艱難辛苦~沖縄・宮古島


第二十八師団長 櫛渕中将
(前任)
第二十八師団長 納見中将
(後任)

第二十八師団長 櫛渕中将
(前任)
第二十八師団長 納見中将
(後任)

*補足(藤本)
  瀬名波 栄『
太平洋戦争記録 宮古島戦記』という本に、納見中将の自決に関する記述がある。

***

 納見中将が自決したのは戦後の昭和廿年十二月十三日、野原越司令部の宿舎で毒を仰ぎ五十一年の生涯を閉じた。
これよりさき十二月一日連合軍により戦犯追及を受け、BC級戦犯に指名されていたので、逮捕間近いことを悟っていたようだ。
幼年、士官、陸大を卒え一生を陛下の股肱として奉公の道を歩んできた中将としては、かっての敵国に縄目のハジを受けることは武人として到底しのび得ないことであったにちがいない。
 戦犯容疑は上海憲兵司令官当時の俘虜取り扱いが主だったが、中将自身は昭和廿年七月宮古島で米航空将校の処刑を命令実施したことについても責任を痛感していた。
自決の決心は戦犯指名後になされたようで、十二日の夜宿舎に一瀬参謀長、陸路、杉本両参謀を招き、それぞれ遺品を分ち与え、それとなく袂別したと云う。
中将の自決は翌朝発見されたが、遺族に累を及ぼすことをおそれて米軍には死因は脳溢血によると届出で検死を受けた。
遺骸はダビにふし、遺骨は専属副官豊島勝美中尉が持ち帰り、遺族に届けた。広島県尾道市本庄町市原に未亡人おはるさんが現存している。
(納見中将辞世)
 勝ち国の法や如何にも裁き得む
     踏みし忠義の道は変らず
 納見中将の死後は安藤忠一郎少将(独混第六十旅団長)が集団長代理として在宮古島部隊の指揮統制に任じた。

太平洋戦争記録 宮古島戦記』の八十九ページから引用




 
通称号
部隊
指揮官

第二十八師団
師団長 納見敏郎 中将
豊五六一一
第二十八師団司令部
参謀長 一瀬 寿 大佐
豊五六二〇
歩兵第三連隊
長 怡土 軍 大佐
豊五六二三
歩兵第三十連隊
長 富沢国松 大佐
豊五六二九
歩兵第三十六連隊
長 田村権一 大佐
豊五六四〇
騎兵第二十八連隊
長 上田 巌 大佐
豊五六四七
山砲兵第二十八連隊
長 梶 松次郎 大佐
豊五六四九
工兵第二十八連隊
長 外賀猶一 少佐
豊五六五三
第二十八師団通信隊
長 国武達雄 少佐
豊五六五六
輜重兵第二十八連隊
長 宮川 忠 少佐

第二十八師団制毒訓練所
長 那須憲三 少佐

第二十八師団兵器修理所
長 藤本武輝 大尉
豊五六七六
第二十八師団第二野戦病院
長 三好祝二 少佐
豊五六八一
第二十八師団第三野戦病院
長 桜井忠男 大尉
豊五六八三
第二十八師団第四野戦病院
長 辻 義春 少佐
不詳
第二十八師団病馬収療所
長 保坂斯道 大尉
豊一二〇九
第二十八師団防疫給水部
長 大科達男 少佐
豊一四七九八
独立速射砲第二十五中隊
長 柿崎慶一郎 大尉
豊一四七九九
独立速射砲第二十六中隊
長 桜田源吾 中尉

*補足(藤本)
 以上、『
自昭和十九年三月二十二日 至昭和二十年六月末日 第三十二軍戦闘序列および指揮下部隊一覧表』(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』の付図)から第二十八師団の部隊編成を引用した。


*補足二(藤本)
 瀬名波 栄『
太平洋戦争記録 宮古島戦記』に、宮古島の戦略的価値に関する記述がある。

***

第三章 敵来攻愈々必至

一、沖縄か、宮古か、大本営も判断に迷う

 昭和十九年二月米機動部隊による中部太平洋トラック島の大空襲は足下に火がついたように大本営をあわてさせた。大本営は南西諸島に対する米軍の来攻近しと判断、大急ぎで防備強化に乗り出したが、宮古島の配備状況は、
 昭和十九年三月―四月ごろの応急配備
 十九年七月廿八師団到着後は本格的来攻を予想しての決戦配備の
 作戦準備が行われた。
当時大本営では米軍の進行コースがヒリッピン、台湾、硫黄島の何れかに向けられるか、あるいは直接本土を襲うか、判断に迷っていたが、全般的には昭和二十年三月―五月ごろがもっとも沖縄来攻の公算が大きいと判断していたようである。
沖縄島と宮古島との何れに来るかとの判断については、
 イ、沖縄攻略の足がかりとするため先ず宮古島に来攻する(長参
  謀長らの見解)
 ロ、本土に対する作戦のためには距離、航空基地の状況などから
  して沖縄本島に来る公算が強い
 ハ、沖縄、宮古両島に同時に来攻する
 ニ、沖縄攻略後における先島諸島に対する掃蕩作戦
以上の四つが考えられていた。
大本営は宮古島の戦略的価値について
 一、南方航空作戦の中継基地
 二、台湾又は沖縄本島に敵が来攻した場合における航空攻撃基地
 三、支那大陸、特に上海方面に敵来攻した場合の航空中継基地
以上の観点からその航空基地を基本的要素としていたが、島が平坦で攻撃が容易なことから米軍による上陸作戦の可能性もあり得るとしていた。
米軍の当初の計画は沖縄作戦後第二次作戦として宮古島攻略を企図していたが、沖縄本島攻略後この計画を中止したが、もちろん日本側には分らなかった。

太平洋戦争記録 宮古島戦記』の三十四ページから引用



「輸送船での出来事」

石坂 「満州駐箚の任を終えた三十連隊に、沖縄防衛という新たな任務が与えられた。戦局もいよいよ大詰め、誰一人口にしなかったけど、生きて戻ってこられないのでは……と、覚悟したもんだ。だけど、簡単に死ぬのもばからしい。俺はね、絶対生きて帰ってやると、心中ひそかに決意して、戦争がおっかないなんて思わなかった。でも、中にはそういうのがいたんだ。
 九州から輸送船に乗って沖縄に行くときに、一人自殺した兵隊がいたけど、彼は戦争が怖くて船の中で命を絶ったんだ。銃でバーンとね」

藤本 「三十連隊の人ですか。まさか同じ中隊じゃないですよね」

石坂 「同じ第八中隊だよ。名前は忘れてしまったけど」

藤本 「九州から沖縄ということは宮古島に行く途中ですよね」

石坂 「そうだよ。釜山、桜島と経て……桜島には五日間くらい泊まったのかな。あの頃はトラック島がやられていたから、輸送船の安全が保障されなかったんだ。
 頃合いを見計らって出航したね」

藤本 「自殺した兵隊の家族にはどんな理由で亡くなったと伝えたんですか。本当のことは言えないですよね」

石坂 「多分、適当な死因をでっち上げたと思うよ」


*補足(藤本)
  瀬名波 栄『
太平洋戦争記録 宮古島戦記』に、第二十八師団に関する記述がある。

***

第二章 廿八師団に宮古島転用発令

一、櫛渕師団長ら乗り込む

 第廿八師団が大本営命令により第卅二軍(球)に編入され、沖縄転用がきまったのは昭和十九年六月三十日だった。第廿八師団は昭和十五年七月第一、第九第十四師団のうちから各歩兵一個聯隊を抽出、それに以上の三個師団から特科部隊(騎、砲、工、輜重兵)より基幹要員をひき出し、内地から兵員を補充して編成された。兵は少数の補充兵をのぞく外殆んど現役、下士官は三分の二が現役、尉官クラスは大半予備役、佐官以上は現役で占め、とくに戦力の根幹をなす歩兵部隊は日清、日露両戦役に勇名を馳せた第三、卅、卅六聯隊で、山地局地戦斗に行動し得る装備をもち、当時の日本陸軍では最精鋭師団の一つに算えられ、砲兵が山砲聯隊であることもその特色であった。
 師団は対ソ戦に備え、ハルピンに駐屯していたが、防諜上の関係で十九年二月十四日チチハルへ移駐(元高級副官浜中佐の記録ではチチハル移駐は五月三十一日)同方面の警備についた。同年六月二十日サイパンが危急を告げたので、大本営は六月二十二日、廿八師団れい下の歩兵卅六聯隊と工兵廿八聯隊に釜山集結を命じた。卅六聯隊は六月二十六日大本営命令によって在比島第十四軍に編入されたが、七月四日づけで廿八師に復帰、七月中旬師団からはなれて軍艦で南大東島、北大東島へ送られ、同島の警備についた。また工兵廿八聯隊は六月二十六日師団に復帰した。
 同日師団は大本営命令によって上海付近に集結、待機を命ぜられ独立速射砲第廿五、第廿六両中隊を編入、戦力を増加した。同月三十日師団は大本営命令によって第卅二軍(球)に編入され、沖縄転用がきまった。同時に上海集結が釜山集結に変更され、各部隊は七月一日ごろから列車輸送によって釜山に集結、十五日ごろ集結を完了した。
 このように集結先が上海から釜山へ変更されたのは大本営の方針が一定していなかったのではないか。司令部員も釜山で馬匹をチチハルに送還、七月二十一日釜山港出帆後始めて宮古島へいくことを知ったほどであると、浜元高級副官は語っているのから推しても当時の大本営のあわてかたが分るようだ。このような経緯をたどって二八師の宮古島転用がきまり、師団長 櫛渕せん一中将は七月九日飛行機でチチハルを出発、奉天経由で十一日釜山へ着いた。福地参謀長は外村情報班長らをともなって七月五日那覇へ先行、卅二軍司令部で諸般の指示を受けたのち、七日宮古島へ乗り込み、女学校を本拠にして師団主力の進駐計画指揮にあたった。櫛渕師団長は釜山で現地からの報告にもとずいて主力の輸送計画を指導、十六日釜山発、十八日福岡を軍用機で発って那覇着、廿日宮古島へ向かい、福地参謀長らに迎えられて女学校に至り、戦斗司令所を開設した。
同行者は陸路参謀、堀江専属副官。これよりさき、七月十四日第卅二軍司令官は第廿八師団長に対し、宮古島、石垣島、西表島地区防衛の任務を付与した。

太平洋戦争記録 宮古島戦記』の二十一~二十二ページまで引用




石坂准尉の寄稿(沖縄・宮古島)
『歩兵第三十連隊 ハルピン 宮古島 の想い出』 歩兵第三十連隊史編纂委員会

軍民共同のイモ作り

 歩兵第三十連隊史編纂委員会『歩兵第三十連隊 ハルピン 宮古島 の想い出』という本に石坂准尉が書いた文章が載っている(十六ページ~十九ページ)。石坂准尉の許可を得て、引用文に多少の修正を施したが、原文尊重の姿勢は崩していない。


***

 宮古島とは……沖縄本島から南へ約三〇〇粁、コウモリが羽を広げたような形をしたこの島には宮古群島の総人口の八十パーセントにあたる四万六千人が住んでいる。山らしい山もない平坦な島は亜熱帯植物が茂り、七色に輝くサンゴ礁にいろどられた紺碧の海や白い砂浜がまばゆい陽光とともに非常な美しさを鮮やかにたたえている。
 神秘と詩情にみちた、古い歴史と特異な文化をもつ宮古島にわが軍が進駐してわずか数ヶ月後、誰が生き地獄のような餓鬼の島にかわると予想しえたことであろうか。
 昭和十九年、戦雲急を告ぐ宮古島へ三個旅団約三万の陸軍部隊が続々と上陸した。中隊は七月十八日に上陸、天号一級戦に参加することになった。
 第三十二軍司令官牛島満中将は、敵米軍は沖縄本島攻略の足がかりに必ずや宮古島占拠の野望を果たさんと攻撃して来るものと想定していた。中隊は意を受けて直ちに細竹に布陣し、さらに竹原に転進すると、増原高地の築城作業に全力を傾注することになった。すでにトラック島は陥落、敵の上陸近しの報に昼夜をわかたぬ陣地構築が続けられた。しかし、この頃からである。何より恐れていたマラリアが蔓延し、隊員の半数が四十度の高熱に冒され、練兵休続出、築城作業に支障をきたすようになった。
 八月中旬、軍は総力をあげて中飛行場建設を急ぐことになり、中隊は直ちに増原高地の作業を一時停止、急きょ、中飛行場に移動、建設作業に全力を投入することになった。連日、三十五度を超す猛暑のなか、重症患者を除き、昼夜兼行の作業が続き、兵は疲労困憊の域にたっした。求める水の補給もなく、兵は付近のサトウキビをしゃぶり、なかには自分の小便を乾ききった口唇にひたす者がいた。それでも作業を続けなければならなかった。
 十月五日、ついに飛行場が完成し、部隊は再び竹原に移動した。十月十五日、アメリカ空軍十六機の初空襲に見舞われ、緊張が高まった。
 昭和十九年もあといちにちとなった十二月三十一日、朝から大雨で敵機の姿もなく、作業は休みになった。兵は久し振りの配給米を幕舎内で飯盒炊さんし、わずかばかりの缶詰を分かち合って、故郷の思い出話に華を咲かせて年越しを祝った。
 昭和二十年三月一日、三隻の輸送船が宮古島に入港し、しばらくぶりに食糧、衣料、弾薬の補給がおこなわれることになった。しかし、物資の荷揚げをまたずに敵機に撃沈され、これが最後に宮古島への全ての補給は完全にと絶えて餓鬼の島へと変貌していった。
 中隊は白川湾への敵上陸に備えて防御陣地を構築することになり、東添道部落の東南約二キロ、大野山林に布陣した。この地は島で最も危険とされたマラリア蚊の生息地で、日を追うごとに感染者が出て、二、三の兵を除いて、中隊長以下全員マラリアにかかってしまった。満足に徒行できる者は隊員のわずか二十パーセント足らずとなり、著しく戦力は低下するに至った。
 そのうち、内地からも台湾からも食糧の補給が絶たれた今となっては、副食物はもちろんひとつぶの米さえなく、豊富だったサツマイモも島民が食べるのに精いっぱいで、軍には回ってこなくなった。ことここに至っては陣地構築どころではない。生きんがための食糧確保が先決、陣地作業に堪えられる約二十パーセントの兵以外は自活作業を行うことになった。森林を開こんしてサツマイモを作る者、木の芽を採る者、カタツムリを捕る者(カタツムリは美味しく栄養があるが、雨の日でなければなかなか捕れない)、海水を煮つめて塩を作る者、与えられた役目はさまざまだった。
 毎日の献立は決まって主食に一本のサツマイモと、みそ汁のかわりに海水の中にサツマイモのつるか木の芽を入れたものが出され、おかずはひとつまみの塩という誠にお粗末なものであった。ヘビも食べた、トカゲも食べた、カエルも食べた、食べられるものはなんでも食べなければ生きていけなかった。
 作業は強行された。栄養はとれず、そのうちマラリアの高熱に冒され、誰もかれも栄養失調で杖なしでは歩けなくなった。患者は増えるばかり、重症者は練兵休として作業を休むことができるが、天幕内に草を敷きその上に横たわって居るのみで、わずかばかりの薬は与えられるものの、患者用の特別食はなく、ただ、体を休めているに過ぎなかった。しかも、よほどの重症患者でなければ入院することはできなかった。あまりにも患者が多くて収容しきれないのと、軍医の手不足が原因だった。また、軍服は着の身着のままの一着という有様だった。いつまで続くかわからない戦争で軍服が破れたら補充がないということで、軍の指示によって上衣と軍靴の着用が禁じられたのだ。半ズボンのみの裸の兵隊とは帝国軍人もみじめな姿になりさがった。希望を失い、ただもうろうと命ぜられるがままに行動するに過ぎない状態になった。
 五月に入ると、敵の空爆はますます熾烈を極め、この月だけで延べ二〇〇〇機の無差別爆撃をこうむり、また、海からは艦砲射撃が日に日に激しくなり、宮古市は廃墟の町と化した。
 沖縄本島の戦況はわれに利あらず、海空権は完全に米軍の掌中にきし、通信連絡はとだえ、宮古島から本島への逆上陸は断念せざるを得ない状態となった。これがため、宮古島は第三十二軍から離れ、台湾第十方面軍直轄となる。
 昭和二十年六月、沖縄本島のわが軍は死闘三ヶ月の末、ついに敵米軍に敗れ、沖縄は彼の占領するところとなった。六月二十二日、軍司令官牛島満中将自決、八月十五日、ポツダム宣言受諾。終戦時、司令官納見中将自決。八月二十五日、宮古島軍に戦闘行為停止命令降る。「敵が上陸するまでは斃れるな、死ぬな、頑張るんだ」を合い言葉に歯をくいしばっての毎日だったが、敗戦を伝えられるや今まで張りつめていた気力が一気に喪失して兵がばたばた倒れ、病院に入院する重症患者があとを絶たなかった。終戦からわずか二ヶ月の間に十名の戦友が内地帰還を目前にして尊い命を落とした。
 何とか働ける者は互いに励ましあって自活作業を続け、ようやく一食に二本のサツマイモが食べられるようになった。開こんした畑約三町歩、みんなの血と汗の結晶が実った。これからは腹いっぱいイモが食べられる。そのうち野菜も食べられる。戦友たちに明るさが出て来た。だが、この精魂打ち込んでようやく実りを見た広々としたサツマイモ畑と別れるときがやってきた。復員船が来たのだ。私たちが帰ったら、このたくさんのサツマイモを誰が食べるのか、うしろ髪を引かれる思いで何度も何度も畑を振り返って名残を惜しんだ。



歩兵第三十連隊本部諸官
中央 連隊長 富沢大佐



「最後の帝国陸軍軍人」

明夫 「藤本さ、おやじの宮古島時代の話は資料がそれなりに残っているから質問も少なくて助かるだろう」

藤本 「いや、全くそのとおり。一番やりやすいところだね。明夫さんも読んだろうけど、戦友会で作った本に載っているこの文章(*上記掲載)だけで事足りるよ」

石坂 「俺も楽だ(笑)。大昔の話だから、記憶に残っていない部分が多々あって、思い出しながらの会話は結構疲れるんだ。もう年だしね。人生おしまい。おばあちゃん(マツエさん)も死んじゃったしな」

藤本 「そんな弱気は勘弁してください。まだまだこれからです。最後の帝国陸軍軍人として、その貴重な体験談を伝えていってくださいよ。石坂准尉の宮古島従軍話は貴重極まりないです。涙を禁じ得ない大変な苦労をしているじゃないですか。まだもう一仕事やっていただきたい、ぜひ」

石坂 「疲れちゃうな~」

◆一同 (笑)


*補足(藤本)
 瀬名波 栄『太平洋戦争記録 宮古島戦記』に、宮古島防衛に関する記述がある。

***

第四章 水際決戦方針で重点配備

一、守備に困難な宮古島の地形

十九年秋に入るや敵潜艦の出没しきり、又大機動部隊の接近などにより、いよ〳〵戦場化必至の状勢となった。
 宮古島防衛作戦研究のため第一回目の兵棋が卅二軍から長参謀長、薬丸参謀を迎えて行われたのは十二月二十二、三日だった。女学校の司令部で櫛渕師団長、福地参謀長各参謀、各団体長(聯隊長以上及び配属部隊長)らおよそ二十名が参集、米軍の上陸を想定して各地区隊の行動及び配属部隊の協力などについて熱心な研究討議が行われた。
 孤島の防衛についてはサイパン戦などの戦訓から、友軍海空軍の全面的協力が期待されない限り成算が見込みうすであることはほぼ常識となったので、当初友軍の協力を期待しての戦略持久戦法も考えられたが、諸般の情勢から推して可能性がうすく、結局、敵上陸時に於て水際に兵力を重点的に集中、一気にこれがせん滅をはかる、水際決戦方式がとられることになったが、状況止むを得ない場合は敵上陸後も飛行場使用を妨げるため、長期にわたっての抵抗戦を展開すべく、復かく陣地を堅固に構築することなどがきまった。
 宮古島防衛上の地形的難点として
イ、島が狭小で、四囲から艦砲射撃を受けるおそれが大きい。
ロ、上陸可能地が多い。
ハ、島全体が平坦で不沈空母の状態であり、陣地の拠点となるべき
 堅固な地形の乏しいこと。
ニ、敵上陸後その前進を阻止する障害地形の乏しいこと。
ホ、飛行場の防衛が地形上困難なこと。
ヘ、狭小で自活能力の低いこと。
などがあげられ、防衛戦の困難を思わしめた。とくに陣地構築作業が全島サンゴ礁で岩盤が固く、しかも工具不足のため、遅々として進まないのは現地軍の大きな悩みだった。
 米軍上陸想定地として次の要素から、平良港付近、下地町宮国―嘉手刈付近、白川湾付近が挙げられ、重点的に兵力を配置、防衛に遺憾なきが期されることになった。
イ、上陸容易なこと。
ロ、上陸支援が容易なこと(艦砲射撃のため艦艇の行動容易)
ハ、上陸後比較的平坦地区を一挙に島の中心部に殺到するのに適しており、資材の推進展開が容易である。
ニ、作戦目的の達成に容易なこと(たとえば飛行場の奪取)
 以上の諸点があげられ、その他の地点は断崖概ね海岸に迫まつているので、上陸後一気に進出するのには不適当と判断された。
 この防衛作戦計画はその後数回の兵棋を重ねて修正、廿年三月ごろ最終的に策定されたが、その根幹をなすものは別紙要図の如く、宮古全島を四地区に分け、守備担当部隊の配置と配属部隊の協力体制から成るものであつた。

(略)

一、北地区隊(平良町)

長独立混成第五十九旅団長  多賀少将
独立歩兵第三九三大隊
〃    三九四大隊
〃    三九五大隊
旅団   工兵隊
〃    通信隊
〃    砲兵隊
歩兵第三十聯隊(富沢大佐)
独立速射砲第廿五中隊
山砲兵第廿八聯隊第五中隊
海上挺進基地第四大隊第一中隊
(註、北地区は当初歩兵第卅聯隊長富沢大佐の担当だったが、昭和二十年六月伊良部島の守備に任じていた独混第五十九旅団主力(歩兵一大隊基幹残置)の平良町移動に伴って多賀少将の指揮下に入る)

(略)

二、主戦力形成の両古豪れん隊

(宮古島防衛)

一、方針
 有力な部隊を以て水際を堅固に占領し、努めて水際に敵を撃滅する。その重点を北地区及び南地区に指向する。
 敵が上陸に確固たる地歩を獲得したならば戦斗警戒部隊(遊撃部隊)の果敢な戦斗と主陣地よりする挺進斬り込み戦斗によって敵戦力を漸減し、周到に準備せられた主陣地に誘致して敵にせん滅的打撃を与えて撃破する。状況止むを得ざる場合に於ても複かく陣地に拠って最後の一兵に至るまで敢斗し、敵をして飛行場の利用及び設定を妨害する。
二、指導要領
 イ、北正面(平良港付近)より来攻の場合は第六十旅団長は南地
  区隊を併せ指揮し、海軍地区隊陣地に主力を配備する。
 ロ、南正面(下地村宮国―嘉手刈方面)に来攻の場合は北地区隊
  長は主力を以て南地区隊内、川満拠点及びその東側、北側拠点
  に主力を転移する。
ハ、海軍部隊は陸戦については第廿八師団長の指揮を受ける。
以上にみる如く宮古島防衛の重点は北地区及び南地区に指向され、とくに地形上、敵上陸の可能性がもっとも強いと目される南地区には歴戦の古強者で師団ただ一人の功三級拝授の武勲に輝やく古豪聯隊長、ム土軍大佐の率いる歩兵第三聯隊を配備した。ム土大佐は福岡県の出身、支那事変に従軍、上海、南京、漢口攻略戦に偉功をたて、引きつづき山西省太原西方地区の共産匪賊及び山西軍掃蕩に殊勲あり、武功抜群なりとして功三級を賜わったほか、軍司令官、師団長より感状賞詞を授与されている。
 十八年三月、北満の聯隊長に転補、十九年八月、歩兵第三聯隊を率いて宮古島の守備に馳せ参じた勇猛果敢、もっとも頼もしい、指揮官の一人でもあった。
 山砲第廿八聯隊長の梶大佐(故人、ガダルカナル戦生き残りの勇士)同期生のよしみで歩砲協力作戦について十分意志の疎通がとれていたようだ。
 また北地区には同じく日清日露戦役以来の伝統的強味をもつ歩兵第卅聯隊(富沢大佐)を配し、のちに伊良部島から移動してきた独混第五十九旅団主力(多賀少将)の増援を得て一大戦斗兵団を形成していた。
 米軍来攻に備えるための陣地構築は水際陣地、主抵抗陣地の二段構えで進められ、水際決戦で破れた場合は主抵抗陣地へ誘導して出来る限り長期間にわたって抵抗、敵の飛行場使用及び設定を妨害すろ戦術方式がとられることになっていたが、守備軍首脳の悩みは全島がサンゴ礁で固い岩盤におおわれていることと、たがね、爆薬などの資材工具不足のため、作業が遅々として進まず、敵来攻の公算が大きくなった二十年三月ごろになっても予定の七〇%(?)にも達しないことであった。飛行場作業に兵員を割かれたことも陣地構築が進捗しない原因の一つであったが、このことは守備軍首脳の焦燥を募らせた。しかし状況が切迫するにともなって作業は急ピッチで進められ、一通りの防衛陣地が完成したのは六月ごろだった。
 作戦を担当した杉本参謀の回顧によると、自信のもてる陣地がほぼ出来上がったのは終戦時だったと云う。
 戦後米側の資料によると、米軍は沖縄作戦一段落後に宮古島攻略作戦を考慮していたようだが、沖縄攻略後その必要度がうすくなつたので、取り止めたと云う。しかし当時現地軍側ではこのことを知るところとならなかったので、沖縄戦の終りごろにあたる六月下旬、米軍による南西諸島掃蕩作戦が実施される公算が大きいとして六月二日には乙号作戦が下命されている。
作戦参謀の杉本和朗中佐は東京都の出身、明治四十一年生、陸士四十二期生。昭和五年少尉任官、支那事変には中隊長、大隊長として参戦、北支方面の戦斗で殊勲を顕わし、功五級金し勲章を賜わっている。昭和十九年陸軍省軍務局付兼大本営報道部付、十九年陸大専科卒、第廿八師団参謀に補せられ、廿年三月陸軍中佐に任ぜられた少壮有為な参謀将校。宮古島防衛に智能と心血を注いだが、幸い米軍の上陸を迎えることなく終戦、復員後東京に在住している。
 もし米軍の上陸作戦が行なわれたと仮定した場合、どれくらい持ちこたえられる見通しだったかと云うことについて、
イ、第一波の水際戦斗に成功すれば三カ月
ロ、第一波の水際作戦に破れた場合は一カ月。
 ただし本判断は米軍が徹底した攻撃を加えてきた場合であって、単なる掃蕩作戦程度の場合、守備軍全部を全滅させるには数カ月を要したものと思われる、と自信のほどを述べているが、これは勿論友軍の全面的な協力(台湾、沖縄方面からの航空協力はある程度期待)は得られないことを想定した場合であって、状況によってはかなり変った結果になっていたことは想像に難くない。しかしこれは何れも仮定の問題であって、正確な判断は難かしいが、たとえ米軍大兵力が来攻したとしても戦場が我が航空威力圏内であり、守備部隊到着後三カ月足らずで、米軍の進攻を抑えたサイパンのようにそう赤子が手をひねられるようなことだけには終らなかったのではないことは十分想像できると思う。

太平洋戦争記録 宮古島戦記』の三十八~四十四ページまで引用


*補足二(藤本)
 瀬名波 栄『太平洋戦争記録 宮古島戦記』に、歩兵第三十連隊に関する記述がある。

***

一、北地区隊(歩兵第卅聯隊=通称五六二三部隊=及び配属部隊)
 聯隊本部平良町細竹
 第一大隊  棚福
 第二大隊  西仲宗根
 第三大隊  盛加
 歩兵砲大隊 東仲宗根
 地区隊は富沢大佐が指揮、大浦及び平良港方面より上陸する敵に備えていたが、六月上旬伊良部島から移動してきた独混五十九旅団が加わり、同地区の指揮は多賀少将(添道楚野里に司令部設置)が執ることになつた。

太平洋戦争記録 宮古島戦記』の六十六ページから引用


*補足三(藤本)
 瀬名波 栄『
太平洋戦争記録 宮古島戦記』に、北地区防衛の指揮権が歩兵第三十連隊長の富沢大佐から独混第五十九旅団長の多賀少将に移った経緯が記されている。

***

三、乙戦備下令さる
 五十九旅団平良町へ移動

 六月始め沖縄作戦が大詰めに入るやアメリカ軍による宮古島奇襲上陸及び空挺部隊による攻撃の公算が強くなった。これは当時米軍によって実際に計画されていたもので、本土進攻作戦のため大空軍展開には沖縄島だけの飛行場だけでは十分でないとして地形的に飛行場設定に便利な宮古島を攻略して強力なる空軍基地化たらしめんとするネライから出たものであった(この計画は六月下旬ごろに至って中止されたが、日本側の知るところとならなかったことは前述の通り)第廿八師団長は敵来攻迫ると判断、二日全部隊に乙戦備を下令した。各部隊は戦斗資材、弾薬、食糧などを洞窟に移動すると共に防衛の重点を各飛行場及び野原岳一帯、比嘉部落の飛行場予定地に指向、戦斗体制に入った。
 戦車隊は轟々とエンジンを始動して出撃を準備、各砲兵部隊も命令一下砲門を開くべく戦斗配置に就いた。このようなあわただしい部隊の動きは一般住民の不安を増大させ、深刻なる動揺を来した。
 集団では戦局が逼迫を告げたので、二日在伊良部島部隊に平良町移動命令を下した。これは兵力の分散をさけ、兵力の有効集中をはかるための措置で、納見中将の決断によると云われた。
 伊良部島の守備に任じていたのは多賀哲四郎少将の率いる独混第五十九旅団で、十九年九月上陸以来下地、伊良部両島に展開布陣して敵来攻に備えた。とくに上陸地点と目される字伊良部々落背後の高地には十五サンチ榴弾砲を配置して防備を固めていたが、師団命令により夜間舟艇機動(小型機帆船及び大発利用)によって逐次平良町へ移動、多賀旅団長は十日添道地区に戦斗司令所を開設、歩兵第卅聯隊長富沢国松大佐に替わって北地区防衛を担任した。
 多賀少将は明治廿六年広島県に生れ、大正四年歩兵少尉任官、昭和二年陸大卒。朝鮮鎮海湾要塞、近衛師団、十四師団各参謀、同参謀長を歴補して昭和十七年少将。独混第十七旅団長を経て十九年九月独混第五十九旅団長補任、宮古島に赴任した有能な将軍だったが、現地でアミーバー赤痢にかかり、健康を害し復員後昭和卅年十二月廿七日永眠した。
 当時伊良部青年学校長の職にあった与那覇春吉氏は陣地構築に協力したかどで同少将から表彰を受け、又宿舎(青年学校々長住宅)に招かれ、席を共にしたことも数回あった由だが、温厚篤実、感じのよい武人だったと語っている。

太平洋戦争記録 宮古島戦記』の七十九ページから引用



「敗戦 宮古島よさらば」(石坂准尉思い出の品)


 昭和二十年八月十五日、宮古島において終戦。同年十二月三日、狩俣港から米軍輸送船にて沖縄本島に向かう。
 顧みれば昭和十九年七月十八日、戦雲急を告ぐ宮古島に上陸、以来一年有余、陣地構築に自活作業に困苦欠乏に堪え、ただただ勝利を確信し、軍人としての本領を全うしたるも武運拙く敗戦。今、島での数々の思い出を米軍輸送船上から名残を惜しむとは、敗戦将兵の末路ぞ哀れ。
 翌四日、那覇港に到着、すぐに米軍トラックに分乗、石川村捕虜収容所に向かう。車上から見る激戦地だった沖縄は、部落は焼き払われ、山野は爆撃で変貌し、緑のない死の島に変わっていた。
 途中、数十名の部落民と出会う。米兵に引率された集団行動である。ぼろぼろの衣服をまとい、素足のままという姿だった。その男女子供の疲れ果てた表情はあまりにも惨めで言葉に表し得ない。
 集団の中から私たちが日本兵と知るや「兵隊さん、兵隊さん」と手を振る者がいた。しかし、何と答えよう。同胞の絆は悲しみに満ちていた。複雑な思いでいっぱいのうち、陽も暮れんとする石川村に着いた。
 この村は漁業の村として開けていたが、焼き払われた部落に民家や人影はなく、張り巡らされた鉄条網が私たちを冷たく迎えた。
 門前広場で武装解除がおこなわれた。帝国軍人の誇りだった軍服と階級章が剥奪され、PWと大書きしてある捕虜服に着替えさせられて指定の幕舎に移った。このときから軍人として最も恥ずべく捕虜に成り下がったのだ。
 予想に反して、米軍の私たちに対する扱いは極めて待遇よく、驚きのほかなかった。これがため、何の作業も与えられなかったので、退屈しのぎに柵内から石川湾を描いた。しかし、道具がないため、防毒服の切れ端を紙として使用し、絵の具はマラリアの薬を代わりとした。この絵が終戦後、貴重な遺品になった。
 なお、画面の詩は軍司令官牛島中将閣下が辞世に詠まれたもの。
 捕虜生活三ヶ月、昭和二十一年三月二日、沖縄を離れ復員。

 歩兵第三十連隊第八中隊

 陸軍准尉 石坂辰雄 三十歳 印

*補足(藤本)
 絵の裏側にはこのような銘がある。
 「画・石坂辰雄  書・水嶋喜代司」
 第七中隊の水嶋准尉は書が得意だったらしく、歩兵第三十連隊史編纂委員会『歩兵第三十連隊史』の表題も書いている。



人事書類
歩兵第三十連隊第八中隊
人事書類
中身

*補足(藤本)
 沖縄から復員する際、石坂准尉は第八中隊の引き揚げ責任者になった。米軍が将校と准士官以下を分けて移送したからである。
 上掲の人事書類にこう記されている。
 「第八中隊長 石坂辰雄」




「歩兵第三十連隊復員実績表」(R本部)

順次 第一次 第二次 第三次 第四次 第五次 第六次 第七次
 引率者 清水大尉 八子准尉 桑原准尉 後藤中尉 松上中尉 津田少佐 富沢大佐
宮古島出発 S・20・12・21 S・20・12・31 S21・1・15 S21・1・20 S21・1・22 S21・1・25 S21・2・3
復員 S・21・3・6 S・20・12・31 S21・1・15 S21・1・20 S21・1・22 S21・2・2 S21・2・11
隊号 R 4 47 1 52 104
隊号 iP 22 22
隊号 iTL 1 73 8 20 15 117
隊号 2 24 4 14 1 8 53
隊号 1 81 13 20 11 125
隊号 2 1 74 11 17 16 119
隊号 3 81 13 5 25 124
隊号 4 1 19 11 14 1 15 132
隊号 ⅠMG 2 83 3 20 1 23 132
隊号 ⅠbiA 26 8 9 43
隊号 2 23 1 11 15 52
隊号 5 1 86 5 23 18 1 134
隊号 6 83 5 18 12 118
隊号 7 67 4 17 26 114
隊号 8 2 81 5 21 2 15 126
隊号 ⅡMG 60 6 22 1 32 121
隊号 ⅡbiA 25 2 8 9 44
隊号 29 3 4 20 56
隊号 9 1 92 14 24 2 133
隊号 10 2 78 3 43 126
隊号 11 81 8 40 1 130
隊号 12 81 6 33 2 122
隊号 ⅢMG 2 66 8 40 2 118
隊号 ⅢbiA 21 1 5 6 33
隊号 iA 1 3 1 4 5 3 17
隊号 RiA 1 48 8 10 15 82
隊号 TA 2 43 2 4 6 20 77
合計 25 1546 124 127 174 425 153 2574

(備考)
現地除隊者、遺骨宰領者、入院患者は除く。

***

*補足(藤本)
R 連隊本部 ⅠbiA 第一大隊砲小隊 9 第九中隊
iP 作業小隊 第二大隊本部 10 第十中隊
iTL 通信中隊 5 第五中隊 11 第十一中隊
第一大隊本部 6 第六中隊 12 第十二中隊
1 第一中隊 7 第七中隊 ⅢMG 第三機関銃中隊
2 第二中隊 8 第八中隊 ⅢbiA 第三大隊砲小隊
3 第三中隊 ⅡMG 第二機関銃中隊 iA 歩兵砲大隊本部
4 第四中隊 ⅡbiA 第二大隊砲小隊 RiA 連隊砲中隊
ⅠMG 第一機関銃中隊 第三大隊本部 TA 速射砲中隊



「准尉の仕事」

藤本 「昭和十九年十二月一日付で曹長から准士官に昇進したじゃないですか。陸軍准尉というのは、どんな仕事をするんですか」

石坂 「そうだな……兵隊たちの毎日の演習の勤務割とか、宮古島なんかでは多かったんだけど、病気になった者の入院の手続きとか、あと何といっても一番は人事係の仕事だね。兵隊の昇進判断をするんだ。兵は人事係准尉直属だからさ」

藤本 「軍隊手帳にはどこそこで負傷、どこそこに移動とか、個人の軍歴が書いてありますけど、あれに書き込むのも准士官の仕事なんですか」

石坂 「そうだよ。だけど、俺の字ではないけどね。准尉には普通、筆記を担当する字のうまい助手がついているんだ。その彼に命令してやらせるんだよ。俺が宮古島から持ち帰った第八中隊の人事書類も助手に書いてもらったね。名前は忘れちゃったけど、俺の筆記助手の階級は、たしか曹長だったような気がする」

藤本 「ちなみに、准尉が面倒をみる階級ってどこまでなんですか。准尉の下、曹長までの昇進判断ですか」

石坂 「いや、下士官クラスになると、中隊長がするものなんだ。とは言っても、彼の勤務成績の資料は准尉が中隊長に提出するんだけどね」

*補足(藤本)
 伊藤桂一『兵隊たちの陸軍史 
兵営と戦場生活』に、准尉の職務に関する記述が載っている。

***

<准尉>准尉は、兵隊と幹部将校の中間にあって、一種の媒体的な立場をもっていた。それは准尉は十分に兵隊や下士官の苦労をなめて累進して来たので、比較的苦労人が多く、兵隊感情はむろん、軍隊の事情に精通していたからである。見習士官は将校待遇だが、准尉は下士官上級者としての待遇である。つまり旧称である特務曹長の位置に変りはなかった。従って、戦時には、ぐっと兵隊の立場に近づき、そのよき理解者となり、中隊長を核とする幹部将校群と、対立的な考え方をする者もあった。准尉と古参の曹長にはきわめて優秀な人材が多く、そういう人たちはへたな小、中隊長より、はるかに指揮能力をもっていたのである。
 平時における中隊事務一般にしても、指導の責任はほとんど准尉にあった。兵隊と交渉が深く、かつ兵隊がけむたがったのは、人事係の准尉である。これは人事とともに、賞罰、休暇等に強い発言権をもっていたからである。営内で人事係准尉に顔をみられると、翌日必ず衛兵勤務につけられる、といった冗談が二年兵の間ではよくいわれたものである。

『兵隊たちの陸軍史 
兵営と戦場生活』(番町書房)の六十ページから引用



『沖縄俘虜記』
宮永次雄

表紙
石坂准尉と宮永さんは戦友の間柄。
上記の画像は、献本時のメッセージ。

 国書刊行会から南方捕虜叢書全五巻のうちの一冊として発売された『沖縄俘虜記』という本がある。
 宣伝文句はこうだ。
「日本の最南端、宮古島で捕虜となる。戦争の縮図たるPW生活をかみしめ、終戦直後の捕虜収容所内で書き上げた生々しい記録」
 もともと、著者の宮永次雄さんは大連で満鉄の官吏をしていたが、昭和十九年三月一日、三十五歳の初年兵として歩兵第三十連隊第八中隊に入隊した。その後、宮古島でアメリカ軍の捕虜になり、PW生活(プリズナー・オブ・ウォーの略。戦争捕虜)をしている。
 宮永さんは反軍思想を偽ることなく本書に書き殴っている。敗戦間際の宮古島において、年下の古参兵に顎で使われ、飢えとマラリアに苦しめられたそうなのだから、当然といえば当然である。
 私は一字一句、目を反らさず、宮永さんの苦労を活字から読み取った。しかし、個人名にイニシャルを使用しているとはいえ、歩兵第三十連隊の関係者、ことに第八中隊にゆかりのある人が読むと毒気がきつい。

「読みかえしてみると、不満に感じたり、どうにも気恥ずかしく思えたり、そしてある意味では何とも申しわけないと思われるようなところも随所にある。イニシャルで表現されている宮古島以来の戦友──特に当時の将校や下士官の方々には、卑屈になっていた一兵卒のうらみ・つらみがこめられていて、悪者あつかいにし過ぎたところがあるかも知れない。今は『宮古会』などで、親しく酒をくみかわしている良き男も、末期の日本軍隊の生活の中では、それぞれみずからを守ることが精一杯で、お互いにあれこれと逆波もあったわけである。失礼な記述もあろうがご寛容願いたい」

 当人も反省しているらしく、後書きでそう述べている。
 さて、それでは宮永さんがどのように第八中隊の関係者を斬って捨てているのか本文を引用しよう。石坂准尉も「I准尉」としてイニシャルで登場するが、それほど厳しい記述にはなっていない。


***

「石坂准尉の事務室」

本文四十四ページ~四十六ページ

 宮古には「やらぶ」と呼ばれる樹がたくさんあった。ちょうどゴムの木によく似ていた。最初私はこれをすっかりゴムの木と信じていた。だからこの「やらぶ」の小枝をポキンと折っては、新京の第一ホテルのビヤホールを思い出してひそかに愉しんだ。ゴムの木はビールが好きである。いい機嫌になると、よくジョッキにのこったビールを盆栽のゴムの木の根もとに流して、
「おい酒は飲んでも飲まれるんじゃないぞ」なんてことをいって気焔をあげたものだ。その「やらぶ」の実が少量の油を含有している。麻袋に一ぱいの「やらぶ」の実を拾い集めると、ちょうど茶碗に半分位の油がしぼれるのである。これは食料油としてではなく、灯火油であるが。
 簡単に、我々が試みた製油の経路を説明するとこうである。きたない麻袋をかついで「やらぶ」の木をさがす。それは主に民家の周りにあった。木についた実よりは、地上に落ちて腐れかけたのがいい、というので我々は、「やらぶ」の根元をかきわけてその実を拾い集めた。麻袋に一ぱいになると、早速内緒で民家に立ちよる。
 「おばさん、芋はないかね」と愛嬌をふりまく。
 いつも兵隊の襲撃におそれをなしている欲深い島のおばさんたちは──上陸当初はそうでもなかったが──大てい無愛想に「ないよ! 兵隊さん」といって断わったが、食わんが為には押しの一手である。いくつかの芋にありついてすき腹のたしにすると、我々はその日の収穫を喜びながら帰隊した。そして油の製造にとりかかるのである。まずこわれた鍋で「やらぶ」の実を焼く、そして一皮だけはぎとると「やらぶ」の実は何ともいえぬ油っぽい香を発する。いまだに不思議なのはあの魅惑的な芳香にも拘わらず、我々は「やらぶの油は食えぬ」ものと教えられて、その油を食べようとはしなかった。本当に食料としてはいけなかったのだろうが、まあ死ぬ程の毒素を含んでいない限り、何でも口の中にほうりこんだ我々が、よく我慢したものである。
 さて、そのふんわりと焼けた実を臼に入れて、きねで搗くのである。三十分も搗いてその実をくだくと、今度は布に丁寧に包んで、上から大きな石のおもしをしてしぼるのであるが、大部分は包んだ布に吸いとられ、たらたらと落ちる油のしずくを、ありったけの知恵をしぼって、無駄のないように採集しても、前記のように、やっと麻袋一ぱいから茶碗に半分程度である。それだけの油を採るのに、大体兵隊二人がかりで完全に一日を要した。しかも決して上等の燈火油ではなくて、事務室と称する准尉のがんばっているかやぶきの部屋を、仏壇の燈明以上に明るくすることは出来なかった。
 とても採算のとれる製油法ではない。だから島の人々は、我々が「やらぶ」の実を拾い集めるのを見て、「兵隊さん、それ、何にしますか」と不思議がって聞いた。そして「油を作る」と答えると一様に驚いていた。
 この「やらぶ」油が空襲のはげしくなった頃暗い洞窟の奥でぼんやりと灯りをなげていた風景は、生涯忘れられないものの一つである。

***

「石坂准尉、兵たちに注意指導する」

本文七十三ページ~七十七ページ

 島の畑の大部分はこの芋でうずめられていた。そしてこの芋が宮古の兵隊の命だった。いかにして芋を食ったかによって、生き延びた兵隊と死んで行った兵隊とが分かれたといってもいい。
 陣地作業をしているそばを、芋を入れたざるを頭にのせた島の女が通る。兵隊は例外なしに、
「小母さん、一つ頼むよ」
 と挨拶する。初めのうちはどの小母さんもどの娘さんも、気持ちよく「どうぞ」といって芋のざるを頭からおろしてくれた。それは大てい野良に働く家族への昼飯であったが、お国のために働く兵隊さんへの心づくしは、当然のことと考えてくれた様であった。
 中には副食の味噌やさかなまで快く提供してくれる小母さんもいて、あとで一円札を出してもどうしても受けとらなかった。
 サイパンが陥ちてまだ日の浅い頃で、この宮古に多数の兵隊が上陸したことを、頼もしがっていたのだろう。島の人たちは我々に充分好意を持ってくれていることをはっきり掴めた。
 しかし兵隊の駐屯が二ヶ月も過ぎ、つぎつぎに上陸する兵隊がこの小さい島の隅々にまで行きわたって、もう島の人よりは兵隊の姿を見ることの方が多くなった頃には、島人の態度は変っていた。
 私は「芋」によって、それをはっきり知らされた。毎日甘い顔をして、芋を分与するには、兵隊の数が多くなり過ぎたのである。
 通りがかりはおろか、わざわざ穴掘り作業の最中に、上官の眼をのがれて「少し売ってくれませんか」ときたない民家の炊事場からのぞきこんでも、
「うちで食べるのに足りない」といってあっさり断わられるようになった。
 ──民家に出入りしてはならぬ!
 ──民家の不潔なものを食うと伝染病になるんだ!
 ──中隊であがる(食わせることを軍隊ではこういった)ものだけを食っていれば充分だ。お前たちの栄養を考えての上でやっている!
 などと准尉から何回も厳しくいわれていたが、実際は腹がへって仕方がなかったし、正直にその通りにしていれば、誰もが極めて急速度に栄養失調に陥って行くのであるから、兵隊は総てと闘って芋を食うことを考えた。

 夜、不寝番に立つと近くの芋畑のつるをたどったし、少し活発な兵隊は民家の炊事場を襲ってざるの中の芋をポケットにしのばせて帰った。
 この島の習慣であろうが、芋のはいった大きなざるは必ず炊事場の土間にぶらさげてあったので、だまって失敬して来るには全く好都合だった。
 しかしそうしたことが続くと、島の人々は当然警戒をはじめる。私は一度、芋を買うために訪れた民家で、十二、三の女の子が、私の顔を見ると反射的に芋のはいったざるをかかえて奥の方にかくしたのを見た。何ともいえぬ憂鬱さが、いつまでも私の頭を去らなかった。

***

「石坂准尉、自活作業の重要性を説く」

本文七十八ページ~八十ページ

 芋の話が泡盛にまで発展し過ぎたようだが、これは、上陸以来、宮古島の兵隊の生活が終始一貫芋と深い連係を持つ確実な証左にもなるであろう。
 沖縄本島の攻防戦が始まって、宮古島へは近い台湾からでさえ食糧の補給が出来なくなってから、あわてて「自活」ということがやかましくなった。中隊単位で、自ら食うだけを生産して自活しよう、というのである。いつまでこの孤島に立て籠らなければならぬか分らぬ。──沖縄本島のあとはこの宮古にも敵は上陸して来るに違いない──そうなると食糧がなくては戦にならぬというわけで、急に「自活作業」がやかましくなったのである。
 自活を負担したI准尉は、点呼のあとで自活作業の重要性を熱心に説いて、
 「お前たちは、陣地作業と同じ熱意をもって、この自活作業に全力を挙げてくれ!」ともいった。
 この自活作業の主流をなすものは、もちろん芋の栽培であったが、次々とビタミン欠乏で倒れる兵隊のために野菜も加味された。
「この貴重な野菜の種子は、特攻輸送をもってこの島に届けられたものであることを、お前たちはしっかり心に銘じておけ!」ともいわれた。
 何といっても、飢えていた兵隊たちには、役に立つかどうか分らぬ穴を掘って、陣地だ陣地だと騒がれるよりは、「お前たちの食いものを作るのだ」といわれた方が働きがいを感じた。

 民家の畑は徴発されて、芋が植えられた。
 こうして用意周到に兵隊たちの腹を満たしてくれるために準備された自活作業であったが、中隊の芋が実って、兵隊の口にはいったのは、残念ながら日本がポツダム宣言を受諾してからだった。
 兵隊たちは、終戦を聞かされる前の最も苦しい間中、芋はおろかその葉っぱさえも個人では公然とは食えず、「ああ、芋が食いたい」と悲痛な声を残して死んで行った戦友さえあった。

***

「石坂准尉、『事故の絶滅』を強調」

本文九十六ページ~九十八ページ

 終戦の大詔を聞いてから三ヶ月余り経っていた。この三ヶ月間は、さすがに戦時中とは違ったものが醸し出されていた。兵器返納と呼んで、実は我々の武器も米軍の命によって既に解除されていた。命より大事に扱うようにしつけられて来た小銃の菊の御紋章をけずらされた時は、やっぱり兵隊の感慨がこみあげて来たこともある。その頃戦友の一部には埠頭作業と称して、米軍の指揮下の下に、各部隊から集積された兵器を海に棄てる仕事をしているものもいた。機銃も小銃も帯剣も被甲も、鉄帽も弾薬も我々の手によって沖に運ばれ、波の中にほうりこまねばならなかったのだ。
 更に大隊の企画で農業の講義も開催されていた。帰国すれば、みんな土に根を下して祖国の再建に邁進しなければならぬという、大隊長中島の意図の具体化されたもので、農学校出身のE中尉が、あまり要領のよくない農業の連続講座をひらいて兵隊たちを居眠りさせた。
 そうした終戦以後の風景の中には、当然戦争中の反動が惹起した。
 ──七中隊では隊長が袋だたきにあった
 ──機関銃中隊では、兵隊が結束して○○軍曹をたたきのめした
 そんな噂がどこからともなく耳にはいった。従って中隊の風紀や秩序に責任を持つI准尉は、さかんに気をくばって、「事故の絶滅」を強調した。そして兵隊たちの心を和らげる手段として演芸会を開いたり、その頃実を結んだ自活作業の収穫で飯盒に山盛りの芋を食わしたりした。ぼつぼつ台湾から帰って来たという島人がふえて、台湾産の煙草が一本四円の闇値で兵隊たちの心を誘惑した。敏捷な兵隊は、糧秣監視の衛兵に出たのを利用して米俵や砂糖俵を売り飛ばして、闇の煙草をプカプカとふかした。

*補足(藤本)
 宮永さんの辛口炸裂である。第二大隊長の中島周治郎少佐を「中島」と呼び捨てにしているところは「私の上官の中では、中島少佐だけに好感を持ちつづけていた」との記述から、親しみを込めた事務的呼称として問題ない。しかし、E中尉の講義は「兵隊たちを居眠りさせた」とは、本人が読んだら、きっと怒るだろう。また、事実なのか判然としないが、袋だたきにあったという第七中隊の隊長は横井長太郎大尉、たたきのめされたという軍曹は第二大隊第二機関銃中隊に総計十八名いたから、そのうちの一人となる。
 宮永さんはステレオタイプのインテリらしく、運動神経が鈍くて何をやっても駄目な兵隊だと著書の中で述べている。おかげで古年次兵から人一倍いじめられたそうだが、名指しされた当人には厳し過ぎないだろうか。
 書籍というのは活字になって残ってしまうものである。媒体を考えると、どうもしっくりこない。宮永さんの気持ちは分かるが、失礼だと思う。たとえイニシャルで伏せ字にしたとしても、誰なのか関係者にとっては一目瞭然ではないか。私のような部外者であっても、残されている歩兵第三十連隊の資料から、誰のことを指しているのか分かってしまう。
 ただ、幸いにも、戦後宮永さんは、第八中隊の戦友会「宮古会」に参加し、皆と楽しく酒を酌み交わしたそうである。もう、昔のしこりは残っていない。つらい軍隊生活をともにした戦友たちと仲よく老後を過ごしたのだろう。
 残念なことに、今は「宮古会」は解散していて、歩兵第三十連隊第八中隊の生き残りは数えるほどである。石坂准尉を含め、わずか数人だという。
 いろいろな思いはときの流れに消え去り、当時を生きた証人はあの世で安らかに眠っている。


*補足二(藤本)
 当ウェブサイトでは、伏せられた軍人名を掘り起こしている。はるか昔の出来事なので、迷惑をかけてしまう存命者が存在しないからである。



*補足三(藤本)
 第八中隊の戦友会「宮古会」は最盛期には五十人くらいの出席者があった。しかし、戦後半世紀以上が過ぎた今、ほとんどの方が亡くなってしまって、わずか六、七人にまで会員数が減少した。「宮古会」の会長を務めた石坂准尉は、以上のような経緯を踏まえて、平成十五年に会を解散させている。あるときの「宮古会」の会合で「もうそろそろ皆で集まるのをおしまいにしようか」などと話し合って決めたそうである。
 なお、歩兵第三十連隊(満州第一七七部隊)の戦友会は大小二十以上ある。「歩三〇会」「ハルピン会」という二団体の規模が大きく、ほかに連隊本部、各大隊本部、各中隊と機関銃隊、歩兵砲中隊などのレベルで戦友会が組織されている。

***

「第八中隊小隊長 山口勝夫中尉」

本文三十六ページ~三十八ページ

 私は満州以来ずっと一冊の小さいメモを持ちつづけていた。毎年正月、総裁名で会社員に配られる満鉄日記と呼ばれるものである。私たちが、満州から南に動員されることがほぼ決定的に知らされてから、私はこのメモに二、三行ずつの日記をしるして来た。だがそれも宮古の苦しい奴隷生活が始まってからは、二ヶ月半書いただけで、十月三日の欄に「ああ、今日は軌雄の誕生日」という一行を最後として、全くとだえているのだが──。
 この小さい満鉄日記の八月五日(昭和十九年)の欄には、「大東亜戦争とは穴を掘ることなり」とそれだけ書いてある。七月二十四日に宮古島に上陸したのだから、まだ二週間とは経たない日である。上陸第一歩から終戦の報を聞く一カ年余り、私たちに与えられた任務の総ては「穴を掘る」ことであったといっても過言ではない。陣地構築とか、陣地作業とかいうもっともらしい本名を持つこの穴掘りが、穴掘りの親方ともいうべき将校と下士官とがぐるになって、多くの惜しい戦友を殺し、私の身と心とをむしばんだ。
 最初は専ら個人用の防空壕で、直径七十センチ程度の穴を一メートルも掘れば足りるので、与えられた小さいスコップと十字鍬とで事足りたが、やがて本格的(?)な一箇小隊も入ろうという掩蔽壕や、弾薬集積のために山の横っ腹に大きなトンネルをぶちあけることを要求されるようになってからは、本当にどうしようもなかった。
 「旅順」の東渓冠山が、具体的に私の知っている防禦陣地である。あれが明治三十七、八年である。だのに、昭和二十年に、アメリカを相手として構築する防禦陣地が、小さい十字鍬とスコップでカチャカチャとくじった穴でいいのか──私は「敵は宮古島にきっと来るぞ!」と真面目な顔でどなりまわす将校の声を聞きながら、当然こうした疑問を感じないではいられなかった。だがいつとはなく、私にはそんな風にものを考えたり、批判したりする力はすっかり消え失せていった。そしてただ徒らに、いわれるがままに穴を掘ったのである。「島全体を蜂の巣のように穴だらけにするんだ、そしたらいつ敵が来ても断じて心配は要らん! ラバウルが厳乎として不落でいるのは、島全体が穴とトンネルになっているからだ」私のきらいな将校群の中で、まあ嫌悪のパーセンテージの一番低かった山口という小隊長が、こんなことをいったのを覚えている。

***

「第八中隊分隊長 田丸孝造軍曹」(分隊長T)

(その一)

本文三十九ページ~四十一ページ

 私と同じ分隊に、山本という若い満鉄社員出身の兵隊がいた。一選抜という言葉で呼ばれた青年で、断然中隊の初年兵でトップを切っていた。
 同じ満鉄に勤めていたというので、私は彼に親しい好感を覚えていたし、彼もまた老兵の私が、満鉄では彼より先輩であるらしいという憶測から、尊敬に近いものを感じていたようであった。しかし、若く逞しい彼が総て兵隊としての任務をテキパキやってのけて、上官から可愛がられ、同僚から一目おかれていたのに反して、私はまるで正反対の存在であった。彼は少なからず、私に同情をよせていたようである。私は彼の温かい同情を皮膚に感じる毎に、自らの哀れな兵隊姿を、つつかれるような淋しさを味わった。
 山本は、よく私と穴を掘った。東京で女給の周旋屋をやっていたという分隊長のTが、我々の穴掘りの指揮者であったが、なかなかになまずるい男で、御自身は結構でたらめをやりながら、自己の怠慢を糊塗するために、兵隊にはかなりの弾圧を加えたものである。その分隊長にとって山本の存在は実に大きな力であった。
 将校の巡察のない時間を見計らって、近くの民家に避難する時の分隊長Tは、いつも山本に代理を命ずることによって、彼自身の責務を完遂出来た。しかも、そんな時山本はいつも私を休ませてくれた。
「いいんだ、お前休んどれ!」
 そういって、彼は逞しいその腕にスコップをとると私の分までやってくれた。そして、時々穴の中から私をふりかえっては、満州と満鉄の話をしかけて来た。私は遠く彼方へ忘れかけていた懐しい大陸への想いに、魂を呼びもどされたように彼と話したものである。彼が南満の冷山機関区に勤務し、学歴と年齢を飛びこして既に「職員」の資格を与えられていることを知ったのもその時であった。
 その後私は、穴掘り作業中に分隊長のTから、
「おい、お前は満州で山本の上役じゃったそうだなあ」
「時々新聞にものってたというじゃないか」
 と、ばかにやさしく話しかけられてめんくらった。山本が勝手に紹介したのだ。
「もさもさした使いものにならない老兵」の私に、いつも口うるさく文句をならべていた分隊長のTが、私を特別扱いにしだしたのは、それからである。
「お前は体が弱いから、飯あげに行け」そういって、私を穴掘りから解放して、中隊の炊事まで昼飯をとりに行く事を命じ、いつの間にか「お前は飯あげ要員だ」といって、穴掘りの激務から離してくれるようになったのである。
 戦争の前途に見通しを持つことなど微塵もないTは、漠然と「除隊」とか「召集解除」を予想して、「こいつ、兵隊稼業をやめたら、何かと利用価値がありそうだ」位の下心を抱いていたようでもあった。とまれ私は、苦しい穴掘り作業に服しながら、案外苦しくない環境をかち得て、心ひそかに若き満鉄青年山本に感謝したことである。

***

「第八中隊分隊長 田丸孝造軍曹」(分隊長T)

(その二)

本文六十六ページ~六十七ページ

 我々の夕食もまた、昼食と同じように、爆破の合間の待避時間だけであった。困憊の身と心とには、夕食にありつける喜びよりは、夕食にまでかけあしで追われて行かねばならぬことがいやだった。集合が遅れたりして、他の中隊が先にひきあげたりすると、猛烈なスピードで追い立てられた。私は十字鍬とスコップとを七つ程一緒にかつがされてのかけあしで、小さい石につまづいたことがある。後から来た分隊長のTが「何をぐずぐずしてるんだ!」とどなって私の尻のところを蹴った。「畜生!」と思ったとたんに元気が出て、やっと列に追いついたことを覚えている。

***

「第八中隊長 佐藤正己大尉」(S中尉)

(その一)

本文六十一ページ~六十二ページ

 宮古島の兵隊の手で成された飛行場の建設作業は私の精神史に大きな一線をかくした。
 南西諸島が米軍の大々的な襲撃を受けて完全に日章旗をおろした前年の秋のことだった。なだらかな起伏のある丘と畑とが続いて、ところどころに珊瑚礁からなるこの島特有の岩がつき出ていた。
 初年兵だった私には、どんな飛行場が作られるのか、滑走路がどっちの方向に伸ばされるのか見当もつかぬままに、「十字鍬」と「モッコ」だけの日がはじめられた。数千名の兵隊と、数百名の島の人々とがこの作業の為に動員されていた。臨時に建てられた天幕がずらりと並んだ。
 作業の初日に、雨に降られながら、その幕舎を建て終ると、隊長のS中尉が、
「本日より二十日間の予定をもってこの作業は行われる。もし作業の進捗にいささかでも齟齬を来すようなことがあると、帝国の作戦に重大なる影響をもたらすのである。お前たちは、寝食を忘れてこの事業の完遂に努力してくれ」と訓辞を残して行った。
 簡単に「寝食を忘れろ」といわれ、我々はそうした言葉になれっこになっていたが、これを額面通りに実行させられるとき、いかに仕事に重大な影響を来すかという事実を考えなければならない。人間は生きている、だからもし寝ることと、食うことを放棄して国家の存亡に関わる重大事が成就出来ると思ったら、これ程大きな誤謬はあるまい。ところが宮古島の飛行場設営では、この誤謬が平然として実際に行われたのである。

***

「第八中隊長 佐藤正己大尉」(S中尉)

(その二)

本文六十九ページ~七十ページ

 私は星明りをたよりに、私の小さいノートを出してこんな文章をかいたことがあった。満州に残した七つのわが子に宛てたのである。

 軌雄よ。父は今、北斗星を見ている。あの方向がお前の寝ている方向だ。父は日本が勝つために今からだをすりへらしている。しかし父は将校ではない。父は将校にならなければ力を出せないように育って来たのに、日本の軍隊では、穴を掘る土方の仕事だけを強いる。こんな戦友が何人も父と一緒に苦しんでいる。こんなやり方で日本がうまく勝てばいいが──。
 ひょっとすると、父はこのままでへたばるかも分らない。自分の力を出しきらずにへたばることは残念だが仕方がない。
 軌雄よ。
 お前は父と同じように軍隊を嫌うかも知れない。だが是非将校にだけはなっておくんだぞ。父の頃には「一年志願」という制度があって簡単に将校になれたのに、父は愚かにもそれを避けた。
 そして今苦しんでいる。
 絶対に、どんなに軍隊が嫌いでも、将校の資格だけは確保しておくんだぞ。軍隊では将校だけが人間だ。

 私がそんな不寝番を勤めている夜中の十二時から一時までの間中、隊長のS中尉の小さい幕舎からはかん高い笑声がもれていた。
 恐らくこの島の特産「泡盛」をくみかわしているのだろう。例の私の小隊長Oの声も時々混っていたことはもちろんである。

*補足(藤本)
 「小隊長O」は誰なのか不明。


***

「第八中隊長 佐藤正己大尉」(S中尉)

(その三)

本文九十八ページ

 そんな一夜、私は軍医の馬場大尉と話したことがある。
 馬場は本来は大隊付の医官だったが、私の中隊の隊長Sと同期で、気が合うらしく、ずっと私の中隊に居候していた。馬場とSとがどうして仲がよいのか、兵隊の立場から見ると納得出来なかった。それ程に馬場はおっとりしたいわゆるいい男だったが、Sは肝の小っちゃい度胸のないお粗末な隊長に見えた。案外、兵隊が期待する隊長としての資格の欠如が、人間性を貧弱に見せる大きな原因だったのであろう。だとすれば、Sのためには気の毒な話で、隊長などという地位を与えた日本軍隊が責任をとるべきであるが……。

***

「第八中隊長 佐藤正己大尉」(S中尉)

(その四)

本文百二十一ページ~百二十三ページ

 今か今かと復員船を待ちわびている宮古生活も終り近い頃だった。全員集合を命ぜられて隊長のS大尉からわけの分らぬ話を聞いたことがある。彼は終戦後、終戦の前日の日付かなんかで、中尉から大尉に昇進していかにも新しい三つ星のために、威厳を保つように気どった調子でしゃべった。
「恐らくお前たちの復員の日も遠くはない。しかしながら特に誤解のないように──ただ今から部隊長殿の注意事項を伝達しておく。
 お前たちは捕虜ではない。帝国は、お前たちを捕虜としては取扱わないのである。しかしこれは──このお前たちを捕虜として取扱わないのは、かしこくも──気を付け!(彼はここで号令をかけた)
 大元帥陛下の有難い大御心から出たものであって、特別に米軍がお前たちを捕虜と見なさないと言明したのではない。
 いいか! お前たちは、米軍から捕虜に非ずと保証されたのではないのだ」
 一年有余を軍隊での家庭だと称する中隊で、その家長だと自称しながら、少しも本気で兵隊たちの心の中に飛び込んで来なかったS大尉である。兵隊たちから「あの隊長と心中が出来るかい!」といつも陰口をいわれていた彼は、例の形式的な威厳だけで、何とかして復員の日までの軍規を維持しようと、努力していた。もしその努力が不成功に終るようなことになると、彼は直ちに家族であるべき兵隊から鉄拳の復讐を受けなければならない。
 そこで、彼は、部隊長注意事項の最後に、とってつけたように、
「終戦にはなったが、まだ日本の軍隊は解散したのではない。我々は最後まで、陛下の股肱としての本分を忘れてはならない。いやしくも軍規を紊すようなことがあれば、断乎たる処置をとる!」
 と威嚇的な自己保身論を述べて「終り!」と結んだ。
 兵隊たちは解散を命じられたが「何だい! 今の隊長の話は──」と雲をつかむような表情をしていた。その頃は、誰一人として、我々が沖縄本島につれて来られて俘虜生活をやらされるなどとは思っていなかったからである。

*補足(藤本)
 第八中隊長の佐藤大尉の人間性が誤解されるといけないので補足しておきたい。石坂准尉の戦争絵画集『私の歩んだ昭和史~栄光の日本陸軍破る』には『終戦』という作品が収録されている。ここには中隊長の佐藤中尉が涙ながらにわが国の敗戦を中隊全員に伝えたとの記述がある。宮永さんの『沖縄俘虜記』だけを読むと、佐藤中隊長は自己保身に終始して兵隊たちをあぜんとさせたようになっているが、石坂准尉はそう思っていなかった。

***

 拙い批評のため、長々と宮永さんの著作から引用させてもらった。
 断っておきたいのだが、宮永さんの将校、下士官、古参兵に対する罵詈(ばり)雑言はほかにもたくさんある。それとは打って変わって、著書の後半部分では、石川捕虜収容所で出会った若い米兵との心温まる交流を記している。自軍と敵軍との描き方があまりにも不公平なので、何度も首をひねってしまった。しかし、敗戦から生じる思想の大転換は宮永さんだけではない。戦後すぐの頃「偉大なるマッカーサー将軍! 閣下は何て素晴らしいんだ」などと、敵の大将を褒めちぎる破廉恥な日本人は腐るほどいた。
 インテリ、運動音痴、三十五歳の初年兵という宮永さんは兵隊不適合者だった。そして、そうであるが故に、宮永さんが敗色濃厚な宮古島以外の戦地に赴いたと仮定しても――比較的恵まれていた、支那や台湾など――もともと軍隊組織になじめない性分なのだから、その厳しいまなざしは変わらなかったことだろう。
 これは悲劇としか言いようがない。仮に、宮永さんに向いている軍の仕事をあえて挙げれば、一冊の本を書いてしまうほど優秀な頭脳を持っているのだから、各部将校が適任かもしれない。その方が日本軍にとっても有益であったろう。
 宮永さんは息子さんに宛てた手紙の中でこう述べている。

「お前は父と同じように軍隊を嫌うかも知れない。だが是非将校にだけはなっておくんだぞ。父の頃には『一年志願』という制度があって簡単に将校になれたのに、父は愚かにもそれを避けた。
 そして今苦しんでいる。
 絶対に、どんなに軍隊が嫌いでも、将校の資格だけは確保しておくんだぞ。軍隊では将校だけが人間だ」

 人生のレールから脱線した者は、大変な目に遭う。宮永さんのじくじたる思いは後の祭り、気づいたときにはどうしようもなかった。
 ちなみに――せめてもの救いというのは奇異な言い回しだが、宮永さんは復員してから、視聴覚関係で大成したという。満鉄はなくなってしまったので、もとの仕事には戻れなかったが、軍隊とは正反対の穏やかな仕事に後半生をささげたそうである。



富沢大佐

「富沢大佐」

藤本 「宮永次雄さんの『沖縄俘虜記』は、石坂准尉のいた第八中隊の人をこき下ろしていて、ある意味、気持ちがいいです。同じような話はありますか」

石坂 「収容所生活を含めると軍隊に九年二ヶ月いたからね、そりゃたくさんあるよ。宮古島に限っていえば、連隊長の富沢国松大佐にいじめられたね」

明夫 「(明夫、目を輝かせて)どんないじめ」

石坂 「俺は第八中隊の准士官だったでしょ。准尉という階級は野球でいったら捕手、つまり女房役でさ、中隊長や小隊長以上に部下の管理と監視をしなければならないんだ。一人でも兵隊が死ねば、俺の責任になってしまう。
 でも、そんなこと言ったって、敗戦間際の宮古島は食糧難の飢餓の島で、マラリアの巣くう大変な場所だよね。兵隊がばたばたと倒れていくんだ。もう一准尉の手に負える状況じゃない。日本軍そのものが弱体化して追い詰められているんだから。俺のせいじゃない。でも、連隊長はそう思ってくれなかった。
 ある日、富沢大佐から呼び出しをくったんだ。相手はさすがに連隊長だ。俺の方から『いかがしました』なんて軽口はたたけない。黙って俺は連隊本部で直立していたんだけど、そのうち連隊長が口を開いた。
『石坂、たるんどるぞ。一体、どういうことなんだ。毎日毎日、兵隊が死んでいくじゃないか。お前の管理がなっておらんからだ。罰として、俺がいいと言うまで、外に立ってろ』
 怒りをあらわにして富沢大佐はそう吐き捨てると、俺をにらみつけた。
 外に立ってろ、だと。心の中で畜生と思ったよ。こんな罰がまかりとおるのは小学生の世界だ。だけど、命令だから仕方ない。俺は平謝りで部屋を出ると、連隊本部の裏手に移動し、じっとその場に立った。
 それが非常に長かった。いつまで経っても連隊長が『もういい』と言ってくれないんだ。しかも、ここは南国の宮古島だよ。喉はからからだし、意識はもうろうとするし、本当につらかった。猛烈な日差しのせいで脱水症状を起こして死ぬかと思ったよ。だけど、まだ声がかからない。
 ときの流れをここまで遅いと感じたのははじめてだったね。しかし、いつの間にか、ふらふらで気力だけで立っている俺が、ふと辺りを見渡せば夕方頃になっていた。日が落ちて暗かったんだ。そのときだ、ようやく声がかかったのは。
 だけど、連隊長が直々に『もういい』とは言いにきてはくれないさ。使いの兵隊が俺に連隊長の言葉を伝えるだけだ。
 俺はがっくり上半身を落としてね、何度も何度も『この野郎、この野郎』とつぶやいた」

藤本 「ひどい話ですね。石坂准尉は悪くないじゃないですか」

石坂 「いや、軍隊なんてこんなもんだよ。地方人が考えるような常識は通用しない。兵隊が毎日倒れているという事実だけが問題にされるんだ」

明夫 「不合理だ」

石坂 「なお、言っておくけど、この立ちんぼは何回もやらされているんだ」

藤本 「えっ、その後にもあったんですか」

石坂 「そうだよ。何度も連隊長から難癖つけられて、兵隊が死んでいく責任を取らされたんだ」

藤本 「石坂准尉は富沢大佐のことが嫌いですよね」

石坂 「ずいぶんな直球だな(笑)。大昔の話だから、あんたの想像に任せる」

*補足(藤本)
  瀬名波 栄『
太平洋戦争記録 宮古島戦記』に、歩兵第三十連隊長の富沢国松大佐の略歴が載っている。

***

元陸軍大佐富沢国松氏略歴

歩兵第三聯隊とならんで宮古島守備部隊の中核だった歩兵第卅聯隊長富沢国松大佐は群馬県高崎市の出身、大正五年歩兵少尉任官、歩兵第十五聯隊、同五十聯隊大隊長、在満州ハイラル第六軍副官を経て昭和十八年年陸軍大佐、歩兵第卅聯隊長に補さる。
昭和十九年七月満州から宮古島に進駐、北地区(平良町)の守備を担当、細竹に本部を設け、のち独混五十九旅団長の指揮下に入った。沈着、剛毅、聯隊長クラスではもっとも頼もしい有能な指揮官として知られ、部下の信頼も厚かった。
昭和廿一年二月復員。民生委員等をつとめていたが、卅六年十二月十九日他界した。米子夫人は健在。

太平洋戦争記録 宮古島戦記』の百七ページから引用



歩兵第三十連隊の将兵が愛した歌(沖縄・宮古島)
『思い出』 石坂辰雄 著より

「宮古島夜曲」

一番
 千鳥なぜ鳴く 月の浜
 伊良部かよいの 船が行く
 誰を待つやら 誰を待つやら島の灯が
 波にくだけて すすり泣く

二番
 島の乙女の 黒かみは
 燃えて輝く あの瞳
 恋の灯火 恋の灯火胸にだく
 あつい情の 花が散る

三番
 島のみさきの 灯台は
 港平良に 船を呼ぶ
 波のしぶきに 波のしぶきに消えて行く
 月の浜辺に鳴く 千鳥


*補足(藤本)
 小冊子『思い出』(著・石坂辰雄)に載っている、「宮古島夜曲」の歌詞と、ちまたに流布されている歌詞に若干の相違が見られる。
 昭和二十年に作られた「宮古島夜曲」は、各部隊の演芸会で披露されたことから、宮古島に駐屯する多くの将兵に広まった。その過程において、歌詞に多少の変質があってもおかしくない。
 少なくとも、歩兵第三十連隊の第八中隊では、小冊子『思い出』に載っている歌詞で歌われていたように考えられる。つまり、桃太郎のような昔話にさまざまなバージョンがあるように、「宮古島夜曲」にも別バージョンの歌詞がある、というわけだ。
 ちなみに、「宮古島夜曲」は、輜重兵第二十八連隊第一中隊所属の鏑木隆一さんが作詞した歌である(下記URL参照 「宮古毎日新聞」

「宮古島夜曲」作詞家の娘が来島
http://www.miyakomainichi.com/2014/05/62934/


*補足二(藤本)
 ウェブサイト「JOYSOUND」に載っている、「宮古島夜曲」の歌詞を以下に引用する。

宮古島夜曲(みやこじまやきょく)/沖縄民謡
http://joysound.com/ex/search/karaoke/_selSongNo_32305_songwords.htm;jsessionid=CDE40438A17CEC9A57666AEFAB327C34.s2

***

宮古島夜曲(みやこじまやきょく)/沖縄民謡

 千鳥なぜ鳴く 月の浜
 伊良部通いの 船が行く
 誰を待つやら
 誰を待つやら 島の灯が
 波にくだけて
 すすり泣く

 宮古乙女の 黒髪は
 もえてかがやく 彼の瞳
 恋の灯
 恋の灯 胸に抱き
 あつい情で 君を待つ

 島のみさきの 灯台は
 港平良に 船を呼ぶ
 波のしぶきに
 波のしぶきに 消えて行く
 月の浜辺で 鳴く千鳥




「はじめての鉄拳制裁」

明夫 「兵隊を殴ったことはあるの」

石坂 「一回だけあるね。だけど、俺の軍歴中、一度だけだよ。このとき以外、人さまの頭に手を上げたことはない。
 あれは終戦直後、帝国滅亡の失意に混乱する沖縄にいたときのことだ。週番の俺が部下の軍曹を連れて見回りをしていたんだけど、部落の方に行ったら騒ぎになっていた」

明夫 「何、騒ぎって」

石坂 「大勢の地方人が一人の兵隊を取り巻いて袋だたきにしていたんだ。俺はあっと思って、考えるよりも先にそこに割り込んでこう叫んだ。
『兵隊は天皇陛下直属の部下である。おいそれと地方人が手を出せるものではない。わけを話せ』
 そうして聞いたらさ、どうやら兵隊が泥棒をしたらしいんだ。部落の家々からお金を盗んでね。
 確かにその兵隊は悪い。だけど、そのままではかわいそうだから、俺は彼を助けてやろうと思って、地方人に言ったんだ。
『ここは任せろ。お前たちの代わりに俺が殴ってやる。だから勘弁してくれないか』
 ……はじめてだったよ、兵隊に手を上げたのは」

藤本 「意外ですね。散々兵隊を殴ったり蹴ったりしているもんだと思っていましたから。石坂准尉は温厚な軍人だったんですね」

石坂 「温厚かどうか分からないけど、とにかく俺の軍歴中ではこの一回だけだよ、部下を殴ったのはね。しかも、彼を助けるために仕方なく」

藤本 「前に教えてもらいましたが、初年兵時代に山口上等兵なんかから、こっぴどく指導されているのに、その本人は全く手を出さないなんて高潔ですね」

明夫 「『高潔』だってよ、おやじ(笑)」

石坂 「あんまり褒められると困っちゃうな」



南西諸島全般図

宮古島地区防御配備図

歩兵第三十連隊配備図(昭和二十年八月)



「歩兵第三十連隊将校各部将校職員表」

 
連隊長――富沢 国松 大佐
 大隊長――津田 正男 少佐
 大隊長――中島 周治郎 少佐
 大隊長――小宮 善吉 少佐
 大隊長――平崎 久吉 少佐
 大隊長――山上 誠之 大尉
 大隊長――吉田 周治 大尉
 中隊長――清水 清治 大尉
 中隊長――伝田 鹿蔵 大尉
 中隊長――木村 嵩 大尉
 中隊長――山谷 誠一 大尉
 中隊長――鈴木 宇三郎 大尉
 中隊長――広瀬 宏之 中尉
 中隊長――佐藤 正己 中尉
 中隊長――岡本 義一 中尉
 中隊長――平田 良作 中尉
 中隊長――小林 弘 中尉
 中隊長――大平 桂佐吉 大尉
 連隊付――新山 耕之進 少佐
 連隊付――山田 二郎 大尉
 連隊付――菅野 淳士 大尉
 連隊付――坂本 光彦 大尉
 連隊付――坂井 茂敏 大尉
 連隊付――玉木 喜一 中尉
 連隊付――篠崎 敏 中尉
 連隊付――樫野 勇 中尉
 連隊付――秋守 和気男 中尉
 連隊付――萩野 美助 中尉
 連隊付――後藤 一平 少尉
 連隊付――小清水 恒 少尉
 連隊付――橋口 克己 中尉
 連隊付――中川 忠李 少尉
 連隊付――永江 新三 少尉
 連隊付――山川 文康 少尉
 連隊付――外山 定郎 少尉
 連隊付――都筑 鋼太郎 少尉
 連隊付――仙田山 達郎 少尉
 連隊付――井上 幸男 少尉
 連隊付――江村 博一 中尉
 連隊付――丹羽 米吉 中尉
 連隊付――前川 昇英 中尉
 連隊付――村山 一男 少尉
 連隊付――藤上 勇 少尉
 連隊付――山本 進 少尉
 連隊付――広野 治彦 主計大尉
 連隊付――馬嶋 孝雄 軍医少尉
 連隊付――武田 藤夫 軍医中尉
 連隊付――菊本 一正 軍医中尉
 連隊付――伊藤 敏彦 軍医中尉



「歩兵第三十連隊編成(職員)表」 昭和二十一年復員時

連隊長 陸軍大佐 富沢国松
隊名 将校 准士官・曹長 軍曹・伍長
連隊本部 副官 大尉 清水清治 大尉 伝田鹿蔵 准尉 八子 武 軍曹 三竹 俊
大尉 木村 嵩 曹長 小竹源次 軍曹 石川勝源
中尉 上ノ山勇次 曹長 太田豊次 技軍曹 田中光治
中尉 原 晟 曹長 竹田重忠 技軍曹 三枝政雄
中尉 川上冨三 曹長 弓納持清輝智 主軍曹 山本元治
中尉 秋守和気男 曹長 樋口八十八 経軍曹 木村 浩
主大尉 広野治彦 曹長 金沢市三 主軍曹 鹿島豊作
主大尉 林 孝平 曹長 片山和蔵 衛軍曹 田辺太一
医大尉 佐藤達蔵 曹長 大久保松治 伍長 西方正一
医大尉 武田藤夫 技准尉 只野 満 衛伍長 斉藤泰男
獣大尉 福島 明 技准尉 新沢正俊 伍長 安部辰雄
獣中尉 小俣政美 経曹長 高野万亀 伍長 佐野繁雄
獣少尉 岡元 基 主曹長 橋詰 〓(石+巌) 伍長 中沢秀明
主曹長 鈴木英雄 伍長 西 小十
衛准尉 佐藤文方 伍長 鈴木政雄
技曹長 宮下美弘 伍長 古谷 進
獣曹長 山本 勇 伍長 古田健三
伍長 吹野 豊
主伍長 山田銀平
隊名 将校 准士官・曹長 軍曹・伍長
作業小隊 中尉 福井一道 准尉 宮沢 守 軍曹 川上広矣
曹長 勝田賢三郎 軍曹 飯田 進
曹長 細矢 隆 軍曹 戸塚金作
曹長 田辺好徳 軍曹 鈴木元治
軍曹 高橋久彦
軍曹 飯島 博
軍曹 渡辺 博
軍曹 飯田寿秀
軍曹 谷川正信
伍長 山中定己
伍長 長浜正治
伍長 田中邦夫
伍長 山崎健二
伍長 菊池順作
伍長 山田 勇
伍長 諏訪間喜孝
伍長 土屋九二
隊名 将校 准士官・曹長 軍曹・伍長
通信中隊 大尉 山田二郎 少尉 黒瀬光敏 准尉 飯田午作 軍曹 宮崎重樹
少尉 笹本 武 曹長 布施義正 軍曹 村越春雄
曹長 相沢 准 軍曹 岡村満郎
曹長 相良幸光 軍曹 白井弥平
曹長 内山作司 軍曹 大木国夫
曹長 相川玉造 軍曹 梶 彰治
曹長 鈴木冨代 軍曹 土屋英男
軍曹 太田英夫
軍曹 宮下 保
軍曹 真島 明
軍曹 薮田 昇
軍曹 山本 清
軍曹 本橋敬三
軍曹 今増益雄
伍長 関田一雄
伍長 酒井三郎
伍長 菊池 一
伍長 河北 硬
伍長 長谷川浩一
伍長 岸本英夫
伍長 小室昌一
伍長 伊藤 堅
伍長 椎野芳郎
伍長 高橋三郎
伍長 小山和男
伍長 石井一三
衛伍長 坂本利光
第一大隊 大隊長 陸軍大尉 山上誠之
隊名 将校 准士官・曹長 軍曹・伍長
第一大隊本部 大尉 新田 裕 曹長 滝沢長三 軍曹 白潟光吉
中尉 小黒芳郎 曹長 西須俊夫 軍曹 蕪木寅司
中尉 山川文康 曹長 本橋久男 軍曹 湊 清次郎
少尉 市村一十 曹長 中村 泰 技軍曹 堀内輝恵
主中尉 幸塚正吉 曹長 加藤晴作 経軍曹 中島信行
医中尉 菊本一正 主曹長 中野正樹 衛軍曹 樋口 広
医中尉 高野 栄 軍曹 鬼頭 稔
医中尉 伊藤陸郎 伍長 後藤一男
衛伍長 只腰治久
衛伍長 青木重二
衛伍長 磯崎喜一
伍長 古泉鮮三
伍長 遠田利夫
伍長 岩崎 崇
伍長 河内礼雄
隊名 将校 准士官・曹長 軍曹・伍長
第一中隊 大尉 大平桂佐吉 中尉 後藤一平 准尉 池田栄作 軍曹 末永大五郎
少尉 野村 武 曹長 坂大武士 軍曹 小島 淳
少尉 塚田武彦 曹長 餅田武夫 軍曹 真田福松
少尉 小林 貢 曹長 曽師 稔 軍曹 千葉周治
曹長 村越泰一 軍曹 峰 実
曹長 丸林松寿老 軍曹 長谷部茂作
曹長 堀田 英 軍曹 梶塚源行
軍曹 細田良平
軍曹 渡辺辰雄
軍曹 米沢柾広
軍曹 橋本正男
伍長 今井 清
伍長 池田光男
伍長 八重樫 貿
伍長 三角喜三郎
伍長 毛利誠一
伍長 木村 隆
伍長 井上博司
伍長 相原茂邦
伍長 大塚信重
伍長 相原千代吉
衛伍長 池本四郎
隊名 将校 准士官・曹長 軍曹・伍長
第二中隊 大尉 広瀬宏之 中尉 外山定郎 准尉 山崎 茂 軍曹 柳川真吾
中尉 前川昇英 曹長 広井直吉 軍曹 青木幾雄
少尉 江崎正昭 曹長 竹内哲夫 軍曹 山田 熙
曹長 島村春之助 軍曹 和仁真二
曹長 猪俣清隆 軍曹 小泉義視
曹長 門松茂男 軍曹 藤山孝平
軍曹 土肥 孝
軍曹 下村竹次郎
軍曹 竹迫佐吉
軍曹 才治義男
伍長 戸田 保
伍長 岩本朋勝
伍長 高安真一
伍長 谷川正司
伍長 竹内邦太郎
伍長 山口八郎
伍長 桶谷吉三郎
伍長 望月吉之助
伍長 見留誠二
伍長 小林哲夫
伍長 大橋啓二
隊名 将校 准士官・曹長 軍曹・伍長
第三中隊 大尉 山岸茂次 中尉 村井 進 准尉 星野光平 軍曹 松田成忠
少尉 岩渕賢次 曹長 小林虎馬 軍曹 鈴木 進
少尉 野沢俊弘 曹長 山賀宗一郎 軍曹 北村隆造
曹長 逆井末吉 軍曹 朝倉春信
曹長 田村勝治 軍曹 鈴木嶋吉
曹長 石川源蔵 軍曹 岩本道信
曹長 中川春男 軍曹 鈴木盛夫
軍曹 株木哲男
軍曹 遠田武雄
軍曹 大崎映晋
伍長 斉藤恭治
伍長 柳田信也
伍長 岸 時治
伍長 槙本五男
伍長 鈴木一男
伍長 佐藤光雄
伍長 小野武雄
伍長 遠藤俊正
伍長 井上恒夫
衛伍長 赤沼又一郎
隊名 将校 准士官・曹長 軍曹・伍長
第四中隊 大尉 木島 亮 中尉 河原昌吉 准尉 石崎徳治 軍曹 串田松二
少尉 竹内 勝 曹長 石野又二 軍曹 藤井辰雄
少尉 村山一男 曹長 卯里 豊 軍曹 大塚昌助
曹長 毛利敬治 軍曹 白岩久八
曹長 北見 保 軍曹 菅沼四郎
曹長 古瀬三郎 軍曹 矢島久太郎
軍曹 大竹利夫
軍曹 横山 昇
軍曹 佐藤 浩
軍曹 清水清美
伍長 小林 博
伍長 奥津武一
伍長 河野通朗
伍長 大塚保次
伍長 小林留太郎
伍長 佐藤鶴次
伍長 瀬戸友恵
伍長 小倉 実
伍長 長瀬満年
伍長 島崎八左ヱ門
技伍長 菊池基明
隊名 将校 准士官・曹長 軍曹・伍長
第一機関銃中隊 大尉 坂井茂敏 中尉 杉山国夫 准尉 薩美信一 軍曹 須山 保
中尉 斉藤潤次 曹長 高橋清次 軍曹 後藤栄助
少尉 渡辺康邦 曹長 花上国雄 軍曹 鈴木喜之助
曹長 駒形義太郎 軍曹 平井義行
曹長 豊島 巌 軍曹 小林 広
曹長 岩下竜太郎 軍曹 石井幸八
曹長 山田孝保 軍曹 横道記武
軍曹 斉藤 東
軍曹 村田義隆
軍曹 新井 剛
軍曹 佐々木義雄
軍曹 久保高良
軍曹 村川久雄
軍曹 田中健蔵
軍曹 加藤善彦
伍長 半田昇平
伍長 小林和夫
伍長 伊藤治助
伍長 長谷川福太郎
伍長 薩田 勝
伍長 北村 章
伍長 金井丑太郎
伍長 田縁五朗
伍長 西尾 亘
伍長 山本惣助
伍長 高野 正
伍長 岸田五郎
衛伍長 林 茂
隊名 将校 准士官・曹長 軍曹・伍長
第一歩兵砲小隊 少尉 奥山 斉 曹長 五十嵐三男 軍曹 西村 進
軍曹 平野 守
軍曹 望月 進
軍曹 矢作 寛
軍曹 佐藤照雄
軍曹 山田佐一
伍長 桑山陸一
伍長 加瀬 巌
伍長 森 正治
伍長 渡辺三郎
伍長 小宮 清
伍長 岩佐直治
伍長 神崎信次
衛伍長 久保長太郎
第二大隊 大隊長 陸軍少佐 中島周治郎
隊名 将校 准士官・曹長 軍曹・伍長
第二大隊本部 中尉 滝沢春雄 准尉 小岩芳郎 軍曹 高橋鹿之助
中尉 井上幸男 曹長 宮山助市 軍曹 村松和邦
主中尉 板東不二彦 曹長 高野二郎 軍曹 小田瑞穂
医大尉 佐藤弘隆 曹長 津田利晃 軍曹 加藤 博
医大尉 馬場俊夫 曹長 平野市蔵 伍長 松本虎吉
医中尉 馬嶋孝雄 技曹長 宮崎三男 経伍長 阿久津英宣
獣中尉 原 公善 衛曹長 高野三次 衛伍長 伊藤吉次
衛曹長 秋山良二 衛伍長 笠原満佐美
衛曹長 勝山顕知 伍長 力石 弘
伍長 浜野嘉一
伍長 保里 孝
伍長 清水平八
伍長 安西春義
伍長 宮川俊彦
伍長 田中正三
経伍長 高橋一郎
衛伍長 岩本秀雄
隊名 将校 准士官・曹長 軍曹・伍長
第五中隊 大尉 横田善竜 中尉 松上久夫 准尉 小山伊助 軍曹 秋本伍郎
中尉 中川忠季 准尉 青木正雄 軍曹 根岸佐吉
准尉 桑原与市 軍曹 桜井久雄
曹長 木村七郎 軍曹 安地治三郎
曹長 高橋省二 軍曹 小谷田太郎
曹長 山下正信 軍曹 小野日一
曹長 鈴木仁助 軍曹 鳥居金太郎
曹長 大島辰造 軍曹 中村二郎
曹長 福本宮治 軍曹 関 島吉
軍曹 吉村 直
軍曹 山野由治
軍曹 加藤 満
軍曹 山口秋夫
軍曹 館本 清
伍長 渡辺由雄
伍長 高橋一郎
伍長 大杉栄一
伍長 木俣光男
伍長 栗生田重郎
伍長 瀬下四郎
伍長 金子長吉
伍長 鈴木副司
伍長 加藤晴雄
伍長 浜田三郎
伍長 武内永司
衛伍長 熊倉富男
隊名 将校 准士官・曹長 軍曹・伍長
第六中隊 大尉 山谷誠一 中尉 橋口克己 准尉 風間三吉 軍曹 大館秀夫
少尉 甘利 宏 曹長 米山正作 軍曹 大場伸次郎
少尉 飯田健吉 曹長 田村貞雄 軍曹 橋本重治
曹長 市川 清 軍曹 林 衛二
軍曹 板倉義雄
軍曹 小野義一
軍曹 斉藤清三
軍曹 桜井武比古
軍曹 小野貞次郎
軍曹 新井秀夫
軍曹 奥山直一
軍曹 沼田正輝
軍曹 堀田正一
伍長 木藤正孝
伍長 加藤重雄
伍長 落合春義
伍長 斉藤重夫
伍長 広瀬富松
伍長 野本育郎
伍長 内山久九郎
伍長 深井春行
伍長 遠藤久雄
伍長 宇佐美徳治
伍長 吉田喜之助
主伍長 鈴木清治
隊名 将校 准士官・曹長 軍曹・伍長
第七中隊 大尉 横井長太郎 中尉 直喜 久 准尉 水嶋喜代治 軍曹 市川孝三
少尉 金松正雄 曹長 藤原春秋 軍曹 佐藤甚一
少尉 関口子之三 曹長 阿部大吉 軍曹 岡江米次郎
曹長 渡辺 馨 軍曹 小島 実
曹長 布留川英雄 軍曹 加藤鉄三郎
曹長 北川正隆 軍曹 田中亀雄
軍曹 松本清次
軍曹 今尾正男
軍曹 猪狩留治
軍曹 石井千盛
伍長 鬼頭 茂
伍長 嘉山喜一郎
伍長 大畑春義
伍長 佐藤登美雄
伍長 中村克己
伍長 老沼正孝
伍長 中村嘉一
隊名 将校 准士官・曹長 軍曹・伍長
第八中隊 大尉 佐藤正巳 中尉 山口勝夫 准尉 石坂辰雄 軍曹 志村冨士男
中尉 江村博一 曹長 村山俊定 軍曹 森川敏治
少尉 杉田 茂 曹長 西潟光男 軍曹 植竹友次郎
曹長 丸山 正 軍曹 斉藤利雄
曹長 内田竜弥 軍曹 杉浦和平
軍曹 田丸孝造
軍曹 木村勝雄
軍曹 菅原 清
軍曹 川瀬嘉幸
軍曹 浅川央夫
軍曹 中西忠雄
軍曹 岩井紀義
軍曹 山崎幸造
軍曹 我妻幸一
伍長 細谷 弘
伍長 田中寅蔵
伍長 鈴木梅四郎
伍長 平野健治
伍長 青木長太郎
伍長 宇田川利次
伍長 原田 勇
伍長 北村良三
伍長 林 茂雄
伍長 鈴木文雄
伍長 小山五一
伍長 土江正一
伍長 小柳茂美
隊名 将校 准士官・曹長 軍曹・伍長
第二機関銃中隊 大尉 菅野惇士 中尉 甘粕恒雄 准尉 桐山正衛 軍曹 福田良蔵
少尉 山岡 巧 准尉 田中太郎 軍曹 塚本芳雄
少尉 座間勝美 曹長 藤巻直栄 軍曹 大矢 勲
曹長 根岸親治 軍曹 川上英男
曹長 内田松太郎 軍曹 持田知吉
曹長 矢部恒利 軍曹 小山正二
軍曹 大芝保平
軍曹 神保吉雄
軍曹 大久保光雄
軍曹 松浦幸太郎
軍曹 寺島芳治
軍曹 細田仁重
軍曹 根岸博治
軍曹 富田 孟
軍曹 前田 宝
軍曹 石井勝雄
軍曹 中里 平
軍曹 木村角二
伍長 飛田武松
伍長 大平喜一
伍長 篠沢 丈
伍長 久保田正義
伍長 遠藤忠雄
伍長 阿部隆春
伍長 金子竜之介
伍長 山田 静
伍長 江森丈雄
伍長 笹井鋭造
伍長 宮島正義
伍長 杉田竹男
伍長 泰 嘉市
伍長 高梨勘造
衛伍長 佐須正信
隊名 将校 准士官・曹長 軍曹・伍長
第二歩兵砲小隊 中尉 大矢寿雄 曹長 村山久一 軍曹 下利訓三
曹長 椎橋 清 軍曹 安部 良
曹長 竹内亭一 軍曹 山崎秀雄
軍曹 上野良雄
軍曹 北村敬一
軍曹 津山敏磨
軍曹 鉄指新吉
軍曹 上原信雄
伍長 吉岡 駿
伍長 三浦一夫
伍長 井上幸光
伍長 小林 豊
伍長 川口由雄
伍長 古荘晃清
第三大隊 大隊長 陸軍少佐 小宮善吉
隊名 将校 准士官・曹長 軍曹・伍長
第三大隊本部 大尉 荻野美助 准尉 遠藤隆二郎 軍曹 神戸 博
中尉 柳沢円進 曹長 真島久作 軍曹 露木愛作
主少尉 伊賀辰雄 曹長 中沢惣吉 軍曹 川奈部喜一郎
医大尉 都筑鋼太郎 曹長 榎本圭三 技軍曹 大柴 到
医中尉 芝田 実 獣曹長 満留谷建三 経軍曹 藤原義章
獣少尉 原 正義 経軍曹 佐藤一郎
衛軍曹 安藤正義
衛軍曹 深沢 益
衛軍曹 間宮 実
獣軍曹 鎌田 弘
伍長 朝倉八郎
伍長 吉田健治
衛伍長 新倉正男
伍長 稲橋勘一
伍長 永野政一
伍長 福地正文
伍長 熊沢美雄
伍長 薮田 朗
伍長 河原利種
伍長 岡部彦太郎
隊名 将校 准士官・曹長 軍曹・伍長
第九中隊 大尉 高橋久平 中尉 宮崎一郎 准尉 富沢藤三郎 軍曹 福田昇三
中尉 丹羽米吉 准尉 桑原一郎 軍曹 長谷川惣次郎
少尉 杉山育三 曹長 金子丸一郎 軍曹 石田一郎
曹長 小貫八衛 軍曹 広田和夫
軍曹 宮川吉郎
軍曹 真瀬 悟
軍曹 川田浩司
軍曹 渋谷梅吉
軍曹 柏木文造
軍曹 岡田順平
軍曹 加藤 明
軍曹 工藤正栄
軍曹 川瀬芳雄
伍長 織茂 清
伍長 杉山全男
伍長 林 貞助
伍長 田代金作
伍長 近藤利夫
伍長 安 保
伍長 栗山作三
伍長 丸山弘平
伍長 田辺美房
隊名 将校 准士官・曹長 軍曹・伍長
第十中隊 大尉 岡本義一 中尉 樫野 勇 准尉 山田栄吉 軍曹 秋葉 広
中尉 大野裕史 曹長 中村 績 軍曹 羽根田三男
少尉 矢田竹造 曹長 沖津政雄 軍曹 福井泰助
曹長 須山七五郎 軍曹 宮田勝二
曹長 関口 茂 軍曹 中山平七
軍曹 白石 尋
軍曹 都倉 茂
軍曹 吉田 豊
軍曹 今井 保
軍曹 大木新之助
軍曹 長瀬 博
軍曹 真壁長雄
軍曹 木村新助
軍曹 坂本 真
伍長 秋本信一
伍長 永井東太郎
伍長 向笠徳蔵
伍長 杉山光栄
伍長 平本良一
伍長 湯山 覚
伍長 野川 豊
伍長 安西康雄
伍長 小宮善吉
伍長 鮫島一男
伍長 斉藤喜子蔵
衛伍長 三橋平一
隊名 将校 准士官・曹長 軍曹・伍長
第十一中隊 中尉 平田良作 中尉 小清水 恒 准尉 塚田真平 軍曹 星野一郎
中尉 仙田山達郎 准尉 島宗秀雄 軍曹 武笠清三
准尉 山崎治三郎 軍曹 古賀益美
曹長 中沢幸雄 軍曹 米山武徳
曹長 山岸正隆 軍曹 福島善治
曹長 佐藤孝次郎 軍曹 新倉重雄
軍曹 大島 勲
軍曹 清水喜八郎
軍曹 福岡利男
軍曹 長沢 茂
軍曹 泉 繁治
軍曹 高山丈雄
軍曹 柳川武雄
軍曹 武田二郎
伍長 西岡繁松
伍長 鈴木武清
伍長 島 信衛
伍長 池田政弘
伍長 小林政吉
伍長 滝口兼吉
伍長 大貫武治
伍長 石川敏雄
伍長 幾田清太郎
伍長 津田正次
伍長 由比 実
隊名 将校 准士官・曹長 軍曹・伍長
第十二中隊 大尉 坂本光彦 中尉 永江新三 准尉 大口定男 軍曹 加藤作雄
少尉 山本 進 准尉 長谷川安平 軍曹 福田竹次郎
少尉 石黒敬一 曹長 竹之内春栄 軍曹 藤川清澄
曹長 古塩理三郎 軍曹 杉 栄助
曹長 中林秀次郎 軍曹 小島恒夫
曹長 柿沼筆松 軍曹 清水重春
曹長 入内島文治 軍曹 松野隆治
軍曹 星野寿夫
軍曹 小檜山英雄
軍曹 松田文雄
伍長 森山静治
伍長 長井越郎
伍長 山中 昌
伍長 杉岡満美
伍長 金子初雄
伍長 森谷正大
伍長 大石雄司
伍長 栗塚徳三
伍長 岩本英雄
伍長 田辺源治
伍長 原 賢次
伍長 吉野新太郎
伍長 笠原松五郎
衛伍長 高岸政利
隊名 将校 准士官・曹長 軍曹・伍長
第三機関銃中隊 大尉 鈴木祐司 中尉 香取忠裕 准尉 小川勇四郎 軍曹 鈴木文明
中尉 近藤 博 准尉 木村辰弥 軍曹 渋谷良雄
少尉 藤上 勇 曹長 垣沼 博 軍曹 倉田千代松
曹長 青木秀雄 軍曹 水戸忠夫
曹長 関口三平 軍曹 大埜 一
曹長 上野市郎 軍曹 倉田達夫
曹長 萩原庄市 軍曹 塩原勝次郎
軍曹 高橋久夫
軍曹 三守金太郎
軍曹 山口太一郎
軍曹 石渡重太郎
軍曹 高橋登利蔵
軍曹 米山照夫
軍曹 宮台誠之助
軍曹 阿部逸雄
軍曹 宮崎治雄
軍曹 小島留吉
軍曹 佐藤倉秋
軍曹 惣田孝四郎
軍曹 斉藤正美
軍曹 藤原六郎
軍曹 米野光太郎
伍長 島 文彦
伍長 榎本国松
伍長 清水利男
伍長 山崎政利
伍長 鈴木嘉一
伍長 横山福蔵
伍長 吉沢直一
伍長 加藤銀次郎
伍長 北島武司
伍長 栗原要作
伍長 槓野光夫
伍長 岸井 博
伍長 高橋忠司
伍長 門松英進
隊名 将校 准士官・曹長 軍曹・伍長
第三歩兵砲小隊 中尉 小板橋完寿 少尉 久保寺健一 曹長 服部信治 軍曹 軽米峯治
曹長 内藤篤衛 軍曹 谷口米平
曹長 大用治夫 軍曹 神崎重勝
軍曹 久保田勝由
伍長 市川喜一
伍長 池田政吉
伍長 富田勝蔵
伍長 小黒市郎
伍長 後藤光美
伍長 森 新蔵
歩兵砲大隊 大隊長 陸軍少佐 津田正男
隊名 将校 准士官・曹長 軍曹・伍長
歩兵砲大隊本部 中尉 溝口 司 曹長 山口 栄 軍曹 飯田醁郎
医中尉 増田覚之 衛曹長 名塚義栄 軍曹 寺北兼一
獣曹長 遠藤辰治 軍曹 鈴木 貢
軍曹 檜原清雄
伍長 平野繁治
伍長 石井雄次郎
隊名 将校 准士官・曹長 軍曹・伍長
連隊砲中隊 大尉 小林 弘 中尉 大原一郎 准尉 山田長四郎 軍曹 川名岩夫
少尉 新井崇夫 准尉 丸山 栄 軍曹 井上博邦
少尉 津田 汎 曹長 今井直恵 軍曹 姫沼重信
少尉 荒井俊一 軍曹 三富重雄
軍曹 湯山正次
軍曹 小山春利
軍曹 平田宗一郎
軍曹 高瀬亮三
軍曹 小沢安治
軍曹 高崎 薫
軍曹 青木 勝
軍曹 浜野繁信
伍長 佐藤重賢
伍長 根岸利雄
伍長 杉本静雄
伍長 鈴木正夫
伍長 飯塚 勉
伍長 内田富雄
伍長 細野幸蔵
伍長 白井菊男
伍長 河野義房
伍長 宮崎義雄
伍長 大貫利雄
伍長 渡辺富蔵
隊名 将校 准士官・曹長 軍曹・伍長
速射砲中隊 大尉 玉木喜一 中尉 佐藤 清 准尉 小林一清 軍曹 西山 孝
少尉 松川勝清 曹長 小川一男 軍曹 中戸川 馨
少尉 岡野憲太郎 曹長 宮本忠弥 軍曹 浅野義二
曹長 渡辺幸男 軍曹 小山佐久郎
曹長 伊東政次 軍曹 澄川了治
曹長 長谷川太一 伍長 籾山利夫
伍長 薄井邦雄
伍長 小山利二
伍長 露木作蔵
伍長 三上 博
伍長 長島吉太郎
伍長 杉山八郎
伍長 米田憲一


「連隊人員表」

隊号 将校 准士官 曹長 軍曹 伍長
R 15 4 13 8 11 55 106
iP 1 1 3 9 8 30 52
iTL 3 1 6 14 13 83 120
9 0 6 7 8 26 56
1 5 1 6 11 11 101 135
2 4 1 5 10 11 90 121
3 4 1 6 10 10 98 129
4 4 1 5 10 11 106 137
ⅠMG 4 1 6 15 13 97 136
ⅠbiA 1 0 1 6 8 28 44
8 1 8 4 13 18 52
5 3 3 6 14 12 96 134
6 4 1 3 13 12 88 121
7 4 1 5 10 7 88 115
8 4 1 4 14 13 92 128
ⅡMG 4 2 4 18 15 75 118
ⅡbiA 1 0 3 8 6 27 45
7 1 4 10 10 29 61
9 4 2 2 12 10 106 136
10 4 1 4 14 12 96 131
11 3 3 3 14 11 95 129
12 4 2 5 10 14 93 128
ⅢMG 4 2 5 22 14 81 128
ⅢbiA 2 0 3 4 6 23 38
iA 3 0 3 4 2 6 18
RiA 5 2 1 12 12 53 85
TA 4 1 5 5 8 60 83
合計 118 34 125 289 280 1840 2686


「歩兵第三十連隊編成(職員)表 別表」

昭和十九年・甲種幹部候補生
任官 摘要 所属 氏名
昭和二十年八月二十日 曹長 昭和二十年九月一日 除隊 ⅡMG 垣花泰竹
昭和二十年八月二十日 曹長 昭和二十年九月一日 除隊 1 砂川夏男
昭和二十年八月二十日 曹長 昭和二十年九月一日 除隊 5 川上盛三
昭和二十年八月二十日 曹長 昭和二十年九月一日 除隊 ⅠMG 勝連玄信

昭和十九年・乙種幹部候補生
任官 摘要 所属 氏名
昭和二十年八月二十日 軍曹 昭和二十年九月一日 除隊 ⅢMG 浜本貞栄
昭和二十年八月二十日 軍曹 昭和二十年九月一日 除隊 3 仲間哲雄
昭和二十年八月二十日 軍曹 昭和二十年九月一日 除隊 12 島袋恵栄
昭和二十年八月二十日 軍曹 昭和二十年九月一日 除隊 1 下地玄祥
昭和二十年八月二十日 軍曹 昭和二十年九月一日 除隊 RiA 下地 鉄
昭和二十年八月二十日 軍曹 昭和二十年九月一日 除隊 RiA 島村邦秀
昭和二十年八月二十日 軍曹 昭和二十年九月一日 除隊 RiA 伊佐 一



「森参謀の妻・君子さんからの手紙」

〈同封写真〉
森参謀
(元歩兵第三十連隊第七中隊長)
石坂准尉への手紙


「藤本からお礼を込めて」

 『石坂准尉の八年戦争』と題した戦記も、いよいよ終わりに近づいた。最後に、森参謀の奥さんが石坂准尉に送った手紙を引用しよう。
 ここまで読んでくださった皆さまであれば「森中隊長」のことはご存じであろう。北支出動時に石坂准尉の上官だった人である。
 何度か戦友会「宮古会」に出席している森参謀の写真を見たが、その姿は老いたとはいえ、なかなかどうして軍人らしい立派な人物に思えた。事実、戦後になってからも森参謀を慕う元部下がたくさんいたという。


***

 久しぶりに山陰にも雪がふりましたが、倉吉ではテレビで放送されている程の大雪ではなく白一色の美しい景色となりました。
 さて、主人若かりし頃の写真まで同封していただき、いつまでも変わらぬ主人への御気持ちこもった御手紙有り難うございました。
 中尉時代の四十連隊の時の当番兵をして下さいました方(主人より早く亡くなられました)が終戦後、滋賀からわざ〳〵奥さんとお二人で訪ねて下さいましたことがありました。今でも、御一人暮らしの奥さんがいつまでもいつまでも懐かしがって、御子さん方とのトラブルのぐち話のはけ口の御手紙がきます。
 主人の人徳のおかげと思い、これ程皆様に思われて、ほんとに幸せな人だと思います。
 鯉兵団の方々もいまだに参謀殿〳〵とおっしゃって、私まで思わず涙がこぼれそうになります。
 主人の名を汚さない様、穏やかに墓のまもりや菩提寺のつとめ等を果たして参りたいと思います。
 息子が参りました時に御手紙と共に同封して下さいました写真も見せてやります。
 御茶一杯、自分でいれてのめなかった主人なので「早く来てくれ」と思っているでしょうけど、一周忌も近い内ですから、なかなか早目に行ってやれません。待っているでしょうけれど。
 寒中の厳しいお寒さの日々、どうぞ御体御大切になさいます様に念じます。
 心から厚く御礼申し上げます。

 森

 石坂様


***

*補足(藤本)
 広島第五師団の後方参謀だった森中佐は、戦後になってから、ある悲劇に見舞われる。昭和二十年八月に発生した橘丸事件の関係者として戦犯裁判にかけられたのである。
 森参謀に突きつけられた起訴状を、御田重宝『
人間の記録 太平洋戦争下 偽装病院船事件』から以下に引用しよう。

***

聯(連)合軍最高司令部
原告、アメリカ合衆国は、米国第八軍司令官の招集したる軍法委員会に、被告人モリ・ヤスノリを左の理由により起訴す。
起訴理由
元日本帝国陸軍軍人にして、当時の知られたる称呼、陸軍中佐モリ・ヤスノリなる被告は米国並びにその聯合諸国および諸属領の日本国と交戦期間中、本起訴理由書に付属する罪状項目書中に掲げたる時および場所において、戦争法規並びに戦争慣習に違反せり。
罪状項目
一、被告人モリ・ヤスノリは昭和二十年八月一日ごろ、当時カイ諸島よりジャワ島プロポリンゴに到る区間、部隊および軍需品を輸送する目的をもって赤十字標識のあることにより、明白に日本軍病院船橘丸と判明せる同船上に約千五百名よりなる倔強なる日本軍戦闘隊及び、何れも赤十字標識を有する種々なる兵器および軍用品多数を不法に積載することに寄与し、かくて赤十字標識の不当使用をなせり。
二、被告人モリ・ヤスノリは昭和二十年八月一日前後より同三日前後に到る間、当時蘭領印度、カイ諸島よりジャワ、プロポリンゴに到る区間、部隊および軍需品を輸送する目的を以って、赤十字標識のあることにより、明白に日本軍病院船橘丸と判明せる同船にて、約千五百名よりなる倔強なる日本軍戦闘隊および何れも赤十字標識を有する弾薬千五百箱、兵器類及び軍用品類等の軍需品の公海上輸送を故意かつ不法に為さしめ、かくして赤十字標識の不当使用をなせり。
昭和二十二年○月○日
GHQ法務部長 アルパー・C・カーペンター

人間の記録 太平洋戦争下 偽装病院船事件』の百五十二~百五十四ページまで引用

***

 アメリカ軍が橘丸を拿捕したことは、交戦法規に照らせば正当な行為といえる。同時に赤十字の印を部隊移動の隠れみのに利用したわが軍の手法に問題はあった。ただし、戦争中の話である。裏の手段はどこの参戦国も多かれ少なかれ用いている。わが軍だけ責められるゆえんはどこにもない。しかし、アメリカ軍によって一方的な戦犯裁判が開かれ、関係者の処罰がおこなわれることとなった。
 上記の起訴状にあるとおり、森参謀は被告人の一人として裁判を受けている。森参謀の人柄を知る者にとっては、青天の霹靂であったろう。まして森参謀本人や奥方・君子さんなどは悲しみと怒りで打ち震えたに違いない。
 ただ、幸いにも、森参謀に言い渡された判決は無罪だった。極秘輸送作戦は第五師団以上の上級部隊によって決定され、命令が下ったにすぎなかったからである。
 そもそも、第五師団の師団長・山田清一中将と同師団の参謀長・浜島厳郎大佐の二人が、麾下の一個連隊が敵に丸ごと拿捕されるという不祥事の責任を取って自決していたために、その身代わりとして、森参謀が起訴されてしまった経緯がある。森参謀の責任など、はなから存在しなかったのだ。しかし、『国際法外交雑誌』(平成元年2月号。国際法学会)に掲載されている論文――『赤十字標識の不正使用と戦犯裁判 
――横浜裁判における橘丸事件――』(著・喜多義人)に、以下のような指摘がなされている。

***

公判前に死亡した指揮官の代わりに、参謀が起訴された点も論議の対象となる。一般的に言えば、作戦行動の決定権者は指揮官であり、参謀は彼を補佐する地位にあるが、旧軍では指揮官が下した命令に従って細部にわたる作戦計画を起草し、その実施を下級部隊に命ずるのは参謀の職務であった。それゆえ、検察側は、本件において参謀が果たした実質的な役割を考慮して、スタッフたる彼らを起訴したということができよう。

『国際法外交雑誌』(平成元年2月号)の三十七ページから引用


*補足二(藤本)
 NHKが制作したドキュメンタリー番組「証言記録 兵士たちの戦争」(「偽装病院船 捕虜となった精鋭部隊 ~広島県・歩兵第11連隊~」の回)に橘丸事件の概要がまとめられている。

http://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210034_00000

 また、上記の番組を紹介しているウェブサイト「NHK 戦争証言アーカイブス」に、森参謀中佐について証言する、歩兵第十一連隊の高級副官・山本 茂の映像が公開されている(「病院船への乗船命令」と「軍事裁判」のチャプター)

http://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001100478_00000

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