昭和二十八年 平和之礎』


表紙

題名
昭和二十八年 平和之礎
著者

出版
明治村

昭和二十八年
備考



御礼の言葉

明治村長 全遺族会長 堺 俊治

 茲に本村戦没者の「平和の礎」を編纂に当りまして全遺家族の御賛同を得各戸に贈らるゝ運びになりました事は私共遺族に取つて此の上もない記念でありよろこびに堪えません。
 思へば戦後の混乱に激変しました世相に人道は退廃し純潔な気持で献身散華した勇士を思い是れ等遺家族を顧ます時心ある人の袖を絞るものが少くありません。茲に終戦七年国家の独立と相まつて軍人遺家族に対し厚生援護が法制化されました事は当然の事と云へましよう、寔によろこばしい次第です。
 今次大戦に於て本村戦没者は実に百十柱。日清、日露役の英霊を併せて百二十一柱、百七世帯に及んで居ります。此れ等尊い犠牲者の戦歴を思へば限りなく心を痛ませるものを感じます。思い出の写真帳!!!これがせめてもの慰めの贈物です。
 我が子、我が父、我が夫の今は無き面影と偉大な遺跡を偲び冥福を祈りますと共に平和な村、平和の国の建設に手を取り合つて生きましよう。
 終に村民各位の深い御理解とお援助に対し厚くお礼申上ます。


忠霊顕彰の写真帳に寄せて

明治村議会議長 山田幸内

 王政復古以来我が国運は逐年興隆の一途を辿つて来たが、昭和十五年を転機として、昭和十六年以来無謀なる覇道に踏み入り、四年に垂んとする戦禍に敗残の憂目を見、引き続き六年有半、被占領国としての苦難を重ね、実に前後十年に亘つて国民は有史以来未だ曽てない荊棘の道を歩み来つたのであります。
 わけても柱と頼む親を、夫を、愛児を大陸に、南冥に、将又朔北に殉国の神として失われた遺族各位のこの間に於ける哀愁と艱苦は如何ばかりであつたか、文字通り言語に絶するものがあつたのでありまして、爾来真の平和を希求して止まぬ我が国民にとつて永世に忘れ得ぬ史実と申すべきであります。
 此の度晴れの独立満一年の年を迎え、新生日本再建の業漸くその緒につかんとする時、遺族会の手によつて偉勲赫々たる英魂の懐しき肖像を掲げその略歴と、至誠奉公の功績を録して記念帳を刊行されると聞き、最も時宜に適したるものとして衷心より編集関係者各位に感謝すると共に深甚なる敬意を表する次第であります。
 忠魂碑、忠霊塔の建設、もとより結構でありますが、一人々々生前の面影を偲ばんとすれば写真帳に如くものはなく何人と雖も双眸我を直視し、唇頭何ものか語らんとする英姿と対すれば切々の悼情胸をうつて自ら頭の下る思いがあることでありましよう。
 登載の写真は明治、大正、昭和の三代に亘るとすれば戦勝の士あり敗戦の士ありでありますが、結果の如何を問はず、すべて皆、祖国の護持、民族の幸福、引いては世界平和の達成に向つて精魂を傾け尽くし異国の戦場に散華されたのでありまして愛国の至情に至つてわ些かの径庭もある筈はなく、戦敗れた今日、尚麗わしき山河に生を営み得るは、一重に歴戦の偉功と英霊の加護によるものと堅く信ずるものであります。
 私達はこの事実を子々孫々に言い伝えて、お盆の日、一家揃つて先祖の霊に額づくと同じ気持でこの写真帳を繙き祖国再生の礎石となられた御霊に合掌礼拝し、御生前の偉勲を讃えると共に、粉骨砕身国家の安泰と世界平和を祈願された尊い御遺志を必ず達成実現すべく挙国邁進せんことを誓ふべきであります。
 それが忠霊に報ゆる唯一最上の道であり、そこにこの記念帳発刊の真の意義が生れるものと存じます。
 最後に安らかに故山に眠り給う英魂の御冥福と、御遺族皆々様の一層の御栄福を衷心よりお祈り申上げて私の御挨拶と致します。


発刊に寄せて

前村長 布施 元

 繰るにつれ、いづれも懐しく可惜しい面影ばかりです。
 出で立つときの雄々しさは、全村の生気を一身に鐘めるの概に満ちたであろうものを。
 今は斯く写真の窓を通じて垣間見るのみ。
 この人々は、わが邦開闢以来の痛ましき大過誤に当つて、挺身世紀の十字架を背負つて下さつた方々だと断言しても大仰には響きますまい。
 今若しこの方々の在わさば、如何に有用の材となられしか、御遺族方にも如何程明るい日常が約束されしことか。
 瞼に浮ぶ面影を遣る方なき思慕の内に凝視め、また、柱石を失はれた遺家族の衷情を身に染みて思ひ遣りながらも詮術なかつた終戦時の陰惨な歳月は流れ、講和条約によつて自立の端緒も開け、こゝに、本村百二十一柱の英霊を偲ぶ写真帳が村の名に於いて発刊を見るに至つたことは、まことに、感慨無量と申す外ありません。
 顧れば、終戦後の暗い時代には、この方々を追慕し、遺家族互に慰め励ますための遺族会の名に依る謙虚にもわびしい慰霊祭のさゝやかな集いのみが、純粋に村人の心と心とを通はす唯一の心温まる結合であつたと申しても過言ではないと信じます。
 これも偏に、英霊の負はれた十字架の故に外ならぬのであります。
 当時こうした集いに屢々参会した一人として私に一文を求められましたので、こゝに、この写真帳が、当時を想起しあの真情に満ちた相寄る魂の結び着きを強く再現して、故人を弔い百七世帯の村内御遺族を労はり慰める由縁となるは勿論、その名の如く明るく平和な明治村の建設を、はたまた、国家による遺家族援護施策の確立を、強力に推進する一助ともならんことを切に祈つて止みません。




元明治村軍人分会長 千名寛誠

 我が明治村では明治二十七、八年日清戦争には幸い犠牲者を出さなかつたが明治三十七、八年日露戦争には三名の犠牲者を出した。
 其後満州国を創設と共に誤れる軍閥の政策は北支事変を機として中支を攻略更に南支に及び遂に大東亜戦争にまで発展させた。
 此間青壮年の召集は連日にして遂に一二一名の犠牲者を出し誠に哀悼の情に堪えません。
 顧れば昭和十二年日支事変勃発以来連日召集に次ぐ召集にて父母妻子はもとより一身一家を打忘れ必勝を期して只一途に国家の為と信じ征途に上られた面影は終生忘るる事はできません、其都度駅頭に歓送し激励の言葉を述べた私は汗顔の至り誠に申訳なく思つて居ります。
 然しながら我国も漸く独立国家として発足致し不充分ではありますが遺族援護法も制定せられ多少なり共御遺族の方々をお慰めする事が出来得るようになりました事は当然の事でありまして御英霊に報ゆる一端ともなるものと思ふものであります。
 今回は平和の礎となられた方々の写真帳を作製せらるることになりました事は時機に適した催でありそれにより英霊の武運功績を永久に残し御冥福をお祈すると共に御遺族の援護に努力したいと思ふものであります。
 この意義ある企に対して謹で敬意を表する次第であります。



花ケ崎


故陸軍曹長 伊藤利徳 殿

一、大正六年四月三十日父辰蔵の五男として出生
昭和二十年六月二十日ルソン島セルバンテスに於て戦死、享年二十七歳

二、県立直江津農商校卒業後神戸市近藤商会へ入社
昭和十四年四月二十八日高田歩兵三〇連隊へ召集さる
昭和十五年七月三十一日召集解除
昭和十六年七月十六日朝鮮羅南七六連隊に召集さる
同隊より南方派遣軍として出動比島へ上陸各地転戦セルバンテスの戦闘に於て戦死。
(昭和二十一年五月二十五日戦死公報)

三、在校当時より運動部の選手でした、卒業後神戸に就職同地レートクラブに入会第十四回明治神宮大会に兵庫県代表として出場、長距離が最も得意でした。     (兄貞雄談)



仁野分


故陸軍一等卒 金沢堅蔵 殿

一、明治十五年七月二十日父初太郎次男として出生
明治三十七年九月二日清国鳳凰城兵站病院に於て戦病死、享年二十三歳

二、明治三十五年十二月十五日歩兵三十連隊へ現役兵として入隊。
明治三十七年二月五日動員下令
明治三十七年三月二十一日宇品出帆
同年三月二十六日韓国鎮浦上陸
同年五月一日九連城攻撃
同年六月二十五日張家保子付近
同年七月四日摩天嶺西方高地付近の戦闘に参加
同年七月十七日更に摩天嶺高地の戦闘に参加病を得て陸軍病院に収容され同年九月二日戦病死

三、約五十年前の日露戦役の事ですから、家人から故人の功の聞き伝へ丈です。
当時の御苦労で有つた事を偲んで拝霊致して居ります。     (家人)



両毛


故陸軍伍長 阿部留太郎 殿

一、明治四十二年六月二十七日父留作次男として出生
昭和十九年十一月四日ビルマ国シエボ県コウリンに於て戦死享年三十六歳

二、昭和三年十二月高田三十連隊へ現役として入隊
同五年十二月除隊農業に従事す
昭和十六年十月東部第二十三部隊に応召、中支へ派遣せられ各地転戦更にビルマへ進軍
昭和十九年十一月四日ビルマ国コウリンの戦闘に全身投下爆弾破片創に依り戦死

三、予て覚悟はして居りました、而し専心農業をして居りましたので秋の収穫を心配してか自家の耕作田を眺めつゝ出征しました姿は目の前に見えて来ます     (家族キノ談)



中島


故陸軍伍長 布施正四 殿

一、大正四年四月一日父由太郎長男として出生
昭和十二年十月六日支那山西省崞県原平鎮に於て戦死享年二十三歳

二、昭和十一年一月十日現役兵として高田三十連隊へ入隊
昭和十二年四月十日満州国五常へ警備兵として派遣さる
昭和十二年十月六日原平鎮の戦闘に於て戦死



中島


故陸軍上等兵 春日智元 殿

一、大正六年十一月十日父賢随長男として出生
昭和十三年九月二十八日満州国牡丹江省穆稜県穆稜陸軍病院に於て戦病死享年二十三歳

二、昭和五年三月二十五日新潟県中頸城郡明治村立明治尋常高等小学校卒業
昭和八年三月二十二日新潟県中頸城郡吉川村原ノ町新潟県立吉川農林学校卒業
昭和八年四月十日新潟県高田市新潟県立高田農学校三年生に入学
昭和十一年三月十六日新潟県高田市新潟県立高田農学校卒業

三、学生時代は剣道をやり武徳会の剣道二段をもつている
母がよく兄のことの思い出として言つておりました「お前兵隊にいくのだから要求通り何でもこしらえてあげるからいゝなさい」といつた時兄は「桶のごはん」
といつたそうです、兄は小さな時から赤飯が大好きだつたとのことです、母は常にこういつて涙を流していました、然も兵隊にいつて戦死の公報がはいつた時すぐ「桶のごはん」を思い出しました     (弟昇談)



中島


故陸軍上等兵 西山桂三 殿

一、明治四十四年十一月十日父嘉太郎三男として出生
昭和十九年八月二十九日北支山西省五寨県に於て戦死享年三十四歳

二、昭和十五年三月高田三十連隊へ教育召集さる
昭和十九年六月三日仙台東部二十三部隊へ応召
同年六月六日現地へ出動
前記山西省五寨県の戦闘に於て戦死

三、思出を聞かれた丈でも胸が一ぱいに成ります、何を御話ししてよいか区別が付きません程多過ぎます
戦死されてから十年子供三名を抱えて辛酸な生活を続けて来ました。
やつとの事援護法の遺族年金が頂けるので保護も停止して頂て一家更生に懸命に成て居ます
夫が在世で有つたらなど帰らぬ愚痴を言ふ事も度々です。



玄僧


故陸軍上等兵 大滝清治 殿

一、明治四十年六月二十五日父栄吉次男として出生
昭和十三年二月十三日双届子付近の戦闘に頭部貫通銃創を受け戦死享年三十二歳

二、昭和二年一月現役として高田歩兵三〇連隊へ入隊
昭和四年十一月除隊後農業に従事して居りました
昭和十二年九月十三日動員下令に依り高田倉林部隊に入隊、当時上海付近の戦況は急を告げて居ましたので編成完結と同時に出征、西済寧守備中払暁敵兵約二千の重囲を受け大隊と連絡すべく血路を開き突進したるも敵の圧迫を受け止むなく敵を撃破しつゝ双届子に辿り着き奮戦中頭部貫通銃創を受け戦死

三、昭和十二年九月十三日家を発つとき当時十二歳の長女「タカノ」をゆびさし
「あれも十二歳にもなつたから心配無いがね」と笑つて出て行かれた、思えばあれが一世の別れの言葉と成りました     (妻カト談)



戻る