伝書鳩 (『高等読本 巻之七』より)


表紙 

題名
高等読本 巻之七
著者
山県梯三郎
出版
文学社

明治二十七年四月十日
備考
文部省再検定済小学校教科用書


第十七課 伝書鳩 其一

 今を距ること凡二十年前、独仏戦争の時、巴里城は四面に強敵の重囲を受けて、味方に消息を通ずべき途を絶たれしかば、僅に軽気球を放ちて信を通じたれど、返信を得べき由なく、徒らに空を望んで、使者の安否を案じ、信書の敵手に落ちもせば、如何あらんかと心を苦むる折柄「鳩を携へ往き、之をして使命の如何を報ぜしめなば、城内の人々も大に安堵すべし」と発議するものありければ、即ち之に従ひて、第二回の軽気球には、鳩を載せたりけり。
 斯くて午前十一時に乗り出でたるに、鳩は午後五時に早くも巴里城に帰り来り、軽気球の、恙なく指したる味方の地に降り、書信は夫々送達せし由を報じたり。是より鳩を用ふるの道頓に開け、第三回の軽気球には、特に若干の鳩を載せ之をトゥールなる仮政府に送り、通信の用に供せしめたり。斯くて鳩の効用益顕はれければ、在外逓信省にては、巴里城内への一切通信事務を負担し、数多の鳩を使用しけるが、囲解くるに至るまで、城内に送入したる公用の信書は十五万、私用の信書は一百万に超へたりといふ。鳩の功も亦偉なるかな。
 巴里籠城の折放ちたる軽気球は、其数総て六十四なりしが、其中行方知れざるもの二、敵兵に獲られしもの五、暴風に吹き去られて、ノルウェーに至りたるもの一の外、他は悉く味方の地に到着したり。此時携へ出でたる伝書鳩は、三百六十三羽なりしも、幸に鷙鳥の捕獲と、敵兵の銃丸とを逃れて、使命を果したるものは、僅に五十七羽のみ。然れども其中には、数回往復したるものもあれば、通計七十三回の信書を運ぶを得たり。中にも「籠城の天使」とて著名なる一羽の鳩は、六回までも使者の役を勤めたり。又一羽の鳩は、敵兵の手に入り、フリードリヒ・カール親王より母后に献上あり。尋で四年間独逸の王宮中に飼はれしが、一日隙を得て宮殿を脱出し、遂に故郷巴里に帰れりと云ふ。
 音信を通ずる為めに鳩を使用する事は、巴里の囲城に始まりたるにあらず、夙に古史に散見せし所なれど、歳経たる昔物語りなれば、誠しからず思ひ居り、此折まで此鳥を通信の用に供せんとするもの甚だ少かりけるが、鳩の斯くも偉功を奏せしより、欧米の諸国にては、俄に之を愛養するの風行はれ、殊に陸軍の用に供へんとて飼養し、訓練するもの甚だ多し。
 独仏二国の軍用鳩は、最も意を飼養訓練に用ひ、費用を惜まず、好種を得んことを務めたり。例へば、仏国にては、甲乙二城間の通信を掌らしめんとする鳩を飼養するには、極めて稚き雛を取り来りて、先づ甲城に置き、其巣に馴れ着きたる頃、之を乙に移し、又巣に馴染むまで留め置き、爾後甲にては食物のみを与え、乙にては水のみを与ふるなり。斯れば、鳩は、其生活の必要の為めに、常に両城の間に往来するが故に、何時にても通用の用に供するを得るなり。此一例を以ても、亦其飼養訓練の用意周到なるを知るに足るべし。

第十八課 伝書鳩 其二

 鳩に書状を齎らすには、決して古より言ひ伝へたるが如く、脚又は首に結び着くるにはあらず。斯くては遺失の虞あるのみならず、多少其飛翔を防ぐべし。巴里城にては、初め薄紙に信を認め、之を蝋引きにし、尾翼に結びしかど、後には活字を以て印刷したる信書をば、極めて微細に写真し、之を巻き、羽軸に収めて、其尾に着けたり。是れ信書の重さを減ぜんが為めなり。鳩は、一葉ごとに、凡そ二十五の通信を縮写せる写真十二三枚を輸送し得べければ、一たび飛行する毎に、二百通の書状を運送する割となるべし。斯く縮写したる信書を読むには、日光顕微鏡或は幻灯を用ひ、之を通常の字体に写し取りて、受信者に配達するなり。
 鳩は、近年に至り、更に其用を弘めて、私信を通ずる使者とはなれり。一刻半時の前後を争ふ商家などに取りては、其便益最も多かるべし。又嘗て海上の通信に試み用ひしに、意外の好結果を見しかば、方今欧羅巴にては、船舶にても、多く鳩を飼養することとなりぬ。
 鳩は、斯く通信の好使者となりて、便益を養主に与ふるのみならず、亦其快楽の具にも充てらるること盛なり。欧米諸国にては、鳩の競翔を以て楽みとなすの風行はるること、競馬に異ならず。されば飛行疾く、能く遠方より帰り来りて、競争に勝を得たる鳩などは、其名遠近に知られ、恰も駿逸なる良馬の千里の、誉れを得るに似たり此遊戯の最も盛なるは白耳義にして、人口五分の一は、熱心なる鳩の飼養者に係り、至る処鳩小屋あらざる家とてはなき程なり。是等の競翔に用ひらるる鳩の速力は、洵に驚くべきものにて、アルスよりアントワープまで気路九十九哩を、一時二十分間に飛び帰りたるものあり。即ち平均の速力は、一哩に付四十八秒時の割合とす。之を我が邦の里程に改算すれば、一里を飛行するに費す時間は僅に二分に過ぎず。
 鳩の競翔する度ごとに、其羽に出発の場所と年月とを記して、其旅行の証をば留むることなり。往時は之を輸送するに不便なりしが故に、競翔の里程甚だ短かりしが、近年に至り、飼養の盛なると共に、運送も容易になりしかば、五百哩以上の競翔を試むることとはなれり。又私信を通ずるのみの為めに、一二羽の鳩を携へんとならば、之をポケットの中に入れ置くも可なり。
 鳩が、斯く遠方より旧所に還り来るは、其配偶、又は稚雛、若くは其養主を慕へるが為めにあらずして、全く其家、其巣を愛せるに由るなり。伝書鳩は、殊に所有権を主張し、配偶を換ふるも、其雛を奪ひ、其卵を去るも、強ち哀める色なし。されど、古巣を破らざる間は、新しき巣に就くを肯はず。永く他所にありし鳩も、還り来れば、必ず旧の巣に入るものなり、鳩が斯く幾百里の遠きより帰り来るは、之を天性に出づと曰はんか、是れ未だ説明とは云ふべからず。或は地球磁気の流に感ずるの性あるに由れりと曰ひ、或は雰囲気の流に感ずるが為めなりと曰ひ、憶説紛々たれども、概ね信を置くに足らず。要するに鳩に此特能あるは、視覚の鋭きと、智力の勝れるとに由るなるべし。其脳髄の体に比して甚だ大なると、伝書鳩を相するに、其目の突出するものを撰ぶとは、正に此事実を証すべきなり。



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