長崎勝平中尉のこと


 『石坂准尉の八年戦争』をご覧になった方々から、励ましのお便りを何通か頂いた。その中でも、長崎平人氏(神奈川県在住)からのメールには少々驚かされた。平人氏は、石坂准尉が満州にいた頃の第二大隊副官・長崎勝平中尉のご子息なのである。
 このコーナーでは、私と平人氏がやり取りしたメールを引用してその経緯を報告するとともに、長崎勝平中尉の経歴を簡単に紹介する。



■長崎平人氏からのメール

突然のメールで失礼致します。

ネット上で偶然「石坂准尉の八年戦争」というサイトを見つけ、読み進めるうちに自分の父親の写真が2葉も掲載されているので大変驚きました。

「ノモンハンの戦い」の中に出てくる「長崎中尉」です。
父は、昭和36年に病没したのですが、戦争の話はあまり聞いたことがありませんでした。ノモンハンに従軍したことは知っていましたが・・・

また、同じく名前の出てくる「相沢中尉」や「玉井少尉」は戦後、何度かお目にかかったことがあります。

父の戦争を追体験出来た気がします。

本当に有り難うございました。

これからのご活躍をお祈り申し上げます。

長崎平人


***

■藤本泰久の返信メール

お手紙、ありがとうございます。
私も突然のことで、大変驚いております。
そして、同時に大変うれしく思います。

当ウェブサイトでは長崎中尉の写真を二枚しか公開していませんが、実はもっとたくさんあります。
石坂准尉が個人撮影したものの中では、長崎中尉の写真が一番多いのです。
CD-Rを引っぱり出してこなければ正確な枚数は判然としないものの、六~七枚くらいあったと記憶しています。

石坂准尉と長崎中尉の関係ですが、前任の第二大隊副官は宮田金吾中尉という人物で、その宮田中尉が第五中隊の中隊長として異動した後、後任の副官としてやってきたのが長崎中尉です。
(推測の域は出ませんが、以上の経緯で、まず間違いないと思います)

見逃してはならないのが、石坂准尉と長崎中尉は同じ第二大隊本部でともに勤務した戦友同士である、ということです。
もしかしたら、戦後、戦友会などで、両者は再会を果たしているかもしれません。

私自身、うろ覚えの記憶なのですが、石坂准尉の話の中に、長崎中尉の人柄について述べていたことがありました。
はじめのうちは録音機を使っていなかったので、今ではもう詳細は怪しいものの、
「腹の据わった人だった」
と、石坂准尉が語っていたように思います。

でき得るならば、二人の間柄を石坂准尉に質問したいのですが、存命していないのでどうしようもありません。
とても残念です。

藤本泰久より

***

■長崎平人氏からのメール

藤本 泰久 様

早速のお返事有り難うございました。

父の写真が六~七枚あるとの事だそうで、もしよろしかったらお暇な時に添付ファイルで送っていただけたら、大変有り難いのですが・・・

石坂准尉のお名前は、残念ながら私の記憶の中にはありません。
戦後大勢の戦友の方々が、父を訪ねてみえられましたが、おそらくその中のお一人だった可能性もあります。

実は先月の15日、10年ぶりに父の墓参りに新潟へ行きました。そのすぐ後に「石坂准尉の八年戦争」を見つけたので、何か因縁のようなものを感じました。

藤本様とお知り合いになれたのも、何かのご縁かもしれません。
機会がございましたら一献傾けたいと存じます。

ご都合のよろしい時、携帯にメールかお電話をいただければ幸いです。

それではお目にかかれる日を楽しみに・・・

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■藤本泰久の返信メール

お返事が遅れまして、失礼しました。
ご要望の写真を添付・送付します。
全部で六枚ありました。
経年劣化のため、ぼろぼろのものがありますが、ありし日のお父上が写っております。
軍人ひげが、誠に立派ですね。

さて、長崎さま。
私の方こそ、ぜひともお会いしたいです。
長崎中尉(最終階級はもっと上位でしょうね)の思い出話や、戦後、長崎中尉を訪ねてこられた元軍人の方のお話をうかがいたいです。
思わぬ発見があるのでは……と、期待しております。

ちなみに、私の今月のお休みをお知らせしておきます。
十七日、二十三日、三十日が空いております。
残念ながら、この日以外は仕事が詰まっています。

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藤本泰久より

第二大隊副官 長崎中尉



長崎中尉、近藤准尉

長崎中尉

(東寧国境警察隊 烏蛇溝隊)
長崎中尉、その左隣 罍中尉



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■長崎平人氏からのメール

藤本泰久 様

ご多忙中のところ、早速に父の写真をお送り下さいまして誠に有り難うございます。

すべてこれまで私が見たことのない写真ばかりでした。

母が86歳で存命なので、石坂准尉のことを尋ねてみましたが、残念ながら記憶にないとのことでした。

父は、大東亜戦争中は軍属としてセレベスにおりましたので、終戦時の階級は中尉のままです。

まあお会いしたときに、いろいろお話させて下さい。

12月17日(日)は、私もスケジュールは空いていますので、その日にお会いいたしましょう。
お互い、京浜東北線の沿線のようですから、何処か途中駅で待ち合わせしましょう。場所と時間はお任せします。

ご参考までに、顔写真を貼付ファイルにてご送信させていただきます。

それでは、お会い出来る日を楽しみに致しております。

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 かくして私は、平成十八年十二月十七日午後五時、上野駅近くの居酒屋で長崎平人氏と会った。
「長崎中尉の面影がありますね。特にひげがよく似ています」
 開口一番、長崎中尉が写っている古写真を脳裏に浮かべながら、私はそう言った。電子メールに添付されていた平人氏の写真を見たときから、
(長崎中尉にそっくりだな)
 とは感じていたが、実際に氏を目の前にすると、ますますよく似ていると思った。
「いやあ、どうやら年を取ると、誰しも親父に似てくるもんなんでしょうね」
 平人氏は少々照れくさそうに、かつて軍人であった父親について語り出した。殊、軍事方面の話題になると途端におしゃべりになる私も、長崎勝平中尉なる人をでき得る限り知ろうと、無駄口をたたかないように意識しながら、平人氏の話に集中した。
 平人氏が語る──ご子息であるが故の謙遜交じりの人物評を、私なりにかみ砕いてまとめると以下のような具合である。

 長崎中尉は歯に衣着せぬ意見を、相手が誰であっても平然と述べられる肝っ玉の持ち主であり、故になおさら、己を律することにかけては、明治生まれの日本人として少しも恥じ入るところがない。しかし、それでいて、驚くほど情にもろいので、困っている人をそのまま放っておくようなことはできず、ときに私財を投げ打ってまで弱者を助けようとする漢気がある。無論のこと、そのような人物であるから、老若男女問わず、長崎中尉は人気者であった。

 今、この文章を読んでいる方々の中には、
「ちょっと、褒め過ぎなんじゃないの」
 などと、いぶかしむ人もあろうが、長崎中尉の功徳をしのぶ資料を、私は平人氏からプレゼントされている。伝記『長崎勝平』(六百部限定・非売品)である。本書はちまたによくある――うぬぼれが鼻につく、自費出版本ではない。戦後、大洋漁業(現・マルハ)の取締役にまで登り詰めた長崎中尉の功績とその人柄に心打たれた方々が、永久に故人の足跡を残そうと出版したものなのである。
 本書の箱付き・ハードカバーという立派な外観もさることながら、長崎中尉の思い出話を投稿している方々もまたそうそうたるものがある──学校長、博士(大学教授)、大学講師、大手株式会社社長、お寺の住職、組合理事など。
 私のような一労務者にとっては高貴な方たちばかりなので、本を読み進めながら、ただただ感心するしかなかった。加えて、どの文章を読んでも、素人くさい支離滅裂な活字の羅列が見当たらないので、
「社会的地位の高い人間は、やっぱり違うな」
 と、輪をかけて納得してしまった。
 もちろん、そのような方々と親交を結んでいた長崎中尉の才覚については言を待つまでもない。

***

 平人氏と私は、ボトルで注文したいも焼酎で気分よく酔い、長崎中尉の話以外にも、わが国を取り巻く国際情勢や、軍事関係の込み入った会話を交わした。平人氏は若い頃からテレビコマーシャルの制作に携わり、現在では映画監督という肩書きを併せ持っているだけあって、三十年もあるわれわれの年の差など、全く問題にならないくらいに酒席は盛り上がった――職業柄、平人氏の社交能力は随所で磨かれているのだろう。
 無礼講なる建前をそのままうのみにしている、たわけ者の私は調子に乗り、
「今度、陸上自衛隊の富士総合火力演習のチケットを下さい。あれって、自衛隊関係者じゃないと、なかなか手に入らないんですよ」
 などと、平人氏が退職自衛官(主に即応予備)の仕事の世話をしているというありがたい話に飛びついて、今更ながら、随分と失礼なお願いをしたものだと反省する一幕もあった──どう考えてみても、初対面の方にそこまで面倒を見てもらおうとする私のふてぶてしさには辟易しても辟易し足らないものがある。
 しかし、平人氏は満面に笑みをたたえて、
「ああ、いいよ。よかったら、二人で行こう。陸自に限らず、海自の艦観式のチケットも手配できる」
 と、実に快く、私の勝手なお願いを受けてくれた。
(さすがは長崎中尉の息子さんだ。面倒見がいいなあ)
 と、自己弁護極まりないことをさらに思ってしまう私は、底なしの愚か者である。
 そうして、この日の酒席は幕を下ろした。男二人の心地よい酒宴が予定より早く終わった理由は一つしかない。酒好きな癖に酒に弱い私が、とうとう酔いつぶれる寸前になってしまったのである。
 後に、酒豪の平人氏から、
「おい、藤本よ。そんなことで帝国陸軍軍人が勤まるのか」
 と、冗談半分のお叱りメールを頂いてしまったことは何とも情けなかった。



■長崎勝平中尉年譜

明治三十八年十一月七日 新潟県西頸城郡磯部村魚仲買長崎栄太郎の三男として生まれる。当時の磯部村はその名の如く日本海に臨む荒磯辺のうら寂しい漁村であった。

大正九年三月 筒石小学校高等科卒業。翌月新潟県立能生水産学校漁労科入学。学業成績抜群、陸上中距離、水泳、相撲、弁論部選手、全身ファイトの塊のような生徒であった。
在学中農林省嘱託として漁業試験船鵬丸(帆船百六十七屯百二十馬力)でカムチャッカ・千島の漁場調査、同十二年三月卒業、進学の念切なるも家計はそれを許さず、学費を貯えるために翌四月台湾高雄州東港水産補習学校助教諭を奉職。

同十四年四月 北海道帝国大学附属水産専門部漁労科入学、成績優秀特待生となり、相撲、弁論、新聞部の闘将として、学園内の信望を一身に集めた。

大正十五年秋 明治神宮体育大会に北大相撲部選手として出場。

昭和二年初夏 おしょろ丸で練習航海に出、期間中日本水産トロール船常磐丸にも便乗、遠洋航海記念のヒゲをはやす。「髭の長崎」これから始まる。

昭和三年三月 同校卒業。

同年四月~四年一月 陸軍幹部候補生として兵役に服す。

昭和四年二月 日本郵船貨客船因幡丸(六千五百屯)に乗り組む。

昭和五年一月 樺太庁中央試験所技手。

昭和七年一月十二日 新潟県佐渡郡二宮村石塚甚衛門長女弥生と結婚。

昭和八年三月二十八日 長女春海生まる。

同年四月 樺太庁中央試験所水産部第二科(漁労)主任となる。同所在任中樺太西海岸タラ新漁場の発見、同海域タラバガニの季節的移動を追跡、大きな業績をあげた。

昭和九年六月二十四日 長男勝弥生まる。

昭和十年七月 日本食糧工業株式会社大泊出張所勤務。

昭和十二年四月 合併により社名を日本油脂株式会社と改称。樺太出張所勤務。

同年六月 本斗魚糧工場主任。同年八月本斗魚糧株式会社支配人を兼ねる。

同年十月 休職、陸軍少尉として支那事変応召、後中尉に昇進。ノモンハン事変等に参加、大隊副官「髭の長崎」として勇名をあぐ。

幹部候補生当時
(昭和三年~昭和四年)
昭和十二年支那事変応召
陸軍少尉 長崎勝平
(日本刀を黒鞘に仕込む)

長崎中尉の戦場便り~その一
「天気の加減かヒゲが少したれています。低気圧なんでしょう。もう一本肩章の中に金条が必要だそうです。ヒゲと金条が釣合わないそうです」

長崎中尉の戦場便り~そのニ
「説明は書けません。訓練です。御想像下さい」

(八九式乙型中戦車の前にて写真に収まる――於 満州)

長崎中尉の戦場便り~その三
「黒くてもエスキモー人ではありません」

(満ソ国境にて。背後に見える山はソ連領)

昭和十三年 長女春海を失う。

昭和十六年二月 内地帰還、三月復職したが会社は統制経済強化で軍需産業へ切り替え、業務縮小のためそのポストを失う。志を得ず樺太生活終わる。

同年七月 株式会社林兼商店に入り、中支舟山列島営業所長となる。定海日本人会長に推される。

昭和十七年十月 京城朝鮮支店へ転勤。

同年十二月五日 妻弥生千葉県館山北条海岸の療養先で死去。

昭和十八年四月 本社総務部勤務、東京にある興南錬成院で現地向きの短期教育を受け、七月セレベス島マカッサル営業所長となり、十月現地到着、味噌醤油等の醸造、菓子を製造して軍に供給。現地産原料で合成清酒醸造に成功、「林兼正宗」と呼ばれ好評。

同年八月 亡妻弥生遺稿句集「病閑のすさび」をその新盆供養に記念出版。

同年秋 在留邦人老若男女千三百名(大小商社百二十の社員)を組織化してセレベス建設報国団が結成された時、その食糧部生産班長となる。

昭和十九年七月 右報国団特設部長、同年十一月第一〇ニ海軍軍需部の業務を嘱託。

昭和二十年 敗戦の色いよいよ濃く、六月民間事業接収準備委員会委員、七月セレベス民政部事務嘱託。セレベス民政部物資管理団食糧科食品班長。終に敗戦。千三百名の在留邦人は英軍濠州兵に追い出され、マカッサル市東方七キロのマロス村にある林兼味噌醤油工場構内に収容、設営に尽くす。その後北方八十キロ、マリンプンとベンテンの不毛の奥地に移され、付近原野を開墾自活態勢に入った時、マリンプンに小規模な工場を建て、味噌醤油、菓子まで造り、付近に集結した陸海軍将兵にまでも分与した。この間九月セレベス日本実業団マロスキャンプ隊長、十一月海軍宿営委員会内務班長、十二月第二軍補給部醸造隊付となる。

昭和二十一年五月 セレベス島パレパレ港より内地帰還、同月二十三日名古屋港着。

同年七月十四日 新潟県中頸城郡直江津町田中真妹田中潮子と結婚、敗戦に一変した世相の中に第二の人生始まる。

同年同月 林兼商店は大洋漁業株式会社と改称、同社三崎営業所長。同月神奈川県鰹鮪漁業者組合理事。

昭和二十二年九月六日 次男平人生まる。この年秋戦後の道義退廃を憂えて岬徳会を創立し、スポーツによって青少年を指導、社会を明るくする運動に乗り出す。

昭和二十三年十二月二十四日 次男素子生まる。

昭和二十四年四月 神奈川県鰹鮪出荷組合理事、神奈川県鰹鮪漁業者組合副組合長。同年七月組合解散、新たに神奈川県鰹鮪漁業者協会を設立、理事となる。同年四月三崎遠洋漁船製氷株式会社取締役。同月三崎冷凍餌料経営組合監事。大洋漁業を背景に「まぐろの三崎」に地歩を固める。

昭和二十五年 大洋漁業第二天洋丸船団に事業部長として陣頭指揮。この年三月三崎町社会教育委員。四月三崎漁業資材株式会社取締役。五月関東船員地方労働委員会委員。十二月神奈川漁業無線協会長。

昭和二十六年九月 三崎冷凍餌料経営組合理事。この年より毎年一回母校筒石小学校と磯部中学校へ教育費として各金一万円送金を続ける。この年結成された三崎体育連盟へ岬徳会加入。

昭和二十七年二月 三崎冷凍餌料経営組合は三崎冷蔵株式会社に改組、取締役に就任。五月全国無線漁業協同組合連合会理事。十一月北水同窓会員並びに魚水会員憩いの場所とするため、東岡の一医院を買収(現勝平記念寮の起こり)。この年三崎体育連盟(後の体育協会)副会長となる。冬慶応病院で高血圧症と診断される。

昭和二十八年三月 前年より魚市場問題で対立した三崎町と魚商団体との紛争を、石井横浜銀行支店長、菅野日魯漁業三崎事業所長と共に調停、円満解決した。五月日本鰹鮪漁業者協会監事。十二月大洋漁業三崎製氷冷凍工場竣工。社員激増を機に文化部を設けて文化、体育を奨励する。この年三崎町原の民家を借り、母校能生水産学校出身独身者の憩いの宿能水寮とする。

昭和三十年 社団法人全国漁業無線協会常任理事(全国無線漁業協同組合連合会は解散)。この年三崎町天神堂に能生町出身独身青年寮筒石荘を建つ。郷里磯部中学校図書室に寄付金により長崎文庫がつくられる。

昭和三十一年二月 三崎漁港管理会委員。五月初旬身心衰弱のため慶応病院入院、六月末退院、七月三崎国保病院で胆石症と診断され、八月慶応病院にて胆嚢摘出手術。十二月初旬高血圧症のため慶応病院へ入院、年末退院。この年五洋水産株式会社取締役。

昭和三十ニ年三月 三浦商工会議所副会頭。七月社団法人全国漁業無線協会関東連合支部長。

昭和三十三年二月 冷凍鮪輸出水産業組合理事。三月大都魚類株式会社取締役。九月日本医大病院にて悪性腫瘍のため腎臓摘出手術。

昭和三十四年一月初旬 血清黄胆のため慶応病院へ入院。七月中旬退院。

昭和三十五年三月 大洋漁業本社取締役、漁労部長、三崎営業所長を兼ねる。同月三崎漁港船員防犯連絡会会長。四月北水寮、魚水寮改築上棟式。八月神奈川県漁業気象協会理事。この月本社重役昇任墓前報告のため帰郷、郷里の学資に恵まれない子弟のために、財団法人長崎奨学会(仮称)の構想を抱く。十月三浦商工会議所顧問。十二月東京都鰹鮪漁業者協会々長。同月日木鰹鮪漁業者協会理事。

昭和三十六年三月 勤務の都合上東京三崎の中間横浜に居を定めて新築。呼吸器疫患のため慶応病院へ入院、四月北水魚水寮竣工式には病重く欠席。七月二十四日午後二時五十分肺癌のため慶応病院にて永眠、享年五十五歳。即日横浜市の新居に帰る。二十八日東京都浅草東本願寺にて葬儀。八月十一日三崎在住関係者の要望により、同地円照寺にて告別式。

昭和三十八年一月 北水魚水両会連合総会で、その遺徳を後々まで伝えるため、北水寮魚水寮を勝平記念寮と改めることを決議する。


引用文献
『長崎勝平』 長崎勝平追悼録刊行会



『ああ想いでよ』

相沢小寿

 昭和十二年十月十二日夜、私は防空演習で暗い高田市に着き高田ホテルに投宿した。其夜ホテルの奥さんに一人の偉丈夫を紹介された。その人が長崎勝平氏であり、二人の交友はそれがきっかけであった。
 至上命令によって肉親と決別し、仕事も社会活動も一切を放棄して、背広を軍服に着替えて私達は三〇連隊に入隊するという終生忘るる事のできない日の前夜であった。以来あしかけ五年召集解除の日迄、満州の僻地を転々としながら、ノモンハンの戦闘に或は東部国境へと、何時もいっしょであった。
 「ヒゲの長崎」といえば有名なもので、部隊では一風格をなしていたものである。その「ヒゲ」が相撲大会となると「まわし」をつけて各隊選抜の兵隊さん達を手玉にとって、皆を喜ばせたり感心させたりしたものだ。
 長崎氏が大隊副官になった時は召集将校達をひどく羨ましがらせた。山や川や畑の中を軍刀をもて余し乍ら走り廻っている自分がまるで「この世の馬鹿野郎」としか感じられない召集連中だから、耳まである黒々としたヒゲをいつもピンとさせ、威厳そのものの容姿で馬にまたがっている長崎氏が、羨ましくてたまらないのも無理のない事であった。他部隊の佐官級などいつも遠くから「ヒゲ」に敬礼するなど愉快でたまらないこともあった。
 昭和十八年八月再び私は召集をうけて南支へ。長崎氏は其後南方へ。
 昭和二十年終戦を迎えた私達は不思議に命永らえてまた会うことができた。しかし私には予想どおり「追放」という宿命の至上命令が待っていたのである。家は焼け、甥の家に間借りして漸く復職した私にとって、昭和二十一年一月のこのおとし玉は人生最大の悲局であった。「やみ」を知らない、ニコヨンもできない厄年男は、戦死した弟を羨望しながら、妻の実家の四畳半で親子五人の生活である。虚無の中、朝早くから夜おそく迄ただ力にまかせて、ポンせんべいを焼いておった私であった。正義をとおり越した「反逆児」としての過去を知りつくして居る長崎氏は、或は訪れ、或る時は呼び、激励の限りを尽くして私を慰めてくれた。
 昭和二十四年一月三十一日私に追放解除の通知が来、二月一日から大学へ帰った。玉井正次氏が飛んで来て「長崎氏が待っている。すぐ来い」「ヒゲの長崎から人間長崎へ」大木にもたれて男泣きした一夜、夢ではない、現実の友情に対しての男同志の姿であった。爾来、私の家族のただ一つの楽しみは、夏が来ると三崎へ行く事であった。いつも暖かく迎えて下さる長崎さんの御一家がそこにあればこその三崎であり、城ヶ島であったからだ。
 一昨年六月末中出俊臣氏(三〇連隊当時の現役将校)が突然来宅、「長崎さんが慶応病院に入院して居られるそうですが御存じですか云々」お茶をのむ時間ももどかしく二人でとびだして見舞った折はまだ元気で、大変喜ばれ、二十分程話をしたのだが、お互いに話のできたのがそれが最後であった。其後妻といっしょに、或時は子供をつれて伺った折など、いつも眠っておられたので、回復を心から祈りながら帰ったのであった。
 奥さんと子供さんへの愛情、思いやりについては、私の文筆ではとうてい表現できないことであり、私が長崎氏を尊敬する重点がそこにあった。
 人生のこと、まさに朝露の如く、逝きし人は再び帰らない。戦野で死生を共にした親友長崎兄よ、君のおもかげは君のあゆみし処すべてにある。
 惻々としていたみは限りない。奥様と御子様の御幸福と御健康を心からお祈りして、君のみたまに捧ぐ。合掌。


引用文献
『長崎勝平』 長崎勝平追悼録刊行会



『長崎勝平さんの死を惜しむ』

宮田金吾

 昭和三十六年七月二十五日、毎日新聞紙上で突然長崎さんの死去を知りました。今春の三〇会の時、慶応病院に入院加療中との事をお聞きしておりましたもののお見舞にも伺わずこんな事になろうとは全く思っても居らず、驚入り残念でたまりません。
 昭和十四、五年の頃、満州穆稜や、ハルピンで、中隊先任将校として、或は大隊副官として、あの馬上の姿が眼前に浮び、つい昨日の事のように懐かしく存じております。あの高邁な人格は、勝平さんの愛称で、皆から大層親まれていました。
 終戦後は、大洋漁業三崎支所長、現に大洋漁業取締役、同漁労部長の要職におられ五十五才の働きざかりの貴方が薬石その効なくご他界されました事は、何としても惜しまれてなりません。七月二十八日、浅草東本願寺に於ける、あの盛大なお葬儀、告別式は貴方のご人格、生前のご功績をよく物語っております。謹んでご冥福とご遺族皆さまのご多祥を祈上げます。


引用文献
『三〇会会報』(第十八号) 歩兵第三十連隊戦友会



長崎勝平(中央)

長崎勝平
(一九〇五~一九六一)

 近代マグロ漁業発祥の基盤を神奈川県三崎につくって、母船式マグロ漁業の発展に多大な貢献をしたのが、長崎勝平である。
 勝平は、西浜第一の漁村・能生筒石(糸魚川市)で明治三八年(一九〇五)一一月七日、魚仲買業・〓(𠆢↑+太↓)・長崎栄太郎・タマ夫婦の三番目の子として誕生した。幼少の頃より、気力・自立心に優れ、他人に迷惑をかけることのない子どもであった。中等学校では、県大会の陸上競技や水泳大会で優勝、弁論大会では準優勝をする力をもっていた。学校から帰ると、まず家の手伝いをし、その合間に勉強する生活であったが、学業の成績は大変優秀だった。大正一二年(一九二三)に県立能生水産学校卒業と同時に、台湾の学校へ教師として二年間務め、学費を貯めた。そして北海道帝国大学付属水産専門部へ入学し、水産の基礎をみっちりつけて、卒業後は、樺太庁中央試験所技手・日本油脂株式会社所長を経て日中戦争に従軍、帰国後は、林兼(大洋漁業)に務め、最後まで大洋漁業に足場を置いていた。上海の舟山列島へも出張し、太平洋戦時中はセレベス島マカッサルで会社の仕事はもちろんだが、軍に命じられ食糧生産に協力した。その後昭和二一年(一九四六)、名古屋港へ引揚げ船で帰国、三崎に定住した。マッカーサライン撤廃交渉の先頭に立って漁場を広げ、近代設備のある船で二年も三年も遠洋へ出かけてマグロ漁をするまでに育て、昭和三六年(一九六一)七月二四日、五五歳でその生涯を閉じた。
〈高橋起美子〉


引用文献
決定版 上越ふるさと大百科』 郷土出版社



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