山西省 (『支那事変 戦跡の栞 上巻』より)


背表紙


題名
支那事変 戦跡の栞
著者

出版
陸軍恤兵部

昭和十三年八月二十日印刷
昭和十三年九月一日発行
備考
上記の版情報は上巻のもの。



山西(シヤン・シイ)省

 〔前がき〕 山西省を語るに先立つて、同省に於て行はれた今事変の戦況を述べるのを便宜とする。何んとなれば、全省悉くが山岳地帯で、今事変に於ては、これ等天険の要害は、いかばかり我が軍の進撃を悩ませたことか、即ち我が将兵は、ある時は、巖角に縋り、又ある時は樹根を掴んで、敵弾雨飛の中を千兵千姿、たゞ聖戦に一身を捧げて困苦艱難したのである。その戦跡を語る事は将兵の労苦を偲ぶことゝ共に、直に山西の地形を語る事になるからである。
 山西省に於て行はれた戦闘を、山西北部長城付近の戦闘、同省中央部を北から南に貫く同浦線沿線の戦闘、河北省石家荘から山西省太原に至る正太線沿線の戦闘の三つに分けて、こゝに総括記述し、その後で同省の事情を語る事としたのである。

山西北部長城付近の激戦

 〔山西北部長城戦大観〕 京綏戦線に於て重畳たる山岳と、長城を背景として、その兵力の絶対多数を頼み一挙山西北方より北京を包囲攻略せんとした敵は、既に南口の激戦を緒戦として、次に居庸関に破れ、懐来平地を追はれ、更に疾風の如く南下攻略し来つた我が関東軍部隊に逸早く張家口を占拠され、更に続いて矢つぎ早に京漢線上天鎮、大同の重要地点を奪はれ、更に下つて懐仁方面まで圧迫されるに至つた。かくの如く打続く我が急追に遂に敵は本格的に立直る暇もなく、張家口方面より南へ南へ一路山西省北部省境づたひに山西省内に逃げ込むやこれを追撃し来た我が京漢線攻略部隊のため陽原、蔚県、淶原、広霊、渾源、霊邱と山西東北部要地を次々に奪取された事は、別項京綏戦線の項で述べたところである。
 即ち、京綏戦線より南下急追撃し来つた我が山田、長野両部隊は、九月廿日夕刻淶原を占拠(山西省東北部省境付近)同日夕刻粟飯原、大場両部隊は霊邱を占拠するに至つたが、この方面の敵情は次の如くであつたのである。
 即ち山西方面の敵は揚憂源、傅作義の麾下及び騎兵軍、第八路軍(共産軍)で、揚憂源は第十七軍――第八十四師、廿一師、第十五軍――第六十四師、六十五師、第卅三軍――第六十九師、百一師を指揮して繁峙に位置し、また傅作義は第六十四軍――第六十六師、第十九軍――第七十師、七十一師、七十二師、第六十一軍――第六十八師、第卅五軍――第七十三師を指揮して甯武に位置して概ね雁門関以南内長城線を守備し、また第三師は主力を以て朔県に位置し、またその一部を以つて井坪鎮、平魯十里後及び馬巴に位置して左翼方面を警戒するの態勢にあつた。
 かくの如き敵に対して粟飯原、大場両部隊は九月廿日広霊南方察晋省境付近にゐた約一ケ旅の敵を駆逐して、霊邱にあつた敵共産第八路軍を攻撃し、同日夕刻遂にこれを占領したが、更に廿一日淶原方面より前進し来つた、山田、大場部隊と策応しつゝ、霊邱より西へ向つて進撃、大営鎮方面の敵を追撃しつゝあつたのであるが、廿四日夕刻遂に平型関口付近長城線を占領し、卅日に至るや北方より南下し来つた十川部隊と協力して大営鎮をも完全に手中に収むるに至つたのである。
 九月廿四日といへば、京綏線では平地泉、京漢線では保定、津浦線では滄州の三要地が時を同じうして陥落した日であるが、思ふに敵――殊に山西方面の敵は思想的には共産主義のコチ〳〵、蒋介石をして抗日戦端を開かしめるための原動力としての役割をつとめ、純軍事的には度々述べた如く、山西察哈爾、河北西部省境の天険を利して、京漢線方面の西側及北側よりの奇襲包囲を企図してゐたゞけに、その行動も頗る活発、而も地理的にみても山西省に続く陝西、甘粛と来ては支那共産軍の本拠としての重要なる思想的、政治的、軍事的、意義をもつてゐたのである。されば我が板垣部隊が京綏戦線より急追の手をいささかも緩めることなく、一路山西省境を突破南に進撃し来つた事もこれまた当然の事といふべきであらう。

 〔長城付近の要地占領〕 かくして今や九月廿四日以来敵陣地の右翼拠点たる平型関口付近を席巻して、粟飯原、大場、山田、長野各部隊は卅日遂に大営鎮を占拠したが、同じく廿四日突如応県に(渾源西方、繁峙北方)進出した後藤、猪鹿倉両部隊は廿九日に至るや一挙南下進撃して繁峙を占拠したのであつた。また北方より突如長駆し来つた長谷川部隊は、疾風迅雷の如く、廿八日敵騎兵軍の本拠たる朔県を衝き、更に甯武に進撃、東部より進撃中の友軍と呼応して卅日遂に長谷川部隊は甯武を占拠するに至つたのである。


 かくて、当方面の敵陣地は今や全く我が軍の為その両翼を包囲せられ、加ふるに延々東西廿里の敵陣地は先述の繁峙付近で分断され、その瓦解は早くも決定的となるに至つたのである。この方面の敵は約八万と称せられた。
 更に卅日に至るや午後六時遂に長谷川部隊の手によつて甯武が占拠され、同日午後九時後藤、猪鹿倉両部隊は繁峙より一挙西進して、遂に代州を占拠、此処に至つて山西北部長城線に拠れる八万の敵連合軍も、寡少ではあるが勇猛果敢、作戦の妙を発揮した我が軍のために、今や全く東南方に総退却の止むなきに至つたのである。思へば廿九日の繁峙県城の占領は、閻錫山が三年の日月と百十数万元の工費を投じた堅塁を全く無為に帰せしめ、山西軍の北方に対する主抵抗線は脆くも破壊されるに至つたものである。
 かくて余勢をかつた破竹の後藤、猪鹿倉両部隊は代州より一路南下崞県を経て、同蒲線上太原へ太原へと進撃、その先頭は早くも十月六日山西軍が第二の抵抗要地とたのむ、原平鎮を攻撃し、十日午後三時遂に同地を占領、望楼高く日章旗を翻へしたのであつた。
 山西軍の独裁者として君臨し、中国政局の変化の度毎に謎の梟雄として内外注目の的となり、山西モンロー主義を唱へて蒋介石の一敵国を形づくつてゐた閻錫山も蒋介石の排日抗日にむしろ進んで音頭を取つた為、今やその本拠太原危ふしとの報に、動揺大なるものがみへるに至つたのである。

 『註』 山西戦線は濛々たる黄塵と、峨々たる山脈が皇軍の行手を阻止し、更に日中は気温の変化で七八十度の暑さが、夜は四十五度位に急降下するのだ。この自然の大障害を克服しつゝ士気旺盛、猪鹿倉、後藤両部隊の先駆と、十川、湯浅両部隊は不眠不休の猛撃実に五日間にして、崞県(代州南方八里)に蟠踞せる山西軍一万の敵を撃破し八日朝これを完全に占拠したものである。

同浦鉄路沿線の激戦

 〔忻州付近の戦闘〕 原平鎮も十月十日遂に吾が猪鹿倉、後藤両部隊の手によつて陥落すると、一方去る九月廿四日平型関口の難関を突破した我が粟飯原、長野の各部隊は、爾来追撃に追撃を重ね、長駆南下。前記猪鹿倉、後藤両部隊に呼応して、遂に太原の前哨陣地たる忻州前面高地の堅固極まる防塁に殺到するに至つたのである。前面高地の敵は、山西軍及び共産軍約三万、中央軍一万、十月十三日早暁より砲兵隊協力の下に果敢なる攻撃が開始されたのである。然し一度攻撃を開始してみると、敵は馬や砲車さへも自由に通り抜け得るトーチカを幾条、幾段にも山腹に構築してゐて、その兵力も実に五ケ師余、戦線また八里に及ぶといふ有様であつた。而もこの山腹のトーチカ陣より下方にまる見への我が攻撃軍に対して、山砲、迫撃砲を夜となく昼となく打ちまくる様は、まさに旅順攻略のそれを思はせるものがあつた。
 我軍はこの不利なる地理的態勢をも物ともせず、全線猛攻に次ぐ猛攻を以つてし、十三日攻撃開始以来五日、長野部隊は忻州東方五台山脈の要点屋根、形山及びその山麓栄華山の攻撃に奏功して、十七日遂に同高地の一角及び同村に感激の日章旗を掲げ、忻州攻略の有利な端緒を作るに至つたのである。
 我が空軍は地上攻撃部隊に協力して、連日の如く空爆を敢行しつゝあつたが、前述の如く山腹のトーチカ陣地は、空爆を逃れるには絶好の陣地、空軍の苦心も並々ならぬものであつたが、廿日に至るや忻州西側高地を攻撃中の雪本部隊が、遂に忻州平地を一目に見下す船型高地を占拠するに至つたのである。
 一方敵は愈々忻州を太原防備の主抵抗戦たらしめんと目論んで、逐次兵力を増強して、十月末日には、その総兵力遂に十五万となり、実に我に十数倍する兵力となつたのである。
 我が攻撃軍は歯を食ひしばつて攻撃を続行した。かくして一週間十日、二週間、十一月二日午後十一時遂に和田工兵部隊は爆弾を抱へて敵陣に突入する決死隊を組織するに至つたのである。それは明治節の前夜、和田工兵決死部隊は、敵トーチカ陣地に自らも爆弾と共に散るの覚悟を以つて忍びよつたのである。この時敵は例の如く面を上げ得ぬほど重軽機関銃の雨を降らすのであつたが、わが軍もこれに応戦して、全線に亘つて一斉総攻撃は開始されたのである。第一線部隊は勇躍敵陣地に突撃した、壮烈なる肉弾戦は全線に亘つて展開されたのである。この時和田決死隊の爆破の音が全陣地を揺がせて響き亙つた。煙哨の香が秋夜の冷気に浸み亙つた。かくて雛壇の如く幾重にも重なつてゐる敵陣地は下から〳〵と我が肉弾によつて占められて行つた。
 かくして遂に攻撃以来三週間目の十一月三日、明治節の佳日午前零時、全線八里強、深さ一里に及ぶ天然の要害たる忻州敵陣地の山頂高く日章旗は翻へつたのである。殊勲の攻撃部隊は、猪鹿倉、後藤、大場、粟飯原、長野、萱島、福田、小堀、各部隊、和田工兵部隊等であつた。
 かくて忻州を抜いた福田、小堀、和田各部隊は忻州から太原への本道上を正面から忻州城へ殺到すれば、これと前後して長野隊は、忻州東側高地を抜き、滹沱河の上流を渡つて忻州城に東側より迫り、猪鹿倉、後藤各部隊は西側より忻州城に肉薄して、遂に三面よりこれを包囲攻撃して陥れたのである。一方福田快速部隊は、躍進また躍進石嶺頭付近に進出して、今や太原を僅か九里の近くに望み得るに至つたのである。
 戦ひの跡、忻州一帯の全戦場は死屍累々、多数の武器弾薬散乱して、敵の死傷は実に三万と推定されたのである。

 〔青竜鎮付近の追撃戦〕 忻州を陥れた我が部隊は、更に敗敵を急追して、村井、福田、長谷川各部隊は続いて開城鎮を陥れ、四日午後二時には、早くも太原城北方九里の石嶺関に進出したのである。
 敵主力は我が猛追に停止線を失ない敗走また敗走、遂に開城鎮南方山地一帯十里に亙り構築せる堅固な堡塁、トーチカを放棄して、一路太原へ向つて敗走したのであつた。太原、忻州間の道路上を行軍縦隊で敗走するこの敵に向ひ、我が陸軍機は、朝来大孟鎮付近で壮烈なる爆撃を敢行、次いで太原城北方四里の青竜鎮西北高地に拠る有力な敵に対しても猛爆を行つた。青竜鎮を奪へば、太原盆地は自ら眼下に開けるのである。かくて五日午前八時、粟飯原、福田、長谷川の各快速部隊は遂に青竜鎮を占領、今や太原城へ向つて最後の追撃戦が展開されたのである。

 〔太原総攻撃〕 青竜鎮を占領した粟飯原、福田、長谷川各部隊は、息つく間もなく最後の追撃戦を敢行したのである。即ち長谷川快速部隊の田中先遣車隊、小堀騎兵部隊、及びその主力は大場部隊と協力して、途中堅固な陣地によつて、味方の退却援護を行はんとする敵を、鉄輪に踏みにじりつゝ南進また南進、五日午後四時には早くも太原北方僅か一里の陣地を占領して、めざす太原を指呼の間にみて、将兵の意気いよ〳〵高く、午後五時半には夢にも忘れ得なかつた太原城の北門に到着するに至つたのである。この日午前十一時わが陸軍機は山西省大谷、平遥方面に、敗走の敵を満載して南方に壊走する敵軍用列車廿両を発見して、反復爆撃を行つてこれを粉砕し、次いで午後二時半またも中富、園田各部隊は大谷より南下する七個列車、及び大谷祁県間で三個列車に対し爆撃を加へたのであつた。これ等の列車はひと列車に廿両以上貨車並に客車を牽引したまゝ爆破転覆して、それが火炎に包まれ、現場は一大修羅場を現出したのであつた。かくて列車によつて退却せんとする敵の企図は無残に打ち壊されたのであつた。続く壮烈極まる払暁戦によつて、新居村(太原北方一里半)の敵陣地を奪取した小堀部隊は、敗敵を追撃して太原城に迫り、六日午前九時北門の付近に到着すれば、我が太原攻略軍は続々と太原城に肉薄したのである。即ち大場、粟飯原の両部隊は北側から、長野部隊は東側から、後藤、猪鹿倉の両部隊は西側から、完全に太原城を包囲して、今やその死命を掌中に収めるに至つたのであつた。然しながら、無辜の城内住民に戦火を及ぼすことを潔しとしないわが軍は、ここに一時砲火を休めて、城内の敵に対して降伏勧告を行ふことになつたのである。六日昼頃から、飛行機その他の適切な方法により、太原城明渡しを勧め、更に七日早朝から再三軍使を派遣してわが意向を伝へようとした。然るに暴戻不信の支那軍はわが方の好意を無視し、而も我が軍使に対して突然射撃を加へ抵抗の意を示すに至つたのである。
 我が軍も事此処に至つては止むなく断固太原総攻撃の意を決し、即刻城内の敵に向つて殲滅の火蓋を切つたのであつた。だが城内には多くの第三国人がゐるため彼等のため次の警告文を記載したビラを散布したのである。
「城内の第三国人及非戦闘員は、明八日午前七時までに南門より退去すべし。右時刻以後城内に残存するものはこれを戦闘員と看做す」
 また次の如きビラも散布したのである(漢文)
「太原城民に告ぐ。君等は安んじて開城し、日本軍の入城を待つがよい。決して赤魔の扇動に乗つて抗日を叫び、彼等の騒擾に利用されるな。君等は元来良民である。少しの罪もない。南京政府、共産党、軍閥に欺かれてゐるのだ。日本軍の大軍は既に太原を包囲した。君等は速やかに迷夢より覚め、来りて日本軍の恩恵を受けよ。日本軍の目的は暴徒、共産党を駆逐するにあるほか、何等の野心もない。良民に対しては必らずこれを愛護救済し決して君達を苦しませるやうなことはない。判つたか、君等の生死存亡は君等の考へ如何にあるのだ。速やかに来れ、来りて日本軍の保護を受けよ」
 かくて八日午前七時、太原総攻撃の火蓋は切つて落された。昨夜来太原城壁に肉薄してゐた我が部隊は東正面に萱島部隊、小北門以東大場部隊、大北門正面を粟飯原部隊、北から東西の三方を包囲したまゝ攻撃を開始したのである。
 これより先、同蒲線南下部隊に劣らぬ辛酸をなめて、京漢線石家荘から正太線に沿つて西進し来つた我が友軍も既に太原南方の要地、楡次を占領して、太原包囲陣を南方より圧縮しつゝあつた。
 しかし支那軍はあくまでも我に抵抗の肚を決めたか、城壁には銃眼及び交通壕を急造して、死物狂ひで抵抗して来たのである。我が攻撃の先駆をなして陸の荒鷲が数機晴れ上つた初冬の太原上空に姿を現はしたと思ふ間もなく、天地を震はす大爆撃は行はれた。望楼城門は一瞬にして木ツ端微塵に吹き飛ぶ、城内の石油タンクは火災を起す。太原城内の混乱は名状すべからざるものがあつた。これに呼応する如く、一方わが小川部隊は、味方の後方三千米の高地を利用して、城壁に突撃路を作るべく一斉に集中砲撃を開始したのである。砲声殷々、太原城は全く砲煙に包まれてしまつた、とみるやこの時、第一線部隊に下る突撃命令、午前九時十三分ごろ城壁間近の太原皮革会社の陰から飛び出した萱島部隊の一部が突撃を始めたのである。梯子が城壁にかけられた。肉弾兵士達は面も振らずに突進した。やがてドツとあがる喚声、噫、かくて遂に日章旗は城壁の上に翻つたのである。だが小北門に拠つた敵は、側面から盛んに射撃を続けて、我が部隊の城内突入を必死となつて阻まんとしたのである。この時突如北門付近にあがるワツと云ふ喚声、大場部隊が城の北側正門の一角を占拠して、こゝに大勢は既に決したのであつた。

 〔太原付近掃討戦〕 然しこれと共に壮烈な市街戦は展開されたのである。その夜半、城の北西の小北門及び東面の小東門が和田工兵部隊によつて爆破されたのである。また城の西面を攻撃中であつた後藤、猪鹿倉、堤の各部隊はそれ〴 〵城内に進入して、此処に先入部隊と呼応して、早暁来激しい掃討戦は開始されたのであつた。轟く砲声燃え上る城内、こゝに至つて、午前六時、敵は漸次南方に向つて退却し始めたのであつた。しかして午前八時半、仰げば東西南北の各城門には日章旗が折からの旭光に映えて翻へつたのである。勇躍するわが軍に引替へて、敵は南方へ算を乱して壊走したのである。あゝ北支戦線に銘記さるべき歴史的太原陥落であり、また歴史的太原城内掃討戦は、こゝに一段落を告げたのである。
 山西の首都を誇るだけあつて整然たるその街、文化の臭ひが街の至るところその名残を止めてゐる太原は、城内至るところに兵営があつた。
 むべなる哉、一世の梟雄閻錫山が山西軍十二ケ師十万を以つて山西一帯の軍事的勢力を完全に掌握し来つた都である。だが今はどの兵営にも只一人の人影さへもなく、我空軍の爆撃の跡が哀れを止むるばかりである。アカシヤの葉の落ちた省政府の中庭には鳩の群が無心に飛び交つてゐるのも一抹の哀愁をそゝるのである。今や全く城内は朝風に翻へる日章旗の下に、新生の息吹が聞えてゐるのである。
 なほこの日太原城を後に壊走する敵を急追した長谷川部隊は、九日正午早くも太原南方八里余の清源を占領、一方正太線西進軍の森本部隊は楡次から追撃し来つて、同午後三時楡次南方十三里の祁県を占領し、太原陥落直後早くも同蒲線上南方黄河方面へ敵を壊走せしめ、山西は全く我が威武の下に制圧されるに至つたのである。
 十日、この日空は晴れて、絶好の入城日和、我が包囲軍は感激の面をかゞやかせつゝこゝに堂々たる入場式を行つたのである。
 思へば八月初旬、京綏線南口の激戦以来征途何百里、河北、察哈爾、山西の三省にまたがり、聖戦実に三ケ月余、その間一瞬とても休む暇もなく途中戦友の屍を踏み越え、踏み越え進撃して来た皇軍勇士、その胸に浮ぶは、辛苦の山岳戦、恨みのトーチカ、しかして将兵の服は泥土に汚れ且つ破れ、髯は伸びるに任せ、顔は真黒に焼けてはゐるが、今や夢寐だに忘れ得なかつた太原への入城に、勇士の面は感激に輝やき、万歳の叫びは、太原城頭を揺がせたのであつた。

 〔結語〕 太原は山西省政府及び太原軍事委員会の所在地であつたばかりでなく、山西省の政治、軍事、教育の中心地でもあつたことは後でも述べるが、殊にその軍事的施設に至つては、高さ十米、厚さ五米の方形の城壁を有して、北支最大の兵工廠たる太原兵工廠を勇し各種兵器弾薬を製造してゐたのである。支那革命に際し、閻錫山はこの地に兵を挙げ、爾来この地にあつて所謂山西モンロー主義を唱へ、大いに治績を挙げ、模範省と称せられてゐたのである。
 一九三〇年、反蒋運動を起したが失敗して、一時この地を棄てゝ彼は逃走し、翌年再び帰つて国民政府より太原綏靖主任に任ぜられたのであつた。
 一九三六年に中央軍が共産軍討伐の名目で数ケ師の兵をこの地に入れて、此処に山西モンロー主義も破れて中央化してしまつたのである。
 今次事変では敵の山西、京綏線方面の作戦策源地となつたが、戦略的にみれば、省全般としては四方に峻険なる山岳を囲らし、所謂守るに易く、攻むるに難き、天恵の地、之が閻錫山をして十数年の永きに亘つて山西モンロー主義を成功せしめたる所以であつたが、また皇軍の進撃をして苦心をなめさせたわけでもあつたのである。この意味で太原の陥落の意義は頗る重大で、敵をして北支における蠢動の拠点を失はしめ、我軍の、京漢、津浦両方面における黄河以北の作戦進捗と相俟つて、わが北支作戦は誠に輝やかしき戦果を収めたものといふべく、これが北支一帯の明朗化に拍車をかけ、また逆に南京政府及び支那軍の士気を阻喪せしめた事も争はれぬ事実であつたのである。
 九月廿四日の保定、平地泉、滄州の陥落も、また十月十一日の京漢線石家荘の陥落によつても、余り負けたと云ふやうに考へてゐなかつた北支民衆も、太原が陥落するに及んで全く負けたと云ふ気持と共に、北支はこれで秩序ある日本軍の手中に帰し、全く安全だといふ印象を深くしたのであつた。かくて、北京を中心とする新政権の胎動が漸次濃厚となり十二月に入るや愈々活発となつてその基礎を固め、南京陥落が決定的契機となつて十二月十四日北京に中華民国臨時政府が生れた事を銘記せねばならぬ。
 他のところはいざ知らず「太原は絶対に落ちぬ」といふのが支那側の観測であり、且つ希望でもあつただけにその陥落の影響は、軍事的には勿論政治的にも以上の如く大であつたのである。殊に北京天津における外国新聞記者団が太原の陥落によつて全く日本軍の強さと、北支戦局の決定的制圧を確認して、現地の日本側に対する態度も手の裏を返すが如く、態度一変して来たことによつても太原陥落は正しく北支戦局に於ける圧巻といふべきである。


正太鉄路沿線の激戦

 〔正太線沿線の戦闘大観〕 保定の陥落に引き続き京漢線上の要衝石家荘(河北省)が陥落したのは十月十日であつたことは前述の通りである。
 支那ではこの日あたかも双十節の当日で、「同志よ奮起して敵を殺し国を救へ、明年本日は失地を回復して、再び激烈なる祝宴を張らうではないか」との激励演説が各所で行はれた事は誠に皮肉であつた。
 戦略的に石家荘をみれば、西方太原に至る長隘路の咽喉を扼してゐるので、同地を占領する時は京漢、正太両線を同時に遮断してこれによつて支那西北の連絡路と共に、山西、河北両省間の重要なる交通線を切断することとなるのである。
 殊に石家荘――太原道路は、同じく石家荘――太原をつなぐ正太鉄道に沿ひ河北省より山西省に前進する部隊の作戦路中最も良好なものであつて、その意味では石家荘は山西に向ふ作戦の拠点と云ふことが出来ると同時に、石家荘西方、獲鹿以西の隘路は地形険難で、僅かに駄馬を以つて交通し得るのみであるから、少数の兵力を以つて能く山西から河北へ進出せんとする敵を拒止し得る事となるのである。
 されば石家荘陥落の翌日午後四時半には、早くも我が鯉登、小林両部隊は、正太線上、石家荘より西方へ逃げる敵を急追、長駆して北支における石炭の産地として有名な井陘(石家荘西方約十二里)を占領し、息つく間もなく更に西方へ〳〵と敵を追撃し続けたのである。
 この頃、別項同蒲線の戦闘に述べた如く、太原に向つて北方より同蒲線上を南下攻略しつゝあつた友軍は、既に後藤、猪鹿倉等の部隊が太原北方廿二里忻州北方陣地に迫つてゐたのである。
 太原を本拠とする閻錫山は時既に北方忻州付近に十万、西方山西河北省境、正太線付近支那三関の一たる娘子関付近の堅陣にも十万の兵力を集中してゐた。
 十二日我が空軍は正太線上、太原、楡次、寿陽等を爆撃したのである。
 かくして鯉登、小林等の各部隊は正太線上今や娘子関の敵を撃滅せんとして、十五日来猛爆を開始したのである。流石は支那三関の一として聞えたる娘子関の難所、我が悪戦苦闘は昼夜の別なく続けられた。朝に一高地を陥れ、夕に一渓谷を屠るといふ辛酸をしつゝも、ジリ〳〵と敵を圧迫してゐたのである。
 間断なきわが陸の荒鷲の猛撃も日を追ふてその威力を発揮して、山西方面流石の大山岳、峡谷地帯の敵陣地も、漸く動揺の色がみえて来た、敵が退却を開始するとみれば文字通り荒鷲の如く飛びかゝつて猛撃且つその退路遮断の大爆撃を敢行すること幾日、廿二日午後またもやわが佐々、野田、中富部隊の荒鷲編隊は娘子関、新関による敵陣地に対し猛烈な爆撃を敢行すれば、右翼羽黒部隊は省境長城線北方に進撃、娘子関北方高地の敵に猛撃を加へる、この日午前韋沢関北方高地を奪取した鯉登部隊は、正太線北側地区の敵の動揺に乗じ、遂に旧関を突破し更に決然新関攻撃を敢行した。この日午後二機の支那機が娘子関上空に飛来し、共産主義を謳歌した日本文字の不逞伝単を散布して逃走するなどの愛嬌があつた。
 娘子関方面の最前線には朱徳の指揮する精鋭共産軍一ケ師がその得意とする山岳ゲリラ戦法に出て我が軍の進攻を執拗に阻止せんとしてゐた。この方面の戦場は北方同蒲線方面に優るとも劣らぬ連綿たる山岳地帯で、黄土地帯の特徴として断崖が屹立し、両戦線を合すれば実に敵陣地の数は数千を数ふる程であつた。然しそれだけに娘子関の敵前線根拠地の軍事的意義は重大で、これを陥れば、最早や正太線上太原への進撃は頗る容易なるを思はせるのであつた。

 〔娘子関より陽泉に至る戦闘〕 廿四日鯉登部隊は昨日に引き続き省境高地を占領したが、一方鯉登部隊に呼応して、正太線北方地区に進撃してゐた小林部隊はこの日井陘より保定に通ずる省境付近の通路を扼するに成功、また陸の荒鷲軍もこの方面の戦線に主力を注ぎ、この日も娘子関一帯、その後方太原寄りの陽泉、平定更に進んで山西空軍の本拠たる汾陽飛行場などを空襲してその活躍は目覚ましい限りであつた。
 かくして、地上部隊、空軍呼応しての立体作戦の続けられること五日、十日、十一日、一方地上部隊は正太線を挟んで南北より進撃、遂に正太線北方地区より鯉登部隊に協力進撃を続けてゐた小林部隊は、突如南方より迂回して来た友軍森本部隊との協力なり、壮烈極まる山岳戦の後十月廿六日遂に娘子関を占領するに至つたのである。閻錫山が五年の日子と、山西の富を傾け、而も古来三関の随一と唱へられた程の天然を利用構築したる流石の娘子関も、廿六日午後三時遂に我が軍の手に帰したのであつた。

 〔娘子関陥落〕 算を乱して壊走する敵軍、我が急追軍はまたもや猛撃、森本部隊は正太線南側を西へ急追し二ケ師の敵を撃滅して逸早く柏井馹を占領して敵の背後を遮断したため、新関方面の敵は狼狽その極に達し三千の死体を遺棄して散り〴 〵に逃走。鯉登部隊は東正面より新関を攻撃、残敵を壊滅し新関を突破して廿七日夕刻には巨城鎮を猛撃、小林部隊は廿七日早朝娘子関から正太線に沿つて西南進し東武庄を占拠したのである。
 山西人が幼少の時から掘り慣れた穴掘り作業で大行山脈の峨々たる山腹にベトンで固めたトーチカを並べてゐた、国民第一次革命で閻錫山が清朝兵を撃滅したる難所もかくて今や完全に我が馬蹄下に蹂躙せられたのである。
 娘子関方面の敵は約十ケ師、この大戦闘によつて敵はその半数を壊滅せられ娘子関一帯の戦場に遺棄された敵の死体は実に一万を越たのである。
 かくて我が攻略軍は意気いよ〳〵軒昂、巨城関、移穣鎮、石門口の西方に進出し、森本部隊は石門口西方の敵を撃破して廿九日午後三時遂に平定県城に侵入し、鯉登、小林部隊、岡崎部隊は協力して卅日正太線上陽泉を占拠したのである。


 〔平定より太原に至る戦闘〕 平定県城は正太線南側、陽泉の東南方で太原より僅か十五里の地点にあつて、大行山脈の麓に広がる平原の中心地で、娘子関に次ぐ敵の主要なる守備線であつた。
 この日我が陸の荒鷲柴田、青木両部隊の空中よりの偵察によれば正太線方面で敗退した敵は全く戦意を喪失し、陣容建直しの暇もなくチリ〴 〵バラ〳〵に逃走してゐる事が判明した。
 かくの如く我が軍は既に雪さへ降る山西の険路を未だに夏服のまゝ、糧食、水の不足に悩まされつゝも、常に敵の意表に出で、分散するかと思へば集合し、背後を衝くかと思へば正面に現はれ、北に現はれたと思へば南へ現はれると云つた具合でたゞ敵の心胆を寒からしめ狼狽せしむるのみ、所謂分進合撃の作戦の妙味は遺憾なく発揮されたのであつた。
 卅日陽泉を陥れた小林部隊は卅一日平定西方約二里の辛興鎮に到達、付近は道路は殆んど無きに等しく、加ふるに糧食飲料水欠乏のためその辛酸全く言語に絶するものがあつたが、士気愈々旺盛、続いて辛興鎮西方三粁坡頭村南北の陣地に拠る敵を駆逐して十一月一日に至るや寿陽の東方峨々たる岩山に囲まれた測石鎮の敵を一蹴し、更に続いて西方旧街付近の敵を撃破したのである。
 一方小林部隊の南方を進撃中の岡崎騎兵部隊は西方芹泉鎮を突破し、壊走の敵を追撃して、二日午後零時卅分正太線上の要地寿陽を占領、更に西方に向つて追撃を開始したのである。これに呼応し我が陸の空軍部隊は、爆音高らかに大行山脈を越え、寿陽より太原へ向け敗走する敵の退路を猛爆、大孟鎮付近で車両三百を有する敵軍団を壊乱せしめた。線路を破壊された敵は機関車二、貨車五十四両を遺棄したのであつた。
 この日島谷部隊浜田大尉指揮の空軍は太原空襲を敢行し、今や気息衰へた敗残兵の心胆をいやが上にも寒からしめたのであつた。
 かくして正太線上太原めざす我が西進諸部隊――鯉登、小林、森本、鈴木、岡崎等の各部隊は敗走する敵を愈々急追、既に石門口、平定、陽泉、寿陽の各要地を次々に占拠したが四日夕刻快速岡崎部隊が先頭を切り小林、鈴木両部隊は楡次を占領、同蒲線を太原南方に於いて遮断、敵の退路に迫つたのである。
 楡次は同蒲、正太両線の交錯する要点で、太原城及び同蒲線上の敵は、我が楡次占領により鉄道線路による退路を遮断されたわけで、同蒲線上の猛攻撃と相俟つてその戦果を大ならしむるものがあつたのである。
 わが空軍は四日太原南方五里、清源付近を南に向ひ退却中の敵乗用車廿、トラック五十を爆撃、大損害を与えた。
 九日午前八時半太原は全く陥落したのである。翌十日太原城包囲の我が軍は折からの小春日和に感激の面を輝やかせつゝ軍靴の音も高らかに、堂々入城式を行つた事は既に述べた通りである。
 太原城内にあつて最後の抵抗を試みてゐた十余万の敵は、太原より西方へ壊走した。
 我が正太線攻略部隊は四日既に楡次を陥れて以来、この敵の退路に待ち伏せて包囲殲滅の態勢を取つたが、逃げ足の速い敵は、同蒲線西側地区並に山西西南地区の山岳地帯に逃走したため、岡崎部隊はこれを急追して楡次から同蒲線を長駆南進九日早くも平遥に入り、同蒲線南下部隊の長谷川快速部隊が清源に進撃したのと呼応して、太原付近殊にその西南方付近地区から敗残兵を掃蕩したのであつた。かくて、敵の北支方面作戦の策源地、殊に共産軍の根拠地たりし山西省は今や完全にわが制圧するところとなつたのである。

 〔山西方面の敵損害〕 山西方面に於る敵の損害は十一月廿日調査によると次の如くである。
 十月十二日より十一月九日まで
 △遺棄死体――九、二三五
 △死傷―― 三九、六六〇
 △俘虜――     三〇
鹵獲品
 野山砲七八〇、迫撃砲四〇〇、重機七、軽機一五、防毒面二、〇〇〇、貨車三一七、機関車一二、高粱、粟四千俵、米二万俵、メリケン粉一万貫。これに比して我が方の損害は軽微であつたことは慶賀に堪へない次第である。

 〔その後の正太線攻略部隊の任務〕 前記正太線西進太原攻略部隊たる岡崎、小林、森本、鯉登、鈴木等の各部隊は、引き続き楡次、太原方面にあつて、共産軍、及び旧閻錫山麾下敗残兵の蠢動を抑へ、治安の維持に当つてゐたが、その後休養三ケ月、十三年二月十一日、紀元の佳節を期して、北支戦線、殊に京漢、同蒲両線の南方地区より黄河流域に至る大掃討戦に当つて、同蒲線を中心とする山西西南地区の掃討戦に活躍し、またたく間に、介休、霊石、聞嘉、運城を陥れて、同蒲線南端蒲州に殺到し、今や黄河の対岸、西隴海線の要地潼関を指呼の間に望みつゝ、小癪にも対岸より反撃し来る敵を、捕捉撃滅しつゝあつたのである。
 かくて今や山西一帯、殊にその西南地区より陝西省方面に敵を壊走せしめ、よく困苦欠乏に耐へつゝ、良民の保護、治安の維持に任じつゝ、新政権の基礎を固むべき重大なる役割を日夜遂行しつゝある事を銘記して山西省に於ける戦績報告を終る(以上戦闘写真は東京日々新聞社の好意による)

 〔山西省概説〕 山西省は面積八万千八百五十三方哩で、人口一千二百万と註せられてゐる。本省の別名を晋省または山左と称してゐるが晋省といふのは往昔、晋の地であつたからで山左または山西といふのは本省の大部分が、大行山々脈の西方に位するからだらうと思はれるが、或は恒山(ホンシヤン)の西方にあるからとも解せられてゐる。
 本省の境域は、北は内蒙古即ち蒙疆連盟自治政府の管轄区域に接し、西は黄河を以て鄂爾多斯及び陝西省に隣りして、南は河南省に界接、東は河北省に至り、東南の一部また河南省に連つてゐる本省の首府を太原府(タイユワンフウ)といひ、汾水の渓谷に在つて略省内の中央に位してゐる。
 山西省は高原に位してゐるために、山岳に富んでゐる。その間黄土及び沖積層の土壌があり、富饒なる土地もないではないが、農産物は概して貧弱である。たゞ石炭及び鉄はその産額が極めて多く、世界有数の産地といはれてゐる。たゞ従来交通不便の故を以つて採掘が振はなかつたが、近来鉄道の開通とともに次第に隆盛に赴くことゝなつた。殊に今回北京に臨時政府が出来てからは津石鉄道の敷設、同蒲鉄道の完成計画と相俟つて、鉱山の開発事業に一新期を画せんとしてゐるので、今後の発展は想像に余りあるものがある。
 河流は黄河及びその支流の汾水を主要なるものとしてゐるが、その他幾多の水流が本省内に発して東西南の三面に流下してゐる。しかし一として舟運に便なるところはない。土地豊穣にして農産物に富むところはこの汾水の流域だけで、この外は概して山地で農耕には不適当である。このやうに農作物の乏しい結果は、自然省内における商工業の発達を促し、人民は勤勉で、蓄財の道に長ずるに至つたのである。即ち彼等は内は工業に従事し、外は商業に励み、殊に商業にかけては天才的の技能を有し、外省若くは遠く塞外に出てゝ営利を謀るもの、巨万の富をなすものが多い。特に金融業に至つては、本省人の最も得意とするところで、本省の銀行業が全国に冠たるのみならず、全国の金融業は殆んどこれら山西人の手に握られてゐる有様である。

 〔地質及び地形〕 本省は石灰岩の層が大部分を占めてゐて、その下に広大なる石炭床を蔵してゐる。石灰岩の上層には砂岩、黄土及び沖積層の土壌がある。殊に黄土の地域は最も広大で、殆んど本省の中央を南北に延亘してゐるが、その厚さは各地によつて相違があり、南方の黄土帯の如きは二千呎に達するといはれる。東西の両辺端には花崗岩、片岩、斑岩より成る長大なる山脈がありまた中部には汾水の東方に霍山があつて花崗岩、変質岩を以て形成されてゐる。
 本省の高原は北より南に向つて傾斜してゐて、高さは各所一定しないけれども、海抜四千九百呎から五千二百呎の間にある。高原の上には東部及北東、北の三面に高峻なる山脈屏列し中には七千呎以上の山峰が巍峨として聳えてゐる。その北方にあるものは陰山(インシヤン)山脈で、長城の北方に並行して東北に延び、河北省の口外に至つてゐる。その東南に五台山(ウータイシヤン)恒山の二山脈があり、山西、河北二省の間に跨つてゐる。五台山は海抜一万呎、高原を抜くこと三千六百呎に達する。更に東南には大行山々脈があつて河北、河南二省と本省との境界をなしてゐる。これより西方汾河(フエンホオ)の左岸に霍山(ホウシヤン)があり、海抜七千八百六十呎の高峰である。大行山々脈は河北、河南の方面からこれを望むと巍然として天を摩すかの観を呈するがその実あまり高い山ではなく、高原の上にあるため平地から見ると非常に高いやうに見えるのである。

 〔気候と水系〕 本省の気候は支那本部中でも最も寒冷であるといはれる。それは高原に位するのと山地に富めるからであらう。冬季は積雪絶ゆるときなく、零下四、五度から十度に降ることは希でない。夏季は八十度内外の温度で、概して涼しい。
 本省の水系は、南部には汾水、沁河の二流がある。いづれも黄河の支流で、北部においては白河の支流たる東洋河、西洋河、桑乾河、滹沱河等がある。以上諸河のうち汾水が最も長流で、忻州、太原、汾州、霍州、平陽を経、絳州、河津県の西南に至つて黄河に注いでゐる。河口より絳州に至る間、舟運の便がある。

 〔山西省の主要産物〕 (鉱物)本省の鉱物はその豊富なること全国に冠たるもので、殊に石炭と鉄とは殆んど無尽蔵といつてもよい。石炭の産地は太原府、平定州、沢州府等を中心として、その外長城外、汾水の西部にも産出する。鉄は平定州に最も多いが、沢州、潞安等の諸府にも少なくない。石炭、鉄の外、解州、陸村の大塩地からは夥しい塩を産出する。また陽曲県王封山からは良質の硫黄を産する。

(註)山西省の石炭については一八七〇年頃リヒトホーフェン氏がこれを調査したことがあるが、その報告によると、本省の産炭量はこれを米国ペンシルヴアニア州に比して決して劣らないのみならず、むしろその上にあるといつてゐる。爾来欧米人の山西省炭坑に注意するもの甚だ多かつたが、光緒二十四年四月九日(一八九八年五月廿八日)英国の北京シンジゲート(福公司)が先づ北京政府より本省における石炭採掘権を獲得し、ついで英露両国交渉の結果、露国もまた汾河一帯の鉱山採掘権を得た。これを知つた山西省民は莫大な利権が外人の手に帰したのを憤慨して、英露両国の権利に属する以外の鉱山を採掘せんと企て、山西の有志は三十万両を拠金して山西同済鉱務公司を組織した。その外各地の商売に就ても保晋、晋益の二公司を組織して、英露両国の会社に対抗した。然るに日露戦争後に至り、支那全国を挙げて利権回収の熱が高まり、山西の商民はこの機会に乗じて全省の鉱山を回収せんとし、政府またこの議に賛成して交渉を開始した結果、遂に一九〇八年一月、二百五十万両を以て全省鉱山の利権を回収した。本省における石炭の主産地は沢州府における書院頭、東孫村、大陽、梨川、大箕、張嶺、南村、五門、司馬山、二十里舗、小城の諸鉱山で、鉱床は一丈二尺より三丈。この外、高平、鳳台、陽城、沁水、陵川の五県にも鉱山がある。汾水の流域には、翼城、平陽、洪洞、趙城、霍州、霊石、岳陽、浮山等の各地がいづれも豊富なる鉱区として知られてゐる。陽城より翼城に至る道端の如き、至るところ岩石の間に大炭層を露出してゐる。また山西省東部地方にあつては太原、陽曲、楡次等の各県に石炭を産し、平遥県の秦山に、窟頭、楡次県の太峪口、乱石湾、太原県の王噴山、北家湾等、皆著名で太原府城の西方にある西山の炭田もまた有名である。この外、代州、五台県の西天和、姚頭等の炭坑も知られて居り、大同府にも鉱区が少なくない。専門家の測定によると本省の炭床は、五、五一一、二四〇、〇〇〇、〇〇〇立方呎で一九五二億トンに達するであらうといはれてゐる。

(農産物)本省中、太原府、平陽府、絳州等汾水の流域は、農産物の最も豊富な地方で、雑穀、煙草、綿花等を産出する。その他全省を通じて麦、豆類、高粱、玉蜀黍、粟等を産する。本省にも、その産額は多量ではないが阿片が出来る。果物も豊富で葡萄の如きは最も佳良といはれ、葡萄酒の製造は支那全国中本省は有名である。北方塞外の蒙古人区域には牧畜が行はれ牛、羊、馬、駱駝等の放牧が盛んで羊毛、羊皮等を産出する。

(商工業)本省が商工業の盛んなことは前述したが、就中、平定州の鉄器製造、絳州の紡績綿布、汾州の酒造業等は最も有名である。本省の輸出品は石炭、鉄、鉄器、食塩を主要品とし、また塞外からは獣皮、獣毛、毛織物等を輸出する。輸入品の主なるものは穀類、綿布、綿糸、絹織物、毛織物、雑貨品、茶等である。

 〔交通〕 本省は概して山岳地帯であるため良好の道路がなく、交通は頗る不便で、貨物の運搬は専ら馬、駱駝、驢馬等によつてゐる。主要なる道路としては左の数条である。

一、河北省正定府より陝西・西安に通ずる大路で太原、平陽、蒲州等の各府を経て専ら汾水の流に沿ひ潼関を経て西安府に至るもの。

一、太原府より長城外に至る道路で、忻州、代州を経雁門関より分岐して、一は朔平府を経て厚和(綏遠)に至り、他は大同府を経て察哈爾省の張家口に至るもの。

一、河南省より太原府に通ずる大路で、各府より来る三路(河南府より一路、衛輝府より一路開封府より一路)と沢府に入つて相会し、これより潞安府を経て太原府に至るもの。

一、察哈爾省宣化府より本省の北部に通ずる大路で、大同、朔平の二府を経、殺虎口を通過して厚和(綏遠)に至るもの。

一、大同府より朔平府、寧武府、保徳州を経て陝西省の北部に入り甘粛、新疆に通ずるもの。

一、太原府より岢嵐州を経て、保徳州に至り、更に陝西省の北部に通ずるもの。

一、太原より汾州府を経て、陝西省綏徳州に至るもの。

 この外、水路としては汾水河口より絳州城迄舟楫の便があり、黄河も竜門より上下出来る。しかしその河道は険難であるが、全然舟運がないことはない。

(鉄道)同省は山岳地帯で鉄道は少ない。正定府の石家荘を起点として、西行太原府に至る二四二粁余、軌幅一メートルの一線がある。これを正太鉄道といふ。(河北省の項参照)最近この鉄道を石家荘から延長して、山東省の滄州に至るいはゆる滄石鉄道の敷設計画があつて注目されてゐる。更に北方大同府より太原を通過し省の西南隅、蒲州に至る同蒲鉄道がある。この外、河南省道口鎮より省境清化鎮に至るいはゆる道清鉄道があり、最近では沢州まで通じてゐる。

 〔住民と言語〕 本省人口の密度はこれを陝西省に比べると稍高いが河北省よりは希薄である。その最も稠密なのは汾水の流域で、長城外は頗る希薄である。住民の大部分は漢人でこの外に蒙古人、回教徒がある。本省の言語は北京官話で、官話は全省通じないところはない。北部長城外における蒙古人は蒙古語を使つてゐるが、官話にもよく習熟してゐる。
 以下太原を中心として山西省の各地に散在する主なる市邑を揚げて、その沿革と主要物産を述べることゝする。

 〔太原(タア・ユワン)〕 本省の首府である。春秋時代の晋の都城であつたが、秦の時太原郡となり、更に漢の時代に至つて韓国、代国、太原国、太原郡等と改められた。漢以後も幾変遷したが、明、清に至つて、太原府と称し、本省の首府となつたのである。
 府境は山岳に富み、四面は険阻でたゞ中部に汾水の平原があるばかりである。府城は海抜二千六百呎の高台に位して、周囲には強固なる城壁が巡らされてゐる。太原府の人口は約三十万と言はれ、前清の時、巡撫、布政使、提学使、提法使等大官の駐地であつたがために、各衛門を始め高等、農林、師範等の諸学堂、郵政、電報諸局、銀行商会等の文化機関も多く、商業は頗る殷盛を極めてゐる。しかも家屋、商舗の壮麗なることは、他省にその比を見ないくらひである。城外には繁盛なる村落が点在してゐて、豊富なる農産物や鉱物が、日々牛馬車に積載されて府城に運搬されてゐる。同地の物産は穀類の外石炭、鉄、硫黄(陽曲県)等の鉱物、葡萄、蓮実、西瓜等の果実、甘草等の薬品から、葡萄酒、獣皮等の製造加工が盛んである。また府城には良質の鉄を産する関係から武器の製造所があり、刀剣、小刀、菜刀等も多量に製出されてゐる。府の所轄は、州一、県十で、陽曲(府城)太原、楡次、太谷、祈、徐溝、交城、文水、嵐、興の十県、及び岢嵐州がこれである。中でも大谷県は銀行業の繁盛なる地で、支那全国は勿論、桑港、ロンドン、マルセイユ等に支店を有する銀行家が多く、徐溝県は人口二万乃至二万五千を有して、商業土地として知られてゐる。
 太原府が頓に発展するやうになつたのは、民国以来閻錫山がこの地に駐するやうになつてからでいはゆる山西モンロー主義を唱へて鋭意省内産業の振興につとめたがためである。彼はその後いはゆる山西省の産業十年計画を立て、経済建設委員会の下に省内に製鋼所、機械、軍需工場等重工業を経営する一方、更に西北実業公司による窯業、煙草、毛織、マツチ等の軽工業を奨励して、省産業保護費を支出したり、兵工政策による同蒲鉄道の建設、村経済建設委員会等を組織して鋭意同省の産業を奨励した。かくて彼は山西に鎮座すること十有八年、一時は支那における模範省としての経済建設に成功したが、一九三〇年、馮玉祥に担がれて反蒋戦争に出馬し、一敗地に塗れてからはいはゆる彼の山西モンロー主義も一頓挫の形となつた。
 次で一九三六年、中央軍の山西侵入とゝもに彼は蒋介石に屈服して、山西省は完全に中央の統制下に帰したのである。
 その結果は遂に彼も抗日戦線に巻込まれて、太原綏靖主任、軍事委員会副委員長として抗日戦の一方の雄として活躍したのであつたが、皇軍の猛攻を支へ得ず、寿陽、忻口鎮、忻県、関城鎮、楡次の陥落とゝもに十一月八日遂に太原を棄てゝ南方臨汾に逃走、こゝに山西首都太原は完全にわが軍の手中に帰したことは前述の通りである。

 〔汾州(フエン・チオウ)〕 太原の西南方にある。こゝは元曹魏時代の西河郡で明の万暦年中これを汾州府としたのである。
 この地は山谷高深で、赤堅、呂粱、綿上、石楼等の諸山が域内に聳えてゐる。府城は汾水の支流である文峪河に面してゐて、豊富なる石炭の産地に接近して、商業も亦盛んである。所轄は州一、県七で、永寧州及び汾陽(府城)孝義、平遥、介休、石楼、臨、寧郷の七県がこれである。物産は農穀の外、石炭、銀等の鉱産、毛織物、汾酒等の製造品、甘草その他の薬品がある。就中汾酒はその名全国に高く、販路は頗る広い。平遥県は人口六万を有する大都会で、河南省に輸出する物産の集散市場である。その西に張蘭鎮があるが、この地もまた銀行業の盛んなところで、その繁盛は太谷県に似てゐる。永寧州は府の西北にあつて、匈奴の劉淵が都した左国城はその東北二十支里のところにある。

 〔平定(ピン・テイン)〕 太原府の東にあつて、東部は河北省に接してゐる。宋の平定郡の地で、金、元、明代は平定州といひ、清代に至つて平定直隷州となつた。東に井陘の険を扼し、東南に大行山々脈を帯びて山岳が多く、地勢は頗る険阻である。州城は人口二万を有する工業地で、盛んに金銀鉄等の器物を製出してゐるが商業また観るべきものがある。所轄は孟、寿陽の二県である。物産は前述の器物の外、石炭、鉄磁器、青礬等があり、その磁器は白色で精巧玉の如く、世にこれを定窯と称されてゐる。
 尚平定から三里を離れて陽泉がある。この地は山西省直営の製鉄所、保晋鉄廠をはじめ平定煤鉱公司など大資本を擁した工場がある。正太鉄路の起点石家荘から山西の首都太原に至る中心の新興都市で汾河の渓流を挟んだ付近の山塊は無尽蔵の鉄、石炭で埋もれてゐる。その埋蔵量は絶対に目安さへつかないほど多量のものといはれてゐるが、省政府では大正六年こゝに七十万元の資本を投じて製鉄所を設けて以来、名もない山間の村落陽泉は一躍工業都市としてその名を謳はれるに至つた。

 〔遼州(リイアオ・チオウ)〕 太原府の東南にあつて、唐宋代の遼州、楽平郡で、金、元以後は単に遼州と称した。東は大行山々脈に拠り、清漳水の上源に位してゐる。所轄は和順、楡社の二県で、物産は穀物の外、人参、石炭、薬品、蝋等を産する。

 〔沁州(ツイン・チオウ)〕 太原府の南に位してゐる。この地は北魏時代の義寧郡で、隋代沁州、唐代沁州、陽城郡、宋代威勝、金代沁州、綿山郡と称したが元以後は単に沁州と云つてゐる。綿上、霍山の諸峰が州の西境に聳え、沁河の一流も本州より出でて、平陽府界に入つてゐる。所轄は沁原、武郷の二県で、物産は穀物の外、毛織物、綿布、薬品、鉄等がある。

 〔潞安(ルウ・アン)〕 漢時代以後、隋に至る間この地を上党郡と云つたが、宋代に至つて隆徳府と称し、金元代潞州となり、明に至つて潞安府と改められた沁州の東南に在つて東は河南省に接し、大行山々脈の西に拠り、南には壷関の険を扼してゐる。濁漳水はこの間を流下して河南省に入るのである。所轄は長治(府城)長子、屯留、襄垣、潞城、壷関、黎城の七県で、物産は農穀の外、塩、潞酒、潞綢、紫草、不灰木等がある。長子県は西燕の慕容永が都したところで、昔、周の文王が辛甲を封じたのもまたこの地だといふ。

 〔沢州(ツオウ・チオウ)〕 潞安府の南にあつて、本省の東南端に位して東南の二面は河南省に接してゐる。今の沢州府と呼ぶに至つたのは清代で、元は建州と云つた。この地も大行山々脈を背負つて沁丹の二水が府境を流下して河南省に入つてゐる。所轄は鳳台(府城)高平、陽城、陵川、沁水の五県で、物産は農穀の外、硫黄、石炭、鉄及び麻布沢綢等を産出し、鉄器の製造も盛んである。河南方面との交通の便があるので、石炭、鉄、鉄器類の彼地に搬出するのが多い。

 〔霍州(ホウ・チオウ)〕 沁州の西にあつて、霍州と云ひ習はすやうになつたのは、金代以後のことである霍山の西にあつて、汾河はその中央を流れてゐる。所轄は趙城、霊石の二県で、物産は穀物の外、塩、鉄、牛皮、杏仁、磁器等である。周の初め霍叔処が封ぜられたといふ霍城は本州の西南十六支里の地点にある。

 〔隰州(シイ・チオウ)〕 汾州の南、黄河の東に当つてゐる。北魏の頃は、汾州、五城郡で斉、周代は汾州竜泉郡と云ひ、隋代には隰州、竜泉郡、唐、宋代は隰州、大寧郡と称し、金以後単に隰州となつたのである。沂水その他の河流が州内を流れてゐる所轄は大寧、蒲、永和の三県で、物産は農穀の外、塩、鉄、綿布、蝋、蜜、箕、柳、蓆等を主としてゐる。晋の時代、匈奴の劉淵がこゝに国を建てゝ漢と号し、蒲子に拠つたのもこの地である。今の州城の東北、蒲子故城がそれである。

 〔平陽(ピン・ヤン)〕 霍州の西南にある昔尭の都した平陽(今の府城の西南地)で、秦、漢の時代は、河東郡と称し、曹魏、晋代は、平陽郡と改められ、ついで匈奴の劉淵がこゝに都して、石趙・慕容燕また相継いでこの地を有したのである。その後魏以後は、専ら晋州、平陽郡といひ、隋代に至つて臨汾郡となつた。それから唐、五代の間は、同じく晋州、平陽郡と称し、宋に至つて改めて平陽府を置いたが、それ以来、金、明、清もこれに習つて今日に至つたのである。府境は汾水の流域に位して、本省中最も肥沃の地である。しかしその割合に人口は少なく、僅かに一万九千を数ふるに過ぎない。往時は繁盛なる一都会であつたといふが、今日では商工業共観るべきものはない。府の所轄は吉州及び臨汾(府城)汾西、洪洞、浮山、郷寧、岳陽、曲沃、翼城、太平、襄陵の十県で、物産は穀物の外、棗、葡萄、薬品、茸、石炭、鉄、綿布、麻布、磁器、漆等、数多の物産がある。吉州の西黄河の畔にある孟門山はそのかみ大禹が鑿窟して水を通じた処と云はれてゐる。尚この地は穆天子伝、山海経その他の史書に有名なところである。

 〔絳州(チヤン・チホウ)〕 平陽府の南方にある。北魏の時代は、東雍州、正平郡と称し、北周の頃に絳州、正平郡と改められ、隋代は絳郡といひ、唐、宋の時代に絳州、絳郡となり、金代に晋安府と改称され、元以後専ら絳州と呼んでゐる。南に中条山脈を望み、中央には凍河があり、西部は汾水下流の流域で、漕運の便もあり、かつ本省中でも肥沃の地として知られてゐる。穀物の外、梨、棗、綿花、薬品、食塩、綿布及び毛織物等を産する。州の所轄は垣曲、聞喜、絳、稷山、河津の五県で、河津県の西北には有名なる竜門山がある。即ち陝西省の韓城県と相対して黄河を挟む。懸崖千仭、黄河第一の険処として、世にこれを竜門の険と称されてゐる。

 〔蒲州(プウ・チホウ)〕 絳州の西南にあつて、昔は舜の都、蒲阪の地であつた。晋より隋に至る間を、河東郡、唐、宋代は河中府、河東郡となり、明代に蒲州となつたが、清代に至つて蒲州府が設けられた。
 本省の西南端に位して西と南には黄河の流れを擁し、東に中条山脈を控へてゐる。所轄は永済、臨晋、虞郷、栄河、万泉、猗氏の六県で、物産は穀物の外梨、棗、柿等の果実、塩、鉄等の鉱物、絹糸、綿布、麻紙、筆等の製品がある。名勝古蹟としては、府城の東南に舜都蒲坂があり、舜が耕したと称する歴山は府城の東南六十支里のところにある。また伯夷、叔斉が蕨を採つたと称せられる首陽山は、府城の南三十支里の地点にある。古来からその名を知られてゐる。風陵津は黄河を隔てゝ潼関の街と相対してゐる。

 〔解州(チエ・チオウ)〕 蒲州府の東にあつて、中条山脈の衝に当り、南に黄河を臨み、中に姚暹渠がある。所轄は安邑、夏、平陸、茵城の四県で、物産は農穀の外、塩、鉄、銅、錫、明礬等の鉱物、海榴、棗、葡萄、杏仁及び種々の薬品がある。殊に陸村には昔から著名な塩池があつて、夥しい塩を産する。この塩は広く河南、陝西の諸省に輸出されてゐる。
 本州は名勝古蹟に富み、安邑県には大禹の都(県城の東一支里のところに故城がある)した安邑がある。戦国の頃、魏も亦この地に都したといふ由緒ある地である。平陸県の南なる黄河の中央には人の知る砥桂山がある。尚同県の東にある傅嵓は殷の武丁が伝説を得たところだと伝へられてゐる。

 〔忻州(シン・チオウ)〕 この地は太原府の北にあつて、漢末から曹、魏、司馬晋の頃は新興郡、北魏の時代は肆州、秀容郡といひ、隋代に忻州となり、金以後専ら忻州と称するやうになつたのである。州城は滹沱河の支流である牧馬河に面して、商業地として知られてゐる。所轄は定襄、静楽の二県で物産は穀物の外、鉄、石炭、塩、羽毛、解玉砂等がある。なほこの忻州及び北方の崞県は今回皇軍の太原攻略戦に激戦が展開されたところである。

 〔代州(タイ・チホウ)〕 漢の雁門関で、爾後、魏、晋、歴代これによつたが、金以後専ら代州といふのである。忻州の東北に位して、東は河北省に連り、北に長城を負ひ、中央に五台山脈を擁して、西北に句注、雁門等の諸連峰が聳えてゐる。州城は滹沱河の上流にあつて、こゝに県公署がある。所轄は五台、崞、繁峙の三県で、物産は穀物の外、石炭、鉄、蔬菜、果実等を主としてゐる。五台県にある五台山は又の名を清涼山といひ、支那仏教三大霊場の一つで文殊菩薩示現の霊地と称されて、漢の時代、寺宇を建立せし以来、清朝に至るまで寺刹の創建又は重修が行はれた。往昔は寺数三百に余つたと云ふが、現時は僅かに百刹に過ぎない大顕通寺、清涼寺等は最も有名であり、唐の澄観が華厳宗を起したのはこの清涼寺においてであつた。また大文殊寺を初めとして喇嘛寺十刹があり呼図克図こゝに住して、蒙古人の詣礼するものが少くない。

 〔寧武(ニン・ウー)〕 春秋時代の楼煩の地で、戦国の時、趙に属し、清に至つて寧武府とした。忻、代二州の西北にあつて管涔山その他の諸峰が府境に聳えてゐる。所轄は寧武、偏関、神池、五察の四県で、物産は農穀の外、葡萄、桔梗、鯉、鉄及び毬等がある。

 〔朔平(シユオ・ピン)〕 寧武府の東北にある北魏の頃の神武郡の地で、隋・唐代の馬邑郡、遼、宋以後、朔州となし、清に至つて朔平府となつた。府境は雁門山の陰にあつて、北、西、南の三面が長城に囲まれてゐる。府の所轄は朔州及び左雲、平魯、右玉の三県で、物産は農穀の外、石炭、鉄、羽毛、薬品等である。右玉県の北に殺虎口があるが、こゝは長城における関門の一つで、これを出づれば厚和(綏遠)を経て蒙古に通ずるのである。それ故に古来関を設けて課税してゐる。尚朔州は古の馬邑城で漢の時代、匈奴と交戦したのもこの地であつた。尚、山西省の記述を終るに際し、共産主義教育が根強くはびこつてゐたのを是正するために、新に新民教育が施されつゝあることを付記して置く。



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