ナポレオン


 個人的に、虚実入り交じったナポレオン伝説を愛している。故に誤訳、または創作された美談などの問題には意図的に目をつぶっている箇所が多々ある。重々注意してほしい。



■名言

「戦争は不可思議な技術だ。六十回も戦いを経験しているが、何ら得るものはなかった。戦う前から、全てを知っていたからだ」

「人は権利より利益のために戦う」

「死ぬことより、苦しむことの方が勇気がいる」

「君が被る災難は君が疎んじた時間の報いだ」

「指揮官が軍の強さを表す全てといえる。ガリアを征服したのはローマ軍ではなくカエサル、そのローマを脅かしたのはカルタゴ軍ではなくハンニバル、そしてインダス河まで遠征したのはマケドニア軍ではなくアレクサンドロスだからだ」

「その制服のとおりに人はなる」

「形式とは凡人のための概念である。天才が形式の足かせにはめられることはない。天才はいかなる困難な状況をもはね返す力が備わっている」

「私が軍人である理由は生来の特技だからだ」

「不撓不屈の精神が私を次の目標へと導いていく。その目標が達せられない限り、私は無敵であろう。しかし、それが不要になったとき、一匹の虫でさえ私を打倒するには充分である」

「一番大きな危険は、その戦闘の勝利の瞬間にある」

「私の辞書に不可能の文字はない」

ナポレオンの進軍図


■ナポレオン略歴

 一七六九年八月十五日、フランス領コルシカ島のアジャクシオでナポレオン・ボナパルト誕生。
 九歳になったとき、父の庇護のもと、兄ジョゼフとともにフランスに留学する。
 その後、ブリエンヌ幼年学校に入学し、パリの王立士官学校に進学する。士官学校での成績は五十二人中、四十八番。成績は芳しくなかったが、この頃からの読書癖が後の常勝将軍ナポレオン・ボナパルトを形作る。
 卒業後、砲兵少尉として任官、ナポレオンの輝かしい軍歴がここにはじまる。
 一七八九年七月、フランス革命勃発。ナポレオンは革命支持を表明する。
 ルイ十六世とマリー・アントワネットが処刑された一七九三年、サルディニア遠征に参加。十二月十九日、反乱軍の立てこもるトゥーロン要塞を攻略し、名声を一気に高める。
 十二月二十二日、二十四歳で陸軍少将を拝命。
 一七九四年八月、テルミドールの反乱を受け、ナポレオンは拘束されてしまうが、すぐに釈放される。
 一七九五年、ヴァンデミエールの反乱が王党派によって引き起こされる。ナポレオンは、大砲を町中(まちなか)で撃つという荒技でもって乱を鎮める。その功績により、ヴァンデミエール将軍のあだ名とともに、国内軍最高司令官の地位を手に入れる。
 一七九六年三月九日、ジョゼフィーヌと結婚する。
 三月二十七日、イタリア方面軍最高司令官に任命される。
 モンテノッテ、ロディ、カスティリョネ、アルコレ、リヴォリと続くオーストリア軍相手のイタリア戦役は、輝かしい勝利をフランスにもたらす。ナポレオンは一七九七年のキリスト聖誕祭目前に、パリに堂々と凱旋する。

アルコレ橋で兵士たちの先頭に立つナポレオン。奉持する軍旗で兵士たちを鼓舞する姿が勇壮である。
ロゼッタ石。一八二二年、フランスのシャンポリオンがエジプト絵文字の解読に成功する。エジプト考古学のはじまりである。

 一七九八年、総裁政府からエジプト遠征軍総司令官に任命される。ナポレオンの影響力を恐れる政府の陰謀がささやかれるも、ナポレオンは東方への夢を胸に、旗艦オリエント号でトゥーロン港を出発する。遠征軍は全部で三百隻あまり。艦船には兵のほか、多数の知識人を乗せていた。ロゼッタ石発見という考古学上の大成果は、その異様とも思える知識人を同行させたことによってなされる。
 困難を伴ったものの、フランス軍は地上戦では善戦する。しかし、アブキールでフランス艦隊がイギリス艦隊に敗北を喫するとエジプト遠征は頓挫してしまう。ナポレオンはエジプト脱出を決意する。
 十一月九日、パリに戻ったナポレオンは、いよいよ己が野心をむき出しにブリュメール革命を断行する。弟リュシアンの「フランスの自由を犯すならば、私は兄の胸を刺すことを誓う」という議会での演説が大きく功を奏し、ナポレオンは第一執政として権力を手中にする。
 一八〇〇年、カルタゴのハンニバルをなぞるアルプス越えをナポレオンは敢行、イタリア侵攻を開始する。勇将ドゼーを失うという痛手を被るも、マレンゴでオーストリア軍を撃破する。
 十二月二十四日、ナポレオン一行がサン・ニケーズ街を通ったとき、荷車に積まれていたたるが爆発する。死亡二十二人、負傷五十六人、馬四十二頭が犠牲になるも、運よくナポレオンは命を取り留める。ナポレオンはこの暗殺未遂事件を逆手に取り、謀略によって敵対勢力を一網打尽に粛正する。
 一八〇二年、ナポレオンはレジオン・ドヌール勲章を制定する。八月四日には人民投票の結果、三百五十万八千票対八千票で終身執政に選出される。フランス国内における専制覇道の野望が達成される。
 一八〇四年三月、ナポレオン法典として名高い民法典が発布される。
 五月十八日、ついにナポレオン・ボナパルトは、議会上院でのおごそかな宣言の後、フランス皇帝となる。戴冠式はノートルダム寺院でおこなわれる。栄光の時代にフランスは突入する。
 一八〇五年、イギリスとロシアは同盟を締結。第三次対仏同盟がなる。これによって戦端が開かれる。
 フランス軍はオーストリア軍相手にウルムで勝利するが、トラファルガー海戦ではイギリスのネルソン提督によって敗北する。エジプト遠征におけるアブキールの再来である。
 十二月二日、三帝会戦と呼ばれるアウステルリッツの戦いが勃発。ナポレオンの思うとおりに戦闘は推移し、ロシア、オーストリア連合軍を完膚なきまでに叩き潰す。
 イギリス首相ピットは「アウステルリッツの銃弾は、イギリスの私の胸をも貫いた」と述べる。
 一八〇六年、兄ジョゼフはナポリ王、弟ルイはオランダ王となる。
 七月十二日、ライン同盟が結ばれ、西部ドイツ諸王国はフランスの支配下となる。
 十月、イギリス、ロシア、プロイセンが第四次対仏同盟締結。プロイセンはフランスに宣戦布告する。
 イエナおよびアウエルシュタットの戦いにおいて、ナポレオンはプロイセン軍を打ち破る。十月二十五日にはナポレオン麾下ダヴー元帥がベルリンに入城を果たす。
 なお、それに先立つ十月二十四日、ナポレオンはポツダムのフリードリヒ大王の墓を訪れる。幼少の頃からフリードリヒ大王を尊敬していたからである。ナポレオンは戦利品として、大王の剣を廃兵院に送る。
 十一月二十一日、ベルリン勅令。ナポレオンは大陸封鎖令でもって、敵対するイギリスを大陸経済から切り離し、自国の商品を欧州で流通させようとする。しかし、イギリスが受けた打撃よりも、当のフランスがそれ以上の被害が出るという皮肉な結果になってしまう。特にイギリス船が輸送する香辛料が欧州全域で手に入らなくなるのは問題だった。
 十二月十五日、ナポレオン率いるフランス軍は、ロシア軍と戦うため、ワルシャワに進駐する。
 一八〇七年、アイラウ、フリートラントの戦闘でナポレオンはロシア軍を破る。ティルジットの和約が結ばれ、ロシア皇帝との欺瞞に満ちた会見がおこなわれる。
 その後、プロイセンは自国の半分をフランスに占領され、多額の賠償金と軍備制限を受ける。
 八月、ナポレオンはウェストファリア王に弟ジェロームを任命し、七月にはワルシャワ大公国を建てる。
 十一月および十二月に、第一ミラノ勅令と第二ミラノ勅令がそれぞれ発令される。大陸封鎖令のさらなる強化である。

皇帝ナポレオンが君臨するフランス帝国最盛期の領土図

 一八〇八年、大陸封鎖令に従わないポルトガルを征伐するため、フランス軍はイベリア半島に侵攻する。対するイギリス軍は軍勢を派遣し、マドリードの民衆も遊撃作戦をおこなって抵抗する。
 六月十五日、兄ジョゼフはスペイン王、勇猛果敢で知られるミュラー元帥もナポリ王となる。
 民衆の蜂起が想像以上に苛烈だったスペイン戦争ではフランス軍の敗北が続く。
 七月にはデュポン将軍がアンダルシアのバイレンで蜂起軍に敗れ、ポルトガルではイギリスのウェリントン将軍にジュノー軍が手痛い敗北を喫する。
 九月二十七日、エルフルトでロシアのアレクサンドル皇帝とナポレオンが会談する。ティルジットの和約で同盟関係にあった両国の絆をより深めるためである。しかし、話し合いは成果なく終わり、ドイツの文豪ゲーテとナポレオンが対面するという歴史的な出来事があっただけだった。
 十一月四日、暗雲垂れ込めるスペインにナポレオン自ら軍を率いて進軍する。マドリードに到着したのは九日のことだった。マドリードの民衆蜂起のせいでスペインを逃げ出していたジョゼフをナポレオンは呼び戻し、再び王位に据える。
 一八〇九年四月、第五次対仏同盟締結。フランス軍とオーストリア軍は戦闘状態に入る。アスペルン、エッスリンクでランヌ元帥と大勢の兵士を失うが、ヴァグラムで大勝するとシェンブルン和平条約がオーストリアとの間で結ばれる。
 この戦いと同時期、チロルで反仏蜂起が勃発。スペイン戦争の影響で民族独立の機運が高まったせいである。また、チロル出身のザクセンの学生がナポレオン暗殺未遂事件をおこしている。
 七月六日、ナポレオンは教皇ピウス七世を幽閉する。ローマと教皇領の港をフランスが占領したことに激高した教皇がナポレオンを破門したことに対する報復措置であった。
 十二月十五日、不妊症のジョゼフィーヌとナポレオンは離婚する。今までの功績を鑑みて、ナポレオンはジョゼフィーヌにマルメゾンの城と三百万フランの金を与える。
 一八一〇年四月、ナポレオンはオーストリアのハプスブルク家の令嬢マリー・ルイーズと再婚する。欧州一の名門と血縁を結んだナポレオンは有頂天になる。
 一八一一年三月二十日、マリー・ルイーズはナポレオン二世を出産する。ナポレオンは子供が生まれる前からローマ王の称号を彼に用意していた。

ナポレオンとマリー・ルイーズの政略結婚

 一八一二年五月九日、大陸封鎖令からの離脱のみならず、イギリスおよびスウェーデンと同盟を結んでプロイセンからの撤兵を要求するロシアに業を煮やしたナポレオンは、東征を決意する。フランス軍の総兵力は約六十万。今までの戦役とは比べものにならないほどの大軍勢が編成される。
 八月十七日、ロシアとワルシャワ大公国の国境であるニューメン河を渡河し、ナポレオンはスモレンスクを占領する。ロシア軍が一方的に退却を重ねるので、一挙にここまで攻め上がったのである。
 九月五日、疫病に悩まされながらも、泥の海のようなロシアの原野を行軍し、フランス軍はボロディノに到達する。
 九月七日、ついにフランス軍とロシア軍が激突する。
 ボロディノの戦いは両者の痛み分けに終わったが、実質はロシア軍の勝利といってよかった。ロシア軍は戦略的撤退と焦土作戦の手を緩めなかったからだ。
 フランス軍の占領した地域に心地よい寝床や暖かい食事はなかった。あるのは徹底的に燃やし尽くされた町並みと、異臭を放つ死骸だけだった。
 九月十六日、多数の落伍者と戦傷者によって、わずか九万になってしまったフランス軍がモスクワを占領する。しかし、そこも廃墟があるだけで兵士たちを心休ませるものは何もなかった。
 九月二十日、ナポレオンはロシア皇帝アレクサンドルに講和のための親書を送るが、無視されてしまう。ロシアはフランスの弱腰を見抜いていた。
 十月十八日、モスクワの南にあるウィンコヴォでミュラーの部隊がロシア軍に敗北し、フランス軍は撤退せざるを得なくなる。
 十一月、厳しい冬将軍が到来する。冬季装備を有していないフランス軍は壊滅状態となる。フランス軍の決死の逃避行がはじまる。
 統制のない軍隊に栄光はなかった。脱走が相次ぎ、略奪が横行する。厳しい寒さと飢えによって、ロシアの平原で次々と兵士たちが死んでいった。
 十二月十八日、失意のナポレオンがパリに帰還する。国情不安に対応するためである。
 「ナポレオン戦死する」という流言が流される中、反ナポレオン勢力による反乱は危うく成功するところだった。ナポレオンの敗戦は、フランス国民を揺さぶるに充分だった。
 一八一三年、プロイセンはロシアと同盟を締結。続いてプロイセンはフランスに宣戦布告する。ナポレオンは再編成したフランス軍で、ロシアとプロイセンの連合軍をリュッツェンで撃破する。
 六月二十七日、第六次対仏同盟締結。凋落の一途をたどるナポレオンとフランス帝国に最大の危機が訪れる。
 十月十六日、ライプツィヒの戦いでフランス軍は大敗を喫する。フランスはほとんどの衛星国を失い、戦場は今や本国に移ろうとしていた。

ライプチヒ敗戦後の失意のナポレオン

 一八一四年一月、連合軍はフランスに侵攻を開始する。三月三十一日、パリにロシア皇帝アレクサンドル率いる連合軍が入城を果たす。
 四月六日、ナポレオンはフォンテーヌブローで退位する。十三日に服毒自殺を試みるも未遂に終わる。
 四月二十日、ナポレオンは最後の閲兵をフォンテーヌブローでおこなう。感動的な別れの演説に近衛兵らは泣き崩れ、皇帝万歳の歓呼がやまなかった。
 五月三日、流刑地のエルバ島にナポレオンが到着する。六百フランの年金と皇帝の名も残されていたが、実権は何も与えられなかった。
 五月二十九日、ジョゼフィーヌがマルメゾンで死去する。享年五十一歳。ナポレオンの没落を体現するかのように彼女はこの世に別れを告げる。
 一八一五年三月十日、各国の利益がむき出しになって遅々として進まないウィーン会議に「ナポレオン、エルバ島を脱出する」との急報が飛び込む。
 連合軍は驚き、瓦解しかかっていた同盟関係を修復して、対ナポレオンの結束を固める。
 三月二十日、ナポレオンはパリに戻る。上陸したジュアンからの道中でナポレオンを慕う兵士らが次々と帰順したため、無血入城となる。王政復古していたルイ十八世は、パリからベルギーに向けて移動し、身の安全を図る。百日天下のはじまりである。
 一八一六年六月十六日、リニーおよびカトル・ブラの戦いが起こる。フランスに迫る連合軍を打ち破らんとナポレオンは心して戦闘に臨む。
 この戦いを経て、両軍が対峙したのはモン・サン・ジャン高地だった。かのワーテルロー会戦である。フランス軍は勇敢に戦ったが、勝利の女神がほほ笑むことはなかった。
 六月二十二日、ナポレオンは退位文書に二度目の署名をする。
 十月十六日、ナポレオンは英国艦ベレロフォン号でセント・ヘレナ島に流される。ナポレオンは終生、この島に押し込められたままだった。
 一八二一年五月五日十七時四十九分、ナポレオン・ボナパルト死去。享年五十一歳。偶然にもジョゼフィーヌと同い年でこの世を去っている。
 最期の言葉は「先頭、軍」であったという。

英国艦ベレロフォン号にて、寂しげに海を眺めるナポレオン パリにあるナポレオンの墓


■人物感想

 ナポレオン・ボナパルト。その名前を聞くだけで世界中の男たちが目を輝かして、彼に思いをはせる。
 私のような「男の子」は特にそうである。もしもこの時代のフランス人に生まれていたら、私は間違いなく皇帝のもとにはせ参じて、グラン・ダルメの一員として欧州制圧の大業に参加していただろう。
 血湧き肉躍る国盗り物語。豊臣秀吉に似た人生をナポレオンは歩んでいる。われわれ日本人が好感を抱くには充分な要素である。ナポレオンを悪魔のように捉える欧州の国々がある中で、わが国でほとんどナポレオンの悪口を聞かないのは、実戦場になっていないことを除き、豊臣秀吉との共通点が少なからず関係していると思う。
 秀吉は貧しい農民からはい上がった天下人だし、ナポレオンも貧乏貴族から成り上がった皇帝である。秀吉は己が才覚によって勝利を重ねて地位を上げていった。ナポレオンも同様である。 
 やはり、家柄、地位、肩書きなどが通用しない乱世の英雄は民衆の夢なのだ。
「形式とは凡人のための概念である。天才が形式の足かせにはめられるということはない。天才はいかなる困難な状況をも跳ね返す力が備わっている」 
 階級社会の序列に不満を感じ、その制度によって不当な地位に陥れられていると感じている人々に、ナポレオンは単純な答えを示してくれる。
 少し舌足らずな言葉を解釈すると、以下のようになりはしないか。
「愚痴をこぼす前に自分の力を信じて努力すれば、道は必ず開かれる。人が真似できないくらい努力した者を天才という」
 ナポレオンというよいお手本がいるのだから、それぞれの力量の範囲でわれわれは努力しなければならない。その道の達人になるのは、決して不可能なことではない。
 人間は動物と違って、連綿と受け継がれる歴史から教訓なり、人生の指針なりを見いだせる生き物である。故に怠惰こそ人間にとって最も忌むべきことなのだ。英雄を知っているのに、自堕落な毎日を送ることなど許されない。偉人にただ憧れるだけではなく、倣って行動を起こすことこそ歴史を学ぶ意義である。 


■ナポレオンと軍旗にまつわる話

 かつてほど軍旗の尊厳はやかましく言われないようになってきている。少し前の戦争であったら、戦果報告にはほふった敵兵、捕虜、鹵獲兵器とともに「軍旗○旒」という誇らしい数字が躍っていた。逆に軍旗が敵軍の手に渡るような失態を犯せば、連隊長以下の責任は重大。全滅覚悟の捨て身の作戦を敢行して、是が非でも取り返さなければならない。力及ばずうまくいかなかったら、切腹してわびるよりほかない。
 軍旗とは国家と民族を表証する何物にも代え難い存在だったのだ。しかし、仮に現代の戦争で軍旗が奪われ、奪還部隊が編成されたとしたら、誰も彼もがこう批判するに違いない。
「たかが旗一本で兵隊の命を危険にさらすのか」
 時代は変わったのである。
 そもそも軍旗が奪取されるということ自体、的を外しているのかもしれない。軍旗を捧げ持つ連隊旗手が敵弾飛び交う戦場を疾駆するのは、もはや時代錯誤に違いないからである。
 われわれはせいぜい、観閲式などで部隊旗がはためく姿を、忘れ去られた残照として眺めるだけなのだろうか。

【威厳の緒】
 軍旗の威光が高められたのはナポレオンの時代からである。残念ながら、先に述べたように、現代の軍隊では軍旗の名誉はとうに失われているが、それ故、昔日の栄光を書き記す意義はあるだろう。
 アルコレやリヴォリなどにおけるイタリア戦役の勝利はナポレオンとその軍隊にとって誠に輝かしいものであった。戦捷に湧くフランス軍の中で特に功績大なる第八十四連隊、第十八連隊、第二十五連隊のそれぞれの軍旗にナポレオンはこう筆書きした。
 「一を以て十に敵す」(第八十四連隊旗)
 「勇猛なるこの軍旗に抗する敵兵なし」(第十八連隊旗)
 「名誉の幕を被覆す」(第二十五連隊旗)
 以降、諸国家の間で軍旗の威厳が認められて、すこぶる丁重に扱われるようになった。大げさに言うならば、軍旗に匹敵する栄光ある物はないと規定されたのである。それまで相応の敬意を払われてはいたものの、今までの軍旗とこれからの軍旗とでは価値に雲泥の差が生じた。
 数あるナポレオンの功績を語る際に軍旗の話があまり取り上げられないのが残念だ。ナポレオン時代からはじまったこの考え方がときを隔て明治維新後のわが国にも導入され、およそ第二次世界大戦当時では最も軍旗に敬意を払った大国として歴史にその名を留めているというのに。
 ありし日の日本軍がいかに軍旗を大切にしていたのか知りたければ、岡本喜八監督の『独立愚連隊西へ』が分かりやすい。映画の主題はそのもの──軍旗である。
 冒頭場面、戦場で敵弾飛び交う中、連隊旗手が必死に軍旗を守ろうとする。その後、旗手とともに行方不明になってしまった軍旗を、はみ出し者の兵隊たちが敵の手に落ちる前に捜索する。軍旗を発見した者には金鵄勲章、二階級特進の恩賞が与えられるという。軍旗の値打ちがありありと描かれている内容である。
 軍旗はためくもと、連隊将兵は粛然として整列。指揮者は軍刀を抜き、兵らは小銃を捧げて礼を尽くす。ラッパ手がラッパの荘厳なる音を響かせ、将兵の目は全員、連隊旗手の捧持する軍旗に傾注される。感慨極まって志気高揚、これが戦場にあっても勇気百倍、軍旗の征くところわが連隊に絶対の勝利あり。昔はどこの国でも軍旗とはそういうものであった。

【ベルニュー大尉】
 一八〇九年四月二十二日夕刻、エックミュールの戦いで勝利を収めたナポレオンを迎えるため、タヴー麾下全将兵は整列、偉大なる皇帝を待っていた。
 ナポレオンが現れると、将校、兵を問わず、部隊の精鋭に次々と声がかけられていった。ナポレオンの歩く道はどこも笑いと感涙があふれ、勝利の喜びに皆が震えていた。
 年老いた親衛隊員のひげをなでたり、耳をひねったりと、ナポレオンは上機嫌だった。ダヴー将軍にはエックミュール公の爵位さえ与えられた。
 しかし、ナポレオンの気分は急に害された。その日、オーストリア軍との戦闘で負傷し、軍旗を奪われてしまったベルニュー中尉がことの次第を報告したからである。ナポレオンはその連隊旗手に怒鳴り散らした。
「お前の軍旗はいずこにある」
 ベルニュー中尉はかしこまって、わけを話した。
 今朝の戦いで傷を負った際に一時精神が錯乱して、軍旗はいったん敵の手に落ちた。しかし、幸いにもデロール伍長が取り返すことに成功したので、軍旗は無事である、と。
「お前の功ではない。デロール『中尉』の功だ」
 すなわち、一介の伍長ではあるものの、その手柄は中尉に値する。ひるがえって、連隊旗手の貴様は伍長にも及ばないのだ、ということである。
 ベルニュー中尉は口を堅く閉じて、脂汗をかきながら、取り返しのつかない失態に打ち震えた。
 恥辱にまみれたベルニュー中尉をよそに、ナポレオンはダヴー将軍に低い声で言った。
「中尉を罵倒するのは心情を思えば忍びない。だが、ベルニューは必ず、明朝には大尉になっているはずだ。もしそうでなかったら、人を見る目がない私を笑うがいい。近いうちにエックミュール公のような大将を得られる気がする」
 翌日、ラティスボナの戦いが起こった。数時間にわたっておこなわれた激戦のさなか、ナポレオンは負傷してしまった。
 ナポレオンは幕僚と軍医に囲まれながら、ある丘で治療を受けた。そのとき、連隊旗手のベルニュー中尉が馬を駆って、ナポレオンのいる場所に現れた。手にはオーストリア軍の軍旗が握られていた。ベルニュー中尉は馬から飛び降りると、軍旗を杖のようにして歩き出した。
 ナポレオンの前に立つと、
「ラティスボナはランヌ軍の勝利、陥落せり」
 と、朗報を伝えた。
 見れば、ベルニュー中尉の全身は血に染んでいた。顔面は真っ青、目は異様にらんらんとしていた。彼は汚名返上のため、オーストリア軍の軍旗を奪ってきたのだ。ナポレオンは涙を流してベルニュー中尉の功績を褒めたたえた。が、しばらくしないうちにベルニュー中尉はそのまま昏倒して死んでしまった。
 ナポレオンは皆に向き直ると、こう叫んだ。
「栄光ある軍旗のため、連隊旗手は命を落とした。忠勇無双、この上もない。彼の遺族には感状と千二百万フランの賞金を送る。
 そして、ベルニュー中尉には勲章と大尉の官を与える」

【あゝ軍旗】(西条八十 作)
 墺太利と仏蘭西が
 今日を最後の決戦場、
 ラチスボーンの街はづれ、
 夕日が赤い丘の上
 ナポレオンは立つてゐた。
 帽を眉深に、両の手を
 かたく背後に組みながら、
 さすが千古の英雄も
 戦の模様如何ぞと
 兵を案ずる顔のいろ。
 その時丘のふもとから
 蹄が立てる砂煙、
 若い士官がたゞ一騎、
 本営めがけ、まつしぐら、
 夕日の中を駆けてきた。
 驚破勝敗の知らせぞと、
 色めき立つた人々の
 環視の中にその人は
 馬より下りて蹌踉と
 陛下の前に歩みくる。
 かれは全身血にまみれ
 重い手傷を負つてゐた、
 けれど、ひるまぬ雄々しさは
 最敬礼をした後に
 苦しい声をはり上げた。
 『陛下よ、報告いたします、
 いま我軍は敵城を
 まつたく陥入れました、
 味方の勝利でございます』
 報せ終ると、その次に、
 かれは右手に持つてゐる
 破れた旗に目をやつた、
 『これは、今日、わたくしが
 一人で奪ひ取りました
 敵の軍旗でございます』
 陛下よ、どうぞこの旗で
 昨日わたしが我軍に
 与えた世にもおそろしき
 恥辱をお雪ぎ下さらば
 死後の名誉と存じます』
 この一言が世の別れ
 若い士官はばつたりと
 仆れて息は絶えはてた、
 為すべきことを為し終へて
 彼は静かに死んだのだ。
 死屍をとりまく人々の
 なかにひとしほ皇帝の
 持つ悲しみは深かつた、
 『あはれ、中尉よ、ベルニューよ、
 汝は昨日戦場で
 手傷を負つて不覚にも
 汝が連隊の生命なる
 軍旗を敵に奪はれた、
 一時のちにその旗は
 ふたたびわが手に戻つたが、
 朕は一時の怒りより
 汝をつよく罵つた、
 卑怯者よと罵つた、
 あの一言がそれほどに、
 汝の胸に沁みたのか』
 『生きればやがて万軍の
 将ともならん士を
 あはれ若くも死なせたり』
 亡骸ちかく歩み寄り
 その手をとつたナポレオン。
 ラチスボーンの丘の上
 大本営の人々は
 粛然として、ただ涙、
 沈む夕日はベルニューの
 その血のやうに赤かつた。


■熱心なナポレオン研究家・石原莞爾

 
  表紙

 天才と称される石原莞爾は、その著書『世界最終戦論』にナポレオンについて書き残している。引用文(第一章第四節)は少々長いが、鋭い指摘をしている。

***

第四節 フランス革命
 フランス革命当時、フランスでも無論戦争の為めには傭ひ兵がよいと思つて居た。所が多数の傭兵を傭ふには非常に金が掛る。然るに残念ながら、当時世界を敵とした貧乏国フランスは、とてもそんな金がありません。何とも仕様がない。国の滅亡に直面して、革命の意気に燃えたフランスは、とうとう民衆の反対があつたのを押し切り、徴兵制度を強行したのであります。その為に暴動まで起きたのでありますが、活気あるフランスは、それを弾圧して兎に角百万と称する大軍――実質はそれだけなかつたと言はれて居りますが――を集めて、四方からフランスに殺到して来る熟練した職業軍人の連合軍に対抗したのであります。その頃の戦術は先に申しました横隊です。横隊が余り窮屈なものですから、横隊より縦隊がよいとの意見も若干出て居たのでありますが、軍事界では横隊論者が依然絶対優勢な位置を占めて居りました。
 ところが横隊戦術は熟練の上に熟練を要するので、急に狩り集めて来た百姓に、そんな高級な戦術が出来つこはないのです。善いも悪いもない。いけないと思ひながら縦隊戦術を採つたのです。散兵戦術を採つたのです。縦隊では射撃は出来ませんから、前に散兵を出して射撃をさせ、その後方に運動の容易な縦隊を運用したのであります。横隊戦術から散兵戦術へ変化したのであります。決してよいと思つてやつたのではありません。已むを得ずやつたのです。ところがそれが時代の性格に最も能く合つて居たのであります。革命の時には大体さういふものだと思はれます。
 古い戦術の横隊戦術が非常な価値あるもの、高級なものと皆常識で信じて居つた時に、新しい時代が来て居つたのです。それに移るのがよいと思つて移つたのでない。どうも是は低級なものだと思ひながら已むを得ずやらざるを得なくなつてやつたのです。それが却つて先申しました地形の束縛に原因する決戦強制の困難を克服しまして、用兵上非常な自由を獲得したのみならず、散兵戦術は自由に憧れたフランス国民の性格によく適合しました。
 これに加へて、傭ひ兵の時代と違つて、ただで兵隊を狩り集めて来るのですから、大将は国王の財政的顧慮等に掣肘されず、思ひ切つた作戦をなし得ることとなつた訳であります。かういふ関係から、十八世紀の持久戦争でなければならなかつた理由は、自然に解消してしまひました。
 ところがさういふやうに変つても敵の大将は無論のこと、新しい軍隊を指揮したフランスの大将も、依然として十八世紀の古い戦略をその儘使つて居つたのであります。土地を攻防の目標とし、広い正面に兵力を分散し、極めて慎重に戦をやつて行く方式を採つて居たのです。この時フランス革命によつて生じた軍制上、戦術上の変化を達観して、その直感力により新しい戦略を発見し、果敢に運用したのが不世出の軍略家ナポレオンであります。即ちナポレオンは当時の用兵術を無視して、要点に兵力を集めて、敵線を突破し、突破が成功せば、逃げる敵を何処でまも追つかけて行つて敵の軍隊を叩きつける。敵の軍隊を撃滅すれば、戦争の目的は達成され、土地を作戦目標とする必要などはなくなります。
 敵の大将はナポレオンが一点に兵を集めて遮二無二突進して来ると、兵法上そんなことはどうも無理ぢやないか、乱暴な話だ、是は兵法を知らぬなどと言つて居る間に、ドンドン自分はやられてしまつた。だからナポレオンの戦の勝利は対等のことをやつて居るのではないのです。在来と全く変つた戦略を巧みに活用したのであります。敵の意表に出て、敵軍の精神に一大電撃を加へ、ナポレオンは遂に戦争の神様になつてしまつたのであります。白い馬に乗つて戦場に出て来る。それだけで敵は精神的にやられてしまつた。猫に睨まれた鼠の如く竦んでしまひます。
 さういふ風にして、それまでは三十年戦争、七年戦争など長い戦が当り前であつたのに、一挙に数週間、数ヶ月で大きな戦争の運命を決定する決戦戦争の時代になつたのであります。でありますから、フランス革命がナポレオンを生み、ナポレオンがフランス革命を完成したといふべきです。
 特に皆さんに注意して戴きたいのは、フランス革命における軍事上の変化の直接原因は兵器の進歩ではなかつたことであります。中世暗黒時代から文芸復興の時に軍事上の革命が起つたのは、鉄砲の発明といふ兵器の関係でありました。けれどもフランス革命で横隊戦術から散兵戦術、持久戦争から決戦戦争に移つた直接の動機は兵器の進歩ぢやありません。フリードリヒ大王の使つた鉄砲はナポレオンの使つたものと大差ないのです。社会制度の変化が軍事上の革命を来した直接の原因であります。この間、帝大の教授方がこのことにつき「何か新兵器があつたでせう」と申しますから「新兵器は無い」といつて頑張りますと、「そんなら兵器の製造能力に革命があつたのでせうか」と申されます。「然しそんな事もありませんでした」と答へざるを得ないのです。兵器の進歩によつてフランス革命を来したことにしなければ学者にはどうも都合が悪いらしいのでありますが、都合が悪くても現実は致し方はないのであります。但し兵器の進歩は既に散兵の時代となりつつあつたのに、社会制度がフランス革命までこれを阻止してゐたと観ることが出来ます。
 プロイセン軍はフリードリヒ大王の偉業に自惚れて居たのでしたが、一八〇六年、イエーナでナポレオンに徹底的にやられてから始めて夢から醒め、科学的性格を活かしてナポレオンの用兵を研究し、ナポレオンの戦略を真似し出したのであります。さあさうなると、殊にモスコー敗戦後は、遺憾ながらナポレオンはドイツの兵隊にさう容易に勝てなくなつてしまひました。世の中では末期のナポレオンは淋病で活動が鈍つたとか、用兵の能力が低下したとか、いい加減なことを言ひますけれども、ナポレオンの軍事的才能は年とともに発達したのであります。然し相手もナポレオンのやることを覚えてしまつたのです。人間はさう違ふ者ではありません。皆さんの中にも秀才と、秀才でない人がありませう。けれども大した違ひぢやありません。ナポレオンの大成功は、大革命の時代に世に率先して新しい時代の用兵術の根本義を把へた結果であります。天才ナポレオンも、もう二十年後に生れたなら、コルシカの砲兵隊長位で死んでしまつただらうと思ふのです。諸君のやうに大きな変化の時に生れた人は非常に幸福であります。この幸福を感謝せねばなりますん。ヒツトラーやナポレオン以上になれる特別な機会に生れたのであります。
 フリードリヒ大王とナポレオンの用兵術を徹底的に研究したクラウゼウイツツといふドイツの軍人が、近代用兵学を組織化したのであります。それから以後ドイツが西洋軍事学の主流になります。さうしてモルトケのオーストリアとの戦争(一八六六)、フランスとの戦争(一八七〇―七一)など素晴しい決戦戦争が行はれました。その後シュリーフェンといふ参謀総長が長年ドイツの参謀本部を牛耳つて居りまして、ハンニバルのカンネ会戦を模範とし、敵の両翼を包囲し、騎兵を其の背後にすすめ敵主力を包囲殲滅すべきことを強調し、決戦戦争の思想に徹底して、欧州戦争に向つたのであります。

(原文ママ)

***

 横隊から縦隊に移行したのはフランス革命直後のお国事情からやむなく「そうなってしまった」のだが、従来の軍事常識を打ち破る斬新な戦法になった。土地に束縛された作戦目標から、敵の軍隊そのものを撃滅する決戦戦争が生まれたのだ。
 末期のナポレオンは淋病で活動が鈍ったとか、用兵の能力が低下したとか言われているが誤りである。むしろナポレオンの用兵技術は年とともにさえていった。しかし、往年のように勝利できなくなってしまったのは、敵もナポレオンと同様の戦術を採用したからである。
 以上、石原中将の言葉を簡易にまとめてみた。さすがに天才の言だけあって勉強になった。


■文献紹介

 ナポレオン関係の書物は膨大である。私の本棚にある数冊に限定して紹介しよう。

 まずは長塚隆三著『ナポレオン』。
 著者は幾冊ものナポレオン本を執筆しているだけあって詳細な伝記に仕上がっている。必読。

 浜田けい子著『世界の伝記31 ナポレオン』。
 上記の長塚氏の本は大人向けのうえ、かなり分厚いので、ナポレオン好きでなければ飽きられてしまうこと必至である。代わりに子供向けの本ながら、本書を紹介する。ほかのナポレオン本と比較した結果、記述の誤りが多々あるように思われるが、内容は単純に面白い。
 ちなみに、一番愛読しているナポレオン本が本書である。今でも時々取り出しては読み返している。特にお気に入りなのがロシア遠征の部分。悲壮感あふれる戦闘の経緯が簡潔に書かれていて、好感が持てる。
 ナポレオンがつまずくきっかけになったロシア遠征は、滅びゆくナポレオン帝国の将来を予感させるに充分である。かのドイツ第三帝国も同じ轍を踏んでいるではないか。
 この本との出会いによって、ロシア攻略の難しさ、すなわち軍事作戦上における自然の弊害を実感させられた。

 学研の歴史群像シリーズ『ナポレオン』(皇帝編)および『ナポレオン』(戦争編)。
 大きい本なので読みやすさは抜群。情報もたくさん詰まっていて、わが家に絶対必要と言わしめる。
 うれしいのが各会戦を分かりやすく解説している、おまけの豆本。文章だけではどうしても軍隊の動きが分かりづらいので、この冊子に載っている戦場図は重宝する。

 ティエリー・レンツ著『ナポレオンの生涯』。
 図版中心の視覚重視の本。巻末近くの白黒ページにナポレオン映画の紹介が載っている。役立つかもしれない。

 オクターヴ・オブリ編『ナポレオン言行録』。
 ナポレオンの名言が詰まった良書。岩波文庫なので安く手に入るところがありがたい。数々のナポレオンの名言に酔いしれるべし。

 井上幸治著『ナポレオン』。
 私が最も嫌っているナポレオン本。著者はナポレオンを非人間的と一方的に断罪して、独善的なつまらない批判を延々と続ける。しかも、ナポレオン時代のフランス経済に関する記述が必要以上に多いところが退屈さを倍増させている。


参考文献
『ランペルール ハンドブック』 シブサワ・コウ 編/光栄
『新制西洋史』 新見吉治/六盟館
『少年倶楽部』(昭和四年九月号) 大日本雄弁会講談社
『世界最終戦論』 石原莞爾/新正堂
ほか



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