破約


 昔、あるところに一人の若侍が住んでいた。かつて侍には妻がいたが、病に侵されて亡くなっている。
 妻は臨終の際、侍に向かってこう言った。
「亡きがらはお庭にある梅の木の木陰に埋めてください。おかんの中には巡礼者が持っているような小さな鈴を入れてください」
「二人で植えた梅の木の木陰だな。立派な墓を建ててやる。おかんには小さな鈴を入れておこう」
 しかし、妻はまだ何かを言いたそうなそぶりを見せたので、
「遠慮することはない。私とお前の仲ではないか」
 と、侍は言った。すると、妻は勇気を振り絞るようにしてこう言った。
「あなた、わがままを許してください。私が死んだら、誰とも結婚しないでください。嫉妬深い女ですから、あなたがほかの女と一緒になっているのをあの世からでも見たくありません」
「何を言っているんだ、私とお前の仲ではないか。一生、独り身を通して、墓守をするつもりでいるんだ」
 侍はうそをついたわけではなく、本心からそう言った。妻は安心したのか、穏やかな笑みを浮かべながら、あの世に旅立った。
 妻が死んでから数年間、侍は約束を守って独り身でいた。しかし、そのうち親戚や同僚がしきりに再婚するように勧めるので、しぶしぶ同意することにした。侍はまだ若く子供がなかったからである。このまま子孫を残さずに死んでしまっては誰が祖先を祭ったり、供え物をしたりするのだろうか。
 そうして、侍は妻をめとることとなった。新しい妻は十七歳になったばかりであった。
 新妻が侍の家に来てから、七日目までは何も起こらなかった。しかし、八日目の夜、侍がある用事のために家を空けると、奇怪な出来事が起こった。
 うしの刻、新妻が寝室で休んでいると、庭の方から鈴の音が聞こえてきた。何の巡礼だろうかと不審に思って召使いを呼ぼうとしたが、喉から声が出なかった。言い知れない恐怖を感じていると、巡礼の鈴を手にした経かたびら姿の一人の女が部屋の中に入ってきた。乱れた黒髪が顔の半分を覆っていて、片方だけ見える瞳が寒気を覚えさせた。
 そのうち、女はこう言った。
「この家の主婦は私だ。お前ではない。今すぐ出ていくのだ。理由をあの人に問われても話してはならない。少しでも言ったら、八つ裂きにしてやるからな」
 新妻は気絶してしまった。女の幽霊は新妻を恨めしくにらんだ後、すっと消えた。
 次の日の朝、侍は用事を終えて家に帰ってきたが、新妻が実家に帰らせてほしいと懇願するので面食らった。理由を問うたが、帰らせてください、帰らせてくださいと、泣きながら同じ言葉を繰り返すだけだった。しまいに侍は腹を立てて、
「私に不手際があって、お前の気に障ったのなら仕方ない。しかし、わけもなく実家に帰りたいと言われても納得がいかない」
 と、言った。すると、新妻は恐る恐る昨日見た幽霊のことを話した。侍は幽霊など信じる性分ではなかったが、そのときは飛び上がるようにして驚いた。しかし、新妻が見てしまった悪い夢のような気もしてきて、やがてばかばかしいと思った。
「今夜は護衛として、二人の屈強な家来をつけよう」
 新妻を安心させるために侍はそう約束した。
 新妻は胸をなで下ろした。そして、多分、幻だったのだと自分自身に言い聞かせた。
 その日の夜、二人の家来は新妻を心配させまいと、面白い話を語ったり、冗談を言ったりした。新妻は安心して、幽霊のことをすっかり忘れてしまったように眠りについた。二人の家来は新妻の寝顔を確認した後、碁を打ちながら、寝ずの番をした。
 うしの刻になると、新妻はうなされて目を覚ました。あの鈴の音が聞こえてきたからである。悲鳴を上げようとしたが、またもや声にならず、あの恐ろしい女の幽霊が部屋に入ってくるのが見えた。二人の家来は碁盤の前に座ったまま身動き一つできずに真っ青な表情を浮かべていた。
 明け方になって侍が部屋に入ると、首のない新妻の死体が血だまりの中に横たわっていた。二人の家来は座したまま、凍りついたように眠っていた。侍の叫び声に二人の家来は飛び起きて、目の前の光景にぼうぜんとした。
 侍と二人の家来は懸命に首を探したが、どこにも見当たらなかった。死体をよく見ると、首は斬り落とされたのではなく、もぎ取られているのが分かった。血の滴りは庭の方に続いていたので、侍と二人の家来は外に出た。血は梅の木の木陰にある墓で止まっていた。侍は嫌な予感がして、二人の家来に墓を掘り起こさせた。案の定、経かたびらを着た、骨と皮だらけの死体が左手に鈴を握り締めて、右手に新妻の首をつかんでいた。死体の顔だけは腐敗しておらず、ものすごい形相のまま、こちらをにらんでいた。
 新妻の首は激しい恨みのためか、踏みつけられた果実のようにつぶされていた。


「ひどい話だ」
 と、話をしてくれた友人に私は言った。
「前妻が復讐する相手は約束を破った侍だ。殺された新妻は全くの無実じゃないか」
「男ならそう考えますが」
 と、彼は答えた。
「しかし、女の考え方ではありません」
 友人の言うことは正しかった。


参考文献
『怪談・奇談』 ラフカディオ・ハーン 著 田代三千稔 訳/角川書店



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