錦州に向ふ行動 (『偕行社記事』〈第六百九十号〉より)


題名
偕行社記事
著者

出版
偕行社

昭和七年三月二日印刷納本
昭和七年三月五日発行
備考
第六百九十号(昭和七年三月)


錦州に向ふ行動

歩兵第三十連隊

 連隊は旧臘営口に屯して大凌河付近の一大快戦を期して英気を養ひ傍ら日毎に増大する遼河流氷の壮観を眺めながら結氷の日を千秋の思ひして待ちつゝありしが遼西地方匪賊は匪首学良の使嗾に依り其の勢日に猖獗を極め屢々我第一線に肉薄挑戦の盲動を敢てし満蒙の治安為に愈々攪乱せられんとするの情勢に至れり。
 偶々十二月二十日朝営口対岸河北駅を守備しありし第五中隊の巡察兵が数十の匪徒に狙撃せられて戦死一負傷二名を出したるは遺憾なり。
 十二月下旬に至れば田荘台付近遼河結氷は漸く其厚さを増して七八寸に達し車馬の通過を許すの状況となり且第二師団各隊は準備万端を完了したるを以て茲に師団命令により十二月二十三日野砲兵大隊援助のもとに連隊は一部を以て田荘台を占領して爾後の行動を準備することゝなり第一大隊を派遣せり。
 同大隊は主力を以て陸路を行軍し別に第二中隊に歩兵砲を付して左側衛となし砕氷船により遼河を渡り河北より鉄道線に沿ふて北進せしむ。
 同中隊は途中敵装甲車及約百の敵と遭遇し之を撃退午後四時頃大隊に復帰せり。
 第一大隊主力は午後二時頃遼河左岸水源地付近に到着し官民代表の先導の下に概ね平穏裏に田荘台に進入することを得たるも大隊本部が商務総会に到着する刹那突如数発の銃声と共に処々に潜在せし匪賊約五百は保安隊、公安隊等相策応して四面より一斉に襲撃し来り茲に予期せざる市街戦は展開せられたり敵は支那一流の騙し討式戦法により我大隊の寡少なるを侮つて一挙殲滅を企図し此の暴挙に出でたるものゝ如く賊団中には錦州より新来せる便衣隊も加はり其勇敢機敏なる行動は到底前日の兵匪に比すべくもあらず夜に入りて其攻撃は益々猛烈を加へ十数名の一団 又一団は屋上より或は街路上より猪突猛進し彼我銃声は愈々盛んに暗中諸処に我喊声挙がる。
 当時大隊は北門及西門を各一部を以て守備せしめ他は商務総会付近に集結し小銃、機関銃、擲弾筒、手榴弾等を以て将士善く防ぎ戦ひ翌払暁迄に全く之を撃退せり。
 此戦闘に於て戦死二、負傷七名を出したるも未知の市街に於て夜間衆敵に包囲されながら其損害の僅少なりしは誠に天佑と云ふべし。
 又第六中隊は二十三日牛荘城に進み野砲兵の遼河偵察を援護せしが数百の匪賊と交戦せしも幸ひ死傷なし。
 十二月二十七日愈々待ちに待ちたる錦州方面兵匪討伐は開始され歩兵第三十九旅団は奉天より京奉線により又第二師団主力は営口より北寧支線に沿ひ一挙溝帮子を挟撃するに決し連隊は二十七日師団主力と共に田荘台に進入せり。
 今次の前進に当りては大小行李を編成し其援護を確実ならしむる為各隊の直後に続行せしめたれば一縦隊となり行進する師団の長径は実に四五里に亙り延々として一望遮る無き残雪凍る広野を村より村へと縫ひ進む様は既に戦はずして敵を圧倒するの威風あり。
 連隊は胡家窩柵迄は師団本隊の先頭を行進し二十八日は前黄家店に二十九日は大甸家攻に三十日は双台子(盤山)を過ぎて霍太平荘に宿営す。
 前衛たる歩兵第十六連隊は双台子付近にて小敵の抵抗を受けたるも之を撃破し敵は死体約百を遺棄して逃走せり。
 三十一日よりは連隊は旅団長指揮下に左縦隊となり胡家窩より西に折れて恰も無人の境を行くが如く溝帮子を左より遠巻にする態勢にて進み溝帮子南方二里甜水河子及唐家屯に宿営せり。
 溝帮子は京奉線交通の要衝に在り盤山付近に脆くも敗れたる敵は少くとも溝帮子に於ては相当の抵抗をなすべしと予期したるに反し約三千の敵は我軍の近接に恐れ慄き数月前より準備せる溝帮子駅付近一帯の陣地を捨てゝ三十日夜六列車に先を争ふて分乗し大遼河の既設陣地にも踏み止まり得で一路山海関以西さして逸走せしこそ平氏富士川に於て風声鶴涙に驚き一挙六波羅に逃げ帰りたると其軌を一にし山陽の所謂「遺恨十年磨一剣流星光底逸長蛇」の句を思ひ出されて其腑甲斐なさに将士斉しく切歯腕を撫せしめたり。
 以上の如くにして倥偬なりし昭和六年は名もなき一寒村に暮して明くれば元旦遥かに東天旭光の昇るを仰いで連隊一同甜水河子北側に集合し 聖寿の万歳を唱へて歩武堂々溝帮子に入り其西南方孟家屯及張家窩に宿営す。
 溝帮子駅付近には支那軍隊が数月前より生息し居たりと思はるゝ地下掩蔽部が約百米に亙り構築せられありて駅の周囲一帯には堅固なる塹壕を設けある等其戦意の強烈の程想像に余あり其掩蔽部の付近には我飛行機の投下せる爆弾六個見事に炸裂の跡あり嘸かし穴の中に盤踞せる支那軍が其心胆を奪はれ色を失つて逃げ迷ひたる様眼前に彷彿として痛快に堪へず。
 京奉線を進出し我師団と相前後して溝帮子に入りたる歩兵第三十九旅団は更に石山站に進み之れに続行する第二十師団主力のため溝帮子を譲り連隊は二日午後其北方約二里閭陽駅に宿営地を移し四日は早朝より城北広場に於て勅諭御下賜五十周年記念の祝典を挙行せり。
 営口出発当日は日中零下十七度なりしも漸次気温を増して元旦は零下十二度に昇り概して行軍に好適にして到底先日斉々哈爾追撃の比にあらず。
 久振りに支那家屋に滞在し「アンペラ」にさし込む朗かなる新春の陽光を浴びつゝ出発以来旬日の疲労も回復し一同元気旺盛にして六日以来再び連隊主力は営口に宿営し一部を田荘台に派遣し爾後の出動を準備中なり。

(昭和七年一月中旬)




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