略史 《高田歩兵第三十聯隊》


 明治二十九年十一月十二日、新発田歩兵第十六聯隊内で編成され、翌三十年八月中蒲原郡村松町に新築された兵舎に移駐した。三十一年三月二十四日、宮中において、明治天皇より軍旗を拝受した。
 明治三十七年二月五日、日露戦争による動員令が下った。同月二十四日、営門を出発、征途につく。以後蛤蟆塘、摩天嶺、弓張嶺など各地の戦闘に参加、特に弓張嶺の夜襲は壮絶であった。その後、黒英台、楊城塞、黒溝台、西孤嶺、撫順東部、蘇我屯(*注・一)の各戦闘にも参加、数々の武勲を樹て名誉ある感状を二度まで授与された。三十八年十二月三十一日、戦役終了のため、凱旋完了。
 四十一年十月二十三日、第二師団の隷下を離れ、第十三師団に編入された。
 大正二年四月十八日、満州派遣のため村松を出発、同下旬旅順に着き、二年間にわたり同地方を警備し、四年六月七日、村松に帰還した。
 大正八年九月十五日、シベリアに不穏の動きがあり、三十聯隊にも動員が下令された。敦賀港から出発、ウラジオストックに上陸、グロデコウ、イポリトフカ、ハバロフスク、ズビンスキー、ニコリスクなどの戦闘に参加、警備にあたる。
 同十年五月六日、ウラジオストックから敦賀港に帰還、原駐地村松に凱旋した。
 大正十四年五月五日、軍備縮少により第二師団に編入され、村松から高田に移駐した。
 昭和六年四月十六日、満州警備のため高田を出発し、同十八日、大阪港から輸送船にて、旅順に向かう。二十三日、旅順に上陸する。
 九月十八日満州事変の火ぶたが切られた。十一月十五日、聯隊は旅順を出発、前線に出る。ミ々溪(*注・二)、営口、田庄台、ハルビン、北満爽信子(*注・三)付近の戦闘に参加した。八年一月二十一日、原駐地高田に凱旋した。
 昭和十二年四月十二日、ふたたび満州派遣がきまり、聯隊は新潟港を出発、十五日、羅津港に上陸、賓江省(*注・四)五常県に着き、以後同地付近の警備にあたる。七月七日、日支事変がぼっ発、一ヶ月後の八月十八日、緊急派兵が下令され、北支に出動した。鉄角嶺、(軍指令官(*注・五)より感状を授与される)、原平鎮、折口鎮(*注・六)南庄頭付近、太原等の戦闘に参加し、十二月三日、駐屯地五常とハルビンに帰還した。以後、穆稜站に駐屯、同地周辺の警備にあたる。十四年七月十六日、応急派兵が下令され、八月二十六日、ノモンハン事件参加のため穆稜站を出発、ドロト湖南西地区の戦闘に参加した。十月八日、駐屯地穆稜站に帰還した。この折、閑院参謀総長宮殿下より御言葉を賜る。
 十五年八月十三日、第二師団の隷下を離れ、第二十八師団に編入され、ハルビンに移駐、ハルビン付近の警備にあたる。太平洋戦争中もずっと満州に駐屯していたが、十九年六月十六日、臨時編成を下令され、七月一日編成を完了、同月十三日朝鮮釜山を出港、十八日宮古島に上陸した。連合軍の上陸に備え、警備していたが、連合軍は隣島沖縄に上陸した。沖縄の死闘に切歯扼腕しつつ八月十五日の終戦となった。

*補足(藤本)
 本文中に(*注)とある箇所は、藤本が書き加えたものである。原文に(*注)という表記はない。


*補足二(藤本)
 以下、藤本の注記。

(*注・一) 正しくは「蘇牙屯」

(*注・二) ほかに「ミ々渓」「昂々渓」の表記がある。

(*注・三) 正しくは「夾信子」

(*注・四) 正しくは「浜江省」

(*注・五) 正しくは「司令官」

(*注・六) 正しくは「忻口鎮」


*補足三(藤本)
 数冊の関係書籍をもとに原文の誤りを修正した。しかし、各資料間における年月日の相違などについては、事実を突き止めることができなかったために、そのままになっている。



引用文献
陸軍郷土歩兵連隊の記録/写真集 わが連隊』 ノーベル書房



戻る