吉川大佐の大東亜戦争肯定論


吉川 猛大佐
(船橋ヘルスセンター)

 昭和四十一年三月十三日、船橋ヘルスセンター(千葉県)で開かれた「一七七会」(歩兵第三十連隊の戦友会)の会合で、吉川 猛大佐(陸軍士官学校第三十五期。陸軍大学校第四十五期)が講演をおこなっている。
 内容はずばり、大東亜戦争肯定論。
 保守系言論人のあまたの論評に比して、当時の上級軍人が主張する大東亜戦争肯定論は耳にすることがあまりない。
 ちょうどよい機会なので、一七七会編集委員会『一七七会25年史』から吉川大佐の講演内容を引用しよう。



大東亜戦争の思い出

吉川 猛

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序文

 名誉会長 小林太郎さんとの古き絆と、幹事長 辻井敏太郎さんとの奇しき御縁で、一七七会の末席を汚している私として、茲に記念誌に記事を掲載させていただくことは身に余る光栄です。
 甚だ独断的な私見ですが、我々会員が曽て家を捨て肉身を忘れて、大陸にあるいは南海の島々で、長い歳月、血みどろになって活躍した苦労は、決して無駄でなかった。犬死ではなかったと多少でも納得していただけたら本望です。
 一七七会は生死の境を乗越えて来た戦友の集りです。これからも生ある限りお互いに励まし合い、慰め合って、会の団結と発展に努力いたしましょう。

本文

 古語に「敗軍の将は、兵を語らず」と申しまして、あれが悪くて敗けた、これが良くないから敗けたという申訳の言文は慎しむべきですが、序文のような趣旨念願もあり、敢て一文を草する次第です。
 今次大戦は、誠に有史以来最大の不幸な出来事でした。又、それを避けて通ることの出来ぬ戦でした。なぜならば、それは結論的に申しますと、全く米英が計画し仕組んで、日本に強要した戦争であったからです。

戦争の遠因

 明治の初め、米英は日本のパトロン的存在をもって自から任じ、日本を育成し、日清戦争でその実力を認め、日本を自分達の「東洋における番犬」として利用し、日露戦争に際してはロシヤの南進阻止のため、物質的(資金援助)又、精神的(日英同盟等)にも後援を惜しみませんでした。
 所が戦後日本は番犬でなかった。東洋の虎として警戒を始めました。日本が大陸に権益を獲得し、朝鮮を併合する頃になると、日本を嫉妬し、憎悪し、同盟を解消し、移民を制限する等の手段に出ました。満州事変の前後になると、米英は完全に敵視して軍縮を強要し、海軍力5.5.3と自分等に抵抗出来ぬ力関係を作りました。

戦争の近因

 日支事変が勃発してから彼等は、折を見て一度徹底的に日本を敲きつけておかねばと決心し、国際連盟から追放して世界から孤立させ、そして事毎にあらゆる無理難題を押しつけて来たのです。最も痛いのは貿易面、即ち鉄、石炭、食糧品の制限で、致命傷は石油の途絶です。日本中の飛行機、船舶、自動車が動かなくなります。特に軍にとって軍艦、飛行機が止まるとあれば、戦わずして白旗です。
 日本としては何とか戦争は避けねばならぬ、譲歩に譲歩を重ねても駄目、遂に要求は期限付でギリギリの線を越えました。例えば満州国は解散し支那に返還せよ、大陸より日本軍は撤兵せよ、日独伊同盟より脱退せよ等々、どれを取ってみても、当時の日本人の意気込みとして絶対受入れられぬものばかりです。はっきり言えば、日本よこれでも戦争を俺達に仕かけぬのかと言うに等しいものです。
 座して死を待つ立場におかれた日本は、遂に開戦せざるを得なかったのです。

思い出と所感

 私が開戦時大本営参謀として勤務中、先輩の誰一人として勝てると言った者はおりません。勝算なき戦争に入ったのです。
 勝てない、負けるにきまっている戦争に自から飛び込む馬鹿がいるでしょうか。米英に完全に嵌められたのです。
 唯当時の大本営の淡い希望として、海軍が緒戦で巧く米英艦隊を叩けたら、日本の本土は3年間は安泰、その間に南方からの油を備蓄し、飛行機を沢山作って持久戦をする。又、当時欧州では独伊が最高の良戦況で勝つかもしれん。そうすれば、あるいは講和と云うことにもと云うのが真相だったと思います。
 5年に亘る戦争は、神風も吹かず、悲惨極まる結果に終わり、広島、長崎の原爆でピリオドを打たされました。十数万の罪なき婦人、幼児が瞬時に殺され、幾万の被爆者が今尚苦痛に呻吟する。全く人道上許せません。「あやまちは繰返しません」とはそもそも誰が誰に言う言葉でしょうか。
 終戦以後心なき日本の学者、文士、記者達は一斉に、軍の無謀な暴挙で、国民を悲惨の極に追い込めたと口きたなく罵り、国賊扱いし、共産左翼も同調し、復員帰還の将兵すら肩身の狭い思いをさせられました。
 今日でもなお「戦争は徹底的に避けるべきだった」米英の如何なる条件も呑んで、平和を守るべきだったとの論を耳にします。果してそれが良かったでしょうか。開戦当時の日本は物資こそそろそろ不足していたが、国民の志気軒昂、鬼畜米英何するものぞの時代でした。政府が戦争回避の途を選んだとしたら、日本はどうなったか? たちまち日本中大暴動が起ります。第一、国民が承知すまい。軍隊、警察等も反旗を翻えし、第二の二・二六事変が起こり、日本は蜂の巣を叩いた様相になり、収拾つかぬ大混乱が発生し、日本人お互いが血で血を洗う悲惨事になったでしょう。対外的には戦わずして米英に降った日本を世界中が蔑視し、一躍三等国扱いされ、支那、朝鮮も黙ってはいまい。日本はどんな国になっているでしょう。
 今日、日本は平和で幸福な国になりました。最近ある英国紳士が私の先輩に、しみじみと述懐し、『我が大英帝国は戦争に勝って、72コの大事な権益を失い斜陽国に落ちた。貴君の日本国は戦争に敗けて一躍世界の大国になった』と。
 そうです。日本は、物資面の復興は出来ました。破壊された精神面の復興は如何なものでしょうか。毎日の新聞ニュース、心が痛みます。
 どうか一日も早く立派な日本になるよう祈ってやみません。


引用文献
『一七七会25年史』 一七七会編集委員会



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