『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』と『太陽の帝国』の酷似


『0080』(第一巻)
『0080』(第二巻)
『太陽の帝国』

 先日、スティーブン・スピルバーグが監督した映画『太陽の帝国』のDVDを購入した。以前に、テレビ放映されているのを目にする機会があったので、はじめて鑑賞するわけではなかったのだが、はて、どんな内容だったのか、ほとんど覚えていなかった。
 お金を出してビデオを買ったので、今度は目を凝らして『太陽の帝国』を鑑賞した。しかし、映画を見ているうちに、劇中に登場する日本兵の描き方に腹が立ってきた。
 例えば、日本海軍の小型艇が海上に漂う棺おけを平然と押しのけていくシーンや、日本軍の露営地に落ちた模型(飛行機)を主人公の少年が追っていった際に流される不気味なバックミュージック等々である。特に後者は、画面に日本兵が映るたびにおどろおどろしい音響演出をおこなうので、映画の観客は誰が悪なのか強制的に理解させられる。しかも、本作はハリウッド映画らしく、在米日系人の反発や批判をかわすための「善い日本人」を登場させて、そうしたいかがわしい演出を中和しようと試みている。そして、『シンドラーのリスト』を撮っているスピルバーグお得意の偽善もあいまって、最終的には反戦という主題でまとめ上げられているので、映画を無頓着に鑑賞していると、危うく感動してしまうから油断ならない。これならまだしも、中国や韓国の映画に出てくる悪辣非道な日本兵たちの方が、撮った民族の幼稚性のみ際立つので、笑って見ていられる。
 私はそんな感じでメディア・リテラシーをしつつ、臨戦態勢で映画を見ていたのだが、クライマックスに至らないうちに、あるアニメ作品に似ていると思った。
 そう、一九八九年にサンライズで制作された『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』である。主題や主人公像など、幾つかの類似点が見受けられた。しかし、インターネットを検索してみても、同人誌を含む書籍を眺め回してみても、『0080』と『太陽の帝国』がそっくりであることを詳細に解説している文章を見たことがない。故に簡単ではあるものの、『0080』と『太陽の帝国』の比較検証をおこないたいと思う。
 まずは一目瞭然ということで、以下に両作品の共通点を挙げる。



 その一、両作品とも「反戦」をうたっている「戦争物」であること。

 物語の最後、バーニィの死に打ちのめされたアルは止めどない涙を流す。しかし、そんな事情を知らない、クラスの少年たちは、もっと派手な戦争がすぐにはじまる、実弾や携帯口糧が手に入るかもしれない、と、見当違いなことを言って、アルを慰める。級友たちは、戦争が終わってしまったことをアルが嘆いていると誤解しているのである。
 進駐してきた日本軍に降伏を申し出るジム。しかし、誰からも相手にされない。湿っぽいシーンではないのだが、滑稽なジムの姿が痛ましい。



 その二、『0080』のアルの本当の名はアルフレッドだが、略して「アル」と皆から呼ばれている(「二文字」である)。『太陽の帝国』のジムも本当の名はジェームズだが、略して「ジム」と皆から呼ばれている(「二文字」である)

 カメラを手に、墜落したザクを追ってきたアル。
 亡くなっている女性を生きていると勘違いしたジムは、その患者に胸骨圧迫を施す。収容所の医師は、ジムの冒涜的な行為にカッとなって、感情をあらわにする。



 その三、主人公がともに「少年」であり、『0080』の主人公・アルは、「敵であるジオン軍のザク」に憧れている。『太陽の帝国』の主人公・ジムも、「敵である日本軍の戦闘機」に憧れている。

 アルが憧れているモビルスーツはジオン軍のザク。イラストを見ると、頭部にブレードアンテナがついているので、隊長機を描いているものと思われる。
 日本軍の戦闘機に近づき、手を触れようとするジム。純粋な少年にとって、兵器は力の芸術品。



 その四、『0080』のアルは、「戦乱が及ばないと思われていた宇宙植民地・サイド六」で「戦争に巻き込まれて町が破壊される状況を体験」する。『太陽の帝国』のジムも、「戦乱が及ばないと思われていた上海の租界」で「戦争に巻き込まれて町が破壊される状況を体験」する。

 被弾するジム・コマンド(RGM-79G)
 コロニー内で発生した連邦軍とジオン軍の戦闘が町の平穏を揺さぶる。
 上海の租界で戦闘に巻き込まれるジム。この出来事によってジムは両親とはぐれてしまう。



 その五、『0080』のアルは、「被弾して墜落したザク」を「喜んで触る」。『太陽の帝国』のジムも、「被弾して墜落したとおぼしき日本軍の飛行機」を「喜んで触る」。

 墜落したザクUFZ型。
 マ・クベが推進した統合整備計画によって生み出された最終量産型のザク。
 ジムは日本軍の飛行機に興味津々。搭乗席に乗り込んで、機銃掃射のまね事をする。



 その六、『0080』のアルは、サイクロプス隊の「トラック」に乗っているバーニィから「見て見ぬ振りをされる」ものの、その車に「強引に乗り込むことに成功」する。『太陽の帝国』のジムも、収容所行きの「トラック」に、先に乗り込んでいたベイシーに「見て見ぬ振りをされる」ものの、その車に「強引に乗り込むことに成功」する。

 走行中のトラックに飛び乗るアル。尽きない好奇心が無謀な行動を起こさせる。
 蘇州への道を知っている、と日本兵に訴え、トラックに乗せてほしいと懇願するジム。面倒に思われたのか、ジムは兵隊に担ぎ上げられてトラックの荷台に放り込まれる。ジムは大喜びで、蘇州へ、蘇州へ、と、金の茶碗を打ち鳴らしながら叫び、拳を天に突き上げる。



 その七、『0080』のアルは、サイクロプス隊員の証しである部隊章をプレゼントされると「宝物」をもらったように喜んで、シュタイナー大尉に「敬礼」する。第二話でも、自分がモビルスーツの搭乗員になったような気分で、窓ガラスに向き合って「敬礼」する。敬礼回数は「二回」である。
 『太陽の帝国』のジムも、もらったものではないが、日本軍の飛行機の模型を「宝物」にしている。敬礼の方も日本兵に向かって「二回」おこなっている(ナガタ軍曹に捕まりそうになったとき、日本軍の空中勤務者に助けられたジムが彼に向かって左手で軽く答礼しているが、形式的に整っていないので除外する)

 本物の兵隊になったような気になって、挙手注目の敬礼をおこなうアル。左胸にはサイクロプス隊の部隊章がつけられている。
 手のひらが受礼者に向けられる、英国式の敬礼。武器を持っていないことを相手に示すための所作、といわれている。



 その八、『0080』のアルは、「ザク搭乗員」の「新兵」バーニィと敵味方を超えた友情を交わす。同じく、『太陽の帝国』のジムも、「空中勤務者」(日本軍)の「新兵」と敵味方を超えた友情を交わす。

 一年戦争後半、ジオン軍の劣勢を受けて、サイド六は連邦軍側にくら替えする。
 同サイドのリボー・コロニーに暮らすアルは、紛れもなく連邦軍勢力下の住民。しかし、アルは、ジオン軍の新兵・バーニィと親交を深める。
 ジムは、日本軍の空中勤務者からもらったマンゴーにかじりつく。しかし、皮が堅くて食べられない。
 日本兵は、そんなジムがおかしくて仕方がない様子。



 その九、『0080』のアルは、学校の級友たちとの会話の中で「ジオン寄り」の立場を表明して周囲から首をかしげられる。『太陽の帝国』のジムも、収容所の医師や父親との会話の中で「日本寄り」の立場を表明して首をかしげられる。

 表面上、中立を宣言しているサイド六だが、一年戦争後半には連邦軍寄りとなり、ガンダムNT-1の実験場などを提供していた。そのような情勢下、ジオン軍の肩を持つアルはクラス内で浮いてしまう。
 日本軍は勇敢だ、と主張するジム。収容所の医師は、われわれは英国人だ、とジムをたしなめる。



 その十、『0080』のアルの母親がミチコという名の「日本人」であること。歴代のガンダム作品に日本人が多数登場する前提を踏まえたとしても、やはり『太陽の帝国』という「日本」を題材にした作品とのつながりを感じさせずにはいられない。また、ミチコの髪の毛は「茶色」で、ジムの母親の髪も「茶色」である。さらにはアルの父親の頭髪が「明るい茶色」で、ジムの父親も「明るい茶色」なのは偶然の一致といえるのだろうか。

 左からミチコ・イズルハ(アルの母)、イームズ・イズルハ(アルの父)、アルフレッド・イズルハ(アル)
 左からジムの母、ジムの父、ジム。



 その十一、『0080』のアルは、バーニィが戦死する現場に「居合わす」。『太陽の帝国』のジムも、日本軍の空中勤務者が米国人に射殺されてしまう現場に「居合わす」。

 バーニィの死に衝撃を受けるアル。
 銃殺された日本兵に胸骨圧迫を施すジム。病院のシーンがこの悲劇の伏線になっている。



 その十二、直接的には描かれていないものの、「性を意識しはじめる少年から見た年上女性」という立ち位置で、『0080』ではクリスチーナ・マッケンジーが登場し、アルは彼女から「口づけされる」。『太陽の帝国』では、「性を意識しはじめる少年から見た年上女性」という立ち位置でビクター夫人が登場し、ジムは彼女に、手ですくった水を飲ませてやる際に「口づけされる」かのように手の平を吸われる。

 急きょ、地球に赴任にすることになったクリスから別れのキスをされるアル。子供の頃、年上の女性に淡い恋心を抱いたことを思い起こさせてくれるシーンだ。
 近所に住んでいるきれいなお姉さん・クリス。そして、かけがえのない友人・バーニィ。いろいろな人との出会いと別れを経て、少年・アルは大人の男になっていく。
 劇中、ジムはビクター夫人の夜の営みをのぞき見し、上掲のシーンでは官能的な接吻を手のひらに受ける。
 少年が大人の男として成長していく過程で、性の問題は避けて通れない。



 その十三、『0080』にキリング中佐という「敵側の鬼軍人」が出てくるが、お約束の因果応報はなく、彼が「命を落とすようなことはない」。『太陽の帝国』にも、ナガタ軍曹という「敵側の鬼軍人」が出てくるが、お約束の因果応報はなく、最後は貨車に乗って脱出、「命を落とすようなことはない」。

 グラナダ基地の司令官・ルーゲンスを射殺し、サイド六への核攻撃を断行しようともくろむキリング中佐。しかし、劇中では、因果の報いを受けることなく生き残る。
 角川書店から発売されている書籍『M.S.ERA0099 機動戦士ガンダム戦場写真集』には、『自決したジオン軍将校』と題したイラストが載っていて、キリング中佐の最期が明らかにされている。
 以下はその絵と解説文。


97自決
ギレンの肖像画の前で死んでいるのはキリング中佐。「『0080』で最も悪い男が死なないんでフラストレーションが溜ってしまって(笑)」というのが出渕さんの意図。連邦のプロパガンダ用に撮られたものだろう。   [作画:川元]


***

 私は、この絵と解説文を、劇中の演出ミスを取り繕うための苦肉の策、と考えるが、さて……。
 画面中央――伊武雅刀演じるナガタ軍曹。



 以上、十三項目にわたって共通点を挙げたが、異論反論は織り込み済みである。私自身、確信の持てないところが幾つかある。しかし、似ているという大枠は揺るがないと思う。さらに外堀から埋めていく形で『0080』と『太陽の帝国』の酷似について詳述しよう。
 『太陽の帝国』は一九八七年にスティーブン・スピルバーグ監督によって撮られた「少年の目から見た反戦映画」である。『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』も一九八九年に高山文彦監督によって創られた「少年の目から見た反戦アニメ」である。
 お気づきだろうか、一九八七年と一九八九年という時代的な符合を。
 両作品の隔たりはわずか二年。『太陽の帝国』の方が先に撮られている。しかも、かのスピルバーグが監督した映画となれば、わが国でも『太陽の帝国』は公開されて、作品の善し悪しとは関係なく話題に上る。多分、『0080』のスタッフの幾人かは鑑賞しているのであろう。
 こうしてみると、『太陽の帝国』の視聴記憶が生々しい状態で、創り手たちが意識する、しないにせよ、『0080』は出来上がったといえる。状況証拠という、とがった言い方をすることには気が引けるが、重要な事実である。
 主張をより確実にするために『0080』を創った高山監督の人物像を述べておきたい。
 高山監督は謎多い変人として知られているようだ。『超時空世紀オーガス02』(アニメビデオ)の特典映像の中でスタッフが語っている。高山監督はパチンコと競馬が大好きで、俗にいう「お風呂屋さん」に月一の割合で通い、帰ってくるとさっぱりした赤い顔をして、押し入れで寝てしまうそうだ。
 仕事が詰まっていてもギャンブラーなので、全てを振り切って競馬場に足を運んでいる疑惑も持ち上がっている。家はみすぼらしく、地位に見合っていないという。外見については声優の林原めぐみ氏いわく、「知恵のついたチンパンジー」のようだ、とのこと。実に分からない人である。
 高山監督の評判はそれくらいにして、次は氏の志向について考えたい。今述べたように、高山監督は謎めいた人なので、その志向をつかむのは難しい。しかし、幸いにも、バンダイから出ている書籍『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争VOL.1』(同VOL.2)に目を通すと、高山監督は映画好きらしいことが分かる。そこら辺から『太陽の帝国』に近づいていけそうな気がする。
 めぼしいところを抜き出すと以下のとおりである。

VOL.1
VOL.2

■VOL.1の百三十ページ、デザインワークス担当の出渕 裕氏へのインタビュー
「そこで監督の高山さんから『子供を主人公にしたガンダムが作りたい。それは今までみたいに子供が戦争の中に巻き込まれていって、自分がモビルスーツに乗るっていうのじゃなく、子供の目を通してやりたい』」

■VOL.1の百三十八ページ、構成担当の結城恭介氏へのインタビュー
「高山監督の子供を描きたいという意向がありまして」

 ↑両者のコメントは、高山監督が『太陽の帝国』を鑑賞したうえで「子供から見た戦争」という視点を『0080』に取り入れたことを暗に示しているように思えてならない。

■VOL.1の百三十二ページ、デザインワークス担当の出渕 裕氏へのインタビュー
「例えば見せ方とか、ドラマの切り口とか、キャラクターの内面を描写していくような演出方法。……そうとう映画的ですよね」

 ↑「そうとう映画的」なのだそうである。高山監督が映画好きだというのは、もはや疑いない。少なくとも、映画を「見ている」のは明らかである。すると、『太陽の帝国』もすでに鑑賞済みなのか、という話になってくる。

■VOL.1の百三十三ページ、北極の氷の下を行くユーコン級潜水艦の絵のキャプション
「北極海底をゆくユーコンと、サイクロプス隊MS。ロングに引いた画面構成はビデオというより多分に映画的」

 ↑「多分に映画的」なのだそうである。前述した、出渕 裕氏と結城恭介氏の発言を引用せずして、アニメの中でそのような撮り方を高山監督はおこなっているのだ。

■VOL.2の百二十八ページ、高山文彦監督へのインタビュー
「ただ脇役を描いていた時には、悪役ということで目の表現がどうも類型的になってしまったんです。で、これは具体的なイメージがあった方が良いのではないか、と外国映画の俳優の写真を渡しました」

 ↑キャラクターを立ち上げる際に、監督はわざわざ外国映画の俳優の写真をキャラクターデザイン担当の美樹本晴彦氏に渡したそうである。高山監督にはつくづく「映画」というキーワードがまとわりつく。『太陽の帝国』にますます近接してきたとはいえまいか。

■VOL.2の百三十五ページ、脚本の山賀博之氏へのインタビュー
「私は『ガンダム』というのは、60年代の邦画にあったクサイ部分を持っていると思っていたんですが、彼(高山監督)の世界は洋画のアクション風の感じだったのです」

 ↑60年代の邦画にあったクサイ部分うんぬんという発言をもって、高山監督と「映画」を結びつけるのは暴論かもしれない。しかし、すでに証明している事柄を加味すると、山賀氏がガンダムを無意識的に映画になぞらえて話している事実には何かを感じる。
 また、高山監督が邦画寄りではなく、洋画寄りであるという指摘も引っかかる。少々強引だが、『太陽の帝国』は「洋画」である。



 そろそろ、まとめに入ろう。
 今までの辛辣な文章を読んだ方の中には、私が『0080』を嫌っているように思うかもしれない。しかし、実のところ、私は『0080』の大ファンなのだ。だからこそ、作品自体の詳細を覚えていて、『太陽の帝国』とそっくりであることに気がついたのである。
 冒頭で感想を述べたとおり、スピルバーグ監督の『太陽の帝国』は愚作である。そのひどい作品を『0080』という傑作に翻案した高山監督以下制作陣には敬意を表したい。
 特にバーニィが戦死するシーンは視聴者を心地よく突き放してくれる。
 「少年から大人の男へ」という内容を扱っている『0080』と『太陽の帝国』だが、その出来栄えは対照的である。前者は戦争の現実を鑑賞者に突きつけて深い感動を与える。一方、後者は、しらじらしいだけの典型的なハリウッド映画にすぎない。
 ではなぜ、受けて側は埋め難い溝を感じるのだろうか。意気込みの問題なのかもしれない、と思う。
 周知のとおり、『0080』は非富野ガンダム作品第一号である。今でこそ、富野監督が関わらないガンダムなど数多くあるが、当時は初の試みとして、かなりの重圧下にあったと想像される。
 富野監督の亜流にならず、それでいて長年のガンダムファンに受け入れられるには、相当な冒険をしなければならなかった。モビルスーツに乗らない少年とジオン軍新兵との心の触れ合いを軸とした異色作は、そうして出来上がった。MS(モビルスーツ)の派手な戦闘シーンには背を向けて、ただただ淡々と日常を描いた。富野監督という強烈な個性がにじみ出ていたガンダムから脱却したのである。
 ひるがえって、スピルバーグ監督には、そのような気概があったのだろうか。
 否。
 偽善で糊塗した反戦映画を撮って、あわよくばオスカーを盗ってやろうという姿勢では『0080』に遠く及ばない。せいぜい、『0080』の原案として『太陽の帝国』が評価されるくらいである。
 「熱いガンダム野郎」の皆さまが注視する中で完成した『0080』。すでに幾つものヒット作を飛ばして、後は映画界の肩書き(オスカー)のみというスピルバーグ監督が撮った『太陽の帝国』。
 創り手側が自身を追い込んでいなければ、良作はおのずと生まれないのである。よくよくクリエイター諸氏には痛感してもらいたい、と受けて側の私は要望する。


付記

「これは山賀さんの言葉なんですが『少年の感性は素晴らしい。だけどそれだけでは成長することはできない』という言葉がいわゆる『0080』のテーマなんですよね。『太陽の帝国』じゃないんですよ、『0080』は(笑)」

「物語的には戦争の悲劇を描いた話と思って見始めるとまず裏切られるでしょう。『太陽の帝国』だと思って見ていると、またまた裏切られる」

 ↑結城恭介氏のインタビューを「機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争VOL.1」の百三十八ページから引用した。
 創り手側も『太陽の帝国』との酷似に後ろめたさがあったようだ。意地悪くいえば、この発言はパクリ疑惑の言論を事前に封殺するために、結城氏が述べたものと考えられる。



原作小説
映画版

 『太陽の帝国』とは別に、『0080』は『鷲は舞い降りた』のパクリであると糾弾する論者がいる。確かに両作品とも、特殊部隊の隊員らが敵地に潜入し、特殊工作に従事するという筋書きで、その勇士たちを束ねる指揮官がシュタイナーという名字である。そして、はなから期待されていない、半ば、捨て鉢的な作戦であったり、部隊全滅という悲劇的な最期を迎える物語であったりするところも似通っている。しかし、全体的な印象から、盗作というよりもオマージュという方が適切であるように思える。敵軍にも敵軍なりの正義があり、堂々とした漢たちもいた、という相対的な視点が評価された、『鷲は舞い降りた』という作品に対する敬慕が『0080』から感じられるのだ。もちろん、パクリとオマージュの違いについて、はっきりとした線引きはできないので、受け止め方は人それぞれだろう。
 私は『0080』というアニメについて、『鷲は舞い降りた』のオマージュ、『太陽の帝国』の模倣であると判定した。
 皆さんはどう思われるか。


参考文献(VHS、DVD含む)
『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』(DVD) (第一巻・第二巻) バンダイビジュアル
『太陽の帝国』(DVD) ワーナー・ホーム・ビデオ
『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』(VOL.1・VOL.2) バンダイ
『M.S.ERA0099 機動戦士ガンダム戦場写真集』 角川書店
『超時空世紀オーガス02』(VHS) (R-1、R-2、R-3の全三巻) バンダイビジュアル
『鷲は舞い降りた』 ジャック・ヒギンズ 著 菊池 光 訳/早川書房
『鷲は舞いおりた』(DVD) 東北新社

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平成十五年二月四日



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