■壮烈 太原城総攻撃
画・石坂辰雄

 昭和十二年十一月八日十五時、太原城総攻撃の火ぶたが切って落とされた。部隊は丈余の城壁をよじ登り、西北角望楼に突入する。
 激戦およそ二時間、敵はついに力尽き、総退却した。
 戦死者、村山少尉以下十九名。



石坂准尉の覚書(太原城攻略)
『駐満記念 鮫城部隊』 満州国牡丹江省穆稜 柏部隊将校集会所 (石坂准尉の書き込みより)

「太原城総攻撃 昭和十二年十二月七日~九日」

 太原城総攻撃の命下る。わが軍の砲兵が火ぶたを切る。破壊される城壁、崩れ落ちる望楼、空からの爆弾投下が終日続く。
 明けて八日、黎明を期して進撃する。城壁の手前約百メートルにある並木土手に到達し、城内突入の機を待つ。敵の猛射熾烈を極めるため、日没になってから前進開始。中隊は一歩、また一歩と地をはうように敵陣に近づき、敵前約五十メートルまで接近する。彼我の攻防、いよいよ激烈となる。
 時計が零時を指す。中隊長が突撃の命を下す。隊員は敵弾の中をくぐって城内に突入する。慌てた敵は総崩れで逃走、暗闇の中、市街の各所から火の手が上がる。さしもの頑敵も戦意喪失、太原城を明け渡す。
 攻撃拠点各隊の万歳こだます。

*補足(藤本)
 十二月九日、石坂准尉は城内掃討戦に転じる。



「太原の戦闘における戦死者」

 連隊の戦死者 十九名

 内 中隊戦死者 十二名

 村山少尉 吉倉伍長 大川伍長

 同年兵 杉本一等兵 滝沢一等兵 南雲一等兵 佐藤一等兵 田沢一等兵 田中(源)一等兵 後藤一等兵 猪又一等兵 平野一等兵


「太原城に平和よみがえる」

 十二月十日、各家ごとに日の丸が掲げられ、兵団長板垣中将の入城式を祝った。
 部隊は市内の民家に入って休養した。食糧とたばこが豊富に配給され、久しぶりに入浴することもできた。戦塵を洗い落としながら、互いの無事を喜んだ。しかし、戦死者百六十八名(出動以来)を思うと、痛恨の極みである。
 二十六日、大任を果たした連隊は満州帰還のため、太原を出発。
「さらば太原、感無量なり」

***

 太原――南庄頭――原平鎮――鉄角嶺を経て大同に到着。激しかった戦場に平和よみがえり、住民は日の丸の小旗を振って迎えてくれた。
 大同からは列車輸送にて山海関に移動し、駐屯地山河屯に帰還。



『東京朝日新聞』(昭和十二年十一月十八日朝刊)

  仇を討たねば
死なれない
勇し平野君

猪鹿倉部隊の戦死者平野今朝松一等兵(二三)は滝野川区西ヶ原九一三平野又五郎さん(五六)の四男で埼玉県鴻ノ巣運送会社のトラツク運転手を勤めてゐた元気な青年、留守宅には実父の他母親えいさん(五五)弟好五郎君(一六)がゐる、最近の便りには

○○高地の占領で仲良しを失つた、この仇を討つ迄はどんな事があつても死ねない

とあつた

『東京朝日新聞』(昭和十二年十一月二十一日朝刊)

  元気だった大川君

戦死した猪鹿倉部隊の大川七三郎軍曹(二四)は新潟県刈羽郡柏崎町の出身、柏崎中学を卒業後上京、国学院大学に学び傍ら芝区田町七丁目佐々木電気商会に勤務、中学時代には水泳の選手をしてゐた、元気なスポーツマン、賢兄の京橋区木挽町二ノ八ノ二筆耕業弘益社出張所大川英一郎氏(四〇)に宛てた最近の便りに

残敵掃討で朝から○○部落を焼払つてゐる、元気旺盛、私の手紙は後で日記にまとめるから保存して欲しい

とあつた



朝霧をつきて
MGの援護射撃
(石坂一等兵らが攻撃した西北角望楼)

  太原の戦場風景

燃ゆる大北門
故 熊倉中尉
(第六中隊 小隊長)



「村山中尉」

石坂 「太原の戦闘で一番記憶に残っているのは、わが第七中隊の小隊長村山少尉が戦死したことだ。村山少尉は原平鎮の戦いの後、やってきた将校なんだけど、原平鎮で第七中隊は壊滅的打撃を受けたでしょ。生き残りは俺を含めわずか十六人だったから、補充要員として派遣されてきたってわけ。
 村山さんは闘争本能あふれる立派な少尉殿でね、新しい小隊長とともにみんな張り切っていたんだけど、命を落としてしまった」

藤本 「石坂准尉は太原で、第七中隊のどの小隊に所属していたんですか」

石坂 「いや、太原では中隊の指揮班にいたんだ。中隊直属の中隊長護衛の任でね。そのせいもあって、村山少尉の最後は間近で見ていないんだ――確か五、六十メートルは離れていたかな。
 戦い終わってから、村山少尉の最後の勇姿を戦友に尋ねたんだ」

藤本 「なるほど。でも妙ですね、石坂准尉は原平鎮では片桐分隊長に指揮される小隊員でしたよね」

石坂 「戦争やっている状況がいまいち想像できないんだろうけど、ドンパチやっていれば兵隊がたくさん負傷して、中には死んじゃうやつもいるよね。だから、各戦場ごとにどんどん編成が変わるものなんだよ。臨機応変にね。つまり、俺は太原では中隊指揮班にいた……分かるよね」

藤本 「はい」

*補足(藤本)
 伊藤桂一『兵隊たちの陸軍史 
兵営と戦場生活』に、中隊指揮班について説明している一文がある。

***

<中隊指揮班>典型的な駐屯方式は、師団司令部――連隊本部――大隊本部――中隊本部――各分屯隊となるが、集団の戦闘単位である中隊では、兵員に関する事務関係は、すべて中隊の指揮班(事務室)で行われていた。糧秣、被服、兵器等の各担当の下士官が実務に当ったが、戦場である以上、もっとも重要だったのは功績である。功績室という事務班によって、戦闘詳報にもとづく兵員の功績の調査・査定を行った。論功行賞の基本である。特殊の戦功をあげた場合はともかくとして、一般的な功績査定の場合は、階級の上の者が得をするのである。たとえば兵長を長とする八名の分屯隊が、敵の夜襲に耐えて陣地を守り通し、敵の遺棄兵器小銃二挺を鹵獲した場合。功績の最上位は兵長で、八名中の第一位となる。功績はともかく、どう第一位になるかが問題で、何名中の何位という査定が行われる以上、たとえ三名中の一位が一等兵であっても、一位――という呼称が、功績査定のときは役に立つ。つまり、どこまで行っても序列が物をいうのである。但し内地兵営における序列と違うところは、単独であげた成果は、単独の功績として登記される点である。従って、一番乗りなどは、まっすぐ金鵄勲章につながる道であった。(功績関係については後述する)
 中隊長を核心とする指揮班は、戦闘間、中隊における戦闘指導を行うので、一定の兵力をもつほか、通信や連絡係を有した。分屯形式で一地区を警備している兵団では、中隊独自の周辺討伐を行うことも多かったし、従って中隊長の権限は強かった。大尉又は古参の中尉が中隊長を勤めたが、この職務は小王侯の観があった。兵隊の眼からは、絶対の権力保持者にみえたのである。

『兵隊たちの陸軍史 
兵営と戦場生活』(番町書房)の百九十八~百九十九ページまで引用



石坂准尉の覚書(村山少尉の戦死)
『駐満記念 鮫城部隊』 満州国牡丹江省穆稜 柏部隊将校集会所 (石坂准尉の書き込みより)

故 村山中尉
(第七中隊 小隊長)
村山少尉以下十名戦死の地(第七中隊)

太原城西北角望楼
村山少尉指揮する第七中隊第一小隊が果敢な突撃を敢行したところ

「村山少尉の奮戦」

 中隊長森大尉は第一小隊長村山少尉に突撃命令を下した。決死隊長となった村山少尉は部下とともに敵中に飛び込んでいった。頑強に抵抗する敵の返り血で体中を染めつつ突撃する姿はまさに武人のかがみ。しかし、突如、手榴弾が村山少尉の足下に飛来し、炸裂した。村山少尉は敵をにらみつけ、なおも一歩一歩前進しようとするが力果て、その刹那、軍刀を高々とかざし振り絞るように「万歳」と叫んで地面に伏してしまった。
 壮烈な村山少尉の最期の姿であった。


「村山少尉戦死前夜の思い出」

 この日は支那人の民家に宿泊する。何も食べていないので腹ぺこだ。
 家の中を物色すると、カブの漬け物があった。私がその一切れを村山少尉に差し上げると「おいしい、おいしい」と言って喜んでおられた。
 村山少尉は翌日の総攻撃で名誉の戦死を遂げられた。



軍旗 太原入城
連隊長 猪鹿倉大佐、旗手 後少尉

*補足(藤本)
 後 勝『ビルマ戦記 
――方面軍参謀 悲劇の回想』に、支那事変における歩兵第三十連隊の戦歴が記されている。

***

 ついで私は、新たに着任された猪鹿倉徹郎連隊長のもと、軍旗を奉じて、勇躍北支に向かい出征した。
 私たち関東軍から派遣された部隊は、関東軍参謀長東條英機中将(のち大将、首相)指揮のもとに、第一師団の第二旅団、第二師団の第十五旅団の二コ旅団編成で、満州の熱河省から内蒙古を経て、張家口で万里の長城を突破して山西省に入り、大同城を攻略した。つづいて矛を転じて南進し、山西省の首都太原に向かったが、そこにはもう一つの万里の長城(内長城線)があった。
 峨々たる山嶮の頂上に沿って、蜒々とつづく万里の長城を眺め、中国人のスケールの大きさには驚かされた。儀峨連隊長の言われたとおり、中国の国土は広大で、人口の多いことはまったく想像以上で、その中に中国軍が戦陣を張りめぐらしているのである。私たち関東軍の精鋭は、その正面を突破して太原に向かって進んだが、その両側や背後にはいたるところ敵が残り、まったく人海の中を泳いでいるような状態で進撃をつづけ、ついに太原城を攻略した。

『ビルマ戦記 
――方面軍参謀 悲劇の回想』の二十九~三十ページまで引用

(藤本・注 本文中に儀峨連隊長とあるが、正しくは儀我連隊長)

墓標
(左から二番目、第二大隊長 長沢少佐)
西北角望楼
(第七中隊占領)

右の突入路から城内に進入
掃討後の太原三十連隊本部

 
  占領直後の太原市街

 
  占領後の太原(迎輝門)

猪鹿倉部隊 太原入城の刹那

   
  南庄頭・太原における第七中隊の戦死者



「太原の戦い」

石坂 「この太原ではね、太原城が赤々と燃え上がっていたのを覚えている。暗闇の中、戦争しているのがうそみたいに思えたよ。幻想的な光景を目の前にして、妙に落ち着いていたんだな。
 砲兵の砲撃、爆撃機の爆撃、戦車のキャタピラ音。耳に障る爆音をよそに、炎に包まれている太原城を石坂一等兵は見つめていた。白だすきりりしい姿でね」

明夫 「詩的(笑)」

石坂 「話は変わるけど、そういえば悲惨なことがあった。友軍機の爆撃に巻き込まれて死んだ兵隊がたくさんいたんだよ」

藤本 「やっぱり上空からだと見えづらいんですかね」

石坂 「うん、そうだね。太原は堅固な城塞だけあって、敵は銃眼から俺たちを狙って撃ってきた。当然、樹木の木陰なんかに隠れるよね。だけど、上空を旋回している飛行機には分からないわけ。だから、爆弾がどんどん落ちてきて、かなりの犠牲者が出た」

明夫 「やるせないね」

石坂 「いや、戦争なんてそんなもんだよ。『運が悪かっただけ』としか言いようがない。いちいち、構っていたら戦いに勝てないからね。
 古今東西、どこの軍隊でも同じ考え方をしていると思うよ。みんな軍隊に入ったら、もともと死んだ気になっていなくちゃならないんだ。分かっていないのは今の自衛隊……いや、自衛隊を責めるのは見当違いか……今の日本国のふ抜け衆愚政治くらいだよ」



飛行場
救国?の檄文

太原市街
迎輝門

首義門
南門の鹵獲兵器

中山公園~その一
中山公園~その二

 
  新発田歩兵第十六連隊占領の街



「近代戦の様相」

藤本 「太原でどのような活躍をしたんですか」

石坂 「活躍だって。活躍なんか何もないよ。知ってのとおり、太原は山西省の首府だ。だから、さまざまな部隊が連合して攻略に当たったから、俺個人の武勇を語るスケールじゃない。まあ、それを言ったら、はじめっから語るに足る英雄談なんてこれっぽっちもないんだけどさ。
 この頃の戦争は個人の力量がどうとかいうレベルじゃない。たくさんの兵隊にたくさんの優秀な兵器をそろえた側が勝利する世界だ」

明夫 「活躍まではいかないけどさ、じゃあ具体的に、おやじは太原で何をしたの」

石坂 「何をしたのって、何もしてないんだよ(笑)。中隊指揮班にいて中隊長とともに戦いの成り行きに身をまかせていただけ。もちろん、戦場は駆けずり回ったけどね。太原城に肉薄したときなんかは、銃眼から狙い撃ちされたんで、この野郎と思って撃ち返してやったよ。
 太原城の西北角望楼を陥落させることができたのは中隊全員の功績だよ」




板垣兵団戦没者慰霊祭(太原)
占領後の城外警備



『東京朝日新聞』(昭和十二年十一月八日朝刊)

不法・わが軍使を射撃
太原を断固総攻撃
非戦闘員に退去勧告

【天津にて古川特派員七日発】 太原攻略の我部隊は続々太原城に迫り大場、粟飯原両部隊は北側から、長野部隊は東側から、後藤、猪鹿倉両部隊は西側から完全に太原城を包囲しその死命を掌中に収めたが無辜の城内住民に戦火を及ぼし無益の損傷を与へることを潔しとしないので一時砲火を休め城内の残敵に対し降伏勧告を行ふことゝなし六日昼より飛行機その他適切な方法を講じて平和裏に太原城を明け渡すことをすゝめ、更に七日早朝より再三軍使を派遣して我意向を伝へんとしたが、暴戻なる支那軍は我軍の好意をふみにじり不法にも七日我軍使に対し突然射撃を加へ抵抗の戦意を示すに至つた、よって我包囲部隊は激昂し断固太原城攻撃の意を決し即刻城内の残敵殲滅の火蓋を切り総攻撃を開始し太原城を猛攻中である
【天津特電七日発】 七日午後六時半軍発表=【一】高射砲、迫撃砲等を有する相当多数の敵は太原城内外に陣地を構築し頑強に抵抗し、城内に通ずる主要なる道路上は多数の地雷火あつて我軍はこれを芟除しつゝ目下城壁をへだたる一キロ乃至二キロの線を前進中なり、本日午後飛行隊は城内望楼、兵営等を爆撃せり、目下(午後五時頃)地雷の爆破、敵迫撃砲弾の炸裂、彼我の機関銃声酣なり、戦場は風なく快晴なり【二】城内には第三国人相当多数居住せるをもつて本日午後飛行部隊は飛行機をもつて左の警告文を城内に散布せり(イ)城内の第三国人及び非戦闘員は明八日午前七時までに南門より退去すべし(ロ)右時刻以後城内に残存するものはこれを戦闘員と看做す

『東京朝日新聞』(昭和十二年十一月九日朝刊)

昨日の戦局展望

***

太原の攻略 我が太原包囲軍はいよ〳〵所定の時間が来たので昨朝七時より一斉に総攻撃の火蓋を切つた、諸砲兵隊はすつかり照準を合せての攻城戦とて忽ち北門付近の城壁を打砕いて突撃路を作つた、続いて二つ三つ、攻撃中の諸部隊の内大場、萱島両部隊先づ飛び入り高く日章旗を掲げると共に城内の敵と大肉弾戦を演じ、続いて粟飯原部隊等も突入し、後藤、猪鹿倉、堤各部隊も西北部に突入して頑強に抵抗する敵と激戦中である、一方長谷川部隊は昨午前中に戦車隊を先頭にして敗敵を追撃し、太原南方の南太原を通過して汾河を渡り清源より汾陽方面へと向つてゐる

『読売新聞』(昭和十二年十一月十日夕刊)

太原掃敵戦続く
工兵隊は小北、小東両門爆破

【太原九日発同盟】 昨八日太原城の北と東の城壁を突破して城内に進入した我軍の一部は壮烈な市街戦を展開し頑強に抵抗する敵と対峙の儘一夜を明したが昨夜半和田工兵部隊は北面の小北門及び東面の小東門の爆破を敢行した、又西面を攻撃中であつた後藤、猪鹿倉、堤各部隊の一部はそれ〳〵城内に進入先入部隊に呼応、九日早暁来激しい掃討戦を行つてゐる

『週報』(第五十七号 昭和十二年十一月十七日号)
内閣情報部

杭州湾奇襲作戦に成功す
陸軍省新聞班

 天皇陛下に於かせられては北支及内蒙方面に作戦中の陸軍将兵に対し去る十一月十二日午前十一時参謀総長の宮殿下を召させられ優渥なる 勅語を下賜あらせられた。

勅語

北支及内蒙方面ニ作戦セル軍ノ将兵ハ嶮峻ヲ度リ瀏濫ヲ踏ミ克ク異域ノ野ヲ征キテ困苦ト欠乏トニ堪ヘ長駆霆馳向フ所戦陣ヲ撃砕シ皇威ヲ中外ニ宣揚セリ朕深ク其忠烈ヲ佳尚ス思ウテ敵丸ニ殪レ病瘴ニ僵レタル者ニ及ヘハ寔ニ忡怛ニ勝ヘス
惟フニ派兵ノ目的ヲ達シ東洋長久ノ平和ヲ確立セムコト前程尚遼遠ナリ爾等益々志気ヲ淬厲シ艱難ヲ克服シ以テ朕ノ信倚ニ副ハムコトヲ期セヨ

一 概況

 山西戦線敵の牙城たる太原は日本武士道によつて、第三国人及非戦闘員の立退きを勧告したる後、正々の陣、堂々の態度を以て攻撃を開始し九日完全に之をわが手に収めた。
 平漢線方面は河南北部の要地彰徳城を完全に占拠し城頭高く日章旗を掲げ、後方部隊また着々敗残兵の掃討に成果を挙げつゝある。
 上海戦線は蘇州河を越えて南下せる怒濤の猛襲と、杭州湾北岸の奇襲上陸作戦に成功せる新鋭部隊の疾風的進撃により長江杭州湾の握手なり、上海包囲陣形完成せられ、南市一部の抗日分子を除き上海南京の命脈は完全に切断せらるゝに至つた。
 陸海軍空の精鋭は連日銀翼を連ねて江南の空を裁つて各方面陸軍第一線に協力、退却の敵部隊に反復爆撃を加へ、その間海軍機は長駆戦略要線を襲つた。

山西省方面戦闘経過要図(自十月上旬 至十一月上旬)

敵前に於ける穴の塹壕(原平付近)

二 山西方面

 太原攻略は我が分進合撃の作戦により同蒲線を南下した部隊と正太線を西進した部隊との挟撃に依り、閻錫山が三十万を以て防備した敵陣最後の牙城も敢なく潰えた。
 同蒲線を南下急追の我が部隊は続々と太原城に迫り、大場、粟飯原部隊は北側から、長野部隊は東側から、後藤、猪鹿倉部隊は西側から完全に太原城を包囲し其の死命を掌中に収めたが、無辜の城内住民に戦火を及ぼすに忍びず、飛行機による伝単、軍使派遣等により降伏勧告を行つたが、七日支那軍は我が軍使に対し突然射撃を加へ、尚抵抗の戦意を示すに至つたので断固太原城攻撃、城内残敵殲滅の火蓋を切つた。
 殷々たる砲声は山西の天地もさけよとばかり轟き、集中する十字砲火は城壁を刻一刻と崩し、我軍太原入城の勇壮なる前奏曲を奏するかに見えた。
 八日午前九時三十分太原城壁東正面の一角は萱島部隊により占拠、大場部隊又午前九時三十分北側正門の一角を占拠し、潮の如く城内に雪崩れ込み随所に市街戦を展開し残敵を掃討した。
 一方長谷川部隊は太原城西側を迂回南下し七日午前十時南太原を占領した。更に八日汾河地区を南進、九日正午凡そ一千名の敵を清源に於て撃破同地を占拠した。

太原に就て

 太原は山西省政府及太原軍事委員会太原分会の所在地で山西省の政治、軍事、教育等の中心地であり人口は約十万人である。(商業、経済の中心は楡次、太谷地方に在り、河北方面に向ふ物資の呑吐も亦其の地方に於て行はれてゐる。)高さ約十米、厚さ約五米の方形の城壁を有し、北支最大の兵工廠たる太原兵工廠を有し各種兵器弾薬を製造してゐる。南方三十粁位の所に別に太原県と云ふのがある。其の小都邑は太原県城と呼ばれるが別のものである。
 支那革命に際し閻錫山は此の地に兵を挙げ、爾来此の地に在つて所謂山西モンロー主義と称して治績を挙げ、山西模範省と称せられた。一九三〇年反蒋運動を起したが失敗して一時此の地を捨てゝ逃亡したが、翌年再び此の地に帰り国民政府より太原綏靖主任に任ぜられた。一九三六年に中央軍が共産軍討伐の名目で数師の兵を此の地に入れ、ここに山西モンロー主義も破れて中央化して仕舞つた。今次事変に際しては山西平綏線方面作戦の策源地となつたが、今や皇軍の為め全く死命を制せられて仕舞つた。
 戦略的に見れば省全般としては四方に険峻なる山岳を囲らし、所謂守るに便であり、之が閻錫山をして十数年の永きに亘つて山西モンロー主義を成功せしめたのであるが、皇軍の前には此の天与の険要も何等の価値なきことを証明した。
 此の方面の敗戦により敵は全く北支に於ける蠢動の拠点を失ふに至り、我軍の京漢、津浦両方面に於ける黄河以北の作戦進捗と相俟つて、茲に北支作戦は輝かしき戦果を収めたものと謂ふを得べく、北支一帯の明朗化は更に速度を加ふるに至るであらう。更に本戦果が南京当局及支那軍の志気を沮喪せしめ、中支方面の作戦に好影響を与ふること亦吾人の確信する所である。


 正太線方面より太原目指して西進せる鯉登、小林、森本、鈴木、岡崎の各部隊は敗走する敵を急追し、石門口、平定、陽泉、寿陽の各地を次々に占拠し、北方部隊と呼応、敵軍を牽制しつゝ四日夕刻小林、鈴木両部隊は楡次を占拠、同蒲線を太原南方に於て遮断、敵の退路に迫り、七日森本部隊は太谷県北側地区より南方に向ひ急追中である。
 我が空軍は四日太原西南方五里清源付近を南方に向ひ、退却中の敵乗用車二十、トラック五十を爆撃し、徹底的損害を与へた。

(*藤本注・以下略)



『支那事変史』
満州第一七七部隊将校集会所

付図第十七
 
太原城付近戦闘経過要図 昭和十二年自十一月七日至十一月八日



第七章 太原攻略戦 (付図第十七参照)

第一節 太原城総攻撃

吾亦紅

 兵馬倥偬のうちに霜月が訪れた。野づらに咲く可憐な野菊や吾亦紅にも日本の初冬が偲ばれる。日露戦争の時野菊を「乃木苦」ともじって乃木大将の苦労を思い吾亦紅を解釈して「吾も亦紅き心なり」と将兵一同が覚悟の程を示したというが、同じような感慨が我等にも湧いて来る。
 陣営の夜を千々にすだく虫の音もようやくしげくなって来た。虫を聞いていると遥かに北越の夜寒を思う。何か心の片隅に感傷─と言って柔弱ならば郷愁がほのかに忍びこんで来る。しかし朝になって初冬の白い陽がカッと赤い山肌を染めると、我々は悪夢からさめたようにきびしい心に立ちかえる。我々の感傷はそれに個我の火のともる瞬間には線香花火のようにパチパチとやるせない火花を散らすが、ひとしきりそれが燃えさかった後には虚脱したような静けさを呼び戻す。その静けさの底から我々は、全然前とは別な自分を見出すのである。それはすでに女々しい感傷の奴となった自分ではない。郷愁はすでに脱皮して故国と共にある自分である。
 戦場に咲く花にも、照る月にも積もる雪にも、鳴く虫にも、我々は常に祖国を想う。別にこうした特殊な訓練を受けた事はないが、そうしなければいられないのである。実に古往今来日本のつわものたちはこのかぐわしい高邁な血液の伝統を承けて、祖国と共に戦い、祖国のために殉じて来たのである。
 願望する山西の山野にも日本と同じ花が咲き、すすきは高々とかかげて青空を掃いている。

進撃

 その総勢十万と号し、空軍及び多数の重火器を擁し、約三週間の長きにわたって猛抵抗を続けて来た山西の頑敵も、十一月三日明治節の佳節を期して我が軍の総攻撃があるものと察したものか、突然全線をあげて潮の退くように太原方面に退却を開始した。
 友軍の偵察機からも敵大部隊が続々と南方に退却中であるとの確報がもたらされる。
 急追だ。逃がしてはならぬ敵である。もし追撃の手を緩めて、山岳地帯にでも四散させてしまったらそれこそ一大事である。どうしても我等の手で討ち取らなければならぬ敵だ。
 陣中に明治節を迎え、遥かに東天を拝して天地もゆるげとばかり万歳を奉唱した我等は、衝天の意気物凄く一気に敵を追い伏せようと、初冬の色も深い峻険をよじ登って進むのだが、せまい山路は部隊の行く手を遮って意の如く進めない。ことに車両部隊、馬匹の通過の困難に至っては言語に絶するものがある。
 しかも敵は我等が隘路にさしかかると、きまりきって峰の中腹から、頂から、少しでも我が進撃を阻止しようと小抵抗を試みるので油断も隙もあったものではない。それを払いのけながら一意南下急追を続ける。敵が一キロ退くのに我が一キロ進んでいたのでは何にもならない。おまけに彼等は地の利に慣れている。これに追いついては蹴散らして行くのだからのんきに休息している暇などのもちろんあるべきはずがない。まったく昼夜を分かたぬ急行軍が毎日続いた。
 原平鎮から忻県までの三十キロは、右に雲中山の無趣味な山容を眺め、左にゆるやかな台地の起伏を見さけながらグングン進んだが、忻県をすぎる頃からまた山路である。松や柏の常緑樹に混じって樺の木がある。よく見れば梨の野生もある。気の早い楡はもうチラチラと青い葉をこぼしている。日の光を一段と強くかえしているのは椿の葉であろうか。
 太原の玄関石嶺を越すと恐ろしい山険になる。一日平均三十キロの強行軍に冬の初めとはいえ脂汗でびっしょりだ。黙々として歩いていると、時々ダダダダッと敵のチェッコが木の葉の雨を降らせる。あいつらを捕捉するまではへたばってなるものかと新しい勇気と敵愾心が湧いて来る。

太原包囲

 六日早朝――
 向陽店をすぎて果てしもない段丘の間を縫うて行くほどに先頭の方から突然ざわめきが起こって来た。
 太原だ、太原だ。
 ああ見よ、霞の中にひらける太原平野!
 遂に太原に来たのだ。急に足が軽くなる。追いつめられた敵はおそらくあの太原城になだれこんで最後の一戦を交える魂胆にちがいない。
 情報が飛んで来る。
 敵主力は南方及び西南方に退却したが、なお三千を数える山西新編陸軍歩兵第三団その他が、太原城内外の既設堅塁にこもって頑強に抵抗しているという。
 しかも太城城をおっとり囲む諸部隊も逐次包囲の網を縮めているという。
 この好餌をここで他人にとられてなるものか。敵が頑強なら頑強なほどよし、断じて俺達が陥してみせる。
 歩調は快速になって来た。ほとんど駆け足だ。敵機の醜い残骸を横目で睨みながら、この日夕刻には早くも太原城北五六百メートルの地点に到達した。
 銃砲声がしきりに聞こえる。先着部隊と城外の敵との戦闘らしい。
 我が部隊とほぼ方向を同じうして第五○団は城の東北側から、粟飯原部隊は城の西北側から昨日来攻撃中だという。このほか西正面には第十六○隊及び騎兵主力が、東正面には長野部隊、萱島部隊が、東南楡次方面から川岸兵団が、包囲の鉄環を次第に圧縮しながら一挙にこの老巨鯨を屠ろうとひた囲みに囲み、諸隊に協同する砲隊も砲口火を吐く時を今や遅しと待ちうけているのだ。
 ひとり城の西南方のみは城内無辜の民の避難路にもと、武士のなさけの一筋道をあけて置いたのである。が、この一筋道とて兵法のいわゆる「囲むものは欠く」の態勢だったのだ。蟻も洩らさぬ包囲の目をくぐってこの道から遁走を企てる敵兵あらば、所詮我が軍の好餌となるよりほかに途はないのだ。
 あわれ山西に蟠踞蠢動して、小癪にも皇軍の正義に刃むかう蟷螂の愚を敢えてした敵共産軍の最後の拠点たる太原城の運命もまさに風前の灯火である。
 息づまる興奮に面輝かし、腕を撫し、胸をたたいて一夜を敵前に明かさんとする我等は、戦わざるにすでに敵を呑むの概があった。

太原城の防備

 太原攻略を語るにはまず太原城の防備について述べなければならない。
 まず城壁の二十メートル前方には幅八メートル、水深約二メートルの水壕が囲繞し、その前後には壕による防御陣地があり、水壕そのものが大きな障害でさえあるのに、かてて加えて城壁に至るまでの間には無数の地雷を埋没し鼠一匹這いこむすきもない。城壁の高さは約十五メートル、厚さ五メートル、城壁及び望楼上の射撃設備のほか中段にも銃眼を穿ち、特に下段は高さ約八十センチの所に銃眼があり城壁内部からは坑道で連絡し、ごく近くまで行かなければそれを発見する事が出来なく、さすがの友軍重火器の威力を以てしても、その制圧は極めて困難という状態だった。
 また城壁前面には水田が多く、午前中はそこから立ち昇る靄のために展望が妨げられ、しかも部隊の攻撃正面はちょうど逆光線となるため、目標視察もまた非常に困難で、これらの不利を冒して攻撃するのは容易なわざではない。ただ城の西北角一帯の地形は、堤防あり並木あり、そのおかげで接敵行動には非常に便利だった。

降伏勧告

 さて――
 太原城攻略戦の序曲は、城内残敵に対する降伏勧告に始まる。
 空陸相呼応する鉄桶の包囲陣に、見敵必滅の信念に燃える皇軍が火蓋を切ればもはやそれまでである。我等は過去半年にわたって彼等のために臥薪嘗胆の日をすごし、彼等の凶手によって幾多戦友の尊い生命を奪われて来た。彼等は我々にとってはまさに不倶戴天の怨敵である。
 が、我等は最も憎むべきこの仇敵に対してさえ、一つの大きな愛情を示すことを忘れなかった。

城内支那兵に告ぐ。
お前たちの死命は今や完く皇軍の掌中に帰したのだ。これ以上の抵抗はもう無益である。皇軍の真使命はお前たちを徒らに殺傷する事ではない。お前たちと共に新しい楽土を建設する事である。速やかに反抗の意志を棄てて銃を離せ。真に救国の精神に燃ゆるならば、速やかに皇軍に投じて来い。本日十二時迄待ってやる。それを過ぎてもお前達が抵抗をやめなければ、皇軍は断乎としてお前たちが最後の一人になるまで徹底的に攻撃するつもりだ。今こそお前たちの良心を働かせる時だ。よく考えてくれ。




 最高指揮官から発せられた、この花も実もある勧告も、血迷った彼等によってついにすげなく拒否された。
 万事休す。
 山西の首都太原が硝煙のうちに廃墟と化する時は遂に来た。
 十一月七日早朝。
 部隊は命令によって昨日来前面にあって城外の敵駆逐に任じていた粟飯原部隊と交替することになり、部隊長自ら指揮機関を率いて粟飯原部隊長と会見し、つぶさに敵情地形の状況を聴取して交替を完了した。
 八時、増成大尉の指揮する連隊砲が第一大隊に、斎藤大尉の指揮する速射砲中隊は第二大隊にそれぞれ配属されて、ここに攻撃部署が完全に固定した。
 即ち、第一大隊は左第一線、第二大隊は右第一線(第五中隊予備隊)となり、伊藤部隊を予備隊とし、協同部隊たる第十六○隊と左に連係し、大北門を除く城西北角一帯の攻撃正面に対し、ピタリと正眼の構えを取ったのである。


水無川堤防まで

 かくてまず城北部落や城外水濠付近に布陣して一歩も退かぬ敵に対し一斉に銃砲火を浴びせたが地の利にこもって必死に抵抗する敵はなかなか沈黙しない。それもそのはず、敵にとってはここが唯一最後のどたん場であり、もしこの線を奪われれば太原の崩壊は必至である。されば城壁にこもる敵もこの外廓陣地救援に大わらわで射って来る。
 しかし緻密な我が作戦行動と、捨て身の肉薄攻撃の矢面にさらされては敵に鬼神の勇あるも物の数ではない。
 夕刻にはこれら城外の敵をことごとく駆逐して城壁をさる北方三百メートル水無川堤防の線まで進出した。
 ところが、一旦城内に遁入した敵は今度は城壁にとじこもり、小銃、機銃、山砲の全力をあげて我を撃退しようと猛烈に抵抗して来た。敵も死に物狂いなのだ。ことに大北門に備えられた正面四門左右各三門の山砲は息つくひまもなく火を噴いて、弾着も極めて正確である。巨弾が間近で炸裂するたびに前から横からバサリバサリと砂をかぶる。目もあいていられない。
 この日のうちに何とかして城壁の一角でも落とさなければと我等の心は逸りに逸るのだが、まるで厚い板でも打ちつけて来るような弾幕の中へは迂闊に飛び出せない。
 まだまだ!まだまだ!
 歯をくいしばって待つ間のいらだたしさ、このまま今日も暮れるのか。残念だ。兵は分隊長の、分隊長は小隊長の、小隊長は中隊長の顔を弾雨の下でうかがっている。それッ!といえばサッと起つ張りつめた時が流れ、七日もついに暮れてしまった。
 月もない。星も硝煙に覆われて見えない。霜月初めとはいえ夜に入ってからの寒さは、汗にグッショリとなった身体にひしとしみとおって、思わずガタガタと歯がなるはげしさだ。敵の射撃は夜になってもやまない。
 払暁頃には水筒の水も凍り銃を抱いたままピタリと伏せている地面から、刺すような冷たさがしみて来る。

総攻撃

 やがて十一月八日の黎明が来た。
 朝靄の中に悄然と見える並木の梢に、心なしか血なまぐさい風が颯と渡って散り遅れた葉をふるわせる。
 鳥もとばない。まさに嵐の前の静けさである。
 (日本軍ついに退却す?)
 敵は今ごろは寝ぼけ頭でこんな錯覚に落ちているだろうその鼻っぱしらへ、突如我は痛烈な総攻撃の第一弾を見舞った。
 第一大隊方面からは増成大尉の連隊砲が、第二大隊方面からは斎藤大尉の速射砲が猛烈に咆哮し始めた。一発一発、堅固を極めた城壁に向かって微塵になれと巨弾をぶち込む。殷々たる砲声が地軸を憾がし響くたびに望楼といわず城壁といわずくだけ散って行く。
 機先を制された敵は慌てふためきめくらめっぽう応戦して来る。とびちがう彼我の砲弾の無気味な唸りの下で、第一線突撃部隊は草の根に爪を立てて突撃路の完成を待っていた。
 つい先刻までは藍を染めたような美しい空が早くも濛々たる煙にかき消されてしまう。
 と、砲声の合間に轟々たる爆音が聞こえた。
 敵機?友軍機?
 思わずふり仰ぐ眼にクッキリと映る翼の日の丸!
 ありがたし、友軍爆撃機の編隊。頼むぞと心に叫べばそれに応ずる如く、キラリと銀翼を閃かすや礫のように降下して来る。
 爆撃開始だ。
 大きな弧を描いて舞い下り舞い上がり胸のすくような猛爆を繰り返すたびに大地がヅシーンヅシーンと揺れて城壁が吹っ飛んだ。建物が沖天に砕け散った。
 この間に、第一大隊は第二中隊を、第二大隊は第七中隊をそれぞれ突入部隊に立ててジリリジリリと城壁に肉薄して行く。
 第二中隊は配属機関銃一個小隊に左方大北門よりの敵重火器を制圧させ、同時に第二第三小隊の擲弾筒を以て城壁の銃眼を射撃せしめつつ第一小隊を同蒲鉄道の線まで送った。
 一方第七中隊はその配属機関銃の支援射撃に護られて、西北側望楼前方約五十メートルの堤防の線までにじり寄っていた。
 十一時を過ぎる頃、協同砲隊から城壁破壊口が完成したといってよこした。だが第一線各隊の偵察によればまだ不完全でとても登攀出来そうもない。再び砲隊に連絡して各大隊突撃正面に対して猛撃を継続してもらう事になった。
 熱風を巻く壮絶な砲撃が再び繰り返される。これでもか、これでもかと打ちこむこと三時間あまり、ようやくにして見事な破壊口が完成した。
 城壁の数箇所にポカリポカリと口をあけた破壊口!
 が突入の命はまだ下らぬ。
 一時間、二時間、三時間──
 彼はまだ射って来る。敵ながらあっぱれな防戦ぶりである。
 こうして時を過ごすうちに他部隊に先を越されては鮫城男児の面目が立たぬ。たまらない焦燥が身をこがす。
 同じ思いは小隊長にも中隊長にもあった。しかしいたずらに猪突盲進することは極めて危険である。各隊長の眉は敵陣をにらんだまま動かなかった。
 偵察によれば城壁前は無数の地雷に埋もり、胸までつかる水濠がある。なおその他にどんな障害があるかも計り難かった。
 そこで我は一策を案じた。
 敵の射撃が一時停滞した瞬間、我は全線火力を城壁上縁に集中し、ワーッと大喊声をあげて突撃の気勢を示した。果たせるかな、敵は我が奇計にうまうまとひっかかり、猛射乱撃我に応じ、手榴弾を投げるやら地雷を次々に爆破させるやら、遂に陣前の障害を自ら排除するの大手柄をやらかしてしまった。
 時まさに十七時、斜陽はにぶく城の西側を照らしているが、我が攻撃正面たる北側にはすでにほの暗い陰翳がとざして、何か凄惨な死相にも似たものが漂い初めている。我はすでに城壁前面の配備状況を完全に知ることが出来た。
 思えば昨日薄暮攻撃ならず、今払暁攻撃またならず、弾雨のうちにむざむざと二日を送った我等である。
 今度こそは死んでも落としてみせる。汗と砂塵を塗りつけたような一同のこわばった眉宇に必勝の決意がみなぎっている。
 「おいッ!やるぞ!」
 「もちろんだ!」
 はげしいまなざし、時こそよし、生死何をか論ぜん。我等の後方に
軍旗 おわす。勇猛心がむらむらと我の胸に大きくふくれる。



第二節 軍旗と共に

第一大隊の奮戦

 第一大隊は左に第一中隊、右に第二中隊、中間後方に第三中隊という隊形で薄暮を待った。
 十八時
 板倉大隊長の打ち振る大刀が薄闇の中に一閃するや、大隊は一斉に湧き上がった。胸まで浸す水濠にザンブザンブと躍りこんでゆく。菅野中尉の率いる第二中隊は決死見る見るうちにまず破壊口に殺到する。中にも第一小隊長重原少尉は、業物のひらめき物すごくむらがる敵を斬り伏せ斬り伏せ面もふらずに突き進む。胆を奪われた敵はすでに闘志を失い、逃げまどいながら霰のように手榴弾を投げつける。破片が鉄帽を叩く。
 続く平田小隊、川久保小隊は敵屍を踏み越え蹴散らしまっしぐらに破壊口から突入して行く。
 安江中隊、服部中隊も後れじと喊声放って水濠を躍り越え、黄昏の城壁目がけて飛びこんだ。敵味方入りみだれて物凄い格闘が繰り広げられて行った。敵が断末魔の声をふりしぼってのけ反るのが黄昏の中によく見える。
 「野郎!」
 「畜生!」
 怒声のみがただ一筋、拳もとおれと突き伏せる戦友の声。
 「ひとおり!」
 「ふたあり!」
 「三人!」
 こともなげに片付けて行く猛者もある。
 火の出るような格闘の中に、第二中隊はいち早く城壁の一角を完全に占領した。
 時まさに十八時三十分。
 さしもの太原城も第一大隊の奮戦により遂にあっけなく一番乗りをされてしまった。

第二大隊の奮戦

 一方右第一線を承った第二大隊は左に第一大隊、右に第十六○隊と連係し、第六中隊を右、予備隊たりし第七中隊を左第一線にして突撃の機を待っていた。
 これより先十四時五分、望楼西北側に進出していた第七中隊は第一次突撃の命をうけた。
 第七中隊長森大尉は第一小隊長村山少尉に決死隊となって突撃命令をひらくべき命令を下した。
 敵は小止みもない側防火を以て猛烈に射って来る。この弾幕の中に莞爾として出て行く部下。死ねと命ずる隊長。大命のまにまに死地に赴く、真に日本男児の本懐とするところ。
 村山小隊長は白襷も凛々しく、部下と一体となって敵火の中に飛び込んで行った。と見るや敵はこちらを寡兵とみくびってか、えたいの知れぬ喊声をあげて村山小隊をおっとり囲んで来る。今は鬼神と化した村山少尉、刃むかう敵の返り血を全身に浴び、手榴弾の降る中に突っ込む。まさに獅子奮迅の勢いで遂に城壁の一角を占領した。多きをたのむ敵は執拗にも霰のように手榴弾を投げつけて来る。
 突、一弾は、城壁を乗り越えて城内に斬りこまんとする村山少尉の足もとに轟然炸裂した。
 (アッ!)部下は等しくかたずをのんだ。が、何たる豪勇、鍾馗の如き相貌を血に染めてはったと敵を睨んだ少尉は、そのまま身体を打ちつけるように五六歩グイグイ前進する。次の瞬間軍刀を高くかざしながら、
 「万歳!」
 ふりしぼるような声だった。ガバと前のめりに倒れてしまった。まさにこれ崇高壮美なる闘魂の最後の姿だった。
 「隊長の仇だ!」
 村山小隊は復讐の鬼と化してドッと突っこんだが、無念や十数名がバタバタと倒されてしまった。
 今はここを死守するよりほかに途はない。生き残った兵はとっさに永井上等兵が指揮して城外水濠付近の凹地にへばりつき、折あらば寡兵を以て突入しようと機をうかがっている。
 敵はますます兵力を増して来る。
 城壁内銃眼に隠蔽した敵側防機関銃は、この頃から一斉に火を噴き、第七中隊主力の前進はいよいよ困難となって来た。
 中隊長はただちに擲弾筒を以てこれを制圧せしめ、更に第六中隊主力に援護射撃をさせながら極力突撃を誘起しようと努めるが、敵は依然沈黙せず火力はますます熾烈を加えて来る。

苦闘

 第七中隊は今や敵の眼下に暴露され苦戦に陥った。
 この時すでに第七中隊の右翼に進出していた第六中隊熊倉小隊は、あたかも飛来した友軍機の痛烈な爆撃の機を逸せず勇躍敵の右翼トーチカ陣地に突入した。これまた敵の猛烈な反撃に遭い、先頭に立って水際立った指揮をとっていた熊倉少尉は手榴弾のために重傷、部下にも死傷者が続出する。
 が、熊倉小隊はこれに屈せず敵前至近の距離に対峙して、薄暮の中に凄絶な手榴弾戦を交えるに至った。
 敵前三十メートルの線に膠着したまま十一月八日の黄昏が来た。
 昨日以来の激戦にいささか疲れを見せたのか、我の粘り強さに辟易したのか、第二大隊正面の敵はやや沈黙しはじめた。

突入

 十七時三十分。
 第二大隊は攻撃態勢を整理し、第六中隊原軍曹の勇敢な挺身偵察に基づき、これを誘導者として第一線は踵を接して破壊口に向かった。
 城内の敵はまだ盛んに射って来る。逃げ腰とはいえ数を頼みにめくら射ちに射ちまくる残敵に対して我は捨て身の白兵を以てこれを蹴散らしながら突入すれば、脆くも敵は四分五裂銃も何も放り出してただ逃げる一方である。屍を山と積んでも、水濠を血河に変じようとも、この一戦に必ず頑敵を覆滅し去らん鉄石の決意を以て臨んだ我等の前には彼等の最後の抵抗も実にみじめに消えてしまった。
 若干の残兵のこけおどしの抵抗に、千万の恨みをこめて最後のとどめを刺し、十八時五十分遂に西北角望楼付近の破壊口より突入、ここにさしも難攻を極めた城壁上に第一大隊と相呼応して感激の日章旗を掲げたのである。

城内掃討

 第一大隊、第二大隊が突入に成功した頃、左翼第十六○隊方面も旱西門付近に突入したものの如く、これに協同する工兵の城壁爆破の轟音が聞こえたと思う瞬間、夜空を焦がす大火柱が二本三本噴き上がる。
 城内のそちこちに火災が起こっている。紅蓮の炎を背景に、城壁付近の小掃討に大わらわの我が兵の姿が黒々と現れたかと思うとたちまち消える。
 朝から終始全力をあげて支援を続けた機関銃中隊も泥だらけになって追及して来た。
 十九時、部隊長は次の如き要旨の意図を全軍に伝え明払暁以後の掃討に備える所があった。

一、第二大隊ハ現ニ占領シアル地区ヲ確保シ、一部ヲ以テ右大隊方面ノ戦果ヲ拡張シ、主力ハ後方ニ集結シテ明朝ノ掃討ニ備ヘヨ
二、第二大隊ハ第一大隊ニ連係シ、一部ヲ以テ城壁ヲ確保シ、主力ハ後方ニ集結シテ明朝ノ掃討ニ備ヘヨ
三、伊藤部隊ハ現在地ニ在ツテ明払暁両大隊ニ協同セヨ
四、連隊砲中隊ハ逐次陣地ヲ推進シテ明払暁ノ掃討ニ協同セヨ


 残敵はまだ相当城内にいる。いつ逆襲に出て来るか分からない。万一に備えて各本部間には電話網が張りめぐらされ各隊は連絡を密にして全身目と耳の警戒裏に夜を徹する事になった。
 やがて部隊本部と共に城外に在った第五中隊が第二大隊に復帰する。更に九日三時三十分、歩兵砲・速射砲も水濠を迂回して大北門方面から到達した。これで部隊は完全に集結を終わった。
 さあ、明日はいよいよ仕上げの掃討だ。十数時間の激闘に身体はクタクタになっている。が一向に眠くない。
 余燼が時々息をついている。それにつれて崩れた建物が影絵のように黒く浮かんだり消えたりする。兵の目にもその火が燃えて異様な形相に見える。
 寒い。晴れているだろうが星一つ見えない。
 まんじりともせず夜があけた。
 十一月九日 快晴
 新しい太陽が崩れた城壁の上にあがった。太陽のもとにさらけ出された太原城、これはまた何という凄惨な光景だろう。城壁内外はもとより、大北門街を中心とする一帯地区は崩れ落ちた煉瓦、焼け落ちた建物の残骸、あちこちにのけ反っている敵の惨めな死体、バラバラに散乱している敵の兵器車両など、あきれるばかりの惨状を呈している。
 いかに我が攻撃が猛烈であったか、敵がいかに周章狼狽して遁走したか、はっきりとうかがわれる。住民はどこへ避難したものか顔一つ見せない。
 それよりも、お互いの人相はどうだ。一日でこんなにも変わるものか。泥の中から今掘り出したばかりの金仏のような真っ黒な顔が、ただ目を光らせ白い歯をむき出して笑っている。
 (何だ貴様も生きていたのか)
 (貴様もか)
 心の中でこう話しかけながら、お互いの顔を物珍しそうにしげしげと眺め合っている。
 幾たびか弾丸の下を潜り死線を越えて来た戦友同志の心は、この無言のうちに限りない信頼と友愛とに満たされているのだ。

軍旗入城

 七時。折からの旭日を浴びて
軍旗 の入城だ。全部隊粛然として威儀を正す前を、後少尉の捧持する我が
軍旗 は今厳かに入城して来る。
 一同の胸に熱いものがグッとこみあげて来る。
 偉勲燦たる我が
軍旗!
 山西の山野に我等と共に勿体なくも戦塵にまみれ進撃したまいし
軍旗!
 ありがたし! もったいなし!
 この御旗 の前にこそ我等は敢然として死地に赴けるのだ。
 今は一握りの骨と化した戦友の魂も、今こそ声をあげて我等と共に哭け!
 軍旗!
 軍旗!
 我等が
軍旗 は今我が面前を通る。
 こらえていた感激が涙となってよごれた頬をぬるぬる伝わる。
 八時すぎ、各隊の協同連係が完成するを待って一斉に残敵掃討を開始した。敵は大部分遁走していたが、なお各所に一人二人くらいずつかくれていてはかない抵抗を試みる。だがこれはもちろん問題ではない。疾風枯葉を巻くように、十一時頃までには担任地区を虱つぶしに掃討してしまった。
 第十六○隊は我に連係して旱西門以南の区域を、第五○団は大北門以東地区をいずれも正午までに掃討を終了した模様。
 ああ――
 太原は今や完全に我が手中に帰す。昨日までさんざん攻めあぐんだ城壁上に立てば、古都に吹き渡る風が耳朶をうつ。
 数々の伝説をはらむ風谷、懸〓(雍↑+缶↓)、臥虎の峰々が西に遠く霞の布をかつぎ、南にひろがる太原盆地には白い陽が照り漲っている。
 友軍機が一機二機低空をよぎって飛ぶ。
 堯帝初めてこの地に封ぜられ、土地広濶の故を以て三代の初め夏王がこの地に太原の名称をつけてから、春秋戦国時代を経て秦の始皇帝に攻略され、更に漢・隋・唐を通じて盛名を馳せた一大都城、今は山西省城として人口十万を擁し、政治、産業、交通の中枢をなしていた太原城、さてはまた閻錫山が中国モンロー主義の大旆をかざして山西省治に一新紀元を画し、あわよくば蒋介石に弓ひいて中原の鹿を射止めようと夢みた太原城は、今や我が足下にあるのだ。
 北支出動の大命を拝してすでに百日、追いに追い攻めに攻めたその終局の牙城も今こそ我が鉄靴の下にあるのだ。真に感無量である。



「○○○兵部隊将校各部将校職員表」 (太原付近戦闘)

○隊本部

 ○隊長──猪鹿倉 徹郎 大佐
 副官──伊従 秀夫 少佐
 旗手──後 勝 少尉
 通信班長──南田 多次郎 曹長
 瓦斯係──見波 隆示 少尉
 軍医──広池 文吉 少佐
 獣医──安田 土岐司 中尉

第一大隊

 大隊長──板倉 堉雄 少佐
 副官──高橋 準二 中尉
 主計──山下 正行 大尉
 軍医──宮越 靖 大尉
 軍医──君 健男 中尉

第一中隊

 中隊長──安江 寿雄 大尉
 小隊長──宮沢 春正 少尉
 小隊長──○佐藤 守信 少尉
 小隊長──安田 寅雄 准尉

第二中隊

 中隊長──菅野 定雄 中尉
 小隊長──重原 慶司 少尉
 小隊長──○平田 重八 少尉
 小隊長──○川久保 勇 准尉

第三中隊

 中隊長──服部 征夫 大尉
 小隊長──古木 秀策 中尉
 小隊長──○玉井 正治 少尉
 小隊長──清水 清治 准尉

第一機関銃中隊

 中隊長──高橋 石松 大尉
 小隊長──○石井 義晴 中尉
 小隊長──鈴木 祐司 准尉
 小隊長──○杉沢 久賢勇 准尉
 小隊長──平田 良作 准尉

第一大隊砲小隊

 小隊長──篠田 善太郎 曹長

第二大隊

 大隊長──長沢 太郎 少佐
 副官──西野 清一郎 少尉
 主計──藤田 三子吉 少尉
 軍医──早川 釟郎 中尉
 軍医──菊島 広 中尉

第五中隊

 中隊長──林 司馬男 大尉
 小隊長──高見沢 孝平 少尉
 小隊長──○小林 国武 少尉
 小隊長──古垣 兼隆 准尉

第六中隊

 中隊長──罍 徳十郎 中尉
 小隊長──熊倉 菊治郎 少尉
 小隊長──嘉村 省治 准尉
 小隊長──○秋山 正治 准尉

第七中隊

 中隊長──森 康則 大尉
 小隊長──○五十嵐 六平 少尉
 小隊長──渡辺 儀興 准尉

第二機関銃中隊

 中隊長──浜 久 大尉
 小隊長──佐藤 四郎 中尉
 小隊長──桐生 憲辞 准尉
 小隊長──戸塚 藤五郎 准尉

第二大隊砲小隊

 小隊長──伝田 鹿蔵 准尉

連隊砲中隊

 中隊長──増成 正一 大尉
 小隊長──小林 三治 准尉

速射砲中隊

 中隊長──斎藤 国松 大尉
 小隊長──惣角 義治 准尉
 小隊長──羽深 信治 准尉

(備考)
 ○印ハ補充召集員ヲ示ス



「○○○兵部隊将校各部将校職員表」 (太原入城後)

○隊本部

 ○隊長──猪鹿倉 徹郎 大佐
 副官──伊従 秀夫 少佐
 旗手──後 勝 少尉
 通信班長──南田 多次郎 曹長
 瓦斯係──見波 隆示 少尉
 軍医──広池 文吉 少佐
 獣医──安田 土岐司 中尉

第一大隊

 大隊長──板倉 堉雄 少佐
 副官──高橋 準二 中尉
 主計──山下 正行 大尉
 軍医──宮越 靖 大尉
 軍医──君 健男 中尉

第一中隊

 中隊長──安江 寿雄 大尉
 小隊長──宮沢 春正 少尉
 小隊長──○佐藤 守信 少尉
 小隊長──安田 寅雄 少尉

第二中隊

 中隊長──菅野 定雄 中尉
 小隊長──重原 慶司 少尉
 小隊長──○平田 重八 少尉
 小隊長──○川久保 勇 准尉

第三中隊

 中隊長──服部 征夫 大尉
 小隊長──○玉井 正治 少尉
 小隊長──清水 清治 准尉
 小隊長──内山 貞夫 准尉

第一機関銃中隊

 中隊長──高橋 石松 大尉
 小隊長──○石井 義晴 中尉
 小隊長──鈴木 祐司 准尉
 小隊長──○杉沢 久賢勇 准尉

第一大隊砲小隊

 小隊長──篠田 善太郎 曹長

第二大隊

 大隊長──長沢 太郎 少佐
 副官──西野 清一郎 少尉
 主計──藤田 三子吉 少尉
 軍医──早川 釟郎 中尉
 軍医──菊島 広 中尉

第五中隊

 中隊長──林 司馬男 大尉
 小隊長──高見沢 孝平 少尉
 小隊長──○小林 国武 少尉
 小隊長──古垣 兼隆 准尉

第六中隊

 中隊長──罍 徳十郎 中尉
 小隊長──樋口 留吉 少尉
 小隊長──嘉村 省治 准尉
 小隊長──○秋山 正治 准尉

第七中隊

 中隊長──森 康則 大尉
 小隊長──豊野 長吉 少尉
 小隊長──○五十嵐 六平 少尉
 小隊長──渡辺 儀興 准尉

第二機関銃中隊

 中隊長──浜 久 大尉
 小隊長──佐藤 四郎 中尉
 小隊長──桐生 憲辞 准尉
 小隊長──戸塚 藤五郎 准尉

第二大隊砲小隊

 小隊長──伝田 鹿蔵 准尉

連隊砲中隊

 中隊長──増成 正一 大尉
 小隊長──小林 三治 准尉
 小隊長──荒井 俊一 軍曹
 小隊長──佐藤 市郎 曹長

速射砲中隊

 中隊長──斎藤 国松 大尉
 小隊長──惣角 義治 准尉
 小隊長──羽深 信治 准尉
 小隊長──水落 定治 准尉

(備考)
 ○印ハ補充召集者ヲ示ス



「部隊北支出動概見表」

区分 戦闘場所 日時 戦闘部隊 敵ノ兵力 我が損害 敵の損害
永嘉堡
西湾堡
田家庄
大高崖
李信屯
永嘉堡
昭和十二年
自八・一〇
至九・二
第二大隊
約一千
ナシ
遺棄死体 三
自動小銃 一
小銃 二

区分 戦闘場所 日時 戦闘部隊 敵ノ兵力 我が損害 敵の損害
天鎮
一二三〇高地
自九・二
至九・七
第一大隊
第二大隊
約八百
戦死 三
戦傷死 一
戦傷 二七
遺棄死体 七八
俘虜 四〇
戦利品 多数

区分 戦闘場所 日時 戦闘部隊 敵ノ兵力 我が損害 敵の損害
鎮辺
鎮宏堡
二道窑
自九・八
至九・一一
第一大隊
第二大隊
独立第六・七旅
戦死 八
戦傷 一二
遺棄死体 七三
戦利品 多数

区分 戦闘場所 日時 戦闘部隊 敵ノ兵力 我が損害 敵の損害
豊鎮
豊鎮
自九・一六
至九・一七
第一大隊
(第二中隊欠)
約一千五百
戦傷 一
遺棄死体 五〇
俘虜 八〇
小銃 七〇
砲 四
砲弾 二〇〇
その他

区分 戦闘場所 日時 戦闘部隊 敵ノ兵力 我が損害 敵の損害
平地泉
平地泉
自九・二三
至九・二五
第一大隊
約二万
戦死 一
戦傷死 一
戦傷 一七
遺棄死体 四〇
俘虜 五
小銃 四〇
LG軽機関銃 二
MG重機関銃 三
砲 六
その他

区分 戦闘場所 日時 戦闘部隊 敵ノ兵力 我が損害 敵の損害
鉄角嶺
鉄角嶺
自九・二八
至九・二九
部隊本部
通信中隊
第二大隊
約一千
戦死 一九
戦傷死 二
戦傷 七〇
遺棄死体 一四〇
砲 四
MG重機関銃 四
小銃 五八
LG軽機関銃 二〇
その他

区分 戦闘場所 日時 戦闘部隊 敵ノ兵力 我が損害 敵の損害
崞県
崞県
自九・三〇
至一〇・三
部隊本部
通信中隊
第二大隊
第一機関銃
第一大隊
不詳
戦死 一
戦傷 八
遺棄死体 三〇
俘虜 五
馬匹 二三
糧秣 多数
その他

区分 戦闘場所 日時 戦闘部隊 敵ノ兵力 我が損害 敵の損害
原平鎮
外廓
城内
自一〇・四
至一〇・一二
部隊本部
通信中隊
第一大隊
第二大隊
約六団
戦死 六一
戦傷死 六
戦傷 一九二
遺棄死体 五〇〇
馬匹 五〇
銃 二八〇
砲 九
その他食糧多数

区分 戦闘場所 日時 戦闘部隊 敵ノ兵力 我が損害 敵の損害
南庄頭
南庄頭
自一〇・一三
至一一・三
部隊本部
通信中隊
第一大隊
第二大隊
約十万
戦死 三二
戦傷死 九
戦傷 九三
遺棄死体 六〇〇
小銃 三八
短銃 五二
LG軽機関銃 二二
手榴弾 一、二〇〇

区分 戦闘場所 日時 戦闘部隊 敵ノ兵力 我が損害 敵の損害
太原
太原
自一一・四
至一一・九
第一大隊
第二大隊
約十万
戦死 一五
戦傷死 四
戦傷 五五
遺棄死体 一〇〇
俘虜 二四
馬 一五
小銃 五〇〇
LG軽機関銃 二〇
短銃 二〇
MG重機関銃 二


■合計
我ガ損害 敵ノ損害
戦死 一四〇
戦傷死 二三
戦傷 四七五
遺棄死体 一、六一四
俘虜 一五四
小銃 九八八
LG 六四
MG 九
砲 二三
砲弾 二〇〇
自動小銃 一
短銃 七二
手榴弾 一、二〇〇
馬匹 八八
その他糧秣 多数

←前へ 次へ→



戻る