小池幸三郎


 川口市飯塚町の彫刻家・富田匠の手になる小池幸三郎の胸像。昭和十一年、日露戦役三十周年を記念して川口市公会堂(現・川口市立中央公民館)に建てられた。現在は川口神社境内に移転している。

 故海軍一等機関兵・小池幸三郎は、明治十三年七月十五日、小池武平の次子として川口町二六八番地に生まれる。幼くして鋳物工場の徒弟になり、働いて得たお金は実家に送って家計を助ける。
 明治三十三年十二月一日、徴兵年齢に達した小池幸三郎は横須賀海兵団に入団する。同三十五年、軍艦高千穂の乗組員になる。同三十七年二月十日、日露戦争が勃発すると、諸方を転戦、剛毅沈着な兵として常に功を立てる。
 同三月二十七日、連合艦隊は第二回旅順港閉塞作戦を敢行する。小池幸三郎は閉塞隊に志願し、広瀬武夫中佐指揮する福井丸に乗り組み、弾雨を冒して敢然と任務を全うする。しかし、帰還の途上、一弾が飛来し、小池幸三郎の背部に命中、広瀬中佐および杉野兵曹長とともに名誉の戦死を遂げる。ときに明治三十七年五月二十三日夜のことである。
 生前、小池幸三郎は、
 「俺は学問がないから命を的に働いて見せる」
 と、語っていた。
 死して護国の鬼になった小池幸三郎は、戦功により、功七級金鵄勲章、年金百円、勲八等白色桐葉章を賜る。葬儀は川口市舟戸町善光寺でおこなわれ、現在、遺品は靖国神社に九点が納められている。


 昭和十一年六月、小池幸三郎像の除幕式記念として配られた軍艦高千穂の鋳物製プレート(帝国在郷軍人会川口分会)。くじらの姿が彫られているのは、日露戦役の劈頭に朝鮮半島沖を航行していた高千穂が衝角でくじらを突いた珍事に由来する。
善光寺にある小池幸三郎の墓


参考文献
『川口大百科事典』 川口大百科事典刊行会
ほか

履歴
平成十八年四月十六日



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