歩兵第三十連隊~軍旗


歩兵第三十連隊 軍旗



軍旗拝受

〔宮中に於ける御親授〕 明治三十一年三月二十四日宮中に於て、軍旗を御親授あらせらる。其の次第を少しく詳かに記せば、連隊長は軍旗授与の御沙汰を拝して、三月十六日旗手少尉磯林直明に、護衛下士四名(軍曹、渡辺鉄蔵・山下五郎三郎・安藤寛・善山本善六)を付して上京せしめた。
当日午前九時磯林少尉は正装して、東御車寄より参内し(護衛下士は宮城正門前にて待受く)、左記の如き順序によりて、軍旗を授けらる。
一、午前十時三十分 天皇陛下(御正装)正殿に出御
二、陸軍大臣(桂太郎)は侍従武官(渡辺湊)の先導に依り旗手を従へて式場に進む
三、陸軍大臣及旗手玉座に面し拝礼
四、天皇陛下少しく進ませ給ふ
陸軍大臣御前に参進
侍従武官長(岡沢精)捧ぐる所の軍旗を陛下に奉る
五、天皇陛下親しく軍旗を玉手に執らせられて陸軍大臣に授け給ふ
六、次で勅語を陸軍大臣に賜はり玉座に復し給ふ
大臣恭しく拝受し旗手をして軍旗を捧持せしむ
七、天皇陛下入御
軍旗敬礼を行ふ
八、陸軍大臣旗手を従へて退場
勅語書に親封を施し軍旗と共に師団長に送致せしむ
乃ち磯林少尉は、軍旗及勅語を捧持して、宮城正門を出で、下士之れを護衛して、同日午後三時特に準備せられたる上等客車にて上野駅発車、廿五日未明仙台駅に到着、師団司令部に移御して、師団長(西寛二郎)に奉呈し、師団長は之を旅団長(高井敬義)に授け、旅団長は軍旗を捧護し旗手以下を随へて、即日仙台を発車、前橋―高崎―長野―柏崎(以上汽車以下徒歩)―曽地―宮本―与坂―新津を経て、二十九日早朝五泉に到着した。
〔練兵場に於ける授与式〕 第一中隊護衛隊として五泉まで出迎へ、軍旗を奉護して村松に向ひ、連隊(第三大隊欠員)は営門より村松北端の間に堵列奉迎し、午後一時二十分着営、午後二時営外練兵場に於て、式に拠り高井旅団長より連隊長に軍旗を授く。勅語並びに連隊長の奉答は左の如くである。
勅語
歩兵第三十連隊ノ為メ軍旗一旒ヲ授ク
汝軍人等協力同心シテ益々威武ヲ宣揚シ我帝国ヲ保護セヨ
奉答
敬デ 明勅ヲ奉ズ 臣等死力ヲ竭シ誓テ国家ヲ保護セン
軍旗は旗手をして奉持せしめ、連隊は軍旗に対して敬礼を行ひたる後、分列式を施行し、軍旗を連隊長室に奉安した。


引用文献
『歩兵第三十連隊史』 帝国連隊史刊行会



軍旗奉焼

師団副官 清野少佐

 昭和二十年八月三十一日、大本営命令によって歩兵第三十連隊の軍旗奉焼式が宮古島でおこなわれた。
 場所は野原岳の洞窟司令部内。
 この涙の軍旗奉焼に立ち会った師団副官・清野秀智少佐の記録が残っている。
 以下に引用しよう。

***

 昭和二十年八月十五日夕方堀江副官が目に涙を一杯にして、私の部屋に来て、副官殿、日本は敗戦国になりました。と教えてくれた。
 大詔が下って将兵の士気が大いに混乱し皆目に涙を浮べ口を一文字に結び、自他共に日本一を誇る我が師団は置き去りにされた感で将兵共に残念の様子がよくうかがわれた。
 勿論、師団長はこの非常時に万一にも敗戦を認めない部隊、或いは一部の蜂起?を憂慮して居られたので、成る可く刺激を与えないようにとのこと、八月二十八日?兵器返納式が終って夕方歩兵第三連隊、歩兵第三十連隊の
軍旗が師団長室に奉納された。
 三十日、幕僚、部長が集合され、参謀長から「今夜零時師団長室を出て、戦斗司令所の洞窟に行く、熊井少尉は歩三、清野少佐は歩三〇の
軍旗を奉持して行く、時間厳守で極秘行動。」
 正零時、師団長室を出発、暗夜無燈火、しづしづと進む。洞窟の戦斗司令所入り口から約四、五十米入った通路の右側一室に勅諭、勅語、其の上に歩三〇の軍旗を右から左に交叉しておかれた。私が点火役を命ぜられた、暗黒な洞窟の中、例えようもない息詰まり、締めつけられた気配の中で「準備よいか」とかすかな電燈が私の手許を照してくれた。
 そして此の時ガソリンの入った二本のビンとマッチを渡された。
 「点火せよ!」との低くおごそかな声が!。
 ガソリンを注ぐまで手足が震えて大罪を犯すかの様でガソリンの爆発性も忘れて唯畏い気持で点火した薄い煙と炎に変りゆく。
 軍旗は永い歴史の間、数々の武勲を飾り、厳寒の侯に炎熱灼ける酷暑の侯に歩兵第三十連隊の表徴として将兵と運命を供にした魂の無念さ、苦しさを感じ乍らそれを語るが如く、訴えるが如くに、ぢりぢり焼けちぢみ悶えながら灰に変ってしまった。
 我が
軍旗の下に忠誠を誓った将兵の皆様、師団長の御処理の方法は当時の状況から最も適切であったと思います。師団長の最後は責任を負った御自害であったとか。
 我が
軍旗の英姿を眼底にいつまでも、そして第二十八師団長陸軍中将、納見敏郎閣下の御冥福をお祈りしたいと思います。日本魂、関東魂、越後魂はあれ以来本当に消え去るのだろうか、消えなければならないだろうか。
 日本国は永久である。


引用文献
『歩兵第三十連隊史』 歩兵第三十連隊史編纂委員会

***

 昭和20年8月15日終戦22日軍旗返還、14時頃覆に被われた軍旗は旗手にしかと奉持され、護衛兵に守られ、誘導将校の勇ましくも沈痛な号令に誘導され、師団長疾の前で、喇叭の音に最後の敬礼を捧げ、連隊長から師団長に返還され、師団長室に安置された。
 8月25日朝、専属副官から口伝えに今夜12時に幕僚各部長(部長1人だけと念入りに)師団長室の前に集合(行動は秘密)とのこと。野原戦闘司令子において軍旗を処理されるから、定刻全員集合。参謀長から歩兵三十連隊の軍旗は清野副官奉持、杉本参謀の先導で3i、30iの軍旗師団長を指示され、暗夜粛々と目的地に向い、師団長直接の現地指示により、清野副官「勅論、勅語その上に3i、30iの軍旗を交叉してガソリンに点火せよ」とのこと。上御一人の御身代りである御旗に点火することになりました。
 日露戦争以来、数万人の勇者の魂が入魂しているのである。「早くせんか」とうながされ、無我夢中で点火しましたが、ガソリンの爆発性も忘れていました。御旗は燃えるに従ってねづれ動き、生命あるそのものでした。数万の霊が動いているのであろう。最後まで見守っていたのは、師団長と私だけです。私は責任を痛感して、無我夢中で腰の拳銃を方出して、御旗の填輪の代用となって未来永久にお守りすることが勇士の霊にも応えられることと祈りつつ、而し気持が急いでいるのか、仲々直ぐにそのサックから取り出せない中に師団長に発見され、刺さるような師団長の一喝、「副官何をする」駆け寄って拳銃をもぎとられました。
 30年以上経った今日でも感激の涙が出ます。師団長宿舎で副官一寸わしの部屋に残れと告げられ、ねんごろにさとされて、お前に命じた私にこそ責任があるのだとさとされました。明日お前に命令がある筈だが、御苦労でもやってくれとのことでした。
 翌朝、A下士官が副官殿の顔や頭髪がどうされたのかと聞かれ、マツ毛、眉毛、頭髪は頭半分が焼けているのでした。


引用文献
『一七七会25年史』 一七七会編集委員会



太平洋戦争記録 宮古島戦記』
瀬名波 栄

二、停戦協定調印
  野原岳で軍旗奉焼

 師団では光輝ある国軍の有終の美を全うするため、軍紀風紀を厳ならしめるよう各部隊に命令、復員まで一糸乱れぬ統制を期した。十七、八日ごろから少数の米機が飛来、投降勧告のビラを撒いたが第十方面軍から終戦の詔勅が下っても戦斗状態は解かれず引きつづき戦備を厳ならしめるよう命令を受けていたので不問にふした。
 数日後、方面軍より米軍の要求に従うよう訓令があり、引きつづき連絡のため、軍使を沖縄へ派遣するよう指示があった。
 よって師団では停戦についての下交渉のため、軍使として多賀少将、一瀬参謀長、村尾海軍警備隊司令、杉本参謀の一行を十方面軍差回しの飛行機で沖縄へ派遣した。
 軍使一行は米軍司令部に於て停戦協定についての大綱をきめて帰還、これにもとづいて廿三日納見師団長、一瀬参謀長、杉本参謀の一行が米輸送機で沖縄へ飛び、正式に停戦協定に調印、廿五日在先島方面日本軍部隊に対する戦斗行為停止命令が下令され、ここに完全な平和がもたらされた。
 翌廿六日准将の指揮する米軍およそ二千名が海路進駐、測候所下の広場にキャンプを張って日本軍の武装解除にあたった。
日本軍は兵器奉還と称して、あくまで自主的に武装を解除する形式をとった。
接収兵器は将校の私物である日本刀、ピストル、双眼鏡にまで及んだため、米軍進駐後は将兵はすべて丸腰となり、衛兵などは六尺棒をもって服務、又一部の将校は腰がさびしいと杖代用の棒を携え体裁を整えたが、軍服は着用を許されたので、正式に復員するまでは軍隊の形式が保たれた。
 各部隊から集まった大砲、車両、小銃などの戦斗用兵器及び軍需資材は女学校、中学校、海軍飛行場付近に集積されたが、米軍はこれらの兵器弾薬類を舟艇で搬出、惜しげもなく海中に投棄した。又撤去に時間がかかる海軍高角砲、沿岸砲台などは爆薬を仕掛けて爆破したが、このさいあやまって若干の犠牲を出した。
 杉本参謀、外村中尉らは九月始め米軍機で石垣島及び南北大東島に飛び、兵器奉還業務をを援助した(南北大東島は歩兵第卅六聯隊の守備区域だったが、七月四日第卅二軍の指揮下をはなれ、第廿八師団の指揮下に入った)
米軍は純然たる戦斗用資材をのぞく各種車両、糧秣などは支庁を通じて民間に払い下げたが、これは戦後の復興に利益となった。
師団か一番重要視していた軍旗(歩兵第三、第卅、騎兵廿八聯隊旗の三りゆう)は大本営命令により奉焼することがきまり、八月卅一日野原岳の洞窟司令部の中で師団幹部、各聯隊長、幹部将校立ち会いの上、奉焼したが、同時に各学校の御真影も奉焼。このあと洞窟は爆破された。
伊藤正徳著「帝国陸軍の最後」によれば、この日内外地で奉焼された軍旗は四四四りゆうに及んだ。

太平洋戦争記録 宮古島戦記』の八十五~八十七ページまで引用



複製の軍旗

 上越市史専門委員会『上越市史研究』(第五号)に『歩兵第三十連隊の軍旗』という論文が載っている。執筆者は元中学校校長の村山和夫さん。
 さて、この論文の中に「持ち帰られた軍旗を巡って」という面白い記述を発見した。
 村山さんの取材によれば、奉焼されたとされる歩兵第三十連隊の軍旗が何者かによって持ち帰られ、戦後、陸上自衛隊高田駐屯地に奉安されていたというのだ。
 不可思議な話である。第二十八師団副官・清野少佐の手記にあるように、間違いなく歩兵第三十連隊の軍旗は灰になってしまっているはずだ。また、昭和五十年には「軍旗奉焼三十周年記念」として歩兵第三十連隊戦友会が昔日の軍旗をしのぶ式典を催している。
 そうした疑問に、村山さんはある推論を下している。村山さんの主張をまとめて、以下に記そう。

一、陸上自衛隊高田駐屯地部隊に軍旗が奉安されていること
二、戦友会、あるいは有志が参考品等の名目で寄託したという記録や伝承がないこと
三、本旗は精巧に作られ、往時の軍旗をしのぶに充分であること

 それら三点の状況を想定すると、このような推測が成り立つ。
 旧歩兵第三十連隊出身のある自衛官が、偶然にも高田駐屯地部隊に配属される奇運に恵まれた。彼は旧軍時代に培った経験をもとに、教官として軍旗の講義をすることになった。その際、かつてのわが歩兵第三十連隊の軍旗はかくのごとき姿であったという説明とともに、彼が在郷軍人会旗をもとにして製作した<参考に示した軍旗>がいつしか<奇跡的に持ち帰られた軍旗>になってしまったのではないか。

 村山さんは、新たな資料の発見と、さらなる検討が必要と謙遜しているが、説得力のある推論だと思う。歩兵第三十連隊の軍旗を巡る奇談として興味深かった。
 旧歩兵第三十連隊出身の自衛官が軍旗を製作するに至る心情を思うとなおさらである。果たして、彼は入隊したての新米自衛官に連隊旗の講義をするためだけに軍旗を作ったのだろうか。否――そうは思わない。
 軍旗とは現在では想像もつかないくらい尊いものであった。連隊旗の進むところ、敵はたちまちにして威光に屈し、壊走するものと決まっていた。天皇陛下自ら連隊に授与される何物にも代え難い部隊の誇りであったのだ。
 帝国陸軍時代、この自衛官は戦場でいかなる苦しい思いを味わっているときも、連隊旗手の捧げ持つ輝かしい軍旗を仰ぐたびに勇気を奮い起こしたのではないか。栄えある軍旗ある限り、わが歩兵第三十連隊に敗北の二文字はないと思っていたのではないか。
 そうした往年の熱い思いが結実して複製の軍旗になった。あり得ない話ではない。

*補足(藤本)
 この件について陸上自衛隊高田駐屯地に問い合わせたところ、
「私が聞いている話では……」
 と、広報担当の自衛官が断りを入れてから、以下のように説明してくれた。
「高田駐屯地郷土記念館には房だけの連隊旗が展示されていますが、館の開設当初(昭和四十年代)は歩兵第三十連隊の軍旗であるとの案内板を掲示していました。しかし、歩兵第三十連隊戦友会から、
『軍旗は間違いなく昭和二十年に奉焼している』
 との指摘・苦情が寄せられたことを受けて、この案内板を取り外しました」


平成二十二年十月二十七日撮影
 
 高田駐屯地郷土記念館に展示されている複製の軍旗。
 館内を案内してくれた自衛官の説明によると、
「歩兵第三十連隊の連隊旗として伝えられてしまった複製の軍旗は、在郷軍人会旗などの房部分を使って作られているように思います」
 とのこと。


 高田駐屯地郷土記念館の開設当初、歩兵第三十連隊の軍旗であるとの案内板が掲げられていたという。
 現在は「連隊旗 
提供者 連隊出身者有志」という別の案内板に変わっているが、歩兵第三十連隊出身の誰が高田駐屯地郷土記念館に複製の軍旗を提供したのか分かっていない。
 高田駐屯地の広報いわく、
「記録を取っているわけでもありませんし、それに大昔のことですから……」
 とのこと。



参考および引用文献
『歩兵第三十連隊史』 歩兵第三十連隊史編纂委員会
『一七七会25年史』 一七七会編集委員会
『上越市史研究』(第五号) 上越市史専門委員会



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