はじめに


石坂准尉、八十二歳のときの記念写真
 正装して勲章をずらりとつっている。勲章は漢の宝物なのだ(女には分からない男の世界)
ある日の私(藤本)
 ドイツ軍のおもちゃと陸自の帽子を手に入れて、ご満悦な様子。私は幾つになっても子供のままだと思う。



「書斎は宝の山」

 石坂辰雄准尉にはじめてお会いした平成十五年十月二十六日の出来事は、わが記憶に焼きついている。私はその日、石坂准尉のご子息・石坂明夫さんに連れられて、都内某所の石坂邸にお邪魔した。
 石坂准尉の書斎は二階の居間を抜けた奥にあるのだが、入室した瞬間、期待どおりの光景に驚いてしまった。壁の至るところに石坂准尉直筆の戦争絵画や賞状などが飾ってあり、ちゃぶ台には古写真帳と資料がうずたかく積まれていたのだ。
「間違いなくこの人は、かつて国家と民族のために奉仕した帝国陸軍軍人だ」
 そう心の中で感嘆の声を上げると、書斎中にある戦時資料をくまなく眺め回した。しかし、今思うと失礼な振る舞いだった。初対面の石坂准尉をほったらかしにして、あれもこれもと目を大きく見開いたまま、ねずみのように部屋を駆け回ってしまった。
「まあ、そういうのはおいおいに、まずは茶飲み話をしようじゃないか」
 見かねた石坂准尉が、私をそうたしなめた。
 体中の血が沸騰するくらい己を恥じた。しかし、それほどまでに石坂准尉の書斎は魅力的だったのである。



大日本帝国天皇皇后両陛下
満州帝国皇帝とその妻

*補足(藤本)
 石坂准尉は数冊の写真帳(従軍時代)を残している。その中の一番初期の写真帳に天皇陛下と溥儀の写真を張っている。



「切れ者・石坂准尉」

 石坂准尉は現在八十八歳(平成十五年)になるご老体である。一見すると年齢どおりの印象を受けるが、軍人時代に研ぎ澄まされた眼光が鮮明に輝いている。石坂准尉の前に立ったならば、まずほとんどの人は無条件で体がこわばり、冷や汗をかくことだろう――緊張して言葉もうまく話せないくらいに。
 人間の器の差というものをまざまざと見せつけられるからである。石坂准尉は頭の回転が早く、何か話をすれば軍隊風に短く要約して順序よくしゃべり、身体の動きは九十歳近い老人とは思えないほど俊敏だ。
「軍隊に入営すると、まずは不動の姿勢から教練がはじまるんだ」
 自分の軍歴を通史として説明してくれた最初の会見のとき、それまであぐらをかいて話していた石坂准尉は、素早く立ち上がって気をつけの姿勢を取ると、透きとおった声でそう言った。
 眼前の光景に動揺した。現役の自衛隊員の気をつけを何度も見たことがあるが、その姿がまがいもののように思えた。失礼ながら、もうすぐ九段に祭られている戦友に再会する日が近い老人の動きには見えなかった。紙一枚入り込む隙がないほどかかとをつけて直立している仁王立ちは圧巻だった。曇りのないとおった声も素晴らしく、体が震えた。
「あんたはまだ若いのに、実にたくましい」
 などど、会うたびに私を褒めてくれている石坂准尉だが、
「貴官こそ、いまだに現役時代と変わらない。実にたくましい」
 と、逆に尊敬して頭が下がる。
 幾多の修羅場を切り抜けてきた生粋の兵隊ならではの堂々とした態度に狼狽した状況を、一体どうして説明してよいか。文章をつらつら書いても、うまく伝えられそうにない。



石坂准尉所有の室町時代の名刀。現在は白さやに移されているが、戦争中は九八式軍刀に仕込まれていた。主に演習時、指揮刀として使用したそうである。

(この刀は戦友から、ただで譲ってもらったのだという。よほど、その戦友は石坂辰雄という漢にほれ込んだのであろう。そうでなければ、こんな名刀を見返りなしに譲るなんてあり得ない)

某区文化祭出展時の紙 その二



「記憶の達人」

 石坂准尉は記憶力が優れている。
「何年何月何日の何時、どこそこの戦場で、何人の部隊で○○を攻撃し、何人の死傷者を出した」
 などと、七十年以上も前の出来事をこと細やかに覚えていて、まるで昨日のことのように話してくれる。ただただ驚愕してしまう。
 曖昧なところがないのである。軍隊で培った能力は今でも生かされていて、聞き手の私にみじんの苦労も感じさせはしない。
「明夫さん、俺はびっくりだよ。石坂准尉はどうして大昔のことをはっきり覚えているんだろうね。事典みたいな人だ」
「藤本よお、俺の方こそ知りたいよ。君が親父の聞き取り調査をするまで、あまり軍隊時代のことは尋ねなかったけど、まさかあそこまで覚えているとはねえ。手前みそで何だが、藤本が親父を尊敬しているのと同じくらい、俺はあの人の子であることを誇りに思うよ」
 石坂准尉の息子である明夫さんと私がそんな会話を交わすほどなのである。
 昔から日本軍の下士官は世界最高との評価があるが、間違いないと確信する。



勲六等瑞宝章



「理路整然」

 石坂准尉の記憶力がよいのは述べた。そして、それを支えているのが優れた頭脳であることも記した。以上を踏まえたうえ、石坂准尉が戦争中の話をするときのことも少し書いておこう。
 石坂准尉の話し口調は軍人らしく威厳がある。状況を説明する場合には言葉だけでなく、ちゃぶ台に積まれた資料の中から適当な場面を選び出して、
「この写真に写っている掲示板は支那兵が書いた皇軍の悪口でいっぱいだったな」
 などと、大げさな身振り手振りで熱っぽく教えてくれる。声量は大きく、独特の威圧感を覚える。しかし、それでいて、かんに障らないので、
「石坂准尉は生まれつき、指導者の資質に富んだ人だ。この人のようなベテランが兵隊たちを束ねる下士官なら、誰も文句はなかったろう」
 と、つくづく納得してしまう。
 石坂准尉は残念ながら、陸軍准尉という階級で終戦を迎えているが、敗戦という不運がなければ、叩き上げの陸軍大尉あたりには昇進していたはずである。
「石坂中隊長殿から訓示がある。傾注せよ」
 歩兵第三十連隊第八中隊の最古参の軍人である「石坂大尉」が、誇らしく皆を閲兵する姿が脳裏に浮かぶ。

*補足(藤本)
 少尉候補者試験に一度落ちているそうだが、再試験の機会さえあれば……。



勲七等旭日章



「潔い死生観」

「俺はいつでも死ぬ覚悟を決めていた。軍人とはそういうものだ。入隊したときから、わが命は大元帥陛下にささげていたんだ。だから、無我夢中でそのときそのときを生き抜き、今まで年を重ねてきた。
 死ぬことを怖いなんて思うような弱気を俺は少しも持ち合わせていない。そしてまた、日本軍とはそういう好漢たちの集うところだったのさ」
 石坂准尉は当たり前のようにそう語ってくれる。関東軍の精兵はだてではない。数々の激戦を潜り抜けてきた人間はこうも覚悟しているのである。
 潔く散っていく桜のような死生観を石坂准尉は有している。

***

 以上、人間・石坂辰雄の印象を簡単に紹介した。石坂准尉のことを過剰に持ち上げていると感じた人がいるかもしれないので、一応断っておきたい。
 この文章にうそ偽り、誇張は一切ない。私が率直に認めた石坂准尉の全てである。誓ったっていい。石坂准尉のような才人はめったにいない。
 さて、前口上は充分だろう。
 いよいよそれでは、私が夢中になって作成した石坂准尉の約八年間にわたる従軍記録を読んでもらおう。胸躍る英雄譚は保証できないが、あの時代に生きた軍人の誇らしい思い出が燦然と輝いていることだけは約束しよう。


「大東亜戦争に参加した全将兵に名誉を」

平成十五年十一月二十七日

藤本泰久



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