歩兵第三十連隊の台湾守備


 社史でも協会史でも何でもいいのだが、そういったものが本になって出版される際に、ある歴史が記録から抜け落ちてしまうことがある。
 公にしたくない不祥事や重要でない出来事、そして、編さん者の手抜かりによって、載せるのを忘れてしまった歴史などがそうである。
 歩兵第三十連隊においても、連隊史に収録されることのなかった歴史がある。
 本日知ったことなのだが、明治三十三年頃に、歩兵第三十連隊は台湾の守備に就いている。
 留守隊を残して連隊ごと台湾に派遣されたのか、それとも、連隊の中の一部隊が台湾に派遣されたのかは分からない。記録が残っていないからだ。
 一応、断っておきたいのだが、私は歩兵第三十連隊の資料を日本で一番持っている。防衛研究所・高田駐屯地・国会図書館に保管されている資料よりも、私のコレクションの方が充実している。そして、およその見当ではあるが、これ以上の資料調査をしなくてもよいくらいに、私は歩兵第三十連隊に関する文献を読み込んでいる。それなのに、歩兵第三十連隊が台湾に派遣されていたことを示す一文を目にしたことがない。
 さて、ここからが本題となる。
 今日、台湾人のyuan cheng-yaoさんから、以下のような問い合わせ(電子メール)を受けた(*藤本注・原文は英語。日本語に訳してある)

 明治三十三年から明治三十五年までの期間、歩兵第三十連隊が台湾の守備に就いていた事実はあるのでしょうか。
 私たちは、古谷安民連隊長(*藤本注・第三代の歩兵第三十連隊長。明治三十三年から明治三十五年まで連隊長職を務める)が台湾の雲林にいたときに撮られた写真を持っています。

 URLが貼ってあったので、マウスクリックしてみると、肋骨服を着た古谷連隊長の写真がリンク先に載っていて、写真の裏面に以下のように筆書きされているのが目に入った。

明治三十三年十一月三日
台湾於雲林写
陸軍歩兵中佐古谷安民



 私としては、歩兵第三十連隊が台湾の守備に就いていたことなど、電子メールをもらったときには知る由もなかったので、yuan cheng-yaoさんに以下のように返信した。

歩兵第三十連隊は台湾に派遣されていません。
明治三十三年十一月三日、古谷安民が個人的に台湾を遊覧したのでしょう。

 二時間後、yuan cheng-yaoさんから電子メールの返事が送られてきた。
 電子メールには、歩兵第三十連隊の軍杯の写真が添付されていて、軍杯の表面に「歩兵第三十連隊 記念 台湾守備」との金文字が書かれているのが確認できた。yuan cheng-yaoさんは、この軍杯が本物なのかどうか非常に興味がある、とのことである(*藤本注・歩兵第三十連隊の軍杯を複製しても、到底、商品価値のあるものではないことから、本物だと思って間違いない。私が知る限り、歩兵第三十連隊の複製品は、上野の中田商店が作った、同部隊の手ぬぐいだけである)


 私はこの軍杯の写真を見て、驚いてしまった。先に述べたとおり、歩兵第三十連隊の歴史は頭の中にほぼ入っている、と自負している私が、同連隊が台湾に派遣されていたという文章を読んだ覚えがなかったからだ。
 慌てて、家にある歩兵第三十連隊の資料を引っかき回して、丹念に調べてみた。しかし、どこをどう探しても、やはり、歩兵第三十連隊が台湾の守備に就いていたことを示す一文は見当たらなかった。
 私の結論はこうだ。
 歩兵第三十連隊に関する新事実の発見。
 台湾で撮影された古谷連隊長の写真と、台湾守備を記念して作られた軍杯が存在している以上、歩兵第三十連隊が台湾の守備に就いていたことを疑う余地はない。
 しかしながら、以下のような不明点は残る。

***

 台湾守備というからには台湾を守備したのであろうが、その具体的な派遣理由は?
 守備部隊の規模は?
 派遣期間は?
 どうして、台湾守備の歴史が連隊史から抜け落ちてしまったのか?

***

 この件について、知っている人がいたら、私あてにご教示願えないだろうか。気になって仕方がない。
 それにしても、歩兵第三十連隊に関する新事実を、海の向こうに住んでいる台湾人から教えられるとは、思いもしなかった。

引用文献
ウェブサイト「知識の殿堂」「キジバトのさえずり」(平成二十五年十月二十三日分の日記) *一部原文訂正



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