二日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
夜、岫巌に駐屯する、第三大隊の荒木中隊は、劉景文の率いる兵匪約一〇〇〇名に包囲される。 荒木中隊は軍用鳩を放って、大石橋の大隊本部に、この状況を知らせる。 そうして、荒木中隊は、本隊と連係しながら、戦闘を有利に終結させる。 ☆補足 偕行社『偕行社記事』(第七一五号。昭和九年四月発行)に掲載された記事「民間伝書鳩の発達と軍用鳩」(作・田川潤一郎)に、独立守備隊の軍用鳩に関する一文が載っている。 以下に引用しよう(一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
*事変発生以来、鳩通信数は約三万通に達したとあるが、これは一九三三(昭和八)年の関東軍での鳩通信数である。日本軍全体の鳩通信数ではない。 参考文献 『偕行社記事』(第七〇六号) 偕行社 『偕行社記事』(第七一五号) 偕行社 『非常時国民全集 陸軍篇』 中央公論社 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、二九二羽。 呉防備隊、九十三羽。 佐世保防備隊、八十三羽。 舞鶴防備隊、八十羽。 大湊防備隊、一二七羽。 鎮海防備隊、五十八羽。 馬公防備隊、二十羽。 横須賀海軍航空隊、九十九羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、五十八羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023283600、公文備考 昭和8年 Q 通信 交通 気象 巻1(防衛省防衛研究所)」 |
昭和三陸地震が発生し、津波による被害が岩手や宮城などの各県に及ぶ。このとき、まひした通信機関に代わって、岩手県では第八師団鳩班の軍用鳩が、宮城県では気仙沼所と大島村巡査駐在所の伝書鳩が、通信の任を果たす。 災害地の視察に赴いた第二師団の山田参謀は、将来、補助通信機関としての軍用鳩の必要性を痛感する。 もともと、第二師団においても駐満中に軍用鳩を使っていたが、同師団の内地帰還に伴って、全ての鳩を関東軍司令部軍用鳩班に譲与している。しかし、この非常時における鳩の活躍に触発されて、第二師団軍用鳩班が復活する運びとなる。第二師団では近く、中野電信隊から軍用鳩約五〇〇羽を取り寄せて、各隊に分配し、訓練をはじめるという。 ☆補足 警保局「(第三十報)宮城県知事電話報告」(昭和八年三月六日午後八時受)に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
小野内泰治『日本鳩界史年表』(3)によると、盛岡市中野小学校の伝書鳩がいち早く災害地の現状を報告し、目覚ましい働きぶりをしたという。 なお、同記事は、昭和三陸地震の発生日を「三月二日」としているが、正しくは、「三月三日」である。 参考文献 『河北新報』(昭和八年三月三日号) 河北新報社 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023328200、公文備考 昭和8年 T 事件、戦役 巻3(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023328300、公文備考 昭和8年 T 事件、戦役 巻3(防衛省防衛研究所)」 『愛鳩の友』(昭和三十三年七月号) 愛鳩の友社 |
白木正光が『愛国伝書鳩の飼方』を出版する。大日本軍用鳩協会『軍用鳩』(昭和十九年九月号)に載った記事「軍鳩の参考書」(作・山本直文)において、同書は、こう評されている。
参考文献 『愛国伝書鳩の飼方』 白木正光/犬の研究社 『軍用鳩』(昭和十九年九月号) 大日本軍用鳩協会 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、四〇五羽。 呉防備隊、一〇〇羽。 佐世保防備隊、九十三羽。 舞鶴防備隊、七十五羽。 大湊防備隊、一一八羽。 鎮海防備隊、六十七羽。 馬公防備隊、三十一羽。 横須賀海軍航空隊、一〇六羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、五十八羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023283600、公文備考 昭和8年 Q 通信 交通 気象 巻1(防衛省防衛研究所)」 |
午後六時、田川潤一郎少佐がラジオ番組に出演し、以下のように話す(『東京朝日新聞』〔昭和八年四月二十日付〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
*文中に「三千キロ」とあるが「三十キロ」の誤りと思われる。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和八年四月二十日付) 東京朝日新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十三年七月号) 愛鳩の友社 |
東京新宿白十字において、東京農業大学の主催で、伝書鳩に関する懇親会が開かれる。 海軍側の講演官として横須賀防備隊の石井金蔵特務中尉が出席し、「夜間鳩ノ養成法」について語る。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05034609900、公文備考 昭和10年 Q 通信、交通、気象 巻1(防衛省防衛研究所)」 |
日本伝書鳩協会が『日本伝書鳩新報』という機関誌を創刊する。 『日本伝書鳩新報』は昭和十四年一月号まで続刊し、翌月号からは誌名を改めて『日本鳩時報』となる。 『日本鳩時報』は昭和十八年十一月号まで続刊し、翌月号からは誌名を改めて『軍用鳩』となる。 『軍用鳩』は昭和十九年十月号まで刊行する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年七月号) 愛鳩の友社 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、四一九羽。 呉防備隊、一〇四羽。 佐世保防備隊、一〇七羽。 舞鶴防備隊、七十五羽。 大湊防備隊、一一一羽。 鎮海防備隊、七十二羽。 馬公防備隊、十四羽。 横須賀海軍航空隊、一〇七羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、五十八羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023283600、公文備考 昭和8年 Q 通信 交通 気象 巻1(防衛省防衛研究所)」 |
「軍用動物表彰内規」(陸普第二九七五号)が定められる。 内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001460300、永存書類甲輯 第3類 昭和12年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている。様式の引用は省略)
☆補足一 『東京朝日新聞』(昭和八年五月十三日付。夕刊)の記事によると、「軍用動物表彰内規」は六月一日から実施されるという。 一方、小野内泰治『日本鳩界史年表』(3)によると、昭和八年三月五日に軍馬、軍用犬、軍用鳩に勲章を制定して授けるようになった、などと載っている。多分、小野内の記した日付は、軍用動物に対する表彰制度を設けるとの一報があった日か、またはこの制度を創設するために関係者が動き出した日などを取り違えているように思われる。 詳細不明。 ☆補足二 軍用鳩の功績調書に関連する史料としては、「軍鳩功績調書 昭和16年1月25日 第110師団通信隊」(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110538000、軍用動物に関する書類 昭和12年1月20日(防衛省防衛研究所)」)がある。功績調書作成時の参考に資するためにまとめられた文書のようだが、これにより、各部隊の軍用鳩の活躍を知ることができる(十数羽、紹介されている) 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001460300、永存書類甲輯 第3類 昭和12年(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110537900、軍用動物に関する書類 昭和12年1月20日(防衛省防衛研究所)」 『東京朝日新聞』(昭和八年五月十三日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十三年七月号) 愛鳩の友社 |
横須賀防備隊が猟銃取扱規程を定める。これは毎年、初秋から晩春に至る間、鳩舎上空に猛禽類が襲来し、少なからぬ軍鳩が犠牲になっていることを受けて、害鳥を駆除するための猟銃とその使用法などを取りまとめたものである。 猟銃取扱規程の内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05034609900、公文備考 昭和10年 Q 通信、交通、気象 巻1(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている。付図欠)
☆補足 猛禽類対策については各国とも注意を払っている。 例えば、アメリカのモンマス要塞では、軍用鳩に舎外運動をさせる際は、見張りの監視兵をつける。上空にハヤブサなどの猛禽類を発見したら発砲して軍用鳩を守る。 以前に、よほど腹をすかせていたのか、ハヤブサが鳩舎の中にまで侵入してきて、優秀鳩・栄光のモンマス号が食べられそうになったことがあった。そのとき、鳩舎内にはクマール軍曹がいて、同軍曹は格闘の末、この空のギャングを捕らえる。 余談だが、昭和十二年七月二十一日付の『読売新聞』に掲載された記事「スポーツや戦場で活躍する競争鳩」に、モンマス要塞にある陸軍信号学校に在学中のトーマス・ロス青年の意見が載っている。 ロス青年によると、鳩は帰舎すれば食物にありつけることを知っているので帰るのだというが、この説はそのまま信ずるわけにはいかない、という。 なお、ロス青年の鳩訓練法はなかなか素晴らしい、と同記事は述べている。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05034609900、公文備考 昭和10年 Q 通信、交通、気象 巻1(防衛省防衛研究所)」 『読売新聞』(昭和九年八月十二日) 読売新聞社 『読売新聞』(昭和十二年七月二十一日付) 読売新聞社 |
函館~東京間八九六キロ競翔が開催される。 早朝五時、六十五羽の優秀鳩が函館湯ノ川から東京に向けて放たれる。 東京朝日新聞社の審査本部には、審査委員長・長谷栄二郎中佐をはじめ、井崎於菟彦少佐、日本伝書鳩協会の師岡昌徳・並木安一両理事、資源局の宮島課長ほか審査委員が待機し、到着の第一報を待ち受ける。 午後六時半頃から帰舎報告が寄せられ、当日帰りは六羽だった。 ☆補足一 今回の競翔等について、井崎於菟彦少佐が以下のように述べている(『東京朝日新聞』〔昭和八年五月二十五日付〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足二 五月二十九日の午後三時~午後三時半、朝日新聞本社会議室において、本競翔の表彰式が催される。 日本伝書鳩協会の会長・徳川義恕男爵、同常務理事・新井嘉平治、同幹事・師岡昌徳、同並木安一、軍用鳩調査委員会の長谷栄二郎中佐、井崎於菟彦少佐ほか東京朝日新聞社幹部が列席する。 一等~三等までの入賞者にトロフィーが授与される(賞状は一等~六等まで、参加章は全員) 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和八年五月二十四日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和八年五月二十四日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和八年五月二十五日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和八年五月二十五日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和八年五月二十六日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和八年五月三十日付) 東京朝日新聞社 |
この日の午後六時二十五分~五十五分まで、「日本民間伝書鳩の今昔」と題して、井崎於菟彦少佐がラジオ(八七〇KC)で講演する。 江戸時代、大坂の相場師が伝書鳩を使って相場の変動を知り巨利を占めたために町奉行から処罰されたこと、明治時代に大阪および京都の愛鳩家を中心に競翔がおこなわれたこと、第一次世界大戦の影響により鳩クラブがたくさん誕生し新聞社がポツポツ伝書鳩利用をはじめたこと、函館~東京間七〇〇キロ競翔を最近成功させ長距離飛翔レコードが更新されたこと、アフリカ~ベルギー間二〇〇〇キロ競翔が世界レコードでわが国は遠く及ばないこと、などを話す。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和八年五月三十一日付) 東京朝日新聞社 |
竹下憲輔一等獣医が『軍用鳩ノ伝染病』を出版する。 前書きは、以下のとおり(一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
目次は、以下のとおり(一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『軍用鳩ノ伝染病』 竹下憲輔 |
軍用動物(馬、犬、鳩)を表彰するために、甲乙丙の三種の功章が制定される。 戦争や事変に限って抜きん出た功績を挙げたものに甲(金鵄勲章に相当)、戦争・事変・演習で功績をあらわしたものに乙(旭日章に相当)、長い間服役して依然能力が落ちず特に成績が顕著なものに丙(瑞宝章に相当)が授与される。 功章のデザインは、帝展審査員の池田勇八と日名子実三の両名が担当し、先月の十二日に陸軍省に提出される。 馬は額革(ひたいがわ)、犬は首輪、鳩は脚環という仕様である。 *軍用鳩功章――甲功章は五鈴形金色環、乙功章は円形五弁花銀色、丙功章は指環形。 ☆補足 『伝書鳩 もう一つのIT』の著者・黒岩比佐子は、一九三九年に陸軍省が鳩に対して勲章を与えることに決定した、などと同書に記しているが、誤りである。軍用動物への功章制度は上記のとおり、すでに一九三三(昭和八)年六月一日から実施されている。 また、黒岩は、一九四一年に軍用鳩に対する初の行賞が発表され十九羽に甲功章が授けられた、などと、『東京日日新聞』の記事を紹介する形で同書に記しているが、これも問題のある記述といえる。 軍用鳩に対する初の行賞というのは、支那事変以来初の行賞という意味であるのに、黒岩は軍用鳩に対する史上初の行賞という文脈で紹介し、読者の誤読を誘っている。この誤りは、以前の満州事変において、軍用鳩に功章が与えられている事実を、黒岩が知らなかったために生じたように思われる。 参考文献 『読売新聞』(昭和八年五月十三日付。夕刊) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(昭和八年五月十三日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『昭和十八年度 陸海軍 軍人年鑑』 軍人会館図書部 『伝書鳩 もうひとつのIT』 黒岩比佐子/文芸春秋 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、四一六羽。 呉防備隊、九十七羽。 佐世保防備隊、一三六羽。 舞鶴防備隊、八十五羽。 大湊防備隊、一〇一羽。 鎮海防備隊、八十二羽。 馬公防備隊、五十五羽。 横須賀海軍航空隊、九十二羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、五十八羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023283400、公文備考 昭和8年 Q 通信 交通 気象 巻1(防衛省防衛研究所)」 |
麻布歩兵第三連隊付の井崎於菟彦少佐が、日本伝書鳩協会会長・徳川義恕男爵や四王天延孝中将などに見送られて東京を発つ。 井崎は、満州国軍の傭聘武官として渡満し、現地で軍用鴿の育成と訓練に従事し、その基礎を構築する。 『愛鳩の友』(昭和五十年十一月号)に掲載された記事「鳩界に忘れえぬ功績を残して 故 井崎 乙比古」によると、当時の新聞が以下のように報じているという。
☆補足 井崎は、日本から種鴿を導入して軍用鴿の生産能率を高める。また、満州国の現況を踏まえて国内枢要地に鴿通信所を設置し、鴿通信機構を計画、立案して法規を定め、通信技術委員の養成に努める。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年七月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和五十年十一月号) 愛鳩の友社 『日本鳩時報』(昭和十五年六月号) 大日本軍用鳩協会 |
軍用鳩調査委員会において、岩沼(宮城県)~東京間競翔が開催される。 優勝を果たした、鳩舎係・横山健重と、鳩手・伊藤正文の両名に対し、軍用鳩調査委員長の山岡重厚少将が賞状を授与する。 ☆補足 伊藤正文は、後に大日本軍用鳩協会の主事となって活躍するが、小野内泰治『日本鳩界史年表』(28)によると、昭和十八年六月十五日に教育召集を受けて入隊し、昭和二十年四月、沖縄で戦死したという。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年七月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十六年三月号) 愛鳩の友社 |
拓務次官が陸軍次官宛てに、「軍用犬並ニ伝書鳩交付方依頼ノ件」(管企第五三八号)を提出する。今般、拓務省が計画している満州自衛移民の実施上、軍用犬ならびに伝書鳩が必要であり、これを同移民団に交付してほしい、との要請である。 軍用犬(牝牡二組) 四頭 伝書鳩 二十羽 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04011643400、昭和8.7.1~8.7.27 「満受大日記(普) 其12 1/2」(防衛省防衛研究所)」 |
偕行社『偕行社記事』(第七〇五号)に、池田義夫騎兵大尉が投稿した「独逸軍用鳩通信の一端」が掲載される。 内容としては、ドイツ軍の連絡教令(軍用通信技術)の中から軍用鳩に関するものを抜粋、紹介している。 池田によると、日独両軍の軍用鳩通信は、その用法や通信実施要領に関して、おおよそ差異はないという。ただし、以下の点は日本軍と異なっているという。薄暮および夜暗において鳩は飛翔し得ず、とし、鳩舎の移動は鳩の使用を最小限二週間中止せしむ、とドイツ軍が定めているところである。池田はこの違いについて、やや首肯し得ざるところなり、と述べている。 なお、ドイツ軍の移動鳩車は、相当、大型のものを採用しているらしく、日本軍の小型鳩車に比して、その利害得失のいかんは、なお研究の余地がある、と池田は今後の課題について触れている。 参考文献 『偕行社記事』(第七〇五号) 偕行社記事 |
現時点での日本の鳩数、四万二〇一七羽(内閣資源局調査) 内訳は、陸軍が一万二七六一羽、海軍が一一六四羽、官公署が五六五羽、学校が七五一羽、新聞社が二三一八羽、民間が二万四四五八羽。 参考文献 『北国の鳩界』 佐々木 勇 『伝書鳩の話』 東京日日新聞社/東京日日新聞社 大阪毎日新聞社 『伝書鳩の研究』 江浪半造 『愛鳩の友』(昭和三十三年七月号) 愛鳩の友社 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、四六九羽。 呉防備隊、九十四羽。 佐世保防備隊、一二八羽。 舞鶴防備隊、九十八羽。 大湊防備隊、一〇〇羽。 鎮海防備隊、八十二羽。 馬公防備隊、四十九羽。 横須賀海軍航空隊、八十六羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、五十八羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023283300、公文備考 昭和8年 Q 通信 交通 気象 巻1(防衛省防衛研究所)」 |
小樽はとの会が小樽市内の直行寺において、死没鳩の慰霊祭を開催する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年七月号) 愛鳩の友社 |
鳩市が大阪で復活する。長崎帰りの伝書鳩や、釜山帰りの系統の伝書鳩がよく売れたという。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年七月号) 愛鳩の友社 |
軍用鳩調査委員事務所において、日本伝書鳩協会東部地区で実施した四〇〇キロおよび六〇〇キロ競翔の表彰式が開催される。 四〇〇キロ競翔の優勝者・高橋愛作に海軍大臣杯と協会杯が、六〇〇キロ競翔の優勝者・佐野秋次郎に陸軍大臣杯と資源局長官杯が、それぞれ授与される。 来賓は、四王天延孝中将、長谷栄二郎中佐、田川潤一郎少佐、秋本喜一郎大尉、竹下憲輔獣医、野村資源局技師、朝日新聞社・松田太郎鳩主任、読売新聞社・松本鳩主任。 日本伝書鳩協会側は、会長・徳川義恕男爵、理事・新井静洋、理事・並木安一ほか。 なお、表彰式後の午後三時、会議室で祝賀会が開かれる。 このとき、四王天延孝中将が日本伝書鳩のはじまりから現在に至るまでの感想を述べる。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年七月号) 愛鳩の友社 |
軍用鳩調査委員会の要請を受けて、日本伝書鳩協会が鳩の購買をおこなうことになり、新井嘉平治、師岡昌徳、並木安一の各理事が各地に出張する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年七月号) 愛鳩の友社 |
昭和八年度特別大演習(観艦式は八月二十五日)において、七月三十一日~八月十九日までの間、横須賀防備隊が軍鳩を動員し、通信を実施する。 ☆補足 海軍はこの大演習中、サイパン島にサイパン特設鳩舎を設置する(五月二十六日~大演習終了まで。軍鳩三十羽、係員兵一)。第一根拠地隊の第二航空隊に軍鳩を配属し、主に飛行機保安通信用として使翔する。 また、六月下旬~大演習終了まで、剣崎灯台官舎側に小型鳩舎(軍鳩三十羽)を設置し、横鎮海面防御部隊剣崎前進指揮所および同部隊出動船艇間の連絡に軍鳩を供する。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023283700、公文備考 昭和8年 Q 通信 交通 気象 巻1(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05034609800、公文備考 昭和10年 Q 通信、交通、気象 巻1(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05034610000、公文備考 昭和10年 Q 通信、交通、気象 巻1(防衛省防衛研究所)」 |
札幌市の今井百貨店の五階において、鳩の展覧会が開催される(札幌はとの会主催、月寒歩兵第二十五連隊後援) ☆補足 上記の一文は、小野内泰治『日本鳩界史年表』(3)をもとに記す。鳩の展覧会が一日だけで終了するとは思えないので、この八月二十六日が初日だったように思われる。開催期間は不明。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年七月号) 愛鳩の友社 |
関東軍命令(関後命第三五四号)が出され、八月三十一日以降、満州の公主嶺に関東軍軍用鳩育成所が設置されることになる。 編成人員は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01002912000、昭和8年 「満密大日記 24冊の内其18」(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足一 関東軍軍用鳩育成所について。 兵団文字符は「徳」(*関東軍)、平時通称号は「満州第四四二部隊」、戦時通称号は「徳第一三九八九部隊」、隷属は関東軍直属。 ☆補足二 小野内泰治『日本鳩界史年表』(3)によると、昭和八年十月二十二日、日本伝書鳩協会有志と愛国伝書鳩の集いによる利益や献金により、関東軍軍用鳩育成所の構内に待望の愛国鳩舎が作られ、命名式がおこなわれたという(設計は柿本貫一大尉) ☆補足三 一九三四(昭和九)年十二月十日当時、関東軍軍用鳩育成所長は柿本貫一少佐である(職員表から一九三五〔昭和十〕年十二月二日の時点においても同少佐)。また、一九三六(昭和十一)年八月からは門口元一少佐が同職に就任する。 一九三三(昭和八)年から終戦の年の一九四五(昭和二十年)まで、歴代の所長とその在職期間を列記したいが、筆者(私)が把握している情報はこれくらいしかない。 なお、門口は、一九三三(昭和八)年十二月~一九三六(昭和十一)年七月末まで、中野の軍用鳩調査委員の民間係将校を務めている。 門口の詳しい軍歴は不明だが、『愛鳩の友』(昭和三十三年二月号)に掲載された記事「中野時代の人 門口元一氏に聞く」において、門口がインタビューに答えている。 同記事から門口の発言を引用しよう。
発言内容が分かりづらいので、補足すると、上陸用舟艇に軍用鳩を積んで出ていき、この軍用鳩に通信文を付して放鳩する。そうすると、軍用鳩は船に設置された鳩舎に帰ってくる。しかし、夜間で、船は移動しており、さらに海上飛翔になるので苦労した、などと述べているように思われる。 ちなみに、南支の上陸作戦とあるが、はっきりした時期は分からない(大東亜戦争の南方作戦時の話であろうか) また、門口は同記事において、こうも述べている。
「中野の鳩部長から満州へ移り」とあるが、「中野」の軍用鳩調査委員会ではなく、陸軍通信学校の鳩部長を辞して大東亜戦争時に野戦に行ったように思われる。また、「輜重隊では、十八中隊八千人の部隊長」というのは、終戦時、門口は中佐で、輜重兵第一〇四連隊長を務めているので、そこら辺りのことを述べているように考えられる。「兼務として二千羽の鳩の隊長も」というのは、その大羽数を考慮すると、軍用鳩育成所長クラスの役職に就いていたようである。そして、「犬も一緒に」と言われて、軍犬の育成、管理をも求められたようである。しかし、当人が述べているとおり、軍鳩と軍犬では勝手が異なり錯綜するので辞退したという。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01002912000、昭和8年 「満密大日記 24冊の内其18」(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12121088000、陸軍部隊調査表 其1(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12121109600、部隊通称号索引簿(在満部隊) 昭和27年3月1日(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12121105000、部隊(終戦時位置)索引簿(鮮満)(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13070948900、関東軍職員表 昭和10年1月~10年12月 調(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13070954600、関東軍職員表 昭和10年1月~10年12月 調(防衛省防衛研究所)」 『愛鳩の友』(昭和三十二年四月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十三年二月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十三年七月号) 愛鳩の友社 |
現在、帰朝している、満州国の軍政部主任・井崎於菟彦少佐が、その夜、同国執政侍衛武官・船越大尉からの急電を受ける。満州建国に貢献した伝書鴿の真価が認められて、このたび、満州国の鴻秋夫人(同国執政・溥儀のきさき)が執政邸内で鴿を飼うことになったので、伝書鴿二十羽の選定をしてもらいたい、とのことである。 井崎はこの依頼を喜んで引き受け、直ちに十つがいの優良鴿を選定する。そして、今度、軍政部嘱託として渡満することになっている伊達宗武(伊達政宗の後裔)にこれを託す。伊達は来月の十日に神戸を出帆する船に乗って新京を目指し、九月十五、六日頃に鴻秋夫人に鴿を献上する予定になっている。 ☆補足一 一九三三(大同二)年、井崎は満州国軍の招聘武官として渡満し、軍用鴿通信の教育整備に力を注ぐ。このとき、日本軍の現役を去る条件などについて、鳩にひとかたならぬ趣味を有していた秩父宮雍仁親王が井崎に便宜を図ってくれる。 井崎は戦後、秩父宮雍仁親王に対し、「永く忘れ難い感銘である」と感謝の言葉を回想記に残している。 ☆補足二 蘭星会『満州国軍』に、以下の記述がある。
上記の一文によると、一九三七(昭和十二)年九月十一日に満州国軍の軍用鴿育成所が完成したことになっている。しかし、井崎の回想や他史料などから、一九三三(昭和八)年頃には寛城子に鴿や鴿舎が存在し、職員が活動している形跡がある。正式な開所、または一定の規模に達したことをもって、一九三七(昭和十二)年九月十一日に軍用鴿育成所が完成した、という意味なのだろうか。詳細不明。 なお、一九三三(昭和八)年頃と推定されるが、満州国軍の軍用鴿育成所は、日本軍より軍用鳩経験者八名と、日本語を解する満州人とを合わせた計三十名の所員で編成され、井崎がその長に就く。 軍用鴿に舎外運動をさせると、寛城子に住んでいる、たくさんのロシア人が集まってきて、ぼんやりとその光景を眺める。半日ほど、そうしているので、井崎はその悠長な態度に感心し、さすが大ロシア人と思ったという。 ☆補足三 日本では、「鳩」の一文字で、「鳩」(Dove)と「鴿」(Pigeon)を総称する。しかし、大陸では、「鳩」(Dove)と「鴿」(Pigeon)を使い分ける。 武知彦栄『伝書鳩の研究』に、以下の記述がある。
さて、満州国では、「鳩」と「鴿」を使い分ける。 一九三三~一九三五(昭和八~昭和十)年頃、または一九三七(昭和十二)年九月十一日以降のことと思われるが、満州国軍の軍用鴿育成所の開所式に当たって、同育成所長の井崎は、満州国皇帝・愛新覚羅溥儀の臨席を願う。しかし、侍従武官長・石丸志都磨中将から、鳩は満州語で正式に「鴿子」(ゴーヅ)と呼び、同育成所の表札は「鳩」から「鴿」に書き改めてほしいとの注意がある。 その指示どおり、同育成所の白木の表札を日本人書家が「満州国軍鴿育成所」と書き改める。また、開所式の際も、井崎以下所員一同が「鴿子」の発声に留意する。 そうして、式が終わると、溥儀は機嫌よく式場をあとにしたという。 参考文献 『読売新聞』(昭和八年八月三十一日付) 読売新聞社 『愛鳩の友』(昭和四十九年十一月号) 愛鳩の友社 『満州国軍』 蘭星会 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 |
民間鳩の購買のため、軍用鳩調査委員会の田川潤一郎少佐と日本伝書鳩協会の新井嘉平治理事ら一行が小樽を訪問する。また、これに併せて、当地の愛鳩家に飼鳥一般の指導もおこなう。 この民間鳩の購買は、函館、札幌、小樽と各地で実施されるが、小樽はとの会から満州行きの種鳩数羽が買い上げられる。 参考文献 『北国の鳩界』 佐々木 勇 |
独眼竜・伊達政宗の子孫として知られる伊達宗武が、この日の午後九時二十五分、東京駅を出発して満州に向かう。伊達は最近、満州国軍政部嘱託の辞令を受けて、「満州国鳩軍の参謀本部」と称される寛城子で「満州鳩」の研究に従事する。 ☆補足一 上記の一文は、『東京朝日新聞』(昭和八年九月五日付)の記事をもとに記す。文中に「干城子」とあるが「寛城子」の誤りと思われる(修正済み) ☆補足二 井崎於菟彦少佐によると、伊達宗武の当初の希望は満州国軍の軍人だったが、学生時代から鳩に興味があったことから目的を変更し、満州国軍の鴿隊に嘱託として来てもらったという。伊達は満州語が巧みで、満州人教育において大きな力になったそうである。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和八年九月五日付) 東京朝日新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十二年九月号) 愛鳩の友社 |
昭和毛糸紡績株式会社の労働争議(弥富工場)の際に、伝書鳩が使用される。 「女工諸君、しっかりやりなさい。社会の人は全て味方しています。がんばれ!」との文章を伝書鳩が運ぶ。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年七月号) 愛鳩の友社 |
東京新宿の三越支店において、東京農業大学伝書鳩部主催の伝書鳩展覧会が開かれる。 横須賀防備隊は、東京農業大学伝書鳩部の要望に応えて、小型鳩舎一、輸送籠一、携帯用鳩籠一、鳩審査籠一、軍鳩十(昼間鳩八、夜間鳩二)を出陳する。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05034610000、公文備考 昭和10年 Q 通信、交通、気象 巻1(防衛省防衛研究所)」 『愛鳩の友』(昭和三十三年七月号) 愛鳩の友社 |
午後一時、満州事変二周年を記念して、軍用動物慰霊祭(獣鳥魚供養講主催、陸軍省賛助)が築地本願寺でおこなわれる。 列席者のほか、軍馬、軍犬、軍鳩が参加する。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和八年九月十七日付) 東京朝日新聞社 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04011690400、昭和8.9.7~8.9.27 「満受大日記(普) 其14 2/2」(防衛省防衛研究所)」 |
午後六時、日比谷新音楽堂において、森岡守成大将が会長を務める軍用動物慰霊会が「軍用動物慰霊の夕」を開催する。 ☆補足 『東京朝日新聞』(昭和八年九月十七日付)に載った予定に従って上記の内容や日付を記す。したがって、予定に変更が生じていたら、出来事や日付が現実と異なっているかもしれない。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和八年九月十七日付) 東京朝日新聞社 |
名古屋第三師団司令部において、日本伝書鳩協会西部地区の表彰式が開催される。 日本伝書鳩協会会長・徳川義恕男爵が、四〇〇キロ競翔の優勝者である吉兼留蔵に陸軍大臣杯と協会杯を授与する。 ☆補足 上記の一文は、小野内泰治『日本鳩界史年表』(3)をもとに記す。原文には「名古屋第二師団司令部」とあるが、「名古屋第三師団司令部」の誤りと思われる(修正済み) 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年七月号) 愛鳩の友社 |
第十六師団鳩通信班の肝いりで、京都山城倶楽部、京都好鳩会、京都愛鳩会の三団体が京都鳩連盟を結成する。また、石清水八幡神社において、戦死などで犠牲になった鳩の慰霊祭を挙行する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年七月号) 愛鳩の友社 |
中野の軍用鳩調査委員会で極東報鳩会の発会式がおこなわれる。 参考文献 『飼鳥報国 伝書鳩読本』 遠藤義男/極東報鳩会事業部 |
『海軍使鳩教科書草案』の改正追補版が編纂される。 「改正追補」とあるように、昭和二年十二月に出された初版の内容に、若干の改良を加えている。 例えば、軍鳩の所属を示す足輪記号に関して初版は説明文のみだったが、改正追補版では横須賀海軍航空隊と鎮海防備隊での記入例が追加されている。 目次は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023283900、公文備考 昭和8年 Q 通信 交通 気象 巻1(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、空行を入れている。各章を抜粋し、各節は省略)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023283900、公文備考 昭和8年 Q 通信 交通 気象 巻1(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023284000、公文備考 昭和8年 Q 通信 交通 気象 巻1(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023284100、公文備考 昭和8年 Q 通信 交通 気象 巻1(防衛省防衛研究所)」 |
吉林省丁地区討匪作戦において、満州国軍政部鴿班の井崎於菟彦少佐以下七名が臨時鴿班を編成し、参加する。 作戦期間中、同班は、磐石付近に行動する日満軍の戦場よりする通信に活躍する。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年六月号) 大日本軍用鳩協会 |
第七回明治神宮体育大会において、約五〇〇羽の鳩が明治神宮外苑競技場から一斉放鳩される。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年七月号) 愛鳩の友社 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、四三〇羽。 呉防備隊、七十一羽。 佐世保防備隊、一一五羽。 舞鶴防備隊、八十二羽。 大湊防備隊、七十九羽。 鎮海防備隊、七十五羽。 馬公防備隊、四十二羽。 横須賀海軍航空隊、七十五羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、五十七羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023283700、公文備考 昭和8年 Q 通信 交通 気象 巻1(防衛省防衛研究所)」 |
第一次上海事変で活躍した、第九師団の軍用鳩(軍用鳩一六七号および軍用鳩十六号)に功章が授与される。 これは軍用動物に対する表彰制度ができてから、軍用鳩としては初の授章となる。 授章理由は、以下のとおり(『読売新聞』〔昭和八年十一月十五日付。夕刊〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足 この軍用鳩二羽に対する功章授与は、『読売新聞』(昭和八年十一月十五日付。夕刊)が「十日付」と記している。 一方、『東京朝日新聞』(昭和八年十一月十五日付)や『非常時国民全集 陸軍篇』(田川潤一郎「満州事変と伝書鳩 ―讃えよ、無言の戦士の勲功と美談―」)などは、「十四日付」と記している。 どちらの記述が正しいのか不明。 参考文献 『読売新聞』(昭和八年十一月十五日付。夕刊) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(昭和八年十一月十五日付) 東京朝日新聞社 『非常時国民全集 陸軍篇』 中央公論社 『日本鳩時報』(昭和十八年三月号) 大日本軍用鳩協会 『愛鳩の友』(昭和三十三年七月号) 愛鳩の友社 |
午前十一時、軍用鳩調査委員事務所において、日本伝書鳩協会の第四回定例総会が開催される。 昭和八年度の会務や事業報告、会計報告の後、役員の選出に移る。会長は引き続き徳川義恕男爵が留任するが、副会長は新たに関西の徳永秀三が推される。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年七月号) 愛鳩の友社 |
鯰江正太郎歩兵中佐の講演「戦場で鳩や犬はどんな働きをしたでしょう」が放送される。 シベリア出兵と第一次上海事変で活躍した軍用鳩の話を鯰江が語る(ほかに軍用犬) 参考文献 『学校放送講演集 2594』 札幌放送局/日本放送協会北海道支部 |
東西対抗伝書鳩競翔大会(東京大阪朝日新聞社および日本伝書鳩協会主催、陸軍省、海軍省、資源局後援)が開催される。 東京~大阪間の四〇〇キロを関東勢が四十一羽、関西勢が五十一羽をそれぞれ参加させ、東西で飛翔成績を競う。放鳩地は関東側が東京朝日新聞社屋上、関西側が大阪朝日新聞社屋上で、競翔の勝敗は関西側に軍配が上がる。 なお、主催団体である、日本伝書鳩協会および朝日新聞社以外の審査委員や関係者は、以下のとおり。 軍務局長・山岡重厚少将、横須賀防備隊司令・秋山虎六少将、軍用鳩調査委員会・長谷栄二郎中佐、同委員会・八木 勇大尉、海軍省・大島大佐、同省・佐藤少佐、横須賀防備隊・藤村少佐、同隊・石井金蔵特務中尉、武知彦栄大尉など。 ☆補足一 上記の一文にある参加羽数(関東勢四十一羽、関西勢五十一羽)は、『東京朝日新聞』(昭和八年十二月八日付。夕刊)の記事をもとに記す。 一方、『東京朝日新聞』(昭和八年十二月六日付。夕刊)には、関東勢が四十羽、関西勢が四十二羽とある。 また、小野内泰治『日本鳩界史年表』(3)には、関東勢が四十羽、関西勢が五十一羽とある。 どの記述が正しいのか不明。 ☆補足二 十二月二十三日の午後一時、朝日新聞本社会議室(四階)において、東西対抗伝書鳩競翔大会の表彰式が開催される。 陸軍から軍務局長・山岡重厚少将、大久保大佐、長谷栄二郎中佐など各審査員、海軍から横須賀防備隊司令・秋山虎六少将、大島大佐など各審査員、資源局から宮島施設課長、日本伝書鳩協会から会長・徳川義恕男爵、師岡昌徳理事、新井嘉平治、並木安一など各審査員、朝日新聞社から緒方編集局長、成沢計画部長以下係員、そのほか競翔参加者が出席する。 午後二時、終了する。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和八年十二月一日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和八年十二月四日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和八年十二月五日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和八年十二月六日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和八年十二月六日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和八年十二月七日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和八年十二月八日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和八年十二月二十二日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和八年十二月二十四日付) 東京朝日新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十三年七月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十七年七月号) 愛鳩の友社 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05034610000、公文備考 昭和10年 Q 通信、交通、気象 巻1(防衛省防衛研究所)」 |
現時点での日本陸軍の鳩数、一万一三四六羽(軍用鳩調査委員会調査) 内訳は、以下のとおり。 軍用鳩調査委員会 二三〇四羽 近衛師団 二五一羽 第一師団 一五二羽 第二師団 一一四羽 第三師団 四四三羽 第四師団 二六六羽 第五師団 二七四羽 第六師団 二三五羽 第七師団 二一九羽 第八師団 三十五羽 第九師団 二〇三羽 第十師団 三九七羽 第十一師団 二一八羽 第十二師団 五二二羽 第十四師団 二〇三羽 第十六師団 二六三羽 第十九師団 九六七羽 第二十師団 六六六羽 朝鮮軍 三十五羽 台湾軍 三八〇羽 関東軍 二〇八三羽 支那駐屯軍 三九二羽 運輸部 五十六羽 獣医学校 九十三羽 教育総監部(学校) 三四七羽 航空本部(飛行学校) 二二八羽 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001340500、永存書類甲輯第5類第2冊 昭和9年(防衛省防衛研究所)」 |
昭和八年度練習艦隊において、練習艦隊司令官・百武源吾中将の希望により、海防艦・八雲と海防艦・磐手に艦上鳩舎を設置する。 このことについて、横須賀防備隊軍鳩班の萩原春午郎は、わが海軍の軍鳩として大いに気を吐いた、などと述べている。 参考文献 『帝国海軍』(昭和九年十二月号) 帝国海軍社 |
浅草寺で、老朽化した大伽藍の修復工事があり、そこに寄留していたドバトたちの行き場がなくなる。そこで、東京愛鳩会の並木安一らが協力し、本堂の脇に仮鳩舎をこしらえて、ドバトたちを収容する。仮鳩舎は幅二間、奥行き九尺の大きさで、三、四〇〇羽の収容能力があった。 参考文献 『普鳩』(昭和十七年三月号) 中央普鳩会本部 |
東北地方における伝書鳩の普及と発展を目的とする伝書鳩展覧会が、仙台市内の三越支店五階ホールにおいて開催される(仙台はとの会主催) 期間中、数万人が来場する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年八月号) 愛鳩の友社 |
軍用鳩調査委員事務所において、日本伝書鳩協会が全国愛鳩家座談会を開催する。三十五名の出席者が四時間に及び、鳩について語る。 座談会終了後、一同は構内の鳩魂塔を参拝する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年八月号) 愛鳩の友社 |
軍鳩術講習始業式において、横須賀防備隊司令の秋山虎六少将が以下のように訓示する(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05034609900、公文備考 昭和10年 Q 通信、交通、気象 巻1(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05034609900、公文備考 昭和10年 Q 通信、交通、気象 巻1(防衛省防衛研究所)」 |
大阪好鳩会と大阪南鳩会の肝いりで、科野亀三郎がベルギーから鳩を輸入し、鳩の展覧会(於 大阪実業会館)で販売される。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年八月号) 愛鳩の友社 |
日本伝書鳩協会が評議会を開く。理事を互選し、昭和九年度の競翔開催について協議する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年八月号) 愛鳩の友社 |
金沢市の三越百貨店で伝書鳩展覧会が開催される。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年八月号) 愛鳩の友社 |
鳩には軍用鳩調査委員会などの機関があるように陸軍省内に軍用犬調査会くらい設置しなければならぬ、などと、本日付の『東京朝日新聞』に掲載された記事「犬界色めく 春季展は景気のいゝ予想 軍犬熱満州に劣る」において、記者が提案する。 ☆補足 軍用動物は圧倒的に軍馬が重要で、その次に軍鳩と軍犬が続く。すなわち、軍馬、軍鳩、軍犬の順番で価値がある。軍馬の重要性については物資輸送や騎馬戦闘に用いられるので言うまでもないが、軍鳩と軍犬の差が分かりにくい。 上記の朝日新聞の記事にあるとおり、軍用犬調査委員会が存在しなかったのは、軍犬の重要性が軍鳩より低かったからだ。実際、軍用犬調査委員会は、とうとう設置されず、軍犬と軍鳩の数を比べても軍鳩の方がはるかに多い。 匪賊討伐を例に取ると分かりやすいが、軍犬がなくてもそれほど困らないが、軍鳩を携行していないと討伐隊が匪賊に包囲された際に、その危急を本隊に知らせるすべがない。通信設備がほとんど普及していない、広大な大陸の戦場にあって、分散して戦うことの多かった日本軍は、軍鳩を頼みの綱にしていた。有線のない土地では、毎日、軍鳩を使って連絡を取り合う部隊が数多く存在した。 一方、軍犬は、警備や捜索といった限定的な任務に用いられるので、全滅の危機にさらされた一隊が救援を呼ぶときに用いられる軍鳩とは、その切実の度合いが異なった。 南支戦線の鳩兵・安中友一は、軍鳩の活躍によって全滅を免れた一隊があることを手紙の中で説明した後、以下のように、軍鳩の重要性について述べる(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十六年七月号〕より引用)
参考文献 『東京朝日新聞』(昭和九年三月九日付) 東京朝日新聞社 『日本鳩時報』(昭和十六年七月号) 大日本軍用鳩協会 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、三一二羽。 呉防備隊、六十四羽。 佐世保防備隊、一〇三羽。 舞鶴防備隊、八十七羽。 大湊防備隊、八十二羽。 鎮海防備隊、七十羽。 馬公防備隊、八十六羽。 横須賀海軍航空隊、七十二羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、六十二羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023924800、公文備考 昭和9年 Q 通信、交通、気象、時 巻2(防衛省防衛研究所)」 |
関東学生伝書鳩連盟が創立する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年八月号) 愛鳩の友社 |
横須賀防備隊軍鳩実験研究部が『鳩ノ帰巣性ニ就テ 付鳩ノ夜間視力ニ就テ』を出版する(作・石井金蔵) 鳩の帰巣能力に関する仮説、海上放鳩の帰巣成績などについて述べている。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023924900、公文備考 昭和9年 Q 通信、交通、気象、時 巻2(防衛省防衛研究所)」 |
横須賀防備隊軍鳩実験研究部が『強力鳩養成法』を出版する(作・石井金蔵) 目次は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023925000、公文備考 昭和9年 Q 通信、交通、気象、時 巻2(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023924900、公文備考 昭和9年 Q 通信、交通、気象、時 巻2(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023925000、公文備考 昭和9年 Q 通信、交通、気象、時 巻2(防衛省防衛研究所)」 |
吉川晃史が、軍用鳩調査委員の長谷栄二郎中佐から、以下の要請を受ける(『愛鳩の友』〔昭和三十六年二月号〕より引用)
吉川は、軍指導のもとにこれをおこなうと四万円以内でできると試算し、この依頼を引き受ける。千葉県の市川に六棟六十九坪(約二二七平米)の鳩舎を設置し、六〇〇キロ以上訓練済みの鳩二四〇羽を日本中から購買する。そして、これを繁殖させて三〇〇〇羽以上育てて、陸海軍や満州国等に献納する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十六年二月号) 愛鳩の友社 |
名古屋市主催の動物祭に日本伝書鳩協会が後援として協力し、伝書鳩に関する器材や参考品を出品する。 また、名古屋市内のアサヒ醸造会社の移動鳩舎において、鳩の馴致や鳩通信の実況が一般に展示される。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年九月号) 愛鳩の友社 |
一九二三(大正十二)年以来、軍鳩の基礎機関である横須賀防備隊に在って、軍鳩の実験研究に従事してきた石井金蔵特務中尉が、本日付で、横須賀鎮守府(海軍無線所)に転任する。 五月二十三日、石井の送別会が開かれる。 ☆補足 横須賀防備隊『自昭和十九年十二月一日 至昭和十九年十二月三十一日 横須賀防備隊戦時日誌』(横防機密第六十八号ノ一ノ二十三)に、軍鳩主任として石井金蔵大尉の名がある。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023923700、公文備考 昭和9年 Q 通信、交通、気象、時 巻2(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08030384800、昭和19年12月1日~昭和20年1月31日 横須賀防備隊戦時日誌(防衛省防衛研究所)」 『愛鳩の友』(昭和三十三年九月号) 愛鳩の友社 |
日本伝書鳩協会関東支部主催、明石~東京間四六〇キロ競翔が開催される。 午前五時、明石駅前から一五一羽の鳩が東京に向けて放たれる。 午後零時十分、第一着の鳩が帰舎し、以後、続々と後続が帰還する。これは東海道の特急を超える速度である。 なお、審査は、中野の軍用鳩調査委員事務所において、長谷栄二郎中佐以下、理事、審査委員五名により実施され、大河原松風(東部鳩クラブ所属)の愛鳩が一等賞に輝く。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和九年五月二十日付) 東京朝日新聞社 |
東京日日新聞社が優秀鳩一五〇羽を満州国軍政部に発送する。 満州国は、この贈呈を非常に喜び、軍政部はただちに訓練を実施し、討匪あるいは国防の第一線に鳩を利用する。 六月五日、軍政部大臣・張景恵より、東京日日新聞社に感謝状が贈られる。 参考文献 『伝書鳩の話』 東京日日新聞社/東京日日新聞社 大阪毎日新聞社 『「毎日」の3世紀 新聞が見つめた激流130年』(別巻) 毎日新聞社 |
横須賀防備隊軍鳩実験研究部が『夜間鳩養成法研究』を出版する(編纂・石井金蔵) 「第一 研究経過概要」「第二 夜間養成ノ要旨」「第三 夜間活動意志誘起」から構成される。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023925100、公文備考 昭和9年 Q 通信、交通、気象、時 巻2(防衛省防衛研究所)」 |
海軍が『軍鳩実験研究録』を編纂する。 目次は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05034609500、公文備考 昭和10年 Q 通信、交通、気象 巻1(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている。各章を抜粋し、各節以下は省略)
なお、同書の緒言に、以下の記述がある(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05034609500、公文備考 昭和10年 Q 通信、交通、気象 巻1(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている) 。
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05034609500、公文備考 昭和10年 Q 通信、交通、気象 巻1(防衛省防衛研究所)」 |
軍用鳩調査委員が『自大正八年 至昭和八年 調査研究概見表』を調製する。大正八年から昭和八年に至る軍用鳩の調査研究に関して表にまとめたものである。 以下に引用しよう(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『自大正八年 至昭和八年 調査研究概見表』(其一、実施) 軍用鳩調査委員 『自大正八年 至昭和八年 調査研究概見表』(其二、判決) 軍用鳩調査委員 |
今月号の陸軍画報社『陸軍画報』(昭和九年五月号)に載った記事「大使命を果たす軍用鳩」(作・田川潤一郎)によると、中野の軍用鳩調査委員事務所の固定鳩舎は十四棟、移動鳩舎は約二十両、鳩数は約三〇〇〇羽とのことである。 また、関東軍における鳩通信は一年間に二万六千通(一ヶ月平均二千通)だという。 参考文献 『陸軍画報』(昭和九年五月号) 陸軍画報社 |
陸軍省が日本伝書鳩協会の法人化を計画する。陸軍省は定款原稿を協会理事に示し、その賛同を得る。 日本伝書鳩協会が、単なる趣味の団体ではなく、法人組織になれば、陸軍省は直接、同協会を監督下に置ける。日本伝書鳩協会は、より統制の取れた強力な団体に生まれ変わって、有事に備えることとなる。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年九月号) 愛鳩の友社 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 |
大阪時事新報社の主催で、中之島公園において、「鳩に感謝する会」が開催される。 大阪第四師団、大阪好鳩会、大阪南鳩会、学生連盟などが参加する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年九月号) 愛鳩の友社 |
約十年間、中野の軍用鳩調査委員会で鳩研究に当たっていた高畠多一が読売新聞社に入社する。 ☆補足 『愛鳩の友』(昭和三十二年九月号)に掲載された記事「緑蔭鳩談」(作・井崎乙比古)によると、高畠多一は英語が堪能で、真面目一点張りの人だったという。中央普鳩会本部『普鳩』に何度も健筆を振るい、井崎於菟彦の推薦によって読売新聞社鳩班長の職に就いたそうである。井崎が中野にいた頃、高畠はぜんそくの持病で困っていたという。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十二年九月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十三年九月号) 愛鳩の友社 |
軍用鳩調査委員幹事が『移動鳩通信準備訓練法ノ研究実施報告』を出版する。 本書の目次は、以下のとおり(一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
内容としては、五月五日~三十日の計二十六日間、群馬県、栃木県、茨城県で実施した、移動鳩に関する研究をまとめたものである。 本書の「一、計画」の章より、研究の概要を以下に引用しよう(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
続いて、「四、判決」の章の内容は、以下のとおり(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『移動鳩通信準備訓練法ノ研究実施報告』 軍用鳩調査委員常任幹事 |
軍用鳩調査委員会が軍用鳩の補充のために日本伝書鳩協会員から鳩を購買する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年十月号) 愛鳩の友社 |
帝国海軍社『帝国海軍』(昭和九年七月号)が発行される。 同号に、横須賀防備隊軍鳩班の萩原春午郎が特別寄稿した「軍鳩に就いて」という記事が載る。 この記事において、萩原は、以下のように述べる。
萩原の述べるとおり、軍事用の鳩のことを、陸軍では「軍用鳩」、海軍では「軍鳩」と呼称することが多い。しかし、陸海軍の将兵が必ずしもそう呼ぶとは限らず、ときに「軍用鳩」、ときに「軍鳩」、ときに「伝書鳩」と、自由にこれを呼称している。あくまで一般的な傾向として、陸軍では「軍用鳩」、海軍では「軍鳩」と呼ぶことが多かった、ということにすぎない。 ちなみに、軍事用の伝書鳩を取り扱う兵のことを陸海軍とも「鳩兵」というが、陸軍では「鳩取扱兵」の略称が「鳩兵」、海軍では「掌鳩兵」の略称が「鳩兵」となる。「鳩兵」の意味は同じでも、陸軍と海軍では、その略されている元の言葉が異なる。 ほかにも陸海軍の間で、意味は同じなのに名称が異なる言葉がある。「舎外運動」(鳩を鳩舎外に出して飛翔させる)がそうで、海軍ではこれを「舎外飛翔」と呼ぶ。もっとも、この言葉に関しては、陸軍と民間が「舎外運動」と呼んでいるので、海軍の呼び方は、やや特異である。 ☆補足一 軍用に用いられる犬は、「軍犬」と「軍用犬」に分かれる。「軍犬」は軍で飼われている犬、「軍用犬」は民間で飼われている軍用に適した犬をいう。つまり、民間の「軍用犬」が軍に属してはじめて「軍犬」になるのだ。しかし、これは狭義の正確な意味にとどまる。広義の意味では、「軍用犬」といってしまえば、普通は「軍犬」と「軍用犬」を含んだ総称になる。 さて、軍用に用いられる鳩にも、「軍鳩」と「軍用鳩」という呼び方の違いがある。「軍鳩」は軍で飼われている鳩、「軍用鳩」は民間で飼われている軍用に適した鳩をいう。しかし、これも狭義の正確な意味にとどまる。広義の意味では、「軍用鳩」といってしまえば、普通は「軍鳩」と「軍用鳩」を含んだ総称になる。 そして、先に引用した萩原の言葉どおり、陸軍では「軍用鳩」、海軍では「軍鳩」と呼称することが多かった。狭義の正確な意味で、「軍鳩」と「軍用鳩」を使い分けることは、ほぼない。実態としては、ときに「軍用鳩」、ときに「軍鳩」、ときに「伝書鳩」と、陸海軍、民間を問わず、自由にこれを呼称していた。 ☆補足二 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十八年一月号)に掲載された記事「軍用鳩の飼ひ方 此の戦場には北国の鳩が必要」に、以下の記述がある。
狭義の正確な意味で、「軍鳩」と「軍用鳩」の違いを述べている。 注目すべきは、「この頃ではもう伝書鳩といはず軍馬、軍犬と同じ様に軍鳩とか軍用鳩といつてゐるのです」との一文である。 戦争が苛烈になってくると、時局柄、「伝書鳩」のことを「軍用鳩」と言い換えるのがポピュラーになる。 一九三九(昭和十四)年十月二十八日、日本伝書鳩協会はその組織名を大日本軍用鳩協会に改めるが、この出来事は当時の風潮をよく表している。 ☆補足三 鳩は兵器である。 ただし、一般的な兵器の取り扱いとは様相が異なっていたらしい。 大関しゅん『鳩とともに ある鳩取扱兵の物語』によると、鳩は兵器になっているが、兵器委員の管轄に属しておらず、また通信係将校の管理でもなかったという。鳩班は軍犬班とともに管轄は不明だが、特別な管理を受けていたとのことである。 参考文献 『帝国海軍』(昭和九年七月号) 帝国海軍社 『帝国海軍』(昭和九年十月号) 帝国海軍社 『日本鳩時報』(昭和十八年一月号) 大日本軍用鳩協会 『鳩とともに ある鳩取扱兵の物語』 大関しゅん/銀河書房 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、四六九羽。 呉防備隊、九十三羽。 佐世保防備隊、一三〇羽。 舞鶴防備隊、一〇四羽。 大湊防備隊、七十七羽。 鎮海防備隊、九十二羽。 馬公防備隊、六十七羽。 横須賀海軍航空隊、一一七羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、九十五羽。 上海海軍特別陸戦隊、二一〇羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023924500、公文備考 昭和9年 Q 通信、交通、気象、時 巻2(防衛省防衛研究所)」 |
軍用鳩調査委員会の竹下憲輔一等獣医が鳩病の研究のため、北海道帝国大学の小熊 捍博士の研究室を訪ねる。 ☆補足 竹下の北海道訪問時、現地の愛鳩家らが札幌公会堂において歓迎茶話会を開き、皆で記念写真に納まる。 参考文献 『北国の鳩界』 佐々木 勇 |
本日に出版された東京日日新聞社『伝書鳩の話』によると、欧米諸国の伝書鳩数は約二〇〇〇万羽と称せられているという。 主要国の鳩数は、以下のとおり。 ベルギー 一〇〇〇万羽 フランス 二〇〇万羽 イギリス 二〇〇万羽 ドイツ 一〇〇万羽 アメリカ 五十万羽 なお、日本の鳩数は約四万二一〇〇羽と称されていて、その内訳は、陸軍が約一万二八〇〇羽(内三〇〇〇羽ほどが中野軍用鳩調査委員会鳩舎飼養)、海軍が約一二〇〇羽、学校その他官公署が約一三〇〇羽、新聞社が約二三〇〇羽、民間が二万四五〇〇羽である。 ☆補足 この年、アメリカの鳩雑誌が世界各国の鳩飼育者数を発表している。 同誌によると、ベルギーが三十五万人、イギリスが三十万人、フランスが三万五〇〇〇人、オランダが二万人、ドイツが一万人、スイスが一万人、イタリアが八〇〇〇人、ポルトガルが三〇〇〇人、日本が一三〇〇人だという。 また、上記主要国以外の鳩飼育者数を合わせると、全世界の愛鳩家人口は八十万人以上に及ぶそうである。 参考文献 『伝書鳩の話』 東京日日新聞社/東京日日新聞社 大阪毎日新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十三年十月号) 愛鳩の友社 『伝書鳩の研究』 江浪半造 |
軍用鳩調査委員会の常任幹事・竹下憲輔一等獣医は、このたび関東軍獣医部付となり、本日の午後八時二十五分、東京駅を出発する。竹下は一九二五(大正十四)年、軍用鳩調査委員会に配属され、陸軍獣医学校の教官も兼任し、軍用鳩の研究をおこなってきた。生理、解剖、繁殖、伝染病など講究し、先年、鳩ジフテリアのワクチンを作り出して多くの病鳩を救う。最近では致死率九割のトリコモナスの病原を発見している。 ☆補足一 『東京朝日新聞』(昭和九年八月二日付)に載った予定に従って上記の内容や日付を記す。したがって、予定に変更が生じていたら、出来事や日付が現実と異なっているかもしれない。 ☆補足二 竹下憲輔は医学面から日本鳩界に貢献した人物で軍用鳩に関する論文をいくつか残している(陸軍獣医団『陸軍獣医団報』各号参照) なお、佐々木 勇『北国の鳩界』によると、竹下は関東軍付として新京に赴任し、花房に改姓したという。竹下が婿入りして花房に改姓したことは他書にも載っているが、この記述を踏まえると、花房への改姓は一九三四(昭和九)年頃の出来事だったようである(竹下憲輔 → 花房憲輔) 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和九年八月二日付) 東京朝日新聞社 『北国の鳩界』 佐々木 勇 |
横浜鳩の会の主催で「伝書鳩展覧会」が開催される(陸軍省、海軍省、日本伝書鳩協会後援) この「伝書鳩展覧会」は二会場に分かれていて、第一会場が横浜市伊勢佐木町の松屋デパート、第二会場が寿屋デパートである。 また、伝書鳩品評会も併せて実施し、軍用鳩調査委員と日本伝書鳩協会の役員が審査に当たる。 ☆補足 上記の一文は、小野内泰治『日本鳩界史年表』(6)をもとに記す。鳩の展覧会が一日だけで終了するとは思えないので、この八月三十日が初日だったように思われる。開催期間は不明。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年十月号) 愛鳩の友社 |
軍用鳩調査委員が『野戦鳩隊勤務令案』を出版する。本書は軍事機密に当たり、表紙に「秘」の一字がある。 冒頭、本勤務令案の立案の要旨が以下のように載っている(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、空行を入れたりしている)
本勤務令案の目次は、以下のとおり(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『野戦鳩隊勤務令案』 軍用鳩調査委員 |
室戸台風が発生し、京阪神地方に甚大な水害をもたらす(死者・行方不明者三〇三六名) この災害時、大阪の愛鳩家が鳩を総動員して通信連絡に当たる。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年十月号) 愛鳩の友社 |
横須賀防備隊が『厳島艦上鳩舎研究実施経過報告』をまとめる。 これは、敷設艦・厳島が南洋方面において、本年四月十六日~八月二十三日まで実施した軍鳩研究の記録である。 場所が南洋とあって、蚊に対する注意喚起が繰り返されている。また、鳩にヤシの実の汁やコブラの肉を与えたら喜んだという記述があるところが珍しい。 敷設艦・厳島は、小型の艦上鳩舎を備え、軍鳩数は約二十羽で、兵一名が係員として従事する。 研究項目は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023925300、公文備考 昭和9年 Q 通信、交通、気象、時 巻2(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023925300、公文備考 昭和9年 Q 通信、交通、気象、時 巻2(防衛省防衛研究所)」 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、三七四羽。 呉防備隊、七十六羽。 佐世保防備隊、一一五羽。 舞鶴防備隊、九十八羽。 大湊防備隊、七十七羽。 鎮海防備隊、一一四羽。 馬公防備隊、七十四羽。 横須賀海軍航空隊、一〇六羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、一〇九羽。 上海海軍特別陸戦隊、一八二羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023923900、公文備考 昭和9年 Q 通信、交通、気象、時 巻2(防衛省防衛研究所)」 |
本年の三月二十一日に発生した函館大火において、無電通信連絡の欠点が明らかになる。 そこで、北海道庁警察部は、伝書鳩を補助通信機関として採用することに決し、その後、警務課に鳩舎を設置する。 ☆補足 佐々木 勇『北国の鳩界』によると、上記の出来事と時を同じくして、今日まで漁業上の実用通信に貢献してきた北海道庁水産試験場が伝書鳩に見切りをつけて伝書鳩飼育を全廃したという。 著者の佐々木はこれを嘆き、本書において、以下のように述べている。
参考文献 『北国の鳩界』 佐々木 勇 |
東京愛鳩会主催、佐渡~東京間三〇〇キロ競翔が開催される。 午前七時、佐渡から八十八羽の鳩が東京に向けて放たれる。 第一着の鳩は午後零時十五分に帰舎し、午後五時までに二十三羽が帰還する。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和九年十月二十日付) 東京朝日新聞社 |
満州国軍の特別演習に鴿通信班が参加する。鴿班は、将校以下七名、鴿車一両、鴿三十羽からなる分隊を二個編成し、阜豊山および南嶺の二地点に鴿通信所を開設する(指導官・井崎於菟彦少佐) 十月十五日の観兵式には寛城子の鴿舎鴿三〇〇羽を合して西公園前で一斉放鴿する。 ☆補足 軍政部鴿育成所『康徳元年度 特別演習鴿通信班参加計画』の記述に従って上記の内容や日程を記す。あくまで、計画なので、予定に変更が生じていたら、出来事や日程が現実と異なっているかもしれない。 参考文献 『康徳元年度 特別演習鴿通信班参加計画』 軍政部鴿育成所 |
陸軍省恩賞課が、功績のあった軍用動物に対する甲功章の授与を発表する。 軍用鳩では、軍用鳩二七一号以下の関東軍の鳩十二羽と、第八師団の鳩四羽が表彰される。 参考文献 『読売新聞』(昭和九年十月十六日付) 読売新聞社 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、四〇三羽。 呉防備隊、七十四羽。 佐世保防備隊、一一〇羽。 舞鶴防備隊、九十五羽。 大湊防備隊、六十一羽。 鎮海防備隊、一一一羽。 馬公防備隊、六十七羽。 横須賀海軍航空隊、一〇四羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、一〇六羽。 上海海軍特別陸戦隊、一七〇羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023923900、公文備考 昭和9年 Q 通信、交通、気象、時 巻2(防衛省防衛研究所)」 |
軍用鳩調査委員事務所において、日本伝書鳩協会が第五回総会を開催する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年十月号) 愛鳩の友社 |
高崎、前橋両鳩の会主催、関東愛鳩家懇親会が高崎市の料亭「岡源」において開催される。 日本伝書鳩協会会長・徳川義恕男爵、軍用鳩調査委員・田川潤一郎少佐、新井嘉平治理事ら四十七名が出席する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年十月号) 愛鳩の友社 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、三二八羽。 呉防備隊、九十四羽。 佐世保防備隊、一〇五羽。 舞鶴防備隊、八十五羽。 大湊防備隊、六十一羽。 鎮海防備隊、一〇一羽。 馬公防備隊、六十三羽。 横須賀海軍航空隊、九十九羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、九十三羽。 上海海軍特別陸戦隊、一六四羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023924000、公文備考 昭和9年 Q 通信、交通、気象、時 巻2(防衛省防衛研究所)」 |
関東平野で挙行された陸軍特別大演習に日本伝書鳩協会が協力し、栃木県、埼玉県、群馬県の伝書鳩三〇〇羽を動員する。 ☆補足 十一月十七日、陸軍特別大演習の統監のため、昭和天皇が北関東にやってくる。その昭和天皇を乗せた車の通過時、日本伝書鳩協会所属の二十一クラブが伝書鳩の一斉放鳩をおこなう。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年十月号) 愛鳩の友社 |
日本伝書鳩協会は十一月の総会において組織の法人化を決定する。軍用鳩調査委員の長谷栄二郎中佐が定款原稿を提出し、その趣旨を説明する。 ちなみに、この法人化の意向は、本年の五月、軍用鳩調査委員会から日本伝書鳩協会側に交渉がある。 ☆補足 ただし、種々の事情から、日本伝書鳩協会の法人化は、一九三八(昭和十三)年にずれ込む。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年九月号) 愛鳩の友社 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 |
京都府警察が鳩班を設立し、犯罪捜査に伝書鳩を用いるようになる。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年十一月号) 愛鳩の友社 |
鳩の人工育雛に関しては、諸外国が興味を示している。 例えば、一八九九(明治三十二)年、ベルギーにおいて、人工孵卵と人工育雛の可能・不可能について、雑誌や新聞で議論されている。 結論としては、ベルギーをはじめ各国とも不可能事とされてきた。しかし、今回、中野の軍用鳩調査委員会の雇員・鈴木新作が人工育雛を成功させる。 親鳩が素嚢乳を口移しで雛に与えるのに倣って、鈴木も、すり餌を口移しで雛に与える。 軍用鳩調査委員会の係員たちは、今後の課題として、素嚢乳の科学的分析と大量の人工育雛を挙げている。 以上、同日付の『東京朝日新聞』の記事より。 ☆補足 素嚢乳については、乳糜、鳩乳、ピジョンミルクなど、いくつか呼び方がある。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和九年十二月九日付) 東京朝日新聞社 |
巣鴨刑務所で飼われている鳩が府中刑務所との往復通信に成功し、一日に八往復もする。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年十一月号) 愛鳩の友社 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、二七五羽。 呉防備隊、九十四羽。 佐世保防備隊、八十六羽。 舞鶴防備隊、八十二羽。 大湊防備隊、六十一羽。 鎮海防備隊、九十六羽。 馬公防備隊、八十二羽。 横須賀海軍航空隊、一〇〇羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、六十七羽。 上海海軍特別陸戦隊、一五八羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05023924200、公文備考 昭和9年 Q 通信、交通、気象、時 巻2(防衛省防衛研究所)」 |
現時点での日本陸軍の鳩数、一万三二八一羽(軍用鳩調査委員会調査) 内訳は、以下のとおり。 軍用鳩調査委員会 二五二〇羽 近衛師団 三三五羽 第一師団 一三二羽 第二師団 一六四羽 第三師団 四三三羽 第四師団 二一五羽 第五師団 二三八羽 第六師団 二八二羽 第七師団 一一一羽 第八師団 二六〇羽 第九師団 三五三羽 第十師団 六十羽 第十一師団 二四六羽 第十二師団 五九七羽 第十四師団 三〇四羽 第十六師団 二五六羽 第十九師団 一一八六羽 第二十師団 六七三羽 朝鮮軍 一〇六羽 台湾軍 二八九羽 関東軍 三三五三羽 支那駐屯軍 三七一羽 運輸部 八十羽 獣医学校 一一〇羽 教育総監部(学校) 四〇七羽 航空本部(飛行学校) 二〇〇羽 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01006696800、永存書類乙集 第2類 第4冊 昭和10年(防衛省防衛研究所)」 |
一九三四(昭和九)年の日本の鳩数、七万一三七九羽(内閣資源局調査) 内訳は、陸海軍官公署が一万六五九六羽、諸学校が一七八一羽、民間団体が四万九四一一羽、新聞通信社が三五九一羽。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十四年二月号) 日本伝書鳩協会 |
軍用鳩調査委員の竹下憲輔獣医が『軍用鳩ノ伝染病ニ就テ』を出版する。 前書きは、以下のとおり(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
目次は、以下のとおり(一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足 本書に著者名と出版年は記されていない。しかし、その内容から、著者は竹下憲輔獣医で、昭和一桁頃の発行と思われる。 参考文献 『軍用鳩ノ伝染病ニ就テ』 竹下憲輔 |
軍用鳩調査委員会の神沢謙三一等獣医、朝日新聞社の記者、案内人などの一行が富士山頂に至り、午後一時十五分、十一羽の鳩(中野電信隊六羽、朝日新聞社五羽)を東京に向けて試験放鳩する。 この放鳩前、当試験のことを聞きつけて富士にやってきた朝日新聞社の記者が、吉田口の旅舎で神沢に質問する。 神沢は、以下のように答える(『東京朝日新聞』〔昭和九年十二月三十一日付〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
一月三日午前零時近く、富士山頂での放鳩試験を終えて、中野の自宅に帰ってきた神沢は、以下のように語る(『東京朝日新聞』〔昭和十年一月三日付〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
なお、富士山頂から放鳩された十一羽のうち半数ほどが当日中に帰還できたようである。 ☆補足 その後、神沢は試験の報告書をまとめている。 それによると、鳩は急激な寒気に遭っても零下十四度まではほとんど体力に影響を及ぼさず、目標の明瞭でない白皚々の雪中でも、一万二〇〇〇尺の高所からでも、帰巣能力に問題ないという。そして、高空の飛行機上からの放鳩、または急に極寒地に鳩を運搬する場合などでも、大体、実用に支障ないそうである。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和九年十二月三十一日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十年一月一日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十年一月三日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十年一月二十四日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十年二月九日付) 東京朝日新聞社 |
午後一時~午後二時まで、横須賀鎮守府管下で観兵式がおこなわれる。 陸戦隊、予備艦船の統隊、無銃隊、特科隊の戦車・装甲自動車、軍鳩など二六〇〇名、ほかに横須賀海軍航空隊、霞ヶ浦海軍航空隊、館山海軍航空隊の空陸機多数が参加する。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十年一月十九日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
朝日新聞社航空部の飯沼正明と、同社写真部の森田写真班員の二名が、川崎式複葉通信機A-6(A-6型通信機。飛行機)に乗り込み、富士山の上空を飛行する。機体には、放鳩高度の最高記録を塗り替えるために、五羽の伝書鳩を積んでいる(高度五〇〇〇メートルが現在までの最高記録。海軍が達成) やがて、高度五〇〇〇メートルに達すると、五羽の伝書鳩を機上から放つ。極寒の高度五〇〇〇メートルからの放鳩とあって、当日帰舎は一羽もなかったが、翌日に二羽、翌々日に三羽が帰ってくる。 翌月の十九日、選抜した三羽の伝書鳩をA-6に積んで、再度、記録更新に挑戦する。今度は、高度六七〇〇メートルから三羽の鳩を空に放つ。 飯沼は着陸後、朝日新聞社に電話する。三羽中二羽がすでに鳩舎に帰っていて豆を食べているとの返答だった。 こうして、放鳩高度の最高記録が更新される。 参考文献 『世紀の鳥人飯沼正明』 伊藤松雄/婦女界社 |
大阪好鳩会同人が発起人となり、大日本伝書鳩研究会が創立される。 優秀鳩を買い上げて繁殖させ、分譲したという。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年十一月号) 愛鳩の友社 |
先月に実施された神沢謙三一等獣医による富士山頂からの放鳩試験について、軍用鳩調査委員長の永田鉄山少将は、この種の研究の重要性を痛感し、神沢に第二回目の試験を決行させる。 本試験に臨む神沢は、現地で以下のように語っている(『東京朝日新聞』〔昭和十年二月二日付〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
そうして、この日、富士山の頂上に至った神沢が十六羽の軍用鳩を中野に向けて放つ。夕方までに半数ほどが帰舎する。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十年一月二十四日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十年二月二日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十年二月九日付) 東京朝日新聞社 |
工部局警察(国民党当局)が朱鏡我および田漢ら二十六名の左翼を逮捕する。その際、逮捕者の家宅で押収した文献の中に『秘密交通学概要』というのが見つかる。 この『秘密交通学概要』は、党機関または党員間の秘密の連絡法について述べている。 伝書鳩通信に関する内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13010107300、秘密交通学概要(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13010106900、秘密交通学概要(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13010107300、秘密交通学概要(防衛省防衛研究所)」 |
高畠多一が『伝書鳩』を出版する。大日本軍用鳩協会『軍用鳩』(昭和十九年九月号)に載った記事「軍鳩の参考書」(作・山本直文)において、同書は、こう評されている。
参考文献 『伝書鳩』 高畠多一/中央普鳩会 『軍用鳩』(昭和十九年九月号) 大日本軍用鳩協会 |
同日付の『読売新聞』(昭和十年三月十日付)に、「血の伝書鳩」という記事が載る。 内容は、以下のとおり。 第九師団の演習に参加した軍用鳩六三三号が、通信文を運んでいる途中、猛禽類に襲われる。 腹部に、長さ八センチ、幅三センチほどの爪傷を負って、そこから肉がはみ出す。しかし、軍用鳩六三三号は、重傷を負いながらも鳩舎に帰り着いて、通信文を届ける。 ちなみに、この軍用鳩六三三号は、第一次上海事変で活躍した殊勲鳩として知られている。 参考文献 『読売新聞』(昭和十年三月十日付) 読売新聞社 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、三〇八羽。 呉防備隊、九十九羽。 佐世保防備隊、九十八羽。 舞鶴防備隊、一〇〇羽。 大湊防備隊、九十一羽。 鎮海防備隊、九十三羽。 馬公防備隊、七十三羽。 横須賀海軍航空隊、一二一羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、八十七羽。 上海海軍特別陸戦隊、一七三羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05034610200、公文備考 昭和10年 Q 通信、交通、気象 巻1(防衛省防衛研究所)」 |
海軍航空本部『海軍航空沿革史』の「第二十六章 軍鳩ノ実験研究」によると、一九三五(昭和十)年三月現在までの海軍軍鳩研究は三期に分かれるという。 その区分けは、以下のとおり(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
さて、この実用第二期が今月で終了するが、この期間について、同書に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
実用第二期末の軍鳩通信能力について、同書に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
同書に載っている「軍鳩使用状況一覧表」(表内の数字は鳩数)は、以下のとおり(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
(備考) 右のほか、正規外に飼育せる庁あるも省略す 参考文献 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 |
陸軍省副官が陸軍運輸部長宛てに、「軍用鳩海上訓練ニ関スル件通牒」(陸普第二〇七一号)を通牒する。 内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01006695800、永存書類乙集 第2類 第4冊 昭和10年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めている)
☆補足 以前に陸軍運輸部は、上陸作戦に関する鳩通信の価値は僅少で、また予算のやり繰りの関係からこの研究を廃止したい、などと上申している(一九三〇〔昭和五〕年十一月)。この上申は通ったようだが、今回の通牒を見ると、改めて同様の研究を軍用鳩調査委員会が実施するらしい。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01006695800、永存書類乙集 第2類 第4冊 昭和10年(防衛省防衛研究所)」 |
新聞記者、小説家、愛鳩家として知られる永代静雄が、『普鳩』という鳩雑誌を創刊する(第一号)。『普鳩』は一九四三(昭和十八)年十二月号まで計一〇三号を発行し、部数は一号につき一〇〇〇部~一一〇〇部だった。 赤字雑誌だったが、永代が機転を利かせて誌上で鳩の分譲をおこない、その売り上げで赤字分を補填する。しかし、今ではよくあるこの商法に反感を覚える者がいて、『普鳩』は永代が鳩を売るために発行している機関誌なのだから買うな、との非難があったという。 『普鳩』は、鳩兵が愛読していて、中支あたりでは一冊の『普鳩』を二十人以上が回し読みしていたといわれている。 ☆補足一 『普鳩』が廃刊になった翌年(一九四四〔昭和十九〕年八月十日)に永代静雄は病死している。 ちなみに、『普鳩』が廃刊に追い込まれたのは、永代のそうした健康問題に加えて、戦時下での用紙の割当や配給などの影響により、物理的に雑誌が発行できなくなったからだといわれている。 ☆補足二 関口竜雄『鳩と共に七十年』に、
との記述がある。しかし、戦前戦中に鳩雑誌はいくつか出版されており、これを『普鳩』が創刊された昭和十年に限定しても、『ピジョン・タイムス』や『日本伝書鳩新報』がすでに存在している(『ピジョン・タイムス』と『日本伝書鳩新報』は新聞の体裁だが、ともに月刊で筆者〔私〕は雑誌の色合いが濃いと考えている) 関口の主張は勘違いのように思われるが、『普鳩』の昭和十八年八月号の表紙に「大東亜唯一の鳩雑誌」との宣伝文句がうたわれている。 関口はこの文句をそのまま信じて(信じた振りをして)述べたようにも考えられる。 または、狭義の意味で、機関誌と雑誌を区別し、純粋な雑誌としては『普鳩』しか存在しない、ということなのだろうか。 同号に掲載された記事「鳩も百まで」(作・永代静雄)に、
との記述がある。 しかし、その『普鳩』にしても中央普鳩会の機関誌といってよく、厳密な意味での研究雑誌との主張はしっくりこない。また、専門的、分類的との定義も不明瞭で、『普鳩』のライバル誌だった『軍用鳩』(『日本伝書鳩新報』 → 『日本鳩時報』 → 『軍用鳩』の順で改題)と何が違うのか判然としない。当時の人が言うほど、『普鳩』が特徴的であったとは、どうしても思えない。 ちなみに、『普鳩』と『軍用鳩』は判型が同じなので、筆者(私)の本棚に、これがきれいに並んでいる。 『普鳩』関係者の主張する「唯一の鳩雑誌」の意味が、筆者(私)にはよく分からない。 ☆補足三 中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十七年一月号)によると、永代静雄の主宰する中央普鳩会には、普鳩専門委員会分科会が設けられているという。 鳩学部、鳩術部、鳩事部に分かれ、それぞれ、顧問、部長、副部長、主査、委員を置いている。中央普鳩会本部は、顧問、本部、名鳩薦彰会に分かれ、本部には会長と顧問、名鳩薦彰会には総裁、顧問、会長、副会長、中央査定委員長、東部審査委員長、中部審査委員長、西部審査委員長を置いている。 参考文献 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 『愛鳩の友』(昭和五十年七月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(平成十五年十二月号) 愛鳩の友社 『普鳩』(昭和十八年八月号) 中央普鳩会本部 『普鳩』(昭和十七年一月号) 中央普鳩会本部 『普鳩』(昭和十八年二月号) 中央普鳩会本部 |
午前六時二分、台湾中部(新竹州南部関刀山付近)を震源とするM7.1の新竹―台中地震が発生する。死者三二七九名、重軽傷者一万一九七六名、家屋全壊一万七九二七戸、家屋半壊一万一四四六戸の被害を出し、交通・通信機関がまひする。 当時、台湾に赴任していた田川潤一郎少佐の手記が残っている。 以下に紹介しよう(『愛鳩の友』〔昭和三十七年十月号〕より引用。台北楽鳩会の廖桂樹の名字が「瘳」となっているが誤り。修正済み)
参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十七年十月号) 「1935年台湾新竹-台中地震における地震記念碑 ――新竹州と台中州の違いについて――」 塩川太郎 https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/OS/0041/OS00410L001.pdf |
北白川宮永久王が、徳川義恕男爵(日本伝書鳩協会会長)の次女・徳川祥子と祝言を挙げる。 ☆補足 日本伝書鳩協会の幹部が大喜びし、国王や元首が鳩団体を統帥する諸外国の例に倣って、北白川宮永久王を同協会の総裁に迎えようとの儀が起こる。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十二年五月号) 愛鳩の友社 |
最近、フランスの陸軍省と海軍省が共同でナント市近郊のバス・ランドから伝書鳩二〇〇羽を放鳩する。あらかじめ、このバス・ランドの実験場には電波を放射していて、鳩にいかなる影響があるのか観測する。一説に、伝書鳩は雷雨の渦中に入ると方向が分からなくなるといわれていて、その真偽を確かめてみようという試みである。 さて、そうして空に放たれた二〇〇羽の伝書鳩だったが、ナント市に向かって飛んでいこうとした鳩のいずれもが出発点に戻ってきて電線の上をグルグルと飛翔する。いかにも帰る方向が分からないといった感じである。そこで、フランス愛鳩家連盟のヴァランという人物が電気のスイッチを切ると、今まで迷っていた鳩たちが一斉にナント市に向けて飛んでいく。 この実験結果を踏まえると、伝書鳩は雷雨の渦中に入ると方向が分からなくなる、との見方は正しいということになる。 以上、同日付の『東京朝日新聞』の記事より。 ☆補足 アメリカ海軍鳩舎(ニュージャージー州レイクハースト)付のジョージ・ワトソン大尉が、以下のように述べている(中央普鳩会本部『普鳩』〔昭和十八年九月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十年五月十三日付) 東京朝日新聞社 『普鳩』(昭和十八年九月号) 中央普鳩会本部 |
海軍が長江方面派遣艦船に鳩舎の搭載を試みる。 参考文献 『海軍航空沿革史』 海軍航空本部 『日本海軍航空史 (3)制度・技術篇』 時事通信社 |
恒例の「動物愛護週間」が五月二十八日~六月三日まで開催される(日本人道会主催) そのうち、五月三十日が「伝書鳩の日」に指定される。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十年五月二十八日付) 東京朝日新聞社 |
この日、フランスの豪華客船ノルマンディー号がニューヨークに入港する。 ノルマンディー号は、五月二十九日にル・アーヴル港を出て処女航海に就航して以来、わずか四日と三時間三分の快速で米仏を横断する。当時、この記録は快挙で、ブルーリボン賞に輝く。 なお、各新聞・通信社は、ノルマンディー号の速報戦に全精力を傾けるが、新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストの『ニューヨーク・イブニング・ジャーナル』紙が七十五羽の伝書鳩を使って勝利を収める。この伝書鳩が各社に先駆けて、ノルマンディー号のニューヨーク訪問時の写真を運んだのである。 今年のはじめ、ハースト系紙が読売新聞社の伝書鳩使用に着目し、ニュースや写真の輸送法や訓練法について伝授を乞う旨の申し入れをしていて、読売新聞社の伝書鳩班がいろいろと便宜を図っていた。 アメリカの新聞専門誌である『エディター・アンド・パブリッシャー』は、以下のように述べている(『読売新聞』〔昭和十年七月二日付〕より引用)
ちなみに、アメリカでは、軍事や娯楽などに鳩を利用することはあっても、通信用途としてはあまり利用されていなかった。 民間の新聞社は、電送写真、飛行機、自動車などを利用するのが主で、原始的な伝書鳩通信を問題にしていなかったのである。 今回、伝書鳩がその意表を突いたといえる。 参考文献 『読売新聞』(昭和十年七月二日付) 読売新聞社 『読売新聞』(昭和十年七月二十一日付。夕刊) 読売新聞社 『愛鳩の友社』(昭和三十三年六月号) 愛鳩の友社 |
日本伝書鳩協会、東京朝日新聞社主催、室蘭~東京間九〇〇キロ競翔(鉄道距離。直線距離では七二〇キロほど)が開催される(陸軍省、海軍省、鉄道省、逓信省、資源局後援) この日の早暁、一二七羽の鳩が軍用鳩調査委員・八木 勇大尉の号令により、室蘭から東京に向けて一斉に放たれる。 当日帰還は一羽もなかったが、六月八日の朝六時頃から続々と帰ってきて、夕刻までに四十八羽の鳩が帰舎する。 なお、本競翔の審査委員は、以下のとおり(陸軍、海軍、日本伝書鳩協会、東京朝日新聞社の順番で紹介) 審査委員長――陸軍通信学校長・中島完一少将。 審査委員――軍用鳩調査委員会高級幹事・長谷栄二郎大佐、陸軍省防備課・田山文治少佐、軍用鳩調査委員会・八木 勇大尉、角田春三大尉、海軍省軍務局・太田泰次大佐、同・御船伝蔵少佐、横須賀防備隊・諸岡安一大尉、同・服部健一特務中尉、資源局総務部施設課長・久保喜六、日本伝書鳩協会理事・師岡昌徳、同・新井嘉平治、同・並木安一、東京朝日新聞社通信部長・木村 東、同計画課長・庄崎俊夫、同庶務課長・広瀬為治郎。 ☆補足 六月十二日午後二時~午後三時、朝日新聞本社七階新講堂において、本競翔の表彰式が開催される。 競翔参加者や各審査委員などが集い、山中高次郎とその愛鳩に一等賞が授与される(ほかに十等までに朝日賞、日本伝書鳩協会から協会賞、参加者全員に参加章) 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十年六月四日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十年六月五日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十年六月七日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十年六月八日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十年六月八日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十年六月九日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十年六月九日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十年六月十二日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十年六月十三日付) 東京朝日新聞社 |
上田軍鳩会(長野県)の名付け親である長谷栄二郎大佐の進級(中佐 → 大佐)を祝して、同会が祝賀競翔を開催する。 距離一四八キロ、参加八鳩舎、羽数九羽で実施し、中野の軍用鳩調査委員事務所から放鳩する。 一等は恩田鳩舎の雄の灰胡麻(BC) 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十二年七月号) 愛鳩の友社 |
同日付の『読売新聞』に、「匪賊除けに伝書鳩 電信電話は切断されると 満州国から三百羽注文」という記事が載る。 内容は、以下のとおり。 満州では電信電話線が匪賊によって切断されることがある。そこで、電信電話線を用いる費用よりも安く済む伝書鳩に着目し、このたび、満州国鉄路総局は、鉄道沿線の警備連絡に用いる若鳩三〇〇羽の手配を、軍用鳩調査委員会に依頼する。 早速、軍用鳩調査委員会は、日本伝書鳩協会に諮問し、今月の二十三日~二十七日まで、軍用鳩調査委員の八木 勇大尉および角田春三大尉が買上検査官として日本全国の優れた若鳩を一羽五円で買い上げることになった。 ☆補足 八木 勇大尉は、「鳩の系統は器、鳩の訓練は水」との血統重視の考え方を有している。 中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十八年五月号)に、八木の講話の一部が載っている。 以下に引用しよう(一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『読売新聞』(昭和十年六月十六日付) 読売新聞社 『普鳩』(昭和十八年五月号) 中央普鳩会本部 |
現時点での日本の鳩数、六万九三七一羽(内閣資源局調査) 内訳は、陸軍が一万二七六一羽、海軍が一六〇六羽、官公署が二一〇〇羽、学校が六二一羽、民間が四万九四一一羽、新聞社その他が二八七二羽。 ☆補足 上記の鳩数は、内閣資源局『全国伝書鳩飼養状況調査 昭和十年六月末日現在』をもとに算出する。 一方、小野内泰治『日本鳩界史年表』(9)は、これとは別の数値を挙げている。 同年表によると、陸軍が一万二七六一羽、海軍が一六〇六羽、その他諸官庁合計が一万六五九六羽、各学校関係飼育数が一九二七羽、新聞通信関係が三五九一羽、総計七万一三七九羽であるという。 ちなみに、小野内も筆者(私)と同じく、内閣資源局の調査をもとに鳩数を挙げている。それなのに、なぜ鳩数が食い違ってしまうのか、よく分からない。内閣資源局の調査資料が複数存在するのか、または小野内の誤記なのか、いくつかの可能性が考えられる。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05035336400、公文備考 昭和11年 Q 通信、交通、気象時 巻1(防衛省防衛研究所)」 『愛鳩の友』(昭和三十四年二月号) 愛鳩の友社 |
同日付の『東京朝日新聞』に、伝書鳩を採用せよとの三田旭夫(防護団所属)の提言が掲載される。 本年度の防空演習で全電源の断絶が仮想状況に加えられたが、このような非常時の連絡通信に伝書鳩は最も適合している。また、鳩は摂氏四十度、零下三十度で何ら生理障害を認めず、毒ガスに対する抵抗も強く、わずかな訓練で夜間通信も可能で、鳩舎維持の費用もごく低廉であるという。 ☆補足 陸軍省つわもの編集部『陸軍写真帳』に、以下の記述がある(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十年七月十二日付) 東京朝日新聞社 『陸軍写真帳』 陸軍省つわもの編集部/軍人会館出版部 |
陸軍省恩賞課が、満州事変で活躍した軍用動物(軍馬四十八頭、軍犬三頭、軍鳩十二羽)を表彰することに決定し、発表する。 そのうち、歩兵第三十九連隊の軍用鳩一一六一〇号および軍用鳩一三〇四八号が殊勲甲の栄誉に浴す。 ☆補足一 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十八年三月号)に掲載された記事「殊勲の鳩を想ふ」(作・鳩庵)によると、多年の服役の労を嘉して、軍用鳩二五九三号(雄)、軍用鳩一八三三号(雄)、軍用鳩一二九六号(雌)などが表彰されたという。そのうち、丙功章第一号の受章となった軍用鳩二五九三号は、一九二五(大正十四年)年産の老鳩で、十一年にわたって軍用鳩として軍務に服してきたそうである。 ☆補足二 本項の日付は、『読売新聞』(昭和十年七月十八日付。夕刊)の記事をもとに、「七月十七日」と記す。 一方、大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十八年三月号)に掲載された記事「殊勲の鳩を想ふ」(作・鳩庵)には、「七月十六日」に授賞などと載っている。 どちらの記述が正しいのか不明。 参考文献 『読売新聞』(昭和十年七月十八日付。夕刊) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十年七月十八日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『日本鳩時報』(昭和十八年三月号) 大日本軍用鳩協会 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、四二一羽。 呉防備隊、九十四羽。 佐世保防備隊、一二三羽。 舞鶴防備隊、一三六羽。 大湊防備隊、七十九羽。 鎮海防備隊、一五一羽。 馬公防備隊、九十羽。 横須賀海軍航空隊、八十一羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、一〇〇羽。 上海海軍特別陸戦隊、一三七羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05034610300、公文備考 昭和10年 Q 通信、交通、気象 巻1(防衛省防衛研究所)」 |
森岡高等農林学校長が陸軍大臣宛てに、「軍用鳩保管転換ニ関スル件」(森会第一九五号)を照会する。学術研究資料に供する軍用鳩十羽の保管転換を願う。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01006697000、永存書類乙集 第2類 第4冊 昭和10年(防衛省防衛研究所)」 |
陸軍省軍務局長室において、軍務局長および軍用鳩調査委員長の永田鉄山少将が斬殺される(相沢事件) 翌年の五月七日、犯人の相沢三郎中佐に軍法会議で死刑判決が下り、七月三日、銃殺される。 ☆補足 佐藤福治の鉄山号(松風系)という鳩は、この相沢事件にちなんで命名される。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年十二月号) 愛鳩の友社 |
来日中のチャーカットン・トンヤイ(タイ国王の甥)が、松本 興の鳩舎を見学し、鳩飼育を約束する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年十二月号) 愛鳩の友社 |
東海道線の由比~蒲原間が激浪のために上下線とも不通になり、この情報が付された伝書鳩が現場から放たれる。 伝書鳩は二十三キロの距離を二十五分で飛翔し、静岡に知らせる。 参考文献 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 災害及び災害予防(8-104) 大阪時事新報 1936.9.13 (昭和11) |
駐日ベネズエラ総領事・ロドリゲス博士に、十羽の伝書鳩とその飼養法を記した書き物が、朝日新聞社から贈られる。 二週間ほど前、朝日新聞本社を訪れたロドリゲスが舎外運動中の伝書鳩を目にして、こんな実用的なものを本国陸軍で使用することができたらこの上もないだろう、と感想を漏らしたので、朝日新聞社が特別の計らいをする。 この贈り物について、ロドリゲスは、以下のように語る(『東京朝日新聞』〔昭和十年八月二十九日付〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
なお、予定では来月六日、横浜出帆の飛鳥丸で伝書鳩十羽がベネズエラに運ばれることになっている。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十年八月二十九日付) 東京朝日新聞社 |
横須賀海軍航空隊が軍鳩の飼養を廃止する。 ☆補足 詳しい事情は不明だが、無線電信塔の建設により全鳩舎の移転を必要としたことから、横須賀海軍航空隊は飼育庁から除かれたようである。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05034610300、公文備考 昭和10年 Q 通信、交通、気象 巻1(防衛省防衛研究所)」 |
札幌刑務所および旭川支所は、近来、設備外作業として遠隔地に泊込所を設けて受刑者に外役させている。 戒護検束の観点から、この間の通信連絡の必要性を感じているが、設備予算の制限があって充分な運用ができていない。 そこで、札幌刑務所長は陸軍大臣に宛てて、「軍用鳩無償保管転換ノ件」(札幌発第一〇九五号)を提出し、通信連絡用の軍用鳩三十羽の保管転換を願う。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01006697400、永存書類乙集 第2類 第4冊 昭和10年(防衛省防衛研究所)」 |
同日付の『読売新聞』に、「弱国 エチオピアへ同情」という記事が載る。 同記事によると、第二次エチオピア戦争(一九三五年十月三日勃発)の直前、関西の愛鳩家団体である大阪好鳩会は、イタリアよりも科学兵器のうえで、はるかに劣勢なエチオピアを助けるために、伝書鳩一〇〇羽を寄贈することにしたという。そして、その旨を高麗橋(大阪)近くのエチオピア領事館に申し出たそうである。 参考文献 『読売新聞』(昭和十年九月二十九日付。夕刊) 読売新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十四年二月号) 愛鳩の友社 |
軍用鳩調査委員飼料係が『軍用鳩飼料日量表』を出版する。 題名どおり、軍用鳩飼料(白エンドウ、トウモロコシ、玄米、麻の実)の日量を定めている(分離期、繁殖期、訓練期、換羽期、休養期、巣立鳩) 参考文献 『軍用鳩飼料日量表』 軍用鳩調査委員飼料係 |
かねて陸軍が提唱していた学生伝書鳩連盟(後に学生軍用鳩連盟に改称)が発足する。近年、学生の間で伝書鳩の人気が高まり、各校で飼養されているが、その横のつながりを強化するため、本組織が生まれる。 学連の目的事業は、鳩に関する図書の発行、学術的研究講演会、座談会、展覧会、品評会、競翔など、多方面にわたる。 この日の午後二時、九段の軍人会館において結成式がおこなわれ、会場には松田源治文部大臣をはじめとする関係者が招待される。 参加校は、法政、東京農大、慈恵、立教、早稲田、慶応、学習院、昭和医専、東京市立二中、高輪商業、慶応普通部の十一校。本部は中野の軍用鳩調査委員事務所内に置かれる。 ☆補足一 大阪学生愛鳩会『鳩鴿之研究』(第八号)に掲載された記事「盟友学生伝書鳩連盟を紹介す」(作・南方平次郎)に、学生伝書鳩連盟が結成されるまでの沿革が載っている。 それによると、四月頃、鳩団体を有する東京府下の学校に、軍用鳩調査委員事務所(略称・鳩調)から連絡があり、幹事が集合する。この会合が、後の学生伝書鳩連盟の最初の集いになり、以後、数次にわたって幹事会を開き、連盟規約や事務細則草案を作る。その指導は鳩調の角田春三砲兵大尉が当たる。 そうして、十月十七日、軍人会館で学生伝書鳩連盟の結成式がおこなわれるが、当日は角田の肝いりで関係者多数が招かれる。 十一月三日、結成記念として、銚子で競翔を実施する。そして、その後は、試験期間に入ったこともあって、特に大きな変化もなく、翌年の一九三六(昭和十一)年四月を迎える。 ここで学生たちは思いも寄らない事態に見舞われる。鳩調の高級幹事・長谷栄二郎大佐が現役を退き、角田が転任したのだ。今まで鳩調に事務所を置いて幹事会を開いていたが、指導者を失うと断られるようになる。いわば、鳩調から見放される形になり、学生伝書鳩連盟は解散の危機に陥る。しかし、かえってその苦境は、以前より軍部からの一途の指導を喜んでいなかった一部の学生を奮起させ、軍部の指導を受けるだけの受動的な存在から学生の自治による組織に生まれ変わるきっかけになる。 そうして、幹事の中から常任幹事四名を選んで任に当たらせ、その春、四ツ倉で競翔を実施する。また夏に第一回東京中等学校伝書鳩競翔大会を開催する。九月二十七日には初回総会を開き、会長に佐藤 直少将を頂く(小野内泰治『日本鳩界史年表』(10)によると、八月六日、佐藤 直少将を学生伝書鳩連盟の会長に推挙し、大阪ビル地階のレインボーグリルにおいて祝賀会を開いたという。すなわち、内定のうえ、九月二十七日の総会で正式に佐藤を会長に指名したようである) 『愛鳩の友』(昭和三十二年十月号)に掲載された座談会記事「学連当時の思い出 当時の会長佐藤直氏を囲んで」(作・佐藤 直、白杉政健、織田信昭、秋葉泰二、根岸清治、黒川弥太郎、司会・谷内正司)に、以下の記述がある。
文中に、「谷(当時少将)」とあるが、「谷 寿夫」のことだと思われる。そして、「谷 寿夫」だとするならば、当時の階級は中将である。 また、昭和八年に軍隊をやめた、とあるが、『愛鳩の友』(昭和三十六年五月号)に掲載された記事「日本伝書鳩協会会長 佐藤直氏逝去さる」に経緯が載っている。 同記事によると、当時、佐藤は大阪師団の旅団長を務めていたが、管下の連隊にゴーストップ事件が起きたことからその責任を取って予備役編入になったという。 ☆補足二 小野内泰治『日本鳩界史年表(8)』によると、前年に結成された関東学生伝書鳩連盟が、この日、新たに学生伝書鳩連盟として発足したという。 しかし、大阪学生愛鳩会『鳩鴿之研究』(第八号)に掲載された記事「盟友学生伝書鳩連盟を紹介す」(作・南方平次郎)には、以下の記述があり、小野内の説明と合致しない。 詳細不明。
*大阪学生愛鳩会『鳩鴿之研究』(第八号)は、昭和十一年十二月三十一日発行。 参考文献 『読売新聞』(昭和十年十月十五日付。夕刊) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十年十月十五日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『愛鳩の友社』(昭和三十三年十二月号) 愛鳩の友社 『鳩鴿之研究』(第八号) 大阪学生愛鳩会 『愛鳩の友』(昭和三十二年六月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十二年十月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十三年八月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十四年四月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十六年五月号) 愛鳩の友社 |
愛知県岡崎市付近において、野戦鳩隊の運用と鳩通信勤務の研究のため、日本軍が演習をおこなう。この演習には、軍用鳩調査委員会をはじめ、参謀本部、陸軍省、教育総監部、陸軍通信学校、電信第一連隊、近衛輜重兵連隊の各関係者が参加する。 六日間にわたって実施した演習の内容は、後に軍用鳩調査委員が『昭和十年十月於岡崎市付近 野戦鳩隊運用研究演習記事』の題で出版する。 目次は、以下のとおり(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『昭和十年十月於岡崎市付近 野戦鳩隊運用研究演習記事』 軍用鳩調査委員 |
第八回明治神宮体育大会の開会式において、陸海軍、日本伝書鳩協会、学連により、一八〇〇羽の鳩が一斉放鳩される。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年十二月号) 愛鳩の友社 |
高田末吉、芳賀 雄の企画提唱により、財団法人・全日本山岳遭難防止鳩協会が設立される。 営利を離れた社会奉仕的な協会で、海陸遭難防止保護事業を展開するという。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年十二月号) 愛鳩の友社 |
高輪商業学校において、伝書鳩展覧会が開催される。 階下の第一会場に、陸軍の駄載式移動鳩舎を設置し、二階の会場に参考書、通信器材、ポスター、写真などを展示する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年二月号) 愛鳩の友社 |
大阪市の産業能率研究所において、日本伝書鳩協会が第六回の総会を開催する。東京以外の地で総会を開くのは、これがはじめてのことである。 日本伝書鳩協会会長・徳川義恕男爵以下六十三名が出席し、昭和十年度事業報告、会計報告、細則の改正、昭和十一年度競翔の会計予算などを議す。 総会終了後、全国愛鳩家懇親会を開く。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年十二月号) 愛鳩の友社 |
東部国境封鎖ならびに日満軍秋季大討伐において、満州国軍は鴿班を編成し、一野上尉以下十名が吉林省額穆官地に赴き、通信任務を担う。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年六月号) 大日本軍用鳩協会 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、四一三羽。 呉防備隊、九十八羽。 佐世保防備隊、一一一羽。 舞鶴防備隊、八十一羽。 大湊防備隊、六十二羽。 鎮海防備隊、一二一羽。 馬公防備隊、七十羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、一〇五羽。 上海海軍特別陸戦隊、一一四羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05034610300、公文備考 昭和10年 Q 通信、交通、気象 巻1(防衛省防衛研究所)」 |
三田旭夫を中心にして、長野県の大町に中部山岳鳩協会が設立される。 山地遭難救助や連絡用に、陸軍から約一〇〇羽、民間から五十羽の伝書鳩の提供を受ける。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年二月号) 愛鳩の友社 |
海軍の軍鳩術講習始業式において、指導官が以下の訓示をする(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05034610400、公文備考 昭和10年 Q 通信、交通、気象 巻1(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05034610400、公文備考 昭和10年 Q 通信、交通、気象 巻1(防衛省防衛研究所)」 |
永代静雄の中央普鳩会の主催で、銀座の同会事務所において、伝書鳩の交換と即売会が開催される。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年二月号) 愛鳩の友社 |
軍用鳩調査委員高級幹事・長谷栄二郎大佐、前台湾総督府総務長官・木下 信、牛込区在郷軍人会会長・園田保之(元砲兵大佐)、王子製薬所・喜代田光英らが提案者となり、軍用鳩調査委員常任幹事・田川潤一郎中佐の名をもって、社団法人・帝国伝書鳩協会の設立提案声明文が発表される。 内容は、以下のとおり(『愛鳩の友』〔昭和三十四年二月号〕より引用。一部、空行を入れている)
帝国伝書鳩協会の設立に関しては、『愛鳩の友』(昭和五十年一月号)に掲載された記事「――若人にかたる―― 日本鳩界の歴史」(作・小野内泰治。連載第三回)によると、民間の飼育方法はまだまだ生ぬるい、もっと軍隊に協力して強固で国策的な鳩の団体を作るべきではないか、との目的があったという。 また、『愛鳩の友』(昭和三十六年二月号)に掲載された記事「巨星・故吉川晃史氏の生涯を語る」に、以下の記述がある。
軍用鳩調査委員会内に二つの派閥が存在したという。各軍人がどちらの派に所属していたのか詳細は不明だが、帝国伝書鳩協会側に参加した軍人を確認すれば、おおよその当たりはつけられそうである。 なお、帝国伝書鳩協会は東京日日新聞社の後援を受け、一方の日本伝書鳩協会は朝日新聞社の後援を受けていた。『愛鳩の友』(昭和三十七年十月号)に掲載された記事「為我井喜久雄氏を語る」(作・板倉陽之助。「日本鳩界の歯車」〔第五回〕)によると、この後援のもと、華やかな競翔が実施されるようになり、日本鳩界は急激に発展したという。両新聞社は日本鳩界の育ての親であるそうである。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年二月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十六年二月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十七年十月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和五十年一月号) 愛鳩の友社 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 |
軍用鳩調査委員長が陸軍大臣宛てに、「軍用鳩献納ニ関スル件伺」(鳩甲第二十七号)を提出する。 朝香宮孚彦王が軍用鳩を所望している旨、御付武官の山県栗花生歩兵中佐から報告があったので、軍用鳩四羽(ほかに、歩兵籠〔大〕一、水与器〔小〕一)を朝香宮孚彦王に献納したい、との申請である。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01006816900、永存書類乙集 第2類 第4冊 昭和11年(防衛省防衛研究所)」 |
現時点での日本陸軍の鳩数、一万四三〇五羽(軍用鳩調査委員会調査) 内訳は、以下のとおり。 軍用鳩調査委員会 二五三一羽 近衛師団 三五〇羽 第一師団 一六八羽 第二師団 二二四羽 第三師団 四七一羽 第四師団 二六五羽 第五師団 三〇七羽 第六師団 一九七羽 第七師団 一四六羽 第八師団 二三三羽 第九師団 二一〇羽 第十師団 一四二羽 第十一師団 二三一羽 第十二師団 五四三羽 第十四師団 二六一羽 第十六師団 二三二羽 第十九師団 九二三羽 第二十師団 七九五羽 朝鮮軍 七十七羽 台湾軍 四五八羽 関東軍 四三五八羽 支那駐屯軍 四一六羽 運輸部 一五〇羽 獣医学校 八十羽 教育総監部(学校) 三三四羽 航空本部(飛行学校) 二〇三羽 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01006815700、永存書類乙集 第2類 第4冊 昭和11年(防衛省防衛研究所)」 |
軍用鳩調査委員会が『昭和十年改訂 軍用鳩通信術教程草案』を編纂する。 目次は、以下のとおり(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている。各章を抜粋し、各節以下は省略)
昭和五年九月出版の軍用鳩調査委員『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』に比べると、「第三編 通信」「第四編 鳩隊の運用」「写真」など、以前にはあった内容が本教範には収録されていない。 また、用語の呼び方の変更や統一が図られていて、この変化が本教範の一番の特徴といえる。 下記にそうした名称変更の例を一部挙げよう。 鳩舎(はとごや) → 固定鳩舎 鳩車(はとぐるま) → 移動鳩舎 歩兵籠 → 徒歩籠 騎兵籠 → 乗馬籠 鳩舎の名称に関しては、鳩舎も鳩車も同じ音読みで「きゅうしゃ」となり混乱することから以前は「はとごや」「はとぐるま」と呼び方を変えて区別していた。しかし、この『昭和十年改訂 軍用鳩通信術教程草案』では、鳩舎を固定鳩舎、鳩車を移動鳩舎と呼ぶことに統一している。これなら混乱することはない。 兵が背負う鳩籠に関しては、歩兵籠、騎兵籠といっても、実際のところは歩兵や騎兵に限らず、それ以外の兵科の兵がこれを用いることから、兵科に寄り添った名称を廃したものと思われる。徒歩の者が背負う鳩籠を徒歩籠、乗馬する者が背負う鳩籠を乗馬籠として、兵科ではなく、用途に寄り添った名称になる。 ☆補足一 駒原邦一郎『鳩舎の作り方 〔付〕鳩の体の解剖図』によると、移動鳩舎は、分解組立式の鳩舎(車輪なし)と、鳩舎に車輪がついている牽引式に分かれるそうである。前者を移動鳩舎または分解式移動鳩舎、後者を移動鳩車という。 この項で述べた名称変更の話と入り組んでいて、非常に分かりにくいが、例えば、移動鳩舎といった際には、車輪のついてない分解式移動鳩舎や、車輪のついている移動鳩車を含む呼び方ということになる。 鳩車と明確に記していない限り、それが車輪のついている移動鳩舎なのか、車輪のついていない移動鳩舎なのか、はっきりしない。 軍では、こうした混同を避けるためであろうか、本教範において、車輪のついている移動鳩舎を移動鳩舎甲、車輪のついていない移動鳩舎を移動鳩舎乙と呼称するように定めている。 なお、筆者(私)は、この項において、各種の用語の違いを名称変更として扱って説明しているが、その理解の仕方がそもそも誤っている可能性もある。 現状、この件に関して、どういう事情になっているのか、筆者(私)は解明できていない。 ☆補足二 駒原邦一郎『鳩舎の作り方 〔付〕鳩の体の解剖図』によると、二十羽程度以下を収容できる鳩舎を小型鳩舎、それ以上六十羽くらいを収容できる鳩舎を中型鳩舎、六十羽以上一二〇羽くらいを収容できる鳩舎を大型鳩舎と呼ぶ場合があるという。 参考文献 『昭和十年改訂 軍用鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 『鳩舎の作り方 〔付〕鳩の体の解剖図』 駒原邦一郎/愛隆堂 |
日本鳩レース協会『レース鳩』(平成十七年六月号)に掲載された記事「日本のレース鳩の夜明け」によると、この年には現在の放鳩籠が開発されたという。 ☆補足一 具体的な記述がないので詳細は分からないが、鳩籠の上面か、または側面がパカッと開き、籠内の鳩がそこから飛び立ってゆく、いわゆる放鳩籠は、このときまでには存在しなかった、ということを述べているのだろうか。仮にそうだとすると、この「現在の放鳩籠」なるものが存在していなかった当時は、鳩籠に入っている鳩をいったん取り出してから放鳩する、という手順を踏んでいたように考えられる。 それとも、放鳩籠にも種類があり、一九三五(昭和十)年になってようやく「近代的な放鳩籠」が開発されたということを述べているのだろうか。放鳩籠の機構に変遷があるとすれば、その可能性も考えられる。ただし、どのような変遷があったのか分からないし、便宜上、筆者(私)が今述べた「近代的な放鳩籠」なるものも意味不明である。 以上の考察を経たうえで、『レース鳩』誌の編集部に、この件について問い合わせてみた(二〇二〇〔令和元年〕年四月十六日。返答は同月二十七日) 『レース鳩』誌の担当者いわく、放鳩籠がどのように進化していったか詳しい情報はなく、同記事を執筆した者も現在は在籍していないが、以下のように考えてよいという。
差し当たって、現在の日本鳩界で使用されている放鳩籠は、一九三五(昭和十)年に形状が定まったようである。ただし、それ以前の放鳩籠がどのような形状であったのか分からないそうである。 一方、『愛鳩の友』(昭和三十一年十月号)に掲載された記事「ものがたり日本鳩界史」(一、日本鳩界の夜明)に、以下の記述がある。
*「藤」とある誤植を「籐」に修正済み。 この一文によると、前述した『レース鳩』誌の記事や同誌編集部の担当者の意見とは異なり、大正の末期に現在の形の放鳩籠が登場していたようである。 これは一体、どう受け止めたらよいのだろう。 大正の末期に登場した現在見られるような放鳩籠に、一九三五(昭和十)年、さらに変更が加わったということだろうか。そう仮定すれば、一応、整合性は取れる。しかし、無理やり、解釈しているように思えて、しっくりこない。 ちなみに、大正の末期に登場したという、この放鳩籠が存在していなかった当時、愛鳩家の西村秀三によると、四国辺りから送ってくる鰹節の空籠に、木摺りでふたをこしらえ、そこに八羽くらいの鳩を入れて放鳩に出かけたそうである。しかし、輸送途中、木摺りの一本が折れて鳩が逃げ出すことがあり、非常に困ったという。後に、名古屋からニワトリを入れて送ってくる箱がよいということで、それを使ったそうである。民間の話とはいえ、大正の末期まで、そのような感じだったとは驚きである。 結局、放鳩籠の変遷について、筆者(私)の力量では詳細不明とせざるを得ないが、これとは別に、さらなる疑問がある。放鳩籠と輸送籠の違いが、はっきりしないのだ。筆者(私)の目には籠の形状が放鳩籠も輸送籠も同じに見えるので、どうして呼び方に違いがあるのか、よく分からない。現に、本間正和『鳩の飼い方』に、「放鳩カゴ(輸送カゴ)」と載っている。この本の記述を信じるならば、放鳩籠と輸送籠は同一のものと考えてよい。しかし、放鳩籠、輸送籠と呼び分けている以上、機能上の違いがあってもおかしくない。 戦前戦中の鳩具のパンフレットを見ると、柳か籐でこしらえた携帯用の鳩籠を当時は放鳩籠ではなく輸送籠と記していることが多い。他方、現在の日本鳩界では放鳩籠と言う方が優勢である。この呼称の移り変わりについては、本項ですでに述べた、現在見られるような放鳩籠、との話に関係しているように筆者(私)は想像するが、単なるこじつけのようにも思える。 詰まるところ、この件に関しても、詳細不明とせざるを得ない。 ☆補足二 大正十四年一月二十五日発行の『鳩』(第三年新年号)に、新井静洋(東京はとの会)の考案した「折畳式鳩輸送籠」が掲載されている。高さ一尺、長さ二尺五寸、重量八〇〇匁、十羽入りの仕様である。その特徴として、折り畳み式の軽い輸送籠なので、放鳩後、自由に持ち帰れて輸送費を要しないという。 当時の鳩雑誌が、わざわざ、この折り畳み式の輸送籠を取り上げるということは、現在では珍しくない折り畳み式の機構は、大正時代に考案されて登場したことがうかがえる。ただし、民間の事情なので、官(日本軍)がどのような輸送籠を用いていたのか正確には分からない。また、このような折り畳み式の輸送籠は、その頃すでに欧米諸国に存在しているように思われるが、詳しい事情は分からない。 参考文献 『レース鳩』(平成十七年六月号) 日本鳩レース協会 『愛鳩の友』(昭和三十一年十月号) 愛鳩の友社 『鳩の飼い方』 本間正和/愛隆堂 『鳩』(第三年新年号) 鳩園社 |
遺伝学および育種学の権威である田中義麿農学博士が、軍用鳩調査委員会の嘱託になる。以後、田中は、伝書鳩飼育の経験と遺伝学に基づき、軍用鳩の改良に貢献する。 参考文献 『普鳩』(昭和十七年六月号) 中央普鳩会本部 |
日本鳩界における伝書鳩の質がこの年あたりを頂点として、以降は下り坂になる。その当時、民間の鳩数は五、六万羽に達し、優れた鳩が輸入されていたが、一九三七(昭和十二)年に支那事変が起こり、それが一九四一(昭和十六)年の大東亜戦争にまで拡大すると、優良種の輸入が途絶える。伝書鳩の研究も軍事面に偏り、民間の鳩は次々に軍に献納される。 本来の意味における、正規の訓練を受けた伝書鳩は、新聞社の鳩に限られたという。 ☆補足 日本の伝書鳩のレベルについて、武知彦栄『伝書鳩の研究』に、以下の記述がある(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
『伝書鳩の研究』が出版された大正時代の認識だが、これは現在の日本鳩界においても変わらないと筆者(私)は考えている。日本の愛鳩家が外国の鳩を輸入する一方で、外国の愛鳩家が日本の鳩を輸入した例をほとんど聞いたことがない。 武知の言う「日本鳩」の水準に、日本の在来系は到達していると考える愛鳩家もいるが、どう考えても世界的な名声を博しているとは言い難い。 素野 哲『作出のセオリー 天才アドレアーンに捧ぐ』に、以下の記述がある。
代が下がると優秀鳩の能力が失われ、平凡なレース鳩に成り下がる。日本の愛鳩家はこれに抗するために、海外から良鳩の購入を繰り返し、自鳩舎に導入する。 筆者(私)は昔から、このことを不思議に思っている。どうして日本の愛鳩家は、代が下がってもその優秀さが失われることのない、能力を固定させた鳩を作れないのだろうか、と。海外ではそれができているから、日本人がこぞって、この優秀鳩を輸入する。 上掲の書の中で、素野は二つの原因を挙げている。 一つは歴史の差。ヨーロッパは二〇〇年にわたって鳩作りをしてきたことから日本よりも一日の長があるという。 もう一つは商売上の理由。ヨーロッパにとって日本はビッグマーケットなので、日本人が鳩に精通されると困ることから、日本の愛鳩家にはなるべく本当のことは教えないのだそうである。関口竜雄、岩田誠三、並河 靖といった先人たちは、ヨーロッパの愛鳩家の言葉の端々から真実を見いだそうとしてさんざん苦労したことだろう、などと素野は述べている。 参考文献 『鳩(最新版)』 松本 興/博友社 『伝書鳩の研究』 武知彦栄/内外出版 『作出のセオリー 天才アドレアーンに捧ぐ』 素野 哲/愛鳩の友社 |
大阪市東区安土町の西種商店で鳩市が開かれ、多くの鳩が取り引きされる。 ☆補足 上記の一文は、小野内泰治『日本鳩界史年表』(9)をもとに記す。原文では「西村商店」となっているが、「西種商店」に書き改める。当時の「西種商店」の店主は西村種造(三代目)なので、その名字を取って西村の商店、すなわち、「西村商店」といっても誤りとはいえないが、店舗名が「西種商店」であることから、「西種商店」の方が正確かと思い、この表記に変更する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年二月号) 愛鳩の友社 |
海軍の軍鳩術講習始業式において、指導官が以下の訓示をする(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05035336200、公文備考 昭和11年 Q 通信、交通、気象時 巻1(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足 二月二十五日、軍鳩術講習修業式において、指導官が以下の訓示をする(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05035336200、公文備考 昭和11年 Q 通信、交通、気象時 巻1(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05035336200、公文備考 昭和11年 Q 通信、交通、気象時 巻1(防衛省防衛研究所)」 |
在京の新聞社・通信社(東京朝日、国民、時事新報、東京日日、報知、読売、日本電報通信社)が新聞鳩クラブを設立し、軍部および日本伝書鳩協会と提携する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年二月号) 愛鳩の友社 |
鳩界の親睦と、伝書鳩訓練の経済性のため、関東の各鳩団体が結集し、関東鳩団連合会を設立する。 参加団体は、以下のとおり。 東京はとの会、東京南鳩会、東都鳩倶楽部、東京愛鳩会、東京征鳩会、千寿軍鳩会、東京好鳩会、江東鳩友会、東京鳩倶楽部、市川競翔鳩倶楽部、東京英鳩会、江戸川はとの会、慶応愛鳩会、千葉県親鳩会、千葉松鳩会、埼玉東鳩会。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年二月号) 愛鳩の友社 |
午後一時、横須賀防備隊において軍鳩の献納式がおこなわれる。 海軍大臣代理として出席した横須賀海軍航空隊司令・杉山俊亮少将をはじめ、献納者の吉川晃史および荒尾コト、海軍関係者など、数百名が参列する。 ☆補足一 日本鳩レース協会『レース鳩』(平成八年十二月号)に転載された新聞記事(昭和十一年一月二十八日付。紙名不明)の予定に従って上記の内容や日付を記す。したがって、予定に変更が生じていたら、出来事や日付が現実と異なっているかもしれない。 ☆補足二 吉川晃史は、今までに数度、陸軍に鳩を献納していて、その中には軍用鳩功章乙に輝いた銘鳩もある。そして、今回も、自らが育てた優秀鳩を海軍に献納する。 吉川は一八八一(明治十四)年に山口県に生まれる。学生時代に政治家・頼母木桂吉の書生となり、政界入りを目指す。しかし、その目標を断念し、心機一転、浅草の柳橋に居を構えて、市内に十二の酒店を経営する。そのうち、住居を改築して鳥料理の店を開くが、一九二三(大正十二)年の関東大震災で店舗を焼失する。その後、全ての酒店を整理して料理店の経営に専念し、カニ料理の店「二葉」を興す。 吉川は、一九二五(大正十四)年、もしくは一九二六(大正十五/昭和元年)年頃、知り合いの女性事務員を通じて、二羽~四羽ほどの鳩を相馬英雄から入手する。そして、鳩が四、五十羽に増えると、一九三〇(昭和五)年に、軍用鳩調査委員の竹下憲輔獣医の紹介で、並木安一が会長を務める東京愛鳩会に入会する。その数年後、東京はとの会に移る。 一九三五(昭和十)年から軍用鳩の品種改良を個人ではじめる。吉川六〇〇キロ雌鳩競翔を開催し、帰還鳩を買い上げて軍に献納する。また、一二〇つがいから得た仔鳩を二〇〇キロまで訓練し、これも同じく軍に献納する。 軍用鳩調査委員の井崎於菟彦は「二葉」をよく訪れているが、「吉川氏は鳩の研究に熱心な人だった」と語っている。「二葉」の屋上には鳩舎があり、鳩係を置いていたそうである。 その後、軍用鳩が不足していると聞くと、吉川は千葉県市川市須和田の邸宅に大鳩舎を建てる。ここで鳩の育成に努め、一九四〇(昭和十五)年には献納鳩数が二六〇〇羽を超える。海軍や外地(満州)にも献納を続け、最終的にその献納鳩数は三〇〇〇羽にも及ぶ。 一九四四(昭和十九)年、その功績により紺綬褒章(公益のため私財を寄付した者に与えられる)を受章する。ただし、戦争中のため、授章式は開かれなかったという。 戦後の一九四七(昭和二十二)年七月、日本競鳩協会が創立し、関口竜雄の後ろ盾として、名誉理事に就任する。 同年十月、日本競鳩協会と、日本鳩連盟(一九四六〔昭和二十一〕年五月二十七日、関西を中心に創立)が合併して日本鳩レース協会が誕生すると、大阪の徳永秀三とともに顧問に就任する。 以降、吉川は、日本鳩レース協会の会長(一九五〇〔昭和二十五〕年六月~一九五六〔昭和三十一〕年六月、一九五八〔昭和三十三〕年一月~)や会長代行(一九五七〔昭和三十二〕年七月~十二月)を務め、一九五九(昭和三十四)年一月に同協会の会長職を退く。 この当時の吉川は、金策に奔走する日々を送る。戦前戦中に盛況だった事業は傾いていて、数千万円もの負債を抱え、戦後は苦境に陥っていた。日本鳩レース協会の会費や脚環の売上金に手をつけて、自らの事業に流用するなど、金銭問題を起こす。また、協会改革を名目に、日本鳩レース協会内に独断で運営委員会を設置し、ここに腹心の委員を置いて全国で遊説させるなど、同協会の資金を浪費する。 一九五八(昭和三十三)年三月、日本鳩レース協会と、日本伝書鳩協会(日本鳩レース協会から分裂する形で一九五四年〔昭和二十九〕年三月七日に誕生した鳩協会。戦前戦中に存在した同名の鳩協会とは異なる)の二協会が存在する中、吉川は新たに日本鳩通信協会を創立する。 続いて、翌一九五九(昭和三十四)年二月、海と山の救難国際鳩通信協会を創立する。 この新規二協会の創立は、鳩界の混乱と分裂を招く。鳩通信協会の脚環を独自に販売して既存二協会の取り分に影響を与え、その会員を鳩通信協会側に勧誘したのである。また、鳩通信協会の脚環をつけた鳩は国鉄の運賃が半額になる、と宣伝する。 これに板倉陽之助と土田春夫が危機感を覚え、鳩通信協会のパンフレットを持って国鉄に行き、運賃を半額にしないように交渉する。旅客課長から「こういうものを許可した覚えは無い」との言質を取る。 一九五九(昭和三十四)年三月、運賃は半額にならない、と国鉄が発表したことから、結果的に鳩通信協会の見切り発車の宣伝は、真っ赤なうそ、と批判される。 ちなみに、一九三八(昭和十三)年に日本伝書鳩協会と帝国伝書鳩協会が合併を果たしているが、その調定に尽力したのが吉川だった(後述)。その頃の吉川の姿を思うと、戦後になぜ、このような問題を起こしたのか、その真意がつかめない。 原田義人によると、吉川は戦後、人が変わってしまい、自分だけよければいい、という考えを徹底的に実行していたという。原田は吉川に無心されて計一一〇万円を貸しているが、一九五九(昭和三十四)年頃に吉川が破産するまで、これを棚上げにされたそうである。また、この一一〇万円の中には銀行に回さない約束になっていた手形があったが、いつの間にか落とされていて、原田はこれにより、一〇〇坪の地所と家屋を失い、自分の名で商売ができなくなってしまったという。 吉川のこのような振る舞いは、鳩界を騒がしたことから、『愛鳩の友』誌は昭和三十三年十二月号を皮切りに、反吉川の論陣を張る(社説「鳩通脚環をめぐる問題」、記事「青い鳥を探そう」) 吉川はこれに対し、愛鳩の友社の発行者・宮沢和男と、同誌編集長・谷内正司を名誉毀損で東京地裁に告訴する。 日本鳩通信協会の機関誌である『はと通信』(昭和三十四年十月号)によると、その後、検事立ち会いのもと、愛鳩の友社社長の宮沢和男が陳謝し、『愛鳩の友』誌に謝罪広告を載せると確約したという。吉川はこれを受け入れて、『はと通信』の昭和三十四年十月号において、告訴を取り下げた旨の記事を載せる。 しかし、『愛鳩の友』(昭和三十四年十一月号)に掲載された記事「またもやまっかなうそ」によると、そのとき、宮沢和男は謝罪文を出すことを拒み、吉川はそれを知ったうえで告訴を取り下げたという。 両誌の主張が真っ向から食い違っていて、一体、どちらが本当のことを述べているのか分からない。しかし、これまでの経緯を踏まえると、吉川の言葉を信じる者はいないだろう。 一九六〇(昭和三十五)年十一月、吉川は七十九歳でこの世を去る。 吉川を知る人はその人柄を評価する。誰に対しても同じ態度で接し、言葉を荒立てなかったそうである。温厚な人柄で皆から愛されたという。 一方、批判的な見方としては、前述した金銭問題などのほかに、独裁的である、とか、人材を養成する理念に欠けている、などの意見がある。 吉川は戦後、晩節を汚したが、日本鳩界への貢献は多大であり、誰もが認める功労者である。 日本鳩界の歴史に残る巨星といっても過言ではない。 参考文献 『レース鳩』(平成八年十二月号) 日本鳩レース協会 『愛鳩の友』(昭和三十一年八月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十三年十二月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十四年五月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十四年十一月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十四年十二月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十五年十二月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十六年二月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十七年五月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十七年六月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十七年一月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和五十三年三月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(平成十五年十二月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(平成十六年一月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友創刊50年 半世紀の歩みを綴る永久保存版』 愛鳩の友社 『はと通信』(昭和三十四年十月号) 日本鳩通信協会 |
北陸線の敦賀~今庄間において、津波による地滑りが発生し、列車が転覆する。また、地下ケーブルも損傷し、通信不能になる。 敦賀事務所は伝書鳩を放って、救援要請と現場報告をおこなう。 参考文献 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 災害及び災害予防(8-104) 大阪時事新報 1936.9.13 (昭和11) |
北陸線の石動停車場付近において、下り列車と自動車が衝突する。 金沢事務所は、現場の見取り図と報告書を伝書鳩に託し、通報する。 参考文献 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 災害及び災害予防(8-104) 大阪時事新報 1936.9.13 (昭和11) |
小田原少年刑務所では少年受刑者に漁労訓練を実施しているが、先般、同刑務所所属の漁船・快天丸が太平洋上で暴風雨に遭い、無線電信装置の効用を充分に発揮できないまま、沈没している。 そこで、小田原少年刑務所長は陸軍大臣に宛てて、「軍用鳩無償保管転換方ノ件申請」(発第一四三号)を申請し、補助通信に用いる軍用鳩四十羽の保管転換を願う。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01006814000、永存書類乙集 第2類 第4冊 昭和11年(防衛省防衛研究所)」 |
陸軍の青年将校らが下士官兵を率いて反乱を起こし、国家の中枢を占拠する(二・二六事件) 反乱軍は、斎藤 実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監を殺害し、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせる。 『愛鳩の友』(昭和三十三年五月号)に掲載された記事「新聞社の鳩舎めぐり(上)」によると、この二・二六事件では、ひそかに鳩によって通信がおこなわれたという。 また、小野内泰治『日本鳩界史年表』(10)によると、二月二十六日、中野では全将兵を出仕させて非常警戒態勢を取り、いつでも出動できるようにしていたが、鳩の活動を見るに至らなかったそうである。ただし、東京警備に出動した宇都宮の部隊が、原隊との連絡に鳩を使用したという。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年五月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十四年三月号) 愛鳩の友社 |
今月発刊の偕行社『偕行社記事』(第七三七号)に、アメリカ軍の軍用鳩ジョン・シルバーに関する記事が載っている。 以下に引用しよう(一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足 軍用鳩ジョン・シルバーは、一九三五年十二月六日に、ホノルルのアメリカ陸軍通信隊で死んでいる。現在、その剥製が、国立アメリカ空軍博物館に展示されている。 なお、小野内泰治『日本鳩界史年表』(10)に、一九三六(昭和十一)年二月一日に軍用鳩ジョン・シルバーが死んだとあるが誤り。 参考文献 『偕行社記事』(第七三七号) 偕行社 『愛鳩の友』(昭和三十四年三月号) 愛鳩の友社 |
昭和肥料会社の、厨川次郎、石山賢三郎、野中 建の三名が、乗鞍岳(北アルプス南端)を雪中登山する。 しかし、二月十一日以来消息を絶ったことから、遭難の見込みで、飛騨山岳会、松本歩兵第五十連隊(兵二名、軍用鳩十数羽)、慶應義塾山岳部が協力して、三名の捜索に当たる。 その後、山中の小屋において、虫の息の三名を発見し、無事に保護する。 参考文献 『三田評論』(第四六三号) 三田評論発行所 『愛鳩の友』(昭和三十四年三月号) 愛鳩の友社 |
帝国伝書鳩協会の設立に関する声明書が発起人会から発表される。 内容は、以下のとおり(『愛鳩の友』〔昭和三十四年三月号〕より引用。一部、空行を入れている)
発起人は、以下のとおり(イロハ順) 今西甚五郎 陸軍中将 小熊 桿 農学博士 渡辺満太郎 陸軍中将 高松定一 名古屋商工会議所議員 田中義麿 農学博士 園田保之 陸軍大佐 永代静雄 新聞研究所長 山本光照 陸軍少将 松本新太郎 キリンビール専務取締役 松本 興 ピジョン・タイムス主筆 佐々田謹太郎 陸軍二等獣医正 木下 信 前台湾総督府総務長官 喜代田光英 王子製薬所 宮地久衛 陸軍大佐 菱田菊次郎 陸軍少将 ☆補足 陸軍省と軍用鳩調査委員会は、現在の日本伝書鳩協会よりも強力な統制組織を新設することによって、国防資源(鳩)の充実を図ることを目指し、社団法人・帝国伝書鳩協会の設立を提唱する。しかし、日本伝書鳩協会は、帝国伝書鳩協会への吸収合併に難色を示し、日本伝書鳩協会を母体として、新団体の帝国伝書鳩協会がここに合するべきであると主張する。 日本伝書鳩協会と帝国伝書鳩協会との間で何度も話し合いの場が設けられるが、互いの主張は平行線をたどり、結論が出ぬままに二団体が並立する状態が続く。 結局、組織が一元化されるのは、一九三八(昭和十三)年十月九日まで待たねばならず、この日をもって帝国伝書鳩協会は解散し、その所属会員は日本伝書鳩協会の会員になる。そして、同年十二月九日、日本伝書鳩協会は両協会合併後、初の総会を開き、社団法人化したことを報告する。次いで、一九三九(昭和十四)年十月二十八日、協会名を改称し、社団法人・大日本軍用鳩協会となる。 この一連の改革によって、組織の一元化と法人化が実現し、同協会は陸軍省の直接の管理下に置かれる。組織が法人になるということは、もはや単なる趣味の団体とはいえず、以後、軍の意向に沿った施策がスムーズに実行されるようになる。 『愛鳩の友』(昭和五十年二月号)に掲載された記事「――若人にかたる―― 日本鳩界の歴史」(作・小野内泰治。連載第四回)に、以下の記述がある。
参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年三月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和五十年二月号) 愛鳩の友社 『東京朝日新聞』(昭和十年十二月十五日付) 東京朝日新聞社 『読売新聞』(昭和十一年一月七日付) 読売新聞社 |
中央普鳩会主催、第二回伝書鳩即売会が開催される。 八十羽あまりの鳩が出品されるが、値段が安く、客層も学生が多かったため、売上高は少なかったという。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年三月号) 愛鳩の友社 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、二九六羽。 呉防備隊、八十四羽。 佐世保防備隊、九十二羽。 舞鶴防備隊、七十八羽。 大湊防備隊、七十羽。 鎮海防備隊、八十四羽。 馬公防備隊、七十六羽。 旅順要港部、二十羽。 *鳩舎建設中 霞ヶ浦海軍航空隊、一一四羽。 上海海軍特別陸戦隊、一六五羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05035336500、公文備考 昭和11年 Q 通信、交通、気象時 巻1(防衛省防衛研究所)」 |
帝国伝書鳩協会が設立される。 役員は、以下のとおり。 会長 木下 信 幹事長 園田保之 常務幹事 松本 興、喜代田光英、高畠多一 幹事 小熊 桿、高松定一、永代静雄、佐々田謹太郎、科野亀三郎 監査 松本新太郎、宮地久衛 顧問 今西甚五郎、渡辺満太郎、田中義麿、山本光照、菱田菊次郎、長谷栄二郎 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年三月号) 愛鳩の友社 |
帝国伝書鳩協会常務幹事の松本 興が、満州国に一〇〇羽の伝書鳩を献納することになり、この日、第一陣の五十羽が東京駅を出発する。後続の五十羽は、十月頃に送られる予定になっている。 昨年の七月、松本は、伝書鳩研究のためにフランス・ベルギーに赴き、そこで優良鳩を買い求めている。本日、東京駅をたった五十羽の鳩は、その直系子孫のえり抜きである。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十一年四月二十六日付) 東京朝日新聞社 |
民間鳩界の発展のため、軍用鳩調査委員会が競翔用の鳩時計(ピジョンタイマー)を無料で貸し出す。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年四月号) 愛鳩の友社 |
日本伝書鳩協会の理事・師岡昌徳が死去する。師岡は日本伝書鳩協会や東京はとの会の設立者の一人で、また、一九一九(大正八)年に陸軍最初の鳩の払い下げを受けた人物である。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年四月号) 愛鳩の友社 |
一両日前、満州国民政部の役人が日本の伝書鳩一〇〇〇羽を購入するために来日する。中野軍用鳩調査委員会から軍用鳩五〇〇羽、大阪・名古屋から伝書鳩五〇〇羽を仕入れるそうである。 今回、満州国がこの大量購入に至ったのは、昨年、日本から手に入れた伝書鳩三五〇羽が匪賊討伐や警備連絡に予想以上の効果を上げたからだという。 以上、同日付の『東京朝日新聞』の記事より。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十一年五月十四日付) 東京朝日新聞社 |
日本アルプスの東麓、長野県大町において、登山者に鳩を貸し出す有料サービスが、今夏七月一日の山開きから開始される。 これは世界初の試みとなる。 現在、中部山岳鳩協会の三階建ての鳩舎には、陸軍から寄贈された五十羽を筆頭に計二〇〇羽が飼養されている。 以上、同日付の『読売新聞』の記事より。 ☆補足一 六月二十八日、伝書鳩を用いた救助通信の演習が、この日より実施される。 七月十五日、針ノ木の雪渓で小学教諭が転倒し、重傷を負う。教諭に引率されていた小学生が伝書鳩を放って、この危急を伝える。 今夏最初の山岳事故となるが、中部山岳鳩協会の期待どおりに伝書鳩が活躍する。登山者が伝書鳩を携行していなかったら、救助隊の派遣は、かなり遅れたはずである。 ちなみに、中部山岳鳩協会のパンフレットによると、鳩一羽を一円で三日間、貸し出していたという。 ☆補足二 残念ながら、この鳩事業は一九四一(昭和十六)年に中止になる。戦争の激化によって、鳩に与える餌が少なくなり、登山をする人が減ったのが影響したという。 参考文献 『読売新聞』(昭和十一年一月三十一日付。夕刊) 読売新聞社 『読売新聞』(昭和十一年五月三十一日付) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十三年十二月九日付) 東京朝日新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十四年四月号) 愛鳩の友社 『山の怪異』 下平広恵/信濃郷土誌出版社 『中日新聞』(令和元年八月十五日付) 中日新聞社 |
死去した師岡昌徳に代わり、相馬英雄が日本伝書鳩協会の理事に就任する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年三月号) 愛鳩の友社 |
明治神宮外苑競技場において、日本体操大会(朝日新聞社主催、文部省後援)が開催された際、一二〇〇羽の伝書鳩が一斉放鳩される。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年四月号) 愛鳩の友社 |
本年度の防空演習において、神田区は、市連合防護団長査閲の際に、東久邇宮稔彦王の御前で、通信連絡の一助として伝書鳩を放鳩し、台覧に供する。 演習場所の小川町交叉点から神田消防署まで一キロあまりあるが、放鳩後約二分で喞筒自動車が出動する。 ☆補足 七月二十三日、青木毛皮店(神田和泉町)を利用した避難救助演習においても、伝書鳩が活躍する。伝書鳩が神田消防署まで八七〇メートルの距離を飛び、放鳩後二分五十秒で喞筒自動車が出動する。また、神田区岩本町の模擬火災演習においても、伝書鳩が九〇〇メートルの距離を飛び、放鳩後三分で喞筒自動車が出動する。この模擬火災では黒煙が猛威を振るうが、伝書鳩は何ら支障なく通信任務を果たす。 翌七月二十四日、神田区西神田二ノ一での防空演習においても、伝書鳩が飛翔し、喞筒自動車が出動する。防火班員のオートバイ伝令よりも先に伝書鳩が神田消防署に到着する。 参考文献 『大日本消防』(昭和十一年八月号。第十巻第八号) 大日本消防協会 |
内閣資源局が全国伝書鳩飼養状況調査をまとめる(ただし、陸海軍の飼養鳩は除く) それによると、内地・外地合わせて、現在、日本には六万三一九六羽の伝書鳩が飼われているという。 参考文献 『全国伝書鳩飼養状況調査 昭和十一年六月末日現在』 資源局 『国家総動員史 資料編 第五』 石川準吉/国家総動員史刊行会 |
東京上野の松坂屋が屋上に鳩舎を設置し、商戦の実用通信に伝書鳩を用いる。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年四月号) 愛鳩の友社 |
旭川運輸事務所が、第七師団から借り受けた軍用鳩を、団体登山その他の希望者に貸与するサービスをはじめる。 この軍用鳩は、変化しやすい大雪山などで遭難した際に放鳩される。 以上、同日付の『東京朝日新聞』の記事より。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十一年七月三日付) 東京朝日新聞社 |
午後零時三十分、東京府芝区白金台町の薬屋・酒井いつが、自宅裏の物干し台に伝書鳩がとまっているのを見つける。伝書鳩の脚には赤いテープが巻いてあり、「MPT三五八号北海道南沖合にて危険中救助方を願ふ」と書いてあった。 酒井は船のSOSと思って、高輪署に伝書鳩を届ける。 高輪署は、ひとまず、伝書鳩を遺失物として預かると、これを警視庁に送る。そして、そこから、さらに、逓信省、海軍省、内務省、北海道庁、札幌逓信局と情報が伝わる。しかし、信号符字に該当する船は、照会しても存在しない。 少し考えてみれば分かることだが、最近の汽船には無電設備があり、また、北海道から東京まで翔破できる鳩を積んでいるとも思えない。 結局、誰かのいたずらだろう、との結論に落ち着く。 参考文献 『読売新聞』(昭和十一年七月九日付) 読売新聞社 『読売新聞』(昭和十一年七月九日付。夕刊) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十一年七月九日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
陸軍通信学校所属・軍用鳩調査委員事務所付の野村吾市曹長が、この日の午前十時頃、同事務所内で拳銃を口腔に入れて引き金を引き、自殺する。 野村は静岡県の出身で、歩兵第十八連隊に所属し、非常に真面目な性格だった。 昨年の八月、軍用鳩通信訓練の教官として支那に渡り、本年五月に帰国するが、支那奥地での勤務の過労から神経衰弱にかかり、この結果になったと見られている。 ☆補足 七月十八日午後、野村吾市曹長の告別式がおこなわれる。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十一年七月十九日付) 東京朝日新聞社 |
東京、横浜、川崎の三市連合の第四回防空演習(五日間)が実施される。 今回から、非常時での電信電話の不通を見越して、数十羽の伝書鳩を警視庁に待機させて、夜間の通信戦に使用する。 なお、この鳩は、中島ガラス工場(中島徳松)が好意で提供したものである。 ☆補足 『東京朝日新聞』(昭和十一年七月十七日付)に載った予定に従って上記の内容や日付を記す。したがって、予定に変更が生じていたら、出来事や日付が現実と異なっているかもしれない。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十一年七月十七日付) 東京朝日新聞社 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、四四六羽。 呉防備隊、一三二羽。 佐世保防備隊、一二四羽。 舞鶴防備隊、八十五羽。 大湊防備隊、九十三羽。 鎮海防備隊、七十八羽。 馬公防備隊、四十二羽。 旅順要港部、二十九羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、一二六羽。 上海海軍特別陸戦隊、一六七羽。 二等巡洋艦・夕張、十三羽。 二等巡洋艦・球磨、二十一羽。 砲艦・鳥羽、七羽。 砲艦・安宅、四羽。 砲艦・嵯峨、十二羽。 砲艦・堅田、四羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05035336700、公文備考 昭和11年 Q 通信、交通、気象時 巻1(防衛省防衛研究所)」 |
第十一回オリンピック競技大会がベルリンで開催される。 ベルリンの西部シュパンダウでは、古貨車利用鳩舎の中に、ヨーロッパ各国から集合した伝書鳩一万二〇〇〇羽が待機していて、早朝午前五時に一斉放鳩される。 「伝書鳩オリンピック」といってよいのか、人間でなく鳩も、この国際大イベントで火花を散らす。 ローマ、ブダペスト、コペンハーゲン、ワルシャワ、ストックホルムと、最長一五〇〇キロに及ぶ各都市に向けて鳩が飛んでゆく。 これらの鳩は、それぞれの都市別に数百組に分かれていて、その所属地ごとに記録を競う。 優勝した鳩には、オリンピック委員会からメダルが授与される。 ☆補足 上記の一文は、『読売新聞』(昭和十一年八月二日。号外)の記事をもとに記す。 一方、ドイツのウェブサイト「Verband Deutscher Brieftaubenzüchter e.V.」には、八月一日のオリンピック開会式において、全地域から十万羽以上の鳩と、十一の近隣諸国から五〇〇〇羽の鳩が参加したと記してある。 ストレートにこの記述を受け止めると、鳩の羽数が大きく異なるので、『読売新聞』の記事と、ドイツのウェブサイトの内容が食い違っているように思える。しかし、国際レース用の鳩が一万二〇〇〇羽いて、セレモニー用の鳩が十万羽以上いた、という風に分けて考えると、一応、矛盾しない。もちろん、単なる仮定であって、詳細不明であることに変わりはない。 ちなみに、小野内泰治『日本鳩界史年表』(10)にも、この矛盾が指摘されていて、十二万八〇〇〇羽もしくは一万二〇〇〇羽の鳩が鳩の国際競技において一斉放鳩された、などと載っている(羽数併記) 参考文献 『読売新聞』(昭和十一年八月二日。号外) 読売新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十四年四月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(平成二十一年五月号) 愛鳩の友社 「Verband Deutscher Brieftaubenzüchter e.V.」 http://web.brieftaube.de/ |
久邇宮家彦王、久邇宮徳彦王、久邇宮恭仁子女王の三名が有明口から北アルプスを上高地まで縦走する。このとき、中部山岳鳩協会の鳩二十羽が随行する。 九月上旬、このときの礼として京都の宮家から中部山岳鳩協会の三田旭夫に金一封が下賜される。 九月八日、三田は陸軍省を訪問し、恤兵基金の一部にと下賜金を全額寄付する。 この無私の精神に感激した陸軍省は、早速、在満将兵の慰問にこれを充てる。 参考文献 『読売新聞』(昭和十一年九月九日付) 読売新聞社 |
仙鉄局から青森保線事務所に伝書鳩十五羽が届く。 この伝書鳩は冬季における災害予報や事故通報のために使用される。 同事務所は専任の係を置いて、伝書鳩の世話をする。 参考文献『昭和十二年度 東奥年鑑』 東奥日報社 |
東京の中等学校による第一回伝書鳩競翔選手権大会が開催される(放鳩地、伊豆大島) 学習院中等科が第一位、慶応普通部が第二位だった。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年四月号) 愛鳩の友社 |
満州国が軍用鴿の品種改良のため、ドイツから一五三羽の優良鴿を輸入する。 一羽の価格は平均八十円で、五〇〇キロ~七〇〇キロまでの帰還記録を持つ鴿もいたという。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年六月号) 大日本軍用鳩協会 『愛鳩の友』(昭和三十四年五月号) 愛鳩の友社 |
夜十二時頃、一三〇人乗りの汽船が朝鮮海峡の洋上において、機関故障により立ち往生する。 連絡手段がなく、風浪にも襲われ、あわや事件になるところだったが、同船に伝書鳩を携行していた石橋利三郎が乗り合わせていたため、この鳩によって危急が伝わり、全員が無事に救助される。 ☆補足 愛鳩家が放鳩訓練のために鳩を持ち歩いているだけで、緊急事態の際の通信手段になった。 かつて、鳩の飼育者は、公共の安全に寄与していたのである。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年四月号) 愛鳩の友社 |
八月十八日~十九日にかけて、交通不便な紀泉国境で山火事が発生する。しかし、八月十九日の朝になっても詳しい報告がもたらされないので、午前十一時半、大阪府警察部警務課の飯野巡査部長と、阿知原鳩係(伝書鳩十四羽携行)が現場に急行する。 その後、現場の状況を確認した後、午後零時四十分、六一二号(伝書鳩)を佐野付近から放鳩する。 午後一時十分、六一二号は、三十キロあまりの距離を飛んで、府庁舎バルコニーの鳩舎に帰還し、以下の第一報をもたらす(『大阪朝日新聞』〔昭和十一年八月二十日付〕より引用)
なお、大阪府警察部は、非常時や大事件の際の通信途絶に備えて、今年の四月から伝書鳩に訓練を施している。 今回の出動は初陣となったが、すこぶる好成績を残す。 参考文献 『大阪朝日新聞』(昭和十一年八月二十日付) 大阪朝日新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十四年四月号) 愛鳩の友社 |
『尋常科用小学国語読本』(巻八)に、「小さい伝令使」という読み物が掲載される。 これは昭和六年十二月、大石橋守備隊の鳩舎に、重傷を負いつつも帰還した軍用鳩二二九号の実話である。教科書に載った軍用鳩として、この軍用鳩二二九号の知名度は、日本鳩界一といっても過言ではない。 以下に、「小さい伝令使」の全文を引用しよう(一部、文字表記を改めている)
参考文献 『尋常科用小学国語読本』(巻八)』 文部省 |
福島県下で実施した防空演習に仙台鉄道局工務課の鳩が参加する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年四月号) 愛鳩の友社 |
一九三四(昭和九)年秋に発生した室戸台風により、関西地方は風水害に見舞われ、通信網が全滅している。 鉄道省はこの苦い経験をもとに、一九三五(昭和十)年三月より、陸軍省伝書鳩班の応援を得て、名古屋鉄道局と仙台鉄道局に伝書鳩を配置する。 その通信成績が良好であることから、大阪、広島、門司、札幌、東京、新潟の各鉄道局においても伝書鳩を採用し、全国各保線事務所に約二〇〇〇羽の鳩を配置する計画を立てている。 以上、同日付の『大阪時事新報』の記事より。 参考文献 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 災害及び災害予防(8-104) 大阪時事新報 1936.9.13 (昭和11) |
満州国が国務院訓令を発し、国内諸官署に飼育されている鴿の統制をおこなう。 ☆補足 満州国は統制委員会を結成して諸官署に鴿通信所を設置する。鴿の配給や補充は治安部が担当する。 その後、機構改革があり、大部分の鴿通信所は治安部警務司の所属に移る(一部は産業部ならびに交通部に所属) 一九四〇(康徳七)年当時、満州国内の鴿通信所は数百あまりに達する。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年六月号) 大日本軍用鳩協会 |
日本伝書鳩協会主催の伝書鳩普及展覧会(陸軍省、海軍省、資源局後援)が上野松坂屋で十月九日から開催される。 初日の正午、東京はとの会ほか十四団体の伝書鳩三〇〇〇羽が放鳩される。 この集団放鳩数は日本新記録である。 会期中の出品物は、以下のとおり。 海軍省――参考鳩、艦上鳩舎、写真等 鉄道省――写真、統計、図解 資源局――統計、鳩の利用図 江東鳩友会――写真、一般伝書鳩 江戸川鳩の会――額面、一般伝書鳩 千寿軍鳩会――賞盃、賞状、記録器 和鳩会――小型鳩舎、参考品等 高崎鳩の会――記録鳩、優勝旗、賞盃 神戸鳩の会――写真、工芸品 大阪好鳩会――会旗、明治・大正の成績表 その他、東京、名古屋、岐阜、京都、伊勢崎、仙台、千葉などから計五二八点の出品がある。 ☆補足 上野の松坂屋で鳩係をしていた土田春夫によると、服の生地の見本をやり取りするために、鳩が使われていたそうである。ある色柄の注文が支店などに入ると、鳩がその見本の端切れを運んでくるので、それを確認したという。 土田の略歴は、以下のとおり。 一九三六(昭和十一)年、軍用鳩調査委員事務所に軍属として入所し、満州に送り出す移動鳩の訓練などに従事する。 一九三八(昭和十三)年、軍用鳩調査委員会が解散する。また、陸軍通信学校が神奈川県に移転して同校に鳩部が設置される。土田はこれに伴って、上野松坂屋の鳩売り場に職場を変わる。 一九三九(昭和十四)年、読売新聞社に鳩係として入社し、その後、編集局企画部室主任、編集局機報部次長を務める。 一九五四(昭和二十九)年三月七日、日本伝書鳩協会(戦後)の発足とともに常任理事に就任する。以来、戦後の日本鳩界の発展に力を尽くし、月刊『日本伝書鳩新聞』、月刊『日鳩』の編集に当たる。 一九六七(昭和四十二)年三月十五日、読売新聞社を退社する。 一九六七(昭和四十二)年四月九日、新宿紀伊国屋ビル地下名店街に、お茶漬けとおにぎりの店「はと」を開店する。 一九九二(平成四)年七月七日、日本伝書鳩協会(戦後)の第三代会長に就任する。 著書に、『伝書鳩の飼育と訓練』(青鳥社)がある。 *チャンピオン社『チャンピオン』(昭和五十四年五月号)に掲載された記事「今月の顔 日鳩・副会長 土田春夫さん」によると、土田は昭和九年に軍用鳩調査委員事務所に軍属として入所したという。しかし、土田の著書『伝書鳩の飼育と訓練』の著者略歴には昭和十一年とある。 どちらの記述が正しいのか迷ったが、暫定的に土田の自著の記述に従って、上記の一文には、「一九三六(昭和十一)年、軍用鳩調査委員事務所に軍属として入所」と記す。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十一年十月十日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『伝書鳩の飼育と訓練』 土田春夫/青鳥社 『チャンピオン』(昭和五十四年五月号) チャンピオン社 「一般社団法人日本伝書鳩協会」 http://www.nihon-denshobatokyokai.org/ 『愛鳩の友』(昭和三十四年四月号) 愛鳩の友社 『昭和遺産な人びと』 泉 麻人/新潮社 |
今から二年前に、ある探検家が、アーベーン君の伝書鳩十二羽を携行して南米コロンビアの奥地を探検する。 その際、山奥から放鳩した十二羽のうち四羽が、二、三週間でアーベーン君のところに戻ってくる。しかし、残りの八羽はいつまでたっても戻ってこない。 アーベーン君は諦めていたが、突然、二年後の今になって、どこからともなく一羽が戻ってくる。 以上、同日付の『読売新聞』の記事より。 参考文献 『読売新聞』(昭和十一年十月十日付) 読売新聞社 |
康徳三年度第二軍管区秋期大討伐に参加中の左翼討伐隊(長・繆少校)は、十月十二日、三道白河西方劉粉房付近において、約一五〇名の匪団と交戦し、これを撃退する。その戦闘間の状況は鳩通信を用いて本部に報告する。 十月十三日、左翼討伐隊は、呉司令(匪長名)の率いる多数の匪団から包囲される。 討伐隊は奮戦力闘するが、敵はだんだんとその数を増してゆく。 ここに至り、手元に残っていた、ただ一羽の軍用鳩を放って、本部に救援を求める。しかし、放鳩された満康三二六八号(栗胡麻)は、方向判定中に敵弾を受けて、地上十メートルくらいにまで落下する。満康三二六八号は、そのまま地面に激突してもおかしくなかったが、何とか持ち直して、本部を目指して上空に舞い上がる。 やがて、満康三二六八号は本部に飛来し、左翼討伐隊の危機を伝える。本部は、これを受けて直ちに救援隊を派遣し、激戦三時間あまりの後、匪団を撃退する。 なお、本部に戻ってきた満康三二六八号は、右翼羽の根部、左第三尾羽、右第四主翼羽に敵弾を受けていた。この傷で、よくぞ帰ってきたものである。満康三二六八号に命を救われた兵らは、一日も早く傷が癒えるように祈っているという。 参考文献 『鉄心』(第二巻第十二号) 治安部参謀司第二課/治安部参謀司 『東京朝日新聞』(昭和十一年十一月十五日付) 東京朝日新聞社 |
満州国における軍用鴿の活用が、いよいよ本格化し、その生産能率の発揚に留意した結果、現鴿舎では狭隘をきたすことから、満州国軍用鴿通信所は、寛城子西側地区に施設を施し、移転する。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年六月号) 大日本軍用鳩協会 |
昭和十一年特別大演習観艦式において、大阪の菓子屋・あみだ池大黒が伝書鳩を使って菓子を即納する。観艦式に集まった艦隊に快速艇で横づけし、注文を取ったら、その伝票を伝書鳩に付して飛ばす。 伝書鳩は十分ほどで四代目店主の自宅に戻る。当時高校生だった、後の五代目が、伝書鳩に付された伝票を見て、注文内容を大阪の工場に電話で伝える。 あみだ池大黒は、この菓子の即納で軍の信用を得て、軍用食糧の受注にも成功したという。 ☆補足一 日本経済新聞社『200年企業』によると、一九三五(昭和十)年頃の大阪湾での出来事だという。しかし、対象となる観艦式は昭和十一年特別大演習観艦式しか該当しないので、上記の一文では同観艦式の出来事として記している。 ☆補足二 日露戦争中の一九〇四(明治三十七)年、あみだ池大黒のおこしが「恩賜のおこし」に選ばれ、その菓子が慰問品として戦地の兵に届けられることになる。しかし、三ヶ月の短期間で三十五万箱を納品しなければならなかった。あみだ池大黒の三代目店主とその妻は、納期を守れなかったら切腹するつもりで白装束に身を包む。親類縁者を総動員して、不眠不休でおこし作りに励み、納期を守る。 この大仕事をやり遂げたあみだ池大黒にとって、この「恩賜のおこし」は、同店が飛躍する契機になったという。 参考文献 『200年企業』 日本経済新聞社/日本経済新聞出版社 |
詩人でアイヌ文化研究家の更科源蔵が、「今夜歴程の会があるから、行ってみよう」と尾崎喜八に誘われて、新宿の「大山」という酒房を訪れる(更科の記憶があいまいなので、もしかしたら、店名などが事実と異なっているかもしれない) 更科は、その店で、金子光晴、中原中也、高橋新吉、逸見猶吉、尾形亀之助などと、はじめて対面する。 それらの人々から少し遅れて、黄瀛がやってくる。 更科は、そのときの様子を以下のように記している(蒼土舎『詩人黄瀛 回想篇・研究篇』より引用)
*「高村先生のつくった黄さんの首」とは、高村光太郎作のブロンズ塑像「黄瀛の首」のこと。 黄瀛は、中国陸軍で伝書鳩の掛かりを担当しているが、険悪な日中関係のために、日本陸軍は中国軍将官の参観に難色を示したという。 黄瀛は、「その交渉のためにおくれてしまったよ」と、集まりに遅刻してきた理由を語る。 参考文献 『詩人黄瀛 回想篇・研究篇』 蒼土舎 |
この日の午後七時四十五分、帝国伝書鳩協会副会長でキリンビール専務取締役の松本新太郎が脳溢血のため死去する。享年六十一歳。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十一年十一月八日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
軍用鳩調査委員会が軍用鳩慰霊祭を執りおこなう。例年どおりであれば、春に実施するのだが、今年は二・二六事件の影響で延期され、本日の開催となる。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年四月号) 愛鳩の友社 |
満州国鉄路総局伝書鳩育成所の日下部 照が青森県を訪れ、青森、弘前、大鰐の各鳩舎から合計六十羽の伝書鳩を購入する。 ☆補足一 軍用鳩調査委員だった日下部 照は、歩兵中尉当時、ウラジオ派遣軍の鳩通信班要員として勤務している。 その後、病気によって軍を退き、予備役中尉になるが、鳩の研究を続け、一九四三(昭和十八)年五月に、ドバトの捕獲とその撲滅を農林省や神奈川県に提案する(◆一九四三〔昭和十八〕年五月十日の項、参照) 三村三郎『ユダヤ問題と裏返して見た日本歴史』に、日下部の経歴が載っている。 以下に引用しよう。
大正十二年に軍部の反ユダヤ的指導方針に不満を抱いて中尉で退役した、とあるが、日下部は病気によって軍を退いている。病気で予備役編入では、さまにならないので、日下部が適当な理由を述べたように考えられる。インドロ・ロビス将軍のブラジル革命に連座して日本に送還された、というのも、唐突かつ大げさで、フィクションを思わせる。単に自分の意志で帰国しただけなのかもしれない。 また、日下部は、昭和十八年当時、松田高等家政女学校(神奈川県松田町)の教諭を務めているが、一介の教師では体裁が悪いと思ったのか、『南京鳥類図譜』と『宮鳩文化史』の著述に従った、との文化方面の活動のみを記している。南京金陵女子大学「名誉教授」という立派な肩書きは表記しているのに、同じ教職である、松田高等家政女学校「教諭」の肩書きを伏せているのが不自然である。 ちなみに、上記の日下部 照の経歴は、三村三郎の書いたものではあるが、日下部 照の自己紹介文などをもとにしていると思われる。事実上、日下部 照の手になるもの、と理解してよかろう。 *日下部の経歴に関する、以上の推測に根拠はない。筆者(私)の邪推である。話半分に受け止めてほしい。 参考文献 『昭和十二年度 東奥年鑑』 東奥日報社 『普鳩』(昭和十八年六月号) 中央普鳩会本部 『ユダヤ問題と裏返して見た日本歴史』 三村三郎/八幡書店 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C07061532500、西受大日記 大正11年11月(防衛省防衛研究所)」 |
目黒雅叙園において、東京はとの会の創立十周年記念祝賀会が開催される。 徳川義恕会長以下、全員が出席して、十周年を祝う。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年五月号) 愛鳩の友社 |
天王寺公園動物園において、大阪の愛鳩家らがオール大阪伝書鳩展覧会を開催する。 ☆補足 上記の一文は、小野内泰治『日本鳩界史年表』(11)をもとに記す。鳩の展覧会が一日だけで終了するとは思えないので、この十一月十五日が初日だったように思われる。開催期間は不明。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年五月号) 愛鳩の友社 |
小林部隊本部『軍用鳩ノ美談』に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『軍用鳩ノ美談』 小林部隊本部 |
小林部隊本部『軍用鳩ノ美談』に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『軍用鳩ノ美談』 小林部隊本部 |
札幌の丸井デパートにおいて、北海道伝書鳩展覧会が開催される。 ☆補足 上記の一文は、小野内泰治『日本鳩界史年表』(11)をもとに記す。鳩の展覧会が一日だけで終了するとは思えないので、この十一月二十八日が初日だったように思われる。開催期間は不明。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年五月号) 愛鳩の友社 |
午前十時、中野の軍用鳩調査委員事務所において、伝書鳩一五〇羽の献納式がおこなわれる。 献納者の吉川晃史(東京はとの会)によると、この一五〇羽は、六〇〇キロ以上の記録鳩百数十羽を配合して今春に生まれた優秀鳩であるという。 献納鳩は軍用鳩調査委員会の新築鳩舎に入れられ、吉川には陸軍大臣の感謝状が授与される(軍用鳩調査委員長・中島完一少将代理) なお、献納された鳩のうち五十羽は、近く満州の公主嶺に送られ、酷寒の荒野で活動する予定になっている。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十一年十一月三十日付) 東京朝日新聞社 |
南満州鉄道の急行列車・はと号は、大連~新京間七〇〇キロを十時間ほどで結ぶ。 満州事変で活躍した軍用鳩の功績を記念するためにその名がつけられる。 以上、同日付の『東京朝日新聞』の記事より。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十一年十二月三日付) 東京朝日新聞社 |
中部山岳鳩協会・三田旭夫作の放送劇「伝書鳩」が、東京中央放送局から放送される。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年五月号) 愛鳩の友社 |
東京小間物化粧品商報社において、日本伝書鳩協会が第七回定時総会を開催する。並木安一の司会で、会長の徳川義恕男爵があいさつに立ち、議長の新井嘉平治から事業報告や会計報告などがある。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年五月号) 愛鳩の友社 |
赤沢支隊は、東崗東方地区に蟠踞する呉義成の匪賊に対して討伐を実施し、この日、撫松への帰還の途に就く。しかし、その途中、吹雪に遭って八十数名の凍傷者を出して行軍不能に陥る。幸い、撫松鴿通信所より鴿哨の配属があったことから、その軍用鴿を用いて司令部に危急を知らせる。 その後、軍医らを乗せた車両が現地に到着し、赤沢支隊は救出される。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年六月号) 大日本軍用鳩協会 |
「総動員警備計画暫定綱領」が閣議決定される。 その中に、以下の条文がある。
参考文献 『国家総動員史 資料編 第二』 石川準吉/国家総動員史刊行会 |
この年、伊号第二十三潜水艦は、潜水艦の軍鳩搭載研究をたびたび実施する。 約二時間半の潜航後、浮上と同時に放鳩するが、結果は上々で、軍鳩は水上艦艇搭載時と何ら変わらず帰舎する。しかし、潜航中は夜間状態になるため、昼間鳩が餌を口にしない。一方、夜間鳩は通常と変わらない。長時間の潜航時は、夜間訓練を課した軍鳩が望ましいとの結果を得る。 ☆補足 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05035336700、公文備考 昭和11年 Q 通信、交通、気象時 巻1(防衛省防衛研究所)」に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めている)
軍鳩は無線封鎖時でも使用できる。 無線のように、その発した電波が敵にキャッチされて存在を暴露することがない。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05035336700、公文備考 昭和11年 Q 通信、交通、気象時 巻1(防衛省防衛研究所)」 |
大阪の湯川という人物が『鳩界』という鳩雑誌を発行する。二、三年ほどの刊行だったようだが、大阪や神戸を中心に読者を得る。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和五十年七月号) 愛鳩の友社 |
吉林、奉天、ハルビン、梨樹鎮、依蘭、靖川、通遼などに置かれた鴿通信所の状況が、両年中、満州国軍政部鴿通信所の『軍用鴿通信戦例集』に詳細に公表される。 軍用鴿の通信数は数万通に及び、匪賊討伐に貢献したり、多くの将兵の命を救ったりする。 参考文献 『普鳩』(昭和十七年四月号) 中央普鳩会本部 |
群馬県の伊勢崎鳩の会が、渡欧経験のある松本 興を招いて、欧州の鳩界事情を聞く会を開く。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年五月号) 愛鳩の友社 |
四谷見附の三河屋において、帝国伝書鳩協会の第一回の総会が開催される。 昭和十一年度事業会計報告、昭和十二年度事業計画、予算が決議され、一部の役員が改選される。 午後五時、散会する。 ☆補足 本年一月二十日現在までの帝国伝書鳩協会の会員は六二四名である。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年五月号) 愛鳩の友社 |
静岡市の田中屋において、静岡愛鳩会および駿河鳩倶楽部が伝書鳩展を開く。日本伝書鳩協会の新井嘉平治理事と、静岡歩兵第三十四連隊の鳩班が品評会の審査を担当し、参加鳩一四〇羽に各等級を付す。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年五月号) 愛鳩の友社 |
仙台第二師団が民間伝書鳩発展のため、管下で実施する競翔に師団長杯を下付する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年五月号) 愛鳩の友社 |
満州国軍の混成第一旅歩兵第一団第一営長の率いる部隊が、集安県老虎山付近一五三七高地北方二キロの地点において、王鳳閣の匪団員三名を捕らえる。 これにより、王鳳閣の所在が判明し、良民甸子鴿通信所は、直ちにその情報を司令部に鴿通信で伝える。 その後、王鳳閣は捕縛される。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年六月号) 大日本軍用鳩協会 |
朝日新聞社の飛行機・神風号の命名式に、東久邇宮稔彦王らが出席する。このとき、日本伝書鳩協会の会員らが二千数百羽の伝書鳩を持ち寄り、一斉放鳩する。朝日新聞社はその労を謝して、参加した各鳩クラブに三重木杯を贈呈する。 ☆補足 四月六日、東京~ロンドン間の連絡飛行のため、立川飛行場から神風号が飛び立つ。 四月十日午前零時三十分(現地時間四月九日午後三時三十分)、ロンドンのクロイドン飛行場に神風号が降り立つ。 神風号は、東京~ロンドン間の行程一万五三五七キロを、九十四時間十七分五十六秒(実飛行時間五十一時間十九分二十三秒)で飛行するが、これは当時の国際記録に当たり、大いに話題になる。 五月二十一日、明治神宮外苑競技場において帰朝報告会が開催される。 その際、日本伝書鳩協会が神風号の偉業をたたえて、約一〇〇〇羽の伝書鳩を一斉放鳩する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年五月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十四年六月号) 愛鳩の友社 |
小林部隊本部『軍用鳩ノ美談』に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『軍用鳩ノ美談』 小林部隊本部 |
大阪市主催、大阪学生愛鳩会賛助により、「伝書鳩知識普及展覧会」が大阪市立動物園において開催される。 この催しは関西最初の試みで、伝書鳩の飼育、訓練、利用法などの説明のほか、各種の物品を展示し、相談所を設置する。また、パンフレットの配布や記念スタンプなどを実施する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年五月号) 愛鳩の友社 |
同日付の『読売新聞』(昭和十二年四月八日付。夕刊)の記事によると、このたび、中野の軍用鳩調査委員会では、一〇〇キロ以上三〇〇キロくらいまで訓練済みの二歳~四歳までの雄鳩を一〇〇羽に限って一羽五円で払い下げるという。 普通、陸軍では若鳩のみを払い下げていて、今回のようなことはめったにない。希望者は至急、申し込まれるように、などと記事は述べている。 ただし、条件があって、一人につき二羽までで、民間の鳩協会に所属していなければならない。 ☆補足 民間伝書鳩の優良系は、そのほとんどが陸軍の軍用鳩の血を引いている。 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十六年九月号)に掲載された記事「中陸Z鳩舎と民間鳩」(作・中根時五郎)によると、中野にはZ鳩舎という品種改良鳩舎があり、同鳩舎の種鳩は、Zと刻印された脚環をはめていたという。某鳩部長の時代にZ鳩舎は改称されて、現在は品種改良鳩舎になっているが、Z鳩舎の鳩が陸軍軍用鳩の最優秀なる系統である、などと執筆者の中根は述べている。 『愛鳩の友』(昭和五十一年十月号)に掲載された対談記事「一代限りの雑草でも銘鳩だ」(作・小野内泰治、石橋善人)において、小野内泰治は、以下のように述べている。
ただし、この小野内の発言に対し、石橋善人は、「それは創成期のごく短い時期じゃなかったんですか」と質問する。小野内は「そうです」と答えて、その後の銘鳩の変遷について簡単に述べる。 小野内によると、陸軍が民間に払い下げた子鳩と、当時、民間で輸入した鳩を配合して採った鳩が非常にいい成績を収めたという。そして、「在来の系統というのは、ほとんどがそれの子から出たようですね」と述べる。しかし、昭和の一桁代になると、競翔が全国的に行われるようになり、銘鳩の基準が変わっていったとも話す。六〇〇キロ競翔で優勝する、兄弟の鳩がともに競翔の上位に入賞する、六〇〇キロ競翔と五〇〇キロ競翔を経験している等々である。このような実績が銘鳩の基準になっていったという。 参考文献 『読売新聞』(昭和十二年四月八日付。夕刊) 読売新聞社 『日本鳩時報』(昭和十六年九月号) 大日本軍用鳩協会 『レース鳩』(平成二十五年十月号) 日本鳩レース協会 『愛鳩の友』(昭和五十一年十月号) 愛鳩の友社 |
午前十一時より、中野軍用鳩調査委員事務所構内の鳩魂塔で、鳩魂塔慰霊祭が開催される。 日本伝書鳩協会の会長・徳川義恕男爵ほか、関係者が参列する。 ☆補足一 『東京朝日新聞』(昭和十二年四月九日付)に載った予定に従って上記の内容や日付を記す。したがって、予定に変更が生じていたら、出来事や日付が現実と異なっているかもしれない。 ☆補足二 『愛鳩の友』(昭和三十一年六月号)に掲載された記事「伝書鳩 慰霊塔の由来」に、以下の記述がある。
*文中に「両協会」とあるが、日本伝書鳩協会と帝国伝書鳩協会のこと。 ☆補足三 当時の記録ではないが、日本鳩レース協会『レース鳩』(平成二十三年十一月号)に掲載された記事「Q界トピックス」に、鳩魂塔慰霊祭の流れが載っている(*平成二十三年九月十九日に執り行われた第三十回鳩魂塔慰霊祭) 修祓(しゅうばつ)、降神の儀(こうしんのぎ)、献饌(けんせん)、祭詞奏上(のりとそうじょう)、玉串奉奠(たまぐしほうてん)、撤饌(てっせん)、昇神の儀(しょうしんのぎ)、そして最後に平和の祈りを込めた白鳩の一斉放鳩。 以上で、式典終了となる。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十二年四月八日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十二年四月九日付) 東京朝日新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十一年六月号) 愛鳩の友社 『レース鳩』(平成二十三年十一月号) 日本鳩レース協会 |
読売新聞社鳩部長の高畠多一が講師を務める、外国鳩競翔講座が、中央普鳩会事務所において開催される。 聴講料は一年分十円、一ヶ月分一円で、『ザ・レーシング・ピジョン』という外国誌掲載の記事を参考資料に用いる。 ☆補足 五月三十日、第二回講座が開催する。 六月二十七日、第三回講座が開催する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年五月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十四年六月号) 愛鳩の友社 |
在汕頭領事が外務大臣宛てに、「伝書鳩登記施行ニ関スル件」を提出する。 現地の駐防第一五五師司令部が漢奸の伝書鳩通信防止のために伝書鳩登記の必要性を認めたことから先月下旬より登記がはじまっている、という内容である。 ☆補足 漢奸による伝書鳩通信に、日本の関与があったのか、はっきりしない。単に在汕頭領事が外務大臣に現地の情勢を報告しているだけ、とも考えられる。 ちなみに、この伝書鳩登記に関する法律は、養鳩取締暫行規則といって全十二条からなり、汕頭市警察局が対応に当たる。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B10074890600、伝書鳩関係雑件(F-2-0-0-5)(外務省外交史料館)」 |
『関東軍軍用鳩規定』(関参一発第一三四五号)が定められる。 これにより、昭和八年七月二十四日に定められた『関東軍軍用鳩育成所規定』(関後命第三四六号)、『関東軍軍用鳩補充規定及軍用鳩ニ関スル指示』は廃止される。 目次は、以下のとおり(一部、文字表記を改めている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04012494500、昭和12年 「満受大日記(普) 其3 2/2」(防衛省防衛研究所)」 |
日本伝書鳩協会と東京朝日新聞社の主催で、苫小牧~東京間九五〇キロ競翔が開催される(陸軍省、海軍省、鉄道省、資源局後援) この日の午前四時三十一分、一四〇羽の鳩(参加六十五鳩舎)が苫小牧から東京に向けて放たれる。 当日帰りはなかったが、六月四日の朝頃から続々と鳩が帰還し、夕刻までに計二十四羽が記録される。 なお、本競翔の審査委員は、以下のとおり(陸軍、海軍、鉄道省、資源局、日本伝書鳩協会、東京朝日新聞社の順番で紹介) 審査委員長――陸軍通信学校長・中島完一少将。 審査委員――飯野賢十大佐、陸軍省防備課員・田山文治少佐、神沢謙三獣医大尉、西尾秀彦大佐、石原宇市少佐、横須賀防備隊・朝広裕二少佐、関根徳一特務中尉、鉄道省工務局保線課長・阿会沼 均、資源局総務部調査課長・山田秀三、同調査課・野村 瀬、日本伝書鳩協会理事・新井嘉平治、永田秀彦、並木安一、相馬英雄、近久 央、東京朝日新聞社編集局長・美土路昌一、通信部長・木村 東、計画課長・庄崎俊夫、庶務課長・伊集院兼雄。 ☆補足 六月二十二日午後一時から、朝日新聞本社の会議室で本競翔の表彰式がおこなわれる。 日本伝書鳩協会の会長・徳川義恕男爵から受賞者に賞品が授与される。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十二年五月三十日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十二年五月三十一日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十二年六月二日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十二年六月四日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十二年六月四日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十二年六月五日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十二年六月二十二日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十二年六月二十三日付) 東京朝日新聞社 |
長野県の伊那電気鉄道は、この山のシーズンから中央アルプスや南アルプスへの登山客に伝書鳩を無料で貸し出すサービスをはじめる。 この伝書鳩は、昨年から訓練していたもので、山で遭難したときなどに連絡手段として用いる。 以上、同日付の『東京朝日新聞』の記事より。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十二年六月五日付) 東京朝日新聞社 |
旭川~東京間一〇〇〇キロ競翔に参加する九羽の鳩が、羽田飛行場から旅客機で札幌に空輸される(さらにそこから汽車で旭川まで運ばれる。その鉄道輸送が十日中のことなのか十一日以降のことなのか不明) 伝書鳩の空輸は、日本初の試みであり、空輸後の長距離飛翔にいかなる影響が生じるのか陸海軍が注目する。 参考文献 『読売新聞』(昭和十二年六月十一日付) 読売新聞社 『読売新聞』(昭和十二年六月十四日付) 読売新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十四年六月号) 愛鳩の友社 |
午前五時二十五分、旭川~東京間一〇〇〇キロ競翔(CSKはとクラブ主催、帝国伝書鳩協会後援、読売新聞社審判)が幕を開け、放鳩者・亀田伊太郎が参加鳩九羽を空に放つ。 これが日本鳩界史上、最初の一〇〇〇キロ競翔となる。 結果は、以下のとおり。 第一位 吉野五号(灰胡麻 ♂ 昭和十年生) 翌日午後一時十三分帰還 分速六七七・四四メートル(二十二時間十三分五十秒) 吉野謙三 第二位 帝鳩二九二六号(灰 ♂ 昭和十一年生) 翌日午後三時二十九分帰還 分速六一九・一二メートル(二十四時間三十分七秒) 岡庭正義 第三位 帝鳩十五号(灰胡麻 ♂ 昭和十一年生) 五十一日目帰還 永代静雄 ☆補足一 小野内泰治『日本鳩界史年表』(12)によると、競翔の参加者と鳩数は、岡庭正義(三羽)、吉野謙三(二羽)、永代静雄(一羽)、長谷 勇(一羽)、野沢幸七(一羽)であるという。しかし、そうすると、参加鳩が八羽となり、九羽に満たない。放鳩直前、病気などにより一羽の参加を見送ったのか、または小野内の誤記なのか、よく分からない。 ☆補足二 日本鳩レース協会『レース鳩』(平成二十三年八月号)に掲載された記事「戦前の1000Kレースについて」(作・荒井忠尋)によると、吉野謙三鳩舎までの実距離が九〇三キロ、岡庭正義鳩舎までの実距離が九一〇キロなので、これを正規の一〇〇〇キロレースと呼べるのか議論の余地があるという。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年六月号) 愛鳩の友社 『読売新聞』(昭和十二年六月十一日付) 読売新聞社 『読売新聞』(昭和十二年六月十四日付) 読売新聞社 『レース鳩』(平成二十三年八月号) 日本鳩レース協会 |
午後二時から朝日新聞本社の屋上で、伝書鳩三〇〇羽の検査(翼、脚、目、くちばしなど)がおこなわれる。 横須賀防備隊軍用鳩主任の朝広裕二少佐が実施し、横須賀防備隊で使翔する鳩を選出する。 鳩はいずれも生後三、四ヶ月で、東京、埼玉、群馬の愛鳩家たちが優秀な血統の鳩を持ち寄る。 厳格な検査の結果、八十羽が合格し、一羽四円で海軍に買い上げられる。 ☆補足 『東京朝日新聞』(昭和十二年六月十七日付)の記事では、横須賀防備隊の将校の名が「朝倉」になっているが、「朝広」の誤りと思われる。 上記の一文では、「朝広」に訂正してある。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十二年六月十七日付) 東京朝日新聞社 |
東京王子区の慰問袋の募集期限がこの日に締め切られる。 王子区の割り当ては四三〇〇袋だったが、それを大きく超えて約七五〇〇袋が集まり、慰問金も約四〇〇円が寄付される。 この慰問袋の中には、豆、麦、パン、ビスケットなどが入った軍用動物(鳩、犬、馬)向けのものもあり、係員を感激させる。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十二年六月二十三日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
この日、満鉄育成所の日下部 照が中野の軍用鳩調査委員事務所を訪れて、一五〇〇羽の鳩の入手方法について打ち合わせをする。 満鉄では、匪賊来襲の速報係として伝書鳩を用いているが、これが大いに活躍していることから、さらに鳩の数を増やすという。 予定では、六月二十五日から三日間のうちに東京で七〇〇羽、残り八〇〇羽を地方から買い上げることになっている(鳩一羽につき四、五円)。そして、来月の九日、新潟発の船で一五〇〇羽の鳩を大陸に輸送し、しばらく育成所で訓練してから、北満の一五〇の通信所にそれぞれ配置するという。 参考文献 『読売新聞』(昭和十二年六月二十四日付) 読売新聞社 |
東京日日新聞社講堂において、全関東伝書鳩連盟が映画と講演の夕を開催する(帝国伝書鳩協会、東京日日新聞社後援)。荒川技師の講話「天候と鳩」や、東京日日新聞社記者・広瀬英太郎の講話「伝書鳩を使用してニュースのできるまで」のほか、伝書鳩映画の上映や三遊亭金馬の落語講演などがある。 ☆補足 全関東伝書鳩連盟は、昭和四年十一月三日に発足している。そして、関口竜雄『鳩と共に七十年』によると、昭和五年十二月七日の日本伝書鳩協会創立に伴って解散しているという。 つまり、上記の一文に出てくる全関東伝書鳩連盟は、これとは別の組織だと思われる。あるいは、解散していた全関東伝書鳩連盟が再結成されたのかもしれない。もしくは、関口の誤記の可能性もあり得る。 詳細不明。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年六月号) 愛鳩の友社 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 |
南洋ボルネオ水産会社がマグロ船と缶詰工場の連絡に無電を使用しようとするが、シンガポール軍港に近いとの理由で許可が下りなかった。 そこで、伝書鳩の利用を思いつき、六月三十日出帆の船で、読売新聞社鳩班の優秀鳩十羽が南洋ボルネオ水産会社に輿入れすることになる。 現地到着後は二ヶ月間の訓練を経て、南海の空を飛び回る予定である。 以上、同日付の『読売新聞』の記事より。 参考文献 『読売新聞』(昭和十二年六月二十八日付) 読売新聞社 |
現時点での日本海軍各隊における軍鳩数。 横須賀防備隊、四三〇羽。 呉防備隊、九十六羽。 佐世保防備隊、一四〇羽。 舞鶴防備隊、八十羽。 大湊防備隊、九十六羽。 鎮海防備隊、八十一羽。 馬公防備隊、六十三羽。 旅順防備隊、七十四羽。 霞ヶ浦海軍航空隊、一五六羽。 上海海軍特別陸戦隊、二四三羽。 漢口海軍特別陸戦隊、四十羽。 砲艦・嵯峨、十羽。 総計、一五〇九羽。 参考文献 『海軍制度沿革』(巻十五) 海軍大臣官房 |
内閣資源局が全国伝書鳩飼養状況調査をまとめる(ただし、陸海軍や外地の飼養鳩は除く) それによると、現在、日本には五万二一三二羽の伝書鳩が飼われているという。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年六月号) 愛鳩の友社 |
盧溝橋事件が発生し、日支両軍が激突する。 この支那事変において、日本軍の軍用鳩が活躍している。 以下に、その一例を引用しよう(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十八年五月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足一 支那事変の勃発を受けて、日本伝書鳩協会や帝国伝書鳩協会などの団体ならびに個人が、続々と伝書鳩を軍に献納する。 以降の各項において、各団体の献納状況をいくつか記しているが、個人の献納については煩雑なため、ほとんどを省略している。 ☆補足二 『軍用鳩ノ沿革』に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足三 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十八年五月号)に掲載された記事「軍用鳩の思出」(作・池田重雄)によると、支那事変初期に鳩通信に服した者の素質はほとんど素人といってもよい程度で、軍がせっかく貴重な鳩と器材を集めて編成した目的に対して、甚だ遺憾だったという。 池田がこの記事を記した一九四三(昭和十八)年当時にあっても、状況はそれほど改善されておらず、人の資源について、まだ物足りなさを感じてやまない、などと池田は述べている。 ☆補足四 小野内泰治『日本鳩界史年表』(12)によると、日支事変に対処するため、日本伝書鳩協会では朝日新聞社鳩班とともに東部防衛司令部の直接指揮下に国防鳩隊を編成したという。国防鳩隊の隊長は、日本伝書鳩協会会長の徳川義恕男爵、幹部は日本伝書鳩協会の在京理事、通信班長は参加鳩クラブの代表者、通信班員は参加鳩舎と朝日新聞社員が当たり、通信班は地域別に分けられ、十班が編成されたそうである。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年五月号) 大日本軍用鳩協会 『軍用鳩ノ沿革』 『東京朝日新聞』(昭和十二年七月九日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十四年六月号) 愛鳩の友社 |
第四独立守備隊司令部が『第四独立守備隊軍用鳩規定』を定め、出版する。本書は軍事機密に当たり、表紙に「秘」の一字がある。 本規定の冒頭において、第四独立守備隊の小林角太郎司令官が以下のように述べる(一部、文字表記を改めている)
目次は、以下のとおり(一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『第四独立守備隊軍用鳩規定』 第四独立守備隊司令部 |
伝書鳩一五〇〇羽の献納を目指している、東京はとの会の吉川晃史は、昨年十月に三五〇羽の鳩を陸海軍と満州国に献納している。吉川はさらに四回にわたって五〇〇羽の献納を今年中に達成しようと、この日、一〇〇羽を陸軍省に献納する。 ☆補足 『東京朝日新聞』(昭和十二年七月二十五日付)に載った予定に従って上記の内容や日付を記す。したがって、予定に変更が生じていたら、出来事や日付が現実と異なっているかもしれない。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十二年七月二十五日付) 東京朝日新聞社 |
日本伝書鳩協会は陸軍に一〇〇〇羽の伝書鳩を献納することに決し、この日、関東鳩団より第一陣の四〇〇羽を中野の軍用鳩調査委員事務所に寄贈する。 ☆補足 「寄付品受領ノ件報告」(鳩甲第三十号)によると、八月九日に軍用鳩調査委員会は四五〇羽の鳩を受領し、その見積価格は二二五〇円(一羽五円)であったという。 あとから追加の五十羽が到着したようである。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十二年八月四日付) 東京朝日新聞社 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01007313300、永存書類 乙集 第2類 第5冊 昭和14年「恩賜寄附」(防衛省防衛研究所)」 |
軍用鳩調査委員会が以下の文書を作成し、動員部隊に配布する(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01005617300、陸支機密大日記 第1冊 1/2 4冊の内 第1号 昭和12年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01005617300、陸支機密大日記 第1冊 1/2 4冊の内 第1号 昭和12年(防衛省防衛研究所)」 |
軍用鳩調査委員長が陸軍大臣宛てに、「軍固定鳩隊設置ニ関スル意見」(鳩甲第四十号)を提出する。これは、このたびの支那事変勃発を受けて、鳩通信網の強化・統制が必要となり、現地の北支駐屯軍に軍固定鳩隊を設置してほしい、との上申である。 鳩隊の編成案は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01004432500、密大日記 第3冊 昭和13年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01004432500、密大日記 第3冊 昭和13年(防衛省防衛研究所)」 |
久邇宮家彦王、久邇宮徳彦王、久邇宮恭仁子女王の三名が富山より針ノ木越えの登山を楽しむ。このとき、伝書鳩二十羽が随行し、計二十六通の通信文を届ける。 参考文献 『読売新聞』(昭和十三年二月二十六日付) 読売新聞社 |
一九三七(康徳四)年七月、満州国軍は、三江地区に蠢動する大小の匪団の大討伐を開始する。また、同年八月十三日、三江地区鴿通信隊を編成し、佳木斯に隊本部(隊長・駒原邦一郎上尉以下二十三名)を設置し、依蘭、湯原、亮子河、蘿北、富錦、果賢鎮、新城鎮、饒河、勃利、土龍山に鴿通信所を置き、他に通信手段のない交通不便な地にあって活躍する。そして、討伐の進捗に伴い、宝清、東安鎮、小桂河、海青鎮、李花馬屯、二龍山、二道崗、七星泡、頭道林子、綏浜などに鴿通信所を移転あるいは増設し、人員の補充や交代をおこなう。 一九三七(康徳四)年七月から一九三八(康徳五)年までの期間に取り扱った通信数は、三四七三通に及び、討伐や治安粛正に欠かすことのできない通信手段として鴿通信がその価値を示す。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年六月号) 大日本軍用鳩協会 |
第七十二回帝国議会の衆議院での請願委員会議(第二回)において、「靖国神社外苑ニ軍馬、軍犬、軍用鳩ノ忠霊塔建設ノ件」の請願が審議される。 その請願の要旨を板東幸太郎理事が以下のように述べる(「第72回帝国議会 衆議院 請願委員会 第2号 昭和12年9月8日」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
比佐昌平政府委員(陸軍参与官)がこの請願に賛成する。ただし、靖国神社は忠霊を祭る神聖の土地と考えられるので、軍用動物の忠霊塔を靖国神社の境内に同じく建設するのは考えものであり、靖国神社以外の場所に建設するのが陸軍としては結構である、などと、その設置場所について反対意見を述べる。 この比佐の主張に板東は同意し、結局、靖国神社以外のところにおいて適当な方法を講じる、ということで忠霊塔建設案が採択される。 ☆補足 比佐は明言していないが、英霊を祭る靖国神社に畜生の霊を同列に祭るのはいかがものか、ということを言いたかったように思われる。 ちなみに、大東亜戦争後の現在、軍馬、軍鳩、軍犬の慰霊像が、靖国神社の境内に奉納されていて、ここで定期的に慰霊祭が開かれている。 参考文献 「第72回帝国議会 衆議院 請願委員会 第2号 昭和12年9月8日」 https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/minutes/api/emp/v1/detailPDF/img/007211944X00219370908 |
帝国伝書鳩協会(会長・木下 信)が軍用鳩二五〇羽を軍用鳩調査委員会に献納する。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01007313900、永存書類 乙集 第2類 第5冊 昭和14年「恩賜寄附」(防衛省防衛研究所)」 |
大日本国防鳩隊が防空演習に参加する。同隊は東部防衛司令部の直接の指揮下に置かれ、八班に分かれて防空哨戒線に配置される。 編成は、隊長・徳川義恕男爵、伝書鳩約五〇〇羽、隊員約七十名(民間有志)である。 ☆補足 最終日の九月十九日、軍に対する協力と国民防空の強化に貢献したとして、国防鳩隊は東部防衛司令部から賞詞を受ける。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十二年七月十一日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十二年九月十九日付) 東京朝日新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十四年八月号) 愛鳩の友社 |
陸軍通信学校の飯野賢十大佐が『軍用鳩使用ノ参考』を出版する。 本書は軍事機密に当たり、表紙に「秘」の一字がある。また、「本書ハ修正ノ余地多キモ取敢ヘス印刷ス」との一文が表紙に記してある。 本書の目次は、以下のとおり(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『軍用鳩使用ノ参考』 飯野歩兵大佐 |
軍用動物慰霊会(会長・森岡守成大将)は、代々木練兵場の北端に軍用動物慰霊碑を建立する計画を進めていたが、このほど礎石の搬入を終えたので、この日の午後一時から地鎮祭を開催する。 ☆補足 『東京朝日新聞』(昭和十二年十月八日付)に載った予定に従って上記の内容や日付を記す。したがって、予定に変更が生じていたら、出来事や日付が現実と異なっているかもしれない。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十二年十月八日付) 東京朝日新聞社 |
午後八時~午後九時まで、東京第一(五九〇KC)において、軍用動物に関するラジオ番組「もの言はぬ戦士 戦功を讃ふ特輯の夕」が放送される。 その中でラジオドラマ『天使従軍』が流れる。 内容は、以下のとおり(『東京朝日新聞』〔昭和十二年十月二十三日付〕より引用)
参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十二年十月二十三日付) 東京朝日新聞社 『読売新聞』(昭和十二年十月二十三日付) 読売新聞社 |
第九回明治神宮体育大会において、陸海軍と民間有志の鳩二千数百羽が明治神宮外苑競技場から一斉放鳩される。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年八月号) 愛鳩の友社 |
「国防献金品寄付取扱手続」(陸軍省告示第四十五号)が出される。 第二条は、国防献品として受理すべきものを述べていて、その第二条第二号の条文は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14010158600、陣中経理要覧 昭和3.5(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14010158600、陣中経理要覧 昭和3.5(防衛省防衛研究所)」 |
大阪好鳩会が伝書鳩一〇〇羽を海軍に献納する。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05110920600、公文備考 昭和12年 H 物品(除兵器) 巻3(防衛省防衛研究所)」 |
石家荘から太原まで険しい山が連なっているため、各部隊間の連絡に支障が出る。しかし、軍用鳩がこの穴を埋める。井陘の標高一〇三〇メートルの高地攻撃の際、第一線部隊と本隊の連絡が途絶えるが、軍用鳩八四四号が飛来して第一線部隊の安否を本隊に伝える。隊長は、この山岳地帯での鳩の活躍に対し、「大変な殊勲を立ててくれた」と言って喜ぶ。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十二年十一月八日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
日本伝書鳩協会(会長・徳川義恕男爵)が軍用鳩二三三羽を、帝国伝書鳩協会(会長・木下 信)が軍用鳩一一三羽を、軍用鳩調査委員会に献納する。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01007315300、永存書類 乙集 第2類 第5冊 昭和14年「恩賜寄附」(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01007315200、永存書類 乙集 第2類 第5冊 昭和14年「恩賜寄附」(防衛省防衛研究所)」 |
午後一時から下谷区金杉一丁目の万徳寺で馬頭観世音像の開眼式がおこなわれる。 また、満州・支那両事変で戦病死した将士と軍用動物(軍馬、軍犬、軍鳩)の万霊追悼会も開催される。 ☆補足 『東京朝日新聞』(昭和十二年十一月十四日付)に載った予定に従って上記の内容や日付を記す。したがって、予定に変更が生じていたら、出来事や日付が現実と異なっているかもしれない。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十二年十一月十七日付) 東京朝日新聞社 |
午後一時から上野公園動物園内の慰霊碑前で軍用動物慰霊祭が開催される。 余興として伝書鳩通信の実演や軍用犬の訓練などがおこなわれる。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十二年十一月二十二日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
東京朝日新聞社主催、第四回全日本学生航空選手権大会が大阪盾津飛行場において開催される。 飛行服に身を包んだ七十九名の選手、十七機の飛行機、三機のグライダーが競技に参加する(ほかに来客や審査員など) 開会式で朝日新聞社と民間愛鳩団体の伝書鳩計八〇〇羽が一斉放鳩される。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十二年十一月二十二日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
準戦時体制下の第二回防空演習に朝日新聞社編成の大日本国防鳩隊が参加し、十一月二十三日午前、防空演習解除とともにその鳩通信任務を終える。 なお、大日本国防鳩隊(隊長・徳川義恕男爵)は東部防衛司令部の指揮下にあり、参加鳩舎一五〇、鳩数五〇〇羽だった。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十二年十一月二十四日付) 東京朝日新聞社 |
陸軍通信学校が『支那事変ノ教訓ニ基ク通信教育資料(其一)』を編纂する。 鳩通信の項の内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110803900、支那事変の教訓に基く通信教育資料 (其1~3) 昭和12年11月~昭和13年2月(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110803500、支那事変の教訓に基く通信教育資料 (其1~3) 昭和12年11月~昭和13年2月(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110803900、支那事変の教訓に基く通信教育資料 (其1~3) 昭和12年11月~昭和13年2月(防衛省防衛研究所)」 |
日本伝書鳩協会が社団法人化の許可を陸軍省に申請する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年八月号) 愛鳩の友社 |
十二月七日の朝、満州国軍の歩兵第三十一団(饒河駐屯)は、天元明山匪二〇〇名が撫遠県の太平鎮部落を包囲した、との報に接し、王中校以下一八三名の討伐隊を編成する。 討伐隊は十六日間にわたり、西林子、小西山、東安鎮、太平鎮、小桂河付近を行動し、饒河鴿通信所に鴿通信をもたらす。 零下四十度の極寒で七十五キロに達する距離を鴿は飛び、唯一の通信機関として活躍する。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年六月号) 大日本軍用鳩協会 |
日本伝書鳩協会(会長・徳川義恕男爵)が軍用鳩五十二羽を、帝国伝書鳩協会(会長・木下 信)が軍用鳩九十六羽を、学生伝書鳩連盟(会長・佐藤 直少将)が軍用鳩三十二羽を、軍用鳩調査委員会に献納する。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01007315600、永存書類 乙集 第2類 第5冊 昭和14年「恩賜寄附」(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01007315700、永存書類 乙集 第2類 第5冊 昭和14年「恩賜寄附」(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01007315800、永存書類 乙集 第2類 第5冊 昭和14年「恩賜寄附」(防衛省防衛研究所)」 |
日本軍の南京入城を祝して、大日本国防鳩隊が市内を行進する(朝日新聞社主催) 国防鳩隊隊長の徳川義恕男爵を先頭に、隊員一〇〇名と伝書鳩二〇〇羽(鳩籠入り)がブラスバンドのマーチも勇ましく、朝日新聞社前に集合する。そして、午後二時、一隊は出発し、沿道の観衆の声援を受けながら銀座通りから九段に行進する。一隊はさらに防衛司令部から二重橋前で万歳三唱、再び朝日新聞社前まで行進し、その後、散会する。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十二年十二月十八日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
中野の軍用鳩調査委員会宛てに、付け根から切り取られた軍用鳩の両脚と、一通の封書が届く。差出人は倉林部隊の高山米蔵特務兵で、鳩の左脚には「四七号」、右脚には「仙台東星十一号」「一二年生」と刻まれた足輪が、それぞれ、はめられている。 以下に、高山の手紙を紹介しよう(『東京朝日新聞』〔昭和十二年十二月二十四日付〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
この仙台東星十一号は、南京城付近の戦闘において重要任務を遂行中、支那兵に狙撃されて、通信文を携行したまま戦死する。そして、高山がその死体を発見して、今回の次第となる。 軍用鳩調査委員会の田川潤一郎中佐は、以下のように語る(『東京朝日新聞』〔昭和十二年十二月二十四日付〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
なお、仙台東星十一号の両脚は、鳩魂塔に納めて懇ろにその霊を弔い、今月二十六日開催の軍用動物慰霊祭において合祀される。 ☆補足 十二月二十六日、代々木練兵場で開催された軍用動物慰霊祭に、最近応召した正木喜一郎上等兵が参列する。正木は、仙台東星十一号の育ての親で、これが合祀されると聞いて駆けつけたのである。正木は子供の頃から鳥類の飼育に凝っていて、本年七月の支那事変勃発とともに三十一羽の伝書鳩を「一在郷軍人より」として無名で献納している。その後、応召して現在軍務に服しているが、愛鳩の消息を常に気にしていた。 正木は、仙台東星十一号の両脚を手に乗せて、目を潤ませながら、以下のように語る(『東京朝日新聞』〔昭和十二年十二月二十七日付。夕刊〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十二年十二月二十四日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十二年十二月二十七日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
午後四時四十分、某通信隊の鳩車に、中野三一〇四号(通称、見透号)が通信文を持って帰来する。楡林鎮にある林大尉(架橋○○中隊)より、渡河材料の不足を訴える内容だった。 現在、本川部隊(本川省三少将率いる歩兵第一一八旅団)は、黄河の敵前渡河に取り組んでいるが、このままでは材料不足によって支障が出てしまう。 この見透号の届けた一報によって、直ちに○○材料輸送隊が派遣されて、本川部隊は大成功のうちに黄河を敵前渡河し、一挙に山東省の一角を蹂躙する。 ちなみに、見透号は、途中、ハヤブサに襲われたらしく、右主翼つけ根の下に三十ミリほどの裂傷を負う。 大けがを負いながら任務を果たした見透号に、「よく出かしたぞ!」と鳩兵は思い、目頭を熱くする。 参考文献 『軍用鳩』(昭和十九年四・五月号) 大日本軍用鳩協会 |
日本ではじめての軍用動物慰霊碑を建立しようと、軍用動物慰霊会(会長・森岡守成大将)が、かねて活動していたが、この日、慰霊碑が完成したことを受けて、午前十時二十分より、除幕式ならびに慰霊祭を開催する。 代々木練兵場北隅小田急参宮橋駅上の碑前に、丙功章をつけた軍馬(東京各陸軍部隊)、軍犬(軍用犬協会のシェパードなど)、軍鳩(中野電信隊)、一〇〇名以上の関係者が参列する。 紅白の幕が落とされるのと同時に、中野電信隊の軍用鳩数百羽が放たれ、軍用動物慰霊碑の上空を旋回する。 ☆補足 除幕式ならびに慰霊祭の開始時刻について、『東京朝日新聞』(昭和十二年十二月二十七日付。夕刊)は「午前十時」、『読売新聞』(昭和十二年十二月二十七日付。夕刊)は「午前十時二十分」と、それぞれ記している。 どちらの記述が正しいのか不明。 参考文献 『読売新聞』(昭和十二年十二月二十六日付。第二夕刊) 読売新聞社 『読売新聞』(昭和十二年十二月二十七日付。夕刊) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十二年十二月二十七日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
第四独立守備隊の栗田武男獣医大尉が『軍用鳩減耗予防策』を出版する。 栗田は、緒言で以下のように述べる(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
総鳩数の四十九パーセント、すなわち、約半分の鳩が斃死や失踪により失われているとのことである。 この高い損耗の状況が表にまとめられている。 以下に引用しよう(一部、文字表記を改めている。「独守歩一九」とは「独立守備歩兵第十九大隊」のこと〔以下、二十~二十四まで同〕)
年間総減耗鳩三八八羽のうち、失踪鳩は三五二羽にのぼり、その減耗の九十パーセント以上を占める。 失踪の原因としては、ドバトの誘致、猛鳥の襲撃、放鳩距離の急激なる延長、産卵期直前の放鳩、秋季の盗食、酷寒時天候気象の不良感作、軍部以外の鳩舎存在、匪賊討伐時の使用、放鳩訓練の失冝を挙げている。 失踪の対策としては、ドバトの駆除および威嚇、猛鳥の駆除、放鳩距離の漸進的延長、産卵期直前の放鳩中止、能力優秀鳩の利用、能力劣等鳩の近距離放鳩励行、復訓練の実施、天候気象に対する顧慮、放鳩時間の規正、鳩係下士官および鳩取扱兵の運用を挙げている。 ☆補足 一九三七(昭和十二)年頃?と本書の出版時期を仮定する。取り扱っているデータが一九三六(昭和十一)年のもので、その内容も高度な分析を必要としないからである。 軍用鳩に関する記録は月報をはじめ、広範に取られている。本書が仮に一九三八(昭和十三)年の出版であったら、前年の一九三七(昭和十二)年の数値を用いるのが妥当である。 状況的に見て、一九三七(昭和十二)年の可能性が高いと判断する。 参考文献 『軍用鳩減耗予防策』 栗田武男 |
日本伝書鳩協会では愛国移動鳩舎献納資金を募集しているが、この日、富山県高岡市の宝塚町少年団が、毎年開かれている新年会の費用十二円を同資金に寄付する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年八月号) 愛鳩の友社 |
帝国伝書鳩協会幹事の喜代田光英が、中国の軍用鳩通信状況視察のため、東京駅を発つ。 北支方面を見る予定だという。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年八月号) 愛鳩の友社 |
日本伝書鳩協会(会長・徳川義恕男爵)が軍用鳩二十六羽を、帝国伝書鳩協会(会長・木下 信)が軍用鳩七十羽を、軍用鳩調査委員会に献納する。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01002485200、永存書類 乙集 第2類 第7冊 昭和15年「下賜、寄附物」(防衛省防衛研究所)」 |
国防鳩隊の新年会が開かれる。 東部防衛司令部付の吉村少佐を来賓に招く。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年八月号) 愛鳩の友社 |
軍用鳩調査委員長が陸軍大臣宛てに、「鳩ノ現地補充機関設置ニ関スル意見」(鳩甲第十一号)を提出する。これは、戦地の動員部隊に速やかに鳩の補給がおこなわれるように、現地に補給機関(常時、軍用鳩一二〇〇羽)を設置してほしい旨の上申である。 人員の編成案は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01004432600、密大日記 第3冊 昭和13年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01004432600、密大日記 第3冊 昭和13年(防衛省防衛研究所)」 |
江北戦線の滁県から南京に向けて、青柳部隊の軍用鳩十五羽が放たれる。 そのうち、軍用鳩二六六三号(昭和十二年中野産)だけが胸に深傷を負いながら南京に帰着し、重要な通信文を届ける。ほかの十四羽は猛禽類に殺されてしまったらしく、未帰還となる。 青森県出身の小舘清正少尉は、瀕死の重傷を負った軍用鳩二六六三号を手当てし、寝ずに看病する。その結果、軍用鳩二六六三号の容体が徐々に回復する。 軍用鳩二六六三号の勲功は、陸軍大臣に上申されるという。 ☆補足 上記の一文は、『読売新聞』(昭和十三年二月二十八日付)の記事に従って、小舘清正「少尉」と記す。 一方、国際情報社『世界画報』(日支大事変号第八集)の記事には、小舘「中尉」とある。 どちらの記述が正しいのか不明。 参考文献 『世界画報』(日支大事変号第八集) 国際情報社 『読売新聞』(昭和十三年二月二十八日付) 読売新聞社 |
紀元節の本日、国防鳩隊隊長の徳川義恕男爵以下六十名が歩兵籠を背負って靖国神社から宮城まで行進し、二〇〇〇羽の鳩を祝賀放鳩する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年八月号) 愛鳩の友社 |
織田尋常高等小学校『国魂顕正 事変読本』が発刊する。同書に、「つばさの勇士、鳩にも大和魂」という話が載っている。 以下に、引用しよう(一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『国魂顕正 事変読本』 織田尋常高等小学校 |
二月十六日の朝、京漢方面の河原鳩隊に属する軍用鳩が、張村まで前進した某部隊に配属される。 この某部隊は、追撃が急なために、後方部隊との連絡が途絶したときのことを想定して、軍用鳩を受領する。そして、その危惧どおり、某日の午前十時頃、某部隊と後方部隊との交信が不通になる。 そこで、某部隊は軍用鳩を放って後方部隊との連絡を試みる。しかし、この辺りは険しい山が連なり、猛禽類が出没する危険地帯だった。案の定、軍用鳩は猛禽類に襲撃され、重傷を負う。左の翼に銅貨ほどの穴があき、爪の跡が骨にまで達する。右のまぶたにも裂傷を負い、血が凝固して右目がふさがる。 午後二時過ぎ、約五十キロの距離を命からがら飛んできた軍用鳩が河原鳩隊に帰り着く。重傷を負っているためにそのままバタリと倒れる。河原隊長はすぐさま、血だらけの軍用鳩にヨードチンキで応急手当をする。間もなく、軍用鳩は蘇生する。この責任感旺盛な軍用鳩に将兵はいたく感激しているという。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十三年四月五日付) 東京朝日新聞社 |
社団法人化を申請した日本伝書鳩協会が書類に増補修正を加え、本日、区役所、東京府を経て、田川潤一郎中佐から陸軍省に提出される。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年八月号) 愛鳩の友社 |
一九三七(昭和十二)年暮れの南京入城以来、池田重雄少佐は、国民党軍の将校で詩人の黄瀛の安否を気づかい、その消息を探るが、何の手がかりも得られなかった。 しかし、今月、南京郊外に支那軍の鳩舎がある、とのうわさを耳にする。いろいろと調査して一日、池田はここを訪ね当てる。 れんが作りの鳩舎は二階建てで、一階が事務室と通信室、二階が鳩舎になっている。その建築法は、かつて池田が中野で黄瀛に教えたとおりのものだった。 直接的に黄瀛に結びつく情報は得られなかったが、池田はこのとき、黄瀛の面影をしのばれるような気がしたという。 ☆補足一 池田はその後、江南に移駐することになって南京を去り、次いで漢口作戦に参加する。 漢口占領後、池田が武昌蛇山の山腹にあったとき、自動車隊長の宇多武次大尉が訪ねてくる。 宇多は中野で黄瀛と同期だった男で、池田のかつての教え子である。池田が武昌にいると知った宇多が戦場の余暇を縫って、わざわざやってきてくれたのだ。 再会を喜ぶ二人は、武昌を展望しようということになって蛇山に登る。そのとき、宇多は、池田の宿舎の隣にある穴屋敷の中に鳩舎を発見し、行ってみましょう、と言う。そうして、土堀を越えて入ると、確かに蒋介石軍の鳩舎がある。灯台下暗しとはこのことで、池田は驚く。しかも、その鳩舎は中野型そのままの作りで、側面に大きく「軍用鴿舎」と墨書してある。内部を見ると、白エンドウが三、四粒転がっていて、水筒、軍玄、脚絆が散乱している。壁に鳩訓練表、通信表、飼育表などが貼ってあり、その内容は池田が中野で教えていたものとほぼ同じで、単に中国語に翻訳されているだけである。 宇多は記念にと、これらの掲示物を丁寧に剥がすと、まるで鳩友の作業品をまとめるように図嚢にしまう。この友情を目の前にして、池田は何ともいえない感情を覚える。中野当時の記憶がよみがえり、教壇に立っていた頃のことを思い出す。池田、黄瀛、宇多の三人で中野にいたときのような、さみしい気持ちになる。 *上記の一文は、大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十八年六月号)に掲載された記事「支那事変と蒋軍の鳩通信」(作・池田重雄)をもとに記す。池田は、れんが作りの鳩舎を訪ねた年月を昭和十四年二月と回想しているが、昭和十三年二月の誤りと思われる(修正済み) ☆補足二 戦争中は黄瀛の消息は分からずじまいに終わったようである。漢奸として処刑された、とのデマが広がり、関係者の誰もが黄瀛は死んだものと思っていた。 結局、戦後になってから黄瀛の生存が確認される。 ☆補足三 大東亜戦争後の話である。 辻 政信大佐は、身分を隠して地下に潜行する。辻はその際、国民党軍に接触して日中合作を画策するが、この過程で黄瀛に会っている。 辻の著書『潜行三千里』から該当箇所を以下に引用しよう。
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年六月号) 大日本軍用鳩協会 『潜行三千里』 辻 政信/毎日新聞社 |
東京日日新聞社が軍用鳩一五〇羽を、軍用鳩調査委員会に献納する。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01002485200、永存書類 乙集 第2類 第7冊 昭和15年「下賜、寄附物」(防衛省防衛研究所)」 |
三月二十六日の午後十一時四十分、満州国軍の教導歩兵第四旅第四連長は、別拉音山の東北側付近に蟠踞する匪団を討伐するために、部下八十二名(うち鴿兵二、軍用鴿八)を率いて、二道崗を出発する。 翌三月二十七日の午前五時三十分、部隊が前賈屯付近に達したとき、突然、匪団から銃撃を浴びる。部隊は直ちに応戦し、その後、追撃に移るが、あらかじめ前賈屯付近には八〇〇名の匪団が待機していた。これにより、部隊は敵の包囲を受けて、次々に死傷者を出す。しかし、戦闘初期より軍用鴿を放って、救援要請や弾薬の補充申請、要図の運搬などを二道崗本部宛てに実施し、部隊は救援隊がやってくるまで持ちこたえる。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年六月号) 大日本軍用鳩協会 |
日本伝書鳩協会が臨時総会を開催し、多年にわたり伝書鳩の普及に貢献した全国の役員・会員を表彰する(東京十九名、横浜一名、北関東六名、千葉一名、東北五名、北海道二名、中部六名、近畿十三名、中国二名、九州一名、台湾二名) 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年八月号) 愛鳩の友社 |
本日付で陸軍大臣が日本伝書鳩協会に社団法人化の許可を与える。 ☆補足 小野内泰治『日本鳩界史年表』(12)によると、四月十八日に社団法人の登記を済ませたという。 しかし、関口竜雄『鳩と共に七十年』によると、主務官庁から延期するように指示があったそうである。一九三八(昭和十三)年十月九日に、日本伝書鳩協会と帝国伝書鳩協会が合併を果たすまで、登記は差し止められていたか、正式なものとして認められていなかったように思われる。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年八月号) 愛鳩の友社 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001646700、永存書類甲輯 第5類 第3冊 昭和13年(防衛省防衛研究所)」 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 |
日本伝書鳩協会は、同協会に学生伝書鳩連盟を合流させようと、学連の会長・佐藤 直少将に交渉していたが、国家的見地から学連もこれを受け入れ、学連は本月より、日本伝書鳩協会学生部となる。 ☆補足 上記の一文は、小野内泰治『日本鳩界史年表』(13)をもとに記す。 戦局の悪化により、学連が休会するのが一九四四(昭和十九)年十月三十一日のことなので、この合流によって学連が解散、消滅したわけではなく、日本伝書鳩協会の所属に生まれ変わっただけである。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年九月号) 愛鳩の友社 |
並河 靖が陸軍に軍医候補生として入隊する。 ☆補足一 並河は在隊中、自分の鳩歴を上官に訴えて軍用鳩の飼育係を志願し、軍医と鳩係長の二足のわらじを履く。そして、並河は、多くの鳩友の見送りと鳩の寄託を受けて、北支・山西省に一鳩舎とともに出征する。 並河貴子夫人によると、このとき、並河は、鳩群のほかに一頭のシェパード犬も大陸に連れていったという。「まるで桃太郎さんのようだな」と、貴子夫人は思ったそうである。 ☆補足二 並河は、戦争中にあっても、年次の作出鳩連名簿を肌身離さず持ち歩く。留守中の鳩舎に新しい計画を立てたり、過去の記録を検討して新しい考え方を進めたりするためである。 そうした、並河の研究態度は、陸軍内において実を結ぶ。 陸軍の軍用鳩育成所の作出記録をまとめて、灰色系(灰、灰ゴマ、黒ゴマなど)の羽色同士の交配からは栗色系の羽色は出ず、それが例外的に出た場合は、いわゆるチョコレートと呼ばれるものであることを実証したのである。これは当時、一般に知られていなかった。 ☆補足三 中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十七年九月号)に、「奥地迄も鳩網建設」(作・鈴木准尉)という題の記事が載っている。 北支の戦場で軍用鳩の訓練をおこなっている一准尉の便りで、
との記述がある。 ☆補足四 並河は、すでに戦前戦中から知られた愛鳩家だったが、戦後の一九四七(昭和二十二)年、日本鳩レース協会の設立に発起人として関わり、役員を務めている(一九七四〔昭和四十九〕年には会長就任)。その著書『作出と競翔 レース鳩の総合研究』は競翔家のバイブルといわれている。 なお、並河七宝で知られる並河靖之は、並河の祖父に当たる。 参考文献 『作出と競翔 レース鳩の総合研究』 並河 靖/愛鳩の友社 『普鳩』(昭和十七年九月号) 中央普鳩会本部 『レース鳩』(平成十八年四月号) 日本鳩レース協会 『レース鳩』(平成二十六年四月号) 日本鳩レース協会 『愛鳩の友』(昭和三十六年四月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和五十四年二月号) 愛鳩の友社 |
近く演習を実施するため、国防鳩隊の全隊員に待機指令が発せられる。 演習期間は五月十日から一ヶ月間で、鳩の動員は一個班、一分隊ごとに二十羽以上を予定する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年九月号) 愛鳩の友社 |
日本軍の活動に賛同するフィリピン人が八十数円の私費を投じてアメリカ生まれの優秀な軍用鳩を購入し、本日の午後、これを日本の陸軍省恤兵部に献納する。 この行為は大変なことで、フィリピンでは、外国の戦争に対して一厘の助勢もおこなってはならない、という決まりがある。 鳩を献納したフィリピン人は、自分が直接、鳩の輸送に関わると厳罰に処せられるので、マニラの在留邦人に日本への持ち込みを依頼する。 在留邦人は、このフィリピン人の熱情に感動し、自身も私費を投じて鳩を買い、一群に加える。そうして、計四十羽の軍用鳩を、感激の文字でつづった手紙とともに日本に送る。 鳩の献納を受けた陸軍省は大いに喜び、さっそく中野の軍用鳩調査委員会の鳩舎にこの鳩を移管する。 鳩は中野で訓練を受けた後、大陸の第一線に送られるという。 参考文献 『読売新聞』(昭和十三年五月十二日付) 読売新聞社 |
帝国伝書鳩協会が、日本伝書鳩協会と帝国伝書鳩協会の合併交渉について、声明書で中間報告をする。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年九月号) 愛鳩の友社 |
五月二十五日の午後四時、千田部隊の糧秣輸送部隊が、安太堡付近において、山西省保安隊第二区遊撃隊(四〇〇名あまり)の攻撃を受ける。 午後四時二十分、吉村上等兵は、敵状と友軍の状況を朔県警備隊本部に急報するために、通信文を付した軍用鳩三羽を空に放つ。 三羽の鳩は方向判定のために、上空を三、四回旋回してから朔県方面に飛んでいく。しかし、敵はこのとき、三羽の鳩に向けて発砲する。 午後五時頃、二羽の鳩が本隊に飛来し、無事に通信文を届ける。 翌五月二十六日の朝七時、残りの一羽である軍用鳩一一二号が鳩舎の入口付近で倒れているのが発見される。 通信隊の栗山伍長は、ただちに軍用鳩一一二号を獣医尉官のもとに運ぶ。 獣医が負傷の具合を見ると、左側腹壁を敵弾が貫通し、肋骨の一部が露出していた。 軍用鳩一一二号は、このような重傷を負いながら、十数時間、飛び続けたらしい。そして、通信文を届けたところで力尽きて、死んでしまったのである。 兵は、この小さな勇士に黙祷をささげ、その死体を懇ろに埋却する。 参考文献 『支那事変に於ける軍馬美談佳話 第二輯』 陸軍省兵務局馬政課 |
五月二十九日、学習院の高等科と中等科の愛鳩家で構成される学習院鳩部(部長・飯田謙二教授。部員三十名。飼養鳩一三〇羽)が、輔仁会(校友会の名称)の春季大会において、伝書鳩展覧会を開催する。 競翔の実施や、鳩に関する資料(参考書や写真など)を展示し、また、今年の三月に空気銃弾三発を受けて負傷した読売新聞社の伝書鳩・ヨミウリ二七九号を展覧会に招待する。 翌五月三十日午前十時二十五分、ヨミウリ二七九号が放鳩され、午前十時四十分に読売新聞社の鳩舎に帰ってくる。 ヨミウリ二七九号の脚には、学習院鳩部の部員がつづった、以下の手紙が付してあった(『読売新聞』〔昭和十三年五月三十一日付〕より引用)
☆補足一 『愛鳩の友』(昭和三十二年十月号)に掲載された座談会記事「学連当時の思い出 当時の会長佐藤直氏を囲んで」(作・佐藤 直、白杉政健、織田信昭、秋葉泰二、根岸清治、黒川弥太郎、司会・谷内正司)に、以下の記述がある。
☆補足二 現在の学習院に鳩部は存在しない。しかし、鳩の霊を慰めるために建立された鳩魂碑が今も残されている。 『ミュージアム・レター特別号』(平成二十五年九月発行)という学習院大学史料館の刊行物が、この鳩魂碑について以下のように解説している。
参考文献 『読売新聞』(昭和十三年五月二十六日付) 読売新聞社 『読売新聞』(昭和十三年五月三十一日付。第二夕刊) 読売新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十二年十月号) 愛鳩の友社 『ミュージアム・レター特別号』(平成二十五年九月発行) 学習院大学史料館 |
軍用鳩調査委員会が『昭和十三年改訂 軍用鳩通信術教程』(上下巻)を編纂する。 上巻の目次は、以下のとおり(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている。各章を抜粋し、各節以下は省略)
下巻の目次は、以下のとおり(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている。各章を抜粋し、各節以下は省略)
本教範の前バージョンと思われる『昭和十年改訂 軍用鳩通信術教程草案』(軍用鳩調査委員)では、ちょうど本教範の下巻に当たる内容が丸々削除されていたが、本教範ではそれが上下巻構成の一巻(下巻)として装いを新たに復活している。 ちなみに、この下巻部分は、『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』(軍用鳩調査委員)には収録されていて、『昭和十年改訂 軍用鳩通信術教程草案』(軍用鳩調査委員)でのみ、なぜか削除されていた。 参考文献 『昭和十三年改訂 軍用鳩通信術教程』(上巻) 軍用鳩調査委員 『昭和十三年改訂 軍用鳩通信術教程』(下巻) 軍用鳩調査委員 『昭和五年改訂 軍用鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 『昭和十年改訂 軍用鳩通信術教程草案』 軍用鳩調査委員 |
午後二時、陸軍、日本伝書鳩協会、帝国伝書鳩協会の三者が懇親会を開く。 帝国伝書鳩協会は、両協会合併後の社団法人化を主張し、一方、日本伝書鳩協会は、日本伝書鳩協会のみの社団法人化を主張する。 話は平行線をたどり、一時間ほどで終了する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年九月号) 愛鳩の友社 |
甲府鳩友会主催の国防鳩展覧会が松林軒デパートにおいて開催される。 一万人が来場し、盛況を博す。 ☆補足 上記の一文は、小野内泰治『日本鳩界史年表』(13)をもとに記す。鳩の展覧会が一日だけで終了するとは思えないので、この六月十六日が初日だったように思われる。開催期間は不明。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年九月号) 愛鳩の友社 |
阪神大水害は、七月三日~五日にかけて降り続いた豪雨により発生した天災である。 全ての河川が氾濫し、岩塊や流木の混じった土石流が町をのみ込み、あらゆる社会基盤を破壊する。死者六一六名、被災家屋約九万戸にのぼる。 七月六日、通信機関を失った神戸営林署は、手持ちの伝書鳩をこの非常時に利用する。 同営林署の三木署長は、以下のように述べている(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 災害及び災害予防(8-135) 大阪朝日新聞 1938.7.13 (昭和13)より引用)
参考文献 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 災害及び災害予防(8-135) 大阪朝日新聞 1938.7.13 (昭和13) 「昭和の3大水害~阪神大水害(昭和13年)、昭和36年水害、昭和42年水害」 https://www.city.kobe.lg.jp/a43553/kurashi/machizukuri/river/suigaisonae/02kako_02.html |
五月二十一日、陸軍省副官および企画院交通部長が鉄道省運輸局長宛てに、「伝書鳩及伝書鳩空容器割引証明書交付ニ関スル件照会」(陸普第二九八九号)を照会する。 内容はおおよそ以下のとおり。 日本伝書鳩協会の社団法人化の認可(四月一日)を受けて、従来、企画院が取り扱っていた、伝書鳩ならびに伝書鳩空容器割引証明書交付に関する業務は、陸軍省が引き継ぐことになった。そして、今後は陸軍通信学校が割引証明書を発行する。ついては、昭和七年鉄道省告示第一七九号の改正を願いたい。 鉄道省は、陸軍省と企画院からの照会を了承し、省線内発着の七月十五日分より、これを取り扱う旨を回答する。 ☆補足一 「鉄道省告示第一一六号」を以下に引用する(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001646700、永存書類甲輯 第5類 第3冊 昭和13年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
上記を受けて一部条文を改めた「旅客及荷物運送規則」(鉄道省告示第一七九号。昭和七年六月六日)の内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001646700、永存書類甲輯 第5類 第3冊 昭和13年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足二 「企画院交発第四十九号」を以下に引用する(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001646700、永存書類甲輯 第5類 第3冊 昭和13年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001646700、永存書類甲輯 第5類 第3冊 昭和13年(防衛省防衛研究所)」 |
陸軍通信学校長・百武晴吉少将を交えて、日本伝書鳩協会と帝国伝書鳩協会が合併問題について会見するが、決裂する。 ☆補足 小野内泰治『日本鳩界史年表』(13)によると、その後、両協会の中堅幹部によって合流運動が計画され、次第に多数の支持者を得るようになったという。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年九月号) 愛鳩の友社 |
陸軍通信学校令が改正、公布される(勅令第五三三号) この改正により陸軍通信学校に鳩部が設けられ、軍用鳩の育成・研究などがおこなわれるようになる。 関係条文は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13070805300、現行兵事法令集 2 (服役.補充.召募之部)(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている。(略)は引用の省略を示すために挿入したものであり原文には存在しない)
☆補足一 一九三八(昭和十三)年八月に軍用鳩調査委員会が解散すると、同委員会の業務は陸軍通信学校鳩部が引き継ぐ。軍用鳩の育成、訓練、補充のほか、学生の教育や調査研究を実施する。初代の鳩部長は、軍用鳩調査委員幹事の田川潤一郎中佐が就任する。 終戦の年に調製された?ものになるが、防衛省防衛研究所に所蔵されている史料『陸軍通信学校歴史資料』によると、鳩部の人員は、長(中佐)・一名、付・三名、下士官・六名、兵・二十名だという。また、この人員の数字の横に、赤文字で訂正の書き込み(転写?)があり、そこには、長(中佐)・〇名、付・四名、下士官・十名、兵・二十名とある。 昭和十七年九月号の大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』において、陸軍通信学校鳩部長はしばらく空席のままであったがこのほど元軍用鳩調査委員幹事八木中佐が就任した、などとあることから、長(中佐)が〇名だった時期が存在するらしく、そうしたある時期に、この赤文字の訂正が加えられたように想像される。すなわち、本史料の調製時期は終戦の年と思われるので、終戦の年のある時期、鳩部長の職が空席だったように考えられる。 もちろん、この赤文字の訂正は、この史料が調製されたのと同時に施された可能性もある。そして、この赤文字の訂正がその当時に書き込まれたという証拠はなく、防衛研究所の所蔵史料に閲覧者が書き込みを入れてしまう話を耳にしたことがあるので、戦後、何者かがカーボン紙(赤)などを用いて訂正を入れた可能性がある。または、自衛隊で訂正を入れていた可能性も考えられる。あるいは、この史料が防衛研究所に寄贈される前に、元の所有者(軍人?)が当時の鳩部のことを知っていて、訂正を入れた可能性もある。したがって、筆者(私)の考えは、一つの臆測にすぎない。 ほかに『陸軍通信学校歴史資料』には、付表第五「師団通信隊長要員学生教育計画」が載っている。二十一日間の日程中、十六日目の午前に「鳩ノ管理及運用ニ就テ」という授業がある。そして、付表第七ノ一「鳩学生教育計画」と、付表第七ノ二「鳩学生教育予定表」は、鳩学生に対する教育内容が載っている。 以下に引用しよう(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている) 付表第七の一 鳩学生教育計画
付表第七の二 鳩学生教育予定表
黒岩比佐子は、その著書『伝書鳩 もう一つのIT』において、『陸軍通信学校鳩資料』の記述を引用している。ただし、黒岩は、どういうわけか、長(中佐)…一名、附…三名、下士官…十名、兵…二十名と鳩部の人員を紹介している。下士官の数値だけ、赤文字の訂正の入ったものを取り上げる理由が見当たらないので、単純に史料を読み間違えたのだと思われる。 ちなみに、黒岩は、この数値を取り違える原因になった(とおぼしき)赤文字の訂正について、同書で全く触れていない。 ☆補足二 紙 左馬『漫画漫文 飛びある記』(昭和十六年六月五日発行)に、以下の記述がある。
この一文によると、陸軍通信学校の軍用鳩は、民間の献納に大きく頼っていたようである。 一方、大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十六年十月号)に掲載された記事「質疑欄」によると、現在では軍が必要の場合に鳩の臨時購買を実施して充足させているので献納を受けつけていないという。献納を希望する場合は、購買検査の際、購買検査前に購買官に申し出てほしいとのことである。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13070805300、現行兵事法令集 2 (服役.補充.召募之部)(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001557000、永存書類甲輯 第1類 昭和13年(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01002485200、永存書類 乙集 第2類 第7冊 昭和15年「下賜、寄附物」(防衛省防衛研究所)」 『陸軍通信学校歴史資料』 『漫画漫文 飛びある記』 紙 左馬/読物と講談社 『日本鳩時報』(昭和十六年十月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十七年九月号) 大日本軍用鳩協会 『伝書鳩 もうひとつのIT』 黒岩比佐子/文芸春秋 |
草牟田尋常小学校『軍国に咲いた花 少年少女たちにおくる支那事変の読物』が発刊する。 同書に、「鳩のお墓」という話が載っている。 以下に引用しよう(一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『軍国に咲いた花 少年少女たちにおくる支那事変の読物』 草牟田尋常小学校 |
陸普第四七八三号により、『諸兵通信法教範草案』配賦の件が陸軍一般に通牒される。 同書には、「第七編 鳩通信法」という一編があり、「総則」「第一章 各種鳩ノ性能」「第二章 鳩ノ取扱」の三つに区分して鳩術について述べている。 コンパクトにまとめられた内容と、分かりやすい図版が目を引く。 参考文献 『諸兵通信法教範草案』 成武堂 |
親善のため、ヒトラーユーゲント(国家社会主義ドイツ労働者党の青少年組織)の一行が日本を訪問する。 この滞在期間中の様子は、伝書鳩によって速報されたという。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年五月号) 愛鳩の友社 |
陸軍通信学校研究部調査部が『鳩用法一般』を出版する。 目次は、以下のとおり(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足 本書の出版時期は不明だが、陸軍通信学校鳩部の著作ではないことから、鳩部の創部以前(一九三八〔昭和十三〕年八月以前)に編纂されたものと思われる。鳩部が存在していれば、鳩部が本書の執筆を担当するのが適当だからだ。 よって、本項では、本書の出版時期を「一九三八(昭和十三)年八月以前?」と暫定的に記す。 参考文献 『鳩用法一般』 陸軍通信学校研究部調査部 |
一九一九(大正八)年以来、軍用鳩の基礎機関として活動してきた軍用鳩調査委員会が廃止される。 ただし、それと同時に陸軍通信学校に鳩部を設置し、軍用鳩調査委員会の基礎機関業務を発展的に引き継ぐ。 八月一日、軍用鳩調査委員長は陸軍大臣宛てに、「物品移管ノ件報告」(鳩甲第五十九号)を提出し、軍用鳩調査委員会から陸軍通信学校に移管する、軍用鳩、鳩器材、鳩衛生器材、飼料などを報告する。 主な物品は、以下のとおり。 軍用鳩 六九七六羽 大型鳩車 一 移動鳩車 甲 二三 移動鳩車 乙 三九 小型愛玩鳩舎 三 小型鳩舎 一 目隠用鳩舎 一 食堂鳩舎 一 ☆補足一 海軍省教育局『軍鳩参考書』(昭和十八年九月)に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めている)
☆補足二 偕行社『偕行社記事特号』(第八三〇号)に掲載された記事「軍鳩の使命と現況」(作・陸軍省交通課課員)に、「昭和十四年八月」に軍用鳩調査委員会が廃止されたと載っているが誤り。 正しくは、「昭和十三年八月」である。 参考文献 『偕行社記事特号』(第八三〇号) 偕行社 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01007097100、永存書類乙集 第2類 第5冊 昭和13年(防衛省防衛研究所)」 『軍鳩参考書』 海軍省教育局 |
偕行社『偕行社記事特報』(第三十七号)に、「支那事変に於ける移動鳩の戦例」(作・軍用鳩調査委員)という記事が載る。 題名どおり、支那事変における移動鳩の戦例をいくつか挙げて、移動鳩の有用性を訴えている(図版入り) 「一 大黄河渡河戦に於ける野戦鳩隊移動鳩の戦例」「二 関東軍鳩隊移動鳩の戦例」「三 丁兵団野戦鳩隊の戦例」「四 戊兵団野戦鳩隊の戦例 自昭和十二年九月―至同年十月」「五 河北戡定戦に於ける戊兵団(昭和十三年二月中旬)」から構成される。 参考文献 『偕行社記事特報』(第三十七号) 偕行社 |
大阪朝日新聞社に在阪の愛鳩家(大阪好鳩会の徳永秀三会長ほか有志二十三名)が二〇〇羽の伝書鳩を寄贈する。事変下の報道に重大任務を帯びて活躍している、大阪朝日新聞社の伝書鳩陣を、強化するためだという。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十三年九月二十四日付) 東京朝日新聞社 |
日本伝書鳩協会と帝国伝書鳩協会の合併に賛同する、両協会員が集まり、懇親会を開く。実行委員を選出して、以下の決議文を公表する(小野内泰治『日本鳩界史年表』(13)より引用)
参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年九月号) 愛鳩の友社 |
両協会合同実行委員の、近久 央、岡庭正義、只野透四郎、吉川晃史が、日本伝書鳩協会の新井嘉平治常任理事と会談する。その結果、日本伝書鳩協会と帝国伝書鳩協会の合併合意がなる。この日をもって、帝国伝書鳩協会の全会員は、日本伝書鳩協会の正会員になる(帝国伝書鳩協会全会員の会費が手渡される) ちなみに、この両協会合併に尽力したのが吉川晃史だった。吉川は、両協会が反目し、ののしり合っている状況を見かねて調停に乗り出す。双方の幹部を自身が経営する料亭「二葉」に招いて説得工作をおこない、話をまとめ上げる。その費用は全て吉川が負担する。相当な金額であったという。 翌十月十日、この合併合意の成立を陸軍通信学校長・百武晴吉少将に報告し、今後の協力方を依頼する。 ☆補足一 『愛鳩の友』(昭和三十六年二月号)に掲載された記事「巨星・故吉川晃史氏の生涯を語る」に、近久 央がこの合併について語っている。 以下に引用しよう(新井嘉平治の名字が「荒井」と誤記されている部分は修正済み)
*参考として、近久 央の発言の中に出てくる、名字のみの人物の氏名を、記しておく。 永代静雄、百武晴吉、吉川晃史、園田保之、喜代田光英、新井嘉平治、並木安一、師岡昌徳。 『愛鳩の友』(昭和三十七年十月号)に掲載された記事「為我井喜久雄氏を語る」(作・板倉陽之助。「日本鳩界の歯車」〔第五回〕)によると、日本伝書鳩協会と帝国伝書鳩協会の並立後、鳩協と帝協の二種の脚環が入り乱れ、日本鳩界に複雑さを加えたことから、軍は協会法人化を好餌にして、合併の圧力をかけたという。 要するに、両協会の対立により、日本鳩界の利益、引いては国家の利益を損ねて、軍部の不興を買ったわけである。今まで享受していた、鳩の鉄道輸送費半額の恩恵に待ったをかけられた、というのだから、その対立は相当なものであったことがうかがえる。 そこで、この状況を見かねた吉川晃史が、前述のとおり、両協会の調停のために動き出す。 ☆補足二 『愛鳩の友』(昭和四十九年二月号)に掲載された記事「老とるの戯言 笑いが止らない」(作・板倉陽之助)によると、合併に特異な手腕を振るった吉川晃史の陰に隠れて、近久 央、中島重蔵、萩原武雄、富山守造、鍵村栄治、佐藤福治、宮崎新七の活躍がかすんで目立たない存在になってしまったという。気の毒なように思われた、と執筆者の板倉は述べている。 なお、日本伝書鳩協会と帝国伝書鳩協会の合併は、軍部の不興を買って促進されただけでなく、別な理由もあったようである。 同記事に、以下の記述がある。
両協会が合併した一九三八(昭和十三)年といえば、武漢三鎮攻略といった支那事変真っ盛りの頃である。板倉の言葉にあるとおり、軍に多少なりとも関係のある事業は一元化して統制されるのが当然の成り行きといえる。すなわち、両協会の合併は、国家の要請が主な理由で、両協会の反目は、その一因にとどまるように筆者(私)は思う。 ☆補足三 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十八年八月号)に掲載された記事「『大東亜』戦に協会勝つ」(作・山本直文)によると、両協会の合併は陸軍の要望によって実現するも、合併の可否や条件などについて、いろいろと問題があり、一種の禍根を残したという。 これが後に、大東亜伝書鳩総連盟が新たに結成されて(一九四二〔昭和十七〕年六月二十七日)、再び日本鳩界が分裂する一因になったようである。 なお、一九四三〔昭和十八〕年六月二十四日の、東京民事地方裁判所第十二号法廷での判決文(昭和十七年〔ワ〕第二六七七号)が同誌に載っている。 以下にその一部を引用しよう(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めている)
参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年九月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十六年二月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十七年十月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十九年二月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(平成十六年一月号) 愛鳩の友社 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 『日本鳩時報』(昭和十八年八月号) 大日本軍用鳩協会 |
午後二時から一時間にわたって、ホノルル・アドバタイザー氏の令嬢特派員――ジェーン・ハワード卿が、朝日新聞本社を見学する。 ジェーン嬢は、朝日新聞社の鳩舎に一番興味を示し、以下のように語る(『東京朝日新聞』〔昭和十三年十月二十日付〕より引用)
参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十三年十月二十日付) 東京朝日新聞社 |
軍用鳩三五三〇号(一九三七〔昭和十二〕年、中野産)は、一九三八(昭和十三)年二月以来、中支において、警備および輸送間の通信勤務に就いている。 そして、この月、兵団の戦傷患者を輸送するに当たって、軍用鳩三五三〇号が通信文を運ぶ。 これにより、機艇が滞りなく準備され、戦傷患者の病院収容が迅速におこなわれる。 参考文献 『通信青年』(昭和十八年八月号) 科学新興社 |
駿河三五八三号(一九三八〔昭和十三〕年生)は、十月、中支の警備隊に配属され、同隊の任務遂行に貢献する。 害鳥の多い地方であるにもかかわらず、駿河三五八三号は、四十余通の通信文を運ぶ。 十二月、駿河三五八三号は、敵の包囲を受けている部隊から放たれ、現在の状況および弾薬・糧秣の補充に関する通信文を上級部隊に届ける。 これにより、兵団は速やかに処置をおこない、同部隊を救出する。 ☆補足 軍用鳩三五八三号の軍用鳩功績記録が残っている。 以下に引用しよう(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01002479000、永存書類 乙集 第2類 第6冊 昭和15年「通信器材」(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『通信青年』(昭和十八年八月号) 科学新興社 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01002479000、永存書類 乙集 第2類 第6冊 昭和15年「通信器材」(防衛省防衛研究所)」 |
同日付の『東京朝日新聞』が以下のように報じている(要約) 匪賊討伐のため、那須部隊が北支・輝県の西方山麓に出動する。 その際に、和泉秀夫伍長と永井寅吉上等兵の両名が軍用鳩の放鳩準備をしていると、敵弾が飛んできて和泉に命中する。二人の間は一〇〇メートルほど離れており、永井が和泉のもとに駆け寄ると、和泉は頭部貫通銃創を負って事切れていた。永井は、二羽の軍用鳩が入った鳩籠を和泉が抱きしめているのを見て、「そうだ、このことを一刻も早く本隊へ知らせよう」と思い、現在の状況を通信紙に記す。そして、永井は、「早くお前飛んで行って知らせてくれ」と心に念じながら、通信文を付した二羽の軍用鳩を空に放つ。 そのうち、一羽は本部目指して飛んでいくが、もう一羽の黒色の軍用鳩の様子がおかしい。このクロはどうも主人の死に感づいたらしく、いつまでも上空にあって低く飛び続ける。 結局、翌日に元気なく帰舎するまで、クロは悲しみに暮れる。 一方、本部目指して飛んでいった鳩は無事に帰り着き、通信文を届ける。 那須部隊の将士は、この主人を思うクロの純情に涙を流し、顕彰できないものかと、目下、協議中だという。 なお、永井は、和泉の戦死やクロについて、以下のように語っている(『東京朝日新聞』〔昭和十三年十一月十日付〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十三年十一月十日付) 東京朝日新聞社 |
同日付の『読売新聞』に、落語家・三遊亭金馬(三代目)の伝書鳩談が載る。 金馬は、関東大震災の直後に鳩を飼い始め、現在、三十羽ほどがいる。鳩舎は松の間、梅の間、竹の間と三つあり、それぞれの鳩舎の鳩に、松太郎、梅吉、竹雄などと名づけて、かわいがっている。 鳩の訓練は、東海道線、常磐線、総武線と三方向からおこなっている。しかし、魚釣りが好きな関係上、バラックを建ててある木更津に行くことが多いので、総武線方向の訓練に偏っている。 総武線用の伝書鳩は、東京からの電報の返信役をよく務め、各種の競翔で優秀な成績を収めている。 参考文献 『読売新聞』(昭和十三年十一月二十四日付。夕刊) 読売新聞社 |
種々の物理的・法的な弾圧がユダヤ人に加えられる中、この日、ドイツの内務大臣は、その一環として、ユダヤ人の伝書鳩の所有と、その販売の不許可を布告する。 参考文献 「民族共同体と法(一八) ――NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制――」 南 利明 https://shizuoka.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=2491&file_id=31&file_no=1 |
大日本伝書鳩研究所の徳永秀三所長が、ドイツから最新式の鳩カメラを購入する。軍器に類する写真機なので交渉は難航したが、三井物産のベルリン支店長・和田慶治とともに努力し、一年をかけてようやく手に入れる。 徳永は、こう述べている(日本伝書鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十四年五月号〕より引用)
また、和田は、徳永宛ての手紙の中で、こう述べている(日本伝書鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十四年五月号〕より引用)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十四年五月号) 日本伝書鳩協会 |
日本伝書鳩協会・徳永秀三副会長の農園に皇族が訪れる。 徳永は、こう述べている(日本伝書鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十四年二月号〕より引用)
徳永はこの機会を記念として、徳永農園内に鳩能力研究鳩舎を建設し、近畿連合(京阪神)各会員から優良鳩を募って購買し、鳩の品種改善と向上に努める。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十四年二月号) 日本伝書鳩協会 |
東京九段の軍人会館において、日本伝書鳩協会と帝国伝書鳩協会の合併後、初の総会が開催される。 新井嘉平治仮議長によって、午前十一時五十分、開会し、徳川義恕会長のあいさつ、新井嘉平治常任理事の経過報告、並木安一常任理事の会計報告がある。 議長選出については満場一致で佐藤 直が推薦される。 佐藤議長は、議事に入る前に、この第一回創立総会に当たって、北満・楠山部隊の八木 勇少佐から、金一〇〇〇円の寄付の申し出があったことを発表する。そして、徳川義恕男爵が日本伝書鳩協会を代表して、八木にお礼の返電を発信する。 なお、新井常任理事は、経過報告において、以下のように語っている(関口竜雄『鳩と共に七十年』より引用)
さて、佐藤議長の指名によって、以下の役員が選ばれる。 会長 徳川義恕 副会長 佐藤 直、徳永秀三 常任理事(七名) 近久 央、平野直一、只野透四郎、小山 晃、田中愛助、萩原武雄(会計)、佐藤福治(会計) 監事(五名) 三ヶ島彦六、宮崎新七、木村正一、米本錬太郎、相馬英雄 参与(六名) 並木安一、新井嘉平治、吉川晃史、喜代田光英、松田太郎、高畠多一 理事(三十名) 宮地太郎、中島重蔵、岡庭正義、金子万吉、遠藤義男、伊藤響浦、高橋 肇、鍵村栄治、斉藤栄司郎、矢野幸一郎、高橋愛典、江口藤衛、堤 定雄、吉兼留蔵、奥中知治、宇都木五郎、飯田重太郎、桑田山襄、武知彦栄、堀 義一、田辺大観、小佐野子平、樋口弥八、中西恭一郎、佐藤秀春、佐々木 勇、渡辺 堅、松重 馨、鯨井治助、湯川友三郎 評議員(二一八名) 役員の選出後、創立臨時総会を終了し、続いて、定期総会に移る。脚環のマークを「日本」に統一することや、国防鳩隊に対する奨励金の交付、定款改正などを決議する。 定期総会終了後、懇親会を開き、午後八時三十分、散会する。 ☆補足 小野内泰治『日本鳩界史年表』(12)に、『東京朝日新聞』(昭和十三年四月五日付)に掲載された記事「愛鳩家の統制 日本伝書鳩協会強化」の全文が載っている。 小野内は「一日付で社団法人の認可を得」と同記事を引用しているが、実際に『東京朝日新聞』の該当号を確認すると「二日付で社団法人の認可を得」と載っている。つまり、小野内は、『東京朝日新聞』の記事の誤りを訂正したうえで、『日本鳩界史年表』(12)に引用していることが分かる。 参考として、その『東京朝日新聞』(昭和十三年四月五日付)の記事を以下に引用しよう。
参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年八月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十四年十月号) 愛鳩の友社 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 『東京朝日新聞』(昭和十三年四月五日付) 東京朝日新聞社 |
台湾軍司令部より出動命令を受けた台湾義勇鳩団(伊藤道三団長以下四〇〇余名)は、午後五時半、○○羽の移動鳩とともに某地に進出し、整置後一時間もたたずに第一回出車をおこなう。 翌十二月二十四日の早朝、第二回出車をおこない、午前九時より、南雲・中村の両少尉、台湾軍司令部・福田鳩班長立ち会いのもと、鳩群を三隊に分けて能力試験を実施する。台北市を中心とする二十キロ内外の地点から各個放鳩するが、ほとんどの鳩が合格し、出征の誉れを得る。 十二月二十八日、台湾軍司令部において、それらの鳩の献納式を実施し、台湾軍参謀長の大津和郎少将が台湾義勇鳩団の伊藤道三団長に感謝状を贈る。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十四年三月号) 日本伝書鳩協会 |
満州派遣留守第一師団経理部長が陸軍大臣宛てに、「陸軍通信学校仮鳩舎新築工事実施ノ件上申」(留一経営第三四〇号)を上申する。 内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01007155000、永存書類 乙集 第2類 第1冊 昭和14年「土地建物」(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01007155000、永存書類 乙集 第2類 第1冊 昭和14年「土地建物」(防衛省防衛研究所)」 |
『臨時北支那方面軍鳩育成所編成ニ関スル規定』(方軍参編第七号)が定められる。 この北支那方面軍司令官に隷する北支那方面軍鳩育成所は、第六野戦鳩隊長によって豊台で編成され、別途、定められている『鳩育成所勤務規定』に従って、鳩の生産、育成、訓練補充ならびに鳩に関する調査研究および鳩取扱基幹人員の教育に任じる。 軍用鳩の基準数は一八〇〇羽。 ☆補足 大関しゅん『鳩とともに ある鳩取扱兵の物語』によると、豊台駅前のバラック建ての建物が北支那方面軍鳩育成所になっていたという。柳の木が茂る、静かなところだったそうである。 著者の大関しゅん(本名・関 舜)は、昭和十四年六月三十日から二週間、ここで軍用鳩取扱基幹要員教育を受けている。 教官は、斎藤中尉、佐藤中尉、佐々木雇員、某雇員で、各隊から六十名ほどの受講者が集められる。 佐々木雇員は、鳩から生まれたような人で、彼の話が一番うまく、内容も豊富で、有益だったそうである。一方、某中尉は、話し下手で、内容が分かりにくかったという。 同書に、以下の記述がある。
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01005814100、陸支機密大日記 第1冊 3/3 第1号の3 共7冊 昭和14年(防衛省防衛研究所)」 『鳩とともに ある鳩取扱兵の物語』 大関しゅん/銀河書房 |
漢口において、海軍始観兵式が挙行され、海軍陸戦隊の偉容を遺憾なく展開する。 また、鳩班がこの式典で集団軍鳩放翔をおこなう。 参考文献 『歴史写真』(昭和十四年三月号) 歴史写真会 |
日本伝書鳩協会が第四回定例理事会を開き、以下の事項を決定する(日本伝書鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十四年三月号より引用〕。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、読点を補ったり、空行を入れたりしている)
☆補足 日本伝書鳩協会『日本鳩時報』(昭和十四年三月号)によると、第四回定例理事会の開催日は一月十一日だという。 一方、日本伝書鳩協会『日本鳩時報』(昭和十四年二月号)によると、第三回定例理事会の開催日は一月十七日だという。 第三回定例理事会と第四回定例理事会の開催日が入れ代わっているように考えられるが、誤記と断定するには根拠に欠ける。出席者の調整や議題などによって、第三回定例理事会と第四回定例理事会の開催日が前後する可能性もあるからだ。 詳細不明。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十四年二月号) 日本伝書鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十四年三月号) 日本伝書鳩協会 |
日本伝書鳩協会が第三回定例理事会を開き、以下の事項を決定する(日本伝書鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十四年二月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十四年二月号) 日本伝書鳩協会 |
全関東伝書鳩連盟が、東京日日新聞社講堂において、『映画と講演の夕』を開催する(日本伝書鳩協会、東京日日新聞社後援) 全関東伝書鳩連盟理事・村松千盤(城南鳩倶楽部)の司会で、まず皇居遥拝と、皇軍将兵および無言の戦士の冥福を祈る黙祷をおこない、午後六時三十分に開会する。 全関東伝書鳩連盟理事・伊藤幸之助(鳩光)のあいさつ、中央気象台技師・正野重方の気象学に関する話、東日大毎特派員・吉良武夫の戦地での状況報告、全関東伝書鳩連盟理事・関口竜雄(関東ピジョン)による珍しい世界の鳩記録で、講演の部が終了し、次に映画の部に移る。 東京発声映画製作所から貸し出された、無言の戦士、新聞のできるまで、事変ニュースなどが上映される。 午後九時半、立ち見が出る盛況のうちに『映画と講演の夕』が閉会する。 来場者は約四〇〇名だった。 ☆補足 「全関東伝書鳩連盟」は、昭和四年十一月三日に発足している。そして、関口竜雄『鳩と共に七十年』によると、昭和五年十二月七日の日本伝書鳩協会創立に伴って解散しているという。つまり、上記の一文に出てくる「全関東伝書鳩連盟」は、これとは別の組織だと思われる。または、解散していた「全関東伝書鳩連盟」が再結成されたのかもしれない。ほかに、関口の誤記の可能性もあり得る。 詳細不明。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十四年二月号) 日本伝書鳩協会 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 |
午前十一時、日本伝書鳩協会が臨時総会を開催する(出席者二十一名)。昭和十三年十二月九日付臨時総会において仮決議した定款変更および役員選出に関する件を、議長・佐藤 直副会長のもとに審議し、満場一致でこれを可決する。 なお、当日は、日本伝書鳩協会顧問・梅原重厚、京都から羽賀康泰、熊谷から鯨井治助が臨席し、総会終了後に座談会を開いて懇談する。 午後三時、散会する。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十四年二月号) 日本伝書鳩協会 |
上記の予定の日程で、陸軍十三年度第五次伝書鳩購買が実施される。 購買検査は田川潤一郎中佐ほか二名が当たり、日本各地に購買検査場が設けられる。 購買要領は、以下のとおり(日本伝書鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十四年二月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十四年二月号) 日本伝書鳩協会 |
日本伝書鳩協会(後に大日本軍用鳩協会)が『日本鳩時報』という機関誌を創刊する(第一号)。『日本伝書鳩新報』の誌名を改称したものである。 この『日本鳩時報』は、昭和十八年十二月号から、誌名を『軍用鳩』に改める。 *『日本伝書鳩新報』 → 『日本鳩時報』 → 『軍用鳩』 ☆補足 小野内泰治『日本鳩界史年表』(32)によると、『軍用鳩』は昭和十九年十月号(十月一日発行、第六十六号)が最終号ではないか、とのことである。用紙不足や空襲の影響によって、以後、発行できなくなったらしい。 ちなみに、筆者(私)の書棚にある『軍用鳩』も、昭和十九年十月号を最後に途切れている。 小野内の言葉を裏づけている。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十四年二月一日付。第一号) 日本伝書鳩協会 『軍用鳩』(昭和十八年十二月号) 大日本軍用鳩協会 『軍用鳩』(昭和十九年十月号) 大日本軍用鳩協会 『愛鳩の友』(昭和三十六年七月号) 愛鳩の友社 |
東京市荒川区桜田町の桜田奉公婦人会が、出征入営家族慰安および凱旋勇士感謝の会を開く。 日本伝書鳩協会副会長の佐藤 直少将と、読売新聞社鳩班長の高畠多一が出席し、佐藤が「最近の国軍の情勢」について、高畠が伝書鳩について、それぞれ講演する。 日本伝書鳩協会『日本鳩時報』(昭和十四年三月号)に、以下の記述がある。
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十四年三月号) 日本伝書鳩協会 |
空の小浮遊部隊として中南支戦線で活躍した鹿毛部隊および空の小伝令として南支で奮戦した岩淵・三上両部隊の一部将士が帰国する。 駅頭はこの帰還を歓呼で迎える人々であふれ、バイアス湾敵前上陸の光景や、血に染みながら南支の空を飛んだ軍用鳩の思い出話が交わされる。 岩淵二郎中尉の引率する岩淵・三上両部隊の勇士は、以下のように語る(『東京朝日新聞』〔昭和十四年二月八日付〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、判読不能箇所に〓を代入したりしている)
参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十四年二月八日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十四年二月九日付) 東京朝日新聞社 |
東京第一(五九〇KC)の午後六時~午後六時二十分の放送枠において、『軍用鳩クロ』という童話劇が放送される。 内容は、以下のとおり(『東京朝日新聞』〔昭和十四年二月十四日付〕より引用)
参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十四年二月十四日付) 東京朝日新聞社 |
東京第一(五九〇KC)の午後六時~午後六時二十分の放送枠において、「伝書鳩アルノウクス」というシートン動物物語が放送される。 内容は、以下のとおり(『東京朝日新聞』〔昭和十四年二月二十八日付〕より引用)
*「伝書鳩アルノウクス」とあるが、現代では「伝書鳩アルノー」の表記が一般的である。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十四年二月二十八日付) 東京朝日新聞社 |
『朝鮮総督府鉄道局局報』(昭和十四年三月一日付。第三五七六号)に、以下の記事が載る(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『朝鮮総督府鉄道局局報』(昭和十四年三月一日付。第三五七六号) |
この期間中、戦功動物感謝の会が上野動物園で開催される(東京市主催、陸軍省、農林省など後援) 軍馬、軍犬、軍鳩に関する物品展示のほか、園前広場に毎日、近衛師団から騎、砲、輜、機関銃隊が出張して、兵器と軍馬の操作演習をしたり、軍犬の訓練風景を展示したり、軍鳩放鳩の実演をしたりする。 参考文献 『読売新聞』(昭和十四年二月十八日付。第二夕刊) 読売新聞社 『読売新聞』(昭和十四年三月二日付。夕刊) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十四年三月二日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
現在、開催中の戦功動物感謝の会にちなんで、午前十時より、日本伝書鳩協会が伝書鳩慰霊祭および鳩魂塔移転除幕式を上野動物園で執りおこなう。 通信任務のために雄々しく散った、軍・民の伝書鳩三万五〇〇〇羽あまりの霊を慰めるとともに、今まで中野の軍用鳩調査委員会の構内にあった鳩魂塔が東京市に寄付され、上野公園の象小屋横に移転する。 当日は、日本伝書鳩協会会長・徳川義恕男爵や東京市長・小橋一太などの関係者が集まり、一〇〇〇羽の鳩が放鳩される。 また、陸軍杯受賞鳩、海軍の夜間鳩、陸軍の鳩車、鳩功章、鳩具などが出品される。 午後三時半、散会する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年十月号) 愛鳩の友社 『読売新聞』(昭和十四年三月五日付) 読売新聞社 『読売新聞』(昭和十四年三月六日付) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十四年三月四日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十四年三月六日付) 東京朝日新聞社 |
軍用鳩三一〇号(一九三八〔昭和十三〕年生)は、以前に揚子江両岸の通信を担い、水底線通信の欠陥を補う活躍を見せているが、このたび、快速部隊に配属されて南昌攻略戦に参加する。 軍用鳩三一〇号は、揺れの激しい車両に四日間も閉置されながら、部隊とともに進撃する。 三月二十三日、部隊が敵陣を突破する。しかし、敵状報告しようにも、連日の悪天候によって道がぬかるみ、車両が動揺していたために、無線機が故障し、使用できない。 そこで、軍用鳩三一〇号が軍司令部に向けて放たれる。 悪天候の中、軍用鳩三一〇号は、一度も飛んだことのない土地を八十キロ飛翔し、無事に通信文を届ける。 ☆補足一 大日本軍用鳩協会『軍用鳩』(昭和十九年六・七月号)に、帰還兵の言葉として、理想の軍用鳩像がこう語られている(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足二 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十六年六月号)に掲載された記事「一千粁競翔について」(作・山本直文)において、山本は、日本の地理的条件その他の事情から一〇〇〇キロの競翔は不利なので距離を二、三〇〇キロにとどめて欧米諸国より帰還率の高い鳩を作出する方が得策である、などと述べる。 一方、大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十六年八月号)に掲載された記事「千粁競翔是非論 ――山本氏への反芻――」(作・横地千里)において、横地は、山本に異を唱える。長距離競翔反対論の骨子を高い失踪率、つまり、多数の鳩を失うことになる国家的損失と受け止めたうえで、むしろその失踪率の高さこそ、品種改良に至る唯一無二の手段であり、三〇〇キロ程度の競翔では劣等鳩を淘汰し切れず、戦線などでの実用に耐え得ない、などと述べる。 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十六年八月号)に掲載された記事「山本直文氏の一千粁について」(作・篠原秀太郎)において、篠原も、横地同様に山本に異を唱える。自己のスリルを満喫するために一〇〇〇キロ競翔を開催しているのではなく、酷使に耐えられる、意志強固、身体強健な鳩の系統を作り上げる方が、結局、購買羽数も少なくて済み、作戦上も大きな利益が生じるので、できるだけ競翔は距離を延ばすべきである、などと述べる。 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十六年九月号)に掲載された記事「千粁反対の反駁に答ふ」(作・山本直文)において、山本は、横地や篠原などの反論に対し、再び持論を展開し、一〇〇〇キロ競翔に反対する理由をいくつか挙げる。そのうち、重要だと思われる意見としては、質より数の問題であると山本は述べる。極少数の優秀鳩より多数の実用鳩が必要で、それが軍鳩報国の目的にかなうという。 さて、『日本鳩時報』誌上で戦わされた、以上の議論は、その結論を見ぬままに捨て置かれる。大東亜戦争勃発後は、なし崩し的に四〇〇キロ以上の長距離競翔が禁止になる。戦争が苛烈になってくると、もはや一〇〇〇キロ競翔の是が非を問う余裕はなくなり、鳩の飼料も欠乏をきたし、議論を戦わせたこの『日本鳩時報』誌(後に『軍用鳩』に改題)も用紙不足によって昭和十九年十月号を最後に休刊(廃刊)する。 前線から、鳩を送ってくれ、との要請が度重なるが、軍部も民間鳩団体もそれに応えられず、質より量との妥協的な目標すら実現不可能なまま終戦を迎える。軍用鳩の質について議論できたのは、大東亜戦争勃発前の比較的余裕のある時期に限定されたのである。 ちなみに、山本の主張は軍部の考えに沿っており、陸軍通信学校鳩部の将校らが同じことを各所で主張し、民間愛鳩家に協力を要請している。 参考文献 『通信青年』(昭和十八年八月号) 科学新興社 『日本鳩時報』(昭和十六年六月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十六年八月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十六年九月号) 大日本軍用鳩協会 『軍用鳩』(昭和十九年六・七月号) 大日本軍用鳩協会 |
大阪府下の愛鳩家一五〇名(所有鳩数、五〇〇〇羽)からなる報国鳩隊が誕生する。 この日の午後二時、朝日新聞大阪本社において、報国鳩隊結成式が開催される。 隊長に徳永秀三、顧問に熊谷部隊・藤村参謀長、安住大阪海軍人事部長、高野府警察部長、本田大鉄局技師、原田朝日新聞大阪本社常務らが推薦される。 編成は、隊員の一鳩舎を一班とし、各班は五十キロの帰巣能力を有する五羽以上の伝書鳩を飼養する。鳩には標識環を装着し、軍・警察その他官公署の委嘱に応じて通信連絡できるように普段から訓練を実施する。 報国鳩隊の本隊事務所は朝日新聞大阪本社に設置し、大阪好鳩会内に東支隊、大阪南鳩会内に天王寺支隊、学生愛鳩会内に学鳩隊を置く。 なお、報国鳩隊の隊則は二十九ヶ条からなり、名称、目的、任務、編成、事務所、隊員、機関、会議、会計について定めている。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十四年五月号) 日本伝書鳩協会 |
鳩協六六二七号(一九三八〔昭和十三〕年生。愛知県名古屋産)が南昌作戦において戦死する。日本軍が敵の堅陣を突破して進撃中、飛行機がこの部隊に鳩協六六二七号を落下傘投下するが、突風にあおられたためにクリークに落ちてしまったのだ。 鳩協六六二七号は、一九三八(昭和十三)年七月に、移動鳩として中支に出征し、交通に不便な警備隊に配属される。そして、本部と警備隊との間を飛翔し、通信を担う。 同年九月、鳩協六六二七号は武漢攻略戦に参加し、重要な通信文を十数里にわたって運ぶ。その後は、水路輸送船団に所属し、輸送隊唯一の通信機関として任務を全うする。 南昌作戦においては、十数回も通信文を輸送し、活躍していたが、先に述べた事故によって、鳩協六六二七号は命を落とす。 参考文献 『通信青年』(昭和十八年八月号) 科学新興社 |
午前十時四十分、北支経済視察団(中華民国臨時政府の実業総長・王蔭泰、北京市商会主席で団長の鄒泉蓀ら一行三十二名)が東京駅に到着する。 駅頭には、東京商工会議所会頭をはじめ、官民三〇〇余名が待機し、視察団を出迎える。 また、駅前広場には、八〇〇〇名あまりの、中女学生、各団体、日本伝書鳩協会在京会員が集まり、立錐の余地もないほど、人で埋め尽くされる。 この入京を祝って、日本伝書鳩協会と新聞社の伝書鳩三千数百羽が駅前広場から放鳩される。そして、東京電気、石川島造船所、松坂屋などのブラスバンドが使節団歓迎歌を奏でる。 王一行を出迎えた日本伝書鳩協会副会長の佐藤 直少将は、こう述べる(日本伝書鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十四年五月号〕より引用)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十四年五月号) 日本伝書鳩協会 『東京朝日新聞』(昭和十四年三月三十一日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
一九三七(昭和十二)年五月に定められた『関東軍軍用鳩規定』が改定される(関参三発第二〇九号) 前規定では、鳩を処分したいときには、関東軍軍用鳩育成所所長は関東軍司令官の認可が、兵団長(部隊長)は所属長官の認可を必要とした。 しかし、本規定では、
となっており、これは自主的に鳩を廃す権限が付与されたものと考えられる。 また、今回の規定には、
との条文が加えられている。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01003439400、昭和14年 「満受大日記 (密)第10号」(防衛省防衛研究所)」 |
午前十時、東本願寺大師堂前において、無言の戦士軍用動物の慰霊追弔会が開かれる(東本願寺主催、第十六師団後援。二条公夫妻などが出席) また、同時に、軍用動物に感謝の展覧会も開催される。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十四年五月号) 日本伝書鳩協会 |
四月十六日、重要な通信文を託された、軍用鳩一一二三号ほか一羽が、空に飛び立つ。このとき、日本軍は、通河北方に位置する蟷螂河の上流一帯において、匪賊討伐を実施していたが、付近の地形は山岳重畳で、大自然の密林地帯のため、軍用鳩だけが唯一の通信機関だった。 四月十七日、放鳩された二羽が約八十キロ離れた本部に帰ってくる。しかし、この二羽は飛翔途中、猛禽類に襲われて、ひどいけがを負う。 翼と尾毛がむしり取られ、肩肉は数ヶ所食い取られ、爪も大部分を失う。 この命がけでもたらされた通信文によって、日本軍は匪賊討伐を有利に進める。 なお、軍用鳩一一二三号は、以後も数回の討伐に参加して手柄を立てる。 ☆補足一 上記の一文は、『読売新聞』(昭和十六年八月二十三日付)の記事をもとに記す。 ☆補足二 軍用鳩一一二三号に関する記事中、『読売新聞』(昭和十六年八月二十三日付)は、現地の地名を「通河」と記している。 一方、『東京日日新聞』(昭和十六年八月二十三日付)、『朝日新聞』(昭和十六年八月二十三日付)、大日本雄弁会講談社『軍馬ト軍犬』は、現地の地名を「通化」と記している。 どちらの記述が正しいのか不明。 ☆補足三 大日本雄弁会講談社『軍馬ト軍犬』に、「いさましい軍用鳩のはたらき」(作・明翫外次郎)という読み物が収録されていて、上記二羽の殊勲鳩について、取り上げている。 しかし、軍用鳩の名称が異なっている。「一一二号」と「一一三号」と、それぞれ載っている。 これはもしかすると、「一一二三号」の名称が誤りで、もともとは「一一二、三号」という表記で二羽の軍用鳩を表していたのかもしれない。つまり、読点で区切って表記された二羽であったのに、読点が欠落して、「一一二三号」という一羽の鳩になってしまった可能性が考えられる(その逆もしかり) 「一一二三号」ほか一羽で計二羽なのか、「一一二号」および「一一三号」で計二羽なのか、よく分からない。 また、放鳩羽数も食い違っていて、「いさましい軍用鳩のはたらき」(作・明翫外次郎)では、「一一二号」と「一一三号」のほかにあと二羽がいて、計四羽を放鳩したとある。そして、二羽が猛禽類の犠牲になり、「一一二号」と「一一三号」の二羽だけが、負傷しつつも生き残り、本部に帰還したとある。 この件についても、よく分からない。 参考文献 『読売新聞』(昭和十六年八月二十三日付) 読売新聞社 『東京日日新聞』(昭和十六年八月二十三日付) 東京日日新聞社 『朝日新聞』(昭和十六年八月二十三日付) 朝日新聞東京本社 『軍馬ト軍犬』 大日本雄弁会講談社 |
華北交通株式会社が作られる。 日支蒙の協力によって創設された特殊会社で、数千キロに及ぶ民間最大の鳩通信網を構築する。鉄道、自動車、水運などで鳩通信を利用し、自前の伝書鳩育成所まで所有する。 同社電気局に所属する、この伝書鳩育成所は、伝書鳩の蕃殖と訓練に力を注ぐ。また、伝書鳩育成所は、鳩通信従事員の教育も担当し、毎年、三ヶ月間の講習を受講生に施す。 なお、伝書鳩の飼育訓練に関する参考書として、同社電気局発行の『鳩通信講義』がある。 ☆補足一 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十六年一月号)に掲載された、高畠多一鳩育成所長の手紙によると、華北交通の鳩通信所は○○○箇所で、鳩従業員は○○○名に及び、伝書鳩がいると共匪が襲撃してこないと言われていることから、列車、自動車、船舶には必ず鳩を積み込むという。鳩は全従業員のマスコットであり、重要な通信機関として同社は相当力を入れているそうである。 ☆補足二 国際情報社『世界画報』(第十七巻第十号)に掲載された記事「鳩 鉄路保安之天使 通信鳩」に、以下の記述がある。
参考文献 『普鳩』(昭和十八年十月号) 中央普鳩会本部 『普鳩』(昭和十七年四月号) 中央普鳩会本部 『華北交通会社一覧』 華北交通株式会社 『日本鳩時報』(昭和十六年一月号) 大日本軍用鳩協会 『世界画報』(第十七巻第十号) 国際情報社 |
輸送隊に所属する軍用鳩七十七号(一九三七〔昭和十二〕年四月二十一日生)が、部隊とともに山西省内を移動していると、突如、共産軍から攻撃を受ける。次々に死傷者が出て、輸送隊は壊滅の危機にひんする。しかし、救助を呼ぼうにも電話線も無線機もない。 そこで、軍用鳩七十七号(ほか一羽)が部隊本部に向けて放たれる。 軍用鳩七十七号は、方向判定のために放鳩地の上空を大きく旋回する。しかし、この姿を目にした敵が、軍用鳩七十七号に機関銃弾を浴びせ、不幸にもその一弾が命中する。軍用鳩七十七号はたちまち高度を落とし、そのまま地面に墜落するかと思われたが、地上から二、三十メートルのところで持ち直し、再び翼をはためかせて南の空に飛んでゆく。 数十分後、部隊本部の鳩舎に軍用鳩七十七号が帰ってくる。しかし、軍用鳩七十七号は、いつまでも入口のところにとどまって、鳩舎内に入らない。これを不審に思った鳩兵が近づくと、すでに軍用鳩七十七号は事切れていた。鳩兵は、軍用鳩七十七号の脚から血だらけの信書管を取り外し、これを隊長に届ける。そして、通信文を目にした隊長は、直ちに非常呼集をかけて、救援隊を編成する。 こうして、共産軍に包囲された輸送隊は、救援隊の到着によって全滅を免れる。 軍用鳩七十七号は、その命と引き換えに輸送隊の危機を救う。 ☆補足一 軍用鳩七十七号の鳩功績調書は「昭和十四年四月二十日」の出来事と記している。しかし、『東京日日新聞』(昭和十六年八月二十三日付)などは「昭和十三年五月二十二日」、『読売新聞』(昭和十六年八月二十三日付)は「昭和十五年五月二十二日」の出来事と、それぞれ記している。 「昭和十三年五月二十二日」、「昭和十四年四月二十日」、「昭和十五年五月二十二日」のうち、どの日付が正しいのか、よく分からない。 ☆補足二 新聞各紙は軍用鳩七十七号のことを「承徳産」と報じているが、『通信青年』(昭和十八年八月号)は「公主嶺産」と記している(原文では「公嶺」。公主嶺の関東軍軍用鳩育成所か) また、軍用鳩七十七号の鳩功績調書が二種残っていて、一方が「産地不明」、一方が産地を「中野」としている。 「承徳産」、「公主嶺産」、「産地不明」、「中野産」のうち、どの記述が正しいのか、よく分からない。 ☆補足三 軍用鳩七十七号の鳩功績調書の内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01002479000、永存書類 乙集 第2類 第6冊 昭和15年「通信器材」(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、空行を入れたりしている)
*原史料の「黒田部隊」の字句に打ち消し線(二重線)が入っているが、詳細不明。 参考文献 『通信青年』(昭和十八年八月号) 科学新興社 『読売新聞』(昭和十六年八月二十三日付) 読売新聞社 『東京日日新聞』(昭和十六年八月二十三日付) 東京日日新聞社 『大阪毎日新聞』(昭和十六年八月二十三日付) 大阪毎日新聞社 『朝日新聞』(昭和十六年八月二十三日付) 朝日新聞東京本社 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01002479000、永存書類 乙集 第2類 第6冊 昭和15年「通信器材」(防衛省防衛研究所)」 |
今月に広東省の農民が日本軍の軍用鳩を捕らえて部隊号やその配置を知り得ているが、本日、中国軍の徐永昌軍令部長は、各戦区に対して、日本軍の軍用鳩の捕獲を奨励する。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111615700、情報記録綴 昭和14年4月(防衛省防衛研究所)」 |
中支那派遣軍参謀長が「鳩班編成ノ件通牒」(中支参三第四九七号)を通牒する。 今般、中支那派遣軍司令部内に中支那派遣軍鳩班を編成し、鳩通信ならびに鳩の育成、補充、訓練に任ずる、との内容である。 ☆補足 中支那派遣軍鳩班『昭和十四年八月 鳩班月報 第壱号』に、以下の記述がある(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めている)
なお、鳩に関しては、七月中旬に内地から約一〇〇〇羽の補給を受ける。そのうち、種鳩六〇〇羽を中支那派遣軍鳩班に充当し、残りの移動鳩四〇〇羽を隷下の各兵団に交付する。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04120906400、陸支受大日記(密)第24号 2/2 昭和14年自5月12日至5月16日(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04121395100、陸支受大日記(密)第61号 昭和14年自9月28日至9月29日(防衛省防衛研究所)」 |
日本伝書鳩協会『日本鳩時報』(昭和十四年五月号)が発行される。 本号に、四月分の理事会と評議員会の議題が載っている。 内容は、以下のとおり(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
同号所載の記事「会員ニ告グ」(作・徳川義恕)によると、四〇〇キロ以上の競翔を中止するのは、能力の全てを鳩の補給に集中して軍の作戦に貢献するためだという。 競翔に鳩の失踪はつきものなので、いたずらに鳩を失うことがないようにするための処置と理解してよいだろう。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十四年五月号) 日本伝書鳩協会 |
朝日新聞社主催、第五回「日本体操大会関東大会」が明治神宮外苑競技場で開催される(文部省、厚生省、全日本体操連盟後援) 本大会の開会式で日本伝書鳩協会が伝書鳩を放鳩する。 ☆補足 『東京朝日新聞』(昭和十四年五月十四日付)に載った予定に従って上記の内容や日付を記す。したがって、予定に変更が生じていたら、出来事や日付が現実と異なっているかもしれない。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十四年五月十四日付) 東京朝日新聞社 |
同日付の『読売新聞』に、「血に染む翼に運ぶ武勲 前線各部隊から感謝と愛着を綴つて 陸軍省に集る功績調査書」という記事が載る。 内容はおおよそ以下のとおり。 陸軍省が軍用鳩に甲乙丙の三種の功章を授与するために前線の各部隊に対し、軍用鳩の功績調査書を提出するように求める。すると、どの部隊からも「うちの鳩は甲だ、大恩人(?)だ」などと言って、殊勲甲の申請を寄せる。 こうした表彰は、関東大震災や満州事変において活躍した鳩におこなわれたことがあるが、今事変(支那事変)では、これがはじめてのこととなる。 参考文献 『読売新聞』(昭和十四年五月十六日付) 読売新聞社 |
吉川晃史が鳩界関係者を招いて、新鳩舎をお披露目する。この鳩舎は、新しいデザインで建てられており、皆でその落成を祝う。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年十一月号) 愛鳩の友社 |
パラマウントおよびフォックス両社の元カメラマン――モーリス・ケラーマンは、現在、帝国ホテルに滞在しているが、日本を題材にした映像作品を四ヶ月間にわたり撮影する予定である。そのうち、「新聞社と伝書鳩」編で朝日新聞社を取り上げて、事変下のニュースの白熱した状況と伝書鳩の活躍ぶりを世界に紹介するという。 以上、同日付の『東京朝日新聞』の記事より。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十四年五月二十五日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
日本伝書鳩協会の会員から集めた寄付金で製作した大型移動鳩舎が完成し、この日、陸軍通信学校に献納される。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年十一月号) 愛鳩の友社 |
笠原部隊鳩班が全五条からなる『鳩班服務規定案』を定める。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110539200、軍用動物に関する書類 昭和12年1月20日(防衛省防衛研究所)」 |
日独伊親善協会主催の第二回防共富士登山が開催される。 頂上を極める七月十六日、フィリピン、タイ、アフガニスタン、ビルマ、イランなど参加十五ヵ国の人々が万歳を叫び、五、六〇〇羽の鳩を空に放つ(先着鳩には賞杯を授与) ☆補足 『読売新聞』(昭和十四年六月二十二日付)に載った予定に従って上記の内容や日付を記す。したがって、予定に変更が生じていたら、出来事や日付が現実と異なっているかもしれない。 参考文献 『読売新聞』(昭和十四年六月二十二日付) 読売新聞社 |
横浜軍用鳩会の主催で、生麦町の杉山神社において、軍用鳩展覧会が開催される。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年十一月号) 愛鳩の友社 |
先月の二十三日、湘南の逗子海水浴場で「読売ピジョンサービス」(読売鳩便奉仕)がはじまり、多くの避暑客がこれを利用する。避暑客の手紙を携行した読売新聞社の鳩が同社屋上の鳩舎に帰り着くと、そこから宛名の住所に速達で手紙が送られるサービスである。 本日は逗子町が招待した横須賀陸軍病院の白衣の勇士たちが「読売ピジョンサービス」を利用し、故郷や戦友に便りを出す。 ☆補足 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十五年十月号)に掲載された記事「通信数 1435通 逗子=東京間読売鳩便奉仕」と、大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十六年七月号)に掲載された記事「新聞鳩の活躍」(作・土田春夫)に続報が載っている。 両記事によると、一九四〇(昭和十五)年度は戦時下新体制のため、海水浴客慰安の催事などが一切なく、ラジオ体操だけを実施したことから、鳩便奉仕(七月二十日~八月末日まで毎土日曜日開催。湘南軍鳩会後援)に人気が集中し、多忙を極めたという。 なお、軍用鳩の普及と大日本軍用鳩協会の宣伝のため、鳩便の利用客に同協会発行のパンフレットを配布したそうである。 参考文献 『読売新聞』(昭和十四年七月二十四日付) 読売新聞社 『読売新聞』(昭和十四年八月二十四日付。第二夕刊) 読売新聞社 『日本鳩時報』(昭和十五年十月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十六年七月号) 大日本軍用鳩協会 |
午前十時二十七分、乗員七名の乗った飛行機・ニッポン号が羽田飛行場を飛び立ち、世界一周飛行の旅に出る。三万人の参列を得た盛大な出発式では、日本伝書鳩協会が伝書鳩を放鳩し、この壮挙に花を添える。 十月二十日午後一時四十七分、羽田飛行場にニッポン号が降り立ち、見事、世界一周飛行を成し遂げる。 ☆補足 毎日新聞社『「毎日」の3世紀 新聞が見つめた激流130年』(別巻)によると、十月二十日のニッポン号帰還の際は、総計五十一羽の伝書鳩を動員し、写真四十七枚を運んだという。 参考文献 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 航空(5-138) 大阪毎日新聞 1939.8.26 (昭和14) 『ニツポン世界一周大飛行』 大阪毎日新聞社 東京日日新聞社 『「毎日」の3世紀 新聞が見つめた激流130年』(別巻) 毎日新聞社 |
陸軍通信学校が『昭和十四年改訂 軍用鳩通信教程』(上下巻)を編纂する。 前年に出版された『昭和十三年改訂 軍用鳩通信術教程』(上下巻)と、本年に出版された『昭和十四年改訂 軍用鳩通信術教程』の内容はほぼ同じだが、『昭和十三年改訂 軍用鳩通信術教程』(上下巻)に載っていた鳩用語の一覧を本書は欠いている(未収録) 上巻の目次は、以下のとおり(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている。各章を抜粋し、各節以下は省略)
下巻の目次は、以下のとおり(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている。各章を抜粋し、各節以下は省略)
参考文献 『昭和十四年改訂 軍用鳩通信教程』(上巻) 陸軍通信学校 『昭和十四年改訂 軍用鳩通信教程』(下巻) 陸軍通信学校 『昭和十四年改訂 軍用鳩通信術教程』 『昭和十三年改訂 軍用鳩通信術教程』(上巻) 軍用鳩調査委員 『昭和十三年改訂 軍用鳩通信術教程』(下巻) 軍用鳩調査委員 |
第二次世界大戦が勃発する。 ☆補足一 動員令が出されると、フランス軍は直ちに軍用鳩部隊を組織する。セダン、ムーゾン、ヴェルダン、ベルフォール、グランプレ、ステネー、ナンシーの鳩舎で訓練をおこなう。一九三九年の冬は厳しかったが、好成績を残す。ストーン、ルーピー、ダンブレーの移動鳩舎でも訓練を実施する。 ☆補足二 第一次世界大戦同様に、ドイツ軍は各地を占領すると、伝書鳩の没収と殺処分をおこなう。 一九四〇年五月十七日、ドイツ軍はベルギーのカトリス兄弟(兄オスカー・カトリス、弟ジェラール・カトリス)の鳩舎を接収する。 ベルギーの愛鳩家――アンドレ・ファンブリアーナは、この戦争中、ドイツ軍の目を隠れて二十五つがいの種鳩を飼育し、散々に苦労する。 アンドレ・ファンブリアーナのように、秘密の鳩飼養をするだけでも、その身に危険が及ぶが、さらに危険な行動を起こした者がいる。 ドイツに占領されたオランダにおいて、ある夜、愛鳩家のA・スカウトレンが、ウィールマクトにあるドイツ軍の鳩舎に潜り込んで、鳩を盗む。それが、モーゼとザールの二羽で、後にその血筋がオランダの愛鳩家――ヤン・アールデンに取り入れられて、ヤン・アールデン系の基礎を構成する。 ベルギーの愛鳩家――モーリス・デルバールによると、ドイツ軍は第一次世界大戦の際はフランドル地方の締めつけを厳しくし、第二次世界大戦の際はワロン地方の締めつけを厳しくしたという。すなわち、第一次世界大戦の際は、ドイツ人がフランドル地方の鳩を皆持っていってしまい、ワロン地方に鳩が少し残っているだけとなる(ワロン地方の愛鳩家がひそかに鳩を隠し持つ)。これが第一次世界大戦後に影響し、ワロン地方の鳩舎がフランドル地方の鳩舎より鳩レースで活躍するようになる。フランドル地方の鳩舎は、ドイツに奪われた鳩を取り戻すために方々を探し回って遅れを取る。反対に第二次世界大戦後は、フランドル地方の鳩舎がワロン地方の鳩舎より鳩レースで活躍する。これは前述のとおり、第二次世界大戦中は、ドイツ軍の取り締まりがフランドル地方よりもワロン地方に向けられたためである。 モーリス・デルバールの話にあるように、ドイツ軍は占領地にある全ての伝書鳩を没収したわけではなく、地域差や、多少の取りこぼしもあったようである。 オランダの愛鳩家――アドリアヌス・ド・ブラインは、第二次世界大戦が勃発しても鳩レースをやめず、優秀な鳩を邸宅に隠し持つ。 ベルギーの愛鳩家――フォンス・ヤンセンは、故国ベルギーにドイツ軍が進駐すると、鳩レース中止の瀬戸際に立たされ、鳩も全て処分しなければならなくなる。しかし、後にドイツ軍は、彼に鳩の所持を許し、ゾンデライゲンの税関にいるドイツ人も鳩飼料確保のために協力してくれる。 アド・スカーラーケンス『永遠のヤンセン ヤンセン・ファミリー100年の歴史』(Part Ⅰ)に、以下の記述がある。
フォンス・ヤンセンの家では、この戦争中、三十四羽の鳩が生き延びたという。 ☆補足三 杉本恵理子『戦場に行った動物たち きっと帰って来るよね』に、以下の記述がある。
☆補足四 詳しくは載っていないが、ノーマン・ポルマー トーマス・B・アレン『スパイ大事典』によると、ドイツの伝書鳩計画は、熱心な鳩愛好家として知られるハインリヒ・ヒムラー親衛隊長官の発案によるという。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『銘血・銘鳩 伝説の愛鳩家 ピート・デウェールトの回想録』 ピート・デウェールト/愛鳩の友社 『永遠のヤンセン ヤンセン・ファミリー100年の歴史』(Part Ⅰ) アド・スカーラーケンス/愛鳩の友社 『ピジョンダイジェスト』(昭和四十七年五月号) ピジョンダイジェスト社 『ピジョンダイジェスト』(昭和四十九年二月号) ピジョンダイジェスト社 『レース鳩』(平成八年五月号) 日本鳩レース協会 『戦場に行った動物たち きっと帰って来るよね』 杉本恵理子/ワールドフォトプレス 『スパイ大事典』 ノーマン・ポルマー トーマス・B・アレン 著 熊木信太郎 訳/論創社 |
大阪の報国鳩隊が隊旗を作り、生国魂神社において、入魂式を挙行する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十四年十一月号) 愛鳩の友社 |
日本伝書鳩協会の支部規定実施により、長年にわたり活動してきた関東鳩団が解散し、新たに日本伝書鳩協会関東支部として発足する。 この日、東京柳橋の料亭「二葉」において、関東支部発会式がおこなわれる。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十四年十一月号) 日本伝書鳩協会 『愛鳩の友』(昭和三十四年十一月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十五年一月号) 愛鳩の友社 |
午後二時、日本伝書鳩協会仮事務所において、日本伝書鳩協会の臨時総会が開かれる。 この中で、日本伝書鳩協会の名称を大日本軍用鳩協会とすることに決する。また、伝書鳩を保護鳥とする法律請願の原案を可決する。 午後二時四十分、臨時総会が終了し、電話で徳川義恕会長へ、電報で徳永秀三副会長へ、公文書で陸軍省と陸軍通信学校へ、それぞれ議案可決を報告する。また、牛込市役所を通じ東京府知事を経て陸軍大臣に、大日本軍用鳩協会への名称変更(定款変更)を申請する。 十月二十八日、陸軍大臣の認可が下り、正式に社団法人・大日本軍用鳩協会となる(登記手続き実施) ☆補足一 昨年の十二月九日、日本伝書鳩協会の総会で、新井嘉平治常任理事が、「帝国伝書鳩協会のみなさんがこぞって入会された」などと述べる。この発言に旧帝国伝書鳩協会の一部の会員から不満の声が上がる。しかし、両協会が合併したうえで、さらに大日本軍用鳩協会という名称に改名すると、旧帝国伝書鳩協会の会員も満足したという。 ☆補足二 日本伝書鳩協会が大日本軍用鳩協会に名称変更した理由は、以下のとおり(日本伝書鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十四年十一月号より引用〕。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十四年十一月号) 日本伝書鳩協会 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 |
陸軍通信学校が民間軍用鳩競翔賞状交付規定を改正する。 内容は、以下のとおり(日本伝書鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十四年十一月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている。付録第一、第二、第三は省略)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十四年十一月号) 日本伝書鳩協会 |
午後二時、神戸小学校の校庭において、軍馬十二頭、軍犬五十五頭、軍用鳩一〇〇羽の献納式がおこなわれる。 支那事変勃発以来、神戸市の小学校および幼稚園では、毎月一人一日分程度の古新聞を集めて献金しようと申し合わせて、計九十九校園が一九三七(昭和十二)年十二月~一九三九(昭和十四)年四月までの間に一万二二〇〇余円を拠金する。そして、第四師団熊谷部隊獣医部および報道部を経て陸軍省に、上記の軍用動物の献納手続きを終える。 献納式には、師団長、知事、市長らが参列する。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十四年十二月号) 大日本軍用鳩協会 |
狩猟解禁日を明日に控えた午後七時、ラジオ放送で以下の注意喚起がなされる(日本伝書鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十四年十一月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
なお、この放送は、日本伝書鳩協会が陸軍省に願い出て実現する。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十四年十一月号) 日本伝書鳩協会 |
北支派遣の多田部隊江淵部隊が、今事変で陣没した軍用鳩の鳩魂碑を建立し、その除幕式をおこなう。 祭詞は、以下のとおり(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十四年十二月号〕より引用。一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十四年十二月号) 大日本軍用鳩協会 |
支那派遣軍総司令部が『支那派遣軍軍用鳩規定』を定める。 目次は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04121604900、陸支受大日記(密)第71号 昭和14年自11月21日至11月29日(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04121604900、陸支受大日記(密)第71号 昭和14年自11月21日至11月29日(防衛省防衛研究所)」 |
大日本軍用鳩協会が定時理事会を開き、以下の事項を決定する(日本伝書鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十四年十一月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十四年十一月号) 日本伝書鳩協会 |
午後一時、群馬県庁の屋上において、群馬警防鳩隊の結成式がおこなわれる。 群馬県警の岡警防課長が司会を務め、宮城遥拝、国歌奉唱、皇軍の英霊に感謝の黙祷、佐藤彰三警察部長のあいさつ、錦織正雄博士のあいさつがある。 続いて、議事に移り、隊規朗読の後、官民合同で作り上げた草案(平野常任幹事提出)を満場一致で可決する。 次に群馬県知事代理・山田総務部長から警防鳩隊役員の指名があり、その後、官民合同の決議宣言を可決し、伝書鳩の献納式に移る。 樋口弥八日本伝書鳩協会群馬支部長の献納の辞が済むと、樋口・錦織両名の令嬢二名が、警防鳩隊隊長の佐藤彰三警察部長に献納目録、名簿、花束を手交する。また、群馬県知事代理・山田総務部長から感謝状の贈呈がある。 祝電は、日本伝書鳩協会副会長・佐藤 直少将、本部常任理事一同、埼玉支部長、中央普鳩会会長・永代静雄の計四通あり、田辺大観常任幹事がこれを紹介する。 最後に伝書鳩五〇〇羽の祝賀放鳩をおこない、天皇陛下万歳を唱えて閉式する。 午後七時、前橋市の富久家において、群馬支部主催の懇親会を開き、三十名ほどが出席する。 ☆補足 群馬警防鳩隊役員は、以下のとおり。 隊長・佐藤彰三、副隊長・小川 鍛、副隊長・樋口弥八、本部員・群馬県警警防課全員、田辺大観、早川新次郎、雄屋金蔵。ほか各地区の分隊長、副隊長。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十四年十一月号) 日本伝書鳩協会 |
防空訓練の第五夜、この日は実戦的防空訓練の第一日目となり、関東各地に約四十の敵機が侵入する(想定) このとき、日本伝書鳩協会と日本アマチュア無線連盟が通信連絡を担当する。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十四年十月二十九日付) 東京朝日新聞社 |
陸軍大臣の認可が下り、日本伝書鳩協会は正式に、社団法人・大日本軍用鳩協会に協会名を改める(登記手続き実施) 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十四年十一月号) 日本伝書鳩協会 |
支那派遣軍鳩育成所が設置される。 同育成所の人員、鳩、器材は、中支那派遣軍鳩班から引き継ぐ(中支那派遣軍は支那派遣軍の創設に伴って廃止される。これにより中支那派遣軍鳩班も九月三十日をもって解散する) 七月中旬から建設中だった新廠舎に十月十五日に移転し、軍用鳩の整備計画の立案とその実施に力を注ぐ。 十月現在の軍用鳩数、一五六二羽。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04121601900、陸支受大日記(密)第71号 昭和14年自11月21日至11月29日(防衛省防衛研究所)」 |
日本伝書鳩協会『日本鳩時報』(昭和十四年十一月号)が発行される。 本号に、以前に募集していた伝書鳩普及標語の結果発表が載っている(応募数一九六八、句数七二八一) 一等が「軍鳩飼つて国護れ」(作・只野 清)、二等が「国の為めみんなで殖せ伝書鳩」(作・西沢美次)、三等が「いざ共に飼へよ興亜の伝書鳩」(秋田秋声) 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十四年十一月号) 日本伝書鳩協会 |
神田錦町の松本亭において、大日本軍用鳩協会関東支部が定例総会を開催する。関東支部の名称を東京支部に改め、幹事五十二名を決定する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十五年一月号) 愛鳩の友社 |
第二次世界大戦の勃発以来、ドイツは南米各国の動向を注視しているが、うわさによると、ドイツはメキシコに潜水艦基地を建設しつつあるという。 この日、メキシコ南部のテキスココ郊外で、道に迷った伝書鳩が保護される。 伝書鳩は数通の通信文を携行していて、そのうち一通はメキシコ湾内を航行中のドイツ船UZ六十九号から十月中旬に発せられている。 内容は、同潜水艦の水夫がメキシコの友人に宛てた、あいさつ状である。しかし、残りの二通は暗号化されていて、何が書かれているのか分からない。 時節柄、怪しまれている。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十四年十一月十三日付) 東京朝日新聞社 |
大日本軍用鳩協会の主催で、仙台~東京間競翔が開催される。 午前六時頃、仙台の八木山公園運動場から約一八〇〇羽を一斉に放つ。 審査の結果、小林成光の愛鳩が一等となり、所要時間は四時間四十四分だった。小林には大日本軍用鳩協会と陸軍通信学校から表彰状と奨励金が授与される。 ちなみに、小林は現在、入営中の勇士である。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十四年十一月十三日付) 東京朝日新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十四年十一月二十三日付) 東京朝日新聞社 |
午後一時、軍用鳩研究を趣味にしている久邇宮徳彦王が、吉川晃史(東京はとの会)の別邸を訪ねる。久邇宮徳彦王は、約一時間半にわたり、吉川鳩舎内の伝書鳩を見学する。 吉川は、数千羽を飼育している愛鳩家で、満州事変以来、一五〇〇羽を陸海軍に献納している。 ☆補足一 軍用鳩の献納に関する史料を見ると、吉川晃史の名とその献納鳩の羽数(三〇〇〇羽に及んだといわれている)に圧倒される。 一愛鳩家としては、日本で一番、鳩を献納している人物ではなかろうか。 日本鳩レース協会『創立五十周年記念誌 飛翔』に掲載された記事「鳩と愛鳩家の50年史 ―心に残る鳩と人―」によると、日本鳩界黎明期の愛鳩家は、いわゆる旦那衆だったという。関西の徳永秀三(徳永硝子株式会社。大阪好鳩会)は、個人で銘鳩を買い集めて、それを軍に献納し、関東では吉川晃史(東京はとの会)が六〇〇キロを飛んだ鳩はみな買うぞ、と言って、同じく軍に鳩を献納していた。愛鳩の友社創立者の宮沢和男は、「東の吉川、西の徳永」などと述べて、両名の功績をたたえている。 ☆補足二 前日の十一月二十五日、久邇宮徳彦王の吉川晃史鳩舎台臨打ち合わせのために、大日本軍用鳩協会の桑田山襄理事が吉川邸を訪れている。 ☆補足三 中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十八年八月号)に掲載された記事「鳩も百まで」(作・永代静雄)によると、久邇宮徳彦王は久しく『普鳩』の有代読者であるという。同様に二条公爵令夫人(二条恭仁子)も昭和十四年四月号からの有代読者で『普鳩』を愛読しているとのことである。 なお、久邇宮家出身の二条公爵令夫人は、二条家に嫁入りする一九三九(昭和十四)年四月二日まで、並河 靖の指導を受けて軍用鳩を飼い、嫁入り後も二条公爵家で鳩飼育を続けている。夫人の弟である久邇宮徳彦王の愛鳩家ぶりも、夫人の感化による、といわれている。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十四年十一月二十七日付) 東京朝日新聞社 『創立五十周年記念誌 飛翔』 日本鳩レース協会 『日本鳩時報』(昭和十四年十二月号) 大日本軍用鳩協会 『普鳩』(昭和十八年八月号) 中央普鳩会本部 『日本鳩時報』(昭和十六年六月号) 大日本軍用鳩協会 『愛鳩の友』(平成十五年十二月号) 愛鳩の友社 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十四年十二月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十四年十二月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十四年十二月号)が発行される。 本号に、鳥取高等女学校と鳥取歩兵第四十連隊間の往復通信の記事が載っている。 それによると、五羽の往復鳩が生徒らの慰問文の入った信書管や信書嚢を朝夕の定刻、一日も欠かすことなく四十連隊に運んでいるという。 昨年末、これらを文集にまとめているが、事変勃発二周年記念日を迎えて、託送する慰問文が激増し、ついに一〇〇〇通を突破、これを第二集としてまとめることになっているそうである。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十四年十二月号) 大日本軍用鳩協会 |
東京麹町の軍人会館三階大集会所において、大日本軍用鳩協会が定期総会を開催する。 本総会において、金銀銅色名鳩章の交付を決定し、リレー競翔費、支部奨励補助費などを計上する。また、協会設立以来、会長を務めてきた徳川義恕男爵の会長辞任を承認し、副会長の佐藤 直少将が会長代行を務めることを決定する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十五年一月号) 愛鳩の友社 |
大日本軍用鳩協会東京支部が上野の松坂屋で軍用鳩交換会を開く。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十四年十二月号) 大日本軍用鳩協会 『愛鳩の友』(昭和三十五年一月号) 愛鳩の友社 |
東京学生軍用鳩連盟が学習院で総会を開催し、会長の佐藤 直少将以下、各加盟校代表が出席し、連盟規約などを可決する。 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十四年十二月号)に、学生連盟規約(協会公認)が載っている。 以下に引用しよう(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十五年二月号) 愛鳩の友社 『日本鳩時報』(昭和十四年十二月号) 大日本軍用鳩協会 |
上野公園内の東華亭において、中央普鳩会の主催で、全国銘鳩系(仔鳩、種鳩)即売会がおこなわれる。 鳩の価格は一羽十円~二十円まであり、競鳩鳩は八円が糶り出しではじまる。 約三〇〇名が参加する。 ☆補足 上記の一文は、小野内泰治『日本鳩界史年表』(16)をもとに記す。原文では、「十一月二十三日」に開催したとあるが、「十二月二十三日」の誤りと推定し、この日の開催と仮定する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十五年一月号) 愛鳩の友社 |
陸軍獣医学校が『軍用動物学(軍犬軍鳩学)』を出版する。本書は二部構成になっていて、前半が軍犬、後半が軍鳩について、それぞれ述べている。 軍鳩学の目次は、以下のとおり(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている。各章を抜粋し、各節以下は省略)
*『軍犬軍鳩学』という題の図書もあるが、単に題から「軍用動物学」の字句がないだけで内容は同じものである。 参考文献 『軍用動物(軍犬軍鳩学)』 陸軍獣医学校 『軍犬軍鳩学』 陸軍獣医学校 |
『昭和十四年改訂 軍用鳩通信術教程』が編纂される。 前年に出版された『昭和十三年改訂 軍用鳩通信術教程』(上下巻)と内容はほぼ同じだが、上下巻の分冊ではなく一巻にまとめられている。 目次は、以下のとおり(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている。各章を抜粋し、各節以下は省略)
参考文献 『昭和十四年改訂 軍用鳩通信術教程』 『昭和十三年改訂 軍用鳩通信術教程』(上巻) 軍用鳩調査委員 『昭和十三年改訂 軍用鳩通信術教程』(下巻) 軍用鳩調査委員 |
先月開催の定期総会において、正式に会長職を退いた、大日本軍用鳩協会の徳川義恕男爵に対し、協会役員数名が代表して銀花瓶を贈る。 ☆補足 その後、徳川は、大日本軍用鳩協会の顧問に就任する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十五年二月号) 愛鳩の友社 |
東京消防検閲式で一五〇〇羽の鳩が記念放鳩される。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十五年二月号) 愛鳩の友社 |
陸軍通信学校鳩部長が『軍鳩乃用法』を記す。 目次は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110538100、軍用動物に関する書類 昭和12年1月20日(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
緒言は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110538100、軍用動物に関する書類 昭和12年1月20日(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足 日本軍の移動鳩通信は相当なレベルに達していたらしい。 本書に、以下の記述がある(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110538100、軍用動物に関する書類 昭和12年1月20日(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、漢字をひらがなに改めている)
また、一九四〇(昭和十五)年に出版された陸軍獣医学校『軍陣獣医学提要』に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110538100、軍用動物に関する書類 昭和12年1月20日(防衛省防衛研究所)」 『軍陣獣医学提要』 陸軍獣医学校 |
紀元二六〇〇年の紀元節となる本日、大日本軍用鳩協会は、靖国神社境内の建国祭記念式場から数千羽の鳩を午後一時二十分に一斉放鳩する。その後、国防鳩隊の制服を着た国防鳩隊員が、大日本軍用鳩協会の奉祝旗を先頭にして、宮城までの奉祝行進に参加する。 また、この日、紀元二六〇〇年記念の軍用鳩普及運動がはじまり、大日本軍用鳩協会は、ポスター五〇〇〇枚、パンフレット二万枚、大幟三十本を、全国の各支部、各団体に送付する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十五年二月号) 愛鳩の友社 |
駐蒙軍参謀長が陸軍省整備局長宛てに、「伝書鳩分譲方斡旋相成度件」(蒙参内発第七九四号)を提出する。 蒙古連合自治政府に鳩育成所を設置するので、種鳩一一〇羽と移動鳩一六〇羽の分譲を請う内容である。 この鳩は、警備用有無線通信の副通信として使用され、軍に協力する予定になっている。 ☆補足 中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十八年六月号)に掲載された記事「蒙疆鳩所見」(作・小山和四郎)に、以下の記述がある(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
執筆者の小山和四郎は、中野の軍用鳩調査委員事務所に長く勤め、その後、在支皇軍の軍用鳩育成所、蒙疆政府軍用鳩育成所長を歴任し、現在は蒙疆自治邦政府宣化省公署実業処糧穀民需主任の地位にある。また、文中にある「高畠君」とは、華北交通株式会社の高畠多一のことである。 敵前で集団放鳩をおこなうと匪賊が逃げるのは、この通報によって、警察などが現場に駆けつけるからだと思われる。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C07091508300、陸支普大日記 第9号 昭和15年(防衛省防衛研究所)」 『普鳩』(昭和十八年六月号) 中央普鳩会本部 『普鳩』(昭和十八年九月号) 中央普鳩会本部 |
大日本軍用鳩協会が協会旗を三〇〇円で新調し、この日、明治神宮で協会旗新調奉告式を挙行する。 旗は正絹で、中央に日の丸があり、その上に本金糸で軍用鳩の姿を縫い盛りしてある。竿頭には軍用鳩の三文字を彫る。 ☆補足 小野内泰治『日本鳩界史年表』(17)によると、この協会旗は、昭和二十年二月、三月の二回にわたる戦災により焼失したらしい、とのことである。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十五年二月号) 愛鳩の友社 |
三月九日より、上野動物園が「軍用動物感謝祭」を開催する。 三月九日~十一日の三日間、軍用鳩と軍用犬の通信連絡を、午後二時~午後三時まで実演する。 ☆補足 小野内泰治『日本鳩界史年表』(17)によると、軍用動物慰霊祭は一週間おこなわれ、陸軍通信学校が移動鳩舎を二両置いて一般公開したという。鳩通信に関しては、大日本軍用鳩協会が受け付け、実施したそうである。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十五年三月十日付。夕刊) 東京朝日新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十五年二月号) 愛鳩の友社 『実録上野動物園』 福田三郎/毎日新聞社 |
大日本軍用鳩協会の主催で、横須賀防備隊鳩舎の見学会が開かれ、午前十時、同協会を出発する。 車賃や食事代は自前だったが、多くの愛鳩家が参加する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十五年二月号) 愛鳩の友社 |
陸軍通信学校が山梨県下で軍用鳩の通信訓練を実施する。 陸軍通信学校長・川並 密少将、同校・福永勇吉鳩部長、大日本軍用鳩協会・只野透四郎などが視察する。 視察内容は、以下のとおり。 地下防空壕内の移動鳩舎、薄暮訓練、四羽入り小型移動鳩舎、四羽入り小型往復鳩舎、地下十メートルにある鳩舎に通じる穴を鳩が出入りする訓練、移動中の自動車上からの舎外訓練および放鳩帰舎訓練、など。 なお、一般的な鳩通信と異なり、軍の秘密事項に触れる訓練だったため、外部には一切公表されなかった。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十五年二月号) 愛鳩の友社 |
午前六時五十分、大日本軍用鳩協会東京支部主催の盛岡四五〇キロ競翔が幕を開ける(一一二五羽放鳩) 競翔結果は、第一位・遠藤泰助、第二位・浅野吉司、第三位・山崎栄松となるが、東京地区ではじめて、銀色名鳩章がこの三名に授与される。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十五年二月号) 愛鳩の友社 |
宮城県仙台市西公園において、興亜時局博覧会が開催される(仙台商工会議所主催) 大日本軍用鳩協会の仙台支部は、興亜時局博覧会軍用鳩部出陳に奔走し、軍用鳩に関するパンフレットと、軍用鳩普及標語をバッジにしたものを、来場者に配布する。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年七月号) 大日本軍用鳩協会 |
山梨県甲府市鍛冶町の町会宛てに、北支派遣軍の某部隊長の名で軍事郵便が送られてくる。 内容は、以下のとおり(『読売新聞』〔昭和十五年五月八日付〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
鍛冶町会の吉田栄次郎が調べてみると、鳩の飼い主である米山隼人は、一九三八(昭和十三)年八月十五日に応召していて、一九四〇(昭和十五)年三月十七日、歩兵第一四九連隊(連隊長・津田辰参大佐)の中尉として修水河の渡河戦において戦死し、功五級金鵄勲章に輝いていた。また、米山が日本でかわいがっていた鳩のほとんどは、米山が大陸の戦地に赴くのと同時に行方不明になっていた。 まさか、米山を慕って鳩が大陸まで追っかけていったとは思えないが、偶然、米山の鳩が現地の日本軍に保護されて手柄を立てていることに、故人の父・米山梅太郎は驚いている。 ☆補足一 うそみたいな話である。 先月末に故・米山中尉の愛鳩が大陸の日本軍に保護されたというが、そうすると、某部隊長が鍛冶町会宛てに軍事郵便を発送する当日まで、わずかな期間しかない。この短い間に、日本からやってきた鳩に訓練を施して、戦場に投入するなど不可能だ。 日本の迷い鳩が大陸にまで飛んでいってしまうのはあり得ることなので不思議ではない。しかし、数々の手柄を立てた、というのは、飼い主を喜ばせようとする某部隊長の配慮ではなかろうか。 ☆補足二 米山の父親の名が『読売新聞』(昭和十五年五月八日付)に「梅吉」と載っているが誤り。 正しくは、「梅太郎」である(米山の遺族〔孫〕に確認済) ☆補足三 米山は生前、甲府鳩交会(大日本軍用鳩協会山梨支部)の会員として鳩を二十数羽飼っていたが、米山の戦死を知った村松謹之助上等兵がその残された鳩を「私にも飼育させて下さい」と米山家に申し入れる。 村松は以前、北支の戦場で敵に包囲されたとき、伝書鳩がもたらした通信によって命拾いしたことがある。そして、傷痍軍人として帰国後、伝書鳩を育てて国に尽くそうと思っていた。ちょうど、その際、村松は、米山の戦死とその愛鳩たちのことを知る。 村松は、米山の厳父から鳩二羽と鳩舎を一つもらい受け、親身になって世話をする。 ☆補足四 一九四一(昭和十六)年十月、米山の両親(米山梅太郎夫妻)が、村松の育てた二羽の鳩を持って上京し、靖国神社を訪れる。 米山の霊前でこの二羽を見せて、その成長ぶりを報告する。 参考文献 『読売新聞』(昭和十五年五月八日付) 読売新聞社 『読売新聞』(昭和十六年十月十五日付) 読売新聞社 『日本鳩時報』(昭和十六年十一月号) 大日本軍用鳩協会 『昭和十四年八月現在 会員名簿 付定款及諸規則』 日本伝書鳩協会 『山梨新報』(令和二年七月三日付) 山梨新報社 |
千葉、茨城、埼玉三県下の関東平野において、陸軍通信学校が通信演習を実施する。 南北の両軍に分かれておこなわれたこの演習には、陸軍の軍用鳩だけでなく、大日本軍用鳩協会埼玉支部の大宮鳩の会の固定鳩も協力要請を受けて参加する。 北軍の爆撃によって南軍の通信網が破壊された、との想定のもと、南軍は鳩通信所を開設して後方と連絡を取り、また、前線には移動鳩を配備して、刻々と敵情報告などの通信をおこなう。 通信演習終了後、参加鳩の状態を確認すると、猛烈な演習のため、どの鳩も甚だしく翼を損傷していた。 五月十五日、陸軍通信学校長・川並 密少将は、小松房之助と水村秀雄の両名(大宮鳩の会所属)に感謝状を授与する。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年六月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十五年七月号) 大日本軍用鳩協会 |
陸軍通信学校が『軍鳩管理規則(案)』を陸軍省に提出する(通校第一〇一四号) 本規則の目次は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01002478300、永存書類 乙集 第2類 第6冊 昭和15年「通信器材」(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01002478300、永存書類 乙集 第2類 第6冊 昭和15年「通信器材」(防衛省防衛研究所)」 |
東京市と読売新聞社の主催で、上野動物園内キリン前広場において、伝書鳩普及訓練会が開催される。 実施内容は、以下のとおり。 ・伝書鳩移動訓練と通信の実況 ・各種訓練放鳩の実況 ・伝書鳩の飼育、訓練法の指導ならびに説明 ・各種参考品出陳 ・パンフレット一万枚の配布 ・鳩便奉仕(希望者へのサービスとして通信用紙に書いた便りを上野動物園から読売新聞社に鳩便で運び、次に宛名先に郵送する。期間中、二〇五五通を取り扱う。費用一切は読売新聞社が負担する) 参考文献 『読売新聞』(昭和十五年五月十日付) 読売新聞社 『読売新聞』(昭和十五年五月二十日付) 読売新聞社 『読売新聞』(昭和十五年五月三十一日付) 読売新聞社 『日本鳩時報』(昭和十六年七月号) 大日本軍用鳩協会 |
午後七時、慶大、早大、学習院の鳩部員二十数名が学習院会議室に集まり、今夏の第二回移動鳩車対抗競翔の対策として、第一回移動鳩訓練研究座談会を開催する。 六月八日の午後二時、再び学習院会議室に三十五名が集まり、第二回移動鳩訓練研究座談会を開く。この日は、陸軍通信学校鳩部の教官・有賀正孝大尉を招き、最新の陸軍式移動鳩訓練法に関する講話と指導を受ける。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年八月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会が理事会を開き、以下の事項を決定する(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十五年六月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年六月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会が理事会を開き、以下の事項を決定する(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十五年六月号〕より引用。一部、カタカナをひらがなに改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年六月号) 大日本軍用鳩協会 |
関東軍軍用鳩育成所が『軍用鳩ノ害鳥ニ関スル調査』を出版する。 前書きは、以下のとおり(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『軍用鳩ノ害鳥ニ関スル調査』 関東軍軍用鳩育成所 |
徳川義恕男爵の後任として、大日本軍用鳩協会の会長に鷹司信輔公爵が就任したことを受けて、六月三日、大日本軍用鳩協会は、東京麹町の宝亭に陸海軍の高官を招待し、盛大な祝賀会を開く。 来賓は、柳沢保承伯爵、陸軍通信学校長・川並 密少将、陸軍省整備局交通課長・鎌田銓一大佐、海軍省軍務局第二課長・山口次平大佐、陸軍通信学校鳩部長・福永勇吉中佐、学習院教授・山本直文。 大日本軍用鳩協会の出席者は、新会長・鷹司信輔公爵、副会長・佐藤 直少将、吉川晃史参与以下全常務理事。 祝賀会は、佐藤福治常務理事のあいさつ、鷹司信輔公爵の新会長就任あいさつ、川並 密少将の来賓代表あいさつの後、宴会となる。 六月四日の祝賀会第二日目は、東京柳橋の料亭「二葉」において、有志評議員一〇〇余名が集まり、鷹司信輔公爵の新会長就任を祝う。 来賓は、陸軍通信学校鳩部長・福永勇吉中佐、同鳩部員・有賀正孝大尉、大日本軍用鳩協会顧問・梅原重厚法学博士、学習院教授・山本直文のほか、大日本軍用鳩協会賛助会員である、同盟通信社、読売新聞社、都新聞社などの各代表者。 大日本軍用鳩協会の出席者は、新会長・鷹司信輔公爵、副会長・佐藤 直少将、吉川晃史参与以下の理事、幹事、評議員一〇〇余名。 祝賀会の流れは、以下のとおり。 只野透四郎常務理事の開会の辞、副会長・佐藤 直少将の訓示(新会長を推戴する協会員の覚悟と軍鳩報国の真精神について)、鷹司信輔公爵の新会長就任あいさつ、梅原重厚法学博士の来賓代表あいさつ、副会長・徳永秀三ほか各地会員の祝電・祝辞の朗読(田中愛助常務理事) ☆補足 鷹司信輔公爵の新会長就任あいさつは、以下のとおり(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十五年六月号〕より引用)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年六月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十五年七月号) 大日本軍用鳩協会 |
この日の正午、華北交通株式会社購買鳩一三〇〇羽を神戸より塘沽まで宰領するために、大日本軍用鳩協会の四常務理事(近久 央、只野透四郎、田中愛助、平野直一)が大阪商船株式会社の長城丸で神戸を出帆する。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年八月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会が理事会を開き、以下の事項を決定する(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十五年七月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年七月号) 大日本軍用鳩協会 |
支那派遣軍兵站部長が大本営陸軍兵站総監部参謀長宛てに、「軍用鳩補充中止ニ関スル件」(総参三第二三七号)を提出する。昭和十五年八月末に陸軍通信学校から補充されることになっている軍用鳩五〇〇羽は支那派遣軍鳩育成所の生産鳩で充当できるので鳩の補充を中止してほしい、との申し入れである(今後も支那派遣軍鳩育成所の生産鳩だけで所要数を充当できる見込み) 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04122231100、陸支密大日記 第25号 1/4 昭和15年(防衛省防衛研究所)」 |
午後零時半頃、綏遠省昔辺河の東側に進出した日本軍の一隊(トラック乗車)が敵軍と遭遇し、戦闘になる。 そうして、激戦五時間、弾薬が尽きようとしたとき、軍用鳩三〇〇号(大連市愛鳩会産)が本隊に飛来し、弾薬の補給を要請する通信文を届ける。 この軍用鳩三〇〇号の活躍によって、午後八時頃に弾薬の補給がおこなわれ、最終的に敵軍を撃退する。 ☆補足 昭和十六年八月二十三日付の、『東京日日新聞』および『読売新聞』に、軍用鳩三〇〇号の記事が載っている。しかし、その内容が食い違っている。
『東京日日新聞』の方では、兵力寡少なトラック隊が敵大軍の包囲攻撃に遭遇したとある。一方、『読売新聞』の方では、兵力寡少なトラック隊が敵主力を村落に追い込み寡兵よくこれを包囲攻撃したとある。 敵から包囲攻撃されるのと敵を包囲攻撃するのとでは、意味が全く異なる。どうしてこのような差異が生じてしまうのか、よく分からない。 参考までに、『東京日日新聞』、『読売新聞』の順で、該当記事を以下に引用しよう(一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『東京日日新聞』(昭和十六年八月二十三日付) 東京日日新聞社 『読売新聞』(昭和十六年八月二十三日付) 読売新聞社 |
七月十一日~十七日まで、家畜の保護、畜産業の拡充強化、犠牲になった軍用動物の慰霊などを目的とする第五回家禽週間が実施される。 ポスターの掲示、ビラの配布、講演などにより、「家畜を護れ」と世間にアピールされる。 また、警視庁の獣医課が、東京市や東京畜産連盟などと協力して、畜産業者に業別の家畜衛生心得書を配布する。 参考文献 『読売新聞』(昭和十五年七月四日付) 読売新聞社 |
大日本軍用鳩協会は、長距離競翔優勝鳩に海軍大臣賞牌の下付を海軍に申請していたが、七月十一日、海軍省軍務局第二課の鈴木中佐より、これを下付する旨の電話連絡を受ける。 七月十二日、大日本軍用鳩協会副会長・佐藤 直少将、同協会常務理事・只野透四郎、同協会常務理事・田中愛助、同協会主事・高畠多一は、海軍省を訪問し、海軍大臣代理海軍省高級副官の一宮義之大佐から海軍大臣楯賞六個を受領する。 これにより、先に受領している銀賞杯二個を合わせて、海軍大臣賞牌は計八個となり、今後は陸軍大臣賞とともに全国八区に対して陸海軍賞が二個宛て下付されるようになる。 ☆補足 今回の海軍大臣賞牌の下付については、海軍省軍務局第二課長の山口大佐と、同局員の鈴木中佐の努力によるところが大きく、大日本軍用鳩協会副会長の佐藤 直少将は、両名に感謝の言葉を述べる。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年八月号) 大日本軍用鳩協会 |
七月十二日、三宅島が噴火する。 約二十五日間にわたって発生した、この噴火活動により、死者十一名、負傷者二十名、全壊・焼失家屋二十四棟などの被害を出す。 都下の各新聞社は、記者と写真班を三宅島に派遣するが、読売新聞社が他社を出し抜き、七月十五日の夕刊に間に合わせて実況写真を掲載する。 ☆補足一 七月十五日の午前十時頃、三宅島に持ち込まれた読売新聞社の伝書鳩八羽のうち、八〇七号(昭和十四年生)が通信筒を背負って第一着で帰還する。この快挙に同社鳩係の土田春夫は狂気のごとく喜び、また、鳩が帰ったと社内は活気づいて大変な騒ぎになる。 *殊勲鳩は八〇七号以下六羽。 ☆補足二 『愛鳩の友』(昭和三十三年六月号)に掲載された記事「新聞社の鳩舎めぐり(中)」に、以下の記述がある。
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年八月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十六年七月号) 大日本軍用鳩協会 「三宅島噴火の歴史」 気象庁 https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/rovdm/Miyakejima_rovdm/miyakejima_hist.html 『愛鳩の友』(昭和三十三年六月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十五年三月号) 愛鳩の友社 |
○○部隊の谷口善秋軍曹(宮崎県出身)によると、湖北省と湖南省を飛ぶ数百羽の軍用鳩のうち、討伐や作戦に絶対に連れていかなければならない、よりすぐりの五羽がいるという。 田村倉五郎(日本伝書鳩協会)の献納した二三九五四号と、軍用鳩調査委員会産の、七七四号、三八一号、一〇三八号、三八七六号である。 以上の五羽の戦歴は古く、先の冬季攻勢においても活躍している。 また、名誉の負傷もある。二三九五四号と七七四号は猛禽類によって咽喉に爪をかけられ、一〇三八号と三八七六号は片翼に外傷を負い、三八一号は敵弾を受けて片翼に貫通銃創を負う。しかし、この五羽は鮮血に染まりながらも通信任務を果たし、傷が癒えると第一線に復帰する。 六月三十日から○○日間にわたり、第二十五師ほか三個師が粤漢鉄道の沿線において日本軍に攻勢をかける。電話線は切断され、無電の架設も難しい中、前線と後方の連絡はこの五羽の飛翔によって維持される。 また、あるときの日没後、至急の用務によって七七四号と一〇三八号が放鳩されるが、闇夜の山間を飛んで通信の任を果たす。 以上、同日付の『大阪朝日新聞』の記事より。 参考文献 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 軍事(国防)(49-218) 大阪朝日新聞 1940.7.16 (昭和15) |
陸軍獣医資材廠令(勅令第四八一号)が公布される。 従来は、獣医材料および蹄鉄の製造・研究等は陸軍衛生材料廠がおこなっていたが、今後は軍用動物に関する一切の業務を獣医資材廠が取り扱う。 東京を本廠として、所要の各地に支廠を設置する。 施行は来月一日から。 参考文献 『官報』(昭和十五年七月二十日付。第四〇六一号) 『読売新聞』(昭和十五年七月二十一日付。夕刊) 読売新聞社 『東京朝日新聞』(昭和十五年七月二十一日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
華北交通株式会社購買鳩○○○羽を宰領した、大日本軍用鳩協会の常務理事・萩原武雄、同協会東京支部幹事の中島重蔵、原田義人の三名が、大阪商船株式会社の長城丸で神戸を出帆する。 先月に続いて、第二回の北支行きとなる。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年八月号) 大日本軍用鳩協会 |
陸軍通信学校の福永勇吉中佐が、伝書鳩二〇一羽に及んだ今回の献納について、本日付で、大日本軍用鳩協会の関係者に礼状を記す。 特に、吉川晃史(東京はとの会)の献納が際立っていて、個人で一二三羽(六〇〇キロ競翔以上の記録鳩)の優秀鳩を陸軍に納めている。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年九月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十五年八月号、九月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年八月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十五年九月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会が出願中だった、大日本軍用鳩協会の脚環商標登録の件が特許庁から許可される(登録一二三六号~一二三六二号) 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十五年三月号) 愛鳩の友社 |
八月二日の午後二時半、大阪第四師団鳩通信班指導のもと、第一回全関西学徒移動鳩訓練大会が信太山演習場において開幕する(大阪学生愛鳩会主催、大阪朝日新聞社後援)。国旗掲揚、宮城遥拝、英霊に黙祷、大阪大学工学部・上野誠一教授(学鳩会長)の開会の辞、朝日新聞社・松本 健機械化報道部長のあいさつ、大阪第四師団司令部・那須中尉の指導講演の後、三週間弱にわたる移動鳩の訓練がはじまる。 豊中中学、住吉中学、堺中学、堺商業、浪高、関西工業、四条畷中、学城東商業、神戸一中、神戸三中の各学生を中心に学鳩会員を合わせて参加者は一〇〇名を越える。 八月二十二日の午前十一時、京阪沿線八幡町御幸橋北詰淀川河原において閉会式を挙行し、同式には海軍兵学校生徒の制服を着用した久邇宮徳彦王が出席する。那須中尉、城東商業教官・松村少佐、阪大工学部・太田教授、林 佐一大阪市立動物園長、松本 健朝日新聞社機械化報道部長をはじめ学生ら一三〇余名が久邇宮徳彦王を出迎える。 閉会式は、宮城遥拝、英霊に黙禱、那須中尉の御前講演および同中尉から成績優秀者への修了証書下付、松本 健機械化部長のあいさつの順でおこなう。そして、最後に、優秀鳩二十羽ならびに簡易移動鳩舎一を大阪学生愛鳩会が大阪第四師団に献納し、李王第四師団長の感謝状が同会に贈られる。 閉会式終了後、久邇宮徳彦王は、淀川堤防上の移動鳩訓練状況を視察し、自らの手で鳩に餌を与える。 参考文献 『アサヒグラフ』(昭和十五年八月二十一日号) 東京朝日新聞社 大阪朝日新聞社 『日本鳩時報』(昭和十五年十月号) 大日本軍用鳩協会 |
東京市主催の日比谷公園夏季児童指導会(毎日、一五〇人ほどの児童が参加)が八月一日から開催されているが、三日目となる本日、今村みや子指導員が軍用鳩に関する話を子供たちにする。 参考文献 『東京朝日新聞』(昭和十五年八月四日付。夕刊) 東京朝日新聞社 |
東京都市逓信局がサイゴン仏語放送を聴取する(以下、その内容の一部) アヴァス通信社によると、ドイツ軍の来襲に全神経を集中しているイギリスは、市民の日常生活やその行動などについて、微細な点に至るまで厳重に取り締まっているという。例えば、官憲の許可なく伝書鳩を放つのを禁止したり、屋外の田野などでのたき火を禁止したりしている。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03024674000、西貢仏語放送(六日)(国立公文書館)」 |
陸軍通信学校長が陸軍大臣宛てに、「大阪国防館ニ鳩剥製出陳ノ件報告」(通校第一七四号)を報告する。軍用鳩七十七号と軍用鳩三五八三号の疑似剥製を製作し、大阪国防館長(萩原正秀大佐)宛てに送付した、との内容である。これは、今年の五月に大阪国防館長が陸軍省を訪問し、出陳方を口頭で願い出たのが発端で、在支鳩育成所について調査した結果、上記の二羽が鳩功績調書から選出される。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01002479000、永存書類 乙集 第2類 第6冊 昭和15年「通信器材」(防衛省防衛研究所)」 |
大日本軍用鳩協会が理事会を開き、以下の事項を決定する(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十五年九月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年九月号) 大日本軍用鳩協会 |
陸軍通信学校が関東平野において鳩隊演習をおこなう。東西両軍は各種の通信連絡に伝書鳩(移動鳩、往復鳩、夜間鳩、民間鳩)を用いる。 また、大日本軍用鳩協会の、群馬、埼玉両支部の十二名も参加し、愛鳩の提供および通信員として鳩隊演習に協力する。 八月二十六日、陸軍通信学校長・川並 密少将は、鳩隊演習に参加した、以上十二名の民間愛鳩家に、感謝状を授与する。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年十月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十五年十一月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十五年九月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年九月号) 大日本軍用鳩協会 |
時局下における軍用鳩に関する知識普及ならびに軍鳩報国思想の発揚を計るため、大阪阪急百貨店八階において、紀元二六〇〇年奉祝軍用鳩展覧会が開催される(大阪報国鳩隊主催、陸軍省、大阪第四師団、阪神海軍人事部、大阪府警察部、大阪鉄道局、朝日新聞大阪本社、大阪毎日新聞社、大日本軍用鳩協会後援) 伝書鳩、ジオラマ、写真、図表などの各展示物のほか、屋上の第二会場で大阪第四師団が移動鳩舎訓練の実演や、阪急百貨店~大阪第四師団間の往復通信(約五十キロ)を日に数回実施する。 また、開会三日目の九月十九日午前九時、李王および同妃方子女王が来場し、報国鳩隊隊長・徳永秀三と同隊理事・古川槌之助の案内で場内を観覧する。 ☆補足 当時、十六歳の少女浪曲師・日吉川小ひさ(本名・河知敏子。後の三代目日吉川秋水)は、軍用鳩展覧会の展示物を見て感激し、『軍用鳩賛歌』という題の一編を創作する。そして、音楽好きな、日吉川の知人が、この作詞に曲をつける。 日吉川は、この『軍用鳩賛歌』を大日本軍用鳩協会に贈り、以下のように述べる(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十五年十一月号〕より引用)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年九月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十五年十一月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会が理事会を開き、以下の事項を決定する(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十五年十月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足 「松尾鉄市」を「松尾鉄一」と表記している史料がいくつかある。正確な時期は不明だが、「松尾鉄市」から「松尾鉄一」に当人が改名したのかもしれない。またはどちらかが筆名である可能性も考えられる。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年十月号) 大日本軍用鳩協会 |
九月二十日から四日間にわたり、台北帝大グラウンドにおいて、紀元二六〇〇年記念の体育大会が開催される(台湾総督府主催) このとき、台北市の義勇鳩団が二六〇〇羽の伝書鳩を一斉放鳩する。また、義勇鳩団の制服に鳩籠を背負った姿で市内を行進し、伝書鳩や義勇鳩団の存在を一般市民にアピールする。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年十二月号) 大日本軍用鳩協会 |
関東地方の民間愛鳩家で組織される大日本国防鳩隊が昭和十五年第三次防空訓練に参加する。十月二日~四日の三日間にわたり、隊長以下七十七名の人員と伝書鳩五〇〇羽ほどが東部軍司令部の指揮下に入り、銚子、水戸、前橋、宇都宮、甲府、浦和の各重要地点から鳩通信をおこなう。 なお、このたび、徳川義恕男爵に代わって、大日本軍用鳩協会の会長および大日本国防鳩隊の隊長に就任した鷹司信輔公爵が、十月三日、国防服姿(鳩隊制服)で現れ、東部軍司令部や各鳩舎を視察した後、東京朝日新聞社を訪ねて、その援助(後援)に対する礼を述べる。 ☆補足一 昭和十五年第三次防空訓練には、東京好鳩会、山之手研鳩会、千寿軍鳩会、城北はとの会、愛国興鳩会、江東鳩友会、興亜軍鳩倶楽部、東京栄鳩会、帝都愛鳩会、鳩光会、報国武鳩会の各愛鳩会が参加する。 ☆補足二 訓練終了後、将来に関する意見として、五つの問題点が指摘される。 一つ目は、編成組織改善に関する意見。従来の組織では鳩隊編成に不必要な時間を要し、命令伝達などにおいても正鵠を欠き、隊員の統制も不充分なので、編成組織の改善は喫緊の事項である、とのこと。 二つ目は、実用通信鳩養成に関する意見。今次演習に動員された固定鳩舎鳩は、競翔で一定期間のみ訓練されたものか、運動飛翔のみの実施にとどまり、実用通信鳩としての価値が極めて低い。五十キロ~一〇〇キロ圏内の四方放鳩訓練をおこなうか、またはあらかじめ通信方向を分担する施策が必要、とのこと。 三つ目は、移動鳩の養成の件。従来、移動鳩は、軍の専有物であるかのように思われているが、これを一掃し、国防鳩隊においても養成すべきである。固定鳩のみでは軍の要求に応えられない、とのこと。 四つ目は、継送鳩の使用に関する件。放鳩地から鳩舎までの所要時間は予想以上に快速で好成績を収めたが、鳩舎から中継地までの通信時間が意外に多くかかっている。中継鳩の使用に関しては、幾多研究の余地あり、とのこと。 五つ目は、国防鳩隊の認識徹底に関する件。各県庁や警察署に対し、あらかじめ軍司令部が今次演習の実施を通牒しているが、国防鳩隊の活動を認識していない一部地方官憲があり、県庁内の立ち入りを禁止されたり、通信を拒否されたりした。国防鳩隊に対する一般の認識を徹底する必要がある、とのこと。 ☆補足三 十一月十五日午後五時、東京丸の内の朝日新聞社講堂において、国防鳩隊演習参加授与式が開催される(朝日新聞社主催) 昭和十五年第三次防空訓練に通信隊を組織して五日間参加した国防鳩隊の隊員五十名が出席し、隊長・鷹司信輔公爵からそれぞれ参加証を授与される。 その後、夕食会に移り、余興として映画上映がある。特に日本教育紙芝居協会から、新版の『小さい伝令使』の提供があり、皆で観賞する。 九時頃、終了する。 参考文献 『朝日新聞』(昭和十五年十月四日付) 朝日新聞東京本社 『日本鳩時報』(昭和十五年十一月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十五年十二月号) 大日本軍用鳩協会 |
この日の正午~午後五時まで、関西の大阪報国鳩隊が昭和十五年第三次防空訓練に参加する。 想定としては、敵数十機の大編隊が京阪神上空を襲い、爆弾、焼夷弾を雨あられと投下、たちまち市街は炎上、水道は断水、橋梁は爆破、軌道、道路は破壊される、というもので、上述の大阪報国鳩隊のほか、大阪第四師団、大阪府、大阪市、大阪鉄道局、国防自動車協会側車隊が訓練をおこなう。 大阪報国鳩隊の通信成績は良好で、大阪府警察部長より激賞される。 なお、大阪報国鳩隊の訓練の目的は、以下のとおり(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十五年十一月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年十一月号) 大日本軍用鳩協会 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 軍事(国防)(50-079) 大阪朝日新聞 1940.10.2 (昭和15) |
昭和十五年第三次防空訓練(十月一日~五日の計五日間)の最終日となった本日、大阪南区の大宝小学校では午前九時半から「運動場に毒ガス、焼夷弾、西側屋上に爆弾が落下した」との想定で、全児童が地下室に避難する。 また、大阪毎日新聞社の伝書鳩により大阪市警防本部に通報がいき、全員が防毒マスクを装着し、御真影奉護係が奉安殿の奉護に当たる。 参考文献 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 軍事(国防)(50-090) 大阪毎日新聞 1940.10.6 (昭和15) |
大日本軍用鳩協会が理事会を開き、以下の事項を決定する(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十五年十一月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足 東京はとの会の解散が議題になっているが、その後、大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十六年三月号)において、興亜軍鳩倶楽部が東京はとの会に会名を改めたことが記事になっている。会の代表者は中島明徳で、事務所は東京市浅草区柳橋代地河岸二葉方とのことである。 ここに至る事情が不明なので詳細は分からないが、少なくとも、東京はとの会の名は残ったようである。ただし、その構成員については、変遷があったように思われる。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年十一月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十六年三月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会群馬支部の、伊勢崎鳩の会および赤石鳩の会が、群馬県伊勢崎市の華蔵寺公園に鳩魂碑(杉山 元大将の碑文)を建設し、その除幕式をおこなう。両会員のほか、伊勢崎市長、警察署長、郷軍連合分会長、愛国婦人会員、国防婦人会員などが出席する。 大日本軍用鳩協会の田中愛助常任理事と、同協会東京支部の飯沼竜之助常任幹事が、各地の鳩会の追悼の辞ならびに弔電を代読する。 ☆補足 伊勢崎鳩の会の会長が読み上げた式辞は、以下のとおり(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十五年十二月号〕より引用)
大日本軍用鳩協会会長・鷹司信輔公爵の祭文は、以下のとおり(鷹司信輔「祭文」より引用。一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年十月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十五年十二月号) 大日本軍用鳩協会 「祭文」 鷹司信輔 *筆者所有の、鷹司の直筆と思われる史料 |
十月二十八日と二十九日に各一回ずつ、台湾の新竹神社において、伝書鳩二六〇〇羽の奉祝放鳩がおこなわれる。 この催しは、台湾日報社新竹支局の提唱により、紀元二六〇〇年にちなんで実施される。 伝書鳩は、新竹鳩友会、新竹鳩信会、新竹勇鳩会、竹東軍鳩会、一般参加者が持ち寄る。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年十二月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会が常務理事会を開き、以下の事項を決定する(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十五年十一月号〕より引用。一部、カタカナをひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足 大日本軍用鳩協会の高畠多一主事は、本日付で同職を依願退職し、華北交通株式会社に新設される伝書鳩育成所長に就任する。十一月五日に東京を発つ予定になっているが、陸軍通信学校鳩部出身の、古池喜雄、芦沢義人の両名も同育成所に採用が決まっており、一緒に赴任する。 なお、後任の主事は、陸軍通信学校鳩部出身で、本年三月から書記を担当している伊藤正文。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年十一月号) 大日本軍用鳩協会 |
午後四時、東部軍司令官・稲葉四郎中将の招待を受けて、国防鳩隊、自動車隊無線隊、自動艇隊など約一〇〇名が東京麹町の宝亭に集合する。 国防鳩隊から、吉川晃史参与(代理)、近久 央常任理事、只野透四郎常任理事、平野直一常任理事が出席する。陸軍から、東部軍司令官・稲葉四郎中将、同軍参謀長・諫山春樹少将ほか、多数の将星が出席する。 三階ホールにおいて、映画上映などの余興があり、午後八時から宴会に移る。 稲葉のあいさつ(要旨)は、以下のとおり(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十五年十月号〕より引用)
☆補足 上記の一文は、大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十五年十一月号)に掲載された記事「稲葉司令官招待挨拶」をもとにその日付を「十月三十一日」と記す。 しかし、大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十五年十二月号)に掲載された記事「業務報告 昭和十五年度大日本軍用鳩協会」には「十月二十一日」と記されている。 どちらの記述が正しいのか不明。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年十一月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十五年十二月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十五年十月号)に掲載された記事「陸軍省交通課勝田氏大陸へ」によると、陸軍省整備局交通課属・勝田清造は二十数年にわたって同課に勤務し、軍用鳩ならびに民間鳩の生き字引として貴重な存在であったが、今回、大陸に栄転するという。 栄転先は、以下のとおり(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十五年十月号〕より引用)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年十月号) 大日本軍用鳩協会 |
イギリス軍が工作員をドイツ軍占領地に送り込んで鳩通信させる、最初の作戦をおこなう。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 |
本日付の通知で、慶應義塾大学伝書鳩研究会が慶應義塾大学軍用鳩研究会に会名を改める。これは、大日本軍用鳩協会ならびに東京学生軍用鳩連盟の趣旨に基づき、変更したものである。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年十二月号) 大日本軍用鳩協会 |
神宮外苑競技場において、賀陽宮恒憲王および敏子妃出席のもと、紀元二六〇〇年祝賀会が開催される(東京市主催) 大日本軍用鳩協会東京支部は、会員六〇〇名を総動員し、午前九時四十五分、伝書鳩七八〇〇羽を一斉放鳩して祝賀会を盛り上げる。 この伝書鳩の大群に、数万の観衆が歓呼の声を上げる。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年十二月号) 大日本軍用鳩協会 |
午後二時、東部軍参謀長・諫山春樹少将、山本参謀、牧少佐、陸軍通信学校長・川並 密少将、幹事・中村少将、鳩部長・福永勇吉中佐、米川副官などが、国防鳩隊の吉川晃史鳩舎(千葉県市川市)を訪問する。また、軍部だけでなく、国防鳩隊長・鷹司信輔公爵や同隊役員らも参集する。 官民の一行は、吉川が数万円をかけて建設した特別陸軍献納鳩舎、吉川独自の考案による巣房を有す蕃殖鳩舎、吉川自慢の銘鳩などを見学する。一行のうち、諫山は軍用鳩への造詣が深いことから川並とともに、案内役の吉川に種々の質問を発する。 鳩舎視察終了後、一行は数寄を凝らした吉川の別邸座敷で夕食を取り、将来の軍用鳩通信などについて隔心なく語り合う。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年十二月号) 大日本軍用鳩協会 |
鳩飼料の白エンドウが、農林省令に基づき、配給されることになり、今後、大日本軍用鳩協会は、陸軍および農林省に交渉してこれを受領する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十五年五月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十五年六月号) 愛鳩の友社 |
東京麹町の九段軍人会館の三階大ホールにおいて、大日本軍用鳩協会が第三回定時総会を開催する。会員一〇〇名、来賓八名が出席する。また、遠方在住あるいは要務により提出された委任状は、午前十時までに一四六九通が集まる。 定時総会の流れは、以下のとおり。 国歌斉唱、宮城および神宮遥拝、陣没皇軍将士・鳩霊への黙禱、田中愛助常任理事の開会のあいさつ、鷹司信輔会長のあいさつ、鳩界多年功労者表彰(佐藤 直副会長、徳永秀三副会長、吉川晃史参与に胸像と表彰状を授与)、本年度最長距離優勝者表彰(七〇〇キロ・小俣今造〔東都鳩倶楽部〕、六〇〇キロ・木戸末吉〔京都支部競翔会〕、四〇〇キロ・三木 薫〔静岡軍鳩会〕)、来賓祝辞(陸軍通信学校鳩部長・福永勇吉中佐、陸軍省・大野大尉)、陸軍通信学校・有賀正孝大尉の講演、昼食休憩(午後二時、再び開会)、議事承認可決(定款改正、昭和十五年度業務報告・収支決算報告、昭和十六年度歳出入予算、脚環の値上げ、役員改選、各支部提出建議案)、鷹司会長発声の万歳三唱、平野直一常任理事の閉会の辞。 午後七時、有志参加の懇親会に移り、日本各地の代表者が集う。協会本部から鷹司会長、佐藤副会長、全常任理事が出席する。来賓は、陸軍省・大野大尉、陸軍通信学校鳩部長・福永勇吉中佐、同校・有賀正孝大尉、協会顧問・梅原重厚法学博士、山本直文学習院教授など。 最後に梅原博士の発声で大日本軍用鳩協会万歳を唱え、午後九時、終了する。 ☆補足一 上記の一文は、大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十五年十二月号)に掲載された記事をもとに記す。 原文には「昭和十四年度の業務報告、収支決算報告」とあったが、「昭和十五年度」の誤りと思われる(修正済み) ☆補足二 この日の定時総会で可決した定款改正は、以下のとおり(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十五年十二月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足三 定時総会であいさつに立った、陸軍通信学校の福永勇吉中佐は、以下のように述べる(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十五年十二月号〕より引用)
福永が言うには、国防鳩隊(*関東)あるいは報国鳩隊(*関西)という名称が各地別にできているのは問題であり、将来的には統制の取れた鳩隊を編成すべきであるという。また、現状では各支部が偏在して存在することから通信網の構築が不充分で、日本の国土防衛上、得策ではないそうである。 ☆補足四 陸軍通信学校の有賀正孝大尉の講演によると、一九一九(大正八)年にフランスからルネ・クレルカン砲兵中尉を招いて外国式の鳩の使用を習うが、外国の戦法と日本の戦法は全然異なるので、日本の軍人は非常に不満を持ったそうである。しかし、漸次、その改良が進み、今では全く純日本式の用法でおこない、しかも成績がよくなっているという。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年十二月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十六年一月号) 大日本軍用鳩協会 |
敵は○○地区の周辺の山に陣地を構え、三原部隊に弾雨を浴びせる。 昨夜から降り続く雨はやまず、午後には雷雨になる。 通信兵が無線を開設するが、空電ばかりである。 日も暮れかけ、彼我の攻防は惨烈を極める。しかし、部隊本部にこの状況を知らせるすべがない。唯一、手元にあるのは軍用鳩だけである。 そこで、雷雨と疾風の中、軍用鳩四一二一一号(名古屋軍鳩会産)と軍用鳩一四二号(陸軍産)に通信文を託して放鳩する。 二十分後、二羽の軍用鳩は、分速一五〇〇メートルの快速で部隊本部にたどり着く。 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十六年四月号)に掲載された記事「無電機尻目に嵐を衝く 〝弾丸鳩〟 敵情見事本隊へ報告」に、以下の記述がある。
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年四月号) 大日本軍用鳩協会 |
午前七時二十分頃、中支派遣○○部隊武藤部隊本部に、軍用鳩五十七号(雄。灰。昭和十五年四月生まれ)が飛来し、○○分屯隊の通信文を届ける。 その内容は、「敵匪頭○○○の率ゆる匪団大部隊我が○○分屯隊を包囲攻撃なし来たり、目下交戦中」などとあり、弾薬補充申請および要図の一部が付してあった。 本部は救援隊を編成し、鳩兵の大河原清助も鳩哨としてこれに従う。 救援隊が目的地付近に到達すると、敵弾の洗礼を受ける。救援隊は直ちに応戦し、勇戦二時間、敵を南方に圧縮して前面の敵を破り、○○分屯隊を救出する。 また、救援隊は追撃の手を緩めず、ついに匪団を殲滅する。 この討伐において、軍用鳩は二十通の通信文と八通の要図を運び、戦闘状況などを明らかにする。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年一月号) 大日本軍用鳩協会 |
吉川晃史以下二十七名の愛鳩家が、函館帰還鳩(大日本軍用鳩協会東京支部主催七〇〇キロ競翔)の直子(ちょっこ)五十七羽を、陸軍通信学校鳩部長立ち会いのもと、陸海軍に献納する。その内訳は、陸軍四十一羽、海軍十六羽である。 ☆補足 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十六年十月号)に掲載された記事「質疑欄」によると、献納の手続きは陸軍省に申し込むのが正式だが、従来は陸軍通信学校の取り扱いだったという。 軍の欲する鳩は、大体、雄が四六〇グラム以上、雌が四三〇グラム以上の大型で、それ以下の中型、小型の体格だと合格は困難とのことである。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年一月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十六年十月号) 大日本軍用鳩協会 |
本日より政府が雑穀統制を開始したことにより、鳩飼料の輸入に頼っていた日本鳩界に大きな影響を及ぼす。すでに麻の実は、本年のはじめから統制を受けていて、油原料としての輸入のみ、許可が出ていたが、そうした中、今まで統制外だった白エンドウも本日より統制を受け、商工省の配給機構を通じるようになる。毎月、大日本軍用鳩協会は、農林省に交渉し、同協会員は飼料商組合を通じて配給を受けるようになる。トウモロコシに関しては、各県に対し、移出許可の申請が必要になる。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十五年五月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十五年六月号) 愛鳩の友社 |
大日本軍用鳩協会が常務理事会を開き、以下の事項を決定する(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十六年一月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年一月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会が理事会を開き、以下の事項を決定する(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十六年一月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年一月号) 大日本軍用鳩協会 |
京漢線西側地帯の討伐に当たっている重信部隊は、応山の西北方約一二〇キロの地点で、敵を一斉攻撃するために待機していた。同部隊の安田大尉は、敵情を記した通信文を九羽の軍用鳩に託して、本部の河野大尉宛てに放鳩する。 さて、本部の鳩舎前で細谷正美一等兵が空を眺めていると、突如、一羽の鳩がパタリと落ちてくる。驚いた細谷が近づくと、鳩は猛禽類に襲われたのか、耳元から胃袋にかけて九センチほど切り裂かれていた。細谷がこの鳩――軍用鳩一六五二五号を抱き上げると、赤い血に染まった餌の豆粒がポロポロと傷口からこぼれ出る。このような状態になっても通信文を届けてくれたことに細谷は感動し、軍用鳩一六五二五号の働きを涙声で上官の藤野少尉に報告する。 重傷を負った軍用鳩一六五二五号だったが、その後、細谷の手当てのかいあって、命を取り留める。 軍用鳩一六五二五号について、細谷は以下のように語っている(『読売新聞』〔昭和十六年三月九日付〕より引用)
なお、放鳩された九羽のうち、本部に到達できたのは軍用鳩一六五二五号だけである。 ☆補足 兵が軍用鳩に対して、涙ながらに感謝する例は、ほかにもある。 例えば、萩 萩月『火線の母 戦線慰問六万キロ』に、以下の記述がある(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『読売新聞』(昭和十六年三月九日付) 読売新聞社 『日本鳩時報』(昭和十六年三月号) 大日本軍用鳩協会 『火線の母 戦線慰問六万キロ』 萩 萩月/婦女界社 |
昭和十五年度の大日本軍用鳩協会の業務報告(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十五年十二月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足 二月二十一日の項が二つある。誤字のように思われるが、詳細不明。 ほかに月日が前後している箇所が複数ある。これも同じく誤字のように思われるが、詳細不明。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年十二月号) 大日本軍用鳩協会 |
陸軍内で『「ノモンハン」事件ノ教訓』という冊子が作成される。 その題名どおり、前年に発生したノモンハン事件に関する教訓を述べている。 この『「ノモンハン」事件ノ教訓』の中に、軍用鳩に関する項があり、以下の記述がある(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十七年五月号)に掲載された記事「全東亜鳩通信網建設は刻下の急」(作・高畠多一)によると、ノモンハンの戦場は広漠たる砂漠ないし草原地帯で、電話電信は全て地下壕により、その地下線も二メートルも深く掘り下げて埋没されていたという。しかし、爆撃によって切断され、伝令は遮蔽物のない砂地ではいたずらに敵の目標となり、伝令犬は地上しか走れないために地雷に引っかかり、最後に残されたのは軍用鳩だけだったそうである。 見過ごされやすいが、軍用鳩には、見晴らしのよい戦場や地雷の影響を受けない利点がある。 ☆補足一 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十四年十二月号)に掲載された記事「満州国に於る鳩通信の実情」(作・駒原邦一郎)によると、張鼓峰事件とノモンハン事件では現地で唯一の通信機関として軍用鳩が活用されたという。 毎日新聞社『小国民新聞』(昭和十八年十月二十四日付)に掲載された記事「空襲に備へて 小さい伝令使の訓練 岡山市十七校学童座談会」に、以下の記述がある。
朝日新聞社『週間朝日百科 動物たちの地球129 人間界の動物たち9 カナリア・キンギョ・ウサギほか』に掲載された記事「伝書鳩とレース鳩」(作・木村徳広)によると、ノモンハン事件において日本軍がソ連軍の戦車隊に包囲された際、本部に向けて放った移動鳩の状況報告により援軍が間に合い、窮地を脱した例があるという。 ☆補足二 一九三八(昭和十四年)年八月二十一日、フイ高地の第二十三師団捜索隊(指揮官・井置栄一中佐)は、敵の攻撃によって主要な通信手段を喪失し、軍用鳩のみが唯一の通信機関となる。 しかし、この日、第二十三師団宛てに放った軍用鳩がソ連軍に捕獲される。 ソ連軍がその内容を確認すると、形勢が極めて悪く敵はあらゆる方向から脅かしてきている、とあり、師団司令部の今後の意図が不明で指示を請う、とあった。 ソ連軍は謀略を用いて、似た筆跡で通信文の内容を書き換える。「我には砲弾は十分で、水もあり、敵の戦車20両を撃破して戦闘中、万事順調なり。」と正反対の中身に仕立てたのである。 *この偽通信文が第二十三師団司令部に到達したのか不明。 ☆補足三 昭和十四年九月十九日付の『大阪朝日新聞』の記事中、
との一文がある。 ソ連軍かモンゴル軍かは不明だが、敵も軍用鳩を戦場に投入していて、その鳩舎を日本軍が接収し、宿営地の建物か何かに利用していたらしい。 ☆補足四 樫田芳明(内科の泰斗・樫田十次郎の三男)は、満州国の技師として満州国軍の鴿隊で勤務する。鴿の病理研究治療や、鴿の品種改良の方策樹立およびその実施について担当する。 ノモンハン事件が勃発すると、文官の地位にありながら志願して軍用鴿とともに戦場に赴く。砂漠陣地において、樫田のいる場所から二メートルの位置に砲弾が落下し、樫田は軽いけがを負う。 大東亜戦争終結後は、堪能なロシア語や中国語を駆使して、ソ連軍や中共軍で日本医官として活動し、戦後の混乱を切り抜ける。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13010612300、「ノモンハン」事件の教訓 昭和15年(防衛省防衛研究所)」 『普鳩』(昭和十七年五月号) 中央普鳩会本部 『日本鳩時報』(昭和十四年十二月号) 大日本軍用鳩協会 『少国民新聞』(昭和十八年十月二十四日付) 毎日新聞社 『週間朝日百科 動物たちの地球129 人間界の動物たち9 カナリア・キンギョ・ウサギほか』 朝日新聞社 『ノモンハン事件関連史料集』 防衛省防衛研究所 『軍事史学』(第五十五巻第三号) 軍事史学会 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 軍事(国防)(48-056) 大阪朝日新聞 1939.9.19 (昭和14) 『愛鳩の友』(昭和三十二年九月号) 愛鳩の友社 |
本年度における読売新聞本社鳩班の通信実績。 延べ放鳩数四一六四羽、運搬した通信筒九三一本、そのほか鳩便奉仕によって銃後一般に伝書鳩知識の普及に資する。 ☆補足 読売新聞社の伝書鳩は、本年に発生した三原山爆発において、大島~東京間を二時間、伊東~東京間を一時間三十分で飛翔し、写真記事を運ぶ。 『愛鳩の友』(昭和三十三年六月号)に掲載された記事「新聞社の鳩舎めぐり(中)」によると、伊東経由という臨機応変の鳩便によって夕刊に載せ、世人をアッと言わせたという。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年七月号) 大日本軍用鳩協会 『愛鳩の友』(昭和三十三年六月号) 愛鳩の友社 |
『ニューヨーク・イブニング』に所属する記者が、ニューヨークに上陸してきた著名人のインタビューを取ると、その取材内容を鳩に付して放つ。 これにより、ライバル紙より二時間も早く、『ニューヨーク・イブニング』の編集部は記事を受け取ることができた。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 |
大日本軍用鳩協会の常務理事が協会に集まり、会長・鷹司信輔公爵と、副会長・佐藤 直少将宅をそろって訪問し、年始のあいさつをする。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十五年六月号) 愛鳩の友社 |
愛鳩家有志が名鳩系の売立会を開催する。 一番人気は鳩ではなく、不足していた競翔用の鳩時計で、国産品Y式が八十円、ベルギー製ツーレーが一七〇円、ドイツ製ベンジングが二五〇円で売り買いされる。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十五年六月号) 愛鳩の友社 |
通城正面に蠢動する揚森の四川軍を攻撃中の、平岡、藤崎、高橋、鵜飼の各部隊は、一月六日昼過ぎ、互いに連絡が取れなくなる。付近の地形は峻険で、降り続く冷雨・雨霧のために視界を閉ざされ、また雷鳴のために無線連絡も途絶えがちだった。 そこで、平岡部隊長は、鳩班長・日高軍曹に、軍用鳩を放つように命じる。この鳩通信によって、前線本部に戦況を伝えるとともに、第一線に進出している藤崎部隊その他との連絡をつけるのだ。 そうして、一月七日の午後二時、軍用鳩「黄三線」(南京産)が空に放たれる。 しかし、「黄三線」は、途中、敵弾を受けて負傷し、血みどろの状態で神田部隊本部の鳩舎に帰ってくる。同部隊の鳩班長・小屋迫曹長が駆けつけたときには、すでに「黄三線」は事切れていた。 この「黄三線」が自分の命と引き替えにもたらした通信文によって、平岡部隊が重要拠点を攻略して敵を壊走させていることが神田部隊に伝わる。 ☆補足 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十六年四月号)に掲載された記事「無電機尻目に嵐を衝く〝弾丸鳩〟 敵情見事本隊へ報告」に、平岡部隊の軍用鳩について載っている。 以下に引用しよう。
参考文献 『朝日新聞』(昭和十六年一月八日付) 朝日新聞東京本社 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11112094200、第6師団転戦実話 第1次長沙作戦篇 3/4(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11112094300、第6師団転戦実話 第1次長沙作戦篇 3/4(防衛省防衛研究所)」 『日本鳩時報』(昭和十六年四月号) 大日本軍用鳩協会 |
白エンドウの配給を実施するために、大日本軍用鳩協会が各地の代表者宛てに鳩の飼養数を報告するように依頼する。 ちなみに、鳩飼料の販売価格については、大日本軍用鳩協会本部への申し込みでは、白エンドウ一袋が三十七円三十四銭、麻の実一袋が二十三円五十銭、トウモロコシ一俵が十六円五十銭。近畿支部への申し込みでは、白エンドウ一袋が三十九円五十銭、麻の実一袋が二十四円、トウモロコシ一俵が十六円五十銭となる。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十五年六月号) 愛鳩の友社 |
近藤部隊工藤隊が『軍用鳩通信ニ関スル事項』という報告書を編纂する。 本書の構成は、以下のとおり。 「一、運用者及使用指揮官ノ鳩ニ対スル認識ノ向上」「二、各警備隊ノ鳩訓練ニ対スル援助」「三、討伐及行動間ノ使用ニツイテ」「四、隼ノ被害防止ニツイテ」「五、十六年度鳩通信ノ企図ニ就イテ」「別紙要図」 この報告書の注目すべき点としては、討伐間や警備上において、鳩の利用が極めて少ないことに触れていることが挙げられる。 警備行軍等に各鳩班が参加しても、指揮官が一度も鳩通信を使用しなかったり、鳩が空文のまま帰還したりすることがあるという。電気的通信に頼るあまり、鳩通信の真価が充分に認識されていないことが原因のようである。 あくまで、一部隊からの報告なので、この傾向を日本軍全体のものとするのは飛躍した考え方になる。しかし、時代遅れの通信法との先入観から鳩通信をあなどった結果、電気的通信に頼るばかりでこれをうまく使いこなせない、というのは、いかにもありそうな話で、日本軍の一側面を捉えているように思う。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110537800、軍用動物に関する書類 昭和12年1月20日(防衛省防衛研究所)」 |
千葉県市川市にある吉川晃史鳩舎に、七戸中尉以下三十五名の横須賀防備隊員が見学にやってくる。 吉川が鳩をつかんで体型や羽根の具合などについて述べると、種々の質問が飛び、吉川はその都度、詳しく解説する。また、優秀鳩を見せると、水兵たちは熱心に見入り、七戸中尉が「良く見て置け急所を見て置け」と部下に助言する。 見学終了後、一同は記念写真に納まる。 ☆補足一 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十六年三月号)に掲載された記事「〝海の戦士 吉川鳩舎見学〟」(作・TH)によると、見学者は「三十五名」とあるが、同号の他ページに載っている記事「協会日誌」によると、見学者は「三十名」とある。 どちらの記述が正しいのか不明。 ☆補足二 当日は、大日本軍用鳩協会の高橋理事が、七戸中尉以下の横須賀防備隊員を吉川鳩舎まで案内したようである。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年三月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会東京支部が優良鳩普及のために鳩の公定価格を定める。 二〇〇キロ飛翔記録鳩の仔鳩――六円 三〇〇キロ飛翔記録鳩の仔鳩――八円 四〇〇キロ飛翔記録鳩の仔鳩――十円 六〇〇キロ飛翔記録鳩の仔鳩――十五円 七〇〇キロ飛翔記録鳩の仔鳩――二十五円 八〇〇キロ飛翔記録鳩の仔鳩――三十五円 一〇〇〇キロ飛翔記録鳩の仔鳩――四十五円 二〇〇キロ飛翔記録鳩のきょうだい鳩――七円 三〇〇キロ飛翔記録鳩のきょうだい鳩――十円 四〇〇キロ飛翔記録鳩のきょうだい鳩――十三円 六〇〇キロ飛翔記録鳩のきょうだい鳩――二十円 七〇〇キロ飛翔記録鳩のきょうだい鳩――三十円 八〇〇キロ飛翔記録鳩のきょうだい鳩――四十円 一〇〇〇キロ飛翔記録鳩のきょうだい鳩――五十円 なお、鳩の販売は近久 央が担当する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十五年六月号) 愛鳩の友社 |
大日本軍用鳩協会が理事会を開き、以下の事項を決定する(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十六年三月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
本理事会で決定した大日本国防鳩隊規定草案は、以下のとおり(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十六年三月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年三月号) 大日本軍用鳩協会 |
大阪府警察の主催で、伝書鳩軍警民合同特別訓練が実施される。 台風の影響によって阪神地方の通信機関が途絶したとの想定で、大阪府警察の鳩三〇〇羽、大阪第四師団の鳩一〇〇羽、大阪報国鳩隊の鳩七〇〇羽が参加する。 府庁屋上の本部に、齋藤警察部長、海保警務課長、安達主任警部、第四師団司令部から那須中尉、大阪報国鳩隊から徳永秀三隊長、飯田重太郎、山川源次郎が詰め、大阪府下五十三署からの鳩通信を待ち受ける。 午前十時、各地から本部に向けて、鳩が一斉に放たれる。 その六分後、港水上署の鳩五羽が九キロの距離を飛んで一番に帰舎する。最後に、和歌山県庁を発った鳩が六十二キロの距離を一時間五分で飛んで帰還する。 以上の通信により、大和川が増水し、大阪市内が濁流にのみ込まれようとしていることが判明する。そこで、警察部長の命令により、府下三十三署宛ての出動命令を携えた、本部の新選組と軍用鳩が出動し、堤防補強工作がおこなわれる。 午後二時、参加全鳩の分列式をもって、訓練が終了する。 その後、高等官食堂において、伝書鳩に関する座談会が開かれ、軍用鳩の普及について意見交換する。 ☆補足一 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十六年四月号)に掲載された記事「=大阪便り=」によると、大阪府警察本部伝書鳩の活躍を受けて、伝書鳩の訓練方法を伝授してほしいとの注文が各府県からしきりにあるという。そうして、伝書鳩を希望県にどしどし貸与しているが、すでに愛知香川両県では大阪府仕込みの警察鳩訓練が開始されているそうである。 ☆補足二 一九四二(昭和十七)年の話になるが、大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十七年七月号)に掲載された記事「神奈川県便り 水上署に伝書鳩」によると、神奈川県警は非常時の通信用として伝書鳩十羽を県下のトップを切って横浜水上署に配備したという。 同署は一九三〇(昭和五)年、荒署長の時代に伝書鳩数十羽を飼って使翔しているが、一昨年、いったん飼育を中止している。しかし、当分の間、小使いが鳩の世話を引き受け、その後、専任の係員を置いて、今回の訓練再開となる。 今年の秋頃には海上からの非常連絡用として伝書鳩の活躍が期待されている。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年三月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十六年四月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十七年七月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十六年三月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年三月号) 大日本軍用鳩協会 |
今回、陸軍通信学校鳩部長の福永勇吉中佐は、第一線の要職に転補されることになり、元軍用鳩調査委員幹事の門口元一少佐が後任者としてその地位を引き継ぐ。 この日、東京駅を発つ福永を見送るために、陸軍通信学校関係の将校や判任官、大日本軍用鳩協会の吉川晃史参与以下の役員などが駅頭に集まる。 福永は出発に際し、以下のように述べる(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十六年三月号〕より引用)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年三月号) 大日本軍用鳩協会 |
午後一時、上野公園において、鳩魂塔慰霊際が挙行される。 以前、中野の軍用鳩調査委員会にあった鳩魂塔が一九三九(昭和十四)年にここに移転してから、これが三回目の慰霊祭となる。 駒沢大学の有志実践修業の学生による読経、同大学青い鳥日曜学校園児の祭文、大日本軍用鳩協会副会長・佐藤 直少将の祭文などの後、式典が終了する。そして、午後三時、東京支部の協会員が持ち寄った軍用鳩七〇〇羽を一斉放鳩する。 なお、鳩魂塔慰霊祭に付随した催しとして、三月八日~十日までの三日間、園内のキリン舎前に大日本軍用鳩協会の移動鳩舎が出張し、金四銭で実用通信を一般に供する。これが大人気で、通信依頼が殺到し、三月八日に一一〇通、三月九日に一九〇通、三月十日に一七五通の通信文を発信する。 ☆補足 佐藤が奏した祭文は、以下のとおり(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十六年三月号〕より引用。一部、文字表記を改めたり、空行を入れたり、誤字を修正したりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年三月号) 大日本軍用鳩協会 『朝日新聞』(昭和十六年三月十日付) 朝日新聞東京本社 |
二月二十日の理事会決定により、大日本軍用鳩協会の本部に研究部を設けることになり、この日の午後六時、本部事務所において、第一回の準備会(委員会)が開かれる。 今後、研究部は広範囲にわたって研究を実施する予定で、来年度予算には多額の研究費を計上し、学界と協力して立派な研究機関に育てるという。 委嘱された研究委員は、以下のとおり。 山本直文、岡庭正義、島田 準、中根時五郎、矢野幸一郎、中島重蔵、佐藤福治、高橋 肇、森谷義一。 ☆補足 三月十一日の第一回委員会では「秋の競翔と換羽の促進」、四月十一日の第二回委員会では「換羽促進可否の研究」、五月十一日の第三回委員会では「昭和十六年度函館七百粁競翔特に気象の関係及び前年度との比較」という研究課目がそれぞれ提出される。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年三月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十六年七月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会会長の鷹司信輔公爵が、五摂家代表として、奈良の春日神社に参拝の折、西村種造(大阪好鳩会)の案内で、大阪府池田市東畑梅林の徳永景秀園を訪問する。 徳永秀三(大阪好鳩会)の優秀鳩や鳩舎、小鳥禽舎、水禽舎などを見物し、数時間にわたって歓談する。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年四月号) 大日本軍用鳩協会 |
旭川第七師団は、今月二十三日から軍用犬と軍用鳩を動員して空陸連合演習を実施する。 鳩籠を背負った軍用犬が弾雨を衝いて目的地に突進し、籠のふたを開いて軍用鳩を放つという。 以上、同日付の『読売新聞』の記事より。 ☆補足 『愛鳩の友』(昭和五十年二月号)に掲載された記事「――若人にかたる―― 日本鳩界の歴史」(作・小野内泰治。連載第四回)によると、軍犬は軍用鳩の何万分の一くらいの数しかなく、日本ではドイツほど活用されなかったという。軍が陸軍省令によって大隊、連隊クラスに鳩舎の設置義務を課している一方、軍犬はそれほど重視されておらず、限られた部隊での運用にとどまったとのことである。 *軍犬が軍用鳩の何万分の一くらいの数しかいなかった、という言い方は、明らかに事実と異なる。小野内としては、そう言いたくなるほど、軍犬と軍用鳩ではその数に差があった、ということを伝えたいのだと思う。 参考文献 『読売新聞』(昭和十六年三月十五日付) 読売新聞社 『愛鳩の友』(昭和五十年二月号) 愛鳩の友社 |
大日本軍用鳩協会が理事会を開き、以下の事項を決定する(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十六年四月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年四月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本飛行協会と読売新聞社の主催で、航空博覧会が開催される。 第一会場(多摩川園)、第二会場(二子多摩川)、第三会場(読売飛行場)のうち、第一会場と第二会場に鳩舎を設置し、その間を通信させる。 大日本軍用鳩協会東京支部の愛鳩家がこの航空博覧会のために仔鳩を提供する。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年五月号) 大日本軍用鳩協会 |
最近、東京帝国大学の眼科教室では軍用鳩を飼育し、軍用鳩の帰巣能力と視力の相関関係について研究している。庄司義治教授を補導とし、加藤静一、山崎千里海軍軍医少佐、飯島久吉が鋭意研究を進めている。 そして、この日、加藤は見識を深めるために、千葉県市川市の吉川晃史鳩舎を訪ねる。予定では、庄司と山崎も吉川邸を訪れることになっていたが、両者とも急用が入ってしまい、加藤のみの訪問となる。 加藤は、吉川邸の応接間で、しばらく吉川から系統論などのレクチャーを受け、その後、鳩舎に案内される。 そこで、折から見学に訪れていた、細川英次郎、近久 央、伊藤正文、第四師団司令部鳩班・小河源治軍曹などと合流し、吉川のつかむ優秀鳩を間近に観察しながら説明を受ける。 見学終了後、吉川から心尽くしの接待があり、一同は楽しく語らう。 ☆補足 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十七年一月号)に掲載された記事「帝大の軍用鳩研究一段と進捗す」によると、上記の帝大における研究のほか、名古屋軍鳩会の会員になった、名大の勝沼精蔵博士も、軍用鳩の医学的研究を実施しているという。また、西は九州の田中博士、北は北海道の小熊 捍・犬飼哲夫両博士など、斯界の権威者がこぞって軍用鳩の研究に邁進しているのは鳩界にとって心強い、などと同記事は述べている。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年三月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十六年四月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十七年一月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十六年四月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年四月号) 大日本軍用鳩協会 |
四月十五日に東京、四月二十二日に名古屋、四月二十三日に静岡において、海軍が鳩購買を実施する。飼料難により受験数は少数にとどまるが、比較的優秀な仔鳩が多かった。 鳩購買視察のため、現地に出張した大日本軍用鳩協会の田中愛助常務理事は、以下のように述べる(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十六年五月号〕より引用)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年五月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十六年五月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足 四月十一日分の日誌に「三」がない。公表を控えたのか、誤字脱字なのか、詳細不明。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年五月号) 大日本軍用鳩協会 |
軍部の命により大日本軍用鳩協会が第一次の鳩購買を以下の日程、場所において実施する。 五月一日 清水市 五月二日 名古屋市 五月三日 京都市 五月四日 大阪市 五月五日 神戸市 五月六日 岡山市 五月七日 徳島市 門口元一少佐、飯沼竜之助常務理事、田中愛助常務理事が購買担当を務め、五月八日、帰京し、在京理事とともに東京での最後の購買を実施する。 今回、提出された若鳩×××××××羽のうち、合格数は×××××羽、合格率おおよそ七割五分五厘だった。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年六月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会が理事会を開き、以下の事項を決定する(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十六年六月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年六月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十六年八月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足 五月二日分の日誌に「二」がない。同じく、五月二十四日の日誌に「三」がない。公表を控えたのか、誤字なのか、詳細不明。 また、五月三十日の日誌に「四」が二つある。詳細不明。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年八月号) 大日本軍用鳩協会 |
東京好鳩会が放鳩訓練と例会をかねて、景信山にハイキングに行く。一行は小山 晃会長以下二十二名で、浅川駅で二〇〇羽を放鳩し、残りの鳩は会員が背負って山に運ぶ。 飯沼竜之助(東京好鳩会)が、大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十六年七月号)に掲載された記事「例会は山頂で」において、以下のように述べている。
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年七月号) 大日本軍用鳩協会 |
関西鳩人が大阪岡島会館において、近畿連合軍用鳩交換会を開催する。 近久 央をはじめ、東京からも多数の参加者があり、二〇〇坪の会場に数百羽の優秀鳩が出品される。 目玉として一〇〇〇キロ競翔の翌日帰還鳩が愛鳩家の注目を集めるが、価格交渉で折り合いがつかず、取引は不成立に終わる。 しかし、他の優秀鳩や仔鳩の交換は活発におこなわれる。 交換会終了後、近畿軍用鳩連盟懇親会が開催される。 関西の鳩界人三十名のほか、近久、小山の両名が加わり、三時間あまり歓談する。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年七月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十六年九月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年九月号) 大日本軍用鳩協会 |
七月二日の午前十時、陸軍通信学校鳩部長の門口元一少佐と、大日本軍用鳩協会の平野直一常務理事が、上野駅発の列車に乗って鳩購買に出かける。 七月三日に函館、七月四日に札幌、七月五日に青森、七月六日に山形、七月七日に前橋、七月八日に熊谷と各地を巡り、地方の状況を視察したり、表彰式に出席したり、と交流を深める。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年八月号) 大日本軍用鳩協会 |
帝国軍事協会の主催で、軍用動物慰霊祭が日比谷公園音楽堂において開催される(大日本軍用鳩協会後援) 陸軍省代表、馬政局、中華民国大使館の代表、東京市長の各代理、帝国軍用犬協会代表などが出席する。大日本軍用鳩協会から、田中愛助、飯沼竜之助、只野透四郎、小沢秀寿、改田大一などが出席する。 慰霊祭には八〇〇羽の鳩が集められるが、陸軍通信学校からも出口中尉の引率で数百羽が参加し、これらを一斉放鳩する。 式の終了後、女学生のブラスバンドを先頭にして、宮城ならびに靖国神社に向かって大行進する。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年八月号) 大日本軍用鳩協会 |
神戸鳩界の代表者である大江 礼が死去する。大江はかつて、『伝書鳩時報』と『伝書鳩と食用鳩』の二誌を刊行し、大江礼伝書食用鳩研究所の所長を務めていた。 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十六年八月号)に載った訃報は、以下のとおり。
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年八月号) 大日本軍用鳩協会 『愛鳩の友』(昭和三十五年八月号) 愛鳩の友社 |
新竹州防空訓練(七月二十八日~)において、大日本軍用鳩協会新竹支部の伝書鳩が通信連絡を担う。 伝書鳩一八〇羽、人員五十名が動員され、七月三十一日の午前十時、計四日間の防空訓練が終了する。 なお、新竹支部は、各郡の役所に三十羽内外の伝書鳩と、一郡に鳩通信員二名を置き、州庁前には州統監部伝書鳩班詰所を設置して、そこに幹部を配している。通信機関途絶の際の方策として、以前に新竹州の門田兵事係が伝書鳩に注目し、新竹支部に協力を求めたのが発端である。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年九月号) 大日本軍用鳩協会 |
今月号の大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十六年七月号)に掲載された記事「お役所が鳩通信 水道局入新井出張所の企画」によると、今度、東京市水道局の入新井出張所は、大野 剛所長の新企画のもと、電信の補助通信(工事現場、水源地、市内各所の水圧調査用)として伝書鳩を使翔し、鳩舎は同所の屋上に設置するという。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年七月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会が理事会を開き、以下の事項を決定する(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十六年九月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている。大日本国防鳩隊の腕章画像は省略)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年九月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十六年九月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年九月号) 大日本軍用鳩協会 |
午後一時、学習院校庭において、第三回移動鳩競翔大会が開催される(東京学生軍用鳩連盟主催、大日本軍用鳩協会、読売新聞社後援) 学習院、早大、慶大、早実の参加四校の学生が整列し、宮城遥拝、戦没将士の英霊に黙禱、慶大・山田主将による優勝旗返還(昨年度優勝校、慶大)をおこなう。 そして、大日本軍用鳩協会副会長・佐藤 直少将の開会のあいさつの後、亀戸(十キロ)、北川口(十キロ)、経堂(十キロ)と、順次、軍用鳩を放鳩する。 午後五時半、賞状ならびに賞品の授与式をおこなう。得点一位の学習院に対し、佐藤が協会杯と優勝旗(読売新聞社寄贈)を同校の久保主将に授与する。各校については、牧瀬准尉と、読売新聞社の土田春夫鳩主任が、陸軍通信学校、大日本軍用鳩協会、読売新聞社、学連の各賞状を、それぞれ授与する。 最後に、佐藤の発声で聖寿万歳を三唱する。 競翔大会終了後、食堂において、レセプションが開かれる。 慶大・山田の開会の辞、大日本軍用鳩協会会長・鷹司信輔公爵のあいさつ、同協会・田中愛助常任理事のあいさつ、牧瀬の講評、喜多山省三中佐の来賓あいさつ、各校主将の訓練経過説明、学習院・中井および慶大・島田の両先輩あいさつの後、午後七時半、散会する。 ☆補足 現代では鳩泥棒は少なくなったが、かつては猛威を振るっていた。昭和の半ば頃まで、そうした犯罪が公然とおこなわれていた。 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十六年九月号)に掲載された記事「千粁反対の反駁に答ふ」(作・山本直文)によると、喜多山省三中佐は、本競翔大会において、「飼育者の約六割は盗鳩者である」と述べたという。大日本軍用鳩協会員に限らず、一般の飼育者も含めた発言のようだが、衝撃的な実態である。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年九月号) 大日本軍用鳩協会 |
上記の期間、京城軍用鳩研究会が、京城丁子屋百貨店四階ホールにおいて、軍用鳩展覧会を開催する。 この催しに、大日本軍用鳩協会は、大臣杯を出品する予定だったが、鉄道輸送の都合により取りやめになる。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年一月号) 大日本軍用鳩協会 |
支那事変以来初となる、軍用鳩に対する論功行賞が発表される。 今回、表彰を受けたのは五十二羽で、そのうち十九羽が甲功章を受章する。 以下に、甲功章の栄誉に浴した、代表的な三羽の活躍を紹介しよう(『読売新聞』〔昭和十六年八月二十三日付〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、誤字を修正したり、空行を入れたりしている)
☆補足一 『読売新聞』(昭和十六年八月二十三日付)は軍用鳩七十七号に関する記事中、これを「昭和十五年五月二十二日」の出来事と記しているが、『東京日日新聞』(昭和十六年八月二十三日付)などは「昭和十三年五月二十二日」の出来事と記している。 また、軍用鳩七十七号の鳩功績調書には、「昭和十四年四月二十日」の出来事と載っている。 「昭和十三年五月二十二日」、「昭和十四年四月二十日」、「昭和十五年五月二十二日」の日付のうち、どの記述が正しいのか、よく分からない。 ☆補足二 軍用鳩一一二三号に関する記事中、『読売新聞』(昭和十六年八月二十三日付)は「通河」、『東京日日新聞』(昭和十六年八月二十三日付)、『大阪毎日新聞』(昭和十六年八月二十三日付)、『朝日新聞』(昭和十六年八月二十三日付)の三紙は「通化」と記している。 どちらが正しい地名表記なのか、よく分からない。 ☆補足三 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十六年十月号)に掲載された記事「軍用鳩に勲章 可憐な翼を朱に染めて尊い伝令……………… 武勲輝く 五十二羽に勲章」に、甲功章を受章した軍用鳩が紹介されている。 以下に引用しよう(一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、誤字を修正したり、空行を入れたりしている)
参考文献 『読売新聞』(昭和十六年八月二十三日付) 読売新聞社 『東京日日新聞』(昭和十六年八月二十三日付) 東京日日新聞社 『大阪毎日新聞』(昭和十六年八月二十三日付) 大阪毎日新聞社 『朝日新聞』(昭和十六年八月二十三日付) 朝日新聞東京本社 『日本鳩時報』(昭和十六年十月号) 大日本軍用鳩協会 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01002479000、永存書類 乙集 第2類 第6冊 昭和15年「通信器材」(防衛省防衛研究所)」 『通信青年』(昭和十八年八月号) 科学新興社 |
午後六時、物言わぬ戦士軍用鳩の行賞を祝して、「軍用鳩感謝の夕」が日比谷音楽堂において開催される(大日本軍用鳩協会主催、陸軍省、海軍省ほか後援) 式次第は、以下のとおり。 軍用鳩五〇〇羽の放鳩、国歌斉唱、陣没鳩霊への感謝黙祷、大日本軍用鳩協会副会長・佐藤 直少将のあいさつ、陸軍通信学校鳩部長・門口元一中佐の講演、功労者表彰式、陸軍省選定歌「勇ましき軍鳩」の発表演奏会。 午後九時すぎ、散会する。 ☆補足 陸軍省選定歌「勇ましき軍鳩」は、作詞・西条八十、作曲・細川潤一、歌手・松島詩子、近衛八郎、井口小夜子で、キングレコードからレコード(番号五七〇五七)が発売される。 価格は一円八十五銭で、B面に「可愛い小鳩」(作詞・時雨音羽、作曲・佐藤長助)を収録する。 参考文献 『読売新聞』(昭和十六年八月二十三日付) 読売新聞社 『読売新聞』(昭和十六年八月二十四日付) 読売新聞社 『朝日新聞』(昭和十六年八月二十四日付) 朝日新聞東京本社 『日本鳩時報』(昭和十六年八月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十六年十月号) 大日本軍用鳩協会 |
午後六時、「軍用鳩感謝の夕」が札幌市公会堂において開催される(大日本軍用鳩協会札幌支部ならびに同協会本部主催、陸軍省、海軍省、北海道庁、札幌市、読売新聞社後援) これは、今月二十三日に東京で催された、陸軍省選定歌「勇ましき軍鳩」の発表音楽会に続く開催となる。 式次第は、以下のとおり。 読売新聞社・樋口記者の開会の発声(司会)、国家奉唱、宮城遥拝、護国の英霊に感謝の黙禱ならびに出征将兵の武運長久祈願、陣没鳩霊に感謝の黙禱、大日本軍用鳩協会札幌支部長・犬飼哲夫(北海道帝国大学農学部教授)のあいさつ、読売新聞社札幌支局長・桜井正美のあいさつ、旭川第七師団司令部鳩班長・辻少尉の講演、「勇ましき軍鳩」の発表(歌手は岡 晴夫と横山郁子、アコーディオン伴奏は大野 仁。ほか歌謡曲などを数曲披露)、会衆全員で「勇ましき軍鳩」の大合唱、時局映画「翼の使者」ほか数編の映画上映(陸軍通信学校提供) 午後九時すぎ、散会する。 ☆補足 「軍用鳩感謝の夕」開催前の本日の午後、キングレコード専属歌手の岡 晴夫と横山郁子の二名が札幌陸軍病院を慰問し、「勇ましき軍鳩」のほか、歌謡曲数曲を白衣の勇士たちに披露する(アコーディオン担当の大野 仁や大日本軍用鳩協会関係者らも同行する) 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年十月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十六年十月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年十月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会が理事会を開き、以下の事項を決定する(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十六年十月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年十月号) 大日本軍用鳩協会 |
第一次長沙作戦がおこなわれる。 この作戦に参加した、神田部隊本部鳩班の古閑時雄兵長は、後に「軍鳩投下の落下傘開かず」という題の手記を記す。 手持ちの軍用鳩を二、三回に分けて放鳩しなければならなかったのに、鳩班長の指示を聞き間違えて、これを一斉に放鳩してしまった失敗談や、飛行機が投下した、軍用鳩入りの落下傘の傘が開かず、結局、全ての鳩(十四羽)を失ってしまった惨事について述べている。 *「神田部隊」とは、神田正種中将率いる第六師団のこと。 ☆補足 ある無神経な兵がやってきて、古閑に、この落下傘の事故によって命を失った軍用鳩をお菜にしたいと言う。古閑は「馬鹿野郎 何をぬかすか」と、その兵を怒鳴りつける。 その後、神田部隊の鳩班は、軍用鳩を埋葬し、懇ろに弔う。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11112094200、第6師団転戦実話 第1次長沙作戦篇 3/4(防衛省防衛研究所)」 |
台湾のアジンコート島(彭佳嶼)における日食気象研究のため、大日本軍用鳩協会の台北支部と台湾日日新報社が協力して現地から伝書鳩を飛ばす。 九月十七日、台北支部常任幹事・郭桂樹、台湾日日新報社・藤井記者および永井写真師ほか二名、天文学者、台湾諸新報社記者、台北支部の軍用鳩四十五羽がアジンコート島に上陸する。 以後、軍用鳩六羽を一日二回に分けて放鳩し、ニュース原稿や写真原板などを運ぶ。 日食当日の九月二十一日、無線電報は五時間かかるが、軍用鳩は二時間で通信できたことから、天文学者や新聞記者が感激する(午後四時四十五分頃放鳩、午後六時半頃帰舎) 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年一月号) 大日本軍用鳩協会 |
大阪朝日新聞社大広間において、大阪兵庫学生軍用鳩連盟の結成式がおこなわれる。 この新組織は、大阪学生愛鳩会が十年にわたり親しんできた名称に別れを告げ、神戸学生鳩会と合同して生み出される。 大阪兵庫学生軍用鳩連盟は、大日本軍用鳩協会の後援を受けながら、より積極的な軍鳩報国と精神修養を目的として活動する。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年十一月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十六年十一月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足 九月四日の日誌に「四」がない。公表を控えたのか、誤字脱字なのか、詳細不明。 また、九月十日の日誌に「一」が二つある。詳細不明。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年十一月号) 大日本軍用鳩協会 |
午後六時半、「軍用鳩感謝の夕」が金沢市公会堂において開催される。 これは、八月二十三日に東京で催された、陸軍省選定歌「勇ましき軍鳩」の発表音楽会に続く開催となる(八月二十七日に札幌でも開催している) 式次第は、以下のとおり。 国家奉唱、宮城遥拝、護国の英霊に感謝黙禱ならびに出征将兵の武運長久祈願、陣没鳩霊に黙禱、北国軍鳩報国会・加藤のあいさつ、読売新聞社・辻 豊二支局長のあいさつ、大日本軍用鳩協会・只野透四郎理事の講演、陸軍通信学校鳩部長・門口元一中佐の講演、「勇ましき軍鳩」の発表(歌手は近衛八郎と松山映子、アコーディオン伴奏は荻原信也)、金城高等女学校生徒八十名の合奏(「勇ましき軍鳩」「出征兵士を送る歌」「暁に祈る」「そうだその意気」。指揮・加藤二郎)、荻原信也のアコーディオン独奏(「私の青空」)、近衛八郎と松山映子の愛国歌謡曲数曲の歌唱、会衆全員で「勇ましき軍鳩」の大合唱(荻原信也のアコーディオンと金城高女バンドによる伴奏)、時局映画「翼の使者」の上映(陸軍通信学校提供) 午後十時、散会する。 ☆補足一 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十六年十一月号)に掲載された記事「只野理事 講演会の足跡」に、大日本軍用鳩協会の只野透四郎理事の石川県での活動が載っている。 以下に引用しよう(一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足二 その後、大日本軍用鳩協会石川支部長・矢田与喜が状況報告のために上京する。 軍用鳩感謝の夕の開催後、軍用鳩に対する石川県民の認識が向上し、県立金沢第一中学校などは、即時、鳩舎建設の案を提議する。その熱意に打たれた矢田は、同校を訪ね、二坪あまりの新築鳩舎を寄贈する。また、金城高等女学校も加藤二郎教頭のもと、伝書鳩飼育をはじめる。 なお、上京の土産として、田中愛助常務理事と只野透四郎理事らの案内により、矢田は吉川晃史の別宅を訪問し、陸海軍献納鳩舎を見学する。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年十一月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十七年一月号) 大日本軍用鳩協会 |
午後六時、「軍用鳩感謝の夕」が山梨県会議事堂において開催される。 これは、八月二十三日に東京で催された、陸軍省選定歌「勇ましき軍鳩」の発表音楽会に続く開催となる(八月二十七日に札幌、十月四日に金沢でも開催している) 式次第は、以下のとおり。 国民儀礼(軍用鳩への感謝の黙禱など)、大日本軍用鳩協会山梨支部長・鈴木喜冏のあいさつ、読売新聞甲府支局長・石坂武夫のあいさつ、大日本軍用鳩協会理事・田中愛助の講演、「勇ましき軍鳩」の発表(歌手は近衛八郎と松山映子、アコーディオン伴奏は荻原信也)、愛国歌謡の合唱(「そうだその意気」「世紀の若人」)、会衆全員で「勇ましき軍鳩」の大合唱、鈴木の発声による万歳三唱。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年十一月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会が理事会を開き、以下の事項を決定する(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十六年十一月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年十一月号) 大日本軍用鳩協会 |
十月中旬~下旬にかけて、第二次特別防空演習が実施されているが、東京では十月二十三日と二十四日の両日におこなう。 松坂屋の屋上に本部を設置し、奥羽、関東、中部の各主要都市と鳩通信網を構築して通信する。 本部勤務員は、以下のとおり。 大日本軍用鳩協会から吉川晃史参与、田中愛助常務理事、只野透四郎理事、伊藤正文主事、政岡武利書記、同協会東京支部から遠藤義雄(極東報鳩会)、天笠 俊(千寿軍鳩会)、板倉陽之助(千寿軍鳩会)、毛受己之助(千寿軍鳩会)、小沢秀寿(報国武鳩会)、改田大一(報国武鳩会)、八木幸喜(東京好鳩会)、近久 央(江東鳩友会)、松坂屋鳩部から中沢、小林の両名。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年十二月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十六年十一月号、十二月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足 筆者所有史料に欠損があるため、二十一日、二十二日、二十三日の計三日間、日誌に抜けがある。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年十一月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十六年十二月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会山梨支部の主催で、山梨県会議事堂において、少国民文化祭が開催される。 鈴木山梨支部長が甲府市内の国民学校に「勇ましき軍鳩」のレコードを贈呈し、軍鳩熱を高め、竹村陽子、小林陽子、飯島節子の三児童が山梨童話連盟が振り付けした踊りを披露する。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年十二月号) 大日本軍用鳩協会 |
この日、大阪第四師団司令部鳩班の小河源治軍曹が陸軍病院で病死する。小河は生前、軍用鳩飼育に献身し、また報国鳩隊や学生愛鳩会などの指導訓練にも尽力する。小河は病床で「この貯金はぜひ鳩のために使ってほしい」と言って金二〇〇円を残す。 十二月一日、小河の父・丈之助は、大阪第四師団恤兵部を通じて、金二〇〇円を軍用鳩購入代金として寄付する。 十二月二日、大阪好鳩会主催の二〇〇キロ競翔が開催される。 当日帰還は全体の四分の一にとどまるが、大阪第四師団鳩舎の参加鳩はほとんど記録(帰還)し、この到着鳩六羽が上位を占める。全て小河が世話した鳩である。「小河はんの精神が鳩にこもっているのやろ」と愛鳩家たちは話しているという。 参考文献 『普鳩』(昭和十七年一月号) 中央普鳩会本部 |
大日本軍用鳩協会の平野直一常務理事が旅行先において不慮の急死を遂げる。 平野は同協会の常務理事として、また、東京和鳩会の代表者として、温厚な指導精神でもって鳩界の発展に貢献した人物である。 ☆補足 小野内泰治『日本鳩界史年表』(23)によると、警察の調査では鉄道自殺とされたという。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年十二月号) 大日本軍用鳩協会 『愛鳩の友』(昭和三十五年十月号) 愛鳩の友社 |
読売新聞社講堂において、大日本軍用鳩協会の第四回定時総会および授賞式が開催される。 各府県の支部長、理事、代表者などが出席し、陸軍から陸軍省整備局交通課長・千葉熊治少将、大野少佐、陸軍通信学校長代理・金沢副官、海軍から海軍省兵備局第三課長・林 彙邇大佐、鈴木中佐が列席する。ほかに、東京市長代理として東京市記念事業部長・谷川 昇、読売新聞社・小野企画部長なども参列する。 大日本軍用鳩協会会長・鷹司信輔公爵のあいさつ(新嘗祭のため午前十時半会場到着)、陸海軍代表者の祝辞、東京市長の祝辞などの後、授賞式となり、陸軍大臣賞杯、海軍大臣賞杯、表彰状、金色および銀色名鳩章が各受賞者に授与される。そして、山梨支部提供の「勇ましき軍鳩」の舞踏を竹村陽子、小林陽子、飯島節子の三児童が披露する。あまりにかわいらしいので鷹司会長以下アンコールの声援があり、再度、三児童が踊りを披露する。 ここで午前中の行事が終わり、昼食を挟んで午後一時から再開、会議に入る。副会長・佐藤 直少将が議長を務め、予算案などを審議する。来年一月から鳩籍登録(公認の鳩籍)を実施すること、来年度の競翔を六〇〇キロにとどめること(本年度は一〇〇〇キロ競翔を開催)、来年度の新脚環が三十五銭から二十銭に値下げすること、などが決まる。 終了後、中央亭の広間において、懇親会が開かれる。 ☆補足 本定時総会で決定した昭和十七年度事業方針は、以下のとおり(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十七年一月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしてる)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年十二月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十七年一月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十七年二月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十七年一月号、二月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年一月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十七年二月号) 大日本軍用鳩協会 |
日本軍がイギリス領マレー半島およびアメリカ領ハワイを攻撃する。 大東亜戦争の勃発である。 この戦争が鳩飼養者にもたらした影響について、東京農業大学伝書鳩研究会『伝書鳩の飼い方』に、以下の記述がある。
このほかに、長距離競翔をおこなうと多くの鳩を失うことから競翔の距離が制限されるようになる。 『愛鳩の友』(昭和三十二年八月号)に掲載された記事「ドブネズミ号の死」(作・小野内泰治)によると、大東亜戦争の勃発後、鳩界は多難期に入り、その翌年、軍命令により長距離競翔が禁止され、最大四〇〇キロどまりになってしまったという。 『愛鳩の友』(昭和三十七年七月号)に掲載された記事「並河靖氏を語る」(作・板倉陽之助。「日本鳩界の歯車」〔第三回〕)によると、大東亜戦争に突入すると、大日本軍用鳩協会の体制が強化され、その首脳陣には星川久七少将をはじめ、軍人が名を連ねて、さながら軍人内閣の縮図のようになったという。そして、日本鳩界は、明けても暮れても国防鳩隊の訓練と仔鳩の生産に追われたので銘鳩の出ようがなかったとのことである。 ☆補足一 『朝日新聞』(昭和十七年十二月六日付)の記事によると、大東亜戦争の勃発とともに早稲田大学構内に、早稲田大学高射砲隊が組織されたという。早稲田大学には「国防」の二文字に即応する学生隊が存在し、騎兵砲隊、野砲隊、騎兵隊、海洋班、滑空班、航空班、通信班、軍事鳩班、自動車隊などに分かれて活発に活動しているそうである。 ☆補足二 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十七年二月号)に掲載された記事「吉川晃史氏 優秀鳩二〇〇羽海軍に献納す」によると、大東亜戦争劈頭の赫々たる戦果に感激した吉川晃史は、可憐な翼にも海軍報道の一助たらんと思い、優秀鳩二〇〇羽を海軍に献納したという。 ☆補足三 『愛鳩の友』(昭和四十七年三月号)に掲載された記事「思い出の南方鳩隊」(作・井崎乙比古)によると、日本軍のマレー半島攻略を機としてインド国民軍に鳩通信小隊を編成したという。 はっきりした時期は不明だが、シンガポール公園内の植物園において、井崎於菟彦少佐と、インド国民軍鳩通信小隊の婦人将校らを撮影した写真が残っている。軍用鳩修業に派遣されたインド国民軍の軍人らの修業を祝って開かれたパーティーでの記念写真だという。 参考文献 『伝書鳩の飼い方』 東京農業大学伝書鳩研究会/金園社 『朝日新聞』(昭和十七年十二月六日付) 朝日新聞東京本社 『日本鳩時報』(昭和十七年二月号) 大日本軍用鳩協会 『愛鳩の友』(昭和三十七年七月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十七年三月号) 愛鳩の友社 |
大日本軍用鳩協会が緊急理事会を開き、以下の事項を決定する(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十七年一月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年一月号) 大日本軍用鳩協会 |
三重県松坂市で大東亜戦争必勝祈願市民大会が開催される。 この催しに松坂市軍鳩会は、全会衆の万歳三唱とともに数百羽の軍用鳩を放鳩し、会場に一段の色彩を加える。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年一月号) 大日本軍用鳩協会 |
この夜、並河 靖軍医中尉の歓迎会が中央普鳩会本部で開かれる。 並河は、一九三八(昭和十三)年の北支への出征以来、約四年ぶりに休暇で内地に戻り、昨日、実家のある京都から東京にやってきていた。 あいにく、関口竜雄は急用、鈴木房太郎は病気を患い、欠席するが、遠藤泰助、本間春雄、阿部亀吉が歓迎会に出席し、シオン鳩の話題を中心に歓談する。 並河は戦地の土産話として以下のことを話す(中央普鳩会本部『普鳩』〔昭和十七年一月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
*「吉川鳩舎」とは、吉川晃史鳩舎のこと。 参考文献 『普鳩』(昭和十七年一月号) 中央普鳩会本部 |
『日本鳩時報』(昭和十六年十二月号)に、「鳩ノ飼育ト訓練」(作・門口元一)が掲載される。 同記事の目次は、以下のとおり(一部、漢字をひらがなに改めている。目次のページが存在しないので見出しを並べて構成する)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十六年十二月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十七年二月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年二月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会の昭和十六年度業務報告(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十七年一月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年一月号) 大日本軍用鳩協会 |
上記の期間、延べ三十万人を動員して、満州電業の水豊発電所と大連を結ぶ東連送電線(二七〇キロ)が建設される。 荒涼茫漠の山野では、ほかに頼る通信機関がなかったことから、この大工事中、現場と事務所は、移動式伝書鳩を用いて、連絡を取り合う。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年二月号) 大日本軍用鳩協会 |
公用帰国中の漢口派遣軍・田山曹長が、永代静雄に中支の鳩事情などを語る(以下、その内容) 戦場では想像以上に軍用鳩が活躍していて、支那軍特有の遊撃戦に対し、多数の日本兵の命を救っている。軍民が鳩の利用を望んでいるが、配備は進んでおらず、不足している。支那全土を平定しても通信機関が完備しない限り、鳩は最も優れた通信動物である。ぜひ、大東亜伝書鳩総連盟の力で鳩と技術者を大陸に送ってほしい。漢口に帰ったら民間人に勧めて、大東亜伝書鳩総連盟の支部設置の機運を作りたい。 参考文献 『普鳩』(昭和十七年二月号) 中央普鳩会本部 |
大日本軍用鳩協会の東京支部が常任幹事会を開く。 時局柄、今後は「競翔」ではなく「翔力検定大会」に改称することを決議する。 ☆補足一 「競翔」と言ってしまうと、娯楽が主で、軍鳩報国が二の次であるかのような誤解を与える。そこで、東京支部は「翔力検定大会」と改称して、軍鳩報国が主であることを明確にする。鳩の速度を競って遊んでいるのではなく、その翔力を検定または訓練して国家に役立つ鳩作りをしている、ということである。 なお、『日本鳩時報』誌を確認すると、昭和十七年四月号から、「競翔」ではなく「通信訓練」に名称が変わっている。東京支部だけでなく大日本軍用鳩協会全体でも名称の変更があったことが分かる。 ただし、完全に「競翔」の二文字を排除したわけではなく、以前と同様に使用していることもある。 ☆補足二 この『日本軍用鳩年表』では、「競翔」のことを「鳩レース」または「レース」と記していることがある。しかし、戦前戦中の日本鳩界ではこの言葉は使われておらず、戦後になってから広まったものである。上述したとおり、「競翔」、「通信訓練」、「翔力検定大会」などと当時は呼んでいた。そして、「レース」という言葉が使われていなかったということは、すなわち、「レース鳩」という言葉もまた使われていなかった。 宮沢和男『正しいレース鳩の飼い方訓練法』に、以下の記述がある。
愛鳩の友社の創立者である宮沢和男は、一九五二(昭和二十七)年頃から、「レース鳩」という新名称を使うようになったという。むろん、宮沢だけがこの新名称を使用し、戦後の日本鳩界に広めたわけではなかったろうが、『愛鳩の友』誌を発行する日本鳩界のメディア人が、新しい言葉に言い換えようと努めたのである。その影響は大きかったと思われる。 実際、今日の日本鳩界で使われている鳩用語を並べると横文字が氾濫している。「競翔家」のことを「フライター」、「選手鳩」のことを「レーサー」、鳩の「調教師」のことを「ハンドラー」などと呼ぶ。 戦前戦中の日本鳩界と、戦後の日本鳩界を比べると、さまざまな変化が見られるが、鳩用語の言い換えはその一つである。 ちなみに、戦前戦中の外国ではどうだったかというと、「レーシング・ピジョン」(Racing Pigeon)という用語があり、使われていた。つまり、戦後の新名称「レース鳩」は、これが語源で、現在進行形(ing)を省いて「レース鳩」としたことが分かる。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年三月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十七年四月号) 大日本軍用鳩協会 『正しいレース鳩の飼い方訓練法』 宮沢和男/日本文芸社 『鳩鴿の研究』(昭和七年三月号。創刊号) 大阪学生愛鳩会 |
青森市立高女では一朝有事に備えるため、夏原女教諭指導のもと、生徒が七班に分かれて伝書鳩の訓練を実施しているが、飼育する十六羽は通信の役目を立派に果たしているという。 以上、同日付の『読売新聞』の記事より。 参考文献 『読売新聞』(昭和十七年一月十九日付) 読売新聞社 『日本鳩時報』(昭和十七年三月号) 大日本軍用鳩協会 |
東京の銘鳩収集家で、東京征鳩会会長の富山守造が脳溢血により死去する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十五年十一月号) 愛鳩の友社 |
今月より軍用鳩の購買価格が値上がりする。 仔鳩 十円 親鳩 十五円(一〇〇キロ競翔記録鳩) *一〇〇キロ増すごとに十五円増 ただし、登録した鳩のみに限る。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年一月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十七年二月号、三月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年二月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十七年三月号) 大日本軍用鳩協会 |
中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十七年二月号)が発行される。 本号に、大東亜伝書鳩総連盟規則抜粋(暫定)が載る。 内容は、以下のとおり(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、空行を入れたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『普鳩』(昭和十七年二月一日) 中央普鳩会本部 |
午後六時半、東京柳橋の料亭「二葉」において、大日本国防鳩隊の東部東京第一支部隊の結成式が挙行される(出席者七十二名) 東部東京支部隊は、第一~第六までの六支部隊と八王子特分隊の計七隊で構成されるが、二月一日に八王子分隊が最初に結成式を挙行し、次いで本日、第一支部隊が結成式を開く。第二支部隊以降の隊も、順次、結成式を見る予定になっている。 なお、東部東京第一支部隊結成式の式次と参列者は、以下のとおり。 「式次」 一、国歌斉唱 一、宮城遥拝 一、皇軍将士武運長久祈願ならびに戦病没将士および陣没軍鳩に対する感謝黙禱 一、開会の辞 副隊長・佐藤福治 一、第一支部隊結成経過報告 副隊長・板倉陽之助 一、隊長挨拶 吉川晃史 一、来賓祝辞 田川潤一郎大佐 一、閉会の辞 板倉陽之助 進行係 飯沼竜之助、柴田新一郎 「参列者」(七十二名) 東部東京第一支部隊員をはじめ、以下の来賓。 田川潤一郎大佐、大日本軍用鳩協会常務理事・田中愛助、同協会常務理事・飯笹 操、同協会監事・三ケ島彦六、同協会監事・遠藤泰助、同協会主事・伊藤正文、同協会書記・政岡武利、東京支部常任理事・只野透四郎、同支部常任幹事・岡庭正義、同支部常任幹事・毛受己之助、同支部常任幹事・近久 央、同支部書記・相田貞助、東亜軍鳩会長・遠藤義男。 ☆補足 四月三日、東部東京第二支部隊および東部東京第四支部隊が結成式を開く。 しかし、『日本鳩時報』(昭和十七年五月号)に掲載された記事「時事片々」(作・山本直文)において、山本は現状を憂う。国防鳩隊の組織は昭和十五年から論じられているのに、翌昭和十六年を無為に空費し、昭和十七年現在においても、第一、第二、第四の計三支部隊の結成を見ただけで出足が鈍い、などと批判している。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年三月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十七年五月号) 大日本軍用鳩協会 |
紀元節のこの日、学生報国隊や産業報国隊などの各種団体が一丸となって、東京市中大行進を挙行する。大日本国防鳩隊もこの催しに参加し、軍鳩報国の熱誠をいかんなく発揮する。 午前十一時、大日本軍用鳩協会の事務所に八十五名の国防鳩隊員が集合する。学生隊員は学生服、一般隊員は国民服を着装し、新作の帽章を帽子につけ、腕章を左腕にまとう。そのうち五十名の隊員は、軍用鳩四羽入りの歩兵籠を背負う(計二〇〇羽) 行進の先頭は田川潤一郎大佐が務め、隊旗をなびかせながら靖国神社の祭典場に進む。そして、式典後は宮城広場に向かい、紀元節を祝して軍用鳩二〇〇羽を一斉放鳩する。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年三月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会が理事会を開き、以下の事項を決定する(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十七年四月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年四月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十七年三月号、四月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年三月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十七年四月号) 大日本軍用鳩協会 |
大阪市東区内の十二市立幼稚園園児の誠心が実を結び、この日、教育塔(大阪の大手前公園)前の広場において、大阪第四師団への軍用鳩六十羽の献納式がおこなわれる。 同師団兵務部長の三浦少将および同師団の玉置参謀長、園児代表約三〇〇名が出席する。 同師団の那須大尉のあいさつの後、北大江幼稚園の福田誠吉(八歳)が目録を手交し、関第四師団長(代理・三浦少将)および玉置参謀長から感謝の言葉がある。そして、大江校の糸岡よし子(八歳)が以下のように述べる(国民防空出版協会『国民防空』〔昭和十七年五月号〕より引用)
その後、皆で「鳩の歌」を歌って献納式が終了し、那須大尉が軍用鳩について園児に話をする。 参考文献 『国民防空』(昭和十七年五月号) 国民防空出版協会 |
「軍需品輸送鉄道運賃割引証改正ノ件」(陸普第一六〇九号)が陸軍一般に通牒される。 陸軍省告示第四二号(昭和六年十一月)陸軍鉄道輸送手続中の規定にかかわらず、鉄道省線内発着の小荷物扱い貨物として軍需品(軍用鳩、軍用犬を含む)の輸送を託送する場合、公務運賃割引証の使用を廃止し、新たに定めた軍用貨物証明書を使用することになる。 本件は五月一日から実施される。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01005271600、昭和17年 「陸普綴 記室」(防衛省防衛研究所)」 |
大日本軍用鳩協会が理事会を開き、以下の事項を決定する(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十七年四月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年四月号) 大日本軍用鳩協会 |
上野動物園が開園六十周年を記念して、三月二十日から一週間にわたり、記念式典と動物慰霊祭を挙行する。大日本軍用鳩協会は軍用鳩の写真を出品するとともに、連日、同協会東京支部の後援のもと、戦地にいる兵隊宛ての手紙を入場者から受け取り、これを鳩に付して飛ばす。「鳩が名宛人まで手紙をとゞけて下さるのですか?」と、無邪気な質問が寄せられ、協会員は苦笑しながら送達法を説明する。また、前日より陸軍通信学校から鳩車が出張していて、訓練飛翔中の軍用鳩に入場者の注目が集まる。 なお、三月二十日の午後一時から鳩魂塔の前で慰霊祭をおこなう。田中愛助常務理事、只野透四郎常務理事、小沢秀寿理事、近久 央理事、毛受己之助東京支部幹事、政岡武利書記が出席し、田中が祭文を朗読する。 ☆補足 上記の一文は、『日本鳩時報』(昭和十七年四月号)に掲載された記事「〝軍用鳩通信実演挙行さる〟」をもとに記す。 入場者が「鳩が名宛人まで手紙をとゞけて下さるのですか?」と質問するので、協会員が苦笑しながら説明したとあるが、その具体的な説明内容は載っていない(省略されている)。愛鳩家にとって、言わずもがな、のことだったからだろう。 すなわち、上野動物園から放鳩した軍用鳩が、大陸などの戦地に飛んでいって手紙を届けられるわけがない。 一度、大日本軍用鳩協会東京支部の各鳩舎などに鳩が帰還し、そこから郵便局に手紙が配送されるサービスだったと思われる。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年四月号) 大日本軍用鳩協会 |
蘭印攻略作戦により日本軍がジャワ島を占領する。 中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十七年五月号)に掲載された記事「大東亜の鳩飼になれ」(作・サルタン)に、以下の記述がある(一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
内地の鳩は南方の熱帯地で使いものになるのか、素質が低下するのではないか、との危惧に対し、著者(サルタン)としては、軍がすでに鳩通信網を構築している、なせばなる、ということを言いたいのだと思う。そして、著者は同記事において、南方向きと北方向きの品種選定の研究に、南北の愛鳩家(台湾、樺太)の協力を求めている。 参考文献 『普鳩』(昭和十七年五月号) 中央普鳩会本部 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十七年四月号、五月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足 筆者所有史料に欠損があるため、日誌に抜けがある(二十九日の「二」) 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年四月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十七年五月号) 大日本軍用鳩協会 |
中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十七年四月号)が発行される。 本号に、「普鳩会役員諸氏の動き」が載っている。 内容は、以下のとおり(引用文は一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『普鳩』(昭和十七年四月号) 中央普鳩会本部 |
大日本国防鳩隊の西部香川支部隊の結成式が挙行される。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年五月号) 大日本軍用鳩協会 |
一九四一(昭和十六)年十二月八日の真珠湾攻撃において、甲標的(特殊潜航艇)に搭乗し戦死した九軍神の一人・古野繁実少佐(死後、中尉から少佐に二階級特進)の遺骨が、福岡県遠賀郡遠賀村の生家に戻る。この日は横殴りの激しい雨が降っていたが、東京日日新聞社の西部本社の伝書鳩は、その悪天候をものともせず、全鳩が帰舎してこの模様を伝える。 参考文献 『「毎日」の3世紀 新聞が見つめた激流130年』(別巻) 毎日新聞社 |
鳩質の向上と飼料の消費規正のため、大日本軍用鳩協会が鳩籍登録を実施する。 協会員は七月十五日の期限までに全ての鳩について届け出る必要がある。また、鳩の異動(転籍、失踪、献納、帰来、死亡)が生じた場合も直ちに届け出る必要がある。鳩籍登録に応じなかったり、鳩籍登録規定に従わなかったりした場合は、購買鳩受検資格、競翔参加資格、国防鳩隊参加資格、飼料受給資格、展覧会および品評会の出品資格を喪失する。 参考として、鳩籍登録規定の第七条と第八条を以下に引用しよう(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十七年五月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年五月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十七年五月号、六月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足 筆者所有史料に欠損があるため、日誌に抜けがある(九日の「六」) 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年五月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十七年六月号) 大日本軍用鳩協会 |
中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十七年五月号)が発行される。 本号に、大東亜伝書鳩総連盟の支部規定(暫定)が載る。 内容は、以下のとおり(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、空行を入れたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『普鳩』(昭和十七年五月号) 中央普鳩会本部 |
海軍省教育局長が関係各庁長宛てに「軍鳩通信訓練ニ関スル件」(教育機密第一一七号)を申進する。 内容は、以下のとおり(海軍大臣官房『昭和十一年四月一日改版 十版 内令提要』(巻三)より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『昭和十一年四月一日改版 十版 内令提要』(巻三) 海軍大臣官房 |
大日本国防鳩隊の東部東京第三支部隊の結成式が挙行される。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年七月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本国防鳩隊の東部神奈川支部隊の結成式が挙行される。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年七月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会が理事会を開き、以下の事項を決定する(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十七年七月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年七月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十七年六月号、七月号、九月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足 筆者所有史料に欠損があるため、日誌に抜けがある(十二日の「四」および「五」) 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年六月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十七年七月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十七年九月号) 大日本軍用鳩協会 |
東京帝国大学眼科教室には軍用鳩研究部があり、庄司義治教授指導のもと、研究者が日々、軍用鳩の眼に関する研究をおこなっている。最近は鳩舎を増設して大々的に活動しており、軍当局も大いに期待を寄せて、さまざまな便宜を図っているという。 この日、庄司ほか五名の帝大軍用鳩研究部の一行が、千葉県市川市の吉川晃史鳩舎を見学のために訪れる。一行は、訓練鳩舎、陸軍海軍献納鳩育成鳩舎、蕃殖鳩舎などを見て回り、吉川から軍用鳩一羽ごとにその特徴や経歴などの詳しい説明を受ける。 ☆補足 その後、庄司は、大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十八年二月号)に、「軍用鳩の眼」という研究論文を発表する。 同論文によると、三年前から軍用鳩の眼に関する研究をはじめていて、庄司のほか、山崎千里、加藤静一、飯島久吉、高野安雄、油井直行、阿部八重子が軍用鳩研究班に所属しているという。また、大日本軍用鳩協会、陸軍通信学校、吉川晃史から多大の援助を受け、かつ、文部省科学研究航空医学の補助を仰いでいるそうである。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年七月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十八年二月号) 大日本軍用鳩協会 |
軍用鳩飼料配給通帳制の実施に伴い、大日本軍用鳩協会の東京支部は、配給取扱所選定に関する件を各支部員に通達する。 どのような内容かというと、従来の飼料配給では、所属団体を通じてこれをおこなっていたが、飼料の確保や公平な配給、支部員の利便性を図るために、現在、通帳制にして配給するように移行準備中なので、東京の公認飼料取扱所を選定したいというものである。 ☆補足 以下の各商店が公認飼料取扱所となる。 持田、近久、斎藤(栄)、岩瀬、田村、小山、板垣、香村、鈴木(宇)、浅見、鈴木(吉)、平賀、和栗。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十五年十二月号) 愛鳩の友社 |
全国有力十一新聞社が全国新聞鳩連盟を結成する(読売新聞社内に事務所を設置)。これにより、今後は農林省に直接交渉して鳩飼料の配給を受ける。 中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十七年七月号)に掲載された記事「動く鳩界」によると、各新聞社は報道公器として伝書鳩を飼育しているが、鳩籍登録問題をめぐって大日本軍用鳩協会と意見が折り合わなかったことから、この連盟を結成したという。 同記事は、全国新聞鳩連盟の今後の動静について、以下のように述べている。
☆補足一 上記の一文は、中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十七年七月号)に掲載された記事「動く鳩界」をもとに記す。 一方、小野内泰治『日本鳩界史年表(25)』は、新聞鳩連盟の発足を「六月中旬」ではなく「七月中旬」と述べている。また、新聞鳩連盟の名称も「全国新聞鳩連盟」ではなく「日本新聞鳩連盟」と記している。 どちらの記述が正しいのか、よく分からない。 ☆補足二 『愛鳩の友』(昭和三十三年六月号)に掲載された記事「新聞社の鳩舎めぐり(中)」に、以下の記述がある。
☆補足三 大東亜戦争中、各新聞・通信社は、新聞国防鳩通信という名称の団体を結成する。軍に鳩を供出して、その通信に協力するための組織である。 『愛鳩の友』(昭和三十三年六月号)に掲載された記事「新聞社の鳩舎めぐり(中)」に、以下の記述がある。
参考文献 『普鳩』(昭和十七年七月号) 中央普鳩会本部 『愛鳩の友』(昭和三十三年六月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十五年十二月号) 愛鳩の友社 『伝書鳩 もう一つのIT』 黒岩比佐子/文芸春秋 |
日立航空機株式会社では、同社鳩部主任の片柳十三九の名義で八王子征鳩会に所属し、大日本軍用鳩協会に加入している。しかし、日立は、五〇〇羽の実用鳩登録は不可能に近いとし、根本問題である飼料の配給を統制組合から直接受けることに農林省の了解を得たことから、六月中旬、大日本軍用鳩協会を脱会する。 ☆補足一 片柳十三九は、一九三〇(昭和五)年~一九三三(昭和八)年冬まで、軍用鳩調査委員室付として鳩術を研究している。その際、一九二九(昭和四)年~一九三四(昭和九)年まで在室の高畠多一と一緒に過ごしている。 軍用鳩調査委員会を去ってからは、代表者として多摩普鳩会を設立し、応召中も軍用鳩関係の軍務に服す。除隊後に日立に入社し、鳩部主任となる。 日立では、この片柳が中心となり、工場~本店間の往復通信を実施している(一九四一〔昭和十六〕年十一月九日に片道通信で開始し、同年十二月二十六日から往復通信に切り替える) ☆補足二 中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十七年八月号)の記事によると、基本的に往復通信は鳩の食欲の活用が万事のどだいになっているという。ただし、訓練法に多少の相違があり、中野教程本式、海軍式、片柳十三九式、石原 初式があるそうである。 参考文献 『普鳩』(昭和十七年六月号) 中央普鳩会本部 『普鳩』(昭和十七年七月号) 中央普鳩会本部 『普鳩』(昭和十七年八月号) 中央普鳩会本部 |
大日本軍用鳩協会が理事会を開き、以下の事項を決定する(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十七年七月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年七月号) 大日本軍用鳩協会 |
『普鳩』誌の主幹・永代静雄の呼びかけによって、大東亜伝書鳩総連盟が結成される。 この日、創立発起人代表者会を招集し、以下の役員を選出する(小野内泰治『日本鳩界史年表』(25)より引用。一部、文字表記を改めている)
各役員の略歴は、以下のとおり(中央普鳩会本部『普鳩』〔昭和十七年八月号〕より引用。一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
*五十島鶴松の経歴中、「大正四年十一月三日全関東伝書鳩連盟結成司会す」とあるが、『愛鳩の友』(昭和五十年一月号)に掲載された記事「――若人にかたる―― 日本鳩界の歴史」(作・小野内泰治。連載第三回)によると、全関東伝書鳩連盟は昭和四年に結成され、東京愛鳩会、千住軍鳩会、東京南鳩会、東京好鳩会などが加盟していたという。つまり、「大正四年」とあるのは誤りで、正しくは、「昭和四年」である。 なお、その上に記してある「大正三年七月一日東京愛鳩会設立司会す」という部分も、「大正三年」は誤りで、正しくは、「昭和三年」の可能性がある。 なお、大東亜伝書鳩総連盟の目的は、以下のとおり(中央普鳩会本部『普鳩』〔昭和十七年七月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
しかし、その雄大な構想はついに実現することなく、活動はほぼ日本国内に限定される。 規模も大日本軍用鳩協会に比べてこじんまりしていて、大東亜伝書鳩総連盟の設立当初に参加した、めぼしい鳩クラブは、千粁倶楽部、荏原鳩会、千寿軍鳩会(中堅幹部ら)といったところで、残りは無所属の個人が全会員中の半数を占める。 組織は離合集散を繰り返すというが、大日本軍用鳩協会内の反対勢力が立ち上げた新組織――それが大東亜伝書鳩総連盟の実態かと思われる。 東亜を股にかけた一大通信構想も、理想として掲げてはいるが、大日本軍用鳩協会との差別化を狙ったスローガンの一面もあったように考えられる。 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十八年八月号)に掲載された記事「錦旗を擁して」(作・梅原重厚)に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めている。また、分かりやすさを考慮して、文中にある「被告協会」という箇所を「大日本軍用鳩協会」という言葉に差し替えている。要注意)
☆補足 『愛鳩の友』(昭和三十七年十月号)に掲載された記事「為我井喜久雄氏を語る」(作・板倉陽之助。「日本鳩界の歯車」〔第五回〕)に、以下の記述がある。
永代静雄や関口竜雄らが同志を集めて結成した大東亜伝書鳩総連盟は、上記引用文の執筆者である板倉陽之助によると、その母体は全関東伝書鳩連盟だったという。 この全関東伝書鳩連盟は、一九二九(昭和四)年十一月三日に結成されているが、一九三〇(昭和五)年十二月七日の日本伝書鳩協会の創立に伴って解散している。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十五年十二月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十七年十月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和五十年一月号) 愛鳩の友社 『普鳩』(昭和十七年七月号) 中央普鳩会本部 『普鳩』(昭和十七年八月号) 中央普鳩会本部 『普鳩』(昭和十七年九月号) 中央普鳩会本部 『日本鳩時報』(昭和十八年八月号) 大日本軍用鳩協会 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 |
大東亜伝書鳩総連盟の今月の日誌抜粋(中央普鳩会本部『普鳩』〔昭和十七年八月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『普鳩』(昭和十七年八月号) 中央普鳩会本部 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十七年九月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年九月号) 大日本軍用鳩協会 |
中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十七年七月号)が発行される。 本号に、「大東亜伝書鳩総連盟に寄す」(作・伊藤 薫)という記事が載る。 以下に、その一部を引用しよう(一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
日本伝書鳩協会、すなわち、後の大日本軍用鳩協会であるが、この一文を記した伊藤によると、会員は役員を信頼せず、役員は会員に厳しく当たり、会員はますます役員に対して不満を抱いているという。 伊藤の意見は、表面上は新組織である大東亜伝書鳩総連盟に対する希望になっている。しかし、その主旨は、大日本軍用鳩協会への批判であろう。 大東亜伝書鳩総連盟は、大日本軍用鳩協会内の反対勢力が組織しただけあって、同連盟の機関誌である『普鳩』は、大日本軍用鳩協会に対して挑戦的である。それが最終的には裁判沙汰の争いになる(後述) 参考文献 『普鳩』(昭和十七年七月号) 中央普鳩会本部 |
大東亜伝書鳩総連盟が「大日本軍用鳩協会の態度に就いて総連盟の見解と同志への希望」という声明を発する。 内容は、以下のとおり(中央普鳩会本部『普鳩』〔昭和十七年八月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
大東亜伝書鳩総連盟と大日本軍用鳩協会との違いは、前者を夢想家、後者を実際家に例えると分かりやすい。 大東亜伝書鳩総連盟としては、日本軍の勝利によって南方地域にまで占領地が拡大しているのだから大東亜にまたがる鳩通信網の構築は緊要である、と考えている。 一方、大日本軍用鳩協会は、今はまだ軍は作戦中で民間の鳩通信網の構築は時期尚早である、と考えている。 善しあしの問題ではなく、主義主張の問題なので、両団体は根本的に相いれない。 参考文献 『普鳩』(昭和十七年八月号) 中央普鳩会本部 『普鳩』(昭和十八年四月号) 中央普鳩会本部 |
大日本軍用鳩協会香川支部の香川軍鳩団は、善通寺第十一師団に対し、二回に分けて、軍用鳩を献納しようと計画する(第一回目は種鳩約三十羽、第二回目は訓練鳩を予定) そして、この日の午後二時、第十一師団司令部前広場において、第一回の献納式が挙行される。 軍部から、同師団の宗利参謀長、恤兵部の大西大佐、鳩班の田所中尉や今村軍曹などが出席する。 民間から、松重 馨香川支部長(香川軍鳩団長)以下の会員、町長その他二百数十名が出席する。 式は国民儀礼の後、松重から鳩名簿奉呈と献納のあいさつがあり、大西がこれに答礼する。 最後に、軍用鳩約五〇〇羽を一斉放鳩し、午後五時、献納式が終了する。 十月一日に第二回の献納をおこなう予定になっている。 ☆補足 四月五日、香川軍鳩団は、第七区の先陣を切って、大日本国防鳩隊西部香川支部隊を結成している。そして、善通寺第十一師団と手を携えて、香川県下の鳩通信網を構成し、通信機関断絶時において軍用鳩のみで通信可能な状態を作り上げる。 また、同師団や陸軍通信学校の所有する軍用鳩映画の公開時(県下主要都市)、会場に軍用鳩の相談所を開設して宣伝に力を入れる。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年九月号) 大日本軍用鳩協会 『陸海軍将官人事総覧 陸軍編』 上法快男 監修 外山 操 編/芙蓉書房 |
午後一時半、大日本軍用鳩協会の関西軍鳩連盟(京阪神連合)が、大阪信濃橋の岡島会館において、春季特別訓練の授賞式を開催する。 京阪神支部の各鳩会代表者一五〇名が出席したほか、中部軍司令部の参謀や多くの将校が来賓として参列する。 午後三時、優秀鳩一七〇羽を出品する軍用鳩展覧会の部に移る(来場者約三〇〇名)。売上金は約二〇〇〇円で、一番高い鳩は一三〇円で売れる。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年九月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会の本部が東京市神田区錦町二丁目九から東京市神田区大和町二十七番地(省線神田駅市電岩井町下車)に移転する。 この三階建ての新事務所は、二十坪あまりの事務室、応接室、役員室を兼ねた特別室、食堂兼休憩室があり、二階は大会議室(四十名着席可能)、三階は倉庫、屋上は国防鳩隊総本部の通信鳩舎新設予定地になっている。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年七月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十七年九月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会が、『昭和十七年四月現在 会員名簿 付定款及諸規則』を発行する。 八月二十八日、『鳩通信術提要』とともに、これを全国の協会員に配布する。 ☆補足 小野内泰治『日本鳩界史年表』(25)によると、この会員名簿は大日本軍用鳩協会最後の名簿になったという。昭和十八年以降の会員名簿は存在しないようである。 余談だが、筆者(私)は、昭和十四年と、昭和十七年の二冊の会員名簿を所持している。各人物や役員、鳩クラブの正式名称、諸規則などが載っていて、鳩に関する記事を書くうえで、重宝している。必携の参考文献といってよい。 参考文献 『昭和十四年八月現在 会員名簿 付定款及諸規則』 日本伝書鳩協会 『昭和十七年四月現在 会員名簿 付定款及諸規則』 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十七年十月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十八年一月号) 大日本軍用鳩協会 『愛鳩の友』(昭和三十五年十二月号) 愛鳩の友社 |
大東亜伝書鳩総連盟の今月の日誌抜粋(中央普鳩会本部『普鳩』〔昭和十七年八月号、九月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『普鳩』(昭和十七年八月号) 中央普鳩会本部 『普鳩』(昭和十七年九月号) 中央普鳩会本部 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十七年九月号、十月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年九月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十七年十月号) 大日本軍用鳩協会 |
中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十七年八月号)が発行される。 本号に、「餌税は違法」(作・鉄槌)という記事が載っていて、餌料一俵につき金一円の金を徴収する大日本軍用鳩協会を批判している。 以下に、その一部を引用しよう(一部、文字表記を改めている)
参考文献 『普鳩』(昭和十七年八月号) 中央普鳩会本部 |
大東亜伝書鳩総連盟が脚環を発行する。 マークは大東亜で、年号は皇紀二六〇二年で示す。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十五年十二月号) 愛鳩の友社 |
大東亜伝書鳩総連盟が第三回役員会議を開き、事務局部長を決定する。 総務部長(兼任) 永代静雄事務局長兼常任理事(中央普鳩会会長) 建設部長(兼任) 園田保之常任理事(前帝国伝書鳩協会幹事長 陸軍大佐) 生産部長(兼任) 五十島鶴松常任理事 (中央普鳩会顧問) 供給部長(兼任) 五十島鶴松常任理事 (中央普鳩会顧問) 技術部長(兼任) 関口竜雄常任理事(千粁倶楽部会長) 参考文献 『普鳩』(昭和十七年九月号) 中央普鳩会本部 |
大日本軍用鳩協会が理事会を開き、以下の事項を決定する(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十七年十月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年十月号) 大日本軍用鳩協会 |
今年の六月に応召し、ビルマ戦線で軍務に就いていた大沢一郎(千寿軍鳩会)が護国の華と散る。 大沢は、一九四〇(昭和十五)年春の函館~東京間七〇〇キロ競翔において入賞を果たし、また、優れた鳩作出家としても知られていた。 大沢は、大日本軍用鳩協会東京支部ではじめての戦死者となる。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年三月号) 大日本軍用鳩協会 |
大東亜伝書鳩総連盟の今月の日誌抜粋(中央普鳩会本部『普鳩』〔昭和十七年九月号、十一月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『普鳩』(昭和十七年九月号) 中央普鳩会本部 『普鳩』(昭和十七年十一月号) 中央普鳩会本部 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十七年十月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年十月号) 大日本軍用鳩協会 |
満州国治安部在職中の井崎於菟彦が応召し、空路でビルマに赴任する。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年九月号) 大日本軍用鳩協会 |
中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十七年九月号)が発行される。 本号に、大東亜伝書鳩総連盟の日本国内支部規定(暫定)が載っている。 以下に引用しよう(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
この日本国内支部規定(暫定)の注目すべき点は、以前の支部規定(暫定)には存在した、大東亜伝書鳩総連盟版の国防鳩隊に関する条項が削除されていることである(*第五条 支部に部隊、部隊に隊を置く) 協会の秩序を乱す、との大日本軍用鳩協会の批判に正当性を与えてしまうことを、大東亜伝書鳩総連盟が危惧したのであろう。 これ以後、大東亜伝書鳩総連盟の国防鳩隊編成案は取りやめになる。 参考文献 『普鳩』(昭和十七年九月号) 中央普鳩会本部 『普鳩』(昭和十八年四月号) 中央普鳩会本部 |
大東亜伝書鳩総連盟の今月の日誌抜粋(中央普鳩会本部『普鳩』〔昭和十七年十一月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『普鳩』(昭和十七年十一月号) 中央普鳩会本部 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十七年十月号、十一月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年十月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十七年十一月号) 大日本軍用鳩協会 |
今月号の大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十七年九月号)に載っている、軍用鳩に関する話題をいくつか紹介しよう。 ・陸軍通信学校鳩部長の職が空席になっていたが、このほど、元軍用鳩調査委員の八木 勇中佐が第一線から帰還し、鳩部長に就任する。 一九四〇(昭和十五)年、八木は一〇〇〇円の基金を戦地から寄付しており、協会員のよく知る人物である。 ・毎年の夏、学連は移動鳩の訓練をおこない、また、軍部、大日本軍用鳩協会、読売新聞社などの後援を得て、移動鳩競翔大会を年中行事として実施してきた。しかし、短期夏休み卒業、進級試験の繰り上げ、ならびに卒業生の入隊、就職など、時局柄、第四回大会の開催は難しく、中止のやむなきに至る。 ・今春以来、『普鳩』誌が先鋒となって鳩界に暗躍している。そして、鳩界の不平分子を糾合して生まれた大東亜伝書鳩総連盟に対し、大日本軍用鳩協会は、その黒幕である中央普鳩会の永代静雄に勧告書を発送する。しかし、何ら反省の色なく、ますます地方協会員に魔手を伸ばしている。 そこで、大日本軍用鳩協会は、断然たる処置を採るに立ち至る。 除名決定者 永代静雄 大野清一郎 内田孝治 松尾鉄市 藤野義雄 関口竜雄 土岐直家 大越理吉 岡田吉永 岡久孝夫 郭清科 蘇継先 以上十二名 ☆補足一 「岡田吉永」とあるが、『日本鳩時報』(昭和十七年十月号)に掲載された記事「八月理事会決定事項」には「岡田吉水」と記してある。 どちらの人名が正しいのか不明。 ☆補足二 一九三七(昭和十二)年、八木は命じられて渡満し、この地で軍務に服していたが、一九四二(昭和十七)年八月、陸軍通信学校の鳩部長に就任する。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十五年十二月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十七年九月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十七年十月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十八年三月号) 大日本軍用鳩協会 |
「国防献品中軍鳩ノ受理ニ関スル件」(陸普第六六七〇号)が陸軍一般に通牒される。 内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01005281300、昭和17年 「陸普綴 記室」(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01005281300、昭和17年 「陸普綴 記室」(防衛省防衛研究所) |
大日本軍用鳩協会は、同協会に所属し、かつ、大東亜伝書鳩総連盟に加入している会員に対して、たびたび除名処分を決議している。 八月下旬、大東亜伝書鳩総連盟の発起人中十二名(永代静雄、土岐直家、大野清一郎、大越理吉、内田孝治、岡田吉水、松尾鉄一、岡久孝夫、藤野義雄、郭清科、関口竜雄、蘇継先)に対して、また十月中旬、大東亜伝書鳩総連盟の主要会員二十四名に対して、である。 ただし、大日本軍用鳩協会に辞表を提出または辞意を伝えている協会相談役二名――長谷栄二郎大佐(大東亜伝書鳩総連盟理事長)および園田保之大佐(大東亜伝書鳩総連盟常任理事)に対しては、除名決議を保留している。 先に述べた三十六名の除名者のほかに、九月上旬、百数十名の会員に対して、大日本軍用鳩協会は除名予告通牒を送致している。大東亜伝書鳩総連盟から脱退しなければ除名または退会処分とし、鳩用飼料の供給を停止するとの内容である。 大日本軍用鳩協会が除名処分の根拠として挙げているのが定款第十二条で、そこには、こう記されている。 「会員ニシテ本協会ノ体面ヲ毀損シ秩序ヲ紊乱シ又ハ会員タル義務ヲ尽サザルトキハ理事会ノ決議ニ依リ之ヲ除名スルコトアルベシ」 要するに、分裂していた日本鳩界がようやく陸軍の肝いりで大日本軍用鳩協会に一元化されたのに、そこから新たに大東亜伝書鳩総連盟なる組織を立ち上げるのは秩序を紊乱している、ということである。 大東亜伝書鳩総連盟事務局建設部長で、かつ、大日本軍用鳩協会東京支部役員の鈴木 孝は、除名予告通牒に対して、計二通の質問状を大日本軍用鳩協会に送付している。 その内容を要約すると――大東亜伝書鳩総連盟は大東亜共栄圏内の要域に対する鳩通信網の構築を目指す組織であり、大日本軍用鳩協会とは目的を異にする。また、大日本軍用鳩協会の顧問である四王天延孝中将は、大東亜伝書鳩総連盟の設立賛成人であり、同じく同協会相談役の長谷栄二郎大佐および園田保之大佐も同連盟の常任理事に就任している。大日本軍用鳩協会、大東亜伝書鳩総連盟なるとを問わず、こぞって協力すべきである。 しかし、この主張は受け入れられず、先に述べた二十四名の除名会員の中に鈴木の名があった。 そこで、鈴木は本日、除名処分の取り消しと、『日本鳩時報』誌および『普鳩』誌に謝罪文を引き続いて三回掲載(三号活字)することを求めて、大日本軍用鳩協会を相手に民事訴訟を起こす。 この件に関して、大東亜伝書鳩総連盟の永代静雄は、中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十七年十一月号)に「協会当事者へ最後の忠言」との記事を載せて、大日本軍用鳩協会を批判している。 記事の内容を以下に引用しよう(一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている。また、表記できない文字に〓を代入し、その後ろに説明文を付してある)
参考文献 『普鳩』(昭和十七年十一月号) 中央普鳩会本部 『普鳩』(昭和十七年十二月号) 中央普鳩会本部 『日本鳩時報』(昭和十七年十月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十七年十一月号) 大日本軍用鳩協会 |
今月号の大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十七年十月号)に載っている、軍用鳩に関する話題を二つ紹介しよう。 ・滋賀軍鳩報国会は最近結成されたばかりの団体で、代表者の白井信一(中野国民学校長)を中心に、軍用鳩の育成に日々励んでいる。地元の○○部隊の後援を受けて、毎月、機上放鳩訓練をおこなうという。 ・先頃、仙台支部長の佐藤秀春、同支部幹事の奥津春生、小林忠雄らが二日間にわたって、管内十二警察署の警官に対し、軍用鳩に関する講習を実施する。 昨年、阿武隈川の堤防が決壊した際に、仙台はとの会の伝書鳩が活躍しているが、この鳩通信に警察部が注目したのが契機だという。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年十月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会が理事会を開き、以下の事項を決定する(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十七年十一月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年十一月号) 大日本軍用鳩協会 |
大東亜伝書鳩総連盟の今月の日誌抜粋(中央普鳩会本部『普鳩』〔昭和十七年十一月、十二月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
また、中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十七年十一月)に載った「同志消息」は、以下のとおり(引用文は一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『普鳩』(昭和十七年十一月号) 中央普鳩会本部 『普鳩』(昭和十七年十二月号) 中央普鳩会本部 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十七年十一月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年十一月号) 大日本軍用鳩協会 |
中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十七年十一月号)が発行される。 本号に、大東亜鳩術員養成所の開講と第一期生募集(定員三十名以内、修業期間三ヶ月、学費一二〇円)の知らせが載っている。 大東亜鳩術員養成所の学是と目的は、以下のとおり(中央普鳩会本部『普鳩』〔昭和十七年十一月号〕に掲載された、大東亜鳩術員養成所学則第一条および第二条より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、空行を入れたりしている)
大東亜鳩術員養成所を卒業すると得業証書のほかに大東亜鳩術士の称号を得られる。 そして、希望により、大東亜共栄圏内(満州や支那などの外地)の大会社に就職可能で、月収一〇〇~一五〇円の高給を見込めるという。さらに優秀な卒業生には大東亜伝書鳩総連盟の鳩術指導員にもなれる。 将来性抜群といってよいが、その後、同養成所に関する続報がないので、戦局の悪化によって絵に描いた餅に終わったように思われる。 なお、同養成所の幹部は、以下のとおり。 所長 陸軍大佐 園田保之(大東亜伝書鳩総連盟常任理事、前帝国伝書鳩協会幹事長) 副所長 海軍中佐 喜多山省三(大東亜伝書鳩総連盟常任理事、前横須賀海軍航空隊軍鳩科主任) 学監 未定 主任講師 五十島鶴松(大東亜伝書鳩総連盟常任理事) 関口竜雄(大東亜伝書鳩総連盟常任理事) 松尾鉄一(大東亜伝書鳩総連盟常任理事) 経営 事務局長 永代静雄(大東亜伝書鳩総連盟常任理事) 管理 陸軍大佐 長谷栄二郎(大東亜伝書鳩総連盟理事長、前陸軍軍用鳩調査委員高級幹事) 続いて、教授科目、担当講師、配当時間表は、以下のとおり(中央普鳩会本部『普鳩』〔昭和十七年十一月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
〔備考〕 (イ)授業科目、時間割当は多少変更することあるべし (ロ)担当講師は大体確定せるも二、三交渉中の向きあり (ハ)本表における授業時間は学科一〇〇、実習二二〇、科外講演および見学三〇、自習一五〇時間合計五〇〇時間なり 参考文献 『普鳩』(昭和十七年十一月号) 中央普鳩会本部 『普鳩』(昭和十八年二月号) 中央普鳩会本部 『普鳩』(昭和十八年三月号) 中央普鳩会本部 |
石井金蔵大尉が応召し、横須賀防備隊の分隊長に復職する。実に九年ぶりの復帰である。石井はかつて、横須賀防備隊軍鳩科主任として喜多山省三中佐の後を引き継いで勤務しており、その後は民間軍需会社の顧問や青年学校長を務めていた。 ☆補足一 喜多山が横須賀防備隊を去ったのは、一九二七(昭和二)年春のことである。その際に喜多山は、特に夜間鳩に重点を置くように後継各位に申し送る。 ☆補足二 東北鳩協会青森支部『伝書鳩』に掲載された記事「鳩舎の設計に際し五ツの要点」(作・石井特務少尉)によると、石井が伝書鳩のことを意識したのは、一九二二(大正十一)年~一九二三(大正十二)年の暮れにかけての満一年間、江田島海軍兵学校に選修学生として学んでいたときのことだという。 同校では、船艇の通信用として数十羽を飼育していたが、石井は実際にこの軍鳩を使用しており、「なるほどこれは便利なものである」と感じる。そして、卒業後、横須賀海軍航空隊付になると、ちょうど同隊では軍鳩研究がおこなわれていたので、志願してこの研究に従事する。 参考文献 『普鳩』(昭和十七年十二月号) 中央普鳩会本部 『日本鳩時報』(昭和十五年八月号) 大日本軍用鳩協会 『伝書鳩』 東北鳩協会青森支部 |
大日本軍用鳩協会東京支部が東京支部の会員に、「代議員制施行ニ関スル件」を通知する。 内容は、以下のとおり(一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 「代議員制施行ニ関スル件」 大日本軍用鳩協会東京支部 *筆者所有の紙片 |
大日本軍用鳩協会は主として陸軍に鳩を献納している。そこで大東亜伝書鳩総連盟では海軍に鳩を献納することに決し、この日の午前、関口竜雄、阿部亀吉、鈴木 孝、大野清一郎が横須賀防備隊を訪れて五十二羽の鳩を献納する。 献納式の後、一行は石井金蔵大尉と石井竜之助少尉と懇談する。また、関口は、横須賀防備隊司令・緒方 勉大佐と懇談する。 翌十一月二十七日、石井金蔵大尉より、五十羽を受領した旨の謝状が大東亜伝書鳩総連盟に贈られる(一部の鳩が不適格と判定されたのか、献納数と受領数に相違がある。その分の埋め合わせであろうか、中央普鳩会本部『普鳩』〔昭和十八年八月号〕に掲載された記事「海軍へ二羽追献」によると、十二月中さらに二羽を追加献納し計五十四羽になったという) ☆補足一 上記の一文は、主に関口竜雄『鳩と共に七十年』の記述をもとに記す。著者の関口は大東亜伝書鳩総連盟の常任理事であるため、事実関係にバイアスがかかっている。 どういうことかというと、大日本軍用鳩協会(旧称・日本伝書鳩協会)は、二団体に分裂していた日本鳩界(日本伝書鳩協会と帝国伝書鳩協会)を一本化して生まれた、陸軍肝いりの組織である。一方、大東亜伝書鳩総連盟は、大日本軍用鳩協会内の一部の者が陸軍の意向に反して結成した新団体で、日本鳩界を再び分裂させている。大東亜伝書鳩総連盟が海軍に鳩を献納した、というのは、陸軍に不義理を働いているので海軍しか献納を受けつけてくれなかった、というのが実態に近い。陸軍は先月の中旬に内規を作っていて、大日本軍用鳩協会の脚環をつけ登録済名簿のある鳩に限り献納を受けつける、などと定めている。 大日本雄弁会講談社『少年倶楽部』(昭和十八年九月号)に掲載された記事「西村君の研究について」(作・伊藤正文)に、以下の記述がある。
☆補足二 大東亜伝書鳩総連盟の中心人物である永代静雄は、中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十八年八月号)に掲載された記事「鳩も百まで」(作・永代静雄)において、以下のように述べている。
参考文献 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 『普鳩』(昭和十七年十二月号) 中央普鳩会本部 『普鳩』(昭和十八年一月号) 中央普鳩会本部 『日本鳩時報』(昭和十八年八月号) 大日本軍用鳩協会 『少年倶楽部』(昭和十八年九月号) 大日本雄弁会講談社 |
大日本軍用鳩協会の本部二階会議室において、移動鳩講習会(大日本軍用鳩協会東京支部主催、陸軍教育総監部および陸軍通信学校後援)がはじまる。 講師は陸軍通信学校の後藤大尉で、近久 央、板倉陽之助、小野内泰治など約二十名が参加する。 約十日間の座学の後、陸軍通信学校鳩部の構内において実習に入り、移動鳩通信のため、各地を移動する。 一九四三(昭和十八)年一月二日、実習中の移動鳩通信が完成に近づいたので、この日から四日間、千葉の谷津海岸において、最後の実習をおこなう。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十六年一月号) 愛鳩の友社 『日本鳩時報』(昭和十八年二月号) 大日本軍用鳩協会 |
午後一時、丸の内読売別館において、大日本軍用鳩協会東京支部が品評会を開く。本年度の翔力検定大会の帰還鳩が条件で、一五三羽が出陳される。 その一五三羽のうち、陸軍通信学校の、八木 勇中佐、山内・田口両大尉の審査により、「優」七十三羽、「良」三十羽、「佳」二十羽が選出される。 審査委員長の八木は、さらに「優」の中から十羽の「特優」鳩を選び出す。 すると、その中の一羽に大変美しい灰の雄がいたので、八木はこの鳩に見とれて、「これは超特優だ」と褒めたたる。そして、八木は、会場の見出しに「超特優」と書き記す。 「超特優」と褒めたたえられた鳩が、中島重蔵の愛鳩・四〇八八号(昭和十五年生)だった。中島は、四〇八八号の名を超特優号に改めて、その栄誉を永久に残す。 ☆補足一 小野内泰治『日本鳩界史年表』(26)によると、このとき、八木中佐が激賞した鳩が、戦後、中島重蔵の超特優系の源になったという。 中島の四〇八八号(超特優号)のことを述べていると思われる。 ☆補足二 東京支部幹事の近久 央は、今回の品評会について、以下のように語っている(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十八年一月号〕より引用)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年一月号) 大日本軍用鳩協会 『愛鳩の友』(昭和三十二年十一月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十六年一月号) 愛鳩の友社 『レース鳩』(平成三十一年二月号) 日本鳩レース協会 |
午前十時、九段軍人会館において、大日本軍用鳩協会の表彰式が開催される。 同協会会長の鷹司信輔公爵が安藤俊六(岩手軍鳩会)以下八十名に賞状を贈呈する。 式は型どおり、国民儀礼ではじまり、国歌斉唱、出征将士の武運長久祈願、陣没将兵および軍鳩に黙禱、会長・鷹司信輔公爵のあいさつ、陸軍通信学校長・中村誠一少将の祝辞、大日本国防鳩隊隊長・四王天延孝中将の激励の辞があり、次に表彰に移って、午前十一時五十分、式が終了する。 午後一時から第五回定時総会に入り、陸海軍の関係者や会員多数が出席する。昭和十七年度業務報告、決算報告、昭和十八年度の予算案審議、定款の改正決議などの後、午後六時に総会が終了する。 その後は懇親会となり、午後八時すぎに散会する。 ☆補足一 小野内泰治『日本鳩界史年表』(26)に、以下の記述がある。
☆補足二 『朝日新聞』(昭和十七年十一月三十日付)の記事では、表彰を受けた愛鳩家の氏名が「安藤瞬六」と記されているが、正しくは、「安藤俊六」である。 参考文献 『朝日新聞』(昭和十七年十一月三十日付) 朝日新聞東京本社 『日本鳩時報』(昭和十八年一月号) 大日本軍用鳩協会 『愛鳩の友』(昭和三十六年一月号) 愛鳩の友社 『昭和十七年四月現在 会員名簿 付定款及諸規則』 大日本軍用鳩協会 |
大東亜伝書鳩総連盟の今月の日誌抜粋(中央普鳩会本部『普鳩』〔昭和十八年十二月号、一月号〕より引用。一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『普鳩』(昭和十七年十二月号) 中央普鳩会本部 『普鳩』(昭和十八年一月号) 中央普鳩会本部 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十八年一月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年一月号) 大日本軍用鳩協会 |
大東亜戦争一周年となる本日、中部軍司令部、大阪第四師団、大阪府が、大阪の中心地である心斎橋を囲んで都市模擬戦を実施する。この模擬戦には、大阪府警察部管内の全警察鳩をはじめ、報国鳩隊(大日本軍用鳩協会近畿支部)の軍用鳩一〇〇〇羽が参加し、通信連絡に当たる。また、鳩隊は分列行進と一斉放鳩を実施して軍鳩報国の精華を遺憾なく発揮するとともに、銃後国民に対し、可憐な戦士(軍用鳩)のあることを力強く印象づける。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年一月号) 大日本軍用鳩協会 |
軍用鳩物語「誉の翼」が中央放送局(NHK)から放送される。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十六年一月号) 愛鳩の友社 |
大東亜伝書鳩総連盟の今月の日誌抜粋(中央普鳩会本部『普鳩』〔昭和十八年一月号、二月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『普鳩』(昭和十八年一月号) 中央普鳩会本部 『普鳩』(昭和十八年二月号) 中央普鳩会本部 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十八年一月号、二月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年一月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十八年二月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会の昭和十七年度業務報告(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十八年一月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足 筆者所有史料に欠損があるため、「八月」の「ニ」の項にある一部文字に〓を代入している。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年一月号) 大日本軍用鳩協会 |
一九四〇年、ドイツ軍によってオランダが占領されると、各地の伝書鳩の没収と殺処分がおこなわれる。 オランダの愛鳩家――キース・ファンリンプトの全鳩もドイツ軍に没収される。 キース・ファンリンプトの息子――ヨス・ファンリンプトは、ブルゲル動物園にファンリンプト家の鳩がいるのを、その後、確認している。 さて、キース・ファンリンプトは、熱心な愛鳩家だったことから、これにめげず、ひそかに八羽の伝書鳩を屋根裏で飼育する。そして、一九四二年、キース・ファンリンプトは、この世を去る。 その死から一ヶ月もたたないある日、ドイツ軍がファンリンプト家にやってきて、違法に飼育されている八羽の伝書鳩を見つけ、キース・ファンリンプトの妻と、ヨス・ファンリンプトに銃を突きつける。「これはヨスの鳩ではなく、すでに死んだ父親の鳩だ」と、キース・ファンリンプトの妻が訴えたので、最悪の事態は回避できたが、ファンリンプト家の伝書鳩は、再びドイツ軍に没収される。 参考文献 『永遠のヤンセン ヤンセン・ファミリー100年の歴史』(Part Ⅱ) アド・スカーラーケンス/愛鳩の友社 |
大阪第四師団の指導のもと、報国鳩隊大阪本部は、伊勢神宮、橿原神宮、熱田神宮などの官幣大社に詣で、皇軍の武運長久と国威の発揚を祈願する。 当日は、報国鳩隊のほか、大阪第四師団司令部、大阪府警察部、大阪鉄道局、朝日新聞大阪本社、大阪毎日新聞社、大阪府食糧国防団などが参加する。 午前九時、官民の軍用鳩が放鳩される。 軍用鳩には各宮司の新年賀詞が付してあり、その内容は大阪中央放送局から全国に放送される。 賀詞を寄せた神社は、以下のとおり。 豊受大神宮、熱田神宮、大神神社、大和神社、石上神宮、春日神社、広瀬神社、竜田神社、橿原神宮、日吉神社、建部神社、近江神宮、多賀神社、吉野神宮、日ノ前神社、国懸神宮、竈山神社、熊野坐神社、速玉神社、伊弉諾神社、比都比売神社、大鳥神社、牧岡神社、広田神社、水無瀬神宮、住吉神社、生国魂神社、加茂別雷神社、加茂御祖神社、石清水八幡宮、松尾神社、平野神社、稲荷神社、平安神宮、八坂神社、白峯神宮。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年一月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十八年二月号) 大日本軍用鳩協会 |
横地千仭(中央普鳩会専門委員会分科会鳩学部主査)は、昨年に日本医科大学を卒業し、甲幹をパスして軍医候補生になっているが、十二月、見習士官から軍医中尉に任官する。そして、仙台陸軍幼年学校付となり、本日、東京を発って現地に赴任する。 参考文献 『普鳩』(昭和十八年二月号) 中央普鳩会本部 |
横須賀防備隊分隊長軍鳩科主任の石井金蔵大尉が、石井竜之助少尉ほか一名を伴って、大東亜伝書鳩総連盟を訪問し、海軍と民間鳩の連絡について要談する。 石井は、以下のように語る(中央普鳩会本部『普鳩』〔昭和十八年二月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足 上記のとおり、横須賀防備隊所属の三名の軍人が礼を述べるために大東亜伝書鳩総連盟に来局する。そして、三月六日、大東亜伝書鳩総連盟は、海軍大臣から感謝状を授与される(後日、鳩を献納した各個人に対しても授与されたという) 参考文献 『普鳩』(昭和十八年二月号) 中央普鳩会本部 『普鳩』(昭和十八年四月号) 中央普鳩会本部 |
大東亜伝書鳩総連盟の第十二回(臨時)役員会議が開かれる。 事務局建設部長の鈴木 孝を常任理事に推す件が可決され、長谷理事長から指名される。 ほか、以下の委嘱あり。 中央協力委員(供給部付) 台北支部常任委員 李銘輝 中央協力委員(供給部付) 東京(支持会員) 石岡勇蔵 中央協力委員(総務部付) 東京志多南会 加藤政次郎 中央協力委員(建設部付) 大連支部長 赤羽三郎 参考文献 『普鳩』(昭和十八年二月号) 中央普鳩会本部 |
中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十八年二月号)に、以下の記述がある(引用文は一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
『第三監視隊戦時日誌』(自昭和十八年一月一日 至昭和十八年一月三十一日)に、同隊の司令として喜多山の名が載っている。 このことから、喜多山は、第五艦隊第二十二戦隊第三監視隊司令として第一線任務に就いたことが分かる。 参考文献 『普鳩』(昭和十八年二月号) 中央普鳩会本部 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08030228400、昭和17年12月1日~昭和18年2月28日 第3監視艇隊戦時日誌 (防衛省防衛研究所)」 |
大東亜伝書鳩総連盟の今月の日誌抜粋(中央普鳩会本部『普鳩』〔昭和十八年二月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『普鳩』(昭和十八年二月号) 中央普鳩会本部 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十八年二月号、三月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年二月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十八年三月号) 大日本軍用鳩協会 |
支那派遣軍鳩育成所が『代用飼料ノ参考』を出版する。 題名どおり、代用飼料に関する参考情報をまとめている。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110539300、軍用動物に関する書類 昭和12年1月20日(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110539400、軍用動物に関する書類 昭和12年1月20日(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110539500、軍用動物に関する書類 昭和12年1月20日(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110539600、軍用動物に関する書類 昭和12年1月20日(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110539700、軍用動物に関する書類 昭和12年1月20日(防衛省防衛研究所)」 |
大日本軍用鳩協会は、昨年の十一月二十九日に開催した第五回定時総会において、定款の一部を改正して代議員制を設け、四十名の理事を二十名以内に減らして事務の簡捷化を図り、従来二名だった副会長を三名に増やすことを決議している。 そして、本日の午後一時、東京柳橋の料亭「二葉」の大広間において、第一回代議員会を開催し、新体制下の役員を改選する。 陣容を刷新した大日本軍用鳩協会の役員は、以下のとおり。 会長 鷹司信輔公爵 副会長 四王天延孝中将、星川久七少将、徳永秀三 理事長(兼務) 星川久七少将 専務理事 加藤泰俊大佐 常務理事 池田重雄少佐、三ケ島彦六、板倉陽之助 理事 宇都木五郎、相沢富蔵、井伊藤一郎、小沢秀寿、岡本磯男、只野透四郎、宮崎新七、中島栄三郎、飯田重太郎、篠原秀太郎、坂本宗一郎、吉兼敏蔵 監事 陸軍省交通課長・池谷半二郎大佐、小山 晃 評議員 青山末吉、高橋 肇、渡辺 堅、遠藤泰助、佐藤秀春、近久 央、栗原公雄、市村武雄、神尾松五郎、新井貞久、中村高夫、山川源次郎、伊地知秀知、樋口幸次郎、藤田源太、滝 利吉、横見兼作、佐渡岩吉、堤 定雄、江口藤衛、堀 義一、上田豊花、池田長三郎、俣野 稔、田中外喜男 ほかに、前副会長・佐藤 直少将への記念品贈呈を全員一致で可決する。 また、陸軍通信学校鳩部長・八木 勇中佐が、「民間養鳩の本義」と題した、祝辞を兼ねた講演を、約三十分おこなう。 代議員会の終了後は、皆で晩餐をともにし、午後八時頃、散会する。 ☆補足一 八木は講演の中で、固定鳩と移動鳩の違いについて触れ、日本においては攻撃と決戦の際に使用するものなので、移動鳩の訓練を主にすべきであると述べる。陸地をもって国境とするフランス等では、ある程度まで固定鳩が役に立つが、運動戦を主とする日本では、移動鳩でないとその使命を充分に果たせないという。大日本軍用鳩協会の会員はあらゆる困難を克服してこの移動鳩の訓練を実施してもらいたい、と八木は要請する。そして、移動鳩は移動鳩から作出し、固定鳩は固定鳩から作出するのが鳩質優化の最大要件であると述べる。 ☆補足二 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十八年三月号)に掲載された記事「協会を背負ふ人々 日本屈指の名門鷹司会長 新進有為の四王天・星川・徳永の各氏」によると、今回、副会長に就任した星川久七少将は、陸軍省整備局長、参謀本部員、電信第一連隊長、陸軍通信学校長、○○要塞司令官などを歴任し、日本鳩界との関係においては、本省における課長時代から軍用鳩調査委員高級幹事として尽力してきた人物だという。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年三月号) 大日本軍用鳩協会 |
報国鳩隊大阪本部の後援を得て、大阪府警察部が全管内において、「十日午前九時空襲警報の発令あり、各管内とも相当の被害発生し通信途絶したり」との想定のもと、警察鳩総合訓練を実施する。 実施方法としては、訓練前日に各警察署と各参加鳩舎の軍用鳩を互い違いに配置し、訓練当日にこの配置鳩に通信文を付して放鳩し、互いに通信し合う、というものである。 総合訓練終了後の午後二時、府庁三階屋上において、警察部長検閲、警防課員指揮のもと、本訓練に参加した報国鳩隊員の検閲式が挙行される。 午後三時、府庁屋上より、報国鳩隊員の携行する鳩を一斉放鳩し、訓練最後の幕を飾る。 本訓練に参加した参加鳩舎と各警察署は、以下のとおり。 伊地知鳩舎(尾崎、市場署)、食糧営団鳩舎(佐野、堺北岸和田各署)、大島鳩舎(三林署)、樋口鳩舎(長野署)、島津鳩舎(古市、富田林署)、大谷鳩舎(柏原署)、飯田鳩舎(大津署)、西村鳩舎(布施署)、細川鳩舎(額田、八尾署)、吉岡鳩舎(四條畷、津田署)、木俣鳩舎(枚方署)、山川鳩舎(高槻、茨城署)、伊藤鳩舎(守口署)、阪急鳩舎(池田署)、森鳩舎(豊中署)、小畑鳩舎(吹田署)、岩井鳩舎(西淀川署) 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年三月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会が軍用鳩飼料割当通帳を発行する。会員は配給を受けるたびにこれに記入する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十六年二月号) 愛鳩の友社 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十八年三月号、四月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年三月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十八年四月号) 大日本軍用鳩協会 |
今月号の大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十八年二月号)に、以下の布告が載る(引用文は一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年二月号) 大日本軍用鳩協会 |
仙台陸軍幼年学校の奥津春生教授が比島科学局において研究生活を送る。この間、余暇を利用して、以前から関心のあった軍用鳩飼育上の問題を検討するために、比島派遣軍通信関係各部隊の協力を得て、軍用鳩関連の資料を入手し、また、マニラとダバオの鳩舎を訪問する。この二つの鳩舎は陸軍の手で管理されていて、相当な規模を誇る。 マニラ鳩舎では吉川晃史(東京はとの会)の鳩が目立っており、ダバオ鳩舎では名古屋鳩界の献納鳩が良好な蕃殖成績を収めていた。軍用鳩は熱帯の厳しい環境下でも管理をしっかりおこなえば内地同様の通信が可能で、ジャングル地帯における通信機関、検問検索時の連絡機関、分哨本隊間の往復通信機関として現地で利用される。 後に奥津は、このフィリピンでの体験をもとに、大日本軍用鳩協会『軍用鳩』(昭和十九年六・七月号)に、「比島の軍用鳩」という記事を発表し、熱帯における軍用鳩飼育上の問題を取り上げる。 奥津は、同記事において、以下の謝辞を述べる(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足 奥津が帰国する頃に聞いた話によると、海軍もフィリピンで鳩飼育をはじめるという。 参考文献 『軍用鳩』(昭和十九年六・七月号) 大日本軍用鳩協会 『軍用鳩』(昭和十九年七月号) 大日本軍用鳩協会 |
大東亜伝書鳩総連盟理事長・長谷栄二郎大佐と、同連盟・事務局長兼常任理事の永代静雄が、横須賀防備隊を訪問し、同隊司令・緒方 勉大佐と伝書鳩について三時間あまり語らう。 緒方は、伝書鳩の事情に明るいが、これは緒方が少佐当時、中野の軍用鳩調査委員会を見学し、同委員会高級幹事の長谷と意見交換していることが関係している。 緒方は、大東亜伝書鳩総連盟に、以下の注文を出す。 一つ、鳩の補給を民間の手でやってほしい。 一つ、海上訓練を盛んに実施してほしい。 一つ、近海航行の船舶に鳩を積み込みたい。 長谷は、この海軍の希望に対し、それらは全て大東亜伝書鳩総連盟に実施の用意があると答える。 参考文献 『普鳩』(昭和十八年四月号) 中央普鳩会本部 |
午後七時半、中部山岳鳩協会の三田旭夫の自宅において、映画『小伝令使』の上映会が開かれる。 大東亜伝書鳩総連盟理事長の長谷栄二郎大佐、同連盟常任理事の関口竜雄など、約二十名が集まる。 映画の内容は、山で事故に遭った登山者が伝書鳩の通報によって救助される、というもの。 脚本は実際の山岳事故をもとに三田が記し、撮影は山岳映画の権威・塚本閤治が担当する。 ☆補足 中部山岳鳩協会は、遭難事故などの際の通信用として、伝書鳩を登山者に貸し出す。 参考文献 『普鳩』(昭和十八年四月号) 中央普鳩会本部 |
午前十時、大阪市内の十三の幼稚園が中大江幼稚園(大阪市東区)に集い、軍用鳩献納式を挙行する。 国民儀礼の後、御津幼稚園の飯田英雄(六歳)と、汎愛幼稚園の広井 克(六歳)が大阪第四師団の吉田茂登彦参謀長に軍用鳩の献納目録を手交する。 一方、吉田は、浪速幼稚園の瀬恒心次と、御津幼稚園の秋山登美子に感謝状を手渡し、以下の謝辞を述べる(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十八年四月号〕より引用)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年四月号) 大日本軍用鳩協会 |
中央普鳩会技術部が設計した『軍用鳩々舎設計図』が発行される。 縮尺は三十分の一で、四羽入り、八羽入り、二十羽入り、五十羽入りの計四鳩舎の設計図が収録されている。 参考文献 『軍用鳩々舎設計図』 中央普鳩会技術部/大日本鳩具製作所 |
駒原邦一郎少校が『軍用鳩の飼育と訓練通信法』を出版する。大日本軍用鳩協会『軍用鳩』(昭和十九年九月号)に載った記事「軍鳩の参考書」(作・山本直文)において、同書は、こう評されている。
☆補足 駒原邦一郎『鳩舎の作り方 〔付〕鳩の体の解剖図』に、駒原の略歴が載っている。 以下に引用しよう。
大正十五年五月十五日発行の鳩園社『鳩』(第四年五月号)に掲載された記事「中野四月入所の軍鳩修業下士氏名」によると、一九二六(大正十五)年四月一日から約四ヶ月間の予定で、歩兵第六十三連隊所属の駒原邦一郎が中野の軍用鳩調査委員事務所において修業教育を受けているとある。 一方、上記に引用した駒原の著書には、大正十四年に中野の軍用鳩調査委員事務所で修業教育を受けたことになっている。 鳩園社『鳩』(第四年五月号)に掲載された記事は、当時のものなので、信憑性が幾分高いように思われるが、根拠があるわけではない。 慎重を期して、詳細不明としておく。 参考文献 『軍用鳩』(昭和十九年九月号) 大日本軍用鳩協会 『鳩舎の作り方 〔付〕鳩の体の解剖図』 駒原邦一郎/愛隆堂 『鳩』(第四年五月号) 鳩園社 |
この期間中、上野動物園が軍用動物感謝祭を開催する。 毎日、陸軍通信学校の係官がキリン小屋前の広場において、往復通信と移動通信を実施し、一般の観覧に供する。 三月二十一日の慰霊祭は、午後一時にはじまり、軍馬、軍犬の順で進められ、午後一時三十分、鳩魂塔の前で軍用鳩慰霊祭が執行される。 上野動物園の全職員をはじめ、大日本軍用鳩協会から改田大一、中村・小池の二書記が出席する。 式終了後、大日本軍用鳩協会の会員数十名が携行した百数十羽の軍用鳩が一斉放鳩される。 ☆補足 陸軍通信学校が三日間にわたって展示した軍用鳩通信の放鳩時間は、以下のとおり。 ◎往復通信(一日五回) 九時三十分――十時 十一時――十一時三十分 十三時――十三時三十分 十四時三十分――十五時 十六時――十六時三十分 ◎移動通信(一日四回) 十時 十一時三十分 十三時三十分 十五時 参考文献 『読売報知』(昭和十八年三月十八日付) 読売新聞社 『日本鳩時報』(昭和十八年四月号) 大日本軍用鳩協会 |
大東亜伝書鳩総連盟の台北支部が優秀鳩五十二羽(一ヶ月分の飼料つき)を台湾海軍武官府に献納する。 この献納鳩は全て馬公防備隊に収容される(昼間鳩舎に三十羽、夜間鳩舎に二十二羽) 参考文献 『普鳩』(昭和十八年四月号) 中央普鳩会本部 『普鳩』(昭和十八年六月号) 中央普鳩会本部 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十八年四月号、五月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年四月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十八年五月号) 大日本軍用鳩協会 |
今月号の大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十八年三月号)に、「思ひ出す儘に」(作・山本直文)という記事が載る。 同記事において、山本は、鳩界の重鎮と考えられてきた陸海軍の予備将校――園田保之大佐、長谷栄二郎大佐、喜多山省三中佐などの考え方は根本的に誤っていると批判する。国防鳩隊の幹部として招かれた園田、長谷両大佐等が大日本軍用鳩協会の改革強化に尽瘁せずして自ら去って大東亜伝書鳩総連盟に赴いたのは理解に苦しむという。 山本は、この記事の中で、以下のように呼びかける。
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年三月号) 大日本軍用鳩協会 |
中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十八年四月号)が発行される。 本号に、「総連盟辞令」が載っている。 以下に引用しよう(一部、文字表記を改めている)
☆補足 中央飼料栽培場とは、大日本軍用鳩協会から飼料止めの措置を受けている大東亜伝書鳩総連盟が、自前で鳩の飼料を生産するために作った施設である。 中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十八年五月号)に掲載された記事「飼料自作開始 中央第一飼料栽培場の耕耘播種に挺身参加」によると、府下に第一栽培場として約八〇〇坪の畑地を確保し、開墾をはじめたという。 参考文献 『普鳩』(昭和十八年四月号) 中央普鳩会本部 『普鳩』(昭和十八年五月号) 中央普鳩会本部 |
三日間にわたり、兵庫県警察部が国防鳩隊とともに、「四、一八想起通信線確保通信訓練」を実施する。 ☆補足 「四、一八」とは、一九四二(昭和十七年)年四月十八日に発生した日本本土初空襲(ドーリットル空襲)を指す。 小野内泰治『日本鳩界史年表』(24)によると、この空襲による愛鳩家の被害はなかったらしく、また、国防鳩隊の活躍もなかったという。ただし、軍需工場で被害調査の連絡に伝書鳩を使用したところはあったそうである。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年六月号) 大日本軍用鳩協会 『愛鳩の友』(昭和三十五年十一月号) 愛鳩の友社 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十八年五月号、六月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足 十五日の日誌に、「東京市内において今後鳩舎を築造する場合は防空法により空地帯(東京大阪に適用)内の鳩舎築造は警視庁が許可せざるにつき協会としては除外例を認めらるるよう陳情すべき旨連絡あり」とある。 小野内泰治『日本鳩界史年表』(28)によると、この防空法により、新築中の鳩舎を取り壊された人もいたという。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年五月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十八年六月号) 大日本軍用鳩協会 『愛鳩の友』(昭和三十六年三月号) 愛鳩の友社 |
中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十八年五月号)が発行される。 本号に、「総連盟競翔規定」と「性能検定競翔規定」が載っている。 「総連盟競翔規定」は、「(一)総連盟関係」「(二)競翔委員会関係」「(三)参加者関係」「(四)審査委員会関係」「(五)審査細則」「付則」から構成されている。 「性能検定競翔規定」は、「通則」「検定法」「表彰法」「付則」から構成されている。 ☆補足 『愛鳩の友』(昭和三十四年三月号)に掲載された記事「古今東西(4)」(作・関口竜雄)によると、性能検定という言葉がはじめて使われたのは戦争中のことで、大東亜伝書鳩総連盟が軍に献納する鳩を選ぶために、永代静雄が考え出した名前だという。 参考文献 『普鳩』(昭和十八年五月号) 中央普鳩会本部 『愛鳩の友』(昭和三十四年三月号) 愛鳩の友社 |
大東亜伝書鳩総連盟の関口竜雄常任理事および黒川光之神奈川鳩団長が横須賀防備隊に三十五羽の優秀鳩を献納する(五月六日付で横須賀防備隊軍鳩科主任から受領書を受ける) 参考文献 『普鳩』(昭和十八年六月号) 中央普鳩会本部 |
大日本軍用鳩協会が理事会を開き、以下の事項を決定する(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十八年六月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年六月号) 大日本軍用鳩協会 |
この日、松田高等家政女学校(神奈川県松田町)教諭の日下部 照(神奈川県足柄上郡福沢村)が害鳥土鳩撲滅運動趣意書を記す。 戦時下、食糧増産が求められているが、ドバトは一日に四十グラムの餌を食べ、一年にはこれが十五キロになる。国内のドバト数を二〇〇万羽と見積もると、実に一年間で五十万俵の穀類が餌食になっている計算になる。このドバトを捕獲してその肉や羽毛を活用し、神社仏閣にはドバトの代わりに軍用鳩を配して、全国的通信網を構築するのが望ましい。 日下部はこの主張を趣意書にまとめて、農林省や神奈川県に提出し、ドバト捕獲の内諾を得る。 中央普鳩会本部の『普鳩』誌が日下部の提言に賛同し、昭和十八年六月号において、全鳩界人ことごとくこの運動に競い加われ、と誌上で呼びかける(記事「国民食料の確保・鳩信網完設の為に 神奈川県を第一に全国的に捲き起らむとす土鳩撲滅運動」) ☆補足 日下部によると、無為徒食のドバトを神社仏閣の宮鳩と理解するのは誤りで、軍用鳩を宮鳩として飼育すべきであるという。これが真の宮鳩とのことである。 参考文献 『普鳩』(昭和十八年六月号) 中央普鳩会本部 『日本鳩時報』(昭和十八年六月号) 大日本軍用鳩協会 |
この日の早朝、山東省単県の某部隊から高宮小隊が出発する。山東省城武県の某部隊に糧秣を輸送するためである。 午後零時四十五分、高宮小隊は、単県と城武県の県境で、城武県から派遣されてきた糧秣受領隊に物資を引き渡す。 午後一時三十分、高宮小隊はようやく帰途につき鄭橋に達するが、突如、城武県の方角から激烈な銃声を聞く。とっさに糧秣受領隊に異変があったと判断し、高宮小隊は急きょ、銃声のする方向に向かって引き返す。そして、郭城集において、七路軍おおよそ三〇〇名の襲撃を受けている、糧秣受領隊を発見する。敵はその糧秣の奪取を狙っているらしい。高宮小隊は直ちに糧秣受領隊に加勢するが、敵は衆を頼んで頑強に抵抗する。 交戦すること二時間、高宮小隊と糧秣受領隊は、敵の包囲を受ける。このときすでに電話線は切断されていて、軍用鳩だけが唯一の通信機関だった。 午後二時三十五分、高宮小隊長は、現況を記した通信文を二羽の軍用鳩に付して、これを放鳩する(甲育一六五三号、甲育一二二五号) 午後二時四十五分、十七キロの距離を飛んで軍用鳩が単県の部隊本部に帰舎する。これにより、味方の危機を知り得た五十嵐副官は、なし得る限りの兵力を集めて、これを直ちに出発させる。 そうして、自動車に乗った救援隊は、不意に敵の後背を突く形で現場に到着し、その包囲網を破る。頑強に抵抗していた敵も、これには抗せず、壊滅的打撃を受けて日没とともに西南方に敗走する。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年八月号) 大日本軍用鳩協会 |
午後六時、府立産業会館において、移動鳩訓練講習会が開催される。 大日本軍用鳩協会大阪支部の主催で、講師として陸軍通信学校の後藤大尉を招く。 この講習会には、大阪第四師団司令部の那須大尉をはじめ、六十有余名が参加する。 午後九時、散会する。 ☆補足 後藤大尉は鳩購買のために来阪中で、大阪支部はこの機会を利用して同大尉を招く。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年七月号) 大日本軍用鳩協会 |
北支那方面軍司令部が『粛正討伐ノ参考』を編纂する。 「第七 通信連絡」の項に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C19010200600、粛正討伐の参考昭18.5(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C19010201600、粛正討伐の参考昭18.5(防衛省防衛研究所)」 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十八年六月号、七月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年六月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十八年七月号) 大日本軍用鳩協会 |
今月号の大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十八年五月号)に載っている、軍用鳩に関する話題を二つ紹介しよう。 ・今回、元陸軍通信学校鳩部の山口明吉中尉は、大日本軍用鳩協会の主事心得として、もっぱら大日本国防鳩隊の事務をつかさどることになった。 ・近日来、大日本国防鳩隊では、数回にわたって、協議会を開いているが、以下の七名を新たに総務に委嘱することになった。 大日本国防鳩隊総本部 加藤泰俊大佐 池田重雄少佐 板倉陽之助 三ケ島彦六 山本直文 吉川晃史 只野透四郎 *国防鳩隊規定中、参事は総務に、本隊幹事は参事に、それぞれ変更になる。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年五月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会が理事会を開き、鳩籍登録の正確と敏捷化を目指し、以下の事項を決定する(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十八年七月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
なお、以上の決定は六月七日より実施し、即日、全国の支部長宛てに通牒する。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年七月号) 大日本軍用鳩協会 |
大東亜伝書鳩総連盟が臨時役員会議(第二十回)を開く。 長谷栄二郎理事長、関口竜雄常任理事、永代静雄事務局長らが出席し、当面重要な案件が会議にかけられる。 また、その夜、上記の面々に、松尾鉄一常任理事、伊藤 薫事務局審査科長が加わり、「将来、現在、過去の鳩を語る」との主題で、座談会が開かれる(ほかに筆録として下平英輔事務局参事と黒川光之事務局参事が参加する) 参考文献 『普鳩』(昭和十八年八月号) 中央普鳩会本部 |
午後一時三十分、大日本軍用鳩協会の宇都木五郎理事がラジオ番組(京都放送局)に出演し、軍用鳩の重要性などについて約二十五分間にわたり講演する。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年九月号) 大日本軍用鳩協会 『愛鳩の友』(昭和三十六年三月号) 愛鳩の友社 |
新潟市内のイタリヤ軒において、「翼の戦士を語る会」が開かれる(大日本軍用鳩協会新潟支部、新潟日報社主催) 会の出席者は、以下のとおり。 山本直文(大日本軍用鳩協会参与、学習院教授)、伊藤正文(主事)、山内豊凱大尉(陸軍通信学校)、篠原誠一郎(県翼壮団長)、軽部要作(県警防課長)、田村清次郎大尉(海軍人事部)、片桐憲一郎(白根高女)、倉品克一郎(軍鳩会新潟支部長、医学博士)、中根時五郎(相談役)、阿部栄吉(顧問、福岡県議)、細川・山田・玉木・西方・川崎・早野(支部役員)、坂口専務(新潟日報社) 会の冒頭、新潟日報社の坂口専務が以下のように語る(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十八年八月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
この坂口の発言を受けて、軍用鳩の歴史、軍用鳩とドバトの見分け方、飼育法、鳩の有効通信距離などが話し合われる。 その中で興味深いのは、元陸軍中将の篠原誠一郎の発言である。 以下に引用しよう(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十八年九月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
当時すでに写真電送技術は存在していたが、これには器械と電線が必要で、ほぼ普及していなかった。要図のやり取りに関しては軍用鳩に優位性があり、この軍用鳩がなければ、自動車、飛行機、徒歩などで要図を運ばなくてはならなかった。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年八月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十八年九月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会の星川久七理事長と加藤泰俊専務理事が陸軍省と海軍省を訪問し、陸軍省に七〇〇〇円、海軍省に四八七七円五十八銭をそれぞれ国防費として献納する。 この献納金は、前年よりはじめた「愛国軍鳩号献納資金募集」に協会員が応じたものである。本年三月末日の時点で総額一万一八七七円五十八銭(銀行利子とも)に達し、そこで資金募集を打ち切り、本日の献納となる。 後日、大日本軍用鳩協会宛てに陸海軍大臣それぞれから感謝状が贈られる。 ☆補足 上記の一文は、『日本鳩時報』(昭和十七年六月号、昭和十八年七月号)に掲載された記事をもとに記す。 一方、小野内泰治『日本鳩界史年表』(29)によると、大日本軍用鳩協会は、陸軍省に七五〇〇円、海軍省に四三七七円五十八銭を献金したとあり、『日本鳩時報』誌に載っている献納金額とやや異なる。 はじめは小野内の誤記かと思ったが、きっちり五百円分が海軍省ではなく陸軍省にいっており、誤記にしては不自然な間違え方なので、別史料が存在する可能性をうかがわせる。 詳細不明。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十七年六月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十八年七月号) 大日本軍用鳩協会 『愛鳩の友』(昭和三十六年四月号) 愛鳩の友社 |
東京地方裁判所第十二号法廷が、大東亜伝書鳩総連盟会員の鈴木 孝の提訴を棄却する。鈴木は、大日本軍用鳩協会からの除名処分(前年十月十三日の理事会決議)を不服とし、その撤回と謝罪を求めていた。 鈴木が大日本軍用鳩協会に要求していた謝罪内容は、以下のとおり(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十八年八月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
一方、大日本軍用鳩協会は、法廷で以下のように述べる(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十八年八月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている。また、分かりやすさを考慮して文中の「被告協会」とある箇所を「大日本軍用鳩協会」に、「原告」とある箇所を「鈴木 孝氏」との言葉にそれぞれ差し替えている。要注意)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年八月号) 大日本軍用鳩協会 『愛鳩の友』(昭和三十六年四月号) 愛鳩の友社 |
大日本軍用鳩協会が読売新聞社別館(東京市麹町区有楽町二)において決算総会を開く(委任状を含めた出席者九十六名) 各議案を審議し、満場一致で本部提出の決算報告を承認する。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年七月号) 大日本軍用鳩協会 |
陸軍通信学校の辻中尉が軍鳩購買官として台湾に出張する。 辻は同地の軍部獣医関係者から以下の話を聞き、賛同する(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十八年十一月号〕より引用)
大東亜戦争で日本軍は南方地域にまで進出する。 当地で使用する軍用鳩について、熱帯育ちの台湾鳩を使用せよ、との提言は一理ある。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年十一月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十八年七月号、八月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年七月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十八年八月号) 大日本軍用鳩協会 |
シンガポール(ジョホール)に南方軍鳩育成所が設置される。 この開設に際し、南方軍鳩育成所は、内地から所要の種鳩などの補給を受ける。 南方軍鳩育成所は、軍用鳩の繁殖、育成、補充などに当たり、終戦までに約二万羽を南方諸部隊に送り出す(終戦時における南方軍鳩育成所の鳩生産数は年六〇〇〇羽) ☆補足一 井崎於菟彦少佐は南方軍鳩育成所の所長を務めていたが、その当時、四十歳前後とおぼしき、李という女医の訪問を受ける。 李はシンガポール生まれの中国人で、日本に留学経験があり、東京の女子医専を卒業している。そして、現在、シンガポールで開業していて、主に貧しいマレー人の患者を診ている。 李は治療具を持って馬にまたがり、田舎の家に往診に行く。早朝から夕方、ときには夜遅くになってから自宅に戻る。それが問題になっていて、帰宅後に薬を調剤するので、早ければその日の夜、遅ければ翌日に患者のもとに薬が届く。李はこれに大変困っていて、「隊長さんの主宰なさる軍用鳩を拝借いたしたいのです」と井崎に言う。鳩が処方箋を携行して日本軍の鳩舎に帰ってきたら、李の自宅から使いの者がやってきて処方箋を受け取るという。そうすれば、李の帰りを待つことなく、薬を調剤できる。「日本軍は慈悲深いと伺っております。何とぞお聞き入れください」と、李は涙を流さんばかりに井崎に頼む。 井崎は、日本軍の軍用鳩を民間に提供するのはいかがなものかと案じ、南方軍司令官・寺内寿一元帥に相談する。すると、二つ返事で許可が下りる。 その後、鳩籠を背負った李が乗馬で往診するのが評判になり、マレー方面の軍政上にもよいと喜ばれたという。 一方、こんな話もある。 シンガポールには日本人墓地があり、文豪の二葉亭四迷をはじめ、異境の空に他界した同胞が葬られている。井崎が日本人墓地の墓参りを済ませて部隊に戻ると、愛鳥会社の社員だという、三名のマレー人が、井崎の帰りを待っていた。用件を聞くと、李女医のように鳩訓練の予備知識を与えてほしい、とのことである。ちなみに、鳩は中国産のものを用意できるという。 しかし、三人はいずれも、人品骨柄が上等ではなかったので、鳩を悪用するのではないかと井崎は疑う。そこで、井崎は、「鳩を愛用するのは結構であるが非常に骨の折れる仕事だ」と言う。すると、三人は不満げな様子で帰っていく。 約三ヶ月後、シンガポールの新聞に鳩に関する記事が載る。シンガポール郊外のゴム林の中で、通りがかりの人が一羽の疲れ切った鳩を捕まえると、その背中にしょっている袋の中に三粒のダイヤモンドが入っていた、というものである。 その後、税関、政庁、憲兵隊から連絡があり、井崎のところに関係者が集って、対応策を話し合う。その結果、今後、シンガポールでは、鳩を許可なく使用するのは禁止、ということになる。 なお、前述した李女医は、日本軍の許可を得ているので、鳩の利用を継続している。 ☆補足二 大東亜戦争末期になると、軍用鳩の使用が頻繁になり、日本から輸送されてくる鳩が不足する。そのため、井崎は、台湾の民間鳩とフィリピンの旧米軍鳩を視察するためにシンガポールを発つ。 そうして、井崎がフィリピンのマニラに行くと、井崎の友人たちが料亭で宴会を開いてくれる。 その際、料亭の主人は、井崎が軍用鳩関係の軍人だと知ると、自分の鳩舎を見てほしいと言う。主人は愛鳩家だったのである。 主人の案内で井崎が三階の鳩舎に上がると、主人は五十羽飼育しているうちの最優秀の鳩をつかんで、井崎に見せる。すると、驚いたことに、右の羽根に「大阪好鳩会」とのスタンプが押されている。 どうして、大阪の愛鳩会の鳩がマニラにいるのか井崎が尋ねると、主人いわく、半年前に迷い込んできて、そのまま仲間入りしてしまったのだという。 ちなみに、成績は抜群で八〇〇キロ以内の競翔ではいつも優勝しているそうである。確かに、羽翼といい、骨格といい、眼先といい、この鳩ならば一〇〇〇キロは飛べそうだと井崎は思う。 さて、井崎は、シンガポールに帰還後、この件を大阪好鳩会に連絡する。三年前におこなわれた、基隆(台湾)~大阪間競翔において失踪した参加鳩に間違いない、とのことだった。 台湾で放鳩された鳩がフィリピンに飛んでいき、現地で活躍しているとは、珍しい話である。 ☆補足三 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14060128100、南方軍通信隊戦史資料 昭21.8(防衛省防衛研究所)」によると、南方軍鳩育成所の開設は一九四三(昭和十八)年六月のことだという。 一方、『愛鳩の友』(昭和四十七年四月号)に掲載されている、井崎於菟彦少佐の写真の説明文が以下のように載っている。
この記述によると、一九四三(昭和十八)年の天長節(四月二十九日)に、すでに南方軍鳩育成所が存在することになる。 憶測にすぎないが、おそらく、この当時は南方軍鳩育成所の開設に向けて準備中で、正式な設置が一九四三(昭和十八)年六月なのであろう。 以上のように考えれば、一応、整合性は取れる。 ☆補足四 陸軍において、軍用鳩の繁殖、育成、補充、教育などの任に当たった主な組織は、以下のとおり。 ◎内地 軍用鳩調査委員会(一九三八〔昭和十三〕年八月廃止)、陸軍通信学校(一九三八〔昭和十三〕年八月業務引継) ◎外地 関東軍軍用鳩育成所、北支那方面軍鳩育成所、支那派遣軍鳩育成所、南方軍鳩育成所 基本的に内地の部隊は、軍用鳩調査委員会またはその業務を引き継いだ陸軍通信学校から鳩の補充を受ける。また、軍用鳩修業員として、軍用鳩調査委員会または陸軍通信学校に人員を送り出す。 基本的に外地の部隊は、所管の鳩育成所から鳩の補充を受ける。また、軍用鳩修業員として、所管の鳩育成所に人員を送り出す。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14060128100、南方軍通信隊戦史資料 昭21.8(防衛省防衛研究所)」 『愛鳩の友』(昭和四十八年五月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十八年六月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十八年八月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十八年九月号) 愛鳩の友社 |
山崎保代大佐率いるアッツ島守備隊は、先月に玉砕しているが、この出来事に関連して造言飛語が流布される。 日本医薬品統制株式会社に勤める男を主犯格とする一味(計七名)が、アッツ島から伝書鳩によってもたらされた○○少尉の手記なる偽手紙を捏造して、ちまたに広めたのである。 現在、主犯格の男は警視庁において取り調べを受けているが、その偽手紙の内容はというと、軍旗を奉持していない山崎部隊が軍旗を奉焼したり、当時は雨が降っていなかったのに小ぬか雨が降っていたり、と噴飯物である。この偽手紙は複写されて名士の家に送りつけられたり、または口頭で銃後の国民に伝えられたりした。 陸軍省報道部、警視庁、憲兵隊は、以下の注意を国民に呼びかける(『信濃毎日新聞』〔昭和十八年六月二十六日付〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『信濃毎日新聞』(昭和十八年六月二十六日付) 信濃毎日新聞株式会社 |
大東亜伝書鳩総連盟は、直属育成所設置のための前提として、まずその構成員となる鳩舎を選定することに決し、本日付で九つの鳩舎を指定する。 「総連盟育成鳩舎規定」は、以下のとおり(中央普鳩会本部『普鳩』〔昭和十八年八月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
指定育成鳩舎は、以下のとおり(中央普鳩会本部『普鳩』〔昭和十八年八月号〕より引用。一部、文字表記を改めている)
参考文献 『普鳩』(昭和十八年八月号) 中央普鳩会本部 |
同日付の『朝日新聞』の記事によると、法政大学の軍鳩部(学生報国隊航空訓練部軍鳩部)は全ての通信機関が途絶したときに備えて訓練を実施しているという。 空襲警報発令後、軍鳩隊員約四十名は航空訓練部長の多田 基教授統率のもとに各中隊(各国民学校に配置)に配属されて、それぞれ通信任務に従事する。集まってくる情報は本部連絡係が報国隊総司令の中野少将に報告する。 軍鳩部員は、いざという場合には、鉄かぶと、訓練服、防毒面、背負い籠(軍用鳩入り)のいでたちで整列し、麹町富士見町の本校から麹町署まで駆けていって配置に就く。防護団長の命令や警報は一分足らずで軍用鳩によって本部にもたらされる。 参考文献 『朝日新聞』(昭和十八年七月十九日付) 朝日新聞東京本社 |
午前七時、大阪報国鳩隊の協力のもと、大阪府食糧国防団が通信鳩連絡演習を実施する(大阪第四師団および大阪府警察部指導、大阪毎日新聞社賛助) 空爆によって市内各所は甚大な被害を受け、淀川以上、大和川以南とは、通信・交通ともに完全に切断された、との想定で演習がおこなわれる。 午前七時二十分、大阪府食糧国防団の本部から、郡部各指定の大隊および中隊に対し、付近情報を速やかに通知せよ、との命令が出る。この命令は大阪報国鳩隊の伝書鳩が運び、各隊からの返信は、大阪府食糧国防団本部の通信鳩舎から持っていった伝書鳩が運ぶ。 第二回の往復通信連絡は、この郡部各隊の報告を受けて、本部が再び命令を出し、また各隊が返信する、という流れでおこなわれる。 なお、伝書鳩のない中隊においては、この演習の前日に、大阪報国鳩隊から伝書鳩を配属されていて、この伝書鳩によって本部宛てに返信する。伝書鳩はいったん、大阪報国鳩隊の該当の鳩舎に戻るが、その鳩舎内には本部の通信鳩舎から持っていった伝書鳩が待機していて、今度はその伝書鳩に通信文をつけ替えて飛ばす。このリレー式の連絡法によって、伝書鳩を持っていない中隊は演習中に一回、本部に通信する。 正午、演習が終了する。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年八月号) 大日本軍用鳩協会 『愛鳩の友』(昭和三十六年四月号) 愛鳩の友社 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十八年八月号、九月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年八月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十八年九月号) 大日本軍用鳩協会 |
軍が大日本軍用鳩協会の全会員を集めて、移動鳩の実施方法に関する講習会を開き、完了者に修了証を発行する。 ☆補足 小野内泰治は、約一ヶ月間にわたり、午後六時~午後八時まで二時間の講習を受ける。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和五十年二月号) 愛鳩の友社 |
大東亜伝書鳩総連盟の献納委員である、伊藤 薫(千粁倶楽部)と黒川光之(神奈川鳩団)が、横須賀防備隊を訪れ、同防備隊軍鳩科主任の石井金蔵大尉に、七十一羽分(成鳩六羽、仔鳩六十五羽)の鳩名簿および献納鳩目録を手交する(鳩は前夜、横須賀防備隊に引き渡し済み) 献納式が終わると、献納委員は石井に案内されて私室に行き、海軍の鳩、通信訓練、海上競翔などの話を聞く。 その後、海軍鳩舎を見学し、軍鳩の舎外飛翔を眺めるが、兵員が鳩舎に宿直していて寝台から鳩を見るようになっていることに献納委員は感銘を受ける。文字どおり、鳩と寝食をともにしている。自分たちも口では言っているが実行はそこまでいかぬ、と献納委員は恥じらう。 ☆補足一 献納委員は恥じらったそうだが、実際問題、民間では仕事の合間に鳩の世話をしている者が多い。仕事と鳩飼育を両立させなければならない中、兵のように鳩舎に張りつき、寝泊まりするのは難しいのではなかろうか。 ☆補足二 鳩と寝食をともにして任務に当たるのが鳩兵である。そのため、鳩の観察は徹底していた。産卵時刻など、もれなく記録する。 大正時代に、日本軍はフランスから三名の鳩術教官(ルネ・クレルカン中尉以下三名)を招いて鳩術を学ぶが、軍用鳩調査委員だった井崎於菟彦少佐によると、鳩のつがいが一日に何回交尾するか確認し、また、その交尾前に、接吻する鳩と接吻しない鳩に振り分ける課題があったという。鳩舎内にパンを持ち込み、塩土箱に腰を下ろし、終日、鳩のつがいを監視する。「そんなことをするよりも、金網籠に入れて、それを観察したらどうか」と進言しても、「不自然の状態ではダメだ」とクレルカンは言って取り合わない。鳩の糞や脱羽にまみれながらこのような実習をするので、鳩通信の修業など真っ平ご免という者もあったという。 井崎が記録したところでは、最高十三回、最低五回の交尾回数だった(または一日平均十五回くらいとも)。軍用鳩の修業も楽ではない、と井崎は専習員と語り合ったそうである。ただし、もともと井崎は鳩が好きだったので、鳩が肩や頭に来て餌をねだるのが何よりうれしかった。また、卵が孵化してかわいらしい雛になって両親からピジョンミルクをもらう光景などに夢中になる。 クレルカンらの意図するところは種々あろうが、鳩を徹底的に観察することの重要性が伝わってくる話である。 *軍用鳩の一日の交尾回数について、井崎は矛盾した記録を残している。『愛鳩の友』(昭和三十三年二月号)に掲載された記事「爐辺鳩談」(作・井崎乙比古)によると、一日に十五回平均ぐらい、とあり、一方、『愛鳩の友』(昭和四十九年七月号)に掲載された記事「鳩界今昔物語 第六話」(作・井崎乙比古)によると、最低五回、最高十三回とある。 どちらの記述が正しいのか不明。 参考文献 『普鳩』(昭和十八年九月号) 中央普鳩会本部 『愛鳩の友』(昭和三十三年二月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十四年十一月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十九年七月号) 愛鳩の友社 |
今月は国防鳩隊の各支部で通信演習がおこなわれているが、本日はそのまとめとなる、国防鳩隊総合演習が実施される。 「一羽必通」を期して、東京、千葉、埼玉、神奈川の各支部隊が参加し、鳩通信網の基礎的な構築を目指す。結果はおおむね良好で初期の目的を達成する。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年十月号) 大日本軍用鳩協会 |
この日、大東亜伝書鳩総連盟大連支部の西 靖男委員長が、支部員赤誠の伝書鳩二十羽を旅順方面特別根拠地隊に献納する。 九月上旬、同根拠地隊司令官・原 顕三郎中将から感謝状が授与される。 ☆補足 大連第二中学校第十七回生同窓会『となかい』に掲載された記事「伝書鳩・馬術・北方派遣軍」(作・金山好甫)によると、時局柄か、大連第二中学校では、伝書鳩を飼育する学友が多かったという。 同記事の執筆者である金山は、つがいの鳩を分けてもらったのを機に、勉強は二の次で鳩に熱中する。今日は満州日日新聞社(東公園町内)鳩舎の王のところへ、明日は聖徳街に住む満鉄社員・野沢の鳩舎へ、といった日々が続く。また、金山は、学友の辻 武治やその次兄らとともに大連学生愛鳩連盟を設立する。 伝書鳩が大事か、勉強が大事か、と問われたら、伝書鳩が大事、と金山は答える有様で、中学四年生のときに受験のために東京に出てくるが、試験日以外は中央普鳩会に大連鳩界の近況報告をしたり、東京で日本鳩界の情報を収集したりする。 結果、受験は見事に不合格だったという。 参考文献 『普鳩』(昭和十八年十月号) 中央普鳩会本部 『となかい』 大連第二中学校第十七回生同窓会 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十八年九月、十月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年九月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十八年十月号) 大日本軍用鳩協会 |
中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十八年九月号)が発行される。 本号に載った「同志消息」は、以下のとおり(一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『普鳩』(昭和十八年九月号) 中央普鳩会本部 |
台湾全島の連絡機関として、各支部の上に大日本軍用鳩協会台湾連合支部を創立することになり、この日の午後五時、台北市永楽町興亜館において、台湾連合支部創立総会が開催される。 台湾軍獣医部長・鈴木中佐、陸軍通信学校教官・山内豊凱大尉、台湾総督府殖産局・岸 徳次技師(今回、台湾連合支部長就任)、台湾日日新報社鳩班・本間 猛ほか三名、基隆市一名、台北市二十五名、新竹市四名、彰化市一名が出席する。 ☆補足 大日本軍用鳩協会『軍用鳩』(昭和十八年十二月号)に掲載された記事「台湾鳩界の進展強化 連合支部結成さる」(作・金森新生)に、以下の記述がある。
参考文献 『軍用鳩』(昭和十八年十二月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十八年十月、十一月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年十月号) 大日本軍用鳩協会 『日本鳩時報』(昭和十八年十一月号) 大日本軍用鳩協会 |
海軍省教育局が『軍鳩参考書』(海軍省教普第一七七六号)を出版する。 本書は、海軍軍鳩の基礎機関である横須賀防備隊において、軍鳩員の参考に資するものとして編纂される。 目次は、以下のとおり(一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている。各章を抜粋し、各節以下は省略)
軍鳩通信の能力概要について、本書に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足一 筆者(私)の収集史料中、海軍の公的な鳩教範は本書以降存在しない。 海軍の公的な鳩教範は、本書が最後のものと思われる。 ☆補足二 第四師団鳩通信班の調査によると、軍用鳩の速力は、一秒間十八メートル(飛行機は五十メートル、急行列車は十七メートル)、一分間一キロ、一日平均九六〇キロで、一日の最大飛翔能力は一二〇〇キロだという。 参考文献 『軍鳩参考書』 海軍省教育局 『鳩鴿の研究』(昭和七年三月号。創刊号) 大阪学生愛鳩会 |
在学徴集延期臨時特例(勅令第七五五号)が裁可される。 これにより、理工系と教員養成系を除き、学生に対する徴兵延期が撤廃される。 東京学生軍用鳩伝書鳩連盟に所属する学生は、いずれも文系であるため(理系は極少数)、慶応、早稲田、法政、学習院の中堅幹部が十二月一日には入営することになる。気の早い者は学校閉止の新聞記事を目にすると、鳩舎を処分し、鳩を他者に譲渡する。これは関西の学連や他都市でも事情は同じである。 満十四歳から四十歳までの男子が応召、または応徴すると、日本鳩界に与える影響は大きい。該当の世代が伝書鳩飼育の中核を占めているからである。このことを危惧した永代静雄は、中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十八年十月号)の巻頭(記事「鳩飼・鳩激減への対策如何」)で、女子の飼育家を増やし、その穴埋めをせよ、などと主張する。また、同号の裏表紙に、大東亜伝書鳩総連盟事務局が「女子鳩隊員募集」の広告を載せている。 内容は、以下のとおり(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足 女子の愛鳩家を増やせ、との永代の提言は今回がはじめてではない。中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十八年二月号)の巻頭(記事「女子の飼鳩を奨励せよ」)においても、女子の飼育家を増やせ、と永代は訴えている。 参考文献 『普鳩』(昭和十八年十月号) 中央普鳩会本部 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03022864800、御署名原本・昭和十八年・勅令第七五五号・在学徴集延期臨時特例(国立公文書館)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03010130900、在学徴集延期臨時特例ヲ定ム(国立公文書館)」 『タイムトラベル中大125 1885→2010』 中央大学史料委員会専門委員会 監修 中央大学入学センター事務部大学史編纂課 編/中央大学 |
中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十八年十月号)が発行される。 本号に載った「同志消息」は、以下のとおり(一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『普鳩』(昭和十八年十月号) 中央普鳩会本部 |
大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十八年十月号)が発行される。 本号に、大日本国防鳩隊の『鳩通信術提要』が載っている。 構成は、以下のとおり(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めている。目次のページが存在しないので見出しを並べて構成する)
参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年十月号) 大日本軍用鳩協会 |
イタリアのカルヴィ・ヴェッキア村への攻撃は激戦が予想されていたが、その予想は外れ、ここを守備していたドイツ軍が早々に撤退する。カルヴィ・ヴェッキア村には、入れ代わりに約一〇〇〇名のイギリス軍が入る。しかし、ここで問題が起こる。カルヴィ・ヴェッキア村のドイツ軍をたたくために爆撃要請が出されていたのだ。このままではイギリス軍は友軍から爆弾を落とされてしまう。 イギリス軍は爆撃の中止を伝えるために、軍用鳩G.I.ジョー(雄。灰胡麻刺〔BCW〕)を放つ。 軍用鳩G.I.ジョーは、二十マイルの距離を二十分で飛んで連合軍の空軍基地に帰り着き、任務を果たす。 爆撃機が離陸準備をしていた、あわやのタイミングだった。 後に軍用鳩G.I.ジョーは、この功績により、イギリスの動物愛護協会(The People's Dispensary for Sick Animals。略称・PDSA)からディッキンメダル(動物の勲章)を授与される。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『愛鳩の友』(昭和三十二年五月号) 愛鳩の友社 『スパイ大事典』 ノーマン・ポルマー トーマス・B・アレン 著 熊木信太郎 訳/論創社 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』〔昭和十八年十一月〕および大日本軍用鳩協会『軍用鳩』〔昭和十八年十二月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足 四日の日誌に応召者の氏名が「高橋勝一」とあるが、大日本軍用鳩協会『昭和十七年四月現在 会員名簿 付定款及諸規則』には「高橋 一」と載っている。 どちらの記述が正しいのか不明。 参考文献 『日本鳩時報』(昭和十八年十一月号) 大日本軍用鳩協会 『軍用鳩』(昭和十八年十二月号) 大日本軍用鳩協会 『昭和十七年四月現在 会員名簿 付定款及諸規則』 大日本軍用鳩協会 |
学業半ばにして銃を手に取り壮途に就く、早大鳩隊(学生軍用鳩連盟会員)の壮行会が開催される。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十六年五月号) 愛鳩の友社 |
大東亜伝書鳩総連盟事務局参事の下平英輔が舞鶴へ、同・黒川光之が東京○○部隊へ、それぞれ入隊が決定したことを受けて、この日、大東亜伝書鳩総連盟事務局において、両参事の壮行会が開催される。 喜多山省三、関口竜雄、永代静雄、大野清一郎、伊藤 薫などが出席する。 ☆補足 下平は、出陣前日に終戦となったため、無事に復員する。しかし、黒川は、この戦争で命を落とす。 参考文献 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 |
官民多数列席のもと、満州国新京市において、大陸軍鳩協会の発会式が開催される。 適地適鳩の原則のもと、大陸の軍鳩関係者が大陸鳩の増産を目指して作り上げた会である。この壮挙に大日本軍用鳩協会会長の鷹司信輔公爵が祝辞を送る。 参考文献 『軍用鳩』(昭和十八年十二月号) 大日本軍用鳩協会 |
大東亜伝書鳩総連盟事務局の主催で、第一回伝書鳩品評会が開催される。 性能検定合格鳩、長距離記録鳩、名系種鳩、優秀若鳩仔鳩が出陳される。 ☆補足一 中央普鳩会本部『普鳩』(昭和十八年十月号)に載った予定に従って上記の内容や開催月を記す。したがって、予定に変更が生じていたら、出来事や開催月が現実と異なっているかもしれない。 ☆補足二 『愛鳩の友』(昭和三十三年十二月号)に掲載された記事「古今東西(1)」(作・関口竜雄)によると、ルネ・クレルカン砲兵中尉の教えた鳩の見方は時代遅れのものだと、関口は最近まで考えていたという。しかし、クレルカンの教えは正しくて、それを受け継いだ人が間違った解釈をしていたことを、関口は昨年の欧州視察の際に知る。関口は、フランス陸軍の鳩や、品評会で優勝した鳩がとても大きいので、「こんな大きな鳩はダメじゃないか」と、フランス軍のルフォール大尉に言う。しかし、鳩を手に取ってみると、とても軽い。鳩が大きく見えたのは骨格が大きかったからであり、そのくせ、骨格の芯は軽くできている。関口は、構造が全く違う、と思う。そして、その仔鳩がいずれも長距離を飛んでいることから、この鳩を非難すべき点は一つもないと感ずる。 *一九五七(昭和三十二)年、関口は、国際愛鳩連盟主催のアムステルダム会議に出席するために欧州に渡る。 参考文献 『普鳩』(昭和十八年十月号) 中央普鳩会本部 『愛鳩の友』(昭和三十三年十二月号) 愛鳩の友社 |
大日本軍用鳩協会の今月の日誌(大日本軍用鳩協会『軍用鳩』〔昭和十八年十二月号〕より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
☆補足 二十五日の日誌の原文には、「陸軍通信黒校ニ鳩購買並競鳩ノ件ニ付連」とあり、中途で文章が途切れている(脱字)。その内容から「連絡あり」のことだと思われるので、文末に「絡あり」の三文字をつけ加えている。また、「黒」とある誤字も「学」に修正している。 参考文献 『軍用鳩』(昭和十八年十二月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会『軍用鳩』(昭和十八年十二月号)が発行される。 本号に、大日本軍用鳩協会の各役員が載っている。 以下に引用しよう(一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『軍用鳩』(昭和十八年十二月号) 大日本軍用鳩協会 |
午前十時、大日本軍用鳩協会が九段坂下軍人会館において、昭和十九年度第七回定時総会を開く(出席者、五十余名)。同協会会長・鷹司信輔公爵のあいさつ、同協会理事長・星川久七少将の昭和十八年度事業報告ならびに昭和十九年度予算編成方針、陸軍通信学校長・中村誠一少将の祝辞、陸軍通信学校鳩部長・八木 勇中佐のあいさつ、などがある。 星川の事業報告中、国防鳩隊について、以下の言及がある(大日本軍用鳩協会『軍用鳩』〔昭和十九年一月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
八木の話の中では、以下の点について会員に要請がある。 ・今後、鳩の供出は自由供出ではなく強制供出にする(との考えがある) ・各年齢の鳩を一緒くたに競翔(四〇〇、六〇〇、八〇〇キロ)に投入して鳩を無駄に失ってはならない。外国では一歳鳩は一〇〇~一五〇キロどまり、二歳鳩は二〇〇~三〇〇キロどまりが普通である。 ・病鳩を出さないための衛生観念。 ・防空壕を掘るなど、空襲下での鳩舎焼失防止策。 参考文献 『軍用鳩』(昭和十九年一月号) 大日本軍用鳩協会 |
十二月十七日と二十五日の両日にわたって、大東亜伝書鳩総連盟が役員会を開く。理事長の長谷栄二郎大佐と、事務局長の永代静雄が退任し、園田保之大佐と喜多山省三中佐が相談役に就任する。新しい理事長には関口竜雄が指名されるが、器ではないと当人が辞退したことから、理事長代行ということで、ひとまず決着する。 ☆補足 その後、大東亜伝書鳩総連盟は、正式な理事長を定められず、一九四五(昭和二十)年八月十五日の終戦を迎える。 参考文献 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 |
日本文化中央連盟『昭和十八年度版 日本文化団体年鑑』が出版される。 大日本軍用鳩協会と中央普鳩会について、同年鑑は、以下のように紹介している(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『昭和十八年度版 日本文化団体年鑑』 日本文化中央連盟 |
この年、南方軍に所属する井崎於菟彦少佐が台湾を訪問し、現地で鳩の購買をおこなう。シンガポールから飛行機に乗って台北に降り立ち、台中、台南、彰化、新竹など各地を巡って希望の鳩を手に入れる。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十二年九月号) 愛鳩の友社 |
この当時、池野金四郎鳩舎には、盛岡高等農林学校から譲り受けて繁殖していた盛岡南部系の鳩が約一〇〇羽いた。 戦火が激しさを増す頃、池野の仕事が忙しくなり、人手不足にも悩まされる。 この状況では鳩の面倒をとても見ていられない。 そこで、池野は盛岡憲兵隊に出向いて、全鳩の献納を申し出る。しかし、憲兵隊はその申し出を断り、代わりに鳩兵二名を池野鳩舎に派遣する。 そうして、鳩兵二名が池野鳩舎の鳩を使って非常通信の訓練をはじめる。しかし、鳩兵といっても、実態は臨時の鳩係で、鳩のことを何も知らない。 鳩兵二名は、鳩の数を減らすと自分たちの勤務成績に響くので、必然、良い鳩から飛ばしていって、帰還率を高めようとする。無謀にも、良い鳩ほど、荒天に投入されるといった状況が続く。 その結果、終戦までに優秀鳩を軒並み亡失する。 参考文献 『南部系』 宮沢和男 中根時五郎/愛鳩の友社 |
陸軍通信学校が『密林内鳩訓練実施報告』を出版する。 目次は、以下のとおり(一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『密林内鳩訓練実施報告』 陸軍通信学校 |
陸軍大臣が関係陸軍部隊に、「軍鳩定数表制定ノ件達」(陸密第五三九号)を通達する。 内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12120500000、陸密綴 昭和18年~19年(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12120500000、陸密綴 昭和18年~19年(防衛省防衛研究所)」 |
吉川晃史が、大日本軍用鳩協会に協会基本財産として一万円を、大日本国防鳩隊に訓練用の小型自動車(一台)を、それぞれ寄付する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十六年五月号) 愛鳩の友社 |
ある日、大日本軍用鳩協会の志紀分会に所属する深谷が、東上線志木駅から愛鳩四十羽を発送する。この四十羽には、東北線宇都宮駅長宛ての放鳩依頼状が添えてある。「この鳩籠は今夜遅く宇都宮駅につき明朝午前七時か八時頃に放鳩して貰へる、そうすればまたあすのひる頃はこの可愛い鳩達の姿が見られるのだ」と深谷は思う。しかし、その予想は外れ、翌日の夕方になっても鳩が帰ってこない。 さらにその翌日は、大雪が降る。このままでは泣いても泣き切れず、深谷は抗議とも質問ともつかない手紙を宇都宮駅長宛てに出す。 すると、放鳩者から、大体、以下のような内容の返事が送られてくる(大日本軍用鳩協会『軍用鳩』〔昭和十九年六・七月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
この手紙を読んだ深谷は、これでは怒るわけにいかず、自分の軽率を悔やんだという。 ☆補足 鳩は基本、夜間は飛翔できないので、鉄道員が誤って夕方に放鳩したのは失敗だった。 さらにその翌日、天候が崩れて大雪になったことが、深谷の愛鳩の失踪を招いたように思われる。 参考文献 『軍用鳩』(昭和十九年六・七月号) 大日本軍用鳩協会 |
『東亜鳩界』という、大東亜伝書鳩総連盟のためのタブロイド版機関誌が創刊する(第一号)。この『東亜鳩界』は、苛烈な戦況による用紙の割当減少で廃刊に追い込まれていた『普鳩』誌に代わる媒体である。 『東亜鳩界』の第二号は、同年七月十五日に発刊する。 参考文献 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 |
陸達第二十七号により、『軍鳩管理規則』が定められる。 本規則は、一九四〇(昭和十五)年五月八日に陸軍通信学校が陸軍省に提出している『軍鳩管理規則(案)』の内容に若干の変更を加えたものである。 その変更点としては、軍用鳩を部隊鳩、育成鳩、予備鳩の三つに分類していることや、除役鳩の売却処分時などにおいて鳩が敵手に渡ったり利用されたりすることがないように戒めていることが挙げられる。
*以上、『軍鳩管理規則』より引用(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めている) 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01005593600、陸支普.陸達綴 昭和19年度(防衛省防衛研究所)」 『官報』(昭和十九年四月六日付。第五一六六号) |
大日本軍用鳩協会『軍用鳩』(昭和十九年四・五月号)が発行される。 本号に、「小さなお使にも遂に晴れのお召!」という題の記事が載っている。 同記事によると、石川県河北郡の津幡郵便局では、矢田与喜局長が昭和十三年より軍用鳩を飼っていて、その軍用鳩が郵便局に電報を届けているという。河北郡内浅川、倶利伽羅、三谷各村の五里、七里と離れた雪の山奥から吹雪を冒して任務を果たし、雪に閉じ込められている人々を喜ばせているそうである。 また、戦局の拡大とともに、この軍用鳩は第一線に送られる。 昨年、鳩飼育の助手をしていた広瀬広吉が応召するが、偶然にも津幡郵便局の軍用鳩二羽が同じ部隊に配属されていて、広瀬は陣中の暇あるごとに鳩舎を訪れ、励まし合っているという。 なお、矢田は毎年、軍用鳩二〇〇羽の孵化を目指しているが、鳩について、以下のように語っている(大日本軍用鳩協会『軍用鳩』〔昭和十九年四・五月号〕より引用)
参考文献 『軍用鳩』(昭和十九年四・五月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会会長の鷹司信輔公爵は、六月四日に開かれる全国理事・支部長連合会議に出席するために六月一日より金沢に出張しているが、この日、金沢県知事を訪問し、懇談する。 その後、鷹司は、石川県防空学校を訪れて、防空監視隊本部女子部員に、以下の話をする(大日本軍用鳩協会『軍用鳩』〔昭和十九年六・七月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『軍用鳩』(昭和十九年六・七月号) 大日本軍用鳩協会 |
午後一時から、石川県津幡町片山津の矢田屋旅館において、大日本軍用鳩協会が全国理事・支部長連合会議を開く。鷹司会長、星川理事長、神谷専務、佐藤、板倉、三ケ島の各常務、山本参与、伊藤主事等の各役職員五十名あまりが出席し、また来賓として、陸軍省の江口少佐、石川県警察部長、金沢憲兵隊、金沢第九師団等を迎える。 星川の開会の辞に続いて、鷹司のあいさつがあり、ここで一度休憩を挟む。 午後四時から会議を再開し、国防鳩隊に対する陸軍省の方針について、星川から説明がある。 次に質疑応答、支部長の状況報告があり、最後に江口から「現時局における国防鳩隊の重要性」について、以下の話がある(大日本軍用鳩協会『軍用鳩』〔昭和十九年六・七月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『軍用鳩』(昭和十九年六・七月号) 大日本軍用鳩協会 |
ノルマンディー上陸作戦(ネプチューン作戦)が決行される。 この史上最大の作戦に総計十五名のロイター通信社の記者が参加する。 彼らは伝書鳩を放って戦況を伝える。 ☆補足一 言うまでもなく、民間の伝書鳩だけでなく、軍の伝書鳩もこの作戦に参加している。 ノルマンディー上陸作戦を描いた映画『史上最大の作戦』に、兵隊が軍用鳩を放つシーンがある。 ☆補足二 アメリカ軍とイギリス軍は、ノルマンディー上陸作戦の下準備として、フランスの中央高地とノルマンディーの上空から数千羽の鳩を降下させる(鳩を袋でくるんだり、数羽を箱に入れたりする)。この鳩によって、現地のレジスタンスと連係を図る。 ☆補足三 戦争末期のアメリカ軍には、ヨーロッパだけで五万五〇〇〇羽の軍用鳩がいて、一五〇名の将校と三〇〇〇名の鳩兵がこれを管理し、使翔したという。 参考文献 『ニュースの商人ロイター』 倉田保雄/朝日新聞社 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 『史上最大の作戦』 20世紀フォックス ホーム エンターテイメント ジャパン *DVD |
午後五時、大日本軍用鳩協会三重支部の結成式が津市市議場で開催される。 金井京都師団獣医部長、葛西中部第四十二部隊長、大日本軍用鳩協会・持明院京都支部長、堀川津市市長をはじめ、会員各地区代表者などが出席する。 金井獣医部長と葛西部隊長の訓示、杉田津地区分隊長の目的邁進の宣誓などがあり、閉式後、市議場前で記念放鳩がおこなわれる。 参考文献 『軍用鳩』(昭和十九年六・七月号) 大日本軍用鳩協会 |
軽金属統制会は、以前から空襲必至の現戦局に対応するために軍用鳩の導入を図っていたが、東京~大阪間の鳩通信線の完成を受けて、本日の午前十時半、宮城前広場において、東京~大阪間連絡鳩便の始翔式をおこなう。 出席者は、大日本軍用鳩協会会長・鷹司信輔公爵、同協会理事長・星川久七少将ほか各役員、軽金属統制会・大屋会長以下各理事、篠原統制会理事令嬢(寿美子)など。 鳩籠を携行する国防鳩隊員が銃後即前線の緊張を見せる中、合図を待って、サクラ号ほか二十九羽の軍用鳩を放鳩する(そのうち先発の四羽は、鷹司、星川らが放鳩する。午後六時頃、大阪到着予定) 始翔式の閉式後、大東亜会館での記念会食に移る。軍需省軽金属局の山ノ内課長と上島日軽常務が鳩便開始の祝辞を述べる。 一方、大阪側でも、東京~大阪間鳩通信開羽式が挙行される。 午前八時、心斎橋筋の新橋ビルにおいて、中部軍・鵜飼少尉、第四師団・那須大尉ほか関係者が集い、軽金属統制会・高山大阪支部長のあいさつ、那須大尉の祝辞などの後、七羽の軍用鳩を放鳩する。また、祝賀放鳩として一〇〇羽の軍用鳩を空に放って、七羽の任務完遂を祈る。 なお、東京~大阪間は、東京、清水、名古屋、大阪の四都市を中継し、軽金属統制会傘下の工場をリレー式に伝達する。 予定では六月二十六日から東京~大阪間の定期便が開始される(毎日放鳩) ☆補足一 東京~大阪間の定期便は、『朝日新聞』(昭和十九年六月二十二日付)の記事では「六月二十六日」から開始予定と載っている。 一方、『産業経済新聞』(昭和十九年六月二十一日付)の記事では「六月二十五日」から開始予定と載っている。 どちらの記述が正しいのか不明。 ☆補足二 軽金属統制会は、軍用鳩事業に理解と賛助を示し、毎年一万円宛ての寄付を大日本軍用鳩協会に申し出る。そして、先頃、本年度下半期分の五〇〇〇円を大日本軍用鳩協会に寄付する。 大日本軍用鳩協会は、謝意を表するために、今回、軽金属統制会を賛助会員に推薦することに決定する。 参考文献 『軍用鳩』(昭和十九年六・七月号) 大日本軍用鳩協会 『産業経済新聞』(昭和十九年六月二十一日付) 産業経済新聞社 『朝日新聞』(昭和十九年六月二十二日付) 朝日新聞東京本社 |
陸軍通信学校・八木 勇中佐の随行で、板倉陽之助が関西に出張する。名古屋、京都、大阪、神戸、和歌山を巡り、仔鳩を購買する。 京都の購買では、八木が遅れて定刻を二時間過ぎても現れなかったので、板倉が独断で購買鳩の検査をおこなう。その検査に板倉が夢中になっていると、「板倉さん」と二、三度、優しい声で呼びかけられる。板倉が顔を上げると、そこには並河靖雄(並河 靖の弟)と、海軍士官の軍服を着た美少年がいる。並河が「久邇宮様がお見えになりました」と言う。板倉は、電撃を受けたように、その美少年――久邇宮邦昭王に最敬礼するが、鳩検査に熱中するあまり、皇族の存在に気づかなかったことに冷や汗ものだったという。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十七年七月号) 愛鳩の友社 |
ある日、アンドル・エ・ロワール県の若い農民――マルセル・リゴーが、落下傘降下してきた箱を側溝で見つける。 この箱は連合軍のもので、箱の中には伝書鳩が入っていた。爆撃目標と破壊活動に必要な情報をこの伝書鳩に付してロンドンに送ってほしい、という仕かけである。 リゴーはドイツ軍の目を盗んで、三つの爆撃目標を通信紙に記して、それを伝書鳩の脚に付す。そうして、伝書鳩を空に放つと、伝書鳩はロンドンに向けて飛んでいく。 一週間後、イギリス軍は、指定された爆撃目標に爆弾を落とす。 後にリゴーは、この功績により、イギリス軍から表彰される。 参考文献 『図説 動物兵士全書』 マルタン・モネスティエ 著 吉田春美 花輪照子 訳/原書房 |
午後一時、日比谷公園松本楼において、大日本軍用鳩協会が昭和十八年度決算総会を開く。鷹司会長、星川理事長、神谷専務、佐藤、板倉、三ケ島の各常務以下全役員が出席し、陸軍省の中原少佐を来賓として迎える。 総会は国民儀礼からはじまり、鷹司のあいさつ、中原の祝辞、星川の事業報告の順番で進み、協会提出の決算報告が異議なく可決される。 総会中、国防鳩隊と飼料配給の問題に関心が集まり、会員らが隔意なき意見を交わす。 午後四時、総会が終了し、全員が晩餐をともにして解散する。 ☆補足 星川は、昭和十八年度事業報告において、以下のように述べる(大日本軍用鳩協会『軍用鳩』〔昭和十九年七月号〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『軍用鳩』(昭和十九年七月号) 大日本軍用鳩協会 |
陸軍獣医団『陸軍獣医団報』(第四二〇号)に、「軍鳩に害をなす猛禽に就て」(作・山階芳麿)という題の記事が載る。 同記事によると、内地における猛禽被害は、北海道一円、本州中部の常盤線平駅および勿来駅付近、東海道線小田原~熱海間などが比較的多いという。また、十月末より三月末にかけて被害が目立つそうである。 本記事の目次は、以下のとおり(一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『陸軍獣医団報』(第四二〇号) 陸軍獣医団 |
「軍犬及軍鳩ニ係ル飼糧定量ニ関スル件」(陸亜普第一〇一六号)が定められ、陸軍一般に通牒される。 『軍鳩管理規則』の第二十六条に規定されている標準日量(鳩に与える一日の餌の量)にかかわらず、今後は「軍犬及軍鳩ニ係ル飼糧定量ニ関スル件」の日量が基準となる。 その日量は、以下のとおり(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、誤字を修正したりしている)
ちなみに、『軍鳩管理規則』の第二十六条には、白エンドウが三十グラム、トウモロコシが十五グラム、麻の実が五グラム、くず米が五グラム、青菜が五グラム、カキ末が三グラム、塩土が二グラムと標準日量が定められている。 つまり、「軍犬及軍鳩ニ係ル飼糧定量ニ関スル件」は、『軍鳩管理規則』に比べて、トウモロコシとくず米の標準日量がそれぞれ五グラム減っている(実質、くず米は配給なし) 戦局押し迫る中、その厳しい食糧事情によって、餌の量を減らさざるを得なかったのだろう。 「軍犬及軍鳩ニ係ル飼糧定量ニ関スル件」の中に、
と、要請されているのを見れば、日本の苦しい現状がうかがえる。 参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01007600600、昭和19年 「陸普綴 盟第7205部隊」(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01005593600、陸支普.陸達綴 昭和19年度(防衛省防衛研究所)」 |
新聞記者、小説家、愛鳩家として知られる永代静雄が腸チフスにより死去する。享年五十八歳。 大日本軍用鳩協会『軍用鳩』(昭和十九年六・七月号)に、以下の訃報が載る(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
永代静雄は、大日本軍用鳩協会内の反対勢力を集めて大東亜伝書鳩総連盟を作り上げた中心人物である。『軍用鳩』誌を発行している大日本軍用鳩協会とは犬猿の仲といってよい。しかし、そうはいっても、永代は世に知られた、ひとかどの人物なので、さすがに大日本軍用鳩協会も『軍用鳩』誌上に訃報を掲載する。ただし、その訃報に、大東亜伝書鳩総連盟幹部の肩書きや、永代が出版していた『普鳩』誌(*注)について、意図的に触れていない。これは大日本軍用鳩協会が大東亜伝書鳩総連盟に向けた、無言の批判といってよい。両団体の対立の根深さがうかがえる。 *『普鳩』を発行していた大東亜伝書鳩総連盟と、『日本鳩時報』(後に『軍用鳩』に改題)を発行していた大日本軍用鳩協会は、鈴木 孝の除名問題(「◆一九四三(昭和十八)年六月二十四日」の項参照)などで対立し、互いに誌上で批判し合う。 ☆補足一 上記に引用した大日本軍用鳩協会『軍用鳩』(昭和十九年六・七月号)に載った訃報では、永代は自宅で永眠したとある。しかし、永代の最も古い友人で編集者の中山泰昌(中山三郎)の記した一文(駒沢短期大学国文科研究室『駒沢短大国文』〔第十号〕掲載)によると、永代は陸軍病院で亡くなり、遺骨になってから自宅に戻ったとある。この陸軍病院というのは、吉川町教育委員会『吉川町誌』に、東京陸軍軍医学校の病床で逝去した、とあるので、同校のことを指していると考えられる。 果たして、永代は、自宅で亡くなったのか、それとも陸軍軍医学校の病床で亡くなったのか。 詳細不明。 ☆補足二 葬儀には新聞関係者約二十名が取材にやってきて、中山泰昌(中山三郎)が葬儀委員長を務める。鳩界からは交通不便なために関口竜雄と阿部亀吉のみが参列する。 参考文献 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 『軍用鳩』(昭和十九年六・七月号) 大日本軍用鳩協会 『駒沢短大国文』(第十号) 駒沢短期大学国文科研究室 『吉川町誌』 吉川町教育委員会 |
午後二時、福井市役所内市会議事堂において、大日本国防鳩隊福井支隊の結成式がおこなわれる。 前川支隊長以下十三名が出席し、これに明林国民学校の上級生十名が加わる。 来賓は、○○師団参謀・大橋大尉、福井市長、福井駅長、福井警察署長、大阪朝日・大阪毎日各支局長、国防鳩隊金沢・京都各支隊長など。 ☆補足 翌八月二十八日の午前八時、国防鳩隊福井支隊は、福井市防空退避訓練に呼応して、○○師団参謀・大橋大尉指導のもとに防空鳩通信の訓練を実施する。市内枢要の五つの地点に軍用鳩を配置し、刻々その訓練状況を鳩通信によって伝達する。 また、明林国民学校の上級生十名が各通信所に配置され、その通信状況を見学させて軍鳩思想の向上を図る。 正午、訓練が終了する。 参考文献 『軍用鳩』(昭和十九年七月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会『軍用鳩』(昭和十九年七月号)が発行される。 本号に、「全本隊に訓練費交付」という題の記事が載る。国防鳩隊総本部が有事の際における通信線の確保を目指して、本部予備金一万五〇〇〇円から全本隊に訓練費を交付する、という内容である。 同記事によると、軍当局から一部の本隊に訓練開始の命令があり、すでに訓練をはじめているところもあるが、いまだ正式な命令を受けていない本隊は、速やかに軍当局と折衝し、各支部隊の実情を考慮したうえで直ちに訓練を開始するように、国防鳩隊総本部では指令を出しているという。 参考文献 『軍用鳩』(昭和十九年七月号) 大日本軍用鳩協会 |
猛烈な艦砲射撃の中、アンガウル島の西港西方海上に、アメリカ軍輸送船団の一部が姿を現し、舟艇の卸下をはじめる。 沼尾才次郎少尉の指揮する南地区巴岬守備隊(約一個小隊)は、軍用鳩を放ち、「敵の上陸切迫」とアンガウル地区隊長の後藤丑雄少佐に急報する。 アンガウル地区隊はこれを受けて、直ちに反撃中隊を磯浜付近に差し向ける。 参考文献 『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦<2> ―ペリリュー・アンガウル・硫黄島―』 防衛庁防衛研修所戦史室/朝雲新聞社 |
過般来、陸軍省は、支那事変における功績者を調査中だったが、大日本軍用鳩協会(旧称・日本伝書鳩協会)の前会長・徳川義恕男爵、同副会長・佐藤 直少将、同副会長・徳永秀三、同参与・吉川晃史を表彰し、竹内栖鳳の筆になる、大内山の大額面壱面宛てを陸軍大臣より各人に下賜する。 参考文献 『軍用鳩』(昭和十九年九月号) 大日本軍用鳩協会 |
大日本軍用鳩協会『軍用鳩』(昭和十九年八月号)が発行される。 本号に、「関東連合支部結成」という題の記事が載る。 内容は、以下のとおり(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『軍用鳩』(昭和十九年八月号) 大日本軍用鳩協会 |
東部軍司令部付で大日本軍用鳩協会の相談役・田川潤一郎大佐が死去する。 大日本軍用鳩協会『軍用鳩』(昭和十九年九月号)に載った訃報は、以下のとおり(引用文は一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 『軍用鳩』(昭和十九年九月号) 大日本軍用鳩協会 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A12090548500、故陸軍少将井口駿三外一名位階追陞の件(国立公文書館)」 |
時局の要請と学徒としての本分を尽くすため、この日、東京学生軍用鳩連盟が休会する。約十年の歴史を誇る、学生の鳩連盟であったが、ここに合流していた大阪、兵庫の学連も同様に鳩界から姿を消す。 同連盟の休会挨拶状の内容は、以下のとおり(大日本軍用鳩協会『軍用鳩』〔昭和十九年十月号〕より引用。一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
*東京学生軍用鳩連盟とあるが、頭の東京の二文字を除いて、単に学生軍用鳩連盟ともいった(さらに省略すると学連) 参考文献 『軍用鳩』(昭和十九年十月号) 大日本軍用鳩協会 |
戦局不利の情勢下、松本東部第五十部隊は、空襲から鳩舎を守るために、金沢師管区の承認を得て、壕内鳩舎の設置とその研究をはじめる。 当時、同部隊の鳩舎は、三メートルほど土盛をした上にあり、見晴らしがよかったが、各中隊から使役を出してその土盛に壕を掘って鳩舎を埋める。鳩舎は普通、高い位置に設置するのが好ましいので、常識に反している。しかし、旗色が悪い以上、致し方ない。 鳩舎の到着台が地上すれすれになるが、特段、朝夕の舎外運動に支障はなく、土の上から鳩が離着陸する。 鳩班の青柳少尉がこの壕内鳩の訓練などの記録を金沢師管区に提出する。 ☆補足 当時、日本軍は、松本~有明間の往復鳩訓練に着手する。松本を棲息鳩舎、有明を食事鳩舎とし、この二点間を往復させて鳩通信する。松本は棲息鳩舎なので、鳩に餌を与えず、水と塩土だけを与える。一方、有明は食事鳩舎なので、鳩に餌を与える。 松本~有明間を一日二往復する計画で、松本側(松本東部第五十部隊)は、大町方向の鳩(黄色の色脚環)十羽を使って訓練をはじめる。しかし、諸種の都合で中止になり、松本~有明間の往復通信は未完成に終わる。 「計画」 午前十時、松本で鳩を放ち、午前十時二十分、有明に鳩が到着する(ここで鳩に餌を与える) 午前十一時、有明で鳩を放ち、午前十一時二十分、松本に鳩が到着する。 午後二時、松本で鳩を放ち、午後二時二十分、有明に鳩が到着する(ここで鳩に副食を与える) 午後三時、有明で鳩を放ち、午後三時二十分、松本に到着する。 *餌は一日一食。 参考文献 『鳩とともに ある鳩取扱兵の物語』 大関しゅん/銀河書房 |
陸海軍省(陸軍省、海軍省)が『沿岸警備計画設定上ノ基準』を編纂する。 「第四 警備ノ為ノ施設整備」に、以下の記述がある(引用文は一部、カタカナや漢字をひらがなに改めている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14010638800、総動員警備関係書類 昭19年度(防衛省防衛研究所)」 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14010639200、総動員警備関係書類 昭19年度(防衛省防衛研究所)」 |
「国防献品トシテ軍ニ寄付セラルル軍馬、軍犬、軍鳩ノ受理ニ関スル件」(陸普第三九一六号)が陸軍一般ヘ通牒される。 内容は、以下のとおり(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01007597500、昭和19年 「陸普綴 陸軍被服」(防衛省防衛研究所)」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている。別紙様式は引用省略)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01007597500、昭和19年 「陸普綴 陸軍被服」(防衛省防衛研究所)」 |
午前十時、大日本軍用鳩協会が東京日比谷公園内松本楼において、昭和二十年度第八回定時総会を開く(出席者、六十数名)。同協会会長・鷹司信輔公爵のあいさつ、同協会理事長・星川久七少将の昭和十九年度事業報告ならびに昭和二十年度予算編成方針、陸軍省および陸軍通信学校の祝辞、昭和二十年度新役員の決定、などがある。 出席者のほとんどが国民服と巻き脚絆のいでたちで、中には鉄帽をかぶっている者もあり、決戦下の定時総会といってよかった。実際、この定時総会の最中に空襲警報が発令され、全員が防空壕に避難する一幕もあった。戦略爆撃機B-29の偵察だったため、ほどなく警報解除となり、定時総会を続ける。 ちなみに、大日本軍用鳩協会の定時総会は、この第八回が最終で、次回は解散総会となる。 ☆補足 本定時総会で決定した役員は、以下のとおり。 会長 鷹司信輔公爵 副会長 四王天延孝中将、星川久七少将、徳永秀三 理事長(兼務) 星川久七少将 専務理事 神谷 勇 常務理事 佐藤求己、近久 央、飯笹 操 理事 三ケ島彦六、小山 晃、板倉陽之助、只野透四郎、小沢秀寿、井伊藤一郎、相沢富蔵、矢田与喜、吉兼敏蔵、宇都木五郎、飯田重太郎、大田弥三郎 監事 宮崎新七、岡本磯男 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十六年七月号) 愛鳩の友社 |
戦略爆撃機B-29の落とした焼夷弾が朝日新聞社の鳩舎に命中する。しかし、コンクリート製であったため、少数の鳩の被害で済む。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十六年七月号) 愛鳩の友社 |
大日本軍用鳩協会が飼育鳩数一斉調査を実施する。 大日本軍用鳩協会『軍用鳩』(昭和十九年十月号)に載った告知は、以下のとおり(引用文は一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている)
参考文献 『軍用鳩』(昭和十九年十月号) 大日本軍用鳩協会 |
第八十六回帝国議会衆議院の請願委員会議(第三回)において、「軍用鳩飼料増配ノ請願」が審議される。 伊藤東一郎は請願の要旨を、おおよそ、以下のように述べる。 戦局の逼迫に伴って物資の欠乏と空襲による被害がある中、軍用鳩の必要性が高まっている。これらの軍用鳩は大日本軍用鳩協会の会員約四〇〇〇名の熱情によって大部分が飼育、供出されている。鳩の飼料は、白エンドウ、トウモロコシ、麻の実および少量の玄米からなる混合餌になっていて、鳩一羽の飼料は一日四十五グラムが定論である。しかし、大日本軍用鳩協会に提供されている飼料は月額約七十五トンにすぎず、この量を現有の鳩数に割り当てると、鳩一羽につき一日約二十グラム内外となる。また、大豆は大豆粕に変更され、玄米の代用として配給されていた掃寄米も全く廃止になっている。この状態にあっては軍用鳩の骨格に非常な影響を及ぼし、軍用鳩の使命達成のために前途非常に寒心に堪えざる次第である。政府はこの際、軍用鳩の飼料増配に対する特別の配慮を願いたい。また、この機会において、軍用鳩の管理に関する法制の実施も切望したい。諸外国はその飼育法を制定し、一定の資格者のみに飼育に当たらせて、鳩の籍を整え、育成交配などを拘束している。わが国においても近い将来、この管理上の法律を制定する必要があることを痛感している。 この伊藤の請願に、長野高一政府委員(農商参与官)は賛成し、以下のように述べる(「第86回帝国議会 衆議院 請願委員会 第3号 昭和20年2月1日」より引用。一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
続いて、坂東幸太郎委員が、本請願の実行を熱望して採択を希望いたします、と述べる。そして、清 寛委員長が、採択にご異議ありませぬか、と確認すると、異議なし、と呼ぶ者があり、満場一致で採択に決する。 参考文献 「第86回帝国議会 衆議院 請願委員会 第3号 昭和20年2月1日」 https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/minutes/api/emp/v1/detailPDF/img/008611944X00319450201 |
大日本軍用鳩協会が同協会事務所において、昭和十九年度の賞状授与式を開催する。 役員、受賞者、一般会員が集まるが、その姿は国民服か作業服で、鉄帽をかぶり、巻き脚絆を巻いていた。 ☆補足 これが大日本軍用鳩協会最後の賞状授与式になる。そして、その十日後、会場となった協会事務所が空襲によって焼失する。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十六年七月号) 愛鳩の友社 |
降雪を突いて実施された空襲により、東京市神田区大和町二十七番地(省線神田駅市電岩井町下車)にある大日本軍用鳩協会の事務所が焼失する。 書類一切と競翔用記録時計(数十個)など、資産の大半が失われる。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十六年七月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十九年二月号) 愛鳩の友社 |
大日本軍用鳩協会は、全国で春季通信訓練(競翔)を開催するために準備していたが、厳しい戦局により、少数の実用通信実施にとどまる。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十六年七月号) 愛鳩の友社 |
軍用鳩に対する行賞が発表され、五十四羽が栄誉に浴す。内訳は、甲功章十七羽、乙功章二十七羽、丙功章十羽。 甲功章を授章した三羽の鳩――南藤二三一号(南支産)、南藤二三四号(南支産)、通校八六七号(陸軍通信学校産)の功績は、以下のとおり(『朝日新聞』〔昭和二十年三月十日付〕より引用。一部、漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
☆補足一 上記の新聞記事では某島として島名が伏せられているが、別史料との比較から香港島であると思われる。 その別史料――『大東亜戦争小戦例集 通信之部』から該当箇所を引用しよう(一部、文字表記を改めたり、空行を入れたりしている。図は省略)
☆補足二 大日本軍用鳩協会『日本鳩時報』(昭和十八年三月号)に掲載された記事――軍鳩功績物語り「誉の翼」によると、細田部隊の牧田上等兵が南藤二三一号の入った鳩籠を背負って香港に上陸し、通信任務を果たしたという。 余談だが、皆は南藤二三一号のことを南藤富美一、富美一号などと呼んでいて、堅苦しい正式名である南藤二三一号と呼ぶ者はなかったそうである。 参考文献 『朝日新聞』(昭和二十年三月十日付) 朝日新聞東京本社 『読売報知』(昭和二十年三月十日付) 読売新聞社 『大東亜戦争小戦例集 通信之部』 教育総監部 『日本鳩時報』(昭和十八年三月号) 大日本軍用鳩協会 |
先月二十五日の空襲により、東京市神田区大和町二十七番地の大日本軍用鳩協会事務所が焼失しているが、その後、大日本軍用鳩協会は、東京柳橋の料亭「二葉」(吉川晃史宅)に事務所を移し、活動を再会する。しかし、この日の東京大空襲によって、その「二葉」も焼失する。 ☆補足一 「二葉」焼失後、軍人会館(九段下)前のミルクホールを借りて業務を続ける。しかし、空襲の激しさと、目標になりやすい東京の中心地であることから、板橋の飯笹 操理事宅に協会事務所をさらに移転する。 *上記の一文は、小野内泰治『日本鳩界史年表』(32)をもとに記す。同記事には、飯笹 操宅に協会事務所が引っ越したとある。 一方、『愛鳩の友』(昭和四十九年二月号)に掲載された記事「老とるの戯言 笑いが止らない」(作・板倉陽之助)には、中野鷺宮の星川久七理事長宅に協会事務所を移したとある。 どちらの記述が正しいのか不明。 ☆補足二 小野内泰治『日本鳩界史年表』(32)によると、大日本軍用鳩協会の事務所が二度にわたって焼失し、備品を失っていることから、同協会は陸軍通信学校直轄の支部隊の形式になっていたという。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十六年七月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十九年二月号) 愛鳩の友社 |
この日の名古屋空襲により、中部日本新聞社の社屋の一部が焼ける。 伝書鳩の被害は甚大で、そのほとんど全てが鳩舎ごと焼失する。 ☆補足一 中部日本新聞社『中部日本新聞十年史』によると、終戦後、旧軍部と宮内府から鳩の払い下げを受けて鳩班の再興に努めたという。そうして、一年半をすぎた頃には、松本~乗鞍岳などの中部山岳地帯をはじめ、静岡、宇治山田および鳥羽、彦根などに鳩通信が延びていったそうである。 中部日本新聞社が旧軍部から何羽の鳩を入手したのか不明だが、宮内府から入手した鳩の羽数は、小野内泰治『日本鳩界史年表』(33)に記述がある。それによると、禁衛府の解散時に、その飼育鳩四十数羽が中部日本新聞社へ移されたという。 ☆補足二 空襲下での愛鳩家のエピソードが、小野内泰治『日本鳩界史年表』(32)に載っている。 それによると、斉藤栄司郎は、家屋、家具、鳩舎とも焼失するが、愛鳩を籠に入れて安全な地に移し、助けたという。また、鳩を助ける暇もなく、体一つで避難した愛鳩家が、鎮火と同時に鳩舎位置に行くと、鳩が全部焼き鳥になっていて、それを警防団の人たちが食べていた、という出来事もあったそうである。ほかには、鳩舎が焼け落ちる前に鳩を舎外に出して退避させるが、その後、焼け跡に鳩が戻ってきて付近にいるだけで、何ともし難く、そのまま捨て去るしかなかったとの話や、大臣杯をもらった鳩が煙をくぐって不思議と生き残った話などが伝わっているという。 参考文献 『中部日本新聞十年史』 中部日本新聞社 『愛鳩の友』(昭和三十六年八月号) 愛鳩の友社 |
鳩飼養者には鳩籍登録の義務がある。鳩が生まれても、死んでも、その都度、一羽ずつ届け出る必要がある。大日本軍用鳩協会は、その申告羽数に応じて、飼養者に飼料を配給する。 しかし、一九四五(昭和二十)年になると、鳩不足の影響から、陸軍は全ての鳩を買い上げて、陸軍の軍籍に登録する。形式上、民間の愛鳩家が軍の代わりに軍の鳩を育てている、という預託制度に切り替わる。一つがいの鳩から年間十羽の仔鳩を作出し、その生まれた仔鳩は一羽五円の手数料で軍が持っていく。 飼料は無償で交付され、また、軍が鳩を買い上げてくれるので、商売で鳩を飼育している者にとっては悪くない話だった。しかし、鳩の系統や遺伝研究などに興味がある、まっとうな愛鳩家にとっては一大事だった。民間の愛鳩家とはいえ、陸軍通信学校の直轄となり、軍は成績の芳しくない鳩舎から鳩をどんどん引き上げる。大日本軍用鳩協会の影も薄れていったという。 ☆補足一 上記の一文は、『愛鳩の友』(昭和三十一年九月号)に掲載された記事「終戦当時の銘鳩秘話」(作・金沢輝男)をもとに記す。 はっきりした時期は不明だが、執筆者の金沢は、東部軍、浦和連隊区司令部、東部第四部隊の三者から通信指定を受けており、常時五十羽の鳩を用いて軍の通信を担ったという(延べ二〇〇羽を消耗)。特に大変だったのが、東部第四部隊の依頼で実施していた、長野県松代地下大本営~浦和間(約一〇〇キロ)の常時通信で、通信数は二年間で二五〇〇以上にのぼったそうである。 ☆補足二 小野内泰治『日本鳩界史年表』(32)にも、飼育鳩預託制度に関する一文が載っている(以下、そのまとめ) 昭和二十年五月某日、陸軍通信学校と大日本軍用鳩協会は協議のうえ、軍において全部の鳩を強制買い上げし、個人の鳩飼育を禁じる。軍隊の鳩として民間指定者に鳩を飼育させる。 有名、無名鳩舎に限らず、地理的条件および優秀な成果を上げる者に飼育を命じ、軍がその通信経路を指定する。 しかし、その大部分が軌道に乗らないうちに終戦を迎えて命令系統を失う。 預託鳩舎の民間愛鳩家は、終戦前に配給されていた鳩飼料により鳩を細く長く生かすか、または鳩を処分するしか、方法がなくなる。鳩を飼い続けるにしても、良鳩を選んで残す方法が多く見られる。 愛鳩家は、鳩の処置について、相当迷ったという。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十一年九月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十六年七月号) 愛鳩の友社 |
『昭和二十年度陸軍臨時動員計画令細則付録(甲)』(陸機密第一五二号別冊)が作成される。 この中に関東軍総司令部鳩班編制表が載っている。 以下に引用しよう(一部、カタカナや漢字をひらがなに改めたり、文字表記を改めたりしている)
参考文献 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14010678800、昭和20年度 陸軍臨時動員計画令細則 附録(甲)(陸機密第152号別冊) 昭20.4.20(防衛省防衛研究所)」 |
空襲の影響や学生の動員などにより、愛鳩家人口が急激に減少し、また、鳩資源も乏しくなる。 大日本軍用鳩協会は、役員会で対応策を研究する。 ☆補足 女性の社会進出や地位向上の歴史において、戦争の影響は無視できない。どの国においても、女性が労働力不足の穴を埋めており、それに伴って女性は発言力を高めていった。 大東亜戦争末期になると、女性の愛鳩家を増やせ、と日本鳩界で叫ばれる。 しかし、そうした動きが活発化する前に終戦となる。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十六年七月号) 愛鳩の友社 |
空襲によって生産設備を失ったことから、脚環が不足し、鳩魂塔の下に収められている脚環を掘り起こして再利用したという。 ☆補足 上記の一文は、小野内泰治『日本鳩界史年表』(32)をもとに記す。 小野内によると、「死亡鳩の脚環を掘出して再使用したとの話もある」とのことである。つまり、伝聞情報なので、小野内が実際に脚環の再利用をじかに確認しているわけではない。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十六年七月号) 愛鳩の友社 |
全国各地の、大日本軍用鳩協会支部長と国防鳩隊長が、神奈川県相模大野の陸軍通信学校に集められる。 各所在地における実用通信や、地区諸兵団に所属して傘下各部隊の連絡を実施するように命じられる。 また、今後は、軍命令によって、飼育鳩を指定場所に定置できるようになり、各鳩関係役員は尉官待遇の軍属として認められる。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十六年七月号) 愛鳩の友社 |
この夜、東京上空に敵機が侵入し、大規模な空襲がある。 焼夷弾火災による突風や、火の粉の吹雪の中、佐藤曹長以下の鳩班員の懸命な働きにより、近衛師団司令部の鳩舎が守られる(師団長表彰の栄誉に浴す) ☆補足一 当時の近衛師団司令部の鳩班長は黒田長久である(後の著名な鳥類学者) 黒田は東京帝国大学理学部動物学科在学中、鎌田武雄教授に師事し、二十五つがいのアパート式鳩舎を建てて研究に従事する。そして、鳩の心理的繁殖(鳩乳分泌の生理)について卒業論文にまとめる。これはパーテルという研究者の実験を延長してみよ、と命じられたことに端を発する。 大学卒業後は外務省に勤めるが、在職中の一九四一(昭和十六)年に徴兵される。その後、大学時代の経験を買われて、近衛騎兵連隊(東部第四部隊)に新設された鳩通信班の班長になるように命じられる。 そうして、一九四四(昭和十九年)年三月、陸軍通信学校で臨時鳩学生として一ヶ月間、教育を受ける。各部隊から選出された鳩班長候補おおよそ二十名の一人として、移動鳩、往復鳩、地下壕鳩について学ぶ。教官は、ひげを生やした年配の大尉で、軍用鳩の第一人者だった。また、もう一人若い教官がいて、トラック上に鳩舎を設置し、進行中にも鳩が群飛できるように研究する。以上の実習は大磯海岸と伊東海岸でおこなわれたが、教育終了後、教官から各所属部隊に帰ったら部隊鳩通信網計画を作製せよ、との宿題が出される。 黒田は部隊に戻ると、さっそく固定鳩舎を設置する。空襲に備えた壕内鳩舎で、屋根が地表面の高さにあったが、鳩の帰還率は良好だった。ちなみに、陸軍通信学校では、それよりもさらに深い壕鳩舎を建設し、トンネルをくぐって鳩が帰還できるように研究していた。 一九四五(昭和二十年)年一月、黒田は近衛師団司令部の師団鳩班長になる。鳩舎が石垣の上にあって、絶好の位置を占めている。前任の佐藤中尉の指導により、日光、沼津御用邸などの鳩通信に好成績を収めていた。空襲によって鳩舎の一部を焼失するが、鳩をうまく避難させ、焼け跡に鳩舎壕を掘る。ほかに、近衛師団司令部と、習志野の自給農場との間で、往復通信を成功させる。 終戦後の九月十日、禁衛府が発足すると、皇宮衛士監に任官し、禁衛府衛士総隊通信班鳩班長を務める。 ☆補足二 小野内泰治『日本鳩界史年表』(32)によると、この日の空襲で読売新聞社が焼失し、屋上にあった鳩舎のうち種鳩および保管を依頼されていた阿部亀吉などの種鳩群が一羽残らず死んでしまったという。 参考文献 『創立五十周年記念誌 飛翔』 日本鳩レース協会 『愛鳩の友』(昭和三十九年六月号) 愛鳩の友社 『伝書鳩 もう一つのIT』 黒岩比佐子/文芸春秋 『愛鳩の友』(昭和三十六年七月号) 愛鳩の友社 |
本土決戦に備える目的で、横須賀防備隊司令が横須賀鎮守府司令長官宛てに、地下壕内鳩舎鳩による通信計画を提出する(立案者・喜多山省三中佐)。敵味方が入り乱れたときや、陣地が孤立した際に、無線使用による通信漏洩を防ぐために鳩通信を利用する、というものである。 関口辰雄『鳩と共に七十年』に、地下壕内鳩舎での鳩通信法の特徴が載っている。 以下に引用しよう。
☆補足 『愛鳩の友』(昭和五十年二月号)に掲載された記事「――若人にかたる―― 日本鳩界の歴史」(作・小野内泰治。連載第四回)に、以下の記述がある。
地下に埋没された鳩舎から地上に向けて土管が出ていて、そこから軍用鳩が出入りしたという。 戦局が押し迫ってくると、敵の空襲から鳩舎と鳩を守るために、各地でこのような壕内鳩舎が建てられる。 壕内鳩舎の鳩は、地下壕鳩、壕内鳩などと呼称されたようである。 参考文献 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 『愛鳩の友』(昭和五十年二月号) 愛鳩の友社 『鳩とともに ある鳩取扱兵の物語』 大関しゅん/銀河書房 |
第四十六師団通信隊の薬師寺 筆兵長は、島村曹長、江藤兵長とともに、インドネシアのスラバヤから南方軍直属の「鳩部隊」に派遣される。 同部隊には各師団から集められた下士官兵二十名ばかりがいて、軍用鳩の飼育法や訓練法などについて、三ヶ月間の予定で学ぶ。しかし、戦局がいよいよ急を告げてきたため、一ヶ月あまりで教育が打ち切られる。 そうして、薬師寺ら三名が原隊に復帰すると、島村を班長とする鳩通信班が編成される。 兵は薬師寺を含め六名で、四十羽ほどの軍用鳩を受け持つ。 鳩兵の仕事は、飼育係と通信係に大きく分かれる。 飼育係は一日中、鳩舎にいて鳩の世話をする。 通信係は鳩籠に鳩を入れて遠くに行き、そこから鳩に通信文を付して空に放つ。優秀な鳩はすぐに鳩舎に帰るが、劣等な鳩は道草を食うなどして数時間も遅く帰ってくる。 猛禽類の出没によって鳩が命を落とすこともあった。そうすると、隊長はおかんむりで、「なにいー、鳩が失踪しただと……。貴様らは鳩をなんと心得ている。鳩は兵器だぞ。だいたい貴様らは愛鳩心がないから、鳩が帰ってこぬのだ。以後、注意せよ」と叱責する。 そこで薬師寺たちは知恵を働かせて、鳩が失踪すると、現地人の飼育しているドバトを購入し、それを鳩舎の中に入れる。そうすれば、員数をつけられるので、隊長に怒られずに済む。ただし、ドバトに通信能力はないので、鳩舎から出さずに放鳩はしない。隊長は、鳩のことを何も知らないので、うまくだまし通す。 やがて、終戦になり、各種の兵器とともに軍用鳩をイギリス軍に引き渡す。その中には例のドバトもいる。そのドバトがどうなったのか、薬師寺は知らないという。 ちなみに、薬師寺たちが面倒を見た軍用鳩は、とうとう実戦で一度も使われることがなかったそうである。 ☆補足 南方軍直属の「鳩部隊」とは、南方軍鳩育成所のことだと思われる。 ちなみに、井崎於菟彦少佐が南方軍鳩育成所の所長を務めていたときは、防諜対策として、ひらがなで「いざきぶたい」と表記したという。 漢字ではなく、ひらがなで部隊名を記しておけば中国人にはその文字が読めないからであろう。このような、ひらがなを用いた防諜対策は、日本軍全般に見られるので、井崎が所長ではなかった頃の南方軍鳩育成所も、似たような処置を取っていたと考えられる。 参考文献 『丸』(平成十四年十月号) 潮書房 『愛鳩の友』(昭和四十七年三月号) 愛鳩の友社 |
午前八時十五分、アメリカ軍が広島に原子爆弾を投下する。 犠牲者の正確な数は今も不明だが、一説に十四万人といわれる民間人がこのとき命を奪われる。 広島は廃墟と化し、見渡す限りの焼け野原となる。 翌八月七日、毎日新聞西部本社連絡部員の黒崎 彰と、鳩係の岡崎紫朗(五羽携行)は、現地で原爆被害の惨状を見聞きし、この内容を薄手の鳩通信紙に詳しく記録する。ピカーッと光ってドーンと天地も裂けるような轟音がとどろいた、との生存者の話から、文の最後を「ピカ・ドン」と結び、これを五羽の伝書鳩に付して、己斐駅付近から放鳩する。 この日の夕方、西部本社に二羽が帰舎し、鳩係の今田平三郎の手を介して、地方部のデスクに新型爆弾投下の第一報が伝わる。しかし、軍の統制によって、このニュースは掲載されずに終わる。 なお、放鳩した五羽のうち、無事に帰ってこられたのは二羽だけで、残りの三羽は失踪する。 参考文献 『「毎日」の3世紀 新聞が見つめた激流130年』(別巻) 毎日新聞社 |
大東亜戦争が終結する。以降、各地の日本軍が投降し、兵器や物資を敵軍に引き渡す。その中には軍用鳩や鳩舎なども含まれる。 終戦のこの年、井崎於菟彦少佐は、陸軍通信学校の鳩部長の辞令を受けるが、戦局の悪化によって、南方から日本に行く手段がなく、ベトナムのサイゴンで終戦を迎える。 この日、サイゴンには小雨が降っていて、熱帯地方にしては薄ら寒い気温だった。井崎の部隊は通信専門だったため、南方軍第一のラジオを持っており、比較的良好な音声で玉音放送を耳にする。雨に濡れながら、天皇の声を耳にする将兵は半信半疑で、すすり泣く者もあれば、デマ放送だと言って力む者もいた。 その後、イギリス軍に投降するための降伏式がおこなわれる。 本日はA部隊、明日はB部隊と、この式が連日続く。 『愛鳩の友』(昭和四十九年十二月号)に掲載された記事「鳩界今昔物語 第十一話」(作・井崎乙比古)によると、井崎は終戦時に愛鳩一〇〇〇羽をイギリス軍に引き渡したという。 また、『愛鳩の友』(昭和四十七年三月号)に掲載された記事「思い出の南方鳩隊」(作・井崎乙比古)によると、日本軍は南方軍鳩育成所から引き揚げる際に七、八〇〇〇羽の鳩をイギリス軍に渡したという。 小野内泰治『日本鳩界史年表』(32)によると、終戦とともに全国各地および外地に派遣されていた鳩部隊は、命令によって軍用鳩を適当に処分したという。食料にしたり、付近の人に譲渡したり、放鳩して鳩を野放しにしたうえで鳩舎を撤去したりしたそうである。陸軍通信学校に関しては、終戦の大詔が下ると、各種の資材を解体して書類を焼却し、大部分の軍用鳩は輸送籠に入れたまま防火用水に投入して水死させるか、防空壕に埋没したという。大正時代から長い間、研究保管されてきた資料のうち、ほんの数点が、当時、陸軍通信学校にいた人たちによって持ち出されただけだったそうである。 日本鳩レース協会『レース鳩』(平成三十年三月号)に掲載された記事「未曾有の危機に直面した日本鳩界」(作・荒井忠尋)によると、終戦後、陸軍通信学校に対し、「8月25日までに多摩川以北30キロの線外に部隊を移動すべし」との命令が下り、鳩については「全部、鳩部において処分のこと」とされたという。そして、昭和二十年九月十五日夜半、陸軍通信学校の正門に突然、ジープを先頭にした米軍部隊二〇〇名が到着し、空き兵舎を占拠して宿営したそうである。 ☆補足一 終戦近くのある日、井崎於菟彦少佐は、用務のために、サイゴンから十キロほど離れた水田の中の一本道を自動車で移動していた。しかし、そのとき、イギリス軍機に見つかって銃撃される。 井崎は運転手を励まして、自動車の速度を上げたり、停車したりして、敵機をやり過ごそうと努める。 そのうち、運転手が「あっ」と声を上げて、ハンドルを握った状態で倒れる。運転手を見ると、右肩を負傷しており、そこから出血している。井崎も自分の運命を思って諦めるが、所持していた二羽の鳩に通信筒を付して空に放つ。 上空にハゲタカが舞う中、鳩はこれを尻目に懸けて、司令部のある方角に向かって飛び去る。 時間の経過とともに、運転手の顔は青ざめ、呼吸もままならなくなってゆく。井崎は、なにとぞ一命助けていただきたい、と靖国神社の神に祈る。 その十分後、前方から赤十字の旗をつけた日本軍の救援車がやってくる。これにより、死にかけていた運転手は九死に一生を得て、病院に収容される。 井崎は涙を流して、これを喜ぶ。 なお、井崎らの窮地を救った二羽の鳩は、大阪の鳩クラブの献納鳩だったという。 ☆補足二 寺田近雄『日本軍隊用語集』によると、馬、犬、鳩などの軍用動物は補助兵器扱いとされ、兵隊よりも大切に扱われたという。また、敗戦後、生き残った人間たちは復員したが、これらの軍用動物は一頭一羽も戻ってこなかったとのことである。 しかし、小野内泰治『日本鳩界史年表』(32)によると、愛鳩家の兵隊の手によって人間とともに復員し民間鳩界に終戦後優秀系として残った幸運な鳩もいたという。 すなわち、寺田近雄『日本軍隊用語集』に載っている、一頭一羽も戻ってこなかったとの記述は拙速で、何事にも例外があることに注意を払っていない。外地から軍用動物はまず帰還できなかった、などと記すのが無難であろう。 ☆補足三 大東亜戦争が激烈になると、吉川晃史は長野県辰野の向袋に種鳩五〇〇羽を持って疎開し、当地に鳩の育成場を作ろうと意気込む。しかし、鳩舎が二棟完成したところで終戦を迎える。 軍用鳩の飼育者であることが進駐軍に伝わると処罰されるおそれがあるため、吉川はさらに鳩とともに田舎に逃れて身を隠す。そして、三〇〇羽ほどを村人に分けて、飼育してもらう。しかし、村人は、案に相違して、訓練した優良鳩をことごとく焼いて食べてしまう。 吉川の手元には二〇〇羽ほどの鳩が残っていたが、戦後の食糧難では鳩の餌が手に入らず、また兵器に準ずる鳩をいつまでも飼っていられないので、一羽ずつ愛鳩の首を切断して地面に埋める。または、みそ漬けに加工する。しかし、かわいがって育てた鳩がおいしいはずもなく、その多くを人に譲る。 荒木重義は、吉川からこの話を聞いているが、そのとき、吉川は目の縁を真っ赤にして深く頭をさげたという。 愛児の一人ひとりに刃をあてるごとく断腸の思いであったことであろう、などと、荒木は吉川の心中を察している。 ☆補足四 盛岡高等農林学校の校庭には臨時鳩舎が立ち並び、約二〇〇〇羽の陸軍の軍用鳩がここに疎開する。 終戦後、これらは愛玩動物として民間人に譲渡されるか、または飢えた人々の食糧になる。一年もたつと、盛岡高農の歴史ある鳩舎は野生状態となり、猫害などにも遭って、由緒正しい鳩は一羽残らず消え去ったという。 ☆補足五 軍用鳩の総数については、『日本陸海軍事典』(上巻)の軍用鳩の項に、
と、載っている。 支那派遣軍が一万羽を定数にしているからといって、そこから全陸軍の軍用鳩数を割り出すのは、フェルミ推定並の大ざっぱな見積もりである。参考程度にとどめておくのが賢明だろう。 同項にはほかに、
などと、事実と異なることが載っており、その内容は信頼性に欠ける(防人の話は単なる伝説であり、伝説である旨を強調しないと事実だと受け取られるおそれがある。また、日本軍で最初に鳩を軍用に使ったのは、海軍ではなく陸軍である) ちなみに、小野内泰治『日本鳩界史年表』(32)によると、終戦当時の軍部の所有鳩数は数万羽とも言われていたとのことである。くしくも、前述した、『日本陸海軍事典』(上巻)に載っている記述と一致している。しかし、そうはいっても、この数万羽を裏づける根拠はない。 筆者(私)の見解としては、数万羽にとどまらず、十万羽に達していた可能性も完全には否定できないことから、詳細不明としたい。内閣資源局などの調査によってその鳩数がはっきりしている年を除き、不確実な数字は挙げたくない。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十三年四月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十六年七月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十五年三月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十七年三月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十七年九月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和四十九年十二月号) 愛鳩の友社 『レース鳩』(平成三十年三月号) 日本鳩レース協会 『日本軍隊用語集』 寺田近雄/立風書房 『はと通信』(昭和三十四年九月号) 日本鳩通信協会 『日本陸海軍事典』(上巻) 原 剛 安岡昭男 編/新人物往来社 |
沖縄の島尻に追い詰められた日本軍のうち、第六十二師団第六十四旅団独立歩兵第十五大隊に所属する山本義中中尉は、山城壕の中に潜んでいた。 この山本が民間人を含む総員一一四名をまとめていたが、その中に一人の通信兵がいて軍用鳩を飼っていた。 終戦から半月後の八月三十日の午前、全員が武装解除し、アメリカ軍に投降する。その際、軍用鳩を空に逃がすが、いつまでも壕から離れようとしない。とうとう、日が暮れるまで壕の上を旋回し、その後、力尽きる。 ☆補足 沖縄県糸満市摩文仁に、第六十二師団慰霊碑があり、その敷地内に鳩魂碑も設置されている。 この鳩魂碑は、第六十二師団とともに大陸から沖縄に転戦して犠牲になった軍用鳩の霊(約二〇〇〇羽)を弔うために建立され、碑文は山本の手になる。 山本によると、ときには中隊を離れて山の中に兵が散らばるが、いちいち無線を持っては歩けないし、有線だと敵に切断されてしまうので、最後の通信手段は鳩であったという。 山本は、以下のように語っている(学研『歴史群像』〔平成十一年八月号〕より引用)
なお、沖縄ではたくさんの軍用鳩が亡くなっており、また、山本は大陸で軍用鳩にずいぶん助けてもらっている。 そうした感謝の気持ちがこの鳩魂碑に込められている。 参考文献 『レース鳩』(平成二十七年十一月号) 日本鳩レース協会 『レース鳩』(平成二十八年十月号) 日本鳩レース協会 『沖縄戦に生きて 一歩兵小隊長の手記』 山中義中/ぎょうせい 『歴史群像』(平成十一年八月号) 学研 |
大東亜戦争の終結に伴い、その目的達成が困難になったことから、大東亜伝書鳩総連盟が解散する。 最終の役員は、以下のとおり。 相談役 陸軍大佐 園田保之 相談役 海軍中佐 喜多山省三 理事長(代行)、常任理事事務局長 関口竜雄 常任理事(兼会計監査) 五十島鶴松 常任理事(兼会計監査) 鈴木 孝 常任理事 伊藤 薫 常任理事 大野清一郎 理事 新井嘉平治 理事 松尾鉄一 理事 石原 初 ☆補足一 昭和二十年十二月二日付の『読売報知』に、大東亜伝書鳩総連盟の解散広告が載る(理事長代行の関口竜雄が電通を通して読売新聞社に広告掲載を申し込む) ☆補足二 前年八月十日の永代静雄の死去、『普鳩』誌の廃刊、交通事情の悪化などによって、大東亜伝書鳩総連盟の末期の活動は惨たるものだったという。 参考文献 『読売報知』(昭和二十年十二月二日付) 読売新聞社 『鳩と共に七十年』 関口竜雄/文建書房 |
大東亜戦争の終結に伴い、その存在理由を失ったことから、大日本軍用鳩協会の役員が全国から集まり、解散総会を開催する。解散時の会員数は、約二〇〇〇名である。 このとき、協会の財産は二十万円ほどあり、飯笹 操を代表とする精算委員会を作って残務整理に入る。しかし、終戦後の税制改革により、この約二十万円が財産税の課税の点で見送られた後、金融緊急措置令と日本銀行券預入令が公布されたため、残務整理に支障が出る。 十月下旬、精算人会において、この問題を協議する。しかし、封鎖預金となっては手をつけられないので、結論は得られなかった。 ちなみに、約二〇〇〇名いる会員に一人当たり約五円を配分する案になっていたが、これを封鎖小切手でそれぞれに渡すと、取立手数料や雑費が発生して、いくらの手取りにもならない。 結局、一九四七(昭和二十二)年末頃まで、大日本軍用鳩協会の財産は据え置いたらしく、その後、各地の旧支部宛てに配分したようである。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十六年七月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十六年八月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和五十一年一月号) 愛鳩の友社 |
一九四六(昭和二十一年)年五月二十七日、大日本軍用鳩協会と大東亜伝書鳩総連盟に代わる、戦後の新たな団体として、日本鳩連盟が創立総会を開催し、正式に発足する。 これに先立つ四月、この日本鳩連盟が、大日本軍用鳩協会および陸軍通信学校の残存飼料を愛鳩家に配給し、千数百羽の鳩の命を救う。 二〇五袋を全国に配るが、その主要な内訳は、東京三十袋、京都二十八袋、大阪二十七袋、東海二十四袋である。 ☆補足 六月、第二回目となる、二五二袋(大豆かす、麻の実など)を配給する。 八月、第三回目となる、五十九袋を配給する。 十月、第四回目となる、二十袋を配給する。大体、旧軍部の残した飼料の配給は、これで終了したようである。 参考文献 『愛鳩の友』(昭和三十六年八月号) 愛鳩の友社 『愛鳩の友』(昭和三十六年九月号) 愛鳩の友社 |